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多摩川台古墳群(後半)

20191217

所在地(古墳展示室):東京都大田区田園調布一丁目63番1号
訪問日:2019年11月29日

歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で訪問しました。
コースは、東急東横線「多摩川」駅を下車、古墳の上にあるという多摩川浅間神社からスタートし、亀甲山古墳、古墳展示室、多摩川台古墳群、蓬莱山古墳を見て、田園調布駅に出ました。

前回記事では古墳展示室に入ったところまで。
今回は古墳展示室での展示の紹介からスタートします。

古墳石室を模した展示室に入る。
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〇多摩川浅間神社古墳から出土したもの。
鹿形埴輪
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馬形埴輪
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男子埴輪
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美豆良の結い方の説明があった。
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女子埴輪
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島田髷の結い方の説明。
以前、さきたま史跡の博物館で学芸員に説明されたことがあったが、この絵が分かりやすくていい。
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〇多摩川台古墳群から出土品。
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大刀、刀子、轡
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小玉
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勾玉
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〇蓬莱山古墳からの出土品
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四獣鏡
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丸玉
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小玉
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この日は立ち寄らない観音塚古墳から珍しい「大刀形埴輪」が出土している。
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近くに「埴輪製作址」が見つかっている。
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復元模型
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古墳の埋葬スタイルの説明
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古墳の発達経過の説明があった。

4世紀
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5世紀
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6世紀
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川越の山王古墳がここに出ていた(嬉)
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7世紀
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すごく勉強になる展示が多かった古墳展示室を出て、古墳群を見に行く。
よく見ると、円墳が連続しているのがわかる。
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【多摩川台古墳群】
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円墳の連なりの横を歩いて行く。
第何号墳と表示がある。
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丘陵の上に居るので、反対側には多摩川が良く見える。
それを楽しみながら進んでいく。
上流方向が良く見える。
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古墳群の説明
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横を歩いて行く。
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途中、切り通しの道が横切っている。
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8号墳まできた。
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続いて、蓬莱山古墳の縁に来た。
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【蓬莱山古墳】
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前方墳の部分
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前方墳の真ん中辺に横切る歩道が出来ている。
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円墳のほうは削られてしまって無いので、前方墳を横切る歩道に上がる。
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前方墳を横切る歩道からの紅葉の樹林が美しかった。
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これで、この日の見学は終了。
近くの田園調布駅まで歩きました。
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この建物は現在使われていないが、ここのシンボルですよね。
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歩いて来た道は、ちょうど逆光になっていていい感じだった。
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今回、多摩川沿いにはたくさんの遺跡が残っていて驚いた。
調べて見ると府中のほうまで、ずっと遺跡が続いているようだ。
多摩川は遠いので、そんなに頻繁には来れないが、今後も探索を楽しみたいと思った。

(了)


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多摩川台古墳群(前半)

20191216

所在地(古墳展示室):東京都大田区田園調布一丁目63番1号
訪問日:2019年11月29日

歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で訪問しました。
コースは、東急東横線「多摩川」駅を下車、古墳の上にあるという多摩川浅間神社からスタートし、亀甲山古墳、古墳展示室、多摩川台古墳群、蓬莱山古墳を見て、田園調布駅に出ました。
下図で、下から上に上がっていくコースです。
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多摩川浅間神社が⑮、亀甲山古墳が④、古墳展示室がB、蓬莱山古墳が㉘。
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【多摩川浅間神社】
駅から歩いて数分で、横からの入り口あり。そこに浅間神社の由緒が書かれていた。
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社号標
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社号標の台石には、ポットホールが幾つも見られた。たぶんこの石は多摩川の流れによって形造られたものだろう。
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入口に面白いもの発見!
「大祓詞」を刻んだ石の車を回転させれば、「大祓詞」を唱えたことになるとのこと。
お寺で見かける「マニ車(転経器)」みたいなものだが、神社にこれがあるのは、初めて見た。
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石段を上がると富士塚がある。「多摩川富士塚」と呼ばれている。
古墳の上に神社を建て、円墳の傾斜部分を利用して富士塚にしたようです。古墳は5世紀末から6世紀初頭のもので、神社の創建は「鎌倉時代の文冶年間(1185年~90年)と伝えられている。
前方部先端は切り通しで無くなっていますが、墳丘築造企画の復元から全長約00m、後円部径約32m、前方部幅約30mの規模が想定されています。
かって後円部が削平された際、横穴式石室の存在は確認されていないため、埋葬施設は竪穴式の構造だったと思われます。また、填丘の多摩川側斜面を中心に円筒形埴輪・朝顔形埴輪・人物(男子)形埴輪・鹿形埴輪・馬形埴輪などが出土し、豊富な種類の形象埴輪を伴う埴輪列の存在が考えられます。
荏原(台)古墳群の内、野毛古墳群に大形円墳が造られた後、再び田園調布古墳群に前方後円墳が築造されるようになりますが、その再出発の始まりとなったのがこの古墳といえます。

円墳の一部である富士塚に登る。
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五合目の「小御岳石尊」の石碑
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八合目の烏帽子岩「食行身禄之碑」は勝海舟の直筆。
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二の鳥居
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境内社
小御嶽神社・稲荷神社・三峰神社・阿夫利神社
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小さな狛犬が可愛い。
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拝殿
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大正3年(1914)奉納の狛犬
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本殿は、富士宮の富士山本宮浅間大社と同じ、二階建ての「浅間大社造り」であった。
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境内に素晴らしい展望台があった。
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多摩川の上流
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多摩川の下流
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この日は富士山が綺麗に見えた。
東横線の電車と一緒に。
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前方後円墳の現在の全景は、あるいは多摩川河原のほうから眺めれば少しは分かったかもしれないが、時間の関係で次に向かって歩いていく。
これが前方墳部分か。
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【亀甲山(かめのこやま)古墳】
大田区の「原始・古代の遺跡ガイドブック」から:
墳形がカメの姿に似た山に見えたため、古くから亀甲山の他、亀塚、亀塚山、亀ノ甲山、亀山などとも呼ばれてきました。カメノコを亀甲と漢字で表記するため「きっこうさん(やま)」と呼ばれることもあります。また、西岡46号古墳とも言われます。宝莱山古墳とは小さな谷を隔てて向き合い、多摩川を南に見下ろす台地上に位置しています。後に、両古墳の間に多摩川台古墳群が築造されます。
 墳丘築造企画の復元により、全長107.25m、前方部幅49.5m、同高さ約7.5m、後円部径餌m、同高さ約10mの大前方後円墳であることが確認されました。墳丘は後円都南端が削られている他はほぼ原形を保っています。国史跡。
 実測以外の調査はまだされていないため、出土遺物もなく、正確な築造時期は不明です。しかし、(1)宝莱山古墳と向き合う位置で、同じ台地上にあること、(2)前方部先端の幅が広がらず、高さも復円部より低い古式の墳形ですが、前方部の広がりは宝莱山古墳よりも大きいこと、(3)青石や埴輪を持たないこと、といった点から、宝莱山古墳の次の世代の首長墓ではないかと考えられています。

多摩川台公園に上がる。
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公園内の亀甲山古墳に沿って歩いて行き、くびれ部分に説明板があり。
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前方墳の縁に立つと、シルエットがなんとか判った。
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ガイドブックに記載の写真から、このような全景だとわかる。
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【古墳展示室】
四世紀から七世紀にかけて作られた古墳という巨大な墓が実物大のレプリカで再現されている。これは、関東地方で六世紀に造られた横穴式石室をもつ前方後円墳の後円部の一部ということで、具体的にどの古墳の石室というわけではないようだ。多摩川台古墳からの出土品の多くは東京都江戸東京博物館にあり、ここにはレプリカが展示されている。
入場無料。
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入ってすぐ左側に、この辺の地形模型がある。
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多摩川のすぐ横の段丘部分が今回訪ねているところ。
「S」が、今日のスタート地点「多摩川浅間神社」
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出土品の展示は、この墳丘石室の中。
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そこに入る前、面白い展示があった。
よく、「墓前祭」の埴輪が出土しているが、それを当時の服装で再現していた。
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大刀を持つ女
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巫女
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新首長
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琴をひく男
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太鼓をたたく男
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この辺の出土品を展示している再現された墳丘石室に入るわけですが、そこからは次回の記事で。

(以降は次回の記事で)


続きを見る


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古座川の一枚岩、串本・橋杭岩

20190507

青春18キップ・紀伊半島の旅の三日目最終日、3月20日です。
前夜紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊、熊野古道「大門坂」を歩き、熊野那智大社に参拝した後紀伊勝浦駅に戻り、電車で串本駅に移動、駅前でレンタカーを借りました。
1400万年前の巨大カルデラ噴火の痕跡である、「古座川の一枚岩」と「橋杭岩」を廻るためです。

1400万年前の巨大カルデラ噴火については、既に「熊野カルデラについて」という記事をアップしています。

その記事を見る


串本駅前でレンタカーを借りて出発したのが11時半、30分ほどで古座川の一枚岩に到着。

【古座川の一枚岩】
所在地:和歌山県東牟婁郡古座川町

高さ約150m、幅は資料によって500mとあったり、800mとあったりしますが、とにかく大きい一枚の巨岩。
国指定の天然記念物です。
一枚の岩盤としては佐渡島の大野亀(高さ約167m)や屋久島の千尋の滝(高さ約200m、幅約400m)などとともに日本最大級とされる。

石質は「古座川弧状岩脈」と呼ばれる、流紋岩質凝灰岩で、均質かつ硬く固結しているため、風化・浸食せず残ったと考えられている。
どのような地質であっても通常の場合形成された岩体は、断層、節理、風化などによって大きな岩体のまま残存することは少なく、このような巨大な一枚岩は稀であることから、1941年(昭和16年)12月13日に国の天然記念物に指定された。

「古座川弧状岩脈」の流紋岩質火砕岩で出来た巨大な岩壁です。約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたる「古座川弧状岩脈」が形成されました。
火砕岩は、マグマが地上に噴き出す寸前に地下で固まったガラス質の火山岩の一種。

車を走らせてくると、目の前に大岩壁が飛び込んできて圧倒される。
古座川を挟んだ対岸に「道の駅 一枚岩」があり、そこの駐車場に車を停める。
左側の建物が道の駅。
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12時頃に着いたわけだが、ここでショッキングなことが。
道の駅のレスランで昼食を食べようと思っていたのに、この日は定休日だった(泣)

気を取り直して、河原に降りて屏風のようにそそり立つ大岩壁を仰ぎ見る。
この辺では全部がカメラに納めきれない。
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大きな割れ目があり、ここから左が2/3、右が1/3くらい。
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伝説があり、昔、太地の岩が大好物の魔物が居り、岩の多い古座川流域の下流から岩を食い荒らしていったが、一枚岩に喰らいついたとき、蔵土の飼い犬に追われ、犬が嫌いだった魔物は逃げ去ったという伝説が伝わる。
一枚岩の大きな縦に通る凹みは、このときの魔物の歯型であると伝わり、雨が降り続いた時に上の池から水が溢れでて流れ出ると出現する「陰陽の滝」は、魔物の悔し涙が流れ落ちたものであると伝えられる。

大きな割れ目の左側
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植物がしがみついている。
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雨で出現する滝の跡
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大きな割れ目の右側
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流紋岩質火砕岩の岩肌
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岩面に白っぽく丸い形をしたものがありますが、これは地衣類の一種のヘリトリゴケ。
年に0.1㎜~1.0㎜ずつ成長することがわかっており、日本国内はもちろん、世界最大級といえるものもあるそうです。巨大なものでは1m以上に達するものもあることが調査で分かっているそうです。
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しばらく腰を降ろして巨大な岸壁を眺めた後、場所を移動して全景を眺めました。
まずは上流側から。
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下流側からは、ちょうど古座川にかかる橋の上から眺めることが出来ます。
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古座川の一枚岩から橋杭岩に移動いるときに、レストランを探しながら行ったが、見つからないまま「道の駅 くしもと橋杭岩」に到着。
道を挟んだ向かいにお蕎麦屋さんがあったので、そこに入り「こんぶ蕎麦」と「めはり寿司」を食べた。
とろろ昆布が載ったお蕎麦で美味しかった。
実は「めはり寿司」が食べたくて探してたのだが、旅の最後にやっと食べることが出来た。
美味しかった(嬉)

【串本・橋杭岩】
所在地:和歌山県東牟婁郡串本町鬮野川1549

約1500万年前~1400万年前に地下から上昇したマグマが、熊野層群に貫入した石英斑岩の岩脈です。岩脈が崩壊して波食棚に散在する漂礫は、巨大地震による津波で運ばれたとされています。
橋杭岩も、日本の地質百選『古座川弧状岩脈』に含まれます。

串本町の大字鬮野川(くじのかわ)小字橋杭の海岸から紀伊大島方面へ大小約40の岩が南西一列におよそ850メートルもの長きにわたって連続してそそり立っている。直線上に岩が立ち並ぶ姿が橋の杭のように見えることから橋杭岩と呼ばれている。また干潮時には岩の列中ほどに附属する弁天島まで歩いて渡ることができる。

吉野熊野国立公園に属しており、国の名勝や国の天然記念物の指定も受け観光名所となっている。また橋杭岩を通して見る朝日はとても美しいと評判で日本の朝日百選の認定も受けている。
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橋杭岩に転がっている岩の中には、岩のそそり立つところからかなり遠くにまで転がっているものもある。これらの岩は宝永地震で起こった大きな津波によってそこまで転がったのではないかという調査結果が出ている。その証左として、元々湿ったところを好む植物・生物が死滅し、化石になったものが表面上に残っており、それらを調査したところ、宝永地震の起こった1700年代であることが明らかになっている。また、橋杭岩に散らばっている岩が動くのには秒速4メートル以上の速い流れ(流速)が必要とされ、これもこの地域で頻繁に襲来する台風から起こる波や同じく震源域に近い東南海が震源の単独地震を想定して計算された流速ではなく、東海・東南海・南海地震の連動型であった宝永地震を想定して計算された流速と一致している。
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道の駅からの全景
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岩の材質は石英斑岩
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けっこう波が打ち付けている。
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今は干潮なので、近くまで歩いて行ける状況だった。
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私も行きたかったが、時間が無くて、遠くから望遠で眺めるだけ、残念だった。

さすが串本の道の駅、マグロの加工品や海産物が豊富で、良いお土産を買いこんで、急いで串本駅前に戻りレンタカーを返却。
串本駅14:50の普通電車に乗り、新宮、多気と普通電車を乗り継いで名古屋駅に21:10に到着。
「ムーンライトながら」に名古屋駅23:20に乗り込み、東京駅に5:05に到着。
青春18キップの旅は終わった。

伊勢地区と熊野三山など神社巡拝に熊野ジオパークを追加した今回の旅は大満足だった。



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徐福公園

20190421

所在地:和歌山県新宮市新宮7178番地
訪問日:2019年3月19日

青春18キップの二日目、熊野市駅前のホテルを出発、獅子岩、花窟神社、速玉大社、神倉神社に参拝後、新宮駅前からバスで熊野本宮大社前に行き、旧社地である「大斎原(おおゆのはら)」、本宮大社に参拝し、再びバスで新宮駅前に戻り、歩いて5分ほどの、この日最後の目的地「徐福公園」を訪ねた。
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元来この地には徐福の物とする墓があったが、1994年(平成6年)の8月にそれを中心として今ではこの公園の目印ともなっている中国風の楼門を設置するなど、大々的に整備が行われ現在のような公園となったそうだ。

伝承によると、徐福は秦の始皇帝に東方にある蓬莱・方丈・瀛州に不老不死の霊薬があると具申し、命を受けて財宝と共に数千人を従えて秦から東方に船出したというが、その内蓬莱に当たるのがここ新宮とされていて、徐福はその後新宮に住み着いたという。ここに住み着いた徐福とその従者たちは大陸からの文化や農耕、捕鯨や漁業に関する技術を新宮の人々に伝え、ここ新宮の地で歿したと伝わっている。
この公園にある徐福の墓は、江戸時代の元文元年(1736年)に建立されたもので、紀州藩初代藩主である徳川頼宣が儒臣の李梅渓に「秦徐福之墓」の文字を書かせたものと伝わっている。

秦の始皇帝といえば、紀元前200年ほど。日本では弥生時代である。
本当にやってきたとすれば、ものすごい先進技術を持った人たちが上陸したわけだ。
徐福の伝説は、日本の各地に残っていて、関心を持っていたが、所縁の地というのは初めてなので、今回寄ってみることにした。

ずいぶん立派な楼門だ。
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楼門には、中国獅子がいる。
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楼門をくぐると、さほど広くはない空間に色々なものがあった。
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徐福の説明
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〇徐福像と不老の池
共に1997年(平成9年)につくられたもので、池の脇に像が配置されている。不老の池では7人の従者を象徴して7本の石柱があり、また7匹の鯉が飼われている。
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徐福の墓地の入り口には、香炉と中国獅子が置かれている。
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墓地に入る。
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〇徐福顕彰碑
天保5年(1834年)に紀州藩の儒学者である仁井田好古が筆を揮って建立する予定だったものの、運送中の船の事故により実現を見なかったが、1940年(昭和15年)の皇紀2600年の記念事業の一環として、残存していた文書に基づき建立したという曰くがある。
これちを読んでみると、「秦の始皇帝の圧政に民が苦しんでいた時、秦が天下を獲ったら私は東海の海に身を投げて死ぬ、と言って実行しなかった学者が居たが、徐福はそれを実行したのである」というところが気に入った。不老不死の薬があると本当に信じて海を渡ったのではなく、秦の始皇帝に愛想をつかして脱出してきたのだ、というのは納得できる考えだと同感した。
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〇徐福の墓
新宮の古文書に元文元年(1736年)付で「楠藪へ秦徐福の石塔立」と伝えられる。もとは和歌山藩初代藩主徳川頼宣が建立を目指したもので、藩の儒学者李梅渓に揮毫せしめたものと伝えられる。市指定文化財(史跡)。緑色片岩
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〇七塚の碑
かってこの近くに北斗七星の形に造られていた7つの塚、七塚があった。これは徐福の7人の主要な従者の墓であるとも徐福が大陸から持参したものをうめた場所であるともいわれており、七塚の碑はこれを記念するため1915年(大正4年)に熊野地青年会が建立したものである。
右が七塚の碑、左が七塚
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絶海中津の歌碑
絶海中津は熊野の徐福祠を取り上げたことが知られているが、その絶海中津が洪武帝とやり取りした詩を刻んだ歌碑が1966年(昭和41年)に建立された。
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この「徐福の墓」で、この日の予定を全て終え、新宮駅から紀伊勝浦駅に電車で移動。
紀伊勝浦駅前のホテルに宿泊。



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「熊野カルデラ」について

20190407

私がこのことについて知ったのは、昨年放送された「NHKスペシャル 列島誕生ジオ・ジャパン」での「世界最大規模のカルデラ噴火」であった。
それで、青春18キップで熊野三山を巡拝するのと同時に、1400万年前に起った巨大カルデラ噴火の痕跡も訪ねることにした。

それが起った1400万年前というのは、地球史にとってどのようなものか、その前後の大きな事件について書いておく。
・6500万年前-恐竜の絶滅
・2500万年前 - 最古の類人猿と思われる化石がアフリカのケニヤで発見されている。
・約2500万年前 - アルプス・ヒマラヤ地帯などで山脈の形成がはじまる。(インドプレートが大陸プレートに潜り込んだことによる)
・約1800万 - 1700万年前のウマの化石が岐阜県可児市で1961年と1971年に発見されている。
・1600万年前頃 - 大和三山の内の畝傍山や耳成山、また二上山もこの頃火山活動していた。
・1450万年前-日本海の形成が完了。
・約1400万年前 - ヒト科がヒト亜科とオランウータン亜科に分岐したと推定されている。
・700万 - 600万年前 - 現在最古の人類化石は、中央アフリカ発見のサヘラントロプス・チャデンシスとされている。
・10万年前-ホモサピエンスが誕生

1400万年前には、熊野だけでなく広い範囲で噴火が起きている。
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西日本で噴火を多発させたのはフィリピン海プレートである。
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ちなみにフィリピン海プレートの先端の場所に箱根火山があり、フィリピン海プレートが大陸プレートを押し上げて大磯丘陵が出来ていることを、小田原の一夜城跡に行ったときに知った。
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高温のフィリピン海プレートに西日本の大地が乗り上げたせいで、西日本の大地は急激に熱せられて大量のマグマが発生、そのマグマによって超巨大カルデラ噴火が同時期に多発した。
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紀伊半島で起きたという超巨大カルデラ噴火は次のようなものであった。
1400万年前、日本列島にはほとんど山はなく、湿地が広がり、ゾウやワ二の祖先が暮らしていた。
超巨大カルデラ噴火が始まると、地下に溜まっていたマグマが、南北40km、東西23kmにわたる半円形の裂け目の噴火口から一気に噴出し、内部の大地は大きく陥没した。そして周囲には大量の火山灰が降り積もり、カルデラ噴火の裂け目に残ったマグマは、固まって硬い岩となった。
火山からの噴出物はやわらかいため、風雨によって削られ、風化し、あとにマグマが固まった硬い岩が残った。それが一枚岩など熊野地方に多数存在する巨石になったのである。
巨石が並ぶ半円形は、カルデラ噴火の火口の裂け目そのものだったのだ。
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この超巨大噴火では、噴火のあとも膨大なマグマが地下に残っていた。
その一部が冷えて固まったものが、紀伊半島の中央部から南部にかけて地下に存在する、巨大な花崗岩の塊なのである。
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熊野地方には温泉が豊富にあるが、活火山は無い。
この温泉は、先に述べた紀伊半島の中央部から南部にかけて地下に存在する巨大な花崗岩の塊が高温なため、それに熱せられた地下水が湧いているのである。

熊野カルデラは、紀伊半島南端から、那智勝浦町、新宮市、田辺市本宮町に至るエリアだが、熊野三社と称される熊野信仰の中核は熊野カルデラと完全に重なっている。
那智勝浦町には熊野那智大社、新宮市には熊野速玉大社、田辺市本宮町には熊野本宮大社が鎮座している。
このカルデラ地帯には、太古の火山活動に由来する驚異の風景美があり、熊野信仰の背景となっているわけです。

私が今回訪ねた熊野カルデラの痕跡を下に記す。

【花窟(はなのいわや)神社】
悲劇的な母子の墓標であるかのようにそびえ立つ巨石。この不思議な景観は千五百万年まえ、熊野カルデラのマグマが地上に噴き出し、火砕流となり固まったものです。流紋岩質火砕岩と呼ばれています。
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【神倉神社・ゴトビキ岩】
熊野三社のひとつ熊野速玉大社の摂社ですが、100mちょっとの小高い山につづく538石段を登りきると、その頂きにバスが空間に浮かんでいるように見える巨石「ゴトビキ岩」があり、注連縄を巻かれています。
火山のマグマが冷えてできた花崗斑岩です。
残念ながら、雨の中の登段となってしまい、時間の制約もあり、石段125段登って引き返しました。
再挑戦となりました。
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【那智の滝】
那智の滝の背景をなす岩は、ほぼ垂直に133mの高さで切り立って断崖絶壁をなし、何本もの石の柱が並んでいるように見えます。 いわゆる「柱状節理」です。火山の風景を代表する自然の造形です。
滝の背面をなす絶壁は、花崗斑岩と分類され、火山の地下にたくわえられたマグマが冷え固まった巨岩。
急激に冷却された収縮で出来た割れ目が「柱状節理」です。
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【古座川の一枚岩】
「古座川弧状岩脈」の流紋岩質火砕岩で出来た巨大な岩壁です。幅が500m、高さが150m。
約1500万年前~1400万年前、「熊野カルデラ」形成に伴い流紋岩質マグマが地表へ噴出する際の通路として、延長20km以上にわたる「古座川弧状岩脈」が形成されました。
火砕岩は、マグマが地上に噴き出す寸前に地下で固まったガラス質の火山岩の一種。
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【橋杭岩】
約900 mにわたり、幅約15mの橋脚のような岩塔(橋杭)が直線状に並んでいます。約1500万年前~1400万年前に地下から上昇したマグマが、熊野層群に貫入した石英斑岩の岩脈です。岩脈が崩壊して波食棚に散在する漂礫は、巨大地震による津波で運ばれたとされています。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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