大山咋神(おおやまくいのかみ)/日本の神々の話

20170326

記紀神話に登場する神。
別名は、山末之大主神(やますえのおおぬしのかみ)。

日吉大社、赤坂日枝神社、根津神社、栃木県・村檜神社の祭神、狭山市・峰の愛宕神社の祭神。

須佐之男命と神大市比売との間には、宇迦御魂神(稲荷神社の祭神)と大年神が生まれる。その大年神と天知迦流美豆比売(アメノチカルミヅヒメ)との間に生まれたのが大山咋神です。
須佐之男命の孫ということになります。

『古事記』では、近江国の日枝山(ひえのやま、後の比叡山)および葛野(かづの、葛野郡、現京都市)の松尾に鎮座し、鳴鏑を神体とすると記されている。
なお、大山咋神は里山に鎮まるとされることから、『古事記』の「日枝山」とは、比叡山全体というより、里山である八王子山(比叡山の一部)を指すとする説もある。
「日枝山」には日吉大社が、松尾には松尾大社があり、ともに大山咋神を祀っている。日枝山と松尾については、共通の祭神を祀る社の存在だけではなく、八王子山と松尾山の両方に巨大な磐座と、古墳群(日吉社東本宮古墳群、松尾山古墳群)が存在し、共通点が多いことが指摘されている。特に、古墳群については、それらの古墳の埋葬者の勢力範囲と、大山咋神の神域とされる範囲の一致する可能性が指摘されている。
比叡山に天台宗の延暦寺ができてからは、最澄によって、天台宗および延暦寺の結界を守る守護神ともされた。

名前の「くい(くひ)」は杭のことで、大山に杭を打つ神、すなわち大きな山の所有者の神を意味し、山の地主神であり、また、農耕(治水)を司る神とされる。

大山咋神の別名山王(さんのう)は中国天台山の鎮守「地主山王元弼真君」に倣ったものである。なお、比叡山には、本来、山の全域において、大山咋神の他にも多数の神が祀られており、最澄が延暦寺の守護神として認識したのは、大山咋神だけでなく、その他の「諸山王」を含めた、比叡山の神々全体のことであったとも指摘されている。
天台宗が興した神道の一派を山王神道と言い、後に天海が山王一実神道と改めた。 太田道灌が江戸城の守護神として川越日吉社から大山咋神を勧請して日枝神社を建てた。江戸時代には徳川家の氏神とされ、明治以降は皇居の鎮守とされている。

『古事記』で「葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。」と書かれていますが、これは京都の松尾大社のことで、渡来人の秦氏の氏神でした。秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神(大山咋神)は酒造の神としても信仰されている。


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名草戸畔(なぐさ とべ)/日本の神々の話

20170310

日本書紀や和歌山市の伝承に登場する女神。
戸矢学氏の『縄文の神』によれば、縄文神。

「名草戸畔」は日本書紀での名で、地元では「名草姫(なぐさひめ)」とも。
一説に、名草戸畔とは特定の人物の名ではなく、「名草の長」という地位を表す言葉であるという。

名草邑(のちの名草郡あたり、現在の和歌山市名草山周辺)の統治者だった。しかし、神武東征で進軍中だったイワレヒコ(のちの神武天皇)との戦いで戦死した。
名草戸畔の死後は、代わって紀氏が紀伊を治めた。紀氏は、自らの系図で名草戸畔を遠縁に位置づけることで、正当性を主張した。

『日本書紀』では、「巻第三 神武天皇即位前紀 戊午年六月」冒頭のところで、
「六月乙未朔丁巳 軍至名草邑 則誅名草戸畔者〈戸畔 此云妬鼙〉 (鼙は鼓の下に卑)」とある。
(訳)
(旧暦6月1日、軍が名草邑に着き、そこで名草戸畔という名の者〈戸畔はトベと読む〉を誅殺した。)

これが、名草戸畔や名草邑に関する唯一の記述である。
紀元前660年とされる神武天皇即位の3年前のことで、神武の兄五瀬命の死の後、狭野を越え熊野神邑から再度海路を征く前の話である。

一方、地元の伝承は次のように伝える。
熊野古道を現海南市に少し入ったそばのクモ池周辺が戦場になった。名草戸畔はここで殺され、頭、胴、足(脚の意か)が切り離された。
名草の住民により、頭は宇賀部(うかべ)神社(別名おこべさん)、胴は杉尾神社(別名おはらさん)、足は千種神社(別名あしがみさん)に埋葬された。
和歌山市のいくつかの神社は名草姫命(名草戸畔)と名草彦命を祀っており、その本社は吉原の中言神社である。名草姫命と名草彦命の関係ははっきりしない。

現在、『名草戸畔(なぐさとべ)古代紀国の女王伝説/なかひら まい(著者)』という本が出ている。(未読)
この作品は、名草地方(現在の和歌山市と海南市)で語り継がれてきた古代の女王名草戸畔(なぐさとべ)の伝承をもとに構成したもの。

戸矢学氏の『縄文の神』では、下記のように書かれている。
まつろわぬ神
神武軍がヤマトに入る際に、各地で激戦があり、族長を殺害している。
ナグサトベ、ニシキトベ、エウカシ、ヤソタケル、ナガスネヒコといった名が『日本書紀』には見られる。ヤソタケルは「有尾人」であるとも記される。彼らはこの地の土着の人々であり、すなわち縄文人の族長・首長であろう。
この時代、族長の多くは同時に宗教的権威でもあって、すなわちその一族の〝神〃である。
これらの神々を殺すことで、神武軍は征服を成し遂げていく。「神殺し」こそは、征服の証しなのだ。
しかし「神殺し」の真相は、必ずしも物理的な殺害ではない。
『日本書紀』を詳細に見ると、殺されたはずの族長とおぼしき人物が、名を一部変えて、さらに地位を得て臣従 していることに気付くだろう。微妙にタイムラグを設定しながらも記録を残しているのは、その子孫が現存するからだ。たとえ史書の上でとは言いながらも彼らの先祖を勝手に殺すわけにはいかない。彼らは、もとは敵対していたのに、その後帰順した大事な“臣民〟だからだ。
それに実際に殺害されたのは、ごく一部だろう。政治的には殺害する必要はなく、新たな神に代えれば、帰順したこととなるのだ。新たな神とは、アマテラスである。
名草戸畔などの挿話もその一つであろう。名草邑の首長・ナグサトベは殺されたことにし、その神威を吸収した新たな神を生む。この手法は、古代にしばしば使われたもので、私たちが今認識している信仰・祭祀の姿はその過程を経た後のものである。
まつろう神があれば、まつろわぬ神がいる。
まつろう神とは弥生神であって、まつろわぬ神とは縄文神である。



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栲幡千千姫命(たくはたちぢひめのみこと)・萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)/日本の神々の話

20170303

日本神話に登場する女神である。

『古事記』では萬幡豊秋津師比売命(よろづはたとよあきつしひめのみこと)、『日本書紀』本文では栲幡千千姫命、一書では栲幡千千媛萬媛命(たくはたちぢひめよろづひめのみこと)、天萬栲幡媛命(あめのよろづたくはたひめのみこと)、栲幡千幡姫命(たくはたちはたひめのみこと)と表記される。

神話での記述は、葦原中津国平定・天孫降臨の段に登場する。
・『古事記』および『日本書紀』本文・第二・第六・第七・第八の一書では高皇産霊神(高木神)の娘としている。
・『日本書紀』第一の一書では思兼命の妹としている。
・第六の一書では「また曰く」として高皇産霊神の子の児火之戸幡姫の子(すなわち高皇産霊神の孫)としている。
・第七の一書では「一に云はく」として高皇産霊神の子の児萬幡姫の子で玉依姫命というと記されている。

天照大神の子の天忍穂耳命と結婚し、天火明命と瓊瓊杵尊を産んだ。

『古事記』の「邇邇芸命」の巻、「邇邇芸命の生誕」の段
(現代語訳)
 そこで天照大御神と高木神の仰せによって、日嗣の御子の正勝吾勝勝速日天忍穂耳命(マサカツアカツカチハヤヒアメノオシホミミノ命)に対して、「今、葦原中国を平定し終ったと申して来た。だから、先に委任したとおり、その国に天降って統治なさい」と仰せになった。
 ところが、その日嗣の御子の天忍穂耳命(アメノオシホミミノ命)が答えて申すには、「私が天降ろうと支度をしている間に、子が生まれました。名は天邇岐志国邇岐志天津日高日子番能邇邇芸命(アメニキシク二二キシアマツヒコヒコホノ二二ギノ命)と申します。この子を降すのがよいでしょう」と申し上げた。この御子は、天忍穂耳命が、高木神の女(むすめ)の萬幡豊秋津師比売命(ヨロヅハタトヨアキツシヒメノ命)と結婚なさって生んだ子で、天火明命(アメノホアカリノ命)と、次に日子番能邇邇芸命(ヒコホノ二二ギノ命)の二柱である。こういうわけで、忍穂耳命の申されたとおりに、日子番能邇邇芸命に仰せ言を下して、「この豊葦原の水穂国は、あなたが統治なさるべき国であると委任します。だから命令に従って天降りなさい」と仰せになった。

「栲」は楮の繊維または白膠木、「ハタ」は「機(はた)」のことである。「チヂ」は縮むの意とも、たくさんあるの意ともいい、前者であれば織地が縮んだ上質の織物のこととなり、後者であれば機織がさかんな様子を表す。いずれにしても機織や織物に関係のある名前ということになる。織物の神として信仰される他、安産、子宝等の神徳をもつとされる。
瓊瓊杵尊や天忍穂耳命とともに祀られることが多い。

この神には、私は愛知県一宮市の真清田神社摂社「服織神社」のご祭神、千葉県船橋市の意富比神社(船橋大神宮)の配祀神として参拝している。

特に真清田神社摂社「服織神社」は機織りの神様として篤く信仰されていた。
私が参拝した時の服織神社
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七夕のときに催される「一之宮七夕まつり」は、真清田神社摂社「服織神社」のお祭りなのです。
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馬力神(ばりきしん)/日本の神々の話

20170219

記紀などの神話に登場する神でなく、民俗信仰によるもの。

栃木県を中心とする北関東地方から南東北地方で江戸末期から昭和初期まで盛んだった風習で、愛馬の冥福を祈り石碑を建てるもの。
ネットで見つかる記事で推測すると、範囲は宮城県、茨城県、栃木県と思われる。
埼玉県、東京都では、私は見かけたことが無い。

『日本民俗大辞典』(福田アジオほか/編 吉川弘文館 1999)によると、「馬の守護神。自然石に馬力神と刻んだ石塔が栃木県や宮城県で見られるが、その大部分は愛馬の供養のために造立されたもので、神名のほか、紀年銘と造立者を記すだけのものが多い。馬力神の石塔は栃木県下都賀郡壬生町南犬飼北坪の1851年(嘉永4)例が現在知られる最古のもので、幕末に出現し、明治時代にもっとも多く造立された。」と説明があります。

たとえば栃木県では、『下野の野仏』緊急碑塔類調査報告 (栃木県教育委員会/編 1973)の塔碑類一覧で調べると県内に274の馬力神があることがわかります。

「馬頭観音」や「馬頭観世音」の石碑と同様の信仰心理に成り立っているものだろう。

「馬力神」の石碑
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白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)/日本の神々の話

20170207

二十二代清寧天皇のことである。
『古事記』では白髮大倭根子命(しらかのおおやまとねこのみこと)、『日本書紀』では白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)と記される。

雄略天皇を父とし、母は葛城円大臣(かずらきのつぶらのおおおみ)の娘韓媛。
御名の「白髪皇子」の通り、生来白髪であったため、父帝の雄略天皇は霊異を感じて皇太子としたという。

葛城 円:
紀元5世紀ごろに活躍した葛城氏の豪族。曾祖父は武内宿禰とあるので名門である。
履中天皇2年(401年)、国政に参加する。安康天皇3年(456年)、眉輪王が安康天皇を殺した時、眉輪王と同時に疑いをかけられた坂合黒彦皇子(さかあいのくろひこのみこ)を屋敷にかくまう。しかし、雄略天皇に屋敷を包囲され、娘の韓媛(からひめ)と葛城の屯倉(みやけ)7ヶ所を差出して許しを乞うたが、認められず焼き殺される。(『日本書紀』)

葛城韓媛:
5世紀半ば、雄略天皇の皇子時代からの妃。葛城円 大臣の娘。安康天皇の死後,皇位継承争いが発生したが、『日本書紀』雄略天皇即位前紀によると、眉輪王と雄略天皇の兄の坂合黒彦皇子が円大臣の家へ逃げ込んだ。円は雄略天皇に娘の韓媛と葛城(奈良県御所市西部)の宅7区を献上してかくまった罪の許しを求めた。結局は許されず円は殺されたが、韓媛は雄略の妃となった。『古事記』安康天皇の条によると,雄略はすでに妻問いをしており相手を知っていた。葛城氏の没落により、以後葛城氏出身の后妃はいない。

雄略天皇22年に立太子し、翌年雄略の崩御にともない即位するが、雄略天皇は死に臨んで世事全般を皇太子(清寧天皇)に託し、臣下に対しても、期待を込めた遺詔を残している。

雄略天皇の妃吉備稚媛(きびのわかひめ)には、星川と磐城という二人の皇子がいた。清寧天皇には異母兄である。吉備稚媛は以前から自分の産んだ星川皇子(ほしかわのおうじ)を皇位に就けたがっていた。そして日頃から皇子に対して、「天下を取るためにはまず大蔵を制圧しなければならない。」と言い聞かせていた。雄略天皇が崩御すると、星川皇子は母の教えに従って、長兄・磐城皇子の制止も聞かず大蔵を攻めて手中に収める。そして大蔵の中の官物を勝手気ままに使い出した。事態を憂慮した家臣の大伴室屋(おおとものむろや)大連や東漢掬直らは、遺詔に従って皇太子(清寧)を守ろうと兵を挙げ、大蔵を取り囲んで星川皇子を焼き殺 してしまう。そして皇位のしるしである鏡・剣を皇太子に奉った。

清寧天皇には子供が無かった。
次代天皇となる二王子発見の物語が、『古事記』では死後発見されることになっており、『日本書紀』では清寧天皇が探し出すことになっている。

ここでは『古事記』に基づいて書いておく。
白髪大倭根子命は伊波礼の甕栗(みかくり)の宮にて、天下を治めた。この天皇には皇后が無く、亦御子も無かったのて゛、御名代として白髪部を定めた。それで、天皇が亡くなられた後、天下を治めるべき王がおいでにならなかった。ここに、皇位を継ぐべき王を問うたところ、市辺忍歯別王の妹忍海郎女、亦の名は飯豊王が、葛城の忍海の高木の角刺の宮にいらっしゃった。
(市辺忍歯別王とは、履中天皇の第1皇子で父雄略天皇の叔父にあたり、雄略天皇に殺害された)

『古事記』では暗に、『日本書紀』でははっきりと飯豊王が皇位を継承したと記している。

さて、山部連小楯(やまのべのむらじおだて) とうい人が針間国(播磨国、兵庫県南部)の長官に任じられ、その国に住む志自牟(しじむ)という人の家の新築の宴会に訪れた時のことです。
宴もたけなわになったころ、竈の傍に火を焚く係りの子供が二人いたのですが、その子達にも舞をさせようということになりました。
どうやらこの二人は兄弟のようで、 「兄上が先に舞って下さい。」「いやいや、お前が先に舞いなさい。」と譲り合っている様子を見て、集まっていた人たちは笑い合いました。
結局、兄が初めに舞う事になり、兄が舞い終わると、次に弟は調子をつけて歌うように、こう言ったのです。
「武人(ぶじん)の我が兄上が、佩いている太刀の柄(つか)に 、赤い色を塗りつけ、その紐には赤い布を飾り、赤い旗を立てると、幾重にも重なって、見えない山の峰の竹を刈り、その竹の先を、なびかせるように、また八弦(はちげん)の琴を、奏でるようにして、天下をお治めになった、伊耶本和気天皇(いざほわけのすめらみこと:履中天皇)の、御子の、市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の、今は奴となっている、その子が私である。」
これを聞いた山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は驚いて床から転げ落ちてしまいました。

山部連小楯(やまのべのむらじおだて) は、その家の人を追い出すと、二人の御子を左右の膝の上に乗せ、泣いて喜びました。そして仮宮を作り、その宮に御子を連れてくると、早馬の使者を走らせました。
その知らせを聞いた叔母の飯豊王(いいよどのみこ)は大変喜んで、兄弟を角刺宮(つのさしのみや)に迎えました。

こうして市辺之押歯王(いちのべのおしはのみこ)の御子である袁祁之石巣別命(おけのいわすわけのみこと)は近飛鳥宮(ちかつあすかのみや)で八年間天下を治めました。
第二十三代顕宗天皇(けんぞうてんのう)です。

ここで天皇の系図を確認すると、二十二代清寧天皇、二十三代顕宗天皇となっている。
『古事記』でも『日本書紀』でも飯豊王が皇位を継承したと記しているのだが。
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この神には、飯能市岩沢の白髭(しらが)白山神社と熊谷市妻沼の白髪(しらかみ)神社の祭神として参拝している。
この神をまつる神社が、飯能と熊谷にポツンとあるのは何故かと考えてみた。
『古事記』によれば、「この天皇には皇后がなく、また御子もなかった。そこで天皇の御名代として白髪部をお定めになった。」とある。
この「白髪部」とは、白髪部舎人(とねり),膳夫(かしわで),靫負(ゆげい)の区分があり、天皇の宮に出仕した舎人以下のトモ(伴)の資養にあてられたベ(部)であることを示す。白髪部という氏姓は,武蔵,上総,下野,美濃などの東国と山背,備中などに分布するようで、のちに「白壁皇子」が出た時代に同じ名前は恐れ多いと「真壁」に改称した氏もあるそうである。
飯能岩沢と熊谷市妻沼には、「白髪部」の部民が住んでいて、白髮大倭根子命を祀ったのではないかと思われる。



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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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