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日光御成道を歩く②/駒込橋からJR王子駅まで

20220224

歩いた日:2021年10月7日
日光御成道を歩こうと思ってからコロナ禍のために機会がなく、やっと緊急事態宣言が解除された2021年の10月に歩けることになりました。

前回の記事で、本郷追分~駒込橋までを説明しました。

前回の記事を見る


今回の記事は駒込橋からJR王子駅までとなります。
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【駒込橋】
山手線の陸橋である駒込橋。JR駒込駅のところです。
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奇っ直ぐ進むと大炊介坂にかかる。

【大炊介坂】
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中世の武将保坂大炊介にちなんで大炊介坂と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで宮坂(みやさか)とも、樹木に覆われていたので暗闇坂(くらやみざか)とも呼ばれていた。
この道は岩槻街道で、江戸時代には、将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため日光御成道と呼ばれたが、現在は本郷通りと呼ばれている。

滝野川会館前歩道橋のY字路を左にとる。
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すると、旧古河庭園の入り口前を通過。
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真っすぐ進むと平塚神社前の交差点。
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【平塚神社】
所在地:東京都北区上中里1-47-1
主祭神:源義家、源義綱、源義光
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「平塚」の地名の由来とされる“塚”は、神社社殿裏にあり非公開であるが、北区によって「甲冑塚古墳」として登録されている。平安時代に秩父平氏豊島近義がこの場所に城館(平塚城)を築てたと伝わる。平安後期の後三年の役の帰路に、源義家(八幡太郎)、義綱(賀茂次郎)、義光(新羅三郎)の三兄弟がこの館に逗留し手厚いもてなしを受けた。義家は感謝の験として鎧一領と十一面観音像を近義に下賜し、後に、この鎧を城の守り本尊として塚を築き埋めたのが塚の初めとされ、「鎧塚」「甲冑塚」と呼ばれた他、塚が高くなく平たかったことから「平塚」とよばれ、これが当地郷の地名のおこりとされる。
室町時代になり豊島本宗家は上杉臣下の太田道灌にこの平塚城で滅ぼされた。

参道が長い。
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社殿
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神紋が「日の丸扇」で勇ましい。
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横の坂が「鎧坂」
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滝野川公園の前を通る。
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その先に「東京高等蚕糸学校発祥之地」碑があります。

【東京高等蚕糸学校発祥之地碑】
宮沢賢治が初めて上京したときの、ゆかりの痕跡となります。
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大正5年3月20日、盛岡高等農林学校修学旅行で盛岡から16時間半かけて朝5:40に上野に到着。旅館で顔を洗い朝食後、高崎線の王子停車場で降り、日光御成街道を農事試験場まで歩きました。
この日は、西ヶ原農事試験場と東京高等蚕糸学校を見学し、翌日は駒場農科大学(現在の東大農学部)を見学。
その後京都、奈良に見学旅行しています。

国立印刷局東京工場の前を過ぎます。
渋沢栄一の一万円札もここで印刷しているんでしょうか?
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西ヶ原一里塚に到着。

【西ヶ原一里塚】
西ヶ原一里塚は、「日光御成道」の二里目の一里塚で、徳川時代に設置されたままの旧位置を留めており、都内では大変貴重なもの。大正時代に道路改修工事にともない撤去されそうになりましたが、実業家の渋沢栄一)等を中心とする地元住民の運動によって塚の保存に成功しました。大正11年3月8日には、国史跡に指定されています。
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一里塚の横に導かれて七社神社に参拝。
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【七社神社】
所在地:東京都北区西ケ原2-11-1
主祭神:伊邪那岐命、伊邪那美命、天児屋根命、伊斯許理度賣命、市寸島比賣命、仲哀天皇、応神天皇
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江戸時代には七所明神社といい西ヶ原村(現・北区西ヶ原)の鎮守。神仏混淆(しんぶつこんこう)の江戸時代には別当寺(神社を管理する寺)である無量寺の境内にありました。祭神は、紀伊国高野山の四社明神を勧請し、これに天照大神、春日神、八幡神の三柱を合祀したのが七所(七社)の由来です。

社殿
前の狛犬が優れものです。
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神楽殿
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境内には旧古河邸の主だった古河家(古河虎之助男爵)寄贈の孔子像と孟子像があります。
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子宝・安産の霊木「腹籠の椎」
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飛鳥山公園の端に到着。
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【飛鳥山公園】
渋沢栄一に敬意を表して、飛鳥山公園に入り、関連の建物に挨拶。

青淵文庫
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晩香廬(ばんこうろ)
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渋沢栄一資料館
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「渋沢栄一から妻・千代への手紙」をしていた。
見たかったが、後日にということで。
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再び日光御成道に戻り、坂を下ります。

【六石坂】
飛鳥山公園の周りを円弧状に下るのが「六石坂」
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都電荒川線が道を外れて、飛鳥山駅に入っていく。
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左に道が分岐して、音無橋を渡っていく。現在の岩槻街道だ。
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現在の岩槻街道は、この音無橋を渡っていくのだが、江戸時代はここに高い橋を架けられなかったため、現在の王子駅の辺まで坂を下って石神井川を渡り、王子大坂を上がって先に進んだ。
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音無橋の辺から更に坂を下っていくと、ちょうど「あすかパークレール」が上がって行った。
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JR王子駅に到着。
ここで、ちょうど昼の時間になり、音無親水公園の近くで昼食。
今回はここまで。

(続く)



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日光御成道を歩く①/本郷追分から駒込橋まで

20220210

歩いた日:2021年10月7日

日光御成道を歩こうと思ってからコロナ禍のために機会がなく、やっと緊急事態宣言が解除された2021年の10月に歩けることになりました。

日光御成道については、少し前にアップした説明の記事があります。

その記事を見る


日光御成道の全行程は、日本橋から幸手宿になります。
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今回歩いたのは、10月7日と11月5日の二日間かけて、本郷追分から鳩ケ谷宿までです。
おおまかなルートは、本郷追分(追分一里塚)、駒込、西ヶ原一里塚、王子、赤羽、岩淵宿、川口宿、元郷一里塚、鳩ケ谷、鳩ケ谷宿となります。
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日本橋から本郷追分までは中山道と同じ道で、中山道の記事を既にアップしているので、それを見てください。

その記事を見る


今回の記事は、本郷追分~駒込橋までとなります。
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神田明神の前から中山道を歩いてくると、東大赤門の前を通ってすぐ「本郷追分」に差し掛かります。
中山道は左に曲がり、日光御成道は直進。
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【追分一里塚跡】
所在地:東京都文京区向丘1丁目1
角のお店「高崎屋」の前に、「追分一里塚跡」の説明があり。
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ここにある高崎屋は、江戸時代宝暦元年から続く酒屋で、両替商も兼ね「現金安売り」で繁昌した。
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本郷追分は東大農学部正門の前。
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この正門を入ってすぐ左手に「帰ってきた博士とハチ公」の像があります。
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日光御成道(現在のこの辺の名称は本郷通り)を、東大農学部の塀に沿って歩き出す。
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浄心寺の前には、大きな布袋さまが。
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向丘二丁目の前を右折して、駒込大観音に寄り道。

右折して少し行くと、門の両側に像が載っている瑞泰寺の前を通過。
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駒込大観音に到着。
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【駒込大観音】
所在地: 東京都文京区向丘2丁目38
浄土宗の寺院・光源寺は、1589年に神田で創建され、1648年に現在地に移されました。奈良の長谷観音を模した十一面観音像は高さが6m以上あり、境内の野梅の巨木とともに「梅の大観音」と親しまれています。観音像は元禄年間に建立されましたが、東京大空襲で消失し、1993年に再建されました。
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前にガラスがあり、映り込みを避けようとガラスにレンズをつけると全体が入らず、このような写真に。
大きくて立派な観音さまだ。
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境内には、とても状態の良い青面金剛庚申塔や千手観音などの石仏があり。
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また、この寺の墓地には甲冑師で有名な明珍本家の墓があるとのこと。
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再び日光御成道に戻り少し歩いていくと、「駒込土物店跡」があり。

【駒込土物店跡】
所在地: 東京都文京区本駒込1丁目6
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目赤不動南谷寺の前に。

【目赤不動・南谷寺】
所在地: 東京都文京区本駒込1丁目20
大聖山東朝院 南谷寺 天台宗
江戸五色不動の一つ。
江戸五色不動とは、三代将軍家光が江戸の安泰を願い制定した、目赤不動、目黒不動、目白不動、目黄不動(江戸川区平井)、目青不動(世田谷区太子堂)を指す。
目黒不動、目白不動は、目黒、目白の地名のもとになっている。
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以前にこの寺に参拝した記事があります。

その記事を見る


養昌寺の前を通る。

【養昌寺】
所在地: 東京都文京区1-20-17
繁栄山福寿院 養昌寺 曹洞宗
樋口一葉の師であり、一葉の思慕の相手として知られる半井桃水の墓がある。
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【吉祥寺】
所在地: 東京都文京区本駒込3丁目19−17
諏訪山 吉祥寺 曹洞宗
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十月桜が咲いていた。
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経蔵の前には、虎の狛犬「狛寅」が居ます。
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二宮尊徳の墓
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交叉点「富士神社入り口」を右折してすぐの、富士塚「駒込富士」のある富士神社に寄りました。

【駒込富士・富士神社】
所在地: 東京都文京区本駒込5丁目7−20
主祭神: 木花咲耶姫
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大きな富士塚の上に社殿がある。
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再び日光御成道(本郷通り)に戻り、六義園入り口まで来ました。
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【駒込橋】
山手線の陸橋です。
JR駒込駅のところ。
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今回の記事はここまで。

続くいて「日光御成道②」を見る


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日光御成道を歩く/日光御成道とは

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所属する歴史クラブの「博物館に行こう」グループの行事で、2020年2月に「川口市立文化財センター&分館郷土資料館(鳩ヶ谷)」を訪ね、日光御成道の鳩ケ谷宿も散策して「日光御成道」に興味を持ち、歩いてみたいと思いました。
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ところがコロナ禍で、緊急事態宣言などでなかなか歩ける状況でなく、昨年の10月にやっと歩ける状況になったので、10月7日に追分本郷から赤羽まで、11月5日に赤羽から鳩ケ谷まで歩くことが出来ました。

今回は、「日光御成道とは」を説明し、次回から歩いた結果を記事にしていきます。

【日光御成道とは】
 〇寛永13年(1636・3代家光)の日光東照宮大造替後にはかなり進んでいたが、延宝8年(1680・4代家綱)の幕府『覚書』では「日光海道」の名称は「宇都宮道」「壬生道」「岩付道」「日光御神領街道」すべての総称だった。
「日光御成道」の呼称が使用されるのは天明5年(1785・10代家治)以降。
 〇道筋は中世の鎌倉街道中道を基に整備された。
 〇整備を担当したのは伊奈氏(伊奈氏の赤山陣屋が御成道沿いにあり)

【日光御成道を利用したのは】
・将軍の日光社参(大名も随行):家光が最多9回
  (川口で昼食、岩槻、古河、宇都宮で宿泊)
 ・東照大権現(家康)・大献院(家光)の特別回忌法要の代参通行
 ・日光東照宮修復などの御用通行
 ・日光例幣使通行
 ・朝鮮使節東照宮参詣
 ・岩槻藩通行、代官所役人通行、普請役人通行  

日光御成道
日本橋から本郷追分までは中山道と同じ、本郷追分から幸手宿までが「日光御成道」。
下図で赤線。
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下図で赤線。
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日光社参は、2代将軍秀忠から始まる
3代家光は、9回行い最多
4代家綱は、2回行うが、その後財政悪化のため中断
5代綱吉は、予告するが実現せず
6代家宣も、予告するが実現せず
8代吉宗が、65年ぶりに復活させる
10代家治は、田沼意次のもとで48年ぶりに復活させる
12代家慶のときは、老中水野忠邦が将軍の権威を誇示し改革を推し進めるために行った。これず最後の将軍の日光社参となった。

日光社参は、とにかく金がかかった。
〇8代吉宗の「日光社参」では、当日の参加者は、譜代大名と旗本らで約13万3,000人。荷物を運ぶなどの仕事を行う「人足(にんそく)」が約22万8,000人。合計36万人。人が人なら、馬の数もスゴイ。なんと、32万6,000頭の馬が集められた。
〇大変なのは、参加せざるを得ない武士たち。家格に応じて、付き従う家臣や武具の数が定められていた。もちろん、用意するのは自腹。
〇賃金や物価が暴騰し、幕府からは値段の据え置きを命じる法令も出された。これ以外にも、街道や宿場の整備方法など、ありとあらゆる法令が乱発。これらは総称して「社参法度(しゃさんはっと)」と呼ばれている。
〇武士以外にも、ちょうど農繫期と重なって困り果てた農民や商人の方々が涙をのんだ。大名行列が滞りなく行われるようにと、大事な時期に街道の整備などに人手を割かれたのである。たった1回の通行のために、道をならして砂を敷く。街路樹は枝を切って見栄えよく。さらには、街道沿いの家屋などには修繕がなされたという。当日は、10間(約18メートル)ごとに、火事に備えて手桶が置かれた。
〇当日の「日光社参」はもっとスゴイことに。なにしろ約13万人の移動。午前0時に先頭の秋元喬房(あきもとたかふさ)が出立。そこから次々と、大名や旗本の部隊が続く。ようやく8代吉宗が、約2,000人の親衛隊と共に城を出たのが午前6時。既に6時間が経過。最後尾は松平輝貞(まつだいらてるさだ)。時刻は午前10時。出発するだけで10時間も要している。
〇8代吉宗がつぎ込んだ総額はというと、ざっと見積もっても、約20万両以上。約140億円もの金額となった。

「日光社参」は、徳川勢力を総動員した軍事演習だったという見方がある。
江戸時代、諸藩は軍事行動が一切できず、軍事関係は、将軍が一手に掌握していた。
軍事行動がなされる場合には、承認許可となる将軍の「黒印状(こくいんじょう)」が必要であった。
「日光社参」では黒印状にて参加命令が出ている。
参加したのは、外様大名(とざまだいみょう、関ヶ原の戦い以後に臣従した大名)以外。つまり、旗本、譜代大名の徳川勢力を集結させて行われた。
戦国時代とは異なり、世は平和の時代。馬に乗れない者や草鞋(わらじ)の結び方さえ知らないという武士たちも当然多い。いざという時の避難訓練と同様、8代吉宗も軍事演習が必要だと判断したのではないか。

「日光東照社参詣図屏風」 江戸時代前期
日光社参では、幕閣や大名、旗本・御家人によって長い行列が組まれたという。「日光東照社参詣図屏風」は、寛永19年(1642)の三代将軍徳川家光の日光社参を描いており、当時の宿場の様子や日光社参の荘厳さを作品から感じ取ることができる。
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「徳川十五代記略」「大猷公の十三回忌綱家公日光社参上図」/月岡芳年
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次回から、日光御成道を歩いた記事をお届けします。


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中山道蕨宿周辺散策(後半)

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11月16日に、歴史クラブの「江戸再発見」グループの行事で参加しました。
前回の記事の続きです。

歴史民俗資料館を見学した後、浦和側木戸にある「中山道ふれあい広場」に向かって、中山道旧道を歩きます。
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昔をしのばせる家を眺めながら歩きました。
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蕨宿の木戸まで来ました。ここで国道17号線と合流しています。
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国道17号線側から眺める。
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⑤【蕨宿木戸 中山道ふれあい広場】
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タイル絵「皇女和宮の行列」
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「大名行列」 
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カラクリ時計
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ここで休憩してから、三学院に向かいましたが、途中民家の「はね橋」を再現してあるので、それを見ていきました。
内側からロープで引き上げています。
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⑥【三学院】 
所在地:埼玉県蕨市北町3丁目2−4
金亀山(こんきさん)極楽寺三学院、京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺。
創立年代は不明だが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられる。
天正19年(1591)に、徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られている。

・梵字馬頭観音塔
寺号碑の前にあり、馬頭観音文字塔はたくさんあるが、梵字で書かれているのは非常に珍しい。
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・地蔵堂(地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵石仏、子育地蔵)
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この中で珍しいのが地蔵石仏(目疾地蔵)
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仁王門
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・仁王門の塀に沿って、庚申塔など石仏群あり
明和6年(1769)造立の青面金剛型庚申塔、寛文2年(1662)建立の二菩薩碑、貞享元年(1684)造立の三猿型庚申塔などがある。
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水舎
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境内は広く、建物にも圧倒される。
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圧倒的な迫力で聳える本堂
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鐘楼
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三重塔
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・阿弥陀一尊図像板碑(文明13年 1481)
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・蕨宿関係墓石群
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木喰観正塔
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⑦【和楽備神社】 
鎮座地:埼玉県蕨市中央4丁目20-9
社伝によれば、室町時代に足利将軍家一族の渋川氏が蕨城を築き、その守り神として八幡神を祭ったのが始まりとされる。一方、「世鏡伝記題臨書」によれば、永正8年(1511年)に鎌倉の住人、成田隼人正が祭ったとする。また、本殿に安置された神体(木造僧形八幡立像)の台座に天正11年(1583年)の文字が薄く残されており、江戸時代以前の創建が窺える。
江戸時代に蕨宿が整備されると、「蕨八幡」「上の宮」と呼ばれ、中の宮(宮田 氷川社)、下の宮(荒井前 氷川社)と共に蕨宿三鎮守として重きをなした。
明治末に神社合併という国策が打ち出され、18社を合祀した。合祀後の神社名に、祭神名(八幡神)を取ることは、各集落とも承服しない状況であった。土地名を冠することとなり、蕨一字では尊厳味がないので、岡田健次郎元町長の知人本居豊穎に依頼し、万葉仮名から取って、和樂備神社と命名した。
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和楽備神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


⑧【蕨城址】 (15:20~15:30)
南北朝時代に足利氏一門の渋川義行によって築城され、曾孫の渋川義鏡が古河公方に対抗するための拠点とした。
周囲を沼と深田に囲まれた微高地上に築城された平城で、幅約11.8mの囲掘と幅約8.2mの土塁をめぐらし堀の内側の面積は約12,200㎡となっており、南側には同様の堀と土塁をめぐらせた約21,650㎡の外輪地があり二郭を形成していた。
・1457年(長禄元年)享徳の乱によって起こった関東地方の騒乱を収拾させるために、第8代将軍足利
義政は関東探題として渋川義鏡を関東へ下向させる。義鏡は蕨城を拠点に兵を募ったが、蕨のある足
立郡は大半が古河公方の勢力範囲となっていたために募兵は難航した。
・1462年(寛正3年)扇谷上杉氏と対立した義鏡が失脚したため、蕨城は関東管領と同格である御一家
渋川氏の居城でありながら事実上は扇谷上杉氏傘下の城となる。
・1476年(文明8年)長尾景春の乱の際には蕨城の近隣にある石神井城主の豊島泰経をはじめとした武
蔵国の国人衆が長尾景春に呼応したが、渋川義鏡は扇谷上杉方に残り太田道灌とともに用土原の戦い
等に参加していたと見られる。
・1524年(大永4年)蕨城は義鏡の子渋川義堯が継いでいたが、武蔵に侵攻した北条氏綱によって陥落
させられる。
・1526年(大永6年)真里谷恕鑑(まりやつ じょかん)と里見義豊の助力を得た上杉朝興が北条勢を
破り、蕨城を奪回する。
・1546年(天文15年) 北条氏康が上杉朝定を河越城の戦い(河越夜戦)で破り、渋川義堯は後北条氏
麾下に入る。
・1567年(永禄10年)三船山合戦で義堯の子渋川義基が討死すると蕨渋川氏は断絶し、一族郎党は散
り散りとなり、残った者もその多くが帰農した。またこの時、義基の夫人はその死を嘆き榛名湖に入
水したとされる。
・城主不在のまま廃城となった蕨城は江戸時代になると徳川家の鷹狩用の御殿として再利用された。
・交通の要衝であった蕨は戦国時代には城下で六斎市が開かれており、中山道が整備されると宿場町と
して再び栄えた。
・1816年(文化13年)家臣団の子孫らによって渋川義基と夫人の250年忌を期し、蕨城近郊の宝樹院
に渋川公墓所が造立される。

蕨城址碑
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御殿堀
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御殿堀から続く石垣
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蕨城跡地の公園には、「成年式発祥の地」碑、「ウルマンの青春の詩」碑、ニュートンのリンゴの木があります。

蕨市が成人式の発祥の地です。
終戦で若者が元気をなくしているのを見て、青年団が元気づけようと昭和21年に始めたそうです。
だから、今でも蕨市の成人式は青年団が運営しているそうです。
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その近くに、ウルマンの青春の詩があります。
中年になった頃、会社の机に貼っていた思い出深い詩です。
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ニュートンのリンゴの木
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⑨【長泉院(おしゃみの鐘)】 
所在地:蕨市中央5-13-3
真言宗霊雲寺派寺院の長泉院は、甘露山と号します。長泉院の創建年代は不詳ですが、横浜市六浦にあった名跡を移し、円実という沙弥が宝暦5年に当地に創建したといいます。
長泉院の鐘は宝暦八年(一七五八)に江戸神田鍛冶町の小幡内匠によって作られたもので、蕨宿では時の鐘として親しまれ、「おしゃみの鐘」とよばれていたといいます。
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入ると、お寺は驚いたことに近代的な建物でふり、そのビルの上にあって、鐘が見えない。
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境内の隅から、望遠ズームを使ってなんとか撮れたのが、この写真です。
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これで、予定した場所には全部訪れることが出来たので、蕨駅に戻り帰途につきました。

(了)


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中山道蕨宿周辺散策(前半)

20181128

11月16日に、歴史クラブの「江戸再発見」グループの行事で参加しました。
この日は、案内役だったので、写真を十分に撮れず、以前撮った写真を流用しているところがあります。季節、天気などが異なったりしていますが、ご容赦ください。

JR蕨駅に降りたつ。
明治26年開業の「蕨驛開設碑」があり。
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この日は、蕨宿を両方の木戸の間を歩き、その後周辺の史跡も回ることにしました。
コースは、蕨駅⇒宝樹院(蕨城城主・渋川氏墓)⇒中山道旧道・蕨宿板橋側木戸⇒歴史民俗資料館分館⇒歴史民俗資料館(本陣跡地)⇒中山道旧道・蕨宿浦和側木戸⇒民家のはね橋⇒三学院⇒和楽備(わらび)神社⇒ 蕨城址⇒長泉院(おしゃみの鐘)⇒蕨駅。
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①【宝樹院】 (10:30~10:50)
所在地:埼玉県蕨市中央2丁目10−14
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ここには、蕨の領主であった渋川公夫妻の墓があります。
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本堂
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渋川公夫妻の250年忌にあたる文化13年(lB16)に渋川氏家臣の子孫たちにより造立された。永禄10年(1567)に上総国三舟山合戦で敗死した渋川公と、その死を悲しみ群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったもの。
渋川氏については、蕨城址のところで説明します。

渋川公夫妻の墓
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②【蕨宿入り口木戸 板橋側】 
左が国道17号線(中山道)、右が中山道旧道で蕨宿木戸。
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蕨宿標章
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簡単な木戸が再現されている。
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歩き出すと、マンホール蓋に蕨宿の文字があり。
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蕨宿の中に、中山道69宿の浮世絵のプレートが置かれている。
これが蕨宿の画、戸田の渡しが描かれている。
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宿の面影を残す建物
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③【歴史民俗資料館分館】 
明治時代に織物の買継をしていた家を保存してある。
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館内案内図
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豪商だったことが偲ばれる庭だ。
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珍しい「蕨林檎」があった。
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屋内
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蕨特産だった「双子織り」が展示されていた。
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織り機
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内蔵と明り取りの天窓
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歴史民俗資料館分館を出て、歴史民俗資料館までの間に、昔ながらの建物の漬物屋さんがあった。
昼食休憩時に戻って、このお店自家製の「べったら漬け」を買って帰ったら、すごく美味しかった。
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蕨市立歴史民俗資料館に到着、この前で分かれて、蕨宿の中にあるお店に分散してお昼を食べた。

④【蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡地)】
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横に本陣入り口を再現してあります。
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中山道を利用して、蕨宿に泊まった大名などの名前が載っている。
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尾張大納言(尾張徳川家)、紀伊大納言(紀伊徳川家)、加賀宰相(前田家)などの名前が並ぶ。
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和宮の行列は有名だが、その外にも有栖川宮のお姫様とかの行列が通っている。
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銅板に、明治元年10月に明治天皇が大宮氷川神社に参拝、ご親祭を行った時の行列が描かれている。
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中山道の様子を描いた銅板画。
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館内の様子
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蕨宿のジオラマ
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本陣のあたり
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蕨宿の両側に用水が流れているが、裏口から出入りするための「はね橋」があった。
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歴史民俗資料館を見学した後、浦和側木戸にある「中山道ふれあい広場」に向かった。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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