馬力神(ばりきしん)/日本の神々の話

20170219

記紀などの神話に登場する神でなく、民俗信仰によるもの。

栃木県を中心とする北関東地方から南東北地方で江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習で、愛馬の冥福を祈り石碑を建てるもの。
ネットで見つかる記事で推測すると、範囲は宮城県、茨城県、栃木県と思われる。
埼玉県、東京都では、私は見かけたことが無い。

『日本民俗大辞典』(福田アジオほか/編 吉川弘文館 1999)によると、「馬の守護神。自然石に馬力神と刻んだ石塔が栃木県や宮城県で見られるが、その大部分は愛馬の供養のために造立されたもので、神名のほか、紀年銘と造立者を記すだけのものが多い。馬力神の石塔は栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の1851年(嘉永4)例が現在知られる最古のもので、幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された。」と説明があります。

たとえば栃木県では、『下野の野仏』緊急碑塔類調査報告 (栃木県教育委員会/編 1973)の塔碑類一覧で調べると県内に274の馬力神があることがわかります。

「馬頭観音」や「馬頭観世音」の石碑と同様の信仰心理に成り立っているものだろう。

「馬力神」の石碑
170217baryoku.jpg




日本の神々記事一覧に飛ぶ



スポンサーサイト

白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)/日本の神々の話

20170207

二十二代清寧天皇のことである。
『古事記』では白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と記される。

雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

葛城 円:
紀元5世紀ごろに活躍した葛城氏の豪族。曾祖父は武内宿禰とあるので名門である。
履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

葛城韓媛:
5世紀半ば、雄略天皇の皇子時代からの妃。葛城円 大臣の娘。安康天皇の死後,皇位継承争いが発生したが、『日本書紀』雄略天皇即位前紀によると、眉輪王と雄略天皇の兄の坂合黒彦皇子が円大臣の家へ逃げ込んだ。円は雄略天皇に娘の韓媛と葛城(奈良県御所市西部)の宅7区を献上してかくまった罪の許しを求めた。結局は許されず円は殺されたが、韓媛は雄略の妃となった。『古事記』安康天皇の条によると,雄略はすでに妻問いをしており相手を知っていた。葛城氏の没落により、以後葛城氏出身の后妃はいない。

雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。

雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺 してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。

清寧天皇には子供が無かった。
次代天皇となる二王子発見の物語が、『古事記』では死後発見されることになっており、『日本書紀』では清寧天皇が探し出すことになっている。

ここでは『古事記』に基づいて書いておく。
白髪大倭根子命は伊波礼の甕栗(みかくり)の宮にて、天下を治めた。この天皇には皇后が無く、亦御子も無かったのて゛、御名代として白髪部を定めた。それで、天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王がおいでにならなかった。ここに、皇位を継ぐべき王を問うたところ、市辺忍歯別王の妹忍海郎女、亦の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮にいらっしゃった。
(市辺忍歯別王とは、履中天皇の第1皇子で父雄略天皇の叔父にあたり、雄略天皇に殺害された)

『古事記』では暗に、『日本書紀』でははっきりと飯豊王が皇位を継承したと記している。

さて、山部連小楯(やまのべのむらじおだて) とうい人が針間国(播磨国、兵庫県南部)の長官に任じられ、その国に住む志自牟(しじむ)という人の家の新築の宴会に訪れた時のことです。
宴もたけなわになったころ、竈の傍に火を焚く係りの子供が二人いたのですが、その子達にも舞をさせようということになりました。
どうやらこの二人は兄弟のようで、 「兄上が先に舞って下さい。」「いやいや、お前が先に舞いなさい。」と譲り合っている様子を見て、集まっていた人たちは笑い合いました。
結局、兄が初めに舞う事になり、兄が舞い終わると、次に弟は調子をつけて歌うように、こう言ったのです。
「武人(ぶじん)の我が兄上が、佩いている太刀の柄(つか)に 、赤い色を塗りつけ、その紐には赤い布を飾り、赤い旗を立てると、幾重にも重なって、見えない山の峰の竹を刈り、その竹の先を、なびかせるように、また八弦(はちげん)の琴を、奏でるようにして、天下をお治めになった、伊耶本和気天皇(いざほわけのすめらみこと:履中天皇)の、御子の、市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の、今は奴となっている、その子が私である。」
これを聞いた山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は驚いて床から転げ落ちてしまいました。

山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は、その家の人を追い出すと、二人の御子を左右の膝の上に乗せ、泣いて喜びました。そして仮宮を作り、その宮に御子を連れてくると、早馬の使者を走らせました。
その知らせを聞いた叔母の飯豊王(いいよどのみこ)は大変喜んで、兄弟を角刺宮(つのさしのみや)に迎えました。

こうして市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子である袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)は近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で八年間天下を治めました。
第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。

ここで天皇の系図を確認すると、二十二代清寧天皇、二十三代顕宗天皇となっている。
『古事記』でも『日本書紀』でも飯豊王が皇位を継承したと記しているのだが。
170207dhiraka.png



この神には、飯能市岩沢の白髭(しらが)白山神社と熊谷市妻沼の白髪(しらかみ)神社の祭神として参拝している。
この神をまつる神社が、飯能と熊谷にポツンとあるのは何故かと考えてみた。
『古事記』によれば、「この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。そこで天皇の御名代として白髪部をお定めになった。」とある。
この「白髪部」とは、白髪部舎人(とねり),膳夫(かしわで),靫負(ゆげい)の区分があり、天皇の宮に出仕した舎人以下のトモ(伴)の資養にあてられたベ(部)であることを示す。白髪部という氏姓は,武蔵,上総,下野,美濃などの東国と山背,備中などに分布するようで、のちに「白壁皇子」が出た時代に同じ名前は恐れ多いと「真壁」に改称した氏もあるそうである。
飯能岩沢と熊谷市妻沼には、「白髪部」の部民が住んでいて、白髮大倭根子命を祀ったのではないかと思われる。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



道之長乳歯神(みちのながちはのかみ)・長道磐神(ながみちはのかみ)/日本の神々の話

20170129

記紀神話に登場する神。

『古事記』では道之長乳歯神、『日本書紀』では長道磐神とある。
本居宣長は『古事記伝』で、「長乳(ながち)」は万葉集に遠き道のことを「道の長手(ながて)」と多く詠まれているので、「長乳」は「長手」と同言であり、日本書紀では単に長道(ながち)と書いているので、「乳(ち)」も「道(ち)」であるとしている。
『古事記』での歯は磐の借訓であろう。

『古事記』では、伊邪那岐神が死の国(黄泉国)から戻って禊祓をした折、 身につけているものを脱ぎ投げ出すと、それらから十二の神々が化生した。
杖より化生した神は、衝立船戸神。
御帯から化生した神は、道之長乳歯神
御嚢(みふくろ)より化生した、神は時量師神(あるいは時置師神)。
御衣より化生した神は、和豆良比能宇斯能神。
御褌(ふんどしのこと)から化生した神は、道俣神。
御冠より化生した神は飽咋之宇斯能神。
左の手纏(手にまく飾り、あるいは武具)より化生した神は、奥疎神、奥津那芸佐毘古神、奥津甲斐弁羅神。
右の手纏より化生した神は、辺疎神、辺津那芸佐毘古神、辺津甲斐弁羅神。

穢れを落すために、禊祓をした際に生まれた神々であるから、邪心、穢れ、疫病に対する結界を結ぶ塞の神の性格を表す神々とみなされている。

「長道」は帯からの連想である「長い道」の意味で、 長い道のりを追ってくる邪霊を防ぐ塞の神の性格を表すといい、長い道の端にいる神であるともされている。

私は、熊野大社(島根県)の摂社・伊邪那美神社の祭神として参拝している。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



木花之佐久夜毘売(このはなのさくやびめ)/日本の神々の話

20170123

記紀に登場する神である。
『古事記』では木花之佐久夜毘売、『日本書紀』では木花開耶姫と表記する。
『古事記』では神阿多都比売(カムアタツヒメ)が本名、『日本書紀』では鹿葦津姫または葦津姫(カヤツヒメ)が本名で、コノハナノサクヤビメは別名としている。

『古事記』邇邇芸命の巻、「木花之佐久夜毘売」の段
(読み下し文)
 ここに天津日高日子番能邇邇芸能命、笠沙の御前に麗しき美人に遇ひたまひき。ここに「誰が女ぞ」と問ひたまへぼ、答へ白さく、「大山津見神の女、名は神阿多都比売、亦の名は木花之佐久夜毘売と謂ふ」とまをしき。また「汝の兄弟ありや」と問ひたまへぼ、「我が姉、石長比売あり」と答へ白しき。ここに、「吾汝に目合(まぐはい)せむと欲ふは奈何に」と詔りたまへぼ、「僕はえ白さじ。僕が父大山津見神ぞ白さむ」と答え白しき。かれ、その父大山津見神に乞ひに遣はしたまひし時、いたく歓喜びて、その姉石長比売を副へ、百取の机代の物を持たしめて、奉り出しき。かれここに、その姉はいと凶醜(みにくき)きによりて、見畏みて返し送り、ただその弟木花之佐久夜毘売を留めて、宿婚したまひき。
 ここに大山津見神、石長比売を返したまひしによりていたく恥ぢ、白し送りて言はく、「我が女二並べて立奉りし由は、石長比売を使はさば、天つ神の御子の命は、雪零り風吹くとも、恒に石の如く常はに堅はに堅はに動かず坐さむ。また木花之佐久夜比売を便はさば、木の花の栄ゆるが如栄えまさむと、うけひて貢進りき。かく石長比売を返さしめて、独り木花之佐久夜毘売を留めたまひし故に、天つ神の御子の御寿は、木の花のあまひのみ坐さむ」といひき。かれここをもちて、今に至るまで天皇命等の御命長からざるなり。
 かれ、後に木花之佐久夜毘売参出て白さく、「妾は妊身みて、今産む時になりぬ。この天つ神の御子は、私に産むべからず。かれ請す」とまをしき。ここに詔りたまはく、「佐久夜毘売一宿にや妊める。これ我が子には非じ。必ず国つ神の子ならむ」とのりたまひき。ここに答へ白さく、「吾が妊める子、若し国つ神の子ならば、産む時幸くあらじ。若し天つ神の御子ならば、幸くあらむ」とまをして、即ち戸無き八尋殿を作りて、その殿の内に入り、土以ちて塗り塞ぎて、産む時にあたりて、火をその殿につけて産みき。かれ、その火の盛りに焼ゆる時に生みし子の名は、火照命。こは隼人阿多君の祖なり。次に生みし子の名は、火須勢理命。次に生みし子の名は、天津日高日子穂穂手見命。

オオヤマツミ(大山積神、大山津見神、大山祇神)の娘で、姉にイワナガヒメ(石長比売、磐長姫)がいる。ニニギ(瓊瓊杵尊、邇邇芸命)の妻として、ホデリ(海幸彦)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦)を生んだ。

日向国に降臨した天照大神の孫、いわゆる天孫ニニギノミコトと笠沙の岬(宮崎県。鹿児島県内にも伝説地)で出逢い求婚される。父のオオヤマツミ(墓は国指定陵墓・宮崎県西都市の西都原古墳群にある90号墳)はそれを喜んで、姉のイワナガヒメと共に差し出したが、ニニギは醜いイワナガヒメを送り返してコノハナノサクヤビメとだけ結婚した。オオヤマツミはこれを怒り、「私が娘二人を一緒に差し上げたのはイワナガヒメを妻にすれば天津神の御子(ニニギ)の命は岩のように永遠のものとなり、コノハナノサクヤビメを妻にすれば木の花が咲くように繁栄するだろうと誓約を立てたからである。コノハナノサクヤビメだけと結婚すれば、天津神の御子の命は木の花のようにはかなくなるだろう」と告げた。それでその子孫の天皇の寿命も神々ほどは長くないのである。
コノハナノサクヤビメは一夜で身篭るが、ニニギは国津神の子ではないかと疑った。疑いを晴らすため、誓約をして産屋に入り、「天津神であるニニギの本当の子なら何があっても無事に産めるはず」と、産屋に火を放ってその中でホデリ(もしくはホアカリ)・ホスセリ・ホオリ(山幸彦、山稜は宮崎市村角町の高屋神社)の三柱の子を産んだ。ホオリの孫が初代天皇の神武天皇(ヤマト・イワレヒコ)である。

火中出産の説話から火の神とされ、各地の山を統括する神である父のオオヤマツミから、火山である日本一の秀峰「富士山」を譲られ、祀られるようになり富士山に鎮座して東日本一帯を守護することになった。

ただし、浅間神社の総本山である富士山本宮浅間大社の社伝では、コノハナノサクヤビメは水の神であり、噴火を鎮めるために富士山に祀られたとしている。また、この説話から妻の守護神、安産の神、子育ての神とされており、コノハナノサクヤビメにちなんで桜の木をご神木としている。

富士山麓忍野八海の湧池はコノハナノサクヤビメにゆかりの池として、毎年行うコノハナノサクヤビメの祭りで神輿をこの池の水で洗い浄める。

さらに、ホオリらが産まれた時にオオヤマツミが狭名田(現在の鹿児島県霧島市)の茂穂をもって、今日の甘酒とされる天舐酒(アマノタムケザケ)を造ったとの説話があることから、オオヤマツミはサカトケノカミ(酒解神)、コノハナノサクヤビメはサカトケコノカミ(酒解子神)と呼ばれて、酒造の神ともされる。

富士山を神体山としている富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)、山梨県側の北口本宮冨士浅間神社、富士御室浅間神社、富士山下宮小室浅間神社などの浅間神社と、配下の日本国内約1300社の浅間神社に祀られている。

浅間神社の他、安産や子育ての神として子安神社(皇大神宮所管社、東京都八王子市など)に、酒解子神として梅宮大社(京都府右京区)に、また、伊都国の中心とされる福岡県糸島市三雲の細石(さざれいし)神社にも姉のイワナガヒメと共に祀られている。

「木花開耶姫命像」 江戸時代 富士吉田市歴史民俗博物館蔵
170123konohana1.jpg


170123konohana2.jpg




日本の神々記事一覧に飛ぶ



佐久津彦命(さくつひこのみこと)/日本の神々の話

20170118

『先代旧事本紀』、『但馬故事記』では、瓊々杵尊の天孫降臨に先だって、饒速日命が天津国より天降っているが、そのとき随行した神である。

『但馬故事記』では、このように書かれている。
「天照国照彦櫛玉饒速日天火明命は、天照大神の勅を奉じ、外祖高皇産霊神より十種瑞宝(奥津鏡・辺津鏡・八握剣・生玉・死去玉・足玉・道反玉・蛇比礼・蜂比礼・品物比礼)を授かり、妃天道姫命と与(とも)に、坂戸天物部命・二田天物部命・嶋戸天物部命・両槻天物部命・垂樋天物部命・天磐船長命・天船山命・天楫取部命・稲年饒穂命・長饒穂命・佐久津彦命・佐々宇良毘売命・佐々宇良毘古命・佐伎津彦命等を率い、天磐船に乗り真名井原に降り、豊受姫命より五穀蚕桑の種子を穫て射狭那子獄に就き、真名井を堀り、稲の水種や麦菽黍粟の陸種を為べくこれを国の長田・狭田に植え昼夜生井・栄井の水を灌ぐ。すなわち、其の秋瑞穂の稲の可美稲野面に充ち狭し。
(以下略)

このときの饒速日尊命の巡回コースは以下のようなものであったらしい。
「田庭の比地真名井原(丹波国与謝郡)-但馬国美伊(美方郡香美町香住区三川)-小田井(豊岡市小田井)-佐々前(ささくま 豊岡市日高町佐田)-屋岡(養父市八鹿町八鹿)-比地(朝来市和田山町比治)-田庭津国(丹波)-河内国いかるが峰」

『国司文書 但馬故事記』第一巻・気多郡故事記冒頭に、最初に登場するのは、佐々原とここ佐久宮(佐久神社)である。
(口語訳)
天照国照彦天火明命(あまてるくにてるひこ あめのほあかりのみこと)は大巳貴命(おおなむちのみこと)の勅を奉じ、両槻天物部命の子・佐久津彦命をして佐々原を開かしむ。
佐久津彦命は篠生原(しのいくはら)に御津井を掘り、水を灌(そそ)ぎ、御田を作りました。後の世に、その地を名づけて、佐田稲生原(さたいないはら)と云います。いまの佐田伊原と称している気多郡佐々前(ささくま)村がこれです。
佐久津彦命は、佐久宮に住まわれました。天火明命の行幸や祭礼などのときのお供をされる神である、天磐船長命(あめのいわふねのおさのみこと)は、磐船宮に住まわれました。
天磐船長命は、天磐樟船命(あめのいわくすふねのみこと)の子です。
佐久津彦命は、鳴戸天物部命の娘、佐々宇良姫命を妻にし、佐伎津彦命・佐久田彦命を生みました。
佐伎津彦命は佐々前の県主(あがたぬし)となりました。

ここに登場する「佐久宮」だが、兵庫県豊岡市日高町佐田に鎮座する「佐久神社」が比定され、当地は和名抄にある「氣多郡樂前郷佐々乃久萬」の地と推定され、佐々乃久萬が「佐久」と変化し社名となったようだ。

よって、但馬国氣多郡樂前(ささくまI郷に住んだ、饒速日命を奉じる氏族の祖先神ということであろう。



日本の神々記事一覧に飛ぶ



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop