庭高津日神(にわたかつひのかみ)・庭津日神(にわつひのかみ)

20170719

『古事記』に登場する神。
大年神の御子神である。
大年神は、須佐之男命と神大市比売との子である。

『古事記』によると、大年神と天知迦流美豆比売神が婚姻して以下の十人の御子神が生まれた。
『古事記』の「大国主神」の巻、「大年神の神裔」の段
 (現代語訳)
 さて、かの大年神が神活須毘神の女の伊怒比賣を妻として生んだ子は、大國御魂神、次に韓神。次に曾富理神、次に白日神、次に聖神の五神である。また香用比売を妻として生んだ子は、大香山戸臣神、次に御年神の二柱である。
また天知迦流美豆比賣(アメチカルミヅヒメ)を妻として生んだ子は、奥津日子神、次に奥津比売命、またの名は大戸比売神である。この神は、人々が大事にお祭りしている竈の神である。次に生まれたのは大山咋神で、またの名を山未之大主神という。この神は近江国の比叡山に鎮座し、また葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。次に生まれたのは庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神の九神である。 上にあげた大年神の子の大國御魂神から大土神まで、合わせて十六神である。
(以下省略)

これらの神々は、竃や屋敷、庭、農地など、農業生活(稲作)のための神々だと思う。
庭高津日神と庭津日神は同じ意味の神で、 『古史伝』では奥津日子神と奥津比売命の二竃神と異名同神としている。
また『古事記伝』では庭は家庭で、日は産巣日のビと同じで屋敷の守護神としている。
あるいは、農業祭祀などを行う庭、家屋の前の広場を神格化した神であるとか、 庭を照らす太陽神とする説もある。

また、庭高津日神の名は、践祚大嘗祭に際して、斎郡の斎院に祭る八神として、阿須波神・彼此伎神とともにあげられている。
大嘗祭(だいじょうさい)は、天皇が即位の礼の後、初めて行う新嘗祭。大嘗祭は古くは「おほにへまつり」、「おほなめまつり」とも訓じたが、現在は「だいじょうさい」と音読みすることが多い。新嘗祭(にいなめさい)は毎年11月に、天皇が行う収穫祭で、その年の新穀を天皇が神に捧げ、天皇自らも食す祭儀であるが当初は「大嘗祭」とはこの新嘗祭の別名であった。後に、即位後初めての新嘗祭を一世一度行われる祭として、大規模に執り行うこととなり、律令ではこれを「践祚大嘗祭」とよび、通常の大嘗祭(=新嘗祭)と区別したものである。

「武蔵国式内社めぐり」で、東京都あきる野市にある「阿伎留神社(あきるじんじゃ)」に参拝した際に、その境内末社である「庭津日神社」に祀られていた。


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稲荷山公園のヤマユリ

20170715

所在地:埼玉県狭山市 西部池袋線稲荷山公園駅そば

この間の例会で案内があったので、カミさんと二人で見に行きました。
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9時半ちょっと前くらいに、稲荷山公園駐車場に車を停め、芝生を直線に突っ切って、愛宕神社に降りる階段を降りて、斜面の道を進みます。

斜面の下の道は、ちょうど日陰になっていて良い散歩道です。
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歩きはじめた辺は、栽培地ではなく、ものすごい雑草の中に自生しているもの。
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栽培地になると、雑草は刈られていて、点々とヤマユリが咲いている。
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木立の中にも咲いている。
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展望台に上がる階段が「ヤマユリの小径」になっていた。
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途中に、説明のためスタンバイしていた人が、なんと「さやま市民大学 ボランティアコーディネーター養成コース」で一緒だった、小川さん。
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この斜面は、ボランティアの方が、カタクリ、ツツジ、桜、ヤマユリを保護、栽培している。
メンバーは男性5名、女性2名だそうだ。

小川さんの案内で、ヤマユリ鑑賞のため、期間中だけ斜面に設けられた小道に入り、ヤマユリを楽しんだ。
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ヤマユリの蜜を吸いに、名前はわからないが、コガネムシの大きいやつが来ていた。
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空を入れて撮った。
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斜面はもう少し。
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展望台まで上がった(嬉)
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展望台のベンチがちょうど日陰になっていて、嬉しかった。
のんびりと眺望を楽しんだ。
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おかげ様で、気持ちのいい午前中を過ごせました。

(了)


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古代蓮の里

20170714

所在地:埼玉県行田市小針2375番地1
訪問日:2017年7月6日

昨年初めて訪れて、とても良かったので今年は歴史クラブの行事にした。
それで、今回は団体で行くということで、電車で行く必要があり、この日は下見で訪れた。

「古代蓮まつり」の期間中は、JR行田駅からシャトルバスが出ているということで、まずは行田駅にてその確認。
行田駅からピストン輸送しているのかなと思ったら、そうではなくて定時運行だった。
本数は、土日はすごく多い。平日は期間によって多いのと少ない期間があるので、要注意。

そんなに待たずに、シャトルバスが来て乗り込む。平日なので満席にはならず出発。
車で訪れる人が多いので、電車とバスで行く人はそうでもない感じだ。
行田駅から20分で到着。

園内は、すごく広い。
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まずは古代蓮の説明を。
「古代蓮の里」ホームページの説明:
1971年(昭和46年):
市では、小針地内に新しい焼却場施設を建設するための造成工事をはじめました。
掘削によってできた場所に水がたまって池となり、地中深く眠っていた蓮の実が静かに目覚めたのです。
1973年(昭和48年)
池の水面に多くの丸い葉が浮いているのが発見されました。
その後、葉の数もふえつづけ、ついに7月13日、長い眠りから覚めた古代の蓮が可憐なピンクの花を咲かせたのです。 
5月15日 焼却場職員が水面に浮く丸い葉に気付く。
6月17日 調査を行い、古代蓮と推測できるものと判明。
6月23日 花柄が1本見つかる。
7月13日 開花
7月19日 花の数は合計52本となる。
市教育委員会から依頼をうけた埼玉大学の江森貫一元教授が、出土した縄文土器と、古代蓮として知られている大賀蓮の例を参考に、2500年から3000年前ころのものと推定。
(この辺は、すぐ近くに「さきたま古墳群」がある地ならではの、行政の対応でした。)
1974年(昭和49年)
3月25日から3日間にわたって、蓮の研究家である神奈川県歯科大学の豊田清修教授が、学生とともに市教育委員会の協力のもとに蓮の実の採集を行い、日本アイソトープ協会に年代測定の調査を依頼しましたが、期待したような結果を得ることはできませんでした。
1975年(昭和50年)
4月7日、豊田教授は再び学生と市教育委員会の協力を得て、調査、採集を行いました。
2回目の日本アイソトープ協会の測定はおよそ1400年前のものという結果でした。結局、行田蓮は考古学的には2500年から3000年前のものとされていることから、豊田教授はおおむね1400年から3000年前のものと推定しています。
(ただし、種子を直接測定したものではなく、ずっと新しい時代の種子が発芽した可能性も否定できない。なお、現在種子を直接測定した最も古い古代蓮は中国の約1,300年前のものである。)

ふるさと創生事業 の一環とし、行田市の天然記念物であり市の花である「古代蓮(行田蓮)」をシンボルとする公園「古代蓮の里」は、その古代蓮の自生する付近(旧小針沼)に「古代蓮の里」として1992年(平成4年)から2000年(平成12年)にかけて整備された。2001年(平成13年)4月22日には、園内に「古代蓮会館」が開館した。

園内は広く、特に「古代蓮(行田蓮)」は幾つもの池に咲いていて、圧巻です。

【古代蓮(行田蓮)】
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【鬼ハス】
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これで全開なんです(笑)
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【甲斐姫】
甲斐姫(かいひめ、元亀3年(1572年)[注 1] - 没年不詳)は、行田が誇る歴史上のヒロイン。
映画「のぼうの城」でもヒロインでした。
安土桃山時代の女性。忍城城主・成田氏長の長女。豊臣秀吉の側室。天正18年(1590年)の小田原征伐の際、父・氏長が小田原城に詰めたため留守となった忍城を一族郎党と共に預かり、豊臣軍が城に侵攻した際には武勇を発揮して城を守りぬいたと伝えられている。

この蓮は、とてもいい花だと思います。
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現在42種の蓮が集められているという事ですが、あとは、「世界の蓮」のコーナーに咲いている中から、撮ったものです。

【剣舞蓮】
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【漢蓮】
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【小舞妃蓮】
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【桜蓮】
蕾と、蓮の葉に乗った水玉の取り合わせが面白くて撮った。
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銘、不確認
ピンクの筋が綺麗。
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銘、不確認
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この日は下見という事で、食事の確認とか色々と確認のほうに神経が行っていて、あまり花の方は撮らなかった。
20日にまた訪れるので、またアップします。


高麗神社の狛犬

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所在地: 埼玉県日高市・高麗神社
拝観日: 2015年8月23日(埼玉県立歴史と民俗の博物館)

この狛犬は、高麗郡建郡1330年記念に、埼玉県立歴史と民俗の博物館にて企画された「高麗郡1300年」展にて見たもの。

霊亀2年(716)に、駿河、甲斐、相模、上総、常陸、下野の高麗人1799人が武蔵国に移され、高麗郡が置かれた。
その多くは、668年の高句麗滅亡前後に難を逃れて日本列島に渡来した人達である。
その精神的支柱となったのが、天智5年(666)に高句麗からの使者として渡来したが、母国の滅亡により列島にとどまった「玄武若光」であり、大宝3年(703)に朝廷から「王(こしき)」姓を賜った。
その「高麗王若光」を祀っているのが高麗神社。

今回の狛犬は、高麗郡建郡1330年記念に復元彩色されたもの。

拝殿に安置されているもので、宝暦7年(1757)に日待講中が随身と一緒に奉納したもの。
作者は、「武陽住日本橋/大仏師埜村玄蔵」とあり、仏師の作とわかる。

年代:宝暦7年(1757)
材質:木製
型式:神殿型

右の阿形獅子
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左の、角を持った吽形獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・顔は、阿形が笑いかけてるような、吽形は済ましているようで、親しみやすい。
・耳は立っている。鼻は割と目立つ。眉が太い。
・牙は目立つ。
・身体には転々と台風の目のような巻き毛が描かれている。
・前足は、直立。後足は蹲踞。
・尾は、記憶になし。

彩色は、ビロードの布を貼り付けたかのように厚みのあるもので、とても綺麗だった。
基本的に茶と白の彩色で、一部金も使われているが、シンプルなのが、かえって親しみやすい好印象を与えている。



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上野国一之宮・貫前(ぬきさき)神社

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鎮座地:群馬県富岡市一ノ宮1535
参拝日:2017年6月16日

この日は、午前中長野県佐久市で私の両親の墓参りをし、いつもならその後は軽井沢で遊ぶのだが、今回は富岡インターまで戻り、当社に参拝した。

車のナビの案内に従って進んでいくと、到着したのは総門の前だった。

大鳥居のところまで行って見ると、大鳥居の前は鏑川からけっこう上がってくる。
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石段を少し降りて大鳥居を撮った。
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大鳥居と総門は鏑川左岸の河岸段丘上「蓬ヶ丘」の上に同じ高さにあり、境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。

当社は物部氏が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

社伝によると、創建は安閑天皇元年(531年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(532年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。

現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。
宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる。
『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる。
中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる。
江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。

【抜鉾神社と貫前神社】
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。

2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。
『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。

1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。


総門の前には、銅灯篭と狛犬が奉納されている。
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銅製燈籠
総門前両脇に立つ。慶応元年の作で、市指定文化財。
大東亜戦争中に於ける金属回収令の際危うかったが、貴重芸術品と算定された為に対象除外とされた。
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総門前の狛犬は、意外と新しく昭和2年奉納のもの。
近代に多い、岡崎型、護国型(威嚇型)とは違っていて、風貌には似合わず親しみやすい、独特の型である。
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総門
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総門の前に立つと、楼門の屋根がかなり下に見えるので、かなり降ることがわかる。
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総門の他に勅使門がある。
勅使門(不明門(あかずのもん)) 朱雀天皇の代(930年-946年)に勅使参向の際に設けられた。普段は開門されず、1年に3回、春・秋の御戸開祭と流鏑馬神事の時に開かれる。
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勅額鳥居
名前は清和天皇筆の額が掲げられていたことに由来する。一ノ宮大字田島にあったが、寛永12年に現在の勅使門裏手に移築した。現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。
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〇蛙の木
総門をくぐった右手に立つタブノキで、太平洋戦争末期、蛙に似たサルノコシカケが出現。祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝って蛙」「勝ち蛙」として兵士・家族の信仰を集めた。現在は交通安全の守護「無事蛙」として信仰される。
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総門の下から見ると、かなりの下り勾配である。
総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置である。
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参道をほとんど降りた横に月読神社があり。

末社・月読神社
社殿は、寛永十二年以前の本社拝殿。
こちらも、近在の神社を合祀しており、十七柱を祀る。
明治41年に近在の秋畑琵琶澤社久司神社、秋畑二ツ石雷電神社、秋畑裏根湯前神社、野上近戸神社を合祀し、月夜見命の他17柱を祀る。
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月読神社ということで、月にまつわる神紋を期待したが、賽銭箱の神紋は「包み稲の穂」であった。
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ここから、もう少し降りると楼門である。
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楼門(重要文化財)入母屋造。
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左右には重厚な回廊が広がる。
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斗栱(ときょう)の「三手先」を大きく突き出している。珍しい。
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真ん中は止めてあり、左右から出入りする。
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随身
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拝殿
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本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。いずれも国の重要文化財に指定されている。

向背の屋根は唐破風。
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向背部
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拝殿右側面から。
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拝殿左側面から。
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拝殿内部
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本殿
単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。
また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
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内部が二階になっているのがわかる、屋根の重厚さである。
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千木は内削ぎであり、ご祭神が女神を表している。
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当社の西方に荒船山(荒船神社)があり、東方には小舟神社がある。
小船神社は、当社の祓戸とされ、東西のライン、荒船-貫前-小舟が女神の系譜。

当社の本殿には「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓があり、南方の稲含山(稲含神社)の方向を向いている。
また、北方には咲前神社があり、前宮・鷺宮とよばれている。
いずれも経津主神を祭神とし、南北に武神・雷神のライン、稲含-抜鉾-咲前が存在する。

「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓がある。
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本殿の向背部分の装飾をうかがう。
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本殿の側面
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左側に回って、本殿を仰ぐ。
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なんとか、覗けるところを探して、本殿正面を見ることができた。
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本殿の右袖障子。
「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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本殿の左袖障子。
こちらも「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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ご祭神:
・経津主神 (ふつぬしのかみ)
葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している。
・姫大神
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされているほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。

中世以降、抜鉾明神と称される場合が多いが、貫前神とは、本来は別の神。
つまり、「抜鉾」「貫前」の二神を祀る神社だった。「抜鉾」が男神・経津主神、「貫前」が女神となる。

『神道集』では、当社・貫前神社の祭神は、女神であったとし、南天竺狗留吠国の長者・玉芳大臣の五女。

また、笹岡山(荒船山)の峯に船を逆さに伏せ、その船の中に保った河水は、火の雨が降るときにこの水で消すべしと誓ったという。水神・水源神、あるいは周囲の火山に対する対処神かもしれない。

また、一之宮であった赤城大明神が、財の君である、この女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、この女神から借りて織り上げたとも。

ということで、当社の女神は、水神・財神・機織の神と実に多彩だ。

神紋は「右三つ巴」
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摂社・抜鉾若御子神社
ご祭神:本社祭神の御子神
本殿向かって左脇に鎮座する。元は一ノ宮字若宮に鎮座していた。安閑天皇の代(531年-535年)の創建とされ、『上野国神名帳』には「従五位抜鉾若御子明神」と記載されている。明治38年に現在地に遷座した。社殿は棟札によると文化12年の造営。
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末社が、総門から入ってすぐ左にいくと広場があり、そこに鎮座している。
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伊勢内宮・外宮
ご祭神:天照大神(内宮)、豊受大神(外宮)
仮殿敷地に隣接して鎮座する。両宮とも、天狗沢峰通り字伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永12年に遷宮したと伝わる。

伊勢外宮
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伊勢内宮
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日枝神社社殿は、寛永十二年以前の本社本殿。
近在の神社を合祀しており、現在十七柱を祀る。
明治42年に近在の田島和合神社、宇田諏訪神社、坂井大臣神社を合祀し、大山咋神の他17柱を祀る。
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二十二社
仮殿敷地に隣接して鎮座する。社領内に祀られていた各社を、寛永12年の造営時に一棟にまとめたもの。
竈神社、菅原神社、沓脱神社、速玉男神社、粟島神社、春日神社、奇八玉神社、諏訪神社、八幡宮、事解男神社、咲前神社、浅間神社、高靇神社、少彦名神社、長田神社、伊邪那岐神社、八坂神社、白山比咩神社、熊野神社、水分神社、熱田神社、扣(こう)神社
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神楽殿
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寛保2年の神楽奉納額が掛かっていた。
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〇藤太杉
樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に立つ。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
残念ながら、枯れてしまったようだ。
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〇スダジイ
樹齢推定1000年。数本の枝幹が成長して重なり合う。樹高15メートル、根回り4メートル。富岡市指定天然記念物、富岡の名木10選の1つ。
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〇銀杏
富岡の名木10選の1つ。
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神楽殿の横から、勅額鳥居に上がる時に、振り返って境内を眺めた。
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勅額鳥居に上がる石段。
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これで、参拝を終え、帰途につきました。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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