琴御館宇志麿(ことのみたちうしまろ)・祝部希遠(はふりべまれとお)

20170621

記紀など神話に登場する神ではない。
比叡山坂本の日吉大社の社家(神職家)の祖先神である。

日吉大社の境内社、氏神社と氏永社にそれぞれ祀られている。
氏神社祭神:琴御館宇志麿
氏永社祭神:祝部希遠

琴御館宇志麿とは:
日吉大社の社家(生源寺家・樹下家)の始祖で、西本宮の祭神:大己貴神(おおなむちのかみ)を当地に奉斎した人物である。
大己貴神は、まず琵琶湖の漁船に顕れ、唐崎のウシマロのもとに至り、社殿を造営して自分を祀るようにとの神勅を下して、現在地に鎮まったという。
別伝によれば、琴御館家は、もと常陸国の国司だったが、舒明天皇の御代に唐崎に移った。天智天皇の御世、大己貴神が唐崎の松に顕現し、ウシマロに鎮座の地を尋ね、その導きで現在地に鎮座されたという。

祝部希遠とは:
祝部氏は、鴨建角身命(かもたけつぬみのみこと)にさかのぼるとされ、賀茂縣主の同族とされています。
そして、天智天皇の頃、(琴御館) 宇志麿の時に、"大比叡神"を祀り「祝部宿禰」を賜ったとされます。それ以後、その子孫が日吉社に奉仕したと伝えられる。
祝部氏は、10世紀(平安時代後期)、琴御館宇志丸から23代目の祝部希遠と弟の祝部成遠の時、"左方"と"右方"の二流に分かれ、それぞれ大比叡神、小比叡神の禰宜を勤めていくことになりました。その後、"左方"は生源寺を称し、"右方"は樹下(じゅげ)を称しました。
氏永社のご祭神・祝部希遠は、社家、生源寺家の"先祖神"である。

祝部行丸について:
"生源寺"の系統に、《日吉社中興の祖》と言われる祝部行丸がある。
元亀2年(1571)、織田信長の《叡山焼き討ち》の際、社殿や宝物などを焼かれ、壊滅的な打撃を受けた。坂本の里もほとんどが焼亡したという。
この時、祝部(はふりべ)行丸は、日吉社の総官として大宮(西本宮)に籠っていました。しかし、反撃する間もなく、社家に属する人々は、皆散り散りになってしまった。
祝部行丸は、裸同然で追われながらも、諸国の神社を巡り、日吉社の復興を祈願しました。時に、行丸は60歳だったといいます。
4年後、焼け野原に戻った行丸は、再建の志に燃え、復興のための活動を開始しました。あらゆる伝(つて)を頼り、「社頭再興の奏聞(天皇への奏上)」を重ね、戦国大名にも働きかけました。
織田信長が不慮の死を遂げると、行丸の努力は結実していきました。大宮(西本宮)の仮御所もでき、山王祭も復活しました。
行丸は、81歳で没しましたが、『日吉社神道秘密記』など貴重な著作を残している。
現在の主要な社殿は、行丸の働きにより、安土桃山時代に建立されたものなのです



日本の神々記事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

奈良刀自神(ならとじのかみ)/日本の神々

20170615

この神は記紀などの神話には登場しない。
賀茂別雷神社(上賀茂神社)の摂社である「奈良神社」のご祭神である。

賀茂別雷神社の贄殿北神饌所(神前に供える神饌を調理する建物)があり、奈良神社の拝殿は贄殿北神饌所にくっつき、本殿はそれに隣接して建っている。
社名は祭神の奈良刀自神からきている。

國學院大學名誉教授・田中宣一氏の「鳥勧請および御鳥喰神事-祭祀の成立と雑神の祀りにかかわらせて」という論文が公開されているが、その中で
「たとえば、京都市の賀茂別雷神社(上賀茂) の例祭賀茂祭(いわゆる葵祭り) のとき、本殿の賀茂別雷大神への献饌に先だって、早朝に、境内摂社の一つである奈良社に神饌が供えられている。奈良社は奈良刀自神を祀るとされているが、奈良刀自神の性格はもうひと.つさだかではない。この奈良社に、権禰宜が檜製の四角い掻器と呼ばれる器に強飯二升を盛って参り、閉じられている門の外から長い柄を持って掻器を差し人れるようにして供え、そのあとすぐ撒下している。そしてこの神饌は、散飯(さば)と称されているのである。神の性格の曖昧さ、献饌法の奇妙さ、供物の呼称の異常さなどから、この奈良刀自神はどう考えても尋常ならざる神だと言わざるをえない。賀茂祭においてこういう不思議な神にまず献饌のなされていることは、祭りの構成上注目に値することといえよう。」
と述べている。

その他に見つかった記事としては、
「古代、神饌は楢の葉に乗せて配膳されていたことから、楢が奈良となり神饌を司る神として祀られたと考えられているそうです。
刀自(とじ、とうじ)とは、宮中の台所などで調理を勤めた女官であり、飲食の神ではないか。」

「奈良刀自神は「ならの小川」の女神であり(「刀自」は女主人の意)、水の力による祓えを担当していたとみられ、 往古の神饌所に隣接していたということは、神饌を清める役割を果たしていたのだろう。」

これらを総合すると、神に神饌を供えるという基本中の基本の神事を浄める、あるいは管理する、重要な神だということであろう。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命/日本の神々

20170607

記紀には登場せず、但馬国を開発した氏族の祖先神である。

下記の記録により、但馬国氣多郡樂前(ささくま)郷に住んだ、饒速日命を奉じる氏族の祖先神といえる。

『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っているとしているが、そのとき随行した神である。

『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。
(以下略)

このときの饒速日尊命の巡回コースは以下のようなものであったらしい。
「田庭の比地真名井原(丹波国与謝郡)-但馬国美伊(美方郡香美町香住区三川)-小田井(豊岡市小田井)-佐々前(ささくま 豊岡市日高町佐田)-屋岡(養父市八鹿町八鹿)-比地(朝来市和田山町比治)-田庭津国(丹波)-河内国いかるが峰」

佐々宇良姫命については、下記のように佐久津彦命と結婚し、佐伎津彦命・佐久田彦命を生んだ。
『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記冒頭に、最初に登場するのは、佐々原、佐久宮(佐久神社)である。
(口語訳)
天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこ あめのほあかりのみこと)は大巳貴命(おおなむちのみこと)の勅を奉じ、両槻天物部命の子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原(しのいくはら)に御津井を掘り、水を灌(そそ)ぎ、御田を作りました。後の世に、その地を名づけて、佐田稲生原(さたいないはら)と云います。いまの佐田伊原と称している気多郡佐々前(ささくま)村がこれです。
佐久津彦命は、佐久宮に住まわれました。天火明命の行幸や祭礼などのときのお供をされる神である、天磐船長命(あめのいわふねのおさのみこと)は、磐船宮に住まわれました。
天磐船長命は、天磐樟船命(あめのいわくすふねのみこと)の子です。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の娘、佐々宇良姫命を妻にし、佐伎津彦命・佐久田彦命を生みました。
佐伎津彦命は佐々前の県主(あがたぬし)となりました。

ここに登場する「佐久宮」だが、兵庫県豊岡市日高町佐田に鎮座する「佐久神社」が比定され、当地は和名抄にある「氣多郡樂前郷佐々乃久萬」の地と推定され、佐々乃久萬が「佐久」と変化し社名となったようだ。

佐々宇良彦については、佐々前の県主(あがたぬし)であったことが下記の記述からわかる。
国司文書別記・第一巻「気多郡神社系譜伝」に、 楽前郷 佐久神社 一 佐久神社 気多郡佐多稲飯原鎮座 祭神 佐久津彦命 人皇一代神武天皇の御世、佐々前県主佐々宇良彦これを祀る。 佐久津彦命は、両槻天物部命(なみつきのあまつもののべのみこと)御子なり。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



意富多多泥古(おおたたねこ)命・大田田根子命/日本の神々

20170525

『古事記』では意富多多泥古、『日本書紀』では大田田根子。

『古事記』「崇神天皇」の巻、「三輪山の大物主神」の段
 (現代語訳)
 この天皇の御代に、疫病が大流行して、国民が絶滅しそうになった。そこで天皇は、これをご心配になりお嘆きになって、神意を請うための床にお寝みになった夜、オホモノヌシノ大神が御夢の中に現われて、「疫病の流行はわたしの意志によるのだ。だから、オホタタネコという人に、わたしを祭らせなさるならば、神の祟りは起こらなくなり、国内も安らかになるだろう」 と仰せになった。そこで急使を四方に分かち遣わして、オホタタネコという人を尋ね求められたところ、河内村の美努村にその人を見いだして朝廷にさし出した。そこで天皇が、「そなたはだれの子か」とお尋ねになると、オホタタネコが答えて、「私は、オホモノヌシノ大神が、スヱツミミノ命の女のイクタマヨリビメを妻としてお生みになった子の、名はクシミカタノ命という方の子の、イヒカタスミノ命の子のタケミカヅチノ命の子が、わたくしオホタタネコなのです」 と申し上げた。
 すると天皇はたいそう喜んで、「これで天下は穏やかになり、国民は栄えるであろう」と仰せられた。そして、ただちにオホタタネコを神主として、三輪山にオホミワノ大神を斎き祭られた。またイカガシコヲノ命に命じて、祭りに用いる多くの平たい土器を作って、天つ神の鋸ろ賊つ檻の社を定めてお祭りになった。また宇陀の墨坂神に赤色の楯と矛を献り、また大坂神に黒色の楯と矛を献り、また坂の上の神や河の瀬の神に至るまで、ことごとく漏れ残すことなく幣吊を献ってお祭りになった。これによって疫病がすっかりやんで、国内は平穏になった。
 このオホタタネコという人を、神の子孫と知ったわけは次のとおりである。上に述べたイクタマヨリビメは、容姿が美しく輝くほどであった。ここに一人の男がいて、その姿といい装いといい比類のない気高い男が、夜中に突然姫のもとに訪れて来た。そして愛し合って結婚して、ともに暮らしている間に、まだ時日もたたないのに、その少女は身ごもった。
 そこで父母は、娘が身ごもったことを不審に思い、その娘に尋ねて、「おまえはいつしか身重になっているが、夫がいないのにどういうわけで身ごもったのか」というと、娘が答えて、「たいそうりっぱな男の人で、その姓も名も知らない人が、夜ごとに通ってきて、ともに住んでいる間に、いつの間にか身ごもってしまったのです」といった。
 これを聞いて娘の父母は、その男の素性を知ろうと思って、その娘に教えていうには、「赤土を床の前に撒き散らし、糸巻きに巻いた麻糸を針に通して、男の着物の裾に刺しなさい」といった。で、教えのとおりにして翌朝見ると、針につけた麻糸は、戸の鍵穴から抜け通って出て、糸巻きに残っている麻糸はわずかに三輪だけであった。それで男が鍵穴から出ていったことを知って、その糸をたどって尋ねて行くと、三輪山に続いていて神の社で留まっていた。それで生まれる子が、三輪のオホモノヌシノ神の子であることがわかった。そして、その麻糸が三輪糸巻きに残っていたのにもとづいて、その地を名づけて美和というのである。
このオホタタネコノ命は神君(みわのきみ)・鴨君(かものきみ)の祖先である。

『日本書紀』では、崇神天皇7年(紀元前91年)に大物主神が倭迹迹日百襲媛命に神懸かりして、また臣下の夢に現れてした神託に従い、天皇が物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、三輪氏の祖である大田田根子を祭祀主として大物主神を祀らせた。その結果、疫病が収まり、国内はようやく鎮まり、五穀がよく稔るようになったと記載されている。
大田田根子を探した結果、茅渟の県(ちぬのあがた=和泉の国一帯の古称)の「陶邑」(すえむら)の人であった。
「陶邑」は古墳時代以降、須恵器生産の中心地として最大規模であったことは証明されています。
須恵器は、水を漏らさぬ故、神事の際の器として尊重された。
大田田根子は、須恵器を作る集団のリーダーだったのかもしれない。

そもそも大物主神が桜井市三輪山に鎮座するに至った経緯自体が、あまりにも不自然である。
大己貴神(大国主神の別名)の国造りの神話は、本来出雲地方で語り伝えられてきた伝承である。
自分を三輪山に祀ればその国造りに協力するとした大物主神の申し出は、記紀編纂時点で出雲地方を始めとする各地の伝承をうまく整理して系統立てて神話としてまとめたと考えられる。
天孫族が、この地に侵入してきたとき、三輪山をご神体とする先住の氏族がその麓に住んでいたが、天孫族はその祭祀権を取り上げてしまった。しかしその結果、天孫族が先住民と融合ができず、うまく治めることができなかった。そこで、いったん取り上げた祭祀権を返還して、出雲族の大田田根子に大物主神を祀らせることにした、とという説があり、私もまったく同感である。

大神神社摂社の大田田根子を祀る神社は「大直禰子(おおたたねこ)神社」と書く。
不思議に思って調べてみた。
「大直」については、「大直日神(オオナオヒノカミ)」がヒットし、「異常でけがれた状態をただしなおす神」だそうだ。
「禰子」とは禰宜の子孫であると解釈する。
大直禰子とは、つまり「異常でけがれた状態をただしなおす禰宜の子孫」のことである、となった。


日本の神々記事一覧に飛ぶ



久延毘古(くえびこ)/日本の神々

20170524

土俗の神(縄文の神)に鬼、恵比須、天狗、河童、案山子がある。
その案山子の中で、珍しく『古事記』に登場しているのが「久延毘古」という神である。

『古事記』の「大国主神」の巻、「少名毘古那神と御諸山の神」の段。
(現代語訳)
 さて大国主神が出雲の美保の岬におられる時、波頭の上からカガイモの実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで衣服に着て、近づいて来る神があった。そこでその名をお尋ねになったけれども、答えなかった。またお供に従っている神々にお尋ねになったけれども、みな「知りません」と申した。
そのとき蝦蟇が申すには、「これはクエピコがきっと知っているでしょう」と申したので、すぐさまクエピコを呼んでお尋ねになると、「この神はカムムスヒノ神の御子のスクナビコナノ神ですよ」とお答え申しあげた。
そこで大国主神が、カムムスヒの御祖神にこのことを申し上げなさったところ、答えて仰せられるには、「これは本当に私の子です。子どもの中で、私の手の指の問から漏れこぼれた子です。そしておまえは、アシハラシコヲノ命と兄弟となって、その国を作り固めなさい」と仰せられた。こうしてそれから、オホナムヂとスクナビコナの二柱の神が共々に協力して、この国を作り固められた。そして後には、そのスクナビコナノ神は、海原のかなたの常世国にお渡りになった。
さてそのスクナビコナノ神であることを顕わし申しあげたいわゆるクエピコは、今では山田のソホドという案山子である。この神は足は歩けないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。
 そこで大国主神が心配して仰せられるには、「わたしは一人で、どうしてこの国を作り固めることができようか。どの神がわたしと協力して、この国を共に作るのだろうか」と仰せられた。このとき、海上を照らして近寄って来る神があった。その神が仰せられるには、「丁重にわたしの御魂を祭ったならば、わたしはあなたに協力して、共に国作りを完成させよう。もしそうしなかったら、国作りはできないであろう」と仰せられた。そこで大国主神が、「そ
れでは御魂をお祭り申しあげるには、どのように致したらよいのですか」と申されると、「わたしの御魂を、大和の青々ととり囲んでいる山々の、その東の山の上に静み清めて祭りなさい」と答えて仰せられた。これが御諸山の上に鎮座しておられる神である。


久延毘古はかかしを神格化したものであり、田の神、農業の神、土地の神である。案山子の姿は、概ね蓑と笠を着けて弓矢を持ち、一本足で立つ。
案山子はその形から神の依代とされ、これが山の神の信仰と結びつき、収獲祭や小正月に「かかし上げ」の祭をする地方もある。また、かかしは田の中に立って一日中世の中を見ていることから、天下のことは何でも知っているとされるようになった。

神名の「クエビコ」は「崩え彦」、体が崩れた男の意で、雨風にさらされて朽ち果てたかかしを表現したものである。また、「杖彦」が転じたものとも取れ、イザナギが黄泉から帰ってきた後の禊で杖を投げ出した時に生まれた船戸神(ふなとのかみ、岐神、道祖神)との関連も考えられる。

田の神、また、学業・知恵の神として信仰されており、久氐比古神社(石川県鹿島郡中能登町)や大神神社(奈良県桜井市)末社・久延彦神社などで祀られている。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop