小田原城
20191023
所在地:神奈川県小田原市城内
訪問日:2019年9月27日
歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で神奈川県立生命の星・地球博物館を訪ねた後、小田原駅まで戻り、そこから小田原城址公園のお堀沿いに15分ほど歩いて、まず報徳二宮神社に参拝してから、小田原城に到着。
ガイドさんに案内をお願いした。
コースは、正面入り口から入り、馬出門、銅門から天守閣下まで、下図で赤点線のコースです。

北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。
藤棚観光案内所から正面入り口まで、堀沿いに歩く。


正面入り口

馬出門
天守閣が見える位置から。


ここには、大久保氏の家紋「大久保藤」があり。

馬出の馬場跡

狭間を供えた塀越しに天守閣。

住吉門前の堀

ガイドさんの説明によれば、小田原城の堀の深さは膝くらいだったという。
腰の辺の深さなら泳いで渡れる、人の背くらいなら潜って渡れる。なので浅くして、菱を生い茂らせていた。
菱が足に絡まって歩けないそうだ。
少し菱を生やしてあった。


住吉門


住吉門を入ると、枡形になっており、左手に銅門となる。

枡形を囲む塀の控え柱がコの字形になっているのは、上に横板を置けば、塀越しに鉄砲や弓で攻撃できる工夫である。

銅門(あかがねもん)


堅固な造りだ。


石落とし

ちょうな削りの太い梁は、職人魂の表れ。

二階に武者が駆け上がる道。

銅門にシャチホコが載っているのは、これをくぐると実質の城主の館である「二の丸お屋形」になるため。
天守閣のある天守は、徳川将軍が来た時の居室となる。


「二の丸お屋形」があった場所

銅門礎石だった石


相当な樹齢のイヌマキ



東堀を渡って常盤木門へと続く。



東堀の橋を渡るときにガイドさんが教えてくれたのが、ここの擬宝珠が、小柳ルミ子の「私の城下町」のジャケットの写真のものだという。


例によって、枡形を経て常盤木門


枡形の石垣には、矢穴が残った石があり。

常盤木門をくぐる。


石落としと重厚な構え

常盤木門を内側から。

やっと、天守閣まできた(嬉)

シャチホコにはカラスが止まっていた(笑)

ここで、ガイドさんに感謝しつつ、お別れ。
参加者のなかで、天守閣に登ってない人は登ることにして、既に登ったことのある人は天守閣の横にある茶店で休憩することにした。
私は、けっこう疲れが出ていたので、休憩を選んだ。
(実は、前日も八王子城址を歩いていたのだ)
天守閣内部については、前年4月に天守閣に登ったので、その記事を見てください。
その記事を見る
この日は、神奈川県立生命の星・地球博物館、二宮神社、小田原城と実に充実した一日だった。
満足して、小田原駅前で、美味しい干物を買って帰った。
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訪問日:2019年9月27日
歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で神奈川県立生命の星・地球博物館を訪ねた後、小田原駅まで戻り、そこから小田原城址公園のお堀沿いに15分ほど歩いて、まず報徳二宮神社に参拝してから、小田原城に到着。
ガイドさんに案内をお願いした。
コースは、正面入り口から入り、馬出門、銅門から天守閣下まで、下図で赤点線のコースです。

北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。
藤棚観光案内所から正面入り口まで、堀沿いに歩く。


正面入り口

馬出門
天守閣が見える位置から。


ここには、大久保氏の家紋「大久保藤」があり。

馬出の馬場跡

狭間を供えた塀越しに天守閣。

住吉門前の堀

ガイドさんの説明によれば、小田原城の堀の深さは膝くらいだったという。
腰の辺の深さなら泳いで渡れる、人の背くらいなら潜って渡れる。なので浅くして、菱を生い茂らせていた。
菱が足に絡まって歩けないそうだ。
少し菱を生やしてあった。


住吉門


住吉門を入ると、枡形になっており、左手に銅門となる。

枡形を囲む塀の控え柱がコの字形になっているのは、上に横板を置けば、塀越しに鉄砲や弓で攻撃できる工夫である。

銅門(あかがねもん)


堅固な造りだ。


石落とし

ちょうな削りの太い梁は、職人魂の表れ。

二階に武者が駆け上がる道。

銅門にシャチホコが載っているのは、これをくぐると実質の城主の館である「二の丸お屋形」になるため。
天守閣のある天守は、徳川将軍が来た時の居室となる。


「二の丸お屋形」があった場所

銅門礎石だった石


相当な樹齢のイヌマキ



東堀を渡って常盤木門へと続く。



東堀の橋を渡るときにガイドさんが教えてくれたのが、ここの擬宝珠が、小柳ルミ子の「私の城下町」のジャケットの写真のものだという。


例によって、枡形を経て常盤木門


枡形の石垣には、矢穴が残った石があり。

常盤木門をくぐる。


石落としと重厚な構え

常盤木門を内側から。

やっと、天守閣まできた(嬉)

シャチホコにはカラスが止まっていた(笑)

ここで、ガイドさんに感謝しつつ、お別れ。
参加者のなかで、天守閣に登ってない人は登ることにして、既に登ったことのある人は天守閣の横にある茶店で休憩することにした。
私は、けっこう疲れが出ていたので、休憩を選んだ。
(実は、前日も八王子城址を歩いていたのだ)
天守閣内部については、前年4月に天守閣に登ったので、その記事を見てください。
その記事を見る
この日は、神奈川県立生命の星・地球博物館、二宮神社、小田原城と実に充実した一日だった。
満足して、小田原駅前で、美味しい干物を買って帰った。
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八王子城跡
20191004
所在地: 東京都八王子市元八王子町3丁目2664ー2
訪問日:2019年9月26日
歴史クラブの行事で訪れました。
JR高尾駅からバスに乗り、「八王子城址入り口」でバスを降り、徒歩20分でガイド施設に到着。


先に、二階で持参のお弁当を食べてから、ガイドさんに案内していただきました。
北条氏康の三男・氏照が築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。氏照は当初、滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。
八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。
小田原征伐の際、八王子城は上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
八王子城陥落により、小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
今回は、本丸のある「要害地区」まで登るのはあきらめ、居館地区と根古谷地区にある北条氏照供養塔を見て歩いた。

さあ、出発!


エントランス広場にある、大きなジオラマで八王子城の説明を受ける。

この地図に、実際の地形を加味すると、こうなる。


縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 - 3 kmの範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。要害地区にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。
上が要害地区、下が居館地区。

太鼓曲輪の尾根は、下から敵が攻め上がってくるので、5つの深い堀切で区切られているのが、よくわかる。

それから少し進むと、右側に要害地区に上がっていく登り口が見える。

この道をほんの少し下ると、綺麗な色で塗られた三つのマンホールのフタがあり、ガイドさんが案内してくれた。
これは北条氏がつなぐ縁で姉妹都市となっている小田原市、八王子市、寄居町のもの。
小田原市
酒匂川と小田原城、箱根連山、富士山をデザイン。

八王子市
伝統芸能である、三番叟を舞っている「車人形」をデザイン。

寄居町
町の鳥・花・木の、キジ、カタクリ、ヤマザクラをデザイン。

管理棟の前から、古道、御主殿跡に向かう。
しばらく山道を行く。

高い土塁が残っている。

左に曲がり、城山川を渡り、大手門跡に向かう。

左は高い土塁。

この辺は深い森になっているが、終戦直後の米軍の航空写真では、まったくの丸裸だったそう。戦時中に樹は全部切り出されてしまったらしい。
その後植えられても、樹齢30年、40年となり、立派な林になっている。
左から上がってきて、上がりきったところが「大手門跡」。



ここには、薬医門があったらしい。
大手門から御主殿に通じる「古道」を行く。


「曳橋」に到着


今の橋は、観光用につけられたもので、当時は立派な橋でなく、すぐに壊すことが出来る橋だった。


なんと、橋には野猿の手の跡があちこちに(苦笑)

これはイノシシが掘った跡とか。

御主殿に入る「虎口」を遠望。
八王子城の石垣が、関東で最初に築かれた石垣だという。

御主殿に上がる前に、当時のまま残っている石垣を見に行く。

当時の石垣


ここの土塁は高い!


虎口に登る。

やはり、上がりにくい石段になっている。

左折して虎口の門から入る。

虎口を抜けると、「御主殿跡」の広場。

御主殿跡


主殿の礎石が散らばって見える。

庭園跡


池の中心の石

会所跡


会所の建物に沿って敷かれていた石。

「御主殿の滝」に向かう。

「御主殿の滝」


立派な石垣と「曳橋」の下を行く。

「御主殿の滝」から流れてきている「城山川」

管理棟まで戻った所で、ガイドさんに感謝しつつ、お別れ。
ガイド施設よりもっと下り、「北条氏照の墓」に向かう。

石段160段を上がる。

「北条氏照及び家臣の墓」


氏照死後100年忌のときに建てられた供養塔

両側面には大きな蓮が掘られている。

これで、八王子城址の探索は終り、バスで高尾駅まで戻り、希望者だけで武蔵野陵に参拝しました。
(了)
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訪問日:2019年9月26日
歴史クラブの行事で訪れました。
JR高尾駅からバスに乗り、「八王子城址入り口」でバスを降り、徒歩20分でガイド施設に到着。


先に、二階で持参のお弁当を食べてから、ガイドさんに案内していただきました。
北条氏康の三男・氏照が築城し、1587年(天正15年)頃に本拠とした。氏照は当初、滝山城に拠っていたが、小田原攻撃に向かう甲斐国(現在の山梨県)の武田信玄軍に攻められた際に滝山城の防衛の限界を感じて本拠を八王子城に移した。このとき、織田信長の築城した安土城を参考に石垣で固めた山城構築を行った。
八王子城は一般的な山城のような尾根と堀切を利用した縦深防御に加えて、侵入してくる敵に対しいたる所から側射をかける仕組みになっている。織豊系城郭と比較すると、より近世的な戦術を志向している。
小田原征伐の際、八王子城は上杉景勝、前田利家、真田昌幸らの部隊1万5千人に攻められた。当時、城主の氏照以下家臣は小田原本城に駆けつけており、八王子城内には城代の横地監物吉信、家臣の狩野主善一庵、中山勘解由家範、近藤出羽守綱秀らわずかの将兵の他、領内から動員した農民と婦女子を主とする領民を加えた約3000人が立て籠った。
豊臣側は前夜のうち霧をぬって主力が東正面の大手口(元八王子町)と北側の絡め手(下恩方町)の2方向より侵攻し、力攻めにより早朝には要害地区まで守備隊を追いやった。その後は激戦となり1000人以上の死傷者を出し、その日のうちに城は陥落した。氏照正室、比左を初めとする城内の婦女子は自刃、あるいは御主殿の滝に身を投げ、滝は三日三晩、血に染まったと言い伝えられている。
八王子城陥落により、小田原征伐において北条氏は敗北し、城主の北条氏照は兄、氏政とともに切腹した。のちに新領主となった徳川家康によって八王子城は廃城となった。
今回は、本丸のある「要害地区」まで登るのはあきらめ、居館地区と根古谷地区にある北条氏照供養塔を見て歩いた。

さあ、出発!


エントランス広場にある、大きなジオラマで八王子城の説明を受ける。

この地図に、実際の地形を加味すると、こうなる。


縄張りは北浅川と南浅川に囲まれた東西約3 km、南北約2 - 3 kmの範囲に及び、山の尾根や谷など複雑な地形を利用していくつかの地区に分けられ、山頂に置かれた本丸、松木曲輪や小宮曲輪など何段もの曲輪を配置した要害地区、城山川沿いの山腹に御主殿と呼ぶ館を構えてその東側にアシダ曲輪で防衛している居館地区、城山川に沿った麓に城下町を形成した根小屋地区、などで構成されていた。要害地区にはいくつもの砦を配し、それらを結ぶ連絡道の要所には深い堀切や竪堀、兵舎を建てるための曲輪などが造成されていた。特に、居館地区の南側尾根にある太鼓曲輪は5つの深い堀切で区切られ、南側を石垣で固めるなど、容易に尾根を越えられない構造となっていた。
上が要害地区、下が居館地区。

太鼓曲輪の尾根は、下から敵が攻め上がってくるので、5つの深い堀切で区切られているのが、よくわかる。

それから少し進むと、右側に要害地区に上がっていく登り口が見える。

この道をほんの少し下ると、綺麗な色で塗られた三つのマンホールのフタがあり、ガイドさんが案内してくれた。
これは北条氏がつなぐ縁で姉妹都市となっている小田原市、八王子市、寄居町のもの。
小田原市
酒匂川と小田原城、箱根連山、富士山をデザイン。

八王子市
伝統芸能である、三番叟を舞っている「車人形」をデザイン。

寄居町
町の鳥・花・木の、キジ、カタクリ、ヤマザクラをデザイン。

管理棟の前から、古道、御主殿跡に向かう。
しばらく山道を行く。

高い土塁が残っている。

左に曲がり、城山川を渡り、大手門跡に向かう。

左は高い土塁。

この辺は深い森になっているが、終戦直後の米軍の航空写真では、まったくの丸裸だったそう。戦時中に樹は全部切り出されてしまったらしい。
その後植えられても、樹齢30年、40年となり、立派な林になっている。
左から上がってきて、上がりきったところが「大手門跡」。



ここには、薬医門があったらしい。
大手門から御主殿に通じる「古道」を行く。


「曳橋」に到着


今の橋は、観光用につけられたもので、当時は立派な橋でなく、すぐに壊すことが出来る橋だった。


なんと、橋には野猿の手の跡があちこちに(苦笑)

これはイノシシが掘った跡とか。

御主殿に入る「虎口」を遠望。
八王子城の石垣が、関東で最初に築かれた石垣だという。

御主殿に上がる前に、当時のまま残っている石垣を見に行く。

当時の石垣


ここの土塁は高い!


虎口に登る。

やはり、上がりにくい石段になっている。

左折して虎口の門から入る。

虎口を抜けると、「御主殿跡」の広場。

御主殿跡


主殿の礎石が散らばって見える。

庭園跡


池の中心の石

会所跡


会所の建物に沿って敷かれていた石。

「御主殿の滝」に向かう。

「御主殿の滝」


立派な石垣と「曳橋」の下を行く。

「御主殿の滝」から流れてきている「城山川」

管理棟まで戻った所で、ガイドさんに感謝しつつ、お別れ。
ガイド施設よりもっと下り、「北条氏照の墓」に向かう。

石段160段を上がる。

「北条氏照及び家臣の墓」


氏照死後100年忌のときに建てられた供養塔

両側面には大きな蓮が掘られている。

これで、八王子城址の探索は終り、バスで高尾駅まで戻り、希望者だけで武蔵野陵に参拝しました。
(了)
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「越山~上杉謙信侵攻と関東の城」展/嵐山史跡の博物館
20181220
12月16日に、この企画展の、学芸員による解説があるということで行ってきました。

ここでの大きな収穫は、「関東管領」という肩書が上杉憲政から長尾景虎(上杉謙信)に移った際の具体的な手続きがわかったことでした。
川越合戦の際に、上杉憲政が着陣したといわれる狭山市の城山砦のすぐ近くに私は住んでいるので、このあたりについては大いに関心があります。
【川越合戦】
・関東管領上杉憲政(山内上杉)は、上杉朝定(扇谷上杉)が川越城を氏康に奪われたことで非常に危機感を覚え、その奪還を図ります。
・まず上杉憲政は、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元に呼び掛け同盟を結び、後北条氏に対する包囲網を作り上げた。
・早速駿河の今川義元は、北条氏康に奪われた領地を奪還しようと兵を起こします。
・北条氏康が小田原から動けなくなった状況を作った上で、上杉憲政は天文14年(1545)10月26日に川越城を攻略するため、柏原郷(現狭山市)の城山砦に着陣します。
・上杉朝定も松山城から、古河公方・足利晴氏も請われて出陣し、三軍合計8万の兵で川越城を囲んだ。
・当時川越城には、北条綱成率いる3000の兵で守っていた。当然籠城策をとります。
・8万の軍勢で取り囲んだ上杉方は、兵糧攻めの作戦をとり、それが半年と長引いた。
【川越夜戦】
・北条氏康は、かなり不利な条件で今川と講和を結び、8000の兵を率いて川越の砂窪に着陣。
・彼我の戦力差が大きすぎるため、氏康は常陸小田氏の代官を通じて城の明け渡しを条件に、城兵の助命を求めた。
・しかし足利晴氏は「どうせ城は落ちる」と拒否。
・天文15年(1546)4月20日に氏康は夜襲をかける。
・上杉方は半年にわたる攻囲ですっかり規律が緩んでいたため算を乱して敗れ、北条方の圧勝で終わる。
・上杉朝定は討ち取られ扇谷上杉氏は滅亡。上杉憲政は馬廻り衆3000余が討ち取られ、本拠の上野国平井に敗走した。
その後、上杉憲政は再起を図るが、信濃の争いに巻き込まれ、小田井原(長野県御代田町))の戦いで武田晴信に大敗を喫し、孤立していき、天文21年(1552)に平井城を北条氏康に攻められると維持できずに、越後国に向かい、長尾景虎を頼った。
【上杉謙信と越山】
「越山」とは、上杉謙信による関東侵攻のことを言う。
〇第一次越山:天文21年(1552)7月
詳細は明らかでないが、上杉憲政の要請で、利根川以北の「北河辺矢嶋(埼玉県加須市)」まで進駐した。
●永禄2年(15595)6月、5000の兵を率いて二度目の上洛をした謙信に13代将軍足利義輝が、関東管領上杉憲政の進退を謙信に任せることを命じた「御内書」を発行。これにより、謙信は関東侵攻の大義名分を得た。


〇第二次越山:永禄3年(1560)8月に沼田に着陣。沼田城、白井城を攻略、厩橋城(前橋市)を拠点とする。
関東と越後両軍の一部は鎌倉まで進駐。
永禄4年2月に松山城に着陣、鎌倉八幡宮に願文を捧げる。謙信に属するは上野・下野・武蔵・常陸・安房・上総・下総七ケ国、255名の諸氏。
3月に小田原城包囲。両軍が直接ぶつかることは無かった。兵糧不足の懸念から包囲を解く。
●永禄3年(1560)3月に鶴岡八幡宮の神前で上杉憲政から関東管領職を譲り受けた。
その後、天正5年(1577)まで第17次まで「越山」を実行した。
●天正6年3月13日、上杉謙信死去
【戦国時代の戦の舞台「城」とはなにか】
鎌倉時代の武士の「館」から戦国時代の「平山城」までの推移を説明していた。
展示されていた城の絵図・写真
・「一遍聖絵」に描かれた武士の館
・藤原秀郷が築いたという伝承のある「唐沢山城」(佐野市)の写真
・麓に城主が住んだ館のある大川城(米沢市)の絵図
・天守を持つ平城、会津若松城の写真
・戦国期の城の様子をよく表した村上城(米沢市)の絵図
・嵐山町の杉山城の写真
関東の山城のなかでは、私は杉山城が好きである。
杉山城の記事を見る
【上杉謙信の越山と城攻め】
上杉謙信が攻めた城跡から出土した、武器から当時の戦闘がどんなものだったかを説明している。
・銃砲撃と弓射で始まる攻城戦
・打ち物戦と出土遺物
・降伏と落城-焼けた城郭
・略奪と出土遺物
城跡から発掘された展示品の中では、金山城(太田市)の銃弾・砲弾が印象深かった。
約1時間、学芸員さんが展示品の説明をしてくださり、いままで上杉謙信が小田原城を攻めたとか断片的にしか知らなかった「上杉謙信の関東侵攻」について、総合的に理解でき、色々な発見があり、とても有意義でした。
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ここでの大きな収穫は、「関東管領」という肩書が上杉憲政から長尾景虎(上杉謙信)に移った際の具体的な手続きがわかったことでした。
川越合戦の際に、上杉憲政が着陣したといわれる狭山市の城山砦のすぐ近くに私は住んでいるので、このあたりについては大いに関心があります。
【川越合戦】
・関東管領上杉憲政(山内上杉)は、上杉朝定(扇谷上杉)が川越城を氏康に奪われたことで非常に危機感を覚え、その奪還を図ります。
・まず上杉憲政は、甲斐の武田信玄、駿河の今川義元に呼び掛け同盟を結び、後北条氏に対する包囲網を作り上げた。
・早速駿河の今川義元は、北条氏康に奪われた領地を奪還しようと兵を起こします。
・北条氏康が小田原から動けなくなった状況を作った上で、上杉憲政は天文14年(1545)10月26日に川越城を攻略するため、柏原郷(現狭山市)の城山砦に着陣します。
・上杉朝定も松山城から、古河公方・足利晴氏も請われて出陣し、三軍合計8万の兵で川越城を囲んだ。
・当時川越城には、北条綱成率いる3000の兵で守っていた。当然籠城策をとります。
・8万の軍勢で取り囲んだ上杉方は、兵糧攻めの作戦をとり、それが半年と長引いた。
【川越夜戦】
・北条氏康は、かなり不利な条件で今川と講和を結び、8000の兵を率いて川越の砂窪に着陣。
・彼我の戦力差が大きすぎるため、氏康は常陸小田氏の代官を通じて城の明け渡しを条件に、城兵の助命を求めた。
・しかし足利晴氏は「どうせ城は落ちる」と拒否。
・天文15年(1546)4月20日に氏康は夜襲をかける。
・上杉方は半年にわたる攻囲ですっかり規律が緩んでいたため算を乱して敗れ、北条方の圧勝で終わる。
・上杉朝定は討ち取られ扇谷上杉氏は滅亡。上杉憲政は馬廻り衆3000余が討ち取られ、本拠の上野国平井に敗走した。
その後、上杉憲政は再起を図るが、信濃の争いに巻き込まれ、小田井原(長野県御代田町))の戦いで武田晴信に大敗を喫し、孤立していき、天文21年(1552)に平井城を北条氏康に攻められると維持できずに、越後国に向かい、長尾景虎を頼った。
【上杉謙信と越山】
「越山」とは、上杉謙信による関東侵攻のことを言う。
〇第一次越山:天文21年(1552)7月
詳細は明らかでないが、上杉憲政の要請で、利根川以北の「北河辺矢嶋(埼玉県加須市)」まで進駐した。
●永禄2年(15595)6月、5000の兵を率いて二度目の上洛をした謙信に13代将軍足利義輝が、関東管領上杉憲政の進退を謙信に任せることを命じた「御内書」を発行。これにより、謙信は関東侵攻の大義名分を得た。


〇第二次越山:永禄3年(1560)8月に沼田に着陣。沼田城、白井城を攻略、厩橋城(前橋市)を拠点とする。
関東と越後両軍の一部は鎌倉まで進駐。
永禄4年2月に松山城に着陣、鎌倉八幡宮に願文を捧げる。謙信に属するは上野・下野・武蔵・常陸・安房・上総・下総七ケ国、255名の諸氏。
3月に小田原城包囲。両軍が直接ぶつかることは無かった。兵糧不足の懸念から包囲を解く。
●永禄3年(1560)3月に鶴岡八幡宮の神前で上杉憲政から関東管領職を譲り受けた。
その後、天正5年(1577)まで第17次まで「越山」を実行した。
●天正6年3月13日、上杉謙信死去
【戦国時代の戦の舞台「城」とはなにか】
鎌倉時代の武士の「館」から戦国時代の「平山城」までの推移を説明していた。
展示されていた城の絵図・写真
・「一遍聖絵」に描かれた武士の館
・藤原秀郷が築いたという伝承のある「唐沢山城」(佐野市)の写真
・麓に城主が住んだ館のある大川城(米沢市)の絵図
・天守を持つ平城、会津若松城の写真
・戦国期の城の様子をよく表した村上城(米沢市)の絵図
・嵐山町の杉山城の写真
関東の山城のなかでは、私は杉山城が好きである。
杉山城の記事を見る
【上杉謙信の越山と城攻め】
上杉謙信が攻めた城跡から出土した、武器から当時の戦闘がどんなものだったかを説明している。
・銃砲撃と弓射で始まる攻城戦
・打ち物戦と出土遺物
・降伏と落城-焼けた城郭
・略奪と出土遺物
城跡から発掘された展示品の中では、金山城(太田市)の銃弾・砲弾が印象深かった。
約1時間、学芸員さんが展示品の説明をしてくださり、いままで上杉謙信が小田原城を攻めたとか断片的にしか知らなかった「上杉謙信の関東侵攻」について、総合的に理解でき、色々な発見があり、とても有意義でした。
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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(3)
20180505
4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城
前回、早雲寺まで記事にしました。
今回は石垣山一夜城からです。
【石垣山一夜城】

豊臣秀吉が1590年(天正18年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる(一夜城の名もそれに由来する)。
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であった。約3〜4万人を動員し、80日で構築された。秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りは城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などが非常に肥前の名護屋城に似ていることから、黒田如水であったとしている。
1959年に国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている。
私たちが駐車場でバスを降りたのは、南曲輪の下。
南曲輪下石垣の角石は、関東大震災で崩れたままとなっている。
関東大震災で崩れたところは各所で見られた。

ここの石垣の特徴は「野面積み」である。


石垣が終わった所で、振り返って石垣の全景を見る。

ここから、天守台までは、たぶん近道なのか、辛うじて道らしいところを上がる。


〇西曲輪跡

ちょっと道らしいところを上がる。

〇天守台跡

ここから、平らな本丸跡を突っ切って物見台に行く。

〇物見台

ここで、「小田原合戦と一夜城伝説」をおさらい。



続いて、最近地質学に目覚めている私にピッタリの説明が。
小田原って、こんな所だったのか!!

プレートがぶつかり合って、隆起した大磯丘陵を眺める。

ところで、小田原城はどこだ?
ここでも、カメラのズームが物を言いました(嬉)


場所がわかると、肉眼でもちゃんと見えましね。
小田原城を探し当てて、落ち着いたところで、改めて本丸跡を確認した。
〇本丸跡

足もとに二の丸跡が見える。

〇二の丸跡

石垣山の縄張りを誰がしたのか、判っていないみたいです。


〇展望台

薄くなってよく読めないが、長興山、早雲山、明神ケ岳の方向


反対方向の、小田原城は見えるか?

ズームしたら、小田原城の屋根が見えた。

急な斜面を降りて井戸曲輪跡に。

〇井戸曲輪跡

下の方に、井戸に水が溜まっているのが分かる。

ここから、駐車場に戻る間は省略。
江戸城修築のために、ここが「石丁場」という石を調達する場所だったとのこと。


これで、石垣山一夜城の探索を終え、小田原城に向かいました。
【小田原城】
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。
現在の小田原城

駐車場から、住吉橋を渡って「銅門」から入る。
〇住吉橋


住吉橋を渡ると、枡形の向こうに「銅門」がある。

〇銅門



門扉の外側に「石落とし」がある。

門の二階に上がる石段は、いかにも実戦的だ。

銅門をしじると、天守が見える。

〇イヌマキ



東堀を渡って常盤木門へと続く。

〇東堀跡


〇常盤木門

例によって、枡形を経て常盤木門



〇本丸跡


〇天守閣


天守閣の入り口には石段を上る。

天守閣の中に在ったジオラマ。

天守閣の中には様々なものが展示してあったが、時間が無くて、とにかく最上階を目指した。
天守閣からの眺め。
小田原駅の向こうに、大山、丹沢。


戦国時代の遺構が残る、八幡山郭跡

石垣山一夜城方向。

目印が無いので、鉄塔の位置が頼りで、この辺だ。


伊豆半島、真鶴半島


晴れていれば伊豆大島が見えるようだが、残念。


江ノ島方面


以上で、全ての探索は終り。
念願だった山中城をはじめ、この日は収穫が多くて、楽しい一日だった。
満足して帰途についた。
(了)
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マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城
前回、早雲寺まで記事にしました。
今回は石垣山一夜城からです。
【石垣山一夜城】

豊臣秀吉が1590年(天正18年)の小田原征伐の際に小田原城の西3kmにある笠懸山の山頂に構築した。小田原城から見えないように築き、完成後に周囲の木を伐採したため、北条氏側に一夜にして築城されたかのように見せて驚かせ、戦闘意欲を失わせる効果を果たした、といわれる(一夜城の名もそれに由来する)。
石垣や櫓を備えた本格的な「近世城郭」であり、関東で最初に造られた総石垣の城であった。約3〜4万人を動員し、80日で構築された。秀吉はこの城で茶会を開いたり、天皇の勅使を迎えた。当時、天守があったかは不明であるが、天守台跡はある。関東大震災で石垣に被害を受けたが、井戸曲輪の石垣は地震に耐えて現在もよく残っている。この城の縄張りは城郭研究者の外川淳などは、長方形の郭や濠などが非常に肥前の名護屋城に似ていることから、黒田如水であったとしている。
1959年に国の史跡に指定され、現在は石垣山一夜城歴史公園として整備されている。
私たちが駐車場でバスを降りたのは、南曲輪の下。
南曲輪下石垣の角石は、関東大震災で崩れたままとなっている。
関東大震災で崩れたところは各所で見られた。

ここの石垣の特徴は「野面積み」である。


石垣が終わった所で、振り返って石垣の全景を見る。

ここから、天守台までは、たぶん近道なのか、辛うじて道らしいところを上がる。


〇西曲輪跡

ちょっと道らしいところを上がる。

〇天守台跡

ここから、平らな本丸跡を突っ切って物見台に行く。

〇物見台

ここで、「小田原合戦と一夜城伝説」をおさらい。



続いて、最近地質学に目覚めている私にピッタリの説明が。
小田原って、こんな所だったのか!!

プレートがぶつかり合って、隆起した大磯丘陵を眺める。

ところで、小田原城はどこだ?
ここでも、カメラのズームが物を言いました(嬉)


場所がわかると、肉眼でもちゃんと見えましね。
小田原城を探し当てて、落ち着いたところで、改めて本丸跡を確認した。
〇本丸跡

足もとに二の丸跡が見える。

〇二の丸跡

石垣山の縄張りを誰がしたのか、判っていないみたいです。


〇展望台

薄くなってよく読めないが、長興山、早雲山、明神ケ岳の方向


反対方向の、小田原城は見えるか?

ズームしたら、小田原城の屋根が見えた。

急な斜面を降りて井戸曲輪跡に。

〇井戸曲輪跡

下の方に、井戸に水が溜まっているのが分かる。

ここから、駐車場に戻る間は省略。
江戸城修築のために、ここが「石丁場」という石を調達する場所だったとのこと。


これで、石垣山一夜城の探索を終え、小田原城に向かいました。
【小田原城】
北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。
北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。
小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。
現在の小田原城

駐車場から、住吉橋を渡って「銅門」から入る。
〇住吉橋


住吉橋を渡ると、枡形の向こうに「銅門」がある。

〇銅門



門扉の外側に「石落とし」がある。

門の二階に上がる石段は、いかにも実戦的だ。

銅門をしじると、天守が見える。

〇イヌマキ



東堀を渡って常盤木門へと続く。

〇東堀跡


〇常盤木門

例によって、枡形を経て常盤木門



〇本丸跡


〇天守閣


天守閣の入り口には石段を上る。

天守閣の中に在ったジオラマ。

天守閣の中には様々なものが展示してあったが、時間が無くて、とにかく最上階を目指した。
天守閣からの眺め。
小田原駅の向こうに、大山、丹沢。


戦国時代の遺構が残る、八幡山郭跡

石垣山一夜城方向。

目印が無いので、鉄塔の位置が頼りで、この辺だ。


伊豆半島、真鶴半島


晴れていれば伊豆大島が見えるようだが、残念。


江ノ島方面


以上で、全ての探索は終り。
念願だった山中城をはじめ、この日は収穫が多くて、楽しい一日だった。
満足して帰途についた。
(了)
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太閤小田原攻め探索/山中城から小田原城(2)
20180501
4月24日に行われた歴史クラブ行事に参加して、歩き回ってきました。
マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城
前回、山中城の西の丸、一番高い所まで上ったところまで記事にしましたが、その続きです。
西櫓の富士山側から、宗閑寺に向かって降りていきます。

この辺に、西櫓との橋が架かっていたみたいだ。

こちら側から、美しい障子堀を眺める。

西の丸下から西櫓を望む。

一旦斜面の林の中を降りて行き、西の丸を目指す。

〇西の丸


西の丸の土塁の上から西櫓を見る。

西櫓と西の丸との間の障子堀

さっき上がって来た西の丸畝堀を見下ろす。

西の丸から降りて、元西櫓に上がる。

〇元西櫓


元西櫓と二の丸に架かる橋


二の丸側には虎口が設けてある。


〇二の丸
広い。

〇本丸堀



〇本丸跡


駒形・諏訪神社まで降りて来ました。


樹齢約600年の大カシ。
あの、阿鼻叫喚の一日を生き延びた樹である。



鳥居のところに、庚申塔とお地蔵さんが鎮座。



これで、山中城探索は終りです。

見事な石楠花です。

ここで、また箱根旧道に入り、「雲助徳利の墓」を見に行く。

〇雲助徳利の墓



国道1号線を宗閑寺に向かう途中、黄色の石楠花を発見。

【宗閑寺】
所在地:静岡県三島市山中新田94-1


この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和(げんな)年間(1615~1623)であろうと推定される。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立した。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城したが、このときの北条方の副将が間宮康俊だった。お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀り、供養するためにこの寺を創建したと言われている。
このお寺の珍しい点は、敵でありこの合戦で戦死した一柳伊豆守直末(ひとつやなぎいずのかみなおすえ) の墓もあるというところです。また、隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではありませんが、山中城主松田直長(まつだなおなが)の墓にはクルス紋があります。
各武将の墓


一柳伊豆守直末の墓


北条方の墓

山中城主松田直長の墓

【早雲寺】
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある。
大永元年(1521年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。
だが、大徳寺側の記録では大永元年当時の以天宗清は同寺にいたとされているため、創建年次に関する2つの異説が唱えられている。岩崎宗純は宗清が韮山の香山寺にいた永正年間にまだ健在であった早雲の依頼で湯本に「早雲庵」と呼ぶべき前身寺院を建立したのが事実上の創建で、早雲の死後に菩提寺に改めたとする説を唱えている[2]。これに対して黒田基樹は早雲寺の創建が大永元年とする寺伝そのものが江戸時代以前に存在しない(つまり江戸時代の創作である)とする立場から、早雲寺に湯本の門前町が寄進された年代不明の氏綱発給文書がその花押形が享禄4年(1531年)以降のものであることを指摘して、早雲寺の創建を門前町の寄進の前後である享禄・天文年間であったとする説を唱えている[3]。
天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。
山門

本堂

〇後北条氏5代の墓


五代の墓が横一直線に並ぶ。

下に「伊勢新九郎」と彫られた、北条早雲の墓石。

〇開山堂


〇連歌師・宗祇の墓

旅の途中に湯本で生涯を閉じた連歌師・飯尾宗祇(いいお そうぎ)の墓(供養塔)、
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。
〇宗祇の句碑
「世にふるも更に時雨のやどりかな」
後に芭蕉が詠んだ、「世にふるも更に宗祇のやどり哉」 芭蕉
の本歌となります。

〇山上宗二追善碑
山上宗二は千利休の高弟。
小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたという。

〇梵鐘



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マイクロバスを一台借りての旅です。
コースは、旧東海道箱根石畳の道⇒山中城⇒宗閑寺⇒早雲寺⇒石垣山一夜城⇒小田原城
前回、山中城の西の丸、一番高い所まで上ったところまで記事にしましたが、その続きです。
西櫓の富士山側から、宗閑寺に向かって降りていきます。

この辺に、西櫓との橋が架かっていたみたいだ。

こちら側から、美しい障子堀を眺める。

西の丸下から西櫓を望む。

一旦斜面の林の中を降りて行き、西の丸を目指す。

〇西の丸


西の丸の土塁の上から西櫓を見る。

西櫓と西の丸との間の障子堀

さっき上がって来た西の丸畝堀を見下ろす。

西の丸から降りて、元西櫓に上がる。

〇元西櫓


元西櫓と二の丸に架かる橋


二の丸側には虎口が設けてある。


〇二の丸
広い。

〇本丸堀



〇本丸跡


駒形・諏訪神社まで降りて来ました。


樹齢約600年の大カシ。
あの、阿鼻叫喚の一日を生き延びた樹である。



鳥居のところに、庚申塔とお地蔵さんが鎮座。



これで、山中城探索は終りです。

見事な石楠花です。

ここで、また箱根旧道に入り、「雲助徳利の墓」を見に行く。

〇雲助徳利の墓



国道1号線を宗閑寺に向かう途中、黄色の石楠花を発見。

【宗閑寺】
所在地:静岡県三島市山中新田94-1


この寺の宗派は浄土宗で、創建は元和(げんな)年間(1615~1623)であろうと推定される。山中城の副将間宮康俊(まみややすとし)の娘お久が徳川家康に頼んで、山中城三の丸跡に建立した。山中城は、天正18年(1590)3月豊臣秀吉の攻撃により落城したが、このときの北条方の副将が間宮康俊だった。お久は、この戦いで戦死した間宮一族の霊を弔うとともに、多くの武将を敵、味方なく祀り、供養するためにこの寺を創建したと言われている。
このお寺の珍しい点は、敵でありこの合戦で戦死した一柳伊豆守直末(ひとつやなぎいずのかみなおすえ) の墓もあるというところです。また、隠れ切支丹(きりしたん)の墓かどうか、現在も定かではありませんが、山中城主松田直長(まつだなおなが)の墓にはクルス紋があります。
各武将の墓


一柳伊豆守直末の墓


北条方の墓

山中城主松田直長の墓

【早雲寺】
所在地:神奈川県足柄下郡箱根町湯本405
臨済宗大徳寺派の寺院。山号は金湯山。本尊は釈迦如来。寺内には後北条氏5代の墓、連歌師・宗祇の碑がある。国の重要文化財の織物張文台及硯箱、北条早雲肖像画、県指定文化財の北条氏綱・氏康らの肖像画がある。
大永元年(1521年)、北条早雲(伊勢盛時)の遺言でその子北条氏綱が京都大徳寺第83世以天宗清を招き創建されたと伝えられている。
だが、大徳寺側の記録では大永元年当時の以天宗清は同寺にいたとされているため、創建年次に関する2つの異説が唱えられている。岩崎宗純は宗清が韮山の香山寺にいた永正年間にまだ健在であった早雲の依頼で湯本に「早雲庵」と呼ぶべき前身寺院を建立したのが事実上の創建で、早雲の死後に菩提寺に改めたとする説を唱えている[2]。これに対して黒田基樹は早雲寺の創建が大永元年とする寺伝そのものが江戸時代以前に存在しない(つまり江戸時代の創作である)とする立場から、早雲寺に湯本の門前町が寄進された年代不明の氏綱発給文書がその花押形が享禄4年(1531年)以降のものであることを指摘して、早雲寺の創建を門前町の寄進の前後である享禄・天文年間であったとする説を唱えている[3]。
天正18年(1590年)、小田原征伐において一時的に豊臣秀吉軍の本営が置かれるが、石垣山城が完成すると当寺を含む一帯は焼き払われた。北条氏の庇護を失って荒廃したが、焼失後の寛永4年(1627年)、僧・菊径宗存により再建。慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光から朱印状を与えられ復興した。
山門

本堂

〇後北条氏5代の墓


五代の墓が横一直線に並ぶ。

下に「伊勢新九郎」と彫られた、北条早雲の墓石。

〇開山堂


〇連歌師・宗祇の墓

旅の途中に湯本で生涯を閉じた連歌師・飯尾宗祇(いいお そうぎ)の墓(供養塔)、
応仁の乱以後、古典復興の気運が高まり、地方豪族、特に国人領主層に京都文化への関心と連歌の大流行が見られた。宗祇は、連歌本来の伝統である技巧的な句風に『新古今和歌集』以来の中世の美意識である「長(たけ)高く幽玄にして有心(うしん)なる心」を表現した。全国的な連歌の流行とともに、宗祇やその一門の活動もあり、この時代は連歌の黄金期であった。
〇宗祇の句碑
「世にふるも更に時雨のやどりかな」
後に芭蕉が詠んだ、「世にふるも更に宗祇のやどり哉」 芭蕉
の本歌となります。

〇山上宗二追善碑
山上宗二は千利休の高弟。
小田原北条氏の庇護を受け小田原に滞在。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原攻めの際に、師に再会するため本陣だった早雲寺を訪れたが、秀吉の逆鱗にふれ斬殺されたという。

〇梵鐘



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