美濃国一之宮・南宮大社

20160824

鎮座地:岐阜県不破郡垂井町宮代峯1734-1
参拝日:216年8月3日

境内図
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青春18キップの旅の二日目、多賀大社、義仲寺の後、13:56に東海道本線「垂井」駅に降りた。
予定では徒歩20分なのだが、義仲寺から駅に向かうときに熱中症の予兆みたいなものがあったので、南宮大社に寄るタウンバスがすぐに出るというので、それを使うことにした。
料金100円を払い乗り込み、やれやれ助かったと思った。
しかし、これが大誤算だった(泣)
あっちこっちに寄りまくって行くので、結局駅を降りたときから35分くらいかかってしまい、南宮大社では駆け回ることになってしまった(汗)

タウンバスから降りると、こんな表示が。
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そうだった、南宮山の麓なのだ、ここは!
関ケ原の戦いのときに、総大将の毛利秀元・安国寺恵瓊ら毛利軍が陣取った南宮山である。
「関ヶ原」駅の次が「垂井」駅だったが、ずいぶんと電車は走った。
ずいぶん離れているのを実感した。
一説では、安国寺恵瓊らが企んだのは、石田三成と徳川家康の両者をけしかけて戦わせて、両者共倒れにさせて毛利の天下を狙ったのだというが、さもありなんと思わせる、南宮山の位置である。

南宮大社の向こうの山、あれが南宮山だろう。
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社号標
社格等:式内社(名神大)、美濃国一宮、 旧国幣大社、別表神社
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岐阜県西部、南宮山の山麓に鎮座する。「国府の南に位置する宮」として「南宮」を名乗るようになったとされる。鉱山を司どる神である金山彦命を祭神としており、全国の鉱山・金属業の総本宮として古くから信仰を集めている。境内には江戸時代の遺構18棟が残っており、国の重要文化財に指定されている。

御由緒(境内説明より)
 御祭神金山彦命は、神話に古く、伊勢神宮の天照大神の兄神にあたらせられる大神様であります。 社伝によれば、神武天皇東征のみぎり、金鵄を輔けて大いに霊験を顕された故を以て、当郡府中に 祀らせられ、後に人皇十代崇神天皇の御代に、美濃仲山麓の現在地に奉遷され、古くは仲山金山彦神社と申し上げたが、国府から南方に位する故に南宮大社と云われる様になったと伝えます。
 御神位は古く既に貞観十五年(873)に正二位に叙せられ、延喜式の神名帳には美濃国三十九 座の内、当社のみ国幣大社として、名神祭にも預る大社に列せられています。天慶三年(940)、 平将門の乱の言朱伏の勅願や、康平年中(1058~65)安部貞任追討の神験によって、正一位 勲一等の神位勲等を極められ、以来、鎌倉、室町、戦国の世を通じて、源氏、北条氏、土岐氏等の 有力な武将の崇敬をうけ、美濃国一宮として、亦、金の神の総本宮として、朝野の崇敬極めて厚い名大社であります。

1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いで焼失し、1642年に徳川家光が再建した。
1868年、神仏分離により神宮寺が分離移転した(現 朝倉山真禅院)。
近代社格制度のもとで、1871年に「南宮神社」として国幣中社に列し、1925年に国幣大社に昇格した。戦後、「南宮大社」と改称した。

平安時代中期の『延喜式神名帳』には「美濃国不破郡 仲山金山彦神社」と記載され名神大社に列している。また、美濃国一宮とされた。
『延喜式神名帳』 美濃国最初のページのみ載せておきます。
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また、興味深いのは、岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』の中で、「出雲人の東漸」の部分で、真弓常忠氏の『古代の鉄と神々』における説を紹介しているが、それは以下のようなものであ。
「その起源において諸説のある諏訪の御柱について独自の意見を提出する。踏鞴炉の高殿の四本の押立柱がもとだとするのであり、これらの柱のうち、南の柱をもっとも神聖視して、そこに金屋子神を祀る。それゆえ製鉄業者たちの崇敬する神社は南宮と呼ばれるので、『梁塵秘抄』にほ、「南官の本山は、信濃国とぞ承る さぞ申す 美濃国には中の宮、伊賀国には椎き児の官」とあって、南宮の本山は諏訪大社なのである。因みに「中の宮」は、今は南官大社と呼ばれている大垣の近くの仲山金山彦神社であり、「椎き児の官」は、伊賀上野(現在伊賀市)の敢国神社である。
(ここで、南宮大社は美濃国一之宮、敢国神社は伊賀国一之宮である)
そうなると祭神のタケミナカタのミナカタは、南方と考えられるのであり、実際『延書式』において諏訪大社は「南方刀美二座 明神大」と記されているのだ。建御名方が武神だけでなく、鉄の神である可能性は大きい。」

境内は広大。
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「石輪橋」と「楼門」
 楼門の前の川には、石輪橋、石平橋という二つの見事な石橋が架かっている。造営時期は社殿と同じ寛永十九年。
門の正面が石輪橋。花崗岩で造られ、その名の通り輪のように円弧を描いている。この形は、そり橋とも呼ばれ、神様が通られる橋、つまり人間は通ってはいけない橋を意味している。
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楼門の彫刻
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楼門の向こうに舞殿、社殿が見える。
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楼門の表には左右に随身。
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楼門の裏には木造狛犬があります。
様式から寛永19(1642)年のものと推定する。
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「手水舎」
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手水舎と舞殿の間に、左右に鉄製の柱がある。幡を提げるものでしょうか。
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「舞殿」
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舞殿の蟇股にある十二支の動物の丸彫りが特に名高いようです。

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「拝殿」
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 木々の緑に囲まれた社殿は、十五棟からなる。本殿、弊殿、拝殿、樹下社、高山社、隼人社、南大神社、七王子社、回廊(左右)、勅使殿、高舞殿、楼門、神輿舎、神官廊。そのすべてが国の重要文化財に指定されている。
 建築様式は、和様と唐様を混用した独特の様式であることから、南宮造と呼ばれている。本殿と弊殿だけは素木造りで、その他の社殿は鮮やかな朱塗りになっていることも特徴の一つと言える。社殿の軒回りは、すべて刳抜蟇股という社寺建築独特の装飾が施されている。その形が蟇の股の曲線に似ていることから蟇股と呼ばれる。
 慶長5(1600)年、関ヶ原の合戦の兵火で社殿は焼失。そののち寛永19(1642)年、この地にゆかりの乳母・春日局らの願いを聞き入れた三代将軍、徳川家光によって再建された。
 現在の南宮大社の社殿、石鳥居、石橋などは、このとき家光が寄付した七千両(約21億円)をもとに、造営奉行、岡田将監の指揮によって建築・造営された。

拝殿内部
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本殿は、ほとんど見ることが出来ない。
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御祭神は金山彦命
配祀:見野命、彦火火出見命

『美濃明細記』『美濃国式内神社祭神記』では、「金山彦命 御野命 彦火々出見命」とあり、秘神として「罔象女命、埴山媛命」としている。

配祀の見野命について、『日本書紀』には、豊組野尊(豐斟渟尊)の別名に見野尊が登場するが、美濃國の神、美濃国造の祖神ということかもしれない。

拝殿には、ご祭神にふさわしく、金物の奉納額が掛けられている。
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神紋は、「十六弁菊」と「左流水三つ巴」
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拝殿回廊の、蟇股には鳥の彫刻が目立った。
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続いて、境内社を参拝。

本殿回廊内
○摂社・樹下神社(ご祭神:大己貴命)
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○摂社・隼人神社(ご祭神:火闌降命)
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京都の四条でさらし首になっていた平将門の首が関東に飛び立ったとき、再び反乱が起きることを恐れた南宮大社の隼人神は、飛びゆく将門の首を弓矢で射落としたという伝説がある。そのとき首が落ちた場所とされる岐阜県大垣市荒尾町には御首神社というのがあり、そこでは将門の首を祀っている。
隼人神社の前には矢竹が植えられている。

○摂社・高山神社(ご祭神:木花開耶姫、瓊瓊杵尊)
南宮山山頂に奥宮が鎮座する。
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○摂社・南大神社(ご祭神:天火明命)
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○末社・落合神社(ご祭神:素盞嗚命)
駐車場脇にあり。
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西門から出ます。
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○末社の二社が合祀
金敷金床神社(ご祭神:豐岡姫命、蛭兒命)
石船社(ご祭神:鳥石楠船神)
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この位置から、本殿の真後ろにあり、拝殿の方から全く見ることが出来ない「七王子神社」を見ることができないかと試みた。
これかと撮ってきたが、どうもこれは「南大神社」みたいだ。その左奥にうっすらと屋根がみえるのがそうらしい。
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幸い、南宮大社公式サイトに載っていた写真を載せておく。

○摂社・七王子神社(ご祭神:大山祇神、中山祇神、麓山祇神、䨄山祇神、正勝山祇神、高靇神、闇靇神)
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「聖武天皇大仏建立勅願所」碑
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「引常明神・湖千海神社」の鳥居
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手前に「引常明神磐境石」、奥に「湖千海神社」
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神仙界の霊気を常に引寄せる泉で、引常明神とも呼ばれている。
聖武天皇が大仏建立を願い、この霊泉を汲んだという。

説明
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北条政子が源頼朝の菩提のため、ここに、南天竺の鉄塔を建立し、金水の和合を祈願した。
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「瓦塚」
「引常明神・湖千海神社」の手前にある瓦塚は、社殿の古瓦で、常世神である引常明神に捧げ祀ったもの。
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更に、上に上がっていくと、下記境内社があるとの情報があったが、時間切れであきらめた。
・荒魂社 - 祭神:本社祭神の荒魂
・伊勢両宮 - 祭神:天照大神、豐受大神。古くは本社本殿が鎮座した
・東照宮
・南宮稲荷神社
境内前方にもあったが、参拝から漏れた。
・数立神社 - 本社入り口脇に鎮座。美濃国総社という説もある

駅に向かって、予定している電車に間に合わせようと、急いで歩いたが、途中工事中の大鳥居の下をくぐった。
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急ぎ足で、ほぼ20分で垂井駅に到着。
15:26の東海道本線大垣行きに乗り、大垣で乗換え、特別快速豊橋行きに乗り、尾張一宮に16:02に到着。
次の目的地「尾張一之宮・真清田神社」に参拝した。



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義仲寺(木曽義仲・巴の墓、俳聖松尾芭蕉の墓)

20160821

所在地:滋賀県大津市馬場1丁目5-12
訪問日:2016年8月3日

青春18キップの旅の二日目、多賀大社に参拝し、彦根駅に戻り、東海道本線快速で石山まで行き、普通に乗換「膳所(ぜぜ)」駅で下車。
朝、計画より1時間20分早く出たのが、多賀大社でじっくり過ごした関係で、膳所駅に到着したのは計画より50分速い状況。

徒歩300mだというので、のんびりと歩く。
道標のある三叉路に来た。
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道標には「右義仲寺」とあります。結局どっちに行っても義仲寺に行けますが、ちょっとでもいいから旧東海道を歩きたくて右に行きます。
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旧東海道に出たら、左折。これが旧東海道。
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「東海道名所図会 義仲寺」を見ると、琵琶湖の縁を旧東海道が行ってたんですね。
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旧東海道を5、60mほど歩くと、もう義仲寺に着いてしまう(汗)
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国指定史跡です。
紫金の「しぐれても道はくもらず月の影」が刻まれた石灯篭を、キリシタン灯篭だと言う人もいるらしい。
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この義仲寺は、今回の旅でどうしても来たかった所。
木曽義仲には、かなりの思い入れがあり、また住んでいるところの近くの入間川河原で、木曽義仲の嫡子義高が討たれている。
俳聖松尾芭蕉の墓もあるので、なおさらである。

受付で拝観料を払い、チケットをいただく。
この絵もいいものだ。
「芭蕉翁絵詞伝」は、松尾芭蕉の研究と顕彰に生涯をささげた京の俳人五升庵蝶夢が、寛政4年、芭蕉百回忌に芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れ、絵巻物として義仲寺に奉納したもの。
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 義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり、古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。
治承四年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日 (四月改元して元暦元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。享年三十一歳。
 その後、年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。
 時代は移り、戟国のころには、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺に属した。
 貞享年間(1684~8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
 明和六年(1769)に蝶夢法師の中興があり、その後も、安政三年(一入実)の火災、明治二十九年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治四十五年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戟後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、壊滅に瀕した。ここにおいて、昭和四十年(1965)、三井寺円満院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌に昭和再建落慶の法要を行った。この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志家の寄進によったもので、子細は境内の昭和再建碑に記されている。
 本寺は、昭和四十二年十一月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

境内見取り図
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最初に墓参をしました。
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○義仲公墓(木曽塚)
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芭蕉翁は木曽塚ととなえた。義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年一月の第三土曜日に営む。
義仲寺のリーフレットには、芭蕉が義仲を詠んだ句を二つ載せている。
燵山にて(元禄二年)
燵山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。
「義仲の寝覚の山か月悲し」
この句は、倶利伽羅峠の芭蕉塚に句碑があった。

無名庵にての作(元禄四年)
「木曽の情雪や生ぬく春の草」

○巴塚
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私は、「関東36不動めぐり」で、横浜市保土ケ谷区和田にある「和田不動」を訪ねたときに、巴御前が和田義盛の妻になったと知り、驚いた。和田で亡くなったのかと思っていたが、膳所に移っていたのだった。

○山吹供養塚
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「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」と説明にある。
山吹姫については、埼玉県嵐山町の「班渓寺」に墓と位牌があり、私は何度かお参りしている。

○芭蕉翁墓
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 芭蕉翁は元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
 芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営んでいる。

○巴地蔵堂
 山門前右手の堂に、石彫地蔵尊を祀る。巴御前を追福するもので、以前より遠近の信仰深かった。八月の地蔵盆は、現在も町内の人々によって、例年奉仕されている。
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墓参を終え、あとは見学をしました。

「資料観」
 粟津文庫に収蔵の史料什宝を適時取り替え展観している。昭和五十一年秋、文庫改築のときに開設した。
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「芭蕉翁絵詞伝」
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「芭蕉翁の椿の杖」
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「木曽義仲公像」
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歌川国芳の「義仲公版画」
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「朝日堂」
 義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸諸位ほか合わせて三十一柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和五十四年(1979)十一月改築されたものである。
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ご本尊の木彫聖観世音菩薩
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諸ご位牌
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義仲公、義高公父子の木像が納まっている厨子。
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義仲公木像(義仲寺リーフレットより)
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清水義高に関係の深い地に住んでいるので、今回の参拝の目的の一つは、厨子に納められている義高像の写真が載っている本や冊子がありはしないか探す目的があった。
ネットで探しても見つからないので。
受付の方に、希望を話したところ、受付で販売している本・資料を一緒に探したが載っていなくて、その方が色々探してくださり、写真が小さくて良くないがと、寺の資料を見せてくださった。
だいたい、どういうお姿なのかは知ることが出来たので、とても有難かった。
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「翁堂」
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 正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若沖筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師が明和六年(1769)十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(1856)類焼、同五年再建。現在の画像は明治二十一年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
 芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。

伊藤若沖筆の天井画
花卉図は若冲最晩年の大仕事、石峰寺観音堂の天井画として描かれたとみられている。明治の初めに観音堂が壊された際、古美術商の手に渡り、めぐりめぐって現在、義仲寺と信行寺(非公開)に残っているのだそうです。
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「資料観」にデジタル複製されたものが一つ置いてあり、間近に見ることができた。
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芭蕉翁座像
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丈艸居士
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去来先生
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蝶夢法師陶像
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「木曽八幡社」
 木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和五十一年(1976)社殿鳥居を併せ新造、十一月十三日夜、遷宮の御儀を行った。
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あと、境内の句碑であるが、全部写真は撮ってきたが、記事が冗長になるので、ここでは芭蕉の句碑だけアップするに留めます。

「行春をあふミの人とおしみける  芭蕉桃靑」
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「旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁」
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「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉翁」
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佐渡の赤石
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これで、参拝を終え、日陰でしばしくつろぎました。
とても気持ちのいい空間でした。
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もう一度、墓石群(手前から巴、義仲、芭蕉)に気持ちを残して退出しました。
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最後に、受付で「大津絵」を買ったので、一枚載せておく。
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ここを出て、すぐのところに美味しそうなラーメン屋があったので、そこで昼食。
食べ終わって、時間を見たら計画していた電車に間に合いそうだった。先の米原駅で昼食の時間を予定に入れてあるので、あわてることは無かったが。
急ぎ足で歩いていると、クラクラッとめまいが来た。
・・・やばい、熱中症だ・・・・・

しばらく立ち止まり、休息して、気持ちは焦っているが並足で・・・・・・
それでも、予定どおり膳所駅12:03の電車に間に合って、次の目的地「南宮大社」のある、美濃の「垂井」駅に向かった。



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多賀大社

20160819

鎮座地:滋賀県犬上郡多賀町多賀604
参拝日:2016年8月3日

青春18キップの旅、二日目の朝早く目が覚めたので、予定より早くホテルを出発し、計画より1時間20分速い電車で、近江鉄道の彦根駅を出発した。

この日、最初に向かったのは「多賀大社」。以前よりこのお宮に参拝したいと思っていた。
このお宮は、『古事記』に「伊邪那岐大神は淡海の多賀に坐すなり」と書かれているお宮である。
現在、これに相当する神社としては2社あり、一つは淡路島の多賀にある「伊弉諾神宮」、もう一つが近江にある「多賀大社」である。
「淡海」を一方は淡路に、一方は「淡海(琵琶湖)⇒近江」としている。
面白いなと思うのは、淡路島と琵琶湖の関係である。とても形が似ていて、淡路島を切り取った跡が琵琶湖に見える。この二者のそれぞれに伊邪那岐命が坐しておわれるわけである。
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近江鉄道の「大社前」駅を出ると、目の前に鳥居が迎えている。
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風情のある門前町を抜けて行く。まだ朝が早いので静か。
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どのお宅も、多賀大社の注連飾りを飾ってある。「笑門」と干支の文字が書かれている。
「笑う門には福来る」と、伊勢地方の「温かく旅人を迎えた人に幸せがもたらされた」故事に因んだおもてなしの心を表わしているそうだ。
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多賀大社に到着して、西口参道入り口にきた。
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ここから入ってもよかったが、まずは正門からと、水路沿いに歩く。気持ちがよかった。
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正門前の道路には、大きな「笑門」の絵馬が下がった大きなアーチがあった。
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社号標
社格等:式内社(小)・官幣大社・別表神社
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多賀大社は伊邪那岐命(イザナギ)・伊邪那美命(イザナミ)の2柱を祀り、古くから「お多賀さん」として親しまれた。 また、神仏習合の中世期には「多賀大明神」として信仰を集めた。

創祀年代は不詳。
社伝では、鎮座の仔細を以下のように伝えている。
伊邪那岐大神が、多賀宮に鎮まり坐そうとして杉坂の急坂にさしかかった時、土地の老人が、栗の飯を柏葉に包んでさし上げた。大神は、その志を愛でて、食後に箸を地に挿した。後に、この箸が大杉となって「杉坂」となった。
また、山路の途中に疲れて「くるしい」と言った場所が、「栗栖」という地。そこには現在、御旅所の調宮がある。

『古事記』以前の時代には、一帯を支配した豪族・犬上君の祖神を祀ったとの説がある。 犬上君(犬上氏)は、多賀社がある「犬上郡」の名祖であり、第5次遣隋使・第1次遣唐使で知られる犬上御田鍬を輩出している。

なお、摂社(境内社)で延喜式内社の日向神社は瓊瓊杵尊(ニニギノミコト)を、同じ摂社の山田神社は猿田彦大神を祀る。多賀胡宮とも呼ばれる別宮の胡宮(このみや)神社は、伊邪那岐命・伊邪那美命・事勝国勝長狭(コトカツ クニカツ ナガサノミコト)の3柱を祀り、多賀社の南方2kmの小高い丘(神体山)に鎮座する。授子・授産、鎮火の神として崇敬される。

多賀大明神:
室町時代中期の明応3年(1494年)には、神仏習合が進み、当社には神宮寺として不動院(天台宗)が建立された。 神宮寺配下の坊人は全国にお札を配って信仰を広め、当社は中世から近世にかけて伊勢・熊野とともに庶民の参詣で賑わった。 「お伊勢参らばお多賀へ参れ お伊勢お多賀の子でござる」「お伊勢七度熊野へ三度 お多賀さまへは月参り」との俗謡もあり、ここに見る「お多賀の子」とは、伊勢神宮祭神である天照大神が伊邪那岐命・伊邪那美命両神の御子であることによる。 なお、社に残る垂迹曼荼羅(すいじゃくまんだら)は坊人が国を巡行して神徳を説く際に掲げたものである。 また、多賀社が隆盛したのは、近江国が交通の結節点だったことにもよる。

元和元年(1615年)には社殿が焼失したが、寛永10年(1633年)に徳川家光が再建を命じ、5年後に完成した。明和3年(1766年)には屋根の葺き替え等の大改修が成る。ところが、安永2年(1773年)にまたも焼失。天明2年(1782年)にも火災に遭った。寛政3年(1791年)には暴風で社殿が倒壊した。このように江戸期の多賀社は災難続きであったが、その都度彦根藩および幕府からの手厚い寄進・寄付が行われた。

明治初年の神仏分離令を機に廃仏毀釈の動きが広まり、多賀社の神宮寺も廃絶した。 別当職不動院は1868年(明治元年)に復飾せられ、境内にあった全ての神宮寺は払拭せられた。
多賀社は、1871年(明治4年)に県社兼郷社、1885年(明治18年)に官幣中社となり、1914年(大正3年)に官幣大社に昇格した。1947年(昭和22年)「多賀大社」に改称した。

1930年(昭和5年)、本殿を改修。大社造の本殿等の屋根の檜皮葺の葺き替え、ならびに参集殿新築造営は、1966年(昭和41年)から行われ、1972年(昭和47年)に完成した。また、当社は2002年(平成14年)から「平成の大造営」を行っており、2005年(平成17年)の時点で一部は竣工している。

長寿祈願:
多賀社は、特に長寿祈願の神として信仰された。

当社にはお守りとしてしゃもじを授ける「お多賀杓子(おたがじゃくし)」という慣わしがあるが、これは「お玉杓子」や「オタマジャクシ」の名の由来とされている。
これは、元正天皇の病気に際し、当社の神主が強飯を炊き、しでの木で作った杓子を献上、天皇はたちまち治癒されたと伝え、そのしでの木が現存する飯盛木で、杓子は「お多賀杓子」として有名。

境内図
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これから参拝するのだが、この日の夜から「万灯祭」ということで、境内は提燈で埋め尽くされていた(汗)
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鳥居
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明治43年奉納の狛犬
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「太閤橋」の前も提燈の海
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「太閤橋」
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天正16年(1588年)に、多賀社への信仰篤かった豊臣秀吉が「3年、それがだめなら2年、せめて30日でも」と母の延命を祈願し、成就したため社殿改修を行い大名に与えるに等しい1万石を寄進した。境内正面の石造りの太鼓橋(大僧正慈性により寛永15年〈1638年〉造営)は「太閤橋」の雅名でも呼ばれる。

現在では珍しく、この太鼓橋は渡れる(嬉)
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意気揚々と渡りはじめたら、これが大変!!
誰か、渡っている人を写すと分かり易いのだが、生憎早朝なので他に人が少なくて撮れなかった。
滑り落ちないように丸太を渡してあるのだが、これが微妙に間隔が広いのだ(汗)
次の丸太に足をかけて、手すりにかけた手で身体を持ち上げる感じで、やっと渡った。
女性とか子供は往生すると思う。
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太鼓橋のてっぺんから横を見る。
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神門を上から見る感じである。けっこう高い。
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神門前の左右に境内社があるので、先に参拝する。

○秋葉神社(ご祭神:火産霊賀具都智神)
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○愛宕神社(ご祭神:火産霊神、伊邪那美神)
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「夫婦桜」
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年代不詳だが、巨大な灯明台
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○天満神社(御祭神:菅原道真公)
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ここの絵馬もお杓子である。
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神門
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神門左右の塀も実に厚い。
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提燈で飾られた神門をくぐる。
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手水舎
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広々としているはずの境内が提燈で埋まっている(汗)
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夜は、こんなに見事になるようです。(多賀大社HPから)
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拝殿
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拝殿を通して本殿を伺う。
大きな、お杓子がある。
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本殿がきれいに見渡せないので、大社造りだという本殿の姿がとらえらにくい。
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拝殿の前からだと、本殿の屋根はこのくらいしか見えない。
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あとで参拝した、金咲稲荷神社の辺から、本殿の大棟はこのくらい見えた。
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ご祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命。

神紋は、「三つ柏」、「虫くい折れ柏」又は「柏葉筵字」、「右三つ巴」
「虫くい折れ柏」の紋は、お守りにしか見つけられなかった。
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「神馬舎」
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「神楽殿」
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○年神神社(ご祭神:年神)・竈神神社(ご祭神:竈神)
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「寿命石」
鎌倉時代の僧である重源に以下の伝承がある。東大寺再建を発念して20年にならんとする齢61の重源が、着工時に成就祈願のため伊勢神宮に17日間参籠(さんろう)したところ、夢に天照大神が現れ、「事業成功のため寿命を延ばしたいなら、多賀神に祈願せよ」と告げた。重源が多賀社に参拝すると、ひとひらの柏の葉が舞い落ちてきた。見ればその葉は「莚」の字の形に虫食い跡の残るものであった。「莚」は「廿」と「延」に分けられ、「廿」は「二十」の意であるから、これは「(寿命が)二十年延びる」と読み解ける。神の意を得て大いに歓喜し奮い立った重源は以後さらに20年にわたる努力を続けて見事東大寺の再建を成し遂げ、報恩謝徳のため当社に赴き、境内の石に座り込むと眠るように亡くなったと伝わる。今日も境内にあるその石は「寿命石」と呼ばれる。また、当社の神紋の一つ「虫くい折れ柏紋」はこの伝承が由来である。
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私も、カミさんの名を一緒に書いてお供えしました。
ただ長生きしたいのではなく、ピンピンコロリが理想です(欲張り(笑))
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○熊野神社・天神神社・熊野新宮
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○三宮神社(ご祭神:角杙神・活杙神、大戸之道神・大戸之辺神、面足神・惶根神)・聖神社(御祭神;少彦名命)
日向神社に遷っておられた。
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○金咲稲荷社(御祭神;宇迦之御魂神)
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左右の狐の足元に蛙がいる。
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金咲稲荷社の神紋は、「抱き稲」と「宝珠」
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「絵馬堂」
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大きなお杓子もあった。
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「神輿庫」
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「鐘楼」
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「文庫」
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「太閤倉」
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○夷神社(御祭神;事代主命)
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西口参道から入った突き当たりに、4社祀られている。
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○神明両宮(ご祭神;天照大御神、豊受大御神)
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○日向神社(ご祭神:瓊々杵命)
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○子安神社(御祭神;木花開那姫命)
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これで参拝を終え、西口参道入り口より駅に向かった。
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「大社前」駅から近江鉄道で彦根に出て、東海道線で「膳所」駅まで行き、次の目的地「義仲寺」に向かった。


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伊香具(いかぐ)神社

20160817

鎮座地:滋賀県長浜市木之本町大音688
参拝日:2016年8月2日

青春18キップの旅の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮、近江高島の白髭神社、余呉湖の伝承二つの地、乎彌神社・乃弥神社のあと、余呉駅から隣の駅木ノ本に移動して参拝しました。

木ノ本駅を15:14に降りたち、どうしようかと考えた。駅から神社まで2Km。また貸自転車を探そうかとも考えたが、慣れぬ自転車で2ケ所走り回って尻が痛いし、今回は歩きたい気持ちが勝った。

往きは、まあまあ普通に歩いて、そんなに疲れた感じもなく到着。
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背後が賎ヶ岳です。麓にあり、近くに賎ヶ岳への登り口もありました。
400年前の柴田勝家と羽柴秀吉との、「賎ヶ岳の合戦」でよく知られたところで、中でも特に激しかった戦いは、勝家の先鋒佐久間盛正との戦いで、世に言う「賎ヶ岳の七本槍」としてよく知られています。
この神社も、その戦の際に社殿、古記録を焼失したとのこと。

神橋があり、社号標、鳥居が立つ。
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社号標
社格:式内社 近江國伊香郡 伊香具神社 名神大、 旧県社
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この日の旅のいままでの流れからでは、余呉湖の羽衣伝説で、天女と結婚した「伊香刀美」を祀るのが、この神社。伊香刀美と天女の間に生まれた二人の男子「意美志留(おみしる)と那志等美(なしとみ)」を祀っているのが、先ほど参拝した「乎彌神社・乃弥神社」と言う事になります。

「延喜式内社」ですが、近江國は多くて155座もあります。そのうち伊香郡は特に集中して多く当伊香具神社の大社一の他小社45座を数えている。

延喜式神名帳(伊香郡最初のページのみ)
「明神大」なので、重きをなしていたことがわかる。
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上古、当地が未開の湖沼地であった頃、祭神が来て開拓し、その後子孫を守護するために鎮座したといい(『近江輿地志略』)、天武天皇の白鳳10年以前に子孫である伊香宿祢豊厚が社殿を建立したという(『神社由緒記』)。
貞観元年(859年)に従五位上勲八等から従四位下に昇叙され、同8年には従四位上に昇り、延喜の制で名神大社に列した。
菅原道真公は幼小の時この北方にある菅山寺という寺で修業されたこともあってこの伊香具神社を厚く信仰され、自筆の法華経、金光明経を奉納された。また宇多天皇に申し上げて「正一位勲一等大社大名神」の額を賜った。
その後足利尊氏が200石の社領を寄せて正月、5月、9月の各18日に祈祷を行うよう依頼し、浅井氏も庇護を加えたが、賤ヶ岳の戦いの兵火に罹って社殿、古記録を焼失、社領も没収された。
明治8年(1875年)郷社に列し、同32年県社に昇格、同40年には神饌幣帛料供進神社に指定された。

『平成祭データ』によれば、「伊香」と書いて古くは「いかご」あるいは「いかぐ」と発音した。ですから万葉集ではこの背後の山すなわち賊ケ岳連山を「伊香山」と書いて「いかご山」と読ませています。そしてその名は古事記に出てくる火の神「迦具土の神」の徳を受けられたところからきているようで、そのことはこの社のすぐうしろの山の小字名を「かぐ山」とよび、又摂社に有る「意太神社」の御祭神「迦具土の神」となっていることからも証明される。昔からこの神社は「火伏せの神」「防火の神」としての信者が大変多く、特に火をよく使う商売の人々の間にその霊験は大変あらたかといわれてその加護を祈る人があとをたたないそうです。

鳥居
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参道はとても長かった。100m以上はあったと思う。
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入り口
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独特な「伊香鳥居」が迎えます。
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中央の鳥居の形は神明鳥居。
それに、両部鳥居のように稚児柱が付いているが、これが通常四本のところを、倍の八本!
さらに、鳥居左右に三輪鳥居のように脇鳥居が付いている。
境内の説明書きでは、「三輪式と厳島式を組み合わせたのは、このあたりまで入江であった」とされている。
神奈備である香具山を祀る形態が三輪に通じるとしたものだろうか。

手水舎
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一段上がると社殿
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そこに上がる前に、神馬がいる。
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その横に、歌碑があり。
古今和歌集 巻8 離別歌 0373
東の方へまかりける人によみてつかはしける 伊香子厚行
「思へども 身をしわけねば 目に見えぬ 心を君に たぐへてぞやる」
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九世紀の後半当神社の神官で伊香津臣命から第十六代目にあたる伊香厚行という人は、中央政府でも活躍し菅原道真公との親交が有ったそうだ。

石段を上がると、狛犬(年代不明)があり。
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茅葺の拝殿
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社額「伊香具神社」
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本殿は瑞垣に囲まれ、神門があり。
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神門には「伊香大社」の額。
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瑞垣の上から本殿をなんとか覗く。
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各部の彫刻が美しい。
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主祭神は、伊香津臣命
天児屋根命の五世孫(あるいは六代孫)である。
伊香郡に居住した伊香連の祖神であり、伊香連は藤原氏と同祖である。
昔、当地が湖沼地であり、田園もなく、郡や国というものが無い時代、当地を訪れた祭神が、この地を開拓し、祭神名に因んで、伊香郡となったという。
羽衣伝説の、天女と結婚した「伊香刀美」が伊香津臣命であると、思われている。

神紋は「上がり藤」
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瑞垣に囲まれた本殿の左右に摂社がある。
天表春(あめのうわはる)神社(ご祭神:天表春命)と天下春ゅあめのしたはる)神社(ご祭神:天下春命)。
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社殿の右手には、立派な招魂社があり、さらに境内の右手に行くと、蓮池と独鈷水がある。
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蓮池
当時の伊香小江の形状を模した伊香の小江の遺跡だという。
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弘法大師が、独鈷によって掘り出した清水が、独鈷水。
伊香の小江(湖沼)に住む大蛇(あるいは悪龍)を退治して湖を埋め、田を開拓して、独鈷を以って池を穿ちて、大蛇の霊魂を納めたという。
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いまは水が少ないらしいが、中央が濡れているので水は湧いている。
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井から少し離れたところに水汲み場があり。
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近くに、境内社の一ノ宮があるというので、そちらに向いていこうとすると、生糸の説明があった。
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呉の国からやってきた4人の女工が、この地で疲れを癒し、お礼に糸とりの技法を教えたという。
また、独鈷水を用いて製造した生糸は光沢があり、弾力性に富む、当地の産業をなっていたという。
伊香具地区の生糸が名産となったのは、伊香厚行が宮中へ献上したことに端を発するとあった。

また、江戸時代の近江源氏の山武士の住まいが隣接してあった。
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伊香具神社から東へ300mの場所に、一ノ宮神社(天之押雲命)があり、伊香具神社摂社の中での一ノ宮ということらしい。
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さらに、東に少し行くと、一ノ宮神社の御神木であるという白樫が、野神として祀られていた。
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これで、伊香具神社参拝を終えたわけだが、初日、計画どおり予定をクリアした解放感と共に、疲れがドッと出て帰りの道はつらかった。
「往きはヨイヨイ、帰りはツライ」というわけである。
途中で、膝が痛くなってきて、膝が痛いというのは初めての経験だったので、不安になった。
無理をしないよう、休憩しながら2Kmの道を歩き、木ノ本駅から米原を経由して彦根に移動した。
彦根駅に着いたのが18時。
前日の23時10分に東京駅を出てから、実に長い一日が終わった。

二日目は多賀大社、義仲寺に行くので、彦根にホテルを取った。



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伊香津臣命(いかつおみのみこと)・中臣烏賊津使主(なかとみのいかつのおみ)・雷大臣命(いかつちおおおみのみこと)/日本の神々の話

20160817

「近江国風土記逸文」に、伊香津臣命・烏賊津使主(いかつおみ)、伊香刀美・雷大臣命とも書く。

中臣氏の祖、伊香津臣命(いかつおみ)には、臣知人命(おみしるひとのみこと・意美志留)、梨迹臣(なしとみ・那志等美)、伊世理命(いぜりのみこと)、伊是理媛(いぜりひめ)、奈是理媛(なぜりひめ)、という五人の子がある。
672年に伊香姓を賜姓した近江、伊香氏の元祖は、 臣知人(おみしるひとのみこと・意美志留)といいます。
この筋が伊香具神社社家となります。
景初二年、最初の遣使になったのが、次男の梨迹臣である。この後裔が中臣氏、鹿嶋氏などを輩出する。

中臣烏賊津使主は意美佐夜麻命の子。天児屋根命十四世孫、あるいは五世孫。神功皇后の審神者。中臣氏の祖。
仲哀天皇に仕え、天皇が崩じると、神功皇后は烏賊津使主、大三輪大友主君、物部膽咋連、大伴武以連の四人の大夫に詔して喪を秘して百寮を率いさせ、 天皇の屍をおさめ、武内宿禰に奉侍させて海路より穴門に遷らせた。
烏賊津使主は、後に皇后の勅を受けて百済に使いし、百済の女を娶り一男を生んだ。
允恭天皇の時、烏賊津使主は天皇の命令を受けて衣通姫を迎える使者になり、 熱心に頼んで姫を天皇の后とするのに成功した。
神功皇后が新羅を征した時、軍に従ひ勲功ありて、 凱還の後、対馬県主となり豆酘に館をかまえ、韓邦の入貢を掌り 祝官をして祭祀の礼を教え太古の亀卜の術を伝えたという。

伊香津臣命は、中臣連の祖で、伊香郡の有力豪族・伊香連の祖でもあります。
その子は、前者は『姓氏録』左京神別上にある中臣氏族伊香連の祖、臣知人命(おみしるひとのみこと)、後者は『尊卑分脈』藤原系図にある中臣連の祖、梨迹臣命(なしとみのみこと)であり、伊香氏は中臣氏と兄弟氏族にあたるという伝承を持っていたようです。

また、伊香氏については、物部氏の祖の伊香色雄命に名称が類似する点や、伊香郡内に物部の地名が残る点などから、物部氏との近縁性を指摘する説があります。
吉田東伍氏は、伊香の地名を河内国茨田郡伊香郷に由来する、物部氏の勢力扶植の結果と見ました。
太田亮氏も本来は物部氏の同族だったものが、中臣氏へ変化したものとしています。
現在でも、大橋信弥氏が、「もともと物部連氏の配下として、物部氏と結託関係を結んでいた伊香連氏は、物部氏本宗の没落後、中臣氏に近づいたもの」としている。

『延喜式』神名帳の近江国伊香郡に「伊香具神社」がある。余呉の湖の近くで、その祭神が伊香津臣命。そして余呉の湖の周囲に式内社「乎彌(おみ)神社があり、その祭神が巨知人命である。更に同じく式内社の「乃彌(のみ)神社があり、その祭神が梨津臣命。
この三柱の神は、有名な余呉の湖の羽衣伝説と結びついている。
『近江国風土記』逸文によると:
古老(ふるおきな)の傅へて曰へらく、近江の國伊香(いかご)の郡。與胡(よご)の郷。伊香の小江。郷の南にあり。天の八女、倶(とも)に白鳥と為りて、天より降りて、江の南の津に浴(かはあ)みき。時に、伊香刀美(いかとみ)、西の山にありて遙かに白鳥を見るに、其の形奇異(あや)し。因りて若し是れ神人かと疑ひて、往きて見るに、實に是れ神人なりき。ここに、伊香刀美、即(やが)て感愛(めづるこころ)を生(おこ)して得還り去らず。竊(ひそ)かに白き犬を遣りて、天羽衣を盗み取らしむるに、弟(いろと)の衣を得て隱しき。天女、乃(すなは)ち知(さと)りて、其の兄(いろね)七人(ななたり)は天井に飛び昇るに、其の弟一人は得飛び去らず。天路(あまぢ)永く塞して、即ち地民(くにつひと)と為りき。天女の浴みし浦を、今、神の浦と謂ふ、是なり。伊香刀美、天女の弟女と共に室家(をとひめ)と為りて此處に居(す)み、遂に男女を生みき。男二たり女二たりなり。兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志登美(なしとみ)、女は伊是理比咩(いぜりひめ)、次の名は奈是理比賣(なぜりひめ)、此は伊香連等が先祖(とほつおや)、是なり。後に母(いろは)、即ち天羽衣を捜し取り、着て天に昇りき。伊香刀美、獨り空しき床を守りて、唫詠(ながめ)すること断(や)まざりき。

わかりやすく書くと:
 余呉の郷の湖に、たくさんの天女が白鳥の姿となって天より降り、湖の南の岸辺で水遊びをした。
それを見た伊香刀美は天女に恋心を抱き、白い犬に羽衣を一つ、盗み取らせた。
 天女は異変に気づいて天に飛び去ったが、最後の若い天女の一人は、羽衣がないため飛び立てない。
地上の人間となった天女は、伊香刀美の妻となり、4人の子供を産んだ。
兄の名は意美志留(おみしる)、弟の名は那志刀美(なしとみ)、姉娘は伊是理比咩(いざりひめ)、妹娘は奈是理比咩(なぜりひめ)。
これが伊香連の(伊香郡を開拓した豪族)の先祖である。
のちに天女である母は、羽衣を見つけて身にまとい、天に昇った。
妻を失った伊香刀美は、寂しくため息をつき続けたという。

そして、伊香刀美は伊香津臣命と、意美志留は巨知人命と、那志刀美は梨津臣命と同人とされている。


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写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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