源義高ウォーク

20150505

4日に「狭山市をおもしろくする会」、「狭山まちづくリストの会」共催のウォークに参加しました。
源義高に想いをはせながら、狭山市から嵐山の「大蔵館」まで歩こうという企画です。

私は、けっこう普段から史跡めぐりで歩き回っているとはいえ、長距離のウォークには自信が無く、この後も幹事を引き受けているイベントが13日までに3つあることから、ここで体調を崩すと大変なことになるので、「毛呂山歴史民俗資料館」まで参加することにしました。

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清水冠者源義高は、木曽義仲の嫡子であり、頼朝との和議のため義高は人質として、信濃の名族の子弟である海野幸氏や望月重隆らを伴い、頼朝の長女・大姫の婿という名目で鎌倉へ下った。
父・義仲が討たれたことにより、人質として鎌倉にいた義高の立場は悪化する。4月21日(6月1日)、頼朝が義高を誅殺しようとしていることを知った大姫は、義高を密かに逃がそうとする。義高と同年の側近で、いつも双六の相手をしていた幸氏が義高に成り代わり、義高は女房姿に扮して大姫の侍女達に囲まれ屋敷を抜けだし、大姫が手配した馬に乗って鎌倉を脱出する。しかし夜になって事が露見し、義高は4月26日(6月6日)に武蔵国で追手に捕らえられ、入間河原で親家の郎党・藤内光澄に討たれた。
義高の死を知った大姫は嘆き悲しみ病床に伏してしまう。母の政子は義高を討ったために大姫が病になってしまったと怒り、義高を討った郎従の不始末のせいだと頼朝に強く迫り、6月27日(8月5日)、光澄は晒し首にされた。

40名を超える参加者で、まずは準備体操をして体をほぐしてから歩き始めました。
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清水八幡
北条政子は義高の靈を慰めるため、この地に壮麗な社殿を建てたそうです。しかし入間川の氾濫により社殿は失われてしまいました。
永享2年(1430)に地元の人たちが神社の由来を刻んだ石祠を造り祭祀を続けていたが、その石祠も行方知れずになっていたところ、今から180年前に赤間川から石祠が発見され、地元の人たちの努力で現在の清水八幡が再建されたものです。
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入間川を渡ります。
鎌倉街道のころは、「八丁の渡し」があったあたりで、当時は徒歩渡りでした。
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信濃坂にある「陰隠し地蔵」
清水義高が、その陰に隠れて一旦は難を逃れたという。
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ここは、現在「奥州道交差点」と云い、昔から交通の要衝でした。
安永3年(1774)造立の石橋供養塔が道しるべになっています。
4面にそれぞれ「南江戸、東川越、北小川、西八王子」と刻まれている。
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智光山公園の前をとおり、
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お弁当など買い物と休憩タイム
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日光脇往還との交差点「鎌倉街道交差点」
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日光脇往還
八王子千人同心が日光東照宮の火の番警護を命じられ、八王子と日光東照宮の間を往復した。
狭山市では、根岸の渡しを通っています。
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その先に、いかにも「切り通し」らしい道があります。
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「鎌倉街道上道」碑
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さりげなく無事を祈る「馬頭観世音」碑
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霞野神社
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霞野神社本殿の南には、「女影ケ原古戦場跡」 の碑がある。
鎌倉幕府滅亡直後、いわゆる南北朝時代の建武二年(1335) 7月22日、鎌倉を追われ、信濃に潜んでいた鎌倉幕府の執権・北条高時の遺児・高行が、鎌倉幕府再興のため、足利氏を倒そうと起こした「中先代の乱」で、ここ女影ケ原で高行軍は、尊氏の弟で執権・直義率いる足利軍と相対し、これを打ち破った。その古戦場跡がこの辺りになると言われている。
その時、足利軍は、大将の一人、直義の妻の兄・渋川義李を失うなど手痛い打撃を受け、その後の戦いにも影響を残します。北条高行軍は、この後、鎌倉街道上道であと三度ほど合戦をしている。

道標を兼ねた大乗妙典碑
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霞野神社前の鎌倉街道と、右に分かれる道との間に隠れて道標を兼ねた「大乗妙典碑」があり、「右あうぎ町谷八王子道、左入間川所沢みち」と刻まれています。
「右あうぎ町谷八王子道」は、南の大谷沢で日光裏街道(国道407号線)に出て、入間市の扇町屋を通り、その後、国道一六号線を八王子に向かう道ではないかと思われます。
そして「左入間川所沢みち」が、いま通って来た鎌倉街道です。

女影交差点
この辺りは、鎌倉時代も「女影宿」として栄えた所と言われるところです。交差点の角に、「女影時計台」と表示されているかわいい時計塔が建てられています。
『新編武蔵風土記稿』には、「女影」の地名の由来となった伝説が載っています。それによると、女影に「千丈ケ池」があり、その昔、「せん」という女性がこの池に身を投げて死んだと伝えられ、その後、この池にその女性の影が映るようになり、地元の人がこれを「女影」と呼び、これが村の名前になったとあります。
今も女影の南にある「仙女ケ池」がそれであると言われています。
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この辺りは、昔(奈良時代)は大きなお寺(女影廃寺跡)があり、街道を挟んだ西が比定地。
発掘調査が行われ溝跡から多数の瓦や瓦塔片などが検出されたそうです。瓦塔は全国的には珍しく関東特有のものと考えられているようです。代表的なものとして美里町の東山遺跡から出土した重要文化財指定のものがあります。ここに古代の寺院跡があるということは、この付近はかなり古い時代から開かれていたことがうかがわれます。この交差点から県道を西に4.5キロメートルほど行ったところは高麗本郷といい、高岡廃寺や聖天院、高麗神社など朝鮮半島に関系した史跡・遺跡が多くあります。『続紀』にもあるように高麗人がやって来て移り住んだところです。

境橋
橋の、片側の欄干はかなり古いもので、この辺の道自体も旧街道の雰囲気は感じられます。
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橋を振り返る
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戦後の区画整理によって出来た旭ヶ丘の辺。このあたりは、街道の姿を探すのは、難しいです。
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西大家駅横の踏切
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ここでは街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。
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そこから旭ヶ丘に100mくらい行ったところの道で。
駅からここまでは川になっている。
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ここから先は、川の横に道が復活している。
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森戸橋
高麗川を渡ります。
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寛政7年(1795)造立の馬頭観音
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鎌倉街道旧道
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鎌倉街道遺跡
最初訪ねたときには、雑木林の中に入り込んでいって街道の輪郭がなんとなくわかる場所でした。
2011年11月に二度目訪ねたときに、バッサリと木が全部切られていて吃驚しました。
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この辺が鎌倉街道上道全体のなかでも、とても気持ちのいい部分です。
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県道39号線との交差点。
毛呂山歴史民俗資料館のすぐ近くです。
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毛呂山歴史民俗資料館到着
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毛呂山歴史民俗資料館前庭で昼食
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私と山畑さん、池田さんはここでリタイア。
皆さんを見送ってから、毛呂山歴史民俗資料館の展示を見て
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今回は「毛呂季光の活躍と末裔たち」という冊子を購入して、資料館を後にしました。
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それから30分ほど歩いて「武州長瀬」駅に。
池田さんが同行しているので、途中石碑を撮ったりして。
池田さんは、まだまだ歩き回りたいようでしたが、私はギブアップ寸前なのでそれを振り切り(笑)
帰途につきました。
武州長瀬駅に着いた時点で、同行した山畑さんの万歩計の数字が三万歩でした。
足がパンパンで、夜苦しかった(笑)

(了)


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鎌倉街道散歩/高崎から(4)

20130415

11日に歩いた鎌倉街道ですが、いよいよ4回目で目的地「一本松橋」まで記事にして終了となります。
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佐野の浮橋ならぬ木橋から「佐野の舟橋歌碑」に戻り、鎌倉街道を歩いていきます。
「常世神社」入り口の案内があって助かりました。
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常世神社

この神社は謡曲“鉢木”に主人公として登場する佐野源左衛門常世の宅跡と伝えられる場所に建っています。謡曲“鉢木”は観阿弥の作とされています。
領地を一族に奪われた源左衛門が、この里で窮迫の生活を送っていました。ある大雪の日、旅の僧(実は鎌倉幕府執権北条時頼)に一夜の宿を頼まれます。彼は暖をとる薪もないことから、秘蔵する盆栽の“鉢木”を焚いてこの僧をもてなしました。彼は僧との話の中で、今はこんなに落ちぶれているが、れっきとした鎌倉武士で、いざ鎌倉に事があれば真っ先に駆けつけるつもりで居ると話します。時頼は鎌倉に帰ると早速、諸国の武士に鎌倉集参を触れます。源左衛門が時頼の前に呼ばれ、当夜の僧が時頼であったことを知らされ、薪にした松・桜・梅の鉢に因んで、この文字の付く3領地を拝領したというものです。
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社殿をのぞくと、中に石祠が安置されていました。
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一画に、「鉢の木」を題材にした絵画が飾られていますが、普段は覆扉で保護されています。
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扉を開けると、鮮やかな色彩の絵があって吃驚しました。
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常世神社から、新幹線の高架沿いに少し行くと「定家神社」です。

定家神社

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社殿に比べ、境内の広さにびっくりしますが、戦前まで「定家さまの森」と言われるほど、木がこんもり茂っていたそうです。
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「定家」とは、小倉百人一首の撰者・藤原定家のことです。その藤原定家がこの神社のご祭神として祀られているわけです。
「定家神社由緒略記」によると、「創建年月詳か(つまびらか)ならず。相伝ふ処によると、定家は往時この地に来たり、草菴(そうあん)を結んで暫く居住の後、帰洛に臨みて別れを惜しみ、護持する所の観音像を土人に附与し記念とす。後土人欽慕の余り祠を建てこれを祭ると。観音像今尚存在せり。」
藤原定家がこの地に住んでいたのか、とちょっと驚きましたが、続けてこう書かれているんですね。
「往時この地を髙田の里と称し、上野國神明帳群馬郡西部に従三位髙田明神あり。是によって之を観すれば髙田明神は即ち本社となる。
而して新古今集の歌<駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ>
と詠ぜし紀伊國佐野を此処と誤認して定家を併祭せしより、後世遂に定家神社と称したるに至りし由、古文書による。現社殿は元文四己羊年(1739)造営。」
ということで、土地の人が勘違いしての創作となります。

思うに、近くの「佐野の舟橋」も「常世神社」も、謡曲と結びついているわけですね。
だから、この辺の人は謡曲に詳しくなり、謡曲の中に、「定家」という演目もあったことから、勘違いして「定家神社」を産み出してしまったのだと思います。
真偽を問うよりは、昔の人の教養の高さに感心したほうが良いのではないかと思いました。
結果として、ここ高崎に全国的にも珍しい「謡曲三名跡」を持つことになっているわけですから。

最近塗り直したのでしょう。実に社殿が鮮やかな色で、よく映えています。

拝殿
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本殿は、実に鮮やかな極彩色で、見事な彫刻がされています。
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神紋は、三つ葛の葉ですね。
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境内に、定家ならぬ万葉集の歌碑がありました。
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万葉集巻14 東歌
「佐野山(さのやま)に 打つや斧音(をのと)の 遠かども 寝(ね)もとか子ろが 面(おも)に見えつる」
(作者) 未詳。相聞往来の歌。
(大意) (佐野山の遠くに響く斧の音のように)遠くに離れてはいるが、供寝をしようというのか、あの娘が面影に見えた。

そして、松尾芭蕉の句碑もありました。
「松杉をほめてや風のかほる音」
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さきほどの万葉集の歌碑の横に「仁王堂」があります。
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昔は、道を隔てた東側にあったそうですが、昭和の初めに定家神社境内に移されたそうです。
そのお堂の中に仁王様が二体ならんで納められています。
珍しいですよね。
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境内に、何という花でしょうか、杉の林の下に一面に咲いていました。
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定家神社から新幹線の高架をくぐってすぐのところに「放光神社」があります。
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放光神社

社殿は屋根や土台が痛んできたということで、平成22年(2010)に建て替えられたので真新しくなっていますが、由緒はかなり古いのです。
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「明治維新に際し再興すといふ。上野国神名帳載する所の正四位上放光明神すなはちこれなり。此処に放光庵と称する仏堂あり。文禄中(1592-96)の建立なりしが、明治九年(1876)に至りこれを廃止、その跡を以て放光神社の神地に併す。堂は放光山天平寺と称する伽藍の跡なりと。」
鳥居の横には、「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた、大きな石碑が建っています。
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裏面には、こう刻まれています。
「抑〃(そもそも)吾カ(が)佐野ノ郷ハ 奈良時代既ニ闢(ひら)ク 大化改新前屯倉(みやけ)ヲ設置セラレ 佐野三家ノ首 建守尊(たけもりのみこと)ノ子孫此地ニ住セリ 天平年間(729-49)放光寺ヲ建立シ氏寺トナス 又放光明神ヲ祀リ氏神トナス 彼ノ山上古碑建立者長利僧ハ即チ該寺ノ僧ナリ 尓後悠久千二百年 可惜(おしむべし)史蹟トシテ現存スルモノ唯一祀ノミ 時偶々(たまたま)昭和十四年十月一日 佐野村ノ高崎市ト合併スルヤ 道路ノ拡張ニ依リ地域狭小トナル為ニ 史蹟ノ湮滅(いんめつ)セン事ヲ恐レ記念碑ヲ建立シ両阯ヲ永久ニ保存セントス  昭和十八年三月二十八日  世話人 赤石治市郎 堀口甚四郎」

「山ノ上碑」の碑文に「佐野」という文字があり、山名とも距離的に近いことから、長利という僧がいた「放光寺」はここ佐野にあったと、長いあいだ信じられていました。
しかし、昭和49年(1974)前橋市総社町の山王廃寺発掘調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が発見され、今は山王廃寺が「放光寺」であったという説の方が有力になっているようです。

「三家(屯倉)」(みやけ)は、六世紀から七世紀前半にかけて、各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことだそうです。佐野では、健守命という豪族がその管理をしていたということですから、その子孫は代々財産のある長者であったに違いありません。
それを物語るかのように、佐野には「長者屋敷」という字(あざ)がありました。
実は、そこが「佐野の船橋伝説」に出てくる「朝日の長者」の屋敷があった所だという話があります。
ここもまた佐野ならではの、伝説と謎に満ちた地でありました。

ここの前に鎌倉街道が延びています
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ずっと道なりに歩いていくと、烏川にかかる「一本松橋」に出ます。

一本松橋

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一本松橋から上流を望むと「神籠石」が見えます。
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一本松橋は現在はコンクリート造りの頑丈な橋になりましたが、それまでは毎年のように大水で流されていたそうです。それで橋の無い時は、渡し船で川を渡っていたようです。
その際に、神籠石にかかる川の水で水量を測り、渡る目印にしていたそうです。


今回は、鎌倉街道上つ道のスタート地点高崎から、この一本松橋まで歩きました。
けっこう史跡や伝承が多くて、楽しめた一日でした。

(了)



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http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/kamakurakaidoutop.html



鎌倉街道散歩/高崎から(3)

20130414

11日に歩いた鎌倉街道の続きです。
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琴平神社参道の荘厳寺前で右に入る細い道があります。これが鎌倉街道だといわれています。
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ちょっと歩くと新幹線の高架にぶつかります。
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どうなるのかな、と近づいてみるとちょっと横にずれたところに道があります。
それを渡ると、さきほどの道とつながる方向に道が延びている。
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少し歩いたところに道祖神があります。

僧形道祖神

右の道が、いま歩いてきた鎌倉街道。
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天保4(1833)建立で、僧形の男女が雲の上に乗っている。「天孫降臨型」と呼ばれる、地方では非常に珍しいもの。
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双体道祖神には珍しく、並んで立っているだけのおとなしいものです。
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そこから更に歩いて行くと、少し先に「秩父巡礼の道しるべ」があります。

秩父巡礼の道しるべ

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馬頭観音があり、台座に「左 婦ぢおか ちちぶミち 右 たかさき」と彫られているそうです。
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「左 婦ぢおか ちちぶミち」は、右から彫られているのが読み取れます。
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傍にあるのが猿田彦と資料にありますが、「馬頭観世音」という文字がうっすらと読めます。
模様が刻んでありますが、何だかよくわからない。これが猿田彦なのかな?
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再び、鎌倉街道を歩いて行きます。
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「天満宮入り口」という小さな標柱があったので、寄ってみます。
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太天神天満宮

書かれている説明によると、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世が創建したとの伝承のお宮でした。
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入ってすぐのところに、小さい双体道祖神がありました。かなり磨滅していますが、辛うじて手をつないでいるのがわかります。
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社額
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中には、石祠が納められていました。
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社の後ろに、いろいろな石仏が並べられていましたが、やはり「秩父巡礼の道しるべ」の馬頭観音がありました。
台座の右端に「右 やまな ふぢおか ちゝ婦」と彫られています。
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ここから少し歩きますが、万葉歌碑「佐野の舟橋歌碑」があります。
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佐野の舟橋歌碑

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歌碑に刻まれた文字はすっかり薄れていて読めません。
裏面には、文政十年(1827)建立とあります。

「かみつけの 佐野のふなはし とりはなち 親はさくれど わはさかるがへ」

昔、この辺りに、舟を並べて橋にした「舟橋」というのがありました。
この「佐野の舟橋」には、こんな悲しい伝説があります。
烏川を挟んで、東の佐野には「朝日の長者」と呼ばれた飯野主馬、西の片岡には「夕日の長者」と呼ばれた片岡民部という者がいました。
朝日の長者には那美(なみ)という娘、夕日の長者には小次郎という息子がいます。若い男女は、いつしか親の目を忍んで夜毎に逢引きをするような仲となりますが、それを知った親は二人が会えなくしようと、橋の板を何枚か外してしまいます。それとは知らず、いつもの通り闇夜の逢引きに来た二人は、足を踏み外して川の中へ。
翌日の川下で、しっかりと抱き合ったままの二人の死体が発見されました。
碑に刻まれている歌は、この伝説を詠った万葉歌だそうです。

万葉集が編纂されたのは奈良時代の759年頃だそうですから、佐野の舟橋の悲恋物語は少なくともそれ以前から語り継がれていたものですね。

ほかには、お地蔵さまと道祖神が置かれています。
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「佐野の舟橋」は、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の中に、その姿が描かれていまから、有名な橋だったわけですね。
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碑のすぐ西方に今も木橋が架かっているということで、見にいきます。
この道も鎌倉街道の一つです。
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たしかに木橋です。すごい。
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豪雨などで度々流されますが、その度に木橋で架けられてきたそうです。
近年、当然ながら脚部のみ鉄製となっています。
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歩いて行くと、とても気持ちのいい風も吹いていて、最高ですね。
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のどかに釣りを楽しんでいる人もいました。
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すぐ近くにある「常世神社」から、次回の記事とします。



鎌倉街道散歩/高崎から(4)に移動するには、下記クリック
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鎌倉街道散歩/高崎から(2)

20130413

11日に歩いた、鎌倉街道上つ道の続きです。
竜広寺から、東の方に歩いて鎌倉街道が通っていた地帯にいき、佐藤病院の化け石を見に行きます。
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佐藤病院の化け石

佐藤病院というのは、元御殿医だそうですが、行ってみるとすごく立派な病院でした。
産婦人科のようで、高崎で出生する子は、みなこの病院で生まれるんじゃないかと思いました。
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玄関入口の東側のコーナーに小さな社と大きな石があります。
この石は、「化け石」(または、ぼけ石)と呼ばれていて、旧街道筋にあって、馬に蹴られたから馬蹴り石ともいわれているという。
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興禅寺の絵図

佐藤病院からちょっと歩くと、興禅寺です。
山門
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山門と興禅寺本堂の間に道が走っていますが、本堂の寺域の塀の前に、綺麗な石仏が立っていました。
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延宝6(1678)年建立の古いものですが、とても美しい観音様でした。
頭の上は化仏だと見え、手にはつぼみの蓮華を持っていますから「聖観音」だと思われます。
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興禅寺は、井伊直政による高崎城築城の際に境内をせばめられ、その後大河内氏が城主になってから、天保年間に現在地に堂宇(どうう)を移しています。旧市内では最も由緒ある寺院で、新田義重を開基として治承元(1177)年に創建されたと言われています。
その後衰えていたものを、和田城城主和田右兵衛大夫(わだうひょうえだゆう)信耀が再興して、菩提寺(ぼだいじ)としたという歴史があります。
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この興禅寺に伝わる絵図に鎌倉街道が書かれています。
高崎市のサイトで入手した「境内古絵図」
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和紙に墨で描かれた古い絵図です。今はまったく当時のおもかげはありませんが、烏川(からすがわ)の流れに沿って和田城、「いざ鎌倉」のために整備された鎌倉街道、街道に直接面した大きな敷地の中に興禅寺の様子が描かれています。
また、これに隣接する街道沿いには馬上宿(ばじょうのしゅく)の注記があります。高崎城築城以前の和田氏の時代のことで、天文から天正年間(1532~1591)の頃のものとされています。

興禅寺から竜広寺の前から入ったところにある坂道、「小万坂」に行きます。先ほどの古絵図に、すでに「小万坂」が書き込まれています。
この途中に「小万地蔵」があります。
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小万地蔵

鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没しました。その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ、堂宇を建立して地蔵尊を祀りました。
「小万地蔵」が出来て、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのでしょう。
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地蔵堂のなかには、たくさんのお地蔵様が祀られています。
中央の小さなお地蔵様が小万地蔵です。
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ここから、鎌倉街道がはっきりしています。細い道がずっと続きます。
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小万地蔵から私は一旦高崎城址地下駐車場に戻り、車で城南小学校の手前まで行き、そこから歩きました。以後は、要所に車を置いて歩くということになります。
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鎌倉街道橋

城南小学校の横を歩いて行くと、上信電鉄の線路にぶつかります。
城南小学校の裏口の辺に踏切があり、そこを渡ります。
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渡って、ちょっと右に行くと「鎌倉街道記念碑」があります。
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鎌倉街道記念碑のところから、歩道橋がかかっていて、これが「鎌倉街道橋」なんだそうです。下の写真のクリーム色がそうです。
上を走っているのが、県道71号「西上州やまびこ街道」の「城南大橋」です。
「鎌倉街道橋」の下を走っているのが、県道71号から国道17号(中山道)に乗るための車道です。
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鎌倉街道橋を渡ると、右手に琴平神社の森が見えます。
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琴平神社

通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれる琴平神社です。
石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。
寺田宗有という人、天狗の化身か?

山門
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外側には随身
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内側には、なんと仁王様です。
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境内
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石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。
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拝殿の扁額
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神紋は「葉団扇」ですね。
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天狗が奉納されています。
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本殿
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本殿の横に大黒天が祀られていた。
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絵馬殿
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立派な奉納額
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ここにも天狗が奉納されている。
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内部には、色々な絵馬が奉納されていました。
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社殿がある小山の麓に、溶岩で出来た洞穴があります。
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中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」が祀られていました。
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境内には、飯玉神社も祀られています。
琴平神社のある新後閑(しごか)という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。
その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
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失礼して中を覗くと、大黒様、えびす様もいらっしゃいますし、金精様のようなのもいらっしゃいます。
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境内には、昭和45年(1970)に建立されたという「天満宮」もあります。
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面白いと思ったのは、神社額と賽銭箱の奉納者です。
福田赳夫氏の賽銭箱、中曽根康弘氏の神社額。
これが奉納された頃は、群馬県を二分してトップ争いをしていた両政治家の揃い踏みでした(笑)

琴平神社で、ずいぶん写真を載せてしまい、あまり進んでいませんが、残りは次回とします。



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鎌倉街道散歩/高崎から(1)

20130412

昨年は、色々な取り組みをはじめたせいで鎌倉街道に関してはほとんど出来ませんでした。
今年は再度巻き返しを図ります。
昨日11日に、鎌倉街道上つ道のスタート地点である高崎から佐野の一本松橋まで歩きました。
赤が鎌倉街道、緑が実際歩いた道、黄色が史跡です。
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関越自動車道高崎インターから、ナビを頼りに高崎城址地下駐車場まで行き、ここで車を置きます。
高崎城址から鎌倉街道を歩きだす前に、高崎駅近くの大信寺に向かいます。
ここには、徳川忠長の墓があります。

大信寺

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徳川忠長は、二代目将軍秀忠の次男です。秀忠とお江は忠長を溺愛し次期将軍にしようとしますが、春日局が家康に「天下泰平のためには嫡子相続を」と直訴し、家光が将軍になったことは有名な話です。
忠長は、それでも甲府・駿河・遠江合せて55万石を領し、駿河大納言と呼ばれました。しかし徳川忠長は、家光に憎まれたこともあり、乱行があったとして高崎城に幽閉され、寛永10年(1633)に自刃させられました。

墓所入り口の扉が閉ざされ、閂がかけられていたので、ご住職にお願いして開けていただきました。
入ってすぐの場所に忠長の墓がありますが、その手前に大きな武蔵型板碑がありました。
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忠長の墓
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高さ2.3メートル余の五輪塔です。
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五輪塔の火輪の部分に葵の紋が刻んでありますが、「裏葵」となっています。
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忠長の33回忌、家光は既に他界していたので、ようやく墓を建立できたのですが、その際罪人だったので表葵をはばかり、裏葵にしたそうです。

ちなみに葵の紋については、家康が「将軍家は表三つ葉、尾張家は表二つ裏一つ、紀伊家は表一つ裏二つ、水戸家は裏三つとする」と定めたとされています。
ところが、水戸黄門の例の印籠の紋が表葵三つであるように、なぜかこの家康の命令は守られていないようです。

忠長の墓の横に「守随彦三郎の墓」があったので、これも紹介しておきます。
江戸の「秤座」守随家の三男です。守随家は武田家から甲斐における秤の製造・販売の特権を与えられていた。武田氏滅亡後、家康から当初は甲斐一国を認められ、最終的には東33ケ国の特権を得たといいます。
高崎では三男彦三郎が「高崎秤座」を開き、地方秤座の名代役を幕末まで務めた、と説明書きがありました。
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ここから、高崎城址に戻ります。

高崎城址

高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城がありました。和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われます。
室町時代に関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属します。その後武田信玄についたり、き北条氏に属したりします。豊臣秀吉の小田原征伐の際に前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、落城、廃城となりました。
関東に徳川家康が入部した際、井伊直政が家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築きました。この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為です。

城址を囲むお堀が綺麗です。
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東門
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乾櫓
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現在の天守閣、市役所の威容がそびえています。
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堀伝いに歩いてきて、「三の丸土塁」にやってきました。
ここが鎌倉街道上つ道の出発点です。
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左右に堀が続いています。
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いよいよ鎌倉街道を歩きだします。
三の丸土塁を振り返る。
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高崎公園の横を歩いていくと頼政神社です。

頼政神社

境内に足を踏み入れるとすぐに、内村鑑三の碑がありました。
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景色が映りこんでいて、わかり難いですが、こう書かれています。
上州無知亦無才
剛毅木訥易被欺
唯以正直接萬人
至誠依神期勝利
              鑑三

その意味は
「上州人としての私は、知恵も才能もなく、 剛毅木訥で、欺かれやすく、ただ正直をもって万人に接し、神によって至誠を尽くし、勝利を期した。鑑三」です。

(頼政神社 案内板)
 元禄八年(1695年)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同十一年(1698年)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。宝永七年(1710年)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保二年(1717年)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。 頼政公は、平安末期に、源家正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。 後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180年)宇治平等院で自刃した。家集『源三位頼政御集』がある。又、宮中で鵺を退治した話は有名である。 
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狛犬が、いい感じですね。
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拝殿
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神紋は「桔梗」ですね。
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本殿は朱塗りで立派です。
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頼政神社の社宝の写真が高崎市HPに掲載されていました。

稲妻の鎧
稲妻の鎧 稲妻の鎧は、篭手(こて)に雷文があることから、この名前がついています。
この鎧は、松平(大河内)輝聴(てるとし)が、黒船来航など世情風雲急を告げた天保(1830~1843年)の頃造らせたもので、大鎧(おおよろい)の形をとっていて、古い小札(こざね)も一部用いられています。
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白銀造太刀
輝貞が元禄時代に武蔵国の刀匠(とうしょう)藤原助隣に作らせたもので、箱書に元禄12(1699)年の年号が記してあります。
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源三位頼政は、歌人としても有名です。
新古今和歌集には
「今宵たれすずふく風を身にしめて吉野のたけにつきを見るらん」
千載集には
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白川の関」
恋歌で
「思へどもいはで忍ぶのすり衣心の中にみだれぬるかな」
などがあります。

次いで、高崎の地名のもととなったという竜広寺に向かいます。

高崎山竜広寺

山号の「高崎山」には、有名な由来があります。
「竜広寺」は、箕輪城主だった井伊直政が和田(高崎の旧称)に城を移した際、箕輪から白庵(びゃくあん)和尚を招請して開山したといいます。
直政は和田という地名も改めることとし、「松ヶ崎」にするか「鷹ヶ崎」にするか決めかねて、和尚に相談した。
和尚は、「松」も「鷹」も生き物は必ず死ぬものだから、「高」の字を用いて「高崎」とするのが良いだろう、と答えたそうです。
白庵和尚によって「高崎」の地名が決まったことから、「竜広寺」の山号は「高崎山」となったといいます。

山門
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山門の扁額に「高崎山」
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山門のところの枝垂れ桜が、盛りは過ぎていますがまだ咲いていました。
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本堂
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本堂の額を行者さんが支えています(笑)
その上の龍と麒麟の彫刻も素晴らしい。
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屋根の上の獅子
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ここ「竜広寺」には、「元ロシア兵の墓」があり、高崎市の指定史跡になっています。
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ここに眠る3人のロシア兵は、明治37年(1905年)の日露戦争に於いて捕虜となり、「竜広寺」に収容されてのち亡くなった兵士の墓だそうです。
当時、高崎には500人を超える捕虜が、市内の寺院などに収容されていたという。
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日露戦争では、高崎第15連隊が旅順港攻撃に参戦し、3日間に及ぶ「164高地」の激戦で、568人もの犠牲者を出してついに陥落させた。 「164高地」は、その功を讃えて、奇しくも「高崎山」と名付けられたという話もあります。

「ロシア兵の墓」がある一角は、もともと「陸軍墓地」です。
高崎の陸軍病院で亡くなった人218人の墓石が、ズラッと立っていました。一人一柱というのは丁寧ですね。
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とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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