上野公園・花園稲荷神社の狛犬

20170623

所在地:東京都台東区上野公園4−17
撮影日:2016年11月21日

上野公園の上の広い通り「さくら通り」から入って、斜面を下る感じで、花園稲荷神社と五條天神社がある。
その「さくら通り」に面して、この狛犬はある。
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普通お稲荷さんは、赤い鳥居で狐である。
だから石の鳥居と狛犬は五條天神社のものかなとも考えたが、石の鳥居の社額をよく見ると「稲荷神社」とある。
よって、花園稲荷神社の狛犬と解釈する。

年代:宝暦3年(1753)
材質:石造
型式:はじめ型(尾立ち)

右は阿形獅子
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たてがみは巻き毛で、襟毛がマントのようにまっすぐに流れている。
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左は吽形獅子
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角なし。
・顔は、ユーモラスな笑い顔だが、口が極端に大きく、舌ものぞかせている。
・耳は垂れさがり、鼻はそれほど大きくない。眉がつり上がって目の周りを半周している。
顎鬚も目立つ。
・表情はにらんで笑っている感じ。
・前足は、ちょっと前に出し直立。後足は蹲踞。
・四肢に翼のように伸びた巻き毛がある。
・尾は、筋の細かいヘチマ瓜状で、側面に巻き毛で、立っている。


年号は宝暦3年(1753)
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尾は、筋の細かいヘチマ瓜状で、側面に巻き毛。はじめ型に珍しく立っている。
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四肢に翼のように伸びた巻き毛がある。
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顔、身体の特徴は「はじめ型」なのに、尾が立っている珍しい狛犬。
「江戸狛犬」への転換期と云える。


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高来(たかく)神社

20170622

鎮座地:神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9-47
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社に続いて当社に参拝しました。
当社は式内社ではありませんが、特別に立ち寄りました。
それは、狭山市の半分は旧高麗郡で、私が住んでいる所もそうですが、1300年前の高麗郡建郡にあたり、この地も関係が深かったからです。

神社には駐車場がなく、近くでバスを降りたが、そこからの高麗山。
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神社には横から入り、二の鳥居まで戻った。
一の鳥居と社号標は確認せず。
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高来神社、高來神社(たかく じんじゃ)、高麗神社とも呼ばれる、別名高麗(こま)さん。旧社格は郷社。
社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来する。
社名を音読みにすれば「こうらい」となる。

中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かっては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。
また古来武門の信仰が篤く、鎌倉期に将軍源頼朝が正室北条政子の安産祈願をして、戦国時代には後北条氏がわずかな領地を寄進したという文献があるという。

『新編相模国風土記稿』には「高麗権現社」とあり、高麗寺村(大磯町高麗地区)と大磯宿(同大磯地区)の氏神であるとともに、別当寺の鶏足山雲上院高麗寺と渾然一体とした神仏混淆の形態をとっていた。高麗寺は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に源頼朝によって、北条政子の安産が祈願された寺社の一つにその名が伝わる古刹。

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』では、相模国大住郡には高来郷がある。高麗山一帯から、花水川東岸の中世以降は大住郡になる平塚市西部にかけてが、それにあたる。

高麗山山頂にある「高麗と若光」と題する説明板には「若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました」(環境省・神奈川県)とあります。
高来神社「御船祭」の木遣歌「権現丸」で「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となるとうたわれることから中世以降高麗寺では、なにかしらの関係を伝承していたと考えられます。また、高句麗からの渡来人伝承から「高麗山」の名前がついたといわれています。

そもそも高麗大明神(こまおおかみ)の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に、俄かに海中騒がしく、浦の者ども怪しみて、遥かの沖を見てやれば、唐船一艘八つの帆を揚げ 大磯の方(かた)へ梶をとる。走り寄るよと見るうちに、程なく水際に船は着き 浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも 翁壱人立ち出て 櫓に昇りて声をあげ、「汝等(なんじら)それにてよく聴けよ 吾は日本の者にあらん 諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪険な国を逃れ来て、大日本に心掛け、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁盛守るべし」、汝等有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせたもう御代よりも、権現様(明治以降は明神様)を乗せたてまつる船なれば、権現丸(明治以降は明神丸)とはこれを言うなり。

この「翁壱人」が、若光ということになります。
高麗王若光は、1300年前関東に散らばっていた高句麗からの渡来人を集め、武蔵国に高麗郡を建郡した。
高麗神社の祭神が高麗王若光であり、宮司はその子孫高麗家が勤めている。

大磯の若光伝承は天保期にはじまるものではありません。中世以前に遡ります。二つほど史料をあげておきます(ほかに『走湯山縁起』や『神道集』)。神奈川では古くより、若光(和光)が大磯の地に上陸したと伝えられているわけです。
『箱根山縁起』(『群書類従』)
神功皇后、三韓を討ちし後、武内大臣(武内宿禰)の奏有りて云う。異朝の大神を奉請して天下の長き安寧を祈らしむ、と。即ち、百済明神を日州(日向)に遷し奉り、新羅明神を江州(近江)に遷し奉り、高麗大神和光を当州(相模)大礒聳峰に遷し奉る。因りて高麗寺と名づく。
『北条記』(『小田原合戦記』)(『続群書類従』)
(北条)氏綱伊豆山ヘ御参詣アリ。縁起記ヲ御尋ネアル。当社権現(伊豆山権現・走湯山権現)往古ニ高麗国ヨリ御舟ニ召レ当国ヘ御渡アリ。相模国中郡ノ高麗寺山ニ上ラセ玉ヒヌ。之ニ依リ、此山ヲ高麗寺(山脱カ)ト申ナルベシ。其後、仙人当山ヘ参詣シ、爰ニ移居マシマシテ以来、霊験威光勝ゲテ計ウベカラズ。

大磯町観光情報サイトから
・漁民により海中から引き揚げられた千手観音を高麗権現の本地佛として定め、山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り、高麗寺別当(高来寺)の司る所になりました。
・鎌倉時代には北条政子の安産祈願のため神馬を賜り、寺背後にそびえる高麗山中には24の末院がありました。
・曽我十郎の恋人、虎御前が出家した寺です。
※虎御前…大磯の遊女。『曽我物語』の主人公、曽我十郎の恋人。
・足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国時代には北条早雲が小田原城攻めの際に篭城したことで一躍有名になりました。その後、上杉謙信が高麗山に本陣を置くなど、戦火の火中に巻き込まれ衰退していきます。
・徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀ります。東照宮は徳川家康の神影であるため、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした。
・上野寛永寺(徳川家光開基、徳川将軍家の菩提寺)の末寺であり、寺の復興には寛永寺の天海の働きが 大きかったと言われており、寛永寺から転じた別当は47世続きました。
・神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30(1897)年に高来神社と改称され、現在に 至っています。

年表:
神武天皇朝?:創建
垂仁天皇朝:神皇産霊尊と天津彦穂邇々伎尊を祭神とする
安閑天皇朝2年(533年):神功皇后・応神天皇が合祀される
養老元年(717年):本地垂迹説に基づく神仏習合により高麗寺別当の所管となる
天正19年(1591年):徳川家より朱印地百石を与えられる
寛永年間:東照大権現を併祀
明治元年(1868年):神仏分離令により高麗寺から分離され高麗神社となる(高麗寺は廃寺)
明治6年(1873年):郷社に列せられる
明治30年(1897年):高来神社に改称
明治40年(1907年):神饌幣帛を供進すべき神社に指定される


大正3年奉納の、江戸流れ尾型狛犬
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参道に大磯町の観光案内板
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山桜がほころんでいるのがあった。
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社殿
高麗寺の建物となっていたので、拝殿・本殿と分かれていない。
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向背部
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社額
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欄間の龍の彫刻
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ガラス戸の隙間から、依り代の鏡と御幣を参拝。
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ご祭神:
神皇産霊尊
天津彦穂邇々伎尊
応神天皇
神功皇后

神紋は「三つ葉葵」
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境内社です。

高麗山への登り口にある、旧社号標「高麗神社」
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石段を上がると、平嘉久社。
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平嘉久社は初めて見た名前です。
『新編相模国風土記稿』には、「山麓にあり、祭る所庚申なり、是を地主神と云、高良明神疱瘡神等を相殿とす」とあるようです。
「庚申」とは猿田彦のことでしょう。
猿田彦を祀る白鬚神社が滋賀県高島市にあり、昨年参拝したが、白髭明神とは猿田彦のことであった。
白鬚神社の猿田彦は白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。猿田彦=比良明神。
猿田彦は境界の神で、比良はあの世とこの世の境界(黄泉比良坂)を意味する。
確かに平嘉久社の鎮座場所は山に登る手前で、正しく境界と言える。
高麗若光=白鬚明神と呼ばれたので、まぎらわしい。
次に高良明神は武内宿禰です。よく「高良社」という武内宿禰を祭神とする神社があります。

高麗山霊水の「水神社」と「龍神社」の里宮
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〇力石
江戸末期には大磯海岸で若者たちが集まって力競べが行なわれていました。大きい石を両腕で持ち上げる競技があり、高麗の若者が優勝した。
丸い型の大石を 女石 といい、長い方を男石と名づけた。
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〇シイニッケイ
樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものです。樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年です。
このような例は各種各様のものがありますが、外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹は大変めずらしいものです。町の文化財に指定されています。
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他の参加者が高麗山に登ると先行していた。
私は撮影にちょっと時間をかけて、遅れた。

男坂を登ろうとしたが、急峻過ぎてあきらめ、女坂を登ることにした。
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女坂というが、けっこうきつい。
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けっこう登ったと思うところで、男の子の二人連れに出会い、頂上までどのくらいか聞いたら、まだまだ半分にも達しないと云われガックリ。
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上を目指す。
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標識があり、頂上まで500mとあり、あきらめて250mだという「東天照」がどんなところかわからないが、
そこを目指した。
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けっこうな難所である。
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開けたところに出て、案内図を見てビックリ。
女坂は、とてつもなく大回りではないか(驚)
ふつう女坂というのは易しい上り道を云うぞ(怒)
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見晴らしの良いところを探して、海を見て満足。
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すぐに急いで降りた。
結果的には、バスに帰ったら、まだ誰も帰っていなかった(笑)
しかし、ちょっと冷汗ものであった。
反省・・・・・・・・



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琴御館宇志麿(ことのみたちうしまろ)・祝部希遠(はふりべまれとお)

20170621

記紀など神話に登場する神ではない。
比叡山坂本の日吉大社の社家(神職家)の祖先神である。

日吉大社の境内社、氏神社と氏永社にそれぞれ祀られている。
氏神社祭神:琴御館宇志麿
氏永社祭神:祝部希遠

琴御館宇志麿とは:
日吉大社の社家(生源寺家・樹下家)の始祖で、西本宮の祭神:大己貴神(おおなむちのかみ)を当地に奉斎した人物である。
大己貴神は、まず琵琶湖の漁船に顕れ、唐崎のウシマロのもとに至り、社殿を造営して自分を祀るようにとの神勅を下して、現在地に鎮まったという。
別伝によれば、琴御館家は、もと常陸国の国司だったが、舒明天皇の御代に唐崎に移った。天智天皇の御世、大己貴神が唐崎の松に顕現し、ウシマロに鎮座の地を尋ね、その導きで現在地に鎮座されたという。

祝部希遠とは:
祝部氏は、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)にさかのぼるとされ、賀茂縣主の同族とされています。
そして、天智天皇の頃、(琴御館) 宇志麿の時に、"大比叡神"を祀り「祝部宿禰」を賜ったとされます。それ以後、その子孫が日吉社に奉仕したと伝えられる。
祝部氏は、10世紀(平安時代後期)、琴御館宇志丸から23代目の祝部希遠と弟の祝部成遠の時、"左方"と"右方"の二流に分かれ、それぞれ大比叡神、小比叡神の禰宜を勤めていくことになりました。その後、"左方"は生源寺を称し、"右方"は樹下(じゅげ)を称しました。
氏永社のご祭神・祝部希遠は、社家、生源寺家の"先祖神"である。

祝部行丸について:
"生源寺"の系統に、《日吉社中興の祖》と言われる祝部行丸がある。
元亀2年(1571)、織田信長の《叡山焼き討ち》の際、社殿や宝物などを焼かれ、壊滅的な打撃を受けた。坂本の里もほとんどが焼亡したという。
この時、祝部(はふりべ)行丸は、日吉社の総官として大宮(西本宮)に籠っていました。しかし、反撃する間もなく、社家に属する人々は、皆散り散りになってしまった。
祝部行丸は、裸同然で追われながらも、諸国の神社を巡り、日吉社の復興を祈願しました。時に、行丸は60歳だったといいます。
4年後、焼け野原に戻った行丸は、再建の志に燃え、復興のための活動を開始しました。あらゆる伝(つて)を頼り、「社頭再興の奏聞(天皇への奏上)」を重ね、戦国大名にも働きかけました。
織田信長が不慮の死を遂げると、行丸の努力は結実していきました。大宮(西本宮)の仮御所もでき、山王祭も復活しました。
行丸は、81歳で没しましたが、『日吉社神道秘密記』など貴重な著作を残している。
現在の主要な社殿は、行丸の働きにより、安土桃山時代に建立されたものなのです



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十二社熊野神社境内社・大鳥神社の狛犬

20170619

所在地:東京都新宿区西新宿 十二社熊野神社境内社・大鳥神社前
撮影日:2017年6月18日

新宿十二社(じゅうにそう)熊野神社は、JR新宿駅から都庁に向かって歩き、都庁のすぐ先にある新宿中央公園に隣接してある。
新宿駅から歩き始めた時にボツボツと雨が降り出したが、小雨にもいかない感じなのでそのまま歩いていった。
熊野神社に着いて撮影を始めたら、いきなり土砂降りとなり雨宿り。
雨が小雨になったので、撮影を再開した。
樹が多いので狛犬はほとんど濡れていないが、場所によってまだらに濡れた写真となってしまった。

年代:享保12年(1727)
材質:石造
型式:はじめ型

はじめ型で、四肢の間をまったく彫っていない箱状の狛犬を、写真では見ていたが実物に初めて対面した。
感激である。

境内社大鳥神社と狛犬
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右側の阿形獅子。
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笑い顔なのだが、口と歯がすごいので、ちょっとギョツとする。
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上から見ると可愛い。
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左側の吽形獅子。
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歯が乱杭状で迫力ある。
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はじめ型に珍しく、牙がある。
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特徴:
・右は阿形、たてがみが巻き毛で獅子。
・左は吽形、こちらもたてがみが巻き毛で獅子。角あり。
・顔は、ユーモラスな笑い顔だが、口が極端に大きいので迫力がある。
・耳は伏せ、鼻はつぶれて横にひろがり、口は大きい。歯並びが乱杭状で牙もある。
・表情は笑い顔だが、ちょっとグロテスク。
・前足は、直立。後足は蹲踞。
・脚の間がまったく彫りこまれておらず、箱状になっている。
・尾は、植物上の巻き毛で、背中に付いている。


四肢の間がまったく彫りこまれておらず、箱状になっている。
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年号は前足の間に彫りこまれている。
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吽形の角は、もともと二本あったようだが、傷んでいるようだ。
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尾は、植物状の巻き毛で、背中に付いている。
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はじめ型では脚の間を彫りこんでいないものが見られ、後足の間を彫っていないのはよく見られるが、四肢の間がまったく彫られていないのは珍しい。
その貴重な例である。



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川勾(かわわ)神社

20170617

鎮座地:神奈川県中郡二宮町山西2122
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」に参加して参拝しました。
相模国の式内社で、この日の最初の参拝社です。

入り口には、大きな看板で式内社と二宮であることをアピールしてあります。
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社号標
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社格:延書式神名帳では相模国余綾(ゆるぎ)郡所属の小社。
平安後期、相模国にも一宮・二宮の制度が定められ、二宮となり、二宮明神と呼ばれた。
明治6年(1873)郷社、昭和7年県社に昇格。

延喜式神名帳記載
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川勾神社は相模国余綾(ゆるぎ)郡唯一の式内社である。
『万葉集』巻十四の東歌に、「相模路の 余呂伎の浜の まなごなす 児らくかなしく 息はるるかも」とある。
奈良朝以前からヨロギの浜があり、ヨロギ郡も存在していたと推定される。
余呂伎郡を余綾部としたのは、第41代持統天皇の時代である。

川勾神社の鎮座地:現在の所在地は旧川勾村になく、隣村の旧山西村にあるのは奇異の感がある。ところが川勾村も山西村も以前には一つの区画であり、「梅沢の里」と称し、文明年間に道興准后の著した『回国雑記』に「旅ごろも 春待つこころ替らねば 聞くもなつかし 梅沢の里」の一首を残している。江戸初期の正保図にも梅沢村の記載がある。

歴 史:
『二宮川勾神社縁起書』(寛永19年-1642)によれば、11代垂仁天皇の頃の創建と伝う。さらに『新編相模国風土記稀』に、「川勾」の地名は往古にこの地で押切川が曲流していたことに由来するといわれ、川勾神社の名も地名に由来するのだという。

・延長5年(927)に『延書式神名帳』により式内社(小社)へ列格された。前九年の役(1051~62年)と後三年の役(1083~87年)の折には源義家の奉幣祈願があったとされる。

・『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日の項に源頼朝は北条政子の安産を「二宮川匂大明神」に祈願し神馬を奉納し、また、同じ建久年間に社殿造営と社債寄進を行ったとある。

・「座間答」の起源が相武(さがむ)と磯長(しなが)の合併による一宮争いであるとする国府祭(こうのまち)の伝承に従うなら、7世紀には相模国に一宮・二宮の制度があったこ とになる。

・建長4年(1252)に宗尊親王(鎌倉将軍)が鎌倉に下向した際に、将軍事始の儀として神馬を奉納したといわれ、『吾妻鏡』に同年4月14日の項には鶴岡八幡宮以下の大社に神馬を奉納したと記載されている。

・応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたという(『川勾神社誌』)。また、『新編相模国風土記稿』では、この火災で古伝縁起を失ったと述べている。

・永禄4年(1561)、上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿を焼失。その後の元亀年間(1570~73)に後北条氏によって再建。当社は小田原城の丑寅の方角に当たり、鬼門守護神として後北条氏から格別の崇敬を受けたのだという(前掲『川勾神社誌』)。

・天正19年(1591)、徳川家康が豊臣秀吉の命により九州の肥前・名護屋に出陣する際、当社に祈祷札を献上し、朱印地50石を寄進した。以後、徳川家の崇敬を受け、江戸時代に入ると毎年正月に江戸城へ登城して神札を献ずるのが例となり、幕末まで続いた。

・安永9年如鮒〉暴風雨によって社殿が破損したがも天明7年(㍑$7)に宮司の二見氏が再建し、この社殿が昭和初期まで至る。

・現在の社殿は昭和7年(1932)県社昇格の内示を受けて新築着工したものであるが、第2次大戦や戦後の近代社格制度廃止などの影響により、19年後の昭和26年に完成した。

・平成23年9月21日の台風15号により、境内の夫婦杉のうち1本が倒れ、神楽殿の屋根が壊れるなどの被害が出ている。

鳥居
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鳥居の横に、伊藤博文揮毫の扁額あり。
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石段を上がる。
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茅葺の随身門
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応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたというが、それであろう。ほとんど顔などもわからない。
ガラスと光線の加減で、よく撮れなかった。
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くぐってから、門の屋根の茅葺を拝見。
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参道は真っ直ぐ。
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文化財の古文書と「田舟」の説明
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手水舎のところに、種々の説明文書コピーが置かれていた。

※国府祭(こおのまち)
毎年5月5日相模国一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮、総社六所神社、以上六社の合同祭儀で「こおのまち」と呼ばれています。
千有余年の昔相模の国司が当時の国府所在地に国内の有力神社をお招きし敬神の誠を捧げたものであると伝えられています。
五月五日に行なう為、端午祭とも言われ、又将軍の命令で行なわれたので天下祭・御用祭ともいって、国家安泰・五穀豊穣、諸産業の繁栄を祈念する相模国最大の祭典です。

三度移転したという相模国府の候補地は下記のとおり。
①綾瀬市早川綾瀬西高校付近
②平塚市平塚八幡宮付近
③大磯町六所神社付近

寒川神社は①、②期国府時代に国府に一番近く、延喜式神名帳にも明神大社となっており、一之宮とされた。
③に国府が移転したのは平安時代末で、この時期は川勾神社が一番近く、二之宮とされたのは妥当。
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国府祭(こおのまち)古図を読み解いた説明書によれば、江戸時代の早い時期にまで遡る可能性のある、神・仏・修験による神仏習合の姿があり、中世的な先祖信仰の痕跡も明らかにみてとれる、複雑な祭りであるようだ。
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手水舎
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狛犬が侍るところから、玉垣内に入る。
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拝殿
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向拝にかかる注連縄は、大根注連縄。
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拝殿内部
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拝殿内には「二宮大明神」の社額があり。
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本殿
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破風部分の彫刻を、細い隙間から撮った。
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ご祭神:
現在は、大己貴(おおなむち)命、大物忌(おおものいみ)命、級津彦(しなつひこ)命、級津姫命、衣通姫(そとおりひめ)命ほか5柱。

『新編相模国風土記稿』(天保12年一1841)は級津彦命、大物忌命、衣通姫命の3柱とする。
しかし、安永5年(1776)当社33代目宮司の二見忠良が書写した『御祭礼之式伝来写』によれば、江戸中期には八幡神を祀ったことが確認できるという。鎌倉幕府や関東管領などが信奉した鶴岡八幡宮の影響があるといわれている。また、級津彦命と級津姫命は本来は風神であるが、師長(しなが)国のシナに通じるところから加えられた。

※師長国:
『国造本紀』に第13代成務天皇のときに、茨城(うばらき)国造の祖建許呂(たけころ)命の児意富鷲意弥(おおわしのおみ)命を国造に定めたとある。師長国については諸説あって必ずしも判然としないが、『和名抄』には「上古は全く相模・師長二国たりしとも云ふべきなれど、みだりには然定難きなり。されど、北方山間険阻の地は左加牟(さがむ)と唱へ、南方磯辺の地は磯長と称し、自然区別せし事は、織るべからず」とある。

神紋は「丸に二」
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神楽殿
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東五柱祭神
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西五柱祭神
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神社前の道路工事のために撤去された石鳥居が保存されている。
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御神木の杉
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ご神木の銀杏
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Author:四季歩
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写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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