北沢大石棒

20180622

所在地:長野県南佐久郡佐久穂町高野町上北沢1433
撮影日:2018年6月19日

この日、佐久市にある両親の墓参りのあと、日本一だというので、しかも外に立てられているというので、これを見に来た。
「石棒」は、縄文時代祭祀に使われたもので、土偶が女性を象っているのに対し、男性の象徴そのものである。
たいていの博物館には、これが陳列してあるので、日本全国各地にまんべんなくあったらしい。

北沢大石棒(きたざわだいせきぼう)は、長野県南佐久郡佐久穂町を流れる北沢川から出土し、同町高野町上北沢1433に保存されている石棒。北沢の大石棒、北沢川(の)大石棒ともいう。
縄文時代中期後半に、当地から産出した佐久石(志賀溶結凝灰岩)を用いて作られたもので、全長2.23メートル、直径25センチメートル、この種の遺物としては日本一の大きさである。佐久穂町指定文化財(有形文化財)に指定されている。

縄文時代中期後半 - 石棒が製作される。
1919年(大正8年) - 北沢川改修工事により出土。貴重なものと考えた高見沢伊重が、自分の田の畦に立て、保護したと伝えられる。
1982年(昭和57年) - 町の文化財に指定するため、一旦掘り出し、補強工事が行われた。その際に大きさの測定と、地中部分の実見が行われた。
1984年(昭和59年)5月28日 - 町指定文化財に指定。


場所は、グーグルマップに「北沢大石棒」が載っていたので、楽に現地に到着出来た。
情報のとおり、田んぼの中の畔にあった。
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現地説明板
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大きいのだろうが、自然の中にポツンと立っていると、実に迫力が無い(笑)
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横に立つと、さすがに大きかった。
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実にシンプルで、彫刻などは一切無し。
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周囲の景色によって、実にのどかな感じだ。
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中部横断自動車道が近くを走っている。
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石棒については、岐阜県吉城郡宮川村塩屋に存在する「塩屋金精神社遺跡」が、縄文時代後期前半を中心とする石棒制作遺跡として有名である。そこで使用された石の材質が溶結凝灰岩ということで、北沢大石棒も同じ石なのだが、「佐久石」とあるので、この地で作られたものだろう。

この後、来た道を戻って、同じ長野県の御代田町にある「浅間縄文ミュージアム」に向かった。



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桜町遺跡(桜町JOMONパーク)/富山県小矢部市

20171001

所在地:富山県小矢部市桜町字中出1716-1
訪問日:2017年9月17日

郷里に用事があり、16日~18日の三連休に家族で帰省しました。
16日に郷里の南砺市福光で用事を済ませ、彫刻の町井波で観光、夕方には城端で「麦屋まつり」も楽しみました。
そして17日に前から行きたかった「桜町遺跡」を訪ねました。
この遺跡は、知る人ぞ知る、縄文時代に既に高床式建物が存在したことがわかった遺跡です。
それから北陸に特有みたいですが、「ウッドサークル 環状木柱列」も発掘されています。

周辺地図
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高床式建物や環状木柱列が推定復元展示されている、体験学習型施設である「桜町JOMONパーク」を訪ねました。
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居られた説明員の方にとても親切に案内していただきました。

発掘は北陸高速道の建設に伴い発見されたとのことでした。
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発掘されたものは、「ふるさと歴史館」に展示されていて、ここにはその複製品が置かれていた。
関心のあった漆を使用したものは、こちらには無かった。
縄文土器などの展示品については、省略させてもらい、私が良いと思ったものを掲載しておきます。

貯蔵穴
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触われる土器のかけら。
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土器を成型するときに押さえた指の跡が、指でなぞると良く分かるものがあり、面白かった。
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磨製石斧
縄文時代中期末~後期初頭
(約4000年前)
なんと、左側から2番目と三番目はヒスイで出来ていた。
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ヒスイの石斧
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ヒスイは、重くて緻密で欠けにくいので、重宝されたみたいです。

かわいい土偶
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彫刻のある材
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桜町遺跡のジオラマ
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「こごみ」の群落
こごみが、たくさん発掘されたようです。現在もたくさん生えているそうです。
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それで、ここのイメージキャラクターは「こごみちゃん」だそうです。
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丸木舟もあります。
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屋外に出て、いよいよ高床式建物や環状木柱列が推定復元展示を見ます。
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【環状木柱列】
桜町遺跡の資料から:
「環状木柱列」は、巨大なクリの木を、半割りして円形に立て並べた遺構で、石川県や富山県の遺跡を中心に見つかっていることから、北陸地方に特徴的なものとも見られています。
 円形に立て並べた柱のうちの一ケ所に、外側に開く出入口のような2本の柱がつくのが特徴で、桜町遺跡では、この部分の柱だけは平らな板状のものを使っていました。
 いずれの遺跡でも、見つかっているのは柱を立てた穴やその中に残った柱の根の部分だけで、地上部分の姿を示すものは無く、その構造はよく判っていません。そのため、「屋根や壁をもつ建物だった」とする説や、「柱だけを立て並べた記念物」とする説など、研究者によって見解が分かれている謎の遺構でもあります。
 上部構造は不明ですが、非常に大型の柱材を使用していることから、祭祀などの特別な用途の施設であったと考えられます。
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推定復元された環状木柱列(ウッドサークル)
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【高床式建物】
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縄文中期末葉から後期初頭(約4000年前)の「高床建物」の柱材が100本以上も出てきた。貫穴(ぬきあな)や桟穴(えつりあい)、ほぞ穴などといった二つの部材を組み合わせる加工技術があり、「渡腮(わたりあご)仕口(木材を凹凸に削って組み合わせる)」といった高度な技法も見られた。 渡腮仕口は、法隆寺の金堂(7世紀後半)に使われていたのが最古とされていた。その加工技術が4000年前の桜町で既に存在していることが明らかとなった。

 高床建物は弥生時代に穀物の保管倉庫として初めて現れるといった通説がこの発掘で消し飛んでしまった。高床建物が、狩猟・採集段階とされる縄文時代に既に存在していたのである。その用途について、食料貯蔵や祭殿、夏の家などが議論されている。
桜町遺跡では、高床建物の壁材や屋根材といった新事実が次々と明らかになっているそうです。

大きな建物で吃驚した。
やはり柱が太いので、迫力ある。
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ひょうたん棚があった。
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当時のひょうたんは、こんな感じだったみたいです。
展示室にあったひょうたんの模型。
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丸木舟が置いてあって、説明員の方の話を聞いて興奮しました(笑)
なんと、当時の石斧を使用して、大木から丸木舟を作り、小矢部川を下って海に出て、ヒスイの産地糸魚川まで、丸木舟で航海したそうです。
三日間かかったということでした。
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そのチャレンジの説明
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それを伝えた新聞記事
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これが、この日一番興奮したことでした。
説明員の方が、とても熱心に説明してくださり、とても楽しく色々なことが確認できました。

感謝しつつ、ここを出発して倶利伽羅峠の山道をドライブして、義仲と平家の古戦場を通り、金沢に入りました。

(了)


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東台遺跡(奈良時代製鉄遺跡)/埼玉県ふじみ野市

20170129

所在地:埼玉県ふじみ野市大井514-12 東台金山公園
訪問日:2017年1月18日

この日、「田子山富士塚」、「引又河岸跡」、「いろは樋模型」を尋ねたあと、ここを尋ねました。

私が仕事をしていた会社は、自動車関連の鉄系素材メーカーだったので、こういう遺跡には目が無いです(笑)

現場は、マンションの一角にある小さな公園です。
この場所からは、旧石器時代、縄文時代早期・中期・後期、奈良時代、平安時代、近世の集落跡のほか、7~9世紀の製鉄関係遺構が多数検出されているそうです。
製鉄遺跡は現在「東台金山公園」として保存されています。
これらの遺跡は、史跡には指定されておらず、発掘調査の後、宅地化され、余地に解説板などが設置されているのみです。

公園の一角に設置されている。
右のガラスケース内が「製鉄炉跡」、左のガラスケース内が「東台遺跡模型」。
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製鉄炉跡のガラスケース
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説明
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製鉄炉跡は奥のマンションを建設する際に発見され、移築保存したもので、奈良時代から平安時代初期に造られたと推測されています。
古代の鉄作りでは粘土で直径1m程の円筒形の炉を作り、 原料の砂鉄と燃料の木炭を投入し、長時間燃やし続けて鉄の塊を生産していました。 少し削れているような壁はその高温のために溶けてしまった炉壁と考えられています。

製鉄炉跡
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よく見ると赤っぽく錆びた鉄が見えます。
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東台遺跡模型のガラスケース
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説明
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当時の製鉄想像図
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発見された羽釜の鋳型
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8世紀の奈良時代には、「奈良の大仏」に象徴されるような大規模な国家的事業が推し進められました。
全国に国分寺や国分尼寺が建てられ、各地で瓦や須恵器(すえき)を焼く窯(かま)などが作られた工房が設けられました。
ふじみ野市でも、鉄の生産が行われていたことが東台遺跡で判明しました。
発見されたのは、砂鉄から鉄の塊(かたまり)を作るための製鉄炉(せいてつろ)が7基、燃料となる木炭を焼く窯が10基、その他、炉の原料となる粘土を採るために掘った穴や、鋳物の型となる鋳型(いがた)が見つかっています。
中でも羽釜の鋳型は直径が60センチメートルもある大型品です。

ガラスケースの中の模型
縮尺が大きくて、小さい模型のため、なかなかピンとこない。
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それで、眺めているうち、ここを訪れた人の記事に、模型に人間が居ると書かれていたのを思い出した。
肉眼では分かりにくいので、カメラでズームしてみました。
居ましたね(笑)
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この人間のサイズから、製鉄所の規模を想像しましょう。
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今は、そんな面影はまったくありませんが、
ふじみ野の地は、奈良時代には巨大製鉄コンビナートだった訳です。
燃料に困らないほどの、森林地帯だったということですね。


(了)



サミット「東アシアの国際交流~古代から未来へ~」/高麗郡建郡1300年記念事業

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開催場所:國學院大學学術メディアセンター常磐松ホール
開催日:2016年9月3日(土)
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高麗郡建郡1300年記念事業の一つということで、聴講しました。
渋谷駅から歩いて15分ほど。金王八幡の前からだいたいの方向に見当をつけ歩いていきました。すぐに随分と高い校舎ビルが見えたので、迷わなくて済みました(笑)

学術メディアセンター
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開演前の会場風景、開演の頃にはほぼ一杯になりました。
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最初に、「高麗1300」理事長である大野松茂氏より挨拶があり、始まりました。

この日の題目
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どの場面だったか、記憶が定かでないが、このサミットの日の前日に読売新聞に載った記事の紹介があり、「縄文人のDNAを受け継いでいる人の割合が12%に過ぎない」とのことのようである。
いかにその後の渡来人が多かったかということである。

【記念講演Ⅰ:「渡来人」と日韓関係の未来】
講師:國學院大學文学部助教・山崎雅稔氏
1.渡来人・渡来文化と古代史の叙述
2.日韓の歴史学・歴史教育の対話のなかで
3.新たな日韓共通教材と渡来人

内容:渡来人研究・渡来人論が新しい日韓関係の構築にどのように寄与してきたか、90年代後半から昨今にいたる日韓両国の歴史教育の動向を振り返りつつ、今後の展望・課題に触れた。

日本での学校教育では、「日本史」において、関係する部分のみを切り取って示されるだけなので、東アジアの歴史について体系的な教育はされていない。
韓国では、高等学校選択科目として「東アジア史」の実施が決まり、その教科書作成が進んでいる。

日韓両国で、1976年頃から歴史認識を同じにし、共通の歴史教科書を作ろうとする活動があるのを初めて知った。
こういうところから、日韓関係が改善されていけば良いと切に思った。

【記念講演Ⅱ:「渡来人」と「日本人」】
講師:関東学院大大学経済学部数授・田中史生氏
1.古代の「帰化人」と近代日本
2.「帰化人」から「渡来人」へ
3.「帰化人」か「渡来人」か

内容:渡来人研究が「日本」「日本人」とは何かという問いと深く結び付いて進展した研究分野であったこと、また最新の研究成果をふまえて、今後の私たちが渡来人をどう捉えていくべきかについて考える。

いま、「帰化人」という言い方がされず、「渡来人」と言う。
面白いのは、『日本書紀』では「帰化」を用い、『古事記』や『風土記』では、「渡来」を用いている。
「帰化」という言葉は、中国の「中華思想」において使用されていた言葉だそうで、『日本書紀』のように国家という視点で視ると「帰化」となり、『古事記』のように一般人視点で視ると「渡来」となる。
それで、その見方が、戦前の日本のように極端な民族主義により、「日鮮同祖」論から「日韓併合」が正当化されてしまった。
その反省から「帰化」が、使われなくなったようだ。
言葉の持つ意味の重要さについて、考えさせられた。

【事例発表】
○代表事例発表「古代飛鳥の国づくり~土木やから見た“日本創成”~」
奈良県明日香村村長・森川裕一氏
京大卒、奈良県庁を経て、5年前村長に立候補し、当選。
飛鳥時代、都造りより前に難波津から飛鳥京まで大路造りをしたように、大陸・朝鮮半島からの情報入手に積極的だった。
現在の、飛鳥に親しんでもらうための各種取り組みの紹介。

○事例発表1「歴史と文化を学ぶ会」群馬県高崎市
理事長・結城順子氏
多胡碑(日本三大古碑の一つ)は、和銅4年(711)に多胡郡を建てた建郡碑。
2011に建郡1300年を迎え、2009年に「多胡郡設立1300年記念実行委員会」を発足したのが、今の「歴史と文化を学ぶ会」の前身。
私が所属している歴史クラブで、「多胡碑」、「山上碑」、「金井沢碑」を訪ねたことがあり、懐かしかった。

○事例発表2「信州渡来人倶楽部」長野県松本市
日本人、在日韓国人(民団系)、在日朝鮮人(総連系)、ニューカマーの4者の集まり。
「針塚古墳」(高句麗系積み石古墳)、「桜ケ丘古墳」(大伽那系古墳)があり。
「渡来人まつり」が今年で11回目。
私は、2014年に歴史クラブ行事で、松代をメインにした旅行に参加したが、そのとき長野市大室にある「大室古墳群」で、渡来人の墓と云われる大規模な古墳群を見た。
「積み石古墳」、「合掌型組石古墳」などが印象に残っているが、「この場所で?」という衝撃から、それ以来渡来人を強く意識するようになった。

○事例発表3「近江渡来人倶楽部」滋賀県大津市
代表:河 柄俊氏
在日コリアンと日本人で結成。
大津は、天智天皇が都にしたこともあり、当時渡来人が脚光を浴びていた時代でもあり、渡来人との縁が強い。
天智4年(665)に、百済の遺民400人余を近江国神崎郡に、天智8年(669)には余自信、鬼室集斯ら百済人700人余を近江国蒲生郡に移住させている。
代表が在日コリアン2世といことで、正しい歴史認識により、人権尊重、国際理解を深める活動をしていると、熱く語っていたのが印象的だった。
私は、ついこの間(8月2日~4日)に、青春18キップで湖北の渡来人系神社などを訪ね、しかも義仲寺のある膳所まで行っている。膳所は大津の一駅隣である。
もうちょっと早く知っていれば、「渡来人歴史館」、「鬼室神社」などを計画に組み入れることが出来たのにと残念だった。次回はぜひ訪ねたい。

ここで、どうしても外せない用事が夕方あったので、
「事例発表4:「百済の会」大阪府枚方市」、「事例発表5:「一般社団法人高麗1300」埼玉県日高市」は割愛した。

昼食休憩時に、国学院大博物館を見学した。
学術メディアセンターの地下一階にあります。
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展示室(資料から転載)
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ここの特色は「神道展示室」があること。「考古展示室」はとても充実していた。
時間が無くて、飛んで回っただけ。
再訪したいと思った。


(了)


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さきたま史跡の博物館

20160723

所在地:埼玉県行田市埼玉4834

7月16日に「古代蓮の里」に行ったあと、カミさんは初めてだというので、「さきたま古墳群」と「さきたま史跡の博物館」を案内しました。
ここは、私は何度も訪れていますが、独立して記事にしていなかったので今回過去の写真も使って記事にします。

なお「さきたま古墳群」は別に記事にしています。

その記事を読む


もちろん、「さきたま史跡の博物館」は「さきたま古墳群」の中にあります。
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駐車場から博物館に歩いていくときにあった、「埼玉県名発祥の地」の碑
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さきたま史跡の博物館
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博物館にあった埼玉古墳群の航空写真
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写真撮影は、フラッシュをたかなければOKです。

まず最初に見るのは、やはり国宝「金錯銘鉄剣(きんさくめいてつけん)」
(「金錯」は「金象嵌(きんぞうがん)」の意味)

窒素ガスを封入したケースに保管・展示されている。
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1968年に行われた稲荷山古墳の後円部分の発掘調査の際、画文帯環状乳神獣鏡や多量の埴輪とともに鉄剣が出土した。1978年、腐食の進む鉄剣の保護処理のためX線による検査が行われた。その際、鉄剣の両面に115文字の漢字が金象嵌で表されていることが判明する(ただし新聞紙上でスクープとなり社会に広く知れ渡ったのは1979年)。その歴史的・学術的価値から、同時に出土した他の副葬品と共に1981年に重要文化財に指定され、2年後の1983年には国宝に指定された。

書かれている文字
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これを解釈すると、「辛亥の年七月中、記す。ヲワケの臣。上祖、名はオホヒコ。其の児、(名は)タカリのスクネ。其の児、名はテヨカリワケ。其の児、名はタカヒ(ハ)シワケ。其の児、名はタサキワケ。其の児、名はハテヒ。(表)
其の児、名はカサヒ(ハ)ヨ。其の児、名はヲワケの臣。世々、杖刀人の首と為り、奉事し来り今に至る。ワカタケル(ワク(カク)カタキ(シ)ル(ロ))の大王の寺、シキの宮に在る時、吾、天下を左治し、此の百練の利刀を作らしめ、吾が奉事の根原を記す也。(裏)」

以下はWikipediaに載っている説明。
年代:
辛亥年は471年が定説であるが一部に531年説もある。

通説通り471年説をとるとヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は、日本書紀の大泊瀬幼武(オオハツセワカタケ)天皇、すなわち21代雄略天皇となる。 銘文に獲加多支鹵大王が居住した宮を斯鬼宮として刻んでいる、雄略天皇が居住した泊瀬朝倉宮とは異なるものの、当時の磯城郡には含まれていることにはなる。この通説に則れば、21代雄略天皇の考古学的な実在の実証となりうる。 田中卓は、斯鬼宮と刻んだ理由を雄略天皇以前の数代の天皇は磯城郡以外に宮を置いており、当時の人にとって磯城宮といえば雄略天皇の宮のことであったためであるとし、記紀で雄略天皇の宮を泊瀬朝倉宮と呼ぶのは後世に他の天皇が磯城郡に置いた宮と区別するためそう呼称したものであるとした。

「オホヒコ」について:
銘文にある「オホヒコ」について、『日本書紀』崇神天皇紀に見える四道将軍の1人「大彦命」とみなす考えがある。

以上Wikipediaによれば、ヲワケが仕えた獲加多支鹵大王は「雄略天皇」とされていて、「さきたま史跡の博物館」の説明も、そうなっています。

「前玉神社」の祭神が出雲系であることを考えると、「さきたま古墳群」の古代豪族は、出雲系ではないだろうかと
考えられる。氷川神社も出雲系だし、そうとすると、極めて浅学な私の勝手な想像だが、大和の中央政権とは別に、そのころはまだ関東に「大王」が居たと考えるのも面白い。
「古代の探求」は、想像の余地がものすごくあって、面白いんですね(笑)

閑話休題

国宝「画文帯環状乳神獣鏡」/稲荷山古墳
年代: 古墳時代後期
鏡の一部に赤色顔料が付着している。鏡を包んでいた布の痕跡がわずかに残る。外区には竜や虎、亀、馬車などが神仙を乗せて走っている画像。太陽や月の運行が描かれ、内区には東王父・西王母・伯牙弾琴など4人の神仙とそれらを背中に乗せる竜や虎が描かれる。中国の道教思想に基づく画像表現である。群馬県高崎市八幡観音塚古墳出土鏡・千葉県大多喜町台古墳出土鏡など5枚の同型鏡がある。
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国宝「龍文透彫帯金具」/稲荷山古墳
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説明のチラシで模様がはっきりします。
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チラシによると、このように飾っていたらしい。
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左側が馬につける旗竿金具/将軍塚古墳
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馬の冑/将軍塚古墳
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こんな風になるらしい。これは朝鮮半島でよく見られるそうで、その文化がここまで来ていたことを示します。
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ガラス玉/将軍塚古墳
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人形埴輪/瓦塚古墳
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琴を弾く男子
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「美豆良(みずら)」という古墳時代の一般的な男子の髪形
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女性の埴輪
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頭の上の四角い板状のものは「島田髷」
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楯を持つ人物
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鈴鏡を腰につける巫女
島田髷と乳房で女性であることがわかる。
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冑をかぶる武人二体
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大きな馬形埴輪
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犬形埴輪/瓦塚古墳
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水鳥形埴輪/瓦塚古墳
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きりがないので、このくらいにしましょう。

帰りがけに、「はにわの館」をのぞいてみました。
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聞いてびっくり!!
材料代が普通の量で600円。これしか、かかりません(笑)
焼くのはタダだし、スタッフが教えてくれるし。
作るのに、慣れた人で2時間半くらい。
この日は、土曜日なので家族連れなどで、沢山の人が楽しんでいました。

中にもたくさん置いてありましたが、入り口のところにもたくさん並んでいて、これを見るだけでも楽しい。
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(了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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