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猿女君(さるめのきみ)/日本の神々の話

20200910

相模国二ノ宮・川匂神社に参拝したとき、境内社の西五社の祭神として「猿女君」として書かれていた。
天宇受売命のことではないかなと思ったが、一応神名としてあげた。
猿女君というのは、本来氏族名である。
伊勢の猿田彦神社境内に「佐瑠女神社」があるが、このご祭神は天宇受売命である。

猨女君(猿女君)は、『古事記』では「邇邇芸命」の巻、「猿田毘古神と天宇受売命」の段に登場する。
(現代語訳)
さてそこで、二二ギノ命がアメノウズメノ命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕したサルタピコノ大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。こうして猨女君(さるめのきみ)たちは、そのサルタピコの男神の名を負うて、女を猨女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。
(中略)
さてアメノウズメノ命は、サルタピコノ神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おま
えたちは、天つ神の御子の御膳(みけ)としてお仕え申しあげるか」と問いただしたとき、多くの魚がみな「お仕え申しましょう」と申しあげた中で、海鼠だけは答えなかった。そこでアメノウズメノ命が海鼠に向かって、「この口は答えない口か」と言って、紐小刀でそのロを裂いた。だから今でも海鼠の口は裂けている。こういうわけで、御代ごとに志摩国から初物の魚介類を献上する時に、猨女君たちに分かち下されるのである。

猿女君(さるめのきみ・猨女君)は、古代より朝廷の祭祀に携わってきた氏族の一つである。
日本神話においてアメノウズメが岩戸隠れの際に岩戸の前で舞を舞ったという伝承から、鎮魂祭での演舞や大嘗祭における前行などを執り行った猿女を貢進した氏族。
氏族の名前は、アメノウズメが天孫降臨の際にサルタヒコと応対したことにより、サルタヒコの名を残すためにニニギより名づけられたものであると神話では説明している。

古語から考察すると、「戯(さ)る女」の意味であると考えるのが順当かと。
古語の「さ・る 【戯る】」を調べると、
意味は、「①たわむれる。はしゃぐ。②才気がある。気が利く。③色気がある。④しゃれている。風情がある。趣がある。」がある。

本拠地は伊勢国と想定されるが、一部は朝廷の祭祀を勤めるために、大和国添上郡稗田村(現在の奈良県大和郡山市稗田町)に本拠地を移し、稗田姓を称した。
他の祭祀氏族が男性が祭祀に携わっていたのに対し、猿女君は女性、すなわち巫女として祭祀に携わっていた。


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土津霊神(はにつれいしん)/日本の神々の話

20200821

江戸時代の名君として名高い会津藩主保科正之の神号である。
土津の意味は、土津神社関係の説明には見当たらない。
土(つち、はに)は宇宙構成要素の根本であり、万物すべての基本であると解される。
「津」は会津の津。
よって、「宇宙の理を極めた会津藩主」となろうか。

保科正之は、徳川2代将軍秀忠の子として生まれ、信州高遠、出羽最上を経て会津藩主となり、名君ぶりを発揮した。 また、4代将軍家綱の後見役として幕政に携わり、明暦の大火後の江戸の復興、玉川上水の建設、殉死の禁止など数々の功績をあげた。 藩政においては、災害飢饉に対応すべく社倉制度の確立、老人に対し扶持の支給(国内初の年金制度)、間引きの禁止等数多い。よって会津藩の人口は増え続けた。
保科正之は学問に秀でて、会津藩に山崎闇斎を師として招いていたが、その師吉田神道の権威・吉川惟足(よしかわこれたり)より「土津霊神」の霊号を授かった。 正之は自ら猪苗代の地を訪れ、古社・磐椅神社の末社として祀るよう遺言し、没後1675(延宝3)年に「土津神社」が、会津の城を守る鬼門の位置に創建された。 以後、土津神社には9代までの歴代の藩主が祀られている。

小田原北条家の浪人・神尾伊予が板橋に土着し、その娘のお静が縁あって、将軍秀忠の乳母のお付き女中に奉公した。年に数回乳母を訪ねていた秀忠が見初めてお静に手を付けた。秀忠は正室・小江の方に側室を禁じられていた。お静は身ごもったが、それを知った小江の方から陰湿ないじめを受けたため、宿下がりして家族会議の結論で子を水に流した。秀忠の乳母の求めで再度奉公に上がったお静だが、又もや秀忠の子を宿してしまう。また宿下がりして家族会議で同じ結論になりかけたとき、末弟の才兵衛が「二度までも将軍様のお子を流してよいのか」と反対し、家族の協力で密かに生むことになる。
お静が頼ったのは、武田信玄の娘で穴山梅雪未亡人の見性院である。徳川家康が田安門の近くに屋敷を与えて保護されており、お静は月に一度秀忠の乳母のお使いで訪問していた。
見性院はお静と生まれた子を保護し、9歳になると秀忠の了解のもとに、もと武田信玄旗下の武将だった、高遠藩主保科正光の養子とする。保科正之である。
正光の薫陶よろしく、正之は堅実な藩主として成長し、密かに育った異母弟が居ると知った家光に幕政の補佐役の地位を与えられ、数々の功績を残す。

正之が死去すると、遺言どおりにその地に葬られ、神式の葬儀によって埋葬された。この時期、江戸幕府は葬式は仏式によるものと定めていたが、吉川惟足が老中稲葉正則と交渉し、神式で執り行う旨の許可をとった。
これが神式による葬儀の嚆矢となった。
前述したとおり延宝3年に墓所の南側約1キロメートルの地に土津神社が造営された。古来の正式に則った神殿造で、日光東照宮と比較されるほどの絢爛豪華な建物だったという。
しかし、慶応4年(1868年)の戊辰戦争時、母成峠の戦いで会津藩が敗れた後、猪苗代城代高橋権大夫の命で土津神社には火が放たれ、全焼してしまった。
その後、会津藩が斗南藩(現・青森県下北半島)に移封されると、土津神社の御神体も斗南藩に遷された。明治4年(1871年)の廃藩置県によって斗南藩が廃されると、御神体は猪苗代へ戻り、磐椅神社に祀られた。この後、明治7年(1874年)から土津神社の再建が始まり、同13年に完成し、御神体が遷されて現在に至っている。

保科正之は、歴史上人物のうち、私が一番好きな人物である。


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鹿屋野比売神(かやのひめのかみ)・野椎神(のづちのかみ)・野槌姫命(のづちひめのみこと)・草祖草野姫(くさのおやかやのひめ)/日本の神々の話

20200812

『古事記』では鹿屋野比売神、別名が野椎神(のづちのかみ)であると記している。
『日本書紀』では草祖草野姫(くさのおやかやのひめ 草祖は草の祖神の意味)と表記する。
下記別名もある。
草野姫(:かやぬひめ)
萱野媛命(:かやのひめのみこと)
草祖(:くさのおや)
鹿江比賣神:(かえひめのかみ)
野槌:(のづち)
野槌姫命(のづちひめのみこと)

『古事記』 「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「二神の神生み」の段
 (現代語訳)
 イザナキ・イザナミのニ神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、オホコトオシヲノ神、次にイハツチピコノ神を生み、次にイハスヒメノ神を生み、次にオホトヒワケノ神を生み、次にアメノフキヲノ神を生み、次にオホヤピコノ神を生み、次にカザモツワケノオシヲノ神を生み、次に海の神の、名はオホワタツミノ神を生み、次に水戸の神の、名はハヤアキツヒコノ神、次に女神のハヤアキツヒメノ神を生んだ。 オホコトオシヲノ神からアキッヒメノ神まで合わせて十神。
 このハヤアキツヒコ・ハヤアキツヒメの二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、アワナギノ神とアワナミノ神、次にツラナギノ神とツラナミノ神、次にアメノミクマリノ神とクニノミクマリノ神、次にアメノクヒザモチノ神とクニノクヒザモチノ神である。 アワナギノ神からクニノクヒザモチノ神まで、合わせて八神。
 次に風の神の、名はシナツヒコノ神を生み、次に木の神の、名はククノチノ神を生み、次に山の神の、名はオホヤマツミノ神を生み、次に野の神の、名はカヤノヒメノ神を生んだ。この神のまたの名をノヅチノ神という。 シナツヒコノ神からノヅチノ神まで、合わせて四神。このオホヤマツミノ神とノヅチノ神の二神が、山と野を分担して生んだ神の名は、アメノサヅチノ神とクニノサヅチノ神、次にアメノサギリノ神とクニノサギリノ神、次にアメノクラトノ神クニノクラドノ神、次にオホトマトヒコノ神とオホトマトヒメノ神である。 アメノサヅチノ神からオホトマトヒメノ神まで、合わせて八神である。
(以下省略)

神名の「カヤ」は萱のことである。
萱は屋根を葺くのに使われるなど、人間にとって身近な草であり、家の屋根の葺く草の霊として草の神の名前となった。
別名の「ノヅチ(野槌)」は「野の精霊(野つ霊)」の意味である。

『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命による国生みの後の神生みの段で、 風神(志那都比古神)、木神(久久能智神、山神(大山津見神)などと共に生まれている。
さらに、大山津見神とともに、 土・霧・谷などの神々(天之狭土神・国之狭土神、天之狭霧神・国之狭霧神、天之闇戸神・国之闇戸神、大戸惑子神・大戸惑女神)を生む。

祀られている神社:
樽前山神社(北海道苫小牧市)では山の神・大山祇神(おおややまつみ)、木の神・句句廼馳(くくのち)と共に祀られている。
萱津神社(愛知県あま市)では日本唯一の漬物の神として祀られている。
清野井庭神社(三重県伊勢市)では灌漑用水の神、別説では屋船の神の分霊であるという。

私は、宗像大社末社・草上神社にて、野槌姫命(のづちひめのみこと)に参拝したが、
変わった所で、東京都墨田区の向島百花園に「二神石碑(くくのちの神、かやのひめの神)」があった。

向島百花園の二神石碑
200812kayanohime.jpg



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天羽槌雄神(あめのはづちのおのかみ) ・建葉槌命(たけはづちのみこと)/日本の神々の話 

20200803

天羽槌雄神は『古語拾遺』に登場し、建葉槌命は『日本書紀』に登場する。
天羽雷命(あめのはづちのみこと)や、倭文神(しとりのかみ)、倭文神(しずのかみ)とも呼ばれる。

全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。
私は、群馬県伊勢崎市・倭文(しとり)神社、埼玉県上里町・長幡部神社、茨城県那珂市・静神社(建葉槌命)で参拝した。

★天羽槌雄神
『古語拾遺』に登場する。天照大神を天の岩戸から誘い出す際に、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。

同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。
また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。

信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られている。

系譜:
神産巣日神の5世孫の天日鷲命の子で、委文宿祢、県犬養氏、美努宿祢、鳥取部連、大椋置始連の祖神とされる。
『新撰姓氏録』には角凝魂命の三世孫が天湯河桁命で後裔が鳥取連、美努連とされ、『先代旧事本紀』には少彦根命が鳥取連の祖神とされる一方、『斎部宿祢本系帳』には角凝魂命の四世孫・天日鷲命の子である天羽槌雄神が鳥取部連、美努宿祢の祖とされている。これらのことから少名毘古那神と天日鷲命と同一神であると考えられ、「角凝魂命ー伊狭布魂命ー天底立命ー天背男命(天湯川田命)ー天日鷲命(少名毘古那神)ー天羽槌雄神(建日穂命)ー波留伎別命」となる。

☆建葉槌命
別名と同一視されるのは建葉槌命(武葉槌命・たけはづちのみこと)である。
建葉槌命は『日本書紀』に登場した倭文神で、経津主神・武甕槌命では服従しなかった星神香香背男(ほしのかがせお)を征服した神とされる。

織物の神が、何故星の神を誅する事が出来たのか、色々諸説ある内の説を挙げるとすると、
1つ目は、建葉槌命が武神だったとする説。建葉槌命の「建」は「武」、「葉」は「刃」と読み替えると武刃槌となり、まさに武神らしい名と受けとれるからといわれる。
この説の裏付けとして、武葉槌命を祀る大甕倭文神社(茨城県日立市)の『大甕倭文神宮縁起』からも武神であるむねを窺わせる内容が記されている。

2つ目は、織物の中に星を織り込んでしまって、星の神を織物の中に封印したとする説。これは、太陽が沈んでも空に星が残っている事を、どうにか出来ないものかと考えた上での苦肉の策だとされる。
『日本書紀』第九段一書(二)に「天に悪しき神有り。名を天津甕星(あまつみかほし)またの名を天香香背男(あまのかかせお)と曰う。請う、先ず此の神を誅し、然る後に下りて葦原中國をはらわん」。是の時に齋主(いわい)の神を齋之大人(いわいのうし)ともうす。とあり、『日本書紀』第九段本文と似た記述がある。これにより齋之大人=建葉槌命とみられ、齋主(祭祀)で征服したとあるので上記の行為を齋主で行うことにより星神香香背男=天津甕星を征服したという説である。
他にも、香香背男側にいた建葉槌命を懐柔し味方に付け、内側から崩壊させた。などの説もある。



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ワクムスビ(和久産巣日神、稚産霊)/日本の神々の話

20200724

『古事記』では和久産巣日神、『日本書紀』では稚産霊と表記される。
神名の「ワク」は若々しい、「ムスビ」は生成の意味であり、穀物の生育を司る神である。
『古事記』では食物神のトヨウケヒメ(豊受比売神)を生み、『日本書紀』ではその体から蚕と五穀が生じている。
『古事記』では神産みの段に登場する。イザナミ(伊邪那美命)が火の神・カグツチ(火之迦具土神)を生んで火傷をし、病に伏せる。その尿(ゆまり)から、水の神・ミズハノメ(弥都波能売神)が生まれ、次にワクムスビが生まれたとしている。食物(ウケ)の神である、トヨウケヒメを娘とする。
『日本書紀』では第二の一書に登場する。イザナミが火の神・カグツチを生んで死ぬ間際に、土の神・ハニヤマヒメ(埴山姫)と水の神・ミズハノメを生む。そこでカグツチがハニヤマヒメを娶り、ワクムスビが生まれたとしている。そして、この神の頭の上に蚕と桑が生じ、臍(へそ)の中に五穀が生じたとしている。

『古事記』
「伊邪那岐命と伊邪那美命」の巻、「二神の神生み」の段
(現代語訳)
 イザナキ・イザナミニ神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、オホコトオシヲノ神、次にイハツチピコノ神を生み、次にイハスヒメノ神を生み、次にオホトヒワケノ神を生み、次にアメノフキヲノ神を生み、次にオホヤピコノ神を生み、次にカザモツワケノオシヲノ神を生み、次に海の神の、名はオホワタツミノ神を生み、次に水戸の神の、名はハヤアキツヒコノ神、次に女神のハヤアキツヒメノ神を生んだ。 オホコトオシヲノ神からアキッヒメノ神まで合わせて十神。
(途中略)
 次に生んだ神の名は、トリノイハクスフネノ神で、またの名はアメノトリフネという。次にオホゲツヒメノ神を生んだ。次にヒノヤギハヤヲノ神を生んだ。またの名はヒノカガピコノ神といい、またの名はヒノカグツチノ神という。この子を生んだために、イザナミノ命は、陰部が焼けて病の床に臥された。そのときの嘔吐から成った神の名は、カナヤマピコノ神とカナヤマビメノ神である。
 次に糞から成った神の名は、ハニヤスピコノ神とハニヤスビメノ神である。次に尿から成った神の名は、ミツハノメノ神とワクムスヒノ神である。このワクムスヒノ神の子は、トヨウケビメノ神という。そしてイザナミノ神は、火の神を生んだのが原因で、ついにお亡くなりになった。 

これは、『古事記』のオオゲツヒメ(大気都比売)や、『日本書紀』第十一の一書のウケモチ(保食神)のような、食物起源の神話となっている。しかし、この2柱の神の場合は、殺された死体から穀物が生じているのに対し、ワクムスビの場合は殺される話を伴なっていない。このため、かつてはワクムスビの単純な形が古いとされていたが、現在は、「ハイヌウェレ型神話」が簡略化され、結末の部分だけが残されたものといわれている。
五穀・養蚕の神として信仰されており、他の食物の神と一緒に祀られることが多い。

※ハイヌウェレ型神話とは (Wikipedia)
世界各地に見られる食物起源神話の型式の一つで、殺された神の死体から作物が生まれたとするものである。その名前は、ドイツの民俗学者であるアードルフ・イェンゼン(英語版)が、その典型例としたインドネシア・セラム島のヴェマーレ族(英語版)の神話に登場する女神の名前から命名したものである。
日本神話のオオゲツヒメや保食神(ウケモチ)・ワクムスビにもハイヌウェレ型の説話が見られ(日本神話における食物起源神話を参照)、東南アジアやオセアニアから伝わったものと考えられる。しかし、日本神話においては、発生したのは宝物や芋類ではなく五穀である。よって、日本神話に挿入されたのは、東南アジアから一旦中国南方部を経由して日本に伝わった話ではないかと考えられている。

和久産巣日神は、愛宕神社(京都市)、竹駒神社(宮城県)、安積国造神社(福島県)、麻賀多神社 (千葉県)などで祀られている。
私は、東京都・王子稲荷神社、千葉県・麻賀多神社、福岡県・宗像大社末社・室貴若宮神社、埼玉県上里町・天神社の祭神としてお参りした。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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