信州佐久地方見学(後半)/龍岡城五稜郭、蕃松院
20231119
訪問日:2023年10月11日
所属する歴史クラブの見学旅行を企画案内しました。テーマとしては「文明開化のさきがけ」として、「旧中込学校」、「龍岡城五稜郭」。それに「龍雲寺」、「ぴんころ地蔵」、「蕃松院」を付け加えました。
コースとしては、上信越道佐久インター⇒龍雲寺⇒旧中込学校⇒ピンコロ地蔵⇒龍岡城五稜郭⇒蕃松院でした。
前の記事で、ぴんころ地蔵にお参りした後、道の駅~ヘルシーテラス佐久南~ でお土産を購入、レストランで美味しい信州蕎麦を食べ、休憩してから「龍岡城五稜郭」に向かいました。
【龍岡城五稜郭】
所在地:長野県佐久市田口
バスが五稜郭の前にある「五稜郭であいの館」に着きました。
龍岡城五稜郭保存会の方に案内をしていただきました。
龍岡城五稜郭は、慶応3(1867)年に田野口藩主「松平乗謨」(まつだいらのりかた)によって造られ、 函館の五稜郭とともに日本に 2 つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭です。 乗謨は学才・識見ともにすぐれ、幕府の重要な役を歴任しました。また西洋の軍学に関心を寄せており、 フランスのヴォーバン元帥が考案した稜堡式築城法を採用してこの龍岡城五稜郭を築城しました。 元治元(1864)年 3 月より着工して藩主の政務と住居をかねた御殿や大手門、東通用門などが完成し、 慶応3(1867)年4月に竣工祝いを行っています。
龍岡城五稜郭
松平乗謨は、大給(おぎゅう)松平家の当主ですが、大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家に譜代の家臣として仕えました。第5代当主が大坂の陣の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本となります。次の代に1万6000石の大名となり、領地1万2000石の分が信濃国佐久郡田野口に領地が与えられました。
第8代藩主松平乗謨(まつだいら のりかた)は、幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。ペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成しています。
幕府内で順調に出世し、若年寄になると、藩庁を現在の長野県佐久市田口に移転し、新たに星形要塞である龍岡城の建設にとりかかります。
慶応2年6月(1866年)には老中に栄進。同年12月に陸軍総裁にも任じられます。
しかし、守旧派の幕閣とは合わなかったため、慶応4年戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任、老中職も辞任。そして幕府との訣別を表明するため、大給と改姓した上で信濃に帰国し、上洛して新政府に帰順する意思を表明しました。
明治4年、名前を松平乗謨から大給恒に改名します。
・明治6年メダイユ(メダル)取調御用掛に任ぜられ、世界の勲章制度を調査。元老院議官。賞勲事務局副長官、議官兼賞勲局副総裁となり、勲章制度を確立しました。
人物としては、
佐野常民と共に日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献し、佐野が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、恒は「日赤の母」と呼ばれている。
人となりは厳毅方正、不与不奪の訓言を守り、賞勲の職を全うするために交際往復を避け、宮中三大節、観桜、観菊の宴から、日常の交際に至るまでいっさいこれを絶ったといいます。
城内には橋を渡って入る。
橋の手前に、大給恒の胸像が置かれていた。
橋からの左右の堀の眺め。
五稜郭らしく、突き出しているのがわかる。
橋を渡るとすぐに校門がある。
明治維新により江戸時代が終わると、 龍岡城五稜郭の中のお台所に、近くの お寺(蕃松院)から子どもたちの学校 「尚友学校」が移転し、佐久市立田口小学校の校地として使われていた。お城の中に学校が建設されているという全国でも珍しい小学校でしたが、今年の3月をもって閉校となりました。
昨年までは、城の中に入るには手続きをして許可をもらわないと入れませんでしたが、今は自由に入ることが出来ます。
田口小学校の校舎
「ありがとう」の文字が。
五稜郭当時の建物で、唯一残っている「御台所」の建物。
石垣と堀の内側には御殿(藩主の住居)、藩士の小屋、番屋、太鼓楼、火薬庫などが建てられた。一応、1867年(慶応三年)には完成して竣工祝いを行なったようだが、現実には瓦も準備はしたもののほとんど使用されず板葺きのままだったそうだ。
明治4年、兵部省は全国の城郭の取り壊しを布告した。龍岡城五稜郭は、土塁が削られ堀は埋め立てられ、建物は入札払い下げとなった。御殿の一部の御台所だけは学校として使うということで残すことが認められた。
昭和4年に現在の場所に移築されています(築城当時とは反対側にあたる)。
案内の方が鍵を開けて中に入れてくれました。
二階もあるが、二階は立ち入り禁止。
案内の方の説明を聞く。
五稜郭のジオラマ
内部の様子
松平乗謨の写真
五稜郭内箱館奉行所庁舎の図
佐野常民と協議図
明治10年の西南の役を機に博愛社を設立して欧州赤十字社の例に倣い、敵味方の区別なく傷病兵を救護することを相談する。
九州において、博愛社創設の願書を提出すると、直ちに許可される。
これは有栖川宮に願書が提出される様子を描いたもの。
これで案内の方は説明を終え、謝したのち、稜形を求めて、堀の外側を歩いた。
堀にはコウホネが咲いていた。
【蕃松院】
所在地:長野県佐久市田口2893
曹洞宗の寺院。山号は大梁山。本尊は釈迦牟尼仏。
龍岡城五稜郭から徒歩5分くらいのところに、大給(おぎゅう)松平家の菩提寺であり、戦国武将依田信蕃の館跡である蕃松院にも訪れた。
当山はご本尊に釈迦牟尼仏をいただく曹洞宗である。寺伝によると、かって西方にあった明法寺は、戦火に遭い、現総門の西に移った。その後、天正8(1580)年、群馬県小幡、宝積寺第九世儀山沅孝和尚様により整備され、曹洞宗として開山された。天正11年(1583)戦国の武将、田口城主依田信蕃は、岩尾城を攻め、弟信幸と共に没した。その子松平康国公、小諸城主となるや父の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名「蕃松院殿節叟良均大居士」より寺号を蕃松院とした。現本堂は文政5(1822)年の再建であり、間口13間、奥行9間の入母屋造りで特に、その規模は県内屈指で、彫刻の多用等、江戸時代後期の曹洞宗本堂建築の特色を今に伝えている。
寺の裏山には、信蕃兄弟の墓と伝えられている五輪塔があり、近年その礎石下から愛用されたと思われる刀が発見された。後方には、信蕃公が郡下を眺望した古城趾が高く揃えている。
※依田信蕃 (よだ のぶしげ) :
武田信玄に信濃国先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き武田勝頼に仕えた。
天正3 (1575 )年5月21日の長篠の戦いの時期には遠江国二俣城の守将を務めた父・芦田信守と共に、籠城、徳川軍の攻撃に僅かな手勢で堅固に守った。父信守が病死、信蕃が守将として籠城。実に半年にも渡った攻防の末、徳川方の申入れと、主君の武田勝頼の命令により、「全員の助命を条件」に開城した。明け渡しに立ち会った家康の重臣大久保忠世が場内に入 ると、整然とした場内はきちん と清掃 されていた。大久保の報告を受けた家康も感心したと伝えられている。後に駿河田中城の城将となり、織田信長による甲州征伐の際、またよや徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配を見せず。武田勝頼が自害し、穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けてから、ようやく城を大久保忠世に引き渡した。本能寺の変後、滝川一益が小諸城に籠ると、信蕃は佐久 ・小県郡の人質を一益に引き渡し一益を説得、一益は小諸城 を信蕃に明け渡して旅立ち木曽谷に入り、人質を木曾義昌に委ね、伊勢長島に帰還した。碓氷峠を越えて北条氏直の兵が進出すると、信蕃はゲリラ戦を展開した。それまで北条方であった真田昌幸を徳川方に調略している。これらの功績により信蕃は小諸城も任され周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これをよしとしない大井氏 (小笠原氏支流、守護代)などの勢力が岩尾城に籠った。天正 11(1583)年2月21日 、岩尾城を攻略しようとするが苦戦し、実弟・依田信幸と共に敵の銃撃を受け、信蕃は死した。享年36。後に長男の松平康国(依田康国)が整備した蕃松院が墓所となる。
家康に属した期間は短いものだったが、家康の信蕃に対する評価が非常に高いものだったことは、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城が与えられ、そして相続を許された所領が当時の家康家臣としては最大級の 6万石という大領だったことからも推測される。
参道に立派な「御殿の松」があった。龍岡城五稜郭から移されたもの。
山門
参道に、面白い松の並木があった。
仁王門
本堂
現本堂は文政5(1822)年の再建であり、間口13間、奥行9間の入母屋造りで特に、その規模は県内屈指で、彫刻の多用等、江戸時代後期の曹洞宗本堂建築の特色を今に伝えている。
本陣前の彫刻が見事だった。
外に出て振り返ると、依田信蕃の館跡という感じがうかがえた。
(了)
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所属する歴史クラブの見学旅行を企画案内しました。テーマとしては「文明開化のさきがけ」として、「旧中込学校」、「龍岡城五稜郭」。それに「龍雲寺」、「ぴんころ地蔵」、「蕃松院」を付け加えました。
コースとしては、上信越道佐久インター⇒龍雲寺⇒旧中込学校⇒ピンコロ地蔵⇒龍岡城五稜郭⇒蕃松院でした。
前の記事で、ぴんころ地蔵にお参りした後、道の駅~ヘルシーテラス佐久南~ でお土産を購入、レストランで美味しい信州蕎麦を食べ、休憩してから「龍岡城五稜郭」に向かいました。
【龍岡城五稜郭】
所在地:長野県佐久市田口
バスが五稜郭の前にある「五稜郭であいの館」に着きました。
龍岡城五稜郭保存会の方に案内をしていただきました。
龍岡城五稜郭は、慶応3(1867)年に田野口藩主「松平乗謨」(まつだいらのりかた)によって造られ、 函館の五稜郭とともに日本に 2 つしかない五つの稜が星形に突き出た擬洋式城郭です。 乗謨は学才・識見ともにすぐれ、幕府の重要な役を歴任しました。また西洋の軍学に関心を寄せており、 フランスのヴォーバン元帥が考案した稜堡式築城法を採用してこの龍岡城五稜郭を築城しました。 元治元(1864)年 3 月より着工して藩主の政務と住居をかねた御殿や大手門、東通用門などが完成し、 慶応3(1867)年4月に竣工祝いを行っています。
龍岡城五稜郭
松平乗謨は、大給(おぎゅう)松平家の当主ですが、大給松平家は徳川家康の5代前の松平家当主・松平親忠の次男・松平乗元より始まる一族で、代々松平宗家に譜代の家臣として仕えました。第5代当主が大坂の陣の功などにより加増を受ける際、知行地として先祖ゆかりの三河加茂郡大給(現在の愛知県豊田市)を望み、6000石の旗本となります。次の代に1万6000石の大名となり、領地1万2000石の分が信濃国佐久郡田野口に領地が与えられました。
第8代藩主松平乗謨(まつだいら のりかた)は、幼少時から聡明で知られ、西洋事情にも通じていたとされる。ペリー来航後、軍備の増強・革新の必要性を悟り、農民兵を徴募して歩人隊を編成しています。
幕府内で順調に出世し、若年寄になると、藩庁を現在の長野県佐久市田口に移転し、新たに星形要塞である龍岡城の建設にとりかかります。
慶応2年6月(1866年)には老中に栄進。同年12月に陸軍総裁にも任じられます。
しかし、守旧派の幕閣とは合わなかったため、慶応4年戊辰戦争を契機に陸軍総裁職を辞任、老中職も辞任。そして幕府との訣別を表明するため、大給と改姓した上で信濃に帰国し、上洛して新政府に帰順する意思を表明しました。
明治4年、名前を松平乗謨から大給恒に改名します。
・明治6年メダイユ(メダル)取調御用掛に任ぜられ、世界の勲章制度を調査。元老院議官。賞勲事務局副長官、議官兼賞勲局副総裁となり、勲章制度を確立しました。
人物としては、
佐野常民と共に日本赤十字社の前身である博愛社の設立と育成に貢献し、佐野が「日赤の父」と呼ばれたのに対し、恒は「日赤の母」と呼ばれている。
人となりは厳毅方正、不与不奪の訓言を守り、賞勲の職を全うするために交際往復を避け、宮中三大節、観桜、観菊の宴から、日常の交際に至るまでいっさいこれを絶ったといいます。
城内には橋を渡って入る。
橋の手前に、大給恒の胸像が置かれていた。
橋からの左右の堀の眺め。
五稜郭らしく、突き出しているのがわかる。
橋を渡るとすぐに校門がある。
明治維新により江戸時代が終わると、 龍岡城五稜郭の中のお台所に、近くの お寺(蕃松院)から子どもたちの学校 「尚友学校」が移転し、佐久市立田口小学校の校地として使われていた。お城の中に学校が建設されているという全国でも珍しい小学校でしたが、今年の3月をもって閉校となりました。
昨年までは、城の中に入るには手続きをして許可をもらわないと入れませんでしたが、今は自由に入ることが出来ます。
田口小学校の校舎
「ありがとう」の文字が。
五稜郭当時の建物で、唯一残っている「御台所」の建物。
石垣と堀の内側には御殿(藩主の住居)、藩士の小屋、番屋、太鼓楼、火薬庫などが建てられた。一応、1867年(慶応三年)には完成して竣工祝いを行なったようだが、現実には瓦も準備はしたもののほとんど使用されず板葺きのままだったそうだ。
明治4年、兵部省は全国の城郭の取り壊しを布告した。龍岡城五稜郭は、土塁が削られ堀は埋め立てられ、建物は入札払い下げとなった。御殿の一部の御台所だけは学校として使うということで残すことが認められた。
昭和4年に現在の場所に移築されています(築城当時とは反対側にあたる)。
案内の方が鍵を開けて中に入れてくれました。
二階もあるが、二階は立ち入り禁止。
案内の方の説明を聞く。
五稜郭のジオラマ
内部の様子
松平乗謨の写真
五稜郭内箱館奉行所庁舎の図
佐野常民と協議図
明治10年の西南の役を機に博愛社を設立して欧州赤十字社の例に倣い、敵味方の区別なく傷病兵を救護することを相談する。
九州において、博愛社創設の願書を提出すると、直ちに許可される。
これは有栖川宮に願書が提出される様子を描いたもの。
これで案内の方は説明を終え、謝したのち、稜形を求めて、堀の外側を歩いた。
堀にはコウホネが咲いていた。
【蕃松院】
所在地:長野県佐久市田口2893
曹洞宗の寺院。山号は大梁山。本尊は釈迦牟尼仏。
龍岡城五稜郭から徒歩5分くらいのところに、大給(おぎゅう)松平家の菩提寺であり、戦国武将依田信蕃の館跡である蕃松院にも訪れた。
当山はご本尊に釈迦牟尼仏をいただく曹洞宗である。寺伝によると、かって西方にあった明法寺は、戦火に遭い、現総門の西に移った。その後、天正8(1580)年、群馬県小幡、宝積寺第九世儀山沅孝和尚様により整備され、曹洞宗として開山された。天正11年(1583)戦国の武将、田口城主依田信蕃は、岩尾城を攻め、弟信幸と共に没した。その子松平康国公、小諸城主となるや父の追福供養を念じ、その居館跡に堂宇を再建し、父の御戒名「蕃松院殿節叟良均大居士」より寺号を蕃松院とした。現本堂は文政5(1822)年の再建であり、間口13間、奥行9間の入母屋造りで特に、その規模は県内屈指で、彫刻の多用等、江戸時代後期の曹洞宗本堂建築の特色を今に伝えている。
寺の裏山には、信蕃兄弟の墓と伝えられている五輪塔があり、近年その礎石下から愛用されたと思われる刀が発見された。後方には、信蕃公が郡下を眺望した古城趾が高く揃えている。
※依田信蕃 (よだ のぶしげ) :
武田信玄に信濃国先方衆として仕え、信玄の死後は引き続き武田勝頼に仕えた。
天正3 (1575 )年5月21日の長篠の戦いの時期には遠江国二俣城の守将を務めた父・芦田信守と共に、籠城、徳川軍の攻撃に僅かな手勢で堅固に守った。父信守が病死、信蕃が守将として籠城。実に半年にも渡った攻防の末、徳川方の申入れと、主君の武田勝頼の命令により、「全員の助命を条件」に開城した。明け渡しに立ち会った家康の重臣大久保忠世が場内に入 ると、整然とした場内はきちん と清掃 されていた。大久保の報告を受けた家康も感心したと伝えられている。後に駿河田中城の城将となり、織田信長による甲州征伐の際、またよや徳川家康に田中城を攻められたが、またしても堅固に備えを立てて落城の気配を見せず。武田勝頼が自害し、穴山梅雪より開城を勧める書簡を受けてから、ようやく城を大久保忠世に引き渡した。本能寺の変後、滝川一益が小諸城に籠ると、信蕃は佐久 ・小県郡の人質を一益に引き渡し一益を説得、一益は小諸城 を信蕃に明け渡して旅立ち木曽谷に入り、人質を木曾義昌に委ね、伊勢長島に帰還した。碓氷峠を越えて北条氏直の兵が進出すると、信蕃はゲリラ戦を展開した。それまで北条方であった真田昌幸を徳川方に調略している。これらの功績により信蕃は小諸城も任され周辺の勢力が続々と信蕃の下に集ってきたが、これをよしとしない大井氏 (小笠原氏支流、守護代)などの勢力が岩尾城に籠った。天正 11(1583)年2月21日 、岩尾城を攻略しようとするが苦戦し、実弟・依田信幸と共に敵の銃撃を受け、信蕃は死した。享年36。後に長男の松平康国(依田康国)が整備した蕃松院が墓所となる。
家康に属した期間は短いものだったが、家康の信蕃に対する評価が非常に高いものだったことは、家督を継いだ遺児・康国に松平姓と小諸城が与えられ、そして相続を許された所領が当時の家康家臣としては最大級の 6万石という大領だったことからも推測される。
参道に立派な「御殿の松」があった。龍岡城五稜郭から移されたもの。
山門
参道に、面白い松の並木があった。
仁王門
本堂
現本堂は文政5(1822)年の再建であり、間口13間、奥行9間の入母屋造りで特に、その規模は県内屈指で、彫刻の多用等、江戸時代後期の曹洞宗本堂建築の特色を今に伝えている。
本陣前の彫刻が見事だった。
外に出て振り返ると、依田信蕃の館跡という感じがうかがえた。
(了)
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信州佐久地方見学(前半)/龍雲寺、旧中込学校、ぴんころ地蔵
20231106
訪問日:2023年10月11日
所属する歴史クラブの見学旅行を企画案内しました。テーマとしては「文明開化のさきがけ」として、「旧中込学校」、「龍岡城五稜郭」。それに「龍雲寺」、「ぴんころ地蔵」、「蕃松院」を付け加えました。
コースとしては、上信越道佐久インター⇒龍雲寺⇒旧中込学校⇒ピンコロ地蔵⇒龍岡城五稜郭⇒蕃松院でした。
【龍雲寺】
所在地:佐久市岩村田415
鎌倉時代初めの正和元年(1312)地頭の大井実作入道玄慶による創建で大井氏(信濃守護代)の菩提寺でした。大井氏は小笠原長清の七男朝光が承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井荘(長野県佐久市岩村田)の地頭となって土着したのが起源。
信濃の攻略が一段落した永禄3年(1560)武田信玄は荒れ果てた龍雲寺を復興し、師と仰ぐ大和尚、北高禅師を迎え中興開山しました。 信玄の帰依が篤く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をしました。
元亀4年(1573)4月、信玄は西上作戦で、三方ヶ原の戦いの後下伊那郡阿智村駒場で死を迎えたが、信玄の訃報を聞いた北高禅師は、下伊那に駆けつけ、遺体を荼毘に付し引導をわたしたといいます。そして遺骨の一部と刀工島田助宗の短刀を形見に持ち帰り、境内に懇ろに葬ったといいます。昭和6年(1931)、信玄のものと推測される遺骨と副葬品(短刀など)が発掘され、現在その遺骨は、本堂横にある信玄公霊廟に眠っています。
※北高禅師は、羽前(山形県)の人で北畠顕家の後裔といわれる。
※中山道岩村田宿には本陣が無かったので、身分の高い人物は武田信玄縁の龍雲寺で宿泊や休息をとり、本陣のような役割をもちました。
入り口
巨大な山門
総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
本堂
本堂の前に「信玄井」がある。
石碑の下部に「元亀3年千人法幢ノ際使用サレタル井」とある。
信玄は禅師に帰依すること篤く、元亀3(1572)年、竜雲寺を信濃曹洞宗僧録に任じ、同年4月甲州、信州、上州3ケ国の僧を集めて千人江湖会(千人法幢)を行わせ、信濃領内曹洞宗会下のため法度を定めた、との事。
信玄公霊廟の前に、「大井公御茶湯免井」がある。
信玄の遺骨が発見された場所に建つ供養塔
信玄公霊廟
総門の前には立派なケヤキがある。
【旧中込学校】
所在地:長野県佐久市中込1877
重要文化財・国史跡
旧中込学校は明治 8(1875)年に完成し、国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物。 明治 5(1872)年に明治政府が『学制』を定めたため、当時の下中込村では近隣の村々と合同で『旧中込学校』の前身となる『成知学校』を開校しました。 当初の『成知学校』は寺子屋の流れを汲むもので、お寺の境内を仮校舎として使っていましたから、授業の途中で教室の床が抜け落ちたりして大変だったようです。そこで、村民たちが協議を行い、村人たちからの寄付で学校を設立することが決まり、各世帯から寄付金を募りました。 学校の設立が決まった後、その設計・施工を請け負ったのが地元出身の棟梁・市川代治郎です。代治郎は西洋建築を学ぶために 4 年間アメリカへ留学して、ちょうど日本へ戻って大工の仕事をはじめたばかりでした。外部窓・内部間仕切りなどの一部に当初と変わった点もありますが、日本人の手による明治初期木造 洋風建築の様式を知る重要な建物になっています。 中央の八角塔は、天井から太鼓を吊るして時を告げ、村人たちはこの太鼓の音で正午や10 時、3 時のお茶の時間を知り、いつしか「太鼓楼」と呼ぶようになったほか、窓に当時は珍しいガラスを使用していたことから「ギヤマン学校」ともよばれ、開校当時は見学する人たちが連日あとを絶たなかったといわれてい ます。 太鼓楼の天井には、ロンドン、パリ、ローマなど世界各地の都市を示す方位図があり、子供たちに世界に 目を向ける人になってもらいたいという村人の願いがうかがえます。
※市川代治郎
幕末明治期の大工。信州(長野県)佐久下中込村石神の名主,市川八郎右衛門の次男。幼名は林蔵。小林杢之助に弟子入りして大工になる。江戸築地の西本願寺工事などにもかかわる。自筆の履歴によればケルモロに雇われ明治2(1869)年から6年にアメリカへ渡り修業したという。設計・施工した代表的建物に成知(中込)学校がある。その後名古屋で石鹸工場を興し,さらに和歌山県でみかん酒の醸造や花崗岩石材の工業に従事したと伝えられる。変化する時代に体当たりで夢をかけた職人である。
全景
正面
正面入口
内部から見た正面入り口のステンドグラス
一階教室
二階中央廊下のステンドグラス
二階教室
正面バルコニーには出られない。
外に出て、外観を見る。
全景
正面バルコニーファサード
建物側面
中央の八角塔(太鼓楼)
隅の鬼瓦には「中込」と入っている。
〇資料館
全国の洋風学校の写真
有名な、松本開智学校
建てられてからずっと、今見るような白亜の建物では無かった。
地元の方の文化財保護活動によって蘇った。
町役場、公民館として使用されていた時は、目立たぬ色に塗られていた。
内部を拝観した時に、八角塔(太鼓楼)内部は見られなかったが、ここに写真が掲示されていた。
周囲の山の名前、国内の主要都市のある方角、外国のある方角が書かれている。
最初に建築されたときには、国内でステンドグラスを作れるところが無かったので、当初は普通のガラスにペンキを塗ったものだったそうだ。
佐久市出身の、社会評論家。婦人問題評論家である丸岡秀子さんの色々な記事が展示されていた。
長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務。
戦後は農村婦人協会を組織、日本教職員組合の教研集会や全国婦人教員研究協議会の講師を務め、1955年、日本母親大会開催を実現し、女性の地位向上をめざす多彩な活動を続け、東京都社会教育委員、経済企画庁や労働省の各審議会委員なども務めた。
平塚らいてう直系のフェミニズム運動の先駆者の一人である。
【ぴんころ地蔵】
所在地:長野県佐久市原467 成田山薬師寺参道
全国から健康長寿のまちとして注目される佐久市のシンボルとして、地元の「野沢商店街」により、平成15年に「成田山薬師寺」参道に建立されたお地蔵さまです。
長野県が平均寿命日本一になり、中でも佐久市は県内有数の長寿率を誇っています。佐久総合病院の若月俊一医師、それを引き継いだ諏訪中央病院院長の鎌田實先生の「県民減塩運動」の成果です。
成田山薬師寺参道入口
参道には、佐久市の観光パンフレットを見ると、色鮮やかなパラソルをぶら下げたり、いろいろな飾りつけがあるようですが、私たちが行ったときには、ハロウィンの飾り付けがされていた。
参道にあった、皆さんがお参りしているお地蔵さんは、愛媛県今治市の作家「馬越正八」さんの作品だそうで、思わず頭をなでなでしてしまいました。
成田山薬師寺は、真言宗智山派、本山成田山より観請された不動明王をはじめ、大日如来、愛染明王、薬師 如来、千本仏などが納められています。
この後は、道の駅~ヘルシーテラス佐久南~ でお土産を購入、レストランで美味しい信州蕎麦を食べ、休憩してから「龍岡城五稜郭」に向かいました。
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所属する歴史クラブの見学旅行を企画案内しました。テーマとしては「文明開化のさきがけ」として、「旧中込学校」、「龍岡城五稜郭」。それに「龍雲寺」、「ぴんころ地蔵」、「蕃松院」を付け加えました。
コースとしては、上信越道佐久インター⇒龍雲寺⇒旧中込学校⇒ピンコロ地蔵⇒龍岡城五稜郭⇒蕃松院でした。
【龍雲寺】
所在地:佐久市岩村田415
鎌倉時代初めの正和元年(1312)地頭の大井実作入道玄慶による創建で大井氏(信濃守護代)の菩提寺でした。大井氏は小笠原長清の七男朝光が承久の乱における「宇治川の合戦」での戦功により、信濃国佐久郡大井荘(長野県佐久市岩村田)の地頭となって土着したのが起源。
信濃の攻略が一段落した永禄3年(1560)武田信玄は荒れ果てた龍雲寺を復興し、師と仰ぐ大和尚、北高禅師を迎え中興開山しました。 信玄の帰依が篤く、信濃路に出兵する際は必ず詣で戦勝祈願をしました。
元亀4年(1573)4月、信玄は西上作戦で、三方ヶ原の戦いの後下伊那郡阿智村駒場で死を迎えたが、信玄の訃報を聞いた北高禅師は、下伊那に駆けつけ、遺体を荼毘に付し引導をわたしたといいます。そして遺骨の一部と刀工島田助宗の短刀を形見に持ち帰り、境内に懇ろに葬ったといいます。昭和6年(1931)、信玄のものと推測される遺骨と副葬品(短刀など)が発掘され、現在その遺骨は、本堂横にある信玄公霊廟に眠っています。
※北高禅師は、羽前(山形県)の人で北畠顕家の後裔といわれる。
※中山道岩村田宿には本陣が無かったので、身分の高い人物は武田信玄縁の龍雲寺で宿泊や休息をとり、本陣のような役割をもちました。
入り口
巨大な山門
総門には正親町天皇の勅額「東山法窟」(東山道第一の道場)が掲げられている。
本堂
本堂の前に「信玄井」がある。
石碑の下部に「元亀3年千人法幢ノ際使用サレタル井」とある。
信玄は禅師に帰依すること篤く、元亀3(1572)年、竜雲寺を信濃曹洞宗僧録に任じ、同年4月甲州、信州、上州3ケ国の僧を集めて千人江湖会(千人法幢)を行わせ、信濃領内曹洞宗会下のため法度を定めた、との事。
信玄公霊廟の前に、「大井公御茶湯免井」がある。
信玄の遺骨が発見された場所に建つ供養塔
信玄公霊廟
総門の前には立派なケヤキがある。
【旧中込学校】
所在地:長野県佐久市中込1877
重要文化財・国史跡
旧中込学校は明治 8(1875)年に完成し、国内の学校建築のうち現存する最古級の擬洋風建築物。 明治 5(1872)年に明治政府が『学制』を定めたため、当時の下中込村では近隣の村々と合同で『旧中込学校』の前身となる『成知学校』を開校しました。 当初の『成知学校』は寺子屋の流れを汲むもので、お寺の境内を仮校舎として使っていましたから、授業の途中で教室の床が抜け落ちたりして大変だったようです。そこで、村民たちが協議を行い、村人たちからの寄付で学校を設立することが決まり、各世帯から寄付金を募りました。 学校の設立が決まった後、その設計・施工を請け負ったのが地元出身の棟梁・市川代治郎です。代治郎は西洋建築を学ぶために 4 年間アメリカへ留学して、ちょうど日本へ戻って大工の仕事をはじめたばかりでした。外部窓・内部間仕切りなどの一部に当初と変わった点もありますが、日本人の手による明治初期木造 洋風建築の様式を知る重要な建物になっています。 中央の八角塔は、天井から太鼓を吊るして時を告げ、村人たちはこの太鼓の音で正午や10 時、3 時のお茶の時間を知り、いつしか「太鼓楼」と呼ぶようになったほか、窓に当時は珍しいガラスを使用していたことから「ギヤマン学校」ともよばれ、開校当時は見学する人たちが連日あとを絶たなかったといわれてい ます。 太鼓楼の天井には、ロンドン、パリ、ローマなど世界各地の都市を示す方位図があり、子供たちに世界に 目を向ける人になってもらいたいという村人の願いがうかがえます。
※市川代治郎
幕末明治期の大工。信州(長野県)佐久下中込村石神の名主,市川八郎右衛門の次男。幼名は林蔵。小林杢之助に弟子入りして大工になる。江戸築地の西本願寺工事などにもかかわる。自筆の履歴によればケルモロに雇われ明治2(1869)年から6年にアメリカへ渡り修業したという。設計・施工した代表的建物に成知(中込)学校がある。その後名古屋で石鹸工場を興し,さらに和歌山県でみかん酒の醸造や花崗岩石材の工業に従事したと伝えられる。変化する時代に体当たりで夢をかけた職人である。
全景
正面
正面入口
内部から見た正面入り口のステンドグラス
一階教室
二階中央廊下のステンドグラス
二階教室
正面バルコニーには出られない。
外に出て、外観を見る。
全景
正面バルコニーファサード
建物側面
中央の八角塔(太鼓楼)
隅の鬼瓦には「中込」と入っている。
〇資料館
全国の洋風学校の写真
有名な、松本開智学校
建てられてからずっと、今見るような白亜の建物では無かった。
地元の方の文化財保護活動によって蘇った。
町役場、公民館として使用されていた時は、目立たぬ色に塗られていた。
内部を拝観した時に、八角塔(太鼓楼)内部は見られなかったが、ここに写真が掲示されていた。
周囲の山の名前、国内の主要都市のある方角、外国のある方角が書かれている。
最初に建築されたときには、国内でステンドグラスを作れるところが無かったので、当初は普通のガラスにペンキを塗ったものだったそうだ。
佐久市出身の、社会評論家。婦人問題評論家である丸岡秀子さんの色々な記事が展示されていた。
長野高等女学校を経て、奈良女子高等師範学校(現奈良女子大学)を卒業、教師として2年勤めたあと、1929年から産業組合中央会調査部に勤務。
戦後は農村婦人協会を組織、日本教職員組合の教研集会や全国婦人教員研究協議会の講師を務め、1955年、日本母親大会開催を実現し、女性の地位向上をめざす多彩な活動を続け、東京都社会教育委員、経済企画庁や労働省の各審議会委員なども務めた。
平塚らいてう直系のフェミニズム運動の先駆者の一人である。
【ぴんころ地蔵】
所在地:長野県佐久市原467 成田山薬師寺参道
全国から健康長寿のまちとして注目される佐久市のシンボルとして、地元の「野沢商店街」により、平成15年に「成田山薬師寺」参道に建立されたお地蔵さまです。
長野県が平均寿命日本一になり、中でも佐久市は県内有数の長寿率を誇っています。佐久総合病院の若月俊一医師、それを引き継いだ諏訪中央病院院長の鎌田實先生の「県民減塩運動」の成果です。
成田山薬師寺参道入口
参道には、佐久市の観光パンフレットを見ると、色鮮やかなパラソルをぶら下げたり、いろいろな飾りつけがあるようですが、私たちが行ったときには、ハロウィンの飾り付けがされていた。
参道にあった、皆さんがお参りしているお地蔵さんは、愛媛県今治市の作家「馬越正八」さんの作品だそうで、思わず頭をなでなでしてしまいました。
成田山薬師寺は、真言宗智山派、本山成田山より観請された不動明王をはじめ、大日如来、愛染明王、薬師 如来、千本仏などが納められています。
この後は、道の駅~ヘルシーテラス佐久南~ でお土産を購入、レストランで美味しい信州蕎麦を食べ、休憩してから「龍岡城五稜郭」に向かいました。
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新田氏・徳川氏・足利氏の故地を訪ねる(後半)
20230110
2022年10月19日に、所属する歴史クラブの定例見学会(バス旅行)に参加しました。
コースは、長楽寺⇒世良田東照宮⇒新田の荘歴史資料館⇒生品(いくしな)神社⇒昼食⇒曹源寺さざえ堂⇒足利学校⇒鑁阿寺でした。
前回の記事で、長楽寺、世良田東照宮、新田の荘歴史資料館、生品(いくしな)神社を紹介しましたが、その後昼食の後、曹源寺さざえ堂、足利学校、鑁阿寺を訪問しました。
【曹源寺さざえ堂】
所在地:群馬県太田市東今泉町165
祥寿山曹源寺は曹洞宗の寺院で、寺伝によると新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基したと伝えられています。
江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、観音堂が造られ、観音堂を本堂としています。観音堂は栄螺堂(さざえどう)と呼ばれ、江戸時代中期に普及・発展した三十三観音・百観音信仰を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)のひとつです。外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。堂内には秩父、坂東、西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し、右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「栄螺堂」の名があります。現在、埼玉県本庄市の成身院、福島県会津若松市の旧正宗寺、茨城県取手市の長禅寺などがありますが、曹源寺の栄螺堂が最大です。
山門
栄螺堂は、堂々たる威容を誇ります。
入口からさざえ堂内へ入ると、まず御本尊である魚籃観音が安置されている。
1階には秩父三十四観音、2階には坂東三十三観音、3階には西国三十三観音と並んでいます。
最後に、大きな聖徳太子像
その隣には2体の仏像
全部見終わると、無事かえるくんが居て
その脇に、2階へ降りる階段があります。
観音様を拝観する通路と別に下に降りる通路が設けてあります。
下に到着です。
外に出て、栄螺堂にお別れ。
【足利学校】
所在地:栃木県足利市昌平町2338
「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」などといわれている足利学校の創建説については、いくつかの説があります。
古くは、奈良時代の国学の遺制であるという説。また平安時代初期、天長9年(832)小野篁(おののたかむら)が創建したという説。鎌倉時代の初期に鑁阿寺を開いた足利義兼(足利尊氏六代の祖)が建てたという説。室町時代中期、永享11年(1439)に関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)によって開かれたという説などがありますが、学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期以後です。上杉憲実が関東管領になると、学校を整備し、学校領とともに孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍を寄進し、鎌倉から禅僧快元(かいげん)を招き初代庠主(しょうしゅ:校長)とし、学問の道を興し、学生の養成に力を注ぎました。その後は、代々禅僧が庠主になりました。
足利学校は日本最古の学校として全国から学徒が集まり、最盛期には3000人以上が学んだといわれていて、日本近世の学校の原点ともいわれています。 その点が評価され、旧弘道館(茨城県水戸市)など共に日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成資産のひとつとなっています。
教育の中心は儒学でありましたが、易学においても有名であり、また兵学、医学も教えました。 戦国時代(せんごくじだい)には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあった(軍配者)といわれています。
徳入門
足利学校に入る最初の門です。「入徳」とは「徳に入る」という意味で、道徳心を習得する所、すなわち学校に入るという意味です。
徳入門から学校門の間は、気持ちのいい道です。
学校門の前には、孔子像がありました。
学校門
日本で唯一の「学校」の額がかけられた門です。「学校」という言葉は、儒学の一つである「孟子」の中にある言葉だそうです。
字降松
足利学校の第七世、九華和尚のころ、学生が読めない文字に出会ったとき、紙に書いてこれを松の枝につけておくと、和尚がふり仮名や注釈をつけてくれた。
孔子廟・大成殿
木造孔子座像
木造小野篁座像
方丈、庫裏、書院等
南庭園
北庭園
中興の祖・上杉憲実像
孔子と弟子の像
左から、孟子、曽子、孔子、顔子、子思子
【鑁阿寺】
所在地:栃木県足利市家富町2220
鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。
約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。
寺院としては、鎌倉時代初期、1196年(建久7年)源姓足利氏2代目の足利義兼(よしかね)が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、1229年に落雷により、焼失したが、足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。
足利氏の館跡だということで、周囲に堀がめぐらされている。
楼門(山門)
内側から
境内は、すごく広い。
大御堂(本堂)
鎌倉時代 国宝
広大な屋根
向拝部の唐破風の鬼瓦
広大な向拝部
巨大な鰐口がかかっている。
内陣にて、住職の方から足利氏の歴史を説明していただいた。
一切経堂
内部に八角の輪蔵(経棚)があり、一切経を蔵している。
皆で回した。
足利氏歴代当主の像が安置されている。
足利尊氏像
多宝塔
天然記念物 大いちょう
樹齢 約600年
以上ですべての見学を終え、満足して帰途につきました。
(了)
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コースは、長楽寺⇒世良田東照宮⇒新田の荘歴史資料館⇒生品(いくしな)神社⇒昼食⇒曹源寺さざえ堂⇒足利学校⇒鑁阿寺でした。
前回の記事で、長楽寺、世良田東照宮、新田の荘歴史資料館、生品(いくしな)神社を紹介しましたが、その後昼食の後、曹源寺さざえ堂、足利学校、鑁阿寺を訪問しました。
【曹源寺さざえ堂】
所在地:群馬県太田市東今泉町165
祥寿山曹源寺は曹洞宗の寺院で、寺伝によると新田氏の祖義重が京都から迎えたという養姫である祥寿姫の菩提を弔うため、文治3年(1187)に開基したと伝えられています。
江戸時代に本堂が火災に遭い、その後、観音堂が造られ、観音堂を本堂としています。観音堂は栄螺堂(さざえどう)と呼ばれ、江戸時代中期に普及・発展した三十三観音・百観音信仰を背景に、関東・東北地方に限って建造された三匝堂(さんそうどう)のひとつです。外観は重層の二階建に見えますが、内部は三層になっています。堂内には秩父、坂東、西国の観音札所計百ヵ寺の観音像を安置し、右回りに堂内を一方通行で巡拝できることから「栄螺堂」の名があります。現在、埼玉県本庄市の成身院、福島県会津若松市の旧正宗寺、茨城県取手市の長禅寺などがありますが、曹源寺の栄螺堂が最大です。
山門
栄螺堂は、堂々たる威容を誇ります。
入口からさざえ堂内へ入ると、まず御本尊である魚籃観音が安置されている。
1階には秩父三十四観音、2階には坂東三十三観音、3階には西国三十三観音と並んでいます。
最後に、大きな聖徳太子像
その隣には2体の仏像
全部見終わると、無事かえるくんが居て
その脇に、2階へ降りる階段があります。
観音様を拝観する通路と別に下に降りる通路が設けてあります。
下に到着です。
外に出て、栄螺堂にお別れ。
【足利学校】
所在地:栃木県足利市昌平町2338
「日本最古の学校」「日本最古の総合大学」などといわれている足利学校の創建説については、いくつかの説があります。
古くは、奈良時代の国学の遺制であるという説。また平安時代初期、天長9年(832)小野篁(おののたかむら)が創建したという説。鎌倉時代の初期に鑁阿寺を開いた足利義兼(足利尊氏六代の祖)が建てたという説。室町時代中期、永享11年(1439)に関東管領(かんとうかんれい)上杉憲実(うえすぎのりざね)によって開かれたという説などがありますが、学校の歴史が明らかになるのは室町時代中期以後です。上杉憲実が関東管領になると、学校を整備し、学校領とともに孔子の教え「儒学」の五つの経典のうち四経の貴重な書籍を寄進し、鎌倉から禅僧快元(かいげん)を招き初代庠主(しょうしゅ:校長)とし、学問の道を興し、学生の養成に力を注ぎました。その後は、代々禅僧が庠主になりました。
足利学校は日本最古の学校として全国から学徒が集まり、最盛期には3000人以上が学んだといわれていて、日本近世の学校の原点ともいわれています。 その点が評価され、旧弘道館(茨城県水戸市)など共に日本遺産「近世日本の教育遺産群-学ぶ心・礼節の本源-」の構成資産のひとつとなっています。
教育の中心は儒学でありましたが、易学においても有名であり、また兵学、医学も教えました。 戦国時代(せんごくじだい)には、足利学校の出身者が易学等の実践的な学問を身に付け、戦国武将に仕えるということがしばしばあった(軍配者)といわれています。
徳入門
足利学校に入る最初の門です。「入徳」とは「徳に入る」という意味で、道徳心を習得する所、すなわち学校に入るという意味です。
徳入門から学校門の間は、気持ちのいい道です。
学校門の前には、孔子像がありました。
学校門
日本で唯一の「学校」の額がかけられた門です。「学校」という言葉は、儒学の一つである「孟子」の中にある言葉だそうです。
字降松
足利学校の第七世、九華和尚のころ、学生が読めない文字に出会ったとき、紙に書いてこれを松の枝につけておくと、和尚がふり仮名や注釈をつけてくれた。
孔子廟・大成殿
木造孔子座像
木造小野篁座像
方丈、庫裏、書院等
南庭園
北庭園
中興の祖・上杉憲実像
孔子と弟子の像
左から、孟子、曽子、孔子、顔子、子思子
【鑁阿寺】
所在地:栃木県足利市家富町2220
鎌倉時代、建久七年(1197年)に足利義兼によって建立された真言宗大日派の本山。山号は金剛山。本尊は源氏、足利氏の守り本尊である大日如来(だいにちにょらい)を祀る。
約4万平方メートルに及ぶ敷地は、元々は足利氏の館(やかた)であり、現在でも、四方に門を設け、土塁と堀がめぐらされており、平安時代後期の武士の館の面影が残されている。またこの事から「史跡足利氏宅跡」として、大正10年3月に、国の史跡に指定されており、現在では「日本の名城百選」にもなっている。
寺院としては、鎌倉時代初期、1196年(建久7年)源姓足利氏2代目の足利義兼(よしかね)が発心得度し、邸宅内に持仏堂を建てたのが始まりとされる。義兼死後、その子義氏が建立した本堂は、1229年に落雷により、焼失したが、足利貞氏が禅宗様式を取り入れ改修した。日本としては禅宗様式への転換期の最初期にあたる。
足利氏の館跡だということで、周囲に堀がめぐらされている。
楼門(山門)
内側から
境内は、すごく広い。
大御堂(本堂)
鎌倉時代 国宝
広大な屋根
向拝部の唐破風の鬼瓦
広大な向拝部
巨大な鰐口がかかっている。
内陣にて、住職の方から足利氏の歴史を説明していただいた。
一切経堂
内部に八角の輪蔵(経棚)があり、一切経を蔵している。
皆で回した。
足利氏歴代当主の像が安置されている。
足利尊氏像
多宝塔
天然記念物 大いちょう
樹齢 約600年
以上ですべての見学を終え、満足して帰途につきました。
(了)
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新田氏・徳川氏・足利氏の故地を訪ねる(前半)
20221127
10月19日に、所属する歴史クラブの定例見学会(バス旅行)に参加しました。
コースは、長楽寺⇒世良田東照宮⇒新田の荘歴史資料館⇒生品(いくしな)神社⇒昼食⇒曹源寺さざえ堂⇒足利学校⇒鑁阿寺でした。
【長楽寺】
群馬県太田市世良田町 3119―6
新田氏の祖新田義重の4男、義李を開基とし日本臨済宗の祖栄西の高弟栄朝を開山として承久3年 (1221) に創建された 『東関最初禅窟』です。寺の正式名は、良田山 (世良田山) 真言院長楽寺といいます。鎌倉時代は、広大な境内に塔頭子院が軒を並べ常時 5 0 0人を超える学僧が、兼学修行に励んでいた。室町時代の初期に日本五山十刹の制が成立すると長楽寺は十刹の第七位となった。徳川家康は、天正18年 (1590) 小田原の北条氏を討ち果たしたのち関東の地を与えられ、祖先開基の寺である長楽寺を天海僧正を住職として復興にあたらせ、寺領100石を与えました。天海は臨済宗から天台宗に改宗し、幕府庇護のもとに末寺 7 0 0 有余の寺院に成長させた。境内には文珠山の中世石塔群や蓮池、江戸時代の勅使門・三仏堂・太鼓門・開山堂などがある。
三河国に興った松平氏は、松平清康のとき、世良田氏の後裔だと源氏を称する。清康の孫である家康は、三河守任官を朝廷に働きかけて正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された。そのため近衛前久に対処を依頼し、世良田氏で、世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、世良田頼氏の嫡男と弟から、源氏から藤原氏支流へ分流したと称して得川氏の末裔として、嘉字を用い「徳川」への改姓と藤原氏への本姓変更ともに従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)。30数年後に関ヶ原の戦いの勝利後、慶長年間に吉良家の系図を借用し細工し、源氏に戻し、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにして、家康は征夷大将軍に就任した。
歴史公園として、右から長楽寺、世良田東照宮、新田の荘歴史資料館(この図では東毛歴史資料館)となっている。
勅使門
蓮池と渡月橋
この池は、よく見られる心字池。以前は蓮が全面に咲き乱れ見事だったようです。橋は渡月橋と呼ばれ、後鳥羽上皇から下賜された勅額の一つに「渡月橋」があるそうです。
「竜宮伝説」があり、この池は、底が竜宮に通じていて、何か必要なものがあれば品名を書いた紙を池に投げ込むと、忽然としてその品物が浮上したそうです。ある時寺に大行事があって、千畳張りの蚊帳を借りた。それは蓮の糸で織られた精巧なものだった。寺僧がそれを惜しんで返さなかったため、以来いくら紙を投げ込んでも、何も起こらなくなってしまった。
本堂(大師堂)
鐘楼には「幸福の鐘」と銘うった、綺麗な鐘があった。
伝教大師(最澄)童形像
三仏堂
承久3年(1221)、当時の開基 義季の建立と伝えられている。その後、慶安4年(1651)に三代将軍家光が大旦那となって再造された。現在の建物は、昭和60年に改修されたもの。中に三体の仏像が並んでいる。
三仏堂の中に安置されている三体の木造仏。向かって右から釈迦如来(高さ3m)、阿弥陀如来(3.3m)、弥勒菩薩(2.7m)。それぞれ、過去・現在・未来を表している。その大きさには、目を見張った。
阿弥陀如来
釈迦如来
弥勒菩薩
太鼓門
その昔、時報や行事の合図のため、楼上に太鼓を置いていたことからこの名がある。現在、太鼓はなく、明治9年に旧鐘楼から移された鐘も戦時中に供出されてしまっている。
【世良田東照宮】
群馬県太田市世良田町3119番地1
3代将軍・徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。
向拝部の屋根は唐破風。
二重虹梁の間には、家康公が好まれた鷹狩りの鷹、装飾付きの束の左右には黄金の飛龍の彫刻があり。
柱の上は、出三斗の斗栱。狭間の装飾は剥げてしまっているが、上の梁に描かれた装飾は綺麗に残っている。
拝殿中央には「東照大権現」の額と依り代の鏡と御幣。
拝殿内には三十六歌仙の額が掲げられている。
拝殿化の側面。
拝殿裏面
裏面の唐破風向拝にも、鷹と黄金の飛龍の彫刻があり。
本殿は、保存修理工事が行われており、スッポリと覆屋の中。
保存修理工事の説明に、本殿の写真が載っていた。
世良田東照宮から新田の荘歴史資料館に移動する途中に、「真言院井戸」があり。
【新田の荘歴史資料館】
太田市には、新田氏の荘園「新田荘」に関する11か所の遺跡からなる、国指定史跡「新田荘遺跡」があります。新田荘歴史資料館では、新田荘遺跡を構成する、隣接の「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財を始めとして、太田市の豊かな歴史を物語る古墳や埴輪など、多くの資料を保管・展示している。
資料館前に新田義貞像が立っている。
入口
木造天海大僧正座像 江戸時代
新田義貞の足跡
新田義貞の越前での戦い
世良田東照宮の三十六歌仙額
新しい複製画は、柿本人麻呂と大伴家持。
木造狛犬像/世良田町八坂神社
鎌倉時代後期
続いて、新田義貞の旗揚げの地・生品(いくしな)神社に向かったが、生品神社の記事は別途とする。
続いて後半の記事を見る
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コースは、長楽寺⇒世良田東照宮⇒新田の荘歴史資料館⇒生品(いくしな)神社⇒昼食⇒曹源寺さざえ堂⇒足利学校⇒鑁阿寺でした。
【長楽寺】
群馬県太田市世良田町 3119―6
新田氏の祖新田義重の4男、義李を開基とし日本臨済宗の祖栄西の高弟栄朝を開山として承久3年 (1221) に創建された 『東関最初禅窟』です。寺の正式名は、良田山 (世良田山) 真言院長楽寺といいます。鎌倉時代は、広大な境内に塔頭子院が軒を並べ常時 5 0 0人を超える学僧が、兼学修行に励んでいた。室町時代の初期に日本五山十刹の制が成立すると長楽寺は十刹の第七位となった。徳川家康は、天正18年 (1590) 小田原の北条氏を討ち果たしたのち関東の地を与えられ、祖先開基の寺である長楽寺を天海僧正を住職として復興にあたらせ、寺領100石を与えました。天海は臨済宗から天台宗に改宗し、幕府庇護のもとに末寺 7 0 0 有余の寺院に成長させた。境内には文珠山の中世石塔群や蓮池、江戸時代の勅使門・三仏堂・太鼓門・開山堂などがある。
三河国に興った松平氏は、松平清康のとき、世良田氏の後裔だと源氏を称する。清康の孫である家康は、三河守任官を朝廷に働きかけて正親町天皇に「世良田源氏の三河守任官は前例が無い」との理由で拒否された。そのため近衛前久に対処を依頼し、世良田氏で、世良田義季(得川義季)の末裔ではあるが、世良田頼氏の嫡男と弟から、源氏から藤原氏支流へ分流したと称して得川氏の末裔として、嘉字を用い「徳川」への改姓と藤原氏への本姓変更ともに従五位下三河守に叙任された(近衛家文書)。30数年後に関ヶ原の戦いの勝利後、慶長年間に吉良家の系図を借用し細工し、源氏に戻し、徳川氏は世良田氏直系の源姓で得川氏を復活した氏族であるということにして、家康は征夷大将軍に就任した。
歴史公園として、右から長楽寺、世良田東照宮、新田の荘歴史資料館(この図では東毛歴史資料館)となっている。
勅使門
蓮池と渡月橋
この池は、よく見られる心字池。以前は蓮が全面に咲き乱れ見事だったようです。橋は渡月橋と呼ばれ、後鳥羽上皇から下賜された勅額の一つに「渡月橋」があるそうです。
「竜宮伝説」があり、この池は、底が竜宮に通じていて、何か必要なものがあれば品名を書いた紙を池に投げ込むと、忽然としてその品物が浮上したそうです。ある時寺に大行事があって、千畳張りの蚊帳を借りた。それは蓮の糸で織られた精巧なものだった。寺僧がそれを惜しんで返さなかったため、以来いくら紙を投げ込んでも、何も起こらなくなってしまった。
本堂(大師堂)
鐘楼には「幸福の鐘」と銘うった、綺麗な鐘があった。
伝教大師(最澄)童形像
三仏堂
承久3年(1221)、当時の開基 義季の建立と伝えられている。その後、慶安4年(1651)に三代将軍家光が大旦那となって再造された。現在の建物は、昭和60年に改修されたもの。中に三体の仏像が並んでいる。
三仏堂の中に安置されている三体の木造仏。向かって右から釈迦如来(高さ3m)、阿弥陀如来(3.3m)、弥勒菩薩(2.7m)。それぞれ、過去・現在・未来を表している。その大きさには、目を見張った。
阿弥陀如来
釈迦如来
弥勒菩薩
太鼓門
その昔、時報や行事の合図のため、楼上に太鼓を置いていたことからこの名がある。現在、太鼓はなく、明治9年に旧鐘楼から移された鐘も戦時中に供出されてしまっている。
【世良田東照宮】
群馬県太田市世良田町3119番地1
3代将軍・徳川家光の命により、徳川氏の遠祖の世良田義季の墓があり、天海僧正が住職をしていた長楽寺の境内に創建された。1617年(元和3年)に駿河国久能山(久能山東照宮)より下野国日光(日光東照宮)へ家康の遺骸を改葬した際に建てられた社殿を、1644年(寛永21年)に上野国世良田へ移築し、創建された。
向拝部の屋根は唐破風。
二重虹梁の間には、家康公が好まれた鷹狩りの鷹、装飾付きの束の左右には黄金の飛龍の彫刻があり。
柱の上は、出三斗の斗栱。狭間の装飾は剥げてしまっているが、上の梁に描かれた装飾は綺麗に残っている。
拝殿中央には「東照大権現」の額と依り代の鏡と御幣。
拝殿内には三十六歌仙の額が掲げられている。
拝殿化の側面。
拝殿裏面
裏面の唐破風向拝にも、鷹と黄金の飛龍の彫刻があり。
本殿は、保存修理工事が行われており、スッポリと覆屋の中。
保存修理工事の説明に、本殿の写真が載っていた。
世良田東照宮から新田の荘歴史資料館に移動する途中に、「真言院井戸」があり。
【新田の荘歴史資料館】
太田市には、新田氏の荘園「新田荘」に関する11か所の遺跡からなる、国指定史跡「新田荘遺跡」があります。新田荘歴史資料館では、新田荘遺跡を構成する、隣接の「長楽寺」「東照宮」の貴重な文化財を始めとして、太田市の豊かな歴史を物語る古墳や埴輪など、多くの資料を保管・展示している。
資料館前に新田義貞像が立っている。
入口
木造天海大僧正座像 江戸時代
新田義貞の足跡
新田義貞の越前での戦い
世良田東照宮の三十六歌仙額
新しい複製画は、柿本人麻呂と大伴家持。
木造狛犬像/世良田町八坂神社
鎌倉時代後期
続いて、新田義貞の旗揚げの地・生品(いくしな)神社に向かったが、生品神社の記事は別途とする。
続いて後半の記事を見る
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能仁寺・諏訪八幡神社・観音寺/埼玉県飯能市
20200815
訪問日:2020年7月31日
所属している歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で行きました。
午前中飯能市立博物館を見たあと、近くの公園で3密に気を付けながら持参の弁当で昼食。
午後は能仁寺、諏訪八幡神社、観音寺を参拝しました。
【能仁寺(のうにんじ)】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能1329、山号:武陽山、宗旨:曹洞宗、本尊:毘盧遮那仏
歴史:
寺伝によれば、文亀元年(1501年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族中山家勝が、諸国を巡歴していた名僧曹洞宗通幻派の斧屋文達を招聘して創建した。小庵であったが、家勝の没後、天正元年(1573年)、子の中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。
宝永2年(1705年)当時、常陸下館藩の大名であった黒田直邦は13世住職泰州廣基とともに老朽化した寺を改築し、伽藍を完成させた。そして、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇った。
寺号標と仁王門
寺の由緒書き
仁王門
仁王門をくぐると、深い木立の参道に大きな石灯篭が並ぶ。
参道には、竹の林があったりして、気持ち良かった。
参道を登りきると、左に折れ中雀門に向かう。
中雀門
本堂の前は広々としていて、前衛的な彫刻が置かれたりして面白かった。
堂々たる本堂
本尊の廬舎那仏にお参り。
遠くてよくわからなかったので、望遠で撮らせていただきました。
本堂の大棟瓦は、迫力がありました。
境内に飯能戦争で戦った旧幕府軍志士たちを悼む「唱義死節」碑がある。
能仁寺に旧幕方「振武軍」の本営が置かれた。
寺の説明書き
名園100選に選ばれているという庭園を拝観する予定だったが、残念なことにコロナ対策で拝観は中止されていた。残念(泣)
本堂の横の大きな百日紅の木が、少し花を開いていた。
これで、能仁寺を後にして、諏訪八幡神社に向かった。
途中、この辺のガイドマップに若山牧水の歌碑が載っていたので、それを確認。
【諏訪八幡神社】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能字諏訪前263番地
主祭神:武御名方命、誉田別命 他18柱(豊受姫命、奥津姫命、奥津彦命、火産霊命、大山咋命、
白山姫命、木花姫咲耶姫命、保食命、猿田彦命、天宇受売姫命、埴安姫命、崇徳天皇、武内宿禰、
大日孁貴命、菅原道真、大己貴命、少彦名命、天児屋根命)
創祀は永正13年(1516年)初春11日。 加治菊房丸(中山氏)、平重清(畠山氏)などが建御名方命(諏訪神)を勧請して「諏訪神社」と号し、後に信州から八幡神(誉田別命)を勧請して「諏訪八幡神社」となった。
天正12年(1584年)に加治勘解由左衛門家範、智観寺住僧法印慶賢が再建。
1887年(明治20年) 本殿を現在地に移し、社殿造営。
2016年(平成28年) 社殿改修。
飯能市立博物館の奥からの入り口から入ったので、最初に社殿の前に出た。
境内社:
〇飯能恵比寿神社:武蔵野七福神の恵比寿と大黒天を祀る。
武蔵七党のうち丹党の中山家範が霊夢により、再建した話が説明されていた。
〇丹生(たんしょう)神社
正一位丹生大明神とも称し、享保雛を神体に埴山姫命、罔象女命を祀る。
武蔵七党丹党は、古くは水銀、銅、砂金、産鉄・製鉄など金属資源に深くかかわりのある集団でした。
丹生大明神の由来書き
丹生樹
樫の木ですが、丹生大明神のご神徳を具現しているとされ、この名でお呼びしている。
〇愛宕神社、山祇神社、荒神神社、御嶽神社、琴平神社、加納神社、白山神社、稲荷神社は社殿の裏にあり、武蔵野七福神めぐりの際にお参りしているので、今回は省略しました。
正面入り口の鳥居から出て、次いで観音寺に向かいます。
【観音寺】
所在地:埼玉県飯能市山手町5番地17号、山号:般若山、宗派:真言宗智山派
本尊:如意輪観世音菩薩、不動明王 ほか
札所等:武蔵野七福神・寿老人
※1867年(慶応4年)の飯能戦争で、幕府軍(振武軍)が立てこもった寺の1つ。
諏訪八幡神社から歩いて来たので、直接本堂と不動堂の前に出ます。
本堂内部
ご本尊の前に、天井から一対の白馬が吊られているのが珍しい。
不動堂
この日は、見ることが出来なかったが、武蔵野七福神めぐりでは、ここに寿老人が置かれる。
武蔵野七福神めぐりの時の写真
〇白象
鐘撞き堂には第二次世界戦争中、鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていたが、昭和40年頃に飯能銀座のせんべい店「亀屋」の店主が張り子の象を制作し、のちに観音寺の堂に収められて現在に至っている。公式ページには象にまつわる仏教説話が語られている。なお入間市と飯能市境の入間川沿いではアケボノゾウの化石も産出されている。
ここから、飯能河原が遠望できます。
〇飯能鬼子母神
鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所と協力して平成19年11月に設置された。
境内には、句碑が二つあります。
松尾芭蕉の句碑
「枯れ枝に鴉のとまりけり秋の暮 はせを」
水原秋櫻子の句碑
「むさしのの空真靑なる落ち葉かな」
蓮の花が咲き始めていた。
これで、この日の予定は終り。
正面入り口から出て、飯能駅に向かいました。
途中、蔵カフェで涼をとりました。
美味でした。
(了)
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所属している歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で行きました。
午前中飯能市立博物館を見たあと、近くの公園で3密に気を付けながら持参の弁当で昼食。
午後は能仁寺、諏訪八幡神社、観音寺を参拝しました。
【能仁寺(のうにんじ)】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能1329、山号:武陽山、宗旨:曹洞宗、本尊:毘盧遮那仏
歴史:
寺伝によれば、文亀元年(1501年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族中山家勝が、諸国を巡歴していた名僧曹洞宗通幻派の斧屋文達を招聘して創建した。小庵であったが、家勝の没後、天正元年(1573年)、子の中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。
宝永2年(1705年)当時、常陸下館藩の大名であった黒田直邦は13世住職泰州廣基とともに老朽化した寺を改築し、伽藍を完成させた。そして、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇った。
寺号標と仁王門
寺の由緒書き
仁王門
仁王門をくぐると、深い木立の参道に大きな石灯篭が並ぶ。
参道には、竹の林があったりして、気持ち良かった。
参道を登りきると、左に折れ中雀門に向かう。
中雀門
本堂の前は広々としていて、前衛的な彫刻が置かれたりして面白かった。
堂々たる本堂
本尊の廬舎那仏にお参り。
遠くてよくわからなかったので、望遠で撮らせていただきました。
本堂の大棟瓦は、迫力がありました。
境内に飯能戦争で戦った旧幕府軍志士たちを悼む「唱義死節」碑がある。
能仁寺に旧幕方「振武軍」の本営が置かれた。
寺の説明書き
名園100選に選ばれているという庭園を拝観する予定だったが、残念なことにコロナ対策で拝観は中止されていた。残念(泣)
本堂の横の大きな百日紅の木が、少し花を開いていた。
これで、能仁寺を後にして、諏訪八幡神社に向かった。
途中、この辺のガイドマップに若山牧水の歌碑が載っていたので、それを確認。
【諏訪八幡神社】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能字諏訪前263番地
主祭神:武御名方命、誉田別命 他18柱(豊受姫命、奥津姫命、奥津彦命、火産霊命、大山咋命、
白山姫命、木花姫咲耶姫命、保食命、猿田彦命、天宇受売姫命、埴安姫命、崇徳天皇、武内宿禰、
大日孁貴命、菅原道真、大己貴命、少彦名命、天児屋根命)
創祀は永正13年(1516年)初春11日。 加治菊房丸(中山氏)、平重清(畠山氏)などが建御名方命(諏訪神)を勧請して「諏訪神社」と号し、後に信州から八幡神(誉田別命)を勧請して「諏訪八幡神社」となった。
天正12年(1584年)に加治勘解由左衛門家範、智観寺住僧法印慶賢が再建。
1887年(明治20年) 本殿を現在地に移し、社殿造営。
2016年(平成28年) 社殿改修。
飯能市立博物館の奥からの入り口から入ったので、最初に社殿の前に出た。
境内社:
〇飯能恵比寿神社:武蔵野七福神の恵比寿と大黒天を祀る。
武蔵七党のうち丹党の中山家範が霊夢により、再建した話が説明されていた。
〇丹生(たんしょう)神社
正一位丹生大明神とも称し、享保雛を神体に埴山姫命、罔象女命を祀る。
武蔵七党丹党は、古くは水銀、銅、砂金、産鉄・製鉄など金属資源に深くかかわりのある集団でした。
丹生大明神の由来書き
丹生樹
樫の木ですが、丹生大明神のご神徳を具現しているとされ、この名でお呼びしている。
〇愛宕神社、山祇神社、荒神神社、御嶽神社、琴平神社、加納神社、白山神社、稲荷神社は社殿の裏にあり、武蔵野七福神めぐりの際にお参りしているので、今回は省略しました。
正面入り口の鳥居から出て、次いで観音寺に向かいます。
【観音寺】
所在地:埼玉県飯能市山手町5番地17号、山号:般若山、宗派:真言宗智山派
本尊:如意輪観世音菩薩、不動明王 ほか
札所等:武蔵野七福神・寿老人
※1867年(慶応4年)の飯能戦争で、幕府軍(振武軍)が立てこもった寺の1つ。
諏訪八幡神社から歩いて来たので、直接本堂と不動堂の前に出ます。
本堂内部
ご本尊の前に、天井から一対の白馬が吊られているのが珍しい。
不動堂
この日は、見ることが出来なかったが、武蔵野七福神めぐりでは、ここに寿老人が置かれる。
武蔵野七福神めぐりの時の写真
〇白象
鐘撞き堂には第二次世界戦争中、鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていたが、昭和40年頃に飯能銀座のせんべい店「亀屋」の店主が張り子の象を制作し、のちに観音寺の堂に収められて現在に至っている。公式ページには象にまつわる仏教説話が語られている。なお入間市と飯能市境の入間川沿いではアケボノゾウの化石も産出されている。
ここから、飯能河原が遠望できます。
〇飯能鬼子母神
鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所と協力して平成19年11月に設置された。
境内には、句碑が二つあります。
松尾芭蕉の句碑
「枯れ枝に鴉のとまりけり秋の暮 はせを」
水原秋櫻子の句碑
「むさしのの空真靑なる落ち葉かな」
蓮の花が咲き始めていた。
これで、この日の予定は終り。
正面入り口から出て、飯能駅に向かいました。
途中、蔵カフェで涼をとりました。
美味でした。
(了)
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