柏原の歴史と文化を子供たちに語る/学校支援ボランティア

20151115

6日(金)、柏原小学校の6年生に「柏原の歴史・文化にふれよう-お話を聞く会」を実施しました。
5年前から始まった企画で、社会の時間2時限を使って行います。
学校支援コーディネーターの私が窓口になり、「狭山歴史ガイドの会」の協力で行っています。協力していただいた方は狭山歴史ガイドの会の会員ですが、この日参加したボランティアは私も含め7名中6名が歴史クラブの会員でした。

二部構成で、一部では生徒98人全員を対象に15分「柏原の歴史についての概要」を私が話しました。
城山砦を市からの委託で管理しているNPO法人ユーアイネット柏原が、今年子供向けパンフレットを作る際に説明文を担当したので、全員にそのパンフレットを配り、その説明もしました。
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「柏原の歴史についての概要」は、以下の話を子供向けにわかりやすく話しました。
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1.歴史から生き方を学ぶ。
「東日本大震災」での原発事故の放射能で、多くの人が被害。
関係者は「想定外」と云ったが、普段歴史に関心があった人は首をかしげた。
というのは、平安時代に発生した「貞観地震」というのが今回の場所に近く、やはり巨大な津波が発生していたから。しかし、原子力関係者は「具体的なデータが無いからよくわからない」として、その地震が無かったかのように無視してしまった。
一方で、こういう事もあった。
その昔の津波のときに、ここまで津波が来たと石碑を置いて、そこより下には家を建てなかった。
海岸から遠くなるけど高いところに住んで海辺に通って仕事したり漁に出たりしていた。
今回の津波のときには、大きな地震のあとには津波が来るぞと、子供たちも聞かされていたので、おじいちゃん、おばあちゃん逃げようと云って、子供たちがお年寄りを助けて避難して、死んだ人は一人も居なかったという地域があった。
とても、素晴らしいことです。
「伝承」といいますが、昔からの言い伝えを大事にして、暮らし方や生き方の参考にしていきましょう。
2.柏原の縄文時代
柏原には24もの遺跡が見つかっている。
柏原が住み易かった。
入間川という大きな川が近いので、そこで魚や貝が取れて、高台なので入間川が氾濫しても安全だった。
智光山公園のところで大量の湧水が出ていて、それが柏原のほうに流れてきていたので、生活するのに必要なきれいな水があった。
遺跡のへんの畑のわきを歩いていると、今でも縄文土器のかけらが拾える。
小さなカケラだが、5000年前の人が作って使っていたものだと思うと、とても不思議な気がする。
3.中世の「城山砦」に関する話
最初に出てくる名前は「柏原太郎」。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の家来で「畠山重忠」という有名な人がいる。
源頼朝が東北を攻めたときに、畠山重忠の名前と一緒に「柏原太郎」の名前が書かれている。
この人が最初に城山砦を作ったと思われている。
それから、天文14年(1545年)、467年前、それまで関東を納めていた上杉氏と、小田原から勢力を広げてきた北条氏の勢力争いの戦があった。
川越城をめぐる戦いのときに、大将の上杉憲政(のりまさ)が城山砦に陣を敷いた。それで、ここを「上杉砦」とも言う。
残念ながら「川越夜戦」で上杉がたは敗れ、越後に落ちていった。
越後では上杉謙信が出て武田信玄と川中島の戦いなどをする。
上杉謙信の先祖が城山砦に陣を構えたことがあったというわけです。
4.この頃の柏原の産業
鉄を鍛えて主に武器を作っていた。槍や刀を作っていた。
大和郡山から、甲冑師の明珍家系の人が招聘されて槍鍛冶を始めたのがはじまり。
入間川で良質な砂鉄が採れた。
鋳物師といって鉄の鋳物でいろいろな製品を作る人もいた。
5.江戸時代の学び
江戸時代、柏原には、よみ・書き・そろばんを教える寺子屋という学校が3つありました。
「識字率」という数字があります。たとえば柏原に100人、人が居たとして、字が読める人はどのくらい居ただろう、という数字です。80人いたら80%ですね。江戸時代の日本は80%くらいで世界で一番だったと云われています。
あのイギリスのロンドンだと、同じ頃で10%だと云いますから、日本はすごかったんですよ。
今、毎年ノーベル賞をもらって日本はすごいと言われますが、昔からよく勉強をしていたんですね。

時間の関係で、このくらいにしますが、歴史を勉強すると、自分たちの生き方にとても参考になるので、ぜひ興味を持ってください。


二部は、体育館の中で7つの場所に分かれて、並行進行でお話をしました。
お話は、休憩を挟んで同じことを二回繰り返すので、子供たちは聞きたいテーマを二つ聞くことができます。

話は以下の7つのテーマでした。
私も一つ受け持ちました。
ア)上宿の庚申塔と下宿の馬頭観音について
イ)西浄寺のねずみの図と大六天の碑・大山灯篭
ウ)城山砦跡
エ)常楽寺の七観音と大水正金の槍および五百年碑
オ)永代寺の本尊、不動明王および霊場巡拝供養塔など
カ)影隠し地蔵と円光寺のお地蔵さん
キ)白髭神社の子返しの図、御正体、韋駄天の図、柏原祇園囃子


【上宿の庚申塔と下宿の馬頭観音について】
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上宿の庚申塔
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下宿の馬頭観音
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【西浄寺のねずみの図と大六天の碑・大山灯篭】
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ねずみの図/河鍋暁斎
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【城山砦跡】
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城山砦
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【常楽寺の七観音と大水正金の槍および五百年碑】
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七観音
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大水正金五百年碑
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【永代寺の本尊、不動明王および霊場巡拝供養塔など】
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不動明王
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霊場巡拝供養塔など
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【影隠し地蔵と円光寺のお地蔵さん】
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影隠し地蔵
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円光寺のお地蔵さん
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【白髭神社の子返しの図、御正体、韋駄天の図、柏原祇園囃子】
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子返しの図
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御正体
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韋駄天の図
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生徒の皆さんは、とても熱心に聴いてくれました。
質問も活発に出ました。
これから、郷土柏原を大事にしてくれると思います。

(了)


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サイクリングフェスタのガイド

20150328

今日、狭山市の団体「狭山まちづくリストの会」主催の「サイクリングフェスタ」での史跡のガイドを個人的に頼まれ、してきました。
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コース
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私がガイドしたのは「城山砦」、「智光山公園」、「今宿遺跡」です。

朝8:30から受付開始。参加者は45名。
まずはラジオ体操で身体をほぐします。
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地元のケーブルテレビも取材してました。

ここ、柏原のサイクリング・ロードは、もう4、5日後なら、見事な桜のトンネルだったのですが。残念。
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去年の満開のときの写真を載せておきましょう。
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「城山砦」に到着です。
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城山砦の歴史を見ると、古くは柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。柏原太郎は源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人といわれた人物です。
2番目に初代鎌倉公方で「入間川殿」と呼ばれた足利基氏(もとうじ)が、南北朝時代に新田義興(よしおき)・義宗(よしむね)兄弟の鎌倉攻めに対する北の防御の要として、入間川宿(現在の徳林寺の辺り)に文和2年(1353)から9年余り長期滞陣したときの出城という説があります。
3番目に山内(やまのうち)上杉氏と扇谷(おおぎがやっ)上杉氏の対立で、明応5年(1496)山内上杉顕定(あきさだ)が扇谷上杉朝良(ともよし)の河越城を攻めたときに、山内上杉氏と手を組んだ足利政氏(まさうじ)が着陣したと伝えられています。
4番目に天文14年(1545)から15年(1546)にかけて半年近くに渡り、山内上杉憲政(のりまさ)が陣を敷いたため別名を上杉砦ともいわれています。
この布陣は扇谷上杉朝定(ともさだ)が天文6年(1537)の三ツ木原の合戦で、北条氏に奪われた河越城を奪い返すため、また憲政にとっても河越城は目の上のたんこぶで、北条氏の武蔵国への進出を阻止する上でも重要な布陣でした。この戦いは河越夜戦といい、日本三大奇襲戦といわれ、8千の北条軍が8万の両上杉・古河公方連合軍を破って劇的な勝利に終わった戦です。この戦が上杉家没落のきっかけといわれ北条氏の武蔵国の覇権が確立した戦です。
5番目に城山砦は北条氏の手に移り、北条氏照(うじてる)の滝山領に組み入れられ、氏照配下の出城として徐々に手を加えられたと推察されます。この地域に居住して槍などを生産していた柏原鍛冶集団を統率するに当っても有効に機能したと思われます。
河越夜戦後の山内上杉氏は上野国の平井城(現在の群馬県藤岡市)に退却していました。北条氏に対応していた憲政は平井城も攻撃され、天文21年(1552)越後の長尾景虎(のちの上杉謙信)を頼つて落ち延び、保護を受ける代償として上杉氏の家名と管領職などを譲り、関東管領として君臨した上杉氏も終わりを告げました。

世上有名な「川越夜戦」のときに、のちに関東管領職と上杉の苗字を上杉謙信に与えた、上杉憲政が陣を敷いたところだというのが、一番の出来事です。

新撰武蔵風土記稿に載っている城山砦の図。
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現在の砦跡もそれに変りがありません。
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この砦が良く出来ていると評判が良いのは、「虎口」の守りです。
城や砦のウイークポイントは、日常出入り口にしている場所。それを「虎口」といいます。
城山砦を再現したジオラマでの虎口の守り。
土塁を伸ばして「横矢掛かり」を作って虎口に突入しようとする敵兵を弓や鉄砲で攻撃するようにしている。
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それから、「折り」といって、堀を曲げて作り、堀を越えて入ろうとする攻撃方の兵を横から弓や鉄砲で攻撃できるようにしています。
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本郭の中を散歩。
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「虎口」から出てくる参加者。
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柏原の槍鍛冶、刀鍛冶、鋳物師の話もしました。
城山砦のすぐ近くに常楽寺があり、その墓地に「増田大水正金500年誌」という碑があります。
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増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。

市文化財の「増田大水正金作の槍」
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柏原で、製鉄産業が可能だったのは、入間川で良質な砂鉄が採れたからです。

民家の間の小道をいきます。
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智光山公園の横の道。
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現在の智光山公園。
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フランス式測量地図『第一軍管区地方2万分1迅速測図』、明治14年の地図です。
これによると、当時は「九頭竜池」しかなかったことが分かります。
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今も公園内にお墓があり、この戒名に「智光院」とあり、ここから智光山という地名となったことがわかります。
また裏面に彫られている名前から「森本」という苗字がわかります。
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江戸時代柏原の領主は誰だったかということは、「武蔵田園簿」によると、松平伊豆守、酒井紀伊守、高室喜三郎代官所、森本助右衛門、永井五右衛門であることがわかります。
松平伊豆守は「知恵伊豆」と言われた松平信綱であり、川越藩主ですから川越藩の飛び地です。
酒井紀伊守は酒井忠吉、幕府直轄地もあったので高室喜三郎が代官所を構えていた。
森本助右衛門と永井五右衛門は旗本です。
よって、智光山のところは森本助右衛門の領地だったことがわかります。
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また、ここにある碑から、修験道のお寺があったという話も裏付けられます。
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それから、近くにある「開園記念碑」の裏面に書かれたことを読むと、ここを有志の方々が整備をして公園にしようと七年間も努力して市に働きかけた結果、今のような立派な公園にする足がかりとなったことがわかります。
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智光山公園から「今宿遺跡」に移動しました。

市内には入間川の左右の河岸段丘上をはじめ、智光山公園から流れ出る小河川流域や久保川流域に62ケ所の遺跡の所在が確認されています。これらの遺跡は旧石器時代から平安時代までの遺跡です。
ここ今宿遺跡は入間川左岸の段丘上にあり、奈良・平安時代を主体とする集落跡で、大規模宅地である日生団地の造成に伴い昭和44年(1969)4月に発掘調査が行われました。
今宿遺跡は市内で最初に実施された大規模調査の遺跡で、市内で唯一の復元住居があり、昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・史跡に指定されました。
調査面積は78,000㎡で、稲荷山公園の約3分の1強の広さです。調査の結果48軒の竪穴住居跡が発掘されましたが、それらの住居跡は正方形かそれに近いもので、地面を掘り下げて床とし、周囲は溝を掘って板を埋めて壁としていました。竃(かまど)は住居の北側または東側に築かれ、煙り出しの煙道は住居外に設けてありました。
縄文時代の住居には竃は無く炉を使っており、板壁もありません。
復元された住居を見ると、平城京などの復元された建物との落差が大きく、朝廷・貴族と庶民との落差の大きいことに驚かせられます。
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今宿遺跡の建物内にメタセコイアの化石株が展示されています。
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これは笹井堰下流の入間川の河床から発掘されたものです。
メタセコイア(アケボノスギ)は300万年から200万年前までは北半球に多く分布していました。日本では百数十万年前までは繁茂していたといわれ、その後、絶滅したと考えられていました。しかし、昭和20年(1945)に中国四川省で自生しているのが発見され、生きている化石といわれました。
その後、メタセコイアは挿し木などで多くの地に育てられ、現在日本でも公園や学校などで見ることができます。

これは新宿御苑で撮ったメタセコイア。
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笹井堰下流の入間川の河床からは、「アケボノゾウ」の化石も発掘されています。
前身の骨格が全部発掘されているのは、日本でも珍しいようです。
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おなじく発掘された「アケボノゾウの足跡」の化石
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今宿遺跡から、歩いて「陰隠し地蔵」まで散策しました。
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「鎌倉街道」である、「信濃坂」の脇に「陰隠し地蔵」はあります。
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このお地蔵さまには、その陰に隠れて追手の難を逃れたという話があります。
誰が隠れたかというと、「清水冠者・源義高」という12歳の少年です。
寿永3年(1184年)のことでした。
清水義高は木曽義仲の子です。
源氏再興で平家を滅ぼすのに、木曽義仲と源頼朝が別々に兵をあげ、戦いました。
平家をやっつけられそうだとなった時に、源氏の大将を巡って木曽義仲と源頼朝の仲が険悪になりました。
それで一旦は仲直りをした時に木曽義仲は人質として息子の清水義高を鎌倉に送りました。
清水義高は源頼朝と奥さんの北条政子に気に入られて、頼朝の娘大姫の婿になりました。
ところが、結局木曽義仲と源頼朝は争って、木曽義仲が討たれてしまったのです。
そのため、大姫の助けで清水義高は鎌倉から逃げだします。
この横の信濃坂は、「鎌倉街道」で信濃に通じていますが、ここから車で一時間くらいのとこに「嵐山」があります。そこで清水義高の父親木曽義仲は生まれました。そこに逃げて、それから木曽義仲に協力した信濃の人を頼ろうと思ったのでしょう。
一旦は、このお地蔵さまのおかげで難を逃れましたが、結局つかまり入間川の河原で頼朝の家来に討たれてしまいました。
入間川の近くに、義高を祀った「清水八幡」というお宮があります。

お地蔵様と参加者
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信濃坂を歩いて上がります。
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今宿遺跡に戻って、また自転車で走ります。

お茶畑のなかをいく。
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ちょうど、お茶を機械で刈っていました。
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笹井にある、NPO法人「ぶどうの会」の「いっぷく亭」がゴール!!
ここで、参加者が和やかに持参のお弁当を食べました。
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ここには、本格的なピザの石窯もあるんですから、すごいですね。
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今日は、色々な年代の人達と一緒に行動して、楽しく語り合えて、とても楽しかった。

(了)


むかし遊び

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今日は小学校の「むかし遊び」の企画を支援してきました。
生活科の授業として、地域の人から昔からの遊びを教わったり一緒に遊ぶことで、昔からの遊びの良さや楽しさを知り、また地域の人との交流も図るというものです。
対象は小学校1年生。
3クラスあるので、100名あまりの子供たちとなります。
遊びは、けん玉、こま、竹馬、竹とんぼ、お手玉、あやとり、おりがみ、羽根つきの8つです。

一つの遊びに、ボランティアの方3人確保したいと思い、支援を募りましたが、寒い冬のこと故なかなか集まらず、歴史講座で知り合った友人、他学区のコーディネーターたちにお願いしたりして、なんとか20名確保しました。

全部、体育館の中でやることにして、遊びの場所を決めておいて、そこでボランティアは待っています。
子供たちは好きな遊びのところに行って遊びます。
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子供たちは、とても楽しそうに遊んでいました。
それにも増して、楽しそうなのが大人たちでしたね。

けん玉
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お手玉
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折り紙
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竹馬
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竹とんぼ
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こま
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あやとり
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私も、楽しみました。なによりも子供たちの笑顔が嬉しいです。
時間が1時限ということで、45分間だったので、子供達も、大人たちも、「えっ、もう終わり?」と不満そうでした。

それから、この小学校では支援するイベントが今年度は今日が最後という事で、子供たちから感謝のペンダントを一人当たり4、5枚くらい首にかけてもらいました。
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ボランティアの皆さんが、とても笑顔で楽しそうな気分で帰られたので、私もとても嬉しかったですね。



九九の聞き取り

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今日は、担当している小学校から依頼された「九九の聞き取り」を支援してきました。
対象は2年生。
3クラスあるので、1時限目から3時限目まで、1クラスずつ実施しました。

ボランティア7人が、それぞれの机で待っていると、生徒がやってきて暗誦します。

「0の段」から「9の段」まで。
「のぼり」、「くだり」、「ばらばら」がある。

「のぼり」は、「3×1は」、「3×2は」、「3×3は」・・・・・・・と云っていく。
「くだり」は、「5×9は」、「5×8は」、「5×7は」・・・・・と云っていきます。
「ばらばら」は、ボランティアが「7の段のばらばら」なら「7×1は?」、「7×9は?」、「7×3は?」のように聞いて、生徒が答えます。

生徒が一覧表の紙を持っているので、出来たところにシールを貼ってあげます。

生徒が行列を作っているので、「3の段」の「のぼり」とか一つを終わったら、交代。どんどん交代していきます。

「のぼり」だけ「0の段」、「1の段」、「2の段」・・・・・と攻める子、各段の「のぼり」、「くだり」、「「ばらばら」を順につぶしていく子、それぞれです。
気分で、あっちこっちとつぶしていく子も(笑)

元気よく大きな声で言ってくれる子もいるが、ちっちゃい声で言う子も居る。
途中でつかえてしまった子には、ちょっと助けを出してあげる。
一時限ちゅうずっと聞いているので、けっこう疲れます。
だけど、言い終わってホッとして、「よくできたね」と褒めてあげると、とても嬉しそうな顔をするので、その笑顔がかわいいのなんの。

全部終わってしまった子が、1クラスに2、3人くらい。
ゆっくりな子は三分の一くらい終了。

続きは、1月にあるので、そのときには全員が終わればいいなと思っている。

算数は、九九から落ちこぼれが始まると思う。
先生一人では全部の生徒の暗誦を聞いてあげるのはとうてい無理だと思うので、ボランティアがこういうふうに助けてあげるのは、いいことだと思う。
こういうボランティアで、一人でも二人でも、落ちこぼれる子が少なくなれば嬉しい。


福祉体験授業支援

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他の小学校担当コーディネーターから、支援予定者が風邪でダウンしたので、ピンチヒッターを、との要請があり、今日午前中「福祉体験授業」のサポートをしてきました。

対象は5年生で、福祉体験の内容は下記の三つでした。
① 車いす体験
② 高齢者疑似体験
③ アイマスク体験

過去の福祉体験(車いす体験)の写真
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社会福祉協議会の職員が説明指導して、私たちボランティアは見守りです。
私は、アイマスク体験のグループに入りました。
4クラスあるので、一時限で一クラスということで、4時限連続の長丁場となりました。

生徒が二人一組になり、片方がアイマスクをつけて、目が見えない状態で行動する体験を。
もう片方が目の不自由な人をガイドする役目の体験です。
全部済んだら、役目を交代して、両方の体験をします。

教室に設けた狭い通路を歩いて、廊下に出て、階段を一階分降ります、そのまま真っ直ぐ歩いて、ユーターン。
階段を上がって、教室に戻り、最後に椅子に座ります。

私がサポートした場所は階段の下。
生徒が怪我などしないように見守りです。

だいたいは、慎重におっかなびっくり。
中には乱暴な子も。
ふざけてしまう子も。

だから行進がぐちゃぐちゃになりますが、まだまだ小学生は素直です。
ちょっと直してあげると、きちんとやります。

生徒たちが行う前に、模範演技をしてみせるのですが、私も一度アイマスクをして歩きました。
階段は、さすがに怖かった。

終ってからの生徒の感想は、「怖かった」、「あんなに大変だとは思わなかった」、「上手に連れていこうとしても、うまくいかなかった。ガイドは練習しないといけないと思った」
など生徒が真剣に取り組んでくれたのが見えて、嬉しかったですね。


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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