宮沢賢治歌碑/秩父・野上駅

20130327

26日に鉢形城で桜を撮ったあと、秩父鉄道野上駅に向かいました。
この駅のところにある宮澤賢治の碑を撮るためです。

宮沢賢治が初めて東京に出てきたのは、大正5年3月20日で、このときは盛岡高等農林学校の修学旅行でした。
そして、同じ年の7月末、再度上京してドイツ語講習を受けており、9月に岡高等農林学校の秩父への地質旅行に合流しました。
大正時代、岩手県の盛岡高等農林学校では、毎年のように秩父へ地質旅行を実施していました。
大正5(1916)年には当時、同校の2年生だった宮沢賢治が、翌年には賢治の無二の親友となった保阪嘉内が関豊太郎教授に引率されて、長瀞をはじめ秩父地域を訪れました。
長瀞での賢治については、既に記事にしています。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1110.html

この旅行については、萩原昌好という方が詳しく調査され、『宮沢賢治「修羅」への旅』(朝文社、平成6年)で、次のように推定されています。
○9月1日:午後7時発の列車で盛岡発。
○9月2日:在京中であった賢治は上野駅で合流し、熊谷へ。
○9月3日:熊谷から寄居を経て国神へ。
○9月4日:国神から馬車を利用し、小鹿野へ。
○9月5日:小鹿野から三峰山へ。小鹿野から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月6日:三峰山から秩父大宮(現秩父市)へ。
○9月7日:秩父大宮から本野上を経て帰途に。秩父大宮から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月8日:盛岡到着。

このなかで、「本野上」とありますが、現在の野上駅は開業当初は本野上駅という名前だったのです。
秩父への旅行を終え、7月からの東京滞在へも終わりを告げて、盛岡に帰ろうとする時でした。
だから賢治の歌は、感傷的な歌になっています。
 「盆地にも 今日は別れの 本野上 駅にひかれる たうきびの穂よ」

秩父鉄道の野上駅です。
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駅の看板が傾いていないか?
筆頭株主の米投資会社サーベラスから路線廃止を迫られている動揺か?
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駅の待合室には、こんな看板がありました。
つつじの岩根山と七草寺の最寄駅ですね。
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賢治の碑は、駅舎横の桜の木の下にありました。
ここの桜は、まだまだですね。
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碑のところから、駅のホームの畑を見るともなしに見ると、あれっと思いました。
もしかして、とうきび、すなわちトウモロコシの畑かな?
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ホームに乗客が入ってきたので、電車が来ることがわかったので、待っていて碑と一緒に撮りました。うまく撮れましたね(嬉)
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脱線事故を起こして、休止していたSLがまた復活したというニュースが、このあいだ新聞に載っていましたが、この日は平日なのでSLはいくら待っていても来ません(笑)
この碑とSLを一緒に撮ったら最高ですね。


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賢治最初の上京(2)/宮沢賢治の東京における足跡

20130318

15日(金)に行った、「賢治最初の上京(1)」の続きです。
二本榎の一里塚から歩き出します。
奥田弘氏の本では、こう書かれている。
今は一本になってしまった二本榎の一里塚の跡にたつと、古い煉瓦塀に囲まれた印刷局滝野川工場が見えてくる。束京高等蚕糸学校の跡だ。この煉瓦塀に沿って行きつもどりつするのであるが、新しい知識に胸をふくらませたであろう賢治たちの姿はもうしのぶよすがもない。

印刷局滝野川工場
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福島泰樹氏は、こう書いている。
大蔵省の印刷局もいまは印刷局病院に姿を変え、煉瓦塀は腰の低いコンクリートの外壁へと姿を変じた。すべてを破壊し、轟然と過ぎ去ってゆく「時」は暴力であるのかもしれない。いま、高層ビルに変じるであろう建築工事中の病棟を見上げながら、奥田弘の苛立ちを羨ましく思う。大正五年、賢治が目の当たりにした煉瓦塀は健在であったのだ。

奥田弘氏が訪ねた時には、まだ煉瓦塀が残っていた。福島泰樹氏は、それが腰の低いコンクリートの外壁に代わってしまっていることを嘆いている。
現在はどうか?
また変わっていた。開放的な鉄かアルミの柵に変じていた!!
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隣が印刷局東京病院です。
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大蔵省印刷局病院の、これまた広大な敷地が元「高等蚕糸学校」の跡地です。賢治一行は農事試験場を訪れる前に、高等蚕糸学校を見学したのでしょうか。王子からの道順からたどってゆけばその順になります。
通りに面した痛院の外壁のところに、「東京高等蚕糸発祥之地」の記念碑があります。
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農事試験場も蚕糸学校も、明治政府の威信をかけた事業であった。
明治二十九年、「蚕業講習所」と改称され、本格的な学校としての機能を果たします。すなわち本科二年、別科六ケ月、加えるに研究科も設置され、前途洋々たる青少年たちが西ヶ原に馳せ参じた。
明治三十人年には、入学資格も中学卒業程度となり、修業期間は三ケ年となる。大正三年、「東京高等蚕糸学校」と改称され、養蚕科、製糸科、製糸敦婦養成所が置かれた。

そして、その隣は「北区滝野川公園」で、ここが「西ヶ原農事試験場」跡です。
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公園のメイン・ロード。右手の建物は「東京北区防災センター」、奥が体育館。
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明治になつて貝塚が発見されたそうで、遺跡の説明もあります。
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福島泰樹氏は、こんなふうに書いている。
公園の土の感触を楽しんでいると、せせらぎの昔。林のこ中の人工庭園の中を水は音をたてて流れてゆく。小鳥の噛りとせせらぎが入り交じり、目を瞑ると頭の中を、救急車であろうか、サイレンが遠ざかってゆく。「シラカシ」、「コナラ」……。木に付けられた標識を見みやりながらせせらぎを抜ける。体育館手前の空間には、これまた人工の滝が音をたてて激しく落下している。

私が訪ねた時には、水は流れておらず水路も人口滝も干上がっていた。
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その人口滝の奥に、跡地に建てられた記念碑があります。
敷地内の囲いの外に、垣根と植え込みを設け、その中に「農業技術研究発祥の地」という巨大な自然石と、傍らの小ぶりの自然石に、由来と「国立試験研究機開の筑波研究学園都市への移転に伴い この地での研究を終わる、「西ヶ原」 の栄光の不滅を祈念しここに記念碑を刻む」とあります。
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種芸、農芸化学、病理、昆虫、煙草、園芸部に加え、「地質調査所土性課」が移されてきたのは明治三十人年。賢治が目を皿にして注視したであろう当時の資料は、筑波に保管されているのでしょう。

広大な原野だっただけあって、公園も、消防署にしても、体育館にしても実にゆったりと建てられていますが、当時の農事試験場をしのばせる景観は残ってないですね。

碑に向かって右側の景観
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碑に向かって左側の景観
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碑の正面の景観。歩いてきた本郷通りの方向です。
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園内の光景。ほんとにゆったりとした感じ。
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ベンチに腰を下ろして休みながら、当時の宮澤賢治のことを思った。
賢治が生まれた明治29年には、三陸地方を大津波が襲い、賢治が誕生した8月には、陸羽大地震が花巻を襲っている。そして冷害が東北を相次ぎ襲った。
当時疲弊していた、東北の農村を立て直す意欲に燃えた宮澤賢治だったであろう。

農事試験場跡を出て、私は上中里駅に行った。
というのは、奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、王子から西ヶ原に歩いただけでなく、上中里駅から西ヶ原を訪ねた時のことも書いているからである。

奥田弘氏の文章。
わたしは、二度ほど、この足跡をたずねた。初めは、上中里駅から行った。切り通しの、ゆるやかな坂道を登り、八幡太郎義家の鎧を納めてあるという平塚神社を右に見ながら、西ヶ原二丁目の停留所前に立った。東京では、珍らしくなった蝉の声が、神社の境内から聞えていた。右折すると間もなく、古びた鉄筋の二階建てが見える。それが農事試験場である。今は、農林省農業技術研究所になっている。

福島泰樹氏の文章。
坂の上がり口にある「蝉坂」の由来に目をやる。なるほど「蝉坂」は「攻め坂」の転批、中里村一帯は古戦場であったのだ。この坂の上にあった平塚城(室町期) の合戦を彷彿する地名だ。「現在の坂道は昭和十人年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です」。
 右手に平塚神社の境内を見上げながら坂をのぼってゆく。豊島氏の居城跡、源義家に起源を発する古い神社だ。坂をのぼりきると本郷通り(日光御成道・岩槻街道)にぶつかる。御成道は本郷追分で中山道から分岐し、滝野川、王子、赤羽、岩淵、川口、鳩ヶ谷を経て岩槻に至る道だ。

上中里駅
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駅前に「飛鳥の小径」という掲示板があった。飛鳥山公園を中心とする散歩道の案内だ。
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これが「蝉坂」
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途中に平塚神社への入り口がある。平塚神社境内は坂の上と同じ高さの平面なので、これだけ高低差があることがわかる。台地の先端を平塚城としたことがよくわかる。
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坂を上りきると、右手に平塚神社正門があり、そこに平塚城跡の説明がある。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城だったが、文明十(1478)年、大田道灌によって落城しています。
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平塚神社
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狛犬が立派だった。
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賽銭箱の日の丸の扇が源義家を偲ばせる。
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福島泰樹氏の文章によると。
神社の角を石の囲い沿いに右に曲がると、「平塚亭/つるおか」の看板が目に飛び込んでくる。
この春、農事試験場跡を訪ねた私は、店に立ち寄ってお茶を御馳走になっている。仕事着の白い上っ張りを羽織った色白で端整な顔をした主人は、私の質問にこんなふうに応えてくれた。
「店の創業は大正四年で、団子や饅頭を商う茶店でした」。大正四年なら賢治一行が見学に来る前年ではないか。ならば一行は、神社の境内の雑木林を望む茶店で、団子や饅頭を頬張っていたかもしれない。
「このあたりには帝大生たちも下宿していました。市電に乗って本郷へ通っていました。この道は、昔と変わってはいませんよ」。遥かを見やるように主人は言ったものだ。「ええ、この先には桑畑がありました」。にわかに東京高等蚕糸学校がリアリティーを帯びてくる。「滝野川一帯にはまだ田圃なんかもあ
りましてね、職人たちが植木を栽培していましたよ」。

現在の、神社の角を右に曲がったところの光景。
高い建物は消防署の建物。
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平塚亭/つるおか
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残念!!
その日は、このお店お休みでした。
宮澤賢治が頬ばったかも知れないお団子を、私も食べようと楽しみにしていたのに(泣)
ショックでした。またの機会ですね。

このあと、ついでだからと「無量寺」を訪ねました。次回の記事にします。
無量寺を出たあと、駒込の駅に向かいます。
「旧古河庭園」の前を通るためです。
大正9年、盛岡高等農林を退職後、農事試験場の嘱託となった恩師・関豊太郎教授を、宮澤賢治は訪ねています。
それで、福島泰樹氏は、コンドルの設計した洋館を「設計にも関心のあった宮澤賢治のことだ。もしかすると塀の外から一瞥しているかも知れない」と書いている。

大正時代はわからないが、現在は塀が高く、道路の反対側からなら、辛うじてチラと一部が見えるだけだ。
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現在の入り口に立てば、洋館はかなり見える。
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「旧古河庭園」から駒込駅に通じる坂を下っていると、途中にこの坂の説明があった。
この坂の名は、この辺りに住んで居た中世の武将保坂大炊介にちなんで「大炊介坂」と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで「宮坂」とも、樹木に覆われているので「暗闇坂」とも呼ばれていた。
この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため「日光御成り道」と呼ばれたが、現在は「本郷通り」と呼ばれている。
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「大炊介坂」を下りきって振り返る。
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これで、宮澤賢治が初めて上京した、大正5年3月20日の足跡をめぐる逍遥は終わりました。
賢治が訪ねた西ヶ原農事試験場見学と東京高等蚕糸学校の両方とも、跡形もなくなっています。
大正5年と現在という月日の長さから考えて、やむを得ないと思います。

宮澤賢治たちが翌日訪ねた「農事試験場渋谷分校」と「駒場農科大学」には近日中に訪ねます。


参考にした二書。
一つは、「宮澤賢治研究叢書-賢治地理」という本に納められている奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」。これは昭和41年(1966)6月に第4回宮澤賢治研究会で発表されたもの。
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もう一つは、歌人福島泰樹氏の「宮澤賢治と東京宇宙」という本で、1996年12月に第1刷発行のもの。
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(了)


賢治最初の上京(1)/宮沢賢治の東京における足跡

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「宮沢賢治の東京における足跡」を歩いてみようと思ったのは、雑誌「サライ」2010年7月号の特集「宮澤賢治を旅する」に「賢治の歩いた東京」という部分があり概要を知ったので、いずれ歩いてみようと思っていた。
賢治最初の上京は3月20日である。この日に歩こうと思っていたが、その日と前後の日にも予定が入ってしまい、前倒しに昨日の15日に歩いてきました。

参考にしたのは、次の二書です。
一つは、「宮澤賢治研究叢書-賢治地理」という本に納められている奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」。これは昭和41年(1966)6月に第4回宮澤賢治研究会で発表されたもの。
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もう一つは、歌人福島泰樹氏の「宮澤賢治と東京宇宙」という本で、1996年12月に第1刷発行のもの。
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つまり、奥田弘氏の文章は47年前、福島泰樹氏の本は16年前に発行されたものである。

奥田弘氏の本によれば、この上京は、盛岡高等農林学校の修学旅行であり、賢治ひとりの旅行ではないが、彼の生活史、制作史にとって、重要な意味を持っている。この上京は、彼にとって最初の上京であり、新しい知識を摂取する場所として、また、終生、願ってやまなかった「家」からの脱出先の場所として、彼の目を聞かせたものと考えられる。
この三月の上京における宿泊先の旅館は判明していない。東京での足跡は、次のとおりである。
 3月20日 西ヶ原農事試験場見学・東京高等蚕糸学校見学
 3月21日 駒場農科大学見学

京都で解散した後、自由行動になって、東京に再びもどってから上野から盛岡に戻っていく際の行動は、また記事にするつもりです。

福島泰樹氏の本によれば、盛岡高等農林学校二学年の修学旅行の一団十数人を乗せた夜汽車が「上野停車場」に到着したのは、大正5(1916)年3月20日(月)午前5時40分のことであった。

盛岡高農の創設は明治三十五年、日本で最初の農業専門学校である。宮沢賢治が入学した大正四年にさかのぼってみるなら、上級学校の数は今日では想像もつかないぐらい少ない。大学をあげるなら、東京、京都、東北、九州の名を冠した帝国大学が四校あるのみ、私立の大学は認められてはいなかった。
そのうち、農業関係の大学は東京帝国大学と東北帝国大学農科大学(札幌農学校)二枚を数えるのみで、専門学校は盛岡高農と明治四十一年に創立された鹿児島高農の二校であった。したがって北の都・盛岡には、農業に日本の将来の夢を託した青年たちが、全国から馳せ参じていたのであった。

この写真は、大正5(1916)年5月下旬、盛岡高等農林学校の自啓寮9号室のメンバーが、植物園で記念撮影したものです。
中央が室長の賢治、手前に寝そべっているのが嘉内。
(写真掟供は、保阪庸夫氏、山梨県立文学館)
保阪嘉内氏は、山梨県出身で宮澤賢治の無二の親友。
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一行は前日午後1時5分盛岡発の東北本線に乗り込んでいるから、実に16時間35分の時間を要している。
この日、東京は晴れだったという。
福島泰樹氏の本によれば、東京の北口玄関、上野駅の開業は明治16(1883)年。東北本線では24に青森まで全通したとある。
賢治一行が降り立った北の玄関口・上野駅舎の落成は、明治18年7月。どっしりとした蔵のような石造りの母屋に、西洋風の長い麻。入母屋切妻破風を思わせる西洋瓦茸の清酒な建築物と言いたいところだが、大正三年に落成した東京駅舎の風格にはほど遠い。東京駅が皇居を控えた帝都の象徴であるのに対し、上野駅はあくまでも北の玄関口であったのである。
東京駅舎は焼け残ったが、上野駅舎は大正12年、関東大震災で焼失した。
現在の駅舎が完成したのは、賢治が最後の上京を果たした半年後の昭和7年4月。完成までに実に十年近い歳月を要している。であるから賢治は大震災以後の上京の都度、その工事の経過を目のあたりにし、完成間近い上野駅舎を後に、重たい病をかこちながら郷里花巻へと向かっていった。

さて、私は西武新宿線、山手線経由で上野に着いた。昔信越線、東北本線、常磐線などでにぎわっていた場所に行ってみる。
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私は長野県佐久で育ったから、小諸駅から信越線で上野駅に出ている。結婚して富山県福光の人間になってからは、夜行を利用すれば上野駅、昼間の移動は北陸線で米原に出て、そこから新幹線で東京駅となった。現在は特急「はくたか」で越後湯沢、そこから上越新幹線で大宮まで出てくるようになっている。

常磐線のホームに「特急いわき」が停車していた。
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現在は、盛岡からなら新幹線で、この新幹線改札から出てくる。
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ちなみに、この日は団子鼻で有名な「200系車両」の最後の運転日ということで、鉄カメラマンの姿が目立った。

かって私も、利用した中央改札口から外に出る。
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残念ながら、現在の上野駅の正面玄関は浅草方面に向いているが、129年前の夏落成をみた旧・駅舎は、御成街道のある広小路方向、皇居の方角に向いていたので、宮澤賢治一行がこの場所から出たわけではない。

現在の上野は、パンダと櫻である。
聞けば、パンダの夫婦も繁殖活動も落ち着いて(子供が出来ていればいいな)、この日から一般公開が復活した由。
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古さをしのばせる場所を探していたら、正面玄関ホールに回廊があるのに気が付いた。ここは今まで来たことが無かった。リニューアルされたものか、新設されたものかわからない。
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正面玄関から外に出た。
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玄関前の広場に陸橋が縦横に展開されていて、驚いた。私が上野駅を利用していた頃には無かった風景だ。
陸橋の上から、上野駅正面を撮る。
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周りをブラブラしていたら、こんなものを発見した。
「ああ上野駅」の碑である。
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記録では、早朝に上野駅に到着した一行は、東京府北豊島郡滝野川村大字西ヶ原(現・北区西ヶ原二丁目)にある農事試験場に向かったとある。
福島泰樹氏の本によれば、おそらく宿泊先である上野駅周辺の旅館に荷物を置き、顔を洗い口を漱ぎ、朝食を済ませてから試験場へと向かっていったのであろうとしている。

ここでは、私の体験も重ねて、少しは上野の山を散歩したのではないかなと考えた。
私が大学が決まって、渋谷の叔母(母の妹)のところに一年間居候することが決まり、やはり夜行で上京してきた時、早朝上野のお山の西郷さんの銅像の前で同行していた兄が撮ってくれた写真が残っている。
この銅像は、高村光雲作であり、明治31(1898)年に建てられているから、初めての東京だということで上野のお山に足を延ばしていたら、宮澤賢治はこの銅像を見たに違いない。
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そうなれば、隣の彰義隊の墓にもお参りしたかもしれない。
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このくらいで、上野をきりあげて次に向かおうと、公園口に向かって歩いていると、こんな写真が掲示されていた。
明治42(1909)年の上野公園入口である。
当時既に大階段があった。これを上れば西郷さんの銅像である。
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奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、賢治が上京した当時は、現在の上中里駅は、まだ開業せず、おそらく、王子駅から、飛鳥山下を徒歩でおもむいたものと推測される、と書いている。
私も、上野から京浜東北線で王子駅に移動した。
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王子駅からの、現在の光景。左手に飛鳥山があり、道路(本郷通り)には都電が走っている。
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奥田弘氏の本によると、王子駅から歩を運んだのは、さわやかな五月のはじめだった。公園の若葉が日に映えて、明かるかった。坂道をのぼる都電の車輪のきしむ音と絶え間なく行きかう自動車の排気音とが、次第に、奥田弘氏の気持をいらだたせた、とある。
というのは、奥田弘氏が渋沢秀雄氏の文章で紹介している、宮澤賢治がここを訪れた頃の王子駅の附近は一面の水田で、森の散在するなかを縫う豊島川(隅田川上流)には船の白帆が隠見した。王子駅のそばで製紙会社の煙突が煙を吐いてはいたが、あとは詩情あふれる田園風景で、晴れた日は北の方に筑波山が青く点描された。
こういう渋沢氏がのべているような風景はなく、ぎっしり建てこんだ街なみだけである、と奥田弘氏は嘆いているのだ。

今は、もっと驚くことがあった。
王子駅から、すぐに飛鳥山に入ろうとすると、急な上り勾配の坂が待っている。
ところが、こんな楽しい乗り物が今はあるのだ(笑)
「あすかパークレール」という乗り物。2009年7月からの運行だというから、奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、これは知らないということになる。
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花には少し早い、まだまだ殺風景な桜の林を眺めながら、貿拾たちの一団は、足どりも軽く、なだらかな坂道をのぼって行ったことであろう。
飛鳥山公園の中に足を踏み入れてみたが、まだまだ開花にはほど遠い感じだ。
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本郷通りの飛鳥山交差点まで来ると、都電は大きくカーブして「あすか山」駅に入る。そこを見ながら歩いていたら、「滝野川一丁目」からの電車が駅に止まったと思ったら、すぐに後ろからもう一台電車が来て、玉つき状態みたいになって、前の電車が発車しだした(笑)
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そろそろ、どこかで昼食をとらねば、と思いながら歩いていたら、「和風ラーメン」という看板が目に入ったので、それを食べることにした。頼んだのは「みそラーメン」。
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出てきました。どんぶりなのね(笑)
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味はまあまあ。具がいろいろと沢山入っていたので嬉しかった。

「二本榎一里塚」にやってきました。
前方で、大きなクレーンで大きなビル工事をしているところが、印刷局滝野川工場(東京高等蚕糸学校の跡にできている)。
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奥田弘氏の本では、こう書かれている。
今は一本になってしまった二本榎の一里塚の跡にたつと、古い煉瓦塀に囲まれた印刷局滝野川工場が見えてくる。束京高等蚕糸学校の跡だ。この煉瓦塀に沿って行きつもどりつするのであるが、新しい知識に胸をふくらませたであろう賢治たちの姿はもうしのぶよすがもない。

「西ヶ原一里塚」は、「日光御成道」の日本橋から二里、「本郷追分」の次に位置します。榎の巨木おい繁り、往時のままの姿を保っているのは都内では西ヶ原を残すのみだそうです。
塚と榎は当時、東京市電の軌道延長路線上にあたり、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが、道路わきの塚の掲示板に説明がありました。
その掲示板にある写真が、大正時代の一里塚の写真です。
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宮澤賢治は、この風景のなかを西ヶ原農事試験場に向かって歩いていったのです。

現在は、旧道の両側にあった一里塚がそのまま残り、旧道がそのまま片方向の道路となった。反対方面の道路が一里塚の外側に新設された。結果として片方の一里塚が道路の真ん中に存在することになったというわけです。

七神社の鳥居脇に位置する、道路わきの一里塚。王子方面に振り返ってみています。
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道路の中央に残った形の一里塚。これも王子方向に見ています。
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(続く)


宮沢賢治歌碑/長瀞

20121230

11月21日に長瀞を訪れましたが、ここに行ったきっかけは、秩父に行った帰りに花園インター近くの道の駅で、埼玉県立自然の博物館のチラシを手に入れ、そこに「宮沢賢治歌碑」があることがわかったからです。

その時の記事は下記クリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1081.html

その時に手に入れた埼玉県立自然の博物館の小冊子「地球の窓・長瀞の自然」に「宮沢賢治と保阪嘉内」と題する記事が載っていて、宮沢賢治がこの辺を訪ねた概略がわかったので、ここに載せておきます。

埼玉県立自然の博物館
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大正時代、岩手県の盛岡高等農林学校では、毎年のように秩父へ地質旅行を実施しました。
大正5(1916)年には当時、同校の2年生だった宮沢賢治が、翌年には賢治の無二の親友となった保阪嘉内が関豊太郎教授に引率されて、長瀞をはじめ秩父地域を訪れました。
旅行中に荒川の清流に洗われた結晶片岩の美しい色と模様に感動した賢治は、
「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」
という歌を葉書にしたためて、山梨県の実家に帰省中の嘉内に送りました。

自然の博物館前にある歌碑
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虎岩
賢治の歌は、この虎岩を歌ったものとされている。
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宮沢賢治と保阪嘉内は、盛岡高等農林学校でともに熱い志をいだき、無二の親友となりました。年度はちがいますが地質旅行という行事で、秩父地方の地質観察に釆ています。
写真は、大正5(1916)年5月下旬、盛岡高等農林学校の自啓寮9号室のメンバーが、植物園で記念撮影したもの。
中央が室長の賢治、手前に寝そべっているのが嘉内。
(写真掟供は、保阪庸夫氏、山梨県立文学館)
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この旅行については、萩原昌好という方が詳しく調査され、『宮沢賢治「修羅」への旅』(朝文社、平成6年)で、次のように推定されています。
○9月1日:午後7時発の列車で盛岡発。
○9月2日:在京中であった賢治は上野駅で合流し、熊谷へ。
○9月3日:熊谷から寄居を経て国神へ。
○9月4日:国神から馬車を利用し、小鹿野へ。
○9月5日:小鹿野から三峰山へ。小鹿野から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月6日:三峰山から秩父大宮(現秩父市)へ。
○9月7日:秩父大宮から本野上を経て帰途に。秩父大宮から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月8日:盛岡到着。

賢治が在京中とありますが、賢治の年譜を調べると、この年「7月末、上京してドイツ語講習を受ける。」
とあります。
賢治の飽くなき探求心には驚くばかりです。


それから、この記事を書くために調べていたら、宮沢賢治の歌碑がもう一つ、秩父鉄道野上駅裏手にもあることがわかりました。
「盆地にも 今日は別れの 本野上 駅にひかれる たうきびの穂よ」と刻まれているそうです。
近々、そこを訪れようと思っています。


盛岡(2)/宮沢賢治ゆかり

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盛岡駅のすぐそばを北上川が流れているが、宮沢賢治ゆかりの材木町に行くのには旭橋を渡る。橋の上からきれいに岩手山が見えていた。午前中姿を隠していたが、やっとその綺麗な山容を見せてくれた。
しばし見とれた。
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橋を渡って左に曲がると「いーはとーぶアベニュー材木町」に入った。
この商店街の街路には、賢治とその作品にちなんだモニュメントが並んでいて、独特の雰囲気があった。
案内図の脇にちょこんと座っている賢治スケッチによる「ふくろう」が可愛い。
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まずは街入口付近の、背広姿の若々しい賢治に挨拶。
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それから「光原社」に入った。
賢治の存命中にただ一つ出版された童話『注文の多い料理店』の出版社で、「光原社」という名前も賢治がつけたそうである。
中庭へ抜けると、賢治の顔のレリーフのある碑があり、
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脇に〈宮沢賢治イーハトーヴ童話「註文の多い料理店」出版の地〉の碑と、
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「烏 の北斗七星」の一節を刻んだ石柱がありました。

あゝマヂエル様
どうか憎むことのできない敵を殺さないでいゝように
早くこの世界がなりますように
そのためならばわたしのからだなどは
なんべん引き裂かれてもかまひません

この石柱に刻まれた作品が書かれた大正10年、賢治は突如上京して宗教団体「国柱会」に入りますが、 妹トシの病気のため帰郷します。その年、花巻農学校の教諭となり、童話創作の最も旺盛な時期でした。

いちばん奥に、賢治の言葉をいろいろと書いてありました。
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この一角には民芸品店と、可否館(コーヒー店)がありました。
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いままで歩き疲れていたので、ここで休憩しました。
カウンターに座りましたが、やはり人気の地ということで、ひっきりなしにお客さんが入ってきて、お店の若い女性が懸命にドリップしているのが、なんだか微笑ましかった(笑)。
入れてくれたコーヒーはとても美味しかった。

それから、可否館のカウンターで「注文の多い料理店」の挿絵の絵葉書を売っていたので買いました。
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通りに、こんなお店もありました。
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そろそろ駅に戻らないと、新幹線に遅れるということで、名残惜しく思いながら駅に向かい、今回の宮沢賢治の旅は終わりました。
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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