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森林公園イルミネーション

20181227

25日に、カミさんと二人で観てきました。
東松山インターで降りて一般道を走り、この期間夜遅くまで開いているという中央口駐車場に車を停めて、中央口から入りました。
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「Welcome」のアーチのところでは、シャボン玉を飛ばしていた。
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海賊船が目立った。
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ガラスのすすきが綺麗だ。
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「竹あかり」
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太い竹に、たくさん穴を開けて中に光をセットしてある。
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水面に映って綺麗だ。
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光の階段
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階段の上から下を見る。
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光で縁取られたスロープを上がっていく。
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「森の妖精モーリーと仲間たち」
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光のトンネル
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ハートのベンチと天使の羽
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行灯アートと彫刻
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「ミンチにして食べちゃうぞ~~」なんて脅してくる、色々な色に変化する魔女!
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林の中に並んで居る行灯アート
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水の流れのようなカエデ園のイルミネーション
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キノコや森の動物たち
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お腹が空いてしまったので、森の中にある茶店で「きのこうどん」を頼んだ。
ちょっと小腹を満たして、後でレストランなんて思っていたが、量がタップリで驚いた。
温かくて美味しくて満足しました。

来た道とちょっとずれた道を戻ります。
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大きな顔のイルミネーションが並んで居て、前を通ると話しかけてくる。
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入り口のところまで戻ってきました。
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広い森をイルミネーションで飾ってあり、とにかく広かったのが印象的。
童話的な世界だったので、のんびりと歩き回って、とても楽しかった。



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高麗川流域の地形と地質探訪

20180612

5月19日に、「野外調査研究会」主催の見学会に参加しました。
最近、地球の歴史にハマっています。

10時に八高線高麗川駅に集合。
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コースは高麗神社・高麗家住宅⇒聖天院・メランジュ露頭・地形展望⇒栗坪の不整合露頭⇒飯能礫層の大露頭
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高麗川駅から歩きだして25分くらいで、高麗川に架かる出世橋に到着。
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高麗川
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橋の名前が面白い字で書かれていた。
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高麗神社に到着。
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神職の説明を受ける。
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高麗神社については、既に記事があります。

その記事を見る


樹齢400年の枝垂れ桜の下の高麗家住宅
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高麗家住宅は、17世紀の古い建築様式のもの。
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高麗神社境内で、持参の弁当で昼食、休憩。

高麗神社から聖天院に向かう途中、大きな珪化木が民家の庭に置かれていて、吃驚!
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聖天院に到着
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まずは、高麗王霊廟に。
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高麗王若光は、天智天皇5年(666年)10月26日条に、高句麗から日本に派遣された使節の一員に名があり、高句麗が滅んだため日本に留まり、大宝3年(703年)4月4日条に、従五位下高麗若光に王(こにきし)のカバネを与えられる。
霊亀2年(716年)、武蔵国に東海道7ヶ国から1799人の高句麗人を移住させ、高麗郡を設置しているが、その中心人物となり亡くなったあと、高麗神社の祭神として祀られた。

高麗王若光の墓
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一対の石灯篭が置かれているが、笠と台の石はチャート、火袋は「溶結凝灰岩」である。
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この溶結凝灰岩だが、縦を横にして使用している。
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入り口左右に、一対の羊の石像が置かれている。
中国や朝鮮半島では、お墓や陵墓を守護し、霊を鎮魂する、「鎮魂獣」の一つとして、羊の石像が陵墓に置かれるという。
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この羊頭がアンモナイトに似ていて、アンモナイトの語源にぴったりだと説明があった。
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アンモナイトの化石は、ギリシアの羊角神アンモーンに鉱石名の語尾 -ite を添えて ammonite の名に造語された。

羊角神アンモーン
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聖天院の本堂は、高いところにあり、結構石段を上がる。
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本堂前の見晴台から「高麗丘陵」を望む。
大宮台地と同じく、ほとんど凹凸が見られない。
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境内に置かれている詩碑で、小断層と級化層理を見る。
級化層理の幅から見て、この石は上下が逆になっている。
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【聖天院のメランジュ露頭】

いよいよ、本堂裏のメランジュ(混在岩)露頭です。
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石灰岩露頭
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右から、石灰岩、泥岩、チャートのメランジュ
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石灰岩と泥岩
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泥岩
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チャート
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泥岩中の石灰岩・チャートのブロック
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【栗坪の不整合】
獅子岩橋上流の高麗川右岸に、3つの異なる地質時代の地層が二つの不整合面をはさんで重なる露頭がある。

対岸から見るため、道なき道を行く。
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対岸に見えているのが、「栗坪の不整合」。
下から、高岡層上部層(白亜系)、飯能礫層下部層(鮮新-更新統)、武蔵野段丘礫層(上部更新統)
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地質時代
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不整合面の下が高岡層上部層(白亜系)、上が飯能礫層下部層(鮮新-更新統)。
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不整合面の下が飯能礫層下部層(鮮新-更新統)、上が武蔵野段丘礫層(上部更新統)
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高麗川
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河原に、砂岩泥岩互層(高岡層上部層)の露頭
垂直に近い高角度で傾斜している。
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ここから、高岡橋に出て、しばらく高麗川沿いに歩く。
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天神橋まで来た。
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高麗郷古民家(新井家住宅)は、行程が遅れているので省略された。
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あいあい橋
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この日は暑かったので、あいあい橋の下で子供たちが川に飛び込んで遊んでいた。
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日和田山がきれいに見えた。
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【飯能礫層大露頭】
ドレミファ橋から上流の高麗川右岸には、ひときわ大きな黄褐色の崖が続いている。
この崖は、礫層・砂層・シルト層4からなり、「飯能礫層上部層」と云われている。
第四期の初めころに八王子-高崎構造線の運動によって厚く堆積した河川堆積物。

ドレミファ橋を渡ったところにあり。
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ここが間近に見られる場所
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飯能礫層
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河原を歩いて飯能礫層を観察していく。
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広い河原の片方が飯能礫層の崖がむき出しになっている。
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色々な表情の飯能礫層が見られる。
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最後に河原の石を集めて、どんな石か鑑定。

緑色岩
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砂岩
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千枚岩
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以上で、終了。
西武池袋線「高麗」駅まで歩いて、帰途についた。



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薬師堂特別公開

20170507

この薬師堂には、薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩、十二神将が納められているが、秘仏ということで今まで拝見することは出来なかった。

今回、本年2月1日付で狭山市指定文化財となったのを機に、「花祭り」に合わせて、本日7日だけ特別公開された。

それで、拝観に訪れました。

いつも閉ざされている薬師堂の扉が開き、花祭りと拝観に人々が集っていました。
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花祭りのお飾り。
お釈迦さまに甘茶をかけて、甘茶のサービスを受けて、甘茶をいただいた。
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お堂の中には、文化財の指定を受けた薬師如来坐像、日光菩薩、月光菩薩、十二神将がお厨子の中に納まり、その他にも仏像が4体安置されていました。
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堂内に上げていただき、諸仏を間近に拝観することが出来ました。
文化財指定の薬師三尊と十二神将は素晴らしいものでした。
薬師如来坐像が、本体は黒で仕上げられ、蓮華座と薬壷のみ金箔で仕上げられているのが、珍しい。
日光菩薩、月光菩薩は金箔仕上げ。

その他にも仏像が4体あり、これは今まで情報が無かったので、拝見できてよかった。

また、堂内に穴の開いた石がたくさんあった。
これは徳林寺の子育地蔵尊が、別名を成円地蔵といい、明治初期に廃寺となった成円寺にあったものを徳林寺に移したもので耳の地蔵といわれる「穴あき石」の伝説を持っているのと同様に、耳が良くなるようにとの願掛けだと思われる。
ここの薬師如来には目の病気にご利益があるとのお話だが、耳にも効くということだったのか、薬師三尊の他に仏像が4体あったので、そのどれかがそういう御利益のある仏像だったのかも知れない。


ここで、この薬師堂に関する歴史を挙げておきます。

この薬師堂の本尊の薬師如来は14世紀に当地を開いた金子国重の守護仏といわれています。
金子氏は武蔵七党の村山党に属し、鎌倉時代初期の武将金子十郎家忠の子孫である国重は、元弘3年(1333)に鎌倉幕府の執権だった北条高時に味方して敗れたため、金子領に帰り三ツ木姓に改めたといわれています。
この薬師様は「東方の薬師さま」といわれますが、それに関しては次の様な伝説が残っています。
三ツ木国重が金子領三ツ木に住んでいたところ、国重の守護仏である薬師如来が夢枕に立ち「国重心配するな、汝の家より六十間隔てる午未(うまひつじ、南西)に当る草原の中に鎮座しているぞ、安心せよ」とのお告げがあり、その場所から薬師如来を見つけて安置しました。
そして再び薬師如来が夢枕に立ち「三ツ木から東方の地に居を移せ」とお告げがあったので現在地に移住しお堂に薬師如来を祀り、この地を開拓して故郷と同じ地名である三ツ木村と名付けたといわれます。
明治の郡区町村編制法の施行に伴い、明治12年(1879)に入間市の三ツ木を西三ツ木、狭山市の三ツ木を東三ツ木と称するようになりました。

〇木造薬師如来坐像
このお堂に祀られている本尊の薬師如来は、高さが28cmと小さいものです。
寄木造り、玉眼、肉警(にくけい)、螺髪(らほつ)、眉間に自重(びやくごう)という特徴を持つ如来像で、お顔は慈悲に満ちたやさしい顔立ちをしています。
薬師如来は日光菩薩と月光菩薩を従えた薬師三尊形式で祀られており、その功徳が日夜を問わず人々に届くようにという意味を表しています。
薬師如来の春属(けんぞく)として十二神将も祀られており、15体の仏像が安置されている珍しいお堂です。
当薬師堂縁起ではこの本尊は秘仏とされ、奈良時代に行基が一刀三礼で刻んだ尊像といわれていましたが、昭和3年(1928)に調査が行われました。
その結果、底の部分に「応永6年(1399)9月18日 作者常仁」と墨書銘文のあることが発見されました。応永6年銘の仏像は、市内では古い時代のもので大変珍しいものです。
この薬師如来には目の病気にご利益があるそうで、国重が草原で薬師如来を探し当てたとき「あまりおれを見るな、見ると目がつぶれるぞ」といったそうです。これから目にご利益があるとされたと思われます。



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引又河岸・いろは樋/埼玉県志木市

20170127

1月18日に田子山富士塚を尋ねたあと、せっかくなので付近の史跡を訪ねることにして、この日は「引又河岸跡」と「いろは樋関連史跡」を見ることにしました。

「しきし歴史まっぷ」から
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田子山富士塚から新河岸川沿い少し歩いていくと、「引又観音堂」があった。

【引又観音堂】
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【史跡 引又河岸跡】
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舟運と引又河岸
 江戸時代のはじめ(1640年頃)から新河岸川を利用した舟運がはじまり、川越と江戸を結んで、船で荷物が運ばれました。引又河岸ができ、市場も開かれ、宿場町でもあり、奥州街道(脇往還…バイパスのようなもの)などの道がとおる便利な場所だった引又宿は、大変にぎわうようになりました。
 引又河岸は、明治7年(1874)からは志木河岸とよばれ、重要な役割を果たしました。また、宗岡側には、宗岡河岸がありました。いずれも、新河岸川の改修と鉄道の発達によって舟運が衰退する昭和初めには、その役目を終えました。(「しきし歴史まっぷ」の説明から)

当時の引又河岸
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新河岸川を行く高瀬舟
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水神宮碑
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現在の新河岸川
上流
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下流
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そこから少し川沿いに行くと、道は左にカーブして「市場坂上」交差点に出るが、その直前に「いろは樋大桝」がある。
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【いろは樋大桝】
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「市場坂上」交差点を挟んで向かいに「いろは樋の模型」があった。
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【いろは樋の模型】

ガラスケースの中にジオラマ模型があり、分かり易い。
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説明図
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当時の写真
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説明
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帰って調べると、江戸時代に書かれた、斎藤鶴磯の『武蔵野話』の挿絵にも載っていた。
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ジオラマ模型
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更に、ほぼ原寸大の模型が置かれている。
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川の上に川を通すという、昔の人智に感心するが、その偉業を子供たちに、私たちに伝えようと、このようにジオラマや模型を設置した人達の熱意に対して、感服しました。

(了)



梅宮神社

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鎮座地:狭山市上奥富507

まず、江戸時代に編纂された『新編武蔵武蔵風土記稿』に載っている図によれば、現在の赤間川の位置に神橋があり、そこから真っ直ぐに参道が延びていたことがわかる。
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この場所に、かっては神橋があった。
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江戸時代には、ここから真っ直ぐに参道があった。
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ここに「舗石供養塔」があるが、天保12年(1841)造立のものなので、ここからの参道に舗石を奉納した記念の碑であろう。
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一の鳥居
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由 緒:
 当神社の創建は古く承和(じょうわ)5年(838)といわれ、京都市右京区の桂川沿いに鎮座する梅宮大社から分祀したものです。広瀬神社と並んで市内で最も古い神社の1つです。
かっては奥富のほか三ツ木、沢、田中、峰の総鎮守であったとのことです。
 また当神社に遺されている鰐口の銘文から当初は西方滝(にしかたたき)、現在の狭山清陵高校付近に鎮座していたと推察されます。その後、天文年間(1532~1555)の中頃に社殿を焼失したため現在の地に移ったといわれ、氏子も次第に近隣に移住してきたものと思われます。
なお、当神社は酒造、安産、林業、農業、交通守護の神として崇拝されています。

二の鳥居
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二の鳥居をくぐると、参道には石灯篭3組、手水舎、狛犬が並ぶ。
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最初の石灯篭一組は、元文2年(1737)に「上奥富村」と「下奥富村」の氏子によって奉納され、「梅宮大明神御寶前」と刻まれている。
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手水舎
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狛犬(奉納年不明)
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子犬と手が離れてしまっているのが、ご愛嬌(笑)
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拝殿
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拝殿内部
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ここで、拝殿内などにある三つの市文化財について説明。

○鰐口(わにぐち)
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円形で偏平な形をした銅製品で、下部には横長の口があります。社殿や仏殿前の軒下につるされ、布で編んだ綱を振って打ち鳴らす仏具の1つです。
当神社の鰐口は昭和51年(1976)4月1日に狭山市指定文化財・工芸品として指定されました。
この鰐口は、かつては当神社の別当寺であった梅宮寺(廃寺)が所有していました。直径は14cmと小型で、しかも片側が欠損していますが、残された部分に応永33年(1426)5月3日の銘があり、また彫られた銘文からかつて梅宮神社は奥留の西方滝と呼ばれる場所にあり、当時は入間郡の一部を入東(にっとう)郡と称していたことがわかるなど、奥富地区の歴史を知るうえで貴重な資料となっています。

○神号(しんごう)
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梅宮神社と書かれた神号は、右から左に陽刻したもので、文字は金泥で書かれています。大きさは縦が43.7cm、横が115.6cmのケヤキ材で出来ており、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・書跡として指定されました。
筆者は亀田鵬斎(かめだほうさい)で、宝暦2年(1752)に江戸の生まれとされていますが、一説では上野国ともいわれる儒学者です。折衷学派と呼ばれ、孔子の説を中心に据えながらも自身で学んだ事や判断を重視するものです。23歳の時に私塾を開設して多くの旗本や御家人が入門しましたが、鵬斎自身は生涯仕官をしませんでした。著書には「論語撮解(さっかい)」などがあります。
また江戸時代を代表する「書」の名手で、特に草書は虹矧(みみず)書きと呼ばれ、近世を通じての名手ともいわれています。欧米の書の収集家からは「フライングダンス」と呼ばれています。
 鵬斎の書による神額がいつごろ書かれたか、どうして当神社にあるのかは不明です。書が評判となるのは鵬斎が荻生狙彿(おぎゅうそらい)を排撃して朱子学を批判したため、「寛政異学の禁」で弾圧を受けた以後、旅先の出雲崎で良寛に出会ってからなので、神号の書跡も晩年の作(没年は文政9年(1826))と推察されています。

○桃園三傑図
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拝殿に掲げられている桃園三傑図(とうえんさんけつず)は、中国の三国時代(3世紀)の初めに蜀(しょく)の英雄劉備玄徳(りゆうびげんとく)と、勇猛な武人として知られる 関羽、張飛の2人が、桃の木の下で義兄弟の盟約を結ぶさまを描いた絵画です。この絵画の大きさは縦125cm、横180cmで、昭和52年(1977)9月1日に狭山市指定文化財・絵画として指定されました。
絵の中央に酒肴(しゆこう)を画き、その回りの中央上に玄徳、向かって右に関羽、左に張飛を描いています。一般的には「桃園の誓い」とか、「桃園結義」と称されています。
作者は雲谷派(うんこくは)の画家、堤等琳(つつみとうりん、号を雪山(せつざん))で江戸時代後期の人です。同派は雲谷等顔(うんこくとうがん)を開祖とする江戸時代の画派で、主に中国から北九州地方を活躍の場としていました。雪舟の画法を忠実に守り、真に力強く押しつけるような墨線(ぼくせん)や墨色に特徴があり、その特徴はこの三傑図にも見られます。

拝殿には、こんな額もあり、猫の描写が秀逸。
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拝殿の背後に、覆い屋で覆われた本殿がある。
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拝殿と本殿とは橋で結ばれている。
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本殿は彫刻が立派な流れ造り。
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前扉には、神紋の桃が彫刻されている。
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海老虹梁と、その上の「手挟み(たばさみ)」の彫刻も良い。
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向拝柱の木鼻彫刻が素晴らしい。
獏の牙の長いこと!!

向かって左側
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向かって右側
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鳥の彫刻が三面に。
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床下束の木鼻の彫刻は亀となっている。
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本殿のすぐ背後、玉垣の中に神木。
枯れた太い幹から、それでも生きた枝が出ているのがありがたい。
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ご祭神(括弧内は別名):
・瓊々杵尊(大若子神)
・彦火々出見尊(子若子神)
・大山祇神(酒解神さかとけのかみ)
・木花咲耶姫命(酒解子神)

ちなみに、本社京都の梅宮大社のご祭神は酒解神・酒解子神・大若子神・小若子神となっています。
狭山市の梅宮神社の場合は、わかりやすい神名にしているわけです。

※当神社の甘酒祭りは、毎年厳冬の2月10日・11日の2日間にわたり執り行われます。甘酒祭りは全国的に行われており、珍しいものではありませんが、「頭屋制」という関東地方では他に見られない珍しい運営形態で1200年前の平安の昔よりそのまま継承して挙行されているところから、平成4年(1992)3月11日に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。

このとき、祭事は領主、神官、役人を正座とする饗宴型で、一献ごとに優雅な謡を謡われます。
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その謡の一部を紹介しておきます。
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甘酒祭りの様子は、既に記事にしてあります。

その記事を読む



境内社は、八坂神社、蚕影神社、愛宕神社、三峰神社、山の神社、御嶽神社、松尾神社、富士浅間神社、阿夫利神社があるとの情報ですが、はっきり確認できるのは石碑の松尾神社、富士浅間神社、阿夫利神社のみです。

他は表示が無いため、どれがどれかは不明です。
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松尾神社(石碑)
 松尾神社の石碑は京都の松尾大社を勧請したもので、明治13年(1880)に建てられました。梅宮神社とともに酒造り神として有名です。全高は170cm、幅が68cmです。
祭神は大山咋神(おおやまぐいのかみ)で、台座正面には入間川村の長木屋銀次郎、上奥富村の長木屋吉蔵と白井藤太郎の計3名の清酒醸造人の名前が刻まれています。
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阿夫利神社
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【富士塚】
社殿の向かって左側に富士塚があります。
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ほどほどの高さがあり。
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登り口
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二合目の合目石
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参道は、わりと広い。
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五合目に「小御嶽神社」碑
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石段を上がります。
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「書行藤覚(長谷川角行)」と「烏帽子岩入定 食行身禄」碑
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頂上の「富士嶽神社」
明治13年建立でした。
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頂上の石垣
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富士講碑
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富士塚のまわりは林になっていて、当然富士塚からは富士山は見えない。

しかし、一の鳥居のところからなら、綺麗に富士山が見えます。
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(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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