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揖屋(いや)神社の狛犬-2/島根県松江市

20210924

所在地:島根県松江市東出雲町揖屋 揖屋神社参道石段上
撮影日:2015年11月14日

出雲地方の旅行の際に、揖屋神社には、黄泉比良坂の比定地とセットで訪ねました。
揖屋神社については、既に記事があります。

その記事を見る


この神社には、狛犬が二組居て、石段の下に「出雲丸尾型」、石段の上に今回の「出雲構え型」が居ます。
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年代:天保15年(1844)
材質:石造
型式:出雲・構え型

この時は一方向からしか写真を撮らなかった。

右側が阿形獅子。
高い石壇の上から参拝者を見下ろして、前足を折り、腰を高くして、今にも跳びかかりそうな姿勢をしている。
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長い耳は垂れ、眉は巻き毛が横に連なって一文字。
目は奥目でまん丸。
鼻は獅子鼻で大きい。唇のたわみが大きく、開いた口に歯列が並び、牙もわかる。
豊かな顎髭が、横に並んでいる。
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左側が吽形獅子。
前足を折り、腰を高くして、今にも跳びかかりそうな姿勢をしている。
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長い耳は垂れ、眉は巻き毛が横に連なって一文字。
目は奥目でまん丸。
鼻は獅子鼻で大きい。唇のたわみが大きく、閉じた口から牙だけがのぞく。
豊かな顎髭が横に流れ、巻き毛も目立つ。
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尾は、一方向からしか見られないので詳細は不明だが、豊かな毛の尾が真っ直ぐに立って、側面には巻き毛が並ぶ。
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写真を一方向からしか撮っていなかったのがとても残念。それで情報が不足しているが、出雲構え型の特徴はよくわかる。
今にも跳びかかりそうな迫力があって、好きなタイプである。
大型で見ごたえがあり、石もやはり来待(きまち)石だと思うが、その中でも上質の石で彫ってあるため細かい細工も状態よく残っている。



狛犬の記事一覧を見る



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里見八犬伝を読み込む/第三集・巻の二・第二十四回

20210922

第二十四回 軍木媒(なかだち)して荘官に説く 蟇六偽りて神宮(かにわ)に漁(すなどり)す

時:室町時代 文明10年(1478)
登場人物:犬塚信乃、額蔵、蟇六、亀篠、浜路、網乾左母二郎、簸上宮六、軍木五倍二、土太郎
舞台: P10武蔵国大塚
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【要略】
・陣代・簸上宮六が浜路を想って悩むのを、属役軍木(ぬるで)五倍二が媒を引き受ける。五倍二は蟇六を訪ねて簸上(宮六の望みを伝える。
・蟇六は亀篠と図って、網乾左母二郎をそそのかしてから、蟇六は信乃に成氏が古河に帰還したので伺候するよう勧める。
・出発の前、信乃は墓参し、その帰りに蟇六と左母二郎が漁に出掛けるのに出会い、同行することになる。
・神宮河原で船に乗り、蟇六が網を打つ際にわざと水に落ちる。信乃は助けるために飛び込むが、蟇六が水に溺れさせようとするのを、信乃は水練に達者で、逆に蟇六を溺れさす。
・この間に、左母二郎は蟇六に頼まれたとおり、信乃の宝刀を蟇六の刀と入れ替えようとするが、邪心が起り、蟇六の鞘には左母二郎の刀、信乃の宝刀は自分の刀とすり替えてしまう。

苦肉の計蟇六神宮河水没す
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【ものがたりのあらまし】
 ところが浜路を想う者が、他にも一人現われた。それは過日の陣代簸上官六(ひかみきゅうろく)であった。属役(したつかさ)軍木五倍二(ぬるでごばいじ)がそれを察してこの媒灼役(なかだちやく)を買って出た。
「しかしな五倍二、先方には決まった婿があるらしいぞ」
「いや、蟇六は御配下の荘官(むらやく)でございます。倒すも起こすも、尊公の心次第ですよ、私におまかせおきください」
 胸をたたいて引き受けたので宮六は喜んで、次の日莫大な贈品を七、八人の奴僕にかつがせ、五倍二が先に立って蟇六宅をおとずれ、浜路懇望の縁談をのべて返事を迫った。
 さすがに暮六もあわてて亀篠と相談した。
「願ってもない良縁ゆえ、御承諾申したいが、ここに一つ障りがあります。妻亀篠の甥にあたる犬塚信乃という者に、浜路こと、幼きころより妻(めあわ)す約束となっております」
「では、その婿が気に入っておると申すのか」
「とんでもない、私ども夫婦は不満千万でございます。また当の浜絡も喜んではおりません。しかし里人が信乃をひいきにしているので、まずは信乃を遠ざけないとなりません」
「なんだ、それなら雑作はない。某不肖であるが、当城の属官(わきやく)、こんにち陣代の媒約として来た以上、胡乱(うろん)(注1)の返答を持ち帰るわけには参らん」
 半ばおどかされて暮六は顔面蒼白となり、やがて苦心して計らうゆえ、婚縁の儀はそれまで秘してください、と頼みこんだ。
 すかさず五倍二は、持ってきた贈品および目録を、若党にさしずして座敷にはこびこんだ。
「では後日、かならず正式の御来臨をお待ちします」
と誓って蟇六は媒約人五倍二を送り出した。
 亀篠が襖の陰で立ち聞きしていたか、客人が帰ると座敷の品々を数え、満足してほくそえんだ。
 その晩夫婦は、寝物語りに今後の方針を相談した。亀篠は次の日、網乾左母二郎の宅を訪ねて、信乃さえなければ浜路はおん身のものとか、蟇六も婿にしたいと毎日申しているとか、口説いて信乃の一刀をすりかえるため、前もって鞘と刀の長短を量っておくよう囁いた。
 そこでその晩、蟇六、亀篠夫婦は信乃を自室によんで、いろいろと親切ごかしに話したあとで、用件を持ち出した。
「そこで今年、成氏朝臣は、両管領と和議がととのって滸我へ帰城なされたそうだ。そなたの祖父匠作殿は、成氏のおん兄、春王、安王両公達の近臣であった。だからこの和議で天下晴れての家柄となった。大塚家を興すは今この時、そなたの立身もこの機をのがしては再びあるまい。ついては一案がある」
と蟇六は言い、それは滸我におもむいて村雨の宝刀を献納し、先祖の忠死を訴え出れば必ず召し出されるに違いない。そうなれば早速婿養子の披露をして、わが職祿を譲る。さきごろ豊島の合戦で祝言が延びたが、もうなんの遠慮もなく盛大にとりおこなうつもりだ。
 夫婦はそう言って、左右からひたすら滸我行きを強いるのであった。信乃は、軍木五倍二が陣代簸上官六のために媒約して祝納の品々を運んだことを、額蔵が告げてくれたので、さては宝刀献上の旅に出した後で、浜路と宮六を妻す下心だなと察した。
「いや、この刀なら、私も献上いたしたく思っており、亡父の遺言でもあり、早速滸我へ出発いたしましょう」
 それで出発は明後日と決まり、信乃は自分の室へ引きさがった。
 初旅のことで信乃は墓参してきたが、亀篠に言われて滝野川の弁才天に詣で、やがて帰路についた。するとやや歩いたころ、蟇六と網乾左母二郎が老僕の背介に漁網をかつがせて来るのに出会った。
「おお信乃、これはよい所で会った」
信乃も近づいて、あいさつした。暮六は、明日はそなたの首途(かどで)だから、餞別酒の肴にと思って魚屋に問うたが、あいにく何もないのでとうとう自分で網を打つことにしたのだ、そなたもいっしょに行こうと誘った。信乃は自分のための好意ゆえ、同行することになった。
 神宮河原の船元で船を借りて、舵取り一人、この者は土太郎と呼んだ。船に乗りぎわに蟇六は、背介には、割寵(わりご)を取りに戻した。蟇六は、信乃と左母二郎もろとも船に乗ると、土太郎が舵を取り取り船を中流へこぎ出でた。見ると蟇六は襦袢一つの肌脱ぎになって、腰蓑をつけ、竹笠をいただき、網を肘にひっさげて舷(へさき)に立った。
「わしは若いころから、網打ちは好きであった」
 口で自慢するとおり、打ちおろす網の中に川鮒や州走(すばしり)(注2)などがかかって、板子の上にはねた。そのうちに夕月の上る前、船中がしばらく暗くなった時、輿に乗ったていの蟇六は、うちおろす綱もろとも、ざんぶとばかり身をおどらして水中に落ち込んだ。
「あっ、たいへん」
 船上は大騒動。板子など投げ入れたが、水面は暗く救うべくもなかった。信乃は素早く衣を脱ぎすて、さっと飛びこんだ。この時続いて梶取の土太郎も飛びこんだ。蟇六は本当は水練が達者であったから、信乃の飛び入るのを見ると、そばに近づいて行って溺れるさまを装った。
 「おお、伯父」と叫んで信乃が思わず救おうと差し出す手に、蟇六はすがりつき、深淵へぐいと引き入れた。船頭の土太郎もそのとき泳ぎついて、蟇六を救うふりをして信乃の足をつかんで押し沈めようと図った。
けれど信乃は幼いころから水馬水練徒士渡(注3)の達人であった。うぬと足をあげて土太郎を三間ばかり向こうに蹴離し、やにわに蟇六を小腋に抱きすくめ、片手で波を切って岸辺へと真一文字におよぎ着いてしまった。
 この時、船上に残った左母二郎は船を川下へ流してすばやく信乃の宝刀の目釘をはずし、他刀の中刃(なかご)と替えようとした時、怪しむべし、さんぜんと立ちのぼる一連の水気、はっと目をうつはまさしく村雨の名刀だ。左母二郎はこの時、むらむらと欲心が起こった。これを奪えば千金の値打ち、また自分が鎌倉へ帰参するに都合がよい。そうだと思い、蟇六の鞘には自分の刀を入れ、宝刀は自分の刀とすりかえた。三刀三所替えの早業。そこへ土太郎が船に泳ぎついて上がってきた。船はそのまま夏草茂る岸へ寄っていくと、陸には濡れ鼠の蟇六が横たわり、信乃は裸身のまま立っていた。このとき信乃は、蟇六が入水したのは自分を謀るためであり、土太郎もそれに加担したのだとは察したが、左母二郎が船上で刀をすりかえたことまでは気がつかなかった。ああ惜しむべし、ただ寸隙の油断から、宝刀は今やついに他手(ひとで)におちてしまった。

【注釈】
(1)胡乱(うろん):「正法眼蔵」や、五山僧の「了幻集」に見えること、また唐音で読まれることからも、禅宗によって伝えられた語と見られるが、禅宗用語というわけではなく、「朱子全書」等、宋代以後の様々な文献に使われている。
意味は、「胡」も「乱」も「みだれたさま」を表わし、①正体の怪しく疑わしいこと。また、そのさま。②確かでないこと。真実かどうか疑わしいこと。また、そのさま。
胡(えびす)が中国を乱したとき、住民があわてふためいて逃れたところからという説もある。
(2)州走(すばしり):ボラの稚魚の称。
(3)水馬水練徒士渡:甲冑を着たまま泳ぐ、水中から船べりに飛び上がる、潜る、水面から伸び上がって遠くを見るといったもので、平泳ぎや立ち泳ぎが主だった。



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御嶽の鏡岩/埼玉県児玉郡神川町

20210920

所在地:埼玉県児玉郡神川町字二ノ宮75 金鑚神社から上がる
訪問日:2020年12月16日

この日は、神川町にある武蔵国式内社と出雲系神社を訪ねた際に、金鑚(かなさな)神社に参拝し、すぐ近くに鏡岩があるので、最近地球の歴史にはまっている私としては、ぜひとも見なければいけないと訪ねた。

金鑚神社については、既に参拝記事があります。

その記事を見る


金鑚神社拝殿
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本殿が無く、中門から神体山とする御室山(御室ヶ獄)を遥拝します。
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鏡岩は、金鑚神社境内から御嶽山登山道を400m登ったところにあります。

御嶽山登山道入り口にある鏡岩の説明。
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鏡岩は、約1億年前(白亜紀)に八王子構造線(関東平野と関東山地の境)が形成された際に、断層活動によって生じたすべり面であるとされる。岩面は赤褐色であるが強い摩擦で磨かれて光沢を帯びており、表面には岩のずれた方向に生じるさく痕(スリッケンライン)が見られる。岩面の大きさ・断層の方向がわかることから地質学的に貴重とされ、国の特別天然記念物に指定されている。

大陸の東の端が大地震で避けはじめて、日本列島誕生の動きが始まったのは3000万年前だから、約1億年前(白亜紀)というのはこの場所はまだ大陸と一体のもので、恐竜が活躍していた時代である。
余談だが、近くを流れる神流川を遡っていくと、神流町恐竜センターもある。

上り口には杖が用意されていた。
軽い気持ちでなんとなく杖を借りていったが、これが大正解。ずいぶんお世話になりました。
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山道の傍らには、句碑がずーっと建てられている。
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道祖神も祀られている。
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まだまだ句碑が続きます。
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牛若丸だそうだ。
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もうちょっと我慢して上る。
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ついに鏡岩に到着(嬉)
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御嶽の鏡岩(御岳の鏡岩、みたけのかがみいわ)は、御嶽山の中腹にある岩(位置)。「鏡岩(かがみいわ)」の名は、岩肌表面が鏡のように平らであることにちなむ。岩質は赤鉄石英片岩で、岩面の長さは約4メートル、幅は約9メートル。北向きで約30度傾斜している。鏡面としては超巨大。
鏡岩のように巨大な鏡肌は確かに他には見られないもので,特別天然記念物に指定されています。

御岳は三波川帯に位置しており,低温高圧型の三波川変成岩が露出しています。三波川変成岩はいろんな種類の片岩(低温高圧の変成作用によって紙のようにはがれやすくなった広域変成岩の総称)からなりますが,鏡岩辺りでは石英片岩が露出しています。
断層面は,三波川帯が伸びる方向にほぼ平行に発達しており,約30度北傾斜の正断層面です。

鏡岩に関する伝承では、中世に城の防備において岩が敵の目標となるのを避けるため松明でいぶし赤褐色にしたとも、高崎城落城の時には火災の炎が映ったともいう。また、江戸時代の『遊歴雑記』には鏡岩に向えば鏡のように顔の皺まで映るという記述があるほか、『甲子夜話』にも同様の記述が見える。

鏡岩全景
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右側がきれいな鏡面で、スリックラインもはっきりわかる。
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左側の鏡面
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鏡岩の下は、泥岩と片岩が混在している。
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無事に鏡岩を見た高揚感で、足も軽く下れた。
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金鑚神社境内に帰着。
感謝しつつ杖をお返しした。
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(了)


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牛鬼(ぎゅうき、うしおに)/日本の神々の話

20210917

テレビの番組で、貴船神社を紹介しているとき、小さな末社「牛一社(ぎゅういちしゃ)」を紹介し、御祭神は「牛鬼」と説明していました。

WIKIPEDIAで調べると色々な方が説明しておられ、それによると貴船神社のご祭神貴船明神が御降臨されたときに、そのお共をしたのが牛鬼(仏国童子)であることがわかりました。

貴船明神が天下万民救済のために、天上界から貴船山中腹の鏡岩に御降臨され、そのお共をしたのが仏国童子(牛鬼ともいう) である。ところが、この仏国童子がはなはだ饒舌(じょうぜつ)で、神戒をも顧みず、神界の秘め事の一部始終を悉く他言したので貴船明神の怒りに触れ、その舌を八つ裂きにされてしまった。そして貴船を追放され、吉野の山に逃げた。そこで一時は五鬼を従えて首領となったが、程なく走り帰って、密かに鏡岩の蔭に隠れて謹慎していたところ、ようやくその罪を許されることになった。
この初代・仏国童子の子ができ、僧国童子と名付けた。

ある時、仏国童子が貴船明神の御弓、鉄にて打った面二寸三分宛の御弓を取り出し、二張まで折ってしまった。余りの悪事に怒った大明神は、童子の手を鉄のクサリ七筋を以って括ったが、少しもひるまず引きちぎってしまう。大明神は今度は二間四面の大石を背骨に掛け置いたが、童子はこれも苦ともしなかったので大明神は心を痛めた。この童子、食べ物は一日三升三合食べたが、百三十歳の時カミナリに打たれて死んでしまった。

二代目・僧国童子は少年の頃から丹生大明神(貴船大神と御同体)に奉仕していたが、後に吉野の五鬼を従えて帰り、父に代わって神勤怠りなかったが百二歳でなくなった。僧国童子の子を法国童子と云い、その子を安国童子と名付け、以上四代目まで鬼の形をしていた。五代目よりは普通の人の形となり子孫代々繁昌して大明神に仕えた。そして祖先を忘れぬ為に名を「舌」と名乗った。



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里見八犬伝を読み込む/第三集・巻の二・第二十三回

20210915

第二十三回 犬塚義遺託諾(うけひ)く 網乾謾(そぞろに)歌曲を売る

時:室町時代 文明9年(1477)~文明10年(1478)
登場人物:犬塚信乃、額蔵、蟇六、亀篠、浜路、糠助、(玄吉)、網乾左母二郎、簸上宮六、軍木五倍二、卒川菴八
舞台: P10武蔵国大塚
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【要略】
・信乃が糠助を看病する。糠助には子供がおり、千葉に居る。その子には牡丹の花のあざがある。「信」の字の玉もあるという。信乃は額蔵にもそのことを伝える。
・網乾左母二郎という浪人が大塚に居る。25歳で美男。手習いをして世過ぎ。
・大塚の城主・大石兵衛尉の陣代・簸上(ひかみ)蛇太夫が病死、長男簸上宮六が跡を継ぐ。初の巡視としてこの村にやって来た。蟇六邸を宿として、饗宴を受ける。浜路の琴を誉めそやす。網乾左母二郎は追従してとりいる。左母二郎は前から浜路に惚れてて言い寄っている。

【ものがたりのあらまし】
信乃が看病に行くと、糠介は起き直ろうとしても果たせず、信乃は湯液で咽喉を潤おしてやった。
「信乃さま。いろいろお世話になりましたが、どうやら今生のお別れとなりました。実は私には一人の子がございます」
「なに、糠介阿爺に子があるというのか」
「はい、今まで誰にも告げませんでしたが、これがたった一つの気がかりでなりません」
 糠介は苦しい息の下から語った。それによると、彼はもと安房国洲崎のほとりの土民で、長禄三年(1459年)十月、先妻に男児が生まれて玄吉と名づけたが、母は産後の肥立ちが悪くて亡くなり、そのうえ家業も衰え、禁漁を犯して捕えられたが、国守の大赦で追放となり、玄吉を負うて上総の行徳へ行く途中ついに飢餓に迫られ、あわや橋から投身しようとした。
 その時、一人の武士に抱きとめられ、鎌倉殿 (足利成氏のこと) の御内の小碌者だが子がないゆえ、くれないかと言われ、路銀までもらって名も問わずに玄吉を託した。
それから大塚に来て、翌年籾七の後家に入夫した。
 糠介はあらましそんなことを語って、さらに続けた。
「聞くところによると、鎌倉殿は今の両管領と不和となり、鎌倉から滸我に移り、今は千葉の城にまします由。玄吉も千葉におるやもしれませぬ。万一あなたが滸我に行かれるようなこともあれば、探して欲しいのです。玄吉は生まれながらに、右の頼にあざがありまして、その形は牡丹の花に似ております」
玄吉に牡丹の花に似たあざがある聞き、信乃は驚く。
「不思議なのは、玄吾が生まれました七夜に、私が釣った鯛の腹から玉が出で、それに文字のようなものが見えます。読んでもらったら、まこととよむ信の字だと申すことでございました」
「糠助、いかにも承知した。今の玄吉にまつわる話は、わが身にも暗合することがある。わしとても気がかりだ」
 信乃は感嘆してこう答え、家に帰り信乃は額蔵にこっそりこのことを話すと、額蔵もその奇異に驚いた。
糠助は翌朝、ついに亡くなった。

 さて話変わって、ここに網乾左母二郎という浪人があった。近ごろまで扇谷修理大夫定正に仕えていたが、人間が小才、侫弁の持ち主だったので嫌われ、ついに浪人してこの大塚に移り住んで来た。
 左母二郎は、今年二十五歳。色の白い眉の秀でた非常な美男で、妻子もなく独身者だった。書がうまく遊芸もでき、今様(注1)の艶曲、小鼓など、ひととおりやれるという多芸さ。ちょうどこの村では番作が死んで手習いの師匠がなかったので、昼は手習いを教え、女の子には歌舞今様を教えたところ、とても繁盛した。いろいろと娘や後家との間にうわさがあったが、亀篠もひいきの一人だった。
 この年の暮、城主大石兵衛尉の陣代簸上蛇太夫が病死し、翌年五月、蛇太夫の長男簸上宮六(ひかみきゅうろく)が職をついで新陣代となった。そこで初の巡視として、この村へやって来た。お供に属役(したつかさ)軍木五倍二(ぬるでごばいじ)、卒川菴八(いざがわいおはち)、および若党奴僕(しもべ)大勢ひきつれていた。その夜は蟇六邸を止宿としたので、盛大な饗宴が張られた。亀篠は夫にすすめて網乾左母二郎を招いて、得意の艶曲に興を添え、娘浜路に羅衣(うすぎぬ)の盛装させて筑紫琴を奏でさせ、宴席に出して酌をさせた。
 新陣代官六は酔顔をとろかせ、
「ああ、なんたる至妙、今夜第一の芸は娘ごの琴じゃ、美酒も美肴も遠くこれには及ばぬ。もし玄賓僧都(注2)がいたら、仏心を忘れて堕落し、極楽天女もわが手の撥を投げ捨ててため息をつくだろう。いやまだ、褒め足らぬ」
 わっわっと、拍手が起こって同感を表わした。それにもまして座中をにぎわしたのは左母二郎だった。時々警句(注3)をとばして一座を笑わせ、陣代の前に出て殿様殿様と杯をいただいて追従し、左右の近臣、蟇六夫婦、給仕婢僕(ひぼく)の未にいたるまで如才なく巧みに皆をあやなす手腕はなみなみならぬものがあった。
 さてこの宴は翌暁までつづき、陣代の一行は宿酔のままようやく腰をあげて帰って行った。
 網乾左母二郎は前々から蟇六宅に出入りして、いつか浜路に思いを寄せ、人目を忍んでは話しかけ、恋文など手渡そうとするけれど、浜路は受け取らなかった。ひたすらに信乃を夫と思い、婚姻を待ちわびるふうだった。亀篠は浜路が信乃を思い切らせるために、左母二郎の近づくことを望んだ。

【注釈】
(1)今様(いまよう):日本の歌曲の一形式。今様とは当時の「現代流行歌」という意味の名前であった。
平安時代中期に発生、鎌倉時代に流行した。
後白河上皇自ら民間の流行歌謡である今様を学んで『梁塵秘抄』を編んだ。
江戸時代にも、本居宣長、熊沢蕃山、清水浜臣らの主に国学者による作品がる。
歌詞が、7、5、7、5、7、5、7、5で1コーラスを構成するのが特徴で、様々な歌詞が生み出された。
(2)玄賓僧都:鴨長明の『発心集』の冒頭に載せられている。桓武天皇の病気平癒を祈願し、翌806年(延暦25年)大僧都に任じられたが玄賓はこれを辞退している。名利を離れてひたすら仏道に精進された僧都の気高い行履(あんり)は、同時代の人に鑽仰(さんぎょう)されたばかりか、後世の宗教者の模範となってきた。玄賓僧都は「三輪」の謡で人に知られている。三輪川に閼伽の水を汲む女人に乞われるままに、衣を与えた。そしてその女のいうたままに、三輪の山本の杉立てる門をもとめてゆくと、先に与えた衣が、三輪の社の杉の枝にかかっていたという伝説をもつ人である。
(3)警句:着想が奇抜で、辛辣(しんらつ)に真理を言いあらわした簡潔な表現の文句。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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