中山道を日本橋からのんびりと(後半)

20171115

11月6日に、こういうタイトルで歴史クラブ行事として歩きましたが、その後半の記事です。

昌平橋からまっすぐ歩き、「神田明神下」の交差点を左折して神田明神に向かうが、
「神田明神下」の交差点の手前、右側が「伊勢丹発祥の地」だと、通りがかりの人に教えてもらった。
工事中の場所である。
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「神田明神下」の交差点を左折して坂を上がっていくと、左手に「湯島聖堂」。
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右手に神田明神の大きな鳥居と天野屋が。
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【天野屋】
弘化3年(1846)創業、地下6mの土室(つちむろ)で作られる甘酒は絶品。
※初代は京都・丹後の宮津藩の出で天野新助。弟が江戸へ出て千葉道場で腕を上げ、妬まれて暗殺されたため、その仇討ちを目的に出てきた。当時神田明神は江戸の総鎮守で、ここにいれば仇に出会えるだろうと茶店を出した。仇には巡り合えず、そのまま家業となり現在は6代目。

天野屋の左手から中山道の原形が100mほど残っている。
天野屋の喫茶部入り口に何気なく案内が(笑)
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わずか100mですが、味わって歩きます。
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聖橋からの道に突き当たって、中山道の原形は終り、中山道に戻る際通り越して聖橋まで行きました。
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【仙台堀】
聖橋の下に神田川が流れているが、ここは「仙台堀」と呼ばれる掘割。
かって洪水で悩まされた神田川の流路を変えるために、仙台藩が莫大な資金を投じて掘り下げた人工の川が今の御茶ノ水辺りの神田川である。

聖橋から「仙台堀」を覗き込むと、御茶ノ水駅の拡幅工事の真っ最中でした。
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中山道に戻り、先に進みます。
日本医科歯科大学、順天堂大学が左手に続きます。
道の右手はホテル。
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「順天堂」の「天」の字が素晴らしい。
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「壱岐坂上」を過ぎてしばらく行くと、春日通りと交差する「本郷三丁目」交差点。
この交差点に「かねやす」があり。
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【かねやす】
ここまでが瓦葺きの家が並んでいたので「本郷もかねやすまでは江戸のうち」と古川柳に詠われ、享保年中(1716~36)に歯磨き「乳香散」で繁盛した兼康(現在は洋品店)。乳香散は兼康祐悦という口内医師が考案し売り出したもの。本店は京都の今出川で、本郷の支店のさらに出店がここの店。ところが店先に幕を張り屏風を立て、番頭が乳香散の効能を面白おかしく喋るので評判になり人気が出たという。
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「本郷三丁目」交差点を渡ると左手に「本郷薬師」があり。

【本郷薬師】
清賢法印が寛永14年(1636)中興した富元山真光寺の境内に寛永10年(1670)建立したといいます。深く信仰を集め、縁日も賑やかであったといいますが、第二次世界大戦で焼失、真光寺は世田谷区へ移転したといいます。
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「本郷薬師」の奥に「桜木神社」があり。

【桜木神社】
太田道灌が江戸城に北野天神を勧請して祀ったものが、其後湯島高台なる旧櫻の馬場の地に神祠を建立してその近隣の産土神としていた。其後更に元禄3年徳川綱吉が同所に御学問所昌平黌を設立するに当り、現在の地に遷座されたもの。
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そこからすぐに、右手は東大の敷地がはじまるが、これはまるまる加賀藩前田家の上屋敷跡だ。
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【東大赤門(旧加賀屋敷御守殿門)】
11代将軍家斉の子溶姫(やすひめ)が前田家に嫁入りしたとき建てられた赤門は、火災や関東大震災を乗り越えた貴重な遺構である。
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赤門から中に入り、構内を横に移動し、正門からの道に出て三四郎池を目指します。

安田講堂への銀杏並木
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建物のなかを突き抜けるトンネル。
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安田講堂
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安田講堂から三四郎池に向かう途中、ハチ公を発見(笑)
こんなところを毎日散歩していたら、末は博士犬だな。
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【三四郎池】
寛永6年(1629)4月、前田家3代藩主利常の時に、徳川3代将軍家光・大御所秀忠の御成があり、それに先だって豪奢な御成御殿や数寄屋を新築し、庭園を整備したと考えられる。
この庭園が育徳園であり、池を「心字池」といった。
夏目漱石の名作『三四郎』は、ここを舞台としたため、「三四郎池」と呼ばれるようになった。
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正門に戻る途中のショット。
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正門を出て、レンカの塀沿いの中山道を歩き、東大農学部のハチ公に会いに行きます。
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【ハチ公と上野英三郎博士像】
東大農学部にある像はハチ公没後80年にあたる2015年3月8日に建てられた。
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東大農学部正門の前で、道は分かれて真っ直ぐ行けば岩槻街道、通称「日光御成道」である。中山道は、ここで左折します。
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【本郷追分】
角に見える酒店の「高崎屋」(左)は宝暦元年(1751)創業。
ここは日本橋からちょうど一里。中山道最初の追分一里塚があった場所。
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中山道をしばらく行くと、大円寺があり。

【大円寺】
当寺は、3500人が亡くなったという天和の大火(1683年)の火元である。この時の八百屋お七についての有名な俗説は、「八百屋の娘のお七は天和の大火で家族と焼け出され、避難先の寺(近くの円乗院や吉祥寺などの説あり)で寺の小姓と恋仲となる。やがて再建された自宅に戻ったお七は、再び火事になれば想い人に会えるかもと自宅に放火し、火刑に処された」という筋立てのもので、歌舞伎や浄瑠璃や浮世絵などの題材となった。ただし、話の粗筋には結構バリエーションがあり、また実際にわかっているのは、お七という娘が放火の罪で処刑されたことだけである。
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境内には、八百屋お七を供養するため1719年に建てられたほうろく地蔵がある。この地蔵は、お七のために熱したホウロク(浅い素焼きの土鍋)をかぶって焦熱の苦しみを受けているとのことで、首から上の病気平癒に霊験ありといい、祠の前には願いを記したホウロクが多く納められている。
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地蔵堂の前に三体もの庚申塔があります。これは本郷追分一里塚にあったもの。
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この中の、天明4年(1784)造立の、剣人型青面金剛庚申塔の特にショケラが、腰巻一つなのがはっきりとわかり、「半裸の女人」としては今まで沢山の庚申塔データの中で最高だ。
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〇高島秋帆の墓
秋帆は長崎町年寄の家に生まれ、長崎会所調役頭取となった。出島のオランダ人らを通じてオランダ語や洋式砲術を学び、私費で銃器等を揃え天保5年(1834年)に高島流砲術を完成させた。その後、清がアヘン戦争でイギリスに敗れたことを知ると、秋帆は幕府に火砲の近代化を訴える『天保上書』という意見書を提出して天保12年5月9日(1841年6月27日)、武蔵国徳丸ヶ原(現在の東京都板橋区高島平)で日本初となる洋式砲術と洋式銃陣の公開演習を行なった。
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この墓地に来て感心するのは、いつも路地植えの草花が沢山咲いていること。
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高島秋帆の墓
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ここで、中山道の旅は終りとし、浄心寺坂の急な坂を下って、「円乗寺」に向かいます。
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【円乗寺】
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ここには「八百屋お七」の墓があります。
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これで、この日の予定は全て終えました。
天気も良くて、皆さん楽しそうに気持ち良く歩いていただいたので、案内役としてもとても嬉しかった。

白山駅から帰途につきました。

(了)


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中山道を日本橋からのんびりと(前半)

20171111

11月6日に、こういうタイトルで歴史クラブ行事として歩きました。

普通は、日本橋から板橋まで歩くのですが、目的は中山道沿いの旧跡をできるだけ見ようという事なので、白山駅あたりで切り上げることにして、のんびり歩きました。

コースは、①日本橋・道路元標⇒魚河岸碑⇒三浦按針邸碑⇒越後屋跡(三越)⇒長崎屋標識⇒今川橋碑⇒神田駅前⇒昼食(自由行動)⇒万世橋駅跡・筋違御門跡⇒昌平橋⇒伊勢丹発祥の地⇒神田明神・麹屋・天野屋⇒中山道原形⇒仙台堀⇒かねやす⇒本郷薬師・桜木神社⇒東大赤門⇒安田講堂前⇒三四郎池⇒東大農学部・帰って来たハチ公像⇒本郷追分・高崎屋⇒大円寺(ほうろく地蔵、一里塚の庚申塔、高島秋帆墓)⇒円乗寺・お七の墓⇒白山駅
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私は、この日は案内役だったのであまり写真が撮れず、10月3日に来た下見の写真と、2016年4月16日に一人で歩いたときの写真を使用して記事にしました。

【日本橋】
木曽街道「日本橋雪の曙」/渓斎英泉
浮世絵「木曽街道(中山道)六十九次」は渓斎英泉と歌川広重の合作。
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道路網の整備に取り掛かった徳川家康は慶長8年(1603)、元の神田川に橋を架けたのが日本橋のスタート。幾多の変遷を経て明治44年(1911)に石造りに架け替えたのが現在の「日本橋」。
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翼のある麒麟
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【道路元標】
1873年(明治6年)12月20日、政府は太政官達第413号により各府県ごと「里程元標(りていげんぴょう)」を設け陸地の道程(みちのり)の調査を命じている。これによると、東京の日本橋、京都の三条橋の中央を国内諸街道の起程とした。
1911年(明治44年)に現在の日本橋が架けられたとき「東京市道路元標」が設置された。
日本橋の中央にあった東京市道路元標は東京都電本通線の架線柱として使用されていたが、都電廃止後1972年(昭和47年)の道路改修に伴い日本橋の北西側袂に移設された。東京市道路元標があった場所には、50cm四方の日本国道路元標が埋め込まれた。文字は佐藤栄作によるものである。
道路中央の「道路元標」を確認。
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この辺から見た上野高速道路のカーブが絶妙だった。
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歩道に、「道路元標」の複製が置いてあります。
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私たちがちょうどここに来た時、酒場探訪番組で有名な吉田類氏がNHK番組のロケをしていた。
この後「日本橋魚市場発祥の地碑」に居たら、後ろを「はなわ」氏がカメラを引き連れて通って行き、さすが日本橋だと恐れ入りました(笑)

【日本橋魚市場発祥の地碑】
日本橋の北詰 東側に「日本橋魚市場発祥地碑」が建っている。
江戸~大正までの期間, このあたりから北 (三越の東側一帯) にかけて 大きな魚市場が 広がっていた。
この魚河岸は 明治・大正時代まで 300年余り続いたが, 関東大震災により 魚市場は 築地に移転を余儀なくされた。

残念ながら、この日は工事中で碑には近寄れなかった。
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中山道歩き出してすぐ、「八木長」の角を曲がって三浦按針邸跡碑に行くが、この「八木長」も元文2年(1737)創業の老舗である。
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【三浦按針邸跡碑】
三浦按針(ウイリアム・アダムス)が家康の外交顧問であった時代、ここに居を与えられ江戸城に出仕していた場所である。
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【越後屋跡(三越)】
三浦按針邸跡碑から中山道に戻るが、ここから三越の建物が始まっている。
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現金売りで成功した越後屋の話は有名だが、意外にも越後屋は新潟出身ではない。
伊勢出身の三井高利が始めたのだが、当時「伊勢屋」の屋号はそこらじゅうにあったので、「越後屋」にしたのだそうだ。
ちなみに、銀座に江戸時代創業の「越後屋」という呉服屋さんがあるが、ここは新潟出身である。

三越正面入り口のライオンの前を通過。
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日光街道(現在の国道4号線)が分かれるところに「長崎屋跡」がある。
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【長崎屋跡】
鎖国政策をとっていた江戸時代、オランダ商館長は年に一度、献上品を携えて将軍拝謁することを通例とした。その際に宿所に指定されたのが長崎屋。この一行には医師などが含まれていた為、最新の知識を学ぼうと幕府の医官などが連日訪問して交流を深めた。 訪問者の中には、杉田玄白や平賀源内など、日本の歴史上重要な役割を果たした人物が数多く含まれている。
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「本銀通り」を通過。
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【今川橋】
日本橋を出発して最初に渡つていた橋。今川焼発祥の地。今は川が埋め立てられて道路になっている。

ちょっと引っこんだところに説明と碑があり。
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中山道沿いにある説明。
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それからほんのちょっとで、中山道にかかっている陸橋が神田駅。
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ここで11時半となっていたので、神田駅周辺自由行動でランチタイムとしました。
集合は、神田駅入り口にある「健やかに/田中昭」という彫刻の前。
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集合して歩き出し、神田須田町交差点。
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ここで17号線は、右斜めにカーブして万世橋に向かいますが、旧中山道は直進して「万世橋駅跡」にぶつかりますが、ここには「筋違御門」があり、中山道は「筋違橋」を渡っていた。

神田須田町交差点の次の交差点から、正面に見える煉瓦造りは、万世橋駅のホーム跡。
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この地点の右手の広場に、この辺の歴史を説明するパネルを並べてあった。
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【筋違御門】
外堀に設けられた門の内側が「ご府内」(朱引き内) 
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筋違御門前の広場
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【筋違橋】 
ちょっと斜めにかかっているように見える手前の橋が「筋違橋」
右端に、ちょっと昌平橋が描かれている。
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筋違橋と筋違御門の写真
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【万世橋駅跡】
私鉄の甲武鉄道は1889年(明治22年)4月11日、立川 - 新宿間を開通させ、都心への延伸を進め、1912年(明治45年)4月1日、万世橋駅の営業を開始。甲武鉄道は1906年(明治39年)3月31日に国有化された。
東京駅が完成し、1919年(大正8年)3月1日、万世橋 - 東京が開通。中央本線の起終点としての役目は7年で終わった。
駅前には広場が設けられ、日露戦争の英雄である広瀬武夫と杉野孫七の銅像が建っていた。
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ここには「交通博物館」があった。
現在は大宮に移っている。
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ホームの一部に上がれるようになっている。
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筋違橋が現在は無いので、万世橋駅ホーム跡に沿って昌平橋に向かう。
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神田須田町交差点から中山道を真っ直ぐ来て、万世橋駅ホーム跡にぶつかった地点には「御成道」の説明があり。
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【昌平橋】
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昌平橋から「万世橋駅ホーム跡」を眺める。
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昌平橋を渡ったところに「神田旅籠町」の説明あり。
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昌平橋の聖橋側からは、総武線と中央線快速が立体交差が見え、その向こうには聖橋が見えて、その手前を丸ノ内線が横切っている。
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聖橋をズーム。ちょうど丸ノ内線電車が横切ったところ。
これは以前の写真。
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ここで皆さんに「運が良ければ、三つの電車が同時に見られます。せめて丸ノ内線が横切るまで待ちましょう」と云って、待っていたら、本当に総武線が来て、中央線快速が来て、しかも丸ノ内線が横切った。

私は、あまりの僥倖に度を失い、シャッターを切るのを忘れて見とれていました(笑)


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中山道・浦和宿(その二)

20170902

8月18日に歩いた、浦和宿の記事の続きです。調神社から廓信寺まで。

そのルートですが、下図のように中山道からちょっと外れてあちこち見て歩きました。
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➃:調神社
⑤の県庁は行きませんでした。
⑥:玉蔵院
⑦:うなぎ屋さん
⑧浦和宿本陣公園
⑨:浦和御殿跡
⑩:二七市場定杭
⑪:廓信寺

調神社を出発
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道筋は旧い家とビルが混在してます。
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うなぎ屋さんが目立ちます。
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浦和宿の標識があった。
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浦和宿(うらわ しゅく)は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場(武蔵国のうち、第3の宿)。

北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道(相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によって繋がっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。

浦和宿は上町(のちに常盤町)・中町・下町(のちに高砂町)からなり、現在は区画整理を経て常盤・仲町・高砂がそれぞれ対応している。 1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場は無く、北隣の宿場は上尾宿であった。

道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)。 

現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。


【行在所記念の碑】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区高砂3丁目1−22
玉蔵院のある通りにずれて行くと、「行在所記念の碑」があり。
明治天皇が浦和宿に行幸した記念碑。
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【浦和一女発祥の地碑】
「行在所記念の碑」の隣にあり。
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【玉蔵院】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目13−22
真言宗豊山派の寺院。山号は宝珠山。本尊は大日如来座像。北足立八十八箇所霊場55番、88番札所。本堂横には樹齢100年以上のしだれ桜があり、桜の名所として有名である。
伝承によれば平安時代初期に空海により創建されたという。戦国時代に醍醐寺三宝院の直末寺となった。また、学僧印融が来て中興した。1591年に徳川家康が10石の寺領を寄進。江戸時代に長谷寺の移転寺として出世。1699年12月伽藍を焼失。本堂は1701年に再建され、以後徐々に復興。1710年、本尊の大日如来坐像が完成。昭和20年代に墓地の区画整理が行われ、墓地は市内原山(緑区)に移転した。江戸時代に浦和宿が興る以前の浦和は玉蔵院や調神社の門前町として栄えていた。
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総けやき造りの立派な山門
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ちょっと変わった感じの鐘楼
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この門もいいですね。
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門の内側に百日紅が咲いていた。
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本堂には、大きな橋を渡ります。
右側が広い石庭、左側には樹齢100年以上の見事な枝垂れ桜がある。
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地蔵堂
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彫刻や天井画が見事です。
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堂の前に、江戸時代建立の石造地蔵像が二体ありました。
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中山道に戻りました。
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立派なうなぎ屋さん。
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この界隈を越えて上方(京側)へ向かうと、しばらくの間、鰻(うなぎ)を食せる店が無くなってしまう。 そのため、ここで食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともに鰻で有名な宿場町であった。また、江戸に向かう旅人は、戸田の渡しを越えればついに江戸という立地であるため、宿泊し、精をつけるため鰻を食することも多かった。仕入れていたのは別所沼(現・さいたま市内)で獲れた鰻である。現在でも浦和区を中心に鰻の老舗が軒を連ねており、浦和うなぎまつりや浦和うなこちゃんなど鰻に関する文化が残る。

看板建築があった。
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「うらわ美術館」の前を通過。
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【浦和本陣跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目6−3
星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。しかし、明治のうちに星野家が断絶し、建物は緑区大間木の大熊家に移築された表門以外ことごとく破却されてしまった。「明治天皇行在所阯」の碑が往時を偲ばせる。その後は公園化され、さいたま市の史跡となっている。
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「明治天皇行在所阯」碑
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横の桜も風格があり。
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【浦和御殿跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤1丁目8
浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。 徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。 施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。 当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。
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常盤公園の中に「童謡碑」があった。
童話作家長沼依山先生の顕彰のために造られたとあります。ブロンズの彫刻は、浦和在住の彫刻家、細野稔人(ほその・としひと)氏によるものです。浦和の街中で、最も多くの彫刻を手掛けている方ではないでしょうか。
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常盤公園入口のすぐ前の道に、野菜を売る農婦の銅像があった。
これは、これから行く「二七の市」の市場の様子を伝えているものだそうだ。
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【二七市場定杭】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤 1 丁目 5−19
宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。
浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。
市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かっての市場の様子を伝えている。
六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日は八斎戒に由来する仏教習俗で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。
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慈恵稲荷神社の鳥居の先に、定杭はあった。
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二七市場定杭
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慈恵稲荷神社にお参りした。
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また歩き出したが、お腹が空いたので、お蕎麦屋さんでもないかと歩いていたら、美味しそうなお蕎麦屋さんがあり、昼食、休憩。
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満ち足りた気持ちでお店を出たとたんに、パラパラ降り出した(泣)
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【浦和橋】
これで今日は打ち切りかなあ、と考えながら東北本線の陸橋「浦和橋」を越えます。
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京浜東北線かな。
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北浦和の駅前まで来ると、浦和レッズのマスコット像が幾つもあった。
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福田選手の足型
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北浦和駅東口交差点
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雨がパラパラ降って来たので、これで切り上げかなと思いながら傘をさしてここまで来ましたが、いつしか雨は止んでいました。
前進して廓信寺に向かいました。

【廓信寺】
所在地:さいたま市浦和区北浦和3丁目15
岩槻藩主・高力清長の追福のため、家来の中村吉照が慶長14年(1609年)に建立した寺。

仁王門
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山門
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本堂
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「堂宇改修記念碑」に、この寺開基の由来が書かれていた。
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秩父宮妃殿下お手植えの紅梅
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樹齢約300年のカヤ
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徳川家康に信頼された岩槻藩主・高力清長について、あまり良く知らなかったので、帰ってから調べてみた。
「仏の高力」と云われた人柄について知ることが出来、良かった。

高力 清長(こうりき きよなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。三河高力城主。のち武蔵岩槻藩主。

生涯:
・享禄3年(1530年)、松平氏の家臣・高力安長の長男として三河国にて誕生。
・天文21年(1552年)から徳川家康に仕え、駿河で人質時代を送る家康に従った。
・永禄3年(1560年)5月、家康に従って今川義元の尾張攻めに従い、尾張大高城の戦いで功を挙げた。
・永禄5年(1562年)の織田氏との清洲同盟締結の際に家康が尾張清洲城に赴いた際、これに同行。
・有名な一向一揆鎮圧においては、一揆鎮圧後に仏像や経典の保護に努めて散逸を防ぎ、寺社を元通りに戻したので、領民からは「仏高力」の異名をつけられた。
・天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が討たれると、家康の伊賀越えに随行し、小荷駄奉行として殿軍を務めたが、この時に追撃する賊に襲われて鉄砲疵を受けている。
・天正12年(1584年)の豊臣秀吉と対峙した小牧・長久手の戦いに参加する。戦後は秀吉への使者を務めたが、この際に秀吉に気に入られ、天正14年(1586年)に豊臣姓を下賜され[5]、従五位下河内守に叙任される。この年から着工された聚楽第造営の普請奉行を務め、新藤五国光の脇差を秀吉より賜る。
・天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉の旨を奉じた家康の使者として成瀬国次と共に小田原城に赴き、北条氏政・氏直父子と交渉している。
・慶長4年(1599年)に嫡子・正長が早世する。このため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は隠居し、嫡孫の高力忠房に家督を譲った。

人物・逸話:
三河三奉行の時、康景は温順にして慈愛深く、重次は思いのままに言いたいことを言う、清長は寛厚にして思慮深いと評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られている。
このように清長は正直者で知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石を与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長は預け地の年貢を1度も自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金20枚を家康に返上しようとした際も、その正直さに感激した家康はそのまま褒美として与えている。
豊臣秀吉も清長を陪臣ながら寵愛して重用した。秀吉が岩槻に立ち寄った際、その饗応に秀吉は感心し、庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えた。


この日の予定は廓信寺までだったので、これで終了し北浦和の駅に向かった。
この日は午後は天気が崩れるという天気予報だったので、朝7:50に蕨駅から歩きはじめた。
京浜東北線の駅で言えば、蕨駅から、南浦和、浦和、北浦和と歩いたことになる。
13:45に終了。

廓信寺を出たところで、庚申塔二体を発見。
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どうも主尊は馬頭観音のようである。
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どこかに「庚申供養」とか刻まれているかと探したがわからなかった。
だが、説明書きには「庚申尊像」とあるので、そのとおりに受け取らせてもらう。

壁にある蔦の模様が、山の頂に一本松のような模様になっていて面白かったのでパチリ。
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(中山道浦和宿了)


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中山道・浦和宿(その一)

20170821

前回、「蕨宿」として「蕨宿木戸」まで歩いたので、ここから浦和宿の廓信寺まで、8月18日に歩きました。

ずっと雨の日が続いていて、ようやく「曇り一時雨」という天気に回復してきたので、歩きを結構することにしました。午後には天気が崩れるという予報だったので、家を6:30に出て最寄りのJRの駅から向かい、蕨駅を降りたのが7:50。前回歩いた蕨宿木戸ふれあい広場に8:15に到着。
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ちょっと休んで、8:20に木戸を出ました。
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この図のとおり、国道17号線を斜めに横切って進みます。
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この記事は「調(つき)神社」までですが、そこまでのルート。
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歩き出してしばらくは、何と言うことない普通の道路。
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そのうちカーブが連続して、街道らしくなりました(笑)
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この辺は、まったく「旧中山道」などとかの表示が無く、この道でいいのかと不安になります。
そんな時に、このような説明があるとホッとする。

【一六橋】
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小さい橋です。
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少し行くと、また説明あり。

【境橋】
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今は整備されてこんな川に。
落ちたら上がれないね(汗)
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前方に「東京外環自動車道」の陸橋が見えてきた。
手前に「辻一里塚」があるはず。
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【辻一里塚碑】
日本橋から数えて5番目の一里塚。現在は碑が残るのみである。隣に、弁財天が祀られている。
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ちょうど9:00。木戸から40分歩いたので、辻一里塚公園で一休み。
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そこから少し歩くと、辻熊野神社の前に来たのでお参りした。

【辻熊野神社】
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昭和9年奉納の狛犬。顔が良かった。
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ご祭神は、紀州熊野三山のご祭神。
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六辻の近くまで来ると、またカーブが続いて「中山道の道筋をよく留める」と書かれているとおり。
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【六辻】
国道17号線を突っ切る交差点が「六辻」。
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その少し先に、道の目印にしている「五叉路」がある。
その手前に、中山道の案内があり。
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【五叉路】
道がズレていて、だが4本しかないぞ?
白い車が出てきた道が進行方向だろう。
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左斜めに折れて納得。これで5本だ(笑)
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「旧中山道」とかの案内が皆無なので、不安をかかえて進みます。
「焼米坂」に出れば正解といった感じで進む。
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「焼米坂」に到着(嬉)
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【焼米坂】
蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。 当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。
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『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』/天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。
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南浦和駅の辺まで来た。
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通りかかった交差点に古い商家がある。
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その家の角には井戸があり。
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重厚な建物です。お米屋さんでした。
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マンションが立ち並び、浦和の街に近くなったことがわかる。
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調神社の森だ(嬉)
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【駒繋ぎのケヤキ】
「日蓮上人駒つなぎのケヤキ」という安産の守護神と信仰されているケヤキ。
言い伝えでは、日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人に会いました。その婦人のために、このケヤキに馬を繋ぎ祈ったそうです。それにより男子を無事出産されたことから安産の守護神となったようです。

小道を挟んで離れていますが、調神社の境内だそうです。
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実は、そのケヤキは朽ちてしまったようで、現在のケヤキはそれを引き継いだもののようです。
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【調神社(つき じんじゃ)】
浦和宿の少し手前にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。
その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。

入り口には、狛犬でなく「狛兎」が迎えています。
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鳥居ではなく、「注連柱」をくぐります。
「注連柱」は奈良の大神神社とか古い神社に多く、この神社の歴史を感じさせます。
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社殿
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掲題のベンチに腰を下ろしたのが、ちょうど10:00。しばらく休憩しました。

調神社(つき じんじゃ)については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
詳細は、そちらで見てください。

その記事を見る


その記事を書いた2013年8月には、入り口の狛兎は江戸時代のものでしたが、さきほど写真を載せた、今回の狛兎は新しいものになっていました。

以前のものは、境内に保存されていました。
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調神社(つき じんじゃ)の境内には、ケヤキの巨木が方々にあります。
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ここから先は、次回記事とします。



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中山道・蕨宿(その二)

20170218

2月11日に「戸田の渡し」から蕨宿の出口まで歩きましたが、前回の記事で「戸田の渡し」から「蕨宿本陣跡」まで書いたので、その続きです。

まずは、中山道を木戸まで歩き、その後「三学院」、「はね橋」、「和楽備神社」、「蕨城址」、「長泉院(おしゃみの鐘)」、宝樹院(渋川公墓)」と、JR蕨駅に向かって、周辺の史跡を訪ねて歩きました。
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昔をしのばせる家を眺めながら歩きます。
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「板橋宿から二里十町」のところに、「蕨宿まちづくり憲章」が掲げてありました。
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新しい店舗でも、このようにしてあります。
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旧い家が多いので、その景観を楽しみながら歩きました。
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蕨宿の木戸まで来ちゃいましたね。ここで国道17号線と合流します。
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国道17号線側から眺める。
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【中山道ふれあい広場】
木戸の内側にあり、休憩するのにぴったしでした。
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中山道の説明
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広場の真ん中に大きいケヤキがあり、タイルの壁画がある。
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皇女和宮の行列
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大名行列
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中山道沿いに時計台が。
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ちょうど13時だったので、音楽が鳴っていた。
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下には人形と街並みの模型が。
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大きなケヤキがよかった。
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ここから中山道を少し戻って、「地蔵の小道」を三学院に向かいます。
中山道を離れて、周辺の史跡を楽しみます。
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【三学院】
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所在地:埼玉県蕨市北町3丁目2−4
金亀山(こんきさん)極楽寺三学院、京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺。
創立年代は不明だが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられる。
天正19年(1591)に、徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られている。

梵字馬頭観音塔
寺号碑の前にあり、馬頭観音文字塔はたくさんあるが、梵字で書かれているのは非常に珍しい。
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山門
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地蔵堂(地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵石仏、子育地蔵)
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この中で珍しいのが地蔵石仏(目疾地蔵)
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仁王門
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仁王門の塀に沿って、阿弥陀堂と不動堂の間に石仏群あり
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明和6年(1769)造立の青面金剛型庚申塔
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寛文2年(1662)建立の二菩薩碑
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貞享元年(1684)造立の三猿型庚申塔
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水舎
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圧倒的な迫力で聳える本堂
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鐘楼
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三重塔
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阿弥陀一尊図像板碑(文明13年 1481)が、目立たない所にあります。
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蕨宿関係墓石群
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左側が元和9年(1623)とかなり古い。右側のは明暦2年(1656)。
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木食観正塔
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住職墓域の、卒塔婆型墓石
こういう形式の墓石を初めて見ました。
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これで三学院見学を終り、近くのはね橋に寄りました。

【はね橋】
民家から用水を渡って道に出るため設けられていた。
復元されている。
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この家は、当時は織物工場をしていたので、女工の逃亡防止のため上げていたのだと言う人も居るようだが、このはね橋は内側から操作するようになっているので、そうではなく外部からの侵入防止だろう。

【和楽備神社】
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和楽備神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


和楽備神社の境内の池は、かっての蕨城の堀の跡です。

【蕨城址】
御殿堀
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御殿堀から続く石垣
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蕨城址碑
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「成年式発祥の地」碑がありました。
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今年の正月にテレビでやっていましたが、蕨市が成人式の発祥の地なんです。
終戦で若者が元気をなくしているのを見て、青年団が元気づけようと昭和21年に始めたそうです。
だから、今でも蕨市の成人式は青年団が運営している。

その近くに、ウルマンの青春の詩があります。
中年になった頃、会社の机に貼っていた思い出深い詩です。
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この石垣は、当時のものかどうかわからないが、これを眺めてから後にした。
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【長泉院(おしゃみの鐘)】
所在地:蕨市中央5-13-3
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真言宗霊雲寺派寺院の長泉院は、甘露山と号します。長泉院の創建年代は不詳ですが、横浜市六浦にあった名跡を移し、円実という沙弥が宝暦5年に当地に創建したといいます。
長泉院の鐘は宝暦八年(一七五八)に江戸神田鍛冶町の小幡内匠によって作られたもので、蕨宿では時の鐘として親しまれ、「おしゃみの鐘」とよばれていたといいます。

鐘楼は、なんと現代的なお寺の上にあり。
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裏のほうから望遠を効かして鐘を撮った。
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【宝樹院】
所在地:埼玉県蕨市中央2丁目10−14
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参道
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本堂
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渋川公墓(市指定文化財)
渋川公夫妻の250年忌にあたる文化13年(lB16)に渋川氏家臣の子孫たちにより造立された。永禄10年(1567)に上総国三舟山合戦で敗死した渋川公と、その死を悲しみ群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったもの。
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これで、蕨宿周辺の散策を切り上げ、JR蕨駅から帰途につきました。

(了)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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