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上野の山史跡めぐり

20220831

所在地:東京都台東区上野公園
撮影日:2022年7月22日

この日は、所属する歴史クラブノグループ活動で、第一の目的は東京国立博物館を法隆寺宝物殿を中心に見ることでしたが、それは昼食後として、午前中はできるだけ上野の山の史跡めぐりをしようと企画しました。
幹事が選んだのは、上野彰義隊碑⇒清水観音堂⇒不忍池弁天堂⇒上野大仏⇒上野東照宮⇒旧寛永寺五重塔⇒小松宮彰仁親王銅像です。
時間の関係で、五條天神社、花園稲荷神社などはカットしました。

電車で上野駅に向かう間は、ずっと雨が降っていて、上野駅の不忍口から外に出たころ、やっと雨が止みました。
上がると西郷さんがいる階段から上がりますが、暑さと湿度100%の状態で、足が重い(笑)

西郷さんの銅像は、横目で見て通過。
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【彰義隊の墓】
慶喜は新政府に対する恭順の意を表し、上野寛永寺に蟄居した。
一方、幕臣たちの慶喜の復権や助命についての運動が起こり、浅草本願寺で行われた結成式では、阿部杖策の発案で「大義を彰(あきら)かにする」という意味の彰義隊と命名し、改めて血誓状を作成した。頭取には渋沢成一郎、副頭取には天野八郎が投票によって選出された。
江戸城が無血開城し、慶喜が水戸へと退去した。彰義隊士は慶喜を千住から下総松戸まで護衛を行ったが、彰義隊自体は寛永寺に止め置かれた。
渋沢成一郎は慶喜が江戸を退去したため、彰義隊も江戸を退去し日光へ退く事を提案したが、天野は江戸での駐屯を主張したため分裂。天野派の隊士の一部が渋沢の暗殺を謀ったため渋沢は彰義隊を離脱、同志とともに飯能(現:埼玉県飯能市)の能仁寺で振武軍を結成し、独自に活動を展開した。
新政府側は彰義隊の武装解除を布告し、勝海舟、山岡鉄舟の説得に応ぜず、彰義隊と新政府側との衝突事件が上野近辺で頻発。大村益次郎の指揮で武力討伐が決定する。
上野での戦争は、午前7時からはじまり、午後5時には終結した。
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渋沢成一郎は、飯能戦争、函館戦争と転戦し、降伏し許された後、渋沢栄一に援助され経済活動に邁進。
岸田首相がバイデン大統領をもてなした八芳園は、渋沢成一郎(喜作)の邸宅跡である。

【清水観音堂】
寛永8年に京都の清水寺を模して建立された、旧寛永寺の建物の中では現存最古の建物。懸け造りの舞台から不忍池の弁天堂を見下ろせる。
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歌川広重の「名所江戸百景」には、懸崖造りの堂と「月の松」とで二枚書かれている。
「上野清水堂不忍ノ池」
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「上の山内月のまつ」
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現在の「月の松」
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本尊「千手観世音菩薩」にお参り。
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不忍池弁天堂に向かい、階段を降りる。懸崖作りがわかる。
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不忍池の弁天堂参道のちょっと左に「駅伝の碑」がある。

【駅伝の碑】
我が国、最初の駅伝は、奠都50周年記念大博覧会「東海道駅伝徒歩競争」が大正6年(1917)4月27日、28日、29日の3日間にわたり開催された。スタートは、京都・三条大橋、ゴールは、ここ東京・上野不忍池の博覧記正面玄関であった。
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【不忍池弁天堂】
江戸初期の寛永年間に、天台宗東叡山寛永寺の開山、慈眼大師天海大僧正によって建立された。
天海大僧正は、寛永寺というお寺を新しく創るにあたり、さまざまなお堂を京都周辺にある神社仏閣に見立てました。天然の池であった不忍池を琵琶湖に見立て、元々あった聖天が祀られた小さな島を竹生島に見立て、島を大きく造成することで竹生島の宝厳寺に見立てたお堂を建立した。
琵琶湖と竹生島に見立てられたお堂であったため、当初はお堂に参詣するにも船を使用していたが、参詣者が増えるにともない江戸時代に橋がかけられた。

寺号標
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本堂
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本堂の前に「宇賀神」が祀られていた。
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神名の「宇賀」は、日本神話に登場する宇迦之御魂神(うかのみたま)に由来するものと一般的には考えられている(仏教語で「財施」を意味する「宇迦耶(うがや)」に由来するという説もある)。
その姿は、人頭蛇身で蜷局(とぐろ)を巻く形で表され、頭部も老翁や女性であったりと諸説あり一様ではない。
元々は宇迦之御魂神などと同様に、穀霊神・福徳神として民間で信仰されていた神ではないかと推測されている。
この蛇神は比叡山・延暦寺(天台宗)の教学に取り入れられ、仏教の神(天)である弁才天と習合あるいは合体したとされ、この合一神は、宇賀弁才天とも呼ばれる。
そして、宇賀神が頭頂部に小さく乗っている弁才天の像が多い。

琵琶の石像
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「芭蕉翁」の碑
句碑ではなく、芭蕉翁をたたえる碑らしい。
『広茗荷集』によると、寛政年中東都獅子門白寿坊信我建ト云、と書かれていて、寛政年間、白寿坊信我建立という。
獅子門は各務支考の門人。野村信我は江戸下谷住。幕府御家人。
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不忍池の蓮が咲き始めていた。
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【上野大仏】
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上野大仏は像高6メートルの釈迦如来坐像で有ったが関東大震災に至る罹災により損壊し戦時には金属共出で失われた、現在では顔面部のみがレリーフとして保存されている。
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昭和42年、上野観光連盟が願主となり、大成建設の寄進により薬師仏を祀るパゴダ様式(ミャンマー様式の仏塔)の祈願塔(大仏パゴダ)が建立された。
祈願塔(大仏パゴダ)の内部には中央に薬師如来、左側に月光菩薩、右側に日光菩薩を安置。この薬師三尊像は、江戸時代末まで上野東照宮境内にあつた薬師堂の本尊だったもの。明治初期の神仏分離令により寛永寺に移管、さらにパゴダの本尊として迎えられました。
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上野大仏の裏を降りて、お化け燈篭を見に行く。
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【お化け燈篭】
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【上野東照宮】
上野東照宮は家康の死後寛永4年藤堂高虎が屋敷内に建立したが、家光が気に入らず再造営を命じて慶安4年に完成しました。本殿と拝殿を石の間でつないだ権現造り。金箔を一面に使用した華麗な建物で金色殿と称しています。

水舎門(みずやもん)
この門は、もともと社殿の手前にある水舎として使用されていたものを門として利用しているものです。その水舎は慶安4年(1651)、時の老中阿部重次が奉納したものです。阿部重次が東照宮の造営奉行を命じられていたので、水舎を奉納したそうです。その水舎は、社殿の手前右側にありましたが、その水舎の上屋だけを昭和39年に門として移築したのだそうです。
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参道の両側に石灯篭が並ぶ。
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藤堂高虎奉納
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名君として名高い、初代会津藩主・保科正之奉納
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現在の水舎は、左側にあります。
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その反対側にも、使用されていない水舎があります。
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その中に設置されている水鉢の銘をみると、「従四位下阿部対馬守藤原朝臣重次」とあります。
よって、水舎門に使用されている上屋と、この水鉢は一体となって使用されていたものと思います。
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こちらの水舎は使用されておらず、上には大きな鈴が安置されている。
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あるいは、これは阿部重次が家光が亡くなったときに殉死しているため、阿部重次の霊を鎮めるため鈴が置かれているのか、と思いました。

本殿前の、大正13年(1914)奉納の狛犬
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金色殿については、参加者全て見たことがあるとのことで、今回は中に入って見ることはしなかった。

【旧寛永寺五重塔】
旧寛永寺五重塔は寛永16年古賀城主土井利勝が再建、都内に現存する江戸期以前の五重塔はこの塔と池上本願寺の塔のみである。
これを見るためには、上野動物園内にあるため、予定では動物園に入ることにしていたが、今日の暑さと湿度100%の状況で、参加者がバテ気味で、東照宮参道から見えるので、それでよしとする意見が多く、東照宮参道から見るだけに留まった。
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【小松宮彰仁親王銅像】
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これで、午前の部の予定を終了。
東京国立博物館に入り、レストラン「ゆりの木」で昼食。
その後は、法隆寺宝物殿を中心に本館などを見学しました。
午後の部については別記事とします。


続いて「法隆寺宝物殿を中心にトーハク」の記事を見る


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国立科学博物館付属自然教育園

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所在地:東京都港区白金台5-21-5
撮影日:2022年6月24日

所属する歴史クラブのグループ活動で参加しました。
港区立郷土歴史館と1938年(昭和13年)に竣工した旧国立公衆衛生院の建物を見学し、ここに入っている八芳園がプロデュースする「ベジタブルカフェ」でランチを食べ、続いて向かったのが自然教育園です。

室町時代の頃、この地には白金長者と呼ばれる豪族が館を構えていたと考えられ、その名残の土塁が園内にみられる。
その後、江戸時代になると、徳川光圀の兄、高松藩主松平讃岐守頼重の下屋敷となった。この兄弟については、光圀が『兄がいるのに、なんで俺が世子なんだ』とずっと悩み、『大義をみつけたり』と、兄の子を養子として迎え水戸家三代藩主とした話が有名です。それではと、兄は光圀の子を養子にもらい受け高松藩主とした。よって、ここは光圀の実子ゆかりの地となるわけです。

明治時代に入ると陸海軍の火薬庫として使用され、一般人の立ち入りが禁止された。1917年(大正6年)に陸軍から宮内省帝室林野局に委譲され、「白金御料地」となった。戦時中は田畑にされる、防空壕が掘られるなど荒廃が進んだ。戦後、以前から隣接する国立教育研修所が演習林として利用していた経緯などから文部省に移管される。1949年(昭和24年)に全域が「旧白金御料地」として天然記念物および史跡に指定され、同時に「国立自然教育園」として一般公開された。1962年(昭和37年)に国立科学博物館附属自然教育園となった。
隣接の「庭園美術館」も同じ「旧屋敷地」である。
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正面入口
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この日はとても暑かったので、入ったら日陰を探して歩こうと思っていたら、遊歩道は全て鬱蒼たる森の中だった。
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入ってしばらくは、道の両脇に教本となる植物が植えられている。

おおばぎぼうし
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これは、まだ蕾の状態である。
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やぶれがさ
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昼なお暗い、とはこのこと。
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園内に「白金長者」の屋敷跡の土塁が残っているが、屋敷跡からかなり離れたこの場所にも土塁が残る。
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椎の巨木
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都内の一等地とは思えない、深い森の中を歩いていく。
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白金長者の館跡
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館周囲の馬蹄形の土塁の右端
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館跡には、何も無い
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土塁を遊歩道が突っ切っているため、その断面がよくわかる。
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少し戻って、ひょうたん池に向かう。
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大木が向かい合って立つ。
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物語の松
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ひょうたん池
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シラサギが居た。
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水生園
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集合時間が近づいたので、入り口への帰り道で。

ねずみもち
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からむし
文献上の別名が多く、紵(お)、苧麻(ちょま)、青苧(あおそ)、山紵(やまお)、真麻(まお)、苧麻(まお)など。
中世の越後国は日本一のカラムシの産地だったため、越後上杉氏は衣類の原料として青苧座を通じて京都などに積極的に売り出し、莫大な利益を上げた。新潟県の魚沼地方で江戸時代から織られていた伝統的な織物、越後縮はこれで織られていた。また上杉氏の転封先であった出羽国米沢藩では藩の収入源のひとつであった。このため、カラムシの専売化をめぐり、宝暦10年(1760年)の『青苧騒動』や文化4年(1807年)の『青苧一件』が起こる。なお、置賜地方産のカラムシを「米沢苧」という。この他、江戸時代の北日本での有名な産地に陸奥国会津や出羽国最上地方があった。
南方では薩摩藩がカラムシの生産や上布の製織を奨励したため、薩摩藩(鹿児島県)や琉球王国(沖縄県)では古くから栽培や加工が発達した。
からむしで思い出したのは、江戸時代の名君、出羽国米沢藩9代藩主上杉鷹山である。鷹山が養子で藩主となったとき、藩財政が困窮し藩の重役たちは領地返上を検討していたほどだった。上杉景勝が石高を三分の一に減らされたのに藩士を一人も減らさなかった、吉良上野介の子が藩主となった時見栄と外交に乱費を重ねたせいである。上杉鷹山は辛苦して財政を立て直すが、その方策の一つがカラムシの積極的運用だった。
「なせば成る なさねば成らぬ 何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」の言葉を残した。
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これで、この日の予定を終え、徒歩10分ほどで目黒駅に出て、帰途についた。

(了)


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港区立郷土歴史館・旧公衆衛生院

20220730

所在地:東京都港区白金台4-6-2
撮影日:2022年6月24日

所属する歴史クラブのグループ活動で参加しました。
港区立郷土歴史館は、東京都港区の自然・歴史・文化を保存し、伝え、文化的交流の起点となることを目指す博物館です。
1938年(昭和13年)に竣工した旧国立公衆衛生院の姿を保存しながら、耐震補強やバリアフリー化等の改修工事して2018年(平成30年)11月1日に郷土歴史館として開館しました。それまで港区立三田図書館4階にあった港区立郷土資料館の所蔵品を引き継いだものです。
建物の設計は、東京大学建築学科の教授で、東京大学安田講堂を手掛けたことで知られる内田祥三の手になるもの。全体はゴシック様式、スクラッチタイルや連続アーチが特徴的なデザインで、「内田ゴシック」と呼ばれた。講堂や教室・研究室など当時の雰囲気がそのままに保存されています。近接する東京大学医科学研究所と対になって建てられました。米ロックフェラー財団の寄付によって建設されたものです。

この建物の、中央部分と向かって右の翼廊が「旧公衆衛生院」として建物が無料公開されており、左の翼廊が「港区立郷土歴史館」となっています。
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【港区立郷土歴史館】

このフロアマップの茶色い部分が、港区立郷土歴史館であり有料部分となっています。
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常設展は、港区と海にまつわる資料を集めた「海とひとのダイナミズム」、江戸時代の港区の様子を紹介する「都市と文化のひろがり」、近現代の港区の歴史を学べる「ひとの移動とくらし」という3つのテーマで構成されています。

撮影禁止なので、パンフレットから転載しておきます。
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港区の3万年の縄文海進など地形的歴史を時間の経過とともに辿るプロジェクションマッピング、ミンククジラやハンドウイルカの骨格標本、横幅15mにも及ぶ巨大な「伊皿子貝塚」の断面展示、江戸の城南に位置する港区の武家地・寺社地・町人地、漁業・海苔の養殖など、庶民の暮らしが印象に残った。

【旧公衆衛生院】
まずは外観から。

正面
八角形の塔屋に挟まれたデザイン。
東大本郷キャンパスに存在する大講堂(安田講堂)も手掛けていて、似た感じがする。
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向かって右の翼部分
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向かって左の翼部分
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アーチが連続した玄関アプローチ
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「内田ゴシック」と云うほかない独特なデザインの外壁が中央から左右の翼部分に続いている。
スクラッチタイル張りの外壁、上部を尖塔状としたピラスター(柱形)、ピラスター中間部のテラコッタタイルによる三角形の装飾などに、「内田ゴシック」の特徴がみられる。
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古代ギリシャ風の意匠が見られる、玄関ポーチの石柱。
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内部のフロアマップ
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玄関からまっすぐ進むと、2階中央ホールに着きます。円形の吹き抜けとなっており、大理石を用いた床や、レリーフを施した漆喰天井など、建物内で最も装飾的な空間となっています。研究施設ではなく、極めて優雅な意匠となっています。
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2階廊下の照明。往時のものが現存しています。土星を思わせる。
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さて、楽しみにしていた4階にある旧講堂に直行しました。
入口周辺の、四角な感じが戦前を感じさせてくれます。
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後方からの眺め
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演台中央の時計周りと、左右に陶版のレリーフが飾られています。明治30年に山形で生まれた彫刻家、新海竹蔵氏のもの。講壇向かって右手には『葦鷺』、左手には『羊』のレリーフがあります。
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木の格子と太い梁の上には天井板が載り、特徴的な円盤状の照明器具が張り付く。

演台側から
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後方から
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ラジエーター
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座席
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公衆衛生学を学ぶ保健師のための女子寮として使用された6階。建物内の廊下は基本的に人造石となっていますが、6階だけはフローリングブロックとなっています。
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各階の中央ホールの正面側には休憩スペースがあり、外が眺められる。
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のんびりと階段を降りていきます。
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1階まで降りてくると、中央ホールはフロアがガラス!
昔は電気の品質も悪く電灯だけでは地下の照度が確保できなかったので、地下室の天井をガラスにして採光していたのだそうです。
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1階旧食堂。現在はカフェになっていて、八芳園がプロデュースする「ベジタブルカフェ」が入っています。
ここで昼食をとりました。
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ここで、のんびりと昼食、休憩をとり、午後は近くの国立科学博物館付属自然教育園で楽しみました。
自然教育園の記事は次回。


続いて「国立科学博物館付属自然教育園」の記事を見る


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湯島天満宮神幸祭・湯島の坂・妻恋神社・神田明神・湯島聖堂(その三)

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撮影日:2022年5月28日

湯島天満宮の神幸祭、湯島天神参拝、妻恋神社、神田明神に続いて、訪ねました。

【湯島聖堂】
所在地:東京都文京区湯島1−4−25

1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めました。
大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していきました。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府の官立の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなりました。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになったそうです。また、2年後の1799年(寛政11年)には長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の2.5倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていました。
ここには多くの人材が集まりましたが、維新政府に引き継がれた後、1871年(明治4年)に閉鎖されてしまいました。
教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学) の源流ともなっています。また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっているそうです。

神田明神の大鳥居から聖橋に向かう道を行き、いちばん最初の「杏壇門」近くの入り口から入りました。

案内図
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「杏壇門」と呼ばれる大きな門から入ります。
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その中に前庭と呼ばれる中庭があり、その奥に大成殿がそびえています。杏壇門、大成殿をはじめ、聖堂内の建物は、みな独特の渋い青緑色に塗装されています。
現在の大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものです。

大成殿は、土日祝日は開放されるということで、この日は中に入れました。
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周りの壁には、聖人君子の像がかかっている。
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孔子の聖像が中央の神龕(厨子)には、孔子の聖像が収められている。
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その左右には四賢人の像が置かれている。

顔子、子思の像。
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孟子、曾子の像。
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大学頭林家の系図
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江戸時代、大成殿屋根に鎮座していた「鬼犾頭(きぎんとう)」
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江戸時代、大成殿屋根に置かれた「聖獣・鬼龍子(きりゅうし)」
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「宥座の器」という、不思議なものがありました。
器が空のときは傾き、ほどよく水を入れると正しく水平を保ち、水をいっぱい入れるとひっくり返ります。孔子はこの宥座の器を見て弟子たちに「満ちて覆らない者はいない」と教訓したとしたとされます。
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大成殿内の見学を終え、外に出ます。
大成殿屋根には、鬼犾頭(きぎんとう)、鬼龍子(きりゅうし)が居ますが、伊藤忠太氏設計の建物の常として、他にも聖獣を幾つか発見したので、最後にまとめて披露します。
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「杏壇門」から石段を下りて、孔子の像に向かいます。
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かって四囲にめぐらされていたであろう、重厚な塀が一部残っている。
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孔子銅像の前には、楷樹(カイノキ)の大樹が植えられています。この木は、中国山東省の孔子墓所にある楷樹の種子を持ち帰り、その苗から育てられたものとのことです。
「楷」の字はこの木のように「強く真っ直ぐ」という意味を持っており、漢字書体の「楷書」の語源とされます。
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巨大な孔子の銅像が立っています。1975(昭和50)年に台北のライオンズクラブから寄贈されたもので、高さ4.5メートル、重量は1.5トンもあり、世界一大きな孔子銅像だそうです。
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正門の「仰高門」から出ました。「仰高」とは、論語の中にある孔子の徳を仰ぎ見るという意味の言葉だそうです。
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「仰高門」を出たところでも、面白い棟飾りを発見できました。
伊藤忠太氏設計の建物には、聖獣がつきものです。
築地本願寺、東京都復興記念館、東京都慰霊堂などにも発見できます。

◎鬼犾頭(きぎんとう)
大成殿屋根、棟の両端に鎮座。
鬼犾頭は一種の鯱(しゃちほこ)で、水を噴出して火災から建物を守る目的で置かれています。 形態は龍頭魚尾、二脚双角、頭より潮を吹き上げ、頭を外側に向けて取り付けられています。
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屋上の聖獣・鬼龍子(きりゅうし)です。
聖堂の大成殿屋根、流れ棟の四隅角に鎮座しています。
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斯文会館の屋根に、羽を持つ獅子、烏天狗、鯱を発見した。

羽を持つ獅子
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烏天狗
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これで、今日の予定は全て終了。
聖橋からJR御茶ノ水駅に行き、帰途につきました。
聖橋を渡っている時、ちょうど丸ノ内線の電車が見えた。
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(了)


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湯島天満宮神幸祭・湯島の坂・妻恋神社・神田明神・湯島聖堂(その二)

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撮影日:2022年5月28日

湯島天満宮の神幸祭、湯島天神参拝を終え、「妻恋神社」に向かったのですが、参考にした文京区のガイドマップには、途中沢山の坂の名前が載っていて、面白いので出来るだけ多くの坂を通っていきました。
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◎実盛坂:「江戸志」によれば「…湯島より池の端の辺をすべて長井庄といへり、むかし斎藤別当実盛の居住の地なり…」とある。また、この坂下の南側に、実盛塚や首洗いの井戸があったという伝説が残る。少なくとも史実では実盛塚や首洗い池は石川県加賀市なのだが、それだけ実盛のことは能の演目にもなっているので、実盛のファンのなせる業なのであろう。
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上から
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今は階段になっているが、昔はかなりの急坂だったと思う。

下から
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◎ガイ坂:旧三組町の裏通りにある横町で、ゴミ処理のためのゴミ捨場であった。別名, 芥坂(ごみざか)
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ガイ坂を下っていくと、三組坂の真ん中辺と交差する。

◎三組坂:元和2年(1616)徳川家康が駿府で亡くなり、家康お付きの中間・小人・駕籠方の「三組」の者は江戸へと召し返され、当地に屋敷地を賜った。駿河から帰ったので、里俗にこのあたり一帯を駿河町と呼んだ。その後、元禄9年(1696)三組の御家人拝領の地である由来を大切にして、町名を「三組町」と改めた。この町内の坂であることから「三組坂」と名づけられた。

交叉点から見上げる。
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交叉点から見下ろす。
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そのまま「ガイ坂」を下り、妻恋坂との交差点を右折、妻恋神社に向かいます。
◎妻恋坂:日本武尊が東征のおり、三浦半島から房総へ渡るとき大暴風雨に会い、妃の弟橘媛(弟橘姫命)が身を海に投げて海神を鎮め、尊の一行を救った。尊が湯島の地に滞在したので、郷民が尊と妃を祭ったのが妻恋神社であり、妻恋坂の由来である。
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妻恋坂を上がり始めてすぐに、右手から立爪坂が下りてくる。

立爪坂:名前の由来は、現在階段になっているほど急なので、爪を立てて上るくらい険しい坂だった。
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更に妻恋坂を上がっていくと、妻恋神社に到着。
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【妻恋神社】
所在地:東京都文京区湯島3-2-6

社号標
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ご祭神ケ倉稲魂命、日本武尊、弟橘媛命
神社発祥:日本式尊が東夷征伐の嘲、稲城を置き倉稲魂命を祭り、イナギの社と称されていたが、第五十二代嵯峨天皇の勅命により関東惣社に列し、正一位を賜り、関東総司妻戀大明神と唱えたと言い伝えられている。
日本武尊の東征の際、東京湾を走水の渡り(現横須賀市)から千葉に向けて船で渡る時、途中暴風雨に遭い、船ほもてあそばれ沈みそうになった。同行の妃・弟橘媛命が「夫の身代わりとして海に入り、海の神の心を鎮めましょう」と、「さねさし相模の小野に燃ゆる火の火中に立ちて問ひし君はも」(焼津で自分を守ってくれた尊への思い)と詠んで海に身を投じた。海は鎮まり、尊は房総に上陸が出来、東国を平定することができた。
帰路、上総の国碓日嶺に登り東南の方を望み「吾妻はや・・・・」と恋い慕いたもうたとの意をとって「妻恋明神」と号した。
当神社はその時の行宮(野営陣地)の跡と言われている。
「あづまはや」から関東のことを「あづま・あずま」というようになったとも。
武尊・倉稲(倉⇒蔵)から武蔵の国と呼ばれるのも妻戀神社からと言われている。
「ユシマ」は「聖なる水際の地」という意味があり、この地は早くから開かれ、稲作が行われており、五穀の神の稲荷として、妻戀稲荷となった。

拝殿
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本殿は覆屋の中にあり、見えない。
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神紋は「扇に御の字」
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妻恋稲荷
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妻恋坂に曲がって妻恋神社に至るちょっと前に、左に、下って上がる気になる道があった。
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妻恋坂から下ると、新妻恋坂だが、妻恋坂から見えていた上がる道というのは、神田明神の裏参道の階段だった。
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調べてみると、昌平橋通りの東側は、かっては海だった平地で、こちら西側にあたる場所は、湯島天神、神田明神、湯島聖堂、駿河台と続く海岸段丘ということになります。

神田明神の裏参道の階段を上がって、神田明神に入ります。
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裏の鳥居
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右側が末広稲荷神社、左側が三宮奉安庫の間に出た。
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銭形平次の碑がある方を回って拝殿前に出た。

銭形平次碑
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下には寛永通宝
いわゆる「穴銭」なので、ひもを通して扱いやすかった。
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傍には「がらっ八」の碑も。
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発起人にはもそうそうたる名前が。
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拝殿
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ご祭神:大己貴命、少彦名命、平将門命

もともとは、大手門の将門塚のところにあったが、徳川家康が入府の際に江戸城の表鬼門にあたる現在地に遷座した。

大己貴命(大国主命)が「だいこく様」、少彦名命が「えびす様」として信仰されている。

「大国主命(だいこく様)」
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「少彦名命(えびす様)」
ショップが大きく拡張されて、端に追いやられている感じで、ちょっとかわいそう。
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境内はそんなに混んでいなくて、静かでよかった。
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神門(内側から)
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神門の袖の塀の上に鳳凰が。
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神門(表側)
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湯島天神から、坂を楽しみながら移動し、妻恋神社、神田明神と参拝し、湯島聖堂に向かいました。


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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