渋谷から広尾の歴史探索(後半)

20180602

5月11日に、歴史クラブ行事で参加しました。
コースは、金王八幡宮(渋谷城跡)⇒渋谷氷川神社⇒温故学会⇒國學院大學・学食⇒国学院大学博物館⇒白根記念渋谷区郷土博物館⇒旧薩摩藩下屋敷跡⇒福田会広尾フレンズ

前半の記事で、國學院大學の学食まで記しました。
お腹が一杯で満足し、休憩したあとで、国学院大学博物館を見学しました。

【国学院大学博物館】
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國學院大學博物館は、大学が所有する学術資料や研究成果を発信する公開拠点として、また教育等に資する社会に開かれた施設として展開しています。
館内は、考古「移籍に見るモノと心」、神道「神社祭礼に見るモノと心」、校史「國學院の学術資産に見るモノとこ心」の3つのゾーンとテーマごとに展開される企画展示ゾーンの4つで構成されています。
國學院大學博物館は、年間数万人の来館者を迎え入れています。先人たちの膨大な知識と知恵を記憶する「本物」の資料と研究によって新たに創造された「知」を国内外への発信することは、國學院大學の使命なのです。

入り口から入ると、素晴らしい世界が広がっています。
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ここの博物館の特色は「神道」に関する展示が豊富です。
しかし、残念ながらそこは撮影禁止なので、記事にすることはできません。
時間の関係で、「校史」のゾーンも割愛させていただきました。
以上二つのゾーンは、過去に二回ここを訪れているので、きちんと拝見していますが、とても見ごたえのある素晴らしいものです。

今回紹介するのは、「考古」のゾーンです。

土偶
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火焔型土器
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石棒
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石刀と独鈷石
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石板
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奈良県大神神社「山ノ神遺跡磐座」の再現
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山ノ神遺跡から出土した「子持ち勾玉」
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山ノ神遺跡から出土したものが他にもたくさん展示されていたが割愛。

全国から採れた黒曜石
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長野県
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長野県、栃木県、山形県、岩手県
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東京都4(神津島)
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北海道
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貝層標本
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土偶
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玉砥石
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磨かれた玉類
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勾玉
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埴輪も大きなものが並んでいて壮観。
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群馬県太田市から出土した女子埴輪
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群馬県前橋市から出土した「靭型埴輪」
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縄文時代の耳飾り
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北海道の旧石器
場所柄、黒曜石ばかりだ。
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遮光器土偶
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見事にピンボケ(汗)
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土偶の内部を覗かせてくれている。
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【白根記念渋谷区郷土博物館】
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白根記念渋谷区郷土博物館・文学館は、1975年(昭和50年)、渋谷区議会議員の故白根全忠より寄贈された宅地、邸宅をもとに、渋谷区に関する資料の保管・展示の場として「渋谷区立白根記念郷土文化館」が開館した。2005年(平成17年)、この建物を全面改築し新たに文学館を併設した。
常設展示では、渋谷の先史から現代までの歴史展示、特別展示、文学館展示などがあり、戦前の住宅が再現され、江戸時代の道具や縄文土器に触れることができる。特別展は、年2~3回開催するほか、情報コーナーで収蔵資料を検索したり、渋谷の地理・歴史・民俗などを総合的に学ぶことができる。

昔の渋谷駅前の再現
ハチ公が白くとんでしまった。
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「昭和20年代の澁谷」展をしていた。
常設展も含めて、撮影禁止のため、紹介できず。
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ここを出て、すぐのところに「常磐松の碑」があり。
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【旧薩摩藩下屋敷跡】
常盤松御用邸と呼ばれる常陸宮邸は、元は薩摩藩島津家の屋敷でした。薩摩から江戸に上った篤姫は、いったん三田の薩摩藩上屋敷に入りますが三田の屋敷が安政の大地震で被災。さらに海に近い上屋敷は黒船からの砲撃を受けるかもしれないと、嫁ぐ前の篤姫は渋谷の下屋敷に移ったそうです。安政3年(1856年)に篤姫はこの屋敷から将軍家に嫁いでいます。篤姫輿入れの支度係を務めたのは西郷隆盛でした。嘉永5年(1852年)に薩摩藩屋敷が江戸の外れ、吸江寺近くに造られ、その後拡張されて1万8000坪の広大な敷地となったそうです。かつて「常盤松」という大きな松があり、これが島津家ゆかりとの口伝があったことから、ビルの片隅に島津斉彬の家来が建てた常盤松の碑が今も残されています。

常陸宮邸ということで、静かにその前を通りました。
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旧日赤病院の跡地に作られた「広尾ガーデンパレス」という超高級マンションの前にある「堀田坂」を下ります。
下りきって振り返ったところ。
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【福田(ふくでん)会広尾フレンズ】
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1876年(明治9年)仏教各宗の高僧の発議により福田会を創立。寺院を中心に児童養護施設里親委託等を開始し、現在は老人ホームも運営しています。
1920年(大正9年)シベリアで孤児となったポーランドのこどもたち365名をこの会で受け入れました。この話はポーランドの教科書に載り、ポーランド人で知らないものはいません。
ところが日本では全く忘れられておりました。
10年ほど前にポーランドの大使がこの前を散歩した折、表札をみてここが自分のよく知る福田会であることを発見しました。
それ以来、ポーランド国と福田会はつながりを持っております。
来年は福田会がポーランド孤児を受け入れて100年目、再来年はポーランドに孤児が帰国して100年目となります。ポーランドでは国を挙げてこれを祝う計画があるそうです。
ここはポーランド人にとってリトアニアで杉原千畝がビザを発給した日本領事館のようなところです。

中に入れていただき、説明をしていただきました。
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庭に、ポーランド国から送られた芸術作品「あらゆる生命を生み育てる宇宙」が置かれていました。
開いたところから覗き込むと、中に幾つかの星が浮かんで見えます。
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これで、全ての予定を終了。
聖心女子大学の前を通って、地下鉄「広尾」駅から帰途につきました。


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渋谷から広尾の歴史探索(前半)

20180531

5月11日に、歴史クラブ行事で参加しました。
コースは、金王八幡宮(渋谷城跡)⇒渋谷氷川神社⇒温故学会⇒國學院大學・学食⇒国学院大学博物館⇒白根記念渋谷区郷土博物館⇒旧薩摩藩下屋敷跡⇒福田会広尾フレンズ

【金王八幡宮(渋谷城跡)】
鎮座地:東京都渋谷区渋谷3-5-12
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社伝によれば1092年(寛治6年)現在の渋谷の地に渋谷城を築き、渋谷氏の祖となった河崎基家(渋谷重家)によって創建されたとされる。江戸時代には徳川将軍家の信仰を得、特に3代将軍徳川家光の乳母春日局は神門、社殿を造営したとされる。なお、江戸時代末期まではこの神社に隣接する澁谷山親王院 東福寺(天台宗)が別当寺であった。当初は渋谷八幡と称していた。社名にある「金王」は、重家の嫡男常光がこの神社に祈願して金剛夜叉明王の化身として生まれたことにより金王丸と称したことによるとされる。

このお宮さんについては、境内に名桜「金王桜」があり、その桜を訪ねたときに記事にしています。

その記事を見る


前記のブログに載せてなかった部分を載せておきます。

〇渋谷城の石
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桓武天皇の曽孫である高望王の後裔で秩父別当平武基は源頼信による平忠常の乱平定において功を立て、軍用八旒の旗を賜り、その内の日月二旒を秩父の妙見山(現在は武甲山)に納め八幡宮と崇め奉りました。
武基の子武綱は、嫡子重家と共に後三年の役の源義家の軍に300騎余を従え1番で参向し、仙北金沢の柵を攻略しました。その大功により名を河崎土佐守基家と賜り武蔵谷盛庄を賜りました。義家は、この勝利は基家の信奉する八幡神の加護なりと、基家が拝持する妙見山の月旗を乞い求め、この地に八幡宮を勧請しました。
重家の代となり禁裏の賊を退治したことにより堀河天皇より渋谷の姓を賜り、当八幡宮を中心に館を構え居城としました。渋谷氏は代々当八幡宮を氏族の鎮守と崇めました。これが渋谷の発祥ともいわれ、現在も境内に渋谷城砦の石が保存されています。渋谷氏が武蔵谷盛庄七郷(渋谷、代々木、赤坂、飯倉、麻布、一ツ木、今井など)を領していたので、当八幡宮は八幡通り(旧鎌倉街道)、青山通り 宮益坂 道玄坂(旧大山街道)を中心とする、渋谷、青山の總鎮守として崇められています。
当八幡宮は、古くは単に八幡宮又は渋谷八幡宮と称しておりましたが、渋谷金王丸の名声により、金王八幡宮と称されるようになりました。
境内にある渋谷城跡は、平安時代末期から渋谷氏の住居があったところ。城には渋谷川を水源に水堀をめぐらされていました。大永4年(1524年)の北条氏綱による関東攻略の際に、この城は後北条氏の別働隊によって焼失し、渋谷氏は滅びました。、境内には城の石とされる石が1点保存されています。神社の前に有る道路は堀を兼ねた小川であったとも言われています。

境内には「金王丸御影堂」があり、金王丸が17歳で出陣の折、自分の姿を彫刻し母に形見として残した木像が納められています。

〇金王丸御影堂
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その前には、宝暦9年(1759)奉納の「宝珠・角型」狛犬が居たが、なかなか顔が良い。
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ここは、本や映画「天地明察」の舞台であり、算額が登場する。
それで2011年3月11日に、算額が見たくて行ったときには、ずいぶん多くの算額が絵馬掛けのところに下がっていた。

その記事を見る


今回も期待していたのだが、ほとんど見当たらなかった。
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これが唯一、算額ではないが算術に関したものだった。
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金王八幡を出て、一の鳥居のある交差点に行く。
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この参道に交差しているのが旧鎌倉街道中つ道である。

代々木鳩森八幡方面
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中目黒方面
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【渋谷氷川神社】
鎮座地:東京都渋谷区東二目5番6号
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古くは氷川大明神といって旧下渋谷村、豊沢村の総鎮守であった。創始は非常に古く、今これを詳かにすべきものがないが、1605年(慶長10年)に別当宝泉寺第百代の住職宝円の記した「氷川大明神宝泉寺縁起」によると、景行天皇の皇子日本武尊東征のとき、当地に素盞嗚尊を勧請し、その後嵯峨天皇の弘仁年中慈覚大師(円仁)が宝泉寺を開基し、それより同寺が別当となったとあり、1713年(正徳3年)宝泉寺から幕府に出した書上には「起立の年数知れ不申候」と見えている。1782年(天明2年)正月5日阿部備中守へ差出した書類に別当宝泉寺の庫裡から出火2間3間の土蔵が炎上したことが記され、宝物史料などは、この時焼失したと伝えられている。
渋谷地区の最古の神社で、源頼朝が勧請したとか、金王丸が信仰したというのは後世に附いた伝説と見え、1732年(享保17年)に出来た「江戸砂子」にあるのが始めである。往時は松杉の類が欝蒼と茂り真に昼猶暗く渋谷川が門前を流れていかにも神さびた宮であったらしいことは「江戸名所図会」の絵にもうかがわれる。

〇相撲場
「渋谷の相撲」「金王の相撲」などといわれ、近郷近在は勿論、江戸表からも見物人が多く集まり、ある年凶年のため休んだところ、集まった面々によって遂に大相撲になった事もあるという位で、将軍家でさえ「渋谷の相撲なら見に行こう」といわれたと伝えている。昔からなかなか有名なもので、今でも神事の一つになっている。
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そこから少し石段を上がると、脇の参道があり、そこに明治29年(1896)奉納の狛犬があり、両方の子獅子が良い感じだった。
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それから更に石段を上がりきって、左に折れると社殿となる。
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続いて、境内社だが八幡神社(品陀和気命)、秋葉神社(火産霊神)、稲荷神社(宇迦御魂命)については、時間の関係で撮影できなかった。
厳島神社(市杵島姫命)の前に、江戸時代の狛犬が二組あり、これは撮影できた。

厳島神社
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その前に二組の狛犬が居た。

手前側は、明治8年(1875)奉納の「江戸流れ尾型」狛犬。
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奥側に居るのは、寛政6年(1794)奉納の「江戸尾立ち型」狛犬。
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これで氷川神社の参拝を終え、近くの「温故学会」に。

【温故学会】
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〇『登録有形文化財』の温故学会会館
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温故学会会館は、『群書類従』版木(国・重要文化財、17,244枚)を管理・保存する目的で、斎藤茂三郎初代理事長が渋沢栄一、三井八郎右温故学会会館衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て、大正15年8月に着工され、昭和2年3月に完成した。
  会館の設計・施工には清水組(現・清水建設)が担当し、堅固・耐震耐火構造を基本方針として建設された。
  会館は、鉄筋コンクリート二階建で、正面からは鳳凰が両翼を広げたような形をしており、玄関向かって右側は、1階・2階ともが版木倉庫、左側は、1階が事務室などで2階が講堂となっている。講堂は27畳と床の間を配置し、和洋折衷の珍しい構造となっている。
  関東大震災の経験を生かし建設された会館は、すでに80年を経ているが、空襲にも耐えずっしりとした風格は今日でも変わらない。
平成12年4月文化庁より『登録有形文化財』の指定を受けた。

前庭に、全盲の国学者・塙保己一の銅像がありました。
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講堂(二階)で、現在の理事長さんから説明を受けました。
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温故学会会館は、江戸時代後期の全盲の国学者・塙保己一が41年間をかけて、全国各地に散在していた貴重な書物を集め、校訂を加え、種類ごとに分けて編纂した文献集である『群書類従』の版木を管理・保存する目的で、斉藤茂三郎第2代温故学会理事長が渋沢栄一、三井八郎右衛門ら各界の著名人に呼びかけ、全国からの協賛を得て建てられた。
本会は、塙保己一の偉業顕彰の目的から、明治42年に子爵渋沢栄一、宮中顧問官井上通泰、文学博士芳賀矢一、保己一曾孫塙忠雄の四氏により設立され、以来百年の歴史を刻んでいる。
 保己一の精神である温故知新(論語・ふるきをたずねてあたらしきをしる)の趣旨に基づき活動するとともに、重要文化財指定の『群書類従』版木の保管、盲人福祉事業、各種啓発事業に努力している。

ヘレン・ケラーも、ここを訪ねている。
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渋沢栄一氏筆の「温故而知新」額
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『群書類従』の説明
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現在、私は鎌倉公方足利氏、関東管領上杉氏、同時代の東国武士の経歴を知りたくて、『鎌倉大草紙』を研究しているが、『鎌倉大草紙』も『群書類従』本として生きながらえているようである。
『群書類従』は、本当に貴重なのです。

国立国会図書館蔵『群書類従』本/『鎌倉大草紙』
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『群書類従』版木を見せていただく。
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火災の場合、水をかけると版木が傷んでしまうので、炭酸ガス消火の設備になっている。
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版木
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現在も、希望に応じて印刷しているそうだ。
高いが(汗)
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これで、午前の部は終了。
國學院大學の学食で昼食。
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ワンコインのローストビーフ丼、美味しかった(嬉)
今の学生さんは贅沢ですな。


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浅草から千住大橋探訪(後半)

20180410

3月6日に歴史クラブ行事で歩きましたが、その後半です。

小塚原回向院から、吉野通りを離れ横に移動して、日光街道に出て、円通寺に到着。

【⑥円通寺】
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寺伝によれば、791年(延暦10年)坂上田村麻呂によって開かれたと伝えられる。明治維新の折、1868年(慶応4年)に行われた上野戦争で亡くなった彰義隊の隊員を現在上野公園の西郷隆盛像があるあたりでこの寺の住職が火葬を行っている。そのため、この寺には火葬を行った場所の近くにあった上野寛永寺の総門(黒門)が移築され、亡くなった彰義隊の隊員の墓もある。
また、1963年3月に発生し、1965年7月に解決した吉展ちゃん誘拐殺人事件の被害者の遺体発見現場となったことでも知られる(敷地内に被害者の慰霊地蔵がある)。

門扉が閉じているが、そこからの参道の左右に狛犬が居た。
顔が巨大で、なかなか面白い。
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黒門:鉄砲の穴だらけで、戦闘の激しさを物語る。
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首塚・七重の塔:八幡太郎義家が奥羽征伐して賊首四十八をこの地に埋め四十八塚(首塚)を築く、これ
により、この地が小塚原と呼ばれる事となった。
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この塚に、板碑が4基あり。
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彰義隊士の墓(右側五輪の塔):上野戦争で戦死した彰義隊士の遺体を供養したもの。
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死節之墓:彰義隊の供養に尽力した三河屋幸三郎が向島の別荘に密かに立て、鳥羽、伏見、函館、会津
などの各藩士の戦死者の氏名を彫って供養していて、当寺に移築されたもの。
土方歳三、近藤勇、など九十七の名前と「神木隊二十八名」と彫ってある。
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黒門と彰義隊士の墓の間に、供養碑が林立している。
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〇松平太郎:
旧幕臣・陸軍奉行、榎本武揚らと函館を占領した。蝦夷島「副総裁」に選出される。(総裁は榎本武揚)西洋かぶれと目される榎本・大鳥に反感をもっていた幕臣の票が集まった為と思われる。
土方歳三らと「一本木」にて交戦するが敗走し五稜郭に戻る。最後まで抵抗を主張するが榎本に説得され降伏する。のち、静岡に隠遁して余生を送る。
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〇小芝長之助の墓:
もと公儀御庭番。
当寺二十七世の頃(大正時代)まで存命し、円通寺の住み込み使用人となっていた。
函館戦争で戦死した土方歳三の遺体を五稜郭より引き取りに出向き、いずこかへ埋葬した本人。
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〇新門辰五郎の碑:
江戸の町火消の大親分。義父、町田仁右衛門は東叡山輪王寺宮の衛士で浅草十番組に所属する町火消の頭領であったため、輪王寺宮が浅草・浅草寺の別院「伝法院」隠棲する際、新しい通用門を新設し、その門を辰五郎が守ることになった、それで新門辰五郎と呼ばれる様になった。
また、辰五郎の娘は将軍「慶喜」の愛妾
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当寺の寺号「園通精舎」額は榎本武揚の書。
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榎本武揚:
幕臣・陸軍奉行として官軍と戦うが、函館にて降伏。
明治5年に出獄してすぐ、明治政府に出仕、工部大学校校長、学習院院長、華族女学校校長を歴任。22年特命全権清国駐箚公使

ミニチュアの大砲が置いてあった。
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吉展ちゃん地蔵
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本堂の上に置かれた、巨大な観音様を仰いで、寺を後にした。
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【⑦素盞雄神社】

当社の開祖となる黒珍(こくちん:修験道の開祖役小角の高弟)の住居の東方小高い塚上に奇岩があった。黒珍はそれを霊場と崇め日夜斎戒礼拝すると、平安時代延暦14年(795)、小塚の中の奇岩が突如光を放ち二柱の神様(素盞雄神、飛鳥大神=大国主神)が翁に姿を変えて現れた。黒珍は一祠を建て鄭重にお祀りし、当社が創建された。
素盞雄命が遥か遠くの南の海に妻問いに出た時、旅に疲れはてた素盞雄命は蘇民将来(そみんしょうらい)・巨旦将来(こたんしょうらい)という名の兄弟に宿を乞うた。裕福で立派な家に住む弟の巨旦将来は、顔もやつれ衣服も汚れたその姿を見て、怪しみ惜しんで貸さなかったが、家も小さく貧しい生活をしていた兄の蘇民将来は、粟柄を座とし、粟の飯で精一杯のもてなしをした。そして歳月が経ち、再びその地を訪れた素盞雄命は兄に御礼を言い、「もしも疫病が流行したとき、あなたの家族は茅(かや)で作った小さな輪を腰につけていなさい。きっとそれから逃れ、子孫は永く栄えるでしょう。」と伝え帰りました。その後、突然二人の住んでいる村に疫病が流行ったが、茅の輪をつけていた兄の家族だけは助かり、弟の巨旦将来の家は途絶えてしまった。それ以来、村人は疫病が流行ると「蘇民将来子孫也」と口々に唱え、茅の輪を腰に付け疫病から免れるようになった。
注)この話は本来、牛頭天王の話であり、現在は牛頭天王=素盞雄命と変化している。京都の祇園祭を含
む天王祭は、牛頭天王を鎮める祭りである。

素盞雄神社については、既に記事があります。

その記事を見る


この日は3月6日でしたが、雛祭りの最中でした。
この神社では2月末から4月初旬にかけて、境内に約2000体の雛人形が飾られ、境内の桃の花や菜の花が咲き見頃を迎えます。4月1日から8日までの間のみ江戸時代より伝わる災厄除けの「白桃樹御守」が授与されるそうです。

拝殿横の玄関にも、たくさんの雛人形が飾られていた。
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神楽殿にもたくさんの雛人形が。
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境内の桃の花が咲き始めていた。
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境内に「荒川区から荒川が消えた」という面白い説明があった。
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素盞雄神社を出て、日光街道を千住大橋に向けて歩いていると、道路に昭和34年の写真が飾ってあった。
当時は路面電車が走っていたことがわかる。
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【⑦千住大橋】
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最初に千住大橋が架橋されたのは、徳川家康が江戸に入府して間もない文禄3年(1594年)11月のことで、隅田川最初の橋である。当初の橋は現在より上流200mほどのところで、当時「渡裸川の渡し(戸田の渡し)」とよばれる渡船場があり、古い街道筋にあたった場所と推測される。
架橋を行ったのは関東代官頭の伊奈忠次。橋長66間(120m)、幅4間(7m)の橋で、土木工事の大家だった伊奈忠次でも難工事だったようで、熊野権現に祈願してようやく完成したといわれた。
架橋後は単に「大橋」とよばれ、それまで現在の白鬚橋付近にあった橋場の渡しを経由していた佐倉街道、奥州街道、水戸街道の街道筋が、この橋に移った。幕府は江戸の防備上、隅田川にはこの橋以外の架橋を認めなかったが、後に明暦の大火等もあり交通上、安全上のため両国橋等が完成してから「千住大橋(小塚原橋とも)」と呼ばれていたようである。
関東大震災後の震災復興事業の一環として、昭和2年(1927年)に現在の鉄橋が架橋された。タイドアーチ橋としては日本最古のものである。昭和48年に交通量増大のために、下流側にぴったり接して新橋が架橋された。
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元禄2年(1689)3月27日(新5月16日)松尾芭蕉は門人曾良を伴い、江戸深川から船に乗り、千住大橋のたもとで陸に上がり、日光道中初宿千住から奥州、北陸、美濃へと旅立ちます。
千住大橋には「奥の細道矢立初めの地」の石柱が立ち、素盞雄神社境内に矢立初句「行く春や鳥啼き魚
の目は泪」の句碑が立っています。

橋を渡ったところに、「奥の細道 矢立の地」の碑が立つ。
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ここからテラスに降りると、色々な説明のパネルがあるのだが、この日は何と云う事!
工事中でテラスに降りられません(泣)

仕方ないので、橋の上からテラスを撮影。
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そこから歩いてすぐの、京成「千住大橋」駅に行き、そこで解散。
この日の予定を終え、帰途につきました。

(了)


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浅草から千住大橋探訪(前半)

20180320

6日に歴史クラブ行事で歩きました。

コースは、浅草駅 ⇒今戸橋跡⇒①浅草弾左衛門墓(本龍寺)⇒ ②山谷堀・吉原土手(山谷堀公園 ⇒ 紙洗橋 ⇒ 地方橋 ⇒ 吉原大門跡 )⇒ ③東禅寺(江戸六地蔵)⇒ 吉野通り ⇒小塚原刑場跡・首切り地蔵 ⇒ 小塚原回向院 ⇒ 円通寺 ⇒ 日光街道 ⇒ 素盞雄神社 ⇒千住大橋
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江戸繪図ではこうなります。
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地下鉄浅草駅から、隅田川テラスに出ます。
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隅田川沿いに歩く。
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小さいけれど梅林もありました。
枝垂れ梅とスカイツリー
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【今戸橋跡】
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【①浅草弾左衛門墓(本龍寺)】
・弾左衛門が賤民階級を支配する権利を最初に認めたのは源頼朝。
・天正18年(1590)家康の入府の際、大手町の近くに住んでいた弾左衛門が頼朝の朱印状を提示したので各種の特権を得た。
・四代目弾左衛門が鳥越から今戸に移ったのが正保2年(1645)。この頃には権力が関八州に及び、「百万石以上の諸侯にも比すべし」と云われた。
・十三代目矢野弾左衛門の墓が本龍寺にある。(今戸に移ってからなので、墓には十代とある)

本龍寺入り口
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本堂
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十三代目矢野弾左衛門の墓
右側が十三代目矢野弾左衛門(十代目)、左側が十一代目(八代目)
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【②山谷堀(さんやぼり)】
正確な築年数は不明だが、江戸初期に荒川の氾濫を防ぐため、箕輪(三ノ輪)から大川(隅田川)への出入口である今戸まで造られた。現在は埋め立てられ、日本堤から隅田川入口までの約700mが台東区立の「山谷堀公園」として整備されている。
江戸時代には、新吉原遊郭への水上路として、隅田川から遊郭入口の大門近くまで猪牙舟が遊客を乗せて行き来し、吉原通いを「山谷通い」とも言った。船での吉原行きは陸路よりも優雅で粋とされた。界隈には船宿や料理屋などが建ち並び、「堀」と言えば、山谷堀を指すくらいに有名な場所だった。
戦後の売春防止法による吉原閉鎖後、1975年までにすべて埋め立てられた。
水源は石神井用水(音無川)である。水流は根岸から三ノ輪を通って、隅田川まで続いていた。埋め立てられる前の山谷堀には、今戸橋・聖天橋・吉野橋・正法寺橋・山谷堀橋・紙洗橋・地方新橋・地方橋・日本堤橋の九つの橋があった。
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前日の雨で、ちょっと水が溜まっていて川らしい感じに。
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聖天橋跡
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遊水公園みたいになっている。
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正法寺橋跡
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山谷堀橋まで来ると、先は工事中のため、道を一本ずれる。
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紙洗橋交差点
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紙洗橋の名前は、この付近で作られていた浅草紙に由来する。浅草紙は、古紙や紙くずを原料にした漉返紙(ちり紙)で、吉原の遊女が手紙の代用や後始末に使い大量の需要があった。山谷堀にも多くの作業所があり、職人たちが紙くずを紙舟に入れて堀の流れに曝しておくことを「冷やかす」とよんだ。この2時間ばかりの作業中は暇をもてあまして吉原の遊郭を見にでかけ、しかし時間がなくて登楼せずに帰ってしまうことから、買う気のない客を表す隠語として「冷やかし」という言葉が生まれたという。

地方橋交差点
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【③吉原大門跡・見返り柳】
遊郭は表立って運営するのは、はばかれたため、曲がりくねった道にすることにより見通しを悪くし、遊郭街が見えないようにしていた。吉原大門は当時唯一の遊郭への入口だった。
吉原から帰る客が後ろ髪を引かれつつ、この柳のあたりで遊郭を振り返ったことから「見返り柳」の名が付けられていた。(現在の柳は何代目だろうか?)
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今は葉が無いため、残念ながら柳の風情はない。
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曲がりくねった道は、そのまま残っている。
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ここから、江戸六地蔵のある東禅寺には、少し戻る。

途中、スカイツリーがよく見える通りがあった。
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【④東禅寺の江戸六地蔵】
造立は宝永7年(1710)、像高は2m71cm。
元は旧奥州街道の入り口にあったが、昭和3年(1928年)都市計画により現在地に移転。
他の六地蔵は鍍金が施されていたが、この像は表面に布目条にやすりをかけ、ベンガラ色(朱色)の漆を塗った上に金箔を貼られていたという。
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像には、びっしりと寄進者の名前が刻まれていた。
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傍らには、日本におけるパン製造の祖といわれる木村安兵衛夫妻の銅造が立つ。(銀座木村屋総本店)
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この後、近くの「デニーズ」で、昼食、休憩。

元気が出たところで吉野通りを北上、南千住駅近くの小塚原回向院を目指します。

南千住駅に到着。
陸橋から操車場を見る。
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【小塚原刑場跡・首切り地蔵】
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その前に、巨大な題目塔が立っている。
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【⑤小塚原回向院】
江戸時代より この地は小塚原の御仕置場と呼ばれた場所。寛文七年(1667年)刑死者の菩提を弔うため本所(現在の墨田区両国)にある回向院の住職「弟誉義観上人」が町奉行所に願い出て、この地を持地とし常行堂(じょうぎょうどう)を草創した。
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※『解体新書』碑:前野良沢・杉田玄白・中川淳庵らがこの地で奉行所の許可を得て腑分けに立ち会い、オランダの医学書であるターヘルアナトミアの挿絵等の正確さに驚愕する。 その後、当時としては難解なオランダ語の翻訳に勤しみ解体新書を完成させる。
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たくさんの有名な人の墓が、ここにはあります。
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アントニオ猪木等が建てた、レスラー カール・ゴッチの供養碑
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この列には、刑死した有名な罪人の墓が。
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腕の喜三郎:江戸時代の侠客、喧嘩で深手を負った自分の片腕を、子分に鋸で切り落とさせた。
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・高橋お伝:明治初期の稀代の悪婦として有名。最初の夫を毒殺後、各地を放浪し悪事を重ねた。
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・片岡直次郎:通称「直侍」と呼ばれた江戸後期の小悪党で、河内山宗俊と共に悪事を働いた。
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・鼠小僧次郎吉:江戸時代後期に大名屋敷を専門に荒らした有名な窃盗犯
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奥には、すり減ってしまった以前の墓が。
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ここからは、安政の大獄関係。

・橋本左内:幕末の志士、思想家、越前国福井藩藩士。藩主松平春嶽の側近。安政の大獄にて処刑。
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傍らには、大きな顕彰碑が。
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・吉田松陰の墓
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・関鉄之介:元水戸浪士の現場での総指揮者。他の水戸浪士と共に並んでいる。
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元水戸浪士の墓が並ぶ。
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吉展ちゃん誘拐殺人事件の「吉展地蔵尊」が入り口脇に立っていた。
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四谷周辺探訪

20180222

2月9日に、歴史クラブ行事で廻りました。
コースは、於岩稲荷田宮神社・於岩霊堂・陽運寺⇒本性寺・毘沙門堂⇒須賀神社⇒戒行寺⇒西念寺⇒新宿歴史博物館⇒津の守弁財天

JR信濃町駅から歩き出しました。

【田宮神社・お岩稲荷】
所在地:新宿区左門町17

道を挟んで、両側に「お岩稲荷」があり混乱する。片方は「於岩稲荷田宮神社」、もう一方は正門に 「於岩霊堂」 とある 「陽運寺」である。

ここにきて分かったのだが、「お岩稲荷」は「四谷怪談のお岩」とは関係が無かった。
この稲荷神社は田宮家の邸内社(やしきがみ)としてお祀りしていたものであったが、二代目のお岩さんはことのほかこのお稲荷さまを厚く信仰していて、田宮家を盛り立てた。お岩さんが亡くなったのは寛永13年(1636)。亡きのち、伊右衛門は亡き妻の霊を慰めたいと思い、このお稲荷さまに妻の霊を合祀して厚く冥福を祈った。その後このお岩稲荷神社は世の不幸な人びと、ことに不遇な婦人のために御守護をたれ給うことひとかたならず、江戸中に広く知れわたり、崇敬者は都市・農村を問わない有様であった。
200年後の文政8年(1825)に四世鶴屋南北の歌舞伎 「東海道四谷怪談」 の初演が大好評をおさめた。
鶴屋南北は、人気のあった「お岩稲荷」のお岩に目を付けたが、善人では面白くないと、その頃あった陰惨な事件の主人公にお岩を持ってきたのである。
東海道には四谷は無く、四谷は甲州街道である。「東海道四谷」として、ウソの話としたのだ。
それが当たったので、以来、出演者たちのお岩稲荷参りが始まった。 明治5年、お岩稲荷を、お岩さんの嫁ぎ先の田宮家の名をとり田宮神社と改称。 ところが、明治12年に火災で焼失し、現在の中央区新川の田宮神社へ移転。 その間に四谷の陽運寺が四谷稲荷と称した。 昭和20年3月の東京大空襲で陽運寺も新川の田宮神社も焼失。 昭和27年に再建し、新川の田宮神社を本社とし、翌年、現在地へ戻った田宮神社を旧社と称することになった。

■於岩稲荷田宮神社
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社殿が見通しがきかない。
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社殿前に、昭和27年奉納の狛狐
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拝殿
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祭神は、豊受比賣大神(とようけひめのおおかみ)、田宮於岩命(たみやおいわのみこと)

神紋は「二つ巴」
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やはり井戸はつきものと見え、ありました。
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玉垣には、有名人の名前があり。
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■於岩霊堂・陽運寺
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縁結びのご利益だそうだ。
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境内は綺麗。
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本堂
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紋は「抱き稲に三つ鱗」
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やはり井戸があり。
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【本性寺・毘沙門堂】
所在地:東京都新宿区須賀町13-3

日蓮宗のお寺で、本土寺(千葉県松戸市)の末寺。
徳川家康の江戸入府に従って 来た三田佐兵衛尉守綱が麹町9丁目あたりに営 んでいた隠居所を、寛永18年(1641) 観智院日泳上人に譲渡し、 三田氏の没後、寛文10年(1670) その菩提を弔う為、創設さ れたと伝えられています。

山門と毘沙門堂は、戦災で焼け残った貴重な建築物。

山門
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毘沙門堂
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向拝蟇股の彫刻は、毘沙門天のお使いである虎になっている。
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ここの毘沙門天は、江戸城内にあって、徳川家康が伊達政宗が謀反を起こさないよう祈願するために北向きに安置したので、北向き毘沙門天といわれています。

ご住職の案内で毘沙門天を拝観させていただいた。
北向毘沙門天が安置されているお堂は土蔵造り。
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土蔵の扉に、見事な鏝絵(こてえ)が描かれている。
この鏝絵は、毘沙門堂が造られた時期と同じとのことであり、元禄時代に造られたもので、作者名が刻まれていますが、作者は特定されていない。
左側の扉には龍が、右側には虎が刻まれている、見事なもの。
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内陣
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北向毘沙門天
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手前の部屋の天井には、墨絵の龍が描かれていました。
御住職の話では墨絵の龍も毘沙門堂造立期と同じ頃に書かれたものだそうです。
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国学者塙保己一や老中松平定信などを養成した萩原宗固の墓が毘沙門堂の南にありました。
萩原宗固は、江戸時代中期の国学者・歌人です。萩原家に養子に入り、幕府の先手組に所属し、与力として勤めた後、隠居して宗固と名乗ります。
塙保己一が、晩年の加茂真淵に入門し、短い時間とはいえ真淵の学問に接することができたのは、萩原宗固の計らいによるものだそうです。
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続いて、須賀神社に参拝しましたが、これは別記事とします。

【戒行寺】
所在地:新宿区須賀町9-3
妙典山戒行寺 日蓮宗
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 長谷川平蔵の菩提寺。墓地は杉並区に移っているが、現在は本堂前に二百回忌の供養碑が立っている。
平蔵は、明和五年(1768)、将軍徳川家治に初めてお見えの後、天明六年(1786)に御先手弓頭となり、同七年に火付盗貝戎改の加役を命ぜられた。当時の江戸には浪人や無宿人等の犯罪予備軍が集まっていて、盗みの方法も「殺して奪う」から「火をつけて奪う」というように質が変ってきていた。そのため、警察役の町奉行とは別に、刑事専門の火付盗賊改めを設け、街を巡回して常に情報を集めながら、犯罪者の取り締まりを行ったのである。平蔵は火付盗貝戎改めを9年間在職し、盗賊の摘発や犯罪の防止に多<の功績を残した。なかでも「人足寄湯」の設置は、犯罪の再発防止に役立ったといわれている。平蔵は寛永七年(1795)現職申、50歳の若さで死去した。

供養碑
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戒行寺坂を下ります。
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【西念寺】
所在地:新宿区若葉2-9
専称山安養院西念寺 浄土宗
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初めは麹町清水谷の小庵であったが、文禄二年(1593)徳川家康の家臣、服部半蔵が開基となり、西念寺を設立した。西念とは服部石見守半蔵正成の法号である。
 半蔵門にその名を残す服部半蔵は伊賀者の大将であった。彼は槍の名人でもあり、家康十六将の中に数えられている。家康が三方原で武田信玄の軍と戦って負けたとき、彼は武功をだて、家康から槍一本を拝領している。半蔵の名を高めたのは、『徳川実紀』が家康「御生涯御難難の第一」とする伊賀越えでの働きである。天正十年(1582)、織田信長が京都本能寺で明智光秀に急襲された。家康は光秀の追っ手を恐れ、泉州堺から伊賀の加太峠を越えて三河に帰還するルートをとった。この脱出行を先導したのが、半蔵だった。これらの武功によって物頭に取り立てられ、遠江に八千石を領する旗本となったのである。家康の関東入国後、江戸城麹町口門外に組屋敷を拝領した関係から、この門は俗に「半蔵門」と呼ばれ、今日に至っている。
 家康は人質で駿府にいた時、今川義元の養女、築山殿を聖り、長男信康をもうけた。信康は、後に信長の娘徳姫を妻にしたが、徳姫は姑の築山殿との折り合いが悪<、そのため母思いの信康とも合わなかった。築山殿は身持ちが悪かったと言われ、一時伊勢に移されていたが、信康は勝手に岡崎に呼び戻してしまった。そんなこともあって徳姫は「夫の信康が築山殿と共謀して、武田氏に内通している」と父の信長に密告した。信長は娘を信じて家康に対し、信康とその母を自決させるように命じた。家康は涙を飲んで、築山殿に討手を向けて殺し、信康には切腹を命じた。大正七年(1579)9月、半蔵は命により信康の自害に立ち合い、その介錯をおこなったといわれている。これが半蔵終生の心の重荷となり、信康供養のため出家して草庵を開いたものと思われる。
半蔵は慶長元年(1596)に55歳で死去している。

※半蔵自身が忍びの者であったという史料は、何もない。半蔵19歳のときに書き上げたといわれる伊賀忍術の秘伝書「忍秘伝」をはじめ、半蔵を上級忍者とする多くの資料が、いずれも江戸中期以降に記されたもので、真偽のほどは定かでない。
『徳川実紀』のあの伊賀越えの条にも半蔵の名はどこにもなく、西念寺にある彼の墓石Jこも「≡州(≡河)佳人」とあるのみである。
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服部半蔵の墓
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岡崎信康供養塔
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これで午前の部は終り、四谷駅まで出て、「しんみち通り」で分散して昼食。

再集合して、新宿歴史博物館に向かった。

【新宿歴史博物館】
所在地:新宿区三栄町22
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玄関前に、「四谷見附橋 高欄」が展示してあった。
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レイアウト
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博物館のガイドさんの案内で見学しました。
館内は、撮影OKの場所にはその旨表示があるというスタイルでした。

内藤新宿の模型
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四谷大木戸の部分
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江戸名所図会「四谷大木戸」
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商家の再現
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東京市電5000系
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文化住宅の生活
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昭和初期のキネマ
武蔵野館は、私にも記憶がある。
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昭和初期のうまいもの屋さん
伊勢丹の隣に「ほてい屋」というビルがあったのは知らなかった。
私も知っているお店も、けっこう載っている。
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【津の守弁財天】
所在地:新宿区荒木町10-9
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 津の守とは、江戸時代、この辺一帯に松平摂津守(美濃高須三万石)の屋敷があったところから摂津守の一字を略してこのように呼んだものである。邸内の谷の出口にダムを築き、谷を大きな池に変えた。今は埋め立てられて盆地になっている。坂を下っていくと小さな池があり、中央に弁財天の祠がある。この池の正面の崖に高さ4メートルほどの滝があった。「津の守の滝」と言っても明治の中頃まで見物の人で賑わった場所である。
 また、この池の付近に「策(むち)の井」と呼ばれる井戸があったといわれている。徳川家康が鷹狩りの途中、ここに名水のあるのを聞き、立ち寄って水を飲んだ。その時、この井戸で策(むち)の汚れを落としたため名付けられたと伝えられている。案内版には、「津の守の滝は策の井から流れ出たもので、滝つぼの池を策の池と呼ぶ」とある。地元ではこの池を「カツパ池 といい、昔は令の4倍くらいあったそうだ。

この正面に滝があったらしい。
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弁財天
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ここから「車力門通り」を通って、新宿通りに出た。
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「四谷三丁目」の駅から帰途についた。

(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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