三猿庚申塔/狭山市・堀兼神社-2

20170915

所在地:埼玉県狭山市大字堀兼 堀兼神社

前回狭山市の庚申塔のうち三猿庚申塔で一番古いものを取あげましたが、それに続く古いものが、同じ堀兼神社境内にあります。

堀兼神社
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その境内に石仏が並んでおり、向かって右から二番目にあるのが今回の庚申塔。
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塔身:駒形
主尊:三猿
日月:浮彫、瑞雲付き
造立年代:延宝5年(1677)

塔身は駒形で、真ん中に主尊の三猿が彫られている。
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銘文詳細
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日月は、同じ場所にあるもっと古い寛文9年(1669)のものが単なる筋彫なのに対して、今回のものは浮き彫りになり瑞雲も付いている。
三猿は、風化が激しく顔など分からなくなっているが、「見ざる聞かざる言わざる」の様子は判る。
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施主の名前であるが、寛文9年(1669)のものには、「尉」が付いていて、これは奈良時代律令制における官位名である。その頃、この地域で何らかの役目をしていた家系であろうが、中世までこういう名乗りをしていた。
しかし、今回の庚申塔では、「尉」の付かない名前になっており、江戸幕府が中世の土豪的色彩の強い農民を改めさせ、幕藩体制を確立させたことを物語っている。
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(了)

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三囲神社境内・大国神恵比寿神神社の狛犬

20170914

所在地:東京都墨田区向島 三囲神社境内・大国神恵比寿神神社
撮影日:2017年9月10日

墨田区の三囲神社には何度も参拝していますが、この狛犬についてはちゃんと撮っていなかったので、この日撮りに行ってきました。
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この境内社は、隅田川七福神の「大国神」と「恵比寿神」にあたります。
その前に狛犬が居ます。
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年代:延宝7年(1679)
材質:石造
型式:はじめ型

右側は阿形獅子、残念だが鼻の辺を欠損している。
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左側は吽形獅子、角がある。
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特徴:
・右は口を開き阿形、たてがみが巻き毛で獅子。鼻の辺を欠損。
・左は吽形、たてがみが巻き毛で獅子。角がある。
・耳は垂れ、口は大きく、阿形は舌をのぞかせ、吽形は牙が目立つ。
・顎鬚がカールして、その下に頬の辺からの長いたてがみを結んで、全体が蝶結びのような不思議なデザインとなっている。
・いかつい顔だが、全てに丸みを帯びていて、親しみやすい顔となっている。
・前足は、短く直立。筋肉を強調してたくましい。脇に巻き毛あり。
・後足は蹲踞。脚首に羽根のような巻き毛が長く伸びている。
・尾は沢山の房毛が背中に付いて立ち上がっている、不思議なかたち。
・雄、雌の区別あり。

顎鬚がカールして、その下に頬の辺からの長いたてがみを結んで、全体が蝶結びのような不思議なデザインとなっている。
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前足は、短く直立。筋肉を強調してたくましい。脇に巻き毛あり。
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後足は蹲踞。脚首に羽根のような巻き毛が長く伸びている。
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尾は沢山の房毛が背中に付いて立ち上がっている、不思議なかたち。
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雄、雌の区別あり。
阿形
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吽形
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性別をつけている狛犬は、他にも鎧神社境内・天神社、品川神社二の鳥居の狛犬などで確認している。
たぶん「子孫繁栄」の願いを込めていると思われる。



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吾嬬神社

20170913

鎮座地:東京都墨田区立花1-1-15
参拝日:2017年9月10日

この神社に、いい狛犬が居るとの情報があり、この日参拝しました。
東武亀戸線「小村井」駅から明治通りを500mほど南下すると、福神橋のたもとにあります。

福神橋
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福神橋は北十間川にかかっており、福神橋から西を見ると、正面に東京スカイツリーが見える。
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この川筋が古代~中世の海岸線だったらしい。

吾嬬神社入り口に社号標。
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すみだの史跡散歩による吾嬬神社の由緒:
この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。
吾嬬神社の祭神弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。
のち、命の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
降って、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
なお、奥宮と称される本殿の裏手には狛犬が奉納されています。樹木の下にあって磨滅は少なく、安永2年(1773)の銘を持ち、築地小田原町(築地6・7丁目)、本船町地引河岸(日本橋本町)の関係者の奉納であることがわかります。かってはこの森が海上からの好目標であったこともうかがわせます。(すみだの史跡散歩より)

由緒書き
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入るとすぐ左手に、紀真顔高麗剣の歌碑がある。
文政12年※昭和40年9月破損にて再建
『高麗剣わざこそ歌の一風流を我たまひしと人強く磨けり』。
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紀真顔:
江戸後期の狂歌師,黄表紙作者。江戸の人。本名は北川嘉兵衛。別号は狂歌堂,四方歌垣(よものうたがき),俳諧歌場。数寄屋橋外の汁粉屋で,はじめは恋川好町(すきまち)の名で黄表紙作者。狂歌は四方赤良(よものあから)(大田南畝)に師事して判者を譲られ,四方側の領袖となる。狂歌四天王の一人。天明狂歌の第二世代として宿屋飯盛(石川雅望)と双璧をなすが,純粋天明調を首唱する飯盛に対し,狂歌を優美高尚なものにしようとして俳諧歌と呼んだ。

参道は、まっすぐ、やや下っている。
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神橋
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神橋を渡ると広場となり、石垣で高くなったところに社殿あり。
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石垣の下にも幾つか並んでいる。

古い社号標
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縁起を刻んだ石碑
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源延平の歌碑
『皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ』
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石段を上がり、鳥居をくぐると、左手に手水舎あり。
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右には、楠がある。
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「神樟」の碑
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神木「連理の楠」。
墨田区の登録有形文化財。明治時代には幹周りが4~5mはあったというが、大正時代に枯れてしまった。この木の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされていたという。
説明
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枯れた幹が、まだ残っている。
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その横に新しい楠が勢いよく茂っている。
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社殿を挟んで反対側に、「吾嬬森碑」がある。
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説明
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歌川広重の「江戸名所百景」
「吾嬬の森連理の梓」
「梓」としてしまったのは、広重と版元のケアレスミス。
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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本殿は石祠であるが、フェンスに阻まれ、近づくことはできない。
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ご祭神は弟橘姫命
ご相殿神が日本武命

本殿の前に、安永2年銘狛犬が居ます。
(説明板)
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者との繋がりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。現在、鉄柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
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力石が5個あり。
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一番大きいのは、五十貫二百目
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神輿庫
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境内社の福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
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社殿の前に、狛狐が居た。
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(了)



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三猿庚申塔/狭山市・堀兼神社

20170911

所在地:埼玉県狭山市大字堀兼 堀兼神社

狭山市の庚申塔を古い順に挙げてきましたが、板碑、仏像に次いで、三猿庚申塔にきました。いわゆる庚申塔らしいものの最も古いものです。

堀兼神社
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その境内に石仏が並んでおり、向かって一番左にあるのが今回の庚申塔。
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塔身:駒形
主尊:三猿
日月:筋彫
造立年代:寛文9年(1669)

塔身は駒形で、真ん中に主尊の三猿が彫られている。
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銘文詳細
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日月は、もっと時代が下がると浮き彫りになり瑞雲も付くが、ここでは未だ筋彫である。
三猿は、風化が激しく顔など分からなくなっているが、「見ざる聞かざる言わざる」の様子は判る。
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一番右に、施主の僧侶と思われる「仏心坊」とあり、中世の土豪層と思われる小沢平左衛門尉ほか10人の名前が刻まれている。
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名前に付いている「尉」であるが、これは奈良時代律令制における官位名である。
その頃、この地域で何らかの役目をしていた家系であろうが、中世までこういう名乗りをしていた。
寛文9年といえば、既に江戸幕府開府から66年経った年代だが、地方ではまだこういう状態だったことが判る。

しかし、同じく堀兼神社境内に一緒に並んでいる、延宝5年(1677)の庚申塔では、「尉」の付かない名前になっており、江戸幕府が中世の土豪的色彩の強い農民を改めさせ、幕藩体制を確立させたことを物語っている。


(了)


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高忍日賣大神(たかおしひめのおおかみ)/日本の神々の話

20170909

愛媛県伊予郡にある「高忍日賣神社」の祭神であり、箒神の一つである。

高忍日賣神社:
創祀年代は不詳である。伊予国伊予郡(現在の伊予郡とは多少異なる)にあって、南は山地や丘陵地帯、北は平野で水に恵まれ、早くから開けていたようで、大小の古墳群や大規模な祭祀遺跡、集落跡なども発掘されている。
当社は、古代より皇室の崇敬が篤く、出産の際には勅使が差遣されたと伝わる。『伊予国風土記逸文』には聖徳太子道後行啓の折に伊予郡を巡ったとあり、当社に参詣して「神号扁額」を奉納した。 奈良時代には、当社が開発領主となって付近一帯を開墾して神社の前を三千坊、後ろを千坊と称して境内八町余に及び、広大な神域を形成していた。また、神職の中には国府の役人を兼ねる者がおり、中央とも盛んに交流がなされ、伊予郡の文化的拠点ともなった。
平安時代には、延長5年(927年)にまとめられた『延喜式』巻九・十(延喜式神名帳)に記されており、また、『伊予国神名帳』にも載せられており、重視されていたことがわかる。

高忍日賣神社(たかおしひめじんじゃ、高忍日売神社)は、全国で唯一、高忍日賣大神を奉斎する神社であり、産婆・乳母の祖神として、特に全国の助産師や教育関係者等の崇敬を集めている。

高忍日賣神社に伝承している神話:
初代神武天皇の父君「日子波限建鵜葺草葺不合命」が生まれる際の伝承である。 日子穂穂手見命と豊玉毘売命とが仲睦まじく船で海を渡る際に、妻神が急に産気づき近くの海岸で産屋を建てて、出産することになった。 そこで、鵜茅(ウガヤ)で産屋を葺いてその中で出産するが、海から多くの蟹がはい上がり産屋まで入り大変な難産になった。
豊玉毘売命が「高忍日賣大神」と一心に唱えると高忍日賣大神が顕現し、天忍日女命と天忍人命と天忍男命を遣わされ、天忍人命と天忍男命には箒を作って蟹を掃き飛し、天忍日女命には産屋に入って産婆の役目をした。 これにより始めは難産だったが安産し、産屋が葺きあがらないうちに無事男児を産むことができた。日子穂穂手見命は、男児を日子波限建鵜葺草葺不合命と命名した。
この神話から、当社の祭神は産婆・乳母の祖神、また、箒の神として多くの人々から崇敬されている。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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