中山道・浦和宿(その二)

20170902

8月18日に歩いた、浦和宿の記事の続きです。調神社から廓信寺まで。

そのルートですが、下図のように中山道からちょっと外れてあちこち見て歩きました。
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➃:調神社
⑤の県庁は行きませんでした。
⑥:玉蔵院
⑦:うなぎ屋さん
⑧浦和宿本陣公園
⑨:浦和御殿跡
⑩:二七市場定杭
⑪:廓信寺

調神社を出発
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道筋は旧い家とビルが混在してます。
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うなぎ屋さんが目立ちます。
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浦和宿の標識があった。
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浦和宿(うらわ しゅく)は、中山道六十九次(木曽街道六十九次)のうち江戸・日本橋から数えて3番目の宿場(武蔵国のうち、第3の宿)。

北は日光街道と連絡し、南の府中通り大山道(相模大山および大山石尊〈現:大山阿夫利神社〉詣での道の一つ)とは荒川の渡し場2箇所、羽根倉の渡し(現・埼玉県志木市内)と秋ヶ瀬の渡し(現・埼玉県さいたま市内)によって繋がっていた。現在の埼玉県さいたま市浦和区(旧・浦和市)にあたる。

浦和宿は上町(のちに常盤町)・中町・下町(のちに高砂町)からなり、現在は区画整理を経て常盤・仲町・高砂がそれぞれ対応している。 1591年(天正19年)までは大宮宿は馬継ぎ場で、宿場は無く、北隣の宿場は上尾宿であった。

道中奉行による天保14年(1843年)の調べで、町並み10町42間(約1.2km)。宿内人口1,230人(うち、男609人、女616人)。宿内家数273軒(うち、本陣1軒、脇本陣3軒、旅籠15軒、問屋場1軒、高札場1軒、自身番所1軒)。 

現在は埼玉県の県都として大都市に発展している浦和であるが、江戸から近すぎたことから通行者は休憩が主で旅館が少なく、江戸期の浦和宿の人口は武蔵国に属する板橋宿から本庄宿までの宿場町10箇所のうち、8番目と少なかった。


【行在所記念の碑】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区高砂3丁目1−22
玉蔵院のある通りにずれて行くと、「行在所記念の碑」があり。
明治天皇が浦和宿に行幸した記念碑。
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【浦和一女発祥の地碑】
「行在所記念の碑」の隣にあり。
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【玉蔵院】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目13−22
真言宗豊山派の寺院。山号は宝珠山。本尊は大日如来座像。北足立八十八箇所霊場55番、88番札所。本堂横には樹齢100年以上のしだれ桜があり、桜の名所として有名である。
伝承によれば平安時代初期に空海により創建されたという。戦国時代に醍醐寺三宝院の直末寺となった。また、学僧印融が来て中興した。1591年に徳川家康が10石の寺領を寄進。江戸時代に長谷寺の移転寺として出世。1699年12月伽藍を焼失。本堂は1701年に再建され、以後徐々に復興。1710年、本尊の大日如来坐像が完成。昭和20年代に墓地の区画整理が行われ、墓地は市内原山(緑区)に移転した。江戸時代に浦和宿が興る以前の浦和は玉蔵院や調神社の門前町として栄えていた。
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総けやき造りの立派な山門
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ちょっと変わった感じの鐘楼
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この門もいいですね。
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門の内側に百日紅が咲いていた。
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本堂には、大きな橋を渡ります。
右側が広い石庭、左側には樹齢100年以上の見事な枝垂れ桜がある。
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地蔵堂
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彫刻や天井画が見事です。
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堂の前に、江戸時代建立の石造地蔵像が二体ありました。
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中山道に戻りました。
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立派なうなぎ屋さん。
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この界隈を越えて上方(京側)へ向かうと、しばらくの間、鰻(うなぎ)を食せる店が無くなってしまう。 そのため、ここで食べていく客が多く、蕨宿と浦和宿はともに鰻で有名な宿場町であった。また、江戸に向かう旅人は、戸田の渡しを越えればついに江戸という立地であるため、宿泊し、精をつけるため鰻を食することも多かった。仕入れていたのは別所沼(現・さいたま市内)で獲れた鰻である。現在でも浦和区を中心に鰻の老舗が軒を連ねており、浦和うなぎまつりや浦和うなこちゃんなど鰻に関する文化が残る。

看板建築があった。
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「うらわ美術館」の前を通過。
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【浦和本陣跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区仲町2丁目6−3
星野権兵衛家が代々務めた本陣は、敷地約1,200坪(約3,966.9平方メートル)、222坪(約733.9平方メートル)の母屋を始め、表門、土蔵などがあり、問屋場や高札場、自身番所が設けられていた。明治元年(1868年)および3年(1871年)の明治天皇の氷川神社行幸の際には、ここが行在所となった。しかし、明治のうちに星野家が断絶し、建物は緑区大間木の大熊家に移築された表門以外ことごとく破却されてしまった。「明治天皇行在所阯」の碑が往時を偲ばせる。その後は公園化され、さいたま市の史跡となっている。
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「明治天皇行在所阯」碑
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横の桜も風格があり。
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【浦和御殿跡】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤1丁目8
浦和宿は幕府直轄領(通称:天領)であった。 徳川将軍家の鷹狩りの休泊所は雅名で「御殿」と呼ばれたものであるが、当時の浦和宿の中心地であった常盤町(旧・浦和宿上町、現・浦和区常盤1丁目)には早期の御殿である浦和御殿が設けられていた。このことが、浦和宿の興りとされている。それ以前は調神社や玉蔵院の門前町として栄えていた。 施設はしかし、近隣の鴻巣宿で文禄2年(1593年)に鴻巣御殿が建設されたのちの慶長16年(1611年)頃には廃止され、以後は幕府直営の御林として管理されるようになった。 当時を伝えるものは明治26年(1893年)の浦和地方裁判所(現・さいたま地方裁判所の前身)建設にともなって姿を消し、現在は裁判所跡の赤レンガ堀を残す公園(常盤公園)となっている。
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常盤公園の中に「童謡碑」があった。
童話作家長沼依山先生の顕彰のために造られたとあります。ブロンズの彫刻は、浦和在住の彫刻家、細野稔人(ほその・としひと)氏によるものです。浦和の街中で、最も多くの彫刻を手掛けている方ではないでしょうか。
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常盤公園入口のすぐ前の道に、野菜を売る農婦の銅像があった。
これは、これから行く「二七の市」の市場の様子を伝えているものだそうだ。
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【二七市場定杭】
所在地:埼玉県さいたま市浦和区常盤 1 丁目 5−19
宿場町としては規模の小さい浦和宿であったが、市場としては戦国時代からの歴史があり、毎月の2と7の日には「六斎市(ろくさい-いち)」が立って賑わいを見せていた(二七の市)。
浦和宿上町の人々が祀った慈恵稲荷神社(じけい-いなり-じんじゃ)の鳥居を中心として南北2町(約0.2km)の範囲が市場であったといわれており、当該地はさいたま市の史跡として登録されている。市神や定杭を残す市場跡は全国的に珍しく、近世商業史を知る貴重な史跡となっている。
市は昭和初期までは続いていた。常盤公園へ向かう道の入り口にあって野菜を売る姿の農婦の銅像も、かっての市場の様子を伝えている。
六斎市とは、中世において、一定の地域にて月のうち6回開かれた定期市であり、日は1と6、2と7などといった組み合わせで開かれるものである。六斎市が語源とする六斎日は八斎戒に由来する仏教習俗で、特に身を慎み、清浄であるべき日とされた6日を言う。毎月の8日・14 日・15日・23日・29日・30日がそれであった。
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慈恵稲荷神社の鳥居の先に、定杭はあった。
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二七市場定杭
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慈恵稲荷神社にお参りした。
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また歩き出したが、お腹が空いたので、お蕎麦屋さんでもないかと歩いていたら、美味しそうなお蕎麦屋さんがあり、昼食、休憩。
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満ち足りた気持ちでお店を出たとたんに、パラパラ降り出した(泣)
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【浦和橋】
これで今日は打ち切りかなあ、と考えながら東北本線の陸橋「浦和橋」を越えます。
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京浜東北線かな。
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北浦和の駅前まで来ると、浦和レッズのマスコット像が幾つもあった。
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福田選手の足型
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北浦和駅東口交差点
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雨がパラパラ降って来たので、これで切り上げかなと思いながら傘をさしてここまで来ましたが、いつしか雨は止んでいました。
前進して廓信寺に向かいました。

【廓信寺】
所在地:さいたま市浦和区北浦和3丁目15
岩槻藩主・高力清長の追福のため、家来の中村吉照が慶長14年(1609年)に建立した寺。

仁王門
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山門
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本堂
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「堂宇改修記念碑」に、この寺開基の由来が書かれていた。
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秩父宮妃殿下お手植えの紅梅
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樹齢約300年のカヤ
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徳川家康に信頼された岩槻藩主・高力清長について、あまり良く知らなかったので、帰ってから調べてみた。
「仏の高力」と云われた人柄について知ることが出来、良かった。

高力 清長(こうりき きよなが)は、戦国時代から江戸時代前期にかけての武将、大名。徳川氏の家臣。三河高力城主。のち武蔵岩槻藩主。

生涯:
・享禄3年(1530年)、松平氏の家臣・高力安長の長男として三河国にて誕生。
・天文21年(1552年)から徳川家康に仕え、駿河で人質時代を送る家康に従った。
・永禄3年(1560年)5月、家康に従って今川義元の尾張攻めに従い、尾張大高城の戦いで功を挙げた。
・永禄5年(1562年)の織田氏との清洲同盟締結の際に家康が尾張清洲城に赴いた際、これに同行。
・有名な一向一揆鎮圧においては、一揆鎮圧後に仏像や経典の保護に努めて散逸を防ぎ、寺社を元通りに戻したので、領民からは「仏高力」の異名をつけられた。
・天正10年(1582年)6月、本能寺の変で織田信長が討たれると、家康の伊賀越えに随行し、小荷駄奉行として殿軍を務めたが、この時に追撃する賊に襲われて鉄砲疵を受けている。
・天正12年(1584年)の豊臣秀吉と対峙した小牧・長久手の戦いに参加する。戦後は秀吉への使者を務めたが、この際に秀吉に気に入られ、天正14年(1586年)に豊臣姓を下賜され[5]、従五位下河内守に叙任される。この年から着工された聚楽第造営の普請奉行を務め、新藤五国光の脇差を秀吉より賜る。
・天正18年(1590年)の小田原征伐では、秀吉の旨を奉じた家康の使者として成瀬国次と共に小田原城に赴き、北条氏政・氏直父子と交渉している。
・慶長4年(1599年)に嫡子・正長が早世する。このため慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後は隠居し、嫡孫の高力忠房に家督を譲った。

人物・逸話:
三河三奉行の時、康景は温順にして慈愛深く、重次は思いのままに言いたいことを言う、清長は寛厚にして思慮深いと評され、「仏高力、鬼作左、どちへんなしの天野三兵」という様に、「仏高力」として名が知られている。
このように清長は正直者で知られていたが、それを示す逸話も多い。家康から岩槻2万石を与えられた際、預け地1万石も与えられた。預け地とは事実上はその責任を伴う者の領地同然で、当然収入として上がる年貢は役得として自分の物としてもさして問題ないのだが、清長は預け地の年貢を1度も自分の手にすることなく直接江戸へ運ばせた。文禄の役で軍船建造を担当し、余った建造費である金20枚を家康に返上しようとした際も、その正直さに感激した家康はそのまま褒美として与えている。
豊臣秀吉も清長を陪臣ながら寵愛して重用した。秀吉が岩槻に立ち寄った際、その饗応に秀吉は感心し、庭前の萩の花を詠んだ和歌を清長に与えた。


この日の予定は廓信寺までだったので、これで終了し北浦和の駅に向かった。
この日は午後は天気が崩れるという天気予報だったので、朝7:50に蕨駅から歩きはじめた。
京浜東北線の駅で言えば、蕨駅から、南浦和、浦和、北浦和と歩いたことになる。
13:45に終了。

廓信寺を出たところで、庚申塔二体を発見。
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どうも主尊は馬頭観音のようである。
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どこかに「庚申供養」とか刻まれているかと探したがわからなかった。
だが、説明書きには「庚申尊像」とあるので、そのとおりに受け取らせてもらう。

壁にある蔦の模様が、山の頂に一本松のような模様になっていて面白かったのでパチリ。
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(中山道浦和宿了)


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中山道・浦和宿(その一)

20170821

前回、「蕨宿」として「蕨宿木戸」まで歩いたので、ここから浦和宿の廓信寺まで、8月18日に歩きました。

ずっと雨の日が続いていて、ようやく「曇り一時雨」という天気に回復してきたので、歩きを結構することにしました。午後には天気が崩れるという予報だったので、家を6:30に出て最寄りのJRの駅から向かい、蕨駅を降りたのが7:50。前回歩いた蕨宿木戸ふれあい広場に8:15に到着。
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ちょっと休んで、8:20に木戸を出ました。
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この図のとおり、国道17号線を斜めに横切って進みます。
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この記事は「調(つき)神社」までですが、そこまでのルート。
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歩き出してしばらくは、何と言うことない普通の道路。
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そのうちカーブが連続して、街道らしくなりました(笑)
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この辺は、まったく「旧中山道」などとかの表示が無く、この道でいいのかと不安になります。
そんな時に、このような説明があるとホッとする。

【一六橋】
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小さい橋です。
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少し行くと、また説明あり。

【境橋】
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今は整備されてこんな川に。
落ちたら上がれないね(汗)
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前方に「東京外環自動車道」の陸橋が見えてきた。
手前に「辻一里塚」があるはず。
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【辻一里塚碑】
日本橋から数えて5番目の一里塚。現在は碑が残るのみである。隣に、弁財天が祀られている。
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ちょうど9:00。木戸から40分歩いたので、辻一里塚公園で一休み。
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そこから少し歩くと、辻熊野神社の前に来たのでお参りした。

【辻熊野神社】
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昭和9年奉納の狛犬。顔が良かった。
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ご祭神は、紀州熊野三山のご祭神。
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六辻の近くまで来ると、またカーブが続いて「中山道の道筋をよく留める」と書かれているとおり。
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【六辻】
国道17号線を突っ切る交差点が「六辻」。
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その少し先に、道の目印にしている「五叉路」がある。
その手前に、中山道の案内があり。
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【五叉路】
道がズレていて、だが4本しかないぞ?
白い車が出てきた道が進行方向だろう。
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左斜めに折れて納得。これで5本だ(笑)
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「旧中山道」とかの案内が皆無なので、不安をかかえて進みます。
「焼米坂」に出れば正解といった感じで進む。
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「焼米坂」に到着(嬉)
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【焼米坂】
蕨宿から浦和宿へ向かうちょうど道なかば辺りに「焼米坂(やきごめ-ざか)」と呼ばれる場所がある。
江戸の昔にはここに「新名物やき米」との看板を掲げて焼き米を食べさせる立場茶屋数軒があって、いつしか地名が定着していったようである。 当時の焼き米というのは、籾(もみ)のままの米を焼き、それを搗(つ)いて殻を取り除いたものである。 これは保存食として古くからあった調理法で、そのまま、もしくは、煎り直したり、水や茶に浸して柔らかくするなどして食す。 旅人の携帯食としても重宝がられたであろうことは想像に難くない。 また、江戸方から上方へ急勾配で大宮台地を上(のぼ)ること約160mというこの坂道は、当時の旅人にとって難所であったと伝えられている。
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『支蘇路ノ驛 浦和宿 浅間山遠望』/天保6年(1835年)、渓斎英泉 画。
絵師が選んだのは蕨宿から浦和宿へ向かう途中にあって名物の焼き米を食べさせる立場茶屋である。右手の丘陵で鳥が一啼きでもしたか、歩きながら揃って視線をやる2人の旅人(武士とその使用人)がいるが、進む先には焼き米売りの茶屋が待っている。旅の道すがら腹の足しになる携帯保存食は買っておいて損は無い。さらに行くと用川路に架かった板張りの太鼓橋があり、その奥に遠く小さく建ち並ぶ浦和宿の家々が望める。左手遠方に描かれた浅間山は噴煙をたなびかせている。その手前、今一度近景に目を戻せば、荷駄を運ぶ馬子と、後ろに付いて馬糞を掻き集める子供がいる。男は馬子唄を歌っているのであろうか。
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南浦和駅の辺まで来た。
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通りかかった交差点に古い商家がある。
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その家の角には井戸があり。
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重厚な建物です。お米屋さんでした。
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マンションが立ち並び、浦和の街に近くなったことがわかる。
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調神社の森だ(嬉)
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【駒繋ぎのケヤキ】
「日蓮上人駒つなぎのケヤキ」という安産の守護神と信仰されているケヤキ。
言い伝えでは、日蓮が佐渡へ流される途中、難産の婦人に会いました。その婦人のために、このケヤキに馬を繋ぎ祈ったそうです。それにより男子を無事出産されたことから安産の守護神となったようです。

小道を挟んで離れていますが、調神社の境内だそうです。
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実は、そのケヤキは朽ちてしまったようで、現在のケヤキはそれを引き継いだもののようです。
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【調神社(つき じんじゃ)】
浦和宿の少し手前にある調神社(つき じんじゃ)は、社伝では由緒を神代とし、少なくとも平安時代以前の創建と見られる古社である。 「調(つき)」とは租庸調の「調(ちょう)」、「みつぎもの(御調物、貢物)」、すなわち「年貢」のことであり、東山道時代の武蔵国の調はここに集荷されたのち、朝廷に届けられた。 しかしその役割は武蔵国が東山道から東海道へ編入された宝亀2年(771年)をもって終わりを遂げた。
その後、「調(つき)」は音韻によって「月(つき)」と結びつき、月待信仰(月待供養)の地となってゆく。 それゆえ兎(うさぎ)を神使とし、この社にあって境内入り口を守護しているのは狛犬ならぬ兎である。 また、「調(つき)」は「(運勢の)ツキ」に通じるともしている。

入り口には、狛犬でなく「狛兎」が迎えています。
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鳥居ではなく、「注連柱」をくぐります。
「注連柱」は奈良の大神神社とか古い神社に多く、この神社の歴史を感じさせます。
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社殿
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掲題のベンチに腰を下ろしたのが、ちょうど10:00。しばらく休憩しました。

調神社(つき じんじゃ)については、既に「武蔵国式内社めぐり」で記事にしています。
詳細は、そちらで見てください。

その記事を見る


その記事を書いた2013年8月には、入り口の狛兎は江戸時代のものでしたが、さきほど写真を載せた、今回の狛兎は新しいものになっていました。

以前のものは、境内に保存されていました。
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調神社(つき じんじゃ)の境内には、ケヤキの巨木が方々にあります。
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ここから先は、次回記事とします。



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中山道・蕨宿(その二)

20170218

2月11日に「戸田の渡し」から蕨宿の出口まで歩きましたが、前回の記事で「戸田の渡し」から「蕨宿本陣跡」まで書いたので、その続きです。

まずは、中山道を木戸まで歩き、その後「三学院」、「はね橋」、「和楽備神社」、「蕨城址」、「長泉院(おしゃみの鐘)」、宝樹院(渋川公墓)」と、JR蕨駅に向かって、周辺の史跡を訪ねて歩きました。
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昔をしのばせる家を眺めながら歩きます。
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「板橋宿から二里十町」のところに、「蕨宿まちづくり憲章」が掲げてありました。
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新しい店舗でも、このようにしてあります。
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旧い家が多いので、その景観を楽しみながら歩きました。
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蕨宿の木戸まで来ちゃいましたね。ここで国道17号線と合流します。
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国道17号線側から眺める。
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【中山道ふれあい広場】
木戸の内側にあり、休憩するのにぴったしでした。
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中山道の説明
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広場の真ん中に大きいケヤキがあり、タイルの壁画がある。
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皇女和宮の行列
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大名行列
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中山道沿いに時計台が。
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ちょうど13時だったので、音楽が鳴っていた。
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下には人形と街並みの模型が。
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大きなケヤキがよかった。
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ここから中山道を少し戻って、「地蔵の小道」を三学院に向かいます。
中山道を離れて、周辺の史跡を楽しみます。
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【三学院】
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所在地:埼玉県蕨市北町3丁目2−4
金亀山(こんきさん)極楽寺三学院、京都の真言宗智山派総本山智積院の末寺。
創立年代は不明だが、本尊の木造十一面観音菩薩立像が平安時代後期の作であることや、他に現存する資料から中世以前の創建と考えられる。
天正19年(1591)に、徳川家康から寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されており、以後徳川歴代将軍からも同様の朱印状が与えられている。また、三学院は、足立坂東三十三箇寺の20番、北足立八十八箇所の30番にあたる札所としても知られている。

梵字馬頭観音塔
寺号碑の前にあり、馬頭観音文字塔はたくさんあるが、梵字で書かれているのは非常に珍しい。
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山門
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地蔵堂(地蔵石仏(目疾地蔵)、六地蔵石仏、子育地蔵)
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この中で珍しいのが地蔵石仏(目疾地蔵)
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仁王門
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仁王門の塀に沿って、阿弥陀堂と不動堂の間に石仏群あり
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明和6年(1769)造立の青面金剛型庚申塔
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寛文2年(1662)建立の二菩薩碑
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貞享元年(1684)造立の三猿型庚申塔
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水舎
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圧倒的な迫力で聳える本堂
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鐘楼
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三重塔
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阿弥陀一尊図像板碑(文明13年 1481)が、目立たない所にあります。
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蕨宿関係墓石群
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左側が元和9年(1623)とかなり古い。右側のは明暦2年(1656)。
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木食観正塔
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住職墓域の、卒塔婆型墓石
こういう形式の墓石を初めて見ました。
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これで三学院見学を終り、近くのはね橋に寄りました。

【はね橋】
民家から用水を渡って道に出るため設けられていた。
復元されている。
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この家は、当時は織物工場をしていたので、女工の逃亡防止のため上げていたのだと言う人も居るようだが、このはね橋は内側から操作するようになっているので、そうではなく外部からの侵入防止だろう。

【和楽備神社】
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和楽備神社については、既に記事にしています。

その記事を見る


和楽備神社の境内の池は、かっての蕨城の堀の跡です。

【蕨城址】
御殿堀
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御殿堀から続く石垣
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蕨城址碑
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「成年式発祥の地」碑がありました。
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今年の正月にテレビでやっていましたが、蕨市が成人式の発祥の地なんです。
終戦で若者が元気をなくしているのを見て、青年団が元気づけようと昭和21年に始めたそうです。
だから、今でも蕨市の成人式は青年団が運営している。

その近くに、ウルマンの青春の詩があります。
中年になった頃、会社の机に貼っていた思い出深い詩です。
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この石垣は、当時のものかどうかわからないが、これを眺めてから後にした。
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【長泉院(おしゃみの鐘)】
所在地:蕨市中央5-13-3
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真言宗霊雲寺派寺院の長泉院は、甘露山と号します。長泉院の創建年代は不詳ですが、横浜市六浦にあった名跡を移し、円実という沙弥が宝暦5年に当地に創建したといいます。
長泉院の鐘は宝暦八年(一七五八)に江戸神田鍛冶町の小幡内匠によって作られたもので、蕨宿では時の鐘として親しまれ、「おしゃみの鐘」とよばれていたといいます。

鐘楼は、なんと現代的なお寺の上にあり。
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裏のほうから望遠を効かして鐘を撮った。
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【宝樹院】
所在地:埼玉県蕨市中央2丁目10−14
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参道
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本堂
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渋川公墓(市指定文化財)
渋川公夫妻の250年忌にあたる文化13年(lB16)に渋川氏家臣の子孫たちにより造立された。永禄10年(1567)に上総国三舟山合戦で敗死した渋川公と、その死を悲しみ群馬県の榛名湖に入水した夫人を祀ったもの。
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これで、蕨宿周辺の散策を切り上げ、JR蕨駅から帰途につきました。

(了)


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中山道・蕨宿(その一)

20170213

前回、板橋宿として「戸田の渡し」まで歩いたので、ここから蕨宿の出口まで、2月11日に歩きました。

「戸田の渡し」から蕨宿出口までのマップ
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基本的には、国道17号線ですが、所々中山道旧道が残っているところがあります。

埼京線「戸田公園」を降りて、まずは参考にしているマップに載っている「戸田漕艇場」に向かいました。
これは、中山道・蕨宿を描いている渓斎英泉の画がこういう浮世絵だからだろう。
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【戸田漕艇場】
1937年(昭和12年)、東京オリンピック (1940) のボート競技会場、および、荒川の治水対策のために建設開始された。しかし、日中戦争(支那事変)の激化を理由に同オリンピックの開催権を日本が返上したため、同オリンピックでの使用はなくなった。ただし治水対策の面もあったため、建設工事は規模を縮小しながらも続けられ、1940年(昭和15年)に完成した。
1964年(昭和39年)開催の東京オリンピック (1964) の会場となったため、拡幅工事や周辺整備をした。

埼京線「戸田公園」から歩いて6、7分で到着。
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学生がボートをかついで行く。
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ずいぶんボートが居る。
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中にちょっと入ってみました。
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ボートの手入れをしている。
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カヌーが出ていくところ。
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艇庫が並んでいるところから、荒川の堤防に上がることにした。
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堤防からボートをかついだ女性が降りて来た。
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堤防に上がって見ると、早朝から荒川でボートを漕いでいたのであろうグループが上がってきていた。
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堤防を国道17号線の戸田橋交差点まで行く。
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中山道を歩く旅は、ここからスタートです。
まずは、「歴史のみち」を歩く。水神社は前回立ち寄っているので、地蔵堂を目指します。
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【歴史のみち 中山道】
交差点から階段を降りる。
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地蔵堂
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入り口に、享保16年(1731)造立の、青面金剛庚申塔があり。
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「歴史のみち」に戻ってすぐのところに小公園あり、中山道のルートの説明があった。
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菖蒲川を渡った先は、稲荷社を目印にして一里塚があった場所を探すことにした。

「歴史のみち」を行くと、菖蒲川のところで途切れます。
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ここで「曲尺手橋(かねのてばし)」を探します。
国道17号線が菖蒲川を渡る橋だった。

【曲尺手橋(かねのてばし)】
街道が堤外で屈曲していたため、「曲尺手」の地名が誕生した。
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橋のプレートに橋名の表示あり。
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菖蒲川
向うの橋が川岸橋
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曲尺手橋全景
グリーンの歩道橋の向こうに国道17号の橋があり。
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続いて、「上戸田のエノキ」を探す。
資料では、「一里塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木がある」と書かれているので、幼稚園を探す。
先入観から、国道17号線より外れた細い道をウロウロ彷徨ったあげく、土地の人から国道17号沿いにあると教わったので助かった。

【上戸田のエノキ】
日本橋から4番目の一里塚。
現在は、塚は消滅しているが、幼稚園内に市指定保存木の古木がある。 幼稚園園庭には貞享5年(1688年)の銘の庚申塔が残っている。

幼稚園発見
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この木ではないだろうか?
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17号沿いにも、この木がある。どちらかだろう。
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ここから少し先に、旧道が残っているのでそちらを歩く。
現在は公団の前の通りになっていて、ケヤキの並木の綺麗な通りである。
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マップに記載された「ミニパーク」だと思いここで休憩したが、後で検討して見ると、どうも違っていたみたいだ。
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そこから少し進むと、五差路になっている。
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【戸田の街道】
自然堤防が2か所あり、街道が屈曲している。中山道の原形を80mほど留める。

赤いジャンパーの人が居る点の通りが、「戸田の街道」となる。
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ふたたび国道17号線を進む。
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蕨市に入る。
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蕨宿入り口に到着。
左側が国道17号線、右に分かれているのが中山道旧道。
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【蕨宿・板橋側木戸】
木戸が迎える。
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蕨宿周辺史跡マップ
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この日は、蕨宿出口まで歩き、その後「はね橋」、「三学院」、「和楽備神社」、「蕨城址」を尋ねたあと、JR蕨駅から帰途につくことにする。

少し歩くと、ポケットパークあり。
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ここで、中山道旧道から一本脇の道に入り、「玄蕃稲荷」と「観音堂」を訪ねる。
【玄蕃稲荷】
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扁額は狐の鏝絵だった。
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社前に、「従是堀迄玄蕃持地」の石標と、何か不明な石が置かれていた。
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【観音堂】
由緒不明。
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中に祀られていたのは、元禄6年(1693)建立の石仏だった。
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【歴史民俗資料館分館】
中山道旧道に戻ったところにあり、明治時代に織物の買継をしていた家を保存してある。
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閉まっていたので、あれれと思ったら、この日は祝日(建国記念の日)だった。
普通の土曜日だと思い、出かけて来たのだが(汗)
毎日が日曜日状態だと、祝日もどうでもよくなってしまう(苦笑)

仕方ないので、2015年12月25日に訪ねた際の写真を載せておきます。
館内案内図
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建物庭から見た建物
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庭のユーカリの樹がきれいだった。
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中山道に面した建物の部分
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ふたたび中山道旧道を歩きます。
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【蕨町道路元標】
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横に、方位盤がありました。
南から撮っています。
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ちなみに、昔は方位をこのように表していた。
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中山道老舗の漬物屋さん
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「中山道蕨宿」と入ったマンホールのフタがあった。
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【蕨市立歴史民俗資料館(本陣跡地)】
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横に本陣入り口を再現
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残念ながら、この日は休館となっていたので、2015年12月25日に訪ねた際の写真を載せておきます。

中山道を利用した大名、姫君
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高札場と庚申塔のレプリカ
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蕨宿模型
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入り口に、「叶う道の碑」があった。
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中山道・板橋宿(その三)

20170110

歴史クラブの行事として、10月24日に「近藤勇墓所」から「縁切り榎」まで歩きました。
その後12月21日に個人で「縁切り榎」から「荒川・戸田の渡し」まで歩きました。前回の記事「その二」で南蔵院まで記事にしていますので、その続きです。

南蔵院から中山道を歩き出します。国道17号線の区間。
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日本橋から13Km地点を通過。
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志村一里塚に到着。
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【志村一里塚】
この区間には平尾(日本橋から2里目)と志村(同3里目)に一里塚が存在しましたが、志村のみが取り壊されずに残り、明治に改まり55年後の大正11年(1922)3月に国の史跡に指定されました。
現在全国では17か所の一里塚が国史跡に指定されているそうです。
もともと志村一里塚は中山道からやや離れた位置に築かれていたため、拡幅工事によって移動したり、削ったりはしていないそうです。
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東一里塚(江戸方面から見る)
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江戸に向かって見た一里塚
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銀杏の木も立派
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西一里塚(江戸からきて左側)
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立派な石標
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三代目だそうですが、立派な榎です。
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左右の一里塚が綺麗に残っている。
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板橋十景の一つです。
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志村一里塚から戸田の渡しまでのマップ
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志村坂上の交差点で、旧中山道は国道17号線と分かれ、左に入っていきます。
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少し行くと、「清水坂」の石標あり。
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【清水坂】
清水坂が大きく屈曲しているため、中山道で唯一右側に富士山が見える場所。

大きく左に坂がカーブしている。
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今日は晴天で、家を出るとき富士山が綺麗に見えていたので期待していましたが・・・・!?
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樹とか家が密集していて、今は富士山が見えなくなっている(泣)

道沿いの高いところに上がって見たが、駄目でした(泣)
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富士山が見える所がないか、ウロウロしていたが、下に降りてしまった。
清水坂を振り返る。
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清水坂の案内
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あの高いマンションなら、富士山の眺めは良いだろうな(羨)
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旧中山道は、清水坂を下りると大きくカーブして、国道17号線に戻る。

埼京線のガードをくぐると、前方に車が見えているのが国道17号線。
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旧道は国道17号線を突っ切ります。
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ここから国道17号線を100mほど戻って「薬師の泉」に寄ります。
歩道を渡った先の右手の森が薬師の泉。
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【薬師の泉】
薬師の泉庭園は、青雲大善庵主(俗名善左衛門、永正10年卒)が創建した大善寺のもと境内で、境内に湧き出す清水が良く、徳川吉宗が大善寺に立ち寄った際には、清水を誉めて、大善寺の本尊薬師如来を「清水薬師」と命名したといいます。大善寺は、昭和初期に総泉寺に併合、当地は総泉寺亀山荘庭園として築造されたものの戦中戦後にかけて荒廃、平成元年板橋区が整備、薬師の泉庭園として開園したといいます。

江戸名所図会「清水薬師 清水坂」
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入り口
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案内
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全景
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すごい木賊だった。
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泉は綺麗な水が湧いていた。
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旧中山道と国道17号線が交差しているのは、環八との交差点。
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環八との交差点で、国道17号線より一本脇の道が旧中山道。大きく弧を描いて、また国道17号線に戻る。
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国道17号線に戻ります。トラックが見えているのが国道17号線。
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また国道17号線を歩いていきます。
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日本橋から15Km
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新河岸川にかかる志村橋に到着
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ここまで下ってくると新河岸川も立派な川ですね。
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「舟渡」交差点に差しかかります。
もう目の前に荒川土手が見えていますが、ここを右折して、中山道と一時離れて「浮間ケ池」を見に行きます。
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浮間公園に到着
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【浮間公園】
自由蛇行していた荒川の一部が残る河跡湖を都立公園に整備した。
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浮間公園から真っ直ぐ、荒川の土手に向かいます。
土手を歩いて中山道に戻ろうというものです。
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土手を上がる。
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中山道のある川上方面
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川下方面
見えている建物は、川口市だと思う。
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東京都側の河原は広くて、ゴルフ場になっている。
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中山道に近づくと、並行している新幹線と埼京線の電車が頻繁に通る。
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【戸田橋】
中山道(国道17号線)に戻った。戸田橋である。
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戸田橋と並行して新幹線の橋が架かっている。
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下流側の歩道からは新幹線の橋が邪魔して見通しが悪い。
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新幹線が通過
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戸田橋は519mあり、長かった。
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上流側の歩道を少し戻り、荒川の上流を眺めた。
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戸田の渡船場跡を探す。
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渡船場跡の碑を川岸近くで探したが見つからず、往生(泣)
川岸で休んだ。下流を眺める。
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休んでいると、船が遡って来たが、何と水上スキーだ。
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探していた渡船場跡の碑は、土手より下の場所にあった。
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【戸田の渡し跡】
 この荒川には江戸防衛の意から橋は架けられず、人々はここを越えるには船による渡しに頼らざるを得ませんでした。これが中山道 戸田の渡しです。江戸日本橋を出て最初の宿駅である板橋宿と、次の蕨宿の間にあり、交通の要衝でもありました。
この渡しは、資料によると天正年中(1575~91)よりあったとされ、その重要性は近世を通じて変わらなかったといいます。渡船場の管理は下戸田村が行っており、天保13年(1842)では家数46軒、人口226人でした。その中には、組頭(渡船場の支配人)1人、船頭8年、小揚人足31人がいました。船の数は、寛保2年(1742)に3艘だったが100年後の天保13年には13艘に増えています。
明治8年(1875)5月には木橋の戸田橋がついに完成、「戸田の渡し」が廃止となりました。
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蕨宿の絵になるが、『木曾街道 蕨之驛 戸田川渡場』
天保6- 8年(1835-1837年)、渓斎英泉 画
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江戸名所図会「戸田川渡口 羽黒権現宮」
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渡船場跡の碑の下の道に水神社があったので、お参り。

【戸田の水神社】
創立など詳しいことはわからないが、正面の「水神宮」の碑には寛政八年(1769)の銘がある。
古くは荒川の端にあったもので、新堤防ができてから移され、川岸に住む人々の氏神様になっているようだ。
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境内の正面には、「水神宮」や「船玉大明神」(船の守り神)と刻まれた大きな石碑が鎮座している。また、「山王大神」や、茨城県の大杉神社から勧請した「大杉大神」(航海安全の神)などの石碑も合祀されている。
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今回の中山道歩きは、これで完了としました。
板橋宿として、「近藤勇墓所」から「戸田橋」まで歩きました。



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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