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百太夫神/日本の神々の話

20210301

記紀には登場せず、民族信仰の神である。

私は、谷川健一氏編集の『民衆史の遺産 第六巻巫女』のなかで、傀儡師(傀儡子)が信仰する神として知った。
調べてみると、福男で有名な西宮神社の末社百太夫神社に祀られている。末社といっても本殿の左奥深くに鎮座しているとのことで、西宮神社では大切に扱われている神である。

『日本の神様読み解き辞典』によると、百太夫神といのは朝鮮の「万神」で、八百万の神を司祭していた覡(げき 男巫子)のことであり、八幡信仰に習合して日本に渡来し、変形したものであるという。
なぜ傀儡師の信仰するものとなったかは定かではないが、おそらく操り人形が朝鮮から入ってきたものであることと結びついているらしい。

傀儡子というのは、平安中期からさかんに史上に散見する特殊な放浪の芸能集団をいう。様々な呪術を使い人形を使うことや、傀儡女が「妖媚」をうること、「今様・古川柳・足柄」などの諸雑芸に堪能であった。
放浪遊行の賤民であったが、その演ずるところの諸芸能は中央貴族の寵愛すること異常なくらいで摂政関白藤原道長をはじめとして、また後白河院の『梁塵秘抄』にもしばしば登場する。
なんだか、ヨーロッパのジプシーをほうふつとさせる印象である。

中世芸能集団というのは、様々なかたちが見える。歩き巫女、白拍子、御前、厳島の内侍、瞽女、口寄せではイタコ、「オシラガミ」巫女、傀儡師(傀儡子)、傀儡女など。
長野県小県郡の「禰津の巫女」は、戦国時代真田氏の忍びを勤めたという話だが、明治時代まで「口寄せの巫女」として活発に活動していた。

やがて操り人形を扱う傀儡師のような集団がなくなると、その信仰も形を変え、疱瘡神、子供の疫病除けの神として信仰されるようになったようだ。
また、吉原にも新町にも島原にも祀られていて、長きにわたって遊女の篤い信仰の対象となってきた。
そしてまた、道祖神の一つともいわれている。



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建比良鳥命(たけひらとりのみこと)・大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)・武三熊之大人(たけみくまのうし)・武日照命(たけひなてるのみこと)・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)・天日照命(あめのひなでりのみこと)/日本の神々の話

20210217

埼玉県久喜市の鷲宮神社、東京都あきる野市の式内社・阿伎留神社の祭神である。

鷲宮神社の由緒書では、出雲族の草創に係る関東最古の大社であるとし、由緒は神代の昔に、天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿であるとしている。

阿伎留神社の説明では、初代神主の土師連男塩が氏神を祭ったのが当社の起こりとしているので、土師という姓から、出雲族であることは明白で、出雲系の神社である。

『古事記』では建比良鳥命、『日本書紀』では大背飯三熊之大人(おおそびのみくまのうし)・武三熊之大人(たけみくまのうし)・武日照命(たけひなてるのみこと)・武夷鳥命 ・天夷鳥命(あめのひなどりのみこと)と表記され、天日照命(あめのひなでりのみこと)とも称される。これらの異名・異称の同定は出雲国造家として出雲神社の祭祀を受け継いだ千家家が伝える系譜書『出雲国造伝統略』に拠っている。

建比良鳥命の「建」は「勇猛な」、「比良」は、「縁(へり)」と同源であり、物の端・隣との境界の意と解し、名義は「勇猛な、異郷への境界を飛ぶ鳥」と考えられる。「黄泉比良坂」の「比良」も、黄泉国と現し国との境界を指し、「山城の幣羅坂」の「幣羅」も村の境界、奥津甲斐弁羅神の「弁羅」も海と陸地の境界である。また鳥取神や鳥鳴海神、布忍富鳥鳴海神同様、島が人間の霊魂を異郷に運ぶという信仰に基づき、名義の「異郷への境界」は出雲国との境界と考えられる。

また別名の天夷鳥命の名義は「高天原から 夷(鄙・ひな=出雲国)へ飛び下った鳥」の意であるから、建比良鳥命と同一の神格と考えられる。

神話での記述
『古事記』では天照大御神と須佐之男命の誓約の段で、
(前略)
速須佐之男命が天照大御神の右の角髪(みずら)に巻いておられる玉の緒を受け取って、これを噛みに噛んで砕き、吐き出す息の霧から成り出でた神の名はアメノホヒノ命である。
(途中略)
アメノホヒノ命の子のタケヒラトリノ命、これは出雲国造・武蔵国造・上菟上国造・下菟上国造・伊自牟国造・対馬県直・遠江国造等の祖神である。
とある。

『日本書紀』では、葦原中国の平定の段で大背飯三熊之大人(武三熊之大人ともいう)が父の天穂日命に次いで葦原中国に派遣されたが、父と同様に何も報告して来なかったと記されている。また、崇神天皇60年7月、天皇が「武日照命(武夷鳥命とも天夷鳥命ともいう)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、それを見たい」と言って献上させ、その結果出雲氏に内紛が起き、当時の当主の出雲振根が誅殺されたとも記されている。

『出雲国造神賀詞』には、「天夷鳥命に布都怒志命を副へて天降し」という一節がある。
神名の「ヒラトリ」「ヒナドリ」「ヒナテル」は「鄙照(ひなてる)」の意で、天降って辺鄙な地を平定した神の意という説がある。



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早良親王(さわらしんのう)/日本の神々の話

20210203

光仁天皇の皇子、母は高野新笠。桓武天皇、能登内親王の同母弟。桓武天皇の皇太弟に立てられたが、藤原種継の暗殺に関与した罪により廃され、絶食して没した。崇道天皇(すどうてんのう)と追諡されたが、皇位継承をしたことはないため、歴代天皇には数えられていない。

母方が下級貴族であったために立太子は望めず、天平宝字5年(761年)に出家して東大寺羂索院や大安寺東院に住み、親王禅師と呼ばれていた。東大寺で良弁の後継者として東大寺や造東大寺司に指令できる指導的な高い地位にいた。
天応元年(781年)、兄・桓武天皇の即位と同時に光仁天皇の勧めによって還俗し、立太子された。その当時、桓武天皇の第1皇子である安殿親王(後の平城天皇)が生まれていたが、桓武天皇が崩御した場合に安殿親王が幼帝として即位する事態を回避するため、早良が立てられたとみられる。また、皇太弟にもかかわらず早良親王が妃を迎えたり子をなしたとする記録が存在せず、桓武天皇の要求か早良親王の意思かは不明であるものの、不婚で子孫が存在しなかった(早良の没後に安殿が皇位を継げる)ことも立太子された要因と考えられている。

しかし延暦4年(785年)、造長岡宮使・藤原種継の暗殺事件に連座して廃され、乙訓寺に幽閉された。無実を訴えるため絶食し10余日、淡路国に配流される途中に河内国高瀬橋付近(現・大阪府守口市の高瀬神社付近)で憤死した(『日本紀略』前編13、桓武天皇、延暦4年〈785年〉9月23-24日)。

親王の死は次の各説がある。
〇抗議の絶食による死とする説
〇桓武天皇が、意図的に飲食物を与えないで餓死させることで直接手を下さずに処刑したとする説。

種継暗殺に早良親王が実際に関与していたかどうかは不明である。しかし、東大寺の開山である良弁が死の間際に、当時僧侶として東大寺にいた親王禅師(早良親王)に後事を託したとされること(『東大寺華厳別供縁起』)、また東大寺が親王の還俗後も寺の大事に関しては必ず親王に相談してから行っていたこと(実忠『東大寺権別当実忠二十九ヶ条』)などが伝えられている。
★桓武天皇は道鏡事件での僧侶の政治進出の大きさに、弊害と、その原因として全般にまつわる奈良寺院の腐敗があると問題視していた。種継が中心として行っていた長岡京造営の目的の一つには、東大寺や大安寺などの奈良寺院の影響力排除があった。桓武天皇は種継暗殺事件の背後に奈良寺院の反対勢力を見た。それらとつながりが深く、平城京の寺の中心軸の東大寺の組織の指導者で、奈良仏教界でも最高位にいた早良親王の責任を問い、これらに対して牽制と統制のために、遷都の阻止を目的として種継暗殺を企てたとの疑いをかけ、事実上の処刑に及んだとする。

〇藤原種継と大伴家持との政争の結果だとする説もある。
天皇の側近には藤原種継がおり、実権を握っていた。
桓武天皇-藤原種継
早良親王-大伴家持
というような図式ができあがっていた。大伴家持は早良親王の春宮大夫も兼ねていた。
桓武天皇は長岡京への遷都を推し進めており、種継が責任者に就いていた。一方、家持は東北に左遷されて、その身に堪えたのか死んでしまう。
そのひと月後、種継が暗殺されるという事件が起こる。
捕えられた者のなかに大伴氏の関係の者が多く、家持も関与していたとされて、追罰として埋葬を許されず、官籍からも除名された。子の永主も隠岐国への流罪となった。
早良親王も謀反に加担した疑いをかけられた。

その後、皇太子に立てられた安殿親王の発病や、桓武天皇妃藤原旅子・藤原乙牟漏・坂上又子の病死、桓武天皇・早良親王生母の高野新笠の病死、疫病の流行、洪水などが相次ぎ、それらは早良親王の祟りであるとして幾度か鎮魂の儀式が執り行われた。
延暦19年(800年)、崇道天皇と追称され、近衛少将兼春宮亮大伴是成が淡路国津名郡の山陵へ陰陽師や僧を派遣し、陳謝させたうえ墓守をおいた。しかしそれでも怨霊への恐れがおさまらない天皇は延暦24年4月、親王の遺骸を大和国に移葬した。その場所は奈良市八島町の崇道天皇陵に比定されている。また、この近くには親王を祀る社である嶋田神社があり、さらに北に数km離れた奈良町にある崇道天皇社、御霊神社などでも親王は祭神として祀られている。近辺にも親王を祀る寺社が点在しているほか、京の鬼門に位置する高野村(現:左京区上高野)には、京都で唯一早良親王のみを祭神とする崇道神社がある。

私は、入間市仏子・八坂神社(御霊神社)、京都上御霊神社の祭神としてお参りした。


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櫛御気野命(くしみけぬのみこと)/日本の神々の話

20210118

この神は、私が参拝した島根県・熊野大社と、埼玉県上里町・熊野神社の祭神である。

須佐之男命の別名とされる。
「クシ」は「奇」、「ミケ」は「御食」の意で、食物神と解する説が通説である。

島根県・出雲国一之宮熊野大社の祭神名は「伊邪那伎日真名子 加夫呂伎熊野大神 櫛御気野命」となる。
「伊邪那伎日真名子(いざなぎのひまなご)」=父神である伊邪那伎命がかわいがった御子
「加夫呂伎熊野大神(くまののおおかみ)」=熊野の地の神聖なる神
「櫛御気野命(くしみけぬのみこと)」

これは『出雲国造神賀詞』に出てくる神名を採用したものであり、『出雲国風土記』には「伊佐奈枳乃麻奈子坐熊野加武呂乃命(いざなひのまなご くまのにます かむろのみこと)」とある。
現代では櫛御気野命と須佐之男命とは本来は無関係であったとみる説も出ているが、『先代旧事本紀』「神代本紀」にも「出雲国熊野に坐す建速素盞嗚尊」とあり、少なくとも現存する伝承が成立した時にはすでに櫛御気野命が須佐之男命とは同一神と考えられていたことがわかる。明治に入り、祭神名を「神祖熊野大神櫛御気野命」としたが、復古主義に基づいて神名の唱え方を伝統的な形式に戻したまでのことで、この段階では須佐之男命とは別の神と認定したわけではない。後の神社明細帳でも「須佐之男命、またの御名を神祖熊野大神櫛御気野命」とあり、同一神という伝承に忠実なことでは一貫している。

『古事記』の「天照大御神と須佐之男命」の巻、「大気都比売神」の段で、
須佐之男命が食べ物を大気都比売神に求めると,鼻や口、尻などから取り出したものを調理して出した。それを見ていた須佐之男命が怒って大気都比売神を殺すと、その身体から稲、粟、小豆など穀物が生まれた、という記述がある。
須佐之男命が穀物神と云われる所以であるが、「櫛御気野命=須佐之男命」とよくマッチしている。



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八坂刀売神(やさかとめのかみ)/日本の神々の話

20201108

八坂刀売命(やさかとめのみこと)、八坂斗女命とも表記される。文献には前八坂刀売神、八坂刀自神、八坂比売命、八坂姫、姫大明神等という呼称も見られる。

名義は不詳であるが、「八坂」は一説に「弥栄(いやさか)」に通じるとされ、神名は「ますます栄える女性(トメ)」の意味とも考えられる。

諏訪大社の祭神である建御名方神(諏訪大明神)の妃神とされ、諏訪大社下社ほか、各地の諏訪神社などに祀られている。記紀神話には見られない神であり、諏訪固有の神とも考えられる。

諏訪大社は諏訪湖を挟んで上社と下社が存在するが、上社の祭神が建御名方神、下社の祭神が八坂刀売神であり、諏訪湖の御神渡は、上社に祀られている建御名方神が下社の八坂刀売神の下を訪れる際にできたものであるという伝説がある。

『古事記』で、建御名方神は出雲の国譲りの場面で建御雷神と戦って敗れ、追われて諏訪に逃げ込んだと記されているが、一方で諏訪地方は洩矢神を奉じる部族を出雲族が制圧したという事実があるので、中央を制したヤマト王権に対して諏訪の出雲族が服従したことがこの話になったと考えられる。

八坂刀売神はどういう神か情報を並べておく。
1)一説では海人族(安曇氏)出身とされる。北安曇郡にある川合神社の社伝では、綿津見命の娘で穂高見命の妹とされている。

2)『諏方大明神画詞』によれば、神功皇后の三韓征伐の時に諏訪と住吉の神々が現れた。皇后は大変喜び、二神をもてなした。また、戦いに赴くことを海底の龍宮に知らせるために「高知尾の豊姫」を遣わし、海神から「満干の両珠」を借り受けたという。
延宝2年(1674年)の『諏方講之式』では「下宮亦八坂姫之云豊姫神」とあり、豊姫は八坂刀売神と比定されている。『高島藩書上帳』にも、下社の女神に関して「又名高知尾豊姫命」とある。

3)諏訪上社が主祭神を男神とし、そして後裔の大祝に男性を即位させたのに対して、下社側が祭神を女性として神話を持たせたと推測される。宮坂光昭(1987年)は、「ヤサカトメ」という神名が元々水稲農耕における豊作呪術をよくする巫女(かんなぎ)の名称であり、これが後に下社の女神に当てられたという説を提唱した。実際には下社の神事は農耕関係のものが多い。

4)平安時代の初め頃には既に下社に女神が祀られていることは平城天皇より下賜されたといわれる「売神祝(めがみほうり)印」の存在から窺える。なお、中世以降には混乱が生じ、下社の祭神に建御名方神、片倉辺命、事代主神、沼河姫、もしくは下照姫をあてる文書はいくつかある。現在は八坂刀売神とともに建御名方神が主祭神となっており、事代主神が配祀されている。

5)『古代豪族系図集覧』の系譜によれば、忌部氏の祖先とされる天日鷲命の孫・天八坂彦命の娘として八坂刀売命が記されている。
『先代旧事本紀』によれば、饒速日尊と共に下った32神のなかに、八坂彦命の名がある。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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