世界文化遺産/天草・崎津集落
20180728
訪問日:2018年7月18日
前記事「天草窯元めぐり」のあと、崎津集落に向かいました。
今年の6月30日に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の天草での構成資産です。

娘が気を利かせて、下図の一番上☆印の二江漁港(イルカウォッチングの基地)に出て、クルッと反時計回りに海沿いに車を走らせ、★印の崎津までドライブしてくれました。

崎津に到着

【崎津教会】

崎津では現在の旧修道院の場所に、最初の教会が建てられました。その後、昭和9年に現在の崎津教会が建てられますが、建設地はハルブ神父の強い希望で、キリシタン弾圧の象徴である絵踏みが行われた庄屋役宅跡が選ばれ、絵踏みが行われた場所に祭壇が置かれました。教会内は当初から畳が敷かれており、全国的にも珍しいもので、日本と西洋の文化の交流を象徴しています。教会の設計は、多くの教会建築に携わった上五島出身の大工・鉄川与助です。
正面の感じは、ヨーロッパの教会の前に立ったときの、あの圧迫感は無いですね。



中は、とても清潔で美しいという印象でした。
撮影禁止だったので、資料の写真を載せておきます。


畳が敷いてあるのが、新鮮でした。
教会の周りをぐるっと一回りしました。



和風の感じのところもあります。

ステンドグラスは美しい。

祭壇の部分は六角形になっている。

とても良い教会でした。
クリスチャンではないので、どうしても観光気分の印象で申し訳ないです。

教会の前の通りが海に出たところからの、港の眺め。

【崎津資料館 みなと屋】

昭和初期、崎津は海産物や隣町の木材や木炭などの交易によって栄え、街なかには木賃宿や旅館が建ちならび、日中から三味線の音が鳴り響くなどとても繁栄していた。
崎津資料館・みなと屋は、昭和11年に建てられた旅館「みなと屋」を、資料館として改修したもの。
崎津の歴史や独特のキリスト教信仰について紹介している。
昭和初期の風景を再現したジオラマ。

アワビ貝を使った信心具などが展示してある。
撮影禁止なので資料から。

二階は、旅館当時の面影が残る。
窓から教会が見える。

欄間が、洒落ている。

付け書院に面白いものが。

コアラに似ている(笑)

「みなと屋」を出て、崎津諏訪神社に行く。
【崎津諏訪神社】

それまで潜伏していたキリシタンたちも、ついに各地で発覚します。崎津では1805年のクリスマスに、牛肉や魚肉を祭壇に供えていることがきっかけになった。代官所の役人は、崎津諏訪神社で異仏の取り調べを行い、境内に設置した箱に自らの信心具を投げ捨てるように指示し、捨てたキリシタンたちは心得違いということで無罪放免となった。その際、取り調べを受けた信者は、どこに参詣するときも自分たちは「あんめんりゆす=アーメンデウス」と唱えていたと記録されている。
崎津では住民の約70%、1709人がキリシタンとして摘発された事件を「天草崩れ」と呼ぶ。
古文書「宗門心得違之者糺方日記」

『暫定天草切支丹史』/下田曲水より

二の鳥居

石段を上がりきった両側に、大正14年(1925)奉納の「天草型・禿型」狛犬が居た。
この狛犬は、福井県に多い「越前禿型」のようにたてがみがオカッパなのが珍しい。





諏訪神社境内から見下ろした、教会の付近。

「海上マリア像」が見えるところまで、ぶらぶら歩いていきました。
【トウヤ】
家屋と家屋の間にある幅約90cmの小路。崎津集落の西側に位置する下町・中町・船津地区は、この小路が数軒ごとに通っており、漁村の生活に密着した交流の場になっている。


その辺の海辺から見た、羊角湾。

【西宮宮(にしのみやぐう)】
祭神は蛭子神(ひるこのかみ)で、村中安全、大漁満願、商売繁盛ょ祈願して祀り、漁業を中心とするさ樹角生業と密接に関わっています。古文書などから18世紀には造立が確認されている。


【海上マリア像】
天草夕日八景の一つだそうです。
今回は、夕日が沈むまでここに居られず、残念。


テレビ番組で、崎津の漁師さんがマリア像の前を通る時に十字を切っているのを見たことがあります。
肉眼では、遠いので存在がわかる、という程度です。

カメラのズーム機能で捉えたもの。


駐車場に戻るときに、急な斜面にお墓があり、今は十字架が建てられているのを見ました。


湾の反対側に行き、崎津教会を見ることにしました。

【湾反対側からの崎津集落】


羊角湾の入り口を見ると、左側に灯台がある。
そこまで行って見ました。

灯台の敷地には入れませんでした。
その近くに、羊角湾ビューポイントがあった。

【羊角湾】

「海上のマリア」は肉眼では見ることが難しい。

私のカメラの、60倍ズームをもってしても、これが精いっぱい。

これで、世界遺産・崎津集落の見学を終え、本渡地区まで戻りました。
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前記事「天草窯元めぐり」のあと、崎津集落に向かいました。
今年の6月30日に登録が決まった「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」の天草での構成資産です。

娘が気を利かせて、下図の一番上☆印の二江漁港(イルカウォッチングの基地)に出て、クルッと反時計回りに海沿いに車を走らせ、★印の崎津までドライブしてくれました。

崎津に到着

【崎津教会】

崎津では現在の旧修道院の場所に、最初の教会が建てられました。その後、昭和9年に現在の崎津教会が建てられますが、建設地はハルブ神父の強い希望で、キリシタン弾圧の象徴である絵踏みが行われた庄屋役宅跡が選ばれ、絵踏みが行われた場所に祭壇が置かれました。教会内は当初から畳が敷かれており、全国的にも珍しいもので、日本と西洋の文化の交流を象徴しています。教会の設計は、多くの教会建築に携わった上五島出身の大工・鉄川与助です。
正面の感じは、ヨーロッパの教会の前に立ったときの、あの圧迫感は無いですね。



中は、とても清潔で美しいという印象でした。
撮影禁止だったので、資料の写真を載せておきます。


畳が敷いてあるのが、新鮮でした。
教会の周りをぐるっと一回りしました。



和風の感じのところもあります。

ステンドグラスは美しい。

祭壇の部分は六角形になっている。

とても良い教会でした。
クリスチャンではないので、どうしても観光気分の印象で申し訳ないです。

教会の前の通りが海に出たところからの、港の眺め。

【崎津資料館 みなと屋】

昭和初期、崎津は海産物や隣町の木材や木炭などの交易によって栄え、街なかには木賃宿や旅館が建ちならび、日中から三味線の音が鳴り響くなどとても繁栄していた。
崎津資料館・みなと屋は、昭和11年に建てられた旅館「みなと屋」を、資料館として改修したもの。
崎津の歴史や独特のキリスト教信仰について紹介している。
昭和初期の風景を再現したジオラマ。

アワビ貝を使った信心具などが展示してある。
撮影禁止なので資料から。

二階は、旅館当時の面影が残る。
窓から教会が見える。

欄間が、洒落ている。

付け書院に面白いものが。

コアラに似ている(笑)

「みなと屋」を出て、崎津諏訪神社に行く。
【崎津諏訪神社】

それまで潜伏していたキリシタンたちも、ついに各地で発覚します。崎津では1805年のクリスマスに、牛肉や魚肉を祭壇に供えていることがきっかけになった。代官所の役人は、崎津諏訪神社で異仏の取り調べを行い、境内に設置した箱に自らの信心具を投げ捨てるように指示し、捨てたキリシタンたちは心得違いということで無罪放免となった。その際、取り調べを受けた信者は、どこに参詣するときも自分たちは「あんめんりゆす=アーメンデウス」と唱えていたと記録されている。
崎津では住民の約70%、1709人がキリシタンとして摘発された事件を「天草崩れ」と呼ぶ。
古文書「宗門心得違之者糺方日記」

『暫定天草切支丹史』/下田曲水より

二の鳥居

石段を上がりきった両側に、大正14年(1925)奉納の「天草型・禿型」狛犬が居た。
この狛犬は、福井県に多い「越前禿型」のようにたてがみがオカッパなのが珍しい。





諏訪神社境内から見下ろした、教会の付近。

「海上マリア像」が見えるところまで、ぶらぶら歩いていきました。
【トウヤ】
家屋と家屋の間にある幅約90cmの小路。崎津集落の西側に位置する下町・中町・船津地区は、この小路が数軒ごとに通っており、漁村の生活に密着した交流の場になっている。


その辺の海辺から見た、羊角湾。

【西宮宮(にしのみやぐう)】
祭神は蛭子神(ひるこのかみ)で、村中安全、大漁満願、商売繁盛ょ祈願して祀り、漁業を中心とするさ樹角生業と密接に関わっています。古文書などから18世紀には造立が確認されている。


【海上マリア像】
天草夕日八景の一つだそうです。
今回は、夕日が沈むまでここに居られず、残念。


テレビ番組で、崎津の漁師さんがマリア像の前を通る時に十字を切っているのを見たことがあります。
肉眼では、遠いので存在がわかる、という程度です。

カメラのズーム機能で捉えたもの。


駐車場に戻るときに、急な斜面にお墓があり、今は十字架が建てられているのを見ました。


湾の反対側に行き、崎津教会を見ることにしました。

【湾反対側からの崎津集落】


羊角湾の入り口を見ると、左側に灯台がある。
そこまで行って見ました。

灯台の敷地には入れませんでした。
その近くに、羊角湾ビューポイントがあった。

【羊角湾】

「海上のマリア」は肉眼では見ることが難しい。

私のカメラの、60倍ズームをもってしても、これが精いっぱい。

これで、世界遺産・崎津集落の見学を終え、本渡地区まで戻りました。
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天草窯元めぐり
20180725
九州旅行の二日目、18日に窯元のお宅を三軒訪問しました。
目的は、娘夫婦がお世話になっているところにご挨拶にあがったのですが、カミさんも私も焼き物が大好きなので、各々のところで腰を落ち着けてしまい、すっかりお世話になってしまいました。
こういう「天草窯元めぐり」という立派なパンフレットが方々に置かれていました。



今回初めて知ったのですが、天草で採れる陶石が日本全国の陶磁器生産を支えていると言っても過言ではありません。
なにしろ、磁器のベースとなる純白の白い肌をもたらす原料は、日本で生産されるものの80%が天草で生産されているというのですから、驚きです。
最上級のセトモノツチ「天草陶石」について:
天草西海岸に産出する世界的な陶磁器原料の天草陶石。掘り出された石を砕き、粉状になったものを、唐臼で時間をかけ粘土状に仕上げます。形を作り、様々な行程を経て1300度以上で焼き上げ磁器となります。製品は陶器に比べ硬く、仕上がりの色は白色で濁りがなく美しいのが特徴です。こうした高品位の陶石の発見は、17世紀中頃と言われています。また、天草陶石は有田焼や清水焼の主原料として使用され、海外にも輸出されています。年間の出荷量は約3万トンで、全国の陶石生産量の8割を占めています。
天草の陶石が全国に広まったのに平賀源内が一役買っていた:
平賀源内は江戸時代の著名な文化人です。本草学や鉱物学、水準器・温度計・エレキテルなどを制作し理学者としての側面も持ち合わせています。また、戯作者、浄瑠璃作者としても活躍しました。鉱物学者として国内を探索していた1771(明和8)年に、源内が西国郡代に提出した建白書が『陶器工夫書』です。この中で源内は天草陶石を『天下に二つと無い最高級品』と書き、この土を使い最高級の焼き物を焼くことが出来れば、「唐人・阿蘭陀人」などがこれを買い求めて、それが「永代の御国益」になると断言しています。
陶石の鉱山

ぜひ採掘場を見たいと娘夫婦に云ったら、「あそこなら見せてもらえる」と予定に入れてくれたのですが、なにしろお邪魔した窯元さんがどこも居心地がよく、長尻をしてしまい、そうはいっても世界遺産になったばかりの「崎津集落」はどうしてもこの日に見たかったので、割愛したのは残念でした。
今回お邪魔したのは「丸尾焼窯元」、「山の口焼窯元」、「市山くじらや窯元」です。
いずれも、普段娘夫婦がお世話になっているところです。

【丸尾焼窯元】
天草市北原町3-10

ここで娘の旦那さんが働いているので、作業場や窯なども見せていただきました。
窯元の五代目ご主人金澤一弘氏、奥様、三人の息子さん、ここで働いている皆さん、全員出てきていただいて、とても温かい雰囲気で、こちらとしてはご挨拶できてとても安心出来ました。
皆さんが夫々製作をされているので、ギャラリーには色々な味のものが並んでいて、つい見惚れてしまうものも多く、見ていて飽きるということがありません。


実は、今年の正月に娘が今年の干支にちなんで送ってくれたのが、ここの奥様の作品です。
カミさんも私も気に入ってしまい、身近なダイニングに置いています。


それで奥様の作品を楽しみにしていました。
どれを分けていただいたのか、後で載せます。
【山の口焼窯元】
天草市本渡町本渡1755-3

ギャラリー(パンフレットから)

ここはレスランもやっていて、ここで昼食をいただいたのですが、その美味しいこと!!素晴らしかったです。
インテリアも、柱にかかっている花器とか、洗練されていてとてもいい雰囲気でした。
ファンが多いと思います。
作品例(パンフレットから)

【市山くじらや】
天草市五和町手野1丁目2909

ギャラリー(パンフレットから)

女性作家で、娘がお友達付き合いをさせていただいている方で、お話からしっかり自分を確立させている方のように見受けられました。
女性ならではの作品が多くて、カミさんも同行していた下の娘も楽しんでいました。
作品例(パンフレットから)

☆今回購入したもの
丸尾窯の奥様の作品

さっそく、コーヒーカップに使っています。

娘の旦那さんの作品


カミさんが、小物を置いて楽しんでいる。

これは食器に使うより花器にしようと、カミさんが思案中。

三つも窯元を訪問して、充分目の保養をした後、世界文化遺産になったばかりの、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のうち、天草崎津集落に向かいました。
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目的は、娘夫婦がお世話になっているところにご挨拶にあがったのですが、カミさんも私も焼き物が大好きなので、各々のところで腰を落ち着けてしまい、すっかりお世話になってしまいました。
こういう「天草窯元めぐり」という立派なパンフレットが方々に置かれていました。



今回初めて知ったのですが、天草で採れる陶石が日本全国の陶磁器生産を支えていると言っても過言ではありません。
なにしろ、磁器のベースとなる純白の白い肌をもたらす原料は、日本で生産されるものの80%が天草で生産されているというのですから、驚きです。
最上級のセトモノツチ「天草陶石」について:
天草西海岸に産出する世界的な陶磁器原料の天草陶石。掘り出された石を砕き、粉状になったものを、唐臼で時間をかけ粘土状に仕上げます。形を作り、様々な行程を経て1300度以上で焼き上げ磁器となります。製品は陶器に比べ硬く、仕上がりの色は白色で濁りがなく美しいのが特徴です。こうした高品位の陶石の発見は、17世紀中頃と言われています。また、天草陶石は有田焼や清水焼の主原料として使用され、海外にも輸出されています。年間の出荷量は約3万トンで、全国の陶石生産量の8割を占めています。
天草の陶石が全国に広まったのに平賀源内が一役買っていた:
平賀源内は江戸時代の著名な文化人です。本草学や鉱物学、水準器・温度計・エレキテルなどを制作し理学者としての側面も持ち合わせています。また、戯作者、浄瑠璃作者としても活躍しました。鉱物学者として国内を探索していた1771(明和8)年に、源内が西国郡代に提出した建白書が『陶器工夫書』です。この中で源内は天草陶石を『天下に二つと無い最高級品』と書き、この土を使い最高級の焼き物を焼くことが出来れば、「唐人・阿蘭陀人」などがこれを買い求めて、それが「永代の御国益」になると断言しています。
陶石の鉱山

ぜひ採掘場を見たいと娘夫婦に云ったら、「あそこなら見せてもらえる」と予定に入れてくれたのですが、なにしろお邪魔した窯元さんがどこも居心地がよく、長尻をしてしまい、そうはいっても世界遺産になったばかりの「崎津集落」はどうしてもこの日に見たかったので、割愛したのは残念でした。
今回お邪魔したのは「丸尾焼窯元」、「山の口焼窯元」、「市山くじらや窯元」です。
いずれも、普段娘夫婦がお世話になっているところです。

【丸尾焼窯元】
天草市北原町3-10

ここで娘の旦那さんが働いているので、作業場や窯なども見せていただきました。
窯元の五代目ご主人金澤一弘氏、奥様、三人の息子さん、ここで働いている皆さん、全員出てきていただいて、とても温かい雰囲気で、こちらとしてはご挨拶できてとても安心出来ました。
皆さんが夫々製作をされているので、ギャラリーには色々な味のものが並んでいて、つい見惚れてしまうものも多く、見ていて飽きるということがありません。


実は、今年の正月に娘が今年の干支にちなんで送ってくれたのが、ここの奥様の作品です。
カミさんも私も気に入ってしまい、身近なダイニングに置いています。


それで奥様の作品を楽しみにしていました。
どれを分けていただいたのか、後で載せます。
【山の口焼窯元】
天草市本渡町本渡1755-3

ギャラリー(パンフレットから)

ここはレスランもやっていて、ここで昼食をいただいたのですが、その美味しいこと!!素晴らしかったです。
インテリアも、柱にかかっている花器とか、洗練されていてとてもいい雰囲気でした。
ファンが多いと思います。
作品例(パンフレットから)

【市山くじらや】
天草市五和町手野1丁目2909

ギャラリー(パンフレットから)

女性作家で、娘がお友達付き合いをさせていただいている方で、お話からしっかり自分を確立させている方のように見受けられました。
女性ならではの作品が多くて、カミさんも同行していた下の娘も楽しんでいました。
作品例(パンフレットから)

☆今回購入したもの
丸尾窯の奥様の作品

さっそく、コーヒーカップに使っています。

娘の旦那さんの作品


カミさんが、小物を置いて楽しんでいる。

これは食器に使うより花器にしようと、カミさんが思案中。

三つも窯元を訪問して、充分目の保養をした後、世界文化遺産になったばかりの、「長崎と天草地方の潜伏キリシタン関連遺産」のうち、天草崎津集落に向かいました。
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長部田海床路・御輿来海岸
20180722
熊本城の復興の様子を加藤神社などで確認してから、娘の車で天草に向かった。
ほぼ2時間かかるということだった。
目的地は天草市役所の近く。

車の中で、有明海のことをテレビでやっていたもので印象に残っていることの話をしていて、私が海の中に電柱が並んでいる光景の話をしたら、なんと娘がこの道沿いだと言うではないか。
まっすぐ天草に向かう予定だったので、事前にはまったく調べてなかった。
喜んで寄ってもらった。
下図で赤丸のところだ。

【長部田海床路(ながべたかいしょうろ)】
所在地:熊本県宇土市住吉町3125−1
大分むぎ焼酎二階堂のテレビCM(2008年に放送)のラストシーンに登場し、その存在を一躍有名にした。
干満の差が激しい海で海苔養殖・採貝を営む漁業者のために昭和54年に建設されたもので、
有明海は干満の差が最大4mもあり、干潮時はこの道に軽トラックを走らせ、海苔や貝を収穫するのです。
私たちがここに着いたのは、午後3時過ぎくらいだったが、潮がかなり引いていて道がはっきり出ている。


カミさんと、天草に住んでいる上の娘と、同行してきた金沢文庫に住んでいる下の娘。

大分むぎ焼酎二階堂のテレビCM

本当は、このように島原半島が綺麗に見えるようだが、この日は炎天下だと思っていたら意外と煙っていて島原半島が全然見えていなかった。

満潮だと、こうなる。

ついでに、娘がこういうところもあると、御輿来(おこしき)海岸にも寄ってくれた。
ただし、娘も初めてだったので、場所がズレていた(笑)
【御輿来(おこしき)海岸】
所在地:熊本県宇土市下網田町
駐車場に車を停めたが、よくわからない。
看板はある。


御輿来海岸は,宇土半島北岸に位置し,名の由来はその昔,景行天皇が九州遠征の際,美しい海岸線が天皇の目に留まり,しばし御輿を駐め見入られたという伝説からその名がついたとされ「日本の渚百選」・「日本の夕日百選」に選定される景勝地。
晴天時には有明海を挟んだ対岸の長崎県雲仙普賢岳が望めます。また有明海は干満の差が日本一で,潮が引いた当海岸の砂地には風と波による美しい曲線美の砂紋(砂干潟)が現れます。女性的で神秘的な優しい表情を魅せる海岸です。
どうも左手には、まったく無さそうだ。


右手の突堤の向こうに、それっぽいところがある。

突堤まで少し歩いていったが、手前側に川が流れ込んでいて、突堤に行けない。

突堤の向こうにそれらしいものがあった。



家に帰ってから、調べて見たら展望台もあるらしい。
参考にそこからの眺めの写真。

これが、景行天皇が魅入られたという光景だろう。

あとは、天草の目的地に向かって、一目散に車を走らせた。
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ほぼ2時間かかるということだった。
目的地は天草市役所の近く。

車の中で、有明海のことをテレビでやっていたもので印象に残っていることの話をしていて、私が海の中に電柱が並んでいる光景の話をしたら、なんと娘がこの道沿いだと言うではないか。
まっすぐ天草に向かう予定だったので、事前にはまったく調べてなかった。
喜んで寄ってもらった。
下図で赤丸のところだ。

【長部田海床路(ながべたかいしょうろ)】
所在地:熊本県宇土市住吉町3125−1
大分むぎ焼酎二階堂のテレビCM(2008年に放送)のラストシーンに登場し、その存在を一躍有名にした。
干満の差が激しい海で海苔養殖・採貝を営む漁業者のために昭和54年に建設されたもので、
有明海は干満の差が最大4mもあり、干潮時はこの道に軽トラックを走らせ、海苔や貝を収穫するのです。
私たちがここに着いたのは、午後3時過ぎくらいだったが、潮がかなり引いていて道がはっきり出ている。


カミさんと、天草に住んでいる上の娘と、同行してきた金沢文庫に住んでいる下の娘。

大分むぎ焼酎二階堂のテレビCM

本当は、このように島原半島が綺麗に見えるようだが、この日は炎天下だと思っていたら意外と煙っていて島原半島が全然見えていなかった。

満潮だと、こうなる。

ついでに、娘がこういうところもあると、御輿来(おこしき)海岸にも寄ってくれた。
ただし、娘も初めてだったので、場所がズレていた(笑)
【御輿来(おこしき)海岸】
所在地:熊本県宇土市下網田町
駐車場に車を停めたが、よくわからない。
看板はある。


御輿来海岸は,宇土半島北岸に位置し,名の由来はその昔,景行天皇が九州遠征の際,美しい海岸線が天皇の目に留まり,しばし御輿を駐め見入られたという伝説からその名がついたとされ「日本の渚百選」・「日本の夕日百選」に選定される景勝地。
晴天時には有明海を挟んだ対岸の長崎県雲仙普賢岳が望めます。また有明海は干満の差が日本一で,潮が引いた当海岸の砂地には風と波による美しい曲線美の砂紋(砂干潟)が現れます。女性的で神秘的な優しい表情を魅せる海岸です。
どうも左手には、まったく無さそうだ。


右手の突堤の向こうに、それっぽいところがある。

突堤まで少し歩いていったが、手前側に川が流れ込んでいて、突堤に行けない。

突堤の向こうにそれらしいものがあった。



家に帰ってから、調べて見たら展望台もあるらしい。
参考にそこからの眺めの写真。

これが、景行天皇が魅入られたという光景だろう。

あとは、天草の目的地に向かって、一目散に車を走らせた。
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松江城
20151223
11月12日から14日の出雲地方の旅の最終日、玉作湯神社、八重垣神社、揖夜神社、黄泉比良坂と回って、最後に訪ねたのは、今年国宝に指定されたのでここに行かなくてはどうすると考えた松江城でした。
とはいえ、15時に出雲空港を飛び立たねばならないので、あまり時間がありません。
松江市内に入ってから松江城にたどりつくのに、思いのほか時間がかかってしまい、城の近くで急いで昼食を食べて、走るようにして天守閣の前まで行き、中には入らず外観だけ見て戻りました。
松江城の全体図。

駐車場から大手門から入ろうと内堀のところに来たら、堀遊覧の船着き場があった。
今度来たら、あれに乗りたいなと眺めた。

石垣越しに、はるかに天守が見えた。

松江城公園入り口のところに、堀尾吉晴像が立っていた。


堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた。
織田信長時代には、稲葉山城攻め。
豊臣秀吉時代には、天正10年(1582年)の備中高松城攻め、山崎の戦い。
秀吉死後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
ありとあらゆる合戦を経験したキャリアで、その経験を活かして設計したこの松江城は難攻不落の城として有名。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城跡を近世城郭の候補とした。
1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
1611年(慶長16年) 冬、松江城落成。(堀尾吉晴はこの年6月に完成目前で急死している。)
松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。
この日は土曜日なので、「城攻め体験」のイベントの参加者を募っていた。

私も時間があれば参加したのに、残念(涙)
まず最初は「馬溜」である。
ここは大手門の前にある「桝形構造」で、大手門を守る構造になっていると同時に、いざという時にはここに馬を集めて城外に討って出る場所である。
ここに入っていくと、正面に横に長い巨大な石垣と、その上に設けられた櫓と塀に圧倒される。
高さ13mである。


大手門は残っていなくて、両側の石垣からその巨大さがわかる。
大手門の幅は15mで、二階建て、屋根に鯱が載っていたという。
大手門を入ると、左に折れて石段を上がっていく。
左手には、太鼓櫓があって圧倒してくる。

「石落とし」がよくわかる。

長い石段には途中に踊り場が設けられ、「鉄砲櫓」があり、石段も位置をずらしてあり、攻め上がる勢いを削ぐ工夫がしてある。
石段を上がりきると、左手は二の丸。
右に行くと、三の門から天守閣に通じていくのだが、ちょっと真っ直ぐ進んで「坤櫓跡」まで行って見た。
野面積の石垣が面白かった。



三の門、二の門、一の門と天守閣に近づいていくのだが、「桝形構造」になっていて、真っ直ぐには行けない。
三の門、二の門は現在は無いので、石垣などで想像するしかない。
一の門の前も、「桝形構造」で左右を櫓で挟まれている。

一の門を入って、右手に少し坂を上がると、見事な天守閣が姿を見せる。

天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付ける。外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけている。
意匠は下見板張りで桃山文化様式である。1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。
姫路城、松本城に次いで、三番目の高さである。
黒と白のコントラストが美しい。
黒下見板張りと白塗り漆喰壁である。
大きな千鳥破風の飾り屋根から、別名「千鳥城」と呼ばれる。

最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。

鯱は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直されたもので、旧鯱は別途保管展示されている。

窓は突上窓と華頭窓あり。

大きな「附け櫓」が出入り口で、外には「石落とし」も備え、内部は「桝形構造」になっていて、周囲から「狭間」で狙われる構造になっている。

横に回ると、「附け櫓」がけっこう大きいのがよくわかる。

正面は白い壁が目立つが、側面はほとんど黒で重々しい。
側面の破風は実に巨大だ。


紅葉とのポイントを探して撮って、これで松江城の撮影は終了。

松江城から一路、高速を使って出雲空港に。
空港の近くでレンタカーを返して、空港まで送ってもらう。


着いた時には、気が急いていて見つけなかった、床のハートマークを探す。
これを探すと幸運だとか(笑)

待合室の壁にも、大きな注連縄が飾ってあった。

これで、三日間の出雲地方の旅を終えたが、「神話のふるさと」を訪ねるというテーマで廻ったので、結局神社は10社参拝できた。
行く前に、行きたい神社をリストアップしたら16社挙がっていたので、まだまだ行きたい神社が多い。
また、ぜひとも来ないといけない。
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とはいえ、15時に出雲空港を飛び立たねばならないので、あまり時間がありません。
松江市内に入ってから松江城にたどりつくのに、思いのほか時間がかかってしまい、城の近くで急いで昼食を食べて、走るようにして天守閣の前まで行き、中には入らず外観だけ見て戻りました。
松江城の全体図。

駐車場から大手門から入ろうと内堀のところに来たら、堀遊覧の船着き場があった。
今度来たら、あれに乗りたいなと眺めた。

石垣越しに、はるかに天守が見えた。

松江城公園入り口のところに、堀尾吉晴像が立っていた。


堀尾 吉晴(ほりお よしはる)は、織田信長、豊臣秀吉、徳川家康の三人に仕えた。
織田信長時代には、稲葉山城攻め。
豊臣秀吉時代には、天正10年(1582年)の備中高松城攻め、山崎の戦い。
秀吉死後は徳川家康に接近し関ヶ原の戦いでは東軍に与した。
ありとあらゆる合戦を経験したキャリアで、その経験を活かして設計したこの松江城は難攻不落の城として有名。
1600年(慶長5年) 関ヶ原の戦いで戦功のあった堀尾忠氏(堀尾吉晴の子)が、24万石を得て月山富田城に入城し松江藩が成立。月山富田城は中世山城であり近世城下町形成には不利であったので、末次城跡を近世城郭の候補とした。
1607年(慶長12年) 末次城のあった亀田山に築城を開始。
1611年(慶長16年) 冬、松江城落成。(堀尾吉晴はこの年6月に完成目前で急死している。)
松江市街の北部に位置し、南に流れる京橋川を外堀とする輪郭連郭複合式平山城である。宍道湖北側湖畔の亀田山に築かれ、日本三大湖城の一つでもある。なお、城の周りを囲む堀川は宍道湖とつながっており薄い塩水(汽水域)である。
この日は土曜日なので、「城攻め体験」のイベントの参加者を募っていた。

私も時間があれば参加したのに、残念(涙)
まず最初は「馬溜」である。
ここは大手門の前にある「桝形構造」で、大手門を守る構造になっていると同時に、いざという時にはここに馬を集めて城外に討って出る場所である。
ここに入っていくと、正面に横に長い巨大な石垣と、その上に設けられた櫓と塀に圧倒される。
高さ13mである。


大手門は残っていなくて、両側の石垣からその巨大さがわかる。
大手門の幅は15mで、二階建て、屋根に鯱が載っていたという。
大手門を入ると、左に折れて石段を上がっていく。
左手には、太鼓櫓があって圧倒してくる。

「石落とし」がよくわかる。

長い石段には途中に踊り場が設けられ、「鉄砲櫓」があり、石段も位置をずらしてあり、攻め上がる勢いを削ぐ工夫がしてある。
石段を上がりきると、左手は二の丸。
右に行くと、三の門から天守閣に通じていくのだが、ちょっと真っ直ぐ進んで「坤櫓跡」まで行って見た。
野面積の石垣が面白かった。



三の門、二の門、一の門と天守閣に近づいていくのだが、「桝形構造」になっていて、真っ直ぐには行けない。
三の門、二の門は現在は無いので、石垣などで想像するしかない。
一の門の前も、「桝形構造」で左右を櫓で挟まれている。

一の門を入って、右手に少し坂を上がると、見事な天守閣が姿を見せる。

天守は外観4重内部5階地下の穴倉1階、天守の南に地下1階を持つ平屋の付櫓を付ける。外観は重箱造の二重櫓の上に3階建ての櫓を載せたようなもので3重目の南北面に入母屋屋根の出窓をつけている。
意匠は下見板張りで桃山文化様式である。1・2階平面は東西12間に南北10間あり、高さは、本丸地上より約30m(天守台上よりは22.4m)ある。
姫路城、松本城に次いで、三番目の高さである。
黒と白のコントラストが美しい。
黒下見板張りと白塗り漆喰壁である。
大きな千鳥破風の飾り屋根から、別名「千鳥城」と呼ばれる。

最上階は内部に取り込まれた廻縁高欄があり、雨戸を取り付けている。

鯱は、木製の銅板張で現存天守の中では最大の高さ約2m。現在の鯱は昭和の修理の際に作り直されたもので、旧鯱は別途保管展示されている。

窓は突上窓と華頭窓あり。

大きな「附け櫓」が出入り口で、外には「石落とし」も備え、内部は「桝形構造」になっていて、周囲から「狭間」で狙われる構造になっている。

横に回ると、「附け櫓」がけっこう大きいのがよくわかる。

正面は白い壁が目立つが、側面はほとんど黒で重々しい。
側面の破風は実に巨大だ。


紅葉とのポイントを探して撮って、これで松江城の撮影は終了。

松江城から一路、高速を使って出雲空港に。
空港の近くでレンタカーを返して、空港まで送ってもらう。


着いた時には、気が急いていて見つけなかった、床のハートマークを探す。
これを探すと幸運だとか(笑)

待合室の壁にも、大きな注連縄が飾ってあった。

これで、三日間の出雲地方の旅を終えたが、「神話のふるさと」を訪ねるというテーマで廻ったので、結局神社は10社参拝できた。
行く前に、行きたい神社をリストアップしたら16社挙がっていたので、まだまだ行きたい神社が多い。
また、ぜひとも来ないといけない。
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晩秋
20111122