山の辺の道(狭井神社~桧原神社)・出雲屋敷跡

20170512

3月23日、青春18キップの旅二日目、素佐男神社、大神神社、狭井神社参拝のあと、山の辺の道を「茅原の出雲屋敷跡」周辺を訪ね、ついでに桧原神社まで山の辺の道を歩いた。

今回の青春18キップの旅のサブテーマは「出雲族の痕跡探索」であり、一日目も下鴨神社横に広がる「出雲路」地区を探索した。
ここ大和にも、当然その痕跡はあるが、効率よく神社巡りをしつつなので、「茅原の出雲屋敷跡」と「草川の出雲屋敷跡」を訪ねることにした。
「草川の出雲屋敷跡」は、午後にJR巻向駅から穴師兵主神社を訪ねるときに通ることにして、
ここでは「茅原の出雲屋敷跡」である。

この情報は岡本雅亨氏の『出雲を源郷とする人たち』から得た。

『出雲を源郷とする人たち』に掲載の図
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栄長増文氏の『大和出雲の新発見』では、出雲屋敷と呼ばれる地が、纏向山の宮古谷、兵主神社一の鳥居近くの草川、神武天皇聖蹟碑建立地あたりの茅原の三カ所が挙げられている。

茅原の出雲屋敷については、1943年、内閣官房総務課が刊行した『紀元二千六百年祝典記録』において、「神武天皇聖蹟ノ調査保存顕彰」 事業報告で、神武天皇が伊須気余理比売命の家で一夜を過ごした所は、「裡俗此の辺を出雲屋敷と称す」としている。

狭井神社前の山の辺の道を「玄賓庵」の方向に向かう。
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しばらく、狭い道が続く。
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展望が開けたところに歌碑あり。
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狭井河よ 雲立ち渡り 畝火山 木の葉さやぎぬ 風吹かむとす
/伊須気余理比売
筆:月山貞一

意味:
狭井河の方から雲が立ち起こって、
畝傍山の樹の葉が騒いでいる。
風が吹き出しますよ。

神武天皇がお隠れになってから、その庶兄の当芸志美美命が、皇后の伊須気余理比売に言い寄るのであるがその時に、三人の皇子たちを殺そうとして謀ったので、母君の伊須気余理比売がご心配になって、歌でこの事を御子たちにお知らせになった。
神武天皇の皇后の伊須気余理比売の歌で、叙景歌であるが、危急を知らせる風刺歌である。「風吹かむとす」は危険が迫っていることの隠喩。

そのすぐ先に「狭井川」があり。
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山の辺の道の下のほうは、まあまあだが、
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山の方は、ほんとに小さい川である。
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その狭井川のほとりにある建物は、1965年に人間国宝の月山貞一(がっさんさだいち)刀匠が開いた日本刀鍛錬道場である。
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国指定重要無形文化財保持者(人間国宝)の刀工月山貞一(1907~1995)は、明治40(1907)年11月8目、大阪市東区鎗屋町に刀鍛冶月山貞勝の第三子として生まれる。本名昇(のぼる)。
月山家は鎌倉時代に発祥した出羽月山鍛冶を祖とし、享和元年に生まれ家業を継いで月山鍛冶となった月山貞吉(本名奥山弥八郎)が天保4年ころに大阪に移住したことに始まる大阪月山家の正系に当たる。
大正7(1918)年、初代貞一の死去のころから父貞勝より刀工を学び、同12年16歳で大阪美術協会展に貞光の銘で初入選。昭和2年から3年にわたり、内務省神宮司庁の依頼により父とともに皇大神宮式年御料神宝太刀58振、鉾43柄の制作にあたる。同4年父とともに昭和天皇の佩刀、大元帥刀を制作。同10年大阪から奈良吉野山に鍛刀場を移し、同18年奈良樫原の月山日本刀鍛錬場に移る。同年12月父の死去に伴い、大阪陸軍造兵廠軍刀鍛錬所の責任者となる。同20年8月敗戦後、マッカーサー指令により刀剣製造が禁止され、伝統技術衰退の危機をむかえるが、その中にあって同23年財団法人日本美術刀剣保存協会が設立され、同29年武器製造法令により文化財保護委員会から作刀許可を受けて日本刀制作の伝統保存が計られるようになるまで、刀鍛冶の火を守り続けた。同31年刀銘貞光を貞照とし、同41年祖父の銘を受けて二代貞一を襲名。
この間の同40年奈良県桜井市茅原に月山日本刀鍛錬道場を開設する。

情報では、奥出雲(日刀たたら)産の玉鋼による作刀が行われていたそうである。

ここから開けた感じになり、いよいよ「出雲屋敷跡」だなと思わせる。
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【出雲屋敷跡】

人里だという感じである。
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額田王の歌碑があった。
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(長歌) うま酒 三輪の山 あをによし 奈良の山の 山の間に いかくるまで 道のくま いさかるまでに  つばらにも 見つつ行かむを  しばしばも みさけむ山を 心なく 雲の  かくさふべしや
(反歌) 三輪山を しかもかくすか 雲だにも 心あらなむ かくさふべしや

調べてみると、この歌は近江遷都にあたって、詠われた歌だという。

意味:
(長歌) 美しい三輪の山、あの山が奈良の山の山の間にかくれるまで、長い道の幾曲りを重ねるまで、しみじみとふりかえり見ながら行こうものを、幾度も幾度もふりさけて眺めてやろうと思う 山であるに、その山を、無情にも、雲がさへぎりかくすといふ事があるべきか。

(反歌) 三輪山をあんなにかくすのかナア。せめて雲だけでも思いやりがあってほしいものだ。あんなにかくすといふ事もあるべきだろうか。

うま酒:三輪の枕詞
あおによし:奈良の枕詞
道のくま:道の曲がり角
いさかるまで:い積るまでに 道の曲がり角がいくつも重なるまでに

その反対側にも歌碑があり。
これは気が付かずに行き過ぎるところだったが、後述のカフェの人が教えてくれた。

神武天皇の歌碑である。
来たほうを振り返る。
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道路から上がったところに、小さな歌碑がポツンとあり。
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歌は「葦原の しけしき小屋に 菅畳 いやさや敷きて わが二人寝し」

これは『古事記』、「神武天皇の巻、「伊須気余理比売」の段に書かれている。
ちょっと長いが、現代語訳で載せておく。

 さて、イハレピコノ命(神武天皇)が日向におられたときに、阿多の小椅君の妹のアヒラヒメという名の女性と結婚してお生みになった子に、タギシミミノ命とキスミミノ命の二柱がおられた。
けれどもさらに皇后とする少女をさがし求められたとき、オホクメノ命が申すには、「ここによい少女がおります。この少女を神の御子と伝えています。神の御子というわけは、三島のミゾクヒの娘に、セヤダタラヒメという名の容姿の美しい少女がありました。それで三輪のオホモノヌシノ神が、この少女を見て気に入って、その少女が大便をするとき、丹塗りの矢と化して、その大便をする厠の溝を流れ下って、その少女の陰部を突きました。そこでその少女が驚いて、走り回りあわてふためきました。そしてその矢を持って来て、床のそばに置きますと、矢はたちまちりっぱな男性に変わって、やがてその少女と結婚して生んだ子の名を、ホトタタライススキヒメノ命といい、またの名をヒメタタライスケヨリヒメといいます。
これはその「ほと」ということばをきらって、後に改めた名である。こういうわけで神の御子と申すのです」 と申し上げた。
 さて、七人の少女が、高佐士野に出て野遊びをしていた。イスケヨリヒメもその中に加わっていた。するとオホクメノ命は、そのイスケヨリヒメの姿を見て、歌でもって天皇に申し上げるには、
「大和の高佐士野を七人行く少女たちよ、その中のだれを妻としようか。」
このときイスケヨリヒメは、その少女たちの先頭に立っていた。そこで天皇は、その少女たちを見て、お心の中でイスケヨリヒメが一番前に立っているのをお知りになり、歌をもってお答えになるには、
「ともかくも一番先に立っている、年上の少女を妻としよう。」
そこでオホクメノ命が、天皇のおことばをそのイスケヨリヒメに告げ明かしたとき、姫はそのオホクメノ命の入墨をした鋭い目を見て、ふしぎに思って歌っていうには、
「あま鳥・つつ・千鳥・しととのように、どうして目じりに入墨をして、鋭い目をしているのですか。」
するとオホクメノ命が答えて歌っていうには、
「お嬢さんにじかにお逢いしたいと思って、私は入墨をしてこんなに鋭い目をしているのです。」
こうしてその少女は、天皇に「お仕えいたしましょう」と申した。
 ところでそのイスケヨリヒメの家は、狭井河のほとりにあった。天皇は、そのイスケヨリヒメのもとにお出かけになって、一夜おやすみになった。その河を佐韋河というわけは、その河のほとりに山百合がたくさん生えていた。それで、その山百合の草の名を取って佐韋河と名づけた。
山百合の本の名は佐韋というのである。 その後、そのイスケヨリヒメが宮中に参内したとき、天皇が御歌にお歌いになるには、

葦原の中の荒れたきたない小屋に、菅の筵を清らかにすがすがしく敷きつめて、私たちは二人で寝たことだ。

そしてお生まれになった御子の名は、ヒコヤヰノ命、次にカムヤヰミミノ命、次にカムヌナカハミミノ命(綏靖天皇)の三柱である。

この川の辺は山百合が多いので、その名をとってサヰ川と名づけたという。
4月18日大神神社と狭井神社で行われる鎮花祭(はなしずめのまつり)と、率川神社(いさがわ)の6月17日、三枝祭(さいぐさまつり、三輪山の麗に咲いた笹百合の花で飾った酒樽を神前に供える)の起源を思わせる。

大神神社で買い求めた『三輪山の神々』という本の中で、塚口義信氏は、この「聖婚」の意味を次のように記述している。
「狭井川のほとりに住んでいたイスケヨリヒメが大物主神の娘であったということは、要するに、イスケヨリヒメが大物主神を祭っていた巫女であったことにほかなりません。だから神武天皇はどうしても、この女性と聖婚をする必要があったわけです。そうでなければ、大和の国の宗教的権威を手中に収めることができなかったのです。ただし、これが歴史的事実に基づくものではなく、あくまでも観念上のものであるということについては、ここで改めて申し上げるまでもない」

大和地方を支配していた、大物主神(大国主の和魂)を奉じる出雲族を「天孫族」が武力で征服し、次いで精神的に支配したのが、この「聖婚」であると考えることができると思う。
そして神武天皇と出雲族の姫との間に出来た子が、綏靖天皇となる。


この辺は、山間に挟まれた平地であり、果樹の畑などが広がっていた。
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当初、この小さな神武天皇の歌碑に気付かずに通り過ぎようとしたが、ここに瀟洒なカフェがあり、この辺の土地の人に話を聞きたい気持ちもあったので、このカフェで休むことにした。
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コーヒーを飲みながら聞けば、この土地の若い夫婦がやっているカフェであった。

・この辺に何も説明する表示は無いが「出雲屋敷跡」だということは、お二人は知っていた。
・この辺には「出雲」という姓の家は無い。
・カフェのご主人が、歌碑はわかりましたか?と聞いて来たので、伊須気余理比売と額田王のがあったと答えると、神武天皇の歌碑を教えてくれた。きっと小さいので見過ごす人が多くて、教える機会が多いのだろう。

コーヒーも美味しかったし、気持ちのいい空間でした。

また歩き出してすぐに、大神神社の末社・貴船神社があった。
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ここにも社殿の横に磐座があった。
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しばらく開けたところを行きますが、また山にかかります。
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山道をしばらく歩く。
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「玄賓庵」の前に出ました。
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時間の関係から、残念ですが寄りませんでした。

かなり気になった石仏群だったが、通り過ぎました。
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ちょっと険しい山道に。
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小林秀雄氏筆の「山邊道」碑
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また、山道を進んでいく。
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滝の入り口に歌碑あり。
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歌:高市皇子尊  巻2-158
筆:安田靫彦

山振之 立儀足 山清水 酌ニ雖行 道之白鳴
やまぶきの たちしげみたる やましみず くみにゆかめど みちのしらなく

山吹が花のよそおいをこらしている山の清水を汲みに行こうと思うが、道のわからないこと。

山吹の黄と、清水の泉とを合わせて黄泉(よみ)の国の意を裏に含ませている。
また、黄泉の国まで訪ねていくことを上からの縁で「汲ミニ行ク」と言っている。

高市皇子が、十市皇女の急逝に三首の歌を作った内の一つ。
あとの二首は、
 神山の 山邊真蘇木綿 みじか木綿 かくのみ故に 長しと思ひき 
  
 三諸の 神の神杉 夢にだに 見むとすれども 寝ねる夜ぞ多き
    三輪山の神杉を見るように、せめて夢にだけでも 十市皇女を見ようとするけれど、
悲しみのために眠れず、夢さえもみることのできない夜が多いことだ

十市皇女は、父が天武天皇、母は額田王。大友皇子(天智天皇の皇子)の妃となる。
壬申の乱で父と夫が戦い、板ばさみとなる。
戦いが終わり、5年9ヶ月後の天武7年4月(678年)発病し、急逝した。
高市皇子は、天武天皇の長子で十市皇女とは異母兄妹になる。

奥の滝は、山の辺の道を歩いてきた者にとっては「甘露の滝」である。
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しばらく行くと、桧原神社に到着だが、その直前に万葉歌碑あり。

歌:柿本人麻呂  巻10-1814
筆:徳川宗敬
古 人之殖兼 杉枝 霞霏「雨微」 春者来良芝
古の人の植ゑけむ杉か枝に霞たなひく春は来ぬらし
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桧原神社に到着しました。
次回の記事とします。


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義仲寺(木曽義仲・巴の墓、俳聖松尾芭蕉の墓)

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所在地:滋賀県大津市馬場1丁目5-12
訪問日:2016年8月3日

青春18キップの旅の二日目、多賀大社に参拝し、彦根駅に戻り、東海道本線快速で石山まで行き、普通に乗換「膳所(ぜぜ)」駅で下車。
朝、計画より1時間20分早く出たのが、多賀大社でじっくり過ごした関係で、膳所駅に到着したのは計画より50分速い状況。

徒歩300mだというので、のんびりと歩く。
道標のある三叉路に来た。
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道標には「右義仲寺」とあります。結局どっちに行っても義仲寺に行けますが、ちょっとでもいいから旧東海道を歩きたくて右に行きます。
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旧東海道に出たら、左折。これが旧東海道。
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「東海道名所図会 義仲寺」を見ると、琵琶湖の縁を旧東海道が行ってたんですね。
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旧東海道を5、60mほど歩くと、もう義仲寺に着いてしまう(汗)
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国指定史跡です。
紫金の「しぐれても道はくもらず月の影」が刻まれた石灯篭を、キリシタン灯篭だと言う人もいるらしい。
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この義仲寺は、今回の旅でどうしても来たかった所。
木曽義仲には、かなりの思い入れがあり、また住んでいるところの近くの入間川河原で、木曽義仲の嫡子義高が討たれている。
俳聖松尾芭蕉の墓もあるので、なおさらである。

受付で拝観料を払い、チケットをいただく。
この絵もいいものだ。
「芭蕉翁絵詞伝」は、松尾芭蕉の研究と顕彰に生涯をささげた京の俳人五升庵蝶夢が、寛政4年、芭蕉百回忌に芭蕉の伝記をまとめ、狩野正栄の絵をさし入れ、絵巻物として義仲寺に奉納したもの。
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 義仲寺は、大津市馬場一丁目にあり、旧東海道に沿っている。このあたり、古くは粟津ケ原といい、琵琶湖に面し、景勝の地であった。朝日将軍木曽義仲公の御墓所である。
治承四年(1180)、義仲公は信濃に平氏討伐の挙兵をし、寿永二年(1183)五月、北陸路に平氏の大軍を討ち破り、七月京都に入られた。翌寿永三年正月二十日 (四月改元して元暦元年)、鎌倉の源頼朝の命を受けて都に上ってきた源範頼、義経の軍勢と戦い、利なく、この地で討ち死にされた。享年三十一歳。
 その後、年あって、見目麗しい尼僧が、この公の御墓所のほとりに草庵を結び、日々の供養ねんごろであった。里人がいぶかって問うと、「われは名も無き女性」と答えるのみである。この尼こそ、義仲公の側室巴御前の後身であった。尼の没後、この庵は「無名庵」ととなえられ、あるいは巴寺といい、木曽塚、木曽寺、また義仲寺とも呼ばれたことは、すでに鎌倉時代後期弘安ごろの文書にみられる。
 時代は移り、戟国のころには、当寺も大いに荒廃した。時に近江国守佐々木侯は、石山寺参詣の途次、この地を見て、「源家大将軍の御墳墓荒るるにまかすべからず」と、当寺を再建し寺領を進めた。そのころ当寺は石山寺に、近世に至って三井寺に属した。
 貞享年間(1684~8)に大修理の記録があり、芭蕉翁がしきりに来訪し宿舎としたのは、このころからである。元禄七年(1694)十月十二日、芭蕉翁は大坂の旅窓で逝去されたが、「骸は木曽塚に送るべし」との遺言によって、遺骸を当寺に運び、現在地に墓を建てた。
 明和六年(1769)に蝶夢法師の中興があり、その後も、安政三年(一入実)の火災、明治二十九年(1896)の琵琶湖大洪水の後、明治四十五年と、たびたびの改修が行われたが、大東亜戦争を経て戟後において、寺内全建造物の荒廃その極に達し、壊滅に瀕した。ここにおいて、昭和四十年(1965)、三井寺円満院より買い取り、宗教法人法による単立寺院とし、寺域を整頓し、朝日堂、無名庵の改築、翁堂の修復をなし、同年の時雨忌に昭和再建落慶の法要を行った。この再建に要した一切の費用は、東京在住の一個人の篤志家の寄進によったもので、子細は境内の昭和再建碑に記されている。
 本寺は、昭和四十二年十一月、境内全域が文部省より国の史跡に指定された。

境内見取り図
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最初に墓参をしました。
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○義仲公墓(木曽塚)
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芭蕉翁は木曽塚ととなえた。義仲公の忌日「義仲忌」は、毎年一月の第三土曜日に営む。
義仲寺のリーフレットには、芭蕉が義仲を詠んだ句を二つ載せている。
燵山にて(元禄二年)
燵山は、福井県今庄町にある源平争乱期木曽義仲の城があったといわれている。
「義仲の寝覚の山か月悲し」
この句は、倶利伽羅峠の芭蕉塚に句碑があった。

無名庵にての作(元禄四年)
「木曽の情雪や生ぬく春の草」

○巴塚
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私は、「関東36不動めぐり」で、横浜市保土ケ谷区和田にある「和田不動」を訪ねたときに、巴御前が和田義盛の妻になったと知り、驚いた。和田で亡くなったのかと思っていたが、膳所に移っていたのだった。

○山吹供養塚
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「山吹は義仲の妻そして妾とも云う病身のため京に在ったが、義仲に逢わんと大津まで来た。義仲戦死の報を聞き悲嘆のあまり自害したとも捕られたとも云われるその供養塚である。元大津駅前に在ったが大津駅改築のため此の所に移されたものである」と説明にある。
山吹姫については、埼玉県嵐山町の「班渓寺」に墓と位牌があり、私は何度かお参りしている。

○芭蕉翁墓
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 芭蕉翁は元禄七年(1694)十月十二日午後四時ごろ、大坂の旅舎で亡くなられた。享年五十一歳。遺言に従って遺骸を義仲寺に葬るため、その夜、去来、其角、正秀ら門人十人、遺骸を守り、川舟に乗せて淀川を上り伏見に至り、十三日午後義仲寺に入る。十四日葬儀、深夜ここに埋葬した。門人ら焼香者八十人、会葬者三百余人に及んだ。其角の「芭蕉翁終焉記」に「木曽塚の右に葬る」とあり、今も当時のままである。
墓石の「芭蕉翁」の字は丈艸(じょうそう)の筆といわれる。
 芭蕉翁の忌日は「時雨忌」といい、当寺の年中行事で、現在は旧暦の気節に合わせて、毎年十一月の第二土曜日に営んでいる。

○巴地蔵堂
 山門前右手の堂に、石彫地蔵尊を祀る。巴御前を追福するもので、以前より遠近の信仰深かった。八月の地蔵盆は、現在も町内の人々によって、例年奉仕されている。
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墓参を終え、あとは見学をしました。

「資料観」
 粟津文庫に収蔵の史料什宝を適時取り替え展観している。昭和五十一年秋、文庫改築のときに開設した。
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「芭蕉翁絵詞伝」
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「芭蕉翁の椿の杖」
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「木曽義仲公像」
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歌川国芳の「義仲公版画」
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「朝日堂」
 義仲寺本堂で、本尊は木彫聖観世音菩薩。義仲公、義高公父子の木像を厨子に納める。義仲公、今井兼平、芭蕉翁、丈艸諸位ほか合わせて三十一柱の位牌を安置する。現在の朝日堂は昭和五十四年(1979)十一月改築されたものである。
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ご本尊の木彫聖観世音菩薩
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諸ご位牌
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義仲公、義高公父子の木像が納まっている厨子。
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義仲公木像(義仲寺リーフレットより)
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清水義高に関係の深い地に住んでいるので、今回の参拝の目的の一つは、厨子に納められている義高像の写真が載っている本や冊子がありはしないか探す目的があった。
ネットで探しても見つからないので。
受付の方に、希望を話したところ、受付で販売している本・資料を一緒に探したが載っていなくて、その方が色々探してくださり、写真が小さくて良くないがと、寺の資料を見せてくださった。
だいたい、どういうお姿なのかは知ることが出来たので、とても有難かった。
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「翁堂」
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 正面祭壇に芭蕉翁座像、左右に丈艸居士、去来先生の木像、側面に蝶夢法師陶像を安置する。
正面壁上に「正風宗師」の額、左右の壁上には三十六俳人の画像を掲げる。天井の絵は、伊藤若沖筆四季花卉の図である。翁堂は蝶夢法師が明和六年(1769)十月に再興。翌七年に画像完成。安政三年(1856)類焼、同五年再建。現在の画像は明治二十一年(1888)に穂積永機が、類焼したものに似た画像を制作し奉納したものである。
 芭蕉翁の像に扇子をたてまつる当寺の年中行事「奉扇会」は、明和六年に蝶夢法師の創始になるもので、毎年五月の第二土曜日に行う。

伊藤若沖筆の天井画
花卉図は若冲最晩年の大仕事、石峰寺観音堂の天井画として描かれたとみられている。明治の初めに観音堂が壊された際、古美術商の手に渡り、めぐりめぐって現在、義仲寺と信行寺(非公開)に残っているのだそうです。
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「資料観」にデジタル複製されたものが一つ置いてあり、間近に見ることができた。
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芭蕉翁座像
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丈艸居士
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去来先生
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蝶夢法師陶像
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「木曽八幡社」
 木曽八幡社は、義仲寺の鎮守として、古図に見える。昭和五十一年(1976)社殿鳥居を併せ新造、十一月十三日夜、遷宮の御儀を行った。
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あと、境内の句碑であるが、全部写真は撮ってきたが、記事が冗長になるので、ここでは芭蕉の句碑だけアップするに留めます。

「行春をあふミの人とおしみける  芭蕉桃靑」
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「旅に病で夢は枯野をかけ廻る 芭蕉翁」
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「古池や蛙飛びこむ水の音 芭蕉翁」
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佐渡の赤石
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これで、参拝を終え、日陰でしばしくつろぎました。
とても気持ちのいい空間でした。
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もう一度、墓石群(手前から巴、義仲、芭蕉)に気持ちを残して退出しました。
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最後に、受付で「大津絵」を買ったので、一枚載せておく。
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ここを出て、すぐのところに美味しそうなラーメン屋があったので、そこで昼食。
食べ終わって、時間を見たら計画していた電車に間に合いそうだった。先の米原駅で昼食の時間を予定に入れてあるので、あわてることは無かったが。
急ぎ足で歩いていると、クラクラッとめまいが来た。
・・・やばい、熱中症だ・・・・・

しばらく立ち止まり、休息して、気持ちは焦っているが並足で・・・・・・
それでも、予定どおり膳所駅12:03の電車に間に合って、次の目的地「南宮大社」のある、美濃の「垂井」駅に向かった。



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余呉湖の伝説探訪

20160813

青春18キップの旅の初日(8月2日)、敦賀の気比神宮、近江高島の白髭神社のあと、ここにきました。
余呉湖(よごのうみ)は琵琶湖の北に位置する一周約6キロ、最大水深13メートルの湖。
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この写真は、今朝大垣から敦賀に向かう電車の中から撮ったもの。
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今、故郷の富山県福光町(金沢の隣町)に帰る時は北陸新幹線で大宮から金沢まで「かがやき」で2時間と5分。その前は、上越新幹線で越後湯沢まで、そこから特急「はくたか」で金沢まで帰った、4時間半。
そして、その前は東海道新幹線で米原まで、そこから特急「しらさぎ」などで帰った。
そのときには、当然余呉湖の横を走っていくので、いつも見ていた景色だ。

今回、余呉駅に立ち寄ったのは、当初計画では「乎弥(おみ)神社」。次いで隣の駅木ノ本から「伊香具神社」という計画だった。
この二社は、有名な「羽衣伝説」にゆかりの人物が祭神となっている。
が、ロマンチックな「羽衣伝説」だからではなく、もうおわかりだと思うが、気比神宮から始まって、この日訪ねているのは何れも渡来人の影が濃い神社ばかりです。
今年、武蔵国旧高麗郡では、ちょうど高麗群建郡1300年ということでかなり盛り上がり、私も渡来系神社についてかなり関心が高くなっているので。

この日、計画よりは1時間ほど先行しているので、ここで2時間使うことにして、余呉湖周囲を自転車で探索することにした。目的は余呉駅の対岸の辺にある「新羅崎神社跡」であるが、同時に伝説を訪ねることにもなった。

どうして一時間先行出来たかというと、「ムーンライトながら」で大垣に着いたら、洗面・朝食などでゆっくりしようと、30分ほど時間を取った。ところが、ほとんど眠れなかったので車内で持参のおにぎりなど食べてしまっていたし、大垣駅に着いたら皆走っていくので、それにつられて(笑)、先の電車に飛び乗ったら、米原で接続の北陸線が敦賀行き(計画では近江塩津で乗換)だったので更に効率よく、結果として1時間計画より早く敦賀に着いたのである。

ここでは、余呉駅で自転車を貸してくれることがわかっていた。
空いているかどうかドキドキだったが、まだ5台くらい余裕があった。
ここでは500円で、16:30までに返してくれれば良いということだった。

炎天下、エッチラオッチラ自転車を走らせて、まずは「天女の衣掛け柳」に。
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「天女の衣掛け柳」
左にあるのが、借りたママチャリ。
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羽衣伝説は日本各地にあるが、最古の羽衣伝説とされるものは風土記逸文として残っており、滋賀県長浜市の余呉湖を舞台としたものが『近江国風土記』に、京都府京丹後市峰山町を舞台としたものが『丹後国風土記』に見られます。どちらも1200年以上前に書かれたもの。
特に『近江国風土記』に書かれている説話が日本最古の羽衣伝説として有名。

『近江國風土記』から:
 「近江の国伊香の郡にある余呉の湖に天の八女(やおとめ)、ともに白鳥(しらとり)となって天より降り、湖辺で水浴をせし。この時、伊香刀美、西の山でこの白鳥を見て、この形もしや神人と疑い、浜辺に往って見るに、真にこれ神人なりき。伊香刀美、感愛を生こし、白き犬に妹の天の羽衣を盗ませし。姉の七人の天女は天上に帰りしが、妹は羽衣無く天上に帰れず。伊香刀美、この天女と夫婦となり、男女二人ずつをもうけし。兄の名は意美志留(おみしる)、弟、那志等美(なしとみ)、姉、伊是理媛(いせりひめ)、妹、奈是理媛(なせりひめ)。これは伊香連(いかごのむらじ)等の先祖でなりき。後に天女、羽衣を探し当て、天上へと帰りし。伊香刀美は一人空しく床を守り嘆くことしきりなし。」
天女の羽衣を隠した伊香刀美はこの地方を治めた伊香連の祖先とされています。

岡谷公二氏の『神社の起源と古代朝鮮』では、「かって新羅の地であった江原道金剛山温井里に伝わる、羽衣伝説(依田千百子『朝鮮神話伝承の研究』による)を紹介したあと、天女伝説のあるところは決まって渡来人の多く住んだところだと言う。付け加えるなら、その渡来人の多くは新羅=伽耶系であった。余呉について言うなら、前述のように、ここには天日槍を祀る神社が二つ(新羅崎神社と鉛練比古神社)もあり、その上天日槍が山を削り、余呉湖の水を排して湖面を狭め、田畑を開拓したという言い伝えさえもあるのだ(『近江伊香郡志』)」と書かれている。

余呉湖近くにあり、最後に訪ねる予定の「乎弥(おみ)神社」の祭神は臣知人命(おみしるのみこと)と梨迹臣命(なしとみのみこと)で、この二神は天女伝説のなかの意美志留、那志等美です。
また、余呉町に隣接する木之本町大音にある「伊香具神社」は白鳳時代(七世紀後半から八世紀前半)に建立された神社で祭神は伊香津臣命で、伝説の中の伊香刀美を示し、伊香連を意味します。

衣掛け柳の下から、余呉の湖対岸の上に賤ヶ岳が見える。
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400年前の柴田勝家と羽柴秀吉との、「賎ヶ岳の合戦」でよく知られたところで、余呉湖は血の色に染まったといいます。中でも特に激しかった戦いは、勝家の先鋒佐久間盛正との戦いで、世に言う「賎ヶ岳の七本槍」 (実際は七人ではなく九人らしい。七本は後の人がつけた名称です)としてよく知られています。

いまは、真夏の昼どき、誰も居なくて静かなものです(笑)
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そこから少し行くと、天女像があった。
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左側に「天女の衣掛け柳」が見える。
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それからまた、エッチラオッチラ自転車で向かったのは、余呉湖の余呉駅と反対側にある「新羅崎神社跡」。

その目印になるのが、菊石姫伝説の「蛇の目玉石」。
その伝説は次のようなもの。
余呉湖より二丁余り西、桐畑口というところに桐畑太夫という都からの落人が住んでいた。弘仁二年の春の終わり、太夫最愛の一人の女の子が生まれました。
菊石姫と名付けられたこの娘は、7、8歳になると次第に蛇体の姿となったので、太夫も家に置いておくものではないと、屋敷から一丁余り東北の屋賀原というところに仮家を建て、捨て置きました。
食物も与えられなかったので、菊石姫のお守係の下女が憐み、自分の食物を与えて養育していました。菊石姫が十七、八歳になった夏、川並村は長い日照りに見舞われました。毎日強い夏の日差しが続き、一滴の雨も降りませんでした。 村人達は次第にしおれて行く作物を見ると、胸が締め付けられる様な思いでした。
これまで仮家に閉篭もって一歩も外へ出た事のない菊石姫が、仮家から外に出て、湖の傍に立ち、じっと湖面を眺めていました。しばらく湖面を眺めていた菊石姫は意を決して乳母に「今から、私はこの湖の主になり、雨を降らせて、村人を救ってあげます。」と言いました。
そのとき、片目を引き抜き、「龍の目玉は宝や金では求め難いもの。大切にしなさい。」と長く養育してもらったお礼として下女に与えました。
形見の品として大切にしていた目玉だったが、やはり病を治すのによく効き、その他にもいろいろ不思議なことがあました。
このことが上の人の耳に達し、差し出すように命じられました。
下女は仕方がなく差し出しましたが、龍の目は両眼とも持参せよとのご上意で、片目しかない訳を話しても追及は続く。
耐えられなくなった下女は、湖の西、新羅の森から「菊石姫、菊石姫」とよびました。すると、にわかに湖水が波立ち、水を左右に分けて乱れた髪でやって来ました。
下女は「両眼を差し出せねば、火責め水責めにあう。」と訴えた。
菊石姫は「養育の恩は深い。自分は両目を失っても命の別状ない。しかし、盲目となったら時刻を知ることはできないから、湖水の四方にお堂を建て、時を知らせる鐘をついてくれと、太夫に伝えてください。」といって目玉を抜き、石に投げつけました。
目玉のあとが石に鮮やかについた。この石を名付けて「目玉石」といいます。
目玉石のそばに、長さ3尺横1尺ばかりの石があり、これを枕に菊石姫はしばし休みました。 「これからは私を呼んではなりません。もし会いたくなったら、この石を見なさい。」そういって湖中に消えていきました。この石を「蛇の枕石」と呼んでいます。
両眼を地頭に差し出した下女は助かったが、菊石姫の母はこのことを聞いてから病の床につき、ほどなくしてなくなりました。それからは太夫も病弱になって、菊石姫のことを案じ、湖畔の7つの森にお堂を建てて、時の鐘をつかせました。
菊石姫が盲目となってより、水青く晴天の日でも底が見えなくなったといいます。

これは、余呉湖周遊の道沿いにあり、簡単にわかりました。
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「目玉石」
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道路側
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湖側
こちらに目玉のあとと思しき窪みがあり。
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ここから見える余呉湖
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さて、問題の「新羅崎神社跡」です。
いま居るところが、「白木」森であり、その山中に「新羅崎神社旧跡」と刻まれた碑が立っているのだが、上がり口は、「菊石姫と蛇の目玉石」の傍の「新羅崎の森濠」説明板のところを入っていくと説明されている。

その説明
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上りはじめてすぐに、濠跡らしきものはあり。
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さあ、そこからである・・・・・・・
石碑が、幾ら探してもわからない(泣)
時間は迫る(汗)

ついに石碑一本、ということなので、あきらめました(涙)。

新羅からの渡来人である天日槍(あめのひぼこ)関連の神社で、明治末期の神社統合のおりに廃止され、近隣の北野神社に合祀された。祭神の新羅大明神にちなんで、明治までは白木神社と書きこの一帯の森は白木の森と呼ばれたとのこと。とにかく今は1柱の石碑が残るのみである。

北野神社は、ちょっと山に入ったところにあり、最初からあきらめていました。

朝、ラッキーにも一時間ほど時間を稼げたので、ここで2時間過ごすことにしたが、まだ「乎弥(おみ)神社」が残っている。余呉駅に停まる北陸線の普通電車は1時間に1本。今日中に隣の木ノ本駅に移動して、「伊香具神社」にも行かなくてはいけない。

ということで、またエッチラオッチラ自転車で、「乎弥(おみ)神社」に向かいました。

なので、今回の記事は、それが目的ではなかったが、「伝説探訪」ということになった。


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法隆寺の仏像の意味

20130204

2月2日に、日本青年館大ホールで行われた、JR東海の奈良学文化講座「法隆寺、その祈りと仏像に秘められた謎」という講演会に行ってきました。
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これは往復はがきで参加申し込みをして、当日参加費1000円を払うというもので、定員は1360人でした。

講演は次の二つでした。
「法隆寺のみほとけと宇宙-釈迦三尊と救世観音、伝百済観音の造形について」/奈良教育大学教授・山岸公基氏

「歴史を遡って見る法隆寺の実相-平安・鎌倉時代の姿から」/実相寺住職&種智院大学前学長・頼富本宏氏

ところが、私がうっかりして、この日に二つの催しに申し込んでしまい、夕方から他の催しにどうしても参加したかったので、こちらの方は前半の山岸氏の公演のみ拝聴してきました。

内容は、法隆寺の仏像のなかで、釈迦三尊、弥勒菩薩、救世観音、及び伝百済観音が何を表しているか、というものでした。
その概要をここに述べておきます。


1.釈迦三尊像(西院金堂本尊)3躯 各銅造 鍍金 像高8&4c皿(中尊釈迦如来坐像)・
92.4c皿(右脇侍菩薩立像)・90.7cm(左脇侍菩薩立像) 飛鳥時代前期[契未年=推古天皇
31年(623)] 司馬鞍首止利作
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法隆寺金堂釈迦三尊像中尊は、須弥山上に位置づく釈迦如来を表現している。
釈迦の神格化の過程で、亡母摩那(マーヤー)への説法のため須弥山の頂、忉利天に上り、三道宝階を降下してインド北部サンカシヤに帰還した、との伝説が流布した。この伝説に基づいて須弥山上で説法する釈迦の図像が生み出され、婆婆世界最高の高山にあって精神世界を指導するブッダにふさわしい姿とみなされた。

須弥山とは、古代インドの宇宙観の中で我々の小宇宙、婆婆世界の中央にそびえる山で、日本には仏教の伝来に伴ってその観念が伝播した。『倶舎論』によれば、須弥山は二重デコレーションケーキのような形状の風輪、水輪、金輪の上面、四大海の中央に位置し、高さは八万由旬(8万×7.2Km)、婆婆世界最高の高山である。我々が住むのは須弥山の南、贍部洲(南閻浮提)であり、須弥山中腹には四天王天、山頂には忉利天があり、帝釈天をはじめとする神々が住む。
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2.弥勒菩薩(成仏後は弥勒仏)
中宮寺弥勒菩薩
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 釈迦の死後、後継者弥勒が兜率天での-生を終え南閻浮提に再生するまでには56億7千万年という法外な時間の経過が必要とされている。
兜率天での姿を表現する際には菩薩、下生し悟りを開いた後の姿を表現する際には如来としてあらわされる。弥勘を半跏思惟の菩薩として造形するのは中国南北朝時代にあっては非主流的で、三国時代の朝鮮半島、飛鳥~白鳳時代の日本列島には広く流布したが、おそらく兜率天で下界の南閻浮提の人々を気遣う姿として好まれたのであろうという。

3.観音晋薩立像(救世観音。東隣夢殿本尊) 木像(樟)飛鳥時代前期(6世紀末~7世紀前半)
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飛鳥時代前期の日本仏教の傾向から、『法華経』普門品の観音菩薩としてつくられた蓋然性が大きい。
衆生が苦悩を受けた際、一心に観音の名を称えると、観音はただちにその「音声を観じて」皆解脱することができると説かれ、万能の救済神として信仰を集めた。


4.観音菩薩立像(伝百済観音。現百済観音堂安置)1躯 木造(樟)乾漆盛上 彩色 像高210.9cm 飛鳥時代後期(7世紀中葉)【なお「百済観音」は20世紀以降の称であり、本像は朝鮮三国時代の百済とは無関係に近い。】
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『観無量寿経』の観音菩薩であると説明された。
観音菩薩は最初期には婆婆世界における万能の救済神として構想されたとみられるものの、かなり早い時期から、万能であるだけに活動の場が婆婆世界に限定されなくなる。婆婆世界の西、十万億土を隔てた阿弥陀(無量寿)如来の浄土、安楽世界(=極楽浄土)は、婆婆世界の衆生も「南無阿弥陀仏」と称えれば死後救いとられ成仏できる楽園で、観音菩薩はその教主阿弥陀の脇にも登場する。阿弥陀は別名の通り無量の寿命をもち、また婆婆世界の尺度からは法外とも思えろような偉大な体躯を持つ[『観無量寿経』真身観(十三観のうち第九)によれば、「仏身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬(60万×10の60乗×10の52乗×7.2Km)、眉間の白豪は右に旋りて婉転し、(大いさ)五つの須弥山の如し」]とされ、『観無量寿経』の観音もこれに準じることとなる。


以上のような説明であったが、スケールを持ち込んで考えると、とてつもない寸法の世界となり、まさに宇宙的規模となっているのが、吃驚した。
仏像の前に立った時、ほんとうはこれだけの巨大なスケールを持った姿なんだと思って眺めたら、これまでとまったく異なって見えるかも知れない。

私は、いままでは梅原猛著の「隠された十字架-法隆寺論」を片手に法隆寺に行ったものだが、今度法隆寺を訪ねたら、ぜひとも今回の講義をもとにして仏像に会ってきたいと思った。



法隆寺(2)/奈良

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中門
この寺は、聖徳太子鎮魂のために建てられた。従ってこの門の特徴は真ん中に柱があり、通れない構造になっているのが特徴。
封じ込めの門であり、こういう門は他には見られない。
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中門の仁王さんは、日本最古のもの。
阿形
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吽形
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中門の真ん中の柱。歴史を感じさせる風格がある。
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五重の塔
法隆寺は再建、非再建かの論争があったが、現在の建物は710年ごろ再建されたと考えられているようなので、建築後1300年経つわけで、木造建築としては世界最古。
塔の先端までの高さは32.56mであるが、この塔には一本の太い柱(心柱)が土台から塔の先端に突き出ている相輪まで貫かれているのである。
法隆寺の修復にあたる棟梁の西岡さんによると法隆寺の心柱は樹齢2千年以上、直径2.5mのヒノキの巨木を4つ割りにして使っているそうである。
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五重塔で、面白いものを発見した。
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この塔が出来たときから支えているんだよな、おぬしは(笑)
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2002年10月 撮影
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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