実盛塚(篠原古戦場)/石川県加賀市

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所在地:石川県加賀市篠原新町
訪問日:2016年11月26日

この日の朝、福光で「巴塚の松」の写真を撮ったあと、家族で向かったのは「那谷寺」です。
小矢部インターから北陸高速に乗り、降りたのが片山津インター。

この日「斎藤実盛」関係の史跡を二つ訪ねることにしており、「実盛塚」が片山津ICから約1.8kmのところにあるので、まずはここに訪問した。

片山津ICから県道20号線を走れば、沿線にあるのは事前に調べて分かっていたのだが、大分通り過ぎたところで地元の人に聞いて、ようやくわかった。

駐車場もちゃんとあり。
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そこから県道20号線沿いに100mほど歩くと、民家の間に細い路地の入口がある。
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実盛塚
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倶利伽羅合戦で木曽義仲に大敗したが、平氏軍はまだ余力があり、加賀平野を南下し、篠原の地(加賀市篠原町)でなんとか態勢をたて直し、義仲に再び挑みます。
ここで敗れたことで決定的な平氏の敗戦となります。
その中でただ一騎だけ踏みとどまって戦う老武者がいました。大蔵合戦で父義賢を討たれた駒王丸(義仲)を
木曽の中原兼遠のもとへ送り届けた長井斎藤別当実盛です。
かって不憫に思って、命を助けた幼い駒王丸が今成長して敵方の将軍として兵を進めてくる。その中で恩人として情けを受けることを潔しとせず、実盛は平家の一武士として見事な最期を遂げます。

Wikipediaの記事により、斎藤実盛を紹介しておく。
斎藤実盛(さいとう さねもり)は、平安時代末期の武将。藤原利仁の流れを汲む斎藤則盛(また斎藤実直とも)の子。越前国の出で、武蔵国幡羅郡長井庄(埼玉県熊谷市)を本拠とし、長井別当と呼ばれる。

武蔵国は、相模国を本拠とする源義朝と、上野国に進出してきたその弟・義賢という両勢力の緩衝地帯であった。実盛は初め義朝に従っていたが、やがて地政学的な判断から義賢の幕下に伺候するようになる。こうした武蔵衆の動きを危険視した義朝の子・源義平は、久寿2年(1155年)に義賢を急襲してこれを討ち取ってしまう(大蔵合戦)。

実盛は再び義朝・義平父子の麾下に戻るが、一方で義賢に対する旧恩も忘れておらず、義賢の遺児・駒王丸を畠山重能から預かり、駒王丸の乳母が妻である信濃国の中原兼遠のもとに送り届けた。この駒王丸こそが後の旭将軍・木曾義仲である。

保元の乱、平治の乱においては上洛し、義朝の忠実な部将として奮戦する。義朝が滅亡した後は、関東に無事に落ち延び、その後平氏に仕え、東国における歴戦の有力武将として重用される。そのため、治承4年(1180年)に義朝の子・源頼朝が挙兵しても平氏方にとどまり、平維盛の後見役として頼朝追討に出陣する。平氏軍は富士川の戦いにおいて頼朝に大敗を喫するが、これは実盛が東国武士の勇猛さを説いたところ維盛以下味方の武将が過剰な恐怖心を抱いてしまい、その結果水鳥の羽音を夜襲と勘違いしてしまったことによるという。

寿永2年(1183年)、再び維盛らと木曾義仲追討のため北陸に出陣するが、加賀国の篠原の戦いで敗北。味方が総崩れとなる中、覚悟を決めた実盛は老齢の身を押して一歩も引かず奮戦し、ついに義仲の部将・手塚光盛によって討ち取られた。

この際、出陣前からここを最期の地と覚悟しており、「最後こそ若々しく戦いたい」という思いから白髪の頭を黒く染めていた。そのため首実検の際にもすぐには実盛本人と分からなかったが、そのことを樋口兼光から聞いた義仲が首を付近の池にて洗わせたところ、みるみる白髪に変わったため、ついにその死が確認された。かっての命の恩人を討ち取ってしまったことを知った義仲は、人目もはばからず涙にむせんだという。この篠原の戦いにおける斎藤実盛の最期の様子は、『平家物語』巻第七に「実盛最期」として一章を成し、「昔の朱買臣は、錦の袂を会稽山に翻し、今の斉藤別当実盛は、その名を北国の巷に揚ぐとかや。朽ちもせぬ空しき名のみ留め置いて、骸は越路の末の塵となるこそ哀れなれ」と評している。

樋口次郎兼光は中原兼遠の次男で、武蔵の児玉党と縁を結び、信濃から武蔵へよく出かけていたので、実盛を知っていたといいます。

源平の争乱の中で篠原の地で命を失った斎藤実盛を供養するために実盛の亡骸を葬ったところと伝えられている場所です。

正面には、お参りする場所が用意されている。
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石垣の周りをまわって、勢いよく茂っている松の枝の間から中をうかがう。
手前の円形の石碑は「実盛塚保存会厚志芳名の碑」
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南無阿弥陀仏と彫られた碑が中央にある。
実盛の供養塔だろう。
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円形の石碑「実盛塚保存会厚志芳名の碑」の表側を見ようとして、あちこち場所を探すが松の枝に阻まれて、よく見えない。一部のみ撮れただけ。
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この松はすごい。
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長い枝が地を這っている。
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素晴らしい松だ。
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この記事を書くため調べていたら、安宅関でも歌を詠んでいるそうだが、与謝野晶子がこの地も訪れ一首残しているそうです。
「北海が盛りたる砂にあらずして木曽の冠者がきづきたる塚」

最近、近江の高嶋・白鬚神社、江ノ島神社など、与謝野晶子の歌碑にも、よく会います。

近くには、実盛の首と義仲対面の場面の銅像のある「篠原古戦場跡公園」とか、「首洗い池」とかがあるのだが、この日は、他にも色々と行きたい所があり、同行している家族へのサービスで「那谷寺」にも行くので、今回は「実盛塚」だけにした。
但し、実盛の冑が奉納されている「多太神社」にはこの日参拝している。(別記事)

ここから「那谷寺」に向かった。


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巴塚の松/富山県南砺市

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所在地:富山県南砺市福光天神
撮影日:2016年11月26日

25日に母の三回忌の法要をし、近くのホテルで宿泊をして26日の朝ここを訪れました。
私の実家から車で15分くらいの場所であり、以前から知ってはいたが、27日の「義仲・巴フォーラム」に参加を控え、この際ちゃんと写真に収めておこうと思った。
この日は、その後も色々とゆかりの場所を訪ねました。

現在の南砺市は、東礪波郡の福野町、城端町、平村、上平村、利賀村、井波町、井口村と西礪波郡の福光町が合併し誕生。長年なじんできた「福光町」が消えてしまい、現在の市名にはなじめない私です(苦笑)。
本当に昔は山奥で地の果てといった感じだった、平家の落人部落として有名だった「五箇山」まで同じ市になってしまったのだから。

福光(ふくみつ)は、こんな位置関係です。
有名な「倶利伽羅峠」は、この図で「小矢部・砺波JCT」の左に位置します。
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巴塚周辺の地図です。
左上から右下に延びる国道304号線は、別名「金名線」といい、金沢と名古屋を結んでいる。
「城端」から山にかかり、山を登りきったところが「五箇山」。さらに進んで岐阜県に入ると「白川郷」となります。
縦に真っ直ぐ伸びる東海自動車道は、北陸高速の「小矢部・砺波JCT」から東名高速の「尾張一宮JCT」に繋がっています。
JR福光駅は、北陸線高岡駅から城端(じょうはな)駅を結ぶ「城端線」にあります。
左の山を越えると金沢市で、県が違い、山越えですが金沢の隣町となります。
倶利伽羅峠は左上となります。
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JR城端線「福光」駅
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駅前に「巴御前終焉の地」という碑がある。
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巴御前については、各説入り乱れているが、『源平盛衰記』による、中原兼遠の娘、樋口兼光・今井兼平の姉妹で、源義仲の「便女」というのが私にはしっくりきます。

宇治川の戦いで敗れ落ち延びる義仲に従い、最後の7騎、5騎になっても討たれなかったという。義仲は「お前は女であるからどこへでも逃れて行け。自分は討ち死にする覚悟だから、最後に女を連れていたなどと言われるのはよろしくない」と巴を落ち延びさせようとする。巴はなおも落ちようとしなかったが、再三言われたので「最後のいくさしてみせ奉らん(最後の奉公でございます)」と言い、大力と評判の敵将・御田(恩田)八郎師重が現れると、馬を押し並べて引き落とし、首を切った。その後巴は鎧・甲を脱ぎ捨てて東国の方へ落ち延びた所で物語から姿を消す。

『源平盛衰記』では、宇治川の戦いでは畠山重忠との戦いも描かれ、重忠に巴が何者か問われた榛沢六郎は「木曾殿の御乳母に、中三権頭が娘巴といふ女なり。強弓の手練れ、荒馬乗りの上手。乳母子ながら妾(おもひもの)にして、内には童を仕ふ様にもてなし、軍には一方の大将軍して、更に不覚の名を取らず。今井・樋口と兄弟にて、怖ろしき者にて候」と答えている。

その後であるが、Wikipediaでは、「『源平盛衰記』で、落ち延びた後に源頼朝から鎌倉へ召され、和田義盛の妻となって朝比奈義秀を生んだ。和田合戦の後に、越中国礪波郡福光の石黒氏の元に身を寄せ、出家して主・親・子の菩提を弔う日々を送り、91歳で生涯を終えたという後日談が語られる。」となっている。

私の好きな本『ともえ/諸田玲子』では、鎌倉に向かったのは、わが子義高の命を救わんがため、という話になっている。鎌倉の手前で和田義盛の手の者に捕らえられ、頼朝は切るつもりだったが、大姫、和田義盛の助命嘆願により永らえ、義高死後、義仲・義高の供養のため生きる決心をする。
和田義盛の妻になるが、和田義盛もまた、畠山重忠、梶原景時と同様、邪魔になった北条鎌倉幕府により滅ぼされてしまう。

その後の巴御前の足跡は各地に残っている。
義仲の墓のある義仲寺にも、庵を結んだという伝承が残り、この間訪ねた上田市丸子の岩谷堂観音にも近くの池の平に庵を結んだと説明が書かれている。

このように、各地を訪れ義仲の供養をして歩き、晩年を福光で過ごしたようである。

閑話休題:
ここ福光には、戦時中棟方志功が疎開をしており、棟方志功の事蹟が豊富に残っています。
駅前にも碑があった。
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【巴塚の松】
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「義仲・巴」フォーラム in 石川

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母親の三回忌の法要のため、25日から27日まで富山県に帰省しましたが、タイミングよく27日(日)の午後に石川県津幡町で行われたので、これに参加してから帰ってきました。

津幡は、倶利伽羅峠の石川県側の麓です。
義仲軍の進路で言えば、富山県の小矢部から倶利伽羅峠に上り、石川県側に下ったところが津幡です。

「義仲・巴」広域連携推進会議というのがあり、スローガンは「義仲・巴」を大河ドラマにしてもらおう、というのであるが、石川県・富山県・長野県・埼玉県が参加している、規模の大きな団体です。

私の住んでいる狭山市にも、木曽義仲の長男「清水冠者源義高」ゆかりの史跡があります。

フログラム
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〇講演「木曽義仲と巴御前~源平合戦の真実」
講師:河合敦氏

講師の方は、歴史作家・歴史研究家であり、NHKの「謎解き!江戸のススメ」、日本テレビの「世界一受けたい授業」、テレビ朝日の「お坊さんバラエティ ぶっちゃけ寺」などに出演されている方。
P・Pでとてもわかりやすい講話でした。
そのなかから、記憶に残ったポイントを挙げておきます。
・義仲は情に流されやすいやさしさがあり、冷血な頼朝と対照的。
・平家討伐の令旨を出した以仁王の第一王子北陸宮(ほくろくみや)を奉じて上京した。
・その北陸宮を天皇に奉じようとして、後白河法皇と対立してしまったが、一介の武士が皇位継承について奏上したのは、歴史上初めてのこと!
・木曽義仲は一年半くらいで、京都に入ってしまい、無位無官であった。
・木曽軍が京都で乱暴狼藉を働いたという評判になってしまっているが、平家が福原に都を移したため、京都は無政府状態。木曽軍が都に入ってマシになったのが真実。
・江戸時代の評価はよかった。頼朝は悪人で、その被害者的見方だった。
・明治になると、皇国史観から悪者にされた。
・では戦後に復活したかというと、源義経をヒーロー視する傾向と、教科書には「頼朝が鎌倉幕府を開く」前については一切記述がなくなってしまった。
・現在は、国語の教科書で「平家物語」のところで「木曽最期」がほとんどの教科書に載っている。
 これは、今井兼平との「兄弟愛」、「友情」がテーマとなっているから。

〇倶利伽羅峠の歌
出演:津幡町立刈安小学校児童
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子供たちが懸命に歌っているのが、とても微笑ましかった。

〇語り「木曽最期」 原典:平家物語より
語り:若村麻由美   (薩摩琵琶)岩佐鶴丈   (能菅・尺八)設楽瞬山

若村麻由美さんは、野村萬斎さんと組んで「劇世界・平家物語」を上演したり、語りをする際にも紅の唐衣・白の大袴に烏帽子を着け薙刀を手にして、語りをするようですが、この日も着物袴姿でした。

語りは平家物語の原文そのままでなく、現代文でわかりやすい語りだったので、とても素晴らしいものでした。

『平家物語』で他の場面では比較的義仲を良く書いていないことが多いのだが、「木曽最期」については、とても美しい名調子で描いています。
そのため、国語の教科書で平家物語というと、現在はほとんどが「木曽最期」を載せているそうです。

なので、「木曽最期」で検索すれば、たくさん現代語訳が載っているので、すぐに理解はしていただけるので、ここではフォーラムのプログラムの裏面に記載されていた解説文をそのまま転載しておきましょう。

「木曽最期」
「平家物語」は、平安末期の貴族の社会から武士の社会に移る大動乱期に生きた、源氏と平家を中心とした数多くの人々を描いた歴史物語です。その時代を生きた人物を克明に表現することによって、大きな歴史の流れを見事に描き出した壮大な叙事詩として、およそ七百五十年にわたって日本人の心を揺り動かしてきました。

これからお聞き頂きます「木曽最期(きそさいご)」は、『平家物語』の中でも屈指の名文といわれる物語です。
おごる平家にたいして打倒平家の動きは急を告げ、相模の国では源頼朝、木曽では源義仲といった源氏の武将が次々と挙兵します。

寿永二年(1813)、木曽義仲は平家の追討軍十万余騎を倶梨伽羅(くりから)落しの奇襲で壊滅させ、更に篠原の合戦では平家軍を敗走させます。篠原合戦のわずかニケ月の後には、日の出の勢いで都に進軍する義仲の軍勢をおそれ、平家一門は都を落ちていきます。
平家一門を追い落として都入りし、朝日将軍と呼ばれた木曽義仲も、都での粗暴な振る舞いの果てに後白河法皇と対立します。法皇は源頼朝に義仲追討の命令を下し、義仲は頼朝の遣わした源義経・範頼軍に破れ、粟津の原で討ち死するのでした。

「木曽最期」の物語は、男勝りで義仲の恋人でもある女武者巴の紹介から始まります。
都六条川原の合戦で義経軍に破れ、巴をふくむわずか七騎となった義仲が、勢田を守備していた乳兄弟の今井兼平と一目会って死のうと、勢田に向います。同じ思いの兼平も都を目指し、二人は大津で再会、最後の戦を挑みます。敵の大軍のなかを縦横無尽に戦い、駆け抜け主従五騎になります。討ち死に覚悟の義仲はこれまで共に戦い抜いてきた巴を戦線から立ち去らせます。巴は共に死ぬことが許されない口惜しさに、最後の奮戦をして去って行きます。

残るは義仲と兼平二騎。「日頃はなんとも思わない鎧兜が重くなった」と弱気を見せ、一緒に討ち死にするという義仲を兼平は命がけでいさめ、自ら奮戦して敵を防ぐ間に自害するよう勧めます。やむなく自害するため粟津の松原に向かう義仲の馬は深田にはまり、身動きが取れなくなります。義仲がおもわず兼平の方を振り向いた瞬間、敵に射殺されます。これを見た兼平は「日本一の豪傑の自害の見本」と太刀をくわえ、馬から飛び落ちて義仲の跡を追います。

この当時、同じ乳で育った乳兄弟、乳母子(めのとご)は、血を分けた兄弟よりも、深い契りでした。駆け抜けるように激しく戦い、次々と平家を打ち破り天下を取り、そして瞬く間に滅び去っていった義仲を中心に、乳兄弟の今井兼平、同じく兼平の妹であり木曽の恋人でもある巴の、三人三様の激しい生と死の姿が強烈に浮かびあがります。


最近、色々な縁からずいぶんと木曽義仲に深入りしています。
今回は、河合敦氏の独自の解釈も色々聞くことができて、義仲像がまた深く広まりました。
若村麻由美さんの語りも素晴らしくて、次はぜひ野村萬斎さんとの「劇世界・平家物語」を観たいと思いました。


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木曽義仲挙兵の地を訪ねる/長野県上田市丸子地区

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2016年11月17日に、木曽義仲に関わる史跡めぐりをした。
結果的に回ったのは、依田城上り口の宗龍寺、依田神社、依田城跡(義仲館跡)、御嶽神社、義仲挙兵の地の看板のある砂原峠、正海清水(清水義高名のもと)、岩谷堂観音。

上信越高速道の「東部湯の丸」インターで降り、ナビの助けを借りて、目的地域でのキーポイント「依田川橋」に到着。
この地方は,浅間山の麓,千曲川に沿って開けた上田盆地。
千曲川の支流依田川に沿って義仲の史跡が点在している。

ちなみに、私は現在違う姓となっているが、旧姓は「依田」であり、丸子に親戚があって子供の頃泊りがけで遊びに来た思い出がある。依田川のすぐ近くの家だった。

後述の砂原峠にあった、義仲関係史跡案内図
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治承5年(1181年)6月,以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は,丸子の依田城に2年滞在。
この地で挙兵し、『平家物語』『源平盛衰記』で語り継がれる海野宿近くの「白鳥河原の勢揃」となる。

【宗龍寺】
所在地:長野県上田市御嶽堂145番地

治承4年(1180年)9月に以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は、依田氏より、東西の要衝であるこの地が兵馬調達と挙兵に敵地であるとして招聘を受け,依田館に移ることを決意,ここを居城と定めた。
というのも、木曽義仲の父・源義賢の妹が嫁いでいたのが依田為実であり、今の当主・依田次郎実信は木曾義仲と従兄弟同士の関係だった。
源義朝の弟である源義賢は、埼玉県嵐山の大蔵館で、甥の悪源太源義平に討たれる。その時3歳だった義仲は討手側の温情で匿われ、木曽で育てられた。

依田城は山城であり、依田信実は麓の館を木曽義仲に譲り、自身は山城に住んだという。

その登り口にあるのが、宗龍寺である。
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少し入った所に「扇子池」があり、弁財天を祀っている。
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三門
正式には三解脱門である。
享保年間に建てられた三門は唐様造りで文久3年の火災を免れた同寺最古の伽藍。「龍宮城の門」と呼ばれ親しまれている。
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額は、佐久市内山の正安寺十六世大梅法噀大和尚の筆によるもので「伽藍摩」と揮毫されている。
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扁額の左右に鳳凰、裏面に龍の彫刻が施されている。
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本堂
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花頭窓のガラスに鐘楼の屋根が映っていた。
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 宗龍寺は文安年間(1944~1449)、室町時代に開闢したが火災で焼失。慶長5年(1600)中山勘解由左衛門宗龍を開基とし、上田市の龍洞院三世・底山元徹大和尚禅師を開山に迎え、曹洞宗中峰山宗龍寺として再建開創された。
 寺の裏の城山は、木曽義仲が挙兵の根拠地とした依田城跡であり「木曽は依田城に有りけるが」と平家物語にも語られている。また同寺は菅平根子岳、烏帽子、浅間山などを望む景勝の地で、丸子八景の一つに数えられる。

鐘楼
 大正10年建立。大戦のため提出した梵鐘を昭和37年「世界平和を祈る鐘」として復元。「おやすみの鐘」として夜9時に平和を祈り響き渡っている。
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境内に見事なモミジがあり。
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さて、依田城だが、事前調査では、頂上の城跡まではけっこう険しい山道を30分かかるらしかった。
この日はカミさん同行のため、頂上まで登るのはあきらめ、10分ほど登ると「依田城登り口」の標識があるので、そこまで登るつもりだった。
登り口がわからなくて、お寺に聞きに行くと、この間の台風ですぐ上ががけ崩れになっていて、「依田城登り口」の標識のところまでも行けない。現在誰も登るのは禁止となっている、との説明だった。

残念ながら、この先はいけない(泣)
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この山の頂上が依田城。
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三門のところから、丸子の町がよく見えた。
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【依田神社】
鎮座地:長野県上田市御嶽堂403
依田氏ゆかりの神社(氏神)だと思われるが、縁起・創建時期など不明。
義仲が戦勝を祈願し八幡社を勧進したと伝わる。
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両部鳥居
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手水鉢
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その後ろに、庚申塔が二基あり。
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石段を上がる。
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参道は真っ直ぐ。
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平成4年奉納の狛犬
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拝殿
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本殿
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神紋は「立ち梶」と「依」
「立ち梶」は諏訪大社からの関係かと思う。
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境内社・「蚕神様」
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境内社・三宝荒神
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【依田城跡(義仲館跡)】
依田城跡に向かう入口に,御嶽神社の鳥居が建っています。
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依田城とは、丸子地区御岳堂の集落後方に屏風のようにそそり立つ金鳳山まで含めた一帯をいうのだとか。山裾には,義仲が起居したという義仲館跡があります。

御嶽神社の少し手前に、参道から左に折れると館跡。
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通用門
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一族が住まいした館跡。一番奥まで行って撮りました。わりと広い。
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治承4年(1180年)9月に以仁王の令旨に応じて木曽で旗揚げした義仲は、依田氏より、東西の要衝であるこの地が兵馬調達と挙兵に敵地であるとして招聘を受け,依田館に移ることを決意,ここを居城と定めた。
そして養和元年(1181年)6月、「横田河原の合戦」を睨んで、あの白鳥河原に信濃・西上州の兵を集結させ、挙兵した。
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依田城跡から眼にする上田の街並み。
素晴らしい展望。当時義仲は、この景色を眺望しながら,熱い心をたぎらせていたのでしょう。
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右の方に浅間山も見える。
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【御嶽神社】
鎮座地:長野県上田市御嶽堂
鳥居のところの説明では、木曾の御嶽山を勧請とあるので、「おんたけじんじゃ」なのかなと思ったが、鎮座地名の御嶽堂(みたけどう)同様、地元では「みたけじんじゃ」と呼ぶらしい。

鳥居
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木立のなかを参道がまっすぐである。
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一段上がって社殿。
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社殿
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拝殿
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創祀年代は不詳。
古来、依田村内の上組の産土神として崇敬された神社。
一説には、依田城に在った木曽義仲が、「王の御嶽(みたけ)」として信仰していた木曾の御嶽山の神(大己貴命・少彦名命)を祀ったという。あるいは、奈良金峯山の蔵王権現(安閑天皇)を勧請し水分(みくまり)山である城山を御嶽(みたけ)としたという説もあるらしい。

永禄年中、武田信玄によって拝殿が造営され、天正三年(1575)六月本殿が再建された。
元は、御嶽権現と称していたが、明治三年十月、御嶽神社と改称し、明治六年四月御嶽堂・生田・東内・西内・腰越五ヶ村の郷社に列した。

ご祭神は木曾の御嶽山と同じ、大己貴命、少彦名命、安閑天皇。
社殿には御神体として、正面に黒衣束帯に彩色された地蔵尊の木像座像、右手には彩色してない地蔵尊の木像立像、左手には衣冠束帯に彩色された木像座像が祀られているらしい。

本殿
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石組の手前、境内の左手に石祠が九社並んでいる。
確認できたのは、石尊社・諏訪社・白山社・稲荷社。
他は、情報では三峯社・大神宮・金毘羅社、あとは不明。
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【砂原峠】
長野県上田市御嶽堂
木曽義仲挙兵の地の看板
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この看板があるのは砂原峠。塩田平から丸子へ鎌倉道が走っていますがその道沿いにある峠です。木曽義仲は丸子の依田城におよそ2年ほど居城し、ここで兵馬を集めて京に攻め上った。

ゆかりの史跡を示す案内図がある。
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看板の足元に「馬頭観音」がある。
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浅間山がきれいに見える。
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【正海清水】
所在地:長野県上田市御嶽堂
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鎌倉街道沿いにある湧水で、依田氏の居城で生活用水として使ったり、武田信玄も汲んだといわれています。
木曽義仲も愛用した清水といわれています。
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正海清水
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中山水道施設当時に建てられた記念碑があり、義仲軍団に愛飲されたであろう正海清水の昔をしのぶことができます。
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その訳
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その裏面に、明治に「報徳精神」から、この清水を上水道に利用した説明がある。
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上水道の水源となっているので、当然ながら鉄板による蓋がされ、鍵がかかっており、残念ながら水場として汲める場はありません。
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ここから浅間山を望む。
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※清水冠者義高
正海清水の近くには、木曽義仲の長男、義高の屋敷があり、人々は義高を「清水冠者」と呼んでいたと伝えられています。
1183年、義仲は人質として義高を源頼朝のところへ遣わし、頼朝は義高を長女「大姫」の婿としました。この夫婦の悲話が、中世の御伽草子「清水冠者物語」などに語られています。
「義仲戦死後、頼朝は義高を殺そうとした。しかし殺害計略が漏れてしまい、大姫は急を義高に知らせた。驚いた義高は女房姿に身をやつし、近習海野幸氏や望月重隆らの助けで脱出したが、追手に見つかり、入間川の河原で処刑された」
なお近習として仕えていた海野幸氏・望月重隆は、その忠勤振りを源頼朝が認めて、御家人に加えられた。
後に頼朝に仕え、二人とも弓の名手として重用された。

続いて最後の訪問地,岩谷堂観音がある龍洞山宝蔵寺です。

【岩谷堂観音】
所在地:長野県上田市御嶽堂84
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ここは,義仲が戦勝祈願したと伝わる、比叡山第3代座主慈覚大師円仁開基の古刹ですが、訪ねてみると義仲の事蹟だけでなく、平家の猛将とその寵姫の哀話も残っており、驚きました。

縁起(お寺のパンフレットより):
 当岩谷堂は平安時代の初期(承和元年〔834〕)比叡山の第三代座主慈覚大師円仁によって開かれ、大師御謹刻の聖観世音菩薩を安置いたす御堂で、未塗りに映える現在の堂宇は徳川時代中期、今から凡そ230年前安永6年(1778)の建立で、それ以前は現在「奥の院」と呼ばれている本堂裏の洞窟の中に安置されておりました。
 境内の下を通っております道路はかっての鎌倉街道でありまして当時の一級国道です。岩窟中に安置された霊佛と稀なる風光明眉なこの場所を往来の旅人は自から参詣の念を起し、過去の縁者の冥福と我が身の息災を祈念したものと思われる五輪塔(石塔婆)が境内から無数に発見されます。

いかにも観音霊場らしい参道を上がる。
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わりと急な石段を上がると山門があり。
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山門左右の石垣
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山門をくぐると社務所前に、義仲手植えと伝えられる「義仲桜」がある。
幹の周囲が5m近くあるしだれ桜で,樹齢800年。これは、来春ぜひとも桜の写真を撮りにこよう。
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岩谷堂観音を祀る本堂。
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彫刻が見事です。
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お参りする。
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本堂の前に、木曽義仲史跡の説明。
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本堂の横に岩窟堂があり。
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岩窟堂の正面には「楓の前」とある。
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覗くと、中央に小さな厨子が安置されていた。
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それで、お寺のパンフレットで探すと、「平景清と楓の前」の説明があった。
「平景清と楓の前」:
 平家の猛将と云われた悪七兵衛平景清は平家壇ノ浦で滅亡後一門の仇を討つべく、旅の憎に身を変えて鎌倉に向う途路、当寺に立寄ったと云われております。
これを追って景清の寵姫「楓の前」も当寺に参りましたが、景清が鎌倉で捕まったのを知り、この寺に留まり景清と平家一門の菩提のために生涯をささげたと云われており、景清公の遺品が寺宝として伝えられております。

岩窟堂の前から、本堂の後ろに入れるようになっていた。
「奥の院 洞窟観音」とある。
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洞窟の中は、そんなに深くないが、照明が無いので何があるのかまったくわからない。
とりあえずストロボで撮っておいたら、観音らしき石仏が安置されていた。
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本堂の回廊からの眺め。
眼下に丸子の町と、遠くに浅間山が見える。
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参道を上りきったところにある、「二尊堂」
阿弥陀如来と薬師如来を祀ってあった。
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義仲桜のところから右に行くと、聖徳太子堂と岩窟古墳とあり。
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落ち葉で滑りやすい、細い山道を行くと、まず聖徳太子堂があり。
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そこから、更に急斜面となり、落ち葉で滑りやすく、つかまるところも無いので、岩窟古墳に行くのは断念。
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ズームで撮ると、崩落除けにタイヤを積んである。中には入れないようだ。
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最後に降りて来た道には、「馬大門」の説明がある。
義仲は正面の石段を使わず,馬で脇参道の急坂を一気に駆け上がったと伝えられ,その参道は「馬大門」と呼ばれているそうです。
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これで、この日訪ねる予定にしていたところは全て終了。
現地に行けば、マップとか手に入って何とかなるだろうと、高をくくってやってきましたが、そういうものは見つからなくて、最初はかなりまごつきました(笑)
宗龍寺は分かっていたので、そこからスタートして、それからは、当ても無しに道を走っていて出くわしたところ(笑)
それでも、土地の方に場所を教えていただいたりして、初期の目的は果たせました。

(了)


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柏原太郎/吾妻鏡

20150923

9月18日(金)に、国立公文書館で『吾妻鏡』と『延喜式』のうち「祝詞」を閲覧しました。
『延喜式』のうち「祝詞」を閲覧したのは、いま梅原猛の「神々の流竄」を読んでいますが、その中で延喜式の「祝詞」を引用しているので、この際原本を手に入れておこうと思ったので。

『吾妻鏡』については、最近狭山市の「城山砦」の子供向けパンフレット作製に携わった際に、手持ちデータの整備もしました。
その中で、「柏原太郎」の名前が出てくる『吾妻鏡』については、いままで活字にされた翻訳本のコピーしか持っていなかったので、原本のコピーを手に入れよう、というわけです。

狭山市の史跡「城山砦」の歴史で、一番古い話として、柏原を本拠地とした武蔵武士の柏原太郎の館(やかた)跡ではないかという説があります。
柏原太郎の名は、『吾妻鏡』に源頼朝の奥州藤原氏征伐の先陣として従った畠山重忠の従軍5騎のうちの1人として名が載っています。

閲覧は、巻別に出来るようになっていましたが、不勉強で『吾妻鏡』の構成もわかっていなかったので、全冊閲覧としました。
全部で51冊となり、一度には30冊までというルールなので、二回に分けての閲覧でした。

国立公文書館に蔵書されているのは、以下の経歴のものです。
室町時代写本⇒紅葉山文庫(江戸城将軍の文庫)⇒明治期皇居内文庫⇒内閣文庫⇒国立公文書館

表紙
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原本(写本)の表紙画像
原本は重要文化財なので、画像で製本されたものとなります。
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このように、二枚を並べて1ページとしています。
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で、源頼朝の奥州藤原氏征伐は文治5年(1189)と判っていますから、目録から九巻であることがわかる。
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その該当する部分の記事がこれです。
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先陣の畠山重忠だけ特別扱いで、従軍五騎の名前まで書かれているため、結果として「柏原太郎」の名が確認できた。

その後は、鎌倉から進発した武将の名が、そうそうたる名前が続いています。
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どういうことが書かれているかというと、翻訳本の写しを載せましょう。
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その後、柏原太郎はどうなったかというと、従軍五騎のうち他の四騎については、畠山重忠と一緒に二俣川で討死にしたとか、記録は残っていますが、柏原太郎については記録がありません。

柏原太郎についての記録がありませんが、柏原郷については、寛喜2年(1230)に作成された「長沼宗政譲状」がある。
これは小山一族の有力御家人長沼宗政が嫡子の時宗に所領を譲るという内容だが、これに「武蔵国柏原郷」が載っている。

それで推理されるのが、柏原太郎は畠山重忠と一緒に滅び、有力御家人の長沼宗政が領地としてもらった、ということでしょう。
ちなみに、そのゆかりの子孫「小山氏」が柏原に現在も住んでおられ、そこには「小山判官朝政」にからむ「薬師縁起」の話も残っており、その宅地にあった不動堂を譲り受けて入間川の福徳院の不動堂としています。
(現在のお堂は新築されたもので、それ以前のお堂の話です。)

さきほどの、『吾妻鏡』の記事で、畠山重忠従軍五騎のあと、「鎌倉出御よりお供の輩」の中に「長沼宗政」の名も載っています。
赤の四角で囲った名前がそうです。
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(了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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