田子山富士塚/埼玉県志木市
20170122
所在地:埼玉県志木市本町2-9 敷島神社境内
参拝日:2017年1月18日
この富士塚のことは、歴史クラブのM会長に教えていただき、資料もいただいていました。
登れるのは、大安と友引の日に限られているということなので、行く日を考えていて、
この日、天気も良くて富士山がよく見えるだろうという事で訪ねました。
敷島神社に到着。鳥居の向こうに富士塚がありました。

近づくと、その大きさに圧倒されました。

保存会の方が4、5名居られて、資料をいただき簡単な説明もしていただいた。
築造の由来:
幕末時代、引又宿に醤油醸造業を営み富士信仰に篤い、高須庄吉と言う人がいました。高須氏が夢のお告げに従って田子山塚に参詣したところ、「逆修」の板碑を発見しました。
この逆修板碑は、室町時代初めの暦応3年(1340)、廻国の僧(又は館村の僧)、 十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)が富士山入定に先立ち建立したものでした。
富士山を篤く信仰する高須氏はこれにいたく感激し、田子山塚の上にミニ富士山(富士塚) を築造する決心をし、同士を募り、築造期間:明治2年10月〜明治5年6月にて 農閑期を中心に作業が進められ完成しました。
この工事には多くの寄進や労力奉仕が寄せられ、数多くある石造物には寄進者合計2416名の名前 が刻まれています。
大きさ:
高さ: 約9m
麓(ふもと)の円周: 約125m
斜度39度の丸味のある方形をした築山
特長
1.この塚の規模はもちろん、石造物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並外れて優れており、 当時の引又宿の経済力と近在の人々の富士山信仰への思い入れをうかがい知ることができると共に、 貴重な文化財です。
2.石造物には、神道・仏教・修験道など、多くの系統のものが混在しており、日本人の伝統的宗教観が 良く現れています。
3. 「富士塚」としての6要件すべてを満足している富士塚は、極めて稀です。
1.「山頂に祠」があること。
2.「烏帽子岩」があること。
3.「小御嶽神社」があること。
4.富士山の溶岩「黒ぼく」があること。
5.「御胎内」(地下洞穴)があること。
6.「霊峰富士を遥拝」できること。
4.中世の富士信仰の遺物があります。
高須庄吉が発見した「逆修の板碑」は暦応三年(1340)のものであり、 中世の富士信仰遺物として極めて貴重なもので、浅間下社の御神体として祀られています。
浅間下社の外壁には、木花開耶姫・白糸の滝・食行身禄のレリーフが彫り込まれています。
「田子山富士塚」は平成18年3月に志木市として 初めて「埼玉県の有形民俗文化財」に指定されました。 国指定文化財となっている他の富士塚と比較しても遜色ない、すばらしい「お宝」です。
「志木市内の富士信仰」について:
1.かつて、志木市内には富士信仰に篤い人たちがたくさん居り、 「田子山富士」の「丸吉講」以外にも、上宗岡の「浅間神社」を中心に、 「丸藤講」がありました。
2.宗岡丸藤講では、明治13年に「羽根倉富士嶽」を築造しました。
3.宗岡丸藤講の第八代先達「日行星山」(本名:星野勘蔵)は、 篤い富士信仰に基づき「救世済民」を実践すると共に、富士山に70回余り登拝し、 明治25年には富士山麓(富士吉田市)に「吉田胎内」を開基しました。
4.この「吉田胎内」は、昭和4年に国の「天然記念物」に指定され、 平成25年に「富士山」が「世界文化遺産」に登録された時、 「吉田胎内樹型」として世界遺産の構成資産の一つになりました。
5.志木市の先人が開基した「吉田胎内樹型」が「世界遺産」に指定されたことで、 志木市民の誇りとなっている。
とにかく、この富士塚の全体図を見たときに、石碑の多さに圧倒される。

この富士塚の特徴として、登山道が富士吉田口と同じように北側に設けられている。
入り口の左右には親子唐獅子が獅子山の形で迎える。

【親子唐獅子】


石灯篭
全部で14基あり。

【琴比羅神社】

【浅間下社】


石祠の三面には、富士山に縁の深いものの彫刻があり。
木花開耶姫

食行身禄

もう一つの「白糸の滝」は撮るのに失敗。また訪れたときに撮ります。
石祠の中には、十瀧房承海の逆修板碑がご神体として納められている。

この日求めた「田子山富士のナゾ」という小冊子に、「田子山塚」が『武蔵野話』に書かれているとあったので、帰宅後調べてみました。
私が持っている『武蔵野話』は、江戸時代に発刊された原本でなく、大正12年に鳥居竜蔵博士が復刊したものを、再復刊されたものである。
『武蔵野話』に書かれている文章


板碑の図

引又村全体の図

「田子山塚」周辺

【金山大権現】

【「是より登山ミち」碑】

【親子猿】
富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、富士塚には猿の石像が多く見られます。

【雲切不動尊】

【天狗坐像】

一合目の合目石のところに、御座石浅間神社と鈴原社の石碑があり。
このことから、この登山道は富士吉田登山道に忠実に作られていることがわかる。

【御座石浅間神社】
四合五勺にあったが、スバルラインの開通で五合目までの道は寂れてしまい、今は存在しない。

【一ノ岳鈴原神社】
一合目にはこの鈴原社跡の建物があり、1840年代に建てられたものだそうで、16世紀には鈴原社という名前でこの地に社があったことがわかっています。
ここで奉られていたのが大日如来で、富士山の神様、浅間大菩薩の本地仏とされている。
ここで安置されていた大日如来像は現在富士吉田市の上吉田の御師のお宅に安置されているそうです。

【「是よりびわの滝道」碑】

【小室浅間神社】

奥宮が二合目にあるのだが、その下宮である「富士山下宮小室(おむろ)浅間神社」に参拝したことがある。
以下の4点によりとても素晴らしい神社であった。
・流鏑馬が神事となっている
・神の依り代の鏡の受け台がなんとも美しい富士山である。
・大塔宮護良親王の首塚がある。
・境内に富士溶岩流の原形がある。
その記事を読む
【経ケ岳】
富士山五合五勺、日蓮が1269年に富士登山を行ない、法華経を埋納した伝説の残ることから経ヶ岳(経ヶ嶽)と呼ばれる場所

玉垣には当時の花形歌舞伎役者の名がある。

碑文は、池上本門寺60代住職によるもの。

頂上を仰ぐ

【中宮】
富士吉田登山道の五合目直下には「中宮(ちゅうぐう)」呼ばれる場所があります。富士山の中腹に祀られた「中宮三社」からそう呼称されていました。また、ここには「中宮役場」があり、「山役銭(やまやくせん)」という122文の入山料を回収する場所でもありました。入山料は登山前の御師によるご祈祷代や、杖の代金、役行者堂での護摩代や、九合目にあった石垣の橋の修繕費などの費用に充てられていました。
富士守稲荷、大日社、浅間社をお祀りしていた「中宮三社」のお社がありました。
武田信玄は娘が病気をした際に、この中宮に願文を出したとされ、信玄も信仰していた神社でもありました。
不二森稲荷神社

中宮祠

【泉ケ滝】
富士山で水の得られる数少ない場所で、小御嶽神社参道途中にもあたり、参詣時に道者が水垢離(みずごり=水行)をした。

【小御嶽神社】

【亀磐蓬莱山八大龍王神】

【烏帽子岩】

頂上に到着
【陰陽石】

奥宮

富士山がどこに見えるか探しました。
奥宮が富士山に向いていました。当然か(笑)

非常に薄っすらだが、茶色の建物のところに見えているのを発見(嬉)



下に降りてから、保存会の副会長さんに綺麗に見えている時の写真を見せていただいた。


ここの富士塚からは、今でもちゃんと富士山が見えるのを知って嬉しかった。
こんどは富士塚の下から、斜面にある神社や石碑を確認していきます。

【日本建命】

【田子士峰之記】

【御中道大願成就碑】
右に「宝永山」碑があり。

【諸神祭祀碑】

【石神坐像】


【志木富士祠修築之碑】

【是より御胎内道】

御胎内道にも狛犬が侍っている。

松尾神社脇から富士塚を見上げる。

【松尾神社】
ご存知、お酒の神様。


【太子像】

【阿夫利神社】

【ラブラブツリー】
白い木が女性、黒い木が男性。仲睦まじい男女に見えることから、ラブラブツリーと呼ばれ、縁結びや安産・子宝の御利益があるそうです。

【御胎内】


【住吉社】

ラブラブツリーと登山道の間に色々な石仏があり。

【不動明王】
不動明王の眷属、矜迦羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子。


不動明王

【高尾山烏天狗】

【秋葉山烏天狗】

【黒(くろ)ボクの山】
黒ボクとは、本物の富士山から持ってきた溶岩のことで、北側の斜面に驚くほど大量に見ることができる。
これほど多くの黒ボクを、車も鉄道もない時代に富士山から運んできたことに、敬服の念を覚える。

これで富士塚全体を見終わったが、素晴らしい富士塚だったこと、保存会の皆さんが大事に守っていることに感謝しました。
それから、1月だったので注連縄や御幣が新しくて、とても気持ち良く見て回れました。
この後、敷島神社とその境内社にお参りして、ここを後にし付近の史跡を見て回りました。
「お気に入りの場所」に飛ぶ
参拝日:2017年1月18日
この富士塚のことは、歴史クラブのM会長に教えていただき、資料もいただいていました。
登れるのは、大安と友引の日に限られているということなので、行く日を考えていて、
この日、天気も良くて富士山がよく見えるだろうという事で訪ねました。
敷島神社に到着。鳥居の向こうに富士塚がありました。

近づくと、その大きさに圧倒されました。

保存会の方が4、5名居られて、資料をいただき簡単な説明もしていただいた。
築造の由来:
幕末時代、引又宿に醤油醸造業を営み富士信仰に篤い、高須庄吉と言う人がいました。高須氏が夢のお告げに従って田子山塚に参詣したところ、「逆修」の板碑を発見しました。
この逆修板碑は、室町時代初めの暦応3年(1340)、廻国の僧(又は館村の僧)、 十瀧房承海(じゅうりゅうぼうじょうかい)が富士山入定に先立ち建立したものでした。
富士山を篤く信仰する高須氏はこれにいたく感激し、田子山塚の上にミニ富士山(富士塚) を築造する決心をし、同士を募り、築造期間:明治2年10月〜明治5年6月にて 農閑期を中心に作業が進められ完成しました。
この工事には多くの寄進や労力奉仕が寄せられ、数多くある石造物には寄進者合計2416名の名前 が刻まれています。
大きさ:
高さ: 約9m
麓(ふもと)の円周: 約125m
斜度39度の丸味のある方形をした築山
特長
1.この塚の規模はもちろん、石造物の数と種類、細工は他の富士塚と比較しても並外れて優れており、 当時の引又宿の経済力と近在の人々の富士山信仰への思い入れをうかがい知ることができると共に、 貴重な文化財です。
2.石造物には、神道・仏教・修験道など、多くの系統のものが混在しており、日本人の伝統的宗教観が 良く現れています。
3. 「富士塚」としての6要件すべてを満足している富士塚は、極めて稀です。
1.「山頂に祠」があること。
2.「烏帽子岩」があること。
3.「小御嶽神社」があること。
4.富士山の溶岩「黒ぼく」があること。
5.「御胎内」(地下洞穴)があること。
6.「霊峰富士を遥拝」できること。
4.中世の富士信仰の遺物があります。
高須庄吉が発見した「逆修の板碑」は暦応三年(1340)のものであり、 中世の富士信仰遺物として極めて貴重なもので、浅間下社の御神体として祀られています。
浅間下社の外壁には、木花開耶姫・白糸の滝・食行身禄のレリーフが彫り込まれています。
「田子山富士塚」は平成18年3月に志木市として 初めて「埼玉県の有形民俗文化財」に指定されました。 国指定文化財となっている他の富士塚と比較しても遜色ない、すばらしい「お宝」です。
「志木市内の富士信仰」について:
1.かつて、志木市内には富士信仰に篤い人たちがたくさん居り、 「田子山富士」の「丸吉講」以外にも、上宗岡の「浅間神社」を中心に、 「丸藤講」がありました。
2.宗岡丸藤講では、明治13年に「羽根倉富士嶽」を築造しました。
3.宗岡丸藤講の第八代先達「日行星山」(本名:星野勘蔵)は、 篤い富士信仰に基づき「救世済民」を実践すると共に、富士山に70回余り登拝し、 明治25年には富士山麓(富士吉田市)に「吉田胎内」を開基しました。
4.この「吉田胎内」は、昭和4年に国の「天然記念物」に指定され、 平成25年に「富士山」が「世界文化遺産」に登録された時、 「吉田胎内樹型」として世界遺産の構成資産の一つになりました。
5.志木市の先人が開基した「吉田胎内樹型」が「世界遺産」に指定されたことで、 志木市民の誇りとなっている。
とにかく、この富士塚の全体図を見たときに、石碑の多さに圧倒される。

この富士塚の特徴として、登山道が富士吉田口と同じように北側に設けられている。
入り口の左右には親子唐獅子が獅子山の形で迎える。

【親子唐獅子】


石灯篭
全部で14基あり。

【琴比羅神社】

【浅間下社】


石祠の三面には、富士山に縁の深いものの彫刻があり。
木花開耶姫

食行身禄

もう一つの「白糸の滝」は撮るのに失敗。また訪れたときに撮ります。
石祠の中には、十瀧房承海の逆修板碑がご神体として納められている。

この日求めた「田子山富士のナゾ」という小冊子に、「田子山塚」が『武蔵野話』に書かれているとあったので、帰宅後調べてみました。
私が持っている『武蔵野話』は、江戸時代に発刊された原本でなく、大正12年に鳥居竜蔵博士が復刊したものを、再復刊されたものである。
『武蔵野話』に書かれている文章


板碑の図

引又村全体の図

「田子山塚」周辺

【金山大権現】

【「是より登山ミち」碑】

【親子猿】
富士山は孝安天皇庚申(かのえさる)の年に出現したと伝えられており、富士塚には猿の石像が多く見られます。

【雲切不動尊】

【天狗坐像】

一合目の合目石のところに、御座石浅間神社と鈴原社の石碑があり。
このことから、この登山道は富士吉田登山道に忠実に作られていることがわかる。

【御座石浅間神社】
四合五勺にあったが、スバルラインの開通で五合目までの道は寂れてしまい、今は存在しない。

【一ノ岳鈴原神社】
一合目にはこの鈴原社跡の建物があり、1840年代に建てられたものだそうで、16世紀には鈴原社という名前でこの地に社があったことがわかっています。
ここで奉られていたのが大日如来で、富士山の神様、浅間大菩薩の本地仏とされている。
ここで安置されていた大日如来像は現在富士吉田市の上吉田の御師のお宅に安置されているそうです。

【「是よりびわの滝道」碑】

【小室浅間神社】

奥宮が二合目にあるのだが、その下宮である「富士山下宮小室(おむろ)浅間神社」に参拝したことがある。
以下の4点によりとても素晴らしい神社であった。
・流鏑馬が神事となっている
・神の依り代の鏡の受け台がなんとも美しい富士山である。
・大塔宮護良親王の首塚がある。
・境内に富士溶岩流の原形がある。
その記事を読む
【経ケ岳】
富士山五合五勺、日蓮が1269年に富士登山を行ない、法華経を埋納した伝説の残ることから経ヶ岳(経ヶ嶽)と呼ばれる場所

玉垣には当時の花形歌舞伎役者の名がある。

碑文は、池上本門寺60代住職によるもの。

頂上を仰ぐ

【中宮】
富士吉田登山道の五合目直下には「中宮(ちゅうぐう)」呼ばれる場所があります。富士山の中腹に祀られた「中宮三社」からそう呼称されていました。また、ここには「中宮役場」があり、「山役銭(やまやくせん)」という122文の入山料を回収する場所でもありました。入山料は登山前の御師によるご祈祷代や、杖の代金、役行者堂での護摩代や、九合目にあった石垣の橋の修繕費などの費用に充てられていました。
富士守稲荷、大日社、浅間社をお祀りしていた「中宮三社」のお社がありました。
武田信玄は娘が病気をした際に、この中宮に願文を出したとされ、信玄も信仰していた神社でもありました。
不二森稲荷神社

中宮祠

【泉ケ滝】
富士山で水の得られる数少ない場所で、小御嶽神社参道途中にもあたり、参詣時に道者が水垢離(みずごり=水行)をした。

【小御嶽神社】

【亀磐蓬莱山八大龍王神】

【烏帽子岩】

頂上に到着
【陰陽石】

奥宮

富士山がどこに見えるか探しました。
奥宮が富士山に向いていました。当然か(笑)

非常に薄っすらだが、茶色の建物のところに見えているのを発見(嬉)



下に降りてから、保存会の副会長さんに綺麗に見えている時の写真を見せていただいた。


ここの富士塚からは、今でもちゃんと富士山が見えるのを知って嬉しかった。
こんどは富士塚の下から、斜面にある神社や石碑を確認していきます。

【日本建命】

【田子士峰之記】

【御中道大願成就碑】
右に「宝永山」碑があり。

【諸神祭祀碑】

【石神坐像】


【志木富士祠修築之碑】

【是より御胎内道】

御胎内道にも狛犬が侍っている。

松尾神社脇から富士塚を見上げる。

【松尾神社】
ご存知、お酒の神様。


【太子像】

【阿夫利神社】

【ラブラブツリー】
白い木が女性、黒い木が男性。仲睦まじい男女に見えることから、ラブラブツリーと呼ばれ、縁結びや安産・子宝の御利益があるそうです。

【御胎内】


【住吉社】

ラブラブツリーと登山道の間に色々な石仏があり。

【不動明王】
不動明王の眷属、矜迦羅(こんがら)童子と制叱迦(せいたか)童子。


不動明王

【高尾山烏天狗】

【秋葉山烏天狗】

【黒(くろ)ボクの山】
黒ボクとは、本物の富士山から持ってきた溶岩のことで、北側の斜面に驚くほど大量に見ることができる。
これほど多くの黒ボクを、車も鉄道もない時代に富士山から運んできたことに、敬服の念を覚える。

これで富士塚全体を見終わったが、素晴らしい富士塚だったこと、保存会の皆さんが大事に守っていることに感謝しました。
それから、1月だったので注連縄や御幣が新しくて、とても気持ち良く見て回れました。
この後、敷島神社とその境内社にお参りして、ここを後にし付近の史跡を見て回りました。
「お気に入りの場所」に飛ぶ
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船津胎内樹型/世界文化遺産「富士山」
20150822
所在地:山梨県南都留郡富士河口湖町船津6603
訪問日:2011年5月1日、2014年7月18日
世界文化遺産「富士山」の構成資産の一つ。国指定天然記念物。
昨年、歴史クラブの定例見学会のコースに候補として組み込みましたが、下見の結果大勢の団体で訪れるには、狭い洞窟なので無理があると、コースから外したため記事にはしなかったので、今回記事にしておきます。
なお、それ以前に、2011年にも友人と訪れています。
「胎内樹型」とはどういうものかというと、富士山の噴火の際の溶岩流が大木を取り囲んで固まり、その樹の型が残ったものです。
船津胎内樹型は、約1000年前の「剣丸尾溶岩流」によって作られた。大小数本の木が折り重なって出来た総延長70mに及ぶ複合型溶岩樹型。
随所に体内を思わせるところがあり、かなり狭いところがあるので、苦労して潜り抜けることにより、胎児として生まれかわるような「再生儀式」とも思わせます。
それで江戸時代から富士講などによる、「胎内くぐり」の名所でした。
船津胎内樹型を発見したのは、江戸で「高田富士」を築いた高田藤四郎です。藤四郎は食行身禄の教示に従い、「元の父母」の特定に奔走し、ついに安永元年(1772)に船津胎内を発見しました。
剣丸尾溶岩流

江戸時代の様子
白装束姿でろうそくを持ち、膝にわらじをつけて胎内くぐりをする人々。
江戸末期錦絵

『滑稽富士詣』より

歌川貞秀画「富士山胎内巡之図」より

船津胎内樹型の上には、「無戸室(むつむろ)浅間神社」がある。

船津胎内樹型の説明

船津胎内樹型の内部図

無戸室浅間神社の社殿内に入り口がある。

入り口
2011年に一緒に行った友人。

「肋骨」

盲腸があるという穴だが、どれがそうなのかわからない。

真っ直ぐ進んだ行き止まりには御幣が奉安されていた。

胞衣石があるところは、急に下がっていて滑りやすく危険。

真っ直ぐ行くと、「瓊瓊杵尊」を経由して出口。

胞衣石

「母の胎内」に通じる穴。
実は2011年に最初に来たときは、普通の服装だったし、ちょっと入りかけて怖くてやめた。
閉塞感がすごかった。
あのころは、まだ歴史に目覚めてなかったのだが、「木花開耶比姫命」という名に興味を感じて入りたかったのだが。
それで二度目の2014年には、事前に調べて「膝わらじ」のことも知っていたので、何かいいものをと探して「膝パット」を用意して、泥んこになるだろうと、軍手とか替えのズボンなどを用意ししてきたのだ。
ここは、まだ楽々と通れる。

「母の胎内」
ここは膝をつかないと通れない。
暗いし、かなり狭いし、進むのに、ちょっと勇気がいった。

ちょっと楽になって、最後の関門がある。
このように、沁みだしてくる水でビショビショになっているので、場所によっては木道が敷かれている。

「木花開耶比姫命」が祀られている部屋。
暗いので適当にフラッシュをたいて撮った。
乳房はわかるが、女陰石はわからず。

「木花開耶比姫命」


帰りは、ずっと平気な気持ちでいられた。
大丈夫と思っていても、頭のどこかに生き埋めの恐怖感がある(笑)
分岐点から「瓊瓊杵命」に向かう。


「瓊瓊杵命」


「瓊瓊杵命」の左上の穴で、一番奥に「子育て観音」があるという穴。

出口に向かう。
左上に細い樹型が交差している。

出口が見えた(嬉)

出口付近

出口から振り返る。この辺の天井が、黒いガラス質の岩だった。

出口
2011年に一緒に行った友人。

出口付近の石仏など

「お気に入りの場所」に飛ぶ
訪問日:2011年5月1日、2014年7月18日
世界文化遺産「富士山」の構成資産の一つ。国指定天然記念物。
昨年、歴史クラブの定例見学会のコースに候補として組み込みましたが、下見の結果大勢の団体で訪れるには、狭い洞窟なので無理があると、コースから外したため記事にはしなかったので、今回記事にしておきます。
なお、それ以前に、2011年にも友人と訪れています。
「胎内樹型」とはどういうものかというと、富士山の噴火の際の溶岩流が大木を取り囲んで固まり、その樹の型が残ったものです。
船津胎内樹型は、約1000年前の「剣丸尾溶岩流」によって作られた。大小数本の木が折り重なって出来た総延長70mに及ぶ複合型溶岩樹型。
随所に体内を思わせるところがあり、かなり狭いところがあるので、苦労して潜り抜けることにより、胎児として生まれかわるような「再生儀式」とも思わせます。
それで江戸時代から富士講などによる、「胎内くぐり」の名所でした。
船津胎内樹型を発見したのは、江戸で「高田富士」を築いた高田藤四郎です。藤四郎は食行身禄の教示に従い、「元の父母」の特定に奔走し、ついに安永元年(1772)に船津胎内を発見しました。
剣丸尾溶岩流

江戸時代の様子
白装束姿でろうそくを持ち、膝にわらじをつけて胎内くぐりをする人々。
江戸末期錦絵

『滑稽富士詣』より

歌川貞秀画「富士山胎内巡之図」より

船津胎内樹型の上には、「無戸室(むつむろ)浅間神社」がある。

船津胎内樹型の説明

船津胎内樹型の内部図

無戸室浅間神社の社殿内に入り口がある。

入り口
2011年に一緒に行った友人。

「肋骨」

盲腸があるという穴だが、どれがそうなのかわからない。

真っ直ぐ進んだ行き止まりには御幣が奉安されていた。

胞衣石があるところは、急に下がっていて滑りやすく危険。

真っ直ぐ行くと、「瓊瓊杵尊」を経由して出口。

胞衣石

「母の胎内」に通じる穴。
実は2011年に最初に来たときは、普通の服装だったし、ちょっと入りかけて怖くてやめた。
閉塞感がすごかった。
あのころは、まだ歴史に目覚めてなかったのだが、「木花開耶比姫命」という名に興味を感じて入りたかったのだが。
それで二度目の2014年には、事前に調べて「膝わらじ」のことも知っていたので、何かいいものをと探して「膝パット」を用意して、泥んこになるだろうと、軍手とか替えのズボンなどを用意ししてきたのだ。
ここは、まだ楽々と通れる。

「母の胎内」
ここは膝をつかないと通れない。
暗いし、かなり狭いし、進むのに、ちょっと勇気がいった。

ちょっと楽になって、最後の関門がある。
このように、沁みだしてくる水でビショビショになっているので、場所によっては木道が敷かれている。

「木花開耶比姫命」が祀られている部屋。
暗いので適当にフラッシュをたいて撮った。
乳房はわかるが、女陰石はわからず。

「木花開耶比姫命」


帰りは、ずっと平気な気持ちでいられた。
大丈夫と思っていても、頭のどこかに生き埋めの恐怖感がある(笑)
分岐点から「瓊瓊杵命」に向かう。


「瓊瓊杵命」


「瓊瓊杵命」の左上の穴で、一番奥に「子育て観音」があるという穴。

出口に向かう。
左上に細い樹型が交差している。

出口が見えた(嬉)

出口付近

出口から振り返る。この辺の天井が、黒いガラス質の岩だった。

出口
2011年に一緒に行った友人。

出口付近の石仏など

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富士の図
20140102
お正月なので、めでたい富士の図でもアップしようと思ったときに、このあいだテレビの富士山特集の番組で、一番古い富士山の絵図として紹介されていたのが「聖徳太子絵伝」であることを思いだした。
そういえば私も持っているのではないかと引っ張り出して確認したら、ありましたね(嬉)
平成14年3月に名古屋市博物館で開催されていた「聖徳太子展」の図録に載っておりました。
大阪・四天王寺「聖徳太子絵伝 遠江法橋筆」 鎌倉時代元享3年(1323)
その第三幅

その一部「二十七歳、甲斐の国より黒駒を献ずる。」

同じくその一部「二十七歳、黒駒に乗り富士山に登る。」
この富士が、一番古い図らしいですね。

図録にはもう一つ、富士山が出てくる絵伝がありましたので、こちらも載せておきます。
奈良・橘寺「聖徳太子絵伝」 室町時代十六世紀
その第六幅

「二十七歳、甲斐の国より黒駒を献ずる。」の部分

「二十七歳、黒駒に乗り富士山に登る。」の部分

その番組では、横山大観の描いた富士山も取り上げていて、私も大観の絵は大好きなので、紹介しておきます。
「霊峰飛鶴」 1953年

「或る日の太平洋」 1952年

この絵にも、私の好きな大観描く龍がいる。

最後に私の写真ですが、最近良いのが撮れていないので、以前アップしたことのある写真を再び(汗)
2011年4月に山中湖で撮った富士。

そういえば私も持っているのではないかと引っ張り出して確認したら、ありましたね(嬉)
平成14年3月に名古屋市博物館で開催されていた「聖徳太子展」の図録に載っておりました。
大阪・四天王寺「聖徳太子絵伝 遠江法橋筆」 鎌倉時代元享3年(1323)
その第三幅

その一部「二十七歳、甲斐の国より黒駒を献ずる。」

同じくその一部「二十七歳、黒駒に乗り富士山に登る。」
この富士が、一番古い図らしいですね。

図録にはもう一つ、富士山が出てくる絵伝がありましたので、こちらも載せておきます。
奈良・橘寺「聖徳太子絵伝」 室町時代十六世紀
その第六幅

「二十七歳、甲斐の国より黒駒を献ずる。」の部分

「二十七歳、黒駒に乗り富士山に登る。」の部分

その番組では、横山大観の描いた富士山も取り上げていて、私も大観の絵は大好きなので、紹介しておきます。
「霊峰飛鶴」 1953年

「或る日の太平洋」 1952年

この絵にも、私の好きな大観描く龍がいる。

最後に私の写真ですが、最近良いのが撮れていないので、以前アップしたことのある写真を再び(汗)
2011年4月に山中湖で撮った富士。

富士/広重「東海道五十三次」
20120403
昨夜、BSの番組「謎解き 江戸のススメ」で、江戸から見えた富士山を取り上げていた。
当然日本橋からの富士山も取り上げられた。
で、広重の浮世絵の図版を取り出して眺めていたのだが、この「東海道五十三次」にどれだけ富士山が登場するのだろうかと抜き出してみたら、「保永堂版」、「隷書版」合わせて18枚あった。
それを紹介しておこうと思います。
ちょっと画像を大きくしたら、右側が隠れてしまっています(汗)
クリックすれば全体を見ることが出来ます。
隷書版「日本橋」

保永堂版「川崎 六郷渡舟」

隷書版「戸塚」

保永堂版「平塚 縄手道」

保永堂版「箱根 湖水図」

隷書版「沼津」

保永堂版「原 朝之富士」

隷書版「原」
図に描かれるのは、次の吉原宿との間にある一本松立場付近。この辺りからの富士の眺めは東海道随一との聞こえが高かった。

保永堂版「吉原 左富士」
東海道を江戸から京に上る際、富士は常に右側に見えているのだが、吉原宿の東で道が大きく湾曲していて、一時的に富士山が左側に見える。

隷書版「吉原」
これは江戸に下がる一行で一時的に右側に富士が見える図となっている。

隷書版「蒲原」
富士川舟渡しの図

保永堂版「由井 薩埵嶺」

隷書版「興津」

隷書版「江尻」
画面下の松が茂っているところが三保松原である。ここに「羽衣の松」がある。

隷書版「嶋田」
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われた難所、大井川の川越しの様子である。

保永堂版「舞坂 今切真景」
今切とは、明応七年(1498)の地震で浜名湖の湖畔が切れ、遠州灘とつながった場所をさす。地震以後、舞坂宿と荒井宿の間は船渡しとなり、「今切の渡し」と呼ばれた。

隷書版「荒井」

隷書版「御油」
愛知県豊川市御油町、江戸日本橋から数えて35番目の宿駅。宿場はずれの古街道本野が原の情景で、北条泰時の命により、柳が多く植えられたという場所。
ここが富士が描かれた最遠の地である。

(了)
当然日本橋からの富士山も取り上げられた。
で、広重の浮世絵の図版を取り出して眺めていたのだが、この「東海道五十三次」にどれだけ富士山が登場するのだろうかと抜き出してみたら、「保永堂版」、「隷書版」合わせて18枚あった。
それを紹介しておこうと思います。
ちょっと画像を大きくしたら、右側が隠れてしまっています(汗)
クリックすれば全体を見ることが出来ます。
隷書版「日本橋」

保永堂版「川崎 六郷渡舟」

隷書版「戸塚」

保永堂版「平塚 縄手道」

保永堂版「箱根 湖水図」

隷書版「沼津」

保永堂版「原 朝之富士」

隷書版「原」
図に描かれるのは、次の吉原宿との間にある一本松立場付近。この辺りからの富士の眺めは東海道随一との聞こえが高かった。

保永堂版「吉原 左富士」
東海道を江戸から京に上る際、富士は常に右側に見えているのだが、吉原宿の東で道が大きく湾曲していて、一時的に富士山が左側に見える。

隷書版「吉原」
これは江戸に下がる一行で一時的に右側に富士が見える図となっている。

隷書版「蒲原」
富士川舟渡しの図

保永堂版「由井 薩埵嶺」

隷書版「興津」

隷書版「江尻」
画面下の松が茂っているところが三保松原である。ここに「羽衣の松」がある。

隷書版「嶋田」
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われた難所、大井川の川越しの様子である。

保永堂版「舞坂 今切真景」
今切とは、明応七年(1498)の地震で浜名湖の湖畔が切れ、遠州灘とつながった場所をさす。地震以後、舞坂宿と荒井宿の間は船渡しとなり、「今切の渡し」と呼ばれた。

隷書版「荒井」

隷書版「御油」
愛知県豊川市御油町、江戸日本橋から数えて35番目の宿駅。宿場はずれの古街道本野が原の情景で、北条泰時の命により、柳が多く植えられたという場所。
ここが富士が描かれた最遠の地である。

(了)
山中湖などからの富士
20110501
昨日、富士山の写真を撮りに出かけました。
山中湖に着いたのが8時ころ。
「湖北」から写真を撮りました。
今日は雲が出ていなくて、きれいな富士です。

頂上に薄いベールがかかっているのが、いい感じです。

パノラマ台に上がって、山中湖全景と富士を一望に写真を撮りました。
気分よし。

山中湖に戻って、「山中湖写真ギャラリー」で絵葉書などを物色。
そのあと「平野」の辺の湖畔で、用意してきたお弁当をのんびり食べました。
目の前で、湖に入り込んで釣りをしていました。

同行したのが、テニス仲間でラオスからやってきている友人。
行ったことが無いとと言うので、「忍野八海」を案内しました。
人が多いので。それなりの写真にするのには苦労します(笑)

午後はだいぶ雲が出てしまい、富士はほとんど見えません。

水深7mのきれいな水の中を魚が泳ぎまわっている。

忍野は、ちょうど桜が満開。
「櫻と富士」のいいチャンスだったのに、このとおり(泣)

きれいな小川があって、桜も咲いているし、岸辺でのんびりと寝そべっていました。
私が子供のころは、どこもこんな小川だったのに。

きれいな湧水に映ったツツジ。

まだ時間があったので、地図を見ていて気になっていた「胎内洞窟」を見に行きました。
「スバルライン」の登り口にある、「船津胎内樹型」に行きました。
天然記念物です。
説明を読むと、高温の溶岩流が大木を取り囲んで固まり、大木が燃えて空洞となりその樹の型が残ったものを「溶岩樹型」と呼ぶそうです。
ここのは、何本もの大木が複雑に交差し、複雑な洞窟になっていて、胎内を思わせる形状になっている。
洞窟の入り口がお宮になっている。

中はこんな感じ。全行程、立てるところはありません。しゃがんだ姿勢で、時には四つん這いです。
照明があるので、怖くはない。

このように、胎内を思わせる造形のところが多い。

これで、この日は切り上げて帰ってきました。
連休なので、渋滞が気になって早めに帰りました。
ほとんど渋滞にならなかった。やはり人出は少ないですね。
山中湖に着いたのが8時ころ。
「湖北」から写真を撮りました。
今日は雲が出ていなくて、きれいな富士です。

頂上に薄いベールがかかっているのが、いい感じです。

パノラマ台に上がって、山中湖全景と富士を一望に写真を撮りました。
気分よし。

山中湖に戻って、「山中湖写真ギャラリー」で絵葉書などを物色。
そのあと「平野」の辺の湖畔で、用意してきたお弁当をのんびり食べました。
目の前で、湖に入り込んで釣りをしていました。

同行したのが、テニス仲間でラオスからやってきている友人。
行ったことが無いとと言うので、「忍野八海」を案内しました。
人が多いので。それなりの写真にするのには苦労します(笑)

午後はだいぶ雲が出てしまい、富士はほとんど見えません。

水深7mのきれいな水の中を魚が泳ぎまわっている。

忍野は、ちょうど桜が満開。
「櫻と富士」のいいチャンスだったのに、このとおり(泣)

きれいな小川があって、桜も咲いているし、岸辺でのんびりと寝そべっていました。
私が子供のころは、どこもこんな小川だったのに。

きれいな湧水に映ったツツジ。

まだ時間があったので、地図を見ていて気になっていた「胎内洞窟」を見に行きました。
「スバルライン」の登り口にある、「船津胎内樹型」に行きました。
天然記念物です。
説明を読むと、高温の溶岩流が大木を取り囲んで固まり、大木が燃えて空洞となりその樹の型が残ったものを「溶岩樹型」と呼ぶそうです。
ここのは、何本もの大木が複雑に交差し、複雑な洞窟になっていて、胎内を思わせる形状になっている。
洞窟の入り口がお宮になっている。

中はこんな感じ。全行程、立てるところはありません。しゃがんだ姿勢で、時には四つん這いです。
照明があるので、怖くはない。

このように、胎内を思わせる造形のところが多い。

これで、この日は切り上げて帰ってきました。
連休なので、渋滞が気になって早めに帰りました。
ほとんど渋滞にならなかった。やはり人出は少ないですね。