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日光御成道鳩ヶ谷宿

20200321

撮影日:2020年2月28日

歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で訪ねました。
この日は、川口市立文化財センター⇒旧田中家住宅⇒川口元郷から鳩ヶ谷に電車移動⇒日光御成道鳩ヶ谷宿⇒川口市立文化財センター分館資料館⇒市神社⇒鳩ヶ谷氷川神社を訪ねた。

旧田中家住宅を見たあと、近くのレストランで昼食を取り、川口元郷か電車に乗り、鳩ヶ谷駅に降りました。

日光御成道について、予習です。
日光御成道は日光道中の脇街道(付属街道)で本郷追分(文京区)から中山道と分かれ、岩淵宿・川口宿・鳩ケ谷宿・大門宿の5宿を経て幸手追分で日光道中と合流する約12里(約48キロメートル)の街道をいいます。
 道筋は中世の鎌倉街道中道を基に整備されたといわれています。
 近世に入り日光御成道は、日光東照宮を参詣するために通行する将軍専用の街道であったところに特徴があります。将軍の日光社参に利用されるほか、東照大権現(家康)・大献院(家光)の特別回忌法要の代参通行、日光門主の通行、日光東照宮の修復などの御用通行、大名では岩槻藩(享和2年以降の大岡家)が利用しているほか、地方御用の代官所役人や普請役人の通行に利用されましたが、通常は、中山道や日光道中に比へ交通量は多くなかったようです。
 また、日光御成道の整備は、寛永13年(1636)の日光東照宮大造替後には、かなり進んでいたと考えられます。「正保国絵図」「武蔵田園簿」には御成道の道筋と馬継場が記されています。
 延宝8年(1680)の幕府「覚書」によると 「日光海道」(享保元年以降「日光道中」の名称は「宇都宮道」「壬生道」「岩付道」往還と「日光御神領街道」 すべての総称でありましたが、その後、道筋は独立し、日光道中の脇筋道(付属街道)とされ「日光道中岩槻通り」「岩槻道」と幕府通達で記され「日光御成道」の呼称か使用されるのは天明5年(1785)以降になってからです。

川口市周辺の近世街道図
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日光道中と日光御成道
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日光御成道
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下図で、鳩ヶ谷駅から「とんぼ橋」に出てそこから歩こうと思っていたのですが、日光御成道に出たのは、「とんほ橋」と「一里塚」の中間くらいの位置だった。
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見沼代用水にかかる「ふきあげばし」
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見沼用水の下流と上流
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一里塚跡の標識
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氷川神社に通じる「宮道」
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昔の宮道
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現在の宮道
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「御成坂公園」というのが出来ていた。
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行列のタイル絵
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からくり時計があり。
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一日に5回ならしているそうだが、残念時間が合わなかった(泣)
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レトロな良い建物あり。
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「千手院跡」の説明。
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昔の商家らしい建物
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今はバス通りで、広い道になっている。
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本陣跡は、注意して歩いていたのだが見落とした(汗)

川口市立文化財センター分館資料館に到着。
ここの記事は別途。
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資料館を見終わって、もうちょっと日光御成道を「市神社」まで歩いた。

市神社
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そこから、少し戻って「市場杭跡」から氷川神社に入った。
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氷川神社の二の鳥居
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石段の上左右には、とても良い感じの狛犬があり。
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神門
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拝殿
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立派な木彫りの賽銭箱
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たくさんの境内社があったが、「古峯社」には、小ぶりながら、良い感じの狛犬が居た。
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猿田彦を祀る庚申塔
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夫婦樟は、今様にハートの花壇が作られていた。
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これで氷川神社の参拝を終え、一の鳥居からまっすぐ鳩ヶ谷駅に戻った。
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この日は、川口市立文化財センター⇒旧田中家住宅⇒川口元郷から鳩ヶ谷に電車移動⇒日光御成道鳩ヶ谷宿⇒川口市立文化財センター分館資料館⇒市神社⇒鳩ヶ谷氷川神社を訪ねたが、それぞれの場所でたくさんの収穫物があり、充実した一日だった。


川口市立文化財センター分館郷土資料館の記事を見る



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旧田中家住宅(川口市)

20200316

所在地:埼玉県川口市末広1丁目7番2号
撮影日;2020年2月28日

川口市文化財センターを見た後、徒歩15分ほどでここに到着しました。
「旧田中家住宅」は国指定重要文化財となっています。

まず、田中家についてですが、代々嫡男が家督を相続し「徳兵衛」を襲名してきました。農家であった初代の跡を継いだ2代目徳兵衛(文政11年~明治3畔)は、当時、大麦と豊かな地下水を利用した麦麹味噌の醸造業と材木商を始め、その後の田中家発展の基礎を築きました。
現代に残る邸宅は、4代目徳兵衛(明治8年~昭和22年)が築きました。彼は、19歳で家督を相続した後、家業の発展に力をいれるとともに、大正2年(1913)に埼玉味噌醸造組合の組合長に就任の後、南平柳村々会議員、県議会議員、貴族院議員を歴任しました。
5代目徳兵衛(徳太動は、昭和24年(1949)2月から28年2月までの4年間、第9代川口市長として、地域の発展に尽力しました。

次に、旧田中家住宅は、大正10年(1921)に上棟し、大正12(1923)に完成した煉瓦造3階の洋館と、昭和9年(1934)に増築された和館の他、茶室、文庫蔵、煉瓦塀、池泉回遊式庭園により構成されています。
洋館は、県下有数の本格的洋風建築です。デザイン性に優れた優美な外観は、イギリス式に煉瓦を積んだ壁に化粧用煉瓦を貼って仕上げられています。
和館は、木造一部2階建ての寄棟屋根をのせた数寄屋造りの建物です。この和舘が建設された時期は、4代目徳兵衛が貴族院議員として政界に進出していた時期と同じであり、大勢の来賓を迎えて行事を行うため、洋館に増築して建設したものと考えられます。
 学術的・文化財的価値については、専門家より以下のような高い評価を得ています。
①住宅としては県下唯一の木造煉瓦造3階建の建築物です。
⑨本市の素封豪の繁栄を極めた生活ぶりを象徴する建物です。
⑨旧芝川沿いに位置しており、街区のランドマークを形成しています。
㊥質の高いデザインを備えています。
⑨地元職人たちの高い建築技術を表現した建物です。
⑥味噌醸造業との関係から、近代産業遺産としての個値を有しています。

正面外観
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洋館の後ろの和館
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たまたま、「桃の節句」展をしていた。
館内の至る所にお雛さまが置かれていて、建物を見る上にはちょっと邪魔な場面もあったが、面白い人形もあったので良しとした。
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〇玄関・帳場
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神棚と折り上げ格天井
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帳場の後ろの金庫
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帳場と食堂の間には、手動シャッターがある。
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〇応接室
来客が玄関から直接入室できるように、専用ドアが南東側に設けられている。
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玄関からのアプローチ
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応接室入り口のステンドグラス
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応接室
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〇2階展示室
蔵になっていた部分。
「上田一味噌」の醸造の展示をしていた。
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貯蔵場だったので、天井は梁がむき出し。
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味噌醸造の行程などの展示があった。
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〇2階書斎
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バルコニー
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〇吹き抜けの階段
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踊り場の上に見張り場みたいなコーナーが設けられている。
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〇3階控えの間
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この雛人形が、館内に飾られている中で。一番古いなのだとか。
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〇大広間
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広い部屋がお雛さまに埋め尽くされていた(苦笑)
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しかし、「お祝人形」で面白いものもあった。

浦島太郎のお祝い人形
大正末~昭和初期購入
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山吹伝説のお祝い人形
太田道灌の話である。
大正末~昭和初期購入
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〇二階座敷・次の間
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〇二階客間
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天井板は屋久杉。
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細かいスリットの入った欄間
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和室部分の二階と一階をつなぐ階段。
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一階の和室部分の、外に面した縁側
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〇座敷・次の間・仏間
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仏間から次の間
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座敷
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付け書院は、ちゃんと外に張り出させている。
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最後に庭に出ました。
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さすが、国の十分に指定されているだけあって、素晴らしかった。
洋館のほうが、当時の新進気鋭な気分が充満している、エネルギーにあふれた感じで、とても良かった。

この後、すぐ近くのレストランで昼食後、川口元郷駅から鳩ヶ谷駅まで電車で移動し、日光御成道を歩いて川口文化財センター分館資料室に向かいました。


「日光御成道鳩ヶ谷宿」の記事を見る


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平渋沢栄一生家・記念館

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訪問日:2019年10月9日

歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に妻沼聖天山歓喜院に参拝し、その後熊谷市内で早目の昼食をとり、児玉の百体観音堂(さざえ堂)を見た後、ここに到着しました。

【平渋沢栄一生地】
埼玉県深谷市血洗島247-1

堂々たる、大きな屋敷だ。
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立派な門構え。
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立派な主屋
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 この屋敷は、渋沢家の住宅等として使われてきたもので、通称「中の家(なかんち)」と呼ばれている。
 渋沢一族はこの地の開拓者のひとつとされるが、分家して数々の家を起こした。「中の家」もその一つで、この呼び名は、各渋沢家の家の位置関係に由来するものである。代々当主は、市郎右衛門を名乗っていたが、古くは、新七郎(安邦)の名まで知られている。
 中の家は、代々農業を営んでいたが「名字帯刀」を許され、市郎右衛門(元助)のときには、養蚕や藍玉づくりとその販売のはか、雑貨屋・質屋業も兼ねてたいへん裕福であった。この家に、後に日本近代資本主義の父と呼ばれる栄一が生まれた。
 現在残る主屋は、明治28年(1895)、市郎により上棟されたものである。梁間5間、桁行9間の切妻造の2階建、西側に3間×3間の平屋部分等を持つ。また、主屋を囲むように副屋、土蔵、正門、東門が建ち、当時の北武蔵における養蚕農家屋敷の形をよくとどめている。
 栄一は、多忙の合間も時間をつくり年に数回はこの家に帰郷した。東京飛鳥山の栄一の私邸は、空襲によって焼失したため、この家は現在残る栄一が親しく立ち寄った数少ない場所といえる。
 また、中の家は、元治、治太郎たちの人材を輩出した。
 昭和60年からは「学校法人青淵塾渋沢国際学園」の学校施設として使用され、多くの外国人留学生が学んだ。平成12年、同法人の解散に伴い深谷市に帰属した。
 昭和26年、埼玉県指定史跡に指定。昭和58年、埼玉県指定旧跡「渋沢栄一生地」に指定替えがされた。
平成22年、主屋を中心とした範囲を深谷市指定史跡に指定。
 副屋の前には、渋沢家歴代の墓地がある。屋敷外の北東には、栄一の号「青淵」の由来となった池の跡に「青淵由来の碑」が建つ。南方200mはどには、この地、血洗島の鎮守である諏訪神社がある。

門から入ってすぐに、栄一の青年期の侍姿の銅像が立つ。
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渋沢栄一の生涯概要については、皆さんご存知と思うが、ここに記しておく。
江戸時代末期に農民から幕臣に取り立てられ、明治政府では大蔵少輔事務取扱となり、大蔵大輔、井上馨の下で財政政策を行った。退官後は実業家に転じ、第一国立銀行や理化学研究所、東京証券取引所といった多種多様な会社の設立、経営に関わり、二松學舍第3代舎長(現、二松学舎大学)を務めた他、商法講習所(現、一橋大学)、大倉商業学校(現、東京経済大学)の設立にも尽力し、それらの功績を元に「日本資本主義の父」と称される。また、論語を通じた経営哲学でも広く知られている。令和6年(2024年)より新紙幣一万円札の顔となる。また、令和3年(2021年)に渋沢栄一を主人公としたNHK大河ドラマ『青天を衝け』が放送される予定。

私は不勉強で、今回渋沢栄一に関する本2冊を求めて勉強させてもらったが、漠然と知っていた実業家としての栄一についても深く知ることが出来たが、幕末の頃の栄一と従弟たちの行動には驚倒した。
そのあらましを書いておく。

〇7歳時に従兄・尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の許に通い、四書五経、「日本外史」を学ぶ。
〇文久3年(1863)、尊皇攘夷の思想に目覚め、高崎城の乗っ取り、横浜の焼き討ちを計画。69名を集め決行寸前に、状況偵察に京都に派遣していた惇忠の弟、尾高長七郎(従兄弟)が帰着、京都の激動政情(公武合体派が尊王攘夷派を駆逐、大和の天誅組事件)を説明、説得により中止。
〇既に関八州の役人に知れているため、勘当の形で京都に出るが、志士活動に行き詰まり、江戸遊学(文久元年)の折に交際のあった一橋家家臣(御側御用掛)、平岡円四郎の推挙により一橋慶喜に仕えることになる。(別行動をしていた尾高長七郎が幕府に捕えられており救うためもあり)
慶喜は薩摩藩に先んじて「禁裏御守衛総督」「摂海防御指揮」を朝廷から命じられる。元治元年(1864年)平岡円四郎が暗殺される。栄一は次第に藩内で重きをなす。
〇募兵で藩の領地を見回ったときに着想、特産品の活用、藩札を大坂の商人と組んで信用を上げる等、藩の財政の改善に努め、勘定組の組織改革も提言、勘定組頭に就任。
〇主君の慶喜が将軍となり、幕臣となる。
〇パリで行われる万国博覧会(1867年)に、将軍の名代(慶喜の弟・昭武)の随員として御勘定格陸軍付調役の肩書で、フランスへ渡航。パリ万博を視察したほか、ヨーロッパ各国を訪問する昭武に随行する。将軍の弟ということで、フランスは何でも見せてくれた。海軍基地、製鉄所、ヴェルサイユ宮殿、ノートルダム寺院など。銀行家のエラールから、銀行の仕組み、株式会社、貨幣制度、有価証券などを学ぶ。軍人と銀行家が同じ立場で交流していることに感銘。フランスが変心(イギリスの横槍、薩摩藩暗躍)、600万ドルの借款契約が消える。栄一は昭武一行の滞在費用、欧州歴訪、留学費用捻出のため、オランダ貿易会社やイギリスの銀行から借金、フランスの公債購入や鉄道会社の株購入など資金を運用、かなりの利益を上げ、しのぐ。
〇慶応4年(1868年)5月、新政府から帰国を命じられ、帰国。
※渋沢喜作(成一郎):従弟
栄一と共に高崎城の乗っ取り、横浜の焼き討ちを計画。共に慶喜に仕える。大政奉還後彰義隊を 結成、頭取となる。慶喜が水戸に退いたので、上野での徹底抗戦を主張する天野八郎と分かれ、 振武軍を結成、官軍と「飯能戦争」を戦う。栄一の弟・平九郎が参謀であったが越生で戦死。喜作は榎本武揚と共に蝦夷地にて箱館戦争に参戦。明治時代は、栄一の仲介で大蔵省に入る。大蔵省を退職後は実業家として手腕を発揮した。八芳園の建物と庭園は、渋沢喜作が建設したものに、日立製作所の創始者・久原房之助が手を加えたもの。

お願いしていたガイドさんに説明をしていただく。

渋沢栄一が生まれたときの家。
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中の家の家系図
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栄一が家を飛び出したので、この家を守ったのは栄一の妹「てい」とその婿「市郎」。
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「てい」と「市郎」の長男・渋沢元治。
東京帝大の電気工学科を卒業、逓信省で電気事業・電気技術の管理業務に従事。
現在の日本の使用電圧を決めるにあたって、自分の身体を実験に使用して、家庭用には100Vと決めた人物。
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元治が東京で活躍したので、この家を守った二男の治太郎。
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渋沢元治の揮毫額「本立而道生」
論語のなかにある言葉で、「根本がしっかり立ては、その先の道はおのずから開けるものだ」という意味。
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座敷の様子
一番奥が、栄一が帰郷したときのために用意した部屋。
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住所の「血洗島」の説明。
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上皇ご夫妻の訪問の写真。
上皇になられることが決まった後なので、普通の服装で訪問されたとか。
美智子上皇妃だけでなく、代々皇妃の養蚕のご指導を渋沢家がしているそうだ。
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今回、1万円札に渋沢栄一の肖像が採用されたが、現在の千円札の際にも候補となったそうだ。
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これが栄一が帰郷したときのために用意されていた部屋。
床柱は、銘木「鉄刀木(たがやさん)」。
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藍玉を保存していた土蔵Ⅱ。
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大谷石を積んだ半地下室で藍玉の製造・貯蔵をしていた。
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土蔵の前には、藍が植えられている。
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土蔵Ⅳ
一階を奥座敷、2階を宝蔵に使用していた。
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楷の木
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前庭の池
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これで、渋沢栄一生地の見学を終え、続いて渋沢栄一記念館に向かった。

【渋沢栄一記念館】
所在地:埼玉県深谷市下手計1204

記念館は、巨人・渋沢栄一にふさわしい堂々たる建物。
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入口ロビー
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展示室は撮影禁止なので紹介できる写真は無いが、巨人・渋沢栄一を知るうえで貴重な資料がたくさんあった。
渋沢栄一の年表
高崎城を襲い、横浜の異人館を襲撃しようという血書。
日本で最初に設立した銀行「第一国立銀行」の威容。
国際交流の証しの青い目の人形
『論語とそろばん』
栄一を育てた従兄・尾高惇忠(富岡製糸場の初代場長)の事蹟
などなど

記念館の裏に、渋沢栄一の大きな銅像が立つ。
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渋沢栄一の銅像が見つめる故郷の光景。
あまり変わってはいないという。
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(了)


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平等山宝金剛寺成身院百体観音堂(さざえ堂)

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所在地:埼玉県本庄市児玉町小平597
参拝日:2019年10月9日

歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に妻沼聖天山歓喜院に参拝し、その後熊谷市内で早目の昼食をとってから、ここに到着しました。

現在は本庄市観光農業センターが管理しており、ここの駐車場に大型バスを停めて小休止のあと、お願いしてあったガイドさんの案内で、参拝しました。

まず、さざえ堂とはどんなものか、簡単に説明しておきます。
さざえ堂は江戸中期に忽然と出現しました。最初のささえ堂は江戸本所羅漢寺に建てられたものである。享保1年(1716)ごろ羅漢寺の住職象先によって構想され安永9年(1780)に完成。さざえ堂は江戸市中に大変なブームを巻き起こし、名所図会、錦絵などでその様子を今に伝えている。残念ながら羅漢寺のさざえ堂は地震で損壊して現存していなくて、羅漢寺も治時代に目黒に移転している。
 以降、関東以北を中心にいくつもの類似するさざえ堂が15から20ほど建築された。今でもさざえ堂はいくつかは残っている。この百体観音堂の他に、群馬県太田市の曹源寺、福島県会津若松市の正宗寺等が現存している。また都内に酉新井大師に三匝堂(栄螺堂)があり、堂の内部は初層に本尊の阿弥陀如来と八十八祖像、二層に十三仏、三層に五智如来と二十五菩薩を祀ってあるそうだが、内部は非公開である。

観光農業センターから、30mほど階段を上がっていくと百体観音堂(さざえ堂)に着く。
本来は仁王門も残っていて、そこから参道があるのだが、この日はカットし、いきなり観音堂に。
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ここの百体観音堂は、何を願って作られたのだろう。
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百体観音堂は、天明三年(1783)七月八日(旧暦)、浅間山の大噴火により火砕流・岩層なだれと、それによって引き起こされた洪水で、千五百人以上の人が亡くなり、多くの遺体が利根川を流れていきました。戸谷塚(伊勢崎市)では村民総出で七百人もの連体を収容し、埋葬し、地蔵尊を建立したと伝えられた。
成身院六十九世元真は、死者のために近隣の僧と共に法華経を一万部読諭し、百体観音堂を発顧した。弟子の元映によって寛政四年(1792)に完成した。しかし明治21年(1888)火災により観音堂、像は焼失したが、大鰐口だけは奇跡的に焼損をまぬがれた。明治23年(1910)に再建し、現在にいたる。

 百体観音堂の外見は二階建てですが、内部は三層になっている。一層は中央に聖観音を本尊に祀る護摩堂があり、その周りを秩父三十四観音札所の本尊が並んでいる。細い急な階段を上ると二層には三仏(阿弥陀如来像、釈迦如来像、薬師如来像)が祀られている。その周りを坂東三十三観音、三層には西国三十三観音が安置されている。
 そこを「右遶三匝(うにょうさんそう、時計回りに三巡する仏教の礼法)」して百体の観音様にお参りし、別の通路を降りてきます。巻貝の内部に似ているということで、「栄螺(さざえ)堂」といっている。

さざえ堂の長所としては、上がっていく通路と、下る退路が、別々に独立していることで、上がる人と下る人が干渉しないで済むので、落ち着いて参拝出来る。

百体観音堂の外観は二層。
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立派な彫刻がされている。
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大鰐口をたたく前にこれを踏む。
四国八十八ケ所霊場の砂が納められている。
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最初建てられたときからの大鰐口。
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入口は横にある。
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本尊の聖観音は、暗くてよく見えない。
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一階は、秩父札所三十四観音が並んでいる。
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観音は、全て札所の本尊と同じお姿をしていて、素晴らしい造りである。
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二階に上がる階段は、狭くて急だ。
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二階の中心に、阿弥陀三尊が安置されている。
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薬師如来像(左)寛正7年(1466)
阿弥陀如来像(中)応永12年(1405)
釈迦如来像(右)応永12年(1405)
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阿弥陀三尊が安置されている室を囲む壁に沿って、坂東三十三観音霊場の本尊と同じお姿の仏像がが置かれている。
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三階に上がる、狭くて急な階段。
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三階には、西国三十三観音霊場の本尊と同じお姿の仏像がが置かれている。
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百観音全部を見終わり、降りる階段は登りの階段とは別に用意されていて、人が交錯しないようになっている。
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一階の出口から出て、拝観は終了。
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百体観音全てを動画で撮ってきたので、それをユーチューブにアップしてあります。
下記「その動画を見る」をクリックすれば、見ることが出来ます。

その動画を見る



札所百ケ所全ての本尊ど同じかたちの仏像を揃えるという、そのエネルギーには圧倒される。
それも、江戸や大阪という大都市にあるならともかく、田舎の農村地帯である。
昔の宗教にすがる気持ちというものは、すごく切実なものだったのだと、改めて思った。

再びバスに乗り込み、深谷にある「渋沢栄一生家」と「渋沢栄一記念館」に向かった。


次の「渋沢栄一生地・記念館」の記事を見る



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妻沼聖天山歓喜院/埼玉県熊谷市

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所在地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2019年10月9日

歴史クラブの秋季定例見学会として、妻沼聖天山歓喜院、児玉百体観音堂(さざえ堂)、渋沢栄一生家・記念館を訪ねました。
最初に訪ねたのが、この妻沼聖天山歓喜院です。

ここは、延喜式内社白鬚神社の故地ということで、個人でしている「武蔵国式内社めぐり」で、2017年1月に既に訪れており、その記事があります。

その記事を見る


今回は、その安心感もあり、そんなに写真を撮ってないので、全体像は上の記事を参考にしてください。

到着して、すぐに奥殿のガイドさんを予約してあったので、奥殿から見た。

下の境内図で「御本殿」と書かれている建物の後ろに奥殿がある。
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【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。

奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。

第8代吉宗の贅沢禁止令で、このような建物は建てられなくなるが、ここは既に建築半ばだったので、御目こぼしにあずかり、このような建築の最後の例となった。

2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。

ガイドさんの案内で拝観する。
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何度見ても感心してしまう。
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これが、わざと塗ってない部分を残して、まだ未完成だとしているところ。
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ものすごいきらびやかな彫刻で、ため息が出てしまう。
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猿の彫刻は面白いが、前回全部撮ってアップしてあるので、今回は省略。
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今回は、「唐子遊び」の彫刻を全部撮った。
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奥殿でのガイドが終わると、引き続き拝殿の彫刻の説明もしてくれた。
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ここの彫刻の見どころも、今回はきちんと撮らなかったので、前回の記事で確認してください。

前回の記事を見る


ここも華麗な彫刻がされている。
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ここでガイドは終了、バスを停めた場所は貴惣門の横なので、そこまで自由時間内を各自三々五々境内を見物しながらバスに戻った。

ここは日本三大聖天さまの一つだそうだが、浅草の待乳山聖天院と同様、大根の紋となっている。
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仁王門
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狛犬が居るのは、江戸時代の神仏習合のなごり。
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齋藤実盛像
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この像は、髪を黒く染めている場面を描いているが、それは以下の話があるからである。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。
この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。
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貴惣門
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「皆與願満足」という額がかかっている。
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横が、破風を三つ重ねた珍しい形式。
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ここに置かれているのは、持国天、多聞天の像。
残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。

持国天
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踏まれている邪鬼
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多聞天
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踏まれている邪鬼
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本殿側の彫刻が素晴らしい。
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これで、ここの参拝を終了して、近くで早目のお昼を食べてから、児玉の百体観音堂(さざえ堂)に向かった。



児玉・百体観音(さざえ堂)の記事を見る



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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