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能仁寺・諏訪八幡神社・観音寺/埼玉県飯能市

20200815

訪問日:2020年7月31日

所属している歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で行きました。
午前中飯能市立博物館を見たあと、近くの公園で3密に気を付けながら持参の弁当で昼食。
午後は能仁寺、諏訪八幡神社、観音寺を参拝しました。

【能仁寺(のうにんじ)】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能1329、山号:武陽山、宗旨:曹洞宗、本尊:毘盧遮那仏
歴史:
寺伝によれば、文亀元年(1501年)、武蔵国高麗郡加治(現在の飯能)の豪族中山家勝が、諸国を巡歴していた名僧曹洞宗通幻派の斧屋文達を招聘して創建した。小庵であったが、家勝の没後、天正元年(1573年)、子の中山家範が父の菩提を弔うため本格的な寺とし、中山家勝、家範、照守および、その後の中山家・黒田家の菩提寺となる。
宝永2年(1705年)当時、常陸下館藩の大名であった黒田直邦は13世住職泰州廣基とともに老朽化した寺を改築し、伽藍を完成させた。そして、雲水50人、七堂伽藍を構える禅寺として栄華を誇った。

寺号標と仁王門
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寺の由緒書き
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仁王門
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仁王門をくぐると、深い木立の参道に大きな石灯篭が並ぶ。
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参道には、竹の林があったりして、気持ち良かった。
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参道を登りきると、左に折れ中雀門に向かう。
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中雀門
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本堂の前は広々としていて、前衛的な彫刻が置かれたりして面白かった。
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堂々たる本堂
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本尊の廬舎那仏にお参り。
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遠くてよくわからなかったので、望遠で撮らせていただきました。
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本堂の大棟瓦は、迫力がありました。
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境内に飯能戦争で戦った旧幕府軍志士たちを悼む「唱義死節」碑がある。
能仁寺に旧幕方「振武軍」の本営が置かれた。
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寺の説明書き
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名園100選に選ばれているという庭園を拝観する予定だったが、残念なことにコロナ対策で拝観は中止されていた。残念(泣)
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本堂の横の大きな百日紅の木が、少し花を開いていた。
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これで、能仁寺を後にして、諏訪八幡神社に向かった。

途中、この辺のガイドマップに若山牧水の歌碑が載っていたので、それを確認。
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【諏訪八幡神社】
所在地:埼玉県飯能市大字飯能字諏訪前263番地
主祭神:武御名方命、誉田別命 他18柱(豊受姫命、奥津姫命、奥津彦命、火産霊命、大山咋命、
白山姫命、木花姫咲耶姫命、保食命、猿田彦命、天宇受売姫命、埴安姫命、崇徳天皇、武内宿禰、
大日孁貴命、菅原道真、大己貴命、少彦名命、天児屋根命)

創祀は永正13年(1516年)初春11日。 加治菊房丸(中山氏)、平重清(畠山氏)などが建御名方命(諏訪神)を勧請して「諏訪神社」と号し、後に信州から八幡神(誉田別命)を勧請して「諏訪八幡神社」となった。
天正12年(1584年)に加治勘解由左衛門家範、智観寺住僧法印慶賢が再建。
1887年(明治20年) 本殿を現在地に移し、社殿造営。
2016年(平成28年) 社殿改修。

飯能市立博物館の奥からの入り口から入ったので、最初に社殿の前に出た。
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境内社:
〇飯能恵比寿神社:武蔵野七福神の恵比寿と大黒天を祀る。
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武蔵七党のうち丹党の中山家範が霊夢により、再建した話が説明されていた。
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〇丹生(たんしょう)神社
正一位丹生大明神とも称し、享保雛を神体に埴山姫命、罔象女命を祀る。
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武蔵七党丹党は、古くは水銀、銅、砂金、産鉄・製鉄など金属資源に深くかかわりのある集団でした。

丹生大明神の由来書き
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丹生樹
樫の木ですが、丹生大明神のご神徳を具現しているとされ、この名でお呼びしている。
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〇愛宕神社、山祇神社、荒神神社、御嶽神社、琴平神社、加納神社、白山神社、稲荷神社は社殿の裏にあり、武蔵野七福神めぐりの際にお参りしているので、今回は省略しました。

正面入り口の鳥居から出て、次いで観音寺に向かいます。
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【観音寺】
所在地:埼玉県飯能市山手町5番地17号、山号:般若山、宗派:真言宗智山派
本尊:如意輪観世音菩薩、不動明王 ほか
札所等:武蔵野七福神・寿老人
※1867年(慶応4年)の飯能戦争で、幕府軍(振武軍)が立てこもった寺の1つ。

諏訪八幡神社から歩いて来たので、直接本堂と不動堂の前に出ます。
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本堂内部
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ご本尊の前に、天井から一対の白馬が吊られているのが珍しい。
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不動堂
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この日は、見ることが出来なかったが、武蔵野七福神めぐりでは、ここに寿老人が置かれる。
武蔵野七福神めぐりの時の写真
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〇白象
鐘撞き堂には第二次世界戦争中、鐘が供出されてしまったため堂のみが残されていたが、昭和40年頃に飯能銀座のせんべい店「亀屋」の店主が張り子の象を制作し、のちに観音寺の堂に収められて現在に至っている。公式ページには象にまつわる仏教説話が語られている。なお入間市と飯能市境の入間川沿いではアケボノゾウの化石も産出されている。
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ここから、飯能河原が遠望できます。
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〇飯能鬼子母神
鬼子母神とゆかりの深いザクロが飯能の名産だったため、飯能商工会議所と協力して平成19年11月に設置された。
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境内には、句碑が二つあります。

松尾芭蕉の句碑
「枯れ枝に鴉のとまりけり秋の暮 はせを」
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水原秋櫻子の句碑
「むさしのの空真靑なる落ち葉かな」
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蓮の花が咲き始めていた。
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これで、この日の予定は終り。
正面入り口から出て、飯能駅に向かいました。
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途中、蔵カフェで涼をとりました。
美味でした。
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(了)


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旧伊藤博文金沢別邸

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所在地:横浜市金沢区野島町24
訪問日:2019年5月8日

歴史クラブ春の定例見学会で訪れました。
定例見学会のコースは、三渓園⇒金沢文庫・称名寺⇒旧伊藤博文金沢別邸です。
駅前を貸し切りバスで7時に出発、三渓園を見学後、神奈川県立金沢文庫・称名寺を見て、その後大型バスは野島に入っていけないので、シーサイドライン(モノレール)野島公園駅近くで降りて、歩いて6分ほどで到着。
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野島は歌川広重が「金沢八景」のなかで「野島夕照(のじまのせきしょう)」として描いた有名な地域です。
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旧伊藤博文金沢別邸は、初代内閣総理大臣を務めた伊藤博文により、明治31(1898)年に建てられた茅葺寄棟屋根の田舎風海浜別荘建築です。伊藤博文が風光明媚な金沢の地を好んで建てたといわれ、大正天皇や韓国皇太子なども訪れました。
明治時代、富岡などの金沢近辺は、東京近郊の海浜別荘地として注目され、第4・6代内閣総理大臣の松方正義や大蔵大臣・外務大臣等を務めた井上馨、日本画の大家の川合玉堂などが別荘を設けました。その後、大磯や葉山などが別荘地として栄え、金沢はその役割を終えました。旧伊藤博文金沢別邸は、当時の別荘地の数少ない貴重な建築遺構です。

歴史的には、明治憲法の草案づくりを行った場所として有名です。
「大日本帝国憲法(明治憲法)」は、明治20(1897)年伊藤博文を中心に井上毅・伊東巳代治・金子堅太郎・ロエスレルらにより、当初江戸時代から続く旅亭・東屋で草案作りの作業を行っていました。
しかし、その草案が盗難にあう騒ぎがあり、その後は伊藤博文の別邸で作業が続けられました。
以前は、「憲法草創記念之碑」がこの別邸前に置かれていたようですが、現在は東屋があった場所に建てられています。
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敷地図
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邸内に入ります。
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雪隠(せっちん)が保存されていた。
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客間
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欄間の飛鳥の彫刻
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床の間の金屏風
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金澤小学校に伊藤博文公が寄贈したとされるランプ
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家康の家訓
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廊下に出て、外の眺めを見る。
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ガラスが昔のままなのが良い。
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ガラスに大きなひずみがあり、こんなにゆがんでいる(笑)
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廊下からの眺めは気持ちいい。
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外の牡丹園のほうに出てみた。
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牡丹は既に終わっていたのが残念。
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わずか一つ残っていた白い牡丹。
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向かいの八景島シーパラダイス。
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海岸に降りてみたら、僅かの砂州で潮干狩りをしていた。
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これで、定例見学会のコース、三渓園⇒金沢文庫・称名寺⇒旧伊藤博文金沢別邸を全て終了。
けっこう収穫があったので満足して、帰途についた。

(了)


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尖石縄文考古館/諏訪地方の歴史探訪④

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所在地:長野県茅野市豊平4734-132

10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。

諏訪大社上社前宮、本宮、高島城の後、最後の訪問地である「尖石縄文考古館」に到着しました。
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この考古館は、現在国宝の土偶2点を蔵する素晴らしいところですが、「宮坂英弌(ふさかず)」氏個人の努力から出発しています。
宮坂氏は小学校の教師をしながら考古学の研究をし、戦前から八ヶ岳山麓の縄文遺跡の発掘を行い、特に尖石遺跡は独力で発掘を続け、日本で初めて縄文集落の全容を明らかにしました。また、与助尾根遺跡でも縄文集落を発掘しました。

スタートは、氏のお宅の縁側に並べて見学者に公開。
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自宅を改造した「尖石館」
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最初に出来た「尖石考古館」
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旧考古館で子供たちに説明する宮坂英弌氏
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時間の関係で、30分だけですが学芸員の方に案内をしていただきました。

最初は黒曜石の説明
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白樺湖周辺で見つかった黒曜石
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諏訪湖周辺の、おびただしい数の旧石器遺跡、縄文遺跡、弥生遺跡。
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【常設展示室A】
入口には、務めを果たした諏訪大社御柱の断片が飾られていた。
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先に説明した、考古館の歴史の説明がある。
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『蛇体把手付土器』 尖石遺跡 縄文時代中期前半
頭の形はマムシである。
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『有孔鍔付土器』 尖石遺跡 縄文時代中期前半
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【国宝土偶展示室】
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現在、ここには国宝の土偶、「縄文のビーナス」と「仮面の女神」の2点が収蔵されていますが、国宝の土偶が全国で5点しかないことを考えると、すごいことだと思います。
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◎国宝 「縄文のビーナス」
実物展示
高さ 27cm
重さ 2.14Kg
棚畑遺跡第500号土坑
縄文時代中期
約5000年前
発掘当初から「縄文のビーナス」の愛称で親しまれている。
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◎国宝 「仮面の女神」
実物展示
高さ 34cm
重さ 2.7Kg
中ツ原遺跡第70号土坑
縄文時代後期
約4000年前
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「縄文のビーナス」は中が詰まった「中実土偶」ですが、「仮面の女神」は「中空土偶」です。
両脚や大きなおしり、胴体、両腕、ふくらんだおなかを別々に作り、それらをくっつけ合わせて作っていることがレントゲン撮影でわかりました。
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発見時の状況が再現されていた。
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【一般展示室】
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残念ながら時間が無くなり、駆け足で見た。

『深鉢』
棚畑遺跡
縄文時代中期
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『深鉢』
原村・富士見市徳久利遺跡
縄文時代中期
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女性を象徴した土偶がある一方で、男性を象徴したまつりの道具で「石棒」がある。
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館内の見学の後、隣の与助尾根に移動。
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【与助尾根遺跡復元住居】
与助尾根遺跡は尖石縄文考古館の隣にあり、宮坂英弌氏により昭和21年から27年にかけ、縄文時代中期の竪穴住居跡28か所が発掘されました。
このうち、ある時期に存在したとみられる縄文集落を復元してあります。
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竪穴住居に入ってみました。
入った当初は真っ暗ですが、眼が慣れてくると意外と見えるものです。
ストロボを焚いて映している。
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一部は、わざと修復せずに劣化の様子を見ているものがあった。
中で火を焚いて煙り)出せば、もっと持つと思うのだが、劣化は早い。
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予定時間になり、見学会は終了。
「もっと、ここに居たい」、「もっと時間が欲しい」という声が多かったのは、テーマ選択としては成功だったと、嬉しく思いました。
帰り路も、心配していたが混むことがなかったので、少し早めに到着したのでホッとした。


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諏訪高島城/諏訪地方の歴史探訪③

20181015

10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。

諏訪大社上社前宮、本宮に参拝した後、近くの「おぎのや諏訪インター店」で昼食、お土産購入してから、高島城に到着しました。

高島城というのは、二か所あり、初期は茶臼山にあり、後期諏訪湖畔に築かれた。

ちょっと長くなりますが、諏訪家の歴史も含めて説明を記しておきます。

【高島城(茶臼山城)】
諏訪大社大祝であった諏訪氏が、この地方の武士団の統領として諏訪地方を切り取ります。
中世、諏訪郡の領主であった諏訪氏は現在の諏訪高島城の北方に位置する茶臼山に高島城(茶臼山城)を築いて居城としたが、諏訪頼重の代に武田信玄に滅ぼされる。
諏訪氏の滅亡後、諏訪郡には武田家の譜代家老・板垣信方が現在の茅野市に所在する上原城に配置され、諏訪郡司となった。

天文17年(1548年)には上田原の戦いにおいて信方が戦死し、天文18年(1549年)正月には長坂虎房が諏訪城代となり、高島城へ入城した。『高白斎記』によれば、高島城は足軽大将の山本勘助により改修されたという。高島城の城代は虎房の後に吉田信生・市川昌房が務め、天正3年(1575年)5月21日の長篠の戦いで昌房が戦死すると、今福昌和が務める。高島城は武田氏による諏訪郡支配の拠点となった。

【諏訪高島城】
諏訪家の血をひく武田勝頼が、織田・徳川連合軍により滅ぼされる。
天正10年(1582年)3月の武田氏の滅亡後、甲斐国と信濃諏訪郡は織田氏の家臣・河尻秀隆が領し、諏訪郡には秀隆の家臣・弓削重蔵が配置された。同年6月の本能寺の変の後、河尻秀隆は土民に殺され、諏訪大社大祝であった諏訪頼忠が諏訪一族を率いて高島城に入り、諏訪家を復興した。
徳川家康と北条氏直の和睦の結果、甲斐・信濃は徳川となり、諏訪家は徳川家に従うことになる。
このいきさつにより、諏訪家は江戸時代に譜代大名となる。
※譜代大名:関ヶ原合戦より前に徳川家の家臣であった大名

徳川家康の江戸入府の際、諏訪頼水は武蔵国奈良梨・羽生・蛭川一万二千石の大名となり、奈良梨に本拠を構えた。

このとき、諏訪は豊臣系の日根野高吉に下された。
高吉は、1592年(文禄元年)から1598年(慶長3年)にかけて、現在の地である諏訪湖畔の高島村に新城を築く。その際村人には漁業権や賦役免除権などの特権を与える代わりに小和田へ移転させた。高吉は織田信長、豊臣秀吉の下で普請を経験していたことから、織豊系城郭として築城し、石垣を築いて天守も上げた。同時に上原城周辺にいた商工業者を移住させ、城下町の建設を開始した。

1601年(慶長6年)日根野氏は下野国壬生藩に転封となり、ずっと諏訪復帰を願い出ていた、譜代大名の諏訪頼水が2万7千石で入封。再び諏訪氏がこの地の領主となり、「高島藩」として明治維新まで続くこととなった。江戸時代は諏訪藩の政庁であり藩主の居所であった。1786年(天明6年)に石垣などが補修されている。

寛永3年(1626年)には徳川家康六男の松平忠輝を預かる。南の丸を増設し、監禁場所とした。以降も南の丸は、幕府から預かった吉良義周などの流人の監禁場所となる。

1871年(明治4年)廃藩置県により高島県となり、県庁舎として利用された。1875年(明治8年)に天守以下建造物は破却もしくは移築され、一時は石垣と堀のみとなり、翌1876年(明治9年)高島公園として一般に開放され、1900年(明治33年)に諏訪護國神社が建てられる。

現在は二の丸、三の丸が宅地となり、1970年(昭和45年)には本丸に天守・櫓・門・塀が復元され、高島公園として整備された。

案内図
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団体で入城するため、真っ先に天守閣に入った。
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天守閣内は展示で一杯。
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日根野高吉像
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諏訪家の家紋も、当然諏訪大社の神紋「諏訪梶」と同じ。
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御枕屏風
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鎧など
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諏訪の主な城址
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天守閣からの諏訪湖
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諏訪湖と反対側の眺め
右手の森の向こう山麓に諏訪大社上社がある。
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冠木橋を見下ろす。
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天守閣を出て、周りを見ます。
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天守閣真下から
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藤棚の辺に本丸御殿があった。
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心字池から天守閣を
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冠木門を内から見る
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高島城の堀と石垣
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冠木門と冠木橋
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冠木橋からの天守閣
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冠木橋と天守閣
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隅櫓
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再び冠木橋から講演に戻る
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高島城は浮城とも云う
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諏訪護国神社
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ここにも御柱が立っていた。
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これで見学は終了。
続いて、尖石縄文考古館に向かった。


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諏訪大社上社本宮/諏訪地方の歴史探訪②

20181014

10月10日に行われた歴史クラブの定例見学会ですが、コースは諏訪大社上社前宮⇒諏訪大社上社本宮⇒高島城⇒尖石縄文考古館でした。

諏訪大社上社前宮に参拝した後、バス10分ほどで本宮に到着。

これから掲載する写真ですが、皆さんを案内する立場上あまり写真を撮れなかったので、以前個人で参拝した時(2015年7月)の写真も利用して紹介します。
夏の季節の写真が混ざるので(笑)、ご容赦ください。

諏訪大社(すわたいしゃ)は、長野県の諏訪湖の周辺に4箇所の境内地をもつ神社です。
信濃國一之宮。神位は正一位。全国各地にある諏訪神社総本社であり、 国内にある最も古い神社の一つとされています。
諏訪大社の歴史は大変古く古事記の中では出雲を舞台に国譲りに反対して諏訪までやってきて、そこに国を築いたとあり、また日本書紀には持統天皇が勅使を派遣したと書かれています。
諏訪大社には本殿と呼ばれる建物がありません。代りに秋宮は一位の木を春宮は杉の木を御神木とし、上社は御山を御神体として拝しています。
古代の神社には社殿がなかったと言われ、諏訪大社はその古くからの姿を残しています。
諏訪明神は古くは風・水の守護神で五穀豊穣を祈る神。また武勇の神として広く信迎され、現在は生命の根源・生活の源を守る神として、多くの人が参拝に訪れます。
鎮座の年代、起源等の詳細については知るすべもないが、我国最古の神社の一つに数えられています。延喜式神名帳には南方刀美神社(みなかたとみのかみのやしろ)と記され、信濃国四十八座の第一にあり、当時既に信濃國一之宮として信仰されていたことがわかります。
明治四年に国幣中社に列格、同二十九年に官幣中社、大正五年に官幣大社に昇格し、終戦を迎え昭和二十三年に諏訪大社と改称致しました。

全国に分布する分社は一万有余社を数え、お諏訪さま、諏訪大明神と親しまれ、敬まわれつつ巾広い信仰を有し、古くからある信仰には風と水を司る竜神の信仰や、風や水に直接関係のある農業の守護神としての信仰が著名です。また水の信仰が海の守り神となり、古くからある港の近くには必ずと言っても良い程にお諏訪さまがお祀りされています。

境内図
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北参道側の大鳥居
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社号標
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○狛犬
下社秋宮の大狛犬の原型で、作者清水氏の好意に依り、大社ゆかりの方が昭和四十九年十月に奉納されたもの。
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手水舎
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○明神湯
往古より諏訪明神ゆかりの温泉とされ諏訪の温泉の源泉とも伝えられている。
ここでは、私は明神湯で手を浄めた。
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○五穀の種池
清祓池の脇の小さな石の池で、毎年春になると種粒を浸してその浮き沈みに依って豊凶を占っており、現在でも近郷農家の人々に親しまれています。
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○雷電像
諏訪大神は昔から力の強い神様としても知られ、相撲とは関係が深く、神社でも年々相撲神事が行をわれており、多くの力士も参拝しています。この像は信州が生んだ江戸時代の大力士雷電の等身大のもので、お諏訪さまに対して拝礼の誠を捧げている姿です。
茅野市出身の矢崎虎夫氏が、文部大臣賞受賞を記念して昭和41年10月に奉納されたもので、横綱柏戸関(鏡山親方)がモデルだそうです。
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○塀重門
石段の上の門で、文政12年(1829)のものです。
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塀重門から右にちょっと寄ったところから中に入ると、また手水盤があり。
向うに見えるのが参拝所。
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○御社殿
本宮の建物は「諏訪造り」の代表的なもので、一種独特の形式を備えています。
正面に拝殿と幣殿が並び、その奥には御本殿はありません。拝殿の左側を右片拝殿、右側は左片拝殿と山を背にした建物を脇片拝殿と言います。
この本宮の昔の建物は極彩色で結構ずくめの社殿でしたが、天正十年(1582)に織田信長の軍勢の兵火の為灰塵に帰し、天正十二年(1584)諏訪藩主諏訪頼忠が造営に着手し仮殿が作られ、更に年元和三年(1617)に諏訪頼水が地元の宮大工に命じ再建しましたが、この建物は、嘉永年間に郡内富士見町乙事の諏訪神社に移転しました。これは桃山時代の代表的建築物として国宝に指定されています。
現在の建物は江戸時代の末期天保二年から九年(1838)迄八年の歳月を要して、二代目立川和四郎富昌が次男の富種や地元神宮寺の宮大工原五左衛門親成と共に建立したもので、立川流の代表的建築物として知られ、殊に片拝殿の粟穂と鶉や笹に鶏の彫刻は富昌の代表作として、近代彫刻史に光彩を放つと言われ、又拝殿下の波と千鳥の彫刻は立川家の家紋の如き殊芸と言われています。

参拝所
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拝幣殿と左右に片拝殿
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幣殿
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片拝殿の粟穂と鶉の彫刻
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片拝殿の笹に鶏の彫刻
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ご祭神:建御名方神

神紋:諏訪梶
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諏訪大社の神紋は梶の棄で葉が三枚出ているので、三本梶とも言い、足の数をもって上下社の区別がをされ、上社は四本、下社は五本足になっています。また全国の御分社の大半は一本梶と言って、葉の部分のみで一本の社紋が使われています。

○勅願殿
昔は行事殿とも御祈祷所とも言って朝廷や諸侯の祈願を行った所とも伝えられます。現在の建物は元禄三年(1690)に諏訪高島藩によって建てられたものを、安政年間に修理しました。
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〇布橋
塀重門から外に出て、布橋を歩きます。この長廊は約70m、三十八間あり、明治維新迄は上社の大祝(おおほうり)のみ通った所でその時に布を敷いたことから布橋の名称が附いています。現在でも御柱祭の遷座祭には近郷の婦人連が自分の手で織り上げた布を持って釆て、神様(神輿)の通る道筋に敷くことを例としております。
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○四脚門
二つの御宝殿の聞にある建物で、天正十年(1582)に兵変に依り焼失したものを慶長十三年(1608)に徳川家康が家臣大久保石見守長安に命じて造営寄進し、国家の安泰を祈願しました。別名を勅使門と言います。
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〇硯石/諏訪七石
上社本宮の脇片拝殿の上方にある石が硯石と呼ばれ、この石の凹面は常に水を湛えているところからその名がついたそうです。
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○御宝殿(ごほうでん)
廊下の左側にある茅葺の建物で、本宮では一番大切な御殿です。二殿のうち左側を東御宝殿右側を西御宝殿と言い、御柱祭毎に交互に建替えをします。中にはお諏訪さまの御神輿をお納めしてあり、一般の神社の御本殿に相当します。この御宝殿の屋根からはどんなに干天の時でも最低三滴は水滴が落ちると言われ、宝殿の天滴と言って七不思議の一つに挙げられ、諏訪大神が水の守護神として広く崇敬される根元にもなっています。
今は東宝殿に居られる。
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○大国主命社
遥拝所の隣の小さをお社は、大国主命社でお諏訪さまの御父神、大国さまをお祭りしている。
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布橋を渡り切ります。
○布橋入口御門
御門は文政十二年(1829)の建立で、地元の宮大工原五左衛門が棟領ですが、雄大な構とその彫刻は見事な出来ばえと称えられています。
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正門から入り直します。
まず神橋があり、鳥居がある。

神橋の手前右側に手水舎があり。
手水舎の建物は天保2年(1831)の建立です。脇を流れる小川は御手洗川で、古くはこの川で身心を清めてお参りしました。諏訪大社の七不思講の一つに「元朝の蛙狩り」と言うのがあり。毎年正月元旦に行われる「蛙狩り神事」に、この御手洗川の神橋の上の一段高い所で氷を砕いて川底を堀り、二匹の赤蛙を捕え、神前で柳の弓を以って射通し、矢串のまゝお供えしますが、附近に川が少ない為か、どんなに寒い年でも蛙が取れ、七不思議の一つとされている。
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神橋
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神橋の上から
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○出早社
左手に、まずあるのが「出早社(いずはやしゃ)」
上社の地主神、お諏訪様の門番の神様と伝えられますが、祭神は諏訪大神の御子神「出早雄命」です。古くからイボ神様として敬まわれ、小石を捧げてイボの全快を祈る風習があります。
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○額殿
文政年間の建立で、参詣者の祈願やその御礼として奉納された額や絵馬を納めた所で絵馬堂とも言います。戦前迄は廊下の上にも無数に掲げられていましたが整理されております。
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主な絵馬
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○摂末社遥拝所
額殿に続く細長い建物でこれも文政年間の造営です。上社に特に関係の深い摂社や末社の神号殿で、上の十三所中の十三所、下の十三所で合計三十九杜の御名を掲げてあり昔は十三所遥拝所とも言いました。現在大社の摂末社は上社関係が四十二社、下社関係は二十七社あり、明治以後独立した関係摂末社迄合わせるとその数九十五社に及びます。上下四杜の境内を始め郡下に点在しておりますが、その摂末社を朝夕こちらで遥拝します。
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このような神名が掲げられているが、江戸時代故に「〇〇明神」というのがほとんど。
一部だけ掲載。
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布橋入り口の前から右に、神楽殿に通じる参道を行きます。
四本の御柱は、後でまとめて掲載。

「駒形屋」と「布橋」の間に大欅あり。
樹齢約千年。古くは贄(にえ)・御狩の獲物(お供物)を掛けて祈願をしたことから「贄掛けの欅」と呼ばれ。境内最古の樹木の一つである。
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布橋の前に、「ハートの灯篭」と有名な石灯篭あり。
享保20年(1735)造立
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これはハートではなく、「猪目(いのめ)」
これは日本古来から伝わる「猪目(いのめ)」という文様です。字のごとく「イノシシの目」を意味しています。そして「猪目」は古来より「魔除け」「火除け」のために使われているのです。
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○勅使殿と五間廊
布橋の右にある高低二つの建物で、高い方が勅使殿です。中世の記録には、御門戸屋又は帝屋とあります。朝廷から来られた勅使が着座をされたので、この名称が付いたと思われますが、色々な神事がこゝで行なわれました。低い方の建物は五間廊と言いますが、神長官以下の神職が着座したところだと伝えられ、勅使殿は元和年間(1620)頃、五間廊は安永2年(1773)に建てられたものですが、後に改築してあります。
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勅使殿
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五間廊
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○神楽殿
文政十年(1827)の建立で、上社では一番大きな建物です。大々神楽や湯立神事が毎日行なわれていたようですが、現在は残念なことにその神楽は伝わっておりません。中に納めてある大太鼓は江戸時代のもので、直径が一米八十あり、当国随一の大きなものと言われ、唯今では元旦の朝だけ打つことにしております。
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○天流水舎
神楽殿前の屋根にエントツのようなものがついた建物で、俗にお天水と言います。どんな晴天の日でも雫が入り、御宝殿の軒からの天滴と共に中の井戸に溜ると言われております。雨乞の折にこのお天水を青竹に頂いて帰り神事をすると必ず雨が降ると伝えられ、唯今でも近郷近県からの祈願があります。この時途中で休むとそこで雨
が降るので昔は若者達がリレー式に運んだそうです。又このお天水は天竜川の水源とも伝えられています。
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○高島神社
武田信玄によって、諏訪頼重が討たれ諏訪家は滅びたが、頼重の弟頼忠は諏訪大社大祝として残った。
本能寺の変が起こって世が乱れたのに乗じ、諏訪頼忠は高嶋城を奪い、諏訪家を再興する。
諏訪家は徳川家配下となり、譜代大名として小田原遠征後武蔵国奈良梨に1万2千石の大名に。
諏訪頼水の代に諏訪に2万7千石を与えられ、高島藩を立藩。維新まで存続した。
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御柱ですが、ここ上社本宮では、三と四の御柱は立ち入れない神域にあり、近寄れません。
なんとか場所を探して遠くから撮るのが精いっぱいでした。

○本宮一之御柱
塀重門下の石段の横にあり。
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○本宮二之御柱
布橋門の脇にあり。
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○本宮三之御柱
これが一番苦労しました。
御手洗川から中は神域で入れません。
隣接するお寺の境内から撮れました。
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○本宮四之御柱
勅願殿と宝物殿の間から、遠目に見ることになります。
ズームを効かせて撮りました。
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諏訪七石のうち三つが上社本宮境内にありますが、「硯石」は既に掲載。

○御沓石
一之御柱の奥の大きな石は諏訪七石の一つ「御沓石」。
真中のへこんだところが、お諏訪様のお沓の跡だとか、お諏訪様の召しておられた御神馬の足跡とか伝えられています。
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○蛙石
蓮池にあります。
手前の石。
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以上で本宮の参拝を終え、近くの「おぎのや諏訪インター店」で昼食、お土産購入してから、高島城に向かいました。


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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