白髪(しらかみ)神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

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鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼字女体1038
参拝日:2017年1月28日

社号標
式内論社 武蔵國播羅郡 白髪神社、旧無格社
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利根川の南岸、407号線の東の畑の中に、ポツンとある木立の中にある小さな社。
社前の鳥居の左右に石柱があり、左には「高岡稲荷神社」、右には「式内白髪神社」とある。
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まず、「白髪神社」の読みであるが、「しらひげ」と読んでいる方が多い。これは他に「白鬚(しらひげ)神社」が多いせいであろう。
ご祭神が「白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)」なので、念のため『延喜式神名帳』を確認したら、「しらかみ」とルビが振ってあった。
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「白髪神社」の故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっているが、それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

治承三年(一一七九)、年齢も古希になった斎藤実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
ここで「古社」というのは「白髪神社」のことであり、白髪神社と聖天院の神仏混合でずっと祀られてきた。

そして、慶応4年(1868)9月、神仏分離の布達に際し、住僧と神職の争いが起りました。
当宮に奉仕する彌宜職の三人(田島河内・堀越大和・橋上宮内)は、密議を交して村役人に相談もせず、京都及び東京の裁判所に願い出て聖天宮を神宮の掌中に獲得しようと謀った。そのため時の住僧稲村英隆は入獄の難を受けたが、氏子一般民は寺院側に加担する者多く、神職側に不利が生じて止むなく時の判事の斡旋により、当時の聖天境内十二町九反余を二分し、七町九段余は聖天宮境域とし、残り五町余は大我井神社社地となし、「如絵図面、宿井往來可爲境事」と定めた。

よって、大我井神社をもって白髪神社の論社とする見方があり、それはうなずけるところです。
しかし、大我井神社もまた「二柱神社」としていた経過もあり、「大我井神社」という社名になったのは、なにか別の影響もあったと推定されます。
別の動きとして、高岡稲荷に白髪神社が合祀されたということもあったのでしょう。

もう一方に立つ、高岡稲荷神社の社号標。
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鳥居が赤いのは、高岡稲荷神社のものだからでしょう。
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社殿
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社殿内部
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御祭神:白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと=清寧天皇)
配祀: 天鈿女命 猿田彦命 倉稻魂命、合祀: 須佐男之命

白髮大倭根子命は『古事記』に記載されている名で、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)である。
雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を楯にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位。
皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。

狭い境内を見て回ったが、他には不明の境内社が二社あるのみだった。
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妻沼聖天山歓喜院(式内社白鬚神社故地)/埼玉県熊谷市

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鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2017年1月28日

「武蔵国式内社めぐり」で訪れた。
「幡羅郡・四坐のうち白髪(しらかみ)神社」の論社として「大我井神社」、「白髪神社」の他に故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっている。
それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

それで今回訪問してみたが、社殿の前に狛犬が二組あり、本殿(歓喜院聖天堂)の裏に境内社が7社が今でも祀られているのを確認したので、私も「式内社白鬚神社故地」として挙げておくことにした。

寺号標
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寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

 実盛は藤原氏の流れである越前国の斎藤則盛の子に生まれ、幼名を助房といった。十三歳の時に故郷の越前で事件に遭遇し、縁戚である武蔵国長井庄の庄司・斎藤実直の養子となり、養父・実直の「実」と実父・則盛の「盛」を一字ずつとり「実盛」と名乗った。
 生まれ故郷の北陸地方は、古くから信仰心の深いところで、越前国の人々には早くから聖天信仰が普及していたため、実盛も幼少の頃から歓喜天を深く信仰し、自らの守り本尊と心に決め、平時には居間に祀っては朝夕の礼拝を欠かさず、戦場にあってもこの歓喜天を、かた時も離すことはなかったといわれている。
 治承三年(一一七九)、年齢も古希になった実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
(さきたま文庫「妻沼聖天山」より)

中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年1(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された。

背の高い石灯篭の先に貴惣門がある。
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【貴惣門】
境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。屋根を上下二重とし、下重は前後に2つの切妻屋根を架け、側面から見ると3つの破風をもつ特異な形式の門。持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855年)頃の完成。

横からの、三つの破風をもつ特異な眺めがこの門の特徴。
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この門の彫刻も素晴らしい。
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持国天、多聞天は修復中という掲示が出ていたが、どうやら多聞天は修復されて納められた直後らしい。
しかし、残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。
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貴惣門をくぐると、この日は土曜日で、フリーマーケットが開催中。
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齋藤実盛像
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2016年11月に郷里に帰った際、石川県加賀市の実盛塚(篠原古戦場)、小松市の多太神社に参拝しており、最近実盛に縁が深い。

実盛塚(篠原古戦場)の記事があります。

その記事を読む


木曽義仲が、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納した多太神社の記事があります。

その記事を読む


【四脚門】
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仁王門の前に、慶應4年(1868)年奉納の狛犬がある。
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【仁王門】
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いきなりカミさんが鳴らしたのでビックリしたが、仁王門に大きな鰐口が下がっている。
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拝殿の前に、文政7年(1824)奉納の狛犬がある。
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【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。

奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。

2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。

拝殿
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向拝部分も、彩色彫刻が素晴らしい。
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拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」
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虎の左右の蟇股彫刻が、鬼が噛みついている様になっていて面白い。
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肘木の透かし彫刻が、鯉から龍に出世するまでを表わしている。
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そして中央の龍に
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海老虹梁(えびこうりょう)と手挟み(たばさみ)の彫刻も素晴らしい。
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いよいよ奥殿を見る。
拝観料を取られるが、そのかわりボランティアガイドの説明があり、その説明がとても良かった。
そして、カメラの撮影がOKというのも、嬉しい限りだった。

奥殿は満艦飾の彩色彫刻である。
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三手先の、白い象の奥の部分が塗られていないのは、わざと未完成のかたちにしているのだ。
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花頭窓
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大羽目の彫刻は七福神、腰羽目の彫刻は唐子遊びを主題としていて、南面から北面に向かって、春から冬への変化が植物で表現されている。

南面唐破風下の彫刻「三聖吸酸」
これは、孔子、釈迦、老子が酢をなめて、その酸っぱさを共感している様子を表現したものであり、「三聖吸酸さんせいきゅうさん」という中国の故事に由来しています。つまり、酢が酸っぱいという事実は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つであるという「三教一致さんきょういっち」を意味しています。
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北面唐破風下の彫刻「司馬温公の瓶割り」
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滝に落ちかけた猿を鷲が救っている図。
猿は煩悩にまつわれた人間に、鷲は歓喜天に、それぞれたとえられている。
左甚五郎の作と伝えられている。
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「吉祥天と辨天さまのすごろく」
かっては、七福神に吉祥天も入っていたそうです。
どちらが残るか、すごろくで勝負しているのでしょうか。
毘沙門天はすっかりすごろくの勝負に夢中になり、おかげていつも踏みつけられている天邪鬼が解放されてのびのびとしている。
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「小間取り遊び七人」植物は「梅」
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「竹馬遊び」植物は「桜」「蘇鉄」
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「獅子舞」
あっかんべーをしている。
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どこを見ても素晴らしい彫刻ばかり。
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私が今回飛びついたのは、桁を支えている猿。
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ガイドさんが、拝殿前に移動して教えてくれたのは、手挟み(たばさみ)にも猿が居ると(笑)
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聖天堂(本殿)の拝観が終わってから、本殿の奥に境内社があったので、それに参拝しました。
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境内社・三宝荒神社
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境内社・五社神社
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不明
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境内社・天満宮
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妻沼聖天山本殿の彫刻は、素晴らしいものでした。
これを守っている努力も素晴らしい。
ボランティアのガイドさんが説明してくださったおかげで、認識を新たにしたことが沢山あったので、有難かった。
今回の目的である、かって神社も存在していたという証も得られたので、よかった。



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高椅(たかはし)神社(延喜式内社)/栃木県小山市

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鎮座地:栃木県小山市高椅702
参拝日:2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社、桑原神社、健田須賀神社に続き、この日最後の参拝社となります。

社号標
式内社 下總國結城郡 高椅神社、旧県社
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由緒:
当社の創立は、景行天皇の41年、日本武尊が御東征の折、現在の白旗丘に御旗を立てられ、国常立尊、天鏡尊、天寓尊の三柱の神を勧請して戦勝を祈願されたのが起源であると伝えられる。
その後、天武天皇の12年(684年)祭神の後裔・高橋朝臣が氏祖神磐鹿六雁命を合祀して、高椅神社と尊称するに至った。延書式の神名帳(927年)に登載されている古社である。
磐鹿六雁命は、崇神天皇の御代、各地に派遣された四道将軍の一人である大彦命の孫で、景行天皇の皇子日本武尊の東征の戦跡を巡視なされた際、膳臣として供をし、当地まで来たが、老令のため許しを得てこの地にとどまり、以後代々豪族としてこの地方を支配した。天武天皇の12年、朝廷より高橋朝臣の姓を賜わり代々高橋朝臣を襲名した。「高椅」の地名も高橋朝臣よりとったという。
後一条天皇の長元2年(1029年)社域に掘った井戸から大きな鯉が出たため奇異であるとして、時の神主が都に参上、その由を奏上したところ、誠に霊異なこととされ、「日本一社禁鯉宮」の勅願を賜わった。以来氏子民は、鯉を食うこと及び鯉絵のついた器物等の使用を禁ぜられたが、今日までこの禁を犯す者がな<、鯉を食べないことは勿論、五月節句の鯉のぼりも立てない風習が現存している。
高椅神社が「鯉の明神さま」と親しまれているのは、この由緒によるものである。境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されている。
結城代々の城主の崇敬殊に厚く、政朝、政直、政勝、晴朝、秀康の各城主よりの寄進状、祈願文二十余通神納され現存する。殊に秀康公が、越前福井へ国替になった後も代々代参を欠かすことがな<、明治維新まで続けられた。
明治5年郷社となり、同10年7月県社となる。

参道には、赤い灯篭が並んでいる。
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ショックなことに、楼門が工事中だった。
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この楼門は、天文24年(1555)結城正勝が改修を行い、その後幾度か補修を加えたが破損し、現在の楼門は      水野結城家の寄進により、宝暦4年より明和7年(1770)までの16年の歳月を要して完成したものである。
大正10年、従来の茅葺きを鉄板葺きにすると共に、彫刻等の彩色をはじめ、建物全体を塗り替えるなどの大修理を行い、次いで昭和58年、現在の銅板葺きとした。
昭和42年、小山市指定文化財に指定され、次いで平成7年、栃木県指定文化財の指定を受ける。

Wikipediaのところに載っていた写真を載せておく。
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楼門の先の参道
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拝殿の前には、石灯篭と狛犬があり。
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昭和12年造立の狛犬
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拝殿
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神名額
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本殿
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屋根が、瓦屋根に千木と鰹木を載せた面白い形となっている。
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ご祭神は:
磐鹿六雁命(いわかむつかりのみこと)
園常立尊(くにのとこたらのみこと)
合祀神:
木花開耶姫命、経津主神、高靇神、火産雲命、豊受比責神

磐鹿六雁命:
 料理の始祖であり・調理のすべてを司る料理人の守護神である。
第10代崇神天皇の時に設けられた四道将軍の一人である大彦命(おおひこのみこと)の孫とされ、後裔が代々天皇の食膳を担当した高橋氏であると伝えられています。
『日本書紀』や、789年(延暦8)に磐鹿六雁命の子孫の高橋氏が朝廷に奉った『高橋氏文』によると、景光天皇が安房の浮島の宮に行幸された際、侍臣であった磐鹿六雁命は、弓の弦を取って海に入れて堅魚(カツオ)を釣り上げ、また砂浜を歩いている時に白蛤を見つけました。
この堅魚と白蛤をなます料理にして献上したところ、天皇は大いにその味を賞賛され、「膳大伴部」の姓(位)を賜ったと記されています。このようないわれから、磐鹿六雁命は調理や料理、料理人の神、さらに醤油、みそ醸造・調味料の神として、多くの料理人や調味料関係業者の篤い信仰を集めています。

国之常立尊:
日本神話に登場する神である。日本神話の根源神として一部神道・新宗教で重要視されている。
『日本書紀』においては、初めての神とされる。(天地初めて判るるときに、始めて倶に生づる神有す。国之常立尊、天鏡尊を生む。天鏡尊、天萬尊を生む。)


神紋は「五七の桐」
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神楽殿
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境内社に参拝。

社殿右側
疱瘡神社(少彦名尊)、日高神社(天鈿女命)、雷電社(大雷命)、八幡宮(誉田別命)、神明宮(大日孁貴命=天照大神)
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白幡神社(武嚢槌神)
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社殿左側
天満宮(菅原道真公)
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真剣神社伯本武尊)、春日神社(天児屋根命)、東照宮(徳川家康公)、天建神社(素蓋嶋尊)、健田神社(健田大神)
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稲荷神社(倉稲魂神)、大椙神社(大物主命)、上宮神社(聖徳太子)
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高椅神社が「鯉の明神さま」と親しまれ、境内の南端にある神池には、氏子、崇敬者の奉納した鯉が多数放流されているというので、神池にも行って見た。
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雨で煙っていて、鯉は良く見えないが、居ることはわかった。
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鯉のエサを置いてあった(有料)ので、エサを投げてみると、さすがに集まってきた(笑)
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これで二回に分けての、下総国の式内社11社すべてに参拝しました。

この後、幹事さんが「いいところがある」と見つけてくれた「野木町煉瓦窯」に向かいました。
予定より遅れていましたが、ガイドさんが待っていてくださるというので、急いで向かった。


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健田須賀(たけだすが)神社(延喜式内社)/ 茨城県結城市

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鎮座地:茨城県結城市結城195
参拝日:2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社、桑原神社に続き当社に参拝しました。

社号標
社格等:下總國結城郡式内社(小)健田神社、県社
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当神社は明治3年に健田神社と須賀神社が現在の地に合祀になったもの。

神社由緒:
健田神社の創建は大変古く、もとは結城本郷健田に鎮座していた(現在の地より2キロ程東南)。この地は古代より現在に至るまで、霊峰筑波山を拝するのに素晴らしい地にあり、古代人はここで祭りを行い、日の出から暦を察した場所と考えられる。やがて神社の様相を呈し、竹田臣一族・結城の国造が祖神武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)を祀ったといわれている。『延喜式』には下総国11社の1つに記されている。以後、宝暦14年(1764)乗国寺と習合し境内に遷座、徳川幕府より祀田9石の寄進あり(朱印状現存)。明治3年神仏分離により、須賀神社と合祀された。

須賀神社は古くは天王宮と称し、結城家初代朝光公が鎌倉初期仁治3年(1242)尾張国津島神社よりご神霊を勧請し結城城の鬼門除け、結城家第一の氏神として手厚く祀られ結城家はもとより広く民衆に信仰され結城の産土神として崇敬された。特に康永2年(1343)結城家7代直朝公が「結城七社」を定め結城108郷の総社として盛観を極めた。結城家18代秀康公(徳川家康次男)福井移封後も家臣を遣わし崇敬した。昭和5年茨城県々社に昇格した。祭神は須佐之男命を祀り、夏祭り(祇園祭)は市中挙げて行われ、神輿担ぎは勇壮で日本一のあばれ神輿として有名。

牛頭天王と須佐之男命:
須賀神社は、ご祭神が牛頭天王であったから江戸時代まで天王宮といった。
牛頭天王はインドの祇園精舎の守護神。牛頭天王は丑寅すなわち鬼門をにらむ邪気よけの強い神であることから、当神社は結城城の鬼門除けの社として歴代の城主より崇敬された。10世紀より始まる祇園御霊会(現在の祇園祭、夏祭り)は牛頭天王の防疫神、天道神、糺(ただ)しの神、方位の神としてのご神徳からきている。
『薮内佐斗司作品集大博物誌』求龍堂によれば、「鬼どもの統率者たる牛頭天王は、館の鬼門に陣取り丑寅の方を睨みすえ、あらゆる邪気を退散せしむ」とある。

入り口
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一の鳥居
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手水舎
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二の鳥居
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明治32年造立の狛犬
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拝殿
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社額
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参加者が代わるがわる覗き込んでいると、宮司さんがやってきて、拝殿に上げてくれた。
拝殿の内部には、たくさんの絵馬が掛けられていた。

山岡鉄舟筆扁額
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谷文晁画の絵馬
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素晴らしい絵馬がたくさんあった。
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本殿
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ご祭神:
旧健田神社祭神:武渟川別命(たけぬなかわわけのみこと)
旧須賀神社祭神:須佐之男命(すさのおのみこと)

神紋は「右三つ巴」
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神楽殿
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続いて、境内社に参拝。
十二社(じゅうにしゃ)
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甲子稲荷神社(きのえねいなりじんじゃ)
ご祭神:大国主命(おおくにぬしのみこと)、倉稲魂命(うかのみたまのみこと)
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猿田彦神社
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これで当社の参拝を終え、続いて高椅神社に向かいました。


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桑原神社(延喜式内社)/茨城県常総市

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鎮座地:茨城県常総市国生1186
参拝日:2016年9月23日

下総国式内社参拝は、前回6社に参拝し、この日残る5社に参拝しましたが、茂侶(もろ)神社、蛟蝄(みずち)神社に続き当社に参拝しました。

社号標
式内社 下總國岡田郡 桑原神社、旧郷社
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社伝によると宝亀三年(772)三月、当地を開拓した下総国司従四位下桑原王がその祖神を、守護神として祀ったのが起源。
ただし、桑原王は宝亀二年には上総守であるのでこの説は疑問視されている。

境内案内には、桑原王の祖・豊城入彦命、天熊人を祭神としているが他の資料では、主祭神は天熊人(天熊大人命)となっている。
『式内社調査報告』では、上毛野君の同族・桑原臣の一派が東国に下りその祖・豊城入彦命を祀ったのではないかと記されている。

当初は、現在地の東方、鬼怒川を見渡す本屋敷という台地に鎮座していたが、住民居住区の移動に伴い、延宝六年(1678)現在地に遷座したという。

式内社・桑原神社に比定されている古社だが、中世には、当社の伝承が失われ、正徳年中には香取神社と思われていたようだが享保四年(1719)本殿建替えの際に、寛永二年(1625)の棟札が発見され、桑原神社と復号されたという。

明治の社格において郷社に列し、明治四十二年二月、日枝神社と佐田彦神社を合祀した。

入り口鳥居
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「桑原大明神」の説明
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「平将門公史跡 桑原大明神」と書かれた石碑あり。
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将門はこの近くの「豊田」に居を構えた時期がある。後に南の「岩井」に居を写した。

鬱蒼とした林の中の参道を行く。
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参道は突き当り左に折れるが、そこに石碑の香取社が祀られている。
当社は、以前は香取社と称したので、その名残であろう。
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手水舎
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拝殿前
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「桑原神社由来」の石碑あり。
 これより東方、国生字本屋敷は、往古より、悠々 と流れる鬼怒川を眼下に望む台地にあった。この地 は、古墳時代の前期に、既に大きな居館があった。 貝塚あり、前方後円墳あり、竪穴式住居あり、又、 江戸時代の住居の所在も遺跡等から明らかにされた。 古くは約一六〇〇年の昔から、時に大きな館敷地 として、郡役所として、又、村人の居住集落として 使われたことが窺いしれる。
 続日本紀によれば、下総の国司であった桑原王は、 宝亀三年(七七二年)に、この地(本屋敷)に桑原 神社(古明神)を創祀する。社記の祭神は、王の祖 である豊城入彦命、天熊人、稚彦命及び大山咋命で 開拓荘園の守護並びに治水と五穀豊穣を祈願せしも のである。すなわち、桑原王は農神をこの地に奉祀 し、未開拓の東国に衣食の恩恵を知らしめ、農業発 展の守護神としたものであろう。延喜年間(九〇二 年~九二二年)、従四位下鎮守府将軍平良将、将門 父子も、国亭をこの地に置き政治を行い、下総豊田 開発の祖神として尊崇す。爾来、坂東農耕の守護神 として崇拝さる。
 時は流れ、江戸時代、現在地、畑地なるも、居住 地たる本屋敷、作物の収穫大なるを知り、国生の集 落は、次第に西へ移り、延宝六年(一六七八年)、 本神社を奉遷す。その後、正徳二年(一七一二年) に正一位の昇格申請したるも、古棟牌等不明の為香 取社として許可さる。享保四年(一七一九年)本殿 建替えとなり、寛永二年(一六二五年)の棟牌(日 本国関東下総国生桑原大明神造立一宇攸)を発見、 この棟牌を役所に届ける。これより四十年後の宝暦 八年(一七五八年)、当時の寺社奉行阿部伊予守よ り呼び出しがあり、延喜式内、桑原神社を証明する 書状が名主に下付さる。大いに感激した氏子たちは 法楽を奉納した。本神社、別当不動院とも、時には 五穀豊穣、安産祈願の対象として、又、民衆の憩い の場として、盆踊りや祭礼が行われ、生活の中に深 く根ざしていった。
 ここに、本殿並びに拝殿改築にあたり、はるか千 数百年の時の流れを回顧し、先人の偉業をたたえ、 本神社の由来を表記する。
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拝殿前の狛犬は、新しいもの。
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拝殿
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社額
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拝殿の内部は、まったく窺えなかった。

本殿覆屋
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御祭神:豊城入彦命、天熊人、稚彦命、大山咋命
配祀 
稚彦命 『平成祭データ』
天熊大人命、稚彦命、猿田彦命、大山咋命 『明治神社誌料』

神紋は「右三つ巴」
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境内社に参拝:

社殿右手に、石祠の大杉社(大杉大神)
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4つの石祠の四社宮
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拝殿左手には、石碑と青面金剛の庚申社
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元文5年(1740)建立の青面金剛庚申塔
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さらに石祠の稲荷社、日枝社、天神社、八坂社、八幡社、愛宕社、その他の境内社が並んでいる。
下がっている白い袋は賽銭入れ。
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これで、当社の参拝を終え、続いて健田須賀神社に向かいました。


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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