信濃國一之宮・諏訪大社/上社本宮

20150721

鎮座地:長野県諏訪市中洲宮山1番地

境内図
150721suwa01.jpg


この日、尖石縄文考古館、上社前宮に続き、参拝しました。
駐車場から正門にまわり、参道に沿って参拝しました。

まず神橋があり、それを渡ると鳥居です。
150721suwa02.jpg


神橋の手前右側に手水舎があり。
手水舎の建物は天保2年(1831)の建立です。脇を流れる小川は御手洗川で、古くはこの川で身心を清めてお参りしました。諏訪大社の七不思講の一つに「元朝の蛙狩り」と言うのがあり。毎年正月元旦に行われる「蛙狩り神事」に、この御手洗川の神橋の上の一段高い所で氷を砕いて川底を堀り、二匹の赤蛙を捕え、神前で柳の弓を以って射通し、矢串のまゝお供えしますが、附近に川が少ない為か、どんなに寒い年でも蛙が取れ、七不思議の一つとされている。
150721suwa03.jpg


150721suwa04.jpg


神橋
150721suwa05.jpg


社名板
150721suwa06.jpg


諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。

諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しています。

古代の神社には社殿がなかったとも言われて、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。

諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として、多くの人が参拝に訪れます。

鎮座の年代、起源等の詳細については知るすべもないが、我国最古の神社の一つに数えられています。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃國一之宮として信仰されていたことがわかります。

明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

全国に分布する分社は一万有余社を数え、お諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬まわれつつ巾広い信仰を有し、古くからある信仰には風と水を司る竜神の信仰や、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされています。

神功皇后の三韓出兵や坂上田村麿の東夷平定にも神助ありと伝えられ、東関第一の軍さ神、武家の守護神とも尊ばれて来ました。

鳥居をくぐります。
150721suwa07.jpg


○出早社
左手に、まずあるのが「出早社(いずはやしゃ)」
上社の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神「出早雄命」です。古くからイボ神様として敬まわれ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があります。
150721suwa08.jpg


150721suwa09.jpg


○駒形屋
神馬舎とも言い、諏訪大神の御神馬の屋形で、諏訪湖におみわたりが出来た朝御神馬の身体中が汗で濡れており、附近の人々はお諏訪さまが御神馬で湖上を渡られるのだと驚き懼れたと中世の記録にあります。明治以後は現在のように木製の御神馬を祀っておりますが、明治27年7月に大風で近くの欅の大木が倒れ、この神馬舎が倒壊した時、御神馬は十米程前に跳び出た為少しも被害がなかったと、伝えられている。
150721suwa10.jpg


「駒形屋」と「布橋」の間に大欅あり。
樹齢約千年。古くは贄(にえ)・御狩の獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ。境内最古の樹木の一つである。
150721suwa11.jpg


150721suwa12.jpg


150721suwa13.jpg


反対側から
150721suwa14.jpg


布橋の前に、面白い石灯篭あり。
享保20年(1735)造立
150721suwa15.jpg


見事なハートが
150721suwa16.jpg


狭山市の廣瀬神社にも、大正11年奉納の石灯篭にやはりハートのマークがあり、気になっていたので調べてみると、ハートマークは約450年前1560年頃、ヨーロッパからトランプが伝わったときにハートやダイヤ、クラブとともに伝えられました。江戸時代初期にこれが服飾や靴、帽子の模様に取り入れられます。いわゆる『キリシタン文化』です。
加賀藩はキリシタン大名の高山右近が長く暮らした(高山南坊と称した)ことからもキリシタン文化と縁が深く、江戸時代のハートマークが残っているそうです。

○布橋
入口御門・布橋(ぬのばし)
御門は一八二九年文政十二年の建立で、地元の宮大工原五左衛門が棟領ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来ばえと称えられています。長廊は約70m、三十八間あり、明治維新迄は上社の大祝(おおほうり)のみ通った所でその時に布を敷いたことから布橋の名称が附いています。現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人連が自分の手で織り上げた布を持って釆て、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としております。
150721suwa17.jpg


150721suwa18.jpg


150721suwa19.jpg


○額殿及御柱曳綱
文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた所で絵馬堂とも言います。戦前迄は廊下の上にも無数に掲げられていましたが整理されております。尚床の上にある太い綱は御柱を曳いた時の綱で、藤葛を使ったり、藁や縄を使って、村中の人々が総出で作ります。太いのは元綱と言い、柱につけ、順次細い網をつなぎます。柱に依っても違いますが、百二、三十米から二、三百米にも及び、それに小綱をつけて引き摺ります。
150721suwa20.jpg


150721suwa21.jpg


主な絵馬
150721suwa22.jpg


150721suwa23.jpg


150721suwa24.jpg


150721suwa25.jpg


150721suwa26.jpg


150721suwa27.jpg


○摂末社遥拝所
額殿に続く細長い建物でこれも文政年間の造営です。上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の十三所中の十三所、下の十三所で合計三十九杜の御名を掲げてあり昔は十三所遥拝所とも言いました。現在大社の摂末社は上社関係が四十二社、下社関係は二十七社あり、明治以後独立した関係摂末社迄合わせるとその数九十五社に及びます。上下四杜の境内を始め郡下に点在しておりますが、その摂末社を朝夕こちらで遥拝します。
150721suwa28.jpg


○大国主命社
遥拝所の隣の小さをお社は、大国主命社でお諏訪さまの御父神、大国さまをお祭りしている。
150721suwa29.jpg


○勅使殿と五間廊
大国主命社の前、廊下の反対側にある高低二つの建物で、高い方が勅使殿です。中世の記録には、御門戸屋又は帝屋とあります。朝廷から来られた勅使が着座をされたので、この名称が付いたと思われますが、色々な神事がこゝで行なわれました。低い方の建物は五間廊と言いますが、神長官以下の神職が着座したところだと伝えられ、勅使殿は元和年間(1620)頃、五間廊は安永2年(1773)に建てられたものですが、後に改築してあります。
150721suwa30.jpg


勅使殿
150721suwa31.jpg


五間廊
150721suwa32.jpg


○御宝殿(ごほうでん)
廊下の左側にある茅葺の建物で、本宮では一番大切な御殿です。二殿のうち左側を東御宝殿右側を西御宝殿と言い、御柱祭毎に交互に建替えをします。中にはお諏訪さまの御神輿をお納めしてあり、一般の神社の御本殿に相当します。この御宝殿の屋根からはどんなに干天の時でも最低三滴は水滴が落ちると言われ、宝殿の天滴と言って七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
150721suwa33.jpg


○四脚門
二つの御宝殿の聞にある建物で、天正十年(1582)に兵変に依り焼失したものを慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じて造営寄進し、国家の安泰を祈願しました。別名を勅使門と言います。
150721suwa34.jpg


150721suwa35.jpg


○神楽殿
文政十年(1827)の建立で、上社では一番大きな建物です。大々神楽や湯立神事が毎日行なわれていたようですが、現在は残念なことにその神楽は伝わっておりません。中に納めてある大太鼓は江戸時代のもので、直径が一米八十あり、当国随一の大きなものと言われ、唯今では元旦の朝だけ打つことにしております。
150721suwa36.jpg


150721suwa37.jpg


150721suwa38.jpg


150721suwa39.jpg


150721suwa40.jpg


神楽殿の横に相撲場あり。
150721suwa41.jpg


○天流水舎
神楽殿前の屋根にエントツのようなものがついた建物で、俗にお天水と言います。どんな晴天の日でも雫が入り、御宝殿の軒からの天滴と共に中の井戸に溜ると言われております。雨乞の折にこのお天水を青竹に頂いて帰り神事をすると必ず雨が降ると伝えられ、唯今でも近郷近県からの祈願があります。この時途中で休むとそこで雨
が降るので昔は若者達がリレー式に運んだそうです。又このお天水は天竜川の水源とも伝えられています。
150721suwa42.jpg


150721suwa43.jpg


150721suwa44.jpg


北参道側の大鳥居
150721suwa45.jpg


○狛犬
下社秋宮の大狛犬の原型で、作者清水氏の好意に依り、大社ゆかりの方が昭和四十九年十月に奉納されたもの。
150721suwa46.jpg


150721suwa47.jpg


150721suwa48.jpg


社号標
150721suwa49.jpg


手水舎
150721suwa50.jpg


○明神湯
往古より諏訪明神ゆかりの温泉とされ諏訪の温泉の源泉とも伝えられている。
ここでは、私は明神湯で手を浄めた。
150721suwa51.jpg


150721suwa52.jpg


○五穀の種池
清祓池の脇の小さな石の池で、毎年春になると種粒を浸してその浮き沈みに依って豊凶を占っており、現在でも近郷農家の人々に親しまれています。
150721suwa53.jpg


○雷電像
諏訪大神は昔から力の強い神様としても知られ、相撲とは関係が深く、神社でも年々相撲神事が行をわれており、多くの力士も参拝しています。この像は信州が生んだ江戸時代の大力士雷電の等身大のもので、お諏訪さまに対して拝礼の誠を捧げている姿です。
茅野市出身の矢崎虎夫氏が、文部大臣賞受賞を記念して昭和41年10月に奉納されたもので、横綱柏戸関(鏡山親方)がモデルだそうです。
150721suwa54.jpg


○塀重門
石段の上の門で、文政12年(1829)のものです。
150721suwa55.jpg


150721suwa56.jpg


塀重門から右にちょっと寄ったところから中に入ると、また手水盤があり。
向うに見えるのが参拝所。
150721suwa57.jpg


○御社殿
本宮の建物は「諏訪造り」の代表的なもので、一種独特の形式を備えています。
正面に拝殿と幣殿が続き、その奥には御本殿はありません。拝殿の左側を右片拝殿、右側は左片拝殿と山を背にした建物を脇片拝殿と言います。
この本宮の昔の建物は極彩色で結構ずくめの社殿でしたが、天正十年(1582)に織田信長の軍勢の兵火の為灰塵に帰し、天正十二年(1584)諏訪藩主諏訪頼忠が造営に着手し仮殿が作られ、更に年元和三年(1617)に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建しましたが、この建物は、嘉永年間に郡内富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。これは桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要して、二代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工原五左衛門親成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られ、殊に片拝殿の粟穂と鶉や笹に鶏の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つと言われ、又拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われています。

参拝所
150721suwa58.jpg


拝幣殿と左右に片拝殿
150721suwa59.jpg


幣殿
150721suwa60.jpg


片拝殿の粟穂と鶉の彫刻
150721suwa61.jpg


片拝殿の笹に鶏の彫刻
150721suwa62.jpg


ご祭神:建御名方神

神紋:諏訪梶
150721suwa63.jpg


諏訪大社の神紋は梶の棄で葉が三枚出ているので、三本梶とも言い、足の数をもって上下社の区別がをされ、上社は四本、下社は五本足になっています。また全国の御分社の大半は一本梶と言って、葉の部分のみで一本の社紋が使われています。

○勅願殿
昔は行事殿とも御祈祷所とも言って朝廷や諸侯の祈願を行った所とも伝えられます。現在の建物は元禄三年(1690)に諏訪高島藩によって建てられたものを、安政年間に修理しました。
150721suwa64.jpg


150721suwa65.jpg



○高島神社
武田信玄によって、諏訪頼重が討たれ諏訪家は滅びたが、頼重の弟頼忠は諏訪大社大祝として残った。
本能寺の変が起こって世が乱れたのに乗じ、諏訪頼忠は高嶋城を奪い、諏訪家を再興する。
諏訪家は徳川家配下となり、譜代大名として小田原遠征後武蔵国奈良梨に1万2千石の大名に。
諏訪頼水の代に諏訪に2万7千石を与えられ、高島藩を立藩。維新まで存続した。
150721suwa66.jpg


150721suwa67.jpg


○御沓石
一之御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つお沓石。真中のへこんだところが、お諏訪様のお沓の跡だとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。
150721suwa68.jpg


冬なら凹みがわかるかもしれませんが、この日はこのとおり。わかりません(泣)
150721suwa69.jpg


○蛙石
蓮池にあります。
手前の石。
150721suwa70.jpg


150721suwa71.jpg


蓮のつぼみに蜻蛉が。
150721suwa72.jpg


諏訪七石のうち、上社本宮境内に三つあります。
二つは確認しましたが、「硯石」を漏らしました。残念。

御柱ですが、ここ上社本宮では、三と四の御柱は立ち入れない神域にあり、近寄れません。
なんとか場所を探して遠くから撮るのが精いっぱいでした。

○本宮一之御柱
塀重門下の石段の横にあり。
150721suwa73.jpg


150721suwa74.jpg


150721suwa75.jpg


○本宮二之御柱
布橋門の脇にあり。
150721suwa76.jpg


150721suwa77.jpg


150721suwa78.jpg


○本宮三之御柱
これが一番苦労しました。
御手洗川から中は神域で入れません。
大体の位置を見当つけて、隣接するお寺側の御手洗川の土手を強引に入っていくと、お寺の住職と思しき人が作業をしていた。万事休すと思ったが、「三之御柱」を見たくて入ってきました、と言ったら通してくれた(嬉)
150721suwa79.jpg


150721suwa80.jpg


150721suwa81.jpg


○本宮四之御柱
勅願殿と宝物殿の間から、遠目に見ることになります。
ズームを効かせて撮りました。
150721suwa82.jpg


150721suwa83.jpg


帰ってきて、写真を整理してみると、まだまだ撮り残しているものがありました。
暑いし、疲れてきていて、宝物殿もパスしてしまったし。
最低もう一度は参拝しないといけません。


(上社本宮 了)


「神社巡拝」記事一覧に飛ぶ




スポンサーサイト

信濃國一之宮・諏訪大社/上社前宮

20150718

鎮座地:長野県茅野市宮川2030

この日は、最初に「尖石縄文考古館」を訪れ、次に訪れたのがここです。この日は上社だけを参拝することにしました。
事前に簡単にしか調べていなかったため、この案内図を見て呆然としました(笑)
150718suwa01.jpg


カミさんと一緒ということもあり、再度おとずれることにして、この日は主なところを参拝することにしました。

一の鳥居
150718suwa02.jpg


社号標
東郷平八郎の揮毫です。
式内社 信濃國諏方郡 南方刀美神社二座 名神大、信濃國一宮、旧官幣大社
150718suwa03.jpg


諏訪大社は、上社・下社に分かれており、本来、上社に建御名方神、下社に八坂刀賣神(后神)を祀っている。
また、上社には本宮と前宮、下社には秋宮と春宮があり、四社を総称して諏訪大社という。

上社と下社では、奉祀する神職の長が、上社では神別(祭神の子孫)、下社では皇別(皇族の子孫)とされている。

上社には御神体はなく、神別の大祝(おおほうり)、すなわち人間を神とする。八歳の童男をもって、大祝とし祀る。
大祝は職にある間、清浄を旨とし、郡外へ出ることも禁じられる。
前宮祭神は、現在八坂刀賣神とされているが、ミシャグジ神とする説もある。ミシャグジとは木や石に降り着く精霊・霊魂で、人にもつくらしい。あるいは、大祝をミシャグジ神としたのかもしれない。

前宮は、この大祝の住居神殿(ごうどの)があった場所。
十間廊で、上社神事のほとんどが行われる。

案内板
150718suwa04.jpg


諏訪信仰今年の春から「諏訪信仰」について調べ始めました。なかなかそこが深く、まだ生半可な知識しかありません。
ざっと諏訪大社と祭神の建御名方神についての概略は、以下のとおり。
『式内社調査報告』によると:
 古事記上巻国譲りの段に、天照大御神が出雲の大國主命を説得のため、建御雷・天鳥船二神差遣せらるゝ ことゝなり、(中略) 建御名方神の「州羽」、すなはち、諏訪鎮座の説話が記してあり、要点は、大国主神の御子神に、建御名方神なる勇猛な神がまし、建御雷神に敗れ、逃れて科野国諏訪の地に至り、此処に永く留まり給うたといふことである。
 日本書紀にも、出雲の国で行はれた国譲り説話が記され、 著名な伝承の一つと言へるが、日本書紀の国譲りの段には建御名方神の名はみえず、この説話に於ける同神の諏訪鎮座には疑問が残り、古来より、天孫出雲両系の間に起つた 国土避譲の事実の反映として、多くの解釈がなされてゐる。 すなはち、古代に於いて諏訪地方は、皇祖側に対する一大勢力をなし、建御名方神は、この諏訪族の祖神としてその勢力の代表者とされた。同神が、建御雷神に追ひつめられて永く諏訪に留ると誓つたといふ一段は、この文化現象を逆用的に国譲神話に持ち込んだものと考へられてゐる。
 これ以降、持統天皇皇紀五年辛卯の条に、
  八月辛酉、遣二使者一、祭二竜田風神、信濃国須波、水内神一
とあり、諏訪神が祭られたことが記され、初めて中央政府との関係を認める。以後、諏訪の地にて東国鎮撫に力を尽し、その拠点として注目され、発展していったものと考へられよう。

そして、いままで調べて私なりに整理したのが、下図です。
150718suwa05.jpg


まず、この地には「洩矢神」を奉じる先住民族が居り、それを出雲族が征服した。
関東でも、祭神が出雲系の神である神社が非常に多く、出雲族が多かったことがわかります。
そして、中央の大和政権と「手打ち」をして馬を手に入れ、信濃や関東を制覇したのではないかと思われます。

しかし、征服された「洩矢族」が神官の筆頭となっている(守矢家)ので、先住民族もやられっぱなしではなかった。そして神事のほとんどが洩矢族(狩猟民族)の祭りとして残ったと考えています。

私の大好きな保科正之を生んだ、高遠の保科家も「神氏」の一族だそうです。

一の鳥居を入ってすぐの右側に「溝上社」あり。
祭神の「高志奴奈河比賣命」は後で説明。
150718suwa06.jpg


150718suwa07.jpg


150718suwa08.jpg


「御手祓道」
御頭祭などの神事の際に使用された道の形跡を残している。
150718suwa09.jpg


「神原(ごうばら)」
県道から入って一段と高くなった処の広場一帯を言い、上社にとっては最も由緒の深い場所です。社伝によれば、諏訪大神が始めて御出現にをられたのがこの地だと伝えられています。
この神原一帯は上社の祭祀の中心地であり、御祭神の後喬で諏訪大神の神格を持った生き神、大祝(おおほうり 最高統轄者)の居館である神殿と、それに附属する数多くの重要な建物が軒をつらねていましたが、室町時代の中葉に大祝が居館を他に移したので、多くの神殿は消滅し、現在祭儀だけが残っています。
150718suwa10.jpg


手水舎
150718suwa11.jpg


手水舎の向かいには、立派な古木が。
150718suwa12.jpg


150718suwa13.jpg


「若御子社」
150718suwa14.jpg


150718suwa15.jpg


「旧上社大祝の居館・神殿跡」
150718suwa16.jpg


二の鳥居
150718suwa17.jpg


二の鳥居前の狛犬
150718suwa18.jpg


150718suwa19.jpg


二の鳥居をくぐって石段を上がる。
150718suwa20.jpg


150718suwa21.jpg


「内御玉殿」
150718suwa22.jpg


150718suwa23.jpg


「十 間 廊」
間口三間、奥行が十間あるところから名称が付いていますが、昔は神原廊とも言い、上社でも最大の神事である三月西の日の神事御頭祭(大立増神事、酉の祭)がこゝで行なわれました。当日は大祝以下の全神職が総出で奉仕し、鹿の頭七十五頭をはじめ、鳥獣魚類等独特のお供えものをし、諸郷の役人が参列しました。大祝のお使(神使)が神霊を奉じて、信濃国中に出発する為の大祭でした。この時の七十五頭の鹿頭の中に毎年必ず耳の裂けたものがあり高野の耳裂鹿と言い諏訪七不思議の一つに挙げられています。
 この御頭祭、明治以後は四月十五日に行なわれ、本宮で例大祭をすませてから行列を整えてお神輿を渡御し、十間廊上段の間に安置して神事を行なっております。
150718suwa24.jpg


150718suwa25.jpg


150718suwa26.jpg


ここから200mほど登ったところに前宮本殿はあります。
150718suwa27.jpg


「前官本殿」
諏訪大神が最初に居を構えた地と言われ、高台で、豊富な水と日照が得られる良き地であり諏訪信仰発祥の地であります。現在の御殿は昭和七年に伊勢神宮の古材を以って建てられたものです。
 尚本殿の左後方の小高い所は諏訪大神の御神陵だと伝えられています。

拝所と瑞垣の中に本殿があります。
150718suwa28.jpg


150718suwa29.jpg


150718suwa30.jpg


150718suwa31.jpg


150718suwa32.jpg


150718suwa33.jpg


拝所や瑞垣の隙間から、中に鎮座している本殿が見える。
本殿があるのは、上社の前宮、本宮、下社の春宮、秋宮の中で前宮だけです。
150718suwa34.jpg


150718suwa35.jpg


祭神:
八坂刀賣神 (本地 千手観音)
御左口神(御社宮司神) 『諸神勧請段』『年内神事次第旧記』

神紋は「諏訪梶」
上社は根が4本、下社は根が5本である。
150718suwa36.jpg


本殿の周りに立っている「御柱」を見て回る。

本殿前にこのような表示が。
鎌倉道が本殿の両側を通って、本殿の上で一つになっている。
150718suwa37.jpg


150718suwa38.jpg


150718suwa39.jpg


本殿前から右に行って、「前宮一の御柱」
150718suwa40.jpg


150718suwa41.jpg


150718suwa42.jpg


反時計まわりに見てまわった。

「前宮四の御柱」
150718suwa43.jpg


150718suwa44.jpg


本殿の裏には、巨木がたくさんあった。
150718suwa45.jpg


150718suwa46.jpg


150718suwa47.jpg


150718suwa48.jpg


150718suwa49.jpg


150718suwa50.jpg


「前宮三の御柱」
150718suwa51.jpg


150718suwa52.jpg


150718suwa53.jpg


三の御柱のちょっと下ったところから湧水が豊富に流れている。
名水「水眼」の清流。
150718suwa54.jpg


150718suwa55.jpg


150718suwa56.jpg


150718suwa57.jpg


「前宮二の御柱」
150718suwa58.jpg


150718suwa59.jpg


下の国道に出るときに、回り道をして寄りました。

「諏訪照雲頼重の供養塔」
この人物は、武田信玄に討たれた頼重とは違う人物です。
150718suwa60.jpg


150718suwa61.jpg


「子安社」
150718suwa62.jpg


150718suwa63.jpg


150718suwa64.jpg


150718suwa65.jpg


150718suwa66.jpg


150718suwa67.jpg


祭神「高志沼河姫命」は、同じくここの境内社「溝上社」の祭神でもあります。
『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
『古事記』にはこれ以外の記述はないが、新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる[1]。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。

『古事記』の「大国主神」の巻、「八千矛神の妻問い物語」の段です。
(読み下し文)
 この八千矛神、高志国の沼河比売を婚はむとして幸行でましし時、その沼河比売の家に到りて、歌ひて日はく、

八千矛の 神の命は 八島国 妻枕(ま)きかねて 遠遠し 高志国に 
賢し女(さかしめ)を ありと聞かして 麗し女を ありと聞こして 
さ婚(よば)ひに あり立たし 婚ひに あり通はせ 大刀が緒も 
いまだ解かずて 襲(おすひ)をも いまだ解かねば 嬢子(をとめ)の
寝(な)すや板戸を 押そぶらひ わが立たせれば 引こづらひ 
わが立たせれば 青山に 鵼(ぬえ)は鳴きぬ さ野つ鳥 雉はとよむ 
庭つ鳥 鶏は鳴く うれたくも 鳴くなる鳥か この鳥も 打ちやめこせね
いしたふや 天馳使 事の 語言も こをば

とうたひたまひき。ここにその沼河比売、いまだ戸を開かずて、内より歌ひて日はく、

八千矛の 神の命 ぬえ草の 女にしあれば わが心 浦渚(うらす)
の鳥ぞ 今こそは 我烏にあらめ 後は 汝鳥にあらむを 命は 
な殺せたまひそ いしたふや 天馳使 事の 語言も こをば
青山に 日が隠らば ぬばたまの 夜は出でなむ 朝日の 
笑み栄え来て 𣑥綱(たくづの)の 白き 腕 沫雪(あわゆき)の 若
やる胸を そだたき たたきまながり 真玉手 玉手 さし枕き 
股長に 寝はなさむを あやに な恋ひ聞こし 八千矛の 
神の命 事の 語言も こをば

とうたひき。かれ、その夜は合はずて、明日の夜御合したまひき。


ここから、上社本宮に向かいました。

(前宮 了)



「神社巡拝」記事一覧に飛ぶ




中山道・岩村田宿

20150601

4月23日に両親の墓参りをして、その後「御代田・一里塚の桜」を撮りました。この日に行くことにしたのは桜の時期に合わせたため。
その後、通常なら軽井沢で遊ぶのですが、この際だからと岩村田宿の写真を撮ってきました。

その後他のアップする記事が続いて、やっとこれを記事にすることができました(笑)

岩村田は、私が生まれた村の隣で、鉄道(小海線)の最寄り駅であり、私が通った高校がある町です。

両親の墓は、上信越高速道のすぐ近く。
墓参りのあと、撮った写真。
天気が良くて、浅間山もきれいに見えました。
150601iwamurada01.jpg


中山道「御代田・一里塚」で桜の写真を撮ってから南下して、「小田井宿」はパスして、その南の岩村田に入っていきます。

岩村田宿について:
ルート図
150601iwamurada02.jpg


中山道六十九次のうち江戸から数えて二十二番目の宿場。
現在の長野県佐久市岩村田一帯。岩村田藩1万5千石の城下町であり商業の町であった。宿場の本陣は存在したが、大破し、その後も再建できず旅籠も最盛期で8軒と少なかった。

岩村田宿を描いた浮世絵
160629iwa.jpg



住吉神社の手前に、石仏がありますが、この奥に「大井一族」の墓地があります。
大井氏は清和源氏小笠原氏の一族で、信濃国佐久郡大井郷を名字の地とする。すなわち、小笠原長清の七男朝光が大井庄の地頭となり、岩村田を本拠にし大井氏を称するようになったといいます。
信濃守護代にまでなった名門です。
150601iwamurada03.jpg


150601iwamurada04.jpg


150601iwamurada05.jpg


【住吉神社】
鎮座地:佐久市岩村田住吉町
かっては岩村田宿の入口付近に鎮座し、宿場町の枡形が隣接していたと言われています。
入り口から中山道と浅間山を振り返る。
150601iwamurada06.jpg


社号標
150601iwamurada07.jpg


鳥居
150601iwamurada08.jpg


鳥居の先には、推定樹齢7〜800年の御神木の欅が佇んでいます。
すごいコブ!!
150601iwamurada09.jpg


鳥居の右手に、浅間の焼け石(溶岩)で作られた石灯篭があり。
150601iwamurada10.jpg


その先に、“従是善光寺道”の旧道標がある。
150601iwamurada11.jpg


二の鳥居と参道
150601iwamurada12.jpg


二の鳥居の横にも、浅間の焼け石(溶岩)で作られた石灯篭があり。
150601iwamurada13.jpg


拝殿
150601iwamurada14.jpg


拝殿内部。奥に本殿が見える。
祭神は住吉三神。
150601iwamurada15.jpg


社殿の左側にあった講の石祠
浅間山を望んでいるから、浅間講なのか?
150601iwamurada16.jpg


石碑がズラッと並んでいます。
江戸時代のものが多かった。
150601iwamurada17.jpg


「天明八甲年正月」と刻まれた双体道祖神
150601iwamurada18.jpg


住吉神社を出て南に向かう。
150601iwamurada19.jpg


【善光寺道・道標】
住吉神社の少し先で善光寺道が右に分岐する。復元した“従是善光寺道”の道標が立っている。元の道標は交通事故で破損、修復して住吉神社に移設されている。

道標から中山道の小田井宿方向を見る。
150601iwamurada20.jpg


道標に刻まれた説明
150601iwamurada21.jpg


道標の先、右に入る道が「善光寺道」
中山道は直進。岩村田宿の入口はこの辺りだそうだ。
150601iwamurada22.jpg


そこから少し行ったところで左に入れば、「龍雲寺」。
この日は、龍雲寺をパスしたので、2011年2月に撮影した写真で説明します。

【龍雲寺】
所在地:佐久市岩村田415

実は、私が中学のときの英語の先生がここの住職でした。
中学のときに、お寺を案内してもらった記憶がありますが、記憶にあるのは「武田信玄二十四将図」くらいです。

信濃の攻略が一段落した永禄3年(1560)信玄は荒れ果てた龍雲寺を復興し、師と仰ぐ大和尚、北高禅師を迎え中興開山しました。
もとは鎌倉時代初めの正和元年(1312)地頭の大井実作入道玄慶による創建で大井氏の菩提寺でした。
武田信玄の帰依が熱く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をしました。境内には、信玄霊廟があり遺骨とその副葬品と伝えられるものが納められています。1931年(昭和6)には、信玄のものと推測される遺骨が発掘され、現在その遺骨は、本堂横にある信玄公霊廟に眠っています。
元亀4年(1573)4月、信玄は遠征先の下伊那郡阿智村駒場で死を迎えたのです。信玄の訃報を聞いた北高禅師は、下伊那に駆けつけ、遺体を荼毘に付し引導をわたしたといいます。そして遺骨の一部と刀工島田助宗の短刀を形見に持ち帰り、境内に懇ろに葬ったといいます。

本陣が無かったので、身分の高い人物は武田信玄縁の龍雲寺で宿泊や休息をとり、本陣のような役割をもちました。

入り口
150601iwamurada23.jpg


巨大な山門
150601iwamurada24.jpg


150601iwamurada25.jpg


本堂
150601iwamurada26.jpg


信玄の遺骨が発見された場所に建つ供養塔
150601iwamurada27.jpg


150601iwamurada28.jpg


総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
150601iwamurada29.jpg


150601iwamurada30.jpg


岩村田の商店街に入り、西念寺への入り口を探していたら、大きな数珠が下がっていてすぐに分かった(笑)
150601iwamurada31.jpg


この商店街の街灯には「岩村田宿」と。
150601iwamurada32.jpg


ここには、信長、秀吉、家康に仕え、初代小諸藩主となった「仙石秀久」の墓がある。
150601iwamurada33.jpg


【西念寺】
所在地:佐久市岩村田1188番地

西念寺開山岌往上人は、伊勢の国に生まれ美濃から信濃・甲府まで武田信玄公の動きに前後して約70ケ寺の寺院を建立している。
弘治元年(1555年)に閻魔大王などを奉る十王堂で岌往上人は浄土宗の布教をはじめ、大変な崇敬を集め永禄3年(1560年)には8間6間の本堂を建立。この時より『一行山西念寺』と呼ぶようになり、永禄6年に宇治の平等院と同じ定朝様式を伝える高さ5尺8寸の阿弥陀如来座像を修理し本尊とした。
現在は長野県宝に指定されている。
織田信長公・豊臣秀吉公・徳川家康公・2代秀忠公に仕えた小諸城初代藩主仙石秀久公は西念寺を菩提寺と定め、住職を登城首座に任じた。
仙石家の領地岩村田も元禄16年(1703)には内藤公が岩村田藩主となり、西念寺を菩提寺に定め、徳川家康公はじめ徳川十代将軍の位牌を西念寺に奉安している。

西念寺入り口
150601iwamurada34.jpg


150601iwamurada35.jpg


入り口わきに置かれたプレートを見ると、岩村田藩主「内藤正国」の墓もあり。
150601iwamurada36.jpg


山門
150601iwamurada37.jpg


本堂
150601iwamurada38.jpg


150601iwamurada39.jpg


仙石秀久の墓
150601iwamurada40.jpg


150601iwamurada41.jpg


家紋の「永楽銭」は織田信長にもらったもの。
150601iwamurada42.jpg



150601iwamurada43.jpg


仙石秀久(せんごく ひでひさ)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将・大名。
信濃小諸藩の初代藩主。
豊臣秀吉の最古参の家臣で、家臣団では最も早く大名に出世した。
秀吉の九州征伐の際、戸次川の戦いで大敗を喫した後、逃亡したため改易されるが、小田原征伐の活躍により許された。
天正18年(1590年)に小田原征伐が始まると故郷である美濃国で浪人衆を集め、また秀吉の盟友となっていた徳川家康からの推薦もあって陣借りという形式で豊臣軍参加を許された。この時、秀久は糟尾の兜と白練りに日の丸を付けた陣羽織を着て、紺地に無の字を白く出した馬印を眞先に押し立て、手勢を率いて諸軍の先に進んだといわれている。さらに、鈴を陣羽織一面に縫いつけるという際立つ格好をして合戦に参加したという逸話も残されており、「鈴鳴り武者」の異名をとったと伝えられる。
秀久は伊豆山中城攻めで先陣を務め、小田原城早川口攻めでは虎口(城郭や陣営などの最も要所にある出入り口)の一つを占拠するという抜群の武功を挙げた。活躍による名声は箱根にある地名「仙石原」は秀久の武勇に由来するという説が存在する程であった。
慶長3年(1598年)8月、秀吉が死去すると、陣借りの大恩がある家康と懇意であった秀久は早くから徳川氏に接近した。慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでも東軍として参戦、家康からの書状に応じて中山道と北国街道を結ぶ要所である小諸を引き続き鎮撫している。信州に着陣した秀忠を出迎えると、真田攻めの為に小諸を本陣に定めた秀忠軍に参陣した。上田城の戦いでは城方の真田昌幸の善戦により秀忠軍が足止めを食うと、秀久は自身を人質に出して秀忠は家康の本陣に向かう様に薦めている。また関ヶ原本戦に遅参して父の逆鱗に触れた秀忠を執り成す事にも務めるなど、外様ながら秀忠の指揮を補佐して深い信頼を得て、後に秀忠が家康の世継ぎとして征夷大将軍に任ぜられると特に重用されるようになる(準譜代大名)。

所領面では旧領を安堵され、信濃小諸藩の初代藩主となった。秀久の治世においては農民達に過酷な課役を与えた事から佐久郡では一郡逃散という失態を犯す事となるが、笠取垰、小諸城及び城下町を現在のように開拓したのは秀久の治績である。特に小諸城の大改修は24年間の治世で大手門や黒門、二の丸を増築していて、歴戦の武人らしく華美な装飾を省いた質実剛健な作りとなっている。また、街道の伝馬制度や宿場街の整備など多様な治績も残した。

さて、内藤正国の墓を、墓地内を彷徨って探したがわからない。
あきらめて帰ろうとしたら、なんと墓地ではなく門前にあった。
道を挟んで左側の松の木の下である。
150601iwamurada44.jpg


岩村田内藤家は内藤忠政の3男内藤正次を祖とする家柄で当初は500石だったが立身出世を繰り返し1万6千石の大名となる。
領土は関東全域に分散した形になっていたが元禄16年(1703)それらの石高を統合し同等な領地佐久郡27ヶ村を与えられ岩村田藩として立藩。2代藩主正敬の代にようやく岩村田に在任し領内経営がなされ、7代正誠まで内藤家が世襲して藩主となり明治維新を迎えている。6代藩主正縄は当時の老中水野忠邦の実弟であった為、伏見奉行に抜擢され無城主格から城主格へと格上げされ、7代正誠は岩村田城の築城を開始するが明治維新後に版籍奉還、廃藩置県が行なわれたことで城は未完のまま廃城となった。
昨年ブームとなった、浅田次郎「一路」には、7代正誠が登場し、ピエロ役を演じている。

さきほどの門前のプレートには「七代」とあったが、墓地の標識には正しく「五代」とあった。
内藤正国(ないとう まさくに)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。信濃岩村田藩の第5代藩主。天保の改革を行なった老中・水野忠邦の叔父である。

正国の墓
150601iwamurada45.jpg


150601iwamurada46.jpg


150601iwamurada47.jpg


最初、「紋はやはり、内藤の下がり藤」と書いたんですが、後日パラパラと家紋集を眺めていたら、「岩村田藤」とあったので吃驚!
150601iwamurada48.jpg


岩村田商店街の中山道を南下。
150601iwamurada49.jpg


旧中山道の道を右折して、小海線の踏切を越えると御嶽神社。
150601iwamurada50.jpg


【御嶽神社】
社号標
150601iwamurada51.jpg


境内の右に石碑が並ぶ。
150601iwamurada52.jpg


せっかくだから、ここの石碑全部を紹介。

「月読尊」
150601iwamurada53.jpg


「庚申」
150601iwamurada54.jpg


妙見尊
150601iwamurada55.jpg


保食神社(保食神)
150601iwamurada56.jpg


上に日月が刻印された「不動尊」
150601iwamurada57.jpg


「甲子大黒天」
甲子大黒天といえば、弘法大師作の像がある山形県の寺が有名で修験道の聖地です。
入間市の豊岡にある「長泉寺」に•武蔵野七福神の一つ、「甲子大黒天」がありますね。
150601iwamurada58.jpg


社殿
150601iwamurada59.jpg


150601iwamurada60.jpg


続いて高校の前を通ります。
私の母校です。
この高校に機械科ができると聞いて入った一期生でした(笑)
2年くらいになると世の中が見えてきて、進学したいというと、担任の先生が「どうせ製図や実技はまた大学でやるのだから、その時間は家で勉強していろ」と受験勉強に協力してくれました。
とても有難い先生でした。懐かしい。
高校のときは、前の道が中山道なんて、まったく知らなかった。
三年間この道を自転車で通学していました。
150601iwamurada61.jpg


150601iwamurada62.jpg


それから、私の母が10年くらい入院していた「浅間病院」の前を通り、その外れに「相生の松」があります。
150601iwamurada63.jpg


【相生の松】
記録によると、文久元年(1861)に皇女和宮が将軍徳川家茂に降嫁するため、旧中山道のこの場所を通り、縁起のいい名前から、野点をされたと言われている。
「相生の松」は岩村田地域にとって、シンボルのような存在で、相生町という地名も松にちなんで名づけられたという。現在の松は三代目である。
150601iwamurada64.jpg


150601iwamurada65.jpg


それから少し行き、濁川のすぐ先に《荘山稲荷神社》が見える。ここには、芭蕉句碑がある。
「野を横に 馬引きむけよ 郭公  芭蕉」

ところが、それが見つからない。
土地の人に聞いたが、知らないようで、代わりに「芭蕉の句なら、あそこにあるよ」と言われて撮ったのがこれ。
「刈りかけし田づらのつるや里の秋」
出典は『鹿島紀行』。
貞亨4年(1687年)8月15日、芭蕉は根本寺の佛頂和尚を訪れた。その帰途、詠まれた句であろう。
芭蕉44歳の時である。
あるサイトの、芭蕉句碑のリストには、ここの碑のことが「長野県佐久市の旧中山道沿いに句碑がある」と載っていた。
150601iwamurada66.jpg


150601iwamurada67.jpg


《荘山稲荷神社》の芭蕉句碑は、後日探すことにして、「岩村田宿」はこれで切り上げた。

この道をいけば、次の「塩名田宿」。
150601iwamurada68.jpg



(了)


中山道追分宿周辺

20140505

昨日、5月4日にカミさんと出かけ、私の両親の墓参りをした後、今回は追分宿周辺を探索しました。
私の両親の墓は、上信越高速道の佐久インターを降りて、7,8分ほどの所にあります。

インターを降りてから、高速に並行する道からの浅間山。まだ雪が残っている。
小、中学校に通う道が、朝は道の正面に浅間山が見える方向だったので毎朝眺めた山です。
140505oiwake01.jpg


浅間はまだ雪が少し残っていた。
140505oiwake02.jpg


お墓参りを済ませた後、追分に向かいますが、途中「御代田の一里塚」に寄りました。
前日下調べをしていたら、今まで知らなかったのですが、中山道の一里塚の上に見事な枝垂れ桜があることが分かったので。

【御代田一里塚】
私がネットで下調べの時に混同したのは、「御代田の一里塚」と「馬瀬口の一里塚」が登場したのだが、馬瀬口も御代田町の中なので、同じものを違う呼び方をしているのだと思ってしまい、馬瀬口の一里塚の地図を用意した。しかしたどり着いたら桜が無い!!
近くの家で聞いてみたら、桜の話をしたら教えてくれたが、かなり遠い場所を教わった。対の一里塚にしては遠すぎると狐につままれたような心地で向かった。
しかし、あった(嬉)
傍に立っていた説明を読んで納得。
中山道にあるのが「御代田の一里塚」、北国街道にあるのが「馬瀬口の一里塚」であった(笑)
140505oiwake03.jpg


軽井沢銀座にある「神宮寺の枝垂れ桜」がちょうど今ごろなので、期待していたのだが、標高が低いせいか、ちょうど終わったところだった(泣)
140505oiwake04.jpg


浅間が見える方向から。
140505oiwake05.jpg


上のほうに少し花が残っていた。
140505oiwake06.jpg


140505oiwake07.jpg


【追分の分け去れ】
今の国道18号線の、北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は中山道の京都、吉野など関西へむかう分岐点。その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。

江戸方向から
140505oiwake10.jpg


延宝七年(1679)の道しるべ
分去れの三角地の頂点に小さな道祖神。その奥にあります。
中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国海道」左側面は「従是中仙道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年(1679)三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。
140505oiwake11.jpg


140505oiwake12.jpg


140505oiwake13.jpg


森羅亭万象の歌碑
「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」
森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。
140505oiwake14.jpg


140505oiwake15.jpg


常夜灯
中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。
140505oiwake16.jpg


石地蔵坐像
マリア地蔵とも呼ばれる。
台石には、「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿」
と刻まれている。 更科は月の名所、吉野は桜の名所。
台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれている。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されている。
140505oiwake17.jpg


140505oiwake18.jpg


勢至観音菩薩
北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も古い時代のものとなります。
140505oiwake19.jpg


140505oiwake20.jpg


馬頭観音立像
分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風です。
140505oiwake21.jpg


140505oiwake22.jpg


140505oiwake23.jpg



【シャーロックホームズ野外彫刻/庚申塚公園】
分け去れの北国街道ちょっと奥に、シャーロックホームズの彫刻があるというので、行ってみました。

林の中に、それはありました。
傍の説明を読むと、ホームズ物語全60作品を翻訳家延原謙が、ここ追分で訳したのにちなみ建てられたということでした。
140505oiwake24.jpg


140505oiwake25.jpg


140505oiwake26.jpg


傍に枝垂れ桜と辛夷が一緒に咲いていた。
140505oiwake27.jpg


シャーロックホームズの彫刻がある庚申塚公園には、沢山の庚申塔などの石碑があった。
140505oiwake28.jpg


詳しくの説明は、先が長いので省略。
ただ、一つ一つ見ていたときに、「二十三夜待ち講」碑の台石の穴から松が生えているのに気が付いた。
育ってくれれば嬉しい。
140505oiwake29.jpg


140505oiwake30.jpg


【堀辰雄が愛した石仏/泉洞寺】
旧道沿いに泉洞寺があり、その裏手境内にある。

泉洞寺
140505oiwake31.jpg


この石仏は堀辰雄の数多くの名作のひとつ「樹下」(「大和路・信濃路」)の文中にあって、素朴な姿に心を惹かれて、朝夕ここを散歩し、親しんだと言われており、いまでも村人に歯痛の神様として信仰されている。
140505oiwake32.jpg


140505oiwake33.jpg


旧道に戻ります。
140505oiwake34.jpg


【一茶の句碑/諏訪神社】
入り口
140505oiwake35.jpg


境内
140505oiwake36.jpg


小林一茶の句碑
「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」
140505oiwake37.jpg


140505oiwake38.jpg


【高札場】

140505oiwake39.jpg


140505oiwake40.jpg


140505oiwake41.jpg


宿場町らしい雰囲気の建物
140505oiwake42.jpg


【脇本陣・油屋旅館】
江戸時代、追分の宿(しゅく)は大名旅行の道筋として、最も繁栄をきわめた。本陣が一軒、脇本陣に油屋と甲州屋とがあり、その本陣や油屋の建坪は、二百三十九坪もあったという。旅籠(はたご)の数が七十一軒、茶屋が十八軒と伝えられている。

現在の「油屋」旅館は、火事で焼失した旧建物とは街道を挟んで向かい側に新たに建てられたもの。
旧建物の火事は、1937年(昭和12年)11月19日。
このとき立原道造が投宿していた。二階にいた立原は逃げ遅れ、間一髪からがらに脱出できたようです。
堀辰雄もこのとき油屋に滞在していたが、たまたま外出していて無事だった。しかし、宿に置いてあった「かげろふの日記」続篇を書くための資料やノートは全て焼失したそうです。
堀辰雄の小説には、油屋の女性をモデルにしているし、「菜穂子」に登場する青年、都筑明には立原道造のイメージが重なっている。

現在の「油屋」
140505oiwake43.jpg


140505oiwake44.jpg


140505oiwake45.jpg


現在、中にはたくさんのShopが入っている。
140505oiwake46.jpg


【本陣裏門】
現在、堀辰雄文学記念館の前に移設されている。

本陣の間取り図
140505oiwake47.jpg


本陣裏門
140505oiwake48.jpg


【堀辰雄文学記念館】
140505oiwake49.jpg


明治37年東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家 堀 辰雄は、大正12年19歳の時に軽井沢を訪れて以来、毎年のようにこの地を訪れるようになり、軽井沢を舞台とした数々の作品を残しました。昭和19年からは追分に定住し、この地に建てた家で昭和28年に49歳で亡くなりました。
この記念館は、軽井沢をこよなく愛した作家、堀 辰雄に関する資料を展示・保管する文学館です。

受付と閲覧室がある管理棟。
140505oiwake50.jpg


閲覧室では、「風立ちぬ」の初版本や、作品に登場する「節子」のモデルとなった堀の婚約者・矢野綾子が描いた油絵など関連資料約60点を展示。
140505oiwake51.jpg


堀辰雄は婚約者矢野綾子に付き添って富士見高原療養所へ向かいます。婚約後一年で矢野綾子は亡くなりますが、このときの体験を昇華させ、作品化しました。この企画展では、堀辰雄の代表作の一つ、「風立ちぬ」の世界を紹介しています。
140505oiwake52.jpg


140505oiwake53.jpg


矢野綾子の写真
140505oiwake54.jpg


矢野綾子の描いた油絵
140505oiwake55.jpg


140505oiwake56.jpg


堀辰雄の原稿
140505oiwake57.jpg


辰雄が晩年を過ごした住居
140505oiwake58.jpg


手前の籐椅子は高峰三枝子さんから堀に贈られたものだそうです。
140505oiwake59.jpg


ちょっと離れた所に立つと、浅間山が見えた。こんなにきれいに見える場所は意外と少ない。
140505oiwake60.jpg


堀辰雄が亡くなってから多恵夫人の建てた家の展示室があり、堀辰雄の生涯と文学の背景を知ることができる。
140505oiwake61.jpg


140505oiwake62.jpg


140505oiwake63.jpg


140505oiwake64.jpg


書庫
この完成を堀辰雄は楽しみにしていたのですが、それを見ることなく五十年に満たない生涯を終えてしまいました。
140505oiwake65.jpg


140505oiwake66.jpg


庭にある文学碑
140505oiwake67.jpg


140505oiwake68.jpg


春の大和に往って
馬酔木の花ざかり
を見ようとして途中
木曽路をまはって来
たら思いがけず雪が
ふってゐた
昭和十八年四月十三日
堀 辰雄

夫妻が大和路を旅する途中、木曽福島の「つたや旅館」に宿泊した際に宿の主人に請われて書いた、数少ない毛筆による文で、多恵夫人が選んだもの。

後ろの馬酔木がちょうど満開でした。
140505oiwake69.jpg


140505oiwake70.jpg


【芭蕉句碑/浅間(あさま)神社】
普通、浅間神社と書くと「せんげんじんじゃ」ですが、これは富士山つながりとなります。
ここは「あさま神社」です(笑)
140505oiwake71.jpg


「せんげん神社」の祭神は木花咲耶姫ですが、「あさま神社」の祭神は磐長姫です。浅間山が暴れては困るので磐のようにドッシリとしていて下さいというわけです。

入り口の神橋
140505oiwake72.jpg


境内
140505oiwake73.jpg


社殿
140505oiwake74.jpg


内部
神紋は「立ち梶の葉」ですね。
140505oiwake75.jpg


芭蕉句碑
「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」
140505oiwake76.jpg


140505oiwake77.jpg


追分節発祥地碑
「碓氷峠の権現様は わしが為には守り神 浅間山さんなぜ焼けしやんす 裾に三宿持ちながら」
碓氷峠の馬子唄であるが、説明を読むと諸国の追分節(越後三下り、本荘追分、江差三下りなど)の源泉だそうである。
140505oiwake78.jpg


140505oiwake79.jpg


これで、追分の散歩は終り、スーパー「つるや軽井沢店」で買い物。
私は、ここで「イナゴの佃煮」とヨーグルトを買うのが楽しみ。ここのヨーグルトは本当においしい。
カミさんは、スパークリングワインをりんご(シードル)と葡萄(ナイヤガラ)一本ずつ買った。チーズ4種類、パンに塗って食べる「白ゴマバター」と「れもんバター」。桃のジュースと花梨のジャム。
ここでの買い物は、私でも楽しい(笑)

最後に、子供が小さい頃良く寄った、長倉のカフェレストラン「ラ・ヴィーン」に寄ってみた。
もう10年以上来てなかったと思うが、お店のご夫婦は覚えていてくれた(嬉)
140505oiwake80.jpg


アーモンド・ラテ(左)があったので、それとレアチーズ(右)を頼んだ。
140505oiwake81.jpg


今でも、窓の外に小鳥の餌台があって、小鳥が来ていた。
140505oiwake82.jpg


140505oiwake83.jpg


ここに小鳥などの版画の絵葉書が置いてあって、子供たちは喜んでいた。
見ていたら、フクロウの小さな置物で気に入ったのがあったので、買ってきた。
140505oiwake84.jpg



(了)


鼻顔(はなづら)稲荷神社/長野県佐久市岩村田

20130603

昨日、6月2日(日)に長野県佐久市にある私の両親の墓参りに行きました。
その後、このお稲荷さんにお参りしました。
去年、ひょんなことでこのお稲荷さんが日本五大稲荷の一つだとわかり、吃驚したのです。
子供のときから馴染みのあるお稲荷さんでしたから。
ちなみに日本五大稲荷とは、京都伏見稲荷、愛知豊川稲荷、佐賀祐徳稲荷、茨城笠間稲荷と当社だそうです。

入り口の案内は、こうなっています。
鼻顔稲荷神社鎮座の年代については、記録上詳しく知ることは出来ませんが、永禄年間((1558年~1569年、桶狭間の合戦の頃)に京都の伏見稲荷大社より御分霊をいただいて祭られた神社と伝えられ、以来東信濃における稲荷信仰の中心として広く崇敬を集め栄えて参りました。
鼻顔稲荷神社の御神徳は顕著で、天下泰平、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、交通安全、進学成就の守護神として霊験あらたかで御功績は実に広大無辺です。

湯川をはさんで対岸からの眺めです。
130603hana01.jpg


水が少なくなったなあ、というのが印象。一番右が神楽殿で、この下にボートのり場があり、高校のころにはその桟橋から飛び込んで泳いだり、ボートに乗ったりして遊んでいました。

社殿が懸崖造りなのがわかります。
左から拝殿本殿、社務所、参籠殿となります。
130603hana02.jpg


入り口。私は高校三年間、この前の道を自転車で朝夕通って通学しました。
130603hana03.jpg


境内案内図
130603hana04.jpg


鳥居が三本並んでいます。
130603hana05.jpg


社額の上に屋根がかかっているのが珍しい。
130603hana06.jpg


手水舎
130603hana07.jpg


水琴窟があるというので楽しみにしていましたが、どうも詰まってしまっているようで、妙なる音は聞けず。残念!
130603hana08.jpg


神楽殿が川を背に建っています。
130603hana09.jpg


男坂
130603hana10.jpg


上りきると、鳥居が並んでいます。
130603hana11.jpg


また下に戻って、他の参道をいきます。
急石段は通行禁止。
130603hana12.jpg


上から見たところ。高校のころ、上りは平気なのですが、ここを下りるのは大変だったことを想いだしました。前を向いては降りられなかったと思います。今は石段が埋められてしまっていて、上ろうにも上れなくしてありますね。
130603hana13.jpg


急石段の左右には、狛犬がいました。なかなか風情があります。通る人もいなくなって退屈そうです(笑)
130603hana14.jpg


130603hana15.jpg


130603hana16.jpg


女坂の登り口には、高い石灯篭が立っています。
130603hana17.jpg


その横には相生の樹が。
赤松とけやきの大木が交わりながら仲良く共生しているので、縁結びの樹だとか。
130603hana18.jpg


130603hana19.jpg


女坂を登ります。
130603hana20.jpg


脇には、道祖神とか月待ち供養等など古い石仏が並んでいます。
130603hana21.jpg


これは、初期のかたちの祠型の道祖神ですね。
130603hana22.jpg


このあたりから、足場の上の鉄板の階段です。
130603hana23.jpg


上りきると、岩村田の街が一望できます。
左手の遠くの森が岩村田城址。
130603hana24.jpg


岩村田内藤藩について
元禄16年(1703年)8月、武蔵国赤沼藩より内藤正友が武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石から転じて佐久郡の内、27ヶ村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。その後、摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度この佐久郡内の地へ移封された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところは無く、そのまま代が相次いだ。
第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となって、その功績により城主格に昇進された。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵する。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。

ということで、珍しいことに幕末になって城持ちを許されたが、城を築城中に明治維新を迎えてしまい、未完成のまま廃城となったという城址です。

まずは、御姿殿があります。鍵を咥えた稲荷狐と巻物を咥えた子持ちの稲荷狐が安置されています。普通よくある姿は、参道の両側に居て迎えるというものですが、ここでは建物の中で出迎えてくれています。
130603hana25.jpg



鍵を咥えた稲荷狐
130603hana26.jpg


巻物を咥えた子持ちの稲荷狐
130603hana27.jpg


建物に入れて大事にされているわけがわかりました。
とても美人の狐ですよね(笑)

いよいよ懸崖造りの社殿です。
130603hana28.jpg


130603hana29.jpg


参籠殿に入ると、幟の列と奉納絵馬、酒樽がたくさんあります。
130603hana30.jpg


これは。字は読みにくくなっていますが、まだ絵が鮮やか。
130603hana31.jpg


桑の葉の型紙に名前が書いてあります。
130603hana32.jpg


奉納者の名が消えてしまっていますが、酒造りの絵と思われる。
130603hana33.jpg


昭和11年奉納で、繭で文字を描いてあったが、だいぶ繭が失われています。
130603hana34.jpg


北辰一刀流、千葉周作門下生の奉納。真ん中に北斗七星が描かれている。
130603hana35.jpg


これは稲荷信仰と習合した、陀枳尼天を描いたものですね。
130603hana36.jpg


拝殿
130603hana37.jpg


前に奉納された、かわいい狐たち
130603hana38.jpg


岩に納められた本殿
130603hana39.jpg


神紋は「焔宝珠」ですね。
130603hana40.jpg


御祭神は「宇迦乃御魂命」、配祀は「猿田彦命」と「大宮能売大神(天の鈿女)」
鼻顔稲荷という名前については、説明らしい説明は見当たりません。
これは私の勝手な解釈ですが、猿田彦はご存知のように天狗と外観は同様の顔なので、「鼻顔」がぴったりきます。「猿田彦命」からきたものではないかと思っています。

拝殿の前の床は、このように隙間から下を見ると宙に浮いているのがわかります。
130603hana41.jpg


カミさんに、それを教えたら気が付いていなかったらしく、動けなくなってしまいました。
悪いことをした(笑)

裏側に、同じく岩に塗り込められた旧本殿があり、こちらもお参り。
130603hana42.jpg


こちらの稲荷狐は、玉を咥えたもの、巻物を咥えたものでした。
130603hana43.jpg


130603hana44.jpg


登り切った上に、大神宮があるとのことだったので、こちらもお参りしました。

鳥居にも注連縄が飾られていました。
130603hana45.jpg


両側に、このように灯篭が飾られていた。
130603hana46.jpg


拝殿
130603hana47.jpg


祭神は、天照皇大神。
この神社は平安時代に創建され、明治の初期までは、今の裏町(現在中央公園)にあり、その後、この地に移築されたもの。岩村田の神社仏閣の中でも最も古い歴史を誇るものです。

鼻顔稲荷から大神宮までの間に、いろいろな碑がありました。
紹介しておきます。

萩原井泉水句碑
「空をあゆむ ろうろうと 月ひとり」
井泉水の弟子であった当地出身の故・関口江畔の遺志により、その子関口父草が主となり建てられたものである。
130603hana48.jpg


山頭火・関口江畔・父草 句碑
漂白の俳人といわれる種田山頭火が、昭和11年5月10日鼻面稲荷を訪れてから70年を記念して建てたものです。山頭火を招いたのは、鼻面稲荷に隣接して居を構え、おなじ自由律俳句「層雲」の同人であった関口江畔・父草の句を、各自の自筆で刻みました。
「浅間をむこうに深い水を汲みあげる  山頭火」
130603hana49.jpg


その両側面に、関口江畔・父草の句も刻まれています。
「兄も弟も日に焼けて 学校へ行く日となった朝飯  関口江畔」
「足もと照らしつつゆく自分の足もと  関口父草」 

あと、山室 静という方の「故郷」の碑がありました。
130603hana50.jpg


山室静は、1906年鳥取市で生まれ、七歳で父を失い祖父の地である佐久で育つ。少年時代に詩作をはじめ1930年代からヒューマニズムに立つ文芸評論を主とするも、つねに誌心を失わず、自然を愛し、清澄自在の境地を開示して、真正の詩人と謳われてきた。また、北歌文学研究の先駆者として知られ、多彩な文学活動の成果により、文学・文化賞を受賞すること六度に及ぶ。
この間、小諸市に高原学舎を設立、堀辰雄氏らと「高原」を発行し、佐久文化会議を興して佐久文化賞を創設するなど、郷里の文化振興と人材育成に貢献した。

碑には「故郷」からの抜粋詩が刻まれています。
130603hana51.jpg


故 郷      山室 静

  それは雪と水の郷土
  冬は早く訪れ、その白い暴君は長く君臨する
  かくて地表は刃物のようにとがり、時折り樹々はえ堪えずしてみづから裂ける
  それは萌え出ようとする者と抑えようとする者とのはげしい無言の格闘を示す

  だが、やがて遂に待たれた春がくる
  閉ざされた氷の下にも鬱々の声をたたぬ川は
  そのとき溢れ、みなぎり、押しきって、泥まみれに氾濫する
  その泥の中にはげしい青草の香りがある
  そんなとき少女は一夜にして大人になり、胸は疼きふくらんで
  若者の目は近づく春の祭と播種を思ってあつく燃える

  それは寒冷と枯瘠の土地
  はげしい労働も乏しい収穫でしか酬われぬ貧と苦の郷里
  しかも暴君は時折りもう収穫の前にやって来る
  まるで貧婪な立毛差押えのように

  だが、年々歳々
  その飢と寒さの郷土に子供は育ち、少女は身ごもることを止めぬ
  そして、よりあたたかき日、より光ある日を待ちのぞんで
  あこがれ、欲し、たたかい
  それを生みいだす。


(了)


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop