太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(3)

20180505

4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城

前回、早雲寺まで記事にしました。
今回は石垣山一夜城からです。

【石垣山一夜城】
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豊臣秀吉が1590年(天正18年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる(一夜城の名もそれに由来する)。

石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であった。約3〜4万人を動員し、80日で構築された。秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りは城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などが非常に肥前の名護屋城に似ていることから、黒田如水であったとしている。

1959年に国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている。

私たちが駐車場でバスを降りたのは、南曲輪の下。

南曲輪下石垣の角石は、関東大震災で崩れたままとなっている。
関東大震災で崩れたところは各所で見られた。
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ここの石垣の特徴は「野面積み」である。
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石垣が終わった所で、振り返って石垣の全景を見る。
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ここから、天守台までは、たぶん近道なのか、辛うじて道らしいところを上がる。
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〇西曲輪跡
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ちょっと道らしいところを上がる。
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〇天守台跡
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ここから、平らな本丸跡を突っ切って物見台に行く。
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〇物見台
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ここで、「小田原合戦と一夜城伝説」をおさらい。
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続いて、最近地質学に目覚めている私にピッタリの説明が。
小田原って、こんな所だったのか!!
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プレートがぶつかり合って、隆起した大磯丘陵を眺める。
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ところで、小田原城はどこだ?
ここでも、カメラのズームが物を言いました(嬉)
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場所がわかると、肉眼でもちゃんと見えましね。

小田原城を探し当てて、落ち着いたところで、改めて本丸跡を確認した。

〇本丸跡
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足もとに二の丸跡が見える。
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〇二の丸跡
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石垣山の縄張りを誰がしたのか、判っていないみたいです。
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〇展望台
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薄くなってよく読めないが、長興山、早雲山、明神ケ岳の方向
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反対方向の、小田原城は見えるか?
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ズームしたら、小田原城の屋根が見えた。
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急な斜面を降りて井戸曲輪跡に。
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〇井戸曲輪跡
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下の方に、井戸に水が溜まっているのが分かる。
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ここから、駐車場に戻る間は省略。

江戸城修築のために、ここが「石丁場」という石を調達する場所だったとのこと。
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これで、石垣山一夜城の探索を終え、小田原城に向かいました。

【小田原城】
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。

北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。

現在の小田原城
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駐車場から、住吉橋を渡って「銅門」から入る。

〇住吉橋
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住吉橋を渡ると、枡形の向こうに「銅門」がある。
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〇銅門
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門扉の外側に「石落とし」がある。
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門の二階に上がる石段は、いかにも実戦的だ。
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銅門をしじると、天守が見える。
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〇イヌマキ
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東堀を渡って常盤木門へと続く。
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〇東堀跡
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〇常盤木門
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例によって、枡形を経て常盤木門
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〇本丸跡
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〇天守閣
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天守閣の入り口には石段を上る。
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天守閣の中に在ったジオラマ。
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天守閣の中には様々なものが展示してあったが、時間が無くて、とにかく最上階を目指した。

天守閣からの眺め。

小田原駅の向こうに、大山、丹沢。
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戦国時代の遺構が残る、八幡山郭跡
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石垣山一夜城方向。
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目印が無いので、鉄塔の位置が頼りで、この辺だ。
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伊豆半島、真鶴半島
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晴れていれば伊豆大島が見えるようだが、残念。
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江ノ島方面
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以上で、全ての探索は終り。
念願だった山中城をはじめ、この日は収穫が多くて、楽しい一日だった。
満足して帰途についた。

(了)


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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(2)

20180501

4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城

前回、山中城の西の丸、一番高い所まで上ったところまで記事にしましたが、その続きです。
西櫓の富士山側から、宗閑寺に向かって降りていきます。
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この辺に、西櫓との橋が架かっていたみたいだ。
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こちら側から、美しい障子堀を眺める。
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西の丸下から西櫓を望む。
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一旦斜面の林の中を降りて行き、西の丸を目指す。
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〇西の丸
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西の丸の土塁の上から西櫓を見る。
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西櫓と西の丸との間の障子堀
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さっき上がって来た西の丸畝堀を見下ろす。
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西の丸から降りて、元西櫓に上がる。
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〇元西櫓
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元西櫓と二の丸に架かる橋
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二の丸側には虎口が設けてある。
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〇二の丸
広い。
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〇本丸堀
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〇本丸跡
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駒形・諏訪神社まで降りて来ました。
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樹齢約600年の大カシ。
あの、阿鼻叫喚の一日を生き延びた樹である。
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鳥居のところに、庚申塔とお地蔵さんが鎮座。
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これで、山中城探索は終りです。
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見事な石楠花です。
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ここで、また箱根旧道に入り、「雲助徳利の墓」を見に行く。
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〇雲助徳利の墓
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国道1号線を宗閑寺に向かう途中、黄色の石楠花を発見。
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【宗閑寺】
所在地:静岡県三島市山中新田94-1
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この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和(げんな)年間(1615~1623)であろうと推定される。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立した。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城したが、このときの北条方の副将が間宮康俊だった。お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀り、供養するためにこの寺を創建したと言われている。
このお寺の珍しい点は、敵でありこの合戦で戦死した一柳伊豆守直末(ひとつやなぎいずのかみなおすえ) の墓もあるというところです。また、隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではありませんが、山中城主松田直長(まつだなおなが)の墓にはクルス紋があります。

各武将の墓
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一柳伊豆守直末の墓
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北条方の墓
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山中城主松田直長の墓
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【早雲寺】
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405

臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある。
大永元年(1521年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。
だが、大徳寺側の記録では大永元年当時の以天宗清は同寺にいたとされているため、創建年次に関する2つの異説が唱えられている。岩崎宗純は宗清が韮山の香山寺にいた永正年間にまだ健在であった早雲の依頼で湯本に「早雲庵」と呼ぶべき前身寺院を建立したのが事実上の創建で、早雲の死後に菩提寺に改めたとする説を唱えている[2]。これに対して黒田基樹は早雲寺の創建が大永元年とする寺伝そのものが江戸時代以前に存在しない(つまり江戸時代の創作である)とする立場から、早雲寺に湯本の門前町が寄進された年代不明の氏綱発給文書がその花押形が享禄4年(1531年)以降のものであることを指摘して、早雲寺の創建を門前町の寄進の前後である享禄・天文年間であったとする説を唱えている[3]。
天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。

山門
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本堂
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〇後北条氏5代の墓
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五代の墓が横一直線に並ぶ。
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下に「伊勢新九郎」と彫られた、北条早雲の墓石。
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〇開山堂
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〇連歌師・宗祇の墓
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旅の途中に湯本で生涯を閉じた連歌師・飯尾宗祇(いいお そうぎ)の墓(供養塔)、
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。

〇宗祇の句碑
「世にふるも更に時雨のやどりかな」
後に芭蕉が詠んだ、「世にふるも更に宗祇のやどり哉」 芭蕉
の本歌となります。
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〇山上宗二追善碑
山上宗二は千利休の高弟。
小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたという。
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〇梵鐘
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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(1)

20180430

24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城

豊臣秀吉の小田原征伐の際、戦塵が切って落とされたのは山中城で、戦国時代最大の攻城戦と云われています。後北条氏が山城の防御の知恵を最大につぎ込んで築いた、山城としては最高の名城です。
三島市の努力のおかげで、それが再現されています。
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山中城の探索の前に、250mほどですが、旧東海道の石畳みを味わいました。

【箱根旧道】
国道一号線の、Aポイントでバスを停めてもらい、岱崎出丸入り口の「山中城跡バス停」まで歩いた。
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箱根旧街道の案内
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杉並木の中、若草の中に石畳みの道が続きます。
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作家司馬遼太郎の「箱根八里記念碑」があった。
「幾億の足音が坂に積り 吐く息が谷を埋める わが箱根にこそ」とある。
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傍に馬頭観音もあり。
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杉の木立が美しい。
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250mは、アッという間でした。
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いよいよ、岱崎出丸から山中城攻略です。

北条氏によって築城され、小田原城の支城として位置づけられる。箱根十城のひとつ。
三島市によって当時を反映した整備改修がなされ、堀や土塁などの遺構は風化を避けるため、盛土による被履の上芝を張って保護し、畝堀や障子堀の構造が明確に把握できるように整備されており北条氏の築城方法を良く知ることのできる城跡となっている。
また、北条氏滅亡と共に廃城となったため、北条氏独特の城郭の構造を多く残していることが注目される。

永禄年間(1558年 - 1570年)に北条氏康により築城される。北条氏の本拠地である小田原の西の防衛を担う最重要拠点で、城は東海道を取り込む形で造られていた。
北条氏政の代に豊臣秀吉との関係が悪化すると、山中城は改修し防備を固めることになるが、結局間に合わず未完成のまま豊臣軍を迎える。1590年(天正18年)、小田原征伐で豊臣秀次率いる7万の軍勢が山中城を攻撃、守将は北条氏勝、松田康長、松田康郷、蔭山氏広、間宮康俊ら3千。間宮康俊は寄親北条氏勝等を撤退させて自らは手勢200を率いて三ノ丸~岱崎出丸辺りで豊臣方に苛烈に抗戦した為に、豊臣方も部将の一柳直末など多くの戦死者を出した。しかし戦力差甚だしく猛烈な力攻めの結果わずか半日で落城し、北条方の松田・間宮などの武将や城兵の多くが討死した。戦後、城は廃止された。
1930年(昭和5年)に国の史跡に指定された。1973年(昭和48年)から三島市が公園として整備をはじめ、合わせて学術的な調査もなされた。
2006年(平成18年)4月6日、日本100名城(40番)に選定された。

◇3月29日早朝 山中城を豊臣軍70,000名が取り囲み、中央に総大将豊臣秀次以下、中村一氏、一柳直末、山内-豊、堀尾吉晴統総勢2万人。右翼に池田輝政以下2万人、左翼に徳川家康以下3万人。
◇迎え撃つ北条方、城主:松田康長、副将:北条氏勝、間宮康敏以下 約4千人の将兵、その差はなんと17倍もありました。
◇戦いは岱崎出丸と西櫓から開始され、壮烈な銃撃戦が展開された。中でも先鋒の一柳隊は壊滅的な打撃を被り、直末自身流れ弾に当たり、戦死を遂げました。
一方中村隊も岱崎出丸に執拗な攻撃を繰り返し、渡辺水庵が一番乗りを果たすと、戦いの場はやがて二の丸本丸へ移り、圧倒的な数の前に守備兵は、ほどなく壊滅、城主松田康長も戦死して、正午過ぎには山中城は落城したものと見られます。
両軍の戦死者数は約2千人とも考えられており、戦国時代最大の攻城我と言われております。
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◇城攻めは、攻める方の被害が甚大である為、山中城に見られるような力攻めをしないのが、普通です。では何故このようなすさまじい戦いとなったのでしょうか。そこには、小牧長久手の戦いの汚名をそそごうとする、秀次の決死の覚悟があったものと見られます。そして秀吉の見ている前で、功名を上げようとする秀次の宿老達の善戦があったからに他なりません。
天下の形勢は既に決しており、彼らには、この戦いが功名を上げられる最後の戦いになるかもしれないという思いがありました。出世レースに勝ち残ろうとする武将たちの悲痛な思いが伝わってきます。

それでは、いよいよ岱崎出丸からみていきます。
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本当は、攻め手の気分で下から岱崎出丸に上がっていきたいところですが、道の関係でこの出丸は出丸の上から攻め手を見下ろすことになります。

箱根旧道から岱崎出丸に上がっていく。
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綺麗に整備されていることに驚きます。
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良い季節に来ました。
藤が咲いていた。
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〇出丸御馬場跡
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出丸御馬場と擂鉢曲輪の間の堀
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堀に降りてみた。堀が深い!
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〇すり鉢曲輪見張り台
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下を国道1号線が通っているのがよく判る。
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〇すり鉢曲輪
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かなりな擂鉢だった。
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下の一の堀
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かなりの落差だ。
北条勢は、ものすごい量の弾薬を用意していて、上からの射撃がすさまじくて、ここで寄せてはかなりの死者を出したとのことだ。

来た道を引き返し、一号線からの岱崎出丸入り口に戻る。

観光案内図を見ると、近くに芭蕉の句碑や、最近話題のスカイウォークがある。
再訪必至だ。
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さて、山中城攻略を再開!
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〇三の丸堀
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三の丸堀の横を歩く。
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三の丸堀の上まで行って、全景を見るとなかなかのものですね。
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〇田尻の池
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向う側が、今まで歩いて来た三の丸堀。
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〇元西櫓下の堀
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元西櫓を見上げると、高い!
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〇西の丸畝堀
石をつかわない防御のしかけとして、空堀の堀底に土手を掘り障壁としたものです。
敵が攻め込むためには、畝の道上の部分を歩く必要があり、それには、一列になって進むしかなく、守備側はその手前を重点的に守ればよいので非常に効率的な防御が可能となっています。
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左側は笹の藪になっているが、これは急な崖になっているため、人が不用意に入り込まないようにこうしてると、この辺から一緒になったボランティアガイトさんが教えてくれた。
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いよいよ、待ちに待った「障子堀」が見えて来た。
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西の丸と西櫓の間の障子堀
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後北条の特長が良く現れている堀で、障子の桟(さん)のように見えるところから障子堀といいます。ここは用水池を兼ねた水堀で、山城では非常に珍しいものです。
障子掘は、畝の部分が複雑なので、敵にとっては動きも制限されてしまいます。

今、上がって来た道を見下ろす。
結構、険しいことがわかる。
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障子堀にツツジが咲き始めていて、実に美しい。
良い季節に来れたのを感謝。
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〇西櫓堀
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西の丸の堀の外から、愛鷹連山、富士山、駿河湾などが見えるそうだが、今日はあいにくの天気で、残念!
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まだ残っていた八重桜と一緒に。
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まだ山中城も全部済んでいないが、今回はここまで。
次回をお楽しみに。


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太田道灌ゆかりの地/赤坂山王日枝神社

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所在地:東京都千代田区永田町2丁目10−5 

東京の数多き神社の中でも、江戸時代将軍の上覧にあずかった「天下祭」を神田明神と交代で祭った、この赤坂山王日枝神社だが、そもそもは文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるという。

「皇城之鎮」の額がかかる随神門
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拝殿前
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赤坂山王日枝神社については、既に記事にしています。

その記事を見る



太田道灌ゆかりの品は、宝物館で見ることができる。
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〇太田道灌持資公木像
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〇太田道灌履歴
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この履歴の中で、中心となっているのは太田道灌の教養の高さを示す、後土御門天皇との和歌のやりとりである。
戦の陣にあっても和歌を作り、その詠草を京都の公家、飛鳥井中納言雅世郷へ送り添削を乞うたという記録があり、その熱心さが知られている。
道灌が1464年に上洛した際、将軍足利義政に会い、その後宮中に招かれて後土御門天皇に拝謁した際に、道灌が即興で歌で答えたやりとりが記されている。
<後土御門天皇と会見、和歌でやりとり>
天皇が「武蔵野はどんな所か」と問うと、道灌は

「露(つゆ)おかぬ かたもありけり 夕立の 空より広き 武蔵野の原」

と答えている。空より広き武蔵野の原とは見事な表現である。
また天皇が「あの隅田川の都鳥はどうか」と問うと、道灌は

「年ふれど まだ知らざりし 都鳥 隅田川原に 宿はあれども」

と答え た。
伊勢物語の中で在原業平が「名にしおはば いざこと問はむ 都鳥 わが思う人は 在りやなしやと」と歌っているが、天皇はそれを知っていて質問したのに対し、道灌もまた見事に答えたのである。

<「武蔵野は萱(かや)ばかりと思っていたが」と感嘆>
次に天皇が「江戸城からの眺めはどうか」と問うと、道灌は

「わが宿は 松原つづき 海近く 富士の高嶺を 軒ばにぞ見る」

と答えた。当時の江戸城はすぐ近くまで海であったこと、霊峰と呼ばれていた富士の見える見事な景観であった事が分かる。

このように質問にすべて即座に歌で答えて天皇を驚かせたので、今度は天皇が

「武蔵野は かるかやのみと 思いしに かかる言葉の 花や咲くらむ」

と返している。武蔵野は萱ばかりと思っていたが、これらの歌を聞いて花が咲くように思ったという意味である。

道灌の和歌のレベルの高さを示すものである。

(了)


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実盛塚(篠原古戦場)/石川県加賀市

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所在地:石川県加賀市篠原新町
訪問日:2016年11月26日

この日の朝、福光で「巴塚の松」の写真を撮ったあと、家族で向かったのは「那谷寺」です。
小矢部インターから北陸高速に乗り、降りたのが片山津インター。

この日「斎藤実盛」関係の史跡を二つ訪ねることにしており、「実盛塚」が片山津ICから約1.8kmのところにあるので、まずはここに訪問した。

片山津ICから県道20号線を走れば、沿線にあるのは事前に調べて分かっていたのだが、大分通り過ぎたところで地元の人に聞いて、ようやくわかった。

駐車場もちゃんとあり。
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そこから県道20号線沿いに100mほど歩くと、民家の間に細い路地の入口がある。
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実盛塚
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倶利伽羅合戦で木曽義仲に大敗したが、平氏軍はまだ余力があり、加賀平野を南下し、篠原の地(加賀市篠原町)でなんとか態勢をたて直し、義仲に再び挑みます。
ここで敗れたことで決定的な平氏の敗戦となります。
その中でただ一騎だけ踏みとどまって戦う老武者がいました。大蔵合戦で父義賢を討たれた駒王丸(義仲)を
木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた長井斎藤別当実盛です。
かって不憫に思って、命を助けた幼い駒王丸が今成長して敵方の将軍として兵を進めてくる。その中で恩人として情けを受けることを潔しとせず、実盛は平家の一武士として見事な最期を遂げます。

Wikipediaの記事により、斎藤実盛を紹介しておく。
斎藤実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。

武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。

実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。

保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。

樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、武蔵の児玉党と縁を結び、信濃から武蔵へよく出かけていたので、実盛を知っていたといいます。

源平の争乱の中で篠原の地で命を失った斎藤実盛を供養するために実盛の亡骸を葬ったところと伝えられている場所です。

正面には、お参りする場所が用意されている。
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石垣の周りをまわって、勢いよく茂っている松の枝の間から中をうかがう。
手前の円形の石碑は「実盛塚保存会厚志芳名の碑」
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南無阿弥陀仏と彫られた碑が中央にある。
実盛の供養塔だろう。
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円形の石碑「実盛塚保存会厚志芳名の碑」の表側を見ようとして、あちこち場所を探すが松の枝に阻まれて、よく見えない。一部のみ撮れただけ。
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この松はすごい。
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長い枝が地を這っている。
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素晴らしい松だ。
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この記事を書くため調べていたら、安宅関でも歌を詠んでいるそうだが、与謝野晶子がこの地も訪れ一首残しているそうです。
「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきたる塚」

最近、近江の高嶋・白鬚神社、江ノ島神社など、与謝野晶子の歌碑にも、よく会います。

近くには、実盛の首と義仲対面の場面の銅像のある「篠原古戦場跡公園」とか、「首洗い池」とかがあるのだが、この日は、他にも色々と行きたい所があり、同行している家族へのサービスで「那谷寺」にも行くので、今回は「実盛塚」だけにした。
但し、実盛の冑が奉納されている「多太神社」にはこの日参拝している。(別記事)

ここから「那谷寺」に向かった。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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