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平渋沢栄一生家・記念館

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訪問日:2019年10月9日

歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に妻沼聖天山歓喜院に参拝し、その後熊谷市内で早目の昼食をとり、児玉の百体観音堂(さざえ堂)を見た後、ここに到着しました。

【平渋沢栄一生地】
埼玉県深谷市血洗島247-1

堂々たる、大きな屋敷だ。
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立派な門構え。
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立派な主屋
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 この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。
 渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。
 中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のはか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。
 現在残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。
 栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。
 また、中の家は、元治、治太郎たちの人材を輩出した。
 昭和60年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属した。
 昭和26年、埼玉県指定史跡に指定。昭和58年、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えがされた。
平成22年、主屋を中心とした範囲を深谷市指定史跡に指定。
 副屋の前には、渋沢家歴代の墓地がある。屋敷外の北東には、栄一の号「青淵」の由来となった池の跡に「青淵由来の碑」が建つ。南方200mはどには、この地、血洗島の鎮守である諏訪神社がある。

門から入ってすぐに、栄一の青年期の侍姿の銅像が立つ。
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渋沢栄一の生涯概要については、皆さんご存知と思うが、ここに記しておく。
江戸時代末期に農民から幕臣に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現、二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となる。また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定。

私は不勉強で、今回渋沢栄一に関する本2冊を求めて勉強させてもらったが、漠然と知っていた実業家としての栄一についても深く知ることが出来たが、幕末の頃の栄一と従弟たちの行動には驚倒した。
そのあらましを書いておく。

〇7歳時に従兄・尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の許に通い、四書五経、「日本外史」を学ぶ。
〇文久3年(1863)、尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城の乗っ取り、横浜の焼き討ちを計画。69名を集め決行寸前に、状況偵察に京都に派遣していた惇忠の弟、尾高長七郎(従兄弟)が帰着、京都の激動政情(公武合体派が尊王攘夷派を駆逐、大和の天誅組事件)を説明、説得により中止。
〇既に関八州の役人に知れているため、勘当の形で京都に出るが、志士活動に行き詰まり、江戸遊学(文久元年)の折に交際のあった一橋家家臣(御側御用掛)、平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。(別行動をしていた尾高長七郎が幕府に捕えられており救うためもあり)
慶喜は薩摩藩に先んじて「禁裏御守衛総督」「摂海防御指揮」を朝廷から命じられる。元治元年(1864年)平岡円四郎が暗殺される。栄一は次第に藩内で重きをなす。
〇募兵で藩の領地を見回ったときに着想、特産品の活用、藩札を大坂の商人と組んで信用を上げる等、藩の財政の改善に努め、勘定組の組織改革も提言、勘定組頭に就任。
〇主君の慶喜が将軍となり、幕臣となる。
〇パリで行われる万国博覧会(1867年)に、将軍の名代(慶喜の弟・昭武)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書で、フランスへ渡航。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。将軍の弟ということで、フランスは何でも見せてくれた。海軍基地、製鉄所、ヴェルサイユ宮殿、ノートルダム寺院など。銀行家のエラールから、銀行の仕組み、株式会社、貨幣制度、有価証券などを学ぶ。軍人と銀行家が同じ立場で交流していることに感銘。フランスが変心(イギリスの横槍、薩摩藩暗躍)、600万ドルの借款契約が消える。栄一は昭武一行の滞在費用、欧州歴訪、留学費用捻出のため、オランダ貿易会社やイギリスの銀行から借金、フランスの公債購入や鉄道会社の株購入など資金を運用、かなりの利益を上げ、しのぐ。
〇慶応4年(1868年)5月、新政府から帰国を命じられ、帰国。
※渋沢喜作(成一郎):従弟
栄一と共に高崎城の乗っ取り、横浜の焼き討ちを計画。共に慶喜に仕える。大政奉還後彰義隊を 結成、頭取となる。慶喜が水戸に退いたので、上野での徹底抗戦を主張する天野八郎と分かれ、 振武軍を結成、官軍と「飯能戦争」を戦う。栄一の弟・平九郎が参謀であったが越生で戦死。喜作は榎本武揚と共に蝦夷地にて箱館戦争に参戦。明治時代は、栄一の仲介で大蔵省に入る。大蔵省を退職後は実業家として手腕を発揮した。八芳園の建物と庭園は、渋沢喜作が建設したものに、日立製作所の創始者・久原房之助が手を加えたもの。

お願いしていたガイドさんに説明をしていただく。

渋沢栄一が生まれたときの家。
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中の家の家系図
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栄一が家を飛び出したので、この家を守ったのは栄一の妹「てい」とその婿「市郎」。
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「てい」と「市郎」の長男・渋沢元治。
東京帝大の電気工学科を卒業、逓信省で電気事業・電気技術の管理業務に従事。
現在の日本の使用電圧を決めるにあたって、自分の身体を実験に使用して、家庭用には100Vと決めた人物。
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元治が東京で活躍したので、この家を守った二男の治太郎。
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渋沢元治の揮毫額「本立而道生」
論語のなかにある言葉で、「根本がしっかり立ては、その先の道はおのずから開けるものだ」という意味。
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座敷の様子
一番奥が、栄一が帰郷したときのために用意した部屋。
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住所の「血洗島」の説明。
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上皇ご夫妻の訪問の写真。
上皇になられることが決まった後なので、普通の服装で訪問されたとか。
美智子上皇妃だけでなく、代々皇妃の養蚕のご指導を渋沢家がしているそうだ。
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今回、1万円札に渋沢栄一の肖像が採用されたが、現在の千円札の際にも候補となったそうだ。
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これが栄一が帰郷したときのために用意されていた部屋。
床柱は、銘木「鉄刀木(たがやさん)」。
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藍玉を保存していた土蔵Ⅱ。
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大谷石を積んだ半地下室で藍玉の製造・貯蔵をしていた。
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土蔵の前には、藍が植えられている。
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土蔵Ⅳ
一階を奥座敷、2階を宝蔵に使用していた。
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楷の木
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前庭の池
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これで、渋沢栄一生地の見学を終え、続いて渋沢栄一記念館に向かった。

【渋沢栄一記念館】
所在地:埼玉県深谷市下手計1204

記念館は、巨人・渋沢栄一にふさわしい堂々たる建物。
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入口ロビー
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展示室は撮影禁止なので紹介できる写真は無いが、巨人・渋沢栄一を知るうえで貴重な資料がたくさんあった。
渋沢栄一の年表
高崎城を襲い、横浜の異人館を襲撃しようという血書。
日本で最初に設立した銀行「第一国立銀行」の威容。
国際交流の証しの青い目の人形
『論語とそろばん』
栄一を育てた従兄・尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の事蹟
などなど

記念館の裏に、渋沢栄一の大きな銅像が立つ。
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渋沢栄一の銅像が見つめる故郷の光景。
あまり変わってはいないという。
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(了)


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平等山宝金剛寺成身院百体観音堂(さざえ堂)

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所在地:埼玉県本庄市児玉町小平597
参拝日:2019年10月9日

歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に妻沼聖天山歓喜院に参拝し、その後熊谷市内で早目の昼食をとってから、ここに到着しました。

現在は本庄市観光農業センターが管理しており、ここの駐車場に大型バスを停めて小休止のあと、お願いしてあったガイドさんの案内で、参拝しました。

まず、さざえ堂とはどんなものか、簡単に説明しておきます。
さざえ堂は江戸中期に忽然と出現しました。最初のささえ堂は江戸本所羅漢寺に建てられたものである。享保1年(1716)ごろ羅漢寺の住職象先によって構想され安永9年(1780)に完成。さざえ堂は江戸市中に大変なブームを巻き起こし、名所図会、錦絵などでその様子を今に伝えている。残念ながら羅漢寺のさざえ堂は地震で損壊して現存していなくて、羅漢寺も治時代に目黒に移転している。
 以降、関東以北を中心にいくつもの類似するさざえ堂が15から20ほど建築された。今でもさざえ堂はいくつかは残っている。この百体観音堂の他に、群馬県太田市の曹源寺、福島県会津若松市の正宗寺等が現存している。また都内に酉新井大師に三匝堂(栄螺堂)があり、堂の内部は初層に本尊の阿弥陀如来と八十八祖像、二層に十三仏、三層に五智如来と二十五菩薩を祀ってあるそうだが、内部は非公開である。

観光農業センターから、30mほど階段を上がっていくと百体観音堂(さざえ堂)に着く。
本来は仁王門も残っていて、そこから参道があるのだが、この日はカットし、いきなり観音堂に。
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ここの百体観音堂は、何を願って作られたのだろう。
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百体観音堂は、天明三年(1783)七月八日(旧暦)、浅間山の大噴火により火砕流・岩層なだれと、それによって引き起こされた洪水で、千五百人以上の人が亡くなり、多くの遺体が利根川を流れていきました。戸谷塚(伊勢崎市)では村民総出で七百人もの連体を収容し、埋葬し、地蔵尊を建立したと伝えられた。
成身院六十九世元真は、死者のために近隣の僧と共に法華経を一万部読諭し、百体観音堂を発顧した。弟子の元映によって寛政四年(1792)に完成した。しかし明治21年(1888)火災により観音堂、像は焼失したが、大鰐口だけは奇跡的に焼損をまぬがれた。明治23年(1910)に再建し、現在にいたる。

 百体観音堂の外見は二階建てですが、内部は三層になっている。一層は中央に聖観音を本尊に祀る護摩堂があり、その周りを秩父三十四観音札所の本尊が並んでいる。細い急な階段を上ると二層には三仏(阿弥陀如来像、釈迦如来像、薬師如来像)が祀られている。その周りを坂東三十三観音、三層には西国三十三観音が安置されている。
 そこを「右遶三匝(うにょうさんそう、時計回りに三巡する仏教の礼法)」して百体の観音様にお参りし、別の通路を降りてきます。巻貝の内部に似ているということで、「栄螺(さざえ)堂」といっている。

さざえ堂の長所としては、上がっていく通路と、下る退路が、別々に独立していることで、上がる人と下る人が干渉しないで済むので、落ち着いて参拝出来る。

百体観音堂の外観は二層。
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立派な彫刻がされている。
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大鰐口をたたく前にこれを踏む。
四国八十八ケ所霊場の砂が納められている。
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最初建てられたときからの大鰐口。
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入口は横にある。
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本尊の聖観音は、暗くてよく見えない。
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一階は、秩父札所三十四観音が並んでいる。
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観音は、全て札所の本尊と同じお姿をしていて、素晴らしい造りである。
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二階に上がる階段は、狭くて急だ。
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二階の中心に、阿弥陀三尊が安置されている。
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薬師如来像(左)寛正7年(1466)
阿弥陀如来像(中)応永12年(1405)
釈迦如来像(右)応永12年(1405)
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阿弥陀三尊が安置されている室を囲む壁に沿って、坂東三十三観音霊場の本尊と同じお姿の仏像がが置かれている。
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三階に上がる、狭くて急な階段。
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三階には、西国三十三観音霊場の本尊と同じお姿の仏像がが置かれている。
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百観音全部を見終わり、降りる階段は登りの階段とは別に用意されていて、人が交錯しないようになっている。
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一階の出口から出て、拝観は終了。
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百体観音全てを動画で撮ってきたので、それをユーチューブにアップしてあります。
下記「その動画を見る」をクリックすれば、見ることが出来ます。

その動画を見る



札所百ケ所全ての本尊ど同じかたちの仏像を揃えるという、そのエネルギーには圧倒される。
それも、江戸や大阪という大都市にあるならともかく、田舎の農村地帯である。
昔の宗教にすがる気持ちというものは、すごく切実なものだったのだと、改めて思った。

再びバスに乗り込み、深谷にある「渋沢栄一生家」と「渋沢栄一記念館」に向かった。


次の「渋沢栄一生地・記念館」の記事を見る



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妻沼聖天山歓喜院/埼玉県熊谷市

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所在地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2019年10月9日

歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に訪ねたのが、この妻沼聖天山歓喜院です。

ここは、延喜式内社白鬚神社の故地ということで、個人でしている「武蔵国式内社めぐり」で、2017年1月に既に訪れており、その記事があります。

その記事を見る


今回は、その安心感もあり、そんなに写真を撮ってないので、全体像は上の記事を参考にしてください。

到着して、すぐに奥殿のガイドさんを予約してあったので、奥殿から見た。

下の境内図で「御本殿」と書かれている建物の後ろに奥殿がある。
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【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。

奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。

第8代吉宗の贅沢禁止令で、このような建物は建てられなくなるが、ここは既に建築半ばだったので、御目こぼしにあずかり、このような建築の最後の例となった。

2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。

ガイドさんの案内で拝観する。
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何度見ても感心してしまう。
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これが、わざと塗ってない部分を残して、まだ未完成だとしているところ。
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ものすごいきらびやかな彫刻で、ため息が出てしまう。
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猿の彫刻は面白いが、前回全部撮ってアップしてあるので、今回は省略。
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今回は、「唐子遊び」の彫刻を全部撮った。
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奥殿でのガイドが終わると、引き続き拝殿の彫刻の説明もしてくれた。
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ここの彫刻の見どころも、今回はきちんと撮らなかったので、前回の記事で確認してください。

前回の記事を見る


ここも華麗な彫刻がされている。
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ここでガイドは終了、バスを停めた場所は貴惣門の横なので、そこまで自由時間内を各自三々五々境内を見物しながらバスに戻った。

ここは日本三大聖天さまの一つだそうだが、浅草の待乳山聖天院と同様、大根の紋となっている。
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仁王門
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狛犬が居るのは、江戸時代の神仏習合のなごり。
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齋藤実盛像
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この像は、髪を黒く染めている場面を描いているが、それは以下の話があるからである。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
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貴惣門
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「皆與願満足」という額がかかっている。
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横が、破風を三つ重ねた珍しい形式。
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ここに置かれているのは、持国天、多聞天の像。
残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。

持国天
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踏まれている邪鬼
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多聞天
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踏まれている邪鬼
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本殿側の彫刻が素晴らしい。
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これで、ここの参拝を終了して、近くで早目のお昼を食べてから、児玉の百体観音堂(さざえ堂)に向かった。



児玉・百体観音(さざえ堂)の記事を見る



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森林公園イルミネーション

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25日に、カミさんと二人で観てきました。
東松山インターで降りて一般道を走り、この期間夜遅くまで開いているという中央口駐車場に車を停めて、中央口から入りました。
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「Welcome」のアーチのところでは、シャボン玉を飛ばしていた。
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海賊船が目立った。
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ガラスのすすきが綺麗だ。
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「竹あかり」
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太い竹に、たくさん穴を開けて中に光をセットしてある。
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水面に映って綺麗だ。
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光の階段
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階段の上から下を見る。
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光で縁取られたスロープを上がっていく。
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「森の妖精モーリーと仲間たち」
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光のトンネル
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ハートのベンチと天使の羽
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行灯アートと彫刻
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「ミンチにして食べちゃうぞ~~」なんて脅してくる、色々な色に変化する魔女!
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林の中に並んで居る行灯アート
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水の流れのようなカエデ園のイルミネーション
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キノコや森の動物たち
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お腹が空いてしまったので、森の中にある茶店で「きのこうどん」を頼んだ。
ちょっと小腹を満たして、後でレストランなんて思っていたが、量がタップリで驚いた。
温かくて美味しくて満足しました。

来た道とちょっとずれた道を戻ります。
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大きな顔のイルミネーションが並んで居て、前を通ると話しかけてくる。
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入り口のところまで戻ってきました。
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広い森をイルミネーションで飾ってあり、とにかく広かったのが印象的。
童話的な世界だったので、のんびりと歩き回って、とても楽しかった。



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高麗川流域の地形と地質探訪

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5月19日に、「野外調査研究会」主催の見学会に参加しました。
最近、地球の歴史にハマっています。

10時に八高線高麗川駅に集合。
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コースは高麗神社・高麗家住宅⇒聖天院・メランジュ露頭・地形展望⇒栗坪の不整合露頭⇒飯能礫層の大露頭
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高麗川駅から歩きだして25分くらいで、高麗川に架かる出世橋に到着。
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高麗川
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橋の名前が面白い字で書かれていた。
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高麗神社に到着。
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神職の説明を受ける。
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高麗神社については、既に記事があります。

その記事を見る


樹齢400年の枝垂れ桜の下の高麗家住宅
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高麗家住宅は、17世紀の古い建築様式のもの。
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高麗神社境内で、持参の弁当で昼食、休憩。

高麗神社から聖天院に向かう途中、大きな珪化木が民家の庭に置かれていて、吃驚!
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聖天院に到着
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まずは、高麗王霊廟に。
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高麗王若光は、天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に名があり、高句麗が滅んだため日本に留まり、大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えられる。
霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しているが、その中心人物となり亡くなったあと、高麗神社の祭神として祀られた。

高麗王若光の墓
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一対の石灯篭が置かれているが、笠と台の石はチャート、火袋は「溶結凝灰岩」である。
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この溶結凝灰岩だが、縦を横にして使用している。
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入り口左右に、一対の羊の石像が置かれている。
中国や朝鮮半島では、お墓や陵墓を守護し、霊を鎮魂する、「鎮魂獣」の一つとして、羊の石像が陵墓に置かれるという。
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この羊頭がアンモナイトに似ていて、アンモナイトの語源にぴったりだと説明があった。
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アンモナイトの化石は、ギリシアの羊角神アンモーンに鉱石名の語尾 -ite を添えて ammonite の名に造語された。

羊角神アンモーン
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聖天院の本堂は、高いところにあり、結構石段を上がる。
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本堂前の見晴台から「高麗丘陵」を望む。
大宮台地と同じく、ほとんど凹凸が見られない。
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境内に置かれている詩碑で、小断層と級化層理を見る。
級化層理の幅から見て、この石は上下が逆になっている。
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【聖天院のメランジュ露頭】

いよいよ、本堂裏のメランジュ(混在岩)露頭です。
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石灰岩露頭
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右から、石灰岩、泥岩、チャートのメランジュ
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石灰岩と泥岩
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泥岩
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チャート
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泥岩中の石灰岩・チャートのブロック
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【栗坪の不整合】
獅子岩橋上流の高麗川右岸に、3つの異なる地質時代の地層が二つの不整合面をはさんで重なる露頭がある。

対岸から見るため、道なき道を行く。
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対岸に見えているのが、「栗坪の不整合」。
下から、高岡層上部層(白亜系)、飯能礫層下部層(鮮新-更新統)、武蔵野段丘礫層(上部更新統)
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地質時代
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不整合面の下が高岡層上部層(白亜系)、上が飯能礫層下部層(鮮新-更新統)。
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不整合面の下が飯能礫層下部層(鮮新-更新統)、上が武蔵野段丘礫層(上部更新統)
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高麗川
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河原に、砂岩泥岩互層(高岡層上部層)の露頭
垂直に近い高角度で傾斜している。
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ここから、高岡橋に出て、しばらく高麗川沿いに歩く。
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天神橋まで来た。
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高麗郷古民家(新井家住宅)は、行程が遅れているので省略された。
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あいあい橋
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この日は暑かったので、あいあい橋の下で子供たちが川に飛び込んで遊んでいた。
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日和田山がきれいに見えた。
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【飯能礫層大露頭】
ドレミファ橋から上流の高麗川右岸には、ひときわ大きな黄褐色の崖が続いている。
この崖は、礫層・砂層・シルト層4からなり、「飯能礫層上部層」と云われている。
第四期の初めころに八王子-高崎構造線の運動によって厚く堆積した河川堆積物。

ドレミファ橋を渡ったところにあり。
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ここが間近に見られる場所
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飯能礫層
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河原を歩いて飯能礫層を観察していく。
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広い河原の片方が飯能礫層の崖がむき出しになっている。
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色々な表情の飯能礫層が見られる。
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最後に河原の石を集めて、どんな石か鑑定。

緑色岩
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砂岩
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千枚岩
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以上で、終了。
西武池袋線「高麗」駅まで歩いて、帰途についた。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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