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七面大明神/日本の神々の話

20191002

この間まで、テレビで放送していた五味康祐作「薄桜記」が気に入っていたので、その主要な舞台である「谷中七面社」を訪ねた。その祭神が「七面大明神」である。

七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297年)9月19日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。

七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があった。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒された姫君説話[2]の舞台でもある

1277(建治3)年のある日、御草庵から少し上ったところにある大きな石(現在の妙石坊境内にある高座石)の上で、日蓮大聖人はいつものように南部実長公をはじめとする弟子や信徒に法を説いていました。やがて若く美しい女性がどこからともなく現れ、静かに座に着き合掌礼拝し、大聖人の説法を熱心に聴聞しはじめました。
弟子や信徒たちが見慣れないこの女性を不審に思ったので、かねてより本来の姿をご存知だった大聖人は「皆に正体を見せてあげなさい」と告げました。女性は微笑みながら「水を少し賜りとう存じます」と応えたので、大聖人は傍らにあった水差しに入った身延沢の水を女性の手のひらに一滴落としました。
すると、この美しい女性はたちまち本来の龍の姿を現じたのです。
そして、もとの美女の姿に戻り、「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえて、お山を護る法華経の護法神として、人々に心の安らぎと満足を与え続けましょう」とお誓いになると、雲に乗って七面山に飛び去っていきました。

日蓮大聖人は七面大明神のお棲まいになる七面山に登り、大明神をお祀りしたいとお考えでしたでしょうが、残念ながらその願い叶うことなく1282(弘安5)年にご入滅されます。
その後、1297(永仁5)年9月19日、六老僧の一人日朗上人と南部実長公(この当時には出家して日円上人)はついに七面山登山を果たし、七面大明神をお祀りしました。

七面大明神は多くの信仰を集めていますが、もともと女人禁制の七面山がその禁を解かれるのは江戸時代を待たねばなりませんでした。
徳川家康の側室で、紀伊家の祖頼宣(よりのぶ)、水戸家の祖頼房(よりふさ)の生母である養珠院お萬の方は法華経の熱心な信徒で、ことに身延山22世心性院日遠上人に帰依しました。
お萬の方は女人成仏※が説かれる法華経を守護する七面山への登詣を強く願い、登拝口に程近い白糸の滝で7日間身を清め、ついに女性として初めて登頂を果たしました。
その法勲を讃え、白糸の滝の傍らには銅像が建てられています。


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脳天大神(のうてんおおかみ)/日本の神々の話

20190903

奈良県吉野の吉野山・金峯山寺の塔頭・脳天大神龍王院に祀られている神です。

金峯山寺蔵王堂の境内から脳天大神への階段はおよ450段の急な下り階段を降りていったところにあります。
役小角(えんのぎょうじゃ)像に見送られ、途中で鳥居をいくつかくぐるので神を祀っていることがわかります。
さらに降りていくと、大きな剣の倶梨伽羅(くりから)不動尊を過ぎ、女性の修行の地「岩峯大神」の前を過ぎ、到達した脳天大神龍王院は、山の谷間の清流沿いにひっそりとたたずんでいます。

脳天大神は、金峯山寺初代管長である故五條覚澄大僧正が霊威感得された頭脳の守護神である。
覚澄大僧正は、お瀧のある女性の修行の場所を探し求められる中、現在、大神様が鎮座されている谷がその最適の場所であると考えられ、その後、行場の開発に取り組まれることとなりますが、その最中頭を割られた蛇に遭遇され、それを哀れに思われて丁寧に経文を唱えられ葬られました。
その後、その蛇が何度も夢枕に立たれお礼を言われたそうです。最期には「頭の守護神として祀られたし」と云う霊言を覚澄大僧正は聞かれます。また、それと同時期に蔵王権現様から「諸法神事妙行得菩薩(しょほうしんじみょうぎょうとくぼだい)」と云う御霊言も授かられます。
実際に形として現れてこられたのは頭を割られた蛇でありますが、蔵王堂(ざおうどう)のご本尊蔵王権現様が姿を変えて出現されたということになります。
その後、昭和二十六年に現在の場所にお祀りされた。

頭は人間にとって非常に重要な部分です。脳天大神はその最も大切な処を守護し、頭の病気や学業試験などの願い事を成就して下さるとのことです。



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建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)/日本の神々の話

20190814

記紀等に伝わる古代日本の皇族。

『日本書紀』では「武渟川別」「武渟河別」、『古事記』では「建沼河別命(たけぬなかわわけのみこと)」と表記される。

第8代孝元天皇皇子の大彦命の子で、阿倍臣(阿倍氏)の祖。
四道将軍の1人として東海に派遣されたほか、垂仁天皇朝では五大夫の1人に数えられる。

『日本書紀』崇神天皇10年9月9日条では武渟川別を東海に派遣するとあり、同書では北陸に派遣された大彦命、西道に派遣された吉備津彦命、丹波に派遣された丹波道主命とともに「四道将軍」と総称されている。その後、将軍らは崇神天皇10年10月22日に出発し、崇神天皇11年4月28日に平定を報告した。
また同書崇神天皇60年7月14日条によると、天皇の命により武渟川別は吉備津彦と共に出雲振根(出雲臣の祖)を誅殺している。
垂仁天皇25年2月8日条では、彦国葺(和珥臣祖)・大鹿島(中臣連祖)・十千根(物部連祖)・武日(大伴連祖)らとともに「大夫(まえつきみ)」の1人に数えられており、天皇から神祇祭祀のことを命じられている。

一方『古事記』では、四道将軍としての4人の派遣ではないが、やはり崇神天皇の時に大毘古命(大彦命)は高志道に、建沼河別命は東方十二道に派遣されたとする。
そして大毘古命と建沼河別命が出会った地が「相津」(現・福島県会津)と名付けられた、と地名起源説話を伝える。
建沼河別命が派遣された「東方十二道」は会津に至るまでの12ヶ国を意味するが、これは後世の国制を反映したものと見られる。
東方十二道:伊勢(伊賀、志摩を含む)、尾張、三河、遠江、駿河、甲斐、伊豆、相模、武蔵、総(上総・下総)、常陸、陸奥

私は、関八州式内社めぐりで、下総国・健田須賀神社(茨城県結城市)のご祭神として参拝した。



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美夜受比売(みやずひめ))/日本の神々の話

20190618

熱田神宮の祭神
日本神話に登場する尾張国造の乎止与命(オトヨ)の娘。
『日本書紀』では宮簀媛、『古事記』では美夜受比売。
父の乎止与命は天火明命(アメノホアカリ)の子孫。

日本武尊(ヤマトタケル)の東征の帰路、尾張滞在の際に娶られる。日本武尊が能褒野で亡くなると、日本武尊より預けられた天叢雲剣(草薙の剣、三種の神器の一)を奉斎鎮守するため熱田神宮を建立した。
『日本書紀』によれば、日本武尊は東征の帰途、尾張へ入り尾張氏の娘宮簀媛を娶って滞在した。やがて近江国の伊吹山に荒ぶる神がいると聞いて、天叢雲剣を媛の家に残し素手で退治に出かけた。しかし、山道で神が大蛇に化して出現したのを無視したところ、神は氷を降らせて尊を迷わした。このため尊は失神し、山下の泉でようやく正気を取り戻したが、病の身となっていた。そして尊は尾張へ戻るが、媛の家には寄らず、そのまま伊勢に向かったという。

『古事記』にも同様の話を記載するが、美夜受比売を尾張国造の祖とし、倭建命は比売の月の障りをおして交わったという。またその結婚は東国へ向かう途中に尾張を通った時に約束がしてあったとする。

『尾張国風土記』逸文の熱田社由来および『熱田大神宮縁起』には、日本武尊が尾張連らの遠祖である宮酢媛命を娶って宿泊した時、剣が神々しく光り輝いたため、宮酢媛命にその剣を奉斎することを命じ、そこで建てたのが熱田神宮であるとされる。

『古事記』では、次のように記述されている。
(現代語訳)
〇「景行天皇」の巻、「倭建命の東国征討」の段
 そこで天皇は、また重ねてヤマトタケルノ命に仰せられるには、「東方十二カ国の荒れすさぶ神や、また服従しない人々を平定し従わせよ」と命じて、吉備臣等の祖先の、名はミスキトモミミタケヒコという人を副えて遣わされる時、柊の長い矛を授けられた。
 それで、勅命を受けて東国に下って行かれるとき、
(途中略)
 そして尾張国に到着して、尾張国造の祖先のミヤズヒメの家におはいりになった。そこでミヤズヒメと結婚しようとお思いになったが、またここに帰り上って来たときに結婚しようとお思いになって、結婚の約束をして東国にお出かけになって、ことごとく山や川の荒れすさぶ神々、また服従しない人々を平定しお従えになった。
(以下略)

〇「景行天皇」の巻、「美夜受比売」の段
甲斐国から信濃国に越えて、そこで信濃の坂の神を帰順させて、尾張国に帰って来られて、先に再会を約束なさっていたミヤズヒメの家におはいりになった。そして命にお食膳をさし上げるとき、そのミヤズヒメはお杯を捧げて献った。このとき、ミヤズヒメの着ている襲(おすい)の裾に月の障りのものがついていた。それで、その月の障りを見て命が御歌に、
 (ひさかたの)天の香具山の上を、鋭くやかましく鳴きながら渡ってゆく白鳥よ。その白鳥の頸のように、かよわく細いなよやかな腕を、枕にしたいと私は思うけれども、あなたとともに寝たいと私は思うけれども、あなたの着ておられる襲の裾に、月が出てしまったことよ。
とお歌いになった。そこでミヤズヒメがこのお歌に答えて、
(高光る) 日の神の御子よ、(やすみしし) わが大君よ。(あらたまの)年がたって過ぎてゆけば (あらたまの)月も来て過ぎてゆきます。いかにもいかにも、あなたのおいでを待ちきれなくて、私の着ている襲の裾に月が出てしまったのでしょう。
と歌った。そして御結婚になって、その帯びておられた草那芸剣をそのミヤズヒメのところにとどめて、伊吹山の神を討ち取るためにお出かけになった。

日本武尊から宝剣を受ける宮簀媛命/『尾張名所図会』
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彦星命(ひこぼしのみこと)/日本の神々の話

20190607

現在、日本全国で行われている七夕祭りのルーツは、九州の宗像大社であることをご存知ですか?

宗像大社は、沖津宮(沖ノ島)、中津宮(大島)、辺津宮(宗像市田島)の三つの神社から成り立っています。
私は昨年機会があって、辺津宮(宗像市田島)には参拝したのですが、時間が取れなくて中津宮(大島)に行きたかったのですが、かないませんでした。

宗像大社中津宮七夕祭は、鎌倉時代まで遡ることができ、七夕伝説発祥の地といわれています。
中国大陸や朝鮮半島に最も近く、外国との貿易や進んだ文化を受け入れる窓口として、重要な位置にあり、天照大神の三柱の御子神をまつる宗像大社には、七夕伝説がありました。
『正平年中行事』(1346)には、「7月7日、七夕虫振神事」とあり、境内にある牽牛社、織女社に参籠し、水に映る姿によって男女の縁を定める信仰があると記されているそうです。

中津宮神社内には、島の最高峰、『御嶽山』を源流とする、天ノ川が流れており、この天ノ川を挟んで、中津宮に向かって左の丘の上に、織姫を祀る神社「織女神社」右の丘の上には、牽牛を祀る神社「牽牛神社」が祀られ、星の宮と呼ばれています。

以下の写真は、宗像大社発行の冊子から。

中津宮
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牽牛神社(彦星宮)
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織女神社(七夕宮)
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中津宮の七夕祭り
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また、下の伝説もあるようです。
【 筑前大島天の川伝説 】
昔、唐の国に使えに行った貴公子が、織女を伴って帰国の途中、深い恋仲となったが、 それはあえないかりそめの縁で、二人は日本に着いて離ればなれになった。 それから貴公子は織女を想い日々を過ごしたが、ある夜、夢枕で神のお告げを受け、筑前大島の中津宮に来て、 天の川にたらいを浮かべ、水鏡に映る織女との逢瀬を楽しみに、神仕えの身になったという。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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