多太神社/石川県小松市

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鎮座地:石川県小松市上本折町72
参拝日:2016年11月26日

この日、富山県福光の「巴塚の松」、石川県加賀市の「実盛塚」、小松市の「那谷寺」、樹齢2300年の栢野大杉を回ったあと、ここに来ました。
ここには、実盛の冑が奉納されているのと、芭蕉が有名な句「むざんやな甲の下のきりぎりす」を詠んだ場所です。

社号標
式内社 加賀國能美郡 多太神社、旧県社
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多太神社由緒:
当社は創祀が遠く古代までさかのぼる古社である。社縁起によると 六世紀初め武烈天皇の五年に男大跡王子(後の継体天皇)の勧請によると伝えられ、平安時代初期には延喜式内社に列している。寛弘五年(1008)に舟津松ケ中原にあった八幡宮を合祀し、多太八幡宮と称した。
寿永二年(1183)源平合戦のとき木曽義仲が本社に詣で、斉藤実盛の兜、鎧の大袖等を奉納し戦勝を祈願した。
室町時代初めの応永二十一年(1414)には、時衆第十四世大空上人が実盛の兜を供養された。 以来歴代の遊行上人が代々参詣されるしきたりが今も尚続いて いる。
大正元年に本殿後方から発掘された八 千五百余枚に及ぶ古銭は 室町中期の十五世 紀初めに埋納されたもので 当時の本社の活 動と勢力の大きさを示すものである
慶長五年(1600)、小松城主丹羽長重が古曽部入善を召出され、三男の右京に社家を守らせ、舟津村領にて五丁八反二四三歩を寄進されたことが記録にある。加賀三代藩主前田利常は、寛永十七年(1640)に社地を寄進し、慶 安二年(1649)の制札には、能美郡全体の総社に制定し、能美郡惣中として神社の保護と修 理にあたるべきことを決めている。
元禄二年(1689)松尾芭蕉が、奥の細道の途次本社に詣で、実盛の兜によせて感慨の句を捧げている。歴代の加賀藩主及び為政者はいたく本社を崇敬し、神領や数々の社宝を奉納になった。
明治十五年に県社に指定された。
-境内由緒石碑-

鳥居前に、実盛の兜の説明碑があり。
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鳥居掲額
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鳥居をくぐると、芭蕉像あり。
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芭蕉の句碑と解説碑があるが、これは新しいもの。以前からの句碑は拝殿前にあり。
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続いて参道には斉藤実盛像があり。
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玉垣の中に入る。
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手水舎
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昭和4年奉納の狛犬
後足が立った形で珍しい。出雲地方に多い「かまえ型」ともちょっと違う。
ありそうで、ほとんどないタイプ。
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拝殿
雪国らしい造りである。
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社額
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拝殿内部
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右手からは、本殿はほとんどうかがえず。
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左手に回ってみると、瑞垣が列柱になっていて、見ることが出来た。
本殿も、雪国らしく、石垣を高く積み、覆い屋もすっぽりと板壁で覆っている。
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御祭神は、衝桙等乎而留比古命(ツキキネトヲ・シルヒコノミコト)、仁徳天皇

衝桙等乎而留比古命だが、『出雲国風土記』に登場し、素戔嗚尊の子であるという。
多太郷(現松江市東長江町・西長江町・秋鹿町の地域)の条:
「郡家の西北五里一百二十歩の所にある。須佐能乎命の御子、衝桙等番留比古命(つきほことおひこ)が国を巡りなさったときに、ここにいらしておっしゃられたことには、「私の心は明るく正しくなった。私はここに鎮座しよう。」とおっしゃられて鎮座なさった。だから多太という。

これは、まったくの私の感想だが、出雲族が海を北上してここに定住したことをしめしているのだろうか。

神紋は「加賀梅鉢」と「菊菱」である。
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さて、問題の実盛の兜だが、撮影禁止なので、入手した資料から転載しておく。
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当社は、兜の八幡様と呼ばれ、実盛の兜を社宝としている。
この兜は、斉藤実盛の着用していたもの。
実盛は、寿永二年源平の合戦の時、加賀の篠原の地で73歳で討死にした。
初め源氏の義朝に仕えたが、平治の乱後、平家の宗盛に仕え、武蔵の国・長井の庄の別当として居住したという。
争乱の中、幼少の木曽義仲の命を救ったこともあったが、平家敗亡の軍の時、手塚の太郎光盛に討たれた。武者の黒髪を訝って首を洗ったところ、白髪が現れたという。
敵に老武者と侮られることを口惜しいと白髪を黒く染め、潔く散った老将軍であった。
その後、木曽義仲が実盛の供養と戦勝を祈願して当社へ兜を奉献し、現在、国の重要文化財となっている。

境内に、「謡曲 実盛」の説明があり。
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室町時代前期の応永21年(1414年)3月、加賀国江沼郡の潮津(うしおづ)道場(現在の石川県加賀市潮津町に所在)で七日七夜の別時念仏を催した4日目のこと、滞在布教中の時宗の遊行14世太空のもとに、白髪の老人が現れ、十念を受けて諸人群集のなかに姿を消したという。
これが源平合戦時に当地で討たれた斉藤別当実盛の亡霊との風聞がたったため、太空は結縁して卒塔婆を立て、その霊魂をなぐさめたという。この話は、当時京都にまで伝わっており、「事実ならば希代の事也」と、醍醐寺座主の満済は、その日記『満済准后(まんさいじゅごう)日記』に書き留めている。そしてこの話は、おそらく時宗関係者を通じて世阿弥のもとにもたらされ、謡曲『実盛』として作品化されている。以来、遊行上人による実盛の供養が慣例化し、実盛の兜を所蔵する石川県小松市多太神社では、上人の代替わりごとに、回向が行われて現代に至っている。

拝殿前の芭蕉の句碑
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芭蕉翁一行が多太神社に詣でたのが300年前の元禄2年(1689年)7月25日(9月8日)であった。7月27日、小松を出発して山中温泉に向う時に再び多太神社に詣で、それぞれ次の句を奉納した。
あなむざん甲の下のきりぎりす  芭蕉
幾秋か甲にきへぬ鬢の霜     曽良
くさずりのうち珍らしや秋の風   北枝

『奥の細道』には、こう書かれている。
此所、太田の神社に詣。実盛が甲・錦の切あり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より給はらせ給とかや。げにも平士(ひらさぶらい)のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊から草のほりもの金をちりばめ、竜頭に鍬形打たり。真盛討死の後、木曾義仲願状にそへて、此社にこめられ侍よし、樋口の次郎が使せし事共、まのあたり縁起にみえたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす

境内社・松尾神社
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境内社・福久宮稲荷神社
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これで、この日の予定をすべて終了。
金沢のホテルに帰った。


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栢野菅原神社・栢野の大杉/石川県加賀市

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鎮座地:石川県加賀市山中温泉栢野町ト49
参拝日:2016年11月26日

この日、富山県福光の「巴塚の松」、石川県加賀市の「実盛塚」、小松市の「那谷寺」を回ったあと、山中温泉の奥に樹齢2300年の大杉があるというので、ここに来ました。
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菅原神社由緒:
白山を開いた僧泰澄が、大杉は百本の木(木へんに百のつくりで栢)に勝るとし、栢野寺を設け白山の妙理観世音大菩薩を祀り、平安の頃は栢野社、明治5年に廃仏毀釈で古文書を焼却し史実も明らかでないが、明治20年天神様を併せて祀り菅原神社とし、神饌料供進指定社となる。

古くは平氏、源氏、朝倉氏、富樫氏の武将の多くが参詣したと伝えられ、大聖寺川を挟む対岸の菅谷町へ渡る平岩橋たもとの天井壁と呼ぶ岩山の上に、柴田勝家の甥で麾下の佐久間盛政の家来の栢野城と呼ばれた山城の土台石の痕跡が有り、加賀平野(金沢平野)南端が見えるこの地の地勢から加賀一向一揆時代、朝倉氏時代、一揆平定の柴田勝家の時代まで越前領地の東北端境であって一揆約100年間加賀と越前の境で翻弄の中に有ったとも言える。
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鳥居をくぐると、すぐに大杉が林立している。
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【国指定天然記念物・栢野の大スギ】
栢野大杉(かやのおおすぎ)は、石川県加賀市山中温泉栢野町の菅原神社境内にある杉の巨木で、同神社に4本ある神木の1つ。別名天覧の大杉(てんらんのおおすぎ)。
菅原神社境内にある4本の神木のうち、最大のものである。古くから著名であったため、栢野の大杉や栢野の大スギなど、別表記も多い。1928年(昭和3年)11月に国の天然記念物に指定された。指定名称は栢野の大スギである。

樹高約54.8m、根元周約11.5m(径3.41m)、胸高幹周9.6m(径3.0m)、地上高4.9mで幹周5.1mと5.75mの2つに分岐し分岐部直下の幹周約9mの、二又の杉の巨木である。

なお、境内に立つ他の3本の杉も栢野大杉よりは小振りながら、各胸高幹周8.8m、6.65m、7.8mの巨木で2005年(平成17年)8月、「菅原神社の大スギ」の名称で石川県指定天然記念物に指定されている。

明治・大正・昭和期の植物学者三好学(東京大学教授、日本植物学会長)が内務省の嘱託として1928年(昭和3年)に樹齢2,300年と鑑定。同年国の天然記念物に指定された。

この地域の原始植生時代の林相の残存との見方もあるが、4本の杉で長方形を成す位置関係、太さ、推定樹齢、土器の出土等を勘案すれば自然林ではなく、神を祀り植樹されたとも考えられる。

4本の大杉の間に、浮橋参道が設けられている。
2003年(平成15年)から樹木医の奨めにより境内参道の石畳の上に木製の浮き橋「浮橋参道」を設け4本の神木の健康を維持のためさらなる土壌保護を施している。
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奥の二本のうち右側が天然記念物の大スギ。
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天覧の大杉
さすがに、ものすごいパワーを感じた。
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逸話:
倶利伽羅峠の戦いに続く篠原の戦いで負傷の武士が千年の杉を目指せ、よもぎ草だんごを食べよと二度の観音様のお告げから傷を癒し無事に京へ辿り着いたと伝えられ古来からの地元では草だんごを食す風習がある。

1947年(昭和22年)第二回国民体育大会が石川県で開催の折り、昭和天皇が当地を訪れ、栢野の青年の説明のもとこの大杉を見たことから天覧の大杉とも呼ばれる。
生物学者でもあった昭和天皇は栢野から山中温泉へ国道364号の砂利道約2キロを徒歩にて帰る途中、道端の草々やその茎を手に取り観察し、存分に楽しんだことをその夜香淳皇后に長電話したという。
また途中後から来た地元のトラックが天皇を追い越すことができず、後から離れてついてきたが、しばらくしてそのことに気付き、先に行かせよと告げ、その運転手はたいそう恐縮の体であったなどの逸話もある。

【菅原神社】
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二組の狛犬が奉納されていたが、手前の狛犬が秀逸だった。
阿吽立て尾の両獅子型。
向かって右の阿形獅子。
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向かって左の吽形獅子。
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足の蹄がすごい。
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尾の形が素晴らしい。
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拝殿
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向拝
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社額
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本殿
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菅原神社の参拝を終え、大スギを再度眺めながら後にしました。
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続いて、実盛の冑が奉納されていて、そこで芭蕉が句を詠んだ「多太神社」に向かった。



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三囲(みめぐり)神社

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鎮座地:東京都墨田区向島2丁目5−17
参拝日:2016年11月3日(10月2日、2012年4月24日)

3日に浅草寺で「白鷺の舞」を観たあと、吾妻橋から隅田公園を抜けていき、牛島神社に参拝した後、当社に参拝しました。

今回使用している写真は、当日幹事で思うように写真を撮れなかったため、10/2の下見の時、2012年に参拝したときの写真も使っています。

三囲神社に到着。
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社号標
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旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。
社伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを3回回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。
元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。
三井家では、享保年間に三囲神社を江戸における守護社と定めた。理由は、三囲神社のある向島が、三井の本拠である江戸本町から見て東北の方角にあり、鬼門だったことと、三囲神社の“囲”の文字に三井の“井”が入っているため、「三井を守る」と考えられたため。

「江戸名所繪図」
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隅田川から随分離れています。
本来は牛嶋神社の隣にあったが、洪水で一度流され、河岸に堤が築かれることになった際に南へ少し移動した。
その堤のために、対岸から見ると、鳥居が堤から奇妙に頭だけ出しているように見え、浮世絵などに好んで描かれたそうです。

安政年間の「隅田川向島繪図」に描かれているのが、そうですね。
上が北の方向に置きました。
赤丸で囲ったのが三囲稲荷。
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ところが現在は、牛ノ御前(牛島神社)の位置が変わってしまって、水戸下屋敷跡が隅田公園ですが、そこにあります。

玉垣に、三越のマークが。
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鳥居脇に、百貨店生みの親である日比翁助氏の歌碑があり。
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鳥居をくぐると、境内最古の三つ穴石灯篭があり。
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延享2年(1745)奉納の狛犬。
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狛ライオン
かっては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社からの申し出により、三越と強い縁を持っている事から実現した。
大正の頃に三越呉服店を率いていた日比翁助氏がライオン好きで、三越本店にライオン像を置いたのが、三越のライオン像のはじまり。
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目じりの下がった愛嬌ある狛狐「コンコンさん」
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拝殿
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彫刻が良い。
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社額
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とても良い音がする鈴緒だった。
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拝殿内は伺えなかったが、沢山の奉納絵馬があるようだった。
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本殿
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ご祭神は、宇迦御魂之命(うがのみたまのみこと)。

神紋は「抱き稲に三」
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社域の一角には没後100年を経た三井家当主たちを祀った「顕名霊社」がある。
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陶製の狛犬
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社殿の彫刻が素晴らしい。
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石造りの三柱鳥居
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三柱鳥居の手前には三本柱の屋根を持つ手水鉢がある。
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老翁老女の石像
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碑はないが、ここにも三囲を詠んだ其角の句があります。
「早稲酒や狐呼びだす姥が許(もと)」

其角の有名な句
「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」
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境内には、其角の句碑がもう1基ある。
「山吹も柳の糸のはらミかな」
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社殿横に宗因白露の句碑
「白露や無分別なる置きどころ」
句碑は二つの石が合せられていて、右に「白露や」の句、左に芭蕉、其角、許六などの宗因を褒める文章が刻されている。
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阪井久良伎の川柳
「広重の雪に山谷は暮れかかり」
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これで、当社の参拝を終え、今日の予定は終了です。
のんびりと、隅田川のテラスを歩いて吾妻橋に向かい、帰途につきました。

(了)


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牛島神社

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鎮座地:東京都墨田区向島1−4−5
参拝日:2016年11月3日(10月2日、2012年4月24日)

3日に浅草寺で「白鷺の舞」を観たあと、参拝しました。
吾妻橋から隅田公園を抜けていくと、隅田公園の一番奥にあります。

今回使用している写真は、当日幹事で思うように写真を撮れなかったため、10/2の下見の時、2012年に参拝したときの写真も使っています。

鳥居
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縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、「牛御前社」と呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。本所総鎮守の社として知られています。
また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得たといいます。以後千葉氏の崇敬が厚く、宝物として月輪の紋をつけた千葉家の旗が伝わり、箱書に「此指物自先祖 持来候 然而牛御前宮者 先祖千葉家被再興候 慶長18(1613)年9月15日 国分宗兵衛正勝敬白 牛御前別当最勝寺」とあります。

安政の絵図に「牛ノ御前」と載っている。
場所は、今よりも言問橋寄りの位置であった。
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鳥居をくぐると、大きな狛犬が迎える。
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手水舎
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拝殿前には、珍しい「三輪鳥居」がある。
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三輪鳥居をくぐると、拝殿前にはなんと4組もの狛犬、狛牛がある。

拝殿から遠いほうから挙げていく。

文化8年(1811)奉納の狛犬
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獅子山
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狛牛
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享保14年(1729)奉納の狛犬
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拝殿
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向拝部分の彫刻が素晴らしい。
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社額
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拝殿内部
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ご祭神:須佐之男命、天之穂日命、貞辰(さだとき)親王命
貞観二年(860)に、慈覚大師が神託により須佐之男神を郷土守護として勧進。後に天之穂日命を合祀し、さらに清和天皇第七皇子の貞辰親王が当地で没したのを、大師の弟子である良本阿闍が神霊をまつり「王子権現」と称したという。


神紋は、「丸に剣方喰(けんかたばみ)」と「九重菊」
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神楽殿
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〇撫牛
撫牛の風習は、江戸時代から知られていました。自分の体の悪い部分をなで、牛の同じところをなでると病気がなおるというものです。この牛の像は、文政8年(1815)ごろ奉納されたといわれ、それ以前は牛型の自然石だったようです。 明治初期の作家、淡島寒月の句に「なで牛の石は涼しき青葉かな」と詠まれ、堀辰雄は「幼年時代」で「どこかメランコリックな日ざしをした牛が大へん好きだった」と記すように、いつも人々に愛されてきました。
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この神社の祭りの風習などが書かれた説明板
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烏亭焉馬「いそかすは」の狂歌碑
「いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹」
談洲楼烏亭焉馬
この狂歌碑は裏面にあるとおり、初世烏亭焉馬自身が文化7年(1810)に建てた碑です。江戸落語中興の祖と称された烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
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境内に富士塚の名残のようなものがあり、そこにも自然石の形を利用した牛が置かれていた。
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これで、当社の参拝を終え、次いで三囲神社に向かいました。



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江島(えのしま)神社(後半)

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鎮座地:神奈川県藤沢市江の島2-3-8
参拝日:2016年9月15日

青春18キップの最後の1日の旅で、相模国一之宮・寒川神社に参拝した後、移動して江島神社に参拝しました。小田急「片瀬江ノ島」駅から、弁天橋を渡り江ノ島に入り、瑞心門、辺津宮、中津宮までは、「江島(えのしま)神社(前半)」で、既に記事にしており、今回はその続きの記事です。

「江島(えのしま)神社(前半)」の記事を見る


境内図
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中津宮を出て、江ノ島灯台の下を通ってすぐ、海上亭というお店の辺で眺めの良い展望台があり、小休止。
そこから江ノ島灯台がきれいに見えた。
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「一遍上人の島井戸」
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「山二つ」
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「下道」への分岐点のところに、「木喰上人行場窟」の碑があり。
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この辺はアップダウンが激しい。
「山二つ」から下ってきて、「下道」への分岐点を過ぎて、また上がります。
これは振り返って撮ったもの。
赤い服の女性の左が、「下道」への分岐点のところ。
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「群猿奉賽像庚申塔」
これは、各地の庚申塔を追いかけている私にとって、この日の最大の収穫でした(嬉)
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四面にびっしりと36匹の神猿が刻まれている。
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これは烏帽子を冠って御幣や扇を持っている。
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いわゆる「見ざる聞かざる言わざる」の三猿だが、踊りながらのものは、私は初めて。
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はしご乗り、棒からぶら下がり、棒渡りなど曲芸みたいなのもあり(笑)
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【奥津宮】
多紀理比賣命を祀る。

鳥居
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源頼朝が奉納した石鳥居が、かってここにあったらしい。
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手水舎
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吐水口は、普通は龍だが、ここでは亀。
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「亀石(亀甲石)」
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奥津宮社殿
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明治26年奉納の狛犬
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弘化三年(1846)奉納の石灯篭
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竿の部分に竜が巻き付いている。
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獅子の彫刻
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左右の石灯篭の台座に浦島太郎と乙姫がそれぞれ掘られている。
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拝殿天井には酒井抱一の『八方睨みの亀』が描かれている。
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拝殿の大きな杓子には、飛天と龍が描かれている。
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入母屋造の本殿は天保13年1842年に再建されたもの。
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【龍宮(わだつみのみや)】
龍宮大神を祀る。
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鳥居
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祠の上に龍宮大神がいる。
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石積みの祠の中に社殿あり。
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ここから海の近くに降りていく。
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ちょうど海沿いの崖の上に出たところに、松尾芭蕉などの碑がある。
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芭蕉の句碑
「疑ふな 潮の花も 浦の春 はせを」
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服部南郭の島で一番古い詩碑
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そこから降りると「稚児が淵」。
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「岩屋橋」を渡って、岩屋に。
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【岩屋】
岩屋は「第一岩屋」と「第二岩屋」に分かれていますが、第一岩屋が「江島神社発祥の地」。(上の写真)
社伝によると欽明13年(552年)に欽明天皇の勅命で、ここに神様を勧請したのが江島神社の始まり。
は旧暦4月~10月は岩屋に海水が入り込み、その間ご祭神は本宮(御旅所)に遷座していた。それが大正時代の関東大震災で1mほど島が隆起。現在は海水が入り込まなくなったとのこと。

長い歳月を経て波の浸食でできた岩屋は、第一岩屋(奥行152m)と第二岩屋(奥行56m)から成ります。昭和46年以来、長期閉鎖されていましたが、周辺施設を一新し、平成5年4月から再開されています。

古くから信仰の対象にもされてきた岩屋は、弘法大師が訪れた際には弁財天がその姿を現し、また源頼朝が戦勝祈願に訪れたとも言われています。

岩屋に入ります。
照明や音響で演出された洞内では、様々な展示物から江の島が歩んできた歴史と文化の一端をご覧いただけます。
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与謝野晶子の歌碑
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日蓮の寝姿石
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「第一岩屋」を出て、「第二岩屋」に向かう。
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途中の橋から、「亀石」が見える。
この時間は、潮が上がっていて、波が来ると姿が隠れてしまう。
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「第二岩屋」は、手蝋燭を渡されて奥に進む。
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「天女と五頭龍」
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洞窟の奥に、龍の姿があり。
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『江島縁起』は平安時代に創られたとされています。
そのあらすじは:
昔、鎌倉の深沢には周囲40里もある湖があり、そこには五頭龍が住んでいました。その龍の行った悪行はと言えば、山を崩す、洪水を起こす、疫病をはやらす…そして生贄として子供まで食べていた。
欽明13年4月12日(552年)、黒雲が天を覆い、大地震が起きて高波が村を襲いました。大地は10日間揺れ、揺れが収まると今度は海底が大爆発を起こし、岩を吹き飛ばすとそこには小さな島が…。(これが江ノ島です。)
すると雲から美しい天女が現れました。五頭龍はこの様子を見守っていましたが天女にひとめ惚れをして、結婚を申し込みます。しかし天女は悪行を理由に拒否。
諦めきれない五頭龍は行いを改めることを約束し、天女も結婚を受け入れました。その後五頭龍は日照りに雨を降らせ、台風を防ぎ、津波を押し返すなど、約束通り村を守ります。しかしその度に弱って行き、最期を悟った五頭龍は山となり村を守るようになりました。(片瀬山)
天女は江の島の弁財天として、五頭龍は江の島の向かいにある「龍口明神」に祀られています。

「第二岩屋」を出て、帰りは海野景色を楽しみながら、帰ります。
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帰りは、「下道」を通って、朱紅鳥居のところに戻った。
途中、茅ケ崎の方を見通せるところがあり。
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望遠スームで、なんとか烏帽子岩を捉えた。
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そこからちょっと行くと、眼下の堤防で釣りなどして遊んでいるのが見えた。
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江ノ島を出る前に土産物を物色し、帰途についた。
この日は、相模国一之宮・寒川神社参拝のあと、江島神社に来たわけだが、軽く考えていたら江ノ島全部を駆け巡ることになり、大汗をかいた(笑)。
だが、やはり江ノ島は面白かった。収穫も沢山あり楽しい一日だった。

帰りは疲れていたので、JRは新宿までとして、そこからは西武新宿線で帰った。

完遂した「青春18キップ」です。
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(了)


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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