中山道・蕨宿(その二)

20170218

2月11日に「戸田の渡し」から蕨宿の出口まで歩きましたが、前回の記事で「戸田の渡し」から「蕨宿本陣跡」まで書いたので、その続きです。

まずは、中山道を木戸まで歩き、その後「三学院」、「はね橋」、「和楽備神社」、「蕨城址」、「長泉院(おしゃみの鐘)」、宝樹院(渋川公墓)」と、JR蕨駅に向かって、周辺の史跡を訪ねて歩きました。
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昔をしのばせる家を眺めながら歩きます。
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「板橋宿から二里十町」のところに、「蕨宿まちづくり憲章」が掲げてありました。
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新しい店舗でも、このようにしてあります。
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旧い家が多いので、その景観を楽しみながら歩きました。
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蕨宿の木戸まで来ちゃいましたね。ここで国道17号線と合流します。
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国道17号線側から眺める。
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【中山道ふれあい広場】
木戸の内側にあり、休憩するのにぴったしでした。
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中山道の説明
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広場の真ん中に大きいケヤキがあり、タイルの壁画がある。
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皇女和宮の行列
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大名行列
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中山道沿いに時計台が。
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ちょうど13時だったので、音楽が鳴っていた。
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下には人形と街並みの模型が。
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大きなケヤキがよかった。
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ここから中山道を少し戻って、「地蔵の小道」を三学院に向かいます。
中山道を離れて、周辺の史跡を楽しみます。
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【三学院】
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所在地:埼玉県蕨市北町3丁目2−4
金亀山(こんきさん)極楽寺三学院、京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺。
創立年代は不明だが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられる。
天正19年(1591)に、徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られている。

梵字馬頭観音塔
寺号碑の前にあり、馬頭観音文字塔はたくさんあるが、梵字で書かれているのは非常に珍しい。
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山門
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地蔵堂(地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵石仏、子育地蔵)
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この中で珍しいのが地蔵石仏(目疾地蔵)
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仁王門
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仁王門の塀に沿って、阿弥陀堂と不動堂の間に石仏群あり
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明和6年(1769)造立の青面金剛型庚申塔
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寛文2年(1662)建立の二菩薩碑
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貞享元年(1684)造立の三猿型庚申塔
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水舎
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圧倒的な迫力で聳える本堂
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鐘楼
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三重塔
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阿弥陀一尊図像板碑(文明13年 1481)が、目立たない所にあります。
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蕨宿関係墓石群
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左側が元和9年(1623)とかなり古い。右側のは明暦2年(1656)。
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木食観正塔
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住職墓域の、卒塔婆型墓石
こういう形式の墓石を初めて見ました。
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これで三学院見学を終り、近くのはね橋に寄りました。

【はね橋】
民家から用水を渡って道に出るため設けられていた。
復元されている。
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この家は、当時は織物工場をしていたので、女工の逃亡防止のため上げていたのだと言う人も居るようだが、このはね橋は内側から操作するようになっているので、そうではなく外部からの侵入防止だろう。

【和楽備神社】
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和楽備神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


和楽備神社の境内の池は、かっての蕨城の堀の跡です。

【蕨城址】
御殿堀
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御殿堀から続く石垣
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蕨城址碑
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「成年式発祥の地」碑がありました。
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今年の正月にテレビでやっていましたが、蕨市が成人式の発祥の地なんです。
終戦で若者が元気をなくしているのを見て、青年団が元気づけようと昭和21年に始めたそうです。
だから、今でも蕨市の成人式は青年団が運営している。

その近くに、ウルマンの青春の詩があります。
中年になった頃、会社の机に貼っていた思い出深い詩です。
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この石垣は、当時のものかどうかわからないが、これを眺めてから後にした。
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【長泉院(おしゃみの鐘)】
所在地:蕨市中央5-13-3
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真言宗霊雲寺派寺院の長泉院は、甘露山と号します。長泉院の創建年代は不詳ですが、横浜市六浦にあった名跡を移し、円実という沙弥が宝暦5年に当地に創建したといいます。
長泉院の鐘は宝暦八年(一七五八)に江戸神田鍛冶町の小幡内匠によって作られたもので、蕨宿では時の鐘として親しまれ、「おしゃみの鐘」とよばれていたといいます。

鐘楼は、なんと現代的なお寺の上にあり。
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裏のほうから望遠を効かして鐘を撮った。
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【宝樹院】
所在地:埼玉県蕨市中央2丁目10−14
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参道
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本堂
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渋川公墓(市指定文化財)
渋川公夫妻の250年忌にあたる文化13年(lB16)に渋川氏家臣の子孫たちにより造立された。永禄10年(1567)に上総国三舟山合戦で敗死した渋川公と、その死を悲しみ群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったもの。
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これで、蕨宿周辺の散策を切り上げ、JR蕨駅から帰途につきました。

(了)


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中山道・蕨宿(その一)

20170213

前回、板橋宿として「戸田の渡し」まで歩いたので、ここから蕨宿の出口まで、2月11日に歩きました。

「戸田の渡し」から蕨宿出口までのマップ
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基本的には、国道17号線ですが、所々中山道旧道が残っているところがあります。

埼京線「戸田公園」を降りて、まずは参考にしているマップに載っている「戸田漕艇場」に向かいました。
これは、中山道・蕨宿を描いている渓斎英泉の画がこういう浮世絵だからだろう。
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【戸田漕艇場】
1937年(昭和12年)、東京オリンピック (1940) のボート競技会場、および、荒川の治水対策のために建設開始された。しかし、日中戦争(支那事変)の激化を理由に同オリンピックの開催権を日本が返上したため、同オリンピックでの使用はなくなった。ただし治水対策の面もあったため、建設工事は規模を縮小しながらも続けられ、1940年(昭和15年)に完成した。
1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック (1964) の会場となったため、拡幅工事や周辺整備をした。

埼京線「戸田公園」から歩いて6、7分で到着。
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学生がボートをかついで行く。
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ずいぶんボートが居る。
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中にちょっと入ってみました。
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ボートの手入れをしている。
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カヌーが出ていくところ。
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艇庫が並んでいるところから、荒川の堤防に上がることにした。
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堤防からボートをかついだ女性が降りて来た。
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堤防に上がって見ると、早朝から荒川でボートを漕いでいたのであろうグループが上がってきていた。
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堤防を国道17号線の戸田橋交差点まで行く。
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中山道を歩く旅は、ここからスタートです。
まずは、「歴史のみち」を歩く。水神社は前回立ち寄っているので、地蔵堂を目指します。
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【歴史のみち 中山道】
交差点から階段を降りる。
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地蔵堂
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入り口に、享保16年(1731)造立の、青面金剛庚申塔があり。
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「歴史のみち」に戻ってすぐのところに小公園あり、中山道のルートの説明があった。
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菖蒲川を渡った先は、稲荷社を目印にして一里塚があった場所を探すことにした。

「歴史のみち」を行くと、菖蒲川のところで途切れます。
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ここで「曲尺手橋(かねのてばし)」を探します。
国道17号線が菖蒲川を渡る橋だった。

【曲尺手橋(かねのてばし)】
街道が堤外で屈曲していたため、「曲尺手」の地名が誕生した。
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橋のプレートに橋名の表示あり。
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菖蒲川
向うの橋が川岸橋
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曲尺手橋全景
グリーンの歩道橋の向こうに国道17号の橋があり。
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続いて、「上戸田のエノキ」を探す。
資料では、「一里塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木がある」と書かれているので、幼稚園を探す。
先入観から、国道17号線より外れた細い道をウロウロ彷徨ったあげく、土地の人から国道17号沿いにあると教わったので助かった。

【上戸田のエノキ】
日本橋から4番目の一里塚。
現在は、塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木の古木がある。 幼稚園園庭には貞享5年(1688年)の銘の庚申塔が残っている。

幼稚園発見
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この木ではないだろうか?
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17号沿いにも、この木がある。どちらかだろう。
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ここから少し先に、旧道が残っているのでそちらを歩く。
現在は公団の前の通りになっていて、ケヤキの並木の綺麗な通りである。
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マップに記載された「ミニパーク」だと思いここで休憩したが、後で検討して見ると、どうも違っていたみたいだ。
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そこから少し進むと、五差路になっている。
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【戸田の街道】
自然堤防が2か所あり、街道が屈曲している。中山道の原形を80mほど留める。

赤いジャンパーの人が居る点の通りが、「戸田の街道」となる。
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ふたたび国道17号線を進む。
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蕨市に入る。
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蕨宿入り口に到着。
左側が国道17号線、右に分かれているのが中山道旧道。
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【蕨宿・板橋側木戸】
木戸が迎える。
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蕨宿周辺史跡マップ
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この日は、蕨宿出口まで歩き、その後「はね橋」、「三学院」、「和楽備神社」、「蕨城址」を尋ねたあと、JR蕨駅から帰途につくことにする。

少し歩くと、ポケットパークあり。
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ここで、中山道旧道から一本脇の道に入り、「玄蕃稲荷」と「観音堂」を訪ねる。
【玄蕃稲荷】
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扁額は狐の鏝絵だった。
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社前に、「従是堀迄玄蕃持地」の石標と、何か不明な石が置かれていた。
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【観音堂】
由緒不明。
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中に祀られていたのは、元禄6年(1693)建立の石仏だった。
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【歴史民俗資料館分館】
中山道旧道に戻ったところにあり、明治時代に織物の買継をしていた家を保存してある。
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閉まっていたので、あれれと思ったら、この日は祝日(建国記念の日)だった。
普通の土曜日だと思い、出かけて来たのだが(汗)
毎日が日曜日状態だと、祝日もどうでもよくなってしまう(苦笑)

仕方ないので、2015年12月25日に訪ねた際の写真を載せておきます。
館内案内図
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建物庭から見た建物
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庭のユーカリの樹がきれいだった。
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中山道に面した建物の部分
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ふたたび中山道旧道を歩きます。
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【蕨町道路元標】
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横に、方位盤がありました。
南から撮っています。
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ちなみに、昔は方位をこのように表していた。
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中山道老舗の漬物屋さん
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「中山道蕨宿」と入ったマンホールのフタがあった。
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【蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡地)】
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横に本陣入り口を再現
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残念ながら、この日は休館となっていたので、2015年12月25日に訪ねた際の写真を載せておきます。

中山道を利用した大名、姫君
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高札場と庚申塔のレプリカ
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蕨宿模型
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入り口に、「叶う道の碑」があった。
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中山道・板橋宿(その三)

20170110

歴史クラブの行事として、10月24日に「近藤勇墓所」から「縁切り榎」まで歩きました。
その後12月21日に個人で「縁切り榎」から「荒川・戸田の渡し」まで歩きました。前回の記事「その二」で南蔵院まで記事にしていますので、その続きです。

南蔵院から中山道を歩き出します。国道17号線の区間。
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日本橋から13Km地点を通過。
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志村一里塚に到着。
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【志村一里塚】
この区間には平尾(日本橋から2里目)と志村(同3里目)に一里塚が存在しましたが、志村のみが取り壊されずに残り、明治に改まり55年後の大正11年(1922)3月に国の史跡に指定されました。
現在全国では17か所の一里塚が国史跡に指定されているそうです。
もともと志村一里塚は中山道からやや離れた位置に築かれていたため、拡幅工事によって移動したり、削ったりはしていないそうです。
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東一里塚(江戸方面から見る)
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江戸に向かって見た一里塚
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銀杏の木も立派
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西一里塚(江戸からきて左側)
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立派な石標
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三代目だそうですが、立派な榎です。
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左右の一里塚が綺麗に残っている。
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板橋十景の一つです。
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志村一里塚から戸田の渡しまでのマップ
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志村坂上の交差点で、旧中山道は国道17号線と分かれ、左に入っていきます。
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少し行くと、「清水坂」の石標あり。
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【清水坂】
清水坂が大きく屈曲しているため、中山道で唯一右側に富士山が見える場所。

大きく左に坂がカーブしている。
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今日は晴天で、家を出るとき富士山が綺麗に見えていたので期待していましたが・・・・!?
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樹とか家が密集していて、今は富士山が見えなくなっている(泣)

道沿いの高いところに上がって見たが、駄目でした(泣)
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富士山が見える所がないか、ウロウロしていたが、下に降りてしまった。
清水坂を振り返る。
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清水坂の案内
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あの高いマンションなら、富士山の眺めは良いだろうな(羨)
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旧中山道は、清水坂を下りると大きくカーブして、国道17号線に戻る。

埼京線のガードをくぐると、前方に車が見えているのが国道17号線。
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旧道は国道17号線を突っ切ります。
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ここから国道17号線を100mほど戻って「薬師の泉」に寄ります。
歩道を渡った先の右手の森が薬師の泉。
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【薬師の泉】
薬師の泉庭園は、青雲大善庵主(俗名善左衛門、永正10年卒)が創建した大善寺のもと境内で、境内に湧き出す清水が良く、徳川吉宗が大善寺に立ち寄った際には、清水を誉めて、大善寺の本尊薬師如来を「清水薬師」と命名したといいます。大善寺は、昭和初期に総泉寺に併合、当地は総泉寺亀山荘庭園として築造されたものの戦中戦後にかけて荒廃、平成元年板橋区が整備、薬師の泉庭園として開園したといいます。

江戸名所図会「清水薬師 清水坂」
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入り口
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案内
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全景
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すごい木賊だった。
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泉は綺麗な水が湧いていた。
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旧中山道と国道17号線が交差しているのは、環八との交差点。
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環八との交差点で、国道17号線より一本脇の道が旧中山道。大きく弧を描いて、また国道17号線に戻る。
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国道17号線に戻ります。トラックが見えているのが国道17号線。
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また国道17号線を歩いていきます。
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日本橋から15Km
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新河岸川にかかる志村橋に到着
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ここまで下ってくると新河岸川も立派な川ですね。
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「舟渡」交差点に差しかかります。
もう目の前に荒川土手が見えていますが、ここを右折して、中山道と一時離れて「浮間ケ池」を見に行きます。
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浮間公園に到着
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【浮間公園】
自由蛇行していた荒川の一部が残る河跡湖を都立公園に整備した。
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浮間公園から真っ直ぐ、荒川の土手に向かいます。
土手を歩いて中山道に戻ろうというものです。
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土手を上がる。
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中山道のある川上方面
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川下方面
見えている建物は、川口市だと思う。
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東京都側の河原は広くて、ゴルフ場になっている。
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中山道に近づくと、並行している新幹線と埼京線の電車が頻繁に通る。
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【戸田橋】
中山道(国道17号線)に戻った。戸田橋である。
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戸田橋と並行して新幹線の橋が架かっている。
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下流側の歩道からは新幹線の橋が邪魔して見通しが悪い。
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新幹線が通過
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戸田橋は519mあり、長かった。
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上流側の歩道を少し戻り、荒川の上流を眺めた。
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戸田の渡船場跡を探す。
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渡船場跡の碑を川岸近くで探したが見つからず、往生(泣)
川岸で休んだ。下流を眺める。
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休んでいると、船が遡って来たが、何と水上スキーだ。
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探していた渡船場跡の碑は、土手より下の場所にあった。
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【戸田の渡し跡】
 この荒川には江戸防衛の意から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道 戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。
この渡しは、資料によると天正年中(1575~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。その中には、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8年、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったが100年後の天保13年には13艘に増えています。
明治8年(1875)5月には木橋の戸田橋がついに完成、「戸田の渡し」が廃止となりました。
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蕨宿の絵になるが、『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
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江戸名所図会「戸田川渡口 羽黒権現宮」
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渡船場跡の碑の下の道に水神社があったので、お参り。

【戸田の水神社】
創立など詳しいことはわからないが、正面の「水神宮」の碑には寛政八年(1769)の銘がある。
古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様になっているようだ。
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境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座している。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されている。
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今回の中山道歩きは、これで完了としました。
板橋宿として、「近藤勇墓所」から「戸田橋」まで歩きました。



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中山道・板橋宿(その二)

20170104

前回の記事で、「近藤勇墓所」から「遍照寺(馬繋ぎ場跡)」まで書きましたが、その続きです。

コース図(遍照寺(馬繋ぎ場跡)から縁切り榎までの分)
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【旧板橋町役場跡】
旧中山道を外れて、ガイドさんが案内してくれました。
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板橋の人にとっては、明治になってしばらく埼玉県に入っていたのがおかしいらしい(笑)
・慶応4年:明治新政府の定めた「武蔵県」に属す。
•明治2年:新設の「大宮県」に属す(のちに「浦和県」となる)。
・明治4年:「廃藩置県の令」により浦和県から東京府に移管。
※はじめて「東京の板橋」になる。

当時の役場の写真
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現在は、小公園になっているが、何もない。
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【板橋宿本陣】
代々、新左衛門を世襲した本陣飯田家の屋敷跡です。 参勤交代で通行した大名や幕府の公用の武士、僧や公家などが休憩しました。

大きなスーパーと民家の間に、ひっそりと立っているので、探すのに苦労した。
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ここで、板橋宿を描いた浮世絵を載せておく。
英泉と広重が交互に描いているが、板橋宿のは英泉が描いている。
中央は道標を兼ねた庚申塔で、右王子道と刻むことから、右端は巣鴨庚申塚の立場茶屋である。
左端の傍示杭は宿の入口を示し、板橋宿を接近させて描く。右が王子道で、正面は板橋宿に通じる。
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【文殊院】
真言宗豊山派、幡場山大聖寺と号す。本尊は文殊菩薩。 江戸初期、本陣飯田家の菩提寺として、古くから信仰を集めていた延命地蔵尊の境内をひろげて建立された。開山は寛永2年(1625)に入寂の権大僧都慶恵と伝える。天保6年に全焼し、安政以降正住職を置かず、赴任する仮住職も短期間で他の大寺へ転住し、出世寺とも呼ばれた。 山門脇に延命地蔵堂、境内に二大閻魔を祀る閻魔堂、足腰の守り神として知られる子の権現がある。閻魔堂内には、文化年間に番場原出土と伝えられる石棒が朝日観音として祀られている。墓地には史跡として有名な宿場時代の遊女の墓がある。本堂内には、板橋七福神の毘沙門天が奉安されている。 飯田家墓地の飯田静の墓碑は昭和63年度に、また本尊文殊菩薩は平成元年度に板橋区の有形文化財に登録された。(板橋区教育委員会掲示より)
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〇延命地蔵堂
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石仏が、ガードレールみたいになっていて驚いた。
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〇閻魔堂
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〇子の権現
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酢酸の木槌が奉納されていた。
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遊女の墓のある墓地には、四国八十八ケ所のお砂踏みが設けられていた。
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〇遊女の墓
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【脇本陣跡碑】
路地を左に入った奥の石碑は名主・飯田宇兵衛家の「脇本陣跡碑」。京都を出発した皇女和の宮の最後の宿泊地が飯田宇兵衛家であった。
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「板橋」の手前、この辺に高札場があった。
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【板橋】
旧中山道が石神井川を渡る地点にかけられた橋で、板橋の地名の由来となったともいわれている橋。

江戸名所図会
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昔の写真
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やってきました「板橋」に。
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日本橋から10KM642m
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説明
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実は、現在橋が二つかかっているんですね。
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手前(江戸より)が、昔江戸時代の位置。
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昔の石神井川が流れていたところは遊歩道になっている。
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これが現在の石神井川と橋
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橋のたもとに、カタツムリのシンボルマークがあった。
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調べてみたら、どうも「板橋かたつむり運動」のマークらしい。
「かたつむりのおやくそく」はごみを減らすための合言葉です。
・ごみになるものは買わない・もらわない
・同じものをくりかえし何度も使う
だそうです。

ちゃんこ料理屋さん
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【板橋宿上宿碑】
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【縁切り榎】
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江戸時代には、この場所の道を挟んだ向かい側に旗本近藤登之助の抱え屋敷がありました。その垣根の際には榎(えのき)と槻(つき)の古木があり、そのうちの榎がいつの頃から縁切り榎木と呼ばれるようになりました。そして、嫁入りの際には、縁が短くなる事を恐れ、その下を通らなかったと言います。板橋宿中宿の名主であった飯田侃(かん)家の古文書によると、文久元年(1861)の和宮(かずのみや)下向の際には五十宮(いそのみや)などの姫君下向の例にならい、榎を避ける為の迂回路が作られました。そのルートは、中仙道が現在の環状7号線と交差する辺りから練馬道(富士見街道)、日曜寺門前、愛染通りを経て、板橋宿上宿へ至る1kmの道のりです。なお、この時に榎を菰(こも)で覆ったとする伝承は、その際に出された、不浄なものを筵(むしろ)で覆う事と命じた触書の内容が伝わったものと考えられ、実際は筵で覆った下を通った事はなかった。男女の悪縁を切りたい時や断酒を願う時に、この榎の樹皮をそぎ取り煎じ、密かに飲ませるとその願いが成就されるとされ、霊験あらたかな神木として庶民の信仰を集めた。また、近代以降は難病との縁切りや良縁を結ぶという信仰も広がり、現在も板橋宿の名所として親しまれている。 (板橋区教育委員会掲示より)

初代榎の図
現在の榎は三代目です。
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「諸国道中承認鑑」に描かれている縁切り榎
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大六天の社殿
もともと、縁切り榎は大六天のご神木であった。
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二代目縁切り榎の一部
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絵馬には、生々しい願いが色々と書かれている。
いろいろな人の人生模様が伺われる。
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ここまでが、歴史クラブの行事で歩いた分でした。
ここから先は、2016年12月21日に一人で歩いた分です。

縁切り榎から志村一里塚までのコース図
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縁切り榎前から歩き出します。
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環七通りの下を通過。
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この辺から左にカーブしている。少し行けば国道17号線と合流だ。
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【種もの屋】
江戸時代、「清水夏大根のたね名物なり」と云われた。
今も一軒だけ種苗店が残る。
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国道17号線(現中山道)との合流点に来た。
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いま来た方向に、「ここから旧中山道」との標識があり。
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国道17号線の上を走っていた首都高5号池袋線は左にカーブして離れていく。
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南蔵院のすぐ手前に、17号線を行きかう人を見つめている布袋さんの石像。
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【志村不動尊・南蔵院】
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笠つきの、青面金剛庚申塔が素晴らしい。
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境内のお地蔵さんに、無事を祈ってお参り。
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不動堂もあります。
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志村不動尊・南蔵院は、「関東36不動めぐり」で以前参拝しています。

その記事を見る



ここから先は、次回記事にします。

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中山道・板橋宿(その一)

20161229

中山道の「板橋宿」として、近藤勇の墓所から荒川戸田の渡しまでです。
歴史クラブの行事として、10月24日に近藤勇の墓所から縁切り榎まで歩きましたが、個人的に中山道を歩いているので、下見(9月1日)の際に確認したところ、及び12月21日に個人で縁切り榎から荒川戸田の渡しまで歩いたのを追加してあります。

コース(近藤勇の墓所から縁切り榎まで)
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【近藤勇墓所】
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 慶応4年(1868年)3月、甲斐国(山梨県)柏尾の戦いに敗れて江戸に戻った新選組は、江戸城無血開城を受けて綾瀬から下総国(千葉県)流山へと逃れ、再起を図ろうとしたが、間もなくそこで包囲され、4月3日、ついに近藤は新政府軍に投降した。先行きに絶望したためとも、自分がオトリになることで新選組本隊を逃がそうとしたためとも言われるが、その意図は定かではない。だが、いずれにしても近藤の投降によって新選組本隊は追捕を免れ、北開束から東北へと転戦を続けていくのである。
 一方、中山道を経由して江戸に向かっていた新政府の東山道総督府軍は、当時江戸を目前に控えた板橋宿に本陣を構えていた。捕縛された近藤は、取調べのため4月5日に板橋宿に移された。
 そこで近藤は平尾宿脇本陣の豊田家に幽閉され、最期の20日間ほどを過ごした。付き添っていた新選組隊士の相馬主計(後の主殿)と野村利三郎も共に捕らえられた。近藤の処遇を巡っては、薩摩藩と土佐藩の間で意見の相違があったが、結局斬首されることと決まった。
 相馬らも近藤と共に幽閉され、一緒に処刑されるはずであったが、近藤の嘆願により許されて所属藩へと戻された(途中で脱走し、新選組に合流)。相馬らが幽閉されていた場所は相馬の手記「贈友談話」などにも書かれておらず定かではないが、おそらくは板橋宿の中であったと考えられる。
 4月25日、近藤は板橋宿の近く(正確な場所は不明)にて斬首された。
 その後、明治9年(1876年)に、元新選組の永倉新八(杉村義衛と改名)や幕府奥医師であった松本良順(松本順と改名)らによって、当時の板橋宿の南東のはずれ(現在のJR板橋駅前)に新選組隊士の慰霊碑が建てられており、その脇には近藤の墓や永倉の墓(小樽にある杉村家の墓から分骨されたもの)も建てられている。
(板橋区立郷土資料館資料より)

近藤勇と新選組隊士供養碑
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近藤勇埋葬当時の墓
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近藤勇の銅像
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長倉新八の供養碑
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【むすびのけやき】
観光センターでもらったマップにあり、気になったので寄った。
近藤勇墓所と反対側のJR板橋駅前にあり。
縁切り榎があるので、それに対してか?
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傍らに「板橋驛の碑」もあり。
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【加賀公園】
この付近は、加賀藩下屋敷跡にあたる。先のルート図でオレンジの太線で囲った部分が加賀藩下屋敷だった。
加賀藩の上屋敷、中屋敷、下屋敷ともに中山道に面している。上屋敷は東大の敷地内に赤門が残る本郷、中屋敷は巣鴨御籠町(現 文京区本駒込6丁目辺り)、下屋敷が板橋(現 板橋区加賀周辺一帯)にあった。
加賀藩下屋敷は、延宝7年(1679)五代目の前田綱紀が、四代将軍家綱から6万坪を拝領したのが始まり。
最終的に総面積は21万7千坪余りとなった。下屋敷は、前田家の参勤交代途中の休息、狩猟、散策などに利用された。

横の石神井川にかかる橋が「金沢橋」
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公園はまずまずの広さ
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この公園は、下屋敷全体の中で、わずかに築山の部分のみ。
丸印をつけたところ。
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築山は、あまりきれいではなかった。残念。
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横の石神井川が、桜並木で花が咲いたら見事なことが容易に想像できる。
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中山道に戻り、まず平尾宿。
板橋宿は、平尾宿、仲宿、上宿で構成されている。
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【東光寺】
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創建年次は不明ですが、寺伝によると延徳3年(1491)に入寂した天誉和尚が開山したといわれています。当初は、船山(現板橋3-42)あたりにありましたが、延宝7年(1679)、加賀前田家下屋敷の板橋移転に伴って現在の場所に移りました。移転当時は、旧中山道に面した参道に沿って町屋が並び賑やかであったようです。しかし明治初期の大火や関東大震災による火災、そして第二次世界大戦による火災と、度重なる火災や区画整理のため現在では往時の姿をうかがうことはできません。なお山号の丹船山は、地名船山に由来しています。

境内の石仏
昭和58年度、板橋区の有形文化財に指定された寛文2年(1662)の庚申塔
「庚申曼荼羅」と呼ばれる優れたもの。
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明治になって子孫が供養のために建立した宇喜多秀家の供養塔
宇喜多秀家は秀吉の寵愛を受けてその猶子となり、豊臣家を支えた。関ヶ原では西軍の副大将として奮戦するが敗れ、薩摩藩に匿われるが、自首して八丈島にながされてその地で没する。
妻が前田利家の娘・豪姫だったので、宇喜多秀家の八丈島での生活は加賀藩が支えた。
明治になり、加賀藩下屋敷跡にこの供養塔が建てられたのは、その縁からである。
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平成7年度板橋区の有形文化財に登録された、江戸時代には平尾一里塚上にあったと伝わる石地蔵菩薩坐像
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【平尾追分】
ここは、自分たちでは場所が特定できず、午後観光センターのボランティアガイドさんに教わった。
川越街道は日本橋から川越までであり、ここ板橋宿までは中山道と同じで、この平尾追分で中山道と離れる。
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川越街道について
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以前の追分の様子。
追分のところに警察があった。
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いまは、こんな感じになっていた。
交番は移っているので、以前来た時に交番を探したのだが、ピンと来なかったのだ。
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30mくらい先で、現在の17号線から左に入っていく道が、旧川越街道。
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ところどころ、こういうアーチがあり。
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この辺の旧中山道は「不動通り」と呼ばれる。その訳は「観明寺」の説明にあり。
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【観明寺】
当寺は、真言宗豊山派の寺で、如意山観明寺と称します。御本尊は正観世音菩薩です。創建年代は暦応元年(1338)と伝えられていますが、不明です。「新編武蔵風土記稿」には、延宝5年(1677)10月に入寂した慶浄が中興開山とあります。江戸時代、板橋宿の寺として、多くの人々の信仰を集めました。
明治6年、当時の住職照秀和尚は、町の繁栄祈願のために、千葉の成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請しました。現在も出世不動と呼ばれて親しまれています。なお不動通りの名称は、このお不動様に由来します。

門前にある庚申塔は、貫文元年(1661)8月に造立されたもので、青面金剛像が彫られたものとしては、都内最古です。昭和58年度に板橋区の指定有形文化財になりました。
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門は、もと加賀藩下屋敷にあった赤門です。
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境内に鎮座する稲荷神社は、もと加賀藩下屋敷内に祀られていた三稲荷の内の一社で、明治になって陸軍造兵廠が建設された際、当寺へ遷座されました。
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その正面欄干は、名人左甚五郎作と伝わる作品。
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出世不動
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柊が花をつけていた。
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ちょっと行くと、旧安田貯蓄銀行の建物あり。
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【平尾脇本陣跡碑】
板橋平尾宿の脇本陣豊田家の屋敷跡、豊田家は代々市右衛門を世襲し、名主も兼ねました。近藤勇が処刑までの間監禁され、また、江戸時代に見世物となったペルシャ産のラクダが逗留したこともあります。
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【板橋三丁目縁宿広場】
中山道の説明
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向かいには、立派な銭湯があり。
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いたばし観光センターに到着。
ここで自由行動で昼食・休憩。それから観光センターに集まり、午後は縁切り榎までボランティアガイドさんに案内してもらいました。

【いたばし観光センター】
集合して、観光センター内の説明を受ける。
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皇女和宮についての説明あり。
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板橋宿についての説明あり。
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初代縁切り榎が保存されていた。
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観光センターからスタートして、最初に先述の平尾追分の場所を教えてもらい、それから再スタート。

板橋宿のアーチには、浅間山と月とウサギが。
ウサギのマスコットは「ラッピー」と言い、ハッピーとラビットを掛け合わせた、この商店街のシンボルらしい。
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仲宿に入ります。
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大正15年建築の坂五商店
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【遍照寺(馬繋ぎ場跡)】
江戸時代は大日山と号し、区内内唯一の天台宗寺院であったが明治4年廃寺となった。その後明治14年旭不動尊と称して成田山新栄講の道場となり、昭和22年真言宗寺院として復活、現在は成田山新勝寺末寺となっています。
境内は宿場時代の馬つなぎ場で、幕府公用の伝馬に使う囲馬、公文書伝達用の立馬、普通継立などがつながれていた。明治40年(1907)頃まで、馬市も開かれていた。
境内にまつられる寛政10年〈1798〉建立の馬頭観音と宿場馬を精巧に模倣した駅馬模型にそのなごりをとどめる。
また、堂内には上宿の居住した町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額が納められている。

下見のときには見逃してしまった入り口
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ただ空き地が広がっていた。
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町絵師柴左一の画いた明治期の板橋遊郭千代本楼遊女道中の扁額と駅馬模型は、写真を見せてもらった。
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広場の手前に石仏群があり。
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三猿の庚申塔
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ユニークな顔の馬頭観音
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一番奥にも石仏群あり。
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ここから先は、次回記事とします。


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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