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里見八犬伝を読み込む/第六集・巻の二・第五十四回

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第五十四  常武疑って一犬士を囚う 品七漫(そぞろ)に奸臣を話説す

時:室町時代 文明10年(1478)~文明十一年(1479)
登場人物:犬田小文吾、千葉介自胤、畑上語路五郎高成、馬加大記常武、柚角九念次、品七
舞台:P17阿佐谷村、P18石浜

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【ものがたりのあらまし】
 畑上語路五郎が組子をせきたてて阿佐谷村に向かうと、阿佐谷の村長が百姓どもと集まっていた。
「おまえたちは船虫の番をしているはずだろう」
 語路五郎がいぶかしげに聞くと、村長らはあわてて、
「御眼代様(注1)、船虫をつれて来いとの御下知状をいただきましたので、ことさら夜道の用心をしてここまで来ましたところ、あの森陰から大勢の曲者が現われ、船虫を奪いとられました。申し訳ございませな」
 語路五郎は、唖然として、
「わしは船虫を連れてこいという下知状を知らぬぞ。その状を早く見せい」
 村長は慌ただしく懐を探ってみたが、無い。語路五郎はいらだって、
「おまえたち、船虫を落として、さまざまの空言を申すのであろう。一人も残らず召し捕れ」
 激しい下知に、組子らは村長をはじめ十人の者を数珠つなぎにして、牢獄にぶちこんだ。
 翌日、語路五郎はこの始末を恐る恐る馬加に報告すると、常武は怒って、
「船虫をとり逃がした村長らの罪よりも、その方の罪はいよいよ深い」
とばかり、語路五郎にも縄をかけてしまった。
 語路五郎はこの後、陽光を見られずついに獄死したが、村長ら百姓たちは親族妻子らが毎日、石浜の城に来て訴え、田や林を売って馬加主従に賄賂を贈ったので、出獄したのは、これは後の話。
 これより先、千葉介自胤は嵐山の尺八が手に入ると、犬田という勇士と早く対面したいと、家老の常武に云うと、常武は言を左右にして、
「さりながら、小文吾は下総の行徳あたりの人間、孝胤殿の腹心か、あるいは里見、滸我殿の間者かもしれませぬ。小文吾を捕え、責め懲らし、敵の間者ならば首を河原にはりつけ、後をいましめ、当家の武威を示すべきかと心得ます」
「とにかく功ある者を賞せずに罰するのはよろしいことではない」
「それでは小文吾はお預かりして、真偽をさぐりましょう」
 常武は不承不承、生返事して退出した。
 それで小文吾はその日から馬加の離れ座敷にとめられ、やっと三日目になって老僕の柚角九念次(ゆづのくねんじ)の取次ぎで常武に対面した。
「それがしは心ならずも当所に抑留されましたが、笛の賊が現われ出たうえは、はやく放免されたい」
と言うと、常武はうなずき、
「ごもっとものことじゃが、自胤が貴殿を疑っていられるので早急には決しがたいのじゃ」
 小文吾は驚いたが、君命にかこつけて抑留する気だと、常武の本心がわかったので、あきらめて態のいい牢獄にひきさがった。
 これから後は、話し相手もなく、小文吾はただいらだつばかりで、四友のこと、預かった二人の女、さては、老人や甥のことなどに心を走らさぬ日とてはなかった。
 毎日がこんなふうに過ぎ、その年は暮れて、明くれば文明十一年(1479)、春も三月の候になってしまった。
そのうちに品七という朴納だが実直そうな老爺と、しだいに親しくなってきた。
 ある日、彼が一人でやって来て、昼食後、縁側で休んでいるので、小文吾が出てゆくと、
「閉じ込められて、もう一年近くになりましたが、お気の毒なことじゃ。やっぱり、知者でも勇士でも時の運がなけりゃ埋もれてしまう人もありますわい」
と、品七はその一例として、犬塚番作父子の名を口にした。小文吾は驚いて、
「おれも犬塚親子の名だけはかねて聞いている。知り合いだったのかい」
「知り合いではないが、大塚の糠助という者が先代からの縁者でな、その男からの噂話で知っているだけですわい。大きい声では言えんが、ここの馬加様は恐ろしい人ですよ」
小文吾は膝をすすめて、
「そのわけを聞きたいな。おれは他所の者、洩れることはない。聞かしてもらいたい」
品七は頭をかいて、四方を見かえった。
「おまえ様は口数の少ない、考え深い人じゃと思うで言うがのう。他所で洩らしなさるなよ。ご存じじゃろうが、享徳四年(1455) の秋のころじゃ」
 下総の千葉家は二つに分かれて絶えず争っていた。そのおこりは。
 千葉介胤直は、一族の原越後介胤房が滸我の御所成氏に従うことを勧め、円城寺下野守尚任は鎌倉の管領に従うことを主張したとき、円城寺の意見を用いて管領方についたので、胤房は成氏に加勢をたのんで、千葉の馬加入道光輝とともに軍兵数千をもって攻め、大将胤直に詰腹を切らした。
 成氏は、馬加入道光輝の嫡男孝胤を千葉介に任じて千葉に在城させ、対して管領家の方でも、胤房の弟中務入道了心の長男実胤と二郎自胤を取り立て、武蔵の石浜、赤塚の両城に置いたので、千葉家は二流に分かれて互いに敵視しあうようになった。馬加記内常武は、初めは孝胤に仕えていたが、出奔して石浜の実胤にとり入り、名を大記と改めて時めいていた。
 ところが、実胤は多病のため、家督を弟の自胤に譲ろうとした。そうなると、赤塚には粟飯原(あいはら)胤度、龍山逸東太縁連(こみやまいつとうたよりつら)の二人が第一の権臣(注2)となるだろう。
常武はそれが不満である。そこで、今度は赤塚の自胤にも接近をはかり、実胤の命であると偽って粟飯原をたずね、薪我殿と両管領家とが和睦するといううわさがあるから当家としては今のうち滸我殿にもとりなしておいた方がよい。それも石浜からでは管領家にまずいから、赤塚からの方が筋がとおる。ついてはその進物にと始祖伝来の一節切を持参したと言って、実胤の宝庫から盗み出した嵐山という一節切(注3)を渡した。
 胤度はこれを信じて、常武の伝えた密意を主君に告げると、自胤も大いに喜び、さらに秘蔵の小篠、落葉の大小を進物に加えて、胤度を済我につかわすことになった。

【注釈】
(1)眼代(がんだい):平安時代中期から鎌倉期に、遙任国司が現地に私的に代官として派遣した家人などの代理人のことである。 目代(もくだい)とも。 転じて本来なら役職上、現地に下向して執務しなければならない人物の代理として派遣された代官などの役人の事を指す。
(2)権臣(けんしん):権力をもった家来
(3)一節切(ひとよぎり):尺八の一種。長さ約34センチ、太さ直径約3センチの竹製の縦笛で、節が一つある。室町中期に中国から伝来、桃山時代から江戸初期にかけて流行したが、幕末に衰滅。一節切尺八。



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カップ麺の記録/2022年8月

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もう20年以上も前から週末に、夜遅くまで起きていて、撮り溜まったテレビ番組とか映画を見ることが続いている。
それで夜食は、やはりカップ麺だ。
2021年の9月にカンブリア宮殿で、カップ麺誕生50周年ということで2回にわたって取り上げたので、その50周年記念のロゴ入りとか、2種類のカップ麺を合体させたものなどを食べた後、そのカップを保存したら、その後も食べたカップ麺のカップとフタを保存するようになった。
買うときには、まだ食べてないものを購入しています。
というわけで、食べたものをブログにアップすることにしました。
以前から、グルメ記事は書かないと決めているので、食べたカップ麺の記録だけです。
ご容赦ください。

今回は、2022年8月に食べたものの記録です。

【55】
・昆布と貝だし醤油ラーメン/旨み溢れる/昆布・ほたて・あさりの旨みを利かせた、あっさり醤油ラーメン 2022.08.06 東洋水産
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【56】
・丿貫へちかん 煮干そばClassic/横浜煮干し部門一位 2022.08.13 サンヨー食品
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【57】
・海苔うまSEAFOOD/夏はシーフード 海苔でこんなに旨くなる 2022.08.20 日清食品
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【58】
・味の時計台 味噌バター味コーンラーメン/札幌のソウルフード サッポロこだわりラーメン 2022.08.27 サンヨー食品
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法隆寺宝物殿をメインに東京国立博物館

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撮影日:2022年7月22日

この日は、午前中上野の山の史跡を見て歩き、トーハクに入って「ゆりの木」で昼食、休憩をしたのち、法隆寺宝物殿を見学。

表慶館の横から入っていくと、ひらけた空の下に直線美の美術館が出現します。
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美術館エントランスホールをおおらかに覆う庇が来場者を出迎えているようにも見えます。
谷口吉生氏の設計による見事な建物です。
絶対的な水平を成す水面と厳密な幾何学の緊張感漂うアプローチを進んでエントランスから入ります。

明治11年(1878)に奈良・法隆寺から皇室に献納され、戦後国に移管された宝物300件あまりを収蔵・展示しています。これらの宝物は、廃仏毀釈で困窮していた法隆寺に皇室が一万円を下賜する見返りとして、法隆寺から皇室に献納されました。やがて国のものとして移管され、1964年にそれらを保管・公開する目的で東京国立博物館に納められました。

中に入ると、吹き抜けのロビーに、金銅灌頂幡(レプリカ)が飾られています。
幡(ばん)とは、寺院を飾る荘厳具(しょうごんぐ)の一つ。灌頂(かんじょう)というのは、頭に水を注いで仏の弟子となったことを示す儀式のことをいうので、灌頂幡とは、灌頂を受けることと同じ意味があるといわれています。
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1階の部屋には、6世紀から8世紀の金銅仏がズラリと並んでいます。
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光背
奈良時代 7世紀
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阿弥陀三尊および僧形像
飛鳥時代 7世紀
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観音菩薩立像
飛鳥時代 7世紀
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如来および両脇侍立像
三国(朝鮮)時代 6~7世紀
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菩薩半跏像
飛鳥時代 7世紀
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伎楽面の室
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伎楽面 酔胡王
飛鳥時代 7世紀
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伎楽面 酔胡従
飛鳥時代 7世紀
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伎楽面 迦楼羅
飛鳥時代 7世紀
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吹き抜けの階段を、金銅灌頂幡(レプリカ)を見ながら二階に上がる。
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鳳凰円文螺鈿唐櫃
平安時代 12世紀
木製で表面に黒漆が塗られ、薄く削いだ貝殻を嵌める螺鈿の手法で、鳳凰を円くかたどった文様を五の目に散らしている。
大ぶりで大らかな文様や角を落とした和らいだ形状には、王朝時代の気分が漂います。
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盤竜鏡
唐時代 
8世紀
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全て見終わったので、下のロビーに戻る。
踊り場の柵越しに表慶館が見える。
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平成館の考古展示室に向かう。

平成館前のこの場所は、かって事務棟があり、初代総長の森鴎外の居室があった場所。
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平成館の考古展示室には、さすがトーハクといわせる展示がものすごくあった。
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そのなかから、オッと見とれた土偶を二つ紹介しておきます。

土偶/青森県つがる市木造亀ケ岡出土
縄文時代(晩期)
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土面/埼玉県羽生市発土出土
縄文時代(晩期)
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本館に移り、気の向くまま見て回ったが、今回見とれたものを紹介。

国宝 銀象嵌銘大刀(ぎんぞうがんめいたち)
鉄製 熊本県玉名郡和水町 江田船山古墳出土
古墳時代 5-6世紀
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さきたま古墳に行く機会が多く、そこの博物館で金錯銘鉄剣をいつも見るが、それに対となって語られるのが、この銀象嵌銘大刀であり、今回じっくりと見ることができて良かった。

紙すき場(近村)/速水御舟
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埃及(えじぷと)猫置物/海野清
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染付墨はじき梅花文鉢/14代今泉今右衛門
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国宝室展示室には、雪村の絵が飾られていた。

蝦蟇鉄拐図/雪村周継
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本館前の巨木がユリノキであることに、今回はじめて気づいた。
それも、きわめて由緒ある木であった。
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ユリノキは、私がよく散歩に行く智光山公園にあり、ユリノキの花が近くにあるハンカチノキの花と一緒に咲くので、毎年欠かさずに見に行っている。

智光山公園のユリノキの花
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(了)


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上野の山史跡めぐり

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所在地:東京都台東区上野公園
撮影日:2022年7月22日

この日は、所属する歴史クラブノグループ活動で、第一の目的は東京国立博物館を法隆寺宝物殿を中心に見ることでしたが、それは昼食後として、午前中はできるだけ上野の山の史跡めぐりをしようと企画しました。
幹事が選んだのは、上野彰義隊碑⇒清水観音堂⇒不忍池弁天堂⇒上野大仏⇒上野東照宮⇒旧寛永寺五重塔⇒小松宮彰仁親王銅像です。
時間の関係で、五條天神社、花園稲荷神社などはカットしました。

電車で上野駅に向かう間は、ずっと雨が降っていて、上野駅の不忍口から外に出たころ、やっと雨が止みました。
上がると西郷さんがいる階段から上がりますが、暑さと湿度100%の状態で、足が重い(笑)

西郷さんの銅像は、横目で見て通過。
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【彰義隊の墓】
慶喜は新政府に対する恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居した。
一方、幕臣たちの慶喜の復権や助命についての運動が起こり、浅草本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成した。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出された。
江戸城が無血開城し、慶喜が水戸へと退去した。彰義隊士は慶喜を千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。
渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野は江戸での駐屯を主張したため分裂。天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を謀ったため渋沢は彰義隊を離脱、同志とともに飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺で振武軍を結成し、独自に活動を展開した。
新政府側は彰義隊の武装解除を布告し、勝海舟、山岡鉄舟の説得に応ぜず、彰義隊と新政府側との衝突事件が上野近辺で頻発。大村益次郎の指揮で武力討伐が決定する。
上野での戦争は、午前7時からはじまり、午後5時には終結した。
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渋沢成一郎は、飯能戦争、函館戦争と転戦し、降伏し許された後、渋沢栄一に援助され経済活動に邁進。
岸田首相がバイデン大統領をもてなした八芳園は、渋沢成一郎(喜作)の邸宅跡である。

【清水観音堂】
寛永8年に京都の清水寺を模して建立された、旧寛永寺の建物の中では現存最古の建物。懸け造りの舞台から不忍池の弁天堂を見下ろせる。
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歌川広重の「名所江戸百景」には、懸崖造りの堂と「月の松」とで二枚書かれている。
「上野清水堂不忍ノ池」
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「上の山内月のまつ」
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現在の「月の松」
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本尊「千手観世音菩薩」にお参り。
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不忍池弁天堂に向かい、階段を降りる。懸崖作りがわかる。
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不忍池の弁天堂参道のちょっと左に「駅伝の碑」がある。

【駅伝の碑】
我が国、最初の駅伝は、奠都50周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正6年(1917)4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧記正面玄関であった。
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【不忍池弁天堂】
江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって建立された。
天海大僧正は、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てました。天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、島を大きく造成することで竹生島の宝厳寺に見立てたお堂を建立した。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられた。

寺号標
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本堂
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本堂の前に「宇賀神」が祀られていた。
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神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されている。
この蛇神は比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体したとされ、この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれる。
そして、宇賀神が頭頂部に小さく乗っている弁才天の像が多い。

琵琶の石像
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「芭蕉翁」の碑
句碑ではなく、芭蕉翁をたたえる碑らしい。
『広茗荷集』によると、寛政年中東都獅子門白寿坊信我建ト云、と書かれていて、寛政年間、白寿坊信我建立という。
獅子門は各務支考の門人。野村信我は江戸下谷住。幕府御家人。
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不忍池の蓮が咲き始めていた。
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【上野大仏】
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上野大仏は像高6メートルの釈迦如来坐像で有ったが関東大震災に至る罹災により損壊し戦時には金属共出で失われた、現在では顔面部のみがレリーフとして保存されている。
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昭和42年、上野観光連盟が願主となり、大成建設の寄進により薬師仏を祀るパゴダ様式(ミャンマー様式の仏塔)の祈願塔(大仏パゴダ)が建立された。
祈願塔(大仏パゴダ)の内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置。この薬師三尊像は、江戸時代末まで上野東照宮境内にあつた薬師堂の本尊だったもの。明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられました。
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上野大仏の裏を降りて、お化け燈篭を見に行く。
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【お化け燈篭】
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【上野東照宮】
上野東照宮は家康の死後寛永4年藤堂高虎が屋敷内に建立したが、家光が気に入らず再造営を命じて慶安4年に完成しました。本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造り。金箔を一面に使用した華麗な建物で金色殿と称しています。

水舎門(みずやもん)
この門は、もともと社殿の手前にある水舎として使用されていたものを門として利用しているものです。その水舎は慶安4年(1651)、時の老中阿部重次が奉納したものです。阿部重次が東照宮の造営奉行を命じられていたので、水舎を奉納したそうです。その水舎は、社殿の手前右側にありましたが、その水舎の上屋だけを昭和39年に門として移築したのだそうです。
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参道の両側に石灯篭が並ぶ。
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藤堂高虎奉納
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名君として名高い、初代会津藩主・保科正之奉納
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現在の水舎は、左側にあります。
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その反対側にも、使用されていない水舎があります。
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その中に設置されている水鉢の銘をみると、「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」とあります。
よって、水舎門に使用されている上屋と、この水鉢は一体となって使用されていたものと思います。
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こちらの水舎は使用されておらず、上には大きな鈴が安置されている。
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あるいは、これは阿部重次が家光が亡くなったときに殉死しているため、阿部重次の霊を鎮めるため鈴が置かれているのか、と思いました。

本殿前の、大正13年(1914)奉納の狛犬
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金色殿については、参加者全て見たことがあるとのことで、今回は中に入って見ることはしなかった。

【旧寛永寺五重塔】
旧寛永寺五重塔は寛永16年古賀城主土井利勝が再建、都内に現存する江戸期以前の五重塔はこの塔と池上本願寺の塔のみである。
これを見るためには、上野動物園内にあるため、予定では動物園に入ることにしていたが、今日の暑さと湿度100%の状況で、参加者がバテ気味で、東照宮参道から見えるので、それでよしとする意見が多く、東照宮参道から見るだけに留まった。
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【小松宮彰仁親王銅像】
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これで、午前の部の予定を終了。
東京国立博物館に入り、レストラン「ゆりの木」で昼食。
その後は、法隆寺宝物殿を中心に本館などを見学しました。
午後の部については別記事とします。


続いて「法隆寺宝物殿を中心にトーハク」の記事を見る


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カップ麺の記録/2022年7月

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もう20年以上も前から週末に、夜遅くまで起きていて、撮り溜まったテレビ番組とか映画を見ることが続いている。
それで夜食は、やはりカップ麺だ。
2021年の9月にカンブリア宮殿で、カップ麺誕生50周年ということで2回にわたって取り上げたので、その50周年記念のロゴ入りとか、2種類のカップ麺を合体させたものなどを食べた後、そのカップを保存したら、その後も食べたカップ麺のカップとフタを保存するようになった。
買うときには、まだ食べてないものを購入しています。
というわけで、食べたものをブログにアップすることにしました。
以前から、グルメ記事は書かないと決めているので、食べたカップ麺の記録だけです。
ご容赦ください。

今回は、2022年7月に食べたものの記録です。

【50】
・嘉一 極鶏だし中華そば/仙台醤油部門一位 2022.07.02 サンヨー食品
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【51】
・琥珀 宍道湖しじみ中華そば/食べログ百名店3096/貝だし塩中華蕎麦 22.07.09 日清食品 

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【52】
・道 監修 濃厚豚骨魚介らーめん/東京亀有 つけ麺/全国屈指の「つけ麺」の名店 2022.07.16 サンヨー食品
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【53】
・はまぐり だしの 塩そば/金色不如帰 東京新宿御苑本店  2022.07.23 サンヨー食品 

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【54】
・麺や福原 芳醇鶏そば塩味/大阪塩部門一位/芳醇な鶏のうまみ 2022.07.30 サンヨー食品
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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