上立神岩(かみたてがみいわ)
20200402
所在地:兵庫県 南あわじ市沼島
撮影日:2020年3月22日
「古事記」、「日本書紀」の神代巻、いわゆる“記紀神話”によると、天つ神がイザナギの命、イザナミの命の二神に神聖な沼矛(ぬぼこ)を授け、国造りを命じました。
この二神は、まず、天の浮橋に立ち、授かった矛で、混沌とした世界をかき回しました。 潮をゴロゴロと鳴らし、引き上げた矛の先から、落ちた雫が固まって島となりました。
これがオノコロ島です。
この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。 その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱がこの上立神岩だといわれています。
古事記の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「淤能碁呂島」の段:
(現代語訳)
そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。
「二神の国生み」の段:
そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。
(以下省略)
私は、市民大学の歴史講座を受講しましたが、その2年目研究コースで何か個人テーマを持てと言われ、ちょうど古事記編纂1300年の年だったので、住んでいる市にある神社の祭神を調べ上げ、その神が古事記でどう描かれているかまとめました。
それが現在取り組んでいる、全国規模での神社巡拝のスタート地点です。
古事記編纂1300年ということで、その年には色々な雑誌で特集記事が組まれました。
その際に、必ずと言っていいほど最初に登場するのが、上立神岩の写真でした。
この上立神岩を実際に見たいというのが念願でしたが、今回それがかなうことになりました。
今回の「青春18キップの旅」の最初の目的地が、上立神岩です。
「ムーンライトながら」で5:45に大垣に着き、そこから電車で舞子に行き、そこから高速バスで鳴門に着き、レンタカーを借りて、沼島を目指しました。
レンタカーのナビが示す到着時間が、沼島に渡る船の出発時間に対して30分余裕を示していたので、慌てないで行くことができた。
走っていて、沼島が見えたので大変嬉しくなった。

「沼島汽船㈱土生待合所」の駐車場に車を停め、乗船券を購入して待つことしばし、船に乗り込みます。


10分ほどで沼島に

沼島に上陸

沼島の案内図
港から、しばらく町の平地を歩き、それからダラダラと長い登り坂を上がって、上がりきったら、そこから急坂を下って上立神岩の展望所に着きます。

上立神岩に向かい、歩き出す。

沼島には600人ほどが暮らしているそうで、しばらくは町の中を歩く。
弁天社の横を過ぎ

右手に、船溜まりを見ながら歩く。


沼島八幡宮の前を過ぎ

神宮寺の前を通り

沼島中学校の前に出た。


こういう案内板が頼り。

ここから細い道を、ひたすら登ります。



テッペンが見えた(嬉)・・・・ハアハアハア

いちばん高いところに来たが、ここからは上立神岩が見えないんですね。
四国や和歌山半島が見えるはずなんですが、この日は春霞がひどくて、まったく見えなかった。

ここから、つづら折りを降りていきます。

突き当たりの折り返しに、説明板が。


折り返しの下り坂の先に、上立神岩が見えた!!
初見です(嬉)

下って、更に折り返す。

ここから、ツルツルに整備されて逆に怖い、急な下り坂となる。

下がりきると、左に階段で少し降りたところが、展望所です。

上立神岩の雄姿です!!!


主として緑泥片岩だということですが、モロそうで、とても永遠に立っていてくれそうには見えない。


この日渡船には30人ほど乗っていて、私は一目散にここを目指したが、負けじとついて来たのは若い人ばかりだった(笑)


次々回の記事で、ジオサイトとしての沼島を記事にするが、上立神岩の周りにも面白い岩ばかりだった。



「平バエ」も見えている。

沖では、漁をしていた。


渡船から上立神岩までを、動画でも撮ったので、ユーチューブにアップしました。
それを見てください。
その動画を見る
念願の上立神岩をしばらく悦びにひたって見ていたが、渡船の時間に間に合うように、自凝(おのころ)神社にも参拝しなければならないので、急いで向かった。
「自凝(おのころ)神社」の記事を見る
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撮影日:2020年3月22日
「古事記」、「日本書紀」の神代巻、いわゆる“記紀神話”によると、天つ神がイザナギの命、イザナミの命の二神に神聖な沼矛(ぬぼこ)を授け、国造りを命じました。
この二神は、まず、天の浮橋に立ち、授かった矛で、混沌とした世界をかき回しました。 潮をゴロゴロと鳴らし、引き上げた矛の先から、落ちた雫が固まって島となりました。
これがオノコロ島です。
この島にイザナギ・イザナミの二神が降り立って、夫婦の契りを結び、御柱と宮殿を建て、国土造成を されました。 その舞台であるオノコロ島が、沼島となされています。
イザナギ・イザナミの二神が、周囲をまわり、夫婦の契りを結んだ天の御柱がこの上立神岩だといわれています。
古事記の「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「淤能碁呂島」の段:
(現代語訳)
そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。
「二神の国生み」の段:
そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。
(以下省略)
私は、市民大学の歴史講座を受講しましたが、その2年目研究コースで何か個人テーマを持てと言われ、ちょうど古事記編纂1300年の年だったので、住んでいる市にある神社の祭神を調べ上げ、その神が古事記でどう描かれているかまとめました。
それが現在取り組んでいる、全国規模での神社巡拝のスタート地点です。
古事記編纂1300年ということで、その年には色々な雑誌で特集記事が組まれました。
その際に、必ずと言っていいほど最初に登場するのが、上立神岩の写真でした。
この上立神岩を実際に見たいというのが念願でしたが、今回それがかなうことになりました。
今回の「青春18キップの旅」の最初の目的地が、上立神岩です。
「ムーンライトながら」で5:45に大垣に着き、そこから電車で舞子に行き、そこから高速バスで鳴門に着き、レンタカーを借りて、沼島を目指しました。
レンタカーのナビが示す到着時間が、沼島に渡る船の出発時間に対して30分余裕を示していたので、慌てないで行くことができた。
走っていて、沼島が見えたので大変嬉しくなった。

「沼島汽船㈱土生待合所」の駐車場に車を停め、乗船券を購入して待つことしばし、船に乗り込みます。


10分ほどで沼島に

沼島に上陸

沼島の案内図
港から、しばらく町の平地を歩き、それからダラダラと長い登り坂を上がって、上がりきったら、そこから急坂を下って上立神岩の展望所に着きます。

上立神岩に向かい、歩き出す。

沼島には600人ほどが暮らしているそうで、しばらくは町の中を歩く。
弁天社の横を過ぎ

右手に、船溜まりを見ながら歩く。


沼島八幡宮の前を過ぎ

神宮寺の前を通り

沼島中学校の前に出た。


こういう案内板が頼り。

ここから細い道を、ひたすら登ります。



テッペンが見えた(嬉)・・・・ハアハアハア

いちばん高いところに来たが、ここからは上立神岩が見えないんですね。
四国や和歌山半島が見えるはずなんですが、この日は春霞がひどくて、まったく見えなかった。

ここから、つづら折りを降りていきます。

突き当たりの折り返しに、説明板が。


折り返しの下り坂の先に、上立神岩が見えた!!
初見です(嬉)

下って、更に折り返す。

ここから、ツルツルに整備されて逆に怖い、急な下り坂となる。

下がりきると、左に階段で少し降りたところが、展望所です。

上立神岩の雄姿です!!!


主として緑泥片岩だということですが、モロそうで、とても永遠に立っていてくれそうには見えない。


この日渡船には30人ほど乗っていて、私は一目散にここを目指したが、負けじとついて来たのは若い人ばかりだった(笑)


次々回の記事で、ジオサイトとしての沼島を記事にするが、上立神岩の周りにも面白い岩ばかりだった。



「平バエ」も見えている。

沖では、漁をしていた。


渡船から上立神岩までを、動画でも撮ったので、ユーチューブにアップしました。
それを見てください。
その動画を見る
念願の上立神岩をしばらく悦びにひたって見ていたが、渡船の時間に間に合うように、自凝(おのころ)神社にも参拝しなければならないので、急いで向かった。
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鳥の上遺跡発掘現場見学
20200303
所在地:埼玉県狭山市柏原鳥の上
見学日:2020年2月12日
この上に大規模な工場が建てられるため、市の社会教育課にて発掘調査中の遺跡を、私が所属している歴史クラブで見学を企画しました。
参加者は47名でした。
この調査は狭山工業団地拡張地区基盤整備事業の一環で、奈良平安時代(約1,300年前)の集落跡が多数検出されていて、狭山市の遺跡発掘規模としては最大規模となりました。
2018年5月から発掘調査が始まり、発掘調査は終盤にかかっているようです。
遺跡の場所

発掘の担当者から、概略の説明があった。


〇遺跡の時代:奈良・平安時代(8世紀から9世紀ごろ)
〇発掘された遺構
・竪穴住居跡・・・当時の東日本では一般的な住居。地面を掘り、茅葺き屋根などで覆った造りの住居。
・掘立柱建物跡・・・複数本の柱を建てて作られた建物。倉庫などに使用されていた。
・土壙(どこう)・・・方形または円形に掘られた穴。落とし穴や食料などの貯蔵、墓、トイレなど。
〇発掘された遺物
・須恵器すえき・・・現代で言うお茶碗。ロクロで作成され、窯で焼かれたものです。
・土師器はじき・・・現代で言うなべ。煮炊き用の器。ロクロを使わず、輪積みで器の形を作り、野焼きで焼いたもの。
・紡錘車(ぼうすいしゃ)・・・糸をつむぐために使用された器具。鉄製や石製のものがあります。
・刀子とうす・・・鉄製の小刀。現代で言うナイフ。
発掘されたものの一部を見せていただいた。

内黒土器が出土しました。博物館に展示されている「群厨」と書かれた土器と同じように、内側が真っ黒に加工されている。


出土した甕


面白い形の器

須恵器


紡錘車(ぼうすいしゃ)の部品

発掘調査は、関東ローム層(赤土)の上面まで剥いでいき、遺構を検出していきます。

発掘調査の規模はすごく広いのに驚いた。この広い所に一つの工場が建つのだという。


遺跡は、土が黒いところを探すわけですが、黒くても耕作土の場合があります。
これはゴボウトレンチの跡(笑)

落とし穴


立柱建物跡


火事があった痕跡が残る住居跡

燃えた柱が倒れて埋まっていた。


床面が二段になった住居跡


カマド跡

発掘作業中




見学会のために発掘された土器をまだ置いてくれていた。



これもそう。

大きな建物跡を発掘中


ここが入り口らしい。

周囲の溝が二重になっている住居跡
これは、住居を建て直して再利用している。

左側にカマド跡

この土塁みたいになっているのは、左右の場所で堀った土を積んだ結果。

左右に発掘場所が広がっている。


発掘後しばらくすると、風が土を運んで、このように埋まってしまう。

この遺跡は、小屋、倉庫がく、何らかの作業集団が住んだ跡だということで、可能性の一つとして、近くの東金子窯など国分寺瓦を焼く窯に燃料を供給する基地だったのではないかとの推測のお話があった。
ここは、入間川の河岸段丘の上で、雑木林が生い茂っていたところなので、うなづけるお話だった。
今回の見学は、発掘途中の状態を見せていただくことで、非常に有意義なものだった。
この見学を踏まえて、3月11日の歴史クラブ定例会で、この発掘の担当者の方から講演をしていただける予定になっていた。
ところが、定例会にはいつも70名ほど出席するのだが、新型コロナウィルス蔓延防止対策で、いつも使用している会場が閉鎖されてしまっているのと、集会自体好ましくない状況なので、待ち望んでいた講演が開かれなくなってしまった(泣)
いずれ、機会が許すときに、講演をしていただくつもりであり、それが待ち遠しい。
(了)
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見学日:2020年2月12日
この上に大規模な工場が建てられるため、市の社会教育課にて発掘調査中の遺跡を、私が所属している歴史クラブで見学を企画しました。
参加者は47名でした。
この調査は狭山工業団地拡張地区基盤整備事業の一環で、奈良平安時代(約1,300年前)の集落跡が多数検出されていて、狭山市の遺跡発掘規模としては最大規模となりました。
2018年5月から発掘調査が始まり、発掘調査は終盤にかかっているようです。
遺跡の場所

発掘の担当者から、概略の説明があった。


〇遺跡の時代:奈良・平安時代(8世紀から9世紀ごろ)
〇発掘された遺構
・竪穴住居跡・・・当時の東日本では一般的な住居。地面を掘り、茅葺き屋根などで覆った造りの住居。
・掘立柱建物跡・・・複数本の柱を建てて作られた建物。倉庫などに使用されていた。
・土壙(どこう)・・・方形または円形に掘られた穴。落とし穴や食料などの貯蔵、墓、トイレなど。
〇発掘された遺物
・須恵器すえき・・・現代で言うお茶碗。ロクロで作成され、窯で焼かれたものです。
・土師器はじき・・・現代で言うなべ。煮炊き用の器。ロクロを使わず、輪積みで器の形を作り、野焼きで焼いたもの。
・紡錘車(ぼうすいしゃ)・・・糸をつむぐために使用された器具。鉄製や石製のものがあります。
・刀子とうす・・・鉄製の小刀。現代で言うナイフ。
発掘されたものの一部を見せていただいた。

内黒土器が出土しました。博物館に展示されている「群厨」と書かれた土器と同じように、内側が真っ黒に加工されている。


出土した甕


面白い形の器

須恵器


紡錘車(ぼうすいしゃ)の部品

発掘調査は、関東ローム層(赤土)の上面まで剥いでいき、遺構を検出していきます。

発掘調査の規模はすごく広いのに驚いた。この広い所に一つの工場が建つのだという。


遺跡は、土が黒いところを探すわけですが、黒くても耕作土の場合があります。
これはゴボウトレンチの跡(笑)

落とし穴


立柱建物跡


火事があった痕跡が残る住居跡

燃えた柱が倒れて埋まっていた。


床面が二段になった住居跡


カマド跡

発掘作業中




見学会のために発掘された土器をまだ置いてくれていた。



これもそう。

大きな建物跡を発掘中


ここが入り口らしい。

周囲の溝が二重になっている住居跡
これは、住居を建て直して再利用している。

左側にカマド跡

この土塁みたいになっているのは、左右の場所で堀った土を積んだ結果。

左右に発掘場所が広がっている。


発掘後しばらくすると、風が土を運んで、このように埋まってしまう。

この遺跡は、小屋、倉庫がく、何らかの作業集団が住んだ跡だということで、可能性の一つとして、近くの東金子窯など国分寺瓦を焼く窯に燃料を供給する基地だったのではないかとの推測のお話があった。
ここは、入間川の河岸段丘の上で、雑木林が生い茂っていたところなので、うなづけるお話だった。
今回の見学は、発掘途中の状態を見せていただくことで、非常に有意義なものだった。
この見学を踏まえて、3月11日の歴史クラブ定例会で、この発掘の担当者の方から講演をしていただける予定になっていた。
ところが、定例会にはいつも70名ほど出席するのだが、新型コロナウィルス蔓延防止対策で、いつも使用している会場が閉鎖されてしまっているのと、集会自体好ましくない状況なので、待ち望んでいた講演が開かれなくなってしまった(泣)
いずれ、機会が許すときに、講演をしていただくつもりであり、それが待ち遠しい。
(了)
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多摩川台古墳群(後半)
20191217
所在地(古墳展示室):東京都大田区田園調布一丁目63番1号
訪問日:2019年11月29日
歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で訪問しました。
コースは、東急東横線「多摩川」駅を下車、古墳の上にあるという多摩川浅間神社からスタートし、亀甲山古墳、古墳展示室、多摩川台古墳群、蓬莱山古墳を見て、田園調布駅に出ました。
前回記事では古墳展示室に入ったところまで。
今回は古墳展示室での展示の紹介からスタートします。
古墳石室を模した展示室に入る。


〇多摩川浅間神社古墳から出土したもの。
鹿形埴輪


馬形埴輪


男子埴輪


美豆良の結い方の説明があった。

女子埴輪


島田髷の結い方の説明。
以前、さきたま史跡の博物館で学芸員に説明されたことがあったが、この絵が分かりやすくていい。

〇多摩川台古墳群から出土品。

大刀、刀子、轡

小玉

勾玉

〇蓬莱山古墳からの出土品

四獣鏡

丸玉

小玉

この日は立ち寄らない観音塚古墳から珍しい「大刀形埴輪」が出土している。


近くに「埴輪製作址」が見つかっている。

復元模型

古墳の埋葬スタイルの説明

古墳の発達経過の説明があった。
4世紀

5世紀

6世紀

川越の山王古墳がここに出ていた(嬉)

7世紀

すごく勉強になる展示が多かった古墳展示室を出て、古墳群を見に行く。
よく見ると、円墳が連続しているのがわかる。

【多摩川台古墳群】

円墳の連なりの横を歩いて行く。
第何号墳と表示がある。


丘陵の上に居るので、反対側には多摩川が良く見える。
それを楽しみながら進んでいく。
上流方向が良く見える。

古墳群の説明

横を歩いて行く。

途中、切り通しの道が横切っている。

8号墳まできた。

続いて、蓬莱山古墳の縁に来た。

【蓬莱山古墳】


前方墳の部分

前方墳の真ん中辺に横切る歩道が出来ている。

円墳のほうは削られてしまって無いので、前方墳を横切る歩道に上がる。

前方墳を横切る歩道からの紅葉の樹林が美しかった。


これで、この日の見学は終了。
近くの田園調布駅まで歩きました。

この建物は現在使われていないが、ここのシンボルですよね。

歩いて来た道は、ちょうど逆光になっていていい感じだった。

今回、多摩川沿いにはたくさんの遺跡が残っていて驚いた。
調べて見ると府中のほうまで、ずっと遺跡が続いているようだ。
多摩川は遠いので、そんなに頻繁には来れないが、今後も探索を楽しみたいと思った。
(了)
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訪問日:2019年11月29日
歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で訪問しました。
コースは、東急東横線「多摩川」駅を下車、古墳の上にあるという多摩川浅間神社からスタートし、亀甲山古墳、古墳展示室、多摩川台古墳群、蓬莱山古墳を見て、田園調布駅に出ました。
前回記事では古墳展示室に入ったところまで。
今回は古墳展示室での展示の紹介からスタートします。
古墳石室を模した展示室に入る。


〇多摩川浅間神社古墳から出土したもの。
鹿形埴輪


馬形埴輪


男子埴輪


美豆良の結い方の説明があった。

女子埴輪


島田髷の結い方の説明。
以前、さきたま史跡の博物館で学芸員に説明されたことがあったが、この絵が分かりやすくていい。

〇多摩川台古墳群から出土品。

大刀、刀子、轡

小玉

勾玉

〇蓬莱山古墳からの出土品

四獣鏡

丸玉

小玉

この日は立ち寄らない観音塚古墳から珍しい「大刀形埴輪」が出土している。


近くに「埴輪製作址」が見つかっている。

復元模型

古墳の埋葬スタイルの説明

古墳の発達経過の説明があった。
4世紀

5世紀

6世紀

川越の山王古墳がここに出ていた(嬉)

7世紀

すごく勉強になる展示が多かった古墳展示室を出て、古墳群を見に行く。
よく見ると、円墳が連続しているのがわかる。

【多摩川台古墳群】

円墳の連なりの横を歩いて行く。
第何号墳と表示がある。


丘陵の上に居るので、反対側には多摩川が良く見える。
それを楽しみながら進んでいく。
上流方向が良く見える。

古墳群の説明

横を歩いて行く。

途中、切り通しの道が横切っている。

8号墳まできた。

続いて、蓬莱山古墳の縁に来た。

【蓬莱山古墳】


前方墳の部分

前方墳の真ん中辺に横切る歩道が出来ている。

円墳のほうは削られてしまって無いので、前方墳を横切る歩道に上がる。

前方墳を横切る歩道からの紅葉の樹林が美しかった。


これで、この日の見学は終了。
近くの田園調布駅まで歩きました。

この建物は現在使われていないが、ここのシンボルですよね。

歩いて来た道は、ちょうど逆光になっていていい感じだった。

今回、多摩川沿いにはたくさんの遺跡が残っていて驚いた。
調べて見ると府中のほうまで、ずっと遺跡が続いているようだ。
多摩川は遠いので、そんなに頻繁には来れないが、今後も探索を楽しみたいと思った。
(了)
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多摩川台古墳群(前半)
20191216
所在地(古墳展示室):東京都大田区田園調布一丁目63番1号
訪問日:2019年11月29日
歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で訪問しました。
コースは、東急東横線「多摩川」駅を下車、古墳の上にあるという多摩川浅間神社からスタートし、亀甲山古墳、古墳展示室、多摩川台古墳群、蓬莱山古墳を見て、田園調布駅に出ました。
下図で、下から上に上がっていくコースです。

多摩川浅間神社が⑮、亀甲山古墳が④、古墳展示室がB、蓬莱山古墳が㉘。

【多摩川浅間神社】
駅から歩いて数分で、横からの入り口あり。そこに浅間神社の由緒が書かれていた。


社号標

社号標の台石には、ポットホールが幾つも見られた。たぶんこの石は多摩川の流れによって形造られたものだろう。

入口に面白いもの発見!
「大祓詞」を刻んだ石の車を回転させれば、「大祓詞」を唱えたことになるとのこと。
お寺で見かける「マニ車(転経器)」みたいなものだが、神社にこれがあるのは、初めて見た。


石段を上がると富士塚がある。「多摩川富士塚」と呼ばれている。
古墳の上に神社を建て、円墳の傾斜部分を利用して富士塚にしたようです。古墳は5世紀末から6世紀初頭のもので、神社の創建は「鎌倉時代の文冶年間(1185年~90年)と伝えられている。
前方部先端は切り通しで無くなっていますが、墳丘築造企画の復元から全長約00m、後円部径約32m、前方部幅約30mの規模が想定されています。
かって後円部が削平された際、横穴式石室の存在は確認されていないため、埋葬施設は竪穴式の構造だったと思われます。また、填丘の多摩川側斜面を中心に円筒形埴輪・朝顔形埴輪・人物(男子)形埴輪・鹿形埴輪・馬形埴輪などが出土し、豊富な種類の形象埴輪を伴う埴輪列の存在が考えられます。
荏原(台)古墳群の内、野毛古墳群に大形円墳が造られた後、再び田園調布古墳群に前方後円墳が築造されるようになりますが、その再出発の始まりとなったのがこの古墳といえます。
円墳の一部である富士塚に登る。


五合目の「小御岳石尊」の石碑

八合目の烏帽子岩「食行身禄之碑」は勝海舟の直筆。

二の鳥居

境内社
小御嶽神社・稲荷神社・三峰神社・阿夫利神社

小さな狛犬が可愛い。


拝殿

大正3年(1914)奉納の狛犬



本殿は、富士宮の富士山本宮浅間大社と同じ、二階建ての「浅間大社造り」であった。

境内に素晴らしい展望台があった。

多摩川の上流

多摩川の下流

この日は富士山が綺麗に見えた。
東横線の電車と一緒に。


前方後円墳の現在の全景は、あるいは多摩川河原のほうから眺めれば少しは分かったかもしれないが、時間の関係で次に向かって歩いていく。
これが前方墳部分か。

【亀甲山(かめのこやま)古墳】
大田区の「原始・古代の遺跡ガイドブック」から:
墳形がカメの姿に似た山に見えたため、古くから亀甲山の他、亀塚、亀塚山、亀ノ甲山、亀山などとも呼ばれてきました。カメノコを亀甲と漢字で表記するため「きっこうさん(やま)」と呼ばれることもあります。また、西岡46号古墳とも言われます。宝莱山古墳とは小さな谷を隔てて向き合い、多摩川を南に見下ろす台地上に位置しています。後に、両古墳の間に多摩川台古墳群が築造されます。
墳丘築造企画の復元により、全長107.25m、前方部幅49.5m、同高さ約7.5m、後円部径餌m、同高さ約10mの大前方後円墳であることが確認されました。墳丘は後円都南端が削られている他はほぼ原形を保っています。国史跡。
実測以外の調査はまだされていないため、出土遺物もなく、正確な築造時期は不明です。しかし、(1)宝莱山古墳と向き合う位置で、同じ台地上にあること、(2)前方部先端の幅が広がらず、高さも復円部より低い古式の墳形ですが、前方部の広がりは宝莱山古墳よりも大きいこと、(3)青石や埴輪を持たないこと、といった点から、宝莱山古墳の次の世代の首長墓ではないかと考えられています。
多摩川台公園に上がる。

公園内の亀甲山古墳に沿って歩いて行き、くびれ部分に説明板があり。


前方墳の縁に立つと、シルエットがなんとか判った。

ガイドブックに記載の写真から、このような全景だとわかる。

【古墳展示室】
四世紀から七世紀にかけて作られた古墳という巨大な墓が実物大のレプリカで再現されている。これは、関東地方で六世紀に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部ということで、具体的にどの古墳の石室というわけではないようだ。多摩川台古墳からの出土品の多くは東京都江戸東京博物館にあり、ここにはレプリカが展示されている。
入場無料。

入ってすぐ左側に、この辺の地形模型がある。

多摩川のすぐ横の段丘部分が今回訪ねているところ。
「S」が、今日のスタート地点「多摩川浅間神社」

出土品の展示は、この墳丘石室の中。

そこに入る前、面白い展示があった。
よく、「墓前祭」の埴輪が出土しているが、それを当時の服装で再現していた。


大刀を持つ女


巫女


新首長


琴をひく男


太鼓をたたく男


この辺の出土品を展示している再現された墳丘石室に入るわけですが、そこからは次回の記事で。
(以降は次回の記事で)
続きを見る
「お気に入りの場所」に飛ぶ
訪問日:2019年11月29日
歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で訪問しました。
コースは、東急東横線「多摩川」駅を下車、古墳の上にあるという多摩川浅間神社からスタートし、亀甲山古墳、古墳展示室、多摩川台古墳群、蓬莱山古墳を見て、田園調布駅に出ました。
下図で、下から上に上がっていくコースです。

多摩川浅間神社が⑮、亀甲山古墳が④、古墳展示室がB、蓬莱山古墳が㉘。

【多摩川浅間神社】
駅から歩いて数分で、横からの入り口あり。そこに浅間神社の由緒が書かれていた。


社号標

社号標の台石には、ポットホールが幾つも見られた。たぶんこの石は多摩川の流れによって形造られたものだろう。

入口に面白いもの発見!
「大祓詞」を刻んだ石の車を回転させれば、「大祓詞」を唱えたことになるとのこと。
お寺で見かける「マニ車(転経器)」みたいなものだが、神社にこれがあるのは、初めて見た。


石段を上がると富士塚がある。「多摩川富士塚」と呼ばれている。
古墳の上に神社を建て、円墳の傾斜部分を利用して富士塚にしたようです。古墳は5世紀末から6世紀初頭のもので、神社の創建は「鎌倉時代の文冶年間(1185年~90年)と伝えられている。
前方部先端は切り通しで無くなっていますが、墳丘築造企画の復元から全長約00m、後円部径約32m、前方部幅約30mの規模が想定されています。
かって後円部が削平された際、横穴式石室の存在は確認されていないため、埋葬施設は竪穴式の構造だったと思われます。また、填丘の多摩川側斜面を中心に円筒形埴輪・朝顔形埴輪・人物(男子)形埴輪・鹿形埴輪・馬形埴輪などが出土し、豊富な種類の形象埴輪を伴う埴輪列の存在が考えられます。
荏原(台)古墳群の内、野毛古墳群に大形円墳が造られた後、再び田園調布古墳群に前方後円墳が築造されるようになりますが、その再出発の始まりとなったのがこの古墳といえます。
円墳の一部である富士塚に登る。


五合目の「小御岳石尊」の石碑

八合目の烏帽子岩「食行身禄之碑」は勝海舟の直筆。

二の鳥居

境内社
小御嶽神社・稲荷神社・三峰神社・阿夫利神社

小さな狛犬が可愛い。


拝殿

大正3年(1914)奉納の狛犬



本殿は、富士宮の富士山本宮浅間大社と同じ、二階建ての「浅間大社造り」であった。

境内に素晴らしい展望台があった。

多摩川の上流

多摩川の下流

この日は富士山が綺麗に見えた。
東横線の電車と一緒に。


前方後円墳の現在の全景は、あるいは多摩川河原のほうから眺めれば少しは分かったかもしれないが、時間の関係で次に向かって歩いていく。
これが前方墳部分か。

【亀甲山(かめのこやま)古墳】
大田区の「原始・古代の遺跡ガイドブック」から:
墳形がカメの姿に似た山に見えたため、古くから亀甲山の他、亀塚、亀塚山、亀ノ甲山、亀山などとも呼ばれてきました。カメノコを亀甲と漢字で表記するため「きっこうさん(やま)」と呼ばれることもあります。また、西岡46号古墳とも言われます。宝莱山古墳とは小さな谷を隔てて向き合い、多摩川を南に見下ろす台地上に位置しています。後に、両古墳の間に多摩川台古墳群が築造されます。
墳丘築造企画の復元により、全長107.25m、前方部幅49.5m、同高さ約7.5m、後円部径餌m、同高さ約10mの大前方後円墳であることが確認されました。墳丘は後円都南端が削られている他はほぼ原形を保っています。国史跡。
実測以外の調査はまだされていないため、出土遺物もなく、正確な築造時期は不明です。しかし、(1)宝莱山古墳と向き合う位置で、同じ台地上にあること、(2)前方部先端の幅が広がらず、高さも復円部より低い古式の墳形ですが、前方部の広がりは宝莱山古墳よりも大きいこと、(3)青石や埴輪を持たないこと、といった点から、宝莱山古墳の次の世代の首長墓ではないかと考えられています。
多摩川台公園に上がる。

公園内の亀甲山古墳に沿って歩いて行き、くびれ部分に説明板があり。


前方墳の縁に立つと、シルエットがなんとか判った。

ガイドブックに記載の写真から、このような全景だとわかる。

【古墳展示室】
四世紀から七世紀にかけて作られた古墳という巨大な墓が実物大のレプリカで再現されている。これは、関東地方で六世紀に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部ということで、具体的にどの古墳の石室というわけではないようだ。多摩川台古墳からの出土品の多くは東京都江戸東京博物館にあり、ここにはレプリカが展示されている。
入場無料。

入ってすぐ左側に、この辺の地形模型がある。

多摩川のすぐ横の段丘部分が今回訪ねているところ。
「S」が、今日のスタート地点「多摩川浅間神社」

出土品の展示は、この墳丘石室の中。

そこに入る前、面白い展示があった。
よく、「墓前祭」の埴輪が出土しているが、それを当時の服装で再現していた。


大刀を持つ女


巫女


新首長


琴をひく男


太鼓をたたく男


この辺の出土品を展示している再現された墳丘石室に入るわけですが、そこからは次回の記事で。
(以降は次回の記事で)
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「お気に入りの場所」に飛ぶ
古座川の一枚岩、串本・橋杭岩
20190507
青春18キップ・紀伊半島の旅の三日目最終日、3月20日です。
前夜紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊、熊野古道「大門坂」を歩き、熊野那智大社に参拝した後紀伊勝浦駅に戻り、電車で串本駅に移動、駅前でレンタカーを借りました。
1400万年前の巨大カルデラ噴火の痕跡である、「古座川の一枚岩」と「橋杭岩」を廻るためです。
1400万年前の巨大カルデラ噴火については、既に「熊野カルデラについて」という記事をアップしています。
その記事を見る
串本駅前でレンタカーを借りて出発したのが11時半、30分ほどで古座川の一枚岩に到着。
【古座川の一枚岩】
所在地:和歌山県東牟婁郡古座川町
高さ約150m、幅は資料によって500mとあったり、800mとあったりしますが、とにかく大きい一枚の巨岩。
国指定の天然記念物です。
一枚の岩盤としては佐渡島の大野亀(高さ約167m)や屋久島の千尋の滝(高さ約200m、幅約400m)などとともに日本最大級とされる。
石質は「古座川弧状岩脈」と呼ばれる、流紋岩質凝灰岩で、均質かつ硬く固結しているため、風化・浸食せず残ったと考えられている。
どのような地質であっても通常の場合形成された岩体は、断層、節理、風化などによって大きな岩体のまま残存することは少なく、このような巨大な一枚岩は稀であることから、1941年(昭和16年)12月13日に国の天然記念物に指定された。
「古座川弧状岩脈」の流紋岩質火砕岩で出来た巨大な岩壁です。約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたる「古座川弧状岩脈」が形成されました。
火砕岩は、マグマが地上に噴き出す寸前に地下で固まったガラス質の火山岩の一種。
車を走らせてくると、目の前に大岩壁が飛び込んできて圧倒される。
古座川を挟んだ対岸に「道の駅 一枚岩」があり、そこの駐車場に車を停める。
左側の建物が道の駅。

12時頃に着いたわけだが、ここでショッキングなことが。
道の駅のレスランで昼食を食べようと思っていたのに、この日は定休日だった(泣)
気を取り直して、河原に降りて屏風のようにそそり立つ大岩壁を仰ぎ見る。
この辺では全部がカメラに納めきれない。

大きな割れ目があり、ここから左が2/3、右が1/3くらい。

伝説があり、昔、太地の岩が大好物の魔物が居り、岩の多い古座川流域の下流から岩を食い荒らしていったが、一枚岩に喰らいついたとき、蔵土の飼い犬に追われ、犬が嫌いだった魔物は逃げ去ったという伝説が伝わる。
一枚岩の大きな縦に通る凹みは、このときの魔物の歯型であると伝わり、雨が降り続いた時に上の池から水が溢れでて流れ出ると出現する「陰陽の滝」は、魔物の悔し涙が流れ落ちたものであると伝えられる。
大きな割れ目の左側


植物がしがみついている。

雨で出現する滝の跡

大きな割れ目の右側

流紋岩質火砕岩の岩肌


岩面に白っぽく丸い形をしたものがありますが、これは地衣類の一種のヘリトリゴケ。
年に0.1㎜~1.0㎜ずつ成長することがわかっており、日本国内はもちろん、世界最大級といえるものもあるそうです。巨大なものでは1m以上に達するものもあることが調査で分かっているそうです。

しばらく腰を降ろして巨大な岸壁を眺めた後、場所を移動して全景を眺めました。
まずは上流側から。




下流側からは、ちょうど古座川にかかる橋の上から眺めることが出来ます。






古座川の一枚岩から橋杭岩に移動いるときに、レストランを探しながら行ったが、見つからないまま「道の駅 くしもと橋杭岩」に到着。
道を挟んだ向かいにお蕎麦屋さんがあったので、そこに入り「こんぶ蕎麦」と「めはり寿司」を食べた。
とろろ昆布が載ったお蕎麦で美味しかった。
実は「めはり寿司」が食べたくて探してたのだが、旅の最後にやっと食べることが出来た。
美味しかった(嬉)
【串本・橋杭岩】
所在地:和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川1549
約1500万年前~1400万年前に地下から上昇したマグマが、熊野層群に貫入した石英斑岩の岩脈です。岩脈が崩壊して波食棚に散在する漂礫は、巨大地震による津波で運ばれたとされています。
橋杭岩も、日本の地質百選『古座川弧状岩脈』に含まれます。
串本町の大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西一列におよそ850メートルもの長きにわたって連続してそそり立っている。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また干潮時には岩の列中ほどに附属する弁天島まで歩いて渡ることができる。
吉野熊野国立公園に属しており、国の名勝や国の天然記念物の指定も受け観光名所となっている。また橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。


橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くにまで転がっているものもある。これらの岩は宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないかという調査結果が出ている。その証左として、元々湿ったところを好む植物・生物が死滅し、化石になったものが表面上に残っており、それらを調査したところ、宝永地震の起こった1700年代であることが明らかになっている。また、橋杭岩に散らばっている岩が動くのには秒速4メートル以上の速い流れ(流速)が必要とされ、これもこの地域で頻繁に襲来する台風から起こる波や同じく震源域に近い東南海が震源の単独地震を想定して計算された流速ではなく、東海・東南海・南海地震の連動型であった宝永地震を想定して計算された流速と一致している。

道の駅からの全景


岩の材質は石英斑岩



けっこう波が打ち付けている。

今は干潮なので、近くまで歩いて行ける状況だった。




私も行きたかったが、時間が無くて、遠くから望遠で眺めるだけ、残念だった。
さすが串本の道の駅、マグロの加工品や海産物が豊富で、良いお土産を買いこんで、急いで串本駅前に戻りレンタカーを返却。
串本駅14:50の普通電車に乗り、新宮、多気と普通電車を乗り継いで名古屋駅に21:10に到着。
「ムーンライトながら」に名古屋駅23:20に乗り込み、東京駅に5:05に到着。
青春18キップの旅は終わった。
伊勢地区と熊野三山など神社巡拝に熊野ジオパークを追加した今回の旅は大満足だった。
「お気に入りの場所」に飛ぶ
前夜紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊、熊野古道「大門坂」を歩き、熊野那智大社に参拝した後紀伊勝浦駅に戻り、電車で串本駅に移動、駅前でレンタカーを借りました。
1400万年前の巨大カルデラ噴火の痕跡である、「古座川の一枚岩」と「橋杭岩」を廻るためです。
1400万年前の巨大カルデラ噴火については、既に「熊野カルデラについて」という記事をアップしています。
その記事を見る
串本駅前でレンタカーを借りて出発したのが11時半、30分ほどで古座川の一枚岩に到着。
【古座川の一枚岩】
所在地:和歌山県東牟婁郡古座川町
高さ約150m、幅は資料によって500mとあったり、800mとあったりしますが、とにかく大きい一枚の巨岩。
国指定の天然記念物です。
一枚の岩盤としては佐渡島の大野亀(高さ約167m)や屋久島の千尋の滝(高さ約200m、幅約400m)などとともに日本最大級とされる。
石質は「古座川弧状岩脈」と呼ばれる、流紋岩質凝灰岩で、均質かつ硬く固結しているため、風化・浸食せず残ったと考えられている。
どのような地質であっても通常の場合形成された岩体は、断層、節理、風化などによって大きな岩体のまま残存することは少なく、このような巨大な一枚岩は稀であることから、1941年(昭和16年)12月13日に国の天然記念物に指定された。
「古座川弧状岩脈」の流紋岩質火砕岩で出来た巨大な岩壁です。約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたる「古座川弧状岩脈」が形成されました。
火砕岩は、マグマが地上に噴き出す寸前に地下で固まったガラス質の火山岩の一種。
車を走らせてくると、目の前に大岩壁が飛び込んできて圧倒される。
古座川を挟んだ対岸に「道の駅 一枚岩」があり、そこの駐車場に車を停める。
左側の建物が道の駅。

12時頃に着いたわけだが、ここでショッキングなことが。
道の駅のレスランで昼食を食べようと思っていたのに、この日は定休日だった(泣)
気を取り直して、河原に降りて屏風のようにそそり立つ大岩壁を仰ぎ見る。
この辺では全部がカメラに納めきれない。

大きな割れ目があり、ここから左が2/3、右が1/3くらい。

伝説があり、昔、太地の岩が大好物の魔物が居り、岩の多い古座川流域の下流から岩を食い荒らしていったが、一枚岩に喰らいついたとき、蔵土の飼い犬に追われ、犬が嫌いだった魔物は逃げ去ったという伝説が伝わる。
一枚岩の大きな縦に通る凹みは、このときの魔物の歯型であると伝わり、雨が降り続いた時に上の池から水が溢れでて流れ出ると出現する「陰陽の滝」は、魔物の悔し涙が流れ落ちたものであると伝えられる。
大きな割れ目の左側


植物がしがみついている。

雨で出現する滝の跡

大きな割れ目の右側

流紋岩質火砕岩の岩肌


岩面に白っぽく丸い形をしたものがありますが、これは地衣類の一種のヘリトリゴケ。
年に0.1㎜~1.0㎜ずつ成長することがわかっており、日本国内はもちろん、世界最大級といえるものもあるそうです。巨大なものでは1m以上に達するものもあることが調査で分かっているそうです。

しばらく腰を降ろして巨大な岸壁を眺めた後、場所を移動して全景を眺めました。
まずは上流側から。




下流側からは、ちょうど古座川にかかる橋の上から眺めることが出来ます。






古座川の一枚岩から橋杭岩に移動いるときに、レストランを探しながら行ったが、見つからないまま「道の駅 くしもと橋杭岩」に到着。
道を挟んだ向かいにお蕎麦屋さんがあったので、そこに入り「こんぶ蕎麦」と「めはり寿司」を食べた。
とろろ昆布が載ったお蕎麦で美味しかった。
実は「めはり寿司」が食べたくて探してたのだが、旅の最後にやっと食べることが出来た。
美味しかった(嬉)
【串本・橋杭岩】
所在地:和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川1549
約1500万年前~1400万年前に地下から上昇したマグマが、熊野層群に貫入した石英斑岩の岩脈です。岩脈が崩壊して波食棚に散在する漂礫は、巨大地震による津波で運ばれたとされています。
橋杭岩も、日本の地質百選『古座川弧状岩脈』に含まれます。
串本町の大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西一列におよそ850メートルもの長きにわたって連続してそそり立っている。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また干潮時には岩の列中ほどに附属する弁天島まで歩いて渡ることができる。
吉野熊野国立公園に属しており、国の名勝や国の天然記念物の指定も受け観光名所となっている。また橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。


橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くにまで転がっているものもある。これらの岩は宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないかという調査結果が出ている。その証左として、元々湿ったところを好む植物・生物が死滅し、化石になったものが表面上に残っており、それらを調査したところ、宝永地震の起こった1700年代であることが明らかになっている。また、橋杭岩に散らばっている岩が動くのには秒速4メートル以上の速い流れ(流速)が必要とされ、これもこの地域で頻繁に襲来する台風から起こる波や同じく震源域に近い東南海が震源の単独地震を想定して計算された流速ではなく、東海・東南海・南海地震の連動型であった宝永地震を想定して計算された流速と一致している。

道の駅からの全景


岩の材質は石英斑岩



けっこう波が打ち付けている。

今は干潮なので、近くまで歩いて行ける状況だった。




私も行きたかったが、時間が無くて、遠くから望遠で眺めるだけ、残念だった。
さすが串本の道の駅、マグロの加工品や海産物が豊富で、良いお土産を買いこんで、急いで串本駅前に戻りレンタカーを返却。
串本駅14:50の普通電車に乗り、新宮、多気と普通電車を乗り継いで名古屋駅に21:10に到着。
「ムーンライトながら」に名古屋駅23:20に乗り込み、東京駅に5:05に到着。
青春18キップの旅は終わった。
伊勢地区と熊野三山など神社巡拝に熊野ジオパークを追加した今回の旅は大満足だった。
「お気に入りの場所」に飛ぶ