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「野菊の墓」文学碑・国府台合戦古戦場と矢切の渡し

20190708

この日:2019年6月28日に、所属する歴史クラブの「博物館に行こう」グループで訪問しました。この日の企画した行程は、市川市立歴史館・考古博物館・堀之内貝塚⇒矢切の渡し⇒寅さん記念館⇒柴又帝釈天です。

この日の早朝まで、関東には台風が襲来していたので、たぶん矢切の渡しは運航していないだろうと思っていたが、市川市立歴史館に居る時に電話してみたら、「大丈夫、運航してますよ」という返事だったので、喜んで市川市立歴史館・考古博物館・堀之内貝塚を見学してから、北総線で矢切駅に移動、駅の近くのファミレスで昼食・休憩の後、歩いて10分ほどの「野菊の墓」文学碑に向かいました。

【「野菊の墓」文学碑・国府台合戦古戦場
所在地:千葉県松戸市下矢切261
矢切を舞台にしている伊藤左千夫の純愛小説「野菊の墓」を記念して昭和40年に建立された文学碑で、伊藤左千夫の門人土屋文明の筆により、「野菊の墓」の 一節が刻まれています。

『野菊の墓』(のぎくのはか)は、伊藤左千夫の小説。1906年1月、雑誌「ホトトギス」に発表。
15歳の少年・斎藤政夫と2歳年上の従姉・民子との淡い恋を描く。夏目漱石が絶賛。左千夫の最初の小説である。

 『野菊の墓』は、10年余りがたったのちの政夫の回想で語られる物語。旧家の息子・政夫と手伝いにきた民子の間に生まれた幼い恋。
二人は親によって離される。政夫が寮に入れられ、その間に民子は周りに勧められた意に沿わぬ結婚をして、苦労の果てに亡くなってしまう。

私は、子供の頃モノクロの映画で見た記憶がある。「家」が中心で生きていた時代があったのだという証明のような作品だ。

「矢切駅」から住宅街を10分ほど歩いていくと、江戸川の河岸段丘の上に文学碑はあった。
道から上に上がる。
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「野菊の墓」文学碑
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文学碑の脇に、以前からこの辺にあったのであろう石仏も置かれていた。
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野菊って、具体的に何?
というような説明も(笑)
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また、「国府台合戦」の折に、ここが大変な激戦地であったという説明もあった。
こちらに興味津々であった。
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文学碑のある上から、江戸川の河岸段丘を降りて江戸川に向かう。
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手前の小川ににかかるあたりで、スカイツリーが見えた。
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小川に架かる橋の欄干とスカイツリー。
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反対側で、欄干のレリーフと川がベストマッチング。
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小川の橋のたもとに、「野菊のような人」の碑があり。
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江戸川の手前、柴又側に大きなタワーマンションが建っていて吃驚。
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江戸川の堤防に到着。
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堤防の上から、文学碑のあった河岸段丘を望む。
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河原はゴルフ場になっていて、その間を矢切の渡しに向かう。
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【矢切の渡し】
江戸川を挟んで矢切と東京都葛飾区柴又を結んでおり、現在も渡し舟が運航されている。
「房総の魅力500選」に選定されている[9]ほか、柴又帝釈天界隈とともに環境省の「日本の音風景100選」に選定されている。

この渡しは江戸時代初期に江戸幕府が地元民のために設けた利根川水系河川15ヶ所の渡し場のうちの一つであり、観光用途に設けられたものではない。かつては官営だったが、その後は民営となり、明治初期から杉浦家が船頭を務めて運営している。

この渡しが日本全国に有名になったのは、明治時代の伊藤左千夫の小説『野菊の墓』(1906年)によるところが大きい。現在、矢切にはこの小説の文学碑が建立されている。また、矢切の対岸の柴又を舞台とする映画『男はつらいよ』シリーズの作中にも、第一作で寅次郎が帰郷のため乗船する場面以降しばしば登場する。

運よく、ちょうど舟がこちらにやってきた。
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皆乗り込んで、さあ出発。
しばらくは手漕ぎである。
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真っ直ぐ対岸に向かえば、アッという間に着いてしまうが、しばらく上流に向かってから下り、或る程度舟に乗っている気分を味あわせてくれる、サービス満点。
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金町浄水場の取水塔近くまで行ってくれた。
右側のトンガリ帽子のほうは、昭和16年に建設された。
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その上流の橋は、水戸街道である。
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ここから下りに転じた。
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スカイツリーが見える。
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柴又側の渡し場とスカイツリー。
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柴又側の渡し場に接岸。
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私たちが上陸すると、入れ替わりに松戸側に渡る人が乗っていく。
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ここから私たちは、「寅さん記念館」に向かった。


「寅さん記念館」の記事を見る



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荒波押し寄せる神磯の鳥居

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所在地:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町 大洗磯前神社
撮影日:2018年3月1日

昨日は、歴史クラブの見学会の下見で、「大洗磯前(いそさき)神社」を訪れました。

「大洗磯前(いそさき)神社」については、既に記事にしています。

その記事を見る


この神社の聖地としては、ご祭神が降臨したという「神磯」があります。

また、その場所は日の出が素晴らしい名所でもあります。
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2014年6月27日に参拝したときの状態は、こうでした。
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ところが昨日は、前夜から朝にかけて爆弾低気圧が通過した関係で、私たちが行ったのは午後だったので、空には青空が広がっていましたが、まだ海は荒れていて、聖地「神磯の鳥居」には荒波が押し寄せていました。
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その様子がすごかったので、動画で撮影してきました。
下の「その動画を見る」をクリックすれば見ることが出来ます。

その動画を見る



その後、「神磯」から続く正面の大鳥居から石段を上がり、大洗磯前神社に参拝しました。
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(了)


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太田道灌公墓所/神奈川県伊勢原市

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参拝日:2017年12月1日

この日は、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」相模国の三回目でしたが、この近くを廻っているため、立ち寄りました。

太田道灌(おおた どうかん)は、室町時代後期の武将。武蔵守護代・扇谷上杉家の家宰。摂津源氏の流れを汲む太田氏。諱は資長(すけなが)。太田資清(道真)の子で、家宰職を継いで享徳の乱、長尾景春の乱で活躍した。江戸城を築城したことで有名である。武将としても学者としても一流という定評があっただけに、謀殺されてこの世を去った悲劇の武将としても名高い。

太田道灌の生きた時代は、大変な時代であり、彼の人生について書こうと思うと幾ら書いても尽くせない。
ここでは、道灌の暗殺についてだけ書いておく。

道灌暗殺:
道灌の活躍によって主家扇谷家の勢力は大きく増した。それとともに、道灌の威望も絶大なものになっていた。

定正は家臣である道灌が優れた統率力と戦略で敵を圧倒し、その功を誇って主君を軽んじる風もみられたとし、道灌の意見を用いないなど反感を持っていた。『永享記』は道灌が人心の離れた山内家に対して謀反を企てたと記している。また、扇谷家中が江戸・河越両城の補修を怪しみ扇谷定正に讒言したともある。これらの中傷に対して道灌は一切弁明しなかったが、「太田道灌状」で道灌は道真・道灌父子の功績を正当に評価しないことに道灌は不満を抱き、主家の冷遇に対する不満を吐露している。また、万が一に備えて嫡男の資康を和議の人質を名目として古河公方成氏に預けている。

文明18年7月26日(1486年8月25日)、扇谷定正の糟屋館(神奈川県伊勢原市)に招かれ、道灌はここで暗殺された。享年55。法名は、大慈寺殿心円道灌大居士、また香月院殿春苑静勝道灌大居士。

『太田資武状』によると、道灌は入浴後に風呂場の小口から出たところを曽我兵庫に襲われ、斬り倒された。死に際に「当方滅亡」と言い残したという。自分がいなくなれば扇谷上杉家に未来はないという予言である。

道灌暗殺の遂行にあたっては、力が強くなりすぎた道灌が下克上で自身にとって代わりかねないと恐れた扇谷定正が自発的に暗殺したとも、扇谷家の力を弱めるための山内顕定の画策に扇谷定正が乗ってしまったとも言われる。『上杉定正消息』の中で扇谷定正は、道灌が家政を独占したために家中に不満が起こっており、また道灌が山内顕定に謀反を企てたために討ち果たしたと述べている。また、雑説だが江戸時代の『岩槻巷談』に道灌暗殺は北条早雲の陰謀であるとの話が残っている。

道灌暗殺により、道灌の子・資康は勿論、扇谷上杉家に付いていた国人や地侍の多くが山内家へ走った。扇谷定正はたちまち苦境に陥ることになり、翌長享元年(1487年)山内顕定と扇谷定正は決裂し、両上杉家は長享の乱と呼ばれる歴年にわたる抗争を繰り広げることになった。やがて伊勢宗瑞(北条早雲)が関東に進出して、後北条氏が台頭。早雲の孫の氏康によって扇谷家は滅ぼされ、山内家も関東を追われることになり、上杉の家系は駆逐される。

やがて、かって乱を起こした長尾景春の同族である、越後守護代・長尾為景の息子「景虎」に関東管領職を譲り、景虎は上杉の名も譲り受け、上杉謙信と号す。

*太田家のその後
 嫡子・資康は古河公方に参じる。道灌の甥たちは上杉定正の下に残り、家宰の地位を受け継ぐ。
嫡男の家筋の4代後の娘が、家康の側室(英勝院)になり、兄弟は大名になり、明治まで続く。

太田道灌墓所:
①胴塚:神奈川県伊勢原市上粕屋の幡龍山公所寺洞昌院)
②首塚:神奈川県伊勢原市下糟屋の法雨山大慈寺
③太田道灌墓(分骨):埼玉県入間郡越生町龍穏寺
④供養塔(首塚と言われる):神奈川県鎌倉市、北鎌倉から源氏山に抜けるハイキングコース

この日は、①⇒七人塚⇒②に参拝した。

【太田道灌墓所(胴塚)】
所在地: 神奈川県伊勢原市上粕屋1160

道路側入り口
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お寺側入り口
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墓所
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墓碑
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太田道灌歌碑
「いそがずば濡れざらましを旅人の後より晴るる野路のむら雨」
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句碑
「雲もなほ さだめある世の しぐれ哉」
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句碑由来碑
太田道灌と交流のあった心敬という僧の句碑ですが、この心敬の弟子が宗祇である。
宗祇は箱根湯本で亡くなって供養塔が早雲寺にあり、その宗祇の弟子が宗長でありその出身地の静岡県島田駅には宗長庵趾があって、その宗長は松尾芭蕉に影響を及ぼした人物であるという。
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近くに、石仏が山のように置かれていたのが気になった。
この近くでは、新東名高速道路の建設が大規模で進められており、バスの運転手さんもここにたどりつくのに一苦労していた。
その造成の余波であろうか。
痛ましい。
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ここから歩いて数百mのところにある、「七人塚」にお参り。

【七人塚】
所在地: 神奈川県伊勢原市上粕屋1349−6

道灌が暗殺された時、上杉方の攻撃を一手に引き受けた、道灌の家臣七名も討ち死にしたと伝えられており、
この家臣の墓が「七人塚」として伝えられています。
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以前は、七つの塚が並んでいたが、現在は残っている一つの塚を「七人塚」と呼んでいる。
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「太田道灌公臣下之・・・・」
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色々な石仏が置かれている。
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すぐ近くの「上粕屋神社」
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樹齢600年の大ケヤキが両側にある参道が見事だった。
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その後、「高部屋神社」に参拝してから、「太田道灌墓所(首塚)」に参拝した。

【太田道灌墓所(首塚)】
所在地: 神奈川県伊勢原市下糟屋364

下糟屋の大慈寺の前でバスを降りる。
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大慈寺の門前、道を挟んで反対側に川沿いの土手道を行く。
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墓所
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敷地は、けっこう広い。
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説明
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太田道灌の肖像画
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(了)


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実朝の首塚・金剛寺/神奈川県秦野市

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この日は、「関八州式内社めぐり」、相模国式内社の二回目で、足柄上郡松田町の「寒田神社に参拝した後、幹事の計らいで、ここを訪れました。

【実朝の首塚】
所在地:秦野市東田原1018-2
訪問日:2017年6月30日

承久元年(1219)1月27日鎌倉幕府三代将軍・実朝(27歳)は鶴岡八幡宮の境内で、二代将軍・頼家の子:公暁(20歳)により、暗殺され、実朝の首は、武常晴により秦野に運ばれ、埋葬され、これが現在、秦野市東田原にある、「実朝の御首塚」だと言い伝えられています。

三代将軍実朝は鶴岡八幡宮の年頭の式に出席した帰りに、石段の所で兄頼家の遺子「公暁」により暗殺されました。公暁は実朝の首を抱えて逃走し、三浦義村の屋敷に向かいましたが、義村には北条氏より、公暁追討が命じられており、そこで討たれました。
三浦氏の家臣長尾定景父子と共に三浦義村より公暁を打ち取る命を受けた、武常晴は、偶然に、実朝の首を得ることが出来、常晴は、三浦氏と仲の悪かった波多野忠綱を頼り秦野の地に来て埋葬したと伝えられています。
それが、現在東田原にある実朝の御首塚です。
その後、波多野氏は、実朝の三十三回忌に金剛寺にお堂を増築し、首塚を飾っていた五輪木塔を石塔に替え、阿弥陀堂に移しました。なお、首塚を飾っていたと伝えられる五輪木塔は、現在鎌倉国宝館に収蔵されています。

吾妻鑑には北条政子の遺体は勝長寿院に。実朝は高野山の金剛三昧院に葬られていると記録されています。しかし 現在は鎌倉市の「寿福寺」の「やぐら」という横穴の中に政子と実朝親子の二つの五輪塔が置かれ供養されています。

関係系図
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駐車場でバスを降り、首塚に向かう。
鬱蒼とした森になっている。
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紫陽花が咲いていた。
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木立のなか、墓を明るくするためだと思うが、刈りこまれた木立の下に首塚はあった。
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五輪塔、石灯篭、三重塔などが並んでいる。
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傍らに立つ石灯篭は、文政3年(1820)奉納のもの。
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五輪塔は、大小二基が並んでいる。
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供えられている物から、小さいほうが本来のものと判断される。
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三重塔は、平成6年に奉納されたもの。
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私らは、駐車場のほうから入ったが、反対側が正式な入り口だったみたいだ。
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説明板
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実朝の歌碑
源実朝は歌人として知られ、家集に『金槐和歌集』がある。
首塚に建てられた歌碑は、『金槐和歌集』に載せられた一首で、実朝研究家で歌人の佐佐木信綱が揮毫した。
※『金槐和歌集』の「金」は鎌倉の鎌の偏を表し、「槐」は大臣のことを表したものであることから、「鎌倉の右大臣の家集」という意味があるという。
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「ものいわぬ 四方のけだもの すらだにも
 あはれなるかなや 親の子をおもふ」
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【金剛寺】
所在地:神奈川県秦野市東田原1116
訪問日:2017年6月30日

金剛寺は、実朝の首が埋葬されたことがその始まりとされている。
金剛寺は、もともと小寺でしたが、鎌倉時代に武常晴(つねはる) が3代将軍源実朝の御首(みしるし)を当寺に持参して埋葬したことに始まるといわれています。退耕行勇(たいこうぎょうゆう)を招いて木造の五輪等を建て実朝の供養をしました。 その後、実朝の法号金剛寺殿にちなみ、金剛寺と改めました。1250年(建長2年)に、波多野忠綱(ただつな) が実朝の33回忌のため再興しました。本堂には、源実朝像が安置されています。

山門
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阿弥陀堂
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中には、阿弥陀三尊と大きな阿弥陀如来坐像があり。
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阿弥陀三尊の足元に、木製五輪塔と源実朝像の写真が置かれていた。

首塚は、もとは木製の五輪塔であったと伝えられ、その五輪塔は、現在、鎌倉国宝館に寄託されている。
その写真
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源実朝像の写真
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本堂
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本当の前には、大きな小僧さんの石像があった。
最近、あちらこちらのお寺に、小僧さんの石像が置かれているが、こんなに大きいものは珍しい。
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境内に、「災害時井戸」の標識がつけられた、掛け放しの井戸があったが、お釜の形で面白かった。
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境内は、色々な花が咲いていて、とても良い印象の寺でした。
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(了)


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横浜港周辺散策(後半)

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5月16日(火)に歴史クラブ行事で、横浜港周辺散策に参加しましたが、その後半の記事です。
元町中華街駅からスタートし、ベーリックホール、外人墓地、港の見える丘公園、KKRポートヒル横浜で昼食、フランス山から山下公園に出ました。

周辺地図
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ちょうど、「マリーンリュージュ」と言う観光船が入って来た。
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横浜港観光船乗り場
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山下公園、昔は何もない印象でしたが、花壇がだいぶ整備されましたね。
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ホテル・ニューグランド
横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。
開業当時から、皇族、イギリス王族などの賓客や、チャーリー・チャップリン、ジョージ・ハーマン・ルースなど著名人も多数来訪し、ダグラス・マッカーサーは1937年に新婚旅行の帰路、1945年にSCAPとして来日直後、それぞれ滞在している。
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氷川丸
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氷川丸は、2013年4月25日に、やはり歴史クラブの行事で「三渓園~横浜」を訪れた際に見学しました。

その記事を見る


「ガーデン・ベア」というキャラクターが居た。
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新生なった大さん橋
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「赤い靴はいてた女の子」
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大桟橋に向かう途中、こんな壁画があった。
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大さん橋入り口手前にあった「101年間旧大さん橋を支えた螺旋杭」
お疲れ様でした。
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大さん橋
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大さん橋国際客船ターミナル (Osanbashi International Passenger Terminal) は横浜港で大型客船が複数同時着岸できる主要旅客ターミナルとして建設された。クイーン・エリザベス2クラスの客船が2隻同時着岸できる。また3万トン以下クラスの客船であれば4隻同時着岸が可能であり、その規模は神戸港の新港第四突堤(神戸ポートターミナル)に次ぐ。建物は、内部に柱・梁がなく、また階段が無くスロープやエレベータで昇り降りする非常に先取的構造となっている。また、屋上はウッドデッキ及び芝生広場となっており、24時間自由に出入りできる、公園のような場所となっている。
屋上の新しい愛称は「くじらのせなか」だそうである。

ウッドデッキは気持ちがいい。
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ちょうど接岸していた船は、後で調べてみると「ロイヤル・ウィング号」といい、結婚式が出来るウェディング・クルーズ専用の船だった。
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ベイブリッジ
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気持ち良さそうに散歩している親子連れ。
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広大な「くじらの背中」の向こうに「みなとみらい」が。
こちら側には階段
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階段を上がると、フラットデッキが広がっている。
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みなとみらいの全景
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屋形船の観光船が出ていく。
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それにしても、ウッドデッキは気持ちいい。
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赤レンガパークに向かう途中、レンゲ草が咲いている広場あり。向うに見えるのは「開港記念館」。
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種ダンゴ花壇の向こうに赤レンガ倉庫。
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赤レンガパーク
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まだ線路の跡が残っている道を海上保安庁に向かう。
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旧税関事務所の遺構
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海上保安庁の「工作船資料館」
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平成13年12月22日に、九州南西海域で不審な船が発見され、海上保安庁の航空機が追尾、巡視船「いなさ」が現場に到着し追尾。
工作船は停船命令を無視し逃走を図ったため、銃撃戦となった結果、海上保安庁職員3名が負傷、工作船は自爆して沈没した。
平成14年にこれを引き上げて保存、現在は公開されている。

船尾に、小型船を格納している親子構造。
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通常の漁船の5倍の能力のエンジンを搭載。
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船首から
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みなとみらいに向かいます。

万国橋交差点にある、門型の珍しいホテル「ナヴィオス横浜」
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明治40年に出来た鉄道橋梁を行きます。

第三橋梁跡
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良い眺めです。
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第二橋梁
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まだレールの跡が残っている。
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横浜ランドマークタワー
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第一橋梁
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ランドマークタワーの横に置かれている帆船日本丸
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日本丸は昭和5(1930)年に建造された練習帆船です。昭和59(1984)年まで約54年間活躍し、地球を45.4周する距離(延べ183万km)を航海し、11,500名もの実習生を育ててきました。昭和60(1985)年4月より、みなとみらい21地区の石造りドックに現役当時のまま保存し、一般公開をしています。船の生活を体験する海洋教室やすべての帆をひろげる総帆展帆などを行い、帆船のすばらしさ、楽しさを伝えています。

ランドマークタワーに到着。
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ランドマークタワーの下で解散し、展望台に上る人、他の場所でショッピングを楽しむ人などに分かれて、帰途につきました。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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