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小倉(おぐら)城跡/埼玉県ときがわ町

20220430

所在地:埼玉県比企郡ときがわ町大字田黒
訪問日:2022年3月30日

歴史クラブの仲間と三人で、杉山城の次にここを訪れました。

国指定史跡小倉城跡は、ときがわ町の北東の端に位置する、戦国時代の山城です。平成20年に嵐山町の菅谷館跡、杉山城跡、吉見町の松山城跡と一括で、国指定史跡となりました。
周囲には蛇行する槻川が流れており、さらに川を挟んだ向かい側には大平山などの山があります。これら自然地形を堀や障壁として取込み、防御性に富んだ地勢となっています。この立地環境の中で、小倉城跡は河川交通と陸上交通を監視する役目を担つていたと考えられます。
今のところ戦国時代の文献史料は確認されておりません。城主は不明ですが、江戸時代の「新編武蔵風土記稿」では小田原北条氏の重臣である遠山氏、「武蔵誌」では遠山氏あるいは上田氏とも伝えています。過去の発掘調査の成果から、天文~永禄年間(1532~1570)頃に盛期を迎え、天正年間(1573~1592)後半頃に使われな<なったものと推定されます。
山城の構造としては、地形を巧みに利用した5つの郭を造成しており、郭に伴つて土塁や堀、切岸、虎口といった防御施設が設けられています。
最大の特徴は、城の随所に見られる石垣や石積みです。「郭3」のコの字形に囲む最大高約5m、総延長120mあまりの石垣や、「郭1」の土塁内側には3段の雛壇状に構築した石積み(埋め戻してあるため現在見ることはできません)があることがわかっています。これら石垣などは緑泥石片岩を使用しており、板状に割れる特徴を活かして長辺を正面に揃えた積み万をしています。
この山城自体が岩山であり、築城時に発生した石材を石垣などに利用したと考えられますが、その性格は単に実用面の土留めにとどまらず、装飾的に『見せる』効果をもねらったものと評価されています。近くには国指定史跡下里・青山板碑製作遺跡(小川町)もあり、その板碑製作に携わった石工と関連があった可能性も考えられます。
比企地域に小田原北条氏が進出する前後の時期で、優れた縄張りを今に伝える山城としても高<評価されていますが、依然として謎のベールに包まれている部分が多<あります。

案内図
スタートは、大福寺の駐車場に車を停め、Ⓐのところから登り始め、郭3の下から枡形虎口から郭1に入り、郭2に移り、大堀切を確認してから郭4を通ってⒷをゴールとし、林道を歩いて、大福寺に戻ります。
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復元想像図
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大福寺
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「小倉城入口」の表示のところから登り始める。
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けっこう急な斜面を登っていく。
深い森の中で見通しはまったく効かない。
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「郭3」の石垣の下に到着。
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石垣というから、なんとなく平城の石垣を想像していたが、斜面の法(のり)に合わせて積まれている。
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緑泥石片岩ということが、一目瞭然である。
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下に落ちているのを見ても、まさしく緑泥石片岩。
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ここから右に、「東腰郭」に移動する。
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「東腰郭」の石垣
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「東腰郭」
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「郭1北虎口」の枡形虎口
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「郭1北虎口」
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袖の石垣残骸
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「郭1」
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「郭1」の中央部に立つ、「小倉城跡」の石碑。
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「郭1」は、けっこう広い。
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「郭1」に存在した建物の復元図。
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東の方向を見渡せる。
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見えるのは、嵐山町の方向。
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郭3の方向。
木が茂っていて、見通しがきかない。
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「西虎口」から出て、「郭2」に向かう。
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「郭2」
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西の方が開けていて、足元は小川町。
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下は「大堀切」
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「郭2」から下りて、「大堀切」に。
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緑泥石片岩の露頭があった。
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右側は「郭2」の急斜面。
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「郭4」
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出口まで下っていく。
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ゴール地点に到着。
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ここから林道を歩いて、大福寺に戻り、小倉城跡見学は終了。

まだ元気が残っていたので、鎌形八幡(木曽義仲産湯の清水)、伝曽我十郎祐成供養塔を見てから、帰路についた。

(了)


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杉山城跡/埼玉県比企郡嵐山町

20220419

所在地:埼玉県比企郡嵐山町杉山
訪問日:2022年3月30日

この城には、所属する歴史クラブの企画で2016年2月に訪れています。今回はやはり歴史クラブの仲間と三人で訪れました。杉山城と小倉城を見る予定です。

杉山城址駐車場に車を置き、出郭から入っていきます。

大手口の手前、出郭には、最近植えられた桜が咲き誇っていた。
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杉山城の説明と、立派なパンフレットが置いてある。
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2008年(平成20年)3月28日、すでに国の史跡に指定されていた菅谷館跡(嵐山町)に、松山城跡(吉見町)、小倉城跡(ときがわ町・嵐山町・小川町)とともに杉山城が追加指定され、「比企城館跡群」の名称で一括して国の史跡に指定された。
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 戦国時代の初め頃、関東では関東管領山内上杉氏と同族の扇谷上杉氏による抗争がありました。「長享の乱」と呼ばれる一連の戦いのなかで、当時の嵐山町は、山内上杉方の拠点鉢形城(寄居町)と扇谷上杉方の拠点河越城(川越市)の中間にあり、長享2年(1488)には須賀谷原(嵐山町)で多くの戦死者を出す激しい戦闘がありました。
 杉山城跡から出土した遣物の年代は、この戦いの少し後にあたります。杉山城は、旧城を再興した須賀谷城とともに、山内上杉氏が扇谷上杉氏に対抗して築城したものと考えることができます。

杉山城跡案内図
二の郭が3ケ所、三の郭が3ケ所、それに外郭、出郭もあり、広大な城である。
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出郭から進み、突き当りの大手口を左折して大手門に向かう。
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大手口右側の、出郭と外郭を隔てる堀と畝。
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大手口
右側と正面左側に横矢掛かりがある。
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馬出郭の外周の深い堀
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馬出郭
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外郭
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外郭から南二の郭東虎口に通じる帯郭
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南二の郭を見上げる。
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突き当り(虎口受)を左に曲がると南二の郭東虎口
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左に曲がると南二の郭東虎口の所、虎口受。
本郭東側下の帯郭とは堀で隔てられていて進めない。
平常時は、ここに橋が架かっていて、本郭への道となっていた。
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南二の郭
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南二の郭と南三の郭の間の食い違い虎口
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井戸跡
この城の唯一の井戸
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ここから搦め手まで移動して、搦め手から本郭に進むとする。

搦め手の登り口
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しばらく林の中を上っていく。
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北三の郭虎口
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西側の眺望
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北三の郭
振返って撮っているので、右側が北三の郭。
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北二の郭の虎口を守る横矢掛かりの土塁
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突き当りを左に曲がって、鍵型の虎口に向かう。
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北二の郭
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本郭の北端斜面
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本郭の北虎口
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本郭に到着
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本郭の中心部分
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本郭はかなり広い。
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東二の郭方向の土塁。
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手前から、東二の郭、東三の郭。
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南東の方向に、上から本郭、南二の郭、外郭。
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本郭の南の場所に行ってみる。
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井戸に簡単に行けるように、普段は橋をかけていた。
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右側の本郭の土塁に横矢掛かりが設けられた。土塁をちゃんと入れて撮ればよかった。
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東虎口の現在はこんな感じだが、戦国期城郭の最高傑作であることが発掘でわかりました。
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本郭の東虎口は、方形に区画され、内側にはハの字形に広がる石積みが検出されました。この他にも本郭両虎口や北虎口、南二の郭両虎口など多くの虎口で石が使われていることがわかってきました。
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東虎口から降りる。
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本郭東側下の帯郭。
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帯郭と南二の郭を分断する縦堀を通って降りる。
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出郭に戻ってきて、杉山城の探索は終り。
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実に大きな山城で、自然の地形をうまく利用して、堀、折り、虎口を守る工夫、横矢掛かり等の防御の工夫が良くわかった。
これは保存状態もさることながら、復元にも大きな努力があったと思います。
とても良い山城だと感服しました。

ここから小倉城に移動する途中で、お蕎麦屋さんで昼食をとり、小倉城に向かいました。

(了)


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鉢形城跡

20220416

所在地:埼玉県大里郡寄居町大字鉢形
訪問日:2022年3月25日

所属する歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で訪れました。
東武東上線寄居駅から徒歩25分くらいで荒川の正喜橋に到着。
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橋から玉淀河原が見える。荒川から切り立つ崖の上が鉢形城である。
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正喜橋を渡ると、右手に鉢形城址入り口となる。
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250分の1スケールの鉢形城復元地形模型が置かれている。
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鉢形城全体図
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【鉢形城の歴史】
初めて築城したのは関東管領山内上杉氏の家臣である長尾景春と伝えられている。それから、豊臣秀吉の小田原征伐で落城するまでの歴史を詳しく述べると、ものすごく長文となるので、ここでは城主の変遷と主な戦いを箇条書きで述べておきます。

〇城主:長尾景春
・文明8年(1476)6月、関東管領山内上杉顕定の家臣である長尾景春が鉢形城を拠点として顕定に叛いた(長尾景春の乱)。山内上杉氏の家宰であった景春の父の景信死後、叔父の忠景が家宰職をついだことに端を発した。相模・武蔵各地で景春党が蜂起し、翌年上杉顕定軍は上野国へ退去した。
・扇谷定正の家宰太田道濯が各地の景春党を鎮圧し、用土原で景春軍を破り、文明10年(1478)7月には鉢形城を攻略、その後上杉顕定が入城した。
〇城主:山内上杉顕定
・長尾景春の乱後、鉢形城に入った山内上杉顕定は、河越城を拠点に台頭してきた扇谷上杉定正と対立。
・顕定は、太田道濯により定正側の勢力が拡大することを恐れ、文明18年(1486)7月、讒言をもって道濯を定正に謀殺させた。
・長享2年(1488)11月、定正が上杉顕定の鉢形城を攻めようと高見原で両軍が戦う。明応3年(1494)10月、高見原に陣を張った定正は、北条早雲の軍勢とともに顕定の軍勢と荒川河畔で対戦したが、渡河の際落馬し、そのことが原因で急死した。
〇城主:山内上杉顕実
・永正7年(1510)6月、山内上杉顕定が越後で長尾為景に討たれたのち、山内上杉顕実(古河公方足利成氏の子、顕定の養子)が関東管領職を継いで鉢形城に入る。
〇城主:山内上杉憲房
・その後、山内上杉憲房(顕定の養子)の家宰となった足利の長尾景長が山内上杉顕実の居城鉢形城を攻め、上杉憲房が入城。

◎城主:北条氏邦
・天文15年(1546)、山内上杉憲政(憲房の子)と扇谷上杉朝定の連合軍が北条家三代当主北条氏康に「河越夜戦」で大敗した。
・在地の豪族で、藤田氏は武蔵七党猪俣党の系譜で、山内上杉氏の家老だったが、河越夜戦の大敗後、藤田康邦は氏康の第四子氏邦に娘大福(おふく)御前を娶らせ、居城の天神山城と家督を譲りました。氏邦は、秩父地方を勢力圏に治めた後、上野進出の拠点として、関東管領の居城であった鉢形城を支配領の中心とした。
・氏邦が鉢形城を居城としたのは、永禄3年(1560)ごろと思われる。
・関東では北条氏が武田・上杉(越後)両氏とその支配権を巡って壮絶な戦いを繰り広げる。
・北条氏康は、氏邦に命じ敵対していた上杉謙信との同盟を画策、交渉は難航したが、永禄12年(1569)6月頃に越相同盟が成立、氏邦の弟三郎(後景虎に改名)が謙信の養子として送られた。
・越相同盟に怒った武田信玄は同年9月、西上野から鉢形城に侵攻し、氏邦は鉢形城で全力をあげて防戦。鉢形城を落とせなかった武田軍は、道すがら滝山城を攻めつつ、長駆して小田原城にまで進撃。
・同年10月、小田原城を包囲した信玄だったが、難攻不落を誇る小田原城を落とすことができず、城下に放火し、撤退。氏邦は、滝山城主の北条氏照とともに武田軍を追撃し、小田原本軍と挟み撃ちを試みたが、あえなく撃破されてしまう(三増峠の合戦)。
・越相同盟が信玄を牽制する機能を果たさないため、その後も、氏邦は武田軍の侵攻に悩まされた。
・氏康死後、氏邦の兄である北条家四代当主氏政は越相同盟を破棄し、西上野割譲を条件に武田氏と同盟を結び、再び上杉氏との抗争に突入することとなった。
・上杉謙信は関東における安定した支配権を確立しようと、氏政と各地で抗争するが、氏政は東上野から北武蔵の上杉派勢力を駆逐していく。その一連の抗争のの中で、天正2年(1574)、上杉謙信は、鉢形城周辺など各地に放火を繰り返した。
・天正6年(1578)、上杉謙信が没すると、越後国では後継者争いが始まり(御館の乱)、関東どころではなくなり、そのため、北条氏は北関東へ容易に進出できるようになった。
・天正10年(1582)、武田氏が滅びると、上野国は一時、織田信長の家臣滝川一益が関東管領として支配するが、本能寺の変に動揺した一益は、北条軍に破れてしまう(神流川の合戦)。
・これにより、沼田を除く上野国は北条氏の支配下に置かれることとなり、氏邦がその中心的な役割を果たすこととなる。
・豊臣秀吉の小田原攻めは空前絶後の25万の大軍容で実施され、鉢形城は前田利家、上杉景勝、真田昌幸らの北国勢によって包囲される。
・天正18年(1590)3月末に上野国へ侵攻した北国勢は、4月に松井田城を攻め落とし、国峰・箕輪・厩橋・和田城なども次々と攻略。5月には松山城、河越城を攻め落とし、鉢形城を包囲した。
・氏邦は和平工作を続けながら、居城鉢形城に3千5百の軍勢とともに龍城した。
・秀吉は、一刻も早く全支城を攻略しようと、利家に対し鉢形城を早く攻め落とすように叱責している。岩付城を攻略した浅野長吉・木村一らの軍を加え、5万の軍勢で鉢形城を包囲させた。
・家臣らの助命嘆願工作を続けていた氏邦だったが、ようやく秀吉に聞き入れられ、6月14日ついに鉢形城を開城するにいたった。
・大福(おふく)御前は、弟(豊臣方として行動)と共に戦後処理に尽力した後自害。
・氏邦は前田利家に預けられ、慶長2年(1597)に金沢(一説には石川県七尾市)で死去。
・鉢形城は、北条氏滅亡とともに廃城となった。

現在居るのは「笹曲輪」ですが、「伝御殿曲輪」まで、下図で上の緑線のコースを歩いていく。
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「笹曲輪」から上がっていく。
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荒川の絶壁の端を歩いていく。
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左側の平地からみると、けっこう高い。
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四阿に到着。
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荒川の対岸は、寄居の町。
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「伝御殿曲輪」
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「本丸跡」の碑がある。
しかし、現在の案内図には「本丸」の記載は無い。
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田山花袋碑のある場所に出る。
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田山花袋は大正7年(1918年)に、坂戸から馬車で越生、小川町、寄居、波久礼、長瀞と旅した際に、念願の鉢形城に立ち寄り、漢詩を作っている。

襟帯山河好  雄視関八州 (襟帯山河好し。雄視す関八州。)
古城跡空在  一水尚東流 (古城の跡空しく在り。一水尚ほ東流す。)

碑の揮毫は、武者小路実篤である。
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この辺には、けっこうカタクリの花が咲いていた。
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「伝御殿曲輪」の端まで来たが、下に降りる手すりもない急な階段に恐れをなして、参加者の女性軍が一斉に引き返したので、少し引き返して下に降りることにした。
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右側が今いる「伝御殿曲輪」で、左側の低いところが「本曲輪」である。
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「本曲輪」
「伝御殿曲輪」への急斜面手前に辛夷が美しく咲いていた。
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さっき、ブルって引き返した急な階段。
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これから、「城山稲荷神社」の参道を行く。
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左側に「二の曲輪」が広がる。
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「二の曲輪」から「三の曲輪」に移動する。
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「二の曲輪」から崖の低い所を通って、「伝矢倉跡」から「三の曲輪」に入る。
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堀から「伝矢倉跡」に上がる。
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二の曲輪(左)と三の曲輪(右)の間の「堀と畝」
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「三の曲輪」
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四脚門から入った左側には石積み土塁が続いている。
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「石積み土塁」
土塁の表面に川原石を階段状に積み上げている。約1m積んでは控えを作り、さらに積み上げて土塁全体を高く作り上げている。
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石階段と四脚門
発掘調査で検出した礎石と石階段から四脚門と想定。近在に戦国時代の武家屋敷等の建築物が皆無なので、「洛中洛外図屏風」を参考に復元したもの。
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四脚門の前に立って「虎口」を見る。犬を連れた人が居るところ。この虎口から出れば「角馬出」(現諏訪神社)が確認できたのだが、勉強不足で見逃した。
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三の曲輪全景
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「氏邦桜」
以前は「鉢形城の桜」と呼ばれていたが、今は「氏邦桜」と云うようだ。エドヒガン。
隣り合う二本の桜が伐採され、その株跡から12本の芽(蘖ひこばえ)が伸びて、美しい樹形になったもの。
付近の古老の伝承から、推定樹齢150年超え。
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実は、参加者にこの桜を見てもらいたいという企画でもあったのだが、他の桜が全然咲いていないので、早すぎたとがっかりしていたら、咲いてくれていたので現地で大喜びした(嬉)

近くには、カタクリもたくさん咲いていた。
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深沢川を渡って、鉢形城歴史館に向かう。
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まったく、すごい天然の要害である。
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鉢形城歴史館の前に、一番外の土塁が伸びている。
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鉢形城歴史館の前にある休憩施設で、持参のお弁当を食べて休憩。
そして鉢形城歴史館に入り、おさらい。
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冒頭の、「鉢形城の歴史」は、鉢形城歴史館で入手した情報によるもの。

見学後は、外曲輪を通って、搦手橋経由で正喜橋を渡り、七代目松本幸四郎別邸跡の「雀宮公園」を見学してから寄居駅に戻り、帰途についた。

(了)


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今治城

20200603

所在地:愛媛県今治市通町三丁目
訪問日:2020年3月24日

「青春18キッブの旅2020春」の3日目、今治駅前のホテルを出発、レンタカーで「しまなみ海道」を北上、大三島の伊予国一之宮・大山祇神社に参拝。そこから道の駅二つで土産物購入と昼食を済ませ、今治に戻る途中で大島にある村上水軍博物館に寄り、それからここに到着した。
「青春18キッブの旅2020春」の最後の訪問地である。

今治城の位置
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大手筋の駐車場に車を停めると、堀を挟んで天守閣が見えた。
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まずは、武具櫓側まで行って、堀の向こうに武具櫓、鉄御門、東多聞櫓、御金櫓が全て見える景観を楽しんだ。
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大きな自然石の標石がある入り口から、大手筋を通って鉄御門に向かう。
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大手筋から武具櫓を見る。
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突き当たりが枡形虎口で、右に鉄御門がある。
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今治城の案内
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今治城は、別称「吹揚城(吹上城)」とも云う。
今治城は高松城(香川県)、中津城(大分県)とともに日本三大水城の一つ。藤堂高虎築城当時の今治城は内堀、中堀、外堀と堀が三重にめぐらされ、すべての堀が瀬戸内海の海水とつながっていて、潮の干満で堀の水位も変わったという。
今に残る堀にも鯛やヒラメなどの海水魚が泳ぎ、釣り人の姿も見受けられる。海から吹き揚げた砂地の上に築城したので別名「吹揚城」とも呼ばれている。
慶長7年(1602年)、藤堂高虎[1]によって築城開始され、慶長9年(1604年)に完成した。普請奉行として渡辺了の名が知られている。今治城完成以前の今治の支配拠点は、唐子山山頂にあった国府城であったが、より能率的な都市経営を目指すため築城された。構造は、三重の堀に海水を引き入れた特異な構造で、当時は海から堀へ直接船で入ることができるなど海上交通の要所今治らしく海を最大限に活用した城となっている。日本三大水城の一つに数えられている。

二之丸に藩主館、中堀以内に側近武士の屋敷、外堀以内に侍屋敷、城門が9ヶ所、櫓が20ヶ所と非常に広大な造りだった。慶長14年(1609年)、高虎が伊勢国津城に移封となり、同時に天守は丹波国亀山城に移築されたと伝わる。高虎自身は移封されたが今治領2万石は飛び地として残り養子の高吉が居城した。

寛永12年(1635年)、高吉は伊賀国名張に移り、代わって伊勢国長島城より松平(久松)定房が入城し、以後、明治維新まで今治藩・久松松平氏の居城となった。広大な城郭は江戸260年間保たれたが、明治維新以後、廃城令施行前の明治2年(1869年)に廃城され、ほとんどの建築物が破却された。このとき二の丸北隅の武具櫓は収蔵物とともに残されたが、明治4年(1871年)に火災が発生した際、内部の火薬に引火して爆発炎上し破壊された。

石垣と内堀がほぼ江戸時代の姿を残している。
昭和55年(1980年)に5層6階の天守が鉄筋コンクリートで建てられた。
昭和60年(1985年)に東隅櫓が御金櫓として再建された。外観は今治藩医の半井梧庵が残した写真をもとに復元されている。名称は今治城の古絵図において東隅櫓に御金蔵という蔵が併設されていたことに因る。
平成2年(1990年)に二の丸西隅に山里櫓が再建された。

平成18年(2006年)4月6日、日本100名城(79番)に選定された。
平成19年(2007年)9月、可能な限り江戸時代の史実に基づき、鉄御門(くろがねごもん)が石垣や多聞櫓5棟ともに復元された。また、二の丸に藤堂高虎の像が建立された。

守りの堅い枡形虎口が鉄御門の前にあり。
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鉄御門の左側に「勘兵衛石」がある。
幅4.5m、高さ2.3m、重量16tもの堂々たる鏡石。
鏡石というのは、城の権力の象徴とも言われている。
この鏡石は築城奉行の功績を称えて「勘兵衛石」と呼ばれている。
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勘兵衛には、石調達の達人として、こんな話が伝承されている。
石の調達に苦難していた折に、「船一杯の石材をもってきたら、同等の米を与える」と周囲一帯に告知した。
その米がなくなってしまうと、「石はもういらん!持って帰れ!ただし海に捨ててはならん!」と告げた。
しかし、石を運んできた者たちも重い石を持って帰っても何の利にもならないので、次々と近くの海岸に石を捨てて帰った。
そして、落ち着いた頃にその捨てられた石を拾って今治城の石垣を完成させたといわれている。

〇鉄御門
門扉に短冊状の鉄板を打ち付けている。
このような鉄御門は、格式の高い城にしかない特別な城門であり、藤堂高虎が徳川幕府から、いかに高い信頼を受けていたかということ。
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鉄御門をくぐると左に折れるが、そこに、かっての三の丸の表門だった鉄御門の礎石が置かれていた。
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山里櫓へと続く内側の石垣も、野面積でなかなか面白い石がある。
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最近は、こういう刻印石を見つけるのが楽しみ(笑)
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〇山里櫓
時間が無くて、御金櫓、山里櫓、武具櫓・多聞櫓の各櫓にも入れるようになっていたが、寄らなかった。
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〇藤堂高虎像
天守閣前の広場には、藤堂高虎の馬上姿の銅像が立っている。
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〇蒼吹の井
石垣の下まで届かせるために、かなり深い井戸になっているようです。砂浜に造られているのに真水が得られたのは、この地域に蒼社川の伏流水が多いためとか。
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天守閣を見上げる。
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〇吹揚神社
現在の吹揚神社がある辺りが本丸だったようです。
廃藩にあたり、往古より今治市内に御鎮座をしていた“神明宮”、“蔵敷八幡宮”、“厳島神社”、“夷宮”の4社を、旧社地の故をもって今治城内に合祀社殿として造営。明治5年11月19日に遷座し、今治城の旧城名から“吹揚神社”と称しました。
御祭神は、天照大神・八幡大神・事代主神(えびすさん)・大己貴大神(だいこくさん)・厳島大神・猿田彦大神・宇迦之御魂神(お稲荷さん)・菅原道真・藤堂高虎・久松定房。
鳥居前からの参拝のみとしました。
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〇天守閣
天守閣に登ります。
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入口に、今治城沿革の説明があり。
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門から入る。
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天守内は博物館のようになっていて、展望台を除いて写真撮影は禁止。
最上階からは、しまなみ海道の来島海峡大橋が見えるなど、瀬戸内海を眺望することができる。

まずは大手筋から鉄御門、東多聞櫓。
目を上げるとしまなみ海道の島々が左手に見える。
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鉄御門を入って左に折れると藤堂高虎像である。
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目を上げると、しまなみ海道に通じる来島海峡大橋が見える。
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来島海峡大橋を左から右へ、つまり今治から大島の方向にたどる。
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とおーーんと、大島がある。
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大島の向こうには、伯方島、弓削島などが見えている。
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これは四阪島あたりだ。
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瀬戸内海がとぎれるまでくるっと。
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足元の今治城をぐるっと。
これは御金櫓。
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猿田彦神社と吹揚神社入口。
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吹揚神社社殿の屋根。
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高麗門と山里櫓
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今治市街、高い建物は今治国際ホテル。
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天守閣からの海の眺めは素晴らしかった。
それに大手筋方面からの今治城全景と、天守閣前広場の360度眺めを動画で撮ってきたので、それをユーチューブにアッフしてあります。
よかったら見てください。

動画「今治城全景・天守閣からの眺め」を見る


天守閣を出る時に、特別展資料「今治藩主 久松松平氏の世界」を購入。
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今治城を築城した藤堂高虎と高吉の父子の後、将軍徳川家の一門である久松松平家直系の松平定房が入城、以後明治維新まで久松松平家が今治を納めた。

徳川家康の母親、「於大」が再婚したのが、尾張国知多郡の国人「久松俊勝」である。
そのため、二人の間に生まれた子は、家康の異父弟として厚遇され、松平姓を与えられた。

久松俊勝の子松平定勝は、東海道の要衝・掛川や伊勢国桑名を拝領、伏見城代などを務めたが、その五男が定房で今治藩主となる。
その他次男定行が伊予国松山藩主、三男定綱が伊勢国桑名藩主として、徳川家の御家門として幕府を支えた。

なお、久松家は菅原氏から分かれた一族ということで、葵の紋ではなく北野天満宮の神紋である「星梅鉢」を江戸時代を通じて使用している。

満足して、今治駅近くでレンタカーを返した。
電車に乗る時間の30分くらい前に今治駅に到着。早目の夕食を電車の中でお弁当を食べようと、駅のお弁当の売店に行ったら、売り切れたからとちょうどお店を閉めているところだった。
私がしょげた顔をしていたのだろう、お店の人が本店に電話して確認してくれて、100mくらいのところにある本店に案内してくれた。
そこで買った「鯛めし弁当」が本当に美味しかった。

今治駅16:30発の電車に乗って、観音寺で乗換え、坂出で乗換えて、瀬戸大橋を渡り(真っ暗で何もわからなかった)、岡山に到着。
ここでちょっとズルをして、岡山から新幹線で名古屋まで。
名古屋23:20の普通快速夜行「ムーンライトながら」に乗り、東京駅に5:05に到着。
今回の「青春18キップ2020春」の旅が終わりました。

(了)


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小田原城

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所在地:神奈川県小田原市城内
訪問日:2019年9月27日

歴史クラブの「博物館に行こう」グループの企画で神奈川県立生命の星・地球博物館を訪ねた後、小田原駅まで戻り、そこから小田原城址公園のお堀沿いに15分ほど歩いて、まず報徳二宮神社に参拝してから、小田原城に到着。
ガイドさんに案内をお願いした。
コースは、正面入り口から入り、馬出門、銅門から天守閣下まで、下図で赤点線のコースです。
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北条氏は、居館を今の天守の周辺に置き、後背にあたる八幡山(現在の小田原高校がある場所)を詰の城としていた。だが、建築者は、不明である。 居館部については北条氏以前の大森氏以来のものとするのが通説であるが、大森氏時代にはより東海道に近く15世紀の遺構が実際に発掘されている現在の三の丸北堀付近にあったとする異説もある。3代当主北条氏康の時代には難攻不落、無敵の城といわれ、上杉謙信や武田信玄の攻撃に耐えた。江戸時代に居館部が近世城郭へと改修され、現在の小田原城址の主郭部分となったが、八幡山は放置された。そのため、近世城郭と中世城郭が江戸期を通して並存し、現在も両方の遺構が残る全国的に見ても珍しい城郭である。

北条氏没落後に城主となったのは大久保氏であるが、2代藩主大久保忠隣の時代に政争に敗れ、一度改易の憂き目にあっている。一時は2代将軍秀忠が大御所として隠居する城とする考えもあったといわれるが、実現しなかった。その後、城代が置かれた時期もあったが、阿部氏、春日局の血を引く稲葉氏、そして再興された大久保氏が再び入封された。小田原藩は入り鉄砲出女といわれた箱根の関所を幕府から預かる立場であった。

小田原城は、江戸時代を通して寛永10年(1633年)と元禄16年(1703年)の2度も大地震に遭い、なかでも、元禄の地震では天守や櫓などが倒壊するなどの甚大な被害を受けている。天守が再建されたのは宝永3年(1706年)で、この再建天守は明治に解体されるまで存続した。

藤棚観光案内所から正面入り口まで、堀沿いに歩く。
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正面入り口
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馬出門
天守閣が見える位置から。
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ここには、大久保氏の家紋「大久保藤」があり。
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馬出の馬場跡
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狭間を供えた塀越しに天守閣。
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住吉門前の堀
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ガイドさんの説明によれば、小田原城の堀の深さは膝くらいだったという。
腰の辺の深さなら泳いで渡れる、人の背くらいなら潜って渡れる。なので浅くして、菱を生い茂らせていた。
菱が足に絡まって歩けないそうだ。

少し菱を生やしてあった。
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住吉門
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住吉門を入ると、枡形になっており、左手に銅門となる。
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枡形を囲む塀の控え柱がコの字形になっているのは、上に横板を置けば、塀越しに鉄砲や弓で攻撃できる工夫である。
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銅門(あかがねもん)
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堅固な造りだ。
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石落とし
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ちょうな削りの太い梁は、職人魂の表れ。
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二階に武者が駆け上がる道。
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銅門にシャチホコが載っているのは、これをくぐると実質の城主の館である「二の丸お屋形」になるため。
天守閣のある天守は、徳川将軍が来た時の居室となる。
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「二の丸お屋形」があった場所
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銅門礎石だった石
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相当な樹齢のイヌマキ
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東堀を渡って常盤木門へと続く。
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東堀の橋を渡るときにガイドさんが教えてくれたのが、ここの擬宝珠が、小柳ルミ子の「私の城下町」のジャケットの写真のものだという。
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例によって、枡形を経て常盤木門
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枡形の石垣には、矢穴が残った石があり。
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常盤木門をくぐる。
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石落としと重厚な構え
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常盤木門を内側から。
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やっと、天守閣まできた(嬉)
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シャチホコにはカラスが止まっていた(笑)
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ここで、ガイドさんに感謝しつつ、お別れ。

参加者のなかで、天守閣に登ってない人は登ることにして、既に登ったことのある人は天守閣の横にある茶店で休憩することにした。
私は、けっこう疲れが出ていたので、休憩を選んだ。
(実は、前日も八王子城址を歩いていたのだ)

天守閣内部については、前年4月に天守閣に登ったので、その記事を見てください。

その記事を見る



この日は、神奈川県立生命の星・地球博物館、二宮神社、小田原城と実に充実した一日だった。
満足して、小田原駅前で、美味しい干物を買って帰った。



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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