義高ウォーク2017

20170508

5月4日(水)に行われた、狭山まちづくりストの会企画の「義高ウォーク2017」に、歴史クラブ地域連携部会がガイドとコース誘導を支援しました。
「義高ウォーク」は、狭山市駅前から、ほぼ鎌倉街道をたどって、嵐山大蔵館跡まで歩こうというもので、全行程を歩くと約27Kmになります。

昨年、狭山市が「義仲・巴広域連携推進会議」に参加することになり、状況が変わってきました。
「義高ウォーク」に市も関係するようになり、コース中、笛吹峠からゴールの大蔵館跡まで「嵐山町文化スポーツ課&嵐山町観光協会」が休憩ポイントサービスとガイドの支援をしてくださることになりました。

「義仲・巴広域連携推進会議」というのは、富山県、石川県、長野県、埼玉県の公共団体で組織している活動です。

今年も、歴史クラブからは9名が支援に参加しました。
私は、家族の一人が歩きたいと希望してきたので、自分の担当をこなした後、一緒に歩いて嵐山大藏館跡までの27Kmを歩きました。

コースの史跡は、簡単に触れますが、ウォーク中心なので、この記事では触れない史跡がたくさんあります。
別に鎌倉街道の記事をアップしているので、そちらを参考にしてください。
但し、高崎から鎌倉に向かって歩いているので、今回のコースとは逆の順番になっています。

鎌倉街道の記事を読む


今年のポスター
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今年の参加者は66名でした。
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市長も挨拶にくてくださった。
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歩き出す前に準備運動
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駅前を、8:30に出発。

【駅前から「女影古戦場」まで】
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清水八幡の説明:稲葉さん
影隠し地蔵の説明:川田さん
智光山公園の先、鎌倉街道交差点までの道案内:山畑さん・森さん
鎌倉街道交差点・日光脇往還の説明:市川さん
切通し・鎌倉街道碑の説明:村越さん
女影古戦場の説明:井口

全体の運行管理と、支援者を支援ポイントに適切に届ける車の運転を、矢島さん、吉岡さん、近藤さんが行いました。

駅前から歩きだして、最初のポイントは「清水八幡」です。

〇清水八幡
清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。
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入間川を渡る時には、「義高鯉のぼりの会」が主宰して揚げた鯉のぼりがはためいていた。
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〇影隠し地蔵
ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
そこから鎌倉街道は信濃坂を上がりますが、そこにある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。
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そこから、智光山公園の前を通り、しばらく歩いていくと、「日光脇往還」との交差点に出ますが、交差点の名前が「鎌倉街道」。(写真は昨年のもの)
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〇日光脇往還
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。(写真は昨年のもの)
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それから、いかにも「切り通し」らしい道を下っていくと、「鎌倉街道上道」碑があり、そこからしばらくあるいていくと「霞野神社」があり、「女影が原古戦場」となります。

「切り通し」を下りてくる、もう他を引き離して先頭を歩くご夫婦。
聞けば、東海道、中山道を完歩した強者でした。
健脚で知識も実に豊富な、素晴らしいご夫婦でした。
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〇鎌倉街道上道碑
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〇女影が原古戦場
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をして打ち破り、ついに鎌倉に入ります。
鎌倉には建武政権から失脚した後醍醐天皇の皇子護良親王(前征夷大将軍)が幽閉されていたが、足利直義は鎌倉を落ちる際に密かに家臣の淵辺義博に護良親王を殺害させている。

霞野神社を含む一帯が、女影が原古戦場といわれる。
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ここで、飲み物サービスがあり、休憩しながら説明を聞いてもらいました。
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ここから、私も歩きました。
女影交差点を過ぎて、武蔵高萩駅の近くを過ぎると「旭ケ丘」住宅団地になります。
ここは戦前空軍士官学校の飛行場が設置され、戦後は「旭ケ丘」という大住宅団地となったため、鎌倉街道はまったくわからなくなってしまっています。
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【旭ケ丘から西大家駅までのコース。】
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ここでは、コースを間違いやすい三叉路やY字地点で、コース誘導を実施しました。
三叉路誘導:森さん
Y字路側溝沿いに誘導:山畑さん
鎌倉街道道標での説明:池田さん

ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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この区間は、完全に街道の遺構が小川になっている。
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西大家駅横の踏切。
この手前のコンビニで休憩。
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【西大家駅横から鳩山町役場までのコース】
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森戸橋
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江戸時代の馬頭観音の前を通る。
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毛呂山町「市場」に入るところで、鎌倉街道旧道が残っているので、そこを誘導しました。
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鎌倉街道旧道入り口誘導:川田さん
鎌倉街道旧道出口誘導:森さん
鎌倉街道遺構説明:池田さん、井口

〇鎌倉街道旧道
去年まで入り口は、雑草が繁茂していて、残念ながら歩ける状態ではなかったので、迂回してもらって歩ける状態の道から歩いてもらっていました。
去年の写真
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今年は毛呂山町にお願いしたら、快く直前に草を刈ってくださったので、旧道を気持ちよく歩くことができました。
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それからしばらく歩いていくと、はっきりと鎌倉街道遺構がわかる場所に出る。

〇鎌倉街道遺構
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18年前に立てた毛呂山町の説明
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この説明のように、当時はこの説明の前が、大木が生えたものすごい藪であり、最初私がここを訪ねたときには、藪の中に無理やり入って行って、遺構らしきところを見たものだ。

ここから、毛呂山町歴史民俗資料館までのコースは、とても気持ちのいい道で、大好きな道です。
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13:00ごろに毛呂山町歴史民俗資料館に到着!!
ホッとしてしまい、写真を撮らなかった(汗)

以前参加のときの写真を載せておきます(笑)
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前庭で持参のお弁当にかぶりつき、団らんしながら一時間休憩しました。

リフレッシュした気持ちで、14:00に毛呂山町歴史民俗資料館を出発。

気持ちのいい道を歩いていきます。
鎌倉街道のなかで、最も好きなのがこの辺の道です。
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〇大類古墳群
有名な苦林古墳(大類1号墳)を初めとする前方後円墳2基、円墳39基からなる古墳群を形成していますが、隣接する坂戸市善能寺の塚原古墳群とともに苦林古墳群と総称されています。
保存状態が良い葺石が残る円墳(私有地内)もあります。
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ここで、ちょっと寄り道をして、延慶(えんきょう)の板碑を見ました。
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この板碑は、もっと鎌倉街道に近い崇徳寺跡(町指定史跡)にあったものが、今の場所に移されたそうです。
移転の際に、基部から古瀬戸を利用した骨壷が出土しましたが、火葬骨が入っていて、しかも火葬骨には刀傷の痕があったそうです。
高さ3m、幅80cmの大型板碑には、雄大な胎蔵界大日如来の種子に深い蓮台が刻まれています。その紀年銘から延慶3年(1310)の建立であることがわかります。
高さもあり迫力もあります! 種子の彫りも深くシャープで美しいです。700年経っているとは思えません。

この青みがかった石材で造られた板碑は、関東特有のものです。
秩父・長瀞地域・小川町地域から産出される緑泥片岩(薄く板状にはがれる)から作られています。この石材が産出されるのは全国で二か所しかないそうです。


その後、遅れてしまった分を取り返すため急ぎました。
最後尾には簡単に追いつけると思ったのですが、それがなかなか追いつけず、後で知ったのですが、毛呂山町歴史民俗資料館、鳩山バス停、大橋バス停でリタイアしたので、残った人のペースが上がっていたのです。

笛吹峠で追いつくまで、急いだので途中の写真は無し。

撮ったのは、おしゃもじ山のツツジ祭りの写真だけです。
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【鳩山町役場から大蔵館跡までのコース】
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大橋の休憩ポイントで一息入れてから、笛吹峠を目指す。
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笛吹峠が見えた(嬉)
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笛吹峠
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ここで他の皆さんに追いつき、嵐山町の方たちに暖かいもてなしを受けて、元気が出たところでスタート。

気持ちのいい山道をいきます。
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所々に山藤が咲いていた。
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〇源義賢の墓
17:00ころ到着
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ここで、嵐山のボランティアガイドから熱心な説明を受けました。

義仲に遺児が居たのは、数年前にこれを読むまで知りませんでした。
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ついに、17:20ころ大蔵館跡の向かいの自治会館前庭のゴールに到着(嬉)
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完歩証明をいただきました。
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結局、今回は66名が参加して、43名が完歩したそうです。

それから、大蔵館跡を見学。
今は大蔵神社になっている。
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ここでも、丁寧にガイドをしていただきました。
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源義賢の居館跡で、ここで「木曽義仲」は生まれました。
源義賢は、源氏の棟梁源為義の次男で、帯刀先生(皇太子警護役人の長)を務めるほど人望も厚く、武名が高く、長男義朝よりも跡目争いでリードしていた。
ところが、義朝の子悪源太義平の急襲により、大蔵館で義賢は討たれてしまう。
そのとき、子供の駒王丸は二歳。討手の斉藤実盛と畠山重能(重忠の父)が不憫に思い、助けて木曽の中原兼遠に預けます。この駒王丸が、後の木曽義仲です。
で、源氏の棟梁は源義朝となり、それから頼朝に伝わっていく。
(悪源太義平は、平治の乱で死んでしまう)

源義賢の居館跡の図
一番大きな範囲の堀は、後北条氏の時代に設けられたもので、源義賢の居館跡は太線の点線で囲まれた部分。
大蔵神社境内の、更に奥になります。
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源義賢の居館跡の辺は、民家となっており立ち入ることは出来ない。
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西側に残る空堀。
(以前撮った写真)
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これで、全て終了で、疲れた足を引きずりながら(笑)
武蔵嵐山駅に向かい、帰途につきました。
今回、大丈夫かなという気持ちもありましたが、挑戦をクリアできたことで、ちょっと自信がつきました。
嬉しいことです。


(了)


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源義高ウォーク

20150505

4日に「狭山市をおもしろくする会」、「狭山まちづくリストの会」共催のウォークに参加しました。
源義高に想いをはせながら、狭山市から嵐山の「大蔵館」まで歩こうという企画です。

私は、けっこう普段から史跡めぐりで歩き回っているとはいえ、長距離のウォークには自信が無く、この後も幹事を引き受けているイベントが13日までに3つあることから、ここで体調を崩すと大変なことになるので、「毛呂山歴史民俗資料館」まで参加することにしました。

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清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。

40名を超える参加者で、まずは準備体操をして体をほぐしてから歩き始めました。
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清水八幡
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。
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入間川を渡ります。
鎌倉街道のころは、「八丁の渡し」があったあたりで、当時は徒歩渡りでした。
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信濃坂にある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。
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ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
安永3年(1774)造立の石橋供養塔が道しるべになっています。
4面にそれぞれ「南江戸、東川越、北小川、西八王子」と刻まれている。
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智光山公園の前をとおり、
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お弁当など買い物と休憩タイム
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日光脇往還との交差点「鎌倉街道交差点」
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日光脇往還
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。
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その先に、いかにも「切り通し」らしい道があります。
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「鎌倉街道上道」碑
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さりげなく無事を祈る「馬頭観世音」碑
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霞野神社
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霞野神社本殿の南には、「女影ケ原古戦場跡」 の碑がある。
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をしている。

道標を兼ねた大乗妙典碑
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霞野神社前の鎌倉街道と、右に分かれる道との間に隠れて道標を兼ねた「大乗妙典碑」があり、「右あうぎ町谷八王子道、左入間川所沢みち」と刻まれています。
「右あうぎ町谷八王子道」は、南の大谷沢で日光裏街道(国道407号線)に出て、入間市の扇町屋を通り、その後、国道一六号線を八王子に向かう道ではないかと思われます。
そして「左入間川所沢みち」が、いま通って来た鎌倉街道です。

女影交差点
この辺りは、鎌倉時代も「女影宿」として栄えた所と言われるところです。交差点の角に、「女影時計台」と表示されているかわいい時計塔が建てられています。
『新編武蔵風土記稿』には、「女影」の地名の由来となった伝説が載っています。それによると、女影に「千丈ケ池」があり、その昔、「せん」という女性がこの池に身を投げて死んだと伝えられ、その後、この池にその女性の影が映るようになり、地元の人がこれを「女影」と呼び、これが村の名前になったとあります。
今も女影の南にある「仙女ケ池」がそれであると言われています。
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この辺りは、昔(奈良時代)は大きなお寺(女影廃寺跡)があり、街道を挟んだ西が比定地。
発掘調査が行われ溝跡から多数の瓦や瓦塔片などが検出されたそうです。瓦塔は全国的には珍しく関東特有のものと考えられているようです。代表的なものとして美里町の東山遺跡から出土した重要文化財指定のものがあります。ここに古代の寺院跡があるということは、この付近はかなり古い時代から開かれていたことがうかがわれます。この交差点から県道を西に4.5キロメートルほど行ったところは高麗本郷といい、高岡廃寺や聖天院、高麗神社など朝鮮半島に関系した史跡・遺跡が多くあります。『続紀』にもあるように高麗人がやって来て移り住んだところです。

境橋
橋の、片側の欄干はかなり古いもので、この辺の道自体も旧街道の雰囲気は感じられます。
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橋を振り返る
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戦後の区画整理によって出来た旭ヶ丘の辺。このあたりは、街道の姿を探すのは、難しいです。
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西大家駅横の踏切
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ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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そこから旭ヶ丘に100mくらい行ったところの道で。
駅からここまでは川になっている。
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ここから先は、川の横に道が復活している。
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森戸橋
高麗川を渡ります。
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寛政7年(1795)造立の馬頭観音
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鎌倉街道旧道
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鎌倉街道遺跡
最初訪ねたときには、雑木林の中に入り込んでいって街道の輪郭がなんとなくわかる場所でした。
2011年11月に二度目訪ねたときに、バッサリと木が全部切られていて吃驚しました。
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この辺が鎌倉街道上道全体のなかでも、とても気持ちのいい部分です。
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県道39号線との交差点。
毛呂山歴史民俗資料館のすぐ近くです。
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毛呂山歴史民俗資料館到着
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毛呂山歴史民俗資料館前庭で昼食
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私と山畑さん、池田さんはここでリタイア。
皆さんを見送ってから、毛呂山歴史民俗資料館の展示を見て
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今回は「毛呂季光の活躍と末裔たち」という冊子を購入して、資料館を後にしました。
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それから30分ほど歩いて「武州長瀬」駅に。
池田さんが同行しているので、途中石碑を撮ったりして。
池田さんは、まだまだ歩き回りたいようでしたが、私はギブアップ寸前なのでそれを振り切り(笑)
帰途につきました。
武州長瀬駅に着いた時点で、同行した山畑さんの万歩計の数字が三万歩でした。
足がパンパンで、夜苦しかった(笑)

(了)


鎌倉街道散歩/高崎から(4)

20130415

11日に歩いた鎌倉街道ですが、いよいよ4回目で目的地「一本松橋」まで記事にして終了となります。
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佐野の浮橋ならぬ木橋から「佐野の舟橋歌碑」に戻り、鎌倉街道を歩いていきます。
「常世神社」入り口の案内があって助かりました。
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常世神社

この神社は謡曲“鉢木”に主人公として登場する佐野源左衛門常世の宅跡と伝えられる場所に建っています。謡曲“鉢木”は観阿弥の作とされています。
領地を一族に奪われた源左衛門が、この里で窮迫の生活を送っていました。ある大雪の日、旅の僧(実は鎌倉幕府執権北条時頼)に一夜の宿を頼まれます。彼は暖をとる薪もないことから、秘蔵する盆栽の“鉢木”を焚いてこの僧をもてなしました。彼は僧との話の中で、今はこんなに落ちぶれているが、れっきとした鎌倉武士で、いざ鎌倉に事があれば真っ先に駆けつけるつもりで居ると話します。時頼は鎌倉に帰ると早速、諸国の武士に鎌倉集参を触れます。源左衛門が時頼の前に呼ばれ、当夜の僧が時頼であったことを知らされ、薪にした松・桜・梅の鉢に因んで、この文字の付く3領地を拝領したというものです。
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社殿をのぞくと、中に石祠が安置されていました。
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一画に、「鉢の木」を題材にした絵画が飾られていますが、普段は覆扉で保護されています。
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扉を開けると、鮮やかな色彩の絵があって吃驚しました。
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常世神社から、新幹線の高架沿いに少し行くと「定家神社」です。

定家神社

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社殿に比べ、境内の広さにびっくりしますが、戦前まで「定家さまの森」と言われるほど、木がこんもり茂っていたそうです。
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「定家」とは、小倉百人一首の撰者・藤原定家のことです。その藤原定家がこの神社のご祭神として祀られているわけです。
「定家神社由緒略記」によると、「創建年月詳か(つまびらか)ならず。相伝ふ処によると、定家は往時この地に来たり、草菴(そうあん)を結んで暫く居住の後、帰洛に臨みて別れを惜しみ、護持する所の観音像を土人に附与し記念とす。後土人欽慕の余り祠を建てこれを祭ると。観音像今尚存在せり。」
藤原定家がこの地に住んでいたのか、とちょっと驚きましたが、続けてこう書かれているんですね。
「往時この地を髙田の里と称し、上野國神明帳群馬郡西部に従三位髙田明神あり。是によって之を観すれば髙田明神は即ち本社となる。
而して新古今集の歌<駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ>
と詠ぜし紀伊國佐野を此処と誤認して定家を併祭せしより、後世遂に定家神社と称したるに至りし由、古文書による。現社殿は元文四己羊年(1739)造営。」
ということで、土地の人が勘違いしての創作となります。

思うに、近くの「佐野の舟橋」も「常世神社」も、謡曲と結びついているわけですね。
だから、この辺の人は謡曲に詳しくなり、謡曲の中に、「定家」という演目もあったことから、勘違いして「定家神社」を産み出してしまったのだと思います。
真偽を問うよりは、昔の人の教養の高さに感心したほうが良いのではないかと思いました。
結果として、ここ高崎に全国的にも珍しい「謡曲三名跡」を持つことになっているわけですから。

最近塗り直したのでしょう。実に社殿が鮮やかな色で、よく映えています。

拝殿
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本殿は、実に鮮やかな極彩色で、見事な彫刻がされています。
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神紋は、三つ葛の葉ですね。
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境内に、定家ならぬ万葉集の歌碑がありました。
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万葉集巻14 東歌
「佐野山(さのやま)に 打つや斧音(をのと)の 遠かども 寝(ね)もとか子ろが 面(おも)に見えつる」
(作者) 未詳。相聞往来の歌。
(大意) (佐野山の遠くに響く斧の音のように)遠くに離れてはいるが、供寝をしようというのか、あの娘が面影に見えた。

そして、松尾芭蕉の句碑もありました。
「松杉をほめてや風のかほる音」
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さきほどの万葉集の歌碑の横に「仁王堂」があります。
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昔は、道を隔てた東側にあったそうですが、昭和の初めに定家神社境内に移されたそうです。
そのお堂の中に仁王様が二体ならんで納められています。
珍しいですよね。
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境内に、何という花でしょうか、杉の林の下に一面に咲いていました。
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定家神社から新幹線の高架をくぐってすぐのところに「放光神社」があります。
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放光神社

社殿は屋根や土台が痛んできたということで、平成22年(2010)に建て替えられたので真新しくなっていますが、由緒はかなり古いのです。
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「明治維新に際し再興すといふ。上野国神名帳載する所の正四位上放光明神すなはちこれなり。此処に放光庵と称する仏堂あり。文禄中(1592-96)の建立なりしが、明治九年(1876)に至りこれを廃止、その跡を以て放光神社の神地に併す。堂は放光山天平寺と称する伽藍の跡なりと。」
鳥居の横には、「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた、大きな石碑が建っています。
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裏面には、こう刻まれています。
「抑〃(そもそも)吾カ(が)佐野ノ郷ハ 奈良時代既ニ闢(ひら)ク 大化改新前屯倉(みやけ)ヲ設置セラレ 佐野三家ノ首 建守尊(たけもりのみこと)ノ子孫此地ニ住セリ 天平年間(729-49)放光寺ヲ建立シ氏寺トナス 又放光明神ヲ祀リ氏神トナス 彼ノ山上古碑建立者長利僧ハ即チ該寺ノ僧ナリ 尓後悠久千二百年 可惜(おしむべし)史蹟トシテ現存スルモノ唯一祀ノミ 時偶々(たまたま)昭和十四年十月一日 佐野村ノ高崎市ト合併スルヤ 道路ノ拡張ニ依リ地域狭小トナル為ニ 史蹟ノ湮滅(いんめつ)セン事ヲ恐レ記念碑ヲ建立シ両阯ヲ永久ニ保存セントス  昭和十八年三月二十八日  世話人 赤石治市郎 堀口甚四郎」

「山ノ上碑」の碑文に「佐野」という文字があり、山名とも距離的に近いことから、長利という僧がいた「放光寺」はここ佐野にあったと、長いあいだ信じられていました。
しかし、昭和49年(1974)前橋市総社町の山王廃寺発掘調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が発見され、今は山王廃寺が「放光寺」であったという説の方が有力になっているようです。

「三家(屯倉)」(みやけ)は、六世紀から七世紀前半にかけて、各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことだそうです。佐野では、健守命という豪族がその管理をしていたということですから、その子孫は代々財産のある長者であったに違いありません。
それを物語るかのように、佐野には「長者屋敷」という字(あざ)がありました。
実は、そこが「佐野の船橋伝説」に出てくる「朝日の長者」の屋敷があった所だという話があります。
ここもまた佐野ならではの、伝説と謎に満ちた地でありました。

ここの前に鎌倉街道が延びています
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ずっと道なりに歩いていくと、烏川にかかる「一本松橋」に出ます。

一本松橋

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一本松橋から上流を望むと「神籠石」が見えます。
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一本松橋は現在はコンクリート造りの頑丈な橋になりましたが、それまでは毎年のように大水で流されていたそうです。それで橋の無い時は、渡し船で川を渡っていたようです。
その際に、神籠石にかかる川の水で水量を測り、渡る目印にしていたそうです。


今回は、鎌倉街道上つ道のスタート地点高崎から、この一本松橋まで歩きました。
けっこう史跡や伝承が多くて、楽しめた一日でした。

(了)



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鎌倉街道散歩/高崎から(3)

20130414

11日に歩いた鎌倉街道の続きです。
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琴平神社参道の荘厳寺前で右に入る細い道があります。これが鎌倉街道だといわれています。
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ちょっと歩くと新幹線の高架にぶつかります。
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どうなるのかな、と近づいてみるとちょっと横にずれたところに道があります。
それを渡ると、さきほどの道とつながる方向に道が延びている。
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少し歩いたところに道祖神があります。

僧形道祖神

右の道が、いま歩いてきた鎌倉街道。
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天保4(1833)建立で、僧形の男女が雲の上に乗っている。「天孫降臨型」と呼ばれる、地方では非常に珍しいもの。
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双体道祖神には珍しく、並んで立っているだけのおとなしいものです。
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そこから更に歩いて行くと、少し先に「秩父巡礼の道しるべ」があります。

秩父巡礼の道しるべ

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馬頭観音があり、台座に「左 婦ぢおか ちちぶミち 右 たかさき」と彫られているそうです。
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「左 婦ぢおか ちちぶミち」は、右から彫られているのが読み取れます。
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傍にあるのが猿田彦と資料にありますが、「馬頭観世音」という文字がうっすらと読めます。
模様が刻んでありますが、何だかよくわからない。これが猿田彦なのかな?
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再び、鎌倉街道を歩いて行きます。
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「天満宮入り口」という小さな標柱があったので、寄ってみます。
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太天神天満宮

書かれている説明によると、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世が創建したとの伝承のお宮でした。
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入ってすぐのところに、小さい双体道祖神がありました。かなり磨滅していますが、辛うじて手をつないでいるのがわかります。
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社額
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中には、石祠が納められていました。
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社の後ろに、いろいろな石仏が並べられていましたが、やはり「秩父巡礼の道しるべ」の馬頭観音がありました。
台座の右端に「右 やまな ふぢおか ちゝ婦」と彫られています。
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ここから少し歩きますが、万葉歌碑「佐野の舟橋歌碑」があります。
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佐野の舟橋歌碑

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歌碑に刻まれた文字はすっかり薄れていて読めません。
裏面には、文政十年(1827)建立とあります。

「かみつけの 佐野のふなはし とりはなち 親はさくれど わはさかるがへ」

昔、この辺りに、舟を並べて橋にした「舟橋」というのがありました。
この「佐野の舟橋」には、こんな悲しい伝説があります。
烏川を挟んで、東の佐野には「朝日の長者」と呼ばれた飯野主馬、西の片岡には「夕日の長者」と呼ばれた片岡民部という者がいました。
朝日の長者には那美(なみ)という娘、夕日の長者には小次郎という息子がいます。若い男女は、いつしか親の目を忍んで夜毎に逢引きをするような仲となりますが、それを知った親は二人が会えなくしようと、橋の板を何枚か外してしまいます。それとは知らず、いつもの通り闇夜の逢引きに来た二人は、足を踏み外して川の中へ。
翌日の川下で、しっかりと抱き合ったままの二人の死体が発見されました。
碑に刻まれている歌は、この伝説を詠った万葉歌だそうです。

万葉集が編纂されたのは奈良時代の759年頃だそうですから、佐野の舟橋の悲恋物語は少なくともそれ以前から語り継がれていたものですね。

ほかには、お地蔵さまと道祖神が置かれています。
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「佐野の舟橋」は、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の中に、その姿が描かれていまから、有名な橋だったわけですね。
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碑のすぐ西方に今も木橋が架かっているということで、見にいきます。
この道も鎌倉街道の一つです。
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たしかに木橋です。すごい。
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豪雨などで度々流されますが、その度に木橋で架けられてきたそうです。
近年、当然ながら脚部のみ鉄製となっています。
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歩いて行くと、とても気持ちのいい風も吹いていて、最高ですね。
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のどかに釣りを楽しんでいる人もいました。
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すぐ近くにある「常世神社」から、次回の記事とします。



鎌倉街道散歩/高崎から(4)に移動するには、下記クリック
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鎌倉街道散歩/高崎から(2)

20130413

11日に歩いた、鎌倉街道上つ道の続きです。
竜広寺から、東の方に歩いて鎌倉街道が通っていた地帯にいき、佐藤病院の化け石を見に行きます。
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佐藤病院の化け石

佐藤病院というのは、元御殿医だそうですが、行ってみるとすごく立派な病院でした。
産婦人科のようで、高崎で出生する子は、みなこの病院で生まれるんじゃないかと思いました。
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玄関入口の東側のコーナーに小さな社と大きな石があります。
この石は、「化け石」(または、ぼけ石)と呼ばれていて、旧街道筋にあって、馬に蹴られたから馬蹴り石ともいわれているという。
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興禅寺の絵図

佐藤病院からちょっと歩くと、興禅寺です。
山門
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山門と興禅寺本堂の間に道が走っていますが、本堂の寺域の塀の前に、綺麗な石仏が立っていました。
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延宝6(1678)年建立の古いものですが、とても美しい観音様でした。
頭の上は化仏だと見え、手にはつぼみの蓮華を持っていますから「聖観音」だと思われます。
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興禅寺は、井伊直政による高崎城築城の際に境内をせばめられ、その後大河内氏が城主になってから、天保年間に現在地に堂宇(どうう)を移しています。旧市内では最も由緒ある寺院で、新田義重を開基として治承元(1177)年に創建されたと言われています。
その後衰えていたものを、和田城城主和田右兵衛大夫(わだうひょうえだゆう)信耀が再興して、菩提寺(ぼだいじ)としたという歴史があります。
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この興禅寺に伝わる絵図に鎌倉街道が書かれています。
高崎市のサイトで入手した「境内古絵図」
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和紙に墨で描かれた古い絵図です。今はまったく当時のおもかげはありませんが、烏川(からすがわ)の流れに沿って和田城、「いざ鎌倉」のために整備された鎌倉街道、街道に直接面した大きな敷地の中に興禅寺の様子が描かれています。
また、これに隣接する街道沿いには馬上宿(ばじょうのしゅく)の注記があります。高崎城築城以前の和田氏の時代のことで、天文から天正年間(1532~1591)の頃のものとされています。

興禅寺から竜広寺の前から入ったところにある坂道、「小万坂」に行きます。先ほどの古絵図に、すでに「小万坂」が書き込まれています。
この途中に「小万地蔵」があります。
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小万地蔵

鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没しました。その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ、堂宇を建立して地蔵尊を祀りました。
「小万地蔵」が出来て、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのでしょう。
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地蔵堂のなかには、たくさんのお地蔵様が祀られています。
中央の小さなお地蔵様が小万地蔵です。
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ここから、鎌倉街道がはっきりしています。細い道がずっと続きます。
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小万地蔵から私は一旦高崎城址地下駐車場に戻り、車で城南小学校の手前まで行き、そこから歩きました。以後は、要所に車を置いて歩くということになります。
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鎌倉街道橋

城南小学校の横を歩いて行くと、上信電鉄の線路にぶつかります。
城南小学校の裏口の辺に踏切があり、そこを渡ります。
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渡って、ちょっと右に行くと「鎌倉街道記念碑」があります。
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鎌倉街道記念碑のところから、歩道橋がかかっていて、これが「鎌倉街道橋」なんだそうです。下の写真のクリーム色がそうです。
上を走っているのが、県道71号「西上州やまびこ街道」の「城南大橋」です。
「鎌倉街道橋」の下を走っているのが、県道71号から国道17号(中山道)に乗るための車道です。
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鎌倉街道橋を渡ると、右手に琴平神社の森が見えます。
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琴平神社

通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれる琴平神社です。
石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。
寺田宗有という人、天狗の化身か?

山門
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外側には随身
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内側には、なんと仁王様です。
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境内
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石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。
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拝殿の扁額
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神紋は「葉団扇」ですね。
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天狗が奉納されています。
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本殿
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本殿の横に大黒天が祀られていた。
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絵馬殿
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立派な奉納額
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ここにも天狗が奉納されている。
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内部には、色々な絵馬が奉納されていました。
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社殿がある小山の麓に、溶岩で出来た洞穴があります。
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中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」が祀られていました。
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境内には、飯玉神社も祀られています。
琴平神社のある新後閑(しごか)という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。
その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
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失礼して中を覗くと、大黒様、えびす様もいらっしゃいますし、金精様のようなのもいらっしゃいます。
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境内には、昭和45年(1970)に建立されたという「天満宮」もあります。
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面白いと思ったのは、神社額と賽銭箱の奉納者です。
福田赳夫氏の賽銭箱、中曽根康弘氏の神社額。
これが奉納された頃は、群馬県を二分してトップ争いをしていた両政治家の揃い踏みでした(笑)

琴平神社で、ずいぶん写真を載せてしまい、あまり進んでいませんが、残りは次回とします。



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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