前鳥(さきとり)神社(延喜式内社)/神奈川県平塚市四之宮

20170625

鎮座地:神奈川県平塚市四之宮4丁目14−26
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社、高来神社に続いて当社に参拝しました。

社号標
大鳥居の工事中で全部は見えず。
170625saki01.jpg


170625saki02.jpg


前鳥神社HPによれば、
神社名の「さきとり」は平安以前の古い地名で、相模川河原に接する自然堤防の南端で、地形名から起こったと言われています。
奈良時代の天平7(735)年の『相模國封戸租交易帳」には「大住郡埼取郷」として記載されています。
この「さきとり」の地に奈良時代以前、畿内から御祭神を「氏の上」とする氏人が移り住み、遺徳を偲び、清浄な地にお祀りしたのが「さきとり」神社と考えられます。延喜年間(901~923)に編纂された『延喜式』という法制書の中で全国の著名な神社が収録されている神名帳に、当神社は「前鳥神社」と記され、相模国の十三座のひとつとして登載されています。また、四之宮の称は、養老年間(717~724)の相模国の国府祭が始まったとされる頃に生じ、平安時代には四之宮郷として通称されるようになりました。

以下Wikipediaによる。
当社の創建年代は不明である。『前鳥神社 御由緒』では、平安時代に「四之宮」の地名が始まり、それ以前の奈良時代の諸文献に「さきとり」の地名が見えることから、この「さきとり」の地に住んでいた人々が清浄な場所を選んで奉祀したのが始まりではないかと述べている。

当社は相模川の自然堤防の南端に鎮座するが、『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では『特選神名牒』が当社の社名を「前島神社」と記載し、「前島神社」である理由を当社境域が馬入川(相模川の河口付近)の岸に突出して出水のたびに流損する崎であった地勢によるものだとしていること、また、これを支持する論者も多いこと紹介している。

延長5年(927年)に『延喜式神名帳』により式内社、小社へ列格された。『前鳥神社 御由緒』によれば、この時より社号を「前鳥」「左喜登利」「前取」「埼取」など色々用いてきたが、現在は『延喜式神名帳』に基づく社名を用いているのだと言う。

『延喜式神名帳』
170625saki03.jpg


『中世諸国一宮制の基礎的研究』によれば、元暦2年(1185年)7月の『相模国前取社・安芸国開田荘注文案』に当地へ地頭が補任され年貢が未納になっているとの記述があり、安元2年(1176年)の八条院 暲子内親王の所領目録に安芸国開田荘があること、嘉元4年(1306年)には室町院領と見えることから、当社地が八条院周辺の人物の所領に編成されていた可能性を示唆している。

『吾妻鏡』建久3年(1192年)8月9日の条に源頼朝が北条政子の安産を祈願した神社として「四宮前取大明神」の名が見え、この時に神馬が奉納されている。さらに建暦2年(1212年)には将軍家御祈祷所となった。

天正19年(1591年)11月、徳川家康より朱印状が下され社領10石が寄進された。また、天保12年(1841年)成立の『新編相模国風土記稿 巻之43』の記述から、この当時に四之宮村の鎮守とされていたことがわかる。

明治6年(1873年)に郷社へ列格。昭和43年(1968年)9月には元皇族を招いて創祀千六百年式年大祭が催され、その際に本殿の右に奨学神社が建立されている。

工事中で参道に入れず、神橋は横から撮った。
170625saki04.jpg


参道の途中から入り込む。
振り返り、神橋と大鳥居を見たところ。
170625saki05.jpg


参道は真っ直ぐ続いている。
170625saki06.jpg


参道の途中に鐘楼があった。
昭和43年御鎮座1600年祭の折に鋳造され、勧学の鐘として参拝に訪れる方に親しまれている、とある。
神社に鐘というのは珍しい。江戸時代ならともかく、昭和の話である。
170625saki07.jpg


二の鳥居
170625saki08.jpg


二の鳥居から、はるかに社殿の前を眺めると、工事中でまっすぐ進めないことがわかる。
170625saki09.jpg


参道わきの林の外側を大回りする。
170625saki10.jpg


工事している所を迂回して、境内に戻る。
170625saki11.jpg


手水舎
170625saki12.jpg


拝殿
170625saki13.jpg


向背部の屋根は千鳥破風。
170625saki14.jpg


社額は「左喜登利神社」とあった。
170625saki15.jpg


拝殿内部
170625saki16.jpg


本殿
170625saki17.jpg


妻の「大瓶束」の両側に雲の連なりで装飾してあるのが面白い。
170625saki18.jpg


現在の祭神は以下の3柱。
菟道稚郎子命(うぢのわきいらつこのみこと)
大山咋命(おおやまくいのみこと)
日本武尊(やまとたけるのみこと)

菟道稚郎子命を祀る神社は極めてまれで、東日本では当社のみと言われている。『日本の神々 -神社と聖地- 11 関東』では、所縁の地から離れた東国で菟道稚郎子命が祀られている事に関し、兄に帝位を譲るため自殺したとされる菟道稚郎子命が実は死んでおらず、一族を率いて東国に下り曽祖父である日本武尊に所縁の地へ宮を建てた、あるいは当地が菟道稚郎子命の御名代であったことにより祀られたとする伝承があることを紹介した後、これら伝承には傍証が無く一切は不明だが、なぜ東国で祀られたのかについては興味あることとしなければなるまい、と述べている。

明治の頃に村内日枝神社の祭神であった大山咋命を合祀、昭和61年(1986年)に日本武尊を合祀している。

神紋は「右三つ巴」
170625saki19.jpg


境内社に参拝

神戸(こうど)神社
天照大御神をお祀りする神明神社、須佐之男命をお祀りする八坂神社の二社をお祀りしている。
170625saki20.jpg


奨学神社
百済の王子阿直岐と博士王仁、そして菅原道真公を御祭神とする奨学の神社。
阿直岐(あちき)は、記紀によれば、百済から日本に派遣されたとされる人物。
王仁(わに)は、百済から日本に渡来し、千字文と論語を伝えたとされる記紀等に記述される伝承上の人物。
170625saki21.jpg


祖霊社
170625saki22.jpg


祖霊社の前にある、大正7年奉納の狛犬が素晴らしかった。
170625saki23.jpg


170625saki24.jpg


170625saki25.jpg


170625saki26.jpg


170625saki27.jpg


170625saki28.jpg


170625saki29.jpg


他にも境内社があったが、後日調べたがわからなかった。
170625saki30.jpg


170625saki31.jpg


大木(ご神木?)の下にもあり。
170625saki32.jpg


170625saki33.jpg


170625saki34.jpg


〇幸せの松
170625saki35.jpg


170625saki36.jpg


170625saki37.jpg



これで、当社の参拝を終え、次に向かった。



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



スポンサーサイト

高来(たかく)神社

20170622

鎮座地:神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9-47
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社に続いて当社に参拝しました。
当社は式内社ではありませんが、特別に立ち寄りました。
それは、狭山市の半分は旧高麗郡で、私が住んでいる所もそうですが、1300年前の高麗郡建郡にあたり、この地も関係が深かったからです。

神社には駐車場がなく、近くでバスを降りたが、そこからの高麗山。
170622takaku01.jpg


神社には横から入り、二の鳥居まで戻った。
一の鳥居と社号標は確認せず。
170622takaku02.jpg


高来神社、高來神社(たかく じんじゃ)、高麗神社とも呼ばれる、別名高麗(こま)さん。旧社格は郷社。
社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来する。
社名を音読みにすれば「こうらい」となる。

中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かっては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。
また古来武門の信仰が篤く、鎌倉期に将軍源頼朝が正室北条政子の安産祈願をして、戦国時代には後北条氏がわずかな領地を寄進したという文献があるという。

『新編相模国風土記稿』には「高麗権現社」とあり、高麗寺村(大磯町高麗地区)と大磯宿(同大磯地区)の氏神であるとともに、別当寺の鶏足山雲上院高麗寺と渾然一体とした神仏混淆の形態をとっていた。高麗寺は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に源頼朝によって、北条政子の安産が祈願された寺社の一つにその名が伝わる古刹。

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』では、相模国大住郡には高来郷がある。高麗山一帯から、花水川東岸の中世以降は大住郡になる平塚市西部にかけてが、それにあたる。

高麗山山頂にある「高麗と若光」と題する説明板には「若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました」(環境省・神奈川県)とあります。
高来神社「御船祭」の木遣歌「権現丸」で「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となるとうたわれることから中世以降高麗寺では、なにかしらの関係を伝承していたと考えられます。また、高句麗からの渡来人伝承から「高麗山」の名前がついたといわれています。

そもそも高麗大明神(こまおおかみ)の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に、俄かに海中騒がしく、浦の者ども怪しみて、遥かの沖を見てやれば、唐船一艘八つの帆を揚げ 大磯の方(かた)へ梶をとる。走り寄るよと見るうちに、程なく水際に船は着き 浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも 翁壱人立ち出て 櫓に昇りて声をあげ、「汝等(なんじら)それにてよく聴けよ 吾は日本の者にあらん 諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪険な国を逃れ来て、大日本に心掛け、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁盛守るべし」、汝等有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせたもう御代よりも、権現様(明治以降は明神様)を乗せたてまつる船なれば、権現丸(明治以降は明神丸)とはこれを言うなり。

この「翁壱人」が、若光ということになります。
高麗王若光は、1300年前関東に散らばっていた高句麗からの渡来人を集め、武蔵国に高麗郡を建郡した。
高麗神社の祭神が高麗王若光であり、宮司はその子孫高麗家が勤めている。

大磯の若光伝承は天保期にはじまるものではありません。中世以前に遡ります。二つほど史料をあげておきます(ほかに『走湯山縁起』や『神道集』)。神奈川では古くより、若光(和光)が大磯の地に上陸したと伝えられているわけです。
『箱根山縁起』(『群書類従』)
神功皇后、三韓を討ちし後、武内大臣(武内宿禰)の奏有りて云う。異朝の大神を奉請して天下の長き安寧を祈らしむ、と。即ち、百済明神を日州(日向)に遷し奉り、新羅明神を江州(近江)に遷し奉り、高麗大神和光を当州(相模)大礒聳峰に遷し奉る。因りて高麗寺と名づく。
『北条記』(『小田原合戦記』)(『続群書類従』)
(北条)氏綱伊豆山ヘ御参詣アリ。縁起記ヲ御尋ネアル。当社権現(伊豆山権現・走湯山権現)往古ニ高麗国ヨリ御舟ニ召レ当国ヘ御渡アリ。相模国中郡ノ高麗寺山ニ上ラセ玉ヒヌ。之ニ依リ、此山ヲ高麗寺(山脱カ)ト申ナルベシ。其後、仙人当山ヘ参詣シ、爰ニ移居マシマシテ以来、霊験威光勝ゲテ計ウベカラズ。

大磯町観光情報サイトから
・漁民により海中から引き揚げられた千手観音を高麗権現の本地佛として定め、山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り、高麗寺別当(高来寺)の司る所になりました。
・鎌倉時代には北条政子の安産祈願のため神馬を賜り、寺背後にそびえる高麗山中には24の末院がありました。
・曽我十郎の恋人、虎御前が出家した寺です。
※虎御前…大磯の遊女。『曽我物語』の主人公、曽我十郎の恋人。
・足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国時代には北条早雲が小田原城攻めの際に篭城したことで一躍有名になりました。その後、上杉謙信が高麗山に本陣を置くなど、戦火の火中に巻き込まれ衰退していきます。
・徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀ります。東照宮は徳川家康の神影であるため、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした。
・上野寛永寺(徳川家光開基、徳川将軍家の菩提寺)の末寺であり、寺の復興には寛永寺の天海の働きが 大きかったと言われており、寛永寺から転じた別当は47世続きました。
・神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30(1897)年に高来神社と改称され、現在に 至っています。

年表:
神武天皇朝?:創建
垂仁天皇朝:神皇産霊尊と天津彦穂邇々伎尊を祭神とする
安閑天皇朝2年(533年):神功皇后・応神天皇が合祀される
養老元年(717年):本地垂迹説に基づく神仏習合により高麗寺別当の所管となる
天正19年(1591年):徳川家より朱印地百石を与えられる
寛永年間:東照大権現を併祀
明治元年(1868年):神仏分離令により高麗寺から分離され高麗神社となる(高麗寺は廃寺)
明治6年(1873年):郷社に列せられる
明治30年(1897年):高来神社に改称
明治40年(1907年):神饌幣帛を供進すべき神社に指定される


大正3年奉納の、江戸流れ尾型狛犬
170622takaku03.jpg


170622takaku04.jpg


170622takaku05.jpg


170622takaku06.jpg


170622takaku07.jpg


170622takaku08.jpg


参道に大磯町の観光案内板
170622takaku09.jpg


山桜がほころんでいるのがあった。
170622takaku10.jpg


170622takaku11.jpg


社殿
高麗寺の建物となっていたので、拝殿・本殿と分かれていない。
170622takaku12.jpg


170622takaku13.jpg


向背部
170622takaku14.jpg


社額
170622takaku15.jpg


欄間の龍の彫刻
170622takaku16.jpg


ガラス戸の隙間から、依り代の鏡と御幣を参拝。
170622takaku17.jpg


ご祭神:
神皇産霊尊
天津彦穂邇々伎尊
応神天皇
神功皇后

神紋は「三つ葉葵」
170622takaku18.jpg


境内社です。

高麗山への登り口にある、旧社号標「高麗神社」
170622takaku19.jpg


石段を上がると、平嘉久社。
170622takaku20.jpg


平嘉久社は初めて見た名前です。
『新編相模国風土記稿』には、「山麓にあり、祭る所庚申なり、是を地主神と云、高良明神疱瘡神等を相殿とす」とあるようです。
「庚申」とは猿田彦のことでしょう。
猿田彦を祀る白鬚神社が滋賀県高島市にあり、昨年参拝したが、白髭明神とは猿田彦のことであった。
白鬚神社の猿田彦は白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。猿田彦=比良明神。
猿田彦は境界の神で、比良はあの世とこの世の境界(黄泉比良坂)を意味する。
確かに平嘉久社の鎮座場所は山に登る手前で、正しく境界と言える。
高麗若光=白鬚明神と呼ばれたので、まぎらわしい。
次に高良明神は武内宿禰です。よく「高良社」という武内宿禰を祭神とする神社があります。

高麗山霊水の「水神社」と「龍神社」の里宮
170622takaku21.jpg


〇力石
江戸末期には大磯海岸で若者たちが集まって力競べが行なわれていました。大きい石を両腕で持ち上げる競技があり、高麗の若者が優勝した。
丸い型の大石を 女石 といい、長い方を男石と名づけた。
170622takaku22.jpg


〇シイニッケイ
樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものです。樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年です。
このような例は各種各様のものがありますが、外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹は大変めずらしいものです。町の文化財に指定されています。
170622takaku23.jpg


170622takaku24.jpg


170622takaku25.jpg


他の参加者が高麗山に登ると先行していた。
私は撮影にちょっと時間をかけて、遅れた。

男坂を登ろうとしたが、急峻過ぎてあきらめ、女坂を登ることにした。
170622takaku26.jpg


女坂というが、けっこうきつい。
170622takaku27.jpg


けっこう登ったと思うところで、男の子の二人連れに出会い、頂上までどのくらいか聞いたら、まだまだ半分にも達しないと云われガックリ。
170622takaku28.jpg


上を目指す。
170622takaku29.jpg


170622takaku30.jpg


標識があり、頂上まで500mとあり、あきらめて250mだという「東天照」がどんなところかわからないが、
そこを目指した。
170622takaku31.jpg


けっこうな難所である。
170622takaku32.jpg


開けたところに出て、案内図を見てビックリ。
女坂は、とてつもなく大回りではないか(驚)
ふつう女坂というのは易しい上り道を云うぞ(怒)
170622takaku33.jpg


170622takaku34.jpg


見晴らしの良いところを探して、海を見て満足。
170622takaku35.jpg


170622takaku36.jpg


すぐに急いで降りた。
結果的には、バスに帰ったら、まだ誰も帰っていなかった(笑)
しかし、ちょっと冷汗ものであった。
反省・・・・・・・・



歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



川勾(かわわ)神社

20170617

鎮座地:神奈川県中郡二宮町山西2122
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」に参加して参拝しました。
相模国の式内社で、この日の最初の参拝社です。

入り口には、大きな看板で式内社と二宮であることをアピールしてあります。
170617kawawa01.jpg


社号標
170617kawawa02.jpg


社格:延書式神名帳では相模国余綾(ゆるぎ)郡所属の小社。
平安後期、相模国にも一宮・二宮の制度が定められ、二宮となり、二宮明神と呼ばれた。
明治6年(1873)郷社、昭和7年県社に昇格。

延喜式神名帳記載
170617kawawa03.jpg


川勾神社は相模国余綾(ゆるぎ)郡唯一の式内社である。
『万葉集』巻十四の東歌に、「相模路の 余呂伎の浜の まなごなす 児らくかなしく 息はるるかも」とある。
奈良朝以前からヨロギの浜があり、ヨロギ郡も存在していたと推定される。
余呂伎郡を余綾部としたのは、第41代持統天皇の時代である。

川勾神社の鎮座地:現在の所在地は旧川勾村になく、隣村の旧山西村にあるのは奇異の感がある。ところが川勾村も山西村も以前には一つの区画であり、「梅沢の里」と称し、文明年間に道興准后の著した『回国雑記』に「旅ごろも 春待つこころ替らねば 聞くもなつかし 梅沢の里」の一首を残している。江戸初期の正保図にも梅沢村の記載がある。

歴 史:
『二宮川勾神社縁起書』(寛永19年-1642)によれば、11代垂仁天皇の頃の創建と伝う。さらに『新編相模国風土記稀』に、「川勾」の地名は往古にこの地で押切川が曲流していたことに由来するといわれ、川勾神社の名も地名に由来するのだという。

・延長5年(927)に『延書式神名帳』により式内社(小社)へ列格された。前九年の役(1051~62年)と後三年の役(1083~87年)の折には源義家の奉幣祈願があったとされる。

・『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日の項に源頼朝は北条政子の安産を「二宮川匂大明神」に祈願し神馬を奉納し、また、同じ建久年間に社殿造営と社債寄進を行ったとある。

・「座間答」の起源が相武(さがむ)と磯長(しなが)の合併による一宮争いであるとする国府祭(こうのまち)の伝承に従うなら、7世紀には相模国に一宮・二宮の制度があったこ とになる。

・建長4年(1252)に宗尊親王(鎌倉将軍)が鎌倉に下向した際に、将軍事始の儀として神馬を奉納したといわれ、『吾妻鏡』に同年4月14日の項には鶴岡八幡宮以下の大社に神馬を奉納したと記載されている。

・応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたという(『川勾神社誌』)。また、『新編相模国風土記稿』では、この火災で古伝縁起を失ったと述べている。

・永禄4年(1561)、上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿を焼失。その後の元亀年間(1570~73)に後北条氏によって再建。当社は小田原城の丑寅の方角に当たり、鬼門守護神として後北条氏から格別の崇敬を受けたのだという(前掲『川勾神社誌』)。

・天正19年(1591)、徳川家康が豊臣秀吉の命により九州の肥前・名護屋に出陣する際、当社に祈祷札を献上し、朱印地50石を寄進した。以後、徳川家の崇敬を受け、江戸時代に入ると毎年正月に江戸城へ登城して神札を献ずるのが例となり、幕末まで続いた。

・安永9年如鮒〉暴風雨によって社殿が破損したがも天明7年(㍑$7)に宮司の二見氏が再建し、この社殿が昭和初期まで至る。

・現在の社殿は昭和7年(1932)県社昇格の内示を受けて新築着工したものであるが、第2次大戦や戦後の近代社格制度廃止などの影響により、19年後の昭和26年に完成した。

・平成23年9月21日の台風15号により、境内の夫婦杉のうち1本が倒れ、神楽殿の屋根が壊れるなどの被害が出ている。

鳥居
170617kawawa04.jpg


鳥居の横に、伊藤博文揮毫の扁額あり。
170617kawawa05.jpg


170617kawawa06.jpg


170617kawawa07.jpg


石段を上がる。
170617kawawa08.jpg


茅葺の随身門
170617kawawa09.jpg


応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたというが、それであろう。ほとんど顔などもわからない。
ガラスと光線の加減で、よく撮れなかった。
170617kawawa10.jpg


170617kawawa11.jpg


くぐってから、門の屋根の茅葺を拝見。
170617kawawa12.jpg


参道は真っ直ぐ。
170617kawawa13.jpg


文化財の古文書と「田舟」の説明
170617kawawa14.jpg


手水舎のところに、種々の説明文書コピーが置かれていた。

※国府祭(こおのまち)
毎年5月5日相模国一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮、総社六所神社、以上六社の合同祭儀で「こおのまち」と呼ばれています。
千有余年の昔相模の国司が当時の国府所在地に国内の有力神社をお招きし敬神の誠を捧げたものであると伝えられています。
五月五日に行なう為、端午祭とも言われ、又将軍の命令で行なわれたので天下祭・御用祭ともいって、国家安泰・五穀豊穣、諸産業の繁栄を祈念する相模国最大の祭典です。

三度移転したという相模国府の候補地は下記のとおり。
①綾瀬市早川綾瀬西高校付近
②平塚市平塚八幡宮付近
③大磯町六所神社付近

寒川神社は①、②期国府時代に国府に一番近く、延喜式神名帳にも明神大社となっており、一之宮とされた。
③に国府が移転したのは平安時代末で、この時期は川勾神社が一番近く、二之宮とされたのは妥当。
170617kawawa15.jpg


国府祭(こおのまち)古図を読み解いた説明書によれば、江戸時代の早い時期にまで遡る可能性のある、神・仏・修験による神仏習合の姿があり、中世的な先祖信仰の痕跡も明らかにみてとれる、複雑な祭りであるようだ。
170617kawawa16.jpg


手水舎
170617kawawa17.jpg


狛犬が侍るところから、玉垣内に入る。
170617kawawa18.jpg


170617kawawa19.jpg


拝殿
170617kawawa20.jpg


170617kawawa21.jpg


向拝にかかる注連縄は、大根注連縄。
170617kawawa22.jpg


拝殿内部
170617kawawa23.jpg


拝殿内には「二宮大明神」の社額があり。
170617kawawa24.jpg


本殿
170617kawawa25.jpg


170617kawawa26.jpg


破風部分の彫刻を、細い隙間から撮った。
170617kawawa27.jpg


ご祭神:
現在は、大己貴(おおなむち)命、大物忌(おおものいみ)命、級津彦(しなつひこ)命、級津姫命、衣通姫(そとおりひめ)命ほか5柱。

『新編相模国風土記稿』(天保12年一1841)は級津彦命、大物忌命、衣通姫命の3柱とする。
しかし、安永5年(1776)当社33代目宮司の二見忠良が書写した『御祭礼之式伝来写』によれば、江戸中期には八幡神を祀ったことが確認できるという。鎌倉幕府や関東管領などが信奉した鶴岡八幡宮の影響があるといわれている。また、級津彦命と級津姫命は本来は風神であるが、師長(しなが)国のシナに通じるところから加えられた。

※師長国:
『国造本紀』に第13代成務天皇のときに、茨城(うばらき)国造の祖建許呂(たけころ)命の児意富鷲意弥(おおわしのおみ)命を国造に定めたとある。師長国については諸説あって必ずしも判然としないが、『和名抄』には「上古は全く相模・師長二国たりしとも云ふべきなれど、みだりには然定難きなり。されど、北方山間険阻の地は左加牟(さがむ)と唱へ、南方磯辺の地は磯長と称し、自然区別せし事は、織るべからず」とある。

神紋は「丸に二」
170617kawawa28.jpg


神楽殿
170617kawawa29.jpg


東五柱祭神
170617kawawa30.jpg


170617kawawa31.jpg


西五柱祭神
170617kawawa32.jpg


170617kawawa33.jpg


神社前の道路工事のために撤去された石鳥居が保存されている。
170617kawawa34.jpg


170617kawawa35.jpg


御神木の杉
170617kawawa36.jpg


170617kawawa37.jpg


ご神木の銀杏
170617kawawa38.jpg


170617kawawa39.jpg




歴史クラブ行事一覧に飛ぶ



「神社巡拝」に飛ぶ



白髪(しらかみ)神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

20170206

鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼字女体1038
参拝日:2017年1月28日

社号標
式内論社 武蔵國播羅郡 白髪神社、旧無格社
170206shiraga01.jpg


利根川の南岸、407号線の東の畑の中に、ポツンとある木立の中にある小さな社。
社前の鳥居の左右に石柱があり、左には「高岡稲荷神社」、右には「式内白髪神社」とある。
170206shiraga02.jpg


まず、「白髪神社」の読みであるが、「しらひげ」と読んでいる方が多い。これは他に「白鬚(しらひげ)神社」が多いせいであろう。
ご祭神が「白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)」なので、念のため『延喜式神名帳』を確認したら、「しらかみ」とルビが振ってあった。
170206shiraga03.jpg


「白髪神社」の故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっているが、それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

治承三年(一一七九)、年齢も古希になった斎藤実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
ここで「古社」というのは「白髪神社」のことであり、白髪神社と聖天院の神仏混合でずっと祀られてきた。

そして、慶応4年(1868)9月、神仏分離の布達に際し、住僧と神職の争いが起りました。
当宮に奉仕する彌宜職の三人(田島河内・堀越大和・橋上宮内)は、密議を交して村役人に相談もせず、京都及び東京の裁判所に願い出て聖天宮を神宮の掌中に獲得しようと謀った。そのため時の住僧稲村英隆は入獄の難を受けたが、氏子一般民は寺院側に加担する者多く、神職側に不利が生じて止むなく時の判事の斡旋により、当時の聖天境内十二町九反余を二分し、七町九段余は聖天宮境域とし、残り五町余は大我井神社社地となし、「如絵図面、宿井往來可爲境事」と定めた。

よって、大我井神社をもって白髪神社の論社とする見方があり、それはうなずけるところです。
しかし、大我井神社もまた「二柱神社」としていた経過もあり、「大我井神社」という社名になったのは、なにか別の影響もあったと推定されます。
別の動きとして、高岡稲荷に白髪神社が合祀されたということもあったのでしょう。

もう一方に立つ、高岡稲荷神社の社号標。
170206shiraga04.jpg


鳥居が赤いのは、高岡稲荷神社のものだからでしょう。
170206shiraga05.jpg


社殿
170206shiraga06.jpg


170206shiraga07.jpg


社殿内部
170206shiraga08.jpg


御祭神:白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと=清寧天皇)
配祀: 天鈿女命 猿田彦命 倉稻魂命、合祀: 須佐男之命

白髮大倭根子命は『古事記』に記載されている名で、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)である。
雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。
雄略天皇23年8月、雄略天皇崩御。吉備氏の母を持つ星川稚宮皇子が大蔵を占拠し、権勢を楯にしたため、大伴室屋・東漢直掬らにこれを焼き殺させる。翌年正月に即位。
皇子がいなかったことを気に病んでいたが、清寧天皇2年、市辺押磐皇子の子である億計王(後の仁賢天皇)・弘計王(後の顕宗天皇)の兄弟を播磨で発見したとの情報を得、勅使を立てて明石に迎えさせる。翌年2王を宮中に迎え入れ、億計王を東宮に、弘計王を皇子とした。
5年正月に崩御した。『水鏡』に41歳、『神皇正統記』に39歳という。

狭い境内を見て回ったが、他には不明の境内社が二社あるのみだった。
170206shiraga09.jpg




神社巡拝記事一覧に飛ぶ



妻沼聖天山歓喜院(式内社白鬚神社故地)/埼玉県熊谷市

20170201

鎮座地:埼玉県熊谷市妻沼1627
参拝日:2017年1月28日

「武蔵国式内社めぐり」で訪れた。
「幡羅郡・四坐のうち白髪(しらかみ)神社」の論社として「大我井神社」、「白髪神社」の他に故地として妻沼聖天山歓喜院が挙がっている。
それは下記のような理由である。
『妻沼町史』によると、「…社殿の伝によれば、往古は白髪神社にして、延喜式に載する所の古社也。別当実盛信仰し、治承に至り、越前国金ヶ崎城より聖天宮を当社に持来り合祀す、故に社名を聖天宮と申し奉る。後に白髪神社は別に祠を建て尊を奉ぜりという」(『武乾記』という文献の引用)として、聖天院=白髪神社説をとっている。そして、「いつの時代にか、白髪神社を尊敬していた人達が、高岡稲荷大明神(現白髪神社)の祠に併祀して、今日に伝承した」と述べている。

それで今回訪問してみたが、社殿の前に狛犬が二組あり、本殿(歓喜院聖天堂)の裏に境内社が7社が今でも祀られているのを確認したので、私も「式内社白鬚神社故地」として挙げておくことにした。

寺号標
170201menuma01.jpg


寺伝では治承3年(1179年)に、長井庄(熊谷市妻沼)を本拠とした武将齋藤別当実盛が、守り本尊の大聖歓喜天(聖天)を祀る聖天宮を建立し、長井庄の総鎮守としたのが始まりとされている。その後、建久8年(1197年)、良応僧都(斎藤別当実盛の次男である実長)が聖天宮の別当寺院(本坊)として歓喜院長楽寺を建立し、十一面観音を本尊としたという。

 実盛は藤原氏の流れである越前国の斎藤則盛の子に生まれ、幼名を助房といった。十三歳の時に故郷の越前で事件に遭遇し、縁戚である武蔵国長井庄の庄司・斎藤実直の養子となり、養父・実直の「実」と実父・則盛の「盛」を一字ずつとり「実盛」と名乗った。
 生まれ故郷の北陸地方は、古くから信仰心の深いところで、越前国の人々には早くから聖天信仰が普及していたため、実盛も幼少の頃から歓喜天を深く信仰し、自らの守り本尊と心に決め、平時には居間に祀っては朝夕の礼拝を欠かさず、戦場にあってもこの歓喜天を、かた時も離すことはなかったといわれている。
 治承三年(一一七九)、年齢も古希になった実盛は、幼少の頃から自己を護ってくれた、守り本尊の歓喜天を何処かに奉祀しようと思い立ち、芝川がめぐり木立が鬱蒼と繁る、大我井の杜が適所と考え、ここにあった古社を修復し、あらたに社殿を造営。大聖歓喜天を奉祀、「聖天宮」と奉称し、戦場で散った多くの将兵の御霊を慰めるとともに、庄内の平和と領民の安泰と繁栄を祈願するため、長井庄の総鎮守とした。
(さきたま文庫「妻沼聖天山」より)

中世には忍(おし)城主の庇護を受け、近世初頭には徳川家康によって再興されたが、寛文10年(1670年)の妻沼の大火で焼失した。現存する聖天堂(本殿)は、享保から宝暦年間(18世紀半ば)にかけて再建されたものである。平成15年(2003年)から平成23年(2011年)まで本殿の修復工事が行われ、平成22年1(2010年)1月18日に本体工事の竣功式を、平成23年(2011年)6月1日に竣功奉告法会を執行し、同日から一般公開が始まっている。平成24年(2012年)7月9日に聖天堂(本殿)は国宝に指定された。

背の高い石灯篭の先に貴惣門がある。
170201menuma02.jpg


【貴惣門】
境内正面入口に位置する高さ18mの銅板葺きの八脚門。屋根を上下二重とし、下重は前後に2つの切妻屋根を架け、側面から見ると3つの破風をもつ特異な形式の門。持国天、多聞天の像を左右に配置している。妻沼の林正道により、嘉永4年竣工、安政2年(1855年)頃の完成。

横からの、三つの破風をもつ特異な眺めがこの門の特徴。
170201menuma03.jpg


170201menuma04.jpg


この門の彫刻も素晴らしい。
170201menuma05.jpg


170201menuma06.jpg


170201menuma07.jpg


持国天、多聞天は修復中という掲示が出ていたが、どうやら多聞天は修復されて納められた直後らしい。
しかし、残念なことに細かい金網が張られてしまい、よく見えない。
170201menuma08.jpg


貴惣門をくぐると、この日は土曜日で、フリーマーケットが開催中。
170201menuma09.jpg


齋藤実盛像
170201menuma10.jpg


2016年11月に郷里に帰った際、石川県加賀市の実盛塚(篠原古戦場)、小松市の多太神社に参拝しており、最近実盛に縁が深い。

実盛塚(篠原古戦場)の記事があります。

その記事を読む


木曽義仲が、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納した多太神社の記事があります。

その記事を読む


【四脚門】
170201menuma11.jpg


170201menuma12.jpg


170201menuma13.jpg


仁王門の前に、慶應4年(1868)年奉納の狛犬がある。
170201menuma14.jpg


170201menuma15.jpg


170201menuma16.jpg


【仁王門】
170201menuma17.jpg


170201menuma18.jpg


170201menuma19.jpg


いきなりカミさんが鳴らしたのでビックリしたが、仁王門に大きな鰐口が下がっている。
170201menuma20.jpg


拝殿の前に、文政7年(1824)奉納の狛犬がある。
170201menuma21.jpg


170201menuma22.jpg


170201menuma23.jpg


【国宝聖天堂(本殿)】
拝殿・中殿(相の間)・奥殿からなる廟型式権現造(日光東照宮などに見られる、複数棟を一体とした建築形式)の建物である。大工棟梁は幕府作事方棟梁の平内政信の子孫の妻沼の名工林兵庫正清で、子の正信の代まで享保20年(1735年)から宝暦10年(1760年)にかけて完成されたものである。
当時の庶民・農民が永年にわたって浄財を出し続け、44年かかって完成した。多くの国宝建造物が権力者に寄って作られたのに対し、庶民の浄財で作られたのは稀有である。

奥殿は入母屋造、桁行3間・梁間3間、正面向拝付き、中殿は両下造(りょうさげづくり)、桁行3間・梁間1間、拝殿は入母屋造、桁行5間・梁間3間で、これらを接続して1棟とし、屋根はすべて瓦棒銅板葺きとする。奥殿は内外ともに彫刻、漆塗、彩色、金具等をもって華麗に装飾する装飾性の高い建築である。奥殿向拝南面羽目板の「鷲と猿」の彫刻は伝説的な彫刻職人の左甚五郎作とする伝承がある。実際の彫刻棟梁は石原吟八郎(吟八)と関口文治郎である。奥殿は柱、長押などの部材に地紋彫をほどこし、内法下の大羽目板には七福神、縁下には唐子遊びを題材とした彩色彫刻をほどこす。唐破風下には中国の故事にちなんだ「三聖吸酸」、「司馬温公の瓶割り」などの彫刻があり、拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」である。

2003年から2010年にかけての屋根葺き替えと彩色修理を中心とする修理が実施され、当初の彩色がよみがえった。2012年、国宝に指定。

拝殿
170201menuma24.jpg


向拝部分も、彩色彫刻が素晴らしい。
170201menuma25.jpg


拝殿正面唐破風下の彫刻は「琴棋書画」
170201menuma26.jpg


虎の左右の蟇股彫刻が、鬼が噛みついている様になっていて面白い。
170201menuma27.jpg


肘木の透かし彫刻が、鯉から龍に出世するまでを表わしている。
170201menuma28.jpg


170201menuma29.jpg


そして中央の龍に
170201menuma30.jpg



海老虹梁(えびこうりょう)と手挟み(たばさみ)の彫刻も素晴らしい。
170201menuma31.jpg


いよいよ奥殿を見る。
拝観料を取られるが、そのかわりボランティアガイドの説明があり、その説明がとても良かった。
そして、カメラの撮影がOKというのも、嬉しい限りだった。

奥殿は満艦飾の彩色彫刻である。
170201menuma32.jpg


170201menuma33.jpg


三手先の、白い象の奥の部分が塗られていないのは、わざと未完成のかたちにしているのだ。
170201menuma34.jpg


花頭窓
170201menuma35.jpg


大羽目の彫刻は七福神、腰羽目の彫刻は唐子遊びを主題としていて、南面から北面に向かって、春から冬への変化が植物で表現されている。

南面唐破風下の彫刻「三聖吸酸」
これは、孔子、釈迦、老子が酢をなめて、その酸っぱさを共感している様子を表現したものであり、「三聖吸酸さんせいきゅうさん」という中国の故事に由来しています。つまり、酢が酸っぱいという事実は皆同じであり、儒教、仏教、道教など、宗教や思想が異なっているとしても、真理は一つであるという「三教一致さんきょういっち」を意味しています。
170201menuma36.jpg


北面唐破風下の彫刻「司馬温公の瓶割り」
170201menuma37.jpg


滝に落ちかけた猿を鷲が救っている図。
猿は煩悩にまつわれた人間に、鷲は歓喜天に、それぞれたとえられている。
左甚五郎の作と伝えられている。
170201menuma38.jpg


「吉祥天と辨天さまのすごろく」
かっては、七福神に吉祥天も入っていたそうです。
どちらが残るか、すごろくで勝負しているのでしょうか。
毘沙門天はすっかりすごろくの勝負に夢中になり、おかげていつも踏みつけられている天邪鬼が解放されてのびのびとしている。
170201menuma39.jpg


「小間取り遊び七人」植物は「梅」
170201menuma40.jpg


「竹馬遊び」植物は「桜」「蘇鉄」
170201menuma41.jpg


「獅子舞」
あっかんべーをしている。
170201menuma42.jpg


170201menuma43.jpg


どこを見ても素晴らしい彫刻ばかり。
170201menuma44.jpg


170201menuma45.jpg


170201menuma46.jpg


170201menuma47.jpg


私が今回飛びついたのは、桁を支えている猿。
170201menuma48.jpg


170201menuma49.jpg


170201menuma50.jpg


170201menuma51.jpg


170201menuma52.jpg


170201menuma53.jpg


170201menuma54.jpg


170201menuma55.jpg


170201menuma56.jpg


170201menuma57.jpg


170201menuma58.jpg


170201menuma59.jpg


170201menuma60.jpg


ガイドさんが、拝殿前に移動して教えてくれたのは、手挟み(たばさみ)にも猿が居ると(笑)
170201menuma61.jpg


聖天堂(本殿)の拝観が終わってから、本殿の奥に境内社があったので、それに参拝しました。
170201menuma62.jpg


境内社・三宝荒神社
170201menuma63.jpg


境内社・五社神社
170201menuma64.jpg


不明
170201menuma65.jpg


境内社・天満宮
170201menuma66.jpg


妻沼聖天山本殿の彫刻は、素晴らしいものでした。
これを守っている努力も素晴らしい。
ボランティアのガイドさんが説明してくださったおかげで、認識を新たにしたことが沢山あったので、有難かった。
今回の目的である、かって神社も存在していたという証も得られたので、よかった。



神社巡拝記事一覧に飛ぶ



「お気に入りの場所」に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop