薬師堂特別公開

20170507

この薬師堂には、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が納められているが、秘仏ということで今まで拝見することは出来なかった。

今回、本年2月1日付で狭山市指定文化財となったのを機に、「花祭り」に合わせて、本日7日だけ特別公開された。

それで、拝観に訪れました。

いつも閉ざされている薬師堂の扉が開き、花祭りと拝観に人々が集っていました。
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花祭りのお飾り。
お釈迦さまに甘茶をかけて、甘茶のサービスを受けて、甘茶をいただいた。
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お堂の中には、文化財の指定を受けた薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩、十二神将がお厨子の中に納まり、その他にも仏像が4体安置されていました。
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堂内に上げていただき、諸仏を間近に拝観することが出来ました。
文化財指定の薬師三尊と十二神将は素晴らしいものでした。
薬師如来坐像が、本体は黒で仕上げられ、蓮華座と薬壷のみ金箔で仕上げられているのが、珍しい。
日光菩薩、月光菩薩は金箔仕上げ。

その他にも仏像が4体あり、これは今まで情報が無かったので、拝見できてよかった。

また、堂内に穴の開いた石がたくさんあった。
これは徳林寺の子育地蔵尊が、別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石」の伝説を持っているのと同様に、耳が良くなるようにとの願掛けだと思われる。
ここの薬師如来には目の病気にご利益があるとのお話だが、耳にも効くということだったのか、薬師三尊の他に仏像が4体あったので、そのどれかがそういう御利益のある仏像だったのかも知れない。


ここで、この薬師堂に関する歴史を挙げておきます。

この薬師堂の本尊の薬師如来は14世紀に当地を開いた金子国重の守護仏といわれています。
金子氏は武蔵七党の村山党に属し、鎌倉時代初期の武将金子十郎家忠の子孫である国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めたといわれています。
この薬師様は「東方の薬師さま」といわれますが、それに関しては次の様な伝説が残っています。
三ツ木国重が金子領三ツ木に住んでいたところ、国重の守護仏である薬師如来が夢枕に立ち「国重心配するな、汝の家より六十間隔てる午未(うまひつじ、南西)に当る草原の中に鎮座しているぞ、安心せよ」とのお告げがあり、その場所から薬師如来を見つけて安置しました。
そして再び薬師如来が夢枕に立ち「三ツ木から東方の地に居を移せ」とお告げがあったので現在地に移住しお堂に薬師如来を祀り、この地を開拓して故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けたといわれます。
明治の郡区町村編制法の施行に伴い、明治12年(1879)に入間市の三ツ木を西三ツ木、狭山市の三ツ木を東三ツ木と称するようになりました。

〇木造薬師如来坐像
このお堂に祀られている本尊の薬師如来は、高さが28cmと小さいものです。
寄木造り、玉眼、肉警(にくけい)、螺髪(らほつ)、眉間に自重(びやくごう)という特徴を持つ如来像で、お顔は慈悲に満ちたやさしい顔立ちをしています。
薬師如来は日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師三尊形式で祀られており、その功徳が日夜を問わず人々に届くようにという意味を表しています。
薬師如来の春属(けんぞく)として十二神将も祀られており、15体の仏像が安置されている珍しいお堂です。
当薬師堂縁起ではこの本尊は秘仏とされ、奈良時代に行基が一刀三礼で刻んだ尊像といわれていましたが、昭和3年(1928)に調査が行われました。
その結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨書銘文のあることが発見されました。応永6年銘の仏像は、市内では古い時代のもので大変珍しいものです。
この薬師如来には目の病気にご利益があるそうで、国重が草原で薬師如来を探し当てたとき「あまりおれを見るな、見ると目がつぶれるぞ」といったそうです。これから目にご利益があるとされたと思われます。



「狭山市の歴史を訪ねる」に飛ぶ



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引又河岸・いろは樋/埼玉県志木市

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1月18日に田子山富士塚を尋ねたあと、せっかくなので付近の史跡を訪ねることにして、この日は「引又河岸跡」と「いろは樋関連史跡」を見ることにしました。

「しきし歴史まっぷ」から
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田子山富士塚から新河岸川沿い少し歩いていくと、「引又観音堂」があった。

【引又観音堂】
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【史跡 引又河岸跡】
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舟運と引又河岸
 江戸時代のはじめ(1640年頃)から新河岸川を利用した舟運がはじまり、川越と江戸を結んで、船で荷物が運ばれました。引又河岸ができ、市場も開かれ、宿場町でもあり、奥州街道(脇往還…バイパスのようなもの)などの道がとおる便利な場所だった引又宿は、大変にぎわうようになりました。
 引又河岸は、明治7年(1874)からは志木河岸とよばれ、重要な役割を果たしました。また、宗岡側には、宗岡河岸がありました。いずれも、新河岸川の改修と鉄道の発達によって舟運が衰退する昭和初めには、その役目を終えました。(「しきし歴史まっぷ」の説明から)

当時の引又河岸
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新河岸川を行く高瀬舟
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水神宮碑
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現在の新河岸川
上流
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下流
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そこから少し川沿いに行くと、道は左にカーブして「市場坂上」交差点に出るが、その直前に「いろは樋大桝」がある。
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【いろは樋大桝】
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「市場坂上」交差点を挟んで向かいに「いろは樋の模型」があった。
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【いろは樋の模型】

ガラスケースの中にジオラマ模型があり、分かり易い。
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説明図
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当時の写真
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説明
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帰って調べると、江戸時代に書かれた、斎藤鶴磯の『武蔵野話』の挿絵にも載っていた。
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ジオラマ模型
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更に、ほぼ原寸大の模型が置かれている。
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川の上に川を通すという、昔の人智に感心するが、その偉業を子供たちに、私たちに伝えようと、このようにジオラマや模型を設置した人達の熱意に対して、感服しました。

(了)



梅宮神社

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鎮座地:狭山市上奥富507

まず、江戸時代に編纂された『新編武蔵武蔵風土記稿』に載っている図によれば、現在の赤間川の位置に神橋があり、そこから真っ直ぐに参道が延びていたことがわかる。
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この場所に、かっては神橋があった。
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江戸時代には、ここから真っ直ぐに参道があった。
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ここに「舗石供養塔」があるが、天保12年(1841)造立のものなので、ここからの参道に舗石を奉納した記念の碑であろう。
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一の鳥居
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由 緒:
 当神社の創建は古く承和(じょうわ)5年(838)といわれ、京都市右京区の桂川沿いに鎮座する梅宮大社から分祀したものです。広瀬神社と並んで市内で最も古い神社の1つです。
かっては奥富のほか三ツ木、沢、田中、峰の総鎮守であったとのことです。
 また当神社に遺されている鰐口の銘文から当初は西方滝(にしかたたき)、現在の狭山清陵高校付近に鎮座していたと推察されます。その後、天文年間(1532~1555)の中頃に社殿を焼失したため現在の地に移ったといわれ、氏子も次第に近隣に移住してきたものと思われます。
なお、当神社は酒造、安産、林業、農業、交通守護の神として崇拝されています。

二の鳥居
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二の鳥居をくぐると、参道には石灯篭3組、手水舎、狛犬が並ぶ。
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最初の石灯篭一組は、元文2年(1737)に「上奥富村」と「下奥富村」の氏子によって奉納され、「梅宮大明神御寶前」と刻まれている。
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手水舎
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狛犬(奉納年不明)
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子犬と手が離れてしまっているのが、ご愛嬌(笑)
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拝殿
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拝殿内部
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ここで、拝殿内などにある三つの市文化財について説明。

○鰐口(わにぐち)
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円形で偏平な形をした銅製品で、下部には横長の口があります。社殿や仏殿前の軒下につるされ、布で編んだ綱を振って打ち鳴らす仏具の1つです。
当神社の鰐口は昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・工芸品として指定されました。
この鰐口は、かつては当神社の別当寺であった梅宮寺(廃寺)が所有していました。直径は14cmと小型で、しかも片側が欠損していますが、残された部分に応永33年(1426)5月3日の銘があり、また彫られた銘文からかつて梅宮神社は奥留の西方滝と呼ばれる場所にあり、当時は入間郡の一部を入東(にっとう)郡と称していたことがわかるなど、奥富地区の歴史を知るうえで貴重な資料となっています。

○神号(しんごう)
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梅宮神社と書かれた神号は、右から左に陽刻したもので、文字は金泥で書かれています。大きさは縦が43.7cm、横が115.6cmのケヤキ材で出来ており、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・書跡として指定されました。
筆者は亀田鵬斎(かめだほうさい)で、宝暦2年(1752)に江戸の生まれとされていますが、一説では上野国ともいわれる儒学者です。折衷学派と呼ばれ、孔子の説を中心に据えながらも自身で学んだ事や判断を重視するものです。23歳の時に私塾を開設して多くの旗本や御家人が入門しましたが、鵬斎自身は生涯仕官をしませんでした。著書には「論語撮解(さっかい)」などがあります。
また江戸時代を代表する「書」の名手で、特に草書は虹矧(みみず)書きと呼ばれ、近世を通じての名手ともいわれています。欧米の書の収集家からは「フライングダンス」と呼ばれています。
 鵬斎の書による神額がいつごろ書かれたか、どうして当神社にあるのかは不明です。書が評判となるのは鵬斎が荻生狙彿(おぎゅうそらい)を排撃して朱子学を批判したため、「寛政異学の禁」で弾圧を受けた以後、旅先の出雲崎で良寛に出会ってからなので、神号の書跡も晩年の作(没年は文政9年(1826))と推察されています。

○桃園三傑図
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拝殿に掲げられている桃園三傑図(とうえんさんけつず)は、中国の三国時代(3世紀)の初めに蜀(しょく)の英雄劉備玄徳(りゆうびげんとく)と、勇猛な武人として知られる 関羽、張飛の2人が、桃の木の下で義兄弟の盟約を結ぶさまを描いた絵画です。この絵画の大きさは縦125cm、横180cmで、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
絵の中央に酒肴(しゆこう)を画き、その回りの中央上に玄徳、向かって右に関羽、左に張飛を描いています。一般的には「桃園の誓い」とか、「桃園結義」と称されています。
作者は雲谷派(うんこくは)の画家、堤等琳(つつみとうりん、号を雪山(せつざん))で江戸時代後期の人です。同派は雲谷等顔(うんこくとうがん)を開祖とする江戸時代の画派で、主に中国から北九州地方を活躍の場としていました。雪舟の画法を忠実に守り、真に力強く押しつけるような墨線(ぼくせん)や墨色に特徴があり、その特徴はこの三傑図にも見られます。

拝殿には、こんな額もあり、猫の描写が秀逸。
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拝殿の背後に、覆い屋で覆われた本殿がある。
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拝殿と本殿とは橋で結ばれている。
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本殿は彫刻が立派な流れ造り。
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前扉には、神紋の桃が彫刻されている。
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海老虹梁と、その上の「手挟み(たばさみ)」の彫刻も良い。
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向拝柱の木鼻彫刻が素晴らしい。
獏の牙の長いこと!!

向かって左側
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向かって右側
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鳥の彫刻が三面に。
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床下束の木鼻の彫刻は亀となっている。
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本殿のすぐ背後、玉垣の中に神木。
枯れた太い幹から、それでも生きた枝が出ているのがありがたい。
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ご祭神(括弧内は別名):
・瓊々杵尊(大若子神)
・彦火々出見尊(子若子神)
・大山祇神(酒解神さかとけのかみ)
・木花咲耶姫命(酒解子神)

ちなみに、本社京都の梅宮大社のご祭神は酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神となっています。
狭山市の梅宮神社の場合は、わかりやすい神名にしているわけです。

※当神社の甘酒祭りは、毎年厳冬の2月10日・11日の2日間にわたり執り行われます。甘酒祭りは全国的に行われており、珍しいものではありませんが、「頭屋制」という関東地方では他に見られない珍しい運営形態で1200年前の平安の昔よりそのまま継承して挙行されているところから、平成4年(1992)3月11日に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。

このとき、祭事は領主、神官、役人を正座とする饗宴型で、一献ごとに優雅な謡を謡われます。
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その謡の一部を紹介しておきます。
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甘酒祭りの様子は、既に記事にしてあります。

その記事を読む



境内社は、八坂神社、蚕影神社、愛宕神社、三峰神社、山の神社、御嶽神社、松尾神社、富士浅間神社、阿夫利神社があるとの情報ですが、はっきり確認できるのは石碑の松尾神社、富士浅間神社、阿夫利神社のみです。

他は表示が無いため、どれがどれかは不明です。
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松尾神社(石碑)
 松尾神社の石碑は京都の松尾大社を勧請したもので、明治13年(1880)に建てられました。梅宮神社とともに酒造り神として有名です。全高は170cm、幅が68cmです。
祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)で、台座正面には入間川村の長木屋銀次郎、上奥富村の長木屋吉蔵と白井藤太郎の計3名の清酒醸造人の名前が刻まれています。
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阿夫利神社
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【富士塚】
社殿の向かって左側に富士塚があります。
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ほどほどの高さがあり。
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登り口
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二合目の合目石
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参道は、わりと広い。
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五合目に「小御嶽神社」碑
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石段を上がります。
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「書行藤覚(長谷川角行)」と「烏帽子岩入定 食行身禄」碑
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頂上の「富士嶽神社」
明治13年建立でした。
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頂上の石垣
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富士講碑
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富士塚のまわりは林になっていて、当然富士塚からは富士山は見えない。

しかし、一の鳥居のところからなら、綺麗に富士山が見えます。
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(了)


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堀兼神社

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鎮座地:狭山市大字堀兼2220-1
参拝日:2011年、11月16日、2012年10月11日、2015年10月20日

社号標
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由緒:
当神社は江戸時代まで「浅間宮」と呼ばれていましたが、幕末の慶應4年(1868)から明治元年(1868)の神仏分離令の関係で神社であることを強調するため、明治4年(1871)に「浅間神社」と改名され、近郷の鎮守として郷社となり、翌年村社に改められました。
その後、明治39年(1906)の勅令による神社合祀令によって、近郷の小さな神社が次々と合祀され、明治42年(1909)に「堀兼神社」と再度改められ現在に至っています。
 当神社の創建は社伝によると、日本武尊が蝦夷征伐から帰る途中、この地に立ち寄ったところ、土地の人たちが水不足で大変苦しんでいることを知り、何とか救おうと富士山を遥拝して井戸を掘らせ、漸く水を得ることができました。そこで土地の人たちがそれを記念して、浅間宮をお祀りしたのが始まりといわれています。
 しかし、この辺りは江戸時代の前期に新田が開発されるまで、人が住んだ形跡が全くないそうで、史実としての創建は江戸時代前期の慶安3年(1650)です。
 この地の領主松平伊豆守信綱公が新田開発事業を進めるにあたって、入植者の長寿と子孫繁栄、そして松平家の武運長久を願って家臣の長谷川源左衛門に命じて社殿を建立させました。
 本殿の裏に建立年月日である「慶安三庚寅天五月吉祥日」と建立の趣旨「浅間宮の御加護の下に入植者の長寿と子孫の繁栄を願う処としてお社一屋を建て奉ります」を刻んだ剣先を上にした形の石の棟札が建っています。

正面入り口
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一の鳥居
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この鳥居の横に、嘉永元年(1848)の舗石供養塔があるが、富士講の供養塔となっている。
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手水舎
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鉢は、寛政年間(1789~)のもの。
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二の鳥居
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二の鳥居をくぐると随身門。
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随身門及び二神像
 随身門とは左右に衣冠束帯で武器を携えた神像が安置されている神社の門のことで、神域と俗世界の境界に建てられています。
 この随身門は「単層入母屋造りの八脚門」という建築様式で、柱の間が三間、そのうち出入り口が一戸であるところから、「三間一戸の八脚門」と呼ばれています。
 間口が7m弱、奥行きが4mほどです。いつ頃建てられたかは分っていませんが、幕末の万延元年(1860)に8両2分の費用をかけて神像を塗り替えたという記録があることから、1800年代の前半には建てられていたと考えられています。正式な随身門としての形式を備えた市内唯一の建築物で文化的価値が高く、昭和61年(1986)11月1日に狭山市指定文化財・建造物に指定されました。
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この二神像は随身と呼ばれ、神域を守り祭神が外出するときには護衛として付き従います。
向かって左を矢大臣、右を左大臣といい、正式にはそれぞれ「豊磐間戸命(とよいわまどのみこと)」「奇磐間戸命(くしいわまどのみこと)」といいます。「豊」は豊作や多産を、「奇(くし)」はめでたい兆しを意味する言葉です。
『古事記』では、天石門別神(あめのいわとわけがみ)という名で登場。
高天原の宮殿の門を守る神でしたが、天孫降臨の時、天照大神の命令で瓊瓊杵尊に従って降臨しました。
『古語拾遺』では、天照大神が岩戸から新殿に遷座したあと「豊磐間戸命と櫛磐間戸命の二神に殿の門を守衛させた」とあり、「両神は天太玉命の子である」という。
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随身門を抜けると、社殿に上がる石段。
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狛犬は石段の途中と、上がりきった所の二組あり。
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社殿
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主祭神は富士浅間大社から勧請した木花咲耶姫命です。
記紀の神話では、この神は山の神々の元締めである大山祇神の娘で、瓊瓊杵尊の妃でもあります。
また、瓊瓊杵尊に不義を疑われ、身の潔白を証明するために産室に火をかけて三人の神子(みこ)を産んだという気性の激しさが、美しいけれどもいつ噴火するかわからない激しい富士山の神に相応しいということで、富士山を祀る富士浅間大社の祭神になったということです。
富士山はその豊富な伏流水のため、あるいは火と水がつきものということからか水の神としても尊崇され、農業神つまり作神として特に関東地方の農民層に厚く信仰され、したがって明治時代まではどこの村にも浅間宮が祀られていました。
しかし、神社合祀令で多くの浅間神社が郷社や村社に合祀されたことにより、現在ではそれぞれの合祀先で末社、摂社として祀られています。

社殿を廻って背後に行くと、由緒のところで述べた、「剣先を上にした形の石の棟札」がある。
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社殿と瑞垣の間の狭い所に立っているので、刻んだ文字を読むことは難しい。
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幸い、『堀兼神社社格昇進願』という文書に、石の棟札に刻まれている文が載っているので、それを載せておきます。
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社殿が建っているこの小高い丘は富士塚です。
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富士塚は富士山に登れない老人や子供でも、これに登って富士山を拝めば富士山に登ったのと同じご利益があるという信仰から、多くの村々で村人たちが力を合わせて土砂を積み上げて築きました。
特に女性は、富士山に登れるようになったのは明治5年であり、それまでの富士山は女人禁制でした。
この富士塚がいつ築かれかは分かりませんが、江戸後期の文化文政(1804~1830)の頃に刊行された「武蔵野話(むさしやわ)」という本に「堀兼の井戸」の記事が載っており、その挿絵にこの富士塚が描かれていますので、その頃までには築かれていたことになります。
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武蔵野話:
初篇は文化12年(1815)刊、序文によれば鶴磯が所沢に寓居する間、閑をみつけては周辺に足を延ばし、叢の祠や、古い社寺を訪ね、或は旧家に伝わる古器や旧記を見たことを筆書し刊行している。
続編は文政10年(1827)刊、老齢に達していて門人岡部静斎の校訂で上梓となった。
斎藤鶴磯(さいとうかくき):
1752-1828 江戸時代中期-後期の儒者。
宝暦2年生まれ。江戸の人。武蔵(むさし)所沢(埼玉県)にすみ,武蔵野の歴史地理に関する先駆的研究書「武蔵野話」をあらわした。

この辺りは冬の天気の良い日、西の方に富士山を望むことができます。そのため「富士見台」「富士見里」「富士見丘」など、富士の付く字(あざ)があります。興味深いのは、この神社の東4~500mの所に「富士隠(ふじがくれ)」という字があります。この富士塚が視界を遮って本物の富士山が見えないため、富士山が隠れたという奥ゆかしい言い回しで字の名を付けたものと思われます。

現在は富士塚とその周りが深い森になっているため、富士塚の頂上からは樹に視界を遮られていて、残念ながら富士山は見えない。

富士塚の名残を見ていきます。

社殿に向かって右下に境内社がある。

手水舎
鉢は明治3年のもの。
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下浅間神社の石碑と一合目の合目石があり、紛らわしいのだがこの境内社の社殿は日枝神社です。
ずっと下浅間神社だと思っていましたが、この間地元の方に教わりました。
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下浅間神社の石碑と一合目の合目石
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日枝神社社殿の中に、立派な本殿がある。
この日枝神社は、明治40年に大字芳野から合祀されたもの。
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本殿の彫刻が素晴らしい。
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左側面彫刻「温公瓶割り図」
中国、司馬温公が7歳のとき酒瓶の中に落ちた子供を、石を投げて瓶を割り、子供を助けた故事
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裏面彫刻「俵藤太秀郷の物語」
大ムカデを退治した俵藤太秀郷が湖の龍神からつり鐘をもらう物語。
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右側面彫刻「三兄弟の物語/中国二十四孝」
物語は、むかし中国に、田真、田広、田慶の三兄弟がおり、親が亡くなって後、遺産を三つに分けて分配したが、庭にある一本の紫荊樹(はなずおう)も三本に分けて分配しょうと夜間相談し、翌朝三人は、木を切ろうと木のもとに行ったところ、昨日まで栄えていた木が枯れてしまっていた。田真は、これを見て「草木にも心があり別けられるのを知りて枯れてしまったのであろう」と、三兄弟も人間として争い事をすべきでないことを悟り、木は別けずにおいたところ、紫荊樹は、また再び元の如く栄えたという物語である。
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登山路を上がる。
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五合目に小御嶽神社
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石組は富士山の溶岩を使用している。
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萬延元年(1860)に建立された石祠
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頂上
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下に降りて、神楽殿
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境内社に参拝。
参道の右側、神楽殿の近くにあるのを先に。
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「井上稲荷神社」
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三柱が祀られているようですが、わかったのは「牛頭天王」と「疱瘡大神」。
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続いて参道の左側、「堀兼の井」近くにあります。
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「金比羅大権現」と「天満宮」を合祀。
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脇にある説明によると、江戸時代の浅間宮の時代から境内社として天満宮が二社あったようで、もう一つの「天満宮」。
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続いて、境内にまとめて置かれている石仏群。
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寛文9年(1669)の三猿型庚申塔。
このタイプでは、市内で最も古い。
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天保4年(1833)の馬頭観音文字塔。
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安永10年(1781)の自然石に「庚申碑」
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嘉永7年(1854)の出羽三山供養塔
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延宝5年(1677)の三猿型庚申塔。
このタイプでは、市内で二番目に古い。
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ご神木が二本あり。

参道近くにあるご神木。
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堀兼の井近くにあるご神木。
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(了)


「狭山市の歴史を訪ねる」に飛ぶ



厳冬の富士塚縦走

20160121

今日は「大寒」ということで、朝起きたら晴れていたので、予定どおり実行することにしました。
厳冬のなか、狭山市内の富士塚を全て廻ろうというわけです。
3日前にけっこう雪が降ったので、少しはそれらしくなったが、予想に反して今日は比較的暖かかったので、ほとんど悲壮感は無し(笑)
狭山市内全域ををほとんど廻るので、車でまわることにしました。ちょっとズルイ(笑)
カミさんと二人旅です。

回ったのは、上広瀬富士浅間宮⇒柏原富士塚公園⇒柏原白鬚神社⇒梅宮神社富士塚⇒田中稲荷神社富士塚⇒入間川富士浅間神社⇒堀兼神社富士塚⇒氷川神社富士塚⇒青柳富士浅間神社⇒下奥富浅間神社⇒笹井浅間神社富士講石塔の11ケ所です。

【上広瀬富士浅間宮】
所在地:狭山市上広瀬983-2

入り口
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入り口の面はまったく雪が無くて安心したが、参道の日陰には雪がまだある。
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頂上の「富士浅間宮」の碑
丸ろ講、丸の中を緋色に塗るので「ひろせ」となる。
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頂上から木の間越しに富士が見えた。
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五合目の蚕影神社の前からのほうが、富士は見やすい。
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【柏原富士塚公園】
所在地:狭山市柏原337-23
狭山工業団地の中、セコムのラグビーグランドの近くにある。

公園入り口
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工業団地完成記念碑の向こうに富士塚はフェンスに囲まれてある。
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フェンスには扉があり、鍵がかかっていないので、中に入れます。
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正面に回る。
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頂上の「浅間宮」碑
丸藤講
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残念ながら、工場に囲まれているので、富士は見えない。
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【柏原白鬚神社】
所在地:狭山市柏原1153
先に、柏原上宿の富士塚の跡地に行きます。
昨年の正月に、白鬚神社の宮司さんにお話を伺いに訪ねたときに、「そういえば富士塚は、いま重機が入っていますよ」と云われ、驚いて飛んでいったときの写真がこれ。
正月休みで工事が中断していたので、塚が三分の一くらいの状態を確認できた。
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今日の状態がこうで、宅地にされるようだ。
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現在のここは、道沿いに民家がびっしり立ち並んでいて、富士はまったく見えない。

白鬚神社
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境内の浅間社の傍らに、上宿にあった富士塚の石碑三体が安置されている。
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真ん中が笠付石塔「木花開耶姫命碑」
右側面に「旡彦火瓊瓊杵尊」、左側面に「大山祇尊」、裏面に「雷神風神尊」と刻まれている。
左が「小御岳石尊大権現」の石碑
右が「○柏同行」碑
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【梅宮神社富士塚】
所在地:狭山市上奥富508
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富士塚
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頂上の「富士嶽神社」碑
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富士山の方向には、樹が生い茂り、民家もあって全く見えない。
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近くで富士山が見えるところを探したら、一の鳥居のところから綺麗に見えた。
(二の鳥居の位置からも見えた)
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【田中稲荷神社富士塚】
所在地:狭山市狭山27
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富士塚の昇り口にまわる。
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頂上の「富士浅間宮」碑
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頂上から、白い斜めの屋根が特徴の市民会館の向こうに、綺麗に富士が見えた。
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【入間川富士浅間神社】
所在地:狭山市入間川3-14
石無坂(いしんざか)の途中にあり、色々な碑が集められている。この辺の道路拡張などの影響であろう。
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木花開耶姫立像
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ここからの、眺望の開口部はこれだけで、富士山は見えない。
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【堀兼神社富士塚】
所在地:狭山市堀兼2220
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鳥居横にある、丸吉講の碑
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富士塚の上に、堀兼神社の社殿がある。
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五合目の小御嶽神社
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社殿
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富士塚の頂上からは、深い木立にさえぎられて、まったく外が見えない状態。
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【氷川神社富士塚】
所在地:狭山市青柳東馬智屋敷475
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富士塚
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頂上の「富士嶽神社」碑
左右に猿が侍っている。
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ここも、建物にさえぎられて、富士山は見えない。
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【青柳富士浅間神社】
所在地:狭山市青柳974
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頂上の、溶岩に覆われた石祠
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お昼を過ぎて、雲が出てきてしまって、富士山がよくわからない。
これかもしれない。
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ここの庚申塔の三猿が、両側の猿が横を向いていて、変わっている。
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【下奥富浅間神社】
所在地:狭山市下奥富490-1
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下から見ると小高い丘の中腹にあり。
下が薬師堂
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浅間神社
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ここからは、わりとはっきりと富士山が確認できた(嬉)
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【笹井浅間神社富士講石塔】
所在地:狭山市笹井
本来、ここからスタートすべきなのに、ミスって飛ばしてしまったので、最後にここを訪ねました。
笹井白髭神社からちょっと上がった、河岸段丘の上にあります。
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「大祖参神霊」と刻まれている。
丸日立講
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河岸段丘の上なので、視界は開けていて見えるはずなのだが、雲が出てしまってはっきりしない。

ここは、再度来てみることにして、今日は完了とした。

後日(1月27日)、10時ころに確認しました。
近くで富士山が見えるところで方向を確認した結果、「大祖参神霊」碑の前から富士山の方向を向くと、そこには林が茂っていて、現在は富士山を見通すことは出来ない。
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河岸段丘のハケに木が生い茂っているのだが、富士山に向かって左の方にハケは蛇行していっているので、4、50m先では林が無くなって、綺麗に富士山が見える。
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林には、そんなに太い木は見当たらないので、富士講碑を設置した頃には、富士山は見えていたと推定はできます。


結局9:30に家を出て、帰宅したのが15時だった。

(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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