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建御雷神/日本の神々の話

20200704

『古事記』、『日本書紀』に登場する神。
鹿島神宮、春日大社および全国の鹿島神社・春日神社で祀られている。

『古事記』では建御雷之男神・建御雷神、『日本書紀』では、武甕槌、武甕雷男神などと表記される。単に建雷命と書かれることもある。別名 建布都神(タケフツ)、豊布都神(トヨフツ)。
また、鹿島神宮(茨城県鹿嶋市)の主神として祀られていることから鹿島神(かしまのかみ)とも呼ばれる。

『古事記』の「二神の神生み」の段で、
伊弉諾尊(伊邪那岐・いざなぎ)が火神軻遇突智(カグツチ)の首を切り落とした際、十束剣「天之尾羽張(アメノオハバリ)」の根元についた血が岩に飛び散って生まれた三神の一柱である。
剣のまたの名は伊都尾羽張(イツノオハバリ)という。
『日本書紀』では、このとき甕速日神(ミカハヤヒノカミ)という建御雷の租が生まれたという伝承と、建御雷も生まれたという伝承を併記している。

『古事記』の、「出雲の国譲り」で有名な「葦原中国平定」の巻で、
アマテラスは、タケミカヅチかその父イツノオハバリを下界の平定に派遣したいと所望したが、建御雷が天鳥船(アメノトリフネ)とともに降臨する運びとなる。出雲の伊耶佐小浜(いざさのおはま)に降り立ったタケミカヅチは、十掬の剣(とつかのつるぎ)を波の上に逆さに突き立てて、なんとその切っ先の上に胡坐をかいて、大国主(オオクニヌシノカミ)に対して国譲りの談判をおこなった。大国主は、国を朝廷に譲るか否かを子らに託した。子のひとり事代主は、すんなり服従した。もう一人、建御名方神(タケミナカタ)(諏訪大社の祭神)は、建御雷に力比べをもちかけ、手づかみの試合で一捻りにされて恐懼して遁走し、国譲りがなった。このときの建御名方神との戦いは相撲の起源とされている。

『古事記』の、神武天皇の東征の段で、
熊野で、熊(土地の荒ぶる神)が出現したため、神武以下全軍が気を失うか、力が萎えきってしまったが、熊野の高倉下(たかくらじ)が献上した剣を持ち寄ると天皇は目をさまし、ふるうまでもなく自ずと熊野の悪神たちをことごとく切り伏せることができた。神武が事情をたずねると、高倉下の夢枕に神があらわれ、「倉に置いておいた剣を届けろ」と云われたという。
アマテラスやタカミムスビ(高木神)が、タケミカヅチにいまいちど降臨して手助けせよと命じると、建御雷は、かって使用した自分の剣をさずければ事は成ると言い、(高倉下の)倉に穴をあけてねじこみ、神武のところへ運んで貢がせたのだという。その剣は布都御魂(ふつのみたま)であり、石上神宮のご神体である。

名義は、
・「甕(ミカ)」、「津(ヅ)」、「霊(チ)」、つまり「カメの神霊」とする説、「甕」から卜占の神の性格を持つとする説。
・「建」は「勇猛な」、「御」は「神秘的な」、「雷」は「厳つ霊(雷)」の意で、名義は「勇猛な、神秘的な雷の男」とする説。
・雷神説

祭祀を司る中臣氏が倭建命の東国征伐と共に鹿島を含む常総地方に定着し、古くから鹿島神ことタケミカヅチを祖神として信奉していたことから、平城京に春日大社(奈良県奈良市)が作られると、中臣氏は鹿島神を勧請し、一族の氏神とした。

元々は常陸の多氏(おおうじ)が信仰していた鹿島の土着神(国津神)で、海上交通の神として信仰されていたとする説がある。
大和岩雄の考察によれば、もともと「大忌」つまり神事のうえで上位であるはずの多氏の祭神であったのだが、もとは「小忌」であった中臣氏にとってかわられ、氏神ごと乗っ取られてしまったのだという(『神社と古代王権祭祀』)。

鯰絵では、要石に抑え込まれた、日本に地震を引き起こす大鯰を御するはずの存在として多くの例で描かれている。
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鹿島神宮の要石
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鹿島神宮境内にある、建御雷神と鯰の石碑
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瑞玉姫命(みずたまひめのみこと)・美津多麻比売命(みつたまひめのみこと)/日本の神々の話

20200622

淡路島から船で10分のところに沼島があり、そこにあ・自凝(おのころ)神社に参拝したときに、参道に「瑞玉姫命」の石碑があった。

自凝(おのころ)神社
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瑞玉姫命の石碑
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帰宅してから調べて見ると、「瑞玉姫命」ではまったくわからず、
「瑞玉姫」は「美津多麻比売命」であろうとする情報だけがあった。
美津多麻比売命は「守矢家」の家系図に出てくる。
守矢家五代家系図
200622mizu03守矢氏系図


守矢家とは:
古事記では、有名な「国譲り」のところで、建御雷之男神が大国主神に国譲りを迫ったとき、大国主神の子・建御名方神が抵抗したが、建御雷之男神と争って負けて諏訪に逃げて落ち着いたと書かれている。
諏訪地方の古代史によれば、先住民族の「洩矢神」を奉じる守屋氏が、侵出してきた建御名方神を奉じる出雲族に制圧されたことがわかっていて、古事記の記述はこれにあたる。
出雲族の長が諏訪大社の大祝(おおほうり、諏訪大社の神体)となり、守屋氏が諏訪大社の神官となった。
のちに諏訪大社の大祝の一族は、中世では諏訪氏となり、武田氏との覇権争いなどで名を残している。

一方、私が沼島の自凝(おのころ)神社で「瑞玉姫命」の石碑を見た時連想したのは、沼島がイザナギ・イザナミの神生みの舞台だったので、イザナギ・イザナミの神生みで生まれた「弥都波能売神(みづはのめのかみ)」であった。
弥都波能売神は水神として信仰されている。
瑞玉姫命の「瑞」も、「瑞々しい」という言葉で使われるように、水と関係ある言葉である。
瑞玉姫命・美津多麻比売命も水神とみてよいのだと思う。

諏訪の地方神が淡路の離島、沼島にあったことの意味を想うと面白い。
長野県の諏訪と、瀬戸内の沼島と、古代どのような関係があったのか?


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緋衣(ひごろも)大明神/日本の神々の話

20200609

この神には、2018年に熊本を訪問したときに、熊本城の一角にある熊本城稲荷神社にてお参りしました。

熊本城稲荷神社
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ここには、沢山の神が祀られていました。
加藤清正が天正16年(1588年)に肥後国(現在の熊本県)へ入国するに当たり、居城となる熊本城の守護神として稲荷神を勧請したことに始まる。以後、生活の守護神として熊本市民の崇敬を集めています。
ご祭神:
白髭大明神(生活守護の神)
緋衣大明神(火伏・学業・芸能の神)
玉姫大明神(良縁・縁結びの神)
通力大明神(金運・勝負の神)
辰巳大明神(安産の神)
猿田彦大神(開運・交通安全の神)
子安大明神(子育ての神)
白菊大明神(商売繁昌の神)
貞広大明神(土木・建築の神)
源作大明神(五穀豊穣の神)
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緋衣大明神
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緋衣大明神について調べて見ると、以下のような伝承がありました。
 400年前に大阪で住まいを失くした兄弟狐が近江の長浜へ来た時に、侍が決闘している場面に出くわしました。
そこで2人の仲裁に入り、仲直りさせた加藤清正を目撃します。
狐たちは清正の行動に感銘を受け、清正の跡をつけて肥後の国までついていきました。
2匹は八枚石が大阪の石山城に似ていたので、花岡山を住処にしました。
そこへ、清正が熊本城を築城するために石を切り出しに来ました。切り出し作業の途中、清正がうたた寝をしていると、この兄弟が夢に現れ「清正公を慕って肥後までやってきた兄弟狐です。ここには我々が住んでおりますので、八枚石の切り出しだけはご勘弁を」と。
清正が八枚石は見逃すと約束すると、兄弟狐は喜び願い出ました。
「では弟を熊本城の守りにしましょう」と。
兄は清藤大明神として花岡山に残り、弟は緋衣大明神として熊本城に移りました。
緋衣大明神は、熊本城稲荷神社に祀られています。
花岡山の西斜面には巨大な赤鳥居があり、その下に八枚石と呼ばれる巨石があり、その下にお稲荷さんが祀られています。


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七面大明神/日本の神々の話

20191002

この間まで、テレビで放送していた五味康祐作「薄桜記」が気に入っていたので、その主要な舞台である「谷中七面社」を訪ねた。その祭神が「七面大明神」である。

七面大明神(しちめんだいみょうじん)は、七面天女とも呼ばれ日蓮宗系において法華経を守護するとされる女神。七面天女は当初、日蓮宗総本山である身延山久遠寺の守護神として信仰され、日蓮宗が広まるにつれ、法華経を守護する神として各地の日蓮宗寺院で祀られるようになった。その本地は、山梨県南巨摩郡早川町にある標高1982mの七面山山頂にある寺(敬慎院)に祀られている神で、吉祥天とも弁財天ともいわれる。伝説によると、日蓮の弟子の日朗と南部實長公が登山して、永仁5年(1297年)9月19日(旧暦)朝に七面大明神を勧請したと言われている。

七面山は、古来より修験道が盛んな山で、山頂にある大きな池のほとりには池大神が祀られている。その姿は役の小角の姿である。日蓮聖人の時代以前から、すでに七面山には山岳信仰の形態の一つとしての池の神の信仰があった。日蓮より二百年余りの昔、京都の公卿の姫が業病にかかった際、厳島明神の「甲斐の国 波木井郷の水上に七つ池の霊山あり。その水にて浄めれば平癒せん」というお告げを受けて癒された姫君説話[2]の舞台でもある

1277(建治3)年のある日、御草庵から少し上ったところにある大きな石(現在の妙石坊境内にある高座石)の上で、日蓮大聖人はいつものように南部実長公をはじめとする弟子や信徒に法を説いていました。やがて若く美しい女性がどこからともなく現れ、静かに座に着き合掌礼拝し、大聖人の説法を熱心に聴聞しはじめました。
弟子や信徒たちが見慣れないこの女性を不審に思ったので、かねてより本来の姿をご存知だった大聖人は「皆に正体を見せてあげなさい」と告げました。女性は微笑みながら「水を少し賜りとう存じます」と応えたので、大聖人は傍らにあった水差しに入った身延沢の水を女性の手のひらに一滴落としました。
すると、この美しい女性はたちまち本来の龍の姿を現じたのです。
そして、もとの美女の姿に戻り、「わたくしは七面山に住む七面天女です。身延山の鬼門をおさえて、お山を護る法華経の護法神として、人々に心の安らぎと満足を与え続けましょう」とお誓いになると、雲に乗って七面山に飛び去っていきました。

日蓮大聖人は七面大明神のお棲まいになる七面山に登り、大明神をお祀りしたいとお考えでしたでしょうが、残念ながらその願い叶うことなく1282(弘安5)年にご入滅されます。
その後、1297(永仁5)年9月19日、六老僧の一人日朗上人と南部実長公(この当時には出家して日円上人)はついに七面山登山を果たし、七面大明神をお祀りしました。

七面大明神は多くの信仰を集めていますが、もともと女人禁制の七面山がその禁を解かれるのは江戸時代を待たねばなりませんでした。
徳川家康の側室で、紀伊家の祖頼宣(よりのぶ)、水戸家の祖頼房(よりふさ)の生母である養珠院お萬の方は法華経の熱心な信徒で、ことに身延山22世心性院日遠上人に帰依しました。
お萬の方は女人成仏※が説かれる法華経を守護する七面山への登詣を強く願い、登拝口に程近い白糸の滝で7日間身を清め、ついに女性として初めて登頂を果たしました。
その法勲を讃え、白糸の滝の傍らには銅像が建てられています。


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脳天大神(のうてんおおかみ)/日本の神々の話

20190903

奈良県吉野の吉野山・金峯山寺の塔頭・脳天大神龍王院に祀られている神です。

金峯山寺蔵王堂の境内から脳天大神への階段はおよ450段の急な下り階段を降りていったところにあります。
役小角(えんのぎょうじゃ)像に見送られ、途中で鳥居をいくつかくぐるので神を祀っていることがわかります。
さらに降りていくと、大きな剣の倶梨伽羅(くりから)不動尊を過ぎ、女性の修行の地「岩峯大神」の前を過ぎ、到達した脳天大神龍王院は、山の谷間の清流沿いにひっそりとたたずんでいます。

脳天大神は、金峯山寺初代管長である故五條覚澄大僧正が霊威感得された頭脳の守護神である。
覚澄大僧正は、お瀧のある女性の修行の場所を探し求められる中、現在、大神様が鎮座されている谷がその最適の場所であると考えられ、その後、行場の開発に取り組まれることとなりますが、その最中頭を割られた蛇に遭遇され、それを哀れに思われて丁寧に経文を唱えられ葬られました。
その後、その蛇が何度も夢枕に立たれお礼を言われたそうです。最期には「頭の守護神として祀られたし」と云う霊言を覚澄大僧正は聞かれます。また、それと同時期に蔵王権現様から「諸法神事妙行得菩薩(しょほうしんじみょうぎょうとくぼだい)」と云う御霊言も授かられます。
実際に形として現れてこられたのは頭を割られた蛇でありますが、蔵王堂(ざおうどう)のご本尊蔵王権現様が姿を変えて出現されたということになります。
その後、昭和二十六年に現在の場所にお祀りされた。

頭は人間にとって非常に重要な部分です。脳天大神はその最も大切な処を守護し、頭の病気や学業試験などの願い事を成就して下さるとのことです。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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