東台遺跡(奈良時代製鉄遺跡)/埼玉県ふじみ野市

20170129

所在地:埼玉県ふじみ野市大井514-12 東台金山公園
訪問日:2017年1月18日

この日、「田子山富士塚」、「引又河岸跡」、「いろは樋模型」を尋ねたあと、ここを尋ねました。

私が仕事をしていた会社は、自動車関連の鉄系素材メーカーだったので、こういう遺跡には目が無いです(笑)

現場は、マンションの一角にある小さな公園です。
この場所からは、旧石器時代、縄文時代早期・中期・後期、奈良時代、平安時代、近世の集落跡のほか、7~9世紀の製鉄関係遺構が多数検出されているそうです。
製鉄遺跡は現在「東台金山公園」として保存されています。
これらの遺跡は、史跡には指定されておらず、発掘調査の後、宅地化され、余地に解説板などが設置されているのみです。

公園の一角に設置されている。
右のガラスケース内が「製鉄炉跡」、左のガラスケース内が「東台遺跡模型」。
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製鉄炉跡のガラスケース
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説明
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製鉄炉跡は奥のマンションを建設する際に発見され、移築保存したもので、奈良時代から平安時代初期に造られたと推測されています。
古代の鉄作りでは粘土で直径1m程の円筒形の炉を作り、 原料の砂鉄と燃料の木炭を投入し、長時間燃やし続けて鉄の塊を生産していました。 少し削れているような壁はその高温のために溶けてしまった炉壁と考えられています。

製鉄炉跡
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よく見ると赤っぽく錆びた鉄が見えます。
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東台遺跡模型のガラスケース
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説明
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当時の製鉄想像図
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発見された羽釜の鋳型
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8世紀の奈良時代には、「奈良の大仏」に象徴されるような大規模な国家的事業が推し進められました。
全国に国分寺や国分尼寺が建てられ、各地で瓦や須恵器(すえき)を焼く窯(かま)などが作られた工房が設けられました。
ふじみ野市でも、鉄の生産が行われていたことが東台遺跡で判明しました。
発見されたのは、砂鉄から鉄の塊(かたまり)を作るための製鉄炉(せいてつろ)が7基、燃料となる木炭を焼く窯が10基、その他、炉の原料となる粘土を採るために掘った穴や、鋳物の型となる鋳型(いがた)が見つかっています。
中でも羽釜の鋳型は直径が60センチメートルもある大型品です。

ガラスケースの中の模型
縮尺が大きくて、小さい模型のため、なかなかピンとこない。
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それで、眺めているうち、ここを訪れた人の記事に、模型に人間が居ると書かれていたのを思い出した。
肉眼では分かりにくいので、カメラでズームしてみました。
居ましたね(笑)
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この人間のサイズから、製鉄所の規模を想像しましょう。
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今は、そんな面影はまったくありませんが、
ふじみ野の地は、奈良時代には巨大製鉄コンビナートだった訳です。
燃料に困らないほどの、森林地帯だったということですね。


(了)



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サミット「東アシアの国際交流~古代から未来へ~」/高麗郡建郡1300年記念事業

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開催場所:國學院大學学術メディアセンター常磐松ホール
開催日:2016年9月3日(土)
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高麗郡建郡1300年記念事業の一つということで、聴講しました。
渋谷駅から歩いて15分ほど。金王八幡の前からだいたいの方向に見当をつけ歩いていきました。すぐに随分と高い校舎ビルが見えたので、迷わなくて済みました(笑)

学術メディアセンター
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開演前の会場風景、開演の頃にはほぼ一杯になりました。
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最初に、「高麗1300」理事長である大野松茂氏より挨拶があり、始まりました。

この日の題目
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どの場面だったか、記憶が定かでないが、このサミットの日の前日に読売新聞に載った記事の紹介があり、「縄文人のDNAを受け継いでいる人の割合が12%に過ぎない」とのことのようである。
いかにその後の渡来人が多かったかということである。

【記念講演Ⅰ:「渡来人」と日韓関係の未来】
講師:國學院大學文学部助教・山崎雅稔氏
1.渡来人・渡来文化と古代史の叙述
2.日韓の歴史学・歴史教育の対話のなかで
3.新たな日韓共通教材と渡来人

内容:渡来人研究・渡来人論が新しい日韓関係の構築にどのように寄与してきたか、90年代後半から昨今にいたる日韓両国の歴史教育の動向を振り返りつつ、今後の展望・課題に触れた。

日本での学校教育では、「日本史」において、関係する部分のみを切り取って示されるだけなので、東アジアの歴史について体系的な教育はされていない。
韓国では、高等学校選択科目として「東アジア史」の実施が決まり、その教科書作成が進んでいる。

日韓両国で、1976年頃から歴史認識を同じにし、共通の歴史教科書を作ろうとする活動があるのを初めて知った。
こういうところから、日韓関係が改善されていけば良いと切に思った。

【記念講演Ⅱ:「渡来人」と「日本人」】
講師:関東学院大大学経済学部数授・田中史生氏
1.古代の「帰化人」と近代日本
2.「帰化人」から「渡来人」へ
3.「帰化人」か「渡来人」か

内容:渡来人研究が「日本」「日本人」とは何かという問いと深く結び付いて進展した研究分野であったこと、また最新の研究成果をふまえて、今後の私たちが渡来人をどう捉えていくべきかについて考える。

いま、「帰化人」という言い方がされず、「渡来人」と言う。
面白いのは、『日本書紀』では「帰化」を用い、『古事記』や『風土記』では、「渡来」を用いている。
「帰化」という言葉は、中国の「中華思想」において使用されていた言葉だそうで、『日本書紀』のように国家という視点で視ると「帰化」となり、『古事記』のように一般人視点で視ると「渡来」となる。
それで、その見方が、戦前の日本のように極端な民族主義により、「日鮮同祖」論から「日韓併合」が正当化されてしまった。
その反省から「帰化」が、使われなくなったようだ。
言葉の持つ意味の重要さについて、考えさせられた。

【事例発表】
○代表事例発表「古代飛鳥の国づくり~土木やから見た“日本創成”~」
奈良県明日香村村長・森川裕一氏
京大卒、奈良県庁を経て、5年前村長に立候補し、当選。
飛鳥時代、都造りより前に難波津から飛鳥京まで大路造りをしたように、大陸・朝鮮半島からの情報入手に積極的だった。
現在の、飛鳥に親しんでもらうための各種取り組みの紹介。

○事例発表1「歴史と文化を学ぶ会」群馬県高崎市
理事長・結城順子氏
多胡碑(日本三大古碑の一つ)は、和銅4年(711)に多胡郡を建てた建郡碑。
2011に建郡1300年を迎え、2009年に「多胡郡設立1300年記念実行委員会」を発足したのが、今の「歴史と文化を学ぶ会」の前身。
私が所属している歴史クラブで、「多胡碑」、「山上碑」、「金井沢碑」を訪ねたことがあり、懐かしかった。

○事例発表2「信州渡来人倶楽部」長野県松本市
日本人、在日韓国人(民団系)、在日朝鮮人(総連系)、ニューカマーの4者の集まり。
「針塚古墳」(高句麗系積み石古墳)、「桜ケ丘古墳」(大伽那系古墳)があり。
「渡来人まつり」が今年で11回目。
私は、2014年に歴史クラブ行事で、松代をメインにした旅行に参加したが、そのとき長野市大室にある「大室古墳群」で、渡来人の墓と云われる大規模な古墳群を見た。
「積み石古墳」、「合掌型組石古墳」などが印象に残っているが、「この場所で?」という衝撃から、それ以来渡来人を強く意識するようになった。

○事例発表3「近江渡来人倶楽部」滋賀県大津市
代表:河 柄俊氏
在日コリアンと日本人で結成。
大津は、天智天皇が都にしたこともあり、当時渡来人が脚光を浴びていた時代でもあり、渡来人との縁が強い。
天智4年(665)に、百済の遺民400人余を近江国神崎郡に、天智8年(669)には余自信、鬼室集斯ら百済人700人余を近江国蒲生郡に移住させている。
代表が在日コリアン2世といことで、正しい歴史認識により、人権尊重、国際理解を深める活動をしていると、熱く語っていたのが印象的だった。
私は、ついこの間(8月2日~4日)に、青春18キップで湖北の渡来人系神社などを訪ね、しかも義仲寺のある膳所まで行っている。膳所は大津の一駅隣である。
もうちょっと早く知っていれば、「渡来人歴史館」、「鬼室神社」などを計画に組み入れることが出来たのにと残念だった。次回はぜひ訪ねたい。

ここで、どうしても外せない用事が夕方あったので、
「事例発表4:「百済の会」大阪府枚方市」、「事例発表5:「一般社団法人高麗1300」埼玉県日高市」は割愛した。

昼食休憩時に、国学院大博物館を見学した。
学術メディアセンターの地下一階にあります。
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展示室(資料から転載)
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ここの特色は「神道展示室」があること。「考古展示室」はとても充実していた。
時間が無くて、飛んで回っただけ。
再訪したいと思った。


(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



さきたま史跡の博物館

20160723

所在地:埼玉県行田市埼玉4834

7月16日に「古代蓮の里」に行ったあと、カミさんは初めてだというので、「さきたま古墳群」と「さきたま史跡の博物館」を案内しました。
ここは、私は何度も訪れていますが、独立して記事にしていなかったので今回過去の写真も使って記事にします。

なお「さきたま古墳群」は別に記事にしています。

その記事を読む


もちろん、「さきたま史跡の博物館」は「さきたま古墳群」の中にあります。
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駐車場から博物館に歩いていくときにあった、「埼玉県名発祥の地」の碑
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さきたま史跡の博物館
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博物館にあった埼玉古墳群の航空写真
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写真撮影は、フラッシュをたかなければOKです。

まず最初に見るのは、やはり国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてつけん)」
(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)

窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。
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1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(ただし新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1979年)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。

書かれている文字
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これを解釈すると、「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」

以下はWikipediaに載っている説明。
年代:
辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。

通説通り471年説をとるとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなる。この通説に則れば、21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となりうる。 田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。

「オホヒコ」について:
銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。

以上Wikipediaによれば、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は「雄略天皇」とされていて、「さきたま史跡の博物館」の説明も、そうなっています。

「前玉神社」の祭神が出雲系であることを考えると、「さきたま古墳群」の古代豪族は、出雲系ではないだろうかと
考えられる。氷川神社も出雲系だし、そうとすると、極めて浅学な私の勝手な想像だが、大和の中央政権とは別に、そのころはまだ関東に「大王」が居たと考えるのも面白い。
「古代の探求」は、想像の余地がものすごくあって、面白いんですね(笑)

閑話休題

国宝「画文帯環状乳神獣鏡」/稲荷山古墳
年代: 古墳時代後期
鏡の一部に赤色顔料が付着している。鏡を包んでいた布の痕跡がわずかに残る。外区には竜や虎、亀、馬車などが神仙を乗せて走っている画像。太陽や月の運行が描かれ、内区には東王父・西王母・伯牙弾琴など4人の神仙とそれらを背中に乗せる竜や虎が描かれる。中国の道教思想に基づく画像表現である。群馬県高崎市八幡観音塚古墳出土鏡・千葉県大多喜町台古墳出土鏡など5枚の同型鏡がある。
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国宝「龍文透彫帯金具」/稲荷山古墳
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説明のチラシで模様がはっきりします。
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チラシによると、このように飾っていたらしい。
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左側が馬につける旗竿金具/将軍塚古墳
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馬の冑/将軍塚古墳
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こんな風になるらしい。これは朝鮮半島でよく見られるそうで、その文化がここまで来ていたことを示します。
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ガラス玉/将軍塚古墳
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人形埴輪/瓦塚古墳
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琴を弾く男子
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「美豆良(みずら)」という古墳時代の一般的な男子の髪形
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女性の埴輪
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頭の上の四角い板状のものは「島田髷」
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楯を持つ人物
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鈴鏡を腰につける巫女
島田髷と乳房で女性であることがわかる。
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冑をかぶる武人二体
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大きな馬形埴輪
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犬形埴輪/瓦塚古墳
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水鳥形埴輪/瓦塚古墳
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きりがないので、このくらいにしましょう。

帰りがけに、「はにわの館」をのぞいてみました。
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聞いてびっくり!!
材料代が普通の量で600円。これしか、かかりません(笑)
焼くのはタダだし、スタッフが教えてくれるし。
作るのに、慣れた人で2時間半くらい。
この日は、土曜日なので家族連れなどで、沢山の人が楽しんでいました。

中にもたくさん置いてありましたが、入り口のところにもたくさん並んでいて、これを見るだけでも楽しい。
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(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



さきたま古墳群

20160721

所在地:埼玉県行田市埼玉4834付近

7月16日に「古代蓮の里」に行ったあと、カミさんは初めてだというので、「さきたま古墳群」を案内しました。
ここは、私は何度も訪れていますが、独立して記事にしていなかったので今回過去の写真も使って記事にします。
なので、季節がバラバラの写真になりますが、ご容赦のほど(笑)

埼玉古墳群は国指定史跡で、県名発祥の地「埼玉」にあります。前方後円墳が8基、円墳が2基、方墳が1基の合計11基の大型古墳を中心として、稔数40基ほどの古墳が存在していました。現在は、前方後円墳が8基、円墳が2基残っています。
 埼玉古墳群は国宝金錯銘鉄剣が出土したことで有名ですが、大型の古墳がせまい範囲に集中して築造されていることも大きな特徴です。また、5世紀後半から7世紀初め頃までの釣150年の間に次々に造られたことも特徴で、築造した豪族の勢力を物語っています。
埼玉古墳群の謎
(1) それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現われた。
(2) 東西500m、南北800mのせまい範囲の中に大型の古墳が造られた。
(3) 前方後円墳は同じ規格で築造されている。
   ・長方形の二重の堀を巡らしている。(通常、盾型)
   ・造出しは西側にある。
   ・ほぼ同じ方向を向いている。

武蔵国造の乱:第二十七代 安閑天皇即位元年甲寅(きのえとら)534年
 日本書紀に、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族小杵(おき)と、国造の地位を争ったことが記されています。争いに勝ち、武蔵国国造に任命された、笠原直使主は埼玉群笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされています。さきたまの地に突如として、畿内に匹敵する大型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓と考えることもできます。

埼玉古墳群の場所は交通の要衝地
 東日本では、交通の要衝地に大型古墳が集中する傾向にあると言われています。埼玉古墳群の場所について見ると、当時は東京湾に注いでいた利根川と利根川の支流であった荒川の合流点近くに位置していて、利根川、荒川、渡良瀬川、思川などを伝って各地と容易に連絡できる内水面交通の要衝地点でありました。

大宮台地
 埼玉古墳群は、南から延びてきていた大宮台地上に築造されました。これは発掘調査でわかっています。築造されたときは周囲より高い場所にありましたが、関東造盆地運動と呼ぼれる地殻運動によって台地が沈降し、今では周囲と変わらず平坦になっています。

各古墳の位置
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【愛宕山古墳】
駐車場から歩きだすと、まず現れるのはあまり大きくない「愛宕山古墳」
名前の由来はかって墳丘上に愛宕神社が祀られていたことによります。
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いまは三体の石仏が立っています。
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丸墓山古墳に向かって進みます。

「史跡埼玉村古墳群」の標示あり。
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石田堤
豊臣秀吉の小田原征伐の際、石田三成が忍城を水攻めにしたとき、丸墓山古墳を起点に南北に堤を築きました。その一部です。
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丸墓山古墳のふもとにあった、「埼玉村古墳群」の石碑
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【丸墓山古墳】
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日本最大規模の円墳で、埼玉古墳群の大型古墳で登ることができるのは、稲荷山古墳と丸墓山古墳のみ。
直径105メートル、高さ18.9メートル。
遺骸を納めた石室など埋葬施設の主体部は未調査だが、墳丘表面を覆っていた葺石や、円筒埴輪、人物埴輪などの埴輪類やが出土しており、これらの出土遺物の形式から築造年代は6世紀の前半と考えられている。
1985年(昭和60年)から1987年(昭和62年)にかけて墳頂部と墳丘東側を中心に整備が行われた。また、周濠の一部が復元されている。

1590年(天正18年)、小田原征伐に際して、忍城攻略の命を受けた石田三成が丸墓山古墳の頂上に陣を張った。三成は忍城を水攻めするため、丸墓山を含む半円形の石田堤を28kmほど作る。丸墓山から南に真っ直ぐ伸びている道路は、この堤の名残である。

忍城は、肉眼で辛うじてわかる。ちょうど真ん中のあたり。
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望遠ズームで撮った。
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お隣の「稲荷山古墳」がよく見える。
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反対側に降りた。
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ニッコウキスゲが咲いていた。
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【稲荷山古墳】
続いて「稲荷山古墳」に向かうと、何と!!
この日(2016.7.16)は整備工事のため、来年の3月末まで登れない(泣)
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2013年5月8日に登ったときの写真を載せておきましょう。

稲荷山古墳は、全長120m、後円部径62m、後円部高さIl・7mの2番目に大きな古墳です。後円部上に稲荷社の祠があったことから命名されました。
 稲荷山古墳は、昭和12年に前方部が削平されて、円墳のような姿になっていました。風土記の丘整備事業の一環として、昭和43年に後円部の発掘調査が行われ、2基の埋葬施設が発見されました。一つは「粘土槨」と呼ばれる竪穴の中に粘土を敷いて木棺を置いたものですが、盗掘され、出土遣物はほとんど残っていませんでした。もう一方は、「礫槨(れきかく)」で舟形に掘り込んだ竪穴に河原石を貼り付け、中央の空間に木棺を置いたものです。こちらは上に稲荷社があったためか盗掘されてなく、埋葬時の様子を完全に留めた状態で、金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土しました。
 外堀からは、多くの円筒埴輪や朝顔形埴輪、武人や巫女などの人物埴輪が出土しました。出土遺物から、古墳群中、最も古い5世紀後半から末の築造と考えられます。
 前方部は平成16年に復元されました。

上ります。
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金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土した礫槨(れきかく)発掘場所。
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こんな感じで埋葬されていました。
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金錯銘鉄剣などの出土品については、あとで「さきたま史跡の博物館」のところで説明します。

もう片方の粘土槨発掘場所。
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前方部は復元されたばかりなので、新しい感じです。そのはるか前方に富士山が見えました。
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方形部分は、後円部からいったん下がって、また上がっています。
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後円部から方形部先端まで、ゾロゾロ移動。
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降りてからの、稲荷山古墳方形部の眺め。
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稲荷山古墳横からの「丸墓山古墳」
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続いて将軍山古墳。これは稲荷山古墳の後円部から眺めたもの。
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将軍山古墳は、石室の中を見ることができます
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【将軍山古墳】
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将軍山古墳は、全長90m、復円部径39mの前方後円墳で、古墳群中4番目の大きさです。現在の墳丘は平成9年に復元されたものです。
墳丘と造出しには円筒埴輪や形象埴輪(教・盾・大刀など)が立て並べられ、土師器や須恵器が置かれていたと考えられます。
 明治27年(1894)に地元の人々によって石室が発掘され、馬具や武器、武具類、銅椀(どうわん)など豪華な謝葬品が出土しました。馬冑(ばちゆう・馬用の冑)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき・馬に装着する旗竿金具)、銅椀(どうわん)などは朝鮮半島との関わりの強い遺物です。その他に、甲冑や大刀の残片、各種馬具、ガラス玉などが出土しています。
 石室は横穴式で、天井石には緑泥片岩が、奥壁・側壁には房州石と呼ばれる千葉県富津市で産出した石材がそれぞれ使われています。出土遣物や石室の構造からみて6世紀後半の築造と考えられます。

外に置いてある埴輪も、草が茂っていてよくわからない。
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2013年9月24日に訪ねたときは、ちょうど整備された後で、埴輪がよくわかりました。

稲荷山古墳の上から見た、将軍山古墳全景
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方墳底辺の左端からの眺めが、起伏に富んでいていいですね。
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望遠でひきつけると、迫力があります。
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置かれている埴輪
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石室に入ります。
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入ると、説明のパネルあり。

整備される前の将軍山古墳。
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出土した馬装品の説明
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出土されたときの姿や出土したものの写真パネル。
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二階の石室に上がります。
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石室内部は埋葬されていた状態に復元されています。
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【二子山古墳】
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 全長138m、後円部径70m、後円部高13m、前方部高14.9mの前方後円墳で、古墳群の中でも、また武蔵国でも最大の古墳です。名称は、横から見ると二つの山のように見えることに困ります。
 周堀や墳丘の造出し周辺から、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥など)の破片、土師器や須恵器の破片か出土しています。埴輪は鴻巣市の生出塚(おいねづか)窯と東松山市の桜山窯から供給されたものです。
 築造時期は外堀の底に6世紀初頭に噴火した榛名山ニッ岳の火山灰が堆摸していることから、5世紀末と考えられます。一方、出土遺物から推定して、6世紀初頭とする説もあります。

周堀のふちに沿って歩きます。確かにデカイ。
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二子山古墳では、気になっていた堀を見に行くと、たしかに空堀になっていた。
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2013年9月24日に訪れましたが、それは少し前の朝日新聞の埼玉欄に、二子山古墳で内堀の水を抜いて埋め立て、空堀にする工事を進めているという記事がありました。それによると、浸食により墳丘外周の崩落が深刻になったためとあります。また出土した微生物の死骸から、6世紀初めに築かれたときは空堀だったと考えられており、埋め立てで当初の姿に戻るとも。

1968年に復元されたときに水堀として整備されたものだそうです。
2013年の記事にあった航空写真。
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二子山古墳の全貌
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その時は、上の図で右下隅のところから入っていきました。
内堀のところに来ると、埋め立てられてなにか作業をしています。(2013年当時)
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方墳の底辺のところですが、発掘をしている感じですね。(2013年当時)
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方墳の底辺の右端のところに戻り、内堀のまわりを人が歩けるようになっているので、反時計まわりに一周することにしました。

少し行くと、埋め立てが途切れます。こちらが早く埋め立てられたみたいで水辺には草がびっしり生えています。(2013年当時)
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円墳の端まできました。

2013年当時の、円墳の外周を囲む内堀。
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反対側まで来ると、向こうの方、方墳のところで埋め立てられているのが見えます。(2013年)
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埋め立ての端まできました。こちらは埋め立てられたばかりですね。(2013年当時)
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振り返って、円墳の周囲を眺めます。これが来年には水堀でなくなってしまうというわけです。(2013年当時)
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というわけで、さきたま古墳群のなかで、かって唯一水堀に囲まれていた「二子山古墳」は、空堀となってしまいました。
保存上、仕方ないですが、なんだか寂しい。

【浅間塚古墳・前玉神社】
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浅間塚古墳の上には、延喜式内社「前玉神社」があります。
この「前玉」⇒「埼玉(さきたま)」⇒「埼玉(さいたま)」となり、県名になっているわけです。

「前玉神社」については、既に記事にしてあります。

その記事を読む


【鉄砲山古墳】
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 全長109m、復円部径55m、復円部高9m、前方部高10.1mの前方後円墳で、この古墳の周辺に忍藩の砲術演習場があったための名称です。
 発掘調査の結果、墳丘中段に埴輪列が巡っていたことが判明しました。また、墳丘西側のくびれ部付近に、古墳の名前の由来となった忍藩の砲術演習場の遺構が見つかり、約150発の弾丸が発見されています。忍藩はもともと、和流砲術が盛んな藩であり、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航後には、江戸湾の第3台場の警備についていました。

【奥の山古墳】
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 全長70m、後円部径34m、後円部高5・6m、前方部高6・0mの前方後円墳で、埼玉古墳群中2番目に小さい古墳です。渡柳三大墳を東から見たとき、一番奥に位置します。
 造出しから、多くの須恵器片が出土し、接合作業の結果、装飾付壷や高坏形器台であることがわかりました。
このような須恵器が東日本の古墳から出土することは非常に珍しく、大変貴重な発見です。
 周堀から円筒埴輪・形象埴輪の破片も出土しています。出土遣物から、6世紀中頃から後半の築造と推定されます。
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【瓦塚古墳】
最後が、瓦塚古墳です。
全長73m、後円部径36.5m、後円部高5.1m、前方部高4.9mの前方後円墳で、平面形態を見ると、前方部が後円部に比べて大きく造られています。古墳の名前は、明治時代初期に瓦職人がこの付近に居住していたことに由来します。
 前方部前面の縁の真ん中が三角形に突き出た形状になっていて、古墳を大きく見せる効果があります。これは「剣菱形」と呼ばれる形状で、古墳時代後期の前方後円墳に見られます。剣菱形が確認されている古墳は、今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と全国でわずかです。
周堀や中堤から多量の円筒埴輪と形象埴輪(人物・馬・水鳥・鹿・犬・大刀・盾・家など)が出土しています。埴輪の他に、須恵器・土師器も出土しています。大半は造出周辺からで、高坏や提瓶(ていへい)、器台など供献用の土器であることから葬送儀礼に用いられたものと考えられます。出土遺物から、6世紀前半から中頃の築造と推定されます。
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以上で、さきたま古墳群は終りです。

参考に、さきたま古墳群に関するシンポジウム、講演会の記事を載せてありますので、よかったらご覧ください。

○シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」

その記事を読む


○さきたま将軍山古墳と上総金鈴塚古墳-出土馬具を中心に/さきたま講座

その記事を読む


○須恵器からみた埼玉古墳群の葬送儀礼/さきたま講座

その記事を読む



(了)


「お気に入りの場所」に飛ぶ



山王塚古墳発掘調査見学会

20160313

昨日、11日(土)に見学会に参加しました。
これは、2月に川越博物館で三回の講座「川越の古代」を受講したときに、博物館のチラシで知り、楽しみにしていたものです。
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まずは、見学会で配布された資料から、基礎知識を述べておきましょう。
冒頭に説明者から、この古墳は上円下方墳としては日本最大であり、現在国指定文化財の申請をしていると、説明があった。
複室の石室が存在することは分かっており、この夏に調査する予定だとか。
貴重なものが発見されればいいなと思う。

○山王塚古墳の造られた時代
 古墳は3世紀半ばから7世紀にかけて造られた高塚式のお墓です。
考古学では3世紀半ばから4世紀に造られたものを前期古墳、5世紀に造られたものを中期古墳、6世紀のものを後期古墳、7世紀を終末期古墳と呼び、時期区分しています。
これによれば、7世紀後半に造られたと考えられる山王塚古墳は終末期古墳として位置づけられます。
山王塚古墳が造られた7~8世紀は大化改新(645年)、壬申の乱(672年)を経て、日本が律令国家の建設に向け大きく揺れ動いた時代です。
この地域でも、中央の地方経営政策の一環として武蔵国への渡来人の移住がはじまり、霊亀2年(716)には高麗郡が建郡されます。
また、7世紀後半には山王塚古墳の西方を南北に貫いて古代の官道である東山道武蔵路が建設されます。
古墳の出現以来権力のシンボルとして造られ続けてきた前方後円墳は、この時代すでに築造されなくなり、各地に初期寺院が造られるようになります。この近辺では、7世紀後半に創建された勝呂廃寺(坂戸市)が有名です。
このように、旧来の体制が崩れ、新たな制度・価値観が創出される激動の時代に山王塚古墳は造られたのです。

○南大塚古墳群について
 川越市内には下小坂古墳群(小畔川左岸台地)・的場古墳群(入間川左岸台地)・仙波古墳群(仙波台地北東縁)などの古墳群があります。
これらはいずれも河川に臨む台地の縁辺に位置しています。
山王塚古墳の属する南大塚古墳群は入間川右岸にあり、台地縁辺に沿って約3kmにわたり古墳が点在しています。現在の入間川街道沿いに古墳が分布していると言うとわかりやすいでしょう。これらの古墳は大きく4つの支群に分けられます。地名をとって西方から、大袋新田支群、豊田本支群、大塚支群、豊田町支群と呼んでいます。
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現在27基の古墳が確認されていますが、開発により消滅した古墳もあり、現存するのは本来の数より少なくなっています。これまでの調査から本古墳群は、小規模な前方後円墳(南大塚4号墳)と多くの小円墳からなる群集填であり、5世紀前葉から7世紀代にかけて造られたことがわかっています。大塚支群に属する上円下方墳・山王塚古墳は最終段階の古墳と考えられ、これ以降、古墳は造られなくなります。
なぜこの場所に造られ、誰が眠っているのか、古墳時代の終りと古代の始まり、ふたつの時代をつなぐ謎を解く鍵となるのが山王塚古墳であると言えるでしょう。

○上円下方墳とは何か
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 日本が律令国家建設に向かってひた走っていた7世紀から8世紀、墓制の上でも大きな変化が起こりました。
畿内では大王の墓として造られ続けた巨大な前方後円墳に代わり、円墳・方墳・八角形墳などが陵墓として築造されるようになります。
上円下方墳もこうした一連の流れの中で登場します。
最初の上円下方墳がいつ、どこに造られたのか、実はまだよくわかっていません。
蘇我馬子の墓ではないかと言われている石舞台古墳(奈良県明日香村・一辺 51m)は本来、上円下方墳だったとする説があります。しかし、現在は盛土が失われており確実に上円下方填であったかどうかははっきりしません。古墳の形が被葬者の身分や職掌を表し、上円下方墳という形が有力な支配者層にのみ許された墳形であるとするならば、その後各地に造られる上円下方墳のモデルとなる最初の上円下方墳は近畿地方のどこかに眠っているのかも知れません。
7世紀後半、関東地方では横穴式石室を埋葬施設とした大型の上円下方墳が築造されます。
武蔵府中熊野神社古墳(東京都府中市・一辺 32m)は全長9m、天文台構内古墳(東京都三鷹市・一辺 30m)は全長7m、ともに切石切組・複室構造の長大な横穴式石童をもちます。また、墳丘には2つのタイプがあり、武蔵府中熊野神社古墳は墳丘を葺石で覆い、天文台構内古墳は地山から下方部を削り出し、墳丘は土が剥き出しのままです。山王塚古墳は天文台構内古墳と類似した構造をもつこの時期最大の上円下方墳と考えられます。

見学会は14時から始まりました。
寒いなか、ずいぶんと見学者が集まりました。
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二つの班に分かれて見学が開始され、私の班は、出土品の説明⇒7号トレンチ⇒8号⇒4号⇒5号⇒6号の順に説明を受けた。
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出土品:
近くの南大塚8号墳より出土した「埴輪」
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同じく南大塚8号墳より出土の「直刀」
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南大塚8号墳より出土の「刀柄頭の一部」
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南大塚8号墳より出土の「刀鞘の一部」
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山王塚古墳より出土品
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○7号トレンチ
現在の山王塚の参道が多より少し高くなっているが、古墳当初からのものか、後から参道が造られたのかの調査。

地山を掘り残して作った陸橋(ブリッジ)が確認できた。古墳時代のもの。
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両端(白線より外)は溝が掘られたため、明らかに違う土が埋まっている。
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○8号トレンチ
周溝のコーナーの調査
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掘り込みは浅くゆるやかで、この辺は結構雑に造られていた?
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○4号トレンチ
上円下方墳の断面と作り方を調査
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周堀の立ち上がりは、以前の発掘調査では明瞭だったが、今回のこのトレンチの場所は江戸時代に掘られた溝で壊され不明瞭。
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下方部断面
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上円部の、古墳築造時の地表(一番下の黒土)、斜めに盛られている上円部の版築(赤土)がはっきりわかる。
赤土は周溝を掘って得たものを盛っている。
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○5号トレンチ
同じく、反対側の上円下方墳の断面と作り方を調査。
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赤土と黒土を交互に積んで上円部を造っている。
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○6号トレンチ
堀の外縁の確認
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堀の外縁に窪地が掘られている。堀との関連性は今後検討。
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これで、見学会は終了。
今回の見学で、上円部の版築の方法がよくわかったのは収穫だった。
国指定の文化財になればいいと思った。

場所の確認などで、2月に事前に訪れていたので、その時に撮っておいた、山王様などをここで紹介しておく。

山王塚の全景
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山王塚の説明板
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鳥居
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塚の頂上の状態
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山王さま
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山王様のお使いの猿が左右に侍る。
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近くに、寛文12年(1672)造立の庚申塔がある。
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三猿の下に蓮が彫られている。
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(了)


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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