宇都宮二荒山神社の鉄製狛犬/狛犬を楽しむ

20161208

所在地:栃木県宇都宮市「下野国一之宮・宇都宮二荒山神社」
参拝日:2016年8月16日
年代:建治3年(1277) 鎌倉時代
材質:鉄製
型式:はじめ型
国指定重要美術品

宇都宮二荒山神社に参拝したときに、事前の調査で存在がわかっていたので、写真でもいいから載っているパンフレットをと、社務所に尋ねたら、見ることができました(嬉)

宇都宮二荒山神社の記事を読む


「宇都宮二荒山神社」の鉄製狛犬
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背に「建治三年丁丑二月 吉田直連施入」の溶鋳銘がある。
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陳列されている向きから、顔が見えなかった。
わからないかと探して、「宇都宮の歴史と文化財ホームページ」から写真を拝借しました。
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・高さ約36cm、重さ約22㎏、鋳鉄製の狛犬
・口を結び、吽形のほうである。一双であったが、もう片方はうしなわれたと説明がある。
・耳の垂れ下がった日本犬が坐った姿。
・背をいくぶん丸め、尾を付け、後ろ足を揃えている。
・体は左右2つに割った型を用いていることが、体の中心部を通るバリからわかる。
・足は棒状で別の体とは別の型を用いて後に接合したもの。
・左前足を失っているのは、火災にあったためであると伝えられている。
・顔や胸のはりや後ろ足に弧状の隆起線を鋳出すなど、鉄という鋳造には難しい素材を用いながらもその技術は巧みである。
・本狛犬は日本犬を表現しており、大変珍しいものであり、「はじめ型」と考える。


「はじめ型」:
初期に、「狛犬というものがあるそうだ」と全国に話がひろまったとき、各地の職人が自由な発想で製造したものをいう。造形的には「和犬」を参考にしたものが多い。



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斜子(ななこ)織の復元活動

20161205

12月2日(金)に広瀬公民館で、「斜子織と広瀬」というタイトルで、講演会がありました。
高橋光昭先生から「「斜子織と広瀬」について講演があり、
その後復元された織り機により、「狭山遊糸会(ゆうしかい)」の皆さんが実演をされました。

【斜子織について】
⇒幕末から明治時代を通じ、埼玉県は全国屈指の機業県で、なかでも入間・高麗両郡は、斜子織・木綿飛白(かすり)の中心的な生産地。
⇒斜子織は魚子織、七子織ともいう絹織物。市域の上広瀬・下広瀬・柏原・入間川・上奥富の各村を中心とする斜子織は、18世紀初頭から生産を開始。
⇒各村で製織された反物は川越城下に集積、「川越斜子」の名で江戸へ搬出、越後屋・大丸などの有名呉服店で販売。
 ⇒しかし、基本的な生産手段は旧来の躄機(いざりばた)であったため生産量は伸びず、製品の質的・量的発展は高機(たかばた)が導入された、幕末期慶応年間(1856~68)以降のこと。
⇒明治26年(1893)になると、入間・高麗両郡の総生産高は3万8463反。そのうち水富村は36.4%を占める。
⇒生産形態は依然として農家の副業であったが、同村で明治19年(1886)に30戸だった生産農家が同26年には80戸、同28年には100戸へと飛躍的に増加、高機も40台から 100台、130台へと増加。
⇒生産のピークは明治35年(1902)で10万4000反を製造、産額も130万円となる。

〇発展の要因 
⇒第1は、入間川沿岸の井戸水や入間川の水そのものが、斜子織の原料糸の濯ぎ(練る)に最適だったこと。
⇒第2は、躄機(いざりばた)に代わって導入された高機が明治20年代(1887~)から急速に普及。生産力が2倍になったこと。
⇒第3は、埼玉県の強力な支援。県令の白根多助は明治10年(1877)、「斜子おり広瀬の漁のあやなるを誰れ川越の名に流しけん」と歌い、広瀬こそが斜子織の本場だと称え、土地の人々を激励して生産力の向上を支援。
⇒第4は、当時の需要に斜子織がマッチしていたこと。その後、羽二重が量産されるまで、羽織・袴・帯として庶民に愛用される。
⇒第5は、清水宗徳の提唱により生産者が「広瀬組」を結成、品質の維持・改良と粗製濫造品の混入を防止したこと。
⇒ことに明治26年(1893)、アメリカのシカゴで開催されたコロンビア世界博覧会に出品した広瀬組の斜子織が「名誉賞状」を受賞、品質のよさを絶賛される。これ以降、広瀬産の斜子織は最高級品としての地位を確立。

ただ、羽二重の普及によって、斜子織の生産は衰退してしまいます。
明治35年(1902)を境に斜子織の生産は減少、同40年代(1907~)以降になるとより顕著になる。
羽織・袴・帯として愛用されてきた斜子織が、急速に普及しはじめた羽二重に取って代わられ、急速に衰退してしまいました。

◆「斜子織の碑」(埼玉県令白根多助歌碑。広瀬神社境内)
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<表>
奈ゝこ於梨廣瀬乃 浪農安や那累遠 堂禮川越能 名尓流志計無(ななこおり広瀬の浪のあやなるを たれ川越の 名に流しけむ)
  く裏〉
本村魚子織の起因ハ古書の徴すへきものなしと雖も 當地乃早く村里となりしハ紀元壱千年餘なりし 當廣瀬神社の旧記に見へて 遠く古代に始りしものなるハ遺品と口碑に依りて疑ふべきものなし 徳川氏江戸開市の頃  白なゝこと称し漸く天下に著ハるゝ處となり 尓来三井大丸其他豪商川越なゝこと称し 大に此を賞賛し聲價を博し たるものは 実に当郷里より産出せる物にして 即ち本邦なゝこ織の嚆矢なり 往昔販路未た開けず 僅に川越商人の手に属したるより川越魚子と称せしも 尓後気運開明に趣くに従へ 万事実地を喜好するより廣瀬なゝこの名弘く世上に著ハれ 今や村名改れりと雖も廣瀬の名称は益々世に顕る 是れ他なし 各府縣の魚子織多しと雖も 当所その嚆矢なると品位卓越たるとに依りて 博覧會共進會に於て頗る賞賛を得 幾回も褒賞を授与せらるゝこと数回 文官内省の御用品となり同省の賞賛も殊に厚し 尚且つ去る明治十年十一月 故埼玉縣令白根多助君此他に巡回せられ 宗徳と親しく なゝこ織の沿革を諮問せらる 依て上にいへる事とも答へき時に 縣令感賞の餘に碑面の和歌を詠し 尚将来本業の廣張を勧諭せらる 當時同業者一同感激に耐す 益々事業の改良を圖り 併せて当所の魚子織の嚆矢たることを後世に傳んと有志議り 茲に碑を建て聯か其由を記す
明治二十四年四月 衆議院議員 清水宗徳選書

◆コロンビア世界博覧会の受賞メダル
(この日、岸野家より展示されました)
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◆「斜子織」の着物も展示されました
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【斜子織の高機の復元】
現「狭山遊糸会(ゆうしかい)」の皆さんが、斜子織を復元したいと思い立ち、地域の旧家のお宅や高齢者でご存知の方は居ないかと尋ね歩き、やっと高機が一台、柏原のお宅から寄贈されたものが狭山市博物館の倉庫にあることにたどりついたそうです。
しかし、かなりの部分が壊れ、部品もかなり失われた状態だったので、斜子織の織り機を経験した方が残存していない中で、他の織り機などを参考にしながら、文字通り手探りで、復元したのだそうで、大変なご苦労だったことが偲ばれます。

会場に展示された、その経過の写真
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【斜子織の実演】

織り機全景
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今回手作りで補修したところが、よくわかります。
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最初は、細い幅でトライしたそうです。
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今回、はじめて幅が一尺の「反物」に挑戦だそうです。
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糸繰り機も手製です。
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これから、ちゃんと織れるまで確認していって、将来は糸も生産したいと、遠大な計画をお持ちです。
なので、もっともっと仲間を増やしたいそうです。
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かって、この地域を潤していた主要な産物であった「斜子織」を復元するということは、単に過去にスポットを当てているということではないと思います。
こういう取り組みが出来るということは、自分が住んでいる地域を愛して、活気づけていくにはどうしたらいいだろうか、という気持ちを持った方が沢山居ることの現れです。

とても嬉しく、拝見、拝聴させていただきました。



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刺国若比賣(さしくにわかひめ)/日本の神々の話

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この神が登場するのは、『古事記』において、「天照大神と須佐之男命」の巻の「須佐之男命の神裔」の段
(現代語訳)
 そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。

求婚に行った兄弟である八十神に、八上比売は大穴牟遅神と結婚すると答える。
そのため大穴牟遅神は兄弟である八十神に殺されます。最初は真っ赤に焼いた猪に似た石を抱かせて、二度目は大木の割れ目に挟んで。
それを生き返らせるように、二度とも骨を折ったのが母である刺国若比売です。そして紀伊国の大屋毘古神のところに逃がします。

この神は、大国主神の大事な母親だというのに、祀っている神社はほとんど無いようです。

調べていると、長野県上伊那郡辰野町の「宮木諏訪神社」に祀られていて、墓まであることがわかった。
まだ私は参拝してないが、見つけた記事から紹介しておきます。
境内の左奥に大きな石碑がある。
「刺国若比売命陵」とあり、背後にある注連縄で囲われた小塚がお墓である。
碑の裏に、次のような「解説」があ。
刺国若比売命御縁起
刺国若比売命は大国主命の御母であり健御名方命則ち諏訪大明神の御祖母であります。
御孫君健御名方命が出雲から、諏訪に向かわれる時同行なされ祖母神だけはこの月丘の森に住まわれ長寿の後ここでなくなられました。御陵はこの奥にあります。命は古事記にも記されているように禍を除き福を授ける神様として多くの人達の信仰を受けて来られました。
宮木諏訪神社



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江戸城歴史ウォーキング

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アップが遅れましたが、阪急交通社が催行しているガイド付きのウォーキングに歴史クラブから30人で参加しました。
コース
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東京駅に集合です。
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添乗員とガイドに迎えられ、挨拶が済むとさっそくの案内です(笑)
東京駅と皇居外苑にはさまれた丸の内は、大名屋敷が多<あったそうです。大名が江戸入りの宿舎にするため邸宅を建てたので、「大名小路」ともいわれていました。備前岡山藩の池田家(丸の内)、阿波徳島の蜂須賀家(東京駅)、肥後熊本の細川家(丸の内)など有力大名の上屋敷が並んでいたそうです。

皇居外苑に入る前、ガイドから石垣の積み方について説明を受けました。写真の石垣積みは「切り込み接ぎ」といわれるもので、ほぼ方形に整形した石材を密着させ、積み上げる方法です。石材同士が密着しているため、排水が出来なく排水溝が設けられているそうです。

堀に面している面は「野面積み」、道路側が「切り込み接ぎ」
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外苑の松の多さには驚きです。1本1本丁寧に手を入れるので、予算が相当かかるそうです。
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扇状に広がった松
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【二重橋】
二重橋というと、メガネ橋とばかり思っていたのですが、それは正確には「正門石橋」といい、その奥にあるもう1つの鉄橋「正門鉄橋」を指すのだそうです。しかし、今は石橋と鉄橋2つを総称して「二重橋」と呼ばれるようにもなったそうです。

江戸城のころの二重橋
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手前は「正門石橋」
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奥の鉄橋「正門鉄橋」が二重橋。
一般参観の人がゾロゾロ歩いている。
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これが、鉄橋「正門鉄橋」
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【坂下門】
坂下門は江戸城西丸造営直後に造られたと伝えられています。西丸大奥に近<西丸の通用門として利用されていました。
今は宮内庁の出入り口として使われています。
坂下門が有名なのは、文久2年(1862)江戸城坂下門外で、尊擾派の水戸浪士6人が老中安藤信正を襲撃して負傷させた事件があったからです。桜田門外の変で井伊大老が暗殺された後、信正は開国路線を継承し、公武合体を推進しました。これに反対する水戸浪士が憤激して襲撃した事件です。
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また、この坂下門前広場では、天下祭りである「神田祭り」巡行祭と、赤坂日枝神社巡行祭がここで奉納を行います。
赤坂日枝神社巡行祭では、ここで神事があり、「剣の舞」が奉納されます。

「剣の舞」を見る


宮内庁の建物
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【桔梗門】
 内桜田門ともいわれています。桔梗門の名称の謂れは、昔この門の瓦に太田道淫の桔梗の家紋が付いていたからといわれています。家来たちは下馬先である門前の広場で各大名の帰りを待っていたそうです。そして政治の話、大名たらの動向など、いろいろと噂話に時を過ごしたので、責任のないところで種々の批評や噂話を「下馬評」といいます。
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【桜田二重櫓(巽櫓)】
江戸城に残る唯一の隅櫓。本丸から見て南東(巽)の方角にあるので、巽櫓という。
出窓上の突き出しが「石落とし」で、弓や鉄砲を撃つ狭間を持っている。
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【大手門】
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大手門は濠側の高麗門と渡櫓から出来ています。江戸城の正門です。
ここの警備は厳重を極め、10万石以上の譜代大名がこの門の長になって、番侍は常に肩衣を着て、鉄砲20挺、弓10張、持笛2挺等を持って警戒に当たっていたそうです。

明治初頭の大手門
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高麗門を入ると、「桝形」である。
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渡櫓
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桝形の隅に置かれていた、「旧大手門渡櫓の鯱」
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渡櫓をくぐった先に、十月桜が咲いていた。
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【大手三の門】
ここを駕籠のまま通れるのは徳川御三家、日光門主だけでした。
他の大名は、この辺で駕籠から降りて歩いていきます。
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三の門跡
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【同心番所】
 番所とは警備の詰所のことで、城の奥の番所ほど、上位の役人が詰めていました。
同心番所は大手円から最初に通る番所で、与力、同心が詰めて警護にあたったところです。大手三ノ門の内側にあり、同心番所は主として登城する大名の供の監視にあたっていました。
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元は三ノ門の外側にあったようです。
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同心番所には、「葵の紋」が残っている。この紋が残っているところを探すのも楽しい。
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ここを抜けると、「中の門跡」
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【百人番所】
百人番所は本丸に入る最大の検問所で、甲賀組、根来組、伊賀組、二十五騎組の4組が昼夜交替で守りを固めていました。
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【中之門跡】
中之門の石垣は、丁寧に加工された大形の石材が隙間なく積む「切込みはぎ」と呼ばれる技法で積まれています。また、石垣に使われているのは、瀬戸内海沿岸から運ばれた白い花崗岩で、西国大名から献上されたと考えられます。こうした石垣は、大名の登城路や天守台主要な部分だけにみられるものです。
 中之門石垣は江戸城の中でも最大級の巨石(35t前後)が使用され、目地がほとんど無い、整層・布積みの石垣です。明暦4年(1658)に普請され、元禄16年(1703)地震で倒壊した石垣を修復し、その後約300年の間に、石材の移動による目地の開き・孕み、荷重や風化による破損・剥離等が発生していたため、平成17年(2005)から平成19年(2007)まで20ヶ月かけて解体・修復工事が行われました。三次元レーザ測量から築石一石ごとの立体モデルを作成し、コンピュータ画面上で、石垣創建当時の線形を推定するなどの修復工事の概要が、中之門跡に詳しく表示されています。

石垣に使われている二種類の石
右が伊豆石、左が花崗岩
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中之門石垣
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往時の中之門
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石垣の積み方
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見事に水平に目地をそろえている。こんな石垣は他では見られない。これを大名に見せつけていた。
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踏み石も巨大である。
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【大番所】
中之門の内側にあり、中之門からがいわゆる本丸なので、大番所の役割は極めて大きかった。
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【中雀門跡】
 中之門に入ると長い緩やかな坂道が続きます。登ってい<と石垣が見えます。中雀門跡です。本丸御殿に通じる最後の門で、御三家も日光門主もこの門で乗り物を降りて、徒歩で本丸御殿に向かうことになります。

この門は文久3年(1863)の火災で本丸御殿が焼けた時、類焼し石垣の表面が熱でボロボロになったといわれています。門の通り道の石垣はボロボロでしたが、外側は全く異状がありません。どうしてかなと思いました。
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ガイドさんの説明によると、下の写真のように櫓門が燃えたところの石垣が焼けたということでした。
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旗を持ったガイドさんが立っているところが本丸御殿の玄関があったところ。
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本丸御殿からちょっと離れて富士見櫓を見に行く。

【富士見櫓】
残念ながら工事中で全容を見ることが出来ませんでした。
案内板によれば、3つの櫓が残っていますが、その中で富士見櫓は唯一の三重櫓です。
明暦の大火(1657)で焼失した天守閣の代用として使われたとありました。
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この辺は、木蔭が多くてホッとする。
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【松之大廊下跡】
富士見櫓から近い道路わきにポツンとある小さな石碑に「松の大廊下跡」と刻まれています。
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【バラ園】
徳川家康が築いた天守閣は、この辺だったそうです。
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【石室】
 用途は不明だが、大奥の上納戸脇にあたるので、非常の際の奥向きの調度、文書を収納したところではないかという説が有力。
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ここから天守台に向かう道には、珍しい竹があった。

蘇芳竹(すほうちく)
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亀甲竹
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金明孟宗竹(きんめいもうそうちく)
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【天守合】
江戸城の天守閣は将軍の変わるごとに築かれましたが、家光が建てた天守閣が明暦の大火で焼け落ちてからは、加賀藩の前田家が天守台を築いた後、その上に天守閣が建てられることはなかったそうです。
明暦の大火は3日間にわたって外堀の内側を焼き尽くし、死者は10万人を超えたとと言われています。将軍家綱を補佐していた保科正之が天守閣の復旧については「国の財を費やすときにあらず」と反対し、江戸の町の復旧を優先した。
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家光の天守閣を図面から復元したCGを、ガイドさんが見せてくれた。
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加賀前田藩の威信をかけて築いた、天守台の石垣。
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【北桔橋門(きたはねばしもん)】
この門は本丸に一番近い橋なので、重要な地点として橋が、跳ね上がる仕掛けになっていたそうです。
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ここは「野面積み」ですね。
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小さい穴の狭間が設けられている。
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北桔橋門の外観
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そこから北の丸公園に行きます。

現在科学技術館がある場所は、春日局の屋敷があったそうです。
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平成26年12月2日に「東京」の気象観測地点を千代田区大手町から北の丸公園へ移転しましたが、ここです。
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以上で、ツアーは終了。
北の丸公園で、ツアーに含まれていた「なだ万」のお弁当を食べました。
そのすぐ近くで、私たちを恐れることなく、すずめたちが砂浴びをしていた(笑)
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その後「国立公文書館」を見学。
このときの企画展は「時代を超えて輝く女性たち」でした。
ホールには、戦前の「大日本帝国憲法の公布原本」、「日本国憲法の公布原本」、「終戦の詔書原文」が展示されていました。

(了)



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白山比咩(しらやまひめ)神社の狛犬-2/狛犬を楽しむ

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石川県白山市「加賀之国一之宮・白山比咩神社」の宝物殿に保存されている古い狛犬二組のうち、平安時代末の方は既にアップしていて、今回はもう一組の狛犬です。

所在地:石川県白山市「加賀之国一之宮・白山比咩神社」宝物館
参拝日:2014年8月3日
年代:鎌倉時代
材質:木製
型式:神殿型

白山比咩神社は、全国に三千余社あるという白山(はくさん)神社の本社にあたります。

白山比咩神社の記事を読む


この狛犬は、現在宝物館に置かれており、撮影禁止のため、画像は神社発行のガイドブックに記載のものとなります。
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・右阿形、左吽形
・耳は、開き気味で伏せ耳
・たてがみは、両方ともに巻き毛であり、両獅子型となる
・胸の襟毛:無し
・顔の特徴:唇に朱、歯に金泥が施され、獰猛だが威厳も備わる
・前足:たくましく短めで、直立している
・胸が張って堂々としている
・後足: 蹲踞(そんきょ)
・尾:短く、付き尾
・特徴:肉付きのよい体躯は力強さに満ちており、胸をぐっとそらして堂々としている



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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