FC2ブログ

御詞の梅(おことばのうめ)/狭山市広福寺

20210304

所在地:埼玉県狭山市大字下奥富844
撮影日:2021年3月4日

この寺は、龍宮づくりの山門が見事であり、幕末には、水戸藩士から広福寺の住職になった章意和尚に関係して、一時清河八郎を匿ったことでも知られている。
境内に「御詞の梅」というのがあり、3代将軍家光が当地で鷹狩りを行った際に当寺に立寄り、当寺の井戸水で点(た)てたお茶を飲んだとき、この紅梅のあまりの美しさに感嘆の声をあげられ、「この梅おろそかに致すべからず」との言葉から「御詞の梅」と称するようになったといわれています。

この梅の開花期が遅いので、つい見逃してしまうことが多い((苦笑))

昨日たまたま通りかかったので、そろそろかなと思い覗いたら、もう満開近かったので今日カメラを手に出かけた。

龍宮門
210304okotoba01.jpg


「御詞の梅」
210304okotoba02.jpg


210304okotoba03.jpg


210304okotoba04.jpg


210304okotoba05.jpg


210304okotoba06.jpg


210304okotoba07.jpg


210304okotoba08.jpg


210304okotoba09.jpg


210304okotoba10.jpg


210304okotoba11.jpg


210304okotoba12.jpg


210304okotoba13.jpg


210304okotoba14.jpg


210304okotoba15.jpg


210304okotoba16.jpg


210304okotoba17.jpg


210304okotoba18.jpg


210304okotoba19.jpg


210304okotoba20.jpg




「季節の花」記事一覧に飛ぶ
l


スポンサーサイト



阿保(あぼ)神社(延喜式内論社)/埼玉県児玉郡神川町

20210303

所在地:埼玉県児玉郡神川町大字元阿保字上六所1
主祭神:大己貴命、素盞嗚尊、伊弉冉尊、瓊瓊杵尊、大宮女大神、布留大神

この日は、神川町にある武蔵国式内論社4社と出雲系神社2社の、計6社を訪ねた。

武蔵国の延喜式内社44坐のうち「賀美郡・四坐」は長幡部神社、今城青八坂稲實神社、今城青坂稲實荒御魂神社、今城青坂稲實池上神社である。
210303abo01.jpg


ところが、神流川(かんながわ)、烏川(からすがわ)、利根川の度重なる氾濫による流失と、戦国時代織田信長の家臣の滝川一益と北条氏政ら北条軍の「神流川の戦い」で戦場となり、兵火により社殿や古文書が焼失した。
そのため、上記4座の式内社に比定される神社が、上里町に6社、神川町に3社となっている。
既に上里町の6社は済んで、この日神川町の3社に巡拝することにして、熊野神社、今城青坂稲實池上神社に次いで当社に参拝。

全景
210303abo02.jpg


社号標には「神饌幣帛料供進 指定村社阿保神社」とあり。
社格等:武蔵国賀美郡式内社「今城青八坂稲實神社」の論社、旧村社
式内社「今城青坂稲実荒御魂神社」を合祀。
210303abo03.jpg


入り口から少し入ったところに、朱塗り両部鳥居があり。
210303abo04.jpg


拝殿前の由緒書き
210303abo05.jpg


延暦3年(784年)、伊賀国阿保村の阿保朝臣人上が「今城青坂稲実神社」を創祀した。
村名「阿保村」は本国と同名の村から、社号「今城」は一城を築いたこと、社号「青坂」は阿保と音の近かった「青」が起源とされている。
なお、阿保朝臣人上は、延暦5年(786年)8月8日には「武蔵守」(武蔵国国司)[2]、延暦9年(790年)2月6日には「大学頭」(現在の大学の学長)となっていた。
治承4年(1180年)、阿保二郎実光が社殿を造営した。
天正5年(1577年)、阿保村から関口村が分村した。
関口村は、「六所明神社」(当社)の奥に鎮座していた「丹生社」を阿保村から関口村に遷座させて関口村の鎮守(現在の「今城青坂稲実池上神社」)とした。
文政元年(1818年)、村民が荒廃していた当社を再建した。江戸時代には社号を「六所明神社」としていた。 明治43年(1910年)5月3日、式内社「今城青坂稲実荒御魂神社」の論社とされている字稲荷宿の稲荷神社を合祀して、社号を現在の「阿保神社」に改称した。
大正5年(1926年)12月23日、神饌幣帛料供進社に指定された。

鎌倉時代初期の治承4年(1180年)、有力御家人だった阿保二郎実光(安保次郎実光)が崇敬し、社殿が造営されたという。
当地は丹党安保氏の本貫地とされる。地内の字上宿には、安保氏館跡と伝える地があり、範囲は掘に囲まれた300メートル四方と考えられている。
館跡のすぐ北西に当社が鎮座し、さらに館跡南西側には安保泰規が室町時代初期に建立したと伝える大恩寺跡が隣接する。

手水舎
210303abo06.jpg


もう少し進んで狛犬がおり、社殿となる。
210303abo07.jpg


平成元年(1989)に奉納された、新しい狛犬。
210303abo08.jpg


210303abo09.jpg


210303abo10.jpg


瓦葺切り妻造り拝殿に、千鳥破風の向拝部を設けている。
210303abo11.jpg


210303abo12.jpg


拝殿内部に、社額あり。
210303abo13.jpg


社額の隣に七福神の額が奉納されている。
210303abo14.jpg


拝殿から石の間を介して本殿の覆屋がある。
210303abo15.jpg


覆屋の窓から、本殿が覗けた。
流れ造り本殿の浜床にも立派な彫刻が施されている。
210303abo16.jpg


側面、背面の彫刻をなんとか撮った。
210303abo17.jpg


210303abo18.jpg


210303abo19.jpg


続いて境内社だが、資料によればこれだけの境内社がある。
古峰社、天満宮、蚕影大神、神明宮、菅原神社、稲荷大神、白山社、八坂社、十二天社、産八幡神社、愛宕神社、春日神社、熊野神社

社殿後方の向かって右側に10社あり。
210303abo20.jpg


210303abo21.jpg


社殿後方の向かって左側に3社あり。
210303abo22.jpg


さらに最近祀られたとみられる、今城青坂稲實池上神社もあった。
210303abo23.jpg


入り口のところに、巨大なご神木があった。
実に見事。
210303abo24.jpg


210303abo25.jpg


210303abo26.jpg


これで延喜式内社「賀美郡・四坐」の論社である、上里町6社と神川町3社のすべてに参拝を終えた。
続いて、出雲系神社である廣野大神社と出雲神社に向かった。



「神社巡拝」に飛ぶ


百太夫神/日本の神々の話

20210301

記紀には登場せず、民族信仰の神である。

私は、谷川健一氏編集の『民衆史の遺産 第六巻巫女』のなかで、傀儡師(傀儡子)が信仰する神として知った。
調べてみると、福男で有名な西宮神社の末社百太夫神社に祀られている。末社といっても本殿の左奥深くに鎮座しているとのことで、西宮神社では大切に扱われている神である。

『日本の神様読み解き辞典』によると、百太夫神といのは朝鮮の「万神」で、八百万の神を司祭していた覡(げき 男巫子)のことであり、八幡信仰に習合して日本に渡来し、変形したものであるという。
なぜ傀儡師の信仰するものとなったかは定かではないが、おそらく操り人形が朝鮮から入ってきたものであることと結びついているらしい。

傀儡子というのは、平安中期からさかんに史上に散見する特殊な放浪の芸能集団をいう。様々な呪術を使い人形を使うことや、傀儡女が「妖媚」をうること、「今様・古川柳・足柄」などの諸雑芸に堪能であった。
放浪遊行の賤民であったが、その演ずるところの諸芸能は中央貴族の寵愛すること異常なくらいで摂政関白藤原道長をはじめとして、また後白河院の『梁塵秘抄』にもしばしば登場する。
なんだか、ヨーロッパのジプシーをほうふつとさせる印象である。

中世芸能集団というのは、様々なかたちが見える。歩き巫女、白拍子、御前、厳島の内侍、瞽女、口寄せではイタコ、「オシラガミ」巫女、傀儡師(傀儡子)、傀儡女など。
長野県小県郡の「禰津の巫女」は、戦国時代真田氏の忍びを勤めたという話だが、明治時代まで「口寄せの巫女」として活発に活動していた。

やがて操り人形を扱う傀儡師のような集団がなくなると、その信仰も形を変え、疱瘡神、子供の疫病除けの神として信仰されるようになったようだ。
また、吉原にも新町にも島原にも祀られていて、長きにわたって遊女の篤い信仰の対象となってきた。
そしてまた、道祖神の一つともいわれている。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



2月に食べたブラックサンダーチョコ

20210301

ひょんなことで、このチョコの存在を知った。
ご当地ものも数多いのも相まって、ものすごく種類が多いのだそうだ。

そう聞くと、私の収集癖に火がついてしまうのだ(苦笑)
カミさんや娘からの義理チョコがあるのにもかかわらず、コンビニに行ったついでにで探してみた。

2021.2.11購入
・ブラックサンダー/驚きのチョコ感200%/おいしさイナヅマ級!
内容量 55g 包装 150×100 ひとくちサイズ
210301black01.jpg


2021.2.24購入
1)ブラックサンダー/史上最も高級なミルクチョコレートを使用しました/フランス産ミルク使用
 内容量 55g 包装 100×150 ひとくちサイズ
210301black02.jpg


2)ブラックサンダー/至福のバター/発酵バターにおぼれたい
 内容量 22g 包装 115×53 棒一本
210301black03.jpg



里見八犬伝を読み込む/第一集・巻の四・第八回

20210227

第八回:行者の岩窟(いわむろ)に翁伏姫を相す 滝田の近邨(きんそん)に狸雛犬(いぬのこ)を養う

時:室町時代 嘉吉2年(1442)~長禄2年(1458)
登場人物: 里見義実、五十子、伏姫、二郎太郎安房守養成、堀内貞行、杉倉氏元、金碗孝徳、万里谷入道静蓮、齢八十あまりの翁、技平、八房、安西景連、蕪戸訥平
舞台:P03滝田城、洲崎明神のほとり、長狭富山のほとり犬懸の里、P04館山城
210227takita01.jpg


210227takita02.jpg


【要略】
・それから数年の月日が流れ、義実は上総国椎津の城主万里谷入道静漣の息女「五十子」を娶る。
・嘉吉2年(1442)伏姫が生まれる。
・嘉吉4年(1444)、伏姫が三歳になっても、もの言わぬため、安房郡洲崎明神のほとり役行者の窟に祈願。お礼参りの帰途伏姫が大変むずかると、翁(役行者?)が伏姫の相をみて「霊のたたり」とみて水晶の数珠を姫の襟にかけた。その数珠には、仁、義、礼、智、忠、信、孝、悌の八字が彫りつけてあった。
・文安4年(1447)年、長狭富山のほとりに住む技平という百姓の飼い犬が牡狗のひとつ子を産むが、狼が侵入して母犬を噛み殺してしまった。子犬は狸の乳で育てられた。
・堀内貞行がそこを通りかかり、その話を聞き犬の立派なことに驚き、滝田の城で義実に話すと、義実はその犬を見て気に入り、もらい受けて八房と名付けた。
・伏姫16の年(康正3年、1457)安西景連が自分の領地の不作を理由に米穀五千俵を借りる。翌年(長禄2年、1458)義実の領地が不作で困り、前年貸した米を返して欲しいと、金碗孝徳を使者につかわす。
・対応に出て来た蕪戸訥平が返答をしぶり、そのうち戦備の用意の様子を見て、金碗孝徳と従者は忍び出て、滝田の城に向かうが追っ手に追いつかれる。金碗大輔孝徳は行方知れずとなる。


以前は洲崎大明神と言われた「安房国一之宮洲崎神社」に、私は参拝しています。
そのときに役行者が東京湾入り口の守りの要として置いたと伝わる「神石」も見ました。

その記事を見る


【ものがたりのあらまし】
 それから数年の月日が流れた。里見義実の仁徳は付近の有名となり、独身の義実にあまたの縁談が持ち込まれ、上総国椎津の城主万里谷人道静蓮の息女五十子(いさらこ)をめとった。
まもなく義実の第一女が嘉吉二年(1442年)の夏の末に生まれ、おりから三伏の侯(注1)であったので名を伏姫とつけた。男子は翌年の末に生まれたが、これは二郎太郎とつけ、のちに父の後を継いで安房守養成といった。
伏姫は幼いころから非常に美しかった。古の竹取物語のかぐや姫もこんな乙女かと思われるくらいで、三十二相(注2)のどこ一つ欠けたところのない天生の美貌で、肌は玉のごとく白く、美しい産毛が長く項にかかっていた。しかし伏姫は三歳になってもものを言わず、笑いもせず、ただよく泣く子だった。父母は医療、高僧験者の加持祈祷に頼ったが、効き目があらわれかった。
母の五十子は、安房郡洲崎明神のほとりに役行者の石像のすえた窟があるが、とにかく三年の間、無事息災に育ったのは、やはり効顕の一つかもしれないと思って、お礼参りの使いを立てることにした。
七日の礼寵りも終わっての帰り道、姫が激しくむずかり出して始末につかなく困っていると、齢八十あまりの翁が一人、このありさまを見て自分の方から声をかけてきた。
「石窟のお帰りとあれば、この翁もーつ加持して参らせよう」
翁の風貌は白い八字の眉をおき、鳩の杖を手にしていたが、その姿はなんとなく品位もそなわって凡人とは思われなかった。翁はじっと伏姫の相をみつめていたが、やがてつぶやくように言った。
「霊のたたりとでも申そうかのう」
「えっ、それはまた何ゆえに?」
「いや別に驚くことはない。祓うことはできなくもないが、しいてそういたさずとも成り行きにまかせるがよいようじゃ。禍福はあざなえる縄(注3)というとおり、不幸は必ずしも不幸とばかりは申せぬ、一粒の木の実、死して大木を生ずる、一人の子を亡くすとも、あながち嘆くまいぞと里見の主に申し伝えてくだされ。ついてはこれを進ぜるゆえ、生涯の護身とするがよい。さあ」」
 翁はそう言うと、手に持つ水晶の数珠を姫の襟にかけた。見るとその数珠の大粒の一つ一つの面には仁、義、礼、智、息、信、孝、悌の八字が彫りつけてあった。何か異様な気持がして従者たちは思わず拝礼して受け、急いで問い返した。
「ただ今申されました祟りとは、どのようなことでございましょうか。」
「いや、それは心配いたされるな。妖は徳に勝つことはない、よしや悪霊がたたっていても里見の家はますます栄えるであろう。ただ盈つれば欠くる世の中(注4)、これを考えさえいたすなら祓うまでのことはない。伏姫という名にも何かゆくゆく因縁が生ずるかもしれぬ。」
翁はそう言って空中をなでた。そして洲崎の方へ向けて歩き出した。いや歩くというより走るというか、たちまち皆の目の前から離れ、遠くに去ってしまった。
茫然とあとを見送った里見の従者たちは、姫のむずかりがいつかやんでいるので二度びっくりした。
 その日、滝田の城に帰ってからも、この数珠は姫の襟にかけたままにしておいた。
そして四年たって姫が七つになった時は言葉も人並み以上に話せるようになっていたばかりか、昼は手習い、夜は管弦の調べにふけり、十一、二になると和漢の書を好んで読み、事の理をさとり、また親を敬い、召使の者をいつくしみ、立居振舞いに一つとして非の打ちどころがなかった。
さてこのころ、里見の領内に一つの珍しいことがあった。長狭富山のほとりに技平(わざへい)という百姓が住んでいたが、この技平の家の飼犬の子であるが、狼が侵入して、母犬を噛み殺してしまった。これには技平もほとほと困った。なぜなら技平は独身者であったから野良かせぎも相当放埓(ほうらつ)(注5)で、犬の食事に手ぬかりが多かったからだ。だがこの子犬は、実は狸の乳で見違えるばかり大きくなって、立派な犬に育った。今もこの辺の土地を犬懸と呼んでいる。
 そのころ、堀内蔵人貞行が犬懸の里を通りかかったとき、狸の話を聞いた。あまりに噂が高いので訪ねてみると、噂にたがわず犬の立派なのには感心し、滝田の城に帰ると、さっそくこのことを主君義実に言上した。義実も思わず膝を乗り出すようにして言った。
「同じ犬を飼うならそういう逸物を飼いたいものじゃ。むかし丹波(今の兵庫県東部) の桑田村に嚢襲(みかそ)という人があって、足往と名づけた犬を飼っていたそうな。これが今聞いたようにたいそうな犬だったらしい。ところが、足往はある日、貉(穴熊または狸)と戦ってこれをたおした。ところが、この絡の腹の中から、八坂瓊曲玉(注6)が現われたと、書紀垂仁記という本の中に書いてある。狸が犬の子を育てるとはやはり珍事じゃ。とにかく見たいものだ、一度その犬をここへ連れて参ることはできぬか」
「心得ましてございます」
 貞行は承知をして、この犬を滝田へ引っばってきて義実の見参に入れた。犬は骨太く、目するどく、大きさも普通の大の倍はあるだろう、耳はたれ、尾は固く巻き、毛並は白きに黒きがまじって、首と尾に八カ所の斑点があった。犬好きの義実は見ただけでは堪能できず、自分の手で飼いたくなった。そこで飼主の技平から滝田の城に引き取り、首と尾に八つの斑点があるからと、八房と名づけた。
希代の猛犬であったがよく慣れ、伏姫もよろこび、八房も姫になついた。姫が八房八房とよべば、どこにいても尾を振りつつ走ってくるようになった。春の桜、秋の紅葉、いくたびか木々の色を染めかえて、伏姫も十六という年齢になったが、容色はいよいよ膿たけて(美しく気品がある)、におうばかりであった。
 この年の秋も八月のころ、天候が悪かったため、安西景連の領地である安房朝夷の二郡が不作だという理由で、景連は老党蕪戸訥平(かぶととっぺい)を使者に、滝田の城の義実に米穀五千俵ほど当方へ貸しくれと申し入れた。同時に貴殿の息女を養うて一族のうちから婿をえらび、所領をゆずろうと思うがどんなものであろうかも申し入れた。
義実はこの申し入れに対し米穀はすぐ送り届けてやったが、伏姫の養女の件はあっさりと断わった。豊作凶作はまことに天の運であって、安西ばかりのことではない、いつどこに見舞ってくるかもしれぬ、お互いにこういう時、隣国の荒亡を救うのは当然の話である。しかし子供はわしも一男一女であるから、このうちの一人を他家へつかわすのは親として忍びない、これはお断わりすると。
 この時、金碗孝吉の一子大輔孝徳がこの時もう二十歳になっていて、近習に取り立てられていたが。義実の前に出てつつしんで言った。
「卒爾(失礼)ながら(注7)申しあげることがございます。このたび、安西景連の申し条ならびに態度は、注目すべきかと存じます」
「意見があるか」
「はい、ござります。まず恩を知る者ならば、餞饉の米穀を借ると同じ使者もて、姫君の養女を申し入るるはずはありません、非礼このうえもなき儀にて、君を軽んじたおこないかと愚考つかまつります」
「なるほど」
「将来の禍根をのぞくため、景連を討つがよろしいと思います。たとえ情けによって穀物を送っても、それは盗人に追銭、敵に刃を貸すにひとしく、なんの利益もありますまい、どうか御出陣をおきめください」
「ふうん。大輔ひかえるがよい」
 義実もいささか深刻な表情をした。大輔の進言には一理あったからであるが、しかし取りあげなかった。かりに仇なす相手だとしても、凶作に乗じて攻めるは無名の軍(注8)である、無名の軍は決して人心を得るものではないと退けたが、心では景連に対する憤りを感じた。
 その翌年、こんどは義実の領内の平群、長狭が大凶作に見舞われたので、金碗大輔が去年の秋、安西に五千俵の米穀を融通したのを返してもらおうと、安西の城に向かった。従者は十人ほどであった。
向こうに着くと、去年の使者蕪戸訥平に対面して、慇懃に主命のおもむきをつたえた。
訥平は奥へ引っ込んだが、その後、一向に不得要領なので、大輔も腹にすえかね、訥平に手きびしく談判したところ、今度は訥平が病気と称して会わなくなってしまった。そこでこっそり城内の様子を探ると、城内は静かに見せかけながら軍備の最中らしかった。さてはと大輔は驚き、かつ怒った。
「もし一日見破るのが遅れたら、大事となるところであった。不意に滝田を襲われるところだった。滝田の城に急を告げねばならぬ」
 大輔と従者は一人二人ずつに分れ、姿を変えて宿舎を忍び出ると、自領へむかって走ったが、一里ばかりも来たところで、蕪戸訥平のひきいる追手の勢に襲われた。先頭の訥平はこなたを見ると、馬のあぶみを踏んばって大音声にどなった。
「大輔孝徳、逃ぐるはきたなし、そちの主人義実は乞食同然の浮浪のすえ白浜に漂着、愚民をまどわして城主におさまった男だ。麻呂を滅ぼしたのもわが君が助けたればこそ、本来なら毎年わが君に貢物をささぐべきに、尊大にかまえて身のほど知らぬ痴者。娘伏姫も養女どころか側女として差し出してよいはずのものだ」
「何を言うか、そちの主人景連は義を破って同士の麻呂を討ち、おのれ一人命をまっとうして領地を横取りした世にも卑劣な男だ。里見はいつでも汝を滅ぼすことはできたが、慈愛ふかく平和のよしみによって今日に至ったとは知らぬか。去年はたばかって(だまして)米穀を奪い盗り、今年は凶作と見てふいに攻め寄せる、人の不運のみを餌食に、この世をわたる大悪将、さようなやからが長く栄えるためしがあろうか。まず汝から血祭だ」
 槍をふるって怒れる大輔は、敵勢の中におどりこんだ。けれども敵は多勢に味方は無勢、およそ半時あまりの乱戦で敵兵三十騎あまりをたおしたが、味方はほとんど全部討死し、地上に立つは大輔一人となってしまった。このうえは訥平と刺しちがえて死のうと、田畑山野を出没自在に駆け巡って探したが、目にあまる大勢にへだてられて、ついに訥平を討つことができなかった。このうえは死してもせんない、いったん血路を開いて後日を期ぞうと思ったか、大輔はやがてそのままいずこへともなく、閣にまぎれて行くえ知れずになってしまった。

【注釈】
(1)三伏(さんぷく)の侯:陰陽五行説において、夏至以降の三つの庚(かのえ)の日の総称です。一般的に夏至後、三回め「庚(かのえ)の日」を初伏(しょふく)、四回目を中伏(ちゅうふく)、立秋後の最初の庚の日を末伏(まっぷく)とした総称を言います。三伏の由来となる季節は夏、庚は火に属します。火は金を溶かす(火性の最も盛んな夏の時期の庚の日は凶)…そこで、夏の間の3回の庚の日を三伏として、種まき(新しいこと)や旅行・縁談などは慎むようにと言われている。
(2)三十二相:もともとは釈迦が身体に具(そな)えている32の特徴的な形相(ぎょうそう)をいう。転じて女性の容貌、姿形などの一切の美しい相をいう。
(3)禍福はあざなえる縄:人生をより合わさった縄にたとえて、幸福と不幸は変転するものだという意味の故事成語です。その由来と語源は『史記』「南越伝」にあります。司馬遷は戦国の戦いで、失敗を成功に変えた武将をたたえて、このように述べました。ここでは戦いの成敗が転じたことを述べていますが、のちに人生にたとえられるようになりました。
(4)盈つれば欠くる世の中:満月になった月は、それからは欠けていくしかない。人も最盛期を迎えたり、栄華の絶頂に達したならば、次には衰えていくものだということ。
(5)放埓(ほうらつ):「埒(らち)」は馬の柵。柵からはなれ出るという意味。①勝手気ままでしまりのないこと。また、そのさま。②身持ちの悪いこと。酒色にふけること。また、そのさま。
(6)八坂瓊曲玉:日本神話では、岩戸隠れの際に後に玉造連の祖神となる玉祖命が作り、八咫鏡とともに太玉命が捧げ持つ榊の木に掛けられた。後に天孫降臨に際して瓊瓊杵尊に授けられたとする。八咫鏡・天叢雲剣と共に三種の神器の一つ。
(7)卒爾(失礼)ながら:「率爾」とは、「だしぬけ」「とつぜん」「いきなり」の意。「率」は、今でもいう「そつがない」の「そつ」、本来は、無駄とか手抜かりの意。「爾」は、「なんじ」とか「それ」「そこ」などの意もあるが、ここでは、率に付いて、その状態をあらわす助辞。
(8)無名の軍:「名分」は身分に応じて守るべき道徳上の本分のことをいう。転じて、事をするについての表向きの理由。⇒表向きの理由が説明できない戦い。



里見八犬伝推移まとめのページに飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop