高来(たかく)神社

20170622

鎮座地:神奈川県中郡大磯町高麗2丁目9-47
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」、相模国の式内社の回で、この日は川勾神社に続いて当社に参拝しました。
当社は式内社ではありませんが、特別に立ち寄りました。
それは、狭山市の半分は旧高麗郡で、私が住んでいる所もそうですが、1300年前の高麗郡建郡にあたり、この地も関係が深かったからです。

神社には駐車場がなく、近くでバスを降りたが、そこからの高麗山。
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神社には横から入り、二の鳥居まで戻った。
一の鳥居と社号標は確認せず。
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高来神社、高來神社(たかく じんじゃ)、高麗神社とも呼ばれる、別名高麗(こま)さん。旧社格は郷社。
社名は一説に朝鮮半島にあった高句麗からの渡来人に由来する。
社名を音読みにすれば「こうらい」となる。

中世の戦乱等により書物が焼失したため起源は明らかでないが、神武天皇の時代の創建とする記録があるという。
かっては高麗山の山頂に上宮があって高麗権現社といい、右の峰に白山権現を、左の峰に毘沙門天を勧請して「高麗三社権現」と称した。
また古来武門の信仰が篤く、鎌倉期に将軍源頼朝が正室北条政子の安産祈願をして、戦国時代には後北条氏がわずかな領地を寄進したという文献があるという。

『新編相模国風土記稿』には「高麗権現社」とあり、高麗寺村(大磯町高麗地区)と大磯宿(同大磯地区)の氏神であるとともに、別当寺の鶏足山雲上院高麗寺と渾然一体とした神仏混淆の形態をとっていた。高麗寺は、『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日条に源頼朝によって、北条政子の安産が祈願された寺社の一つにその名が伝わる古刹。

平安時代中期に作られた辞書『和名類聚抄』では、相模国大住郡には高来郷がある。高麗山一帯から、花水川東岸の中世以降は大住郡になる平塚市西部にかけてが、それにあたる。

高麗山山頂にある「高麗と若光」と題する説明板には「若光は一族をつれて海を渡り大磯に上陸、日本に帰化してこの山のふもとの化粧坂あたりに住み、この地に大陸の文化をもたらしました。高麗若光と高句麗の人たちが住んでいたことから、この地が高麗と呼ばれるようになりました」(環境省・神奈川県)とあります。
高来神社「御船祭」の木遣歌「権現丸」で「高麗国守護」が渡来して、「大磯浦の守護」となるとうたわれることから中世以降高麗寺では、なにかしらの関係を伝承していたと考えられます。また、高句麗からの渡来人伝承から「高麗山」の名前がついたといわれています。

そもそも高麗大明神(こまおおかみ)の由来を詳しく尋ぬれば、応神天皇十五代の御時に、俄かに海中騒がしく、浦の者ども怪しみて、遥かの沖を見てやれば、唐船一艘八つの帆を揚げ 大磯の方(かた)へ梶をとる。走り寄るよと見るうちに、程なく水際に船は着き 浦の漁船漕ぎ寄せて、かの船の中よりも 翁壱人立ち出て 櫓に昇りて声をあげ、「汝等(なんじら)それにてよく聴けよ 吾は日本の者にあらん 諸越(もろこし)の高麗国の守護なるが、邪険な国を逃れ来て、大日本に心掛け、汝等帰依する者なれば、大磯浦の守護となり、子孫繁盛守るべし」、汝等有難やと拝すれば、やがて漁師の船に乗り移り、上がらせたもう御代よりも、権現様(明治以降は明神様)を乗せたてまつる船なれば、権現丸(明治以降は明神丸)とはこれを言うなり。

この「翁壱人」が、若光ということになります。
高麗王若光は、1300年前関東に散らばっていた高句麗からの渡来人を集め、武蔵国に高麗郡を建郡した。
高麗神社の祭神が高麗王若光であり、宮司はその子孫高麗家が勤めている。

大磯の若光伝承は天保期にはじまるものではありません。中世以前に遡ります。二つほど史料をあげておきます(ほかに『走湯山縁起』や『神道集』)。神奈川では古くより、若光(和光)が大磯の地に上陸したと伝えられているわけです。
『箱根山縁起』(『群書類従』)
神功皇后、三韓を討ちし後、武内大臣(武内宿禰)の奏有りて云う。異朝の大神を奉請して天下の長き安寧を祈らしむ、と。即ち、百済明神を日州(日向)に遷し奉り、新羅明神を江州(近江)に遷し奉り、高麗大神和光を当州(相模)大礒聳峰に遷し奉る。因りて高麗寺と名づく。
『北条記』(『小田原合戦記』)(『続群書類従』)
(北条)氏綱伊豆山ヘ御参詣アリ。縁起記ヲ御尋ネアル。当社権現(伊豆山権現・走湯山権現)往古ニ高麗国ヨリ御舟ニ召レ当国ヘ御渡アリ。相模国中郡ノ高麗寺山ニ上ラセ玉ヒヌ。之ニ依リ、此山ヲ高麗寺(山脱カ)ト申ナルベシ。其後、仙人当山ヘ参詣シ、爰ニ移居マシマシテ以来、霊験威光勝ゲテ計ウベカラズ。

大磯町観光情報サイトから
・漁民により海中から引き揚げられた千手観音を高麗権現の本地佛として定め、山頂の高麗権現と下宮の千手観音を併せ祀り、高麗寺別当(高来寺)の司る所になりました。
・鎌倉時代には北条政子の安産祈願のため神馬を賜り、寺背後にそびえる高麗山中には24の末院がありました。
・曽我十郎の恋人、虎御前が出家した寺です。
※虎御前…大磯の遊女。『曽我物語』の主人公、曽我十郎の恋人。
・足利氏の内乱で高麗山が攻防の場となり、戦国時代には北条早雲が小田原城攻めの際に篭城したことで一躍有名になりました。その後、上杉謙信が高麗山に本陣を置くなど、戦火の火中に巻き込まれ衰退していきます。
・徳川家康より寺領百石と山林を賜り、東照権現を併せ祀ります。東照宮は徳川家康の神影であるため、参勤交代の諸大名は高来神社の前を通る際には下馬して参詣しなくてはなりませんでした。
・上野寛永寺(徳川家光開基、徳川将軍家の菩提寺)の末寺であり、寺の復興には寛永寺の天海の働きが 大きかったと言われており、寛永寺から転じた別当は47世続きました。
・神仏分離により高来寺の寺物は移され、高麗神社と改称、明治30(1897)年に高来神社と改称され、現在に 至っています。

年表:
神武天皇朝?:創建
垂仁天皇朝:神皇産霊尊と天津彦穂邇々伎尊を祭神とする
安閑天皇朝2年(533年):神功皇后・応神天皇が合祀される
養老元年(717年):本地垂迹説に基づく神仏習合により高麗寺別当の所管となる
天正19年(1591年):徳川家より朱印地百石を与えられる
寛永年間:東照大権現を併祀
明治元年(1868年):神仏分離令により高麗寺から分離され高麗神社となる(高麗寺は廃寺)
明治6年(1873年):郷社に列せられる
明治30年(1897年):高来神社に改称
明治40年(1907年):神饌幣帛を供進すべき神社に指定される


大正3年奉納の、江戸流れ尾型狛犬
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参道に大磯町の観光案内板
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山桜がほころんでいるのがあった。
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社殿
高麗寺の建物となっていたので、拝殿・本殿と分かれていない。
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向背部
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社額
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欄間の龍の彫刻
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ガラス戸の隙間から、依り代の鏡と御幣を参拝。
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ご祭神:
神皇産霊尊
天津彦穂邇々伎尊
応神天皇
神功皇后

神紋は「三つ葉葵」
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境内社です。

高麗山への登り口にある、旧社号標「高麗神社」
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石段を上がると、平嘉久社。
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平嘉久社は初めて見た名前です。
『新編相模国風土記稿』には、「山麓にあり、祭る所庚申なり、是を地主神と云、高良明神疱瘡神等を相殿とす」とあるようです。
「庚申」とは猿田彦のことでしょう。
猿田彦を祀る白鬚神社が滋賀県高島市にあり、昨年参拝したが、白髭明神とは猿田彦のことであった。
白鬚神社の猿田彦は白鳳2年(674年)、天武天皇の勅旨により比良明神の号を賜っている。猿田彦=比良明神。
猿田彦は境界の神で、比良はあの世とこの世の境界(黄泉比良坂)を意味する。
確かに平嘉久社の鎮座場所は山に登る手前で、正しく境界と言える。
高麗若光=白鬚明神と呼ばれたので、まぎらわしい。
次に高良明神は武内宿禰です。よく「高良社」という武内宿禰を祭神とする神社があります。

高麗山霊水の「水神社」と「龍神社」の里宮
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〇力石
江戸末期には大磯海岸で若者たちが集まって力競べが行なわれていました。大きい石を両腕で持ち上げる競技があり、高麗の若者が優勝した。
丸い型の大石を 女石 といい、長い方を男石と名づけた。
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〇シイニッケイ
樹幹の心材が枯死腐朽し空洞化しているスタジイの古樹の凹部に,ヤブニッケイが密着生息しているものです。樹齢はスタジイが推定400年、ヤブニッケイは100~150年です。
このような例は各種各様のものがありますが、外観が完全に一本の樹に見え、しかも違和感なく一本化した樹は大変めずらしいものです。町の文化財に指定されています。
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他の参加者が高麗山に登ると先行していた。
私は撮影にちょっと時間をかけて、遅れた。

男坂を登ろうとしたが、急峻過ぎてあきらめ、女坂を登ることにした。
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女坂というが、けっこうきつい。
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けっこう登ったと思うところで、男の子の二人連れに出会い、頂上までどのくらいか聞いたら、まだまだ半分にも達しないと云われガックリ。
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上を目指す。
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標識があり、頂上まで500mとあり、あきらめて250mだという「東天照」がどんなところかわからないが、
そこを目指した。
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けっこうな難所である。
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開けたところに出て、案内図を見てビックリ。
女坂は、とてつもなく大回りではないか(驚)
ふつう女坂というのは易しい上り道を云うぞ(怒)
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見晴らしの良いところを探して、海を見て満足。
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すぐに急いで降りた。
結果的には、バスに帰ったら、まだ誰も帰っていなかった(笑)
しかし、ちょっと冷汗ものであった。
反省・・・・・・・・



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川勾(かわわ)神社

20170617

鎮座地:神奈川県中郡二宮町山西2122
参拝日:2017年3月31日

歴史クラブの「関八州式内社めぐり」に参加して参拝しました。
相模国の式内社で、この日の最初の参拝社です。

入り口には、大きな看板で式内社と二宮であることをアピールしてあります。
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社号標
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社格:延書式神名帳では相模国余綾(ゆるぎ)郡所属の小社。
平安後期、相模国にも一宮・二宮の制度が定められ、二宮となり、二宮明神と呼ばれた。
明治6年(1873)郷社、昭和7年県社に昇格。

延喜式神名帳記載
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川勾神社は相模国余綾(ゆるぎ)郡唯一の式内社である。
『万葉集』巻十四の東歌に、「相模路の 余呂伎の浜の まなごなす 児らくかなしく 息はるるかも」とある。
奈良朝以前からヨロギの浜があり、ヨロギ郡も存在していたと推定される。
余呂伎郡を余綾部としたのは、第41代持統天皇の時代である。

川勾神社の鎮座地:現在の所在地は旧川勾村になく、隣村の旧山西村にあるのは奇異の感がある。ところが川勾村も山西村も以前には一つの区画であり、「梅沢の里」と称し、文明年間に道興准后の著した『回国雑記』に「旅ごろも 春待つこころ替らねば 聞くもなつかし 梅沢の里」の一首を残している。江戸初期の正保図にも梅沢村の記載がある。

歴 史:
『二宮川勾神社縁起書』(寛永19年-1642)によれば、11代垂仁天皇の頃の創建と伝う。さらに『新編相模国風土記稀』に、「川勾」の地名は往古にこの地で押切川が曲流していたことに由来するといわれ、川勾神社の名も地名に由来するのだという。

・延長5年(927)に『延書式神名帳』により式内社(小社)へ列格された。前九年の役(1051~62年)と後三年の役(1083~87年)の折には源義家の奉幣祈願があったとされる。

・『吾妻鏡』建久3年(1192)8月9日の項に源頼朝は北条政子の安産を「二宮川匂大明神」に祈願し神馬を奉納し、また、同じ建久年間に社殿造営と社債寄進を行ったとある。

・「座間答」の起源が相武(さがむ)と磯長(しなが)の合併による一宮争いであるとする国府祭(こうのまち)の伝承に従うなら、7世紀には相模国に一宮・二宮の制度があったこ とになる。

・建長4年(1252)に宗尊親王(鎌倉将軍)が鎌倉に下向した際に、将軍事始の儀として神馬を奉納したといわれ、『吾妻鏡』に同年4月14日の項には鶴岡八幡宮以下の大社に神馬を奉納したと記載されている。

・応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたという(『川勾神社誌』)。また、『新編相模国風土記稿』では、この火災で古伝縁起を失ったと述べている。

・永禄4年(1561)、上杉謙信の小田原城遠征の兵火により社殿を焼失。その後の元亀年間(1570~73)に後北条氏によって再建。当社は小田原城の丑寅の方角に当たり、鬼門守護神として後北条氏から格別の崇敬を受けたのだという(前掲『川勾神社誌』)。

・天正19年(1591)、徳川家康が豊臣秀吉の命により九州の肥前・名護屋に出陣する際、当社に祈祷札を献上し、朱印地50石を寄進した。以後、徳川家の崇敬を受け、江戸時代に入ると毎年正月に江戸城へ登城して神札を献ずるのが例となり、幕末まで続いた。

・安永9年如鮒〉暴風雨によって社殿が破損したがも天明7年(㍑$7)に宮司の二見氏が再建し、この社殿が昭和初期まで至る。

・現在の社殿は昭和7年(1932)県社昇格の内示を受けて新築着工したものであるが、第2次大戦や戦後の近代社格制度廃止などの影響により、19年後の昭和26年に完成した。

・平成23年9月21日の台風15号により、境内の夫婦杉のうち1本が倒れ、神楽殿の屋根が壊れるなどの被害が出ている。

鳥居
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鳥居の横に、伊藤博文揮毫の扁額あり。
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石段を上がる。
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茅葺の随身門
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応永年間(1394~1427年)の兵火により社殿宝物などを焼失し、随身の木造だけが残されたというが、それであろう。ほとんど顔などもわからない。
ガラスと光線の加減で、よく撮れなかった。
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くぐってから、門の屋根の茅葺を拝見。
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参道は真っ直ぐ。
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文化財の古文書と「田舟」の説明
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手水舎のところに、種々の説明文書コピーが置かれていた。

※国府祭(こおのまち)
毎年5月5日相模国一之宮寒川神社、二之宮川勾神社、三之宮比々多神社、四之宮前鳥神社、平塚八幡宮、総社六所神社、以上六社の合同祭儀で「こおのまち」と呼ばれています。
千有余年の昔相模の国司が当時の国府所在地に国内の有力神社をお招きし敬神の誠を捧げたものであると伝えられています。
五月五日に行なう為、端午祭とも言われ、又将軍の命令で行なわれたので天下祭・御用祭ともいって、国家安泰・五穀豊穣、諸産業の繁栄を祈念する相模国最大の祭典です。

三度移転したという相模国府の候補地は下記のとおり。
①綾瀬市早川綾瀬西高校付近
②平塚市平塚八幡宮付近
③大磯町六所神社付近

寒川神社は①、②期国府時代に国府に一番近く、延喜式神名帳にも明神大社となっており、一之宮とされた。
③に国府が移転したのは平安時代末で、この時期は川勾神社が一番近く、二之宮とされたのは妥当。
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国府祭(こおのまち)古図を読み解いた説明書によれば、江戸時代の早い時期にまで遡る可能性のある、神・仏・修験による神仏習合の姿があり、中世的な先祖信仰の痕跡も明らかにみてとれる、複雑な祭りであるようだ。
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手水舎
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狛犬が侍るところから、玉垣内に入る。
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拝殿
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向拝にかかる注連縄は、大根注連縄。
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拝殿内部
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拝殿内には「二宮大明神」の社額があり。
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本殿
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破風部分の彫刻を、細い隙間から撮った。
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ご祭神:
現在は、大己貴(おおなむち)命、大物忌(おおものいみ)命、級津彦(しなつひこ)命、級津姫命、衣通姫(そとおりひめ)命ほか5柱。

『新編相模国風土記稿』(天保12年一1841)は級津彦命、大物忌命、衣通姫命の3柱とする。
しかし、安永5年(1776)当社33代目宮司の二見忠良が書写した『御祭礼之式伝来写』によれば、江戸中期には八幡神を祀ったことが確認できるという。鎌倉幕府や関東管領などが信奉した鶴岡八幡宮の影響があるといわれている。また、級津彦命と級津姫命は本来は風神であるが、師長(しなが)国のシナに通じるところから加えられた。

※師長国:
『国造本紀』に第13代成務天皇のときに、茨城(うばらき)国造の祖建許呂(たけころ)命の児意富鷲意弥(おおわしのおみ)命を国造に定めたとある。師長国については諸説あって必ずしも判然としないが、『和名抄』には「上古は全く相模・師長二国たりしとも云ふべきなれど、みだりには然定難きなり。されど、北方山間険阻の地は左加牟(さがむ)と唱へ、南方磯辺の地は磯長と称し、自然区別せし事は、織るべからず」とある。

神紋は「丸に二」
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神楽殿
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東五柱祭神
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西五柱祭神
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神社前の道路工事のために撤去された石鳥居が保存されている。
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御神木の杉
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ご神木の銀杏
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氷室神社

20170613

鎮座地:奈良県奈良市春日野町1-4
参拝日:2017年3月24日

青春18キップの三日目。
この日帰宅するので、普通電車を乗り継いでほどほどの時間に家に着くためには、奈良を9時ころに出ないといけない。それで朝食前にホテルを抜け出して、まず東大寺南大門の狛犬の写真を撮って、その後すぐ近くのこの社に参拝した。
ここに寄ったのは、社名が面白い名前なので調べてみると、ここの樹齢100年の枝垂れ桜が奈良で一番最初に咲くとのことだったので、寄ってみた。

社号標
式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
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由緒:
元明天皇の御世、和銅3年7月22日、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌和銅4年6月1日初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上せられた。奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年2月1日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。以来、現在の春日大社の別宮に属し式年に営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われたが、明治維新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいる。また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高公を祀った舞光社がある。

境内図
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鳥居は朱塗りの両部鳥居。
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参道の右手に「鏡池」が。
冬季に凍ったら、鏡になるからなのだろう。
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早朝で人が少ないので、鹿ものんびりとしている。
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紅梅が咲いていた。
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手水舎
珍しいことに、つるべ式の井戸がついている。
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祓戸社
住吉社とも呼ばれ、手水舎の向かいに祀られている。
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四脚門の前右手にある大きな木が枝垂れ桜。
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氷室神社のしだれ桜は「奈良一番桜」と呼ばれ、奈良で最も早く開花する桜であると言われています。氷室神社の桜の開花を追うように、あちこちで桜が開花していくそうで、いわば古都の春の始まりを告げる大変縁起の良い桜なのです。
境内には何本かしだれ桜がありますが、最も迫力のあるものは、「四脚門」と呼ばれる門前に建つ一本です。
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残念ながら、まだまだ。
一番早く開花するところが、まだこの状態だった。
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安政4年(1857)奉納の狛犬があることはわかっていたが、なんと「出雲型(丸台座型)」だった。
幸運に感謝。
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今回の旅のサブテーマは「出雲族の痕跡を探す」というものだったが、最後の訪問地でも直接結びつきはしないが、出雲地方との繋がりのあるものを発見したのは、とても嬉しい。

「四脚門」と東西廊は奈良県指定文化財。
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四脚門をくぐると、すぐに拝殿・舞殿がある。
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明治三年に廃止されるまで、氷室神社に置かれた旧南都楽所を中心に奈良における舞楽が受け継がれてきました。明治維新により三方楽人(奈良・大阪・京都)が国に召され、曲や舞が一本化されていったのが、現在の宮内庁楽部です。しかし、上京せず地方に残った楽人や舞があり、独自の伝承が見られるのです。南都晃耀会は奈良流を重んじる有志により戦後間もなく結成されました。このたび結成五十周年記念事業として後継者養成のため南都流舞楽伝承教室を企画し、伝承活動に励んでおります。今年も氷室神社の献氷祭、例祭、舞楽初めの他、唐招提寺、東大寺、薬師寺などの諸行事に奉仕の予定です。

本殿の前に回れるようになっている。
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瑞垣の前には石灯篭、瑞垣から灯篭が吊るされている。
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神門
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本殿には三柱の神が祀られている。
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ご祭神:
闘鶏稲置大山主命 (ツゲノイナギオオヤマヌシノミコト)
大鷦鷯命(オオササギノミコト 仁徳天皇のこと)
額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)

闘鶏稲置大山主命は、大和国北東部を支配した闘鶏国造(つげのくにのみやつこ・つげこくぞう 都祁国造・都下国造とも)の子孫にあたり、仁徳朝の国造。氷室の氷を初めて御所に献上し、以後、氷室の管理者となった。
闘鶏国造は、八井耳命。神武天皇の皇子で、綏靖天皇の兄。弟に皇位を譲り、神祇の奉斎者となった。

大鷦鷯命(オオササギノミコト)は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)は、記・紀にみえる応神天皇の皇子。
母は高城入姫(たかきのいりひめ)。「日本書紀」によれば,応神天皇なきあと皇位がさだまらずにいたとき,倭(やまと)の屯田(みた)と屯倉(みやけ)を掌握しようとして異母弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳(にんとく)天皇)に阻止された。闘鶏(つげ)(奈良県都祁村)で氷室を発見,氷を仁徳天皇に献じたともいう。「古事記」では額田大中日子命(みこと)。

本殿の右手前に、仁徳天皇の歌碑あり。
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竃は にぎはひにけり」
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境内社・舞光神社
ご祭神:狛光高の御霊
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拝殿の左右に回廊が回っているが、工事中の感じである。
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四脚門から出て、社殿に向かって左に、招魂社と万葉歌碑あり。

招魂社
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万葉歌碑
「うらうらに照れる春日(はるひ)にひばりあがり情(こころ)悲しもひとりしおもへば」
(万葉集 巻19 4292 大伴家持)
万葉集巻19の最後を飾る、大伴家持の歌三首の中の一首です。
「おぼおぼ(ぼんやりと)として物憂いような春の日、ほんのりと霞んだ春の光にひばりが舞い上がっているのを見ると、何ということもなく悲しみがこみ上げてくる」と、歌によってしか表現できない人間の心のひだ、胸の内の淋しさ、ゆらぎなど、景を借りて象徴した家持最高の傑作といわれます。皇親政治と藤原氏、みにくい政争の世、衰退していく大伴氏、苦しく眺める家持の春愁の歌です。
氷室神社では和銅4年(711年)献氷の勅祭が始まり、毎年平城京に氷を献上されたと伝えます。その後途絶えていたこの制度を再興し、現在に継承されています。
由緒ある境内の見事なしだれ桜の下に、この歌碑は建立されました。
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これで、参拝を終えホテルに帰り、朝食を食べ、JR奈良駅から帰途につきました。
奈良駅を8:53に出発、加茂、伊賀上野、亀山、名古屋経由で、普通電車を乗り継いで、途中名古屋で昼食、熱海で夕食の際に45分程度休憩し、新宿に着いたのが21:00頃。
楽しい青春18キップの旅三日間だった。


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穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社(大兵主神社)

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鎮座地:奈良県桜井市穴師1065
参拝日:2017年3月23日

青春18キップ二日目の午後、纏向駅から山の辺の道を当社まで歩いて来たのは、一つには出雲の野見宿禰を祀る相撲神社があること。
いま一つは「穴師」という地名に惹かれたからである。「穴師」というのは、主として鉄だが鉱物資源のある場所を探し当て、それを採掘する集団のことである。
当然出雲系だとみられるが、ここの祭神をみると但馬すなわち吉備族のニオイもしているようである。

JR纏向駅から歩いて5分くらいのところに一の鳥居あり。
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そこから山の辺の道を1.6Km歩いたところに当社がある。

山の辺の道沿いに、相撲神社(右側)と穴師坐兵主神社(正面)がある。
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社号標「大兵主神社」
旧県社
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式内社三社が合祀されている。
・式内社 大和國城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗
・式内社 大和國城上郡 卷向坐若御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗
・式内社 大和國城上郡 穴師大兵主神社

御由緒:
当社は3神殿にして、古典の伝えるところによると、今より、2千年前の御創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈年、月次、相嘗、新嘗のもろもろの官幣に預り、元禄5年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社である。
御神徳: 衣食住を守護し、風水を司る。」

巻向山(穴師山)山中・弓月岳にあった穴師坐兵主神社(上社)が、応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社(下社)に合祀され、同じく巻向山にあった卷向坐若御魂神社も合祀されて、現在のような祭祀形態となったらしい。

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

鳥居をくぐり先に進む。
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しばらく山道を歩く。
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ここで、山の辺の道と分かれ、境内に入る。
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一段上がると、由緒書きがある。参道はまだ続く。
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手水舎
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少し行くと、まことに可愛い狛犬が迎える。大正?年奉納。

なんと、阿形の狛犬は舌を出している(笑)
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吽形には角があるが、それも可愛らしい。
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祓社
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社殿前に広場あり。
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社殿には、石段を上がるが、大きな石灯篭が二組あり。
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拝殿前の狛犬。
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拝殿
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向拝は唐破風
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本殿は、拝殿から更に石段で上がる。
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本殿は、三社が並ぶ。
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中央に祀られている兵主神は、穴師坐兵主神社の祭神。
社伝によると垂仁天皇二年の創祀。鏡を御神体とするらしい。
貞観元年に従五位下から従五位上に神階が昇り、延喜の制では名神大社に指定された。

兵主神については諸説あり、神社案内では御食津神。
一説には軍神として、大己貴神としたり、中国の武神・蚩尤とする。

『史記封禅書』の八神に、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主があり、兵主は「蚩尤」であり、黄帝と戦った軍神で、兵器の創始者である。
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兵主神は但馬に多くみられる。

右に祀られている若御魂神は、社伝では三種の神器を守護された稲田姫命。
勾玉と鈴を御神体とする、芸能の神。
一説には稚産霊を祀ると考えるものもある。

左に祀られている大兵主神は、社伝では、剣(ホコ)を御神体とする武勇の神、相撲の祖神らしい。
一説には兵主神の親神として素盞嗚尊を祀るとするものあり。

また、穴師という鉄生産の地との関係から、大兵主(あるいは兵主)を天日矛とする説もある。


神紋は「橘」。
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境内社に参拝。

出雲大神
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水神社、橘神社、稲荷社
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この境内社は立派だが、不明。
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天王社
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これで参拝を終え、纏向駅の近くまで来た道を戻り、箸墓古墳に向かった。


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相撲神社

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鎮座地:奈良県桜井市大字穴師
参拝日:2017年3月23日

青春18キップ二日目の午後、JR纏向駅から山の辺の道を歩いてきましたが、目的地は相撲神社と穴師坐兵主神社です。

手前に相撲神社があり、奥に穴師坐兵主神社がある。
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山の辺の道沿いに「カタヤケシ」の説明あり。
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この説明を読んで疑問に思ったのは、「カタヤケシ」というのはこの辺の地名であるみたいだが、どうしてカタカナなのか?

家に帰ってから調べてみたが、ベストアンサーは下記URLサイトにあり。
https://oshiete.goo.ne.jp/qa/180508.html

結局、カタカナでしか表されていない。
アイヌ語など古語の地名がそのまま残っている場合、たいていは漢字が当て字されているが、それかもしれない。

相撲神社と石標
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社号標だと思い、近寄って読むと「穴師大明神大宮司 祭神野見宿禰公」とあり。
この相撲神社は、大兵主神社(穴師坐兵主神社)の摂社だということがわかります。
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 『日本書紀』は第11代垂仁天皇7年のこととして、次のような逸話を伝えている。その頃、當麻邑に當麻蹶速(たいまのけはや)という力自慢がいて、何とかして強力な者と命がけで力比べをしたいと言っていた。そのことを聞いた天皇は、當麻蹶速に勝る者を探させた。そして見つけだしたのが出雲の国の野見宿禰である。早速二人による我が国初の天覧相撲がこの地で催された。試合の結果は野見宿禰の圧勝に終わった。當麻蹶速のあばら骨を踏み砕き、腰を踏みくじいて殺してしまった。天皇は當麻蹶速の土地を没収して、野見宿禰に与えられた。野見宿禰はそのままとどまって天皇に仕えたという。

わが国初の天覧相撲の後、皇極天皇元年(642)には、宮中において百済からの使者をもてなすために相撲が行われました。
聖武天皇の時代にも宮中の庭で相撲が取られ、さらに平安時代には相撲節会(すまいのせちえ)として定着していくようになります。相撲節会とは宮中の年中行事の一つで、毎年陰暦7月26、27、28日の3日間にわたって、諸国から召し出された相撲人が天皇の御前で相撲を取ったと言い伝えられます。


石造明神鳥居
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力士像
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土俵
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ここが、国技発祥の地だという説明。
昭和37年(1962)10月6日には、相撲発祥の伝承地である相撲神社境内のカタヤケシに於いて、当時の時津風理事長を祭主に、大鵬、柏戸の両横綱以下全幕内力士が参列して手数入り(てずいり 横綱の土俵入り)が奉納されている。
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社殿
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ご祭神:野見宿繭

 野見宿繭は日本書紀・垂仁天皇32年7月の条に、再び埴輪の考案者として登場する。
垂仁天皇の母の弟の倭彦命(やまとひこのみこと)が亡くなられたとき、身狭の築坂に陵を築き葬った。このとき、近習の者を集めて、全員を生きたままで陵の周りに埋めた。数日たっても死にきらず彼らの泣き声が昼夜にわたって聞こえ、死んだ後の腐乱した死体を犬や鳥が集まってきて食べた。天皇は彼らのうめき声に心を痛め、それ以後殉死を禁止した。

皇后の送葬にあたり殉死(近習の生埋め)に代わる方法を望んだ天皇に対し、野見宿禰が出雲国の土部(はじべ 土器作りの職人)百人を呼びよせて埴土(はにつち)で人や馬などを作り、陵墓に供えることを提案。天皇は喜んで宿禰の案を採用し、功賞として鍛地(かたしところ 陶器を成熟させる地)を授け、土師の職に任じたという。この時、出雲から来た土部たちが住み着いた地が今の桜井市出雲、というのが先の伝承だ。出雲集落の古墳が古くから野見宿禰塚と呼ばれてきたことも、宿禰の故地という意識があったことを物語る。

野見宿禰の墓と伝えられる五輪塔が現在、桜井市出雲にある十二柱神社の境内に建っている。その野見宿禰の塚が、明治16年(1883)まで五輪塔の西南約150mのところにあった。直径20m以上もある豪壮な塚で、その上に巨大が五輪塔が置かれていた。大昔から近在の人々や力士が常々お詣りしていたが、明治16年に突然取り壊されることになり、五輪塔はそのとき現在の場所に移されたという。

今回の旅で、桜井市出雲にある十二柱神社にも参拝したかったのだが、今回廻ろうとした地域からちょっと離れていたので、残念ながら割愛した。
いずれ、参拝したいと思っている。

社殿の近くにあった、日本相撲協会が建てた、長谷川路可氏画の「勝利の聖 野見宿禰」碑
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境内にあった万葉歌碑。
「巻向の 桧原も未だ 雲いねば 小松が末ゆ 淡雪流る」(巻10-2314 柿本人麻呂)
文芸評論家の山本健吉氏の揮毫。
「巻向の桧原の地に、まだ雲もかかっていないのに松の枝先を淡雪が流れるように降っている。」という意味になります。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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