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村上水軍博物館

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所在地:愛媛県今治市宮窪町宮窪1285番地む
参拝日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、今治駅前のホテルを出発、レンタカーで「しまなみ海道」を北上、大三島の伊予国一之宮・大山祇神社に参拝。
そこから道の駅二つで土産物購入と昼食を済ませ、今治に戻る途中で大島にある村上水軍博物館に寄った。

大島の地図
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村上水軍博物館
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館内に入る前に、外の展示物を見た。

小説『村上海賊の娘』本屋大賞受賞記念のレリーフ。
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小早船
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入り口前に「村上景親公」の像があり。
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『村上海賊の娘』では、主人公「景」の弟でおもり役として各場面で活躍していたが、今回調べたらその経歴に吃驚した。

村上 景親は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。小早川氏・毛利氏家臣。父は能島村上氏当主の村上武吉。
景親は小早川隆景の下に属し、隆景が九州平定後の天正15年(1587年)に筑前と筑後の大名となると6,000石[2] を与えられて同格おとな役(家老)となる。
天正20年(1592年)4月から始まる文禄の役では兄・元吉と共に吉川広家に従って朝鮮に渡海し、同年6月5日の茂渓の戦いでは、孫仁甲が率いる朝鮮軍が、景親が守る茂渓の砦を攻めたが、景親の軍は奮戦して朝鮮軍を撃退した上で追撃し、数百人を討ち取った。その際に景親は負傷した。
文禄4年(1595年)に小早川隆景が隠居すると、養嗣子の小早川秀秋の家臣として仕えた。慶長2年(1597年)6月13日に小早川隆景が死去すると小早川氏を辞去して屋代島(周防大島)へと移り住んだところ、輝元の招聘を受けて毛利氏に帰参する。
慶長5年(1600年)、兄・元吉と共に水軍を率いて蜂須賀氏の所領であった阿波国の猪山城を降伏させた。その後は輝元の命を受けて元吉と分かれ、毛利軍の一員として安濃津城の戦いや大津城の戦いに参加した。関ヶ原の戦いによって毛利氏が防長2ヶ国へ移封となった後は屋代島の内で1,500石を与えられて父・武吉と共に移住し、毛利家御船手組の組頭となった。また、輝元が剃髪して「宗瑞幻庵」と名乗ると、景親も剃髪して「如真」と名乗った。
慶長15年(1610年)2月9日に死去。

博物館に入る。
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実はコロナ禍が始まっており、この日まだ開館しているかヒヤヒヤしていた。
まだ、やっていて実にラッキーだった。
受付で、どこから来たか調査していて、どこから来ているのかのぞいたら、東北から8名、関東から13名と、私も含め遠くから来ている人がいて、「村上海賊」の人気はさすがだなと思った。

【一階ホール】
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まずは、能島村上水軍の歴史について、博物館配布の資料でおさらい。
■海賊たちの跳梁
 9世紀頃から西日本の各地で海賊たちが跳梁するようになった。厳しい収奪を逃れた浮浪農民や、土地などの生産手段を保証されない海民たちは、国家の手の届かぬ瀬戸内の海辺や島々に住みついた。彼らはひと度飢餓に及べば、直ちに食料を求めて目の前を航行する船を襲った。中央政府は度々地方に海賊の追討を命じたのだが、成果は一向に上がらなかった。
■三島村上氏
 瀬戸内では、漁民たちの長は「ムレギミ」と呼ばれたが、のちこれが転じて「村上」になったという。鎌倉時代の終わり頃から、村上氏たちは瀬戸内各地で台頭し、南北朝動乱期、彼らは南朝に属して戦い、次第に海の武士団(海賊)として市民権を得た。
村上一族を組織したのは、南朝の重臣北畠氏であるという。
 芸予の村上氏はいずれも北畠師清をその始阻とし、師清の孫雅房・吉豊・吉房の三人が各々、芸予諸島の島々に定着し、能島・因島・来島の村上三家を立て、「三島村上氏」を称した。
■能島村上水軍
 三島村上氏の中で最も早く歴史に姿を現すのは、能島村上氏であった。1349年(貞和5)、初めr野島」の名が見られ、1405年(応永12)には「能島衆」が登場する。室町初期の能島衆は、一方で海上警固により東寺から報酬(酒肴料)を得ると共に、一方では末寺額荘園弓削島を侵略するといった、未だ瀬戸内海衆の一集団にすぎなかった。しかしこののち、周辺海賊衆との結束を固め、芸予から防予海域に勢力を拡大し、中部瀬戸内海の主要な航路・拠点を掌握する大海賊衆へと成長した。
室町幕府・守護体制の確立に伴い、村上氏は一応、河野氏を主家と仰いではいるが、河野氏からの知行宛行はほとんど見られない。この頃は、その財政は多く水先案内・海上警固・海上運輸といった独自な海上活動に伴う収入に依っていたようである。
■海賊大将軍 村上武吉
 能島水軍が全盛を謳歌するのは、戦国時代、村上武吉が当主の時である。現在の宮窪に本拠を構えて能島と号し、中・西部聴戸内海に監視・連絡網を設け、要所要所に城砦を構え、堺から坊津までといわれた海上王国を実現した。
能島水軍は、小舟を多く駆使する機動戦、火薬の活用(熔熔玉)など、海上戦闘の達人であった。能島衆は、弘治の厳島合戦参戦・勝利後、永禄の尼子・大友合戦、天正の木軌Il合戦と、毛利氏の中国・九州平定に協力し、瀬戸内全域に勢力を延ばした。そして自らの海上権益を守るため、瀬戸内交通の実力支配を背景として、毛利・大友・島津氏ら近隣の大大名と相互に海上権益を保障しあう盟約を結んだ。
武吉は、上関・厳島・塩飽などの札浦で、瀬戸内を航行する船舶から帆別銭・駄別銭などの関税を徴収し、それらに丸に上の字の過所旗を与え、その無害通行を保証した。今日我々は、戦国期村上氏の海上支配の実際を、武吉を制定者とする多くの瀬戸内の廻船大法に見ることができよう。
■海賊禁止令
1587年(天正15)、豊臣秀吉は、海上に私的な関所を設け、通行税を取り立てる行為融旬暁行為として禁止した。この年、村上元吉は部下の斎灘での海賊行為を厳しく責任追及され、小早川隆景の筑前移封に伴い、筑前に移住し、能島水軍の歴史は終わった。こののち村上氏は毛利氏の御船手(水軍)に転化していった。

〇河野通之宛行状(こうのみちゆきあてがいじょう)
1405年(応永12年)に能島衆(能島村上氏)の存在がわかる書状
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〇能島村上家先祖覚書
江戸時代
能島村上家の武吉・元吉・景親の生没年を記す。
武きちのところには、厳島合戦で毛利元就に味方したと書かれている。
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厳島合戦は、奇襲により毛利元就が陶晴賢を破った戦いで、「日本三大奇襲戦」の一つに挙げられている。

〇毛利輝元書状
1582年(天正10年)
織田・毛利間の戦争が展開するなか、来島村上氏は織田方に走ったが、能島村上氏は変わらず毛利氏へ協力する姿勢を保った。毛利氏が来島村上氏の旧領「能美島」を能島村上氏に与えることを約束した文書。
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一階ホールには、村上海賊の雄姿を描いた和紙人形が飾られてあった。
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【一階ホールから二階への階段】
ロビーから二階に上がる階段に沿って、能島村上水軍の説明画が掲げられてあった。

〇村上三島水軍の台頭
能島城跡
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〇海賊の生業
通行料を受け取るかわりに海の安全を保証した。
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〇村上水軍の用いた武器
やがらもがら、火矢、焙烙など、火攻めの武器が中心。
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〇第一次木津川口の合戦
織田水軍と激突する村上水軍。
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〇第一次木津川口の合戦
石山本願寺への兵糧入れ。
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〇羽柴秀吉の四国攻めと海賊禁止令
国分山城に迫る秀吉方の軍
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〇村上武吉とフロイス
能島を見るフロイス
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〇江戸時代の伊予水軍
朝鮮通信使を警護する毛利水軍
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〇秋山真之と日本海海戦
1904年に始まった日露戦争最後の決戦。
この海戦で連合艦隊がとった「丁字戦法」は秋山が研究した能島流水軍戦法の応用とも云われている。
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【展示室】
二階の展示室は、残念ながら撮影禁止だった。
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村上武吉が着たと伝承の「猩々陣羽織」も展示してあったが、撮影できなかったので、博物館パンフレットから転載。
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【展望デッキ】
デッキに出ると、能島をはじめとする周辺の海が見渡せる。

まずは、能島である。
正面が能島。
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能島の左側が「宮窪瀬戸」
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能島の右、鵜島との間が「荒神瀬戸」。
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左側が鯛崎島で、右側が能島。
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ここの能島城を再現した絵がこれ。
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さきの再現の絵にも出ているが、能島の先端には、四阿が見える。
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鯛崎島の先端には、お地蔵さんが座っているのを発見!
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鵜島の先端にも、物見櫓みたいなものが再現されていた。
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★展望デッキから、村上水軍博物館前の海を全部見渡した動画を撮影してきました。
ユーチューブにアップしたので、見てください。

その動画を見る


潮流観光船で有名な「船折瀬戸」は、能島の向こうなので見えない。
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【秋山真之と村上海賊】
司馬遼太郎の『坂の上の雲』を読んでから、秋山真之は好きな人物である。
真之は松山出身であり海軍なので、村上水軍とは関係あるなとは思っていたので、この博物館に「秋山真之と村上海賊」という図録があったので購入してきた。
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秋山家は、伊予の河野氏の出てあるとのこと。
あの一遍上人と、ルーツが同じということで、また嬉しくなった。

真之が海軍戦術を考案する際に、村上海賊の戦法を熱心に研究したのは当然といえる。

〇舟戦以律抄
江戸時代中期
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〇野嶋流海賊古法
正徳元年
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〇能島家傳
住田文庫 江戸時代
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〇丁字戦法
日露戦争でバルチック艦隊との海戦で使用した「丁字戦法」は、秋山真之が起案したことになっている。
この海戦で、バルチック艦隊37隻のうち19隻撃沈、5隻を捕獲して、日本の大勝利に終わった。
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〇「天気晴朗なれど波高し」
バルチック艦隊を発見し連合艦隊が出撃する際に、司令長官東郷平八郎が発信し、海軍軍令部が受けた電報。
飯田久恒参謀らの草案に、秋山真之が「本日天気晴朗ナレ共波高しシ」と付け加えたと云われている。
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埼玉県飯能市の「秩父御嶽神社」には、東郷平八郎元帥の銅像と共に、旗艦・三笠の被弾甲板が置かれている。
東郷長官(当時)の乗る旗艦三笠は、ロシア軍の集中砲火をあび、甲板は蜂の巣状になった。
間近で実物を見ると砲弾の破壊力がよく分かります。甲板の装甲なので厚さは2~3センチ程度ですが、固い鉄板が障子が破れたような形になって捲れている。
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念願だった、村上水軍博物館を見ることができ、非常に満足して、この旅の最終立ち寄り地「今治城」に向かって、しまなみ海道を南下した。


続いて「今治城」の記事を見る



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瀬戸内しまなみ海道

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所在地:愛媛県今治市と広島県尾道市を結ぶ道
参拝日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、ホテルで朝食を済ませてから、レンタカーショップが8時開業なので、その時間に行き、車を借りた。
この日の予定は、今治から「しまなみ海道」を大三島まで行き、伊予国一之宮・大山祇神社に参拝、そこから戻ってきて大島で村上水軍博物館に寄り、今治に戻ってきて今治城を見る、というのがこの日の予定。

当初は、しまなみ海道を尾道まで行き、そこから名古屋に帰ることを考えた。
しかしレンタカーを今治で借り尾道で返すと、ワンウェイ料金が11000円も発生する。一人旅だからと借りる車は保険も合わせて6000円しかしないというのに(苦笑)
なので、しまなみ海道は大三島まで往復とし、帰りは今治から鉄道で瀬戸大橋を渡って名古屋まで行くことにした。
ということで今回は、淡路島を経由して四国に入り、しまなみ海道も通り、瀬戸大橋も渡るという、瀬戸内海横断を三個所も味わうことになった(笑)

しまなみ海道
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レンタカーを借りて、8:20に出発。
今治インターから「しまなみ海道」に乗り、一路大三島の伊予国一之宮・大山祇神社を目指す。
本当は、来島海峡大橋の威容くらいは下から眺めたかったのだが、時間がもったいないので、橋を渡るだけにした。渡っている時には凄さは実感した。

とりあえず渡った橋は、パンフレットの写真を掲載しておく。

〇来島海峡大橋
今治と大島の間を結ぶ。
3つの長大橋梁により構成された世界初の3連吊り橋であり[2]、全長は4105mである。
1999年完成
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〇伯方・大島大橋
大島と伯方島を結ぶ。
供用開始:1988年1月17日
全長:1230m
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〇大三島橋
伯方島と大三島を結ぶ。
1979年、本州四国連絡橋の橋の中で最初に開通した橋梁である。
全長:328m(アーチ支間 297m)
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順調に走って、大三島に入る。
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〇伊予国一之宮・大山祇神社
順調に来て、9:00に到着。
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伊予国一之宮・大山祇神社参拝記事は別途します。

〇道の駅「しまなみの駅・御島」
大山祇神社の参拝を終えたあと、すぐ近くにあったので寄った。
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家族への土産と昼食を考えていたのだが、ここにはレストランは無く、お店の人に聞いたら「多々羅道の駅」を勧められた。お昼はそこで食べることにして、せっかくだから土産を購入してから次に向かった。

来るときに標識で気が付いていたのだが、しまなみ海道まで戻って右折してすぐに港がある。
これが、私の苗字とほぼ同じなので、つい寄ってしまった(笑)
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〇井ノ口港
港に観光センターみたいな建物あり、近づいてみると「大三島クルージング」の待合所だった。
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近くに車を停めて、海を眺めた。

クルージングの桟橋。
向うに見えるのは、多々羅大橋である。
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そこから左に視線をめぐらす。
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わりと大きな船も停泊していた。
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〇道の駅「多々羅しまなみ公園」
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ここからは、多々羅大橋がよく見える。
大三島と生口島を結んでいる。
私は大三島で引き返すので、渡らない。
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波打ち際のテラスから、しばらく海を眺めた。

多々羅大橋は綺麗な、ダイナミックな橋だ。
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そこから、視線を右にめぐらす。
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レストランの前の生け簀。
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さすが、レストランのメニューは美味しそうなものばかりだ。
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美味しい食事と休憩したあと、ここでも土産を買いこんで、出発。

大三島橋を渡って伯方島、それから伯方・大島大橋を渡って大島に。
ここに、目指す村上水軍博物館があり。
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〇村上水軍博物館
この時期、関東では美術館・博物館は休館に入っていたが、ここは開いていてラッキーでした。
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村上水軍博物館については、別途記事にて紹介します。
その際には、ここの展望台からの海の眺めを動画で見ていただきます。

ここでは、展望台からの伯方・大島大橋の眺めを載せておきます。
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手前に見える能島の左が「宮窪瀬戸」。
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手前に見える能島の右が「荒神瀬戸」だ。
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潮流体験で有名な「船折瀬戸」は能島に隠れて見えない。
本当は、これにも乗りたかった。

村上水軍博物館を見て、満足して今治城に向かいました。
しばらく大島の中を一般道を走って、「大島南IC」で「しまなみ海道」に乗り、来島海峡大橋を渡って今治に入ります。
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〇来島海峡大橋
大島から今治に渡る来島海峡大橋を、今治城天守閣から眺めた姿を載せておきます。
今治城天守閣からの、周辺の海の眺めは、「今治城」の記事の際には、動画で見ていただきます。

来島海峡大橋を大島側から三枚の連続写真で。
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来島海峡大橋は、間の馬島で繋いでいます。
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馬島から今治への来島海峡大橋
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これは、しまなみ海道のパンフレットに載っていた、今治城と反対側からの来島海峡大橋の写真です。
向う側が大島です。
手前の渦潮が、来島海峡急流体験の観潮船のハイライトの場所です。
時間が許せば、この観潮船にも乗りたかった。
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〇今治城
ここの記事も、別途載せます。
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今治に戻ってきて、とても楽しかった「しまなみ海道」を楽しむ旅は終了。

次回は、伊予国一之宮・大山祇神社の記事を載せます。

(続く)

「伊予国一之宮・大山祇神社」の記事を見る


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四国八十八ケ所第一番札所・霊山寺(りょうぜんじ)

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所在地:徳島県鳴門市大麻町板東塚鼻126番地
参拝日:2020年3月23日

「青春18キッブの旅2020春」の2日目、前日の疲れで熟睡したのか、5:30にパッチリと目が覚めました。
しめたと思い、7時に宿を出る予定でしたが、6:20に宿を出てここに参拝しました。
阿波国一之宮・大麻比古神社の大鳥居の近くに宿を取ったのですが、霊山寺のすぐ近くでもあったのです。

堂々たる山門
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前夜、泊まった宿にあったパンフレットで、第一番札所にさわしく「発心の門」があることを知ったが、私はそれを山門をそう呼ぶのだと勘違いしていたが、家に帰って資料を整理したら、「発心の門」は別にあることがわかった(汗)

寺号標
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霊山寺(りょうぜんじ)は徳島県鳴門市大麻町板東にある高野山真言宗の寺院。四国八十八箇所霊場の第一番札所である。竺和山(じくわさん)一乗院(いちじょういん)と号し、釈迦如来を本尊とする。とくしま88景に選定されている。
本尊真言:のうまくさんまんだ ぼだなん ばく
ご詠歌:霊山(りょうぜん)の 釈迦のみ前にめぐりきて よろずの罪も 消えうせにけり

寺伝によれば奈良時代、天平年間(729年 - 749年)に聖武天皇の勅願により、行基によって開創された。

弘仁6年(815年)に空海(弘法大師)がここを訪れ21日間(三七日)留まって修行したという。その際、天竺(インド)の霊鷲山で釈迦が仏法を説いている姿に似た様子を感得し天竺の霊山である霊鷲山を日本、すなわち和の国に移すとの意味から竺和山霊山寺と名付け持仏の釈迦如来を納め霊場開創祈願をしたという。その白鳳時代の身丈三寸の釈迦誕生仏が残っている[2]。また、本堂の奥殿に鎮座する秘仏の釈迦如来は空海作の伝承を有し、左手に玉を持った坐像であり、2014年に4か月間開帳された。

室町時代には三好氏の庇護を受けており、七堂伽藍の並ぶ大寺院として阿波三大坊の一つであったが、天正年間(1573年 - 1593年)に長宗我部元親の兵火に焼かれた。その後徳島藩主蜂須賀光隆によってようやく再興されたが明治24年(1891年)の出火で、本堂と多宝塔以外を再び焼失したが、その後の努力で往時の姿を取り戻し一番札所としてふさわしい景観になっている。

山門(仁王門):入母屋造楼門
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山門をくぐり中に入る。
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早朝ゆえ、境内には誰もいない。
ゆっくりと、気兼ねなく見て回れた。

手水鉢のところでは、観音様と不動明王、それとカエルが迎えてくれる。
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鯉が泳ぐ極楽を象った放生池(ほうじょうち)に橋がかかっている。
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池の中の6体の童子が地蔵菩薩を祈っている。
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多宝塔が朝焼けに染まっている。
五智如来像を安置している。応永年間(1394年 - 1428年)の建造。
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大師堂
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大師堂の傍には、桜と白木蓮が咲いていた。
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十三仏堂:十二仏堂と不動明王堂を合わせて十三仏としている。
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普段、馴染みのない仏さまを紹介しておきます。

虚空蔵菩薩
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阿閦(あしゅく)如来
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勢至菩薩
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普賢菩薩
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不動明王堂
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本堂
拝殿に奥殿が増築された構造。
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拝殿には無数の釣り灯ろうが下がっている。
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拝殿右隅上には、珍しい地蔵菩薩三尊像があった。
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左隅の上には赤い賓頭盧尊者坐像があった。いわゆる「おびんずるさま」です。
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これで、霊山寺の参拝を終え、引き続き近くの「阿波国一之宮・大麻比古神社」に向かいました。

(続く)


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高速バスで淡路島縦断「舞子⇒鳴門」

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青春18キップの旅の初日、「ムーンライトナガラ」で大垣に朝5:45に到着、すぐに米原、三宮を経由して舞子駅に降りた。

今回は四国の旅である。
毎年、「青春18キップの旅」でどこに行こうかと考えるが、二年前に四国はどうかなと試しに大垣から徳島までを乗換案内で調べて見たら、高速バス代3000円くらいを追加すれば、初日の10時くらいには徳島に着くことがわかり、「四国も、ありだな」と思った。
それで今回実現させました。

初日最初の目的地は沼島である。
前から念願だった、淡路島のすぐ近く沼島にある、イザナギ・イザナミ神婚伝説の舞台である「上立神岩」に行くため、まず高速バスで舞子から鳴門まで行き、そこでレンタカーを借りて沼島に向かうことにした。

JR舞子駅に降り、高速バスのバス停「高速舞子」に向かう。
バス会社のサイトに、親切にも、経路を写真で案内してくれていたので助かった。
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JR舞子駅から徒歩5分でバス停の下に着くが、バス停ははるか上、4階である。
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エスカレーターで上に上がる。
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まだ少し時間があるので、3階の展望デッキから眺める。
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淡路島が見える。
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バス停にはひっきりなしにバスが来る。行き先が徳島、高松、高知など色々だ。
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乗るバスがやってきて、乗り込む。
ネットで予約したとき、既に一番前は予約が入っていて、私は左側の前から二列目の窓側。
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走り出してすぐに、明石海峡大橋にかかる。
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明石海峡大橋は、兵庫県神戸市垂水区東舞子町と淡路市岩屋とを結ぶ明石海峡を横断して架けられた世界最長の吊り橋。全長3,911 m、中央支間1,991 mである。本州と四国を結ぶ3本の本州四国連絡橋(本四架橋)ルートの一つ「神戸淡路鳴門自動車道」の一部として供用されている。
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瀬戸内を行く船が見える。
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淡路島が見えた。
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あの先端には、岩屋神社があり、行きたかったが、残念ながら今回の予定には納まらなかった。
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淡路SAにある大観覧車だ。
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しばらく海沿いを走る。
あの二つの塔は、何だろう?
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内陸部を走っていく。
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大鳴門橋(おおなるときょう)にさしかかった。
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大鳴門橋は、兵庫県の南あわじ市福良丙 (淡路島門崎)と徳島県の鳴門市鳴門町土佐泊浦(大毛島孫崎)間の鳴門海峡の最狭部を結ぶ吊り橋。1985年(昭和60年)6月8日に開通した。
橋長は1,629 メートル (m)、中央径間は876 m、幅は25 m、主塔の高さは144.3 m。鳴門海峡の渦潮に影響を及ぼさないようにするため、多柱基礎工法とよばれる特殊な工法が採用されている[2]。橋は上下2層式となっており、上部は片側3車線の道路(現在は計6車線の内、中央4車線を使用)、下部は将来的に鉄道 (四国新幹線)を通すことが出来る構造となっている。
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車窓から目を凝らしていたら、渦潮が見えた(嬉)
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観潮船だろうか。
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四国に上陸である(嬉)
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バス停「高速鳴門」に到着。
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55分のバス旅だったが、前後に大きな橋を渡り、淡路島を縦断するという、ドラマチックな時間だったので、本当に楽しかった。

55分のバス旅の、ポイント、ポイントを動画に撮っておいたので、それを10分弱に編集してユーチューブにアップしましたので、見てください。

その動画を見る


バス停「高速鳴門」から歩いて10分ほどのところでレンタカーを借り、また淡路島に戻って、沼島の「上立神岩」に向かった。


「上立神岩」の記事を見る



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箸墓古墳

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所在地:奈良県桜井市箸中
訪問日:2017年3月23日

青春18キップの二日目の午後、JR纏向駅から山の辺の道を穴師坐兵主神社(大兵主神社)まで行き、また巻向駅近くまで戻って、この日最後に訪れたのは箸墓古墳。
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この日最初に訪れた大神神社の祭神大物主神の奥さん倭迹迹日百襲姫命(やまとととひももそひめのみこと)の墓と云われるここに詣でなければいけないだろうという訳だ。

国道がJR桜井線をまたぐ陸橋から箸墓古墳が見えた。
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だんだん箸墓古墳が近くなる。
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箸墓古墳を見渡せる角まできた。
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今居るのは、後円墳の左側の角。
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実際の被葬者は明らかでないが、宮内庁により「大市墓(おおいちのはか)」として第7代孝霊天皇皇女の倭迹迹日百襲姫命の墓に治定されている。また周濠が国の史跡に指定されているほか、周濠の一部は「箸中大池」としてため池百選の1つに選定されている。

纒向遺跡の箸中に所在する箸中古墳群の盟主的古墳であり、出現期古墳の中でも最古級と考えられている3世紀半ばすぎの大型の前方後円墳。この古墳を、『魏志』倭人伝が伝える倭国の女王、「卑弥呼」の墓とする(一部の邪馬台国畿内説)説もある。以前は築造年代が3世紀末から4世紀初頭とされ、卑弥呼が死亡したとされる3世紀前半との時期にずれがあるため、その可能性は少ないといわれてきた。しかし、1980年代以降の考古学的年代決定論により箸墓古墳の築造年代も卑弥呼の没年(248年から遠くない頃)に近い3世紀の中頃から後半とする説もある。

現在は宮内庁により陵墓として管理されており、研究者や国民の墳丘への自由な立ち入りが禁止されている。倭迹迹日百襲姫命とは、『日本書紀』では崇神天皇の祖父孝元天皇の姉妹である。大市は古墳のある地名。『古事記』では、夜麻登登母母曾毘売(やまととももそびめ)命である。

最近、纒向遺跡がクローズアップされ、箸墓古墳についても良く取り上げられ、色々な記事が書かれている。

大神神社に参拝したときに購入した『三輪山の神々』という本に載っている、和田萃氏の「三輪山の神」から箸墓古墳について書かれている部分から抜粋しておく。
・倭迹迹日百襲姫の伝承を考えると、古墳がつくりはじめられた時期、三世紀後半頃にまで三輪山の祭祀が遡っていく可能性がある。大和王権の確実な初代の王と考えられる御間城入彦(崇神天皇)の叔母であった倭迹迹日百襲姫が、三輪山の大物主神の妻となったという伝承は、大和王権の王、あるいはその女(未婚の皇女)が、三輪山の神の祭祀に当たっていたということを伝える伝承だろうと思われる。
・この倭迹迹日百襲姫が亡くなったときに箸墓を造ったという有名な伝承がある。箸墓については「日は人作り、夜は神作る。故、大坂山の石を運びて造る。則ち山より墓に至るまでに人民相踵ぎて、手逓傳(たごし)にして運ぶ」という伝承(崇神紀十年九月条)がみえる。
・三世紀末から四世紀前半代の巨大前方後円墳は、いずれも三輪山の西~西北麓にあり、渋谷向山古墳(現在、景行陵に治定)、アンドン山古墳(現在、崇神陵に治定)、箸墓古項などです。そうしたことからも、三輪山と深い関係があると考えられる。
・箸墓古墳の北側に民有地である大池が広がり、その西堤の改修工事に先立つ発掘調査が寺沢薫氏を中心に行なわれた。その結果、築造当時の土器が大量に出土し、布留○式のものであったことから、箸墓古墳の築造年代は270~280年であることが明らかになった。卑弥呼が死んだのが250年前後ですから、箸墓古墳の築造年代とは20~30年隔っています。そういう点で、箸墓古墳の被葬者は、卑弥呼の宗女であったトヨ (臺輿) の墓に結びついていく可能性がある。
・倭迹迹日百襲姫の箸墓についての伝承は、大坂山の石を運んだという点で、史実を伝えている可能性がある。大坂山というのは、必ずしも二上山に限定されるものではなくて、二上山を含んだ二上火山群というべきものである。箸墓古墳の後円部に、竪穴式石室があり、その石材が北側の大池に転落しています。橿原考古学研究所々員の奥田尚氏の分析により、石材は芝山の玄武岩だというこじがわかっています。したがって、大坂山を二上山に限定せずに、二上火山群というふうにとらえれば、芝山もそこに含まれるから、大坂山の石を手越しに運び、箸墓古墳後円部の竪穴式石室に使ったということは、かなり史実性のあることだと言える。


これから、反時計まわりに一周する。
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少し行くと、「卑弥呼の庭」という、体験工房とかカフェがあった。
絶景ポイントだと書いてあったので、惹かれそうになったが、様子を見ることにした。
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更に行くと、大池の堰堤になり、水を前にして箸墓古墳が眺められる。
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だいぶ箸墓古墳が近くなった。
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大池改修記念碑のところに、絶景ポイントの説明あり、三輪山を入れるのがポイントだと。
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そういえば、三輪山とのツーショットは撮ってないと、少し戻って、良い場所を探して撮った。
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万葉歌碑あり。
「大坂に 継ぎ登れる 石群を 手逓しに越さば 越しかてむかも」
(大坂山に人々が並んで登って、沢山の石を手渡しして、渡して行けば渡せるだろうかなあ。)
日本書記 崇神天皇
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箸墓古墳にとりつくところまで来た。
前方後円墳だということがわかる。
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堰堤から下りて、方墳の辺に沿っていく。
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方墳の辺の中央に、宮内庁の「大市墓」の表示と遥拝所あり。
大市というのは、この辺の地名。
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ここから遥拝し、周囲の確認を続ける。
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遥拝所を横から。
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方墳の辺に従って、遊歩道あり。
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道路に出た。
前方後円墳の輪郭に沿って道路があり。
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方墳から円墳に変わるところがわかる。
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古墳の上は、雑木林である。
さきたま古墳のように、上にあった樹は刈り、草も定期的に刈って、古墳の輪郭がよくわかるようになっているのに慣れた目には、なんとも馴染めない。
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宮内庁の「立ち入り禁止」の表示があちこちにあり。
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道路から、いきなり古墳だからね・・・・・・・・・

振り返ると、こちらが円墳で、方墳に変わっているのがよくわかる。
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このへんは、民家が円墳のところまできている。
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左上の山が箸墓古墳です。
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400m先には、「ホケノ山古墳」もあるのだが、割愛。
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円墳のカーブどおりに道が出来ている。
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この辺は、織田氏の統治下では墳丘上にお茶室が設けられていたという。
また、後円部南東の側面に測量図で溝が見られるのは、そのふもと近辺に江戸時代、箸中長者の経営する茶店がありその影響とも思われる。
主に伊勢参りの旅人を相手に飴・甘味が名物として売られていたという。

この辺から、道路は円墳のカーブから離れて真っ直ぐとなり、古墳から離れていく。
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スタート地点に戻ってきました。
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いままで、箸墓古墳の写真といえば、水を手前にしたベストビューの写真ばかりだったので、意外や意外、民家に隣接して古墳があるということを確認して、驚いた。
まあ、この辺は、犬も歩けば古墳にあたる、と言った状況だから、珍しくもなんともない、ということだろう。

纏向駅に戻って来て、長い一日が終わりました。
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朝、大神神社に参拝してから、山の辺の道もずいぶん歩いたし、計画した神社もすべて参拝したし、充実した一日だった。
満足して、奈良駅に戻り、昨夜と同じホテルで宿泊しました。



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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