貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)/日本の神々の話

20171018

墨田区の牛島神社(牛御前王子権現社)のご祭神
牛島神社のご祭神は素戔嗚尊(すさのおのみこと)、天之穂日命(あめのほひのみこと)、貞辰親王命(さだときしんのうのみこと)。となっている。
調べてみると、葛飾区東四つ木にある「王子神社」と「王子白髭神社」では、貞辰親王命のみをご祭神としている。

王子神社の社伝によれば、清和天皇の第7皇子貞辰親王が東国遊行の途次、元慶元年(938)この地に薨じた。たまたま浄光寺に留錫中の比叡山慈覚大師は良本阿闍梨に命じて、親王の遺骸を葬り、王子権現として慰霊を行って以来、浄光寺がその古塚を管理したという。記録類は明治29年の洪水で流失したが、もと上木下川村にあり、その地が荒川放水路の敷地となり、大正8年、浄光寺とともに現在地に移った。

貞辰親王は、安時代前期-中期、清和天皇の皇子。
貞観(じょうがん)16年生まれ。母は女御藤原佳珠子(かずこ)。貞観17年親王。院宮(いんのみや)と称された。延長7年4月21日死去。56歳。

牛島神社(牛御前王子権現社)、王子神社、王子白髭神社の社名にある「王子」とは平貞辰親王のことであることがわかる。

この土地に滞在中、よほど慕われたのであろう。

牛島神社については、既に記事があります。

その記事を見る




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三見宿禰命(みつみすくねのみこと)/日本の神々の話

20171007

記紀には見えず、『先代旧事本紀』の物部氏系図に登場する神。

『先代旧事本紀』では、三見命、三見宿禰命、三兒命、三児命の名で見える。
石見国一之宮・物部神社での祭神名「三見宿禰命」を索引名とした。

出雲醜大臣(いずもしこおおおみの)命と真鳥姫との間に生まれた3男である。

宇摩志麻治命(うましまじのみこと)の4世であり、孝安天皇3年8月に、同じく4世の六見命と共に足尼(すくね)となり、次に宿禰(すくね)となる。
宿禰はこのときにはじまるという。

宇摩志麻治命:
饒速日命(にぎはやひのみこと)が長髄彦の妹である三炊屋媛(みかしきやひめ)を娶って生んだ子で、物部氏、穂積氏、采女氏らの祖とされる人物。
『古事記』によれば、始め長髄彦に従っていたが、神武天皇の東征に際して長髄彦を殺し天皇に帰服し、以後自らの部族である物部(もののべ)を率いて皇城守護の任に当たったという。また『旧事本紀』によれば、神武天皇即位の後、饒速日命の遺した10種の天璽瑞宝(あまつしるしのみづたから)を献上し、それを使って天皇と皇后の魂を鎮める呪術を行ったとされ、これを後世の鎮魂祭の初めとしている。
石見国一之宮・物部神社の社伝によれば、美濃国・越国を平定した後に石見国で没し、現在の社殿の裏に埋葬されたという。

私は、宇摩志麻治命を祭神とする石見国一之宮・物部神社に参拝し、その折末社で三見宿禰命に参拝した。

その記事を見る



(了)


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道主日女命(みちぬしひめのみこと)/日本の神々の話

20170928

「播磨国(はりまのくに)風土記」にみえる神。

私がこの神のことを知ったのは、谷川健一氏の『青銅の神の足跡』のなかで、兵庫県多可郡多可町の式内社荒田神社の伝承について紹介していたからである。

その伝承は『播磨国風土記』の託賀郡(多可郡)の条に登場する。
その土地の女神・道主日女命(みちぬしひめのみこと)が父のわからない子を産んだ。
父親を知るために占いにつかう酒をつくり、神々をあつめ、その子に父とおもう神に酒をささげさせた。
子に盟酒(うけいざけ)をつぐ相手を諸神から選ばせたところ、天目一箇神(あまのまひとつのかみ)についだことから天目一箇神が子の父であるとわかったというもの。
この神話は農耕民と製銅者集団の融合を表していると考えられている。

天目一箇神:
『古語拾遺』によれば、天目一箇神は天津彦根命の子である。岩戸隠れの際に刀斧・鉄鐸を造った。大物主神を祀るときに作金者(かなだくみ、鍛冶)として料物を造った。また、崇神天皇のときに天目一箇神の子孫とイシコリドメの子孫が神鏡を再鋳造したとある。『日本書紀』の国譲りの段の第二の一書で、高皇産霊尊により天目一箇神が出雲の神々を祀るための作金者に指名されたとの記述がある。『古語拾遺』では、筑紫国・伊勢国の忌部氏の祖としており、フトダマとの関連も見られる。

鍛冶の神であり、『古事記』の岩戸隠れの段で鍛冶をしていると見られる天津麻羅と同神とも考えられる。神名の「目一箇」(まひとつ)は「一つ目」(片目)の意味であり、鍛冶が鉄の色でその温度をみるのに片目をつぶっていたことから、または片目を失明する鍛冶の職業病があったことからとされている。これは、天津麻羅の「マラ」が、片目を意味する「目占(めうら)」に由来することと共通している。

天目一箇神は製鉄の神とされています。

一方、『先代旧辞本紀』や丹後の籠神社の社家である海部氏に伝わる『海部氏勘注系図』では、道主日女は天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊(アマテルクニテルヒコアメノホアカリクシタマニギハヤヒノミコト=アメノホアカリとニギハヤヒが合体した神名)の妻としている伝承もあります。

天目一箇神は製鉄の神という重要な神なので、その妻神である道主日女命も、色々なところに顔を出しているようです。

現在、道主日女命を祀る神社には巡り合えていませんが、
兵庫県多可郡多可町の式内社荒田神社の伝承では、当初は天目一箇命と道主日女命を祀っていたとのことです。


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日子坐王(ひこいますのみこ)/日本の神々の話

20170924

記紀に伝えられる古墳時代の皇族(王族)。
彦坐命、彦坐王、彦今簀命とも云われる。
開化天皇の第3皇子。母は姥津命の妹・姥津媛命(ははつひめのみこと)。
崇神天皇の異母弟、景行天皇の曾祖父、神功皇后の高祖父にあたる。

彦坐王を中心にした系図は以下のようになる。
170924keizu.jpg


この系図において、彦坐王と大闇見戸売との間に出来た「沙本毘売」が垂仁天皇の皇后となり、景行天皇、神功皇后に繋がる。

『古事記』の「崇神天皇」の巻、「建波邇安王の反逆」の段によると、王は崇神天皇の命を受け、玖賀耳之御笠(くがみみのみかさ)退治のために丹波に派遣されたとある。

稗史によれば、彦坐王は美濃を領地として、子の八瓜入日子とともに治山治水開発に努めたとも伝えられるが、その後裔氏族は美濃のみならず、常陸・甲斐・三河・伊勢・近江・山城・河内・大和・但馬・播磨・丹波・吉備・若狭・因幡など広汎に分布している。
先に挙げた系図を見ると、とにかく子孫が多く、広範に広がったことはうなずける。

時代は下るが、戦国時代に大名となった越前朝倉氏は本姓日下部氏で、彦坐王の子孫と称する但馬国造家の流れを汲んでいる。

私はまだ参拝していないが、下記の神社で祀られている。
式内社・日部神社(大阪府堺市西区草部)
式内社・伊波乃西神社(岐阜県岐阜市岩田西3丁目421)
同社の近くには日子坐命の墓(宮内庁が管理)とされる巨岩があるそうである。



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仁徳天皇(にんとくてんのう)・大雀命(おほさざきのみこと)/日本の神々の話

20170920

日本の第16代天皇
応神天皇の第4皇子。母は品陀真若王の女・仲姫命(なかつひめのみこと)。

名は、『古事記』では大雀命(おほさざきのみこと)、『日本書紀』では大鷦鷯尊(おほさざきのみこと)・大鷦鷯天皇(おほさざきのすめらみこと)・聖帝、『万葉集』で難波天皇。

応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。

難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

『古事記』の「仁徳天皇」の巻、「聖帝の世」の段
 (現代語訳)
 さて仁徳天皇が、高い山に登って四方の国土を見て仰せられるには、「国じゅうに炊煙が立っていない。国民はみな貧しいのだ。だから今から三年の間、国民の調と夫役をすべて免除せよ」と仰せられた。そのために、宮殿は破損して、全部雨漏りがするようになったが、天皇はいっさい修理をなさらず、器でその漏る雨を受けて、雨漏りのしない所に移ってお避けになった。その後、国内をごらんになったところ、国内に炊煙が満ちていた。それで、国民が豊かになったことを知って、もうよかろうと調と夫役を課せられたのである。こういうわけで、人民は繁栄して、夫役に苦しむことはなかった。それでその御世を着えて、聖の帝の御世と申すのである。


ただ一方で、記紀には好色な天皇として皇后の嫉妬に苛まれる人間臭い一面も描かれている。また、事績の一部が父の応神天皇と重複・類似することから、元来は1人の天皇の事績を2人に分けたという説がある。また逆に、『播磨国風土記』においては、大雀天皇と難波高津宮天皇として書き分けられており、二人の天皇の事跡を一人に合成したとする見方もある。

日本書紀の仁徳の条の冒頭では、五百城入彦皇子(成務天皇の弟)の孫となっているが、この記載は古事記応神の条の冒頭にある記事と矛盾する。すなわち、大雀の母中日売の父が、五百木入日子の子品它真若となっていることである(この場合、大雀は五百木入日子の曾孫となる)。古事記と日本書紀の系図どちらが正しいかは不明である。

即位後は、都をそれまでの大和、または大隅宮から難波に遷都し、宮居を難波高津宮(なにわのたかつのみや)とした。この地は上町台地であり、神武天皇の生国魂神社や仁徳天皇の祖母である神功皇后が創建した住吉大社、また、四天王寺も存在する場であることから宮をこの地に移したのは何らかの意味があるのではないか、と言う声もある。

宮址については、江戸の頃より諸説ある。現在の高津宮址の碑は、明治33年(1899年)に難波神社と高津神社において執り行われた仁徳天皇千五百年大祭を祝して設置され、その後に移設されたものである。

業績:
『日本書紀』には、次の事績が記されている。
1.河内平野における水害を防ぎ、また開発を行うため、難波の堀江の開削と茨田堤(大阪府寝屋川市付近)の築造を行った。これが日本最初の大規模土木事業だったとされる。
2.山背の栗隈県(くるくまのあがた、京都府城陽市西北~久世郡久御山町)に灌漑用水を引かせた。
3.茨田屯倉(まむたのみやけ)を設立した。
4.和珥池(わにのいけ、奈良市?)、横野堤(よこののつつみ、大阪市生野区)を築造した。
5.灌漑用水として感玖大溝(こむくのおおみぞ、大阪府南河内郡河南町辺り)を掘削し、広大な田地を開拓した。
6.紀角宿禰を百済へ遣わし、初めて国郡の境を分け、郷土の産物を記録した。

また、古事記には、次のとおり記されている。
この天皇の御世に、大后(おほきさき)石之日売命の御名代(みなしろ)として、葛城部を定め、また太子(ひつぎのみこ)伊邪本和氣命の御名代として、壬生部を定め、また水歯別命の御名代として、蝮部(たぢひべ)を定め、また大日下王の御名代として、大日下部を定め、若日下部の御名代として、若日下部を定めたまひき。
また、秦人を役(えだ)ちて茨田堤また茨田三宅を作り、また丸邇池(わこのいけ)、依網(よさみ)池を作り、また難波の堀江を掘りて海に通はし、また小椅江(をばしのえ)を掘り、また墨江(すみのえ)の津を定めたまひき。

陵・霊廟
仁徳天皇 百舌鳥耳原中陵
(大阪府堺市)

仁徳天皇の陵(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されている。公式形式は前方後円。考古学名は大仙陵古墳(大仙古墳/大山古墳とも、前方後円墳、墳丘長486m)。

私が今まで参拝した、仁徳天皇を祀った神社:
常盤木神社 東京都青梅市今寺1-530
姉埼神社 千葉県市原市姉崎2278
寒川神社境内若宮八幡社 神奈川県高座郡寒川町宮山3916
氷室神社 奈良県奈良市春日野町1−4



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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