沼河比売 (ぬなかわひめ)/日本の神々の話

20180614

ヒスイで作られた勾玉を見ると、沼河比売の話を思いだします。

『日本書紀』には登場せず、『古事記』の大国主の神話の段に登場する。
八千矛神(大国主)が高志国の沼河に住む沼河比売を妻にしようと思い、高志国に出かけて沼河比売の家の外から求婚の歌を詠んだ。沼河比売はそれに応じる歌を返し、翌日の夜、二神は結婚した。
新潟県糸魚川市に残る伝承では、大国主と沼河比売との間に生まれた子が建御名方神で、姫川をさかのぼって諏訪に入り、諏訪大社の祭神になったという。
『先代旧事本紀』でも建御名方神は沼河比売(高志沼河姫)の子となっている。
『出雲国風土記』島根郡美保郷の条では高志国の意支都久辰為命(おきつくしい)の子の俾都久辰為命(へつくしい)の子と記され、大穴持命(大国主)との間に御穂須須美命(みほすすみ)を産んだと書かれている。

『古事記』の「大国主神」の巻、「八千矛神の妻問い物語」の段
(現代語訳)
 この八千矛神(大国主命)が、越国の沼河比売に求婚しようとして、お出かけになったとき、その沼河比売の家に着いて歌われた歌は、

八千矛の神の命は、日本国中で思わしい妻を娶ることができなくて、
遠い遠い越国に賢明な女性がいるとお聞きになって、美しい女性が
いるとお聞きになって、求婚にしきりにお出かけになり、求婚に通い
つづけられ、大刀の緒もまだ解かずに、襲(おすい)をもまだ脱がない
うちに、少女の寝ている家の板戸を、押しゆさぶって立っておられると、
しきりに引きゆさぶって立っておられると、青山ではもう鵠が鳴いた。
野の堆はけたたましく鳴いている。庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。
いまいましくも鳴く鳥どもだ。あの烏どもを打ちたたいて鳴くのをやめ
させてくれ、空を飛ぶ使いの鳥よ。――これを語り言としてお伝えします。

とお歌いになった。
そのとき沼河比売は、まだ戸を開けないで、中から歌って、

八千矛の神の命よ、私はなよやかな女のことですから、わたしの心は、
浦洲にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。ただ今は自分の
意のままにふるまっていますが、やがてはあなたのお心のままになる
でしようから、鳥どもの命を殺さないで下さい、空を飛びかける使いの鳥よ。
――これを語り言としてお伝えします。
青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、あなたをお迎えしましょう。
そのとき朝日が輝くように、明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、
白い私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸を、愛撫したり
からみ合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕として、脚を長々と
伸ばしておやすみになることでしようから、あまりひどく恋いこがれなさい
ますな、八千矛の神の命よ。――これを語り言としてお伝えします。

と歌った。そしてその夜は会わないで、翌日の夜お会いになった。

(以下、正妻の須勢理毘売命との問答歌は省略)

祀る神社:
越後国頸城郡の式内社に沼河比売を祀る奴奈川神社がある。天津神社境内社・奴奈川神社をはじめ、新潟県糸魚川市内に論社が3社ある。
長野県にも沼河比売を祭る神社があり、姫の乗っていた鹿のものとされる馬蹄石がのこされている。
諏訪大社の下社にも八坂刀売命や建御名方神と共に祀られ、子宝,安産の神として信仰されている。

『万葉集』に詠まれた「渟名河(ぬなかは)の 底なる玉  求めて 得まし玉かも  拾ひて 得まし玉かも 惜(あたら)しき君が 老ゆらく惜(を)しも」(巻十三 三二四七 作者未詳) の歌において、「渟名河」は現在の姫川で、その名は奴奈川姫に由来し、「底なる玉」はヒスイ(翡翠)を指していると考えられ、沼河比売はこの地のヒスイを支配する祭祀女王であるとみられる。天沼矛の名に見られるように古語の「ぬ」には宝玉の意味があり、「ぬなかわ」とは「玉の川」となる。

これらの伝承を元に、沼河比売(奴奈川姫)が身に付けた首飾りのヒスイが地元産だと考えた相馬御風の推測により、昭和13年(1938年)、この地でのヒスイ発見に至った。
日本では、古代縄文時代の遺跡から翡翠を加工した宝石(勾玉など)が見つかっており、日本の宝石の原点と言われています。
その後、奈良時代以降、日本のヒスイは歴史から姿を消しており、海外(ミャンマー)でしか翡翠は採掘できないとされ、日本の古代ヒスイの宝石も大陸から持ち込まれたものとされていました。
しかし昭和13年に新潟県姫川上流小滝川当たりでヒスイの原石が発見され、日本にも古代から翡翠文化が続いていたという説を裏付けました。
その後日本にヒスイブームが起こりますが、松本清張の小説『万葉翡翠』が出版されてからと言われています。


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建内宿禰命(たけうちのすくね) /日本の神々の話

20180601

『日本書紀』では「武内宿禰」、『古事記』では「建内宿禰」、他文献では「建内足尼」とも表記される。
「宿禰」は尊称で、名称は「勇猛な、内廷の宿禰」の意とされる。

景行・成務・仲哀・応神・仁徳の5代(第12代から第16代)の各天皇に仕えたという伝説上の忠臣である。紀氏・巨勢氏・平群氏・葛城氏・蘇我氏など中央有力豪族の祖であるとされる。

『日本書紀』景行天皇紀では、屋主忍男武雄心命と、菟道彦(紀直遠祖)の女の影媛との間に生まれたとする。孝元天皇紀では、孝元天皇(第8代)皇子の彦太忍信命を武内宿禰の祖父とすることから、武内宿禰は孝元天皇三世孫にあたる。なお、応神天皇紀では弟(母は不明)として甘美内宿禰の名が見える。

『古事記』では、孝元天皇皇子の比古布都押之信命(彦太忍信命)と、宇豆比古(木国造)の妹の山下影日売との間に生まれたのが建内宿禰(武内宿禰)であるとし、孝元天皇皇孫にあてる。同書においては、異母兄弟(長幼不詳)として味師内宿禰(甘美内宿禰)の名が見える。

子は男七人、女二人。
波多八代宿爾は、波多臣・林臣・波美臣・星川臣・淡海臣・長谷部君の祖先である。
許勢小柄宿禰は、許勢臣・雀部臣・軽部臣の祖先である。
蘇賀石河宿禰は、蘇我臣・川辺臣・田中臣・高向臣・小治田臣・桜井臣・岸田臣らの祖先である。
平群都久宿禰は、平群臣・佐和良臣・馬御樴連らの祖先である。
木角宿禰は、木臣・都奴臣・坂本臣の祖先である。
久米能摩伊刀比売、次に怒能伊呂比売である。
葛城の長江の曾都毘古は、玉手臣・的臣・生江臣・阿芸那臣らの祖先である。
また若子宿爾は、江野間臣の祖先である。(以下省略)≫

謎の人物である。
記紀に書かれた事蹟を全部認めたら、300歳ほどの年齢になってしまう。
これについては、二倍年数記録説とか、父と子が同じ名前だったとか、色々な説がある。

ここでは、古事記に記載されていることのみを述べる。
第13代成務天皇の御世、大臣となり、大小の国々の国造を定め、国々の堺を定め、大小の県の県主を定めた。
第14代仲哀天皇が、筑紫国(現 福岡県)の訶志比宮(かしいのみや)にて、熊襲国を征伐しようと、神功皇后が神懸りとなり、仲哀天皇が琴を弾いていた時、神のお告げを聞こうと庭に控えていた。
神功皇后から発せられた神の言葉に対して、反抗的な態度をとった仲哀天皇を諫めるものの、仲哀天皇は急死する。
改めて、神功皇后が神懸りの神事を執り行った時、神と対話する。
三韓征伐後、九州に戻り、後の応神天皇を出産した神功皇后ともども都に戻ろうとするが、香坂王と忍熊王による反乱に遭う。
それを制して、(幼子であった)応神天皇とともに、近江、若狭を経て、越前の敦賀に禊にやってくる。そこで夢に伊奢沙和気大神之命が現れ、応神天皇との名前の交換に応じる。
都に戻ると、神功皇后が勝利の宴を用意しており、お酒を振舞われ、神功皇后の常世の国の少名毘古那神のお酒を召し上がれ~という歌に対して、応神天皇の代理で歌を返す。
第15代応神天皇が見つけてきた日向の美女髮長比売を、大雀命が一目惚れしたため、大雀命から頼まれて、父子間の美女の授受の仲介役を担う。
応神天皇の頃、半島との交流が活発となり、渡来してきた新羅の人々を率いて、堤の池に渡って、百済池を造成。
大雀命が即位して、第16代仁徳天皇の御世、天皇が姫島で雁が卵を産むのを見つけたので、召されて歌によって質疑を受けた。歌によって応答し、さらにもう一首、寿ぎの歌を歌った。


武内宿禰は気比神宮(福井県敦賀市、越前国一宮)、宇倍神社(鳥取県鳥取市、因幡国一宮)、高良大社(福岡県久留米市、筑後国一宮)を始めとする各地の神社で祀られている。
特に高良大社では、祭神の「高良玉垂命(こうらたまたれのみこと)」が中世以降に八幡神第一の伴神とされたことから、応神天皇(八幡神と同一視される)に仕えた武内宿禰がこれに比定されている。その結果、石清水八幡宮を始めとする全国の八幡宮・八幡社において、境内社のうちに「高良社」として武内宿禰が祀られる例が広く見られる。

私が参拝しているのは、
気比神宮(福井県敦賀市、越前国一宮)
薭田神社(東京都大田区蒲田)
御田八幡神社(東京都港区三田)
八幡神社境内高良社(長野県佐久市 中山道八幡宿)
白髭神社(埼玉県狭山市笹井)

浮世絵に見る武内宿禰
武内宿禰と神功皇后(歌川国貞画)
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武内宿禰と応神天皇(歌川国芳画)
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佐太大神(さだのおおかみ)/日本の神々の話

20180128

『出雲国風土記』に登場する神。
島根県松江市「佐太神社」正殿の主祭神である。
佐太大神は神魂命(出雲風土記の記述=神産巣日神)の子の枳佐加比売命(きさがいひめのみこと)を母とし、加賀の潜戸で生まれた。
父は麻須羅神(ますらかみ)とされる。麻須羅神は勇敢な男神の意である。

『出雲国風土記』によれば、「むかし、神魂命の御子の枳佐加比売命が佐太大神を産もうとなさったとき、弓矢がなくなった。
比売神が『今自分が産んだ御子が麻須羅神の御子ならば、なくなった弓矢よ出てこい』というと、水の間に角の弓矢が流れ出てきた。比売神は弓矢を手にとって『これはあの弓矢ではない』といっで投げ捨てられた。
すると金の弓矢が流れてきた。比売神はこれを待ち受けてお取りになり、『暗い窟だこと』といって、金の弓矢で岸壁を射通された」
(原文は「産れまさむとする時に、弓箭亡せ坐しき。爾時御狙神魂命の御子、枳佐加比売命、願ぎたまひつらく、吾が御子、麻須羅神の御子に坐さば、亡せし弓箭出で来と願ぎ坐しき。爾時角の弓箭、水の随に流れ出づ。爾時弓を取らして詔りたまひつらく、此は弓箭に非ずと詔りたまひて、擲げ廃て給ひつ。又金の弓箭流れ出で来けり。即ち待ち取らし坐して、闇鬱き窟なるかもと詔りたまひて、射通し坐しき。即ち御租枳佐加比売命の社此処に坐す」

神名の「サダ」の意味には「狭田、すなわち狭く細長い水田」という説と「岬」という説とがある。

佐太神社は毎年出雲に全国の神が集まり会議があるとき、後半の会議場になる重要な神社であり(前半は出雲大社)、毎年9月に会議を前にして新しいござを入れる「ござ替え神事」が有名である。

元々は佐太大神が出雲の主神であったのが、後に大国主神がこの地に鎮座し、佐太大神は主神の座を譲ったものと思われる。また、出雲国の西半分を大国主神が管理し、東半分を佐太大神が管理するのだという説もある。

明治維新時に神祇官の命を受けた松江藩神祠懸により、平田篤胤の『古史伝』の説に従って祭神を猿田彦命と明示するように指示されたが、神社側はそれを拒んだ。
現在において神社側は、佐太御子大神は猿田彦大神と同一神としている。

また、父神とされる麻須羅神こそ、ほんとうの佐田大神とする説あり。


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神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)・神八井耳命(かむやいみみのみこと)/日本の神々の話

20171228

神沼河耳命は、のちの綏靖天皇(すいぜいてんのうのことである。
神武天皇(初代天皇)の子にあたる。『日本書紀』『古事記』とも系譜の記載はあるが事績の記述は少なく、いわゆる「欠史八代」の1人に数えられる。

『古事記』の「神武天皇」の巻、「当芸志美美命の反逆」の段
 (現代語訳)
 さて、神武天皇が亡くなられてのち、天皇の異母兄の当芸志美美命(たぎしみみのみこと)が、皇后の伊須気余理比売(いすけよりひめ)を妻としたとき、その三人の弟たちを殺そうと計画したので、三人の母君の伊須気余理比売が心を痛め、また苦しんで、歌によってその御子たちにこのことをお知らせになった。
歌われた歌は、
 狭井河の方から雲が立ち広がって来て、畝傍山では木の葉が鳴りさわいでいる。大風が吹き出そうとしている。

またお歌いになった歌は、
 畝傍山では、星間は雲が揺れ動き、夕方になると大風の吹く前ぶれとして、木の葉がざわめいている。

 そこでその御子は、この歌を聞いて陰謀を知って驚き、ただちに当芸志美美を殺そうとなさった。そのとき、神沼河耳命(かむぬなかわみみのみこと)はその兄の神八井耳命(かむやいみみのみこと)に、「兄上よ、あなたは武器を持ってはいって、当芸志美美をお殺しなさい」と申した。それで、武器を持ってはいって、殺そうとしたとき、手足がふるえて、殺すことがおできにならなかった。そこでその弟の神沼河耳命は、その兄の持っている武器をもらい受けて、はいって行って当芸志美美をお殺しになった。それでまた御名を称えて、建沼河耳命(たけぬなかわみみのみこと)というのである。
 こうして神八井耳命は、弟の建沼河耳命に皇位を譲って申すには、「私は敵を殺すことができなかった。あなたは完全に敵を殺すことがおできになった。だから、私は兄であるけれども、上に立つべきではない。そういうわけで、あなたが天皇となって、天下をお治めなさい。私はあなたを助けて、祭事をつかさどる者となってお仕え申しましょう」と申した。
さて、その日子八井命(ひこやいのみこと)は、茨田連・手島連の祖先である。神八井耳命は、意富臣・小子部連・坂合部連・火君・大分君・阿蘇君・筑紫の三家連・雀部臣・雀部造・小長谷造・都祁直・伊余国造・科野国造・道奥の石坂国造・長狭国造・伊勢の船木直・尾張の丹波臣・島田臣等の祖先である。神沼河耳命は、天下をお
治めになった。
おほよそこの神倭伊波礼毘古天皇(神武天皇)のお年は百三十七歳。御陵は畝傍山の北の方の白檮尾(かしのお)のあたりにある。

『古事記全訳注』著者の次田真幸氏の解説:
 伊波礼毘古命(神武天皇)が、鵜草葺不合命(うがやふきあえずのみこと)の四柱の御子の末弟であって天皇に即位したのは、末子成功説話あるいは末子相続制の習俗を反映したものであるが、神武天皇の崩後に、皇后の生んだ三柱の御子の中の神八井耳命が、末弟の神沼河耳命に天皇の地位を譲ったというのも、やはり末子相続制の思想によるものである。
 物語の最後に、ヒコヤヰノ命やカムヤヰミミノ命を祖とする多くの氏族名が記されているが、それらの各地の氏族や豪族は、己たちの祖先の出自を、神武天皇の皇子に結びつけて伝承することによって、大和朝廷と緊密な関係を有する氏族であることを、社会に示そうとしたのであろう。



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阿佐比古命(あさひこのみこと)/日本の神々の話

20171224

記紀には登場しない。
記紀にて「天の岩戸」の場面などに登場する「経津主命」の御子神であり、下總國匝瑳(そうさ)郡の延喜式内社・老尾神社の祭神。
ちなみに下総国一之宮・香取神宮の祭神は経津主命。

経津主神は物部氏の最も主要な奉斎の神であり、物部氏の氏神と表現してもよい。
そして、経津主神を遠祖とする氏に関しては、歴代をあげる系図を伝えるのは下総の香取連くらいとのこと。

匝瑳郡唯一の式内社・老尾神社(匝瑳明神)の祠官家に香取連があること、香取・匝瑳両郡には玉作という郷村があることなどから、物部系の匝瑳連が奉じた神だと思われる。

老尾神社の「老尾」がいまの鎮座地・匝瑳市生尾に通じ、祭神を朝彦命あるいは阿佐比古命(いずれにせよ、麻比古で、安房忌部の祖・大麻比古に通じる)とすることから、原義は「生ひ麻(おひを)」とみられ、匝嵯も「狭布佐(さふさ。細い麻の義)」とみられます。
『下総国旧事考』には、老尾神社の祭神が朝彦命または苗加(なへます)命というと見えるそうで、「苗加命」とは香取連の系図に見える「苗益命」に当たります。

よって、香取神宮に「経津主命」を祀った物部系の氏族「香取連」と同系で、麻に関係の深い物部系の「匝瑳連」が、当地方の守護神として祀った神である。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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