築地・波除神社/つきじ獅子祭り

20180702

6月8日(金)に、築地の波除神社の「つきじ獅子祭り」を歴史クラブ行事で見てきました。
しかし事前の調査不足で、この日13:30に神輿が出ると思い出掛けたのですが、実際は15:30出発ということでした。
神輿を藏から出して組み立てるところを見ることが出来た。

11時少し前に、地下鉄築地駅に到着。そのまま直行して、予約していた寿司屋さんで昼食。

12:15くらいに波除神社に到着。
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波除神社HPによれば、
今から350年程前、この築地一帯は一面の海でした。江戸開府(1603)時の慶長江戸絵図には、今の日比谷のお堀の辺りまで汐入を描き、八重洲の海岸に船の役所が見えます。開府前より始まった江戸城西丸の増築に掘られた、お堀の揚げ土を以って日比谷入江から埋め始められた、江戸東南海面埋立は、その後全国の諸侯七十家に千石に一人の人夫を出させ、後にはその埋立の役員の名をとり、尾張町、加賀町等と名附けられました。
 そして70年の後、明暦の大火の後に4代将軍家綱公が手がけた最後の埋立の工事困難を極めたのが、この築地海面でした。堤防を築いても築いても激波にさらわれてしまうのです。

 或夜の事、海面を光りを放って漂うものがあり、人々は不思議に思って船を出してみると、それは立派な稲荷大神の御神体でした。皆は畏れて、早速現在の地に社殿を作りお祀りして、皆で盛大なお祭をしました。ところがそれからというものは、波風がピタリとおさまり、工事はやすやすと進み埋立も終了致しました。萬治2年(1659)の事です。

 人々は、その御神徳のあらたかさに驚き、稲荷大神に 『波除』 の尊称を奉り、又雲を従える<龍>、風を従える<虎>、一声で万物を威伏させる<獅子>の巨大な頭が数体奉納され、これを担いで回ったのが祭礼 『つきじ獅子祭』 の始まりです。

 それ以来今に至るまで、「災難を除き、波を乗り切る」 波除稲荷様として、災難除・厄除・商売繁盛・工事安全等の御神徳に崇敬が厚いのであります。その御神徳はその後も益々大きく、当時辺境の地であった築地も次第々々に開け、現在の如く繁華街となったのであります。

拝殿の前には、大きな「為朝公」の幟がある。
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六月大祭より夏越の大祓まで、古来当神社に伝えられたもので為朝公の御像を模したお札が授与されるそうで、
為朝公の山車も出るようだが、為朝公と波除神社の縁については帰ってからネットで調べてもわからなかった。

まずは参拝
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立派な賽銭箱だ。
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拝殿内
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幣殿には両側に獅子頭が。
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今日は、「天井大獅子」は出番なし。
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今から330年前、埋立工事は難航を極めたが、ある夜、海面に光って漂う御神体を見つけ、社殿を造りそこに祭ったところ、波風がおさまり工事はやすやすと進んだ。人々は「波除」の尊称を奉り、今に至るも崇敬が厚い。この波除稲荷神社の例大祭に「日本一厄除天井大獅子」が出御し「つきじ獅子祭」と呼ばれている。巨大な獅子頭を担ぎ棒で組み、神輿のように担ぐもので江戸時代、すでに著名だった。大正2年、大正の御大祭には、各神社が神輿を宮城前に担ぎ入れる中にただ1社、大獅子を担ぎ入れ奉祝した伝統を持つ。
平成二年に雄の「天井大獅子」が黒檜一木造りで高さ2、4メートル・幅3,3メートル・重さ1トンの白木の巨大な姿で再興されました。
 そして平成十四年、雌の大獅子「お歯黒獅子」が木彫で高さ2、15メートル・幅2,5メートル・重さ700キロ、担ぎ棒が組み入れられる台座に固定され、朱塗りの姿で再興されました。雌を現す頭の宝珠の中には、ご創建時に同じく奉られた弁財天のご神像を新調しお納めし、弁財天・お歯黒獅子として手水舎も組み込んだ社殿に納められました。この雌獅子はこの年から担がれ、女性だけの担ぎ手の区間が設けられ、築地名物として定着しつつあります。
平成24年には大獅子の復興作業最後の締めくくりとして、江戸時代以来焼失していた龍虎の頭も復興し、神社創建以来初となる神社千貫宮神輿雌雄一対の大獅子と宮神輿すべて担いでの御巡行を執り行い、江戸時代以来の獅子を担ぐ伝統と、昭和に新たにできた千貫宮神輿を加え、伝統と新しさを兼ね備えた江戸随一の祭りとなります。

「弁才天お歯黒獅子」は、今日出番があるのでここには不在。
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波除神社に向かって右の道路に居た。
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しばらくして、拝殿の左側の神輿庫から、千貫宮神輿が出てきた。
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拝殿前に置かれ、担ぎ棒などの組み立てが始まった。
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ふいっと気が付いたら、お歯黒獅子がどこかに出掛けて行った。
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そんなに時間が経たないうちに、戻って来た。
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また、元の場所に置かれた。
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組み立てが終わった千貫宮神輿を、じっくり拝見。
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お歯黒獅子が入場してきた。
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お歯黒獅子に、弁才天が描かれた後ろ幕が張られた。
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氏子さんたちも、これでしばらくのんびり。
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洒落たアクセントのついた足袋を履いている人もいた。
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一応、これで神輿の組み立ては終わったので、この場を離れた。
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入れ替わりにやってきた、いなせな人物とすれ違い。
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場外市場は、当然今日も賑わっている。
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市場からの、カートがひっきりなしに通る。
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休憩所を見つけてしばらく休んでから、今日は何をお土産にしようかなと、物色。
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参加者の集合場所、築地本願寺に早めに戻り、中で居眠りしながら全員が戻るのを待った。
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早目に集合したので、ちょっと歩いて銀座まで出たら、ちょうど赤坂日枝神社山王祭の神幸祭の行列が銀座通りを来るのに遭遇。
ラッキーということで、それを見てから帰途についた。

(了)


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所沢滝の城まつり

20180620

5月20日(日)に行われた、この祭りに歴史クラブ行事として参加しました。

JR武蔵野線東所沢駅に10:00頃到着。そこから25分歩いて、「滝の城跡」に到着。

滝の城跡はWIKPEDIAによれば、
滝の城(たきのじょう)は、埼玉県所沢市 城に所在した日本の城である。 同市の東端で隣接する東京都清瀬市との都県境、柳瀬川の北岸に位置し、豊かな緑に覆われた断崖の上に 曲輪や空掘り跡などが残っている。
戦国時代には、関東管領上杉氏の家臣で武蔵国守護代 大石氏の滝山城(後に八王子城)の支城として対岸の清戸番所との関係もあったとされる。その後大石定久の代に後北条氏の支配下となり北条氏照の支城になった。 氏照は本拠の滝山から北関東に度々出陣しており、その直線上にあたる滝の城は軍勢集結の拠点になった。1564年(永禄7年)の北条氏による下野への遠征の際にはこの城で陣揃(じんぞろえ)が行われたことが記録されている。
その後1590年(天正18年)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に、浅野長政率いる豊臣方に城北側の大手方面から急襲され八王子城と共に落城、徳川家康の関東入国の領内整備の頃には廃城となったと推測されている。

滝の城まつりは、今年で7回目とのこと。
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滝の城跡に着いて、本日のプログラムを入手。
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イベントの剣舞、よさこい踊りは終わったようなので、とりあえず本丸跡の城山神社にお参り。
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周囲を見渡すと、けっこう高いところにあり、城を構えるにふさわしい場所だ。
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城の縄張り
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後北条氏の城の特徴である、畝堀もちゃんとあったようだ。
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イベントが始まる前に、適当に各自持参のお弁当を食べてしまうことにして、各自適当な場所で昼食。
それから、滝の城跡の縄張りを見て歩いた。

本丸の周りの堀に降りた。
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城山神社参道の急な石段は、本日は通行止め。
混雑すると、将棋倒しなど恐れてのことだろう。
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右が本丸跡、かなり堀は深い。
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堀に「折れ」などをこしらえたり、複雑に工夫されている。
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本丸虎口
通常は橋をかけていた。橋を落せば容易に近づけない。
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今日の合戦のために、大筒が用意されていた。
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馬出
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二の曲輪のところに、お囃子の屋台が出ていた。
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東所沢駅を出発した武者行列が、城址に到着。
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お比佐様?
どんな方なのか、帰ってから調べた。
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お比佐様とは:
北条氏照の内室が「比佐様」である。
八王子城主・北条氏照の持ち城「滝の城」(埼玉県所沢市)から柳瀬川を清戸番所(といわれている、東京都清瀬市)の方へ渡り、東久留米市(東京都)へ入ると、大石氏開基の「浄牧院 じょうぼくいん」という名刹がある。
「滝の城」には氏照の正室が住んでいて、城(滝の城)が落ちる時に浄牧寺に逃れてきたという言い伝えがある。そして、そのお墓と伝えられているものがある。
一方で、氏照の内室比佐様は、八王子城で亡くなったことになっているようでもある。

なかなか、恰好いい武士が続く。
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ほら貝もいい音で吹いていた。
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八王子隊
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清戸三番衆
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カメラの前でポーズを取ってくれる武士も。
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メイン会場に勢揃い
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メイン会場脇に置かれた大筒に子供たちは興味深々。
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所沢市のゆるキャラ「とこロン」も居た。
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主役たちが勢ぞろい
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メイン会場で、楽しみにしていたイベントを堪能。

〇演武「新陰流正伝上泉会」
新陰流兵法は、上州上泉城の城主、上泉伊勢守信綱という人が今から480年前の天文7年(1538年)に創流した。伊勢守はこの新しい剣術を広めるため息子の秀胤以下の弟子数人を連れ、各地を歴訪。
古河公方足利晴氏の紹介状を持って玉縄城の北条綱成を訪ねた伊勢守一門は、見事な演武と指導を行い綱成を感服させた。そこで伊勢守に心酔した綱成は、伊勢守を主君の北条氏康に引き合わせた。
 伊勢守の演武を見た氏康はぜひとも伊勢守を味方に付けたいと考えましたが、一城の主でもあった伊勢守は、剣術師範は引き受けたものの、家臣になることは固辞。しかし氏康はなおも諦めず伊勢守の協力を求めたため、伊勢守はついに嫡子の秀胤を北条家に剣術師範として仕官させることにした。こうして上泉家は、嫡孫泰綱の代に北条家が滅亡するまで、北条家の侍に新陰流を指南することになった。
「新陰流正伝上泉会」は流祖上泉伊勢守以来の新陰流の術技を忠実に継承し、次代に伝えようと本伝を中心に据えて稽古する稀有の団体。

動画を撮ったので、ユーチューブにアップしてあります。
型の披露、袋竹刀での演武、木剣での演武と続く。

その動画を見る


〇所沢・天神太鼓
同じく、動画を撮って、ユーチューブにアップしてあります。
二曲を連続して録画してあります。

その動画を見る



いよいよ合戦絵巻

城主のもとにご注進
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出陣式
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守る北条方と、攻める豊臣方が対峙する。
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槍の乱戦
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大筒も、盛大な音を立てる。
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大将の一騎打ち
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大将の一騎打ちに決着がつき、合戦は終了。
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帰りはスムーズにシャトルバスに乗れて、楽々東所沢駅に到着。帰途についた。


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石見神楽/大宮氷川神社

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場所:埼玉県大宮市氷川神社舞殿
上演日:2017年10月14日

氷川神社の「明治天皇御親祭150年大祭」の行事として、島根県浜田市の長浜社中を招いて夜神楽を催すということで、滅多に見られないのでと、家族で観にいきました。
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早目に行くと、舞殿には既に舞台が用意されていた。
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社殿の反対側には楽屋が設けられていた。
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時間が近くなると、舞殿の周りに観客がたくさん並んだ。
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上演されたのは、「神楽」、「塵輪(じんりん)」、「恵比須」、「大蛇(おろち)」の4演目。

そのうち、「塵輪(じんりん)」と「大蛇(おろち)」を動画で撮影したので、紹介しておきます。

演目【石見神楽「塵輪(じんりん)」】
ストーリー:
第14代天皇帯中津日子(仲哀天皇)が、異国より日本に攻め来る数万騎の軍勢を迎え撃つ。
その中に身に翼があり黒雲で飛び回る「塵輪(じんりん)」という悪鬼が、人々を害していると聞き、天皇自ら「天の鹿児弓」、「天の羽々矢」をもってこれを退治する。

動画(前半)を見る


動画(後半)を見る



演目【大蛇(おろち)】
ストーリー:
高天原を追われた須佐之男命が出雲の国斐の川(斐伊川)にさしかかると、嘆き悲しむ老夫婦と稲田姫に出会う。
理由を尋ねると、八岐の大蛇が毎年現れ、既に7人の娘が攫われ、残ったこの稲田姫もやがてその大蛇に攫われてしまうと言う。
一計を案じた須佐之男命は、種々の木の実で醸した毒酒を飲ませ酔ったところを退治する。そのとき、大蛇の尾から出た剣を『天の村雲の剣』と名づけ、天照大御神に捧げ、稲田姫と結ばれる。

動画(前半)を見る



動画(後半)を見る



一昨年に出雲・松江地方を旅行した時に、観たいと願ったのだが上演日でなかったために、観ることが出来なかった。
それだけに、今回本場の神楽を観ることが出来たのは、嬉しかった。
神事といいながら、石見神楽は「演芸」的な要素が強く、衣装が豪華絢爛、ストーリーは単純でわかりやすく、ドラマチックだった。
特に「大蛇」は、狭い舞殿に4頭ものオロチが火を吐き、煙の中で入り乱れ、乱闘する様はものすごかった。
本当に堪能しました。

終わったあと、観月雅楽の会などでもそうだが、すぐ近くのお蕎麦屋さんに駆け込み、冷えた身体を温めて、満足して帰途についた。

参道には、「明治天皇御親祭150年大祭」の提燈が飾られていて、見事だった。
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(了)


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麦屋まつり/富山県南砺市城端

20170921

所用があり、16日から18日まで家族で北陸に帰っていました。
16日は富山県南砺市福光で用事を済ませ、その後ちょうどこの日は城端で「麦屋まつり」があったので、楽しみました。
平家落人部落として有名なのが「白川郷」と「五箇山」です。
隣接していて、岐阜県側が「白川郷」、富山県側が「五箇山」となります。

約800年前、権勢と栄華を極めた平家一門は屋島・壇の浦の合戦に敗れてついに滅亡。日本各所へ落ちのびた平氏の中に、人里離れた越中五箇山を安住の地とした人々がいました。慣れない山仕事や農作業の合間に落人たちが都を偲んで唄い踊ったのが麦屋節の始まりだと言われています。 哀調を帯びた旋律にのせて描かれる落人たちの切なる心模様。凛とした気概を映し出す風格ある舞い。その独特の魅力は富山県を代表する祭として、人々の心を魅了しつづけています。

「五箇山」の麓にあるのが城端(じょうはな)町で、この日は五箇山と城端でそれぞれ「麦屋まつり」があります。

何か所かに会場が設けられていましたが、私たちは「城端別院善徳寺会場」と「浄念寺会場」で楽しみました。
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【城端別院善徳寺会場】
善徳寺は、浄土真宗大谷派の別院です。

踊りは、本堂の回廊で奉納されます。
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●麦屋節/善徳寺
この唄の歌詞には、平家の落人であることが唄いこまれています。

主な歌詞:
麦や菜種は二年で刈るが
麻が刈らりょか 半土用に

浪の屋島を遠くのがれ来て
薪(たきぎ)こるてふ 深山辺(みやまべ)に

烏帽子(えぼし)狩衣(かりぎぬ)脱ぎうちすてて
今は越路(こしじ)の杣刀(そまがたな)

心淋しや落ち行くみちは
川の鳴瀬と鹿の声

川の鳴瀬に布機たてて
波に織らせて岩に着しょう

鮎は瀬につく鳥は木に止まる
人は情の下に住む

麦屋踊りを動画で撮りました。

その動画を見る


●古代神(こだいじん)/善徳寺
 「古代神」は五箇山三村で、麦屋節についで重要なレパートリーで、飛騨白川郷でも盛んに歌われている。「小大臣」ともいわれ越後の「新保広大寺」の系統をひき、江戸時代中期に五箇山に入り明治の頃には製紙の作業歌として歌われ軽妙な楽しい歌です。

主な歌詞:
○家のサーエ 小娘ふじゃけたじゃけた 赤い襷を ちょいちょいかけて
背戸の小川へ 朝水汲みに 船の船頭さんに 晒三尺もろた
  何に染めよかと 紺屋の兄さんに問えば  一に朝顔 二に杜若
 三に下がり藤 四に獅子牡丹 五つ伊山の千本桜 六つ紫 桔梗に染めて
  七つ南天 八つ八重桜 九つ小梅を ちらしに染めて
  十で殿御の 好きなように染めやしゃんせ サーエ

○おらちゃサーエ お背戸に山椒の木がござる そのマ山椒の木に 蜂が巣をかけた
  蜂も蜂かよ 足長蜂じゃ 羽が四枚あって 足が六本ござる
  そのマ蜂めは 尻に剣もござる わしとお駒が 御拝の縁で
  心中話をしておりますと そこへ蜂めが パーッと来て チクリ刺す
  ツーッと来ちゃ チクリ刺す
  わしもそのときゃ 死ぬかやと思うた サ-エ

動画を撮ってきてアップしましたが、二つの地域の踊りを繋げてあります。
地域に寄って踊りが違うのを楽しんでください。

その動画を見る


●といちんさ節/善徳寺
「といちんさ」は、五箇山地方に生息する日本一小さい鳥「みそさざい」をこの地方では「サイチン」と云い、水屋の樋(とい)のそばで遊んでいる様子を「トイのサイチン」と言っていたものが詰まって「といちんさ」となりました。春を告げるサイチンの歯切れの良い鳴き声や軽やかな動きが唄のテンポや明るさにも現れています。


歌詞:
樋のサイチン機(はた)織る音に
ア トイチン トイチン トイチンサー
ヤーサレーチ トチレチ トイチンサ トイチンサ
拍子そろえてサーサうたいだす
ア やれかけはやせよ トイチンサ トイチンレチヤサレチ

わしがナー 若いときゃ 五尺の袖で
道のナ 小草も サーサなびかせた

鳥がナーうたえば
早や夜も明けて
紙屋ナーのぞきの
サーサー窓もはる

声はナーかれても
まだ木(気)は枯れぬ
藤のナー花咲く
サーサほととぎす

来いナーと言われて
手で招かれず
笹のナー五笹(いささ)の
サーサ葉で招く


動画は、「といちんさ」を少女たちが踊ったのを撮りました。

その動画を見る



【浄念寺会場】
続いて、浄念寺会場に移動して見ました。
小雨が降りだしていて、囃し手はお堂の屋根の下で、踊り手さんは小雨の中濡れて踊っていました。
会場は坂の途中で、私たちは坂の上のほうから見下ろす形で見ていました。
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●麦屋節/浄念寺会場

その動画を見る


●古代神・四つ竹節/善徳寺
「四ツ竹節」は五箇山地方に伝承されている盆踊り唄。
この唄が「四ツ竹節」と呼ばれて歌われるようになったのは昭和30年頃からで、それまでは「島心中」の名で歌われていた長編の口説きでした。
昭和30年頃平村に転勤してきた教員が歌詞を作り「島心中」のメロディで歌うようになってから広がりました。
伴奏楽器には『四つ竹』が入ることから「四つ竹節」となったといいます。

主な歌詞:
<なげ節>
○牛と主との 心の通い 手綱便りに 道語る
○牛は六歳七ツが盛り 人は二十一、二が盛り  <ハイ トッパメー>

<追分>
○五斗俵かづいてもイナ 道若杉ぬイナ (ハ オッソコソコソコ)
  男伊達なら 二俵かづくイナ (ハ オッソコソコソコ)      (以下、唄ばやし同様)
○五斗俵二俵はイナ 及びもないがイナ  せめて楮(こうぞ)の いわごいをイナ
○姿見えねどイナ 朝霧ついてイナ 唄は追分 鈴の音イナ
○朴峠(ぼとうげ)追分イナ 身の毛もよだつイナ  下は谷底 人喰らいイナ
○牛の二俵はイナ 鈴の音高いイナ 追うは無駄ごと ひかれづめイナ
○高い山からイナ 谷底見ればイナ 瓜や茄子の 花盛イナ 

その動画を見る



その後、「じゃんとこい・むぎや」(よさこい)を見ようと会場に向かいましたが、残念ながら雨のため中止となった直後でした。
一時間半くらい、麦屋踊りを中心に見られたので、満足してホテルに向かいました。

(了)


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笹井・豊年足踊り/埼玉県狭山市

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2017年4月16日(日)に、歴史クラブの行事で見学を企画しました。

14時くらいに笹井の白鬚神社に到着。
ここの春祭りで行われます。
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拝殿
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今回は、団体で見学に訪れたので、保存会の方が演じる前に、説明をしてくださいました。
また、事前に詳しい説明の記事をいただいていたので、とても参考になりました。
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「豊年足踊り」は、明治中期に地元の百性桜井藤太郎氏が土蔵や屋根裏でひそかに工夫を重ね苦心の末、完成させたもので、踊り手は床に寝て足を立て、右足に「おかめ」、左足に「ひよつとこ」の面と衣装を付けて、舞扇,日傘などを使い磯子に合わせて踊るものです。
独特の動き・豊富な色彩は、素朴な「男女相愛」の様を表すとともに、「五穀豊穣」を祈る心情表現として永く地元白鬚神社に奉納されている所から「笹井豊年足踊り」と呼ばれています。
昭和52年狭山市の無形文化財に指定されました。
山車の上では一人で演じますが大きな舞台になりますと3~5人で演じます。

最初に演じられたのは「天狐の舞」

【天狐の舞】
白狐は神の使者、正しき事は何処までも通す強い意志と迫力を表し幣束を打ち振り、悪霊を追い払い、この世に平和を招く。
右手に持った2本の幣束を両手に分け頭上に掲げる所作は山車に天降った神が昇天していく様を表しています。
どのような舞台でも屋台の曲で「天狐の舞」を最初に舞うのがしきたりです。
一連の踊りは別名「翁漉し」と呼ばれます。
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動画を撮影してきたので、ユーチューブにアップしました。

その動画を見る



【豊年足踊り】

このように足の先に面をつける。
(2015年10月の秋祭りの際に撮ったもの)
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足を高くあげて、色々な踊りを披露します。
10分以上、ずっと足を上げたまま踊りを披露しているのは、すごいものだと感心します。
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こちらも、動画を撮影してきたので、ユーチューブにアップしました。

その動画を見る



踊りを見たあと、山車に残る戦災の跡を見せてもらいました。
昭和20年5月、狭山市の黒須地区、笹井地区に、B29爆撃機500機のうち1機が、迷って飛んできて焼夷弾5000発を投下しました。
この一帯は火の海となり、死者13名、被災所帯69戸に達しました。
白鬚神社も拝殿と社務所を焼失、本殿は無事でしたが、奏上門の破風にその黒焦げの跡が残っています。
山車小屋は被弾しましたが、幸いにも不発弾で山車の消失は免れました。
山車には、今でも弾の跡が残っています。

山車
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今も残る弾の跡
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前回、個人で見に来た時には、神楽殿で行われたのを見ましたが、今回は山車の上で演じられたので、それがとても良かった。
豊年足踊りは、何度みても感心してしまいます。
とてもいい伝統芸能です。
ぜひ地域の宝として、守っていって欲しいと思います。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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