金沢城・玉泉院丸庭園
20171005
郷里に用事があり、9月16日~18日の三連休に家族で帰省しました。
16日には郷里の南砺市福光で用事を済ませ、彫刻の町井波で観光、夕方には城端で「麦屋まつり」も楽しみました。
そして17日に前から行きたかった小矢部市の「桜町遺跡」を訪ねた後、倶利伽羅峠を越えて金沢に入り、昼食はいつも利用している二十一世紀美術館内のレストランで食べた後、金沢城、兼六園と楽しみました。
毎年金沢で遊ぶのに、いまさら金沢城を訪ねるのは、最近金沢城が大きく変身しているからです。
以前は金沢大学が入っていたので、石川門くらいしか立ち寄らなかったのが、今は金沢大学が他に引っ越し、次々と金沢城の遺構が年々再現されています。
今年は、金沢城の奥に「玉泉院丸庭園」が再現されたというので、見に行きました。
玉泉院丸庭園は、3代藩主である前田利常が1634年(寛永11年)に作庭を始め、廃藩時まで城内玉泉院丸に存在していた庭園です。
玉泉院丸の名前は、異母兄であり2代藩主でもある前田利長の正室・永姫(織田信長の四女)が、1614年(慶長19年)に利長が隠居先の越中高岡で死去したのちに金沢に戻って剃髪し、玉泉院と号し、この地に屋敷をかまえていたことに由来しています。
古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があったと伝えられています。
玉泉院丸庭園は池泉回遊式の大名庭園で、庭園の特色としては、二の丸を経た辰巳用水を利用した滝を水源のひとつとする、池底から周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある構造であったと考えられます。
石垣の中に滝を組み込んだ色紙短冊積石垣をはじめとした意匠性の高い石垣群が配され、それらが融合した優れた造形美をなしており、石垣を庭の構成要素とする立体的な造形はほかに類を見ないものです。
金沢城のマッブ

石川門から入る。

石川門の櫓

石川門を入って左手に進むと、ドーンと五十間長屋が聳えている。

橋爪門に向かう。

橋爪門


橋爪門の橋から左手には、遠く石川門の櫓が見える。

門をくぐると枡形であり、すぐ右手には上に石落としを備えた櫓。
しかし、その下の石垣が美しい。


橋爪門の番所


橋爪門をくぐってすぐの左手に、珍しい黄色の曼殊沙華が咲いていた。


極楽橋
二の丸から三十間長屋のある本丸附段へ渡る所にある橋で、昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。擬宝珠のついた木製の素朴な橋で、この度、修復された。

玉泉院丸庭園に入ると、すぐに「色紙短冊積み石垣」の下に出た。


色紙短冊積み石垣



このY字形石樋から、かっては滝が流れ落ちていた。

玉泉院丸庭園全景

きれいな庭です。

滝がある。

滝からのせせらぎに、サギが居た。

和舟が用意されている。

玉泉院丸庭園は、有名な「色紙短冊積み石垣」を見ることが目的だったので、これでここは切り上げ、兼六園に向かった。
(了)
「お気に入りの場所」に飛ぶ
16日には郷里の南砺市福光で用事を済ませ、彫刻の町井波で観光、夕方には城端で「麦屋まつり」も楽しみました。
そして17日に前から行きたかった小矢部市の「桜町遺跡」を訪ねた後、倶利伽羅峠を越えて金沢に入り、昼食はいつも利用している二十一世紀美術館内のレストランで食べた後、金沢城、兼六園と楽しみました。
毎年金沢で遊ぶのに、いまさら金沢城を訪ねるのは、最近金沢城が大きく変身しているからです。
以前は金沢大学が入っていたので、石川門くらいしか立ち寄らなかったのが、今は金沢大学が他に引っ越し、次々と金沢城の遺構が年々再現されています。
今年は、金沢城の奥に「玉泉院丸庭園」が再現されたというので、見に行きました。
玉泉院丸庭園は、3代藩主である前田利常が1634年(寛永11年)に作庭を始め、廃藩時まで城内玉泉院丸に存在していた庭園です。
玉泉院丸の名前は、異母兄であり2代藩主でもある前田利長の正室・永姫(織田信長の四女)が、1614年(慶長19年)に利長が隠居先の越中高岡で死去したのちに金沢に戻って剃髪し、玉泉院と号し、この地に屋敷をかまえていたことに由来しています。
古くは「西の丸」と呼ばれ、前田家の重臣屋敷があったと伝えられています。
玉泉院丸庭園は池泉回遊式の大名庭園で、庭園の特色としては、二の丸を経た辰巳用水を利用した滝を水源のひとつとする、池底から周囲の石垣最上段までの高低差が22mもある構造であったと考えられます。
石垣の中に滝を組み込んだ色紙短冊積石垣をはじめとした意匠性の高い石垣群が配され、それらが融合した優れた造形美をなしており、石垣を庭の構成要素とする立体的な造形はほかに類を見ないものです。
金沢城のマッブ

石川門から入る。

石川門の櫓

石川門を入って左手に進むと、ドーンと五十間長屋が聳えている。

橋爪門に向かう。

橋爪門


橋爪門の橋から左手には、遠く石川門の櫓が見える。

門をくぐると枡形であり、すぐ右手には上に石落としを備えた櫓。
しかし、その下の石垣が美しい。


橋爪門の番所


橋爪門をくぐってすぐの左手に、珍しい黄色の曼殊沙華が咲いていた。


極楽橋
二の丸から三十間長屋のある本丸附段へ渡る所にある橋で、昔、金沢御堂に参詣する人は朝、念仏を唱えながらこの橋を渡り、夕方、日本海に沈む夕日を拝んで極楽往生を願って帰ったと云われている。擬宝珠のついた木製の素朴な橋で、この度、修復された。

玉泉院丸庭園に入ると、すぐに「色紙短冊積み石垣」の下に出た。


色紙短冊積み石垣



このY字形石樋から、かっては滝が流れ落ちていた。

玉泉院丸庭園全景

きれいな庭です。

滝がある。

滝からのせせらぎに、サギが居た。

和舟が用意されている。

玉泉院丸庭園は、有名な「色紙短冊積み石垣」を見ることが目的だったので、これでここは切り上げ、兼六園に向かった。
(了)
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那谷寺/石川県小松市
20161219
所在地:石川県小松市那谷町ユ122
参拝日:2016年11月26日
この日、福光で「巴塚の松」、片山津ICを降りてから「実盛塚」の後に、ここに参拝した。
駐車場が満杯で吃驚。
加賀温泉郷のすぐ近くなので、混んでいるのも当たり前だが。
門前の食堂で腹ごしらえをしてから参拝。

山門


那谷寺の由来:
那谷寺は白山信仰の寺で、養老元年 (717) 越の大徳泰澄神融禅師によって開創されました。
禅師は夢にみられた十一面千手観世音菩薩のお姿を自らお造りになり、洞窟内に安置し、岩屋の胎内をくぐって、人としての罪を白く清める霊場としました。そして、この地にお堂を建立され、自生山岩屋寺と名づけられました。
その後、寛和二年 (986) に西国三十三番札所を開かれた花山法皇がこの地においでになった時、洞窟内の観音様を拝せられ、西国三十三ケ所第一番紀伊の那智山と、第三十三香美濃の谷汲山の各一字をとって郡谷寺と改め、七堂伽藍を御造営なされました。
往時は寺院250ケ坊に及ぶ隆盛を極めましたが、延元三年 (1338) 南北朝の争い、弘治元年 (1555) 朝倉景隆により坊舎が焼きつくされました。
しかし寛永年間 (1640)、加賀藩主前田利常公がその荒廃を嘆き、後水尾天皇の勅命を仰ぎ、岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院等を再建、境内の一大庭園を復興され今日の御祈願所とされました。
白山信仰の寺というのは、泰澄禅師が白山比咩神のなかに十一面千手観世音菩薩を見たとして、神仏習合の寺だということです。
山門の扉に、仁王の彫刻があり。


金堂華王殿の前に、「那谷寺の御柱」があり。


金堂華王殿への参道の両側は苔むしている。

金堂 華王殿:
十一面千手観世音菩薩をお祀りする金堂は、平成2年(1990年)の再建で鎌倉時代の和様建築様式、総桧造りです。南北朝の戦火で消失以来、650年ぶりに再建です。京佛師・松久宗琳師作の十一面千手観音は木曽檜の寄せ木つくりで7.8m、金堂の中で厳かに鎮座されています。



入り口に注連縄があったので、入ってお坊さんに聞いたら、「当寺は、いまでも神仏習合の形を守っています」とのことだった。そういうお寺は、現在では高野山、熊野三山など、限られている。
明治初期の神仏分離令の嵐を、どうやって切り抜けたのだろうか。

本尊丈六の十一面千手観音はすごかった。

普門閣(宝物殿)に向かうときに、とてもいい石仏があった。
三尊の上に、瑞雲と飛天が舞っている。

普門閣(宝物殿)


伊能忠敬「関東・東北・北陸謹図、前田利常公肖像、狩野探幽花鳥図、風神・雷神立像、源平合戦屏風など、素晴らしい宝物が展示されていた。
参道

苔が素晴らしい。


手長猿みたいだ。

奇岩遊仙境(国名勝指定園)を楽しみます。
観音浄土補陀落山を思わせるこの天然公園は、現世のパラダイスとして大切にされてきました。太古の噴火の跡と伝えられ、長い年月の間、波や風雪に洗われ今日の奇岩が形成されました。面積三万三百平方米が国名勝指定園となっています。




本殿に至る門をくぐる。

ここからの眺めもいい。

本殿下不動明王


自生稲荷大明神は入れないようです。


洞窟には石仏があり。


この洞窟の上には、「願掛け猿」が。

本殿に上がる石段に、大正2年奉納の狛犬。




本殿
大悲閣拝殿、唐門、本殿(重要文化財)からなり、観世音菩薩の慈眼視衆生の大慈悲心の御誓願より、大悲閣と名づけられました。岩窟中復に建てられ、四棟舞台造り、四方欄間に浮き彫りが施され、鹿、鳳風、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉などの花鳥が配されています。
唐門は岩窟入口、本殿は岩窟内にあり、厨子に郡谷寺御本尊十一面千手観音菩薩が安置されています。
また、白山の遥拝所となっています。古くはイワヤ寺と言ってイワヤは古代語だそうです。岩窟内は胎内をあらわし、女性の胎内を通って、あの世からこの世へ生まれ変わり再生することを輪廻転生といいますが、魂が生まれ変わり、この世で罪を洗い流し、新しい自分に生まれて白山のように美しく、出直すことを祈る聖地とのことです。

拝殿の回廊からの眺め

本殿内では撮影しなかったので、那谷寺のパンフレットから転載。

拝殿から出ようとした時でした。

渡り廊下から、拝殿の袖に江戸時代のものと見られる狛犬が置かれているのを発見。
全然傍に寄れなかったし、後で調べてみたが詳細は不明。しかし、いい感じの狛犬である。


静かな池

三重塔(重要文化財)
大悲閣西南の山上にあり、方三間三層で、扇垂木を使用。四方の壁面は唐獅子の二十の行態や牡丹の彫刻が施されており、内には、元金堂にあった鎌倉時代の作、胎蔵界大日如来を安置してあります。


胎蔵界大日如来

壁面の唐獅子彫刻



楓月橋

欄干に、木組みの猿発見

楓月橋から奇岩遊仙境の眺望は境内で最も美しく、白山妙裡大権現を祀る山上鎮守堂よりの眺望は境内一の絶景。


鎮守堂

展望台に降りる。

展望台から鎮守堂を見上げる。

下まで降りて、三重塔を見上げる。

芭蕉句碑
石山の石より白し秋の風


脇の翁塚に『おくのほそ道』の文章が刻まれていた。
「山中の温泉(いでゆ)に行ほど、白根(しらね)が嶽(だけ)跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(かざん)の法皇、三十三所(さんじゅうさんじょ)の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂(しょうどう)、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」

庚申塚
説明を読むと、塞の神(さいのかみ)として祀られていたようです。これは関東でも多くの地域で庚申塔を塞の神としていて同じ。長野県では道祖神がその役目をしている。
ただし、関東の庚申塔とはまったく違う姿である。
丸彫りの青面金剛で、一面四臂、頭に髑髏と火焔髪、三眼、上の二手には剣と宝珠、下の二手の法具は失われている。邪鬼を踏んづけているが、この邪鬼もいい姿をしている。



護摩堂(重要文化財)は、時間の関係で寄りませんでした。

鐘楼には、山道を上がって見た。

鐘楼堂(重要文化財)
入母屋造りの和様建築で、袴腰の上まで石造。寛永時代朝鮮より請来した名鐘を吊るしてある。



鐘楼からの下り道は、落ち葉が湿っていて滑りやすく、歩きにくかった。

これで、那谷寺の拝観を終え、また門前の食堂で甘いものを食べて休憩。
次の目的地「樹齢2300年・栢野の大杉」に向かいました。
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参拝日:2016年11月26日
この日、福光で「巴塚の松」、片山津ICを降りてから「実盛塚」の後に、ここに参拝した。
駐車場が満杯で吃驚。
加賀温泉郷のすぐ近くなので、混んでいるのも当たり前だが。
門前の食堂で腹ごしらえをしてから参拝。

山門


那谷寺の由来:
那谷寺は白山信仰の寺で、養老元年 (717) 越の大徳泰澄神融禅師によって開創されました。
禅師は夢にみられた十一面千手観世音菩薩のお姿を自らお造りになり、洞窟内に安置し、岩屋の胎内をくぐって、人としての罪を白く清める霊場としました。そして、この地にお堂を建立され、自生山岩屋寺と名づけられました。
その後、寛和二年 (986) に西国三十三番札所を開かれた花山法皇がこの地においでになった時、洞窟内の観音様を拝せられ、西国三十三ケ所第一番紀伊の那智山と、第三十三香美濃の谷汲山の各一字をとって郡谷寺と改め、七堂伽藍を御造営なされました。
往時は寺院250ケ坊に及ぶ隆盛を極めましたが、延元三年 (1338) 南北朝の争い、弘治元年 (1555) 朝倉景隆により坊舎が焼きつくされました。
しかし寛永年間 (1640)、加賀藩主前田利常公がその荒廃を嘆き、後水尾天皇の勅命を仰ぎ、岩窟内本殿、拝殿、唐門、三重塔、護摩堂、鐘楼、書院等を再建、境内の一大庭園を復興され今日の御祈願所とされました。
白山信仰の寺というのは、泰澄禅師が白山比咩神のなかに十一面千手観世音菩薩を見たとして、神仏習合の寺だということです。
山門の扉に、仁王の彫刻があり。


金堂華王殿の前に、「那谷寺の御柱」があり。


金堂華王殿への参道の両側は苔むしている。

金堂 華王殿:
十一面千手観世音菩薩をお祀りする金堂は、平成2年(1990年)の再建で鎌倉時代の和様建築様式、総桧造りです。南北朝の戦火で消失以来、650年ぶりに再建です。京佛師・松久宗琳師作の十一面千手観音は木曽檜の寄せ木つくりで7.8m、金堂の中で厳かに鎮座されています。



入り口に注連縄があったので、入ってお坊さんに聞いたら、「当寺は、いまでも神仏習合の形を守っています」とのことだった。そういうお寺は、現在では高野山、熊野三山など、限られている。
明治初期の神仏分離令の嵐を、どうやって切り抜けたのだろうか。

本尊丈六の十一面千手観音はすごかった。

普門閣(宝物殿)に向かうときに、とてもいい石仏があった。
三尊の上に、瑞雲と飛天が舞っている。

普門閣(宝物殿)


伊能忠敬「関東・東北・北陸謹図、前田利常公肖像、狩野探幽花鳥図、風神・雷神立像、源平合戦屏風など、素晴らしい宝物が展示されていた。
参道

苔が素晴らしい。


手長猿みたいだ。

奇岩遊仙境(国名勝指定園)を楽しみます。
観音浄土補陀落山を思わせるこの天然公園は、現世のパラダイスとして大切にされてきました。太古の噴火の跡と伝えられ、長い年月の間、波や風雪に洗われ今日の奇岩が形成されました。面積三万三百平方米が国名勝指定園となっています。




本殿に至る門をくぐる。

ここからの眺めもいい。

本殿下不動明王


自生稲荷大明神は入れないようです。


洞窟には石仏があり。


この洞窟の上には、「願掛け猿」が。

本殿に上がる石段に、大正2年奉納の狛犬。




本殿
大悲閣拝殿、唐門、本殿(重要文化財)からなり、観世音菩薩の慈眼視衆生の大慈悲心の御誓願より、大悲閣と名づけられました。岩窟中復に建てられ、四棟舞台造り、四方欄間に浮き彫りが施され、鹿、鳳風、鶴、松、竹、梅、橘、紅葉などの花鳥が配されています。
唐門は岩窟入口、本殿は岩窟内にあり、厨子に郡谷寺御本尊十一面千手観音菩薩が安置されています。
また、白山の遥拝所となっています。古くはイワヤ寺と言ってイワヤは古代語だそうです。岩窟内は胎内をあらわし、女性の胎内を通って、あの世からこの世へ生まれ変わり再生することを輪廻転生といいますが、魂が生まれ変わり、この世で罪を洗い流し、新しい自分に生まれて白山のように美しく、出直すことを祈る聖地とのことです。

拝殿の回廊からの眺め

本殿内では撮影しなかったので、那谷寺のパンフレットから転載。

拝殿から出ようとした時でした。

渡り廊下から、拝殿の袖に江戸時代のものと見られる狛犬が置かれているのを発見。
全然傍に寄れなかったし、後で調べてみたが詳細は不明。しかし、いい感じの狛犬である。


静かな池

三重塔(重要文化財)
大悲閣西南の山上にあり、方三間三層で、扇垂木を使用。四方の壁面は唐獅子の二十の行態や牡丹の彫刻が施されており、内には、元金堂にあった鎌倉時代の作、胎蔵界大日如来を安置してあります。


胎蔵界大日如来

壁面の唐獅子彫刻



楓月橋

欄干に、木組みの猿発見

楓月橋から奇岩遊仙境の眺望は境内で最も美しく、白山妙裡大権現を祀る山上鎮守堂よりの眺望は境内一の絶景。


鎮守堂

展望台に降りる。

展望台から鎮守堂を見上げる。

下まで降りて、三重塔を見上げる。

芭蕉句碑
石山の石より白し秋の風


脇の翁塚に『おくのほそ道』の文章が刻まれていた。
「山中の温泉(いでゆ)に行ほど、白根(しらね)が嶽(だけ)跡にみなしてあゆむ。左の山際に観音堂あり。花山(かざん)の法皇、三十三所(さんじゅうさんじょ)の順礼とげさせ給ひて後、大慈大悲(だいじだいひ)の像を安置し給ひて、那谷と名付給ふと也。那智、谷汲(たにぐみ)の二字をわかち侍(はべり)しとぞ。奇石(きせき)さまざまに、古松(こしょう)植ならべて、萱ぶきの小堂(しょうどう)、岩の上に造りかけて、殊勝の土地也。」

庚申塚
説明を読むと、塞の神(さいのかみ)として祀られていたようです。これは関東でも多くの地域で庚申塔を塞の神としていて同じ。長野県では道祖神がその役目をしている。
ただし、関東の庚申塔とはまったく違う姿である。
丸彫りの青面金剛で、一面四臂、頭に髑髏と火焔髪、三眼、上の二手には剣と宝珠、下の二手の法具は失われている。邪鬼を踏んづけているが、この邪鬼もいい姿をしている。



護摩堂(重要文化財)は、時間の関係で寄りませんでした。

鐘楼には、山道を上がって見た。

鐘楼堂(重要文化財)
入母屋造りの和様建築で、袴腰の上まで石造。寛永時代朝鮮より請来した名鐘を吊るしてある。



鐘楼からの下り道は、落ち葉が湿っていて滑りやすく、歩きにくかった。

これで、那谷寺の拝観を終え、また門前の食堂で甘いものを食べて休憩。
次の目的地「樹齢2300年・栢野の大杉」に向かいました。
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武家屋敷跡/金沢
20150813
8月3日の朝、兼六園を散歩した後、ホテルで朝食。
チェックアウトは12時までなので、それまで武家屋敷を見てまわりました。
金沢に行く前に、下の娘が金沢で行きたいお菓子屋さんがあると連絡してきて、調べると武家屋敷の野村家住宅の横にあると判り、しかも2ケ月くらい前に歴史クラブの先輩の井上さんが金沢に遊んで、野村家住宅が良かったと教えて下さったので、それなら久しぶりに武家屋敷を散策するかと、予定に入れました。
ホテルの前から坂を降りると、せせらぎ通り商店街で、流れているのは鞍月用水(くらつきようすい)です。ブラタモリでも取り上げていましたが、ここは金沢城の「外惣構え」の位置で、この眺めは「惣構え」を想像できるものです。
堀が道幅一杯であり、右手にあった土塁が今の建物と同じくらいの高さだったと云います。

この「惣構え」は、家康が金沢を攻めると宣言したため、それに対し申し開きをするのと並行して利長が築いたもの。

結局「お松の方」が江戸に人質に行くということで、金沢攻めは実行されなかった。
どうして家康が金沢を攻めると云ったかというと、利家死去後に、利家が家康の暗殺を企てたことがわかったから。
利家が今わの時に家康が見舞いに来たが、利家はこれが家康を倒す最後のチャンスと考え、利長に家康暗殺を命じた。利家が寝ている布団の下に刀が置いてあったという。
利長は、家康を倒しても、秀忠が成人している今となっては、徳川家優位の体制を覆すことは出来ないと、それを諌めて、実行しなかった。
しかし利家は、家康殺害を利長だけでなく、五千石取の家臣徳山五兵衛、剣の達人片山伊賀にも命じていた。
この中で、徳山五兵衛が問題の多い男だった。初め織田信長に仕え、柴田勝家が越前北の庄に封じられると家老になった。勝家が死ぬと娘が利長の家臣に嫁いでいる縁を頼って利家に拾ってもらった。ところがこの男は、いずれ天下は家康のものになると読み、利家には無断でもう一人の娘を家康に差し出していた。
そして利家の死の翌日には、さっさと出奔して家康のもとに駆け込み、利家に家康殺害の計画があったと報じ、まんまと五千石の家臣にしてもらったのである。
(『われに千里の思いあり』中村彰彦著 より)
いつの時代にも、何処にでもこういう人物は居るものだ。
せせらぎ通りから入れば、そこはもう武家屋敷町である。


ここが人気スポット。
松を活かすために、門わきの塀を破っている。

細く、微妙に折れたり、鍵型に曲がったりしている。

ブラタモリで教えてもらったのだが、石高、地位で石垣の高さも決まっていて、こういうことが起こる。

武家屋敷町を抜けると大野庄用水。

用水沿いにちょっと歩くと、目的のお菓子屋さんと野村家住宅の前。

大野用水について

説明にあった句碑
「御荷川の なごり床しき 水の秋」

野村家住宅跡



説明書き

この説明書きをちゃんと読まないで、中に入ったので頭を抱えてしまった。
至る所に「千二百石」と書いてある。
それで、千二百石の武士の暮らしはどんなだったろうと楽しみにしたのだ。
というのは、カミさんの家は江戸時代は百姓だが、加賀藩に千二百石納める「十村役」であった。
加賀藩は、村に「肝煎(きもいり)」を置き、十ケ村を束ねる「十村役」を置いた。加賀藩の役人は十村役を相手にすれば良いというわけである。
武士の場合は、実質4割だったそうだから、千二百石といっても実質の収入は480石だったそうだが。
野村家住宅の中を見始めて、混乱してしまった。
「謁見の間」があり、凝りに凝った茶室。
千二百石で、そんなバカな・・・・・・・
加賀藩の場合、筆頭家老本多家が五万石、家老は一万石以上。
わが歴史クラブに五千石取りだった加賀藩武士の末裔が居るが。
千二百石取り以上の武士だと、三桁は居たはずだ。
ごく中流の家庭であったはずである。
見終わって、出てからまたこの説明を見て納得。
この家は、ほとんどは豪商の遺構を持ってきたもので、誇るべき金沢文化の展示であった。
玄関

式台を上がると、天正12年(1584)の能登末森城の戦いに野村伝兵衛が着用したという鎧兜が置かれている。


襖、欄間、障子などきれいな部屋だ。

書院の造りも素晴らしい。

上段の間の釘隠し(江戸時代)


内庭に置かれた組石は、金沢城の石垣として切り出されたが、山に残された石で、切りだし人夫の目印入りの戸室石。
当時は一般使用禁制の石だった。

謁見の間(上段の間)




上段の間の縁側で、庭を眺めた。




仏間
仏壇は、北陸特有の金仏壇。



襖絵


茶室が二階にあり、手洗いから石段を上がっていく。


茶室入り口

桐板天井に神代杉の一枚板。

もう一つの茶室

茶室からの眺め


○鬼川文庫



陳列品は、金沢文化の粋。


前田利長が与えた知行所目録


徳川幕府の貨幣制度の説明があり、これは判りやすくて良かった。






これで、野村家住宅を見終わり、娘が行きたがっていた菓子店「たろう」に寄った。


まずは、奥の喫茶コーナーに飛び込んだ(笑)


私の頼んだ「白玉ぜんざい」
美味しかった。

その後、ここでお菓子を買って帰りました。
美味しいお菓子でした。
「たろう」のHP
これで、今回の金沢での予定は全て終了。
12時直前にホテルをチェックアウト。金沢駅から新幹線「かがやき」で帰ってきました。
今回、千二百石取の野村家住宅を見ようとして、豪華すぎてズッコケたので、次回は中流の武士の、質実剛健な生活がうかがえる家を探して見たいと思う。
「お気に入りの場所」に飛ぶ
チェックアウトは12時までなので、それまで武家屋敷を見てまわりました。
金沢に行く前に、下の娘が金沢で行きたいお菓子屋さんがあると連絡してきて、調べると武家屋敷の野村家住宅の横にあると判り、しかも2ケ月くらい前に歴史クラブの先輩の井上さんが金沢に遊んで、野村家住宅が良かったと教えて下さったので、それなら久しぶりに武家屋敷を散策するかと、予定に入れました。
ホテルの前から坂を降りると、せせらぎ通り商店街で、流れているのは鞍月用水(くらつきようすい)です。ブラタモリでも取り上げていましたが、ここは金沢城の「外惣構え」の位置で、この眺めは「惣構え」を想像できるものです。
堀が道幅一杯であり、右手にあった土塁が今の建物と同じくらいの高さだったと云います。

この「惣構え」は、家康が金沢を攻めると宣言したため、それに対し申し開きをするのと並行して利長が築いたもの。

結局「お松の方」が江戸に人質に行くということで、金沢攻めは実行されなかった。
どうして家康が金沢を攻めると云ったかというと、利家死去後に、利家が家康の暗殺を企てたことがわかったから。
利家が今わの時に家康が見舞いに来たが、利家はこれが家康を倒す最後のチャンスと考え、利長に家康暗殺を命じた。利家が寝ている布団の下に刀が置いてあったという。
利長は、家康を倒しても、秀忠が成人している今となっては、徳川家優位の体制を覆すことは出来ないと、それを諌めて、実行しなかった。
しかし利家は、家康殺害を利長だけでなく、五千石取の家臣徳山五兵衛、剣の達人片山伊賀にも命じていた。
この中で、徳山五兵衛が問題の多い男だった。初め織田信長に仕え、柴田勝家が越前北の庄に封じられると家老になった。勝家が死ぬと娘が利長の家臣に嫁いでいる縁を頼って利家に拾ってもらった。ところがこの男は、いずれ天下は家康のものになると読み、利家には無断でもう一人の娘を家康に差し出していた。
そして利家の死の翌日には、さっさと出奔して家康のもとに駆け込み、利家に家康殺害の計画があったと報じ、まんまと五千石の家臣にしてもらったのである。
(『われに千里の思いあり』中村彰彦著 より)
いつの時代にも、何処にでもこういう人物は居るものだ。
せせらぎ通りから入れば、そこはもう武家屋敷町である。


ここが人気スポット。
松を活かすために、門わきの塀を破っている。

細く、微妙に折れたり、鍵型に曲がったりしている。

ブラタモリで教えてもらったのだが、石高、地位で石垣の高さも決まっていて、こういうことが起こる。

武家屋敷町を抜けると大野庄用水。

用水沿いにちょっと歩くと、目的のお菓子屋さんと野村家住宅の前。

大野用水について

説明にあった句碑
「御荷川の なごり床しき 水の秋」

野村家住宅跡



説明書き

この説明書きをちゃんと読まないで、中に入ったので頭を抱えてしまった。
至る所に「千二百石」と書いてある。
それで、千二百石の武士の暮らしはどんなだったろうと楽しみにしたのだ。
というのは、カミさんの家は江戸時代は百姓だが、加賀藩に千二百石納める「十村役」であった。
加賀藩は、村に「肝煎(きもいり)」を置き、十ケ村を束ねる「十村役」を置いた。加賀藩の役人は十村役を相手にすれば良いというわけである。
武士の場合は、実質4割だったそうだから、千二百石といっても実質の収入は480石だったそうだが。
野村家住宅の中を見始めて、混乱してしまった。
「謁見の間」があり、凝りに凝った茶室。
千二百石で、そんなバカな・・・・・・・
加賀藩の場合、筆頭家老本多家が五万石、家老は一万石以上。
わが歴史クラブに五千石取りだった加賀藩武士の末裔が居るが。
千二百石取り以上の武士だと、三桁は居たはずだ。
ごく中流の家庭であったはずである。
見終わって、出てからまたこの説明を見て納得。
この家は、ほとんどは豪商の遺構を持ってきたもので、誇るべき金沢文化の展示であった。
玄関

式台を上がると、天正12年(1584)の能登末森城の戦いに野村伝兵衛が着用したという鎧兜が置かれている。


襖、欄間、障子などきれいな部屋だ。

書院の造りも素晴らしい。

上段の間の釘隠し(江戸時代)


内庭に置かれた組石は、金沢城の石垣として切り出されたが、山に残された石で、切りだし人夫の目印入りの戸室石。
当時は一般使用禁制の石だった。

謁見の間(上段の間)




上段の間の縁側で、庭を眺めた。




仏間
仏壇は、北陸特有の金仏壇。



襖絵


茶室が二階にあり、手洗いから石段を上がっていく。


茶室入り口

桐板天井に神代杉の一枚板。

もう一つの茶室

茶室からの眺め


○鬼川文庫



陳列品は、金沢文化の粋。


前田利長が与えた知行所目録


徳川幕府の貨幣制度の説明があり、これは判りやすくて良かった。






これで、野村家住宅を見終わり、娘が行きたがっていた菓子店「たろう」に寄った。


まずは、奥の喫茶コーナーに飛び込んだ(笑)


私の頼んだ「白玉ぜんざい」
美味しかった。

その後、ここでお菓子を買って帰りました。
美味しいお菓子でした。
「たろう」のHP
これで、今回の金沢での予定は全て終了。
12時直前にホテルをチェックアウト。金沢駅から新幹線「かがやき」で帰ってきました。
今回、千二百石取の野村家住宅を見ようとして、豪華すぎてズッコケたので、次回は中流の武士の、質実剛健な生活がうかがえる家を探して見たいと思う。
「お気に入りの場所」に飛ぶ
兼六園補遺/金沢
20150811
私たちが毎年金沢で泊まるのは、香林坊の金沢東急ホテルです。なんといっても地の利が良いので気に入っています。
8月3日の朝、朝食前に、7:30にホテルから兼六園まで散歩しました。
家族には散歩ですが、私には二つの目的がありました。
兼六園は、昨年(2014年)この際だからとほぼ全てを撮ったつもりでしたが、洩れているのがわかった2点です。
その兼六園の記事を読む
いつもの通り、旧四高の建物前を通ります。

真弓坂から入っていきます。

緑が気持ち良い。

瓢池、夕顔亭の前を通り、松濤坂を上がると、噴水の前。
日本最古の噴水で、サイフォンの原理で霞ケ池の水面と同じ高さに上がっているわけです。

たしか、この辺だと、「ブラタモリでやっていた、金沢城に水を送っていた桝はどこですが?」と、公園の人に訪ねるが、なかなかわからない(泣)
訪ねること三回目でやっとわかりました(嬉)
目的の物は、琴柱灯篭の向かいにありました。
霞ケ池から、こちらに水路があります。

その水路が延びています。堰板で止められている。


はっきりと水路はわかりますね。

ブラタモリのときは、タモリさんは桝の所まで入れてもらっていましたが、私は望遠で撮るだけです。


この桝から下に落として、百間堀の下を通して、逆サイフォンの原理で金沢城に水を送っていた。
江戸時代にそれをやったのだから、大したものです。
百間堀(明治時代の写真)

現在は百間堀通りとなっている。

百間堀通りの上を、兼六園と金沢城石川門をつないでいる石川橋

現在は金沢の中で最も有名な場所の一つとして知られる兼六園ですが、辰巳用水が作られた頃はまだ庭園としては整備されておらず、武家地であったようです。兼六園は1822年(文政5年)、竹沢御殿として整備されたものです。辰巳用水の水は兼六園の曲水としても使われました。辰巳用水の水は城の飲料用としても使われたのですが、城との間は谷間となって百間堀がありました。そこで堀の下に導水管を通して城へ水を導いたのです。これは伏越(ふせごし)(逆サイフォン)という技術です。サイフォンは、高い場所を乗り越えて低い位置へ水などの液体を移動させることをいいますが、金沢では低い位置を通すため、逆サイフォンと呼ばれています。当初は導水管として木桶(もくひ)が使われていました。構造は角材に凹状の溝を掘り、その上に蓋をかぶせるというものです。1860年代に石管に取り替えられましたが、こちらは石の真ん中を丸くくり抜いたものでした。石管と石管の接合部分からの漏水を防ぐために松脂が使われました。石管の直径からみて、それほどの水量はなかったようです。
尾山神社境内に置いてあった石管

霞ケ池をあとにして。

日本武尊像(明治記念碑)を過ぎて、山崎山まで来ると、目的の芭蕉の句碑がある。
今回、倶利伽羅峠の芭蕉の句碑をきっかけに、金沢にある芭蕉句碑を調べたら、なんと兼六園にもあり、私は昨年の夏に撮り漏らしていた(汗)
山崎山という小高い丘があるが、その上り口に芭蕉の句碑がある。

「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」 の句碑。
書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆によると案内板に書いてある。梅室は前記事の宝泉寺に句碑を残している人物である。




「あかあかと----」の句は金沢に入る前に作られたそうだが、おくのほそ道には金沢から小松に行く途中の句として載せられている。
せっかくだから、山崎山に上がる。


頂上にある四阿の掲額がよかった。

下を見下ろすと、公園の人が朝から池の掃除をしていた。
ありがとうございます。

山崎山の中腹にあった「御室の塔」



歩いていくと、苔の素晴らしいところあり。


「竜石」があり。


「鶺鴒島」
人生の三儀式である「誕生」「結婚」「死」をそれぞれ陰陽石、相生の松、五重の石塔で表し、配置しています。昔、いざなみ、いざなぎの尊が、男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事より、その名が付けられました。正面に「三社」と書かれた石額がかかった鳥居を据えており、他の大名庭園でも例を見ない珍しい構成であると言えます。

これで、今回の兼六園での補遺は終了。
芭蕉の句碑に関しては、金沢で残っているのは、いまわかっているもので、有名な忍者寺がある寺町に三か所ある。
これは、芭蕉の門人で加賀金沢の人「小杉一笑」に関するもので、絶対に外せません。
次回金沢に来た時のお楽しみとします。
ホテルの朝食バイキングが美味しいので、飛んで帰りました(笑)
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8月3日の朝、朝食前に、7:30にホテルから兼六園まで散歩しました。
家族には散歩ですが、私には二つの目的がありました。
兼六園は、昨年(2014年)この際だからとほぼ全てを撮ったつもりでしたが、洩れているのがわかった2点です。
その兼六園の記事を読む
いつもの通り、旧四高の建物前を通ります。

真弓坂から入っていきます。

緑が気持ち良い。

瓢池、夕顔亭の前を通り、松濤坂を上がると、噴水の前。
日本最古の噴水で、サイフォンの原理で霞ケ池の水面と同じ高さに上がっているわけです。

たしか、この辺だと、「ブラタモリでやっていた、金沢城に水を送っていた桝はどこですが?」と、公園の人に訪ねるが、なかなかわからない(泣)
訪ねること三回目でやっとわかりました(嬉)
目的の物は、琴柱灯篭の向かいにありました。
霞ケ池から、こちらに水路があります。

その水路が延びています。堰板で止められている。


はっきりと水路はわかりますね。

ブラタモリのときは、タモリさんは桝の所まで入れてもらっていましたが、私は望遠で撮るだけです。


この桝から下に落として、百間堀の下を通して、逆サイフォンの原理で金沢城に水を送っていた。
江戸時代にそれをやったのだから、大したものです。
百間堀(明治時代の写真)

現在は百間堀通りとなっている。

百間堀通りの上を、兼六園と金沢城石川門をつないでいる石川橋

現在は金沢の中で最も有名な場所の一つとして知られる兼六園ですが、辰巳用水が作られた頃はまだ庭園としては整備されておらず、武家地であったようです。兼六園は1822年(文政5年)、竹沢御殿として整備されたものです。辰巳用水の水は兼六園の曲水としても使われました。辰巳用水の水は城の飲料用としても使われたのですが、城との間は谷間となって百間堀がありました。そこで堀の下に導水管を通して城へ水を導いたのです。これは伏越(ふせごし)(逆サイフォン)という技術です。サイフォンは、高い場所を乗り越えて低い位置へ水などの液体を移動させることをいいますが、金沢では低い位置を通すため、逆サイフォンと呼ばれています。当初は導水管として木桶(もくひ)が使われていました。構造は角材に凹状の溝を掘り、その上に蓋をかぶせるというものです。1860年代に石管に取り替えられましたが、こちらは石の真ん中を丸くくり抜いたものでした。石管と石管の接合部分からの漏水を防ぐために松脂が使われました。石管の直径からみて、それほどの水量はなかったようです。
尾山神社境内に置いてあった石管

霞ケ池をあとにして。

日本武尊像(明治記念碑)を過ぎて、山崎山まで来ると、目的の芭蕉の句碑がある。
今回、倶利伽羅峠の芭蕉の句碑をきっかけに、金沢にある芭蕉句碑を調べたら、なんと兼六園にもあり、私は昨年の夏に撮り漏らしていた(汗)
山崎山という小高い丘があるが、その上り口に芭蕉の句碑がある。

「あかあかと 日は難面(つれなく)も 秋の風」 の句碑。
書は江戸後期金沢の俳人梅室の筆によると案内板に書いてある。梅室は前記事の宝泉寺に句碑を残している人物である。




「あかあかと----」の句は金沢に入る前に作られたそうだが、おくのほそ道には金沢から小松に行く途中の句として載せられている。
せっかくだから、山崎山に上がる。


頂上にある四阿の掲額がよかった。

下を見下ろすと、公園の人が朝から池の掃除をしていた。
ありがとうございます。

山崎山の中腹にあった「御室の塔」



歩いていくと、苔の素晴らしいところあり。


「竜石」があり。


「鶺鴒島」
人生の三儀式である「誕生」「結婚」「死」をそれぞれ陰陽石、相生の松、五重の石塔で表し、配置しています。昔、いざなみ、いざなぎの尊が、男女和合の方法を鶺鴒から教わったという故事より、その名が付けられました。正面に「三社」と書かれた石額がかかった鳥居を据えており、他の大名庭園でも例を見ない珍しい構成であると言えます。

これで、今回の兼六園での補遺は終了。
芭蕉の句碑に関しては、金沢で残っているのは、いまわかっているもので、有名な忍者寺がある寺町に三か所ある。
これは、芭蕉の門人で加賀金沢の人「小杉一笑」に関するもので、絶対に外せません。
次回金沢に来た時のお楽しみとします。
ホテルの朝食バイキングが美味しいので、飛んで帰りました(笑)
「お気に入りの場所」に飛ぶ
宝泉寺の芭蕉句碑/金沢
20150809
所在地:石川県金沢市子来町57
8月2日、泉鏡花記念館を見物したあと、私は近くのひがし茶屋街奥、卯辰山の宝泉寺に芭蕉の句碑があるので行くことにし、その間、家族は娘が探したレトロが売りの喫茶店で待っていることにしました。
浅野川大橋を渡ります。
左隅上の方に幟が立っているところが目的地の宝泉寺です。

自由軒の前を通って、ひがし茶屋街に入ります。

ひがし茶屋街を通り抜けます。


さっさと通り抜けるつもりでも、やはり綺麗な人が居ると、ついシャッターを(笑)

ひがし茶屋街の一番奥

宇多須神社の前です。

脇の急な坂道(子来坂)を登っていくと、その途中にあります

宝泉寺に着きました。

入り口から上りですが、石仏が並んでいます。

入り口から入ってすぐの左手に芭蕉の句碑がありました。

ここは、芭蕉が訪れたといわれる俳人鶴屋句空の草庵「柳陰軒」があった場所である。
現在は宝泉寺の寺域になっている。
ここでの句は「ちる柳 あるじも我も 鐘を聞く」


文字はほとんど摩滅しているとの情報だったが、刻み直してあった。
「柳陰軒址」も刻んである。

せっかくだから、お寺にもお参りすることにした。

石段を上がりつめて左に折れるとお堂がある。

石仏が多い。
寝釈迦を彫った石仏は初めてだ。


本堂

天正十一年(1583)、前田利家公が加賀国金沢城入城の際、城内の越後屋敷の地に摩利支天堂を創建し、摩利支天尊を自らの守護神として奉安し信仰崇拝されました。また利家公は末森の戦や関東の戦では、摩利支天尊を兜の中におさめて出陣せられ、加護を受けられたことはつとに有名です。
慶長六年(1601)、二代目利長公のとき、金沢城の鬼門(北東)にあたる向山の中腹に一万坪の地を寄進せられ、城内の摩利支天尊を当地に移築奉安し、「摩利支天山」と命名され、加賀百万石の「鬼門封じ」とし、別当宝泉坊が勤仕したのが、当寺の起こりという。
慶長十一年(1606)、利常公が「名人越後」と呼ばれた剣聖、富田越後守重政に堂宇を建立させてより、摩利支天尊は金沢城を眼下にするこの山頂に鎮座し、加賀百万石の城下町を守護してきた。
本堂の前面に天狗の面があり。



ちなみに、本尊の前田利家の摩利支天像は秘仏であり、ご住職も一度しか見ていないという。
境内に、泉鏡花の作品に書かれた「五本松」 がある。




○泉鏡花の作品
明治28年1月『春夏秋冬』に発表した「聾の一心」は、彫金師の父、清次(号政光)の死を扱ったものです。その中の一節。
「魔所の名高き五本松、宇宙に朦朧と姿を顕じて(あらわして)梢に叫ぶ天狗風、川の流れと相應じて、音無き夜に物寂し」
短編『五本松』のあらすじ
秋の夜更け、血気盛んな若者三人が天神山に登り、夜中の騒がしさを嫌う魔神のすみか「五本松」前で、放歌高吟して帰る。するとそのたたりか、若者の一人は朝まで騒ぐ修羅の足音で眠れず、手足を血まみれにした仲間の一人が戸をたたく幻を見る。その下宿へ駆けつけてみると、案の定、両手は黒ずんだ赤色にまみれており、二人は顔を見合わせる。窓を開けば、五本松の梢が向こうの物干しの陰からほっかりと見えるが、それを見るにつけ、何かはばかるところがあってその二三日は垂れこめていた。それだけで無事であった。
境内に、金沢出身の幕末の俳人桜井梅室の句碑が二つあった。
「ひと雫 けふの命そ 菊の露」


「屋の棟に そふて植けり 梅柳梅室」の句碑です。

桜井梅室 (さくらいばいしつ 1769-1852)は、本名を能充といい、加賀藩の研刀御用係であったが、1807年(文化四)、三十九歳の時、俳諧師になるため辞職し上洛する。文政・天保期は江戸に居住。一時金沢に引退したものの再び上洛。
京都に没し、寺町広小路の北本禅寺に葬られた。享年八十四歳。
境内からの金沢の町の眺め。


浅野川が小さく見える。

参道に、木槿(むくげ)が咲いていた。


この日もすごい猛暑だったのだが、待たせているという意識から、駆けずり回ったので、家族が待っている喫茶店に戻ったときには、息も絶え絶え、汗ぐっしょり(苦笑)
よくぞ熱中症にならなかったものだと、ちと反省しました。
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8月2日、泉鏡花記念館を見物したあと、私は近くのひがし茶屋街奥、卯辰山の宝泉寺に芭蕉の句碑があるので行くことにし、その間、家族は娘が探したレトロが売りの喫茶店で待っていることにしました。
浅野川大橋を渡ります。
左隅上の方に幟が立っているところが目的地の宝泉寺です。

自由軒の前を通って、ひがし茶屋街に入ります。

ひがし茶屋街を通り抜けます。


さっさと通り抜けるつもりでも、やはり綺麗な人が居ると、ついシャッターを(笑)

ひがし茶屋街の一番奥

宇多須神社の前です。

脇の急な坂道(子来坂)を登っていくと、その途中にあります

宝泉寺に着きました。

入り口から上りですが、石仏が並んでいます。

入り口から入ってすぐの左手に芭蕉の句碑がありました。

ここは、芭蕉が訪れたといわれる俳人鶴屋句空の草庵「柳陰軒」があった場所である。
現在は宝泉寺の寺域になっている。
ここでの句は「ちる柳 あるじも我も 鐘を聞く」


文字はほとんど摩滅しているとの情報だったが、刻み直してあった。
「柳陰軒址」も刻んである。

せっかくだから、お寺にもお参りすることにした。

石段を上がりつめて左に折れるとお堂がある。

石仏が多い。
寝釈迦を彫った石仏は初めてだ。


本堂

天正十一年(1583)、前田利家公が加賀国金沢城入城の際、城内の越後屋敷の地に摩利支天堂を創建し、摩利支天尊を自らの守護神として奉安し信仰崇拝されました。また利家公は末森の戦や関東の戦では、摩利支天尊を兜の中におさめて出陣せられ、加護を受けられたことはつとに有名です。
慶長六年(1601)、二代目利長公のとき、金沢城の鬼門(北東)にあたる向山の中腹に一万坪の地を寄進せられ、城内の摩利支天尊を当地に移築奉安し、「摩利支天山」と命名され、加賀百万石の「鬼門封じ」とし、別当宝泉坊が勤仕したのが、当寺の起こりという。
慶長十一年(1606)、利常公が「名人越後」と呼ばれた剣聖、富田越後守重政に堂宇を建立させてより、摩利支天尊は金沢城を眼下にするこの山頂に鎮座し、加賀百万石の城下町を守護してきた。
本堂の前面に天狗の面があり。



ちなみに、本尊の前田利家の摩利支天像は秘仏であり、ご住職も一度しか見ていないという。
境内に、泉鏡花の作品に書かれた「五本松」 がある。




○泉鏡花の作品
明治28年1月『春夏秋冬』に発表した「聾の一心」は、彫金師の父、清次(号政光)の死を扱ったものです。その中の一節。
「魔所の名高き五本松、宇宙に朦朧と姿を顕じて(あらわして)梢に叫ぶ天狗風、川の流れと相應じて、音無き夜に物寂し」
短編『五本松』のあらすじ
秋の夜更け、血気盛んな若者三人が天神山に登り、夜中の騒がしさを嫌う魔神のすみか「五本松」前で、放歌高吟して帰る。するとそのたたりか、若者の一人は朝まで騒ぐ修羅の足音で眠れず、手足を血まみれにした仲間の一人が戸をたたく幻を見る。その下宿へ駆けつけてみると、案の定、両手は黒ずんだ赤色にまみれており、二人は顔を見合わせる。窓を開けば、五本松の梢が向こうの物干しの陰からほっかりと見えるが、それを見るにつけ、何かはばかるところがあってその二三日は垂れこめていた。それだけで無事であった。
境内に、金沢出身の幕末の俳人桜井梅室の句碑が二つあった。
「ひと雫 けふの命そ 菊の露」


「屋の棟に そふて植けり 梅柳梅室」の句碑です。

桜井梅室 (さくらいばいしつ 1769-1852)は、本名を能充といい、加賀藩の研刀御用係であったが、1807年(文化四)、三十九歳の時、俳諧師になるため辞職し上洛する。文政・天保期は江戸に居住。一時金沢に引退したものの再び上洛。
京都に没し、寺町広小路の北本禅寺に葬られた。享年八十四歳。
境内からの金沢の町の眺め。


浅野川が小さく見える。

参道に、木槿(むくげ)が咲いていた。


この日もすごい猛暑だったのだが、待たせているという意識から、駆けずり回ったので、家族が待っている喫茶店に戻ったときには、息も絶え絶え、汗ぐっしょり(苦笑)
よくぞ熱中症にならなかったものだと、ちと反省しました。
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