意富多多泥古(おおたたねこ)命・大田田根子命/日本の神々

20170525

『古事記』では意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子。

『古事記』「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主神」の段
 (現代語訳)
 この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、オホモノヌシノ大神が御夢の中に現われて、「疫病の流行はわたしの意志によるのだ。だから、オホタタネコという人に、わたしを祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」 と仰せになった。そこで急使を四方に分かち遣わして、オホタタネコという人を尋ね求められたところ、河内村の美努村にその人を見いだして朝廷にさし出した。そこで天皇が、「そなたはだれの子か」とお尋ねになると、オホタタネコが答えて、「私は、オホモノヌシノ大神が、スヱツミミノ命の女のイクタマヨリビメを妻としてお生みになった子の、名はクシミカタノ命という方の子の、イヒカタスミノ命の子のタケミカヅチノ命の子が、わたくしオホタタネコなのです」 と申し上げた。
 すると天皇はたいそう喜んで、「これで天下は穏やかになり、国民は栄えるであろう」と仰せられた。そして、ただちにオホタタネコを神主として、三輪山にオホミワノ大神を斎き祭られた。またイカガシコヲノ命に命じて、祭りに用いる多くの平たい土器を作って、天つ神の鋸ろ賊つ檻の社を定めてお祭りになった。また宇陀の墨坂神に赤色の楯と矛を献り、また大坂神に黒色の楯と矛を献り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、ことごとく漏れ残すことなく幣吊を献ってお祭りになった。これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。
 このオホタタネコという人を、神の子孫と知ったわけは次のとおりである。上に述べたイクタマヨリビメは、容姿が美しく輝くほどであった。ここに一人の男がいて、その姿といい装いといい比類のない気高い男が、夜中に突然姫のもとに訪れて来た。そして愛し合って結婚して、ともに暮らしている間に、まだ時日もたたないのに、その少女は身ごもった。
 そこで父母は、娘が身ごもったことを不審に思い、その娘に尋ねて、「おまえはいつしか身重になっているが、夫がいないのにどういうわけで身ごもったのか」というと、娘が答えて、「たいそうりっぱな男の人で、その姓も名も知らない人が、夜ごとに通ってきて、ともに住んでいる間に、いつの間にか身ごもってしまったのです」といった。
 これを聞いて娘の父母は、その男の素性を知ろうと思って、その娘に教えていうには、「赤土を床の前に撒き散らし、糸巻きに巻いた麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」といった。で、教えのとおりにして翌朝見ると、針につけた麻糸は、戸の鍵穴から抜け通って出て、糸巻きに残っている麻糸はわずかに三輪だけであった。それで男が鍵穴から出ていったことを知って、その糸をたどって尋ねて行くと、三輪山に続いていて神の社で留まっていた。それで生まれる子が、三輪のオホモノヌシノ神の子であることがわかった。そして、その麻糸が三輪糸巻きに残っていたのにもとづいて、その地を名づけて美和というのである。
このオホタタネコノ命は神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖先である。

『日本書紀』では、崇神天皇7年(紀元前91年)に大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い、天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせた。その結果、疫病が収まり、国内はようやく鎮まり、五穀がよく稔るようになったと記載されている。
大田田根子を探した結果、茅渟の県(ちぬのあがた=和泉の国一帯の古称)の「陶邑」(すえむら)の人であった。
「陶邑」は古墳時代以降、須恵器生産の中心地として最大規模であったことは証明されています。
須恵器は、水を漏らさぬ故、神事の際の器として尊重された。
大田田根子は、須恵器を作る集団のリーダーだったのかもしれない。

そもそも大物主神が桜井市三輪山に鎮座するに至った経緯自体が、あまりにも不自然である。
大己貴神(大国主神の別名)の国造りの神話は、本来出雲地方で語り伝えられてきた伝承である。
自分を三輪山に祀ればその国造りに協力するとした大物主神の申し出は、記紀編纂時点で出雲地方を始めとする各地の伝承をうまく整理して系統立てて神話としてまとめたと考えられる。
天孫族が、この地に侵入してきたとき、三輪山をご神体とする先住の氏族がその麓に住んでいたが、天孫族はその祭祀権を取り上げてしまった。しかしその結果、天孫族が先住民と融合ができず、うまく治めることができなかった。そこで、いったん取り上げた祭祀権を返還して、出雲族の大田田根子に大物主神を祀らせることにした、とという説があり、私もまったく同感である。

大神神社摂社の大田田根子を祀る神社は「大直禰子(おおたたねこ)神社」と書く。
不思議に思って調べてみた。
「大直」については、「大直日神(オオナオヒノカミ)」がヒットし、「異常でけがれた状態をただしなおす神」だそうだ。
「禰子」とは禰宜の子孫であると解釈する。
大直禰子とは、つまり「異常でけがれた状態をただしなおす禰宜の子孫」のことである、となった。


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久延毘古(くえびこ)/日本の神々

20170524

土俗の神(縄文の神)に鬼、恵比須、天狗、河童、案山子がある。
その案山子の中で、珍しく『古事記』に登場しているのが「久延毘古」という神である。

『古事記』の「大国主神」の巻、「少名毘古那神と御諸山の神」の段。
(現代語訳)
 さて大国主神が出雲の美保の岬におられる時、波頭の上からカガイモの実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで衣服に着て、近づいて来る神があった。そこでその名をお尋ねになったけれども、答えなかった。またお供に従っている神々にお尋ねになったけれども、みな「知りません」と申した。
そのとき蝦蟇が申すには、「これはクエピコがきっと知っているでしょう」と申したので、すぐさまクエピコを呼んでお尋ねになると、「この神はカムムスヒノ神の御子のスクナビコナノ神ですよ」とお答え申しあげた。
そこで大国主神が、カムムスヒの御祖神にこのことを申し上げなさったところ、答えて仰せられるには、「これは本当に私の子です。子どもの中で、私の手の指の問から漏れこぼれた子です。そしておまえは、アシハラシコヲノ命と兄弟となって、その国を作り固めなさい」と仰せられた。こうしてそれから、オホナムヂとスクナビコナの二柱の神が共々に協力して、この国を作り固められた。そして後には、そのスクナビコナノ神は、海原のかなたの常世国にお渡りになった。
さてそのスクナビコナノ神であることを顕わし申しあげたいわゆるクエピコは、今では山田のソホドという案山子である。この神は足は歩けないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。
 そこで大国主神が心配して仰せられるには、「わたしは一人で、どうしてこの国を作り固めることができようか。どの神がわたしと協力して、この国を共に作るのだろうか」と仰せられた。このとき、海上を照らして近寄って来る神があった。その神が仰せられるには、「丁重にわたしの御魂を祭ったならば、わたしはあなたに協力して、共に国作りを完成させよう。もしそうしなかったら、国作りはできないであろう」と仰せられた。そこで大国主神が、「そ
れでは御魂をお祭り申しあげるには、どのように致したらよいのですか」と申されると、「わたしの御魂を、大和の青々ととり囲んでいる山々の、その東の山の上に静み清めて祭りなさい」と答えて仰せられた。これが御諸山の上に鎮座しておられる神である。


久延毘古はかかしを神格化したものであり、田の神、農業の神、土地の神である。案山子の姿は、概ね蓑と笠を着けて弓矢を持ち、一本足で立つ。
案山子はその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。

神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる。

田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社(奈良県桜井市)末社・久延彦神社などで祀られている。



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豊鋤入姫命(とよすきいりひめのみこと)/日本の神々

20170516

『日本書紀』では「豊鍬入姫命」「豊耜入姫命」、『古事記』では「豊鉏入日売命」「豊鉏比売命」と表記される。
第10代崇神天皇の皇女で、天照大神の宮外奉斎の伝承で知られる巫女的な女性である。

『日本書紀』『古事記』によれば、第10代崇神天皇と、紀国造の荒河戸畔(あらかわとべ、荒河刀弁)の娘の遠津年魚眼眼妙媛(とおつあゆめまくわしひめ、遠津年魚目目微比売)との間に生まれた皇女である。同母兄に豊城入彦命(豊木入日子命)がいる。
豊木入日子命は上毛野の君、下毛野の君等の祖となった。 豊鉏入日売命は、伊勢皇太神宮の祭主となった。

なお『日本書紀』では、「一云」として、母を大海宿禰の娘の八坂振天某辺(やさかふるあまいろべ)とする異伝を載せる。

『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせ、よって磯城(しき)の神籬(ひもろぎ)を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて大市の長岡岬に祀らせた。

皇女豊鍬入姫命はさらに大宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、 ついで第十一代・垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が代わって大御神さまにお仕えし、 大御神の永遠にお鎮まりになるべき大宮地を求めて、各地を苦心してご巡幸されたのち、 「この地は、朝日夕日の来向ふ国、浪音の聞えざる国、風音の聞えざる国、弓矢・鞆の音 聞えざる国、大御神の鎮まります国ぞ」 と申されて、垂仁天皇二十六年九月、伊勢の五十鈴川上の現在の地にお鎮まりなった。
その後、代々皇女が神宮の司祭に選任されている。

豊鍬入姫命と倭姫命とは、ともに伊勢神宮の斎宮の起源に求められる(ただし、制度上の最初の斎宮は天武皇女の大来皇女)。また上記伝承から、伊勢神宮の神格成立の要素として、豊鍬入姫命が出自とする紀国造の氏神の日前神や、三輪山(一説に笠縫邑祭祀と関連)での日神信仰の存在が指摘される。

そのほか名前の「豊(とよ)」から、豊鍬入姫命を邪馬台国における卑弥呼宗女の台与(壹與/臺與)に比定する説がある。

豊鋤入姫命には、奈良県桜井市の大神神社摂社・桧原神社の境内 豊鍬入姫宮にて参拝しました。


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春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこ)/日本の神々

20170513

『古事記』に登場する神。
帰化人の出石族が伝承していた説話にもとづく神話に登場する。

『古事記』の「応神天皇」の巻、9「秋山之下氷壮夫と春山之霞壮夫」の段
 (現代語訳)
さて、この伊豆志の神の女(むすめ)で、名は伊豆志哀登売神(いずしをとめのかみ)という神がおられた。ところで多くの神々が、この伊豆志哀登売を妻に得たいと望んだが、だれも結婚することができなかった。
ここに二柱の神があって、兄は秋山之下氷壮夫(あきやまのしたびをとこ)といい、弟は春山之霞壮夫(はるやまのかすみをとこといった。
そしてその兄が弟に向かって、「私は、伊豆志哀登売を妻に願ったが、結婚できなかった。おまえはこの少女(おとめ)を妻にできるか」と言った。弟が答えて、「たやすく妻にすることができます」と言った。そこでその兄がいうには、「もしもおまえが、この少女を娶る(めとる)ことができるならば、私は上衣と袴を脱ぎ、身の丈を計って、それと同じ高さの甕に酒をかもし、また山や河の産物をことごとくととのえ準備をして賭の物としよう」といった。
そこでその弟は、兄の言ったとおりくわしくその母に伝えると、即座にその母は藤の蔓を取ってきて、一夜の間に、上衣・袴および 磯・沓を織り縫い、また弓矢を作って、その上衣や袴などを弟に着せ、その弓矢を持たせて、その少女の家に行かせると、その衣服や弓矢はすべて藤の花に変化した。そこでその春山之霞壮夫は、その弓矢を少女の家の厠に掛けておいた。そこで伊豆志哀登売はその花を見て不思議に思い、それを持って来るとき、霞壮夫はその少女のあとについて、少女の家にはいるとすぐに契りを結んだ。そして一柱の子を生んだ。そして弟はその兄に、「私は伊豆志哀登売を自分のものにした」と申した。
 そこでその兄は、弟が少女と結婚してしまったことに腹を立てて、例の賭の品物を渡そうとしなかった。そこで弟が嘆いてその母に訴えたとき、母親が答えていうには、「この現世のことは、よく神の教えを見習うべきです。それなのに兄は、現世の人々のやり方に見習ったのでしょうか、その賭の物を償おうとしないのは」といって、その兄である子を恨んで、すぐに出石川の中州に生えている一節竹を取って、編み目の荒い籠を作り、その川の石を取って塩にまぜ合わせてその竹の葉に裹(つつ)んで、弟に呪詛させて言うには、「この竹の葉が青く茂るように、この竹の葉がしおれるように、茂ったりしおれたりせよ。またこの塩の満ちたり干たりするように、生命力が満ちたり干たりせよ。またこの石が沈むように病に沈み臥せ」といった。このように呪詛させて呪いの品を竈の上に置いた。このためにその兄は、八年もの長い間、体はひからびしなえ、病み衰えた。それでその兄が嘆き悲しんで、その母親に許しを乞うと、母親はすぐにその呪いの品を取り返させた。そしてその兄の体は、本どおりに安らかに健康になった。これが「神うれづく」という言葉の起りである。

以上が『古事記』の記述である。

この「応神天皇」の巻では、最初に「天之日矛(あめのひほこ)の渡来」を載せ、次いで帰化人の出石族が伝承していた説話にもとづく話を載せている。

弟の神が少女と結婚するのは、末子成功説話の形式をとったものである。
兄の名が秋山の紅葉を表わし、弟の名が春山の霞を表わしているところに、春秋の自然美の優劣を競う意味がうかがわれる。

春山之霞壮夫が弓矢を少女の厠にかけ、その少女と結婚する条は、三輪のオホモノヌシノ神が丹塗矢となって、厠にいるセヤダタラヒメの女陰をつく丹塗矢型説話の変形である。

母親が弟のために呪いの呪物を作り、弟に呪いの言葉を教えたことが記されていて、呪祖の方法が、具体的にくわしく語られているのが特色。
そして神の世界と人間の世界とを比較して、人の世となって約束を履行しなくなった、と母親に言わせている。



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高橋活日命(たかはしいくひのみこと)/日本の神々の話

20170502

『日本書紀』に登場する神。
酒造り杜氏の神様として奈良県桜井市三輪の大神神社・摂社「活日神社」に祀られている。

『日本書紀』によると、
「すなわち祟神天皇八年夏四月乙卯十六日、高橋邑の人、活日を以って大神(おおみわ)の掌酒となし給ふ」とあり、「八年冬十二月乙卯二十日、天皇、大田田根子をもって大神を祭(いは)はしめ給ふ。是の日に活日、自ら神酒を挙(ささ)げて天皇に献り仍りて歌して曰さく、この神酒(みき)ならず大倭(やまと)なす大物主に 醸みし神酒 いくひさいくひさかく歌ひて神宮に宴したまふ。即ち宴竟(おわ)りて諸大夫など歌ひて曰はく、うま酒 みわのとのの 朝戸にも 出でて行かな 三輪のとのどをここにおいて天皇歌し曰はく、うまざけ 三輪のとのの あさとにも押しひらかね みわのとのどをすなわち神宮の門を開きて幸行(いでま)しぬ。いはゆる大田田根子は今の三輪君等の始祖なり」
 
第十代崇神天皇(実在する最古の天皇)時代、国は疫病の流行で混乱を極めていました。天皇はどうすれば良いのか・・・と悩み苦しみ眠っている時、夢で大物主大神様からお告げがありました。「私の子孫である大田田根子(おおたたねこ)を祭主にし、酒を奉納しなさい」それを聞いた天皇は「高橋活日命(たかはしいくひのみこと」を呼び、一夜で酒造りを行い神酒を奉納しました。すると疫病は去り、国が富みはじめました。

その時に高橋活日命が詠んだ詩が、
「此の神酒は 我が神酒ならず 倭なす 大物主の 醸みし神酒 幾久幾久」(この神酒は私が醸したものではなく、大和の国をおつくりになった大物主神が醸された神酒です。幾世までも久しく栄えませ)
このことより高橋活日命は杜氏の神様として大神神社の摂社「活日神社」に祀られました。

このことから、三輪が酒造り発祥の地といわれる。

大神神社の摂社・活日神社に高橋活日命が祀られている。
その当時、酒造り天下一の名人であったことにまちがいなく、杜氏として、一番早く記録されている方であり、したがって酒造業、とりわけ杜氏の先祖とも仰がれ、いまも新酒の仕込みにかかる前、杜氏さん達は、丹波や丹後・但馬、北陸、中国筋から蔵入りする前にはこの社に参拝し、また春もたけなわの頃ともなれば、無事、百日勤めを終えてそれぞれ郷里へ帰る時、ふたたびお参りをされるのが習いになっている。

活日社のご祭神活日命は、大物主命のお告げにより、一夜で良質の神酒を造られたと伝えられ、古図にも活日社と記さず、一夜酒之社と書かれている。土地の人もまた、一夜酒さんとよんでいる。
明治初期の頃までは、この社の近くに酒殿が建っており、醸酒の道具も保存されていたといわれる。

大神神社(おおみわじんじゃ)では、毎年11月14日に「酒まつり」が開催される。
祝詞の後、4人の巫女が三輪の神杉の枝を手に登場し、笛や箏の音に合わせて、「この御酒は わが御酒ならず 倭なす 大物主の醸みし御酒 いくひさ いくひさ」という歌に合わせて華麗に舞う「うま酒みわの舞」が披露されるそうです。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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