深見神社(延喜式内社)/神奈川県大和市

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鎮座地:神奈川県大和市深見3367
参拝日:参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目で、石楯尾神社、有鹿神社、大田道灌墓所、高部屋神社に続き当神社に参拝しました。

入り口に鳥居と社号標。
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社号標
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『総国風土記』によると「雄略天皇22年(478年)3月に創祭」とあるが、正確な創建時期は不明である。また、当時祀られていた祭神は「闇龗神」とも記述されている。一方で、明治時代に建御名方神が合祀されるまでの間に、何らかの経緯で闇龗神は当社(本殿)の祭神から外れて境内社の御倉稲荷神社の祭神となり、合祀が行われるまでは「武甕槌神」のみが当社(本殿)の祭神であった。

県史蹟調査員・石野瑛の説によれば、かつては相模湾の海がこの辺りまで深く入り込んでいて、舟・筏による交通が敷かれていたとされる(この入り江は「古深見入江」と仮称されている)。さらに、境川流域一帯を表す総称として、深見は「深海」または「深水」と古くは書かれていた。なお、深見という地名は『倭名類従抄』(承平年間、931〜938年編纂)に「相模国高座郡深見郷」と記されたのが文献上の初出となっており、ここでも現在の地域より広い範囲を表す総称となっている。

当社の縁起では、「東国の平定を目的とする武甕槌神(当社の祭神、タケミカヅチ)が舟師を率いて常陸鹿島より深海に進軍した際、伊弉諾神(イザナギ)の御子である倉稲魂神(ウカノミタマ)と闇龗神(クラオカミ)によりこの地が治められた。そして、雨神である闇龗神はこの地に美田を拓き土民による郷を開いた」とされており、これが深見の始まりとされる(両神は境内の御倉稲荷神社に祀られていたが、闇龗神が本殿に合祀されたことにより現在では倉稲魂神のみとなっている)。

かってより地元の民衆(地方土民)による信仰の中心とされてきたが、源頼朝や小田原北条、武田信玄のほか渋谷庄司重国、太田道灌らにも特に篤く信仰されてきた。徳川幕府による大坂の陣の折、当社で武運長久を祈願した旗本の坂本小左衛門重安はその際に田の寄進もしており、「鹿島田」として今に残っている。さらに、重安の養子で寺社奉行となった坂本内記重治は、当社を度々参拝しながら社殿の造営も行い、「相模國十三座之内深見神社」と記す社号標を建てたと今に伝えられている。なお、坂本家は深見における当時の領主でもある。

明治6年(1873年)、太政官の布告で郷社に列せられた。しかし、3年後の明治9年(1876年)には隣の仏導寺の火災の煽りを受け、社殿から古文書に至るまで尽く焼失し荒廃、公称社格も不詳となった。明治42年(1909年)、深見の諏訪の森に鎮座していた末社の諏訪神社と合併し、祭神の「建御名方神」を当社へ同列に合祀した(相殿)。なお、この時点では仮の社殿(仮殿)であり本殿等は造られていない。以降、社殿等の復興が幾度も計画されるが実現に至らず、焼失から66年後の昭和16年(1941年)になってようやく現在の位置に再建された(当社社殿の他に鳥居、末社なども造られた)。翌年には再び郷社に列せられている(旧社格制度は昭和21年(1946年)に廃止された)。

平成24年(2012年)には再建70周年を記念して新しい社号標を建立し、『延喜式神名帳』に登載されている当時の祭神である「闇龗神」が御倉稲荷神社より本殿に合祀された。

新編相模国風土記稿による深見神社の記述:
(深見村)鹿島社
村の鎮守なり、鳥居の傍に石標あり、相模国十三座之内、深見神社と彫る、式内郡中小社五座の一なり。神名帳曰、高座郡小五座、深見神社云々。祭神は武甕槌尊なり。鹿島と号するは常州鹿島神社と祭神同じきのみにあらず、彼社世に著名なればかく呼習せり。祭礼村内諏訪神社と隔年十一月月日を卜して執行す。当日瀬谷村(鎌倉郡属)寶蔵寺の僧来りて法楽をなす。村持。
末社、稲荷。
神木、松一株囲三丈程、此余社地に老松樹数株あり。

玉垣に沿って進むと、途中に狛犬一対が置かれている。
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参道が左に折れるところに新しい社号標がある。
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鳥居をくぐって先に進む。
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玉垣が切れて入り口があり、左に折れて入る。
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手水舎
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入り口から真っ直ぐ進むと拝殿がある。
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拝殿前に、二本の高い柱がある。
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帰ってから調べると「真榊」であった。
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真榊とは、普通拝殿の中に置かれ、榊に五色の布を垂らしたもの。
五色とは、古代中国で成立した陰陽五行説に基づくもの。

この時に私たちの間で話題になったのが、高い上にある榊をどうやって取り換えるのだろうかと。
色々な話が飛び交った。
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拝殿
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向拝部
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向拝唐破風の彫刻
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向拝中備えの彫刻は、上部が鳳凰、下部が龍。
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木鼻彫刻「獅子と牡丹」
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社額
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拝殿の横から本殿に。
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拝殿脇障子の彫刻
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本殿覆屋
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ご祭神:
・闇龗神(くらおかみのかみ 雨神)
・武甕槌神(たけみなづちのかみ 武運長久の神)
・建御名方神(たけみなかたのかみ)

神紋は「十六弁八重菊」
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摂社・靖國社(厚木空神社)
厚木海軍飛行場の敷地内で昭和19年(1944年)11月に「厚木空神社」として創祀され、太平洋戦争による厚木航空隊(第三〇二海軍航空隊)の戦死者を祀っていたが、終戦後に廃祀(取除き)が命じられると昭和26年(1951年)4月7日、深見集落の戦没者を合祀して当社地に転社された。
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境内社・御倉稲荷神社(おくら稲荷)
倉稲魂神(ウカノミタマ)が祀られている。平成24年(2012年)までは、現在本殿の祭神である闇龗神(クラオカミ)も祀られていた。深見神社の古社地といわれ、かつては稲荷の辺りに当社の拝殿が東向きにあったとされる(現在は南向き)。なお、現在の場所に社殿等が造られたのは、昭和16年(1941年)になってからのことである。
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ご神木・ハルニレ(なんしゃもんじゃの木)
夏緑樹林帯(ブナ帯)の木で、北国の山地に多くみられます。県内では丹沢山地の1000m以上の地にみられますが、深見のような低地では珍しいことです。このように珍しい木で、何という名の木かわからなかったので、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれるようになったと伝えられています。
四~五月、葉に先だって褐紫色の小さな花を葉の脇に束状に七~十五個程つけます。六月には扁平な翼を持った果実が熟して落ちます。葉の緑は鋸歯状で表面は脈がへこみザラついています。
(大和市教育委員会掲示より)
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(了)


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高部屋神社(延喜式内論社)/神奈川県伊勢原市

20171230

鎮座地:神奈川県伊勢原市下糟屋2202
参拝日:参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目で、石楯尾神社、有鹿神社、大田道灌墓所に続き当神社に参拝しました。

社号標
式内社 相模国大住郡四座の内 高部屋神社(小)、旧社格:村社
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かってはこの神社と同名の大住郡高部屋村の村社であり、またこの地区を含む糟屋庄の総鎮守としても崇敬された。

創建年代は不詳。『延喜式神名帳』に相模国13座の内の1社と記載されており、大住郡127ヶ村の惣鎮守であった。ただし、伊勢原市高森にある高森神社も、式内社「高部屋神社」の論社の一つとされており、この神社が明治の神仏分離令以前は「高部屋神社」という呼び名であったと伝えられていることに加え、棟木や鳥居脇の石碑(裏側)に「高部屋神社」という銘文が残されていることもその理由として挙げられる。

鎌倉時代に、糟屋庄の地頭であった源頼朝の家人「糟屋藤太左兵衛尉有季」が、高部屋神社を守護神として新たな社殿を造営した。
至徳3年(1386年)12月に河内守宗国によって造られ、平秀憲が寄進した銅鐘は神奈川県指定重要文化財に指定されている。
天文20年(1551年)に地頭の渡辺石見守が社殿を再興した。
天正19年(1591年)11月に徳川家康より社領10石の御朱印を賜る。
江戸時代中期頃まで別名「糟屋八幡宮」と呼ばれた。

※糟屋有季
 相模国大住郡糟屋荘・荘司だった糟屋盛久の子。
源頼朝に仕え、比企能員の娘を妻としたが、1203年(建仁3年)の比企氏の乱で比企一族とともに討死。
乱後、一族は後鳥羽上皇の仕えていたが、承久の乱で討死したのだという。
有季は自らの館に誉田別命を祀る新たな社殿を造営。
そのため、高部屋神社は糟屋八幡宮とも呼ばれ、京都の萬福寺七世・悦山道宗揮毫という「八幡宮」の扁額が残されている。

神事に用いられる鎌倉時代以降の雅楽面三面の古面や、京都府宇治市にある黄檗山萬福寺7世・悦山道宗(中国福建省泉州府晋江県からの渡来僧)が元禄初期に揮毫した「八幡宮」の扁額がある。本殿前の狛犬を寄進した行按・行白も黄檗宗の僧で、一時期、別当神宮寺とともに黄檗宗との関係が深かったと思われる。

明神式鳥居
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境内
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手水舎
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拝殿
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拝殿及び幣殿は、江戸時代の慶応元年(1865)の建立で、正面の柱には龍の彫物が巻き付き、軒下には亀に出会う浦島太郎、その上には竜宮城と乙姫が彫り込まれています。平成24年には屋根工事が行われ、従来どおりの茅葺きに葺き替えられました。市内では唯一、県内でも貴重な茅葺き屋根の社殿となっています。

向拝部
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向拝屋根は唐破風で、破風下の彫刻は飛龍。
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向拝中備えの彫刻が浦島太郎の彫刻
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下段に「浦島太郎と迎えに来た亀」、上段に「竜宮城と乙姫」
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向拝柱に巻き付く龍の彫刻と、目貫下の麒麟の彫刻
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向拝屋根に降り懸魚、随分と反った海老虹梁、海老虹梁下の彫刻、手挟みの彫刻と随分と凝ってました。
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山岡鉄舟の筆による「髙部屋神社」の社号額
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拝殿内部
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茅葺き屋根が良いですね。
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拝殿と本殿の間には入れるようになっている。
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本殿前には、享保12年(1727)に黄檗宗の僧行按・行白が寄進した狛犬が居ます。
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右の阿形の台座に行按の名が。
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左の吽形の台座に行白の名があります。
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本殿は、正面の柱間が五つある五間社流造という格式の高い構造で、県内では国指定重要文化財の鶴岡八幡宮若宮社殿(鎌倉市)、箱根神社本殿(箱根町)、六所神社本殿(大磯町)といった名だたる神社にしか見られません。
関東大震災による倒壊後、昭和4年に再建されたものですが、倒壊前(正保(しょうほう)4年、1647築)の旧本殿の漆塗りの残る扉など、主要な古材が数多く再利用されています。再建に当たって、旧本殿の持つ江戸時代前期の雰囲気を残す努力が見られ、当時の関係者の想いを知ることができます。
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前の流れ屋根が長い!
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降り懸魚が二つも飾られている。
上が麒麟の彫刻
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下が霊亀の彫刻
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脇障子の彫刻
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ご祭神:
・神倭伊波礼彦命 (かんやまといわれひこのみこと)=神武天皇
・誉田別命 (ほむだわけのみこと)=応神天皇
・三筒男命 (みつつおのみこと)=住吉三神
・大鷦鶺命 (おおさざきのみこと)=仁徳天皇
・息気長足姫命 (おきながたらしひめのみこと)=神功皇后
・磐之姫命 (いわのひめのみこと)=仁徳天皇の后

境内社は、稲荷社、水神社、庚申社、愛染明王、八坂神社、金刀比羅宮があるとのことだが、確認したのは金刀比羅宮だけでした。
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1386年(至徳3年)12月に河内守国宗が鋳造し、平秀憲によって奉納された銅鐘(神奈川県の重要文化財)。
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神楽殿
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ご神木の大銀杏
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脇の入り口の横に巨大な根があった。
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(了)


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有鹿(あるか)神社(延喜式内社)/神奈川県海老名市

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鎮座地:神奈川県海老名市 上郷1丁目4−41
参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目で、石楯尾神社に続き当神社に参拝しました。

入り口の社号標
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神奈川県県央に流れる鳩川(有鹿河)沿いに形成された地域(有鹿郷)に鎮座する神社であり、本宮、奥宮、中宮の三社からなる相模国最古級の神社。「お有鹿様」とも呼ばれる。
・相模国式内社十三社の内の一社(小社)
・五ノ宮ともされるが諸説あり。
・神階は中世に『正一位』を朝廷より賜っている。
・旧社格は県社格の郷社。

三社の内訳は以下のとおりであり、この日は「本宮」にのみ参拝した。
■本宮
海老名市上郷に鎮座し、有鹿比古命を祀る。神奈川県のヘソ(中央)に位置しており、子育て厄除けの神様として有名で、神奈川県の全域から広く信仰を集める。境内は「有鹿の森」とされるが、松が1本もないため「松なしの森」ともいわれる。
■中宮
「有鹿の池(影向の池)」とも呼ばれ、本宮から約600メートル(徒歩5分程)の位置に鎮座しており、有鹿比古命・有鹿比女命の2柱を祀る。鎮座地には小さい池(現在は水が張られていない)と小祠、鳥居がある。この池で有鹿比女命が姿見をしていたという伝承がある。
■奥宮
本宮から北に6キロメートル程離れた神奈川県相模原市南区磯部の「有鹿谷」に鎮座し、有鹿比女命を祀る。鎮座地の傍は水源となっていて小祠と鳥居がある。また、東側の丘陵(有鹿台)には勝坂遺跡がある。当社の御神体は、奥宮の近く有鹿谷の泉湧く洞窟とされているが、大正十二年(1923)の関東大震災により洞窟が崩落し、現在の姿は、斜面から湧水している状態となった。

三社の位置関係は、本宮は鳩川の相模川への流入口域にあり、奥宮は鳩川の水源の一つにある。中宮は鳩川の中間地点の座間市入谷の諏訪明神の辺りにあったが、中世期に衰退し、海老名の現在地に遷座した。なお、鈴鹿明神社の縁起では、有鹿神と鈴鹿神が争った際、前述の諏訪明神と弁財天の加勢により鈴鹿神が勝利し、有鹿神は上郷に追いやられたとされる。これが有鹿神社の移転の伝説となっている。

【歴史】
■草創
有鹿は、古代語の水の意味であり、鳩川沿いに形成された地域を有鹿郷という。有鹿神社のご神体は、相模原市南区磯部の勝坂にある泉湧く洞窟。奥宮のある地域周辺は、国の史跡に指定されている
勝坂遺跡であり、縄文時代中期より祭祀が行われていた有鹿祭祀遺跡からは、銅鏡、鉄鏡、勾玉などが出土している。また、本宮の方も神社すぐ裏手で弥生時代の甕、土器類、祭器類が大量に出土しており、同じく祭祀が行われていたものと思われる。この他、有鹿神社の創建に関わると考えられている有力者の古墳有鹿丘より、ヘラジカの骨が出土しており、それが名前の由来になった可能性もある。
※有鹿は、古代語の「生る(あ・る)=神や神聖なものが生じる」と大和言葉「か=水」の意味である。
■古代
天智天皇3年(664年)5月に、国家的な祭礼を行った記録がある。天平勝宝8年(756年)郷司の藤原廣政により、海老名耕地五百町歩が寄進され神領となる。貞観11年(869年)『三代実録』によると、それまで相模国従五位下だった有鹿神社は、従五位上を授けられる。このように相模国の正史に叙位が明記された神社は、有鹿神社の他は、一ノ宮の寒川神社と石楯尾神社の三社だけである。また延長5年(927年)延喜式の制定により相模国十三座の内の一社に列せられる。延喜式神名帳には式内小社として記載。
■中世
神社由緒によると、鎌倉時代に神社界の最高位である『正一位』を朝廷より賜る。この時期の社殿は豪奢であり、有鹿神社の神宮寺である総持院と合わせ、十二の坊舎が甍を並べ、蒼々たる大境内を誇っていた。一説には現在の社家駅近辺まで参道が延びるほどであった。これは平安中期より頭角を現した海老名氏という鎌倉幕府の重鎮の手厚い庇護があった為である。海老名氏は村上源氏の流れを汲む豪族出身の武士団で、相模国の中原に勢力を誇っていた。
元弘3年(1333年)関東大兵乱によって、鎌倉幕府が滅亡し、この時に有鹿神社も総持院と共に新田義貞軍による兵火の災いを受け、美麗を極めた社殿を始め、文書、記録類に至るまでことごとく灰燼に帰し、広大な社領も略奪されてしまった。また、永享10年(1438年)に永享の乱があり、関東管領の足利持氏は有鹿神社の近くにある宝樹寺に本陣を置き、幕府軍と戦い敗走した。これによって海老名氏は滅亡し、有鹿神社と総持院は再度兵火を蒙り、衰微してしまった。
■近世
天正3年(1575年)海老名耕地の用水を守る「水引祭」が復活し、相模国五ノ宮、海老名総鎮守として少しずつ再興してきた。天正19年(1591年)には、徳川家康より朱印十石の寄進を受け、また元和8年(1622年)海老名郷の領主となっていた高木主水の内室により社殿が再建された。
■近代
明治維新にあたり、神仏分離令が発せられ、有鹿神社は別当寺の総持院と袂を分かつこととなった。明治6年(1873年)有鹿神社は一時、県社に列せられたが、最終的に郷社となる。明治43年(1910年)神饌幣帛料供進社になり、祈年祭・例祭・新嘗祭にあたり、供進吏の参向を受けた。
■現代
第二次大戦後、GHQの「神道指令」に基づき、有鹿神社は郷社の地位を失うこととなったが、全国の神社が結束して設立された神社本庁に属することにし、宗教法人格を取得した。その後、海老名耕地の用水事情も改良が進んだことなどにより、水害も収まり一時期、有鹿神社は停滞することとなった。ところが、近年は「水引祭」を通して復活中である。まだ中世前期の権勢には遠く及ばないが、海老名の都市化により人口も増えて来たのにあわせ、有鹿神社も復興して来ている。宮鐘の再鋳と鐘楼の再建、社殿屋根の葺き替え、手水舎の再建、天神社の遷座、社務所の新築、玉垣の築造等、境内の整備が進められている。平成4年(1992年)、本殿および拝殿天井龍の絵図が海老名市重要文化財に指定された。


神明鳥居
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鳥居をくぐった右手にあった標示「有鹿社は 式内社にて 水守る」
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手水舎
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立派な銀杏の木の下に鐘楼あり。
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宮鐘:
応永24年(1417)、宝樹沙弥(海老名備中守持季出家後の名)により、和泉権守恒光(中世の相模国・武蔵国を中心に活躍した相模鋳物師である物部氏の後継者的存在であった清原氏の一族)作の宮鐘が寄進されたが、明応4年の地震で破損したので、元禄2年(1689)再建された。250年にわたり、朝夕に美しい音色を海老名耕地に響かせた。宮鐘は、第二次大戦の末期に供出され、昭和53年(1978)再建された。

参道を進むと、石灯篭二組と、狛犬一対がある。
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狛犬は、大正8年奉納のもの。
ここの狛犬も通常と異なり、右側が吽形で、左側が阿形である。
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拝殿は入母屋造り。
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向拝部は唐破風。
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社額は「有鹿大明神」とあり。
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本殿覆屋
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千木は内削ぎ。
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【ご祭神】
〇有鹿比古命(アルカヒコノミコト)
記紀にはその名がみえない神で、太陽の男神といわれている。海老名耕地の農耕の恵みをもたらす豊穣の神として、海老名の土地の人々に篤く崇められてきた。農業・産業振興の神とされる。
〇有鹿比女命(アルカヒメノミコト)
記紀にはその名がみえない神で、水の女神といわれている。主な神徳は安産、育児など。
〇大日靈貴命(オオヒルメムチノミコト=天照大神)
『新編相模国風土記稿』に祭神は大日靈と古縁起に記載がある旨が記されている。しかし、有鹿比古命が太陽神で同じとはいえ、男女の違いがあるので、別の神であると近年結論付けられた。これは別当寺の総持院が真言宗であり、その本地仏が「大日如来」とされたことからの後付けだと考えられている。また、明治時代も記紀の祭神を優遇する風潮により、そのまま大日靈貴命が祭神となっていたが、その後、旧に復した。

※「あるか」は、古代語の「生る(あ・る)=神や神聖なものが生じる」と大和言葉「か=水」の意味である。
これからすると、奥宮で祀られている有鹿比女命(=水神)が本源であり、太陽信仰が追加され、それは有鹿比古命であり、その後天照大神が追加されたものであろう。

神紋は「右三つ巴」
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受付のところで、宮司さんに「パンダ宮司さん」についてお話を伺った。
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①パンダの優しいイメージが有鹿神社の志す心優しい神道、親しみやすい神社にあっている。
②パンダは中国産ではあるけれど、日本人にとって幼い頃から親しみ深い。
③宮司が色白タレ目メガネでパンダっぽい。
④古来、神賑行事で面やかぶりものを使用してきた。
上記の理由により、パンダ宮司代理のキャラクターを参拝者とのご挨拶や記念撮影に登場させているそうです。
関東のテレビ局は全て取材に来たと、宮司さんは嬉しそうであった。

宮司さんから、拝殿の龍絵の写真を見せていただいた。
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〇天井の龍絵
拝殿の天井には、万延元年(1860)の頃、藤原隆秀(近藤如水)により豪快で精緻な筆法で龍の絵図が描かれている。これは海老名市より文化財の指定を受けている。これを模写した絵馬も作成されている。

本宮の境内社
・西側に末社の三社様(日枝社(大己貴命)・稲荷社(倉稲魂命)・諏訪社(建御名方命))
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・の東側には天神を祀る『有鹿天神社』が鎮座(海老名氏の館跡東側から遷座されたもの)
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(了)


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石楯尾(いわたてお)神社(延喜式内論社)/神奈川県相模原市

20171215

鎮座地:神奈川県相模原市緑区名倉4524
参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で相模国完結です。

入り口
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社号標が、いかにも楯を思わせるものだった。
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当社は延喜式記載の鎮座地である「高座郡」より外側(旧愛甲郡)に位置するが、当時は郡の範囲が北西部の相模川沿いまで伸びていたとする説もある。また、創建当初はいまの場所より僅かに西方の、甲斐国との国境(現在の山梨県との県境)により近い位置に鎮座していたと伝えられる。

旧来「エボシ岩」が礼拝対象であった。この岩と伝わるものが明治に入るまで当社の東方近辺にあったが、中央本線の鉄道建設工事の折に撤去されてしまった。また、この岩から見て当社は尾っぽの方(相模国の端であり、地形的には丘陵の端でもある)に位置するので、「石楯尾(いわたてお)」と呼ばれるようになったともいわれる。

応神天皇の御幸所で御造営があったとも伝えられ、天安元年(857年)、従五位下の神とし官社に預った事が文徳実録に記載されている国史所載社である。延喜式では式内小社に列した延喜式内社であるが三増合戦の禍を受け、永禄12年(1569年)社殿全部が火災にあい、古記録まで焼失した。

現在の社殿は享保9年(1724年)に建築されたものである。明治6年(1873年)、社格制定に際し郷社となる。1923年(大正12年)、神奈川県告示第26号により神饌幣帛料供進指定神社に指定され、1948年(昭和23年)には神奈川県神社庁の献幣使参向神社に指定された。

神社明細帳は元亀元年(1570年)に消失したとされ由緒がわからなくなっていたが、1942年(昭和17年)に神社明細帳の訂正が許可され、正式に式内社として国家から認められた。また戦後には、古文書によっても証明されたとされる。

桂川南岸に鎮座していることから、式内社調査報告では地形的に当社が式内社である可能性が高いとしている。また、文化5年(1808年)と翌年に神祇官から献上された幣帛が今に残っており、実際の証明物としても論社の中で最古のものである。

石段を上がる。
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随神門
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両方に、御幣が置かれている。
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神門をくぐると、枝が長く伸びて通せんぼをしているが、それをくぐる。
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手水舎
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拝殿の前に、狛犬が居る。
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昭和3年奉納の、江戸流れ尾型。
通常と異なり、右側が吽形、左側が阿形となっている。
吽形に付いている子獅子が仰向けで鞠と戯れているデザインが良い。
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拝殿
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社額
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拜殿内部
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拝殿の三方に彩色された彫刻があり。
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拝殿、幣殿、本殿
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本殿は、ガラスの覆い屋で囲まれている。
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ご祭神:
主祭神は石楯尾大神。
配祀は、事代主神、日本武尊、護良親王、木花開耶姫命、保食神、天村雲命、中筒男命、天児屋根命、火産靈神、埴山姫命、水波能売神、菊理姫命

神紋は、「右三つ巴」
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境内社:
祖霊社、浅間神社(木花之佐久夜毘売)、疱瘡神社(疱瘡神)、御嶽神社(蔵王権現)、日月両宮(天照大神、月読大神)、蔵祖神社(不明)、天満天神(菅原道真公)、春日神社(春日神)
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ご神木の二本杉
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神社の境内地は崖の上で、下には桂川が流れている。
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対岸に長い滝があるが、境内地が藪になっていて、滝の全景を見渡すことができなかった。
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これで、当神社の参拝を終え、海老名市の有鹿神社に向かった。



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小野神社(延喜式内社)/神奈川県厚木市

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鎮座地:神奈川県厚木市小野428
参拝日:2017年6月30日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、寒田神社、実朝の首塚、大山阿夫利神社、比々多神社に続き、訪れました。

神社入り口
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社号標
社格等:式内社(小)、郷社(旧社格)
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創建・由緒:
 創建時期は不明ですが、『延書式神名帳』に「相模国十三座(式内社)の内、愛甲郡一座小野神社」と記されているように、古くから小野の地に鎮座する神社です。この地域は古くから「小野の里」と呼ばれ、『和名類緊抄』にも記載されている愛甲郡「玉川郷」の中心地になっていました。
霊亀2年(716)、奈良時代の高僧行基が薬師如来の像を刻んで小野神社に奉安したと社伝に伝えられています。
 鎌倉時代には、源頼朝以来三代に渡り、御家人として将軍に仕え、弓の名手として名高く、愛甲村に舘を置く愛甲三郎季隆が当社を篤<信仰していました(季隆を筆頭に愛甲一族全体でも崇拝されていた)。古い納札には建久5年(1194)に当社を再興した記録があり、その時の願主に愛甲三郎季隆の名があり、また鎌倉幕府政所長官の大江膳大夫廣元の名も残っています(以降、社殿は現在までに五国改められている)。
なお、愛甲氏の本家である横山氏は小野妹子の子孫といわれています。
江戸時代末期に鎮座地の転社(移転)が行われ、また明治6年(1873)には郷社に列せられています。

愛甲三郎季隆(あいこうさぶろうすえたか):
 弓の名手として知られる愛甲季隆は、武蔵七党横山党の一族で、愛甲庄に進出し一帯を領しました。宝積寺には、季隆の妻と伝わる五輪塔が残されています。
 季隆は、下河辺行平とともに弓の名手として、源頼朝の親衛隊として仕え、頼朝の子頼家の弓の師範としても活躍。建久4年(1193)に行われた富士裾野の巻狩りでは、頼家が鹿を射止め、季隆も褒美を得たといわれています。
 元久2年(1205)、北条時政に騙されて鎌倉へと向かう畠山重忠は、二俣川で幕府軍に襲われますが、このときに重忠を射倒したのが季隆だといわれています。
 建暦3年(1213)に起こった和田合戦で和田義盛に味方し、和田一族とともに討ち死にしました。

大江広元(おおえひろもと):
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての朝臣。はじめは朝廷に仕える下級貴族でしたが、鎌倉に下って源頼朝の側近となり、鎌倉幕府の政所初代別当を務め、幕府創設に貢献しました。

転社について:
小野神社は元々、現在の場所より西南方向に200メートル程いったところにある丘陵(通称”神の山”)に位置していました。転社(移転)時期は嘉永年間(1848~1854)の初頭頃と考えられています。現在は丘陵は私有地となっていて、小野神社に代わって秋葉神社の小祠が鎮座しています。(この小祠自体は、小野神社の転社後に建てられたものと思われます)

小野神社由緒が石碑に書かれていた。
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手水舎
手水鉢が岩を使用した立派なものだった。
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鳥居
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拝殿
拝殿は嘉永元年(1848)に造営された後、藁葺屋根でしたが、昭和43年には鉄板葺に替えられています。
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扁額
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 扁額に現在も残っている「閑香(かんこう・あいこう)大明神」は江戸時代に称していた名で、小野の「閑香さま」
と一般には呼ばれていました。
江戸時代に編纂された『新編相模国風土記稿』からは、当時の社名が「閑香大明神」、祭神は「下春命」であったことがわかります。祭神が現在の日本武命となったのは、明治時代に入ってからで、「日本武尊が東国に遠征する際に野火の焼きうちにあった」という『古事記』の記述の地が、小野と関係するとされたことによります。

本殿
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本殿の神門が新しかった。
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本殿の床が高床になっている。
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ご祭神は、日本武命、下春命(江戸時代まで)

下春命(したばるのみこと)=天下春命(あまのしたばるのみこと)
『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っている。
そのとき、警護のために天より<だされた三十二神のうちの一神。
武蔵の秩父国造らの祖。開墾の神として祀られる事が多く、多摩市の小野神社と府中市の小野神社などに祀られている。

境内社
八坂神社、春日神社、淡島神社、阿羅波婆枳(あらはばき)神社、古登比羅神社、稲荷神社
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社名は、ちゃんと掲示されている。
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境内に旧社標が置かれていた。
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一緒に置かれているのは、旧石灯篭の一部。
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神楽殿
ちょうど子供を連れたお母さんが通りかかったので聞いてみると、祭礼のときには他所から社中がやってきてお神楽を奉納しているとのこと。
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これで、この日の巡拝予定をすべて終了。
帰途につきました。
もう一回残りを巡拝すれば、相模国の式内社巡拝は完了です。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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