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季節の花/赤花夕化粧、悪茄子、玉簾

20180819

【赤花夕化粧】
撮影場所:群馬県高崎市八幡塚古墳
撮影日:2018年7月27日

ユウゲショウ(夕化粧、学名: Oenothera rosea)は、アカバナ科マツヨイグサ属の多年草。
和名の由来は、午後遅くに開花して、艶っぽい花色を持つことからとされるが、実際には昼間でも開花した花を見られる。オシロイバナの通称と紛らわしいので、アカバナユウゲショウ(赤花夕化粧)と呼ぶこともある。
高さ20 - 30cm、時には50 - 60cmに成長する。茎には柔毛がある。
葉はやや広い披針形で、互生する。
5月から9月にかけて、茎上部の葉の脇から薄紅色で直径1 - 1.5cmの花をつける。花弁は4枚で紅色の脈があり、中心部は黄緑色である。やや紅を帯びた白色の葯を付ける雄蕊が8本あり、雌蕊の先端は紅色で4裂する。
原産地は南米から北米南部。現在は帰化植物として世界の温暖な地域に広く分布する。
日本では、明治時代に観賞用として移入されたものが日本全国に野生化しており、道端や空き地でもよく見かける。

かみつけの里博物館と古墳群を見に行ったときに、八幡塚古墳で咲いていた。
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古墳の上に並べてある円筒埴輪の中にも、一輪ひっそりと咲いていた。
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【悪茄子 ワルナスビ】
撮影場所:狭山市入間川サイクリングロード
撮影日:2017年8月8日

ワルナスビ(悪茄子、学名:Solanum carolinense)はナス科の多年草。日本も含め世界的に帰化している外来種である。
茎や葉に鋭いとげが多く、種子が家畜の糞などに混じって広がり、垂直および水平に広がる地下茎を張ってあっという間に繁茂する。耕耘機などですきこむと、切れた地下茎の一つ一つから芽が出てかえって増殖してしまい、また除草剤も効きにくいため、一度生えると完全に駆除するのは難しい。
花は白または淡青色で同科のナスやジャガイモに似ており、春から秋まで咲き続ける。果実は球形で黄色く熟し、プチトマトに似ているが、全草がソラニンを含み有毒であるため食用にはできず、家畜が食べると場合によっては中毒死することがある。
和名はこれらのたちが悪い生態により付けられた[3]。英語でも「Apple of Sodom(ソドムのリンゴ)」、「Devil's tomato (悪魔のトマト)」などという悪名で呼ばれている。
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【玉簾 タマスダレ】
撮影場所:狭山市入間川サイクリングロード付近
撮影日:2018年8月15日

タマスダレ(玉簾、学名: Zephyranthes candida)は、ヒガンバナ科(クロンキスト体系ではユリ科)タマスダレ属の球根草。
和名の由来は、白い小さな花を「玉」に、葉が集まっている様子を「簾」に例えたことによる。
葉は細長く棒状で濃緑色、土から直接出ている。
夏〜初秋に白い花を咲かせる。1本の花茎に対して、花は1つだけである。
種子をほとんど作らない個体とよくつける個体が存在する。
球根の分球でよく増える。
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岩神の飛び石、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館/博物館に行こう

20180818

7月27日に、歴史クラブ「博物館に行こう」グループの行事として参加しました。
参加者が少なかったので、乗用車に乗り合いで実施しました。

この日訪ねたのは、保渡田古墳群(八幡塚古墳、二子山古墳)、かみつけの里博物館、蛇骨山古墳、岩神稲荷神社、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館。

前記事でお伝えしたように、かみつけの里博物館から蛇骨山古墳に寄り、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館に向かいました。
前橋市内を走っていて交差点に停まったときに、左側の巨石が目に飛び込んできました。
「何だ、これは」と立ち寄りました。

【岩神の飛び石】
所在地:群馬県前橋市昭和町三丁目29-11岩神稲荷神社

巨石なので「岩神さま」と祀られ、「岩神稲荷神社」となっています。
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手水鉢も、同じ石みたいです。
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すごい巨石です。
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「岩神の飛石」として国の天然記念物となっている。
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2万6000年前の浅間山の噴火で黒斑山が大崩壊し、そのときの火砕岩が吾妻川から利根川に泥流により運ばれたものだといいます。
6月に長野県御代田の「浅間縄文ミュージアム」を訪れたときに、天明の浅間山大噴火の際に利根川流域が泥流で大きな被害を受けたことを見て来たばかりでした。
2万6000年前にも、同様なことが起っていたわけです。

黒斑山の大崩壊は、明らかにわかる大規模なものです。
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それにしても、こんな巨大なものが浅間山からここ前橋まで流れてきたとは驚きです。
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反対側に行くと、よくも倒れないものだと、また驚きました。
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昔から、民間信仰が盛んだったことがわかる石碑が並んで居る。
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【群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館】
所在地:群馬県渋川市北橘町下箱田784-2
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かみつけの里博物館で学芸員の方から、2012年11月に発掘された「榛名山の噴火で埋もれた鎧を着た古墳人」が公開されていると教わったので、当時非常に話題になって覚えていたので、ここを訪問したというわけです。
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発見されたのは「金井東裏遺跡」
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発見された姿の再現
うつぶせになって、尻を高くしている。
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来ていた鎧
幅4.5cm前後の小札を1800枚ほど使用している。
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再現した姿
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他にも「首飾りの古墳人」も発掘されており、頭蓋骨が良好に残っているので、それをもとに復元した古墳人の顔。
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日本初の鹿角で作った小札。
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〇この地と朝鮮半島との密接な関わり

素環頭大刀
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銀・鹿角で飾られた鉾
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一番左が「銀・鹿角で飾られた鉾」
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金色の馬具の出土
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各地で出土した馬具
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埴輪で、どのように飾っていたか判る。
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後に「群馬」という県名になったように、古墳時代から馬の生産が盛んだった。
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当然、他にも色々なものが沢山展示されていた。
それは省略するが、この弥生時代の「墓の守り神」は紹介しておく。
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以上で、この日の訪問先は全て紹介しました。
たくさんの収穫で、満足して帰途につきました。



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かみつけの里博物館と古代史跡(2)/博物館に行こう

20180816

7月27日に、歴史クラブ「博物館に行こう」グループの行事として参加しました。

この日訪ねたのは、保渡田古墳群(八幡塚古墳、二子山古墳)、かみつけの里博物館、蛇骨山古墳、岩神稲荷神社、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館。

前回記事で、八幡塚古墳と二子山古墳をアップしましたが、今回はかみつけの里博物館、蛇骨山古墳です。

【かみつけの里博物館】
所在地:群馬県高崎市井出町1514
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かみつけの里博物館は、榛名山東南麓で出土した5世紀後半(古墳時代)の人物・動物埴輪や当時を再現した模型が展示されている考古博物館です。
9つのコナーがあり、当時の附近の村の様子・被葬者の推定・古墳の構造などがジオラマ等を用いて分り易く解説展示されています。また被葬者の王族「車氏」から、群馬の名の興こる過程についても詳しく知ることが出来ます。
古代、群馬の一帯は上毛野国(かみつけのくに)と呼ばれ、榛名山南東は車(くるま)と呼ばれていました。奈良時代になると朝廷はめでたい字で二文字に地名を改めるよう命令し、上毛野(かみつけの)は上野(こうずけ)、車は群馬(読みはくるまのまま)になりました。そして明治4年に上野国は古代から一番大きな郡であった群馬の名を取り、群馬県となりました。

5世紀の社会景観を復元した「榛名山東南麓古墳社会復元模型
右上に保渡田古墳群があり、その下(1キロくらい離れて)に豪族の館がある。
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三ツ寺1遺跡は、日本ではじめて発見された豪族の館のジオラマです。
保渡田古墳群から南東約1キロ付近では、上越新幹線の建設に伴い、豪族の館が発掘されました。一辺が86メートルの方形を取り囲む、幅30メートル、深さ4メートルの堀を持つ巨大な邸宅跡は古墳時代のものと考えられ、保渡田古墳群に葬られた王族の館だといわれています。5世紀後半に隆盛を極めたこの王家は、榛名山の2度の噴火によって、転居もしくは衰退したと思われます。
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土を掘り起こした道具
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木をくりぬいた井戸枠
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八幡塚古墳築造のジオラマ
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櫓の上から工事を指揮している。
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石を葺いている。
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材料を馬で運んできている。
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埴輪
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女性埴輪のヘアスタイル
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鎧を着た武人埴輪
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馬具をつけた「飾り馬」
古墳から様々な馬具が出土している。
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魚をくわえた鵜
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履けないくつ
下芝谷ツ古墳から発見された日本最古の飾履(金のクツ)
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出土したもの
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再現品
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火山災害で5世紀の地表が良好に保存されたため、当時の大規模な農地の状況や田作りの詳細な情報が遺跡に残されました。ここでは、発掘データから復元した古墳時代の復元模型(縮尺=1/80)を中心に、初夏におこなわれた農作業のようす、技術体系を再現しています。
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当時の村の様子
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水田に残された足跡
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火山災害直前の水田の状況のジオラマ
この小区画水田の話は、以前講演会で聞いた記憶があるが、改めてその小さいのに驚いた。
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子持ち勾玉
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勾玉などの出土品
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これで、一応博物館の見学を終え、午後にどこに回ったら良いか学芸員の方に相談しました。
教えていただいた中で重要なポイントは、最近発掘されて大きな話題となった、榛名山の爆発で埋もれた「鎧を着た古墳人」が公開されていることでした。
そこは、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館ということなので、時間があるので数か所途中で立ち寄りながら向かうことにしました。

博物館の休憩室で持参のお弁当を食べてから、出発しました。

【蛇骨山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町総社1549
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この辺には、以前別の企画できたことがあり、その時に立ち寄ったが、鍵を開けてもらうとか特別な手続きなしに古墳の石室に入れ、石室自体が見事なものだったのが記憶にあり、案内しました。

蛇骨山古墳とは
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入口も、石を精密に組み合わせている。
天井の巨石と柱は、L字形に切り込みを入れて組み合わせている。
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正面奥の一枚岩、天井、左右も、それぞれ巨岩の一枚岩で構成。
隙間が見えないことから、L字形に切り込みを入れて組み合わせている。
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古墳の上には、お墓か石碑があったらしい痕跡はあるが、現在は何もなく草が生えているのみ。
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ここを見たあと、近くの光厳寺に寄り、川越藩と総社藩の藩主だった老中秋元長朝の事蹟を説明、それから次に向かった。


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かみつけの里博物館と古代史跡(1)/博物館に行こう

20180815

7月27日に、歴史クラブ「博物館に行こう」グループの行事として参加しました。
参加者が少なかったので、乗用車に乗り合いで実施しました。

この日訪ねたのは、保渡田古墳群(八幡塚古墳、二子山古墳)、かみつけの里博物館、蛇骨山古墳、岩神稲荷神社、群馬県埋蔵文化財調査事業団発掘情報館。

こちらを7:00に出発して、「かみつけの里博物館」に到着したのが9:00ちょっと前。
開館が9:30だったので、先に古墳を見ることにしました。
ここにある古墳は、保渡田(ほどた)古墳群と呼ばれ、そのうちの八幡塚古墳と二子山古墳を見ました。
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【八幡塚古墳】
5世紀後半に築造された前方後円墳です。当時の姿に完全復元されている。
墳丘長102メートル、後円部径56メートル、高さ現存約6メートル、前方部幅53メートル。高さは削平されて分からない。周濠は馬蹄形で二重に取り巻き、さらに外側を幅の狭い外周溝が巡る。内濠部のくびれ部と後円部後側に4基の中島が配置されている。墳丘には葺き石が葺かれ、円筒列が墳丘裾部、中島裾部、中堤縁に見られる。前方部前面の中堤上に円筒埴輪列で方形に区画された部分から人物類や、ウマ・ニワトリなどの家畜、イノシシ・水鳥など狩猟鳥獣をモチーフとした形象埴輪が出土している。これらの動物埴輪は、埴輪祭祀の一つの表現様式として注目されている。

駐車場から歩いていくと、ここから全景をみることになります。
手前に置かれているのは、古墳を悪霊から守る怖い顔をした埴輪。
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古墳の手前にたくさんの埴輪が置かれている。
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アヒル、猪、馬、鹿など動物たち
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祭祀を行っているようだ。
左側に盃を捧げる女子、向う側に琴を演奏している男子、右側中央に冠をかぶった中心人物など。
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ここには武人と力士の姿があり。
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墳丘には石が葺かれている。
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上りやすいように、一か所に石段が設けられている。
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とりあえず、後円墳部を目指す。
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後円墳部は、内室に降りられるようになっている。
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内室には、この地方の豪族が眠っていた舟型石棺がある。
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舟型石棺の横の副葬品室
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石棺の埋められ方
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内室から上がり、方形墳部に移動する。
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方形墳部の上縁部には、円筒埴輪がズラッと並べられている。
悪霊から守る垣根の意味らしい。
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内堀に降りて、前方後円墳の周りを歩く。

中島が4つ設けられているのは珍しい。
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島はけっこう大きい。
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後円墳部の周りを歩く。
段丘になっている。
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前方墳部に沿って歩いて行く。
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前方墳部の角からの全景
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外堀の外に上がる。
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【二子山古墳】
この古墳群の中で最初の、5世紀第3四半期ごろに築造された。
墳丘長108メートル、後円部径74メートル、高さ10メートル、墳丘部が三段築成で、前方部幅71メートル、高さ7メートル。周濠は馬蹄形で二重に造られており、内濠部に後円部を囲むようにくびれ部と斜面側後方部分に中島を4基配置している。墳丘・中島・中低部とも川原石で葺石としている。埴輪円筒列を巡らしている。墳丘北側の中堤部分の一角から外濠西北隅の外側部分に人物埴輪や飾馬(馬具を装着したウマ)・イノシシ・イヌ・盾・蓋(きぬがさ)・家などの形象埴輪を配置した区画が見つかっている。
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正面入り口から後円墳部に登ろうとしたが、工事中。
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工事をしている人に聞いたら、横から上れるということだったので、そちらに回る。
説明では葺石とのことだが、ビッシリと熊笹におおわれてしまっている。
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後円墳部と前方墳部のつなぎのあたりに上がれるようになっている。
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後円墳部の上がり道。
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後円墳部頂上
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発掘されたときの舟形石棺の様子を原寸大の写真で説明してある。
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棺の中には何があったか?
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後円墳部頂上から、工事をしている上がり口を介して、「かみつけの里博物館」を望む。
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ここにも、4つの中島がある。
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前方墳に向かう。
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前方墳の端から、後円墳を見る。
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前方墳から降りて、眺めた全景。
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中島と後円墳。
こちらの中島は、薄く土盛りをしただけのもの。
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もう、かみつけの里博物館は開館しているので、そちらに向かった。


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仁徳天皇(大雀命)/日本の神々の話

20180814

『古事記』では大雀命(おほさざきのみこと)
『日本書紀』では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)

応神天皇から仁徳天皇が王位を継承したのは、決してスムーズな事ではなかった。3年間空位を経ている。
応神天皇には、それぞれ母の違う三人の皇子、大山守命、大雀命、宇遅能和紀郎子(うじのわきいらつこ)が居た。
『古事記』で、それを見ていこう。(『日本書紀』に書かれていることも、ほぼ同様である)

「応神天皇」の巻、「大山守命と大雀命」の段
さて応神天皇は大山守命と大雀命に「年上の子と年下の子とどちらがかわいいか」と尋ねた。
(このように尋ねたのは宇遅能和紀郎子に天下を治めさせようとのお心があった)
大山守命は「年上の子がかわいい」、大雀命は天皇のお心を察して「年下の子がかわいい」と答えた。
応神天皇は三人の皇子の任務を分けて「大山守命は山と海の部を管理しなさい、大雀命は私の統治する国の政治を執行して奏上しなさい、宇遅能和紀郎子は皇位を継承しなさい」と仰せになった。

「応神天皇」の巻、「大山守命の叛逆」の段
さて、応神天皇が崩御なさって後、大雀命は応神天皇の仰せに従って、天下を宇遅能和紀郎子にお譲りになった。ところが大山守命はやはり天下を獲りたいと思って、ひそかに武器を用意して弟の宇遅能和紀郎子を攻めようとした。大雀命はそれを知って、密かに宇遅能和紀郎子に知らせた。
宇遅能和紀郎子はそれを聞いて驚き、兵士を宇治川のほとりにひそませ、宇治の山の上に幕を張った仮屋を置いてそこに居るように図った。
大山守命はそれを攻めたが失敗し、宇治川に沈んで亡くなった。
ところが大雀命と宇遅能和紀郎子のお二方が天皇の位を譲り合って多くの日が経った。
しかし、宇遅能和紀郎子は早く世を去られて、大雀命が天下をお治めになった。

『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために宇遅能和紀郎子は自殺したと伝える。

仁徳天皇は、善政を敷き、大規模な土木事業を行ったと伝わる。

難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかったと言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

業績:
『日本書紀』には、次の事績が記されている。
1.河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
2.山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
3.茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
4.和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
5.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
6.紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

仁徳天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「大仙陵古墳(大山古墳)」。
日本最大の前方後円で、墳丘長525メートルを誇る。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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