小野神社(延喜式内社)/神奈川県厚木市

20170811

鎮座地:神奈川県厚木市小野428
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社、比々多神社に続き、訪れました。

神社入り口
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社号標
社格等:式内社(小)、郷社(旧社格)
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創建・由緒:
 創建時期は不明ですが、『延書式神名帳』に「相模国十三座(式内社)の内、愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社です。この地域は古くから「小野の里」と呼ばれ、『和名類緊抄』にも記載されている愛甲郡「玉川郷」の中心地になっていました。
霊亀2年(716)、奈良時代の高僧行基が薬師如来の像を刻んで小野神社に奉安したと社伝に伝えられています。
 鎌倉時代には、源頼朝以来三代に渡り、御家人として将軍に仕え、弓の名手として名高く、愛甲村に舘を置く愛甲三郎季隆が当社を篤<信仰していました(季隆を筆頭に愛甲一族全体でも崇拝されていた)。古い納札には建久5年(1194)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣元の名も残っています(以降、社殿は現在までに五国改められている)。
なお、愛甲氏の本家である横山氏は小野妹子の子孫といわれています。
江戸時代末期に鎮座地の転社(移転)が行われ、また明治6年(1873)には郷社に列せられています。

愛甲三郎季隆(あいこうさぶろうすえたか):
 弓の名手として知られる愛甲季隆は、武蔵七党横山党の一族で、愛甲庄に進出し一帯を領しました。宝積寺には、季隆の妻と伝わる五輪塔が残されています。
 季隆は、下河辺行平とともに弓の名手として、源頼朝の親衛隊として仕え、頼朝の子頼家の弓の師範としても活躍。建久4年(1193)に行われた富士裾野の巻狩りでは、頼家が鹿を射止め、季隆も褒美を得たといわれています。
 元久2年(1205)、北条時政に騙されて鎌倉へと向かう畠山重忠は、二俣川で幕府軍に襲われますが、このときに重忠を射倒したのが季隆だといわれています。
 建暦3年(1213)に起こった和田合戦で和田義盛に味方し、和田一族とともに討ち死にしました。

大江広元(おおえひろもと):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献しました。

転社について:
小野神社は元々、現在の場所より西南方向に200メートル程いったところにある丘陵(通称”神の山”)に位置していました。転社(移転)時期は嘉永年間(1848~1854)の初頭頃と考えられています。現在は丘陵は私有地となっていて、小野神社に代わって秋葉神社の小祠が鎮座しています。(この小祠自体は、小野神社の転社後に建てられたものと思われます)

小野神社由緒が石碑に書かれていた。
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手水舎
手水鉢が岩を使用した立派なものだった。
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鳥居
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拝殿
拝殿は嘉永元年(1848)に造営された後、藁葺屋根でしたが、昭和43年には鉄板葺に替えられています。
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扁額
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 扁額に現在も残っている「閑香(かんこう・あいこう)大明神」は江戸時代に称していた名で、小野の「閑香さま」
と一般には呼ばれていました。
江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』からは、当時の社名が「閑香大明神」、祭神は「下春命」であったことがわかります。祭神が現在の日本武命となったのは、明治時代に入ってからで、「日本武尊が東国に遠征する際に野火の焼きうちにあった」という『古事記』の記述の地が、小野と関係するとされたことによります。

本殿
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本殿の神門が新しかった。
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本殿の床が高床になっている。
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ご祭神は、日本武命、下春命(江戸時代まで)

下春命(したばるのみこと)=天下春命(あまのしたばるのみこと)
『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。
そのとき、警護のために天より<だされた三十二神のうちの一神。
武蔵の秩父国造らの祖。開墾の神として祀られる事が多く、多摩市の小野神社と府中市の小野神社などに祀られている。

境内社
八坂神社、春日神社、淡島神社、阿羅波婆枳(あらはばき)神社、古登比羅神社、稲荷神社
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社名は、ちゃんと掲示されている。
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境内に旧社標が置かれていた。
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一緒に置かれているのは、旧石灯篭の一部。
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神楽殿
ちょうど子供を連れたお母さんが通りかかったので聞いてみると、祭礼のときには他所から社中がやってきてお神楽を奉納しているとのこと。
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これで、この日の巡拝予定をすべて終了。
帰途につきました。
もう一回残りを巡拝すれば、相模国の式内社巡拝は完了です。



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比々多神社(延喜式内論社)/神奈川県伊勢原市

20170804

鎮座地:神奈川県伊勢原市三ノ宮1472
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社に続き、訪れました。

伊勢原市のガイドマップから概略の場所
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近くの駐車場でバスを降り、神社の入り口に。
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社号標
社格等:相模国三宮、式内社(小)、郷社(旧社格)
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『延書式神名帳』記載の比比多神社(相模国の延喜式内社十三社の内の一社)とされるが後述のように論社も存在する。

・相模国三の宮の社格を持つ神社。大磯町国府本郷で行われる国府祭(こうのまち)に参加する相模五社の1社で相模国三宮に当たり、大磯で行われる国府祭の座問答では、一の宮寒川神社、二の宮川勾神社の首座 争いを「いずれ明年まで」と収める役となっている。所在地名の「三ノ宮」は当社にちなむ。

・境内地や近隣地からは古代祭祀の遺構と考えられるものが発掘され、歴史は縄文時代にまでさかのぼるのではないかと云われている。
社殿裏には東名高速道路工事の際に出土した配石遺構が復元移設されている。境内には郷土博物館もあり、様々な出土品や社宝が展示されている。毎年5月第3土、日曜日の「まが玉祭」の際には終日無料開館される。

・4月22日の例祭には、「イヤートーサッセ(「弥遠に栄えたまへ」の意とのこと)」の掛け声と共に神輿が渡御し、三基のカラクリ人形山車の巡幸もあり、境内は熱気を帯びる。当社の神輿渡御は縦横無尽の暴れである。

・神武天皇6年(紀元前655年)、人々が古くから祭祀の行われていた当地を最良と選定し、大山を神体山とし豊国主尊を日本国霊として祀ったことを起源としている。『比々多神社参拝の栞』
・崇神天皇7年(紀元前91年)に神地神戸を寄せられ、垂仁天皇27年(紀元前3年)8月には神祇官が詔を受け弓矢を奉幣している(『比比多伝記』)
・大化元年(645年)大酒解神と小酒解神の2柱を合祀し、その際「鶉瓶」(うずらみか)と呼ばれる須恵器が納められたのだと言う。(『比々多神社参拝の莱』)
・持統天皇6年(692年)に国司布施朝臣色布智(ふせのあそんしこふち)が社殿を修復すると共に木彫り狛犬1対を奉納している。(『比々多神社参拝の栞』)
・天平15年(743年)武内宿禰の裔孫である紀朝臣益麿(きのあそんますまろ)を初代宮司に迎えると共に、聖武天皇より荘園を賜った。
・天長9年(832年)には国司の橘朝臣峯嗣(たちばなのあそんみねつぐ)を勅使として相模国総社「冠大明神」の神号を淳和天皇より賜ったとされる(『比々多神社参拝の栞』)
・元暦元年(1184年)源頼朝が大規模な社殿再建を行い、文治元年(1185年)には天下泰平祈願の御願書を奉っている。
・また、『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を「三宮冠大明神」に祈願し、神馬が奉納されたとある。明応年間頃(1492年・1501年)に兵火により社額を失い、社人供僧も離散して大きく衰微したのだと言う。神戸村の名称は往古に封戸であった遺名であると言われる。さらに同書によれば、天正年間(1573年・1593年)の初めに社地を埼免(らちめん)から現在地に移し、小社を建てて遷座したのだと言う。
(『新編相模国風土記稿巻之50』)
・天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印状が下され社額10石が寄進された。『新編相模国風土記稿巻之50』短】では、これにより当社はようやく復興を見たと述べている。その後も歴代の将軍より寄進を受け、明治に至っている。
・明治6年(1873年)に郷社に定められて16ケ村の総鎮守となり、明治41年(1908年)には神僕幣南供進神社に指定された。現在では神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている。

論社について:
 『延書式神名帳』記載の比比多神社とされるが『新編相模国風土記稿巻之50』によれば、当社の他に上糟屋村(現伊勢原市上粕屋)の子易明神社も式内社「比比多神社」と言い伝えられているのだと言う。同書では、当社宮司が語った、「比比多神社」と書かれた古額を子易明神社の神主に貸したがついに返さず、子易明神社がこれを掲げて式内社と称したという話を紹介したうえで、この諸に証拠は無く、さらに当社も子易明神社も式内社「比比多神社」である考証は無いため、どちらが式内社か判断はし難いと述べている。
『日本の神々-神社と聖地・11関東』では、当地が古代官道を見下ろす位置にあって相模国第2期国府の有力な所在推定地とされていることに加え、史伝では国府所在時の総社であったとされること、また江戸時代に子易
明神土と当社に下された朱印状の内容から見て、当社が式内社「比比多神社」であろうと考察している。

境内図
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鳥居をくぐる。
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手水舎
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目力のある狛犬です。
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右の狛犬の後ろには、立派なご神木が。
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石段を上がると、左に鐘楼があり。
かっては、染屋太郎大夫時忠を祀ったと言う銘文入りの梵鐘があったが、太平洋戦争の最中、金属資源回収の戦時供出により失われた。現在ある梵鐘は昭和25年(1950年)に作製されたものである。
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参道の左右に、紫陽花の花があった。
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ここにも、ご神木があり。
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拝殿前に至る。
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拝殿前に、干支の酉の像が置かれていた。
干支が描かれた大きな絵馬は珍しくないが、干支の像が置かれているのは珍しい。
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拝殿
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鈴の沢山付いた鈴緒であった。
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火消しの人達が奉納した社額
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社額
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拝殿の内部
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本殿の覆い屋
本殿の様式は、三間社流造とのこと。
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本殿の覆い屋は、しっかり石垣を組んだ高い地面に建てられている。
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ご祭神:
主祭神、豊斟渟尊(トヨクムヌノミコト)、天明王命(アメノアカルタマノミコト)、雅日女尊(ワカヒルメノミコト)、日本武尊(ヤマトタケルノミコト)の4柱。
相殿神は、大酒解神(オオサカトケノカミ=大山祇神)、小酒解神(コサカトケノカミ=木花咲耶姫)

神紋は、「右三つ巴」、「丸に三つ引き両」、「十六弁八重菊」、「五三の桐」
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境内末社
神明、白狐神、稲荷、白山、辨天、子権現、天神。
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末社・金比羅社
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「成長のはかり」というのがあった。
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〇三宮郷土博物館
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残念ながら、時間の関係で博物館には寄れなかった。

ここで、「狛犬一対(伊勢原市重要文化財)について触れておきたい。
第41代持統(じとう)天皇朱鳥(しゅちょう)6年(692)、相模国(現在の神奈川県横浜市の一部より以西)の国司(こくし)・布施朝臣色布知(ふせのあそんしこふち)によって社殿の改修が行われ、木彫り狛犬(こまいぬ)一対が奉納された、とある。
関東最古の狛犬ともいわれている。
692年が確かなら、まず国の重要文化財である。
そうでないのは、伝承のみで証明が出来ていないのか、風化してしまい外観に問題があるのか。
この日は、時間が無くて見ることはかなわなかったが、再訪して確かめたい。


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大山阿夫利神社(延喜式内社)/神奈川県伊勢原市大山

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鎮座地:神奈川県伊勢原市大山355
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚に続き、訪れました。

バスを降りて歩き出すと、大きな御神燈があり。
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ここから「こま参道」と云い、駐車場からケーブルカー乗り場まで、362段の石段の左右に土産物店や料理店が並ぶ、長~~い参道です。
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途中の休憩所で一休み。
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幹事さんが予約してくれたお店で、名物の「とうふ料理」を食べました。
名水で有名だけあって、美味しかった。
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道の反対側が旅館と云いますから、大山講の御師の家なんでしょう。
お店に「石尊大権現」の画像が飾ってありました。
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また、石段をせっせと上がります(汗)
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雲井橋まできました。
橋からの眺め。
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橋から三筋の滝が見える。
水垢離をする場所だろう。
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「龗(れい)神の神」があり。
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ケーブルの駅に到着。
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ケーブルカーには、他の客が少なく、良い場所に座れた。
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この日は、あまり天気が良くなく、眺望はイマイチ。
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到着
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ケーブル駅からは、横に移動する感じで、神社の石段の下まで行けます。
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大山の全体像
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この日は、時間の関係で、下社だけの参拝です。

石段の下まで来ました。
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大山阿夫利神社について:
大山阿夫利神社(おおやまあふりじんじゃ)は、神奈川県伊勢原市の大山(別名:雨降山〈あふりやま〉)にある神社である。「阿武利」とも表記し、「あぶり」とも読む。『延喜式神名帳』に小社と記載された相模国の延喜式内社十三社の内の一社で、旧社格では県社に列している(現・神社本庁の別表神社)。

歴史:
大山は古くから山岳信仰の対象として知られ、山頂からは祭祀に使われたとされる縄文土器が発掘されるなどしている。大山は山上によく雲や霧が生じて雨を降らすことが多いとされたことから、「あめふり山」とも呼ばれ、雨乞いの対象としても知られていた。

大山阿夫利神社は、社伝によると崇神天皇の御代に創建されたとされる。延喜式神名帳では「阿夫利神社」と記載され、小社に列している。
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天平勝宝4年(西暦752年)、良弁により神宮寺として雨降山大山寺が建立され、本尊として不動明王が祀られた。以後、神仏習合が続く。

中世以降は大山寺を拠点とする修験道(大山修験)が盛んになり、源頼朝を始め、北条氏・徳川氏など、武家の崇敬を受けた。

江戸時代には当社に参詣する講(大山講)が関東各地に組織され、多くの庶民が参詣した。大山詣は6月27日から7月17日まで期間に行われる女人禁制の参詣で、特に鳶や職人の間で人気があった。大山に2つある瀧・良辧瀧と大瀧で水垢離し、頂上の石尊大権現に登り、持ってきた木太刀を神前に納め、改めて授けられた木太刀を護符として持ち帰った。また、大山祇大神は、富士山に鎮まるとされる木花咲耶姫の父であるとされたため、大山と富士山の「両詣り」も盛んとなり、「富士に登らば大山に登るべし、大山に登らば富士に登るべし」といわれた[2]。なお、一部の地域には、大山に登ると一人前として認められるという伝承があり、大山の神霊が立身出世の神とされていたことがうかがえる。

明治時代になると神仏分離令を機に巻き起こった廃仏毀釈の大波に、強い勢力を保持していた大山寺も一呑みにされる。この時期に「石尊大権現・大山寺」の称は廃され、旧来の「阿夫利神社」に改称された。明治6年(1873年)には県社に列格している。

戦後、神社本庁には属さず、昭和27年(1952年)8月より阿夫利神社本庁として単独で運営されてきたが、近年、神社本庁の傘下に入った(阿夫利神社本庁も存続)。

大山阿夫利神社下社境内図
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途中の踊り場
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途中に狛犬あり。威嚇型、年号は不明。
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石段を上がりきると鳥居。
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鳥居の前に、昭和11年奉納の、威嚇型狛犬
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もう、夏越の祓のための茅の輪が用意されていたが、まだくぐることは出来なかった。
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大型の獅子山があった。
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2013年から公開されたばかりの大型獅子山。
阿夫利神社神域にはかって狛犬や灯篭など様々な石造物があった。
江戸時代から大山崇敬者が奉納したもので、名工による獅子像や獅子山もあり〈三大獅子山・坂東三獅子〉などと称されていたという。
そのほとんどが大正12年9月の関東大震災による山津波で流失した。
なんとか昔日の面影を…と、資料などをもとに建立されたのが平成の獅子山。
「日本三大獅子山 大山獅子」と命名された。
神域ばかりでなく参詣道にあって流失した多くの獅子・狛犬再興の想いも込められているそうである。
干支の設置は、明治時代まで続いた阿夫利神社の「十二支講」を復活し、多くの人々の安寧を祈願するためという。
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獅子山の麓に置かれた干支。
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拝殿
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社額
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拝殿前の回廊には、四神旗にあたる、四神のプレートが飾られていた。
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拝殿の一隅に置かれていた狛犬。
来歴は不明だが、可愛いものだった。
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拝殿の横から、「地下巡拝道」に入っていけるようになっていて、「神泉」を汲めるようになっていた。
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地下巡拝道
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本殿
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ご祭神:
祭神[編集]
本社に大山祇大神(オオヤマツミ)
摂社奥社に大雷神(オオイカツチ)、前社に高龗神(タカオカミ)を祀る。

ただし、これらは明治になってから神仏分離の際に祀られるようになったものであり、江戸期以前の神仏習合時代には、本社には本来の祭神である石尊大権現(山頂で霊石が祀られていたことからこう呼ばれた)が祀られていた。また、摂社には、奥社に大天狗、前社に小天狗が祀られていた。


〇浅間社
当社祭神と神縁の深い富士山の祭神である木花咲耶姫、そしてその姉神にあたる磐長姫をお祀りしている。
木花咲耶姫は木の花のような繁栄を顕す美の女神、盤長姫は磐の様に強い生命力を表す長生の女神として信仰されております。
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〇大天狗の碑
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〇天満宮
亀戸の講社によって分祀された菅原道真公をお祀りしている。
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奥社への登山口
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拝殿の左側には、大きな剣とか奉納されたものが並ぶ。
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これは明治37年に川越の講から奉納された、巨大な鉄製天水桶。
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権田直助氏銅像
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権田直助(ごんだ なおすけ、1809年2月26日(文化6年1月13日) - 1887年(明治20年)6月8日)は、幕末から明治前期の国学者・神道家・医者。
武蔵国入間郡毛呂本郷(現・埼玉県入間郡毛呂山町)出身。
幼名を玄常、号は名越廼舎(なごしのや)。平田篤胤に学び尊王攘夷運動に関わる。
維新後は大学校の設立等に尽力し、晩年は神社再興の先駆者として大山阿夫利神社及び三嶋大社の長に任ぜられた。

境内の展望台の辺に、奉納する大きな木太刀を運ぶ像があり。
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境内の展望台からの眺め。
この日は天気が悪くて、あまり眺望が良くなかった。
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「無事かえる」像の頭を撫でてから、帰途につく。
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築地市場も大変だな、と話しながら石段を降りる。
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下りのケーブルカー
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途中で登りとすれ違い。
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下に着いた。
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ケーブルカー駅の近くに、「根之元神社」があり。
大山阿夫利神社の摂末社ではなく、独立したお宮さんだった。
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(了)


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寒田(さむた)神社(延喜式内社)/神奈川県足柄上郡

20170721

鎮座地:神奈川県足柄上郡松田町松田惣領1767
参拝日:2017年6月30日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、この日最初に訪れました。

これ以上バスは入れないといことで、降りた場所に社号標がありました。
社格等:式内社(小)、県社(旧社格)
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神社入り口
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ここにも新しい社号標があり。
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仁徳天皇の時代の創建。古風土記に記述がある。かつては相模田神社・佐武多神社・佐牟太神社などと称した。延喜式神名帳には「相模國足上郡 寒田神社 小」として記載されている。江戸時代には寒田神社神田大明神とも称した。

社伝では倭建命東征の折、しばらくこの地に滞在されたとされる。この地で東征の幸先を祈願した際、酒匂川に酒を流し、東征後この地に戻ってきた際にまだ酒の香りが残っていたため酒匂川と名付けられたと伝えられる。このときの椀とされている木椀が神社に伝えられている。

1626年(寛永3年)徳川家光より朱印地を寄進されるが、1656年(承応3年)酒匂川の氾濫により社殿等流出。1868年(慶応4年)に再建された。1874年(明治7年)に郷社、1941年(昭和16年)には県社に列せられる。その後、神奈川県神社庁による献幣使参向神社となっている他、1971年(昭和46年)には松田町より史跡として指定されている。

神社名の寒田ですが、『新編相模国風土記稿』に「神田明神社(加牟駄美宇慈牟也志呂 かむだみやうじむやしろ)、延書式神名帳に載する寒田神社是なり」とあって、江戸時代には「カンダ」明神社と呼ばれたことがわかります。
寒田を「サムタ」と呼ぶか「カンダ」と呼ぶかについては、両説あるようです。
『日本総国風土記』は「和銅6年(713)に元明天皇の詔により編纂された、官選の風土記」は偽書ではないかと言われたいる文献ですが、しかし、現在の寒田神社の周辺に日本武尊命の伝説は色濃く残っているのは確かな事実です。例えば境内には日本武尊命が腰を下ろして休息したと伝えられる腰掛石があり、出典は不明ながら、『日本の神々神社と聖地』には社前を流れる酒匂川の地を縁起として伝説が多く残されている。尊は東征の帰途、この松田の地に立ち寄り、身替りとして走水の海で入水した弟橘姫命を偲んで酒匂川に神酒を注ぎ妃の冥福を祈ったところ、この神酒が海に流れ入るまで香ったので、酒匂川となずけたと言われています。

神社の由緒書き
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「松田町大名行列」の説明あり。
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参道は真っ直ぐ。
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手水舎
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拝殿前
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昭和6年奉納の獅子山があり。
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拝殿
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向背の破風は、二重の千鳥破風で重厚さを出している。
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向背部
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社額
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本殿
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ご祭神は、倭建命、弟橘比売命、菅原道真公、誉田別命

神紋は「八剣輪宝」
この紋は仏教を表すシンボルとされていて、修験者たちの護身用の武器として、山岳信仰の根強い神社仏閣には縁がある紋のようです。
北陸3県でよく見る神紋だそうです。
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社宝の椀(松田町重要文化財(工芸))というのがあり、この椀は弥生時代の後期の作と言われ、神社創建の頃から御神宝として保存されてきています。材質は、けやきで塗りの跡はなく、高台  が特に高くろくろ目が荒く表面が輪なりに、ごつごつして縄文のように見えるそうです。
なお、全体の形は、ふっくらとして、量感に富んでいて、格調高い作品だそうです。

〇倭武尊の「腰掛石」
ご祭神の倭武尊がこの地にご滞在の時のものと伝えられている。
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納札所の入れ物が良かった。
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境内社を参拝。

寒田稲荷社
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小祠がたくさん一緒に並んでいた。
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祖霊社
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歯の供養碑があり。
地元の歯科医師の皆さんが日常抜去した歯牙を祀るために建てられたもの。
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天神社・神明社・熊野社
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立派な境内社だが不明。
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ここにも小祠が二社置かれているが不明。
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「仙元大神」
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近くに「堅牢地神」もあったようだが、撮りそこねました。

鳥居から手水舎までのところに樹が多い。
手水舎のうしろの二本の榧の木は樹齢800年と言われ、「かやの木もり」と呼ばれていた頃の名残りだそうです。(昭和7年の猛烈な風で大半の榧の木が倒れてしまいました。)
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社殿のまわりにも樹が鬱蒼と茂っていた。
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参拝を終えて、バスまで帰る道で、マンホールの蓋に「松田大名行列」が描かれているのを発見。
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大庭神社(延喜式内論社)/神奈川県藤沢市

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鎮座地:神奈川県藤沢市稲荷997
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社、高来神社、前鳥神社に続いて当社に参拝しました。

社号標
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引地川沿いの丘陵に位置する。江戸時代には「天神宮」、「大庭大明神」、「大庭天満宮」と呼称されていた。

平安時代に編纂された『延喜式神名帳』には「高座郡大庭神社」と記載されているものの、近世以前のその他の記録(社伝)は存在しない。当社の由緒に関する境内案内板では「相模十三社の一にして小社に列せられ 当地は往古より旧地なりと伝承す」と書かれている。

境内にある梵鐘は享保6年(1721年)の鋳造で、当初は「天満天神宮」と書かれていたとされるが、この文字は削り取られて新たに「大庭大明神」という文字が彫られたと伝えられる。また、藤沢市の教育委員会が出版している『藤沢の文化財』によると、明治以前の当社は「天神社」という名で呼称されていたとのことである。

安永6年(1777年)、神祇伯資顯王によって大庭城を拠点としていた大庭三郎景親を、さらに天明3年(1783年)には諏訪部定太郎、山崎六郎兵衛包高らの願いによって菅原道眞をそれぞれ勧請(合祀)した。明治の神仏分離令以前は当社の裏にある成就院が別当寺として、当社の管理を行なっていた。

論社としては、距離にして1,5キロと近い場所(藤沢市大庭)に大庭神社旧
跡とされる熊野神社がある。

境内案内板
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鳥居をくぐると、石段がまっすぐにあり。
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石段を上がると、平らなところが境内となっている。
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参道を少しいくと、鐘楼があり。
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鐘の銘は、説明のような「大庭大明神」でなく、「大庭神社」と彫られていた。
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また石段を上がる。
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手水舎
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拝殿
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拝殿の内部は、まったく覗けなかった。
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社額
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本殿
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ご祭神:
神皇産霊神(かみむすびのかみ)
菅原道真
大庭三郎景親

大庭三郎景親について:
大庭氏は坂東八平氏の鎌倉氏の流れを汲む一族で、相模国大庭御厨(神奈川県寒川町、茅ヶ崎市、藤沢市)の下司職を相伝していた。天養元年(1144年)に源義朝の郎党が相模国田所目代と共に三浦氏、中村氏を率いて大庭御厨に侵攻した(大庭御厨事件)。この義朝らの行動は朝廷から不問に付される。

保元元年(1156年)の保元の乱では義朝の軍勢に属し、兄の景義とともに白河北殿の西門を守る源為朝に挑みかかり、後三年の役で源義家のもとで戦った鎌倉景政の末裔であると名乗りを上げた。強弓の勇者為朝は鏑矢を放ち景義の左の膝を砕いた。景親は落馬した兄を助け出して退散している。

保元の乱は義朝の属する後白河天皇方の勝利に終わったが、平治元年(1159年)の平治の乱で義朝は敗死して源氏は没落する。 その後、相模国の国衙在庁系豪族の三浦氏や中村氏は義朝に近い立場であったため相模国内においては劣勢に立たされ、逆に義朝とは疎遠であったと思われる景親は平家への接近に成功し、それによって相模国内の大庭氏の立場は強化される。

治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると平家方の武士を率いて石橋山の戦いで頼朝を撃破した。しかし、安房国へ逃れた頼朝が再挙して多くの東国武士に迎えられて鎌倉へ入ると抗する術を失う。頼朝が富士川の戦いで平氏に大勝した後に降伏し、処刑された。

頼朝の挙兵に早くから参じていた兄の景義は御家人に列し、鎌倉幕府に仕えて長寿を全うしている。

神紋は「右三つ巴」
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それで参拝を終え、続いてこの日最後の参拝地・寒川神社に向かった。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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