栃木市・神明宮

20171101

所在地:栃木県栃木市旭町26-3
参拝日:2017年10月11日

この日、歴史クラブの定例見学会で、午前中ガイドさんの案内で各所を見たあと、午後の自由行動の際に参拝した。

社号標と鳥居
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神明宮の由緒:
当社は勧請の因記詳ならずも中興改築の棟礼に、応永十壬寅年(第百代後小松天皇の御宇)九月十六日正遷宮、天照皇大神、祇園牛頭天皇とあり。
応永の頃は皆川紀伊守の所領にして、同家は藤原氏の系統なるにより其の最も尊崇する素盞鳴雄命を相殿に祭祀せるものなるべし。
爾来近郷榎本城の支配を受けしが、天正年間豊臣秀吉小田原城征伐の挙あるや、時の城主榎本藤四郎は北条氏に属せしめた宗家小山氏(現在の小山市)の居城小山城落城と共に榎本城も没落せりと旧記に見ゆ、
又大字栃木城内に皆川広照公の支城ありて神明宿なる小字あり、是当社の旧地なりしを天正十七已午年正月十六日現地に奉遷宮されたるものなり。
徳川氏天下に覇たるに及び、或は代官領となり、或は知行所となり幾多星霜を経て、御祭事は町奉行之を掌りて、社家之を執行し来たれり、
当社は明治五年に県社に列せられ、奉告は時の栃木県令鍋島幹之を行う。
同六年境内に於ける禁制の高札を下賜せらる。これ実に県下初めてのことである。

ちなみに「栃木」の地名はこの神社からであるという。
伊勢皇大神宮に倣って神明造りの社殿の屋根にある千木(ちぎ)が十本あることから、「十の千木」→「とちぎ」→「栃木」という地名がついたという話である。
千木は、もともと破風板をそのまま延ばしたもので、両端に二本ずつである。
しかし雨仕舞が悪いので、破風は屋根の下で留め、屋根の上に「飾り千木」を置いているのが普通。これだと確かに屋根に五組置くことは可能となる。
現在の本殿には4本しかないが、昔の社殿はそうなっていたのかもしれない。


鳥居の前に、文化15年(1818)奉納の狛犬が居た。
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参道
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神明宮の説明
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車止め
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車止めのすぐのところに、琴平宮奉献の石燈籠(亀田鵬斎揮毫)が壱基ある。
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龍と象の彫刻が見事だ。
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石燈籠に象の彫刻は初めて見たが、香川県の金刀比羅宮は、象頭山中腹に鎮座する神社であるので、そこから来ていると思われる。

手水舎
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参道両側に石灯篭が並ぶ。
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現在の拝殿は、中教院として全国的に展開された皇道宣布の強力な教化の施設として建立。
明治十五年一月内務省が神官の教導職兼務解除(神仏分離令)のため、中教院も閉鎖。廃院の元中教院を受入れ社殿として補修を加へ神明宮社殿として再建、現在に至っている。
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向背にある額には「盛哉」と書かれている。
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社額
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拝殿の中は見えなかった。
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本殿は明治十二年三月の地鎮祭に始り同十六年十月に竣工五年有余の年月をついやし総欅素木の神明造銅板葺の本殿として造営されたそうです。
拝殿もさることながら本殿も大きさを誇っている。
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主祭神は天照皇大神。
配神として素盞雄命、造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)を祀る。

神紋は「十六弁八重菊と右三つ巴の重ね」
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これが悩んだ。私が持っている家紋の辞典には載っていなくて、見たことがある形だが何だろうと悩んだ。
そのうち、栃木の地名の由来に思い至って、氷解した(笑)
「十+千木」である。
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社務所の前に、カラフルな茅の輪が置かれている。
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奏楽殿
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境内社
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中をのぞいて、涙がこぼれた。
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境内社は須賀神社、恵比須神社、大国主神社、魁稲荷神社、淡島神社、琴平神社、富士浅間神社、市姫神社、愛宕神社、小御嶽神社、松尾神社、福寿稲荷神社との説明だが、それが全部ここに押し込められているみたいだ。

明治政府の悪法「神社統合令」で、その地域の神社が一か所に集められたのだが、
普通は長い社に横に並べられて祀られている。
拝殿、本殿が立派なのに対して、対比的に気の毒に思われた。

ご神木の銀杏の木
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隣接南側は皇太子殿下御慶事記念として設置した、記念公園栃木市第二公園がある。

そちらに向かうと、まず小鳥の小屋がある。
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藤棚
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大きな池がある。
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社伝の裏にも、気持ちのいい水路が設けられていた。
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(了)


「神社巡拝」に飛ぶ



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築土(つくど)神社

20171015

所在地:東京都千代田区九段北1-14-21
参拝日:2017年5月31日

将門伝説にちなむ神社として参拝しました。
地下鉄九段下駅からあるいてすぐの所にあります。

交差点から築土神社に上がる坂の上がり口に標柱が立っている。
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神社は高いビルの奥にある。
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ビルの頂上には、大きな剣が屹立している。
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神社入り口の鳥居
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鳥居の社額
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創建時の祭神・平将門に因み、武勇長久の神社として親しまれ、千代田区北の丸公園にある日本武道館の氏神でもある。 毎年正月に授与される勝守(かちまもり)は有名。

ご祭神は、現在は天津彦火邇々杵尊(あまつひこほのににぎのみこと)を主祭神とし、平将門、菅原道真を配祀する。

江戸時代の文献によると、当社内には平将門の首(頭蓋骨や髪の毛)そのものが安置されていたといわれ、数ある将門ゆかりの社寺の中で、将門信仰の象徴的神社となっていた。明治に教部省の指示により将門は相殿に格下げされ、現在は天津彦火邇々杵尊が当社の主祭神となっている。
戦災で当社が焼失するまで、将門の首を納めたという首桶、将門の肖像画(束帯姿)、木造の束帯坐像等が社宝として伝わっていた。昭和20年4月、戦災により社殿とともにそれらは焼失し、現在は一部の写真が残るのみである。
拝殿の装飾や絵馬などには、巴紋のほか平将門に因んだ繋ぎ馬(つなぎうま)の紋が使用されている。これは神社境内にある天水桶(文政元年)の彫刻を模したもので、築土神社の登録商標である(平成23年現在)。

歴史:
天慶3年(940年)6月、江戸の津久戸村(上平川村、現:千代田区大手町一丁目将門塚付近)に平将門の首を祀り、塚を築いたことから「津久戸明神」として創建されたという。
室町時代に太田道灌により田安郷(現:千代田区九段坂上)へ移転させられて以降は「田安明神」とも呼ばれ、日枝神社、神田明神とともに江戸三社の一つにも数えられることもあった(江戸三社のうち、日枝神社、神田明神以外は固定していない)。
元和2年(1616年)に江戸城の拡張工事により筑土八幡神社隣接地(現:新宿区筑土八幡町)へ移転し、「築土明神」と呼ばれた。
明治7年(1874年)天津彦火邇々杵尊を主祭神として「築土神社」へ改称する。
300年以上の間、筑土八幡神社と並んで鎮座していたが、1945年の東京大空襲によって全焼し、1954年、現在の九段中坂の途中にある世継稲荷境内地へ移転した。
平成6年(1994年)、境内地にオフィスビルを建設するとともに、鉄筋コンクリート造の社殿を新築。
平成18年(2006年)の築土祭では、安政6年(1859)の神田明神以来、実に147年振りに神輿渡御行列の江戸城入りを果たしている。

ビルの下の参道
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ビルの下から抜けるところに、安永9年(1780)奉納の宝珠・角型狛犬が居る。
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手水舎
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拝殿
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唐破風の上に鳳凰(?)が居る。
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参拝所
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社額
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社殿の背後に回ると、本殿を拝することができる。
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背後には、鹿のオブジェなどが置かれていた。
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主祭神:
主祭神は天津彦火邇々杵尊
相殿神が、平将門公、菅原道真公

神紋は「右三つ巴」と「繋ぎ馬」
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天水桶には将門公の「繋馬(つなぎうま)」が彫刻されているが、伝説では、将門が挙兵した時、突然空に一筋の稲妻が走り落下して黒馬に変わると、将門はこれに乗り戦場を縦横無尽に駆け巡ったとされる。「繋馬」は家紋や社紋として使用されることも多く、当社でも拝殿の門帳には「繋馬」を神紋として用いている。

境内社・世継稲荷(田安稲荷)
倉稲魂神を祭神として、嘉吉元年(1441)頃、飯田町に創建された稲荷神社である。当時はこの辺一帯を田安村といったことから、「田安稲荷」と称されていた。二代将軍秀忠が社に参内し「代々世を継ぎ栄える宮」と称賛し、これ以降「世継稲荷」と称されるようになったと伝えられている。元禄10年(1697)の大火で被害を受け翌年に再建した頃より、地域町人の守護神になっていった。享保15年(1730)以降、田安家の鎮守神としても崇拝された。また、文久2年(1862)に14代将軍家茂の正妻・和宮が子宝を願って参詣した。現代も子宝や後継者を願う人々に信仰されている。
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力石
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(了)


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太平山(おおひらさん)神社

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鎮座地:栃木県栃木市平井町659
参拝日:2017年8月30日

この日は、歴史クラブで催行する定例見学会「蔵の町・栃木市」の下見で訪れた。
この神社に参拝するには、東武日光線かJR両毛線の栃木駅からバスで「国学院栃木」まで行き、そこから1000段の石段を上がることになる。
それでは、足が覚束ないという人は、タクシーで境内までいくことが出来る。
そこまでは、という人は随神門前までタクシーで行き、そこからの230段の石段を上がることがお薦めだ。
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ここでは、1000段石段を下から上がって案内する。

バス停から歩いてすぐに、「あじさい坂」が始まる。
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二の鳥居(神明鳥居)
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この鳥居の横に、「六角堂」がある。
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天長2年(825)、比叡山延暦寺の天台座主慈覚大師の開創で、もとは太平山の別当寺、現在の太平山神社境内にありました。

江戸前期の寛永18年(1641)に、東叡山寛永寺の直末に補された天台宗の大寺で、三光院、報恩院、多門院、安楽院の四寺を支配していた。
ご本尊は、慈覚大師作と伝えられ、県内で最も古い木造彫刻の虚空蔵菩薩で、平成2年(1990)県指定有形文化財(彫刻)となりました。

その後、明治元年(1868)の神仏分離令により、太平山の旭岳(現在の太平少年自然の家敷地)に仮堂を建て移転しました。
この仮堂は、明治35年(1902)の暴風雨の際、堂宇が崩壊し、同年信徒有志の浄財により、現在地に京都頂法寺の六角堂を模し堂宇を建立したため、通称六角堂とよばれ、平成6年(1994)市指定有形文化財(建造物)となりました。

下から入り直します。
昭和20年奉納の狛犬が居ます。神仏習合の名残。
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六角堂
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そこから坂を上がっていきます。
また神明鳥居があり。
この辺は、僅かな段差で石段となっているが、数えてみた結果、これも1000段に入っている(笑)
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上がっていくと、社号標、鳥居、神橋がセットになったところに出た。
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「大平宮」の額がかかった銅製明神鳥居
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そこからまた上がっていくと、両側の藪の中に狛犬あり。
奉納年代は不明。
両方ともに阿形。
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大きな杉の木が。
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根元に秋海棠が咲いていた。
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ちょっとした踊り場に出た。
左手に行くと「太平沢園地」
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やっと、上のほうに赤い随身門が見えた。
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随神門に到着。
770段上がってきたことになる。
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随神門
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現在は、表に随神が侍っている。
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随神門をくぐると、天井には龍の絵が。
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仁王さんは、以前と異なり裏側に回っている。
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ここで、太平山神社の由緒を、神社の由緒書きから載せておく。
御鎮座略記:
太平山神社の歴史は、『諸神座記』をはじめとする多くの古文書によれば、第11代垂仁天皇の御代に、大物主神(おおものぬしのかみ)・天日一大神(あめのまひとつのおおかみ)が三輪山(現在の太平山)に鎮座されたときに始まると云われております。今からおよそ二千年も昔のことですが、太平山は非常に古くから信仰されていた山であったことが伺い知れます。
 太平山は「天長四年に慈覚大師が開山した山」として、今日に伝わっておりますが、『太平山開山記』によれば、「円仁(慈覚大師)は何年にもわたり太平山の入山を拒否されていたが、淳和天皇の御代の天長4年(827)、天皇の勅額を奉じることで、ついに入山を果たした」とあります。また、「太平山神社」という社号は、「天下太平を祈る社」として、勅額とともに淳和天皇から賜ったとも伝えられています。
 これ以降、太平山は神仏をまつる山となり、中世までには、神仏鎮まる御山として一大宗教の霊地となり、神社や寺院が八十余も遷座・建立されました。
 明徳2年(1392)には、後小松天皇から「太平山神社」の額を奉じられましたが、これら淳和・後小松両天皇の額は、天正13年(1585)の戦火で焼失してしまいました。
 戦国時代に「後北条氏と対立する上杉謙信が太平山から関東を臨んだ」という言い伝えが残っているように、関東平野を広く一望できる霊地に太平山神社は鎮座しております。天正年間に兵火によって社殿が焼失してしまう不幸がありましたが、近世の初期には速くも復興し、徳川幕府から朱印地を認められました。三代将軍家光の時代には、春日局が将軍のお世継ぎ誕生を祈願したことでも知られております。また、『雲上明鑑』『雲上明覧』には「下野太平山宮司」「野州 大平山神主」「野州 大平山別常」と記載されており、武家伝奏を通して朝廷に執奏する社でもありました。寛政年中(1789~1801)には「御願御抱場」とされるなど、民衆のみならず朝廷や幕府からも「天下太平を祈る社」として信仰されていました。
 太平山神社は、様々な歴史を経てまいりましたが、古い昔から、多くの人々の心を支え続けてきたのです。

御神徳記:
 太平山神社は瓊瓊杵命(ににぎのみこと)、天照皇大御神(あまてらすおおみかみ)、豊受姫大神(とようけひめのおおかみ)をはじめ、多くの神様をお祀りしています。
 第53代淳和天皇の御代、風水害や疫病などで人々は苦しんでおりました。それに天皇は御心を痛められ、「下野国(今の栃木県)の霊峰三輪山(現在の太平山)に天下太平を祈る社を造営せよ」との詔を賜り、日の神であり太陽のように命を育む「天照皇大御神」、月のように人々に安らぎを与える「豊受姫大神」、星のように人生の道案内をしてくださる「瓊瓊杵命」、この「日・月・星」の御神徳をあらわす三座の神様をお祀りする社が造営されました。すると忽ち世の中は治まり、大いによろこばれた浮和天皇は、「太平山神社」の勅額を下賜されたのです。
 そして、もともと此地で劔宮(つるぎのみや)、または武治宮(ふじのみや)としてお祀りされていた神様は、奥宮として鎮まりました。
 以来、太平山に鎮座なされる神々は、「国を太平に治め、社会を平和に導き、家内の安全を守り、商業を繁栄に導き、人々を守護する祈願成就の神様」として万民の心を支え、篤く信仰されるようになりました。
 「おさめの神が鎮まります御山」である太平山には、御神徳あらたかな神々が鎮座しており、多くの祭典が執り行われ、人々の幸せを祈り続けているのです。


天日一大神(あめのまひとつのおおかみ)は、日本神話に登場する製鉄・鍛冶の神であることが注目される。

随神門のすぐ後ろに、狛犬が居たが、これは天保13年(1842)奉納のもの。
驚いたのは、右の阿形が逆立ちをして、左の吽形が構えている。
これは北陸の金沢を中心に分布している「金沢型」とまったく同じ姿勢だ。
しかし、「金沢型」は明治になってからと云われているから、こちらの方が早い。
この辺に同じ発想をした石工さんが居たということだろうが、驚いた。
阿形の逆立ちのほうが、一部壊れているのが痛々しい。
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また、せっせと上がる。
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この辺は、けっこう傾斜がきつい。
今くぐってきた随神門を見下ろす。
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二代目横綱「綾川五郎治」受け止めの石
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境内の石垣のところまで来た。
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銅の明神鳥居
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掲額には「三光神社」とあり。
後になって祭神となった三神を「三光」としたのだろう。
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最後の石段
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勅使門
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境内に到着
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手水舎
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ここは、拝殿は無く、本殿のみとなる。
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御祭神は、天照皇大御神、豊受姫大神、竣竣杵命

本殿前の狛犬は、宝珠・角型。
通常と異なり、右側に角を持った獅子が居る。
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左側に、宝珠を載せた獅子。
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境内の案内図によって、境内社に参拝。
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ご神石
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交通安全神社
ご祭神:猿田彦命
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福神社
御祭神:恵比須神、大国主命
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蛇神社
御祭神:蛇神様(水神様)
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星宮
ご祭神:磐裂根裂神、天之加々背男命、天海水木土火金地
子易神社
ご祭神:木花開耶姫
天満宮文章學社
ご祭神:菅原道真公、莬道稚郎子命
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太平山稲荷神社
ご祭神:豊宇気毘売神
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三輪神社
ご祭神:大物主大神、大巳貴大神、少彦名神
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このお宮の横に立っている灯篭は、一つの石から出来ているとのこと。

足尾神社
ご祭神:日本武尊(天狗様)
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たくさんの下駄が奉納されていた。
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皇大神宮・稲荷神社・厳島神社・上宮神社・天満宮・大杉神社・織姫神社・浅間神社・愛宕神社・八幡神社
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神馬舎
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覗いて吃驚した。
金の神馬であった。
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これで参拝を終え、下界を見下ろす。
天気が悪かったので、この程度しか見えないが、天気が良いと素晴らしい景色だろう。
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(了)


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吾嬬神社

20170913

鎮座地:東京都墨田区立花1-1-15
参拝日:2017年9月10日

この神社に、いい狛犬が居るとの情報があり、この日参拝しました。
東武亀戸線「小村井」駅から明治通りを500mほど南下すると、福神橋のたもとにあります。

福神橋
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福神橋は北十間川にかかっており、福神橋から西を見ると、正面に東京スカイツリーが見える。
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この川筋が古代~中世の海岸線だったらしい。

吾嬬神社入り口に社号標。
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すみだの史跡散歩による吾嬬神社の由緒:
この地は江戸時代のころ「吾嬬の森」、また「浮州の森」と呼ばれ、こんもりと茂った微高地で、その中に祠があり、後「吾嬬の社」と呼ばれたとも言われています。この微高地は古代の古墳ではないかという説もあります。
吾嬬神社の祭神弟橘媛命を主神とし、相殿に日本武尊を祀っています。当社の縁起については諸説がありますが、「縁起」の碑によりますと、昔、日本武尊が東征の折、相模国から上総国へ渡ろうとして海上に出た時、にわかに暴風が起こり、乗船も危うくなったのを弟橘媛命が海神の心を鎮めるために海中に身を投じると、海上が穏やかになって船は無事を得、尊は上陸されて「吾妻恋し」と悲しんだという。
のち、命の御召物がこの地の磯辺に漂い着いたので、これを築山に納めて吾嬬大権現として崇めたのが始まりだと言われています。
降って、正治元年(1199)に北条泰時が幕下の葛西領主遠山丹波守に命じて、神領として300貫を寄進し社殿を造営しています。さらに、嘉元元年(1303)に鎌倉から真言宗の宝蓮寺を移して別当寺としています。これらによっても、当社の創建は相当古いものと考えられます。
なお、奥宮と称される本殿の裏手には狛犬が奉納されています。樹木の下にあって磨滅は少なく、安永2年(1773)の銘を持ち、築地小田原町(築地6・7丁目)、本船町地引河岸(日本橋本町)の関係者の奉納であることがわかります。かってはこの森が海上からの好目標であったこともうかがわせます。(すみだの史跡散歩より)

由緒書き
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入るとすぐ左手に、紀真顔高麗剣の歌碑がある。
文政12年※昭和40年9月破損にて再建
『高麗剣わざこそ歌の一風流を我たまひしと人強く磨けり』。
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紀真顔:
江戸後期の狂歌師,黄表紙作者。江戸の人。本名は北川嘉兵衛。別号は狂歌堂,四方歌垣(よものうたがき),俳諧歌場。数寄屋橋外の汁粉屋で,はじめは恋川好町(すきまち)の名で黄表紙作者。狂歌は四方赤良(よものあから)(大田南畝)に師事して判者を譲られ,四方側の領袖となる。狂歌四天王の一人。天明狂歌の第二世代として宿屋飯盛(石川雅望)と双璧をなすが,純粋天明調を首唱する飯盛に対し,狂歌を優美高尚なものにしようとして俳諧歌と呼んだ。

参道は、まっすぐ、やや下っている。
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神橋
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神橋を渡ると広場となり、石垣で高くなったところに社殿あり。
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石垣の下にも幾つか並んでいる。

古い社号標
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縁起を刻んだ石碑
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源延平の歌碑
『皇国はかみ代のままの道しあれことなる文のをしへ何せむ』
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石段を上がり、鳥居をくぐると、左手に手水舎あり。
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右には、楠がある。
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「神樟」の碑
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神木「連理の楠」。
墨田区の登録有形文化財。明治時代には幹周りが4~5mはあったというが、大正時代に枯れてしまった。この木の葉を煎じて飲むと、諸病に効くとされていたという。
説明
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枯れた幹が、まだ残っている。
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その横に新しい楠が勢いよく茂っている。
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社殿を挟んで反対側に、「吾嬬森碑」がある。
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説明
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歌川広重の「江戸名所百景」
「吾嬬の森連理の梓」
「梓」としてしまったのは、広重と版元のケアレスミス。
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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本殿は石祠であるが、フェンスに阻まれ、近づくことはできない。
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ご祭神は弟橘姫命
ご相殿神が日本武命

本殿の前に、安永2年銘狛犬が居ます。
(説明板)
この狛犬は比較的小型の一対ですが、世話人10名と奉納者22名もの名前が刻まれています。そのほとんどが築地小田原町(中央区築地6・7丁目)や本船町地引河岸(中央区日本橋本町)など日本橋の商人であることから、海運・漁業関係者との繋がりをよく表しているといってよいでしょう。このことは吾嬬神社の由来に起因しています。日本の神話に、日本武尊命が現在の東京湾を舟で渡っている時に神の怒りに触れ、往生していた時に妻の弟橘媛が海に身を投げて海神の怒りを鎮めたという話があります。この媛の品が流れ着いた所がこの地だったということです。以来、海や川で働く人々の守護神として信仰されてきたわけです。また、昔は地盤沈下していなかったため、この社の裏の「吾嬬の森」と呼ばれた森が小山のように広がり、海上からの好目標だったことも崇敬を集めた理由のひとつでしょう。現在、鉄柵の奥にあるため近づくことはできませんが、かえって台座に刻まれた人名など、良い状態で保存されています。
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力石が5個あり。
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一番大きいのは、五十貫二百目
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神輿庫
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境内社の福神稲荷神社
御祭神:宇賀之魂之命、大国主之命、金山彦之命
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社殿の前に、狛狐が居た。
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(了)



「神社巡拝」に飛ぶ



代々木八幡宮

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鎮座地:東京都渋谷区代々木5丁目1-1
参拝日:2017年7月27日

小田急線「代々木八幡」駅から歩いて5分ほどのところにあります。

岡一つが丸々境内になっており、入り口から上がっていきます。
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社号標
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旧社格は村社。
八幡神として応神天皇を主座に祀り、天祖社・天照大神、白山社・白山大神を配祀する。

建暦2年(1212年)、源頼家の近習・近藤三郎是政の家来であった荒井外記智明によって創建された。頼家が修禅寺で暗殺された後、智明は武蔵野国代々木野に隠遁し主君の冥福を祈る日々を送っていたが、建暦2年8月15日の夜、鎌倉の八幡大神から宝珠のような鏡を授かり、託宣を受ける夢を見た。そこで、同年9月23日、元八幡の地に小祠を建て鶴岡八幡宮より勧請を受けたのが当社の始まりであると伝える。現在でも例祭は9月23日に行われている。

当社は草創以来、社僧の手によって管理されてきた。別当寺であった福泉寺の文書によれば、 天保元年(1644)伝養律師が中興開山として天台宗に改め、次いで二世の僧が社殿、植林などの整備を行い、 三世の長秀法師の代に現在の場所へ奉遷したといわれている。
これは大和国岩掛城主・山田政秀の第六女、 紀州家側室・延寿院殿が甥であった長秀法師のために社地6000坪を始めとする数々の寄進をしたことで実現した。
明治維新以降、神仏混淆が禁止され当社は村社に列せられた。 江戸時代からの稲荷社、天神社の末社に加え、旧代々木村にあった小さな神社が合祀され、 天祖社(天照大神)と白山社(白山大神)が八幡さまの配座に祀られた。

昭和25年、境内の発掘調査が行われ、縄文時代の住居跡などが発見された。境内に竪穴式住居を復元したものがある。「代々木八幡遺跡」として渋谷区の史跡に指定されている。

社号標のところに、昭和36年(1961)奉納の、威嚇型狛犬が居る。
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一の鳥居
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ここで、拝殿前にあった境内図をアップしておきます。
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一の鳥居から弓なりの参道があり、二つに分かれている。
右は二の鳥居からの参道、左は竪穴式住居を復元した「代々木八幡遺跡」に向かっている。
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右に行き、左に折れて二の鳥居になるところに、庚申塔が並んでいた。
ここは福泉寺の境内だと思う。
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青面金剛庚申塔が二体あり、宝永6年(1709)と寛政6年(1794)のものがあった。
宝永6年(1709)造立のものをアップしておく。
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宝暦5年(1755)造立で、地蔵菩薩を主尊とする珍しい庚申塔があった。
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二の鳥居
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二の鳥居と拝殿の参道中間に狛犬が居る。
天明9年(1789)奉納、はじめ型(尾立ち)
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手水舎の手前に、石灯篭あり。
代々木の原に大日本帝国陸軍の代々木練兵場が1909年(明治42年)造られた際、この地から立ち退くことになった居住者らが別れを惜しんで奉納した石碑、「訣別の碑」がある(二基ある灯篭の竿石部分)。
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手水舎
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拝殿前に、三組目の狛犬が居る。
明治26年(1893)奉納、江戸流れ尾型で、台座の彫刻も含めて素晴らしい出来のもの。
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拝殿
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向背破風は、千鳥破風と唐破風の二重。
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向背破風懸魚の彫刻は鳳凰。
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向背部中備えの彫刻は龍。
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軒の破風に降り懸魚の彫刻があり。
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社額
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拝殿内部は、御簾が下がっていて伺うことは出来ず。
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本殿
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ご祭神は、応神天皇。
配祀神が、天照大神と白山大神

ご神紋は「右三つ巴」
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神楽殿
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保存されている「代々木囃子」と「代々木もちつき唄」の説明あり。
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神輿庫
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境内社に参拝。
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稲荷社(ご祭神:豊受大神)・天神社(ご祭神:菅原道真公)・榛名社(ご祭神:日本武尊)
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出世稲荷社
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富士登頂記念碑
富士講が建てたもの。
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この辺にある碑を観察してみると、富士山の溶岩を使って「稲荷山」を建てたものらしい。
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石祠
ご祭神不明
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〇代々木八幡遺跡出土品陳列館
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或る程度の暮らしが再現されている。
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出土した縄文土器
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出土した石器
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石皿と凹石・磨石
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縄文時代の根源的な信仰対象「石棒」
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これで、一応の参拝を終え、しばらく境内で休憩してから、「代々木八幡遺跡復元竪穴住居」を見に行った。

広い境内の林の中にある。
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〇代々木八幡遺跡復元竪穴住居
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これで、ここの参拝を終えて、次の目的地に移動しました。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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