上野国一之宮・貫前(ぬきさき)神社

20170711

鎮座地:群馬県富岡市一ノ宮1535
参拝日:2017年6月16日

この日は、午前中長野県佐久市で私の両親の墓参りをし、いつもならその後は軽井沢で遊ぶのだが、今回は富岡インターまで戻り、当社に参拝した。

車のナビの案内に従って進んでいくと、到着したのは総門の前だった。

大鳥居のところまで行って見ると、大鳥居の前は鏑川からけっこう上がってくる。
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石段を少し降りて大鳥居を撮った。
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大鳥居と総門は鏑川左岸の河岸段丘上「蓬ヶ丘」の上に同じ高さにあり、境内は正面参道からいったん石段を上がり、総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置となっている。

当社は物部氏が祖神を祀ったことに始まり、古代には朝廷から、中世以降は武家からも崇敬された。

社伝によると、創建は安閑天皇元年(531年?)3月15日、鷺宮(現 安中市の咲前神社に比定)に物部姓磯部氏が氏神である経津主神を祀り、荒船山に発する鏑川の流域で鷺宮の南方に位置する蓬ヶ丘綾女谷に社を定めたのが始まりといわれる。その後、天武天皇2年(私年号では白鳳2年、673年)に最初の奉幣が行われた。
一方、室町時代成立の『神道集』には、安閑天皇2年(532年?)3月中頃に抜鉾大明神が笹岡山に鉾を逆さに立てて御座、白鳳6年(677年)[注 2]3月に菖蒲谷に社壇が建立されたと記載されている。

現在の社名「一之宮貫前神社」は旧社格廃止に伴い改称したものであり、六国史をはじめとする古書には、「抜鉾神社」(ぬきほこ-)と「貫前神社」(ぬきさき-)の2つの名で記される(詳細は後述)。この2社が現神社の前身であるとすると、最初に記録に登場するのは大同元年(806年)、『新鈔格勅符抄』の神封部にある「上野抜鉾神 二戸」の記述である。延長5年(927年)には『延喜式神名帳』に貫前神社が名神大に列格されている。
宇多天皇の代、仁和4年(888年)に一代一度の奉幣として大神宝使を遣わすこととしたが、当社へは寛仁元年(1017年)後一条天皇即位の際に遣わされている。
長元3年-4年(1030年-1031年)に成立したとされる『上野国交替実録帳』には「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあり、当時既に神階が正一位に達していたと思われる。
『本朝続文粋』の記述によれば、康和2年(1100年)4月に上野国目代平周真が降雨の祈願を行った時の奉献の文を国司上野介藤原敦基が執筆しており、当社が国司による特別の崇敬を受け、一宮的機能が12世紀初頭には確立したと考えられる。
中世において、当社は源頼義・義家父子を始めとする武家の崇敬を集め、室町時代末期に越後上杉・相模後北条・甲斐武田の各氏に支配された際も庇護を受け、特に武田氏は譜代家老の原昌胤が取次を務め、造替費用を棟別に課して、上野国を越えた策を講じたとされる。
江戸時代には徳川家の庇護を受け、現在の社殿が整えられた。江戸当時は「抜鉾神社」が一般名称であった。
明治4年(1871年)に近代社格制度において国幣中社に指定され、延喜式での表記に倣い「貫前神社」と改称した。戦後は神社本庁が包括する別表神社となっている。

【抜鉾神社と貫前神社】
明治以前の歴史書には、当社に関して「抜鉾神社」と「貫前神社」という2つの記載がある。また『和名抄』には甘楽郡に「抜鉾郷」と「貫前郷」の記載もある。それら「抜鉾」と「貫前」の関係については議論があり、以下の2説が存在する。

2神2社説
抜鉾神を祀る神社と貫前神を祀る神社は別々の神社であったとする説。
『日本の神々』では、「貫前」の社名は明治維新後に「抜鉾」から改められたもので、本来は「貫前」と「抜鉾」の2神2社であったものが「抜鉾」時代に2神1社となり、明治になって公式には1神1社になった、と述べている。さらに続けて、実際には現在も男・女2神を祀り、2神1社の形は残されている、とも述べている。同書では、朱雀天皇の承平年間(931年-937年)の『和名抄』上野国甘楽郡の項に「貫前郷」と「抜鉾郷」の名が見えることから、貫前神社と抜鉾神社は別地に建っていたと考察し、長元3年-4年(1030年-1031年)の『上野国交替実録帳』に「正一位勲十二等抜鉾大明神社」とあって「貫前」の名が無いこと、正一位で勲十二等と言う神階のおかしさ、この2点より『延喜式神名帳』成立後から『上野国交替実録帳』成立以前の間に「貫前」と「抜鉾」が混同されたと推測している。『群馬県の地名』でも、初め2神2社でのちに2神1社となったとしている。なお2神の説明で、貫前神は甘楽郡鏑川に居住した渡来人の神、抜鉾神は碓氷郡・甘楽郡にいた物部氏一族の神としており、これが混同されたとしている。

1神1社説
抜鉾神社も貫前神社も同じ神社を指す異なる名であるとする説。
『中世諸国一宮制の基礎的研究』では、「貫前」と「抜鉾」いずれの名も六国史に見え、神階に預かる霊験高い神であるが、『延喜式神名帳』には「貫前神社」を1座としているので両神は1神と見るべきであろう、と述べている。付け加えて、別々の2神であれば、官社の幣帛に預かる2座の神とされたはずであり、『延喜臨時祭式』の「名神祭二百八十五座」の1つに「貫前神社一座或作抜鉾」とある注記は同一神であることを示している、と述べている。さらに、『左経記』寛仁元年(1017年)10月2日条に記載の大神宝使に預かる「上野貫前」が、長元3年-4年(1030年-1031年)の国司交代時に作成した『上野国交替実録帳』の「抜鉾大明神」と別々であるとは考えられない、と述べている。


総門の前には、銅灯篭と狛犬が奉納されている。
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銅製燈籠
総門前両脇に立つ。慶応元年の作で、市指定文化財。
大東亜戦争中に於ける金属回収令の際危うかったが、貴重芸術品と算定された為に対象除外とされた。
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総門前の狛犬は、意外と新しく昭和2年奉納のもの。
近代に多い、岡崎型、護国型(威嚇型)とは違っていて、風貌には似合わず親しみやすい、独特の型である。
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総門
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総門の前に立つと、楼門の屋根がかなり下に見えるので、かなり降ることがわかる。
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総門の他に勅使門がある。
勅使門(不明門(あかずのもん)) 朱雀天皇の代(930年-946年)に勅使参向の際に設けられた。普段は開門されず、1年に3回、春・秋の御戸開祭と流鏑馬神事の時に開かれる。
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勅額鳥居
名前は清和天皇筆の額が掲げられていたことに由来する。一ノ宮大字田島にあったが、寛永12年に現在の勅使門裏手に移築した。現在は有栖川宮幟仁親王の額が掲げられている。
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〇蛙の木
総門をくぐった右手に立つタブノキで、太平洋戦争末期、蛙に似たサルノコシカケが出現。祭神の経津主神が勇武に優れていたことから「勝って蛙」「勝ち蛙」として兵士・家族の信仰を集めた。現在は交通安全の守護「無事蛙」として信仰される。
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総門の下から見ると、かなりの下り勾配である。
総門を潜ったところから石段を下ると社殿があるという、いわゆる「下り宮」と呼ばれる配置である。
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参道をほとんど降りた横に月読神社があり。

末社・月読神社
社殿は、寛永十二年以前の本社拝殿。
こちらも、近在の神社を合祀しており、十七柱を祀る。
明治41年に近在の秋畑琵琶澤社久司神社、秋畑二ツ石雷電神社、秋畑裏根湯前神社、野上近戸神社を合祀し、月夜見命の他17柱を祀る。
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月読神社ということで、月にまつわる神紋を期待したが、賽銭箱の神紋は「包み稲の穂」であった。
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ここから、もう少し降りると楼門である。
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楼門(重要文化財)入母屋造。
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左右には重厚な回廊が広がる。
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斗栱(ときょう)の「三手先」を大きく突き出している。珍しい。
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真ん中は止めてあり、左右から出入りする。
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随身
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拝殿
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本殿、拝殿、楼門、回廊は、江戸幕府第3代将軍徳川家光による寛永12年(1635年)の造営。元禄11年(1698年)、第5代綱吉による大規模な修理で極彩色の漆が塗られ、現在の華麗な造りとなった。いずれも国の重要文化財に指定されている。

向背の屋根は唐破風。
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向背部
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拝殿右側面から。
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拝殿左側面から。
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拝殿内部
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本殿
単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。
また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
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内部が二階になっているのがわかる、屋根の重厚さである。
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千木は内削ぎであり、ご祭神が女神を表している。
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当社の西方に荒船山(荒船神社)があり、東方には小舟神社がある。
小船神社は、当社の祓戸とされ、東西のライン、荒船-貫前-小舟が女神の系譜。

当社の本殿には「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓があり、南方の稲含山(稲含神社)の方向を向いている。
また、北方には咲前神社があり、前宮・鷺宮とよばれている。
いずれも経津主神を祭神とし、南北に武神・雷神のライン、稲含-抜鉾-咲前が存在する。

「雷神小窓」という緑色の雷神を描いた窓がある。
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本殿の向背部分の装飾をうかがう。
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本殿の側面
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左側に回って、本殿を仰ぐ。
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なんとか、覗けるところを探して、本殿正面を見ることができた。
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本殿の右袖障子。
「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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本殿の左袖障子。
こちらも「鯉の滝登り」が彫刻されている。
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ご祭神:
・経津主神 (ふつぬしのかみ)
葦原中国(日本)平定に功績があったとされる神。当社では物部氏の祖神と紹介している。
・姫大神
祭神の名前は不詳。一説には、綾女庄(当地の古い呼称)の養蚕機織の神とされる。
なお、『一宮巡詣記』では「本尊稚日女尊、相殿経津主命」と記載され主神は女神とされているほか、本殿の千木も内削ぎ(女神の特徴)となっている。

中世以降、抜鉾明神と称される場合が多いが、貫前神とは、本来は別の神。
つまり、「抜鉾」「貫前」の二神を祀る神社だった。「抜鉾」が男神・経津主神、「貫前」が女神となる。

『神道集』では、当社・貫前神社の祭神は、女神であったとし、南天竺狗留吠国の長者・玉芳大臣の五女。

また、笹岡山(荒船山)の峯に船を逆さに伏せ、その船の中に保った河水は、火の雨が降るときにこの水で消すべしと誓ったという。水神・水源神、あるいは周囲の火山に対する対処神かもしれない。

また、一之宮であった赤城大明神が、財の君である、この女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。さらに、赤城神が絹機を織っていたが、絹笳が不足したが、この女神から借りて織り上げたとも。

ということで、当社の女神は、水神・財神・機織の神と実に多彩だ。

神紋は「右三つ巴」
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摂社・抜鉾若御子神社
ご祭神:本社祭神の御子神
本殿向かって左脇に鎮座する。元は一ノ宮字若宮に鎮座していた。安閑天皇の代(531年-535年)の創建とされ、『上野国神名帳』には「従五位抜鉾若御子明神」と記載されている。明治38年に現在地に遷座した。社殿は棟札によると文化12年の造営。
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末社が、総門から入ってすぐ左にいくと広場があり、そこに鎮座している。
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伊勢内宮・外宮
ご祭神:天照大神(内宮)、豊受大神(外宮)
仮殿敷地に隣接して鎮座する。両宮とも、天狗沢峰通り字伊勢屋敷に鎮座していたものを寛永12年に遷宮したと伝わる。

伊勢外宮
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伊勢内宮
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日枝神社社殿は、寛永十二年以前の本社本殿。
近在の神社を合祀しており、現在十七柱を祀る。
明治42年に近在の田島和合神社、宇田諏訪神社、坂井大臣神社を合祀し、大山咋神の他17柱を祀る。
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二十二社
仮殿敷地に隣接して鎮座する。社領内に祀られていた各社を、寛永12年の造営時に一棟にまとめたもの。
竈神社、菅原神社、沓脱神社、速玉男神社、粟島神社、春日神社、奇八玉神社、諏訪神社、八幡宮、事解男神社、咲前神社、浅間神社、高靇神社、少彦名神社、長田神社、伊邪那岐神社、八坂神社、白山比咩神社、熊野神社、水分神社、熱田神社、扣(こう)神社
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神楽殿
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寛保2年の神楽奉納額が掛かっていた。
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〇藤太杉
樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に立つ。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
残念ながら、枯れてしまったようだ。
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〇スダジイ
樹齢推定1000年。数本の枝幹が成長して重なり合う。樹高15メートル、根回り4メートル。富岡市指定天然記念物、富岡の名木10選の1つ。
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〇銀杏
富岡の名木10選の1つ。
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神楽殿の横から、勅額鳥居に上がる時に、振り返って境内を眺めた。
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勅額鳥居に上がる石段。
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これで、参拝を終え、帰途につきました。



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伊豆国一之宮・三嶋大社(後編)

20170709

鎮座地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
参拝日:2017年4月9日

総門から記事はスタートです。
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総門に注連縄が張られているのは珍しい。それも大きな注連縄だ。
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総門の中も、満開の桜です。
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〇源頼朝と北条政子の腰掛石
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神馬舎
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手水舎
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神門
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神門にも、立派な彫刻あり。
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神門をくぐると、広い空間に、舞殿、社殿が一直線に並んでいる。
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舞殿
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舞殿には、「二十四孝」を基にした彫刻が巡らされている。
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社殿は、本殿・幣殿・拝殿からなる権現造の複合社殿。いずれも総欅素木造で、国内有数の規模の社殿。
いずれも江戸時代末期の嘉永7年(安政元年、1854年)の安政東海地震後に再建されたもので、慶応2年(1866年)9月9日に落成。

拝殿は桁行七間、梁間四間、一重、入母屋造、正面千鳥破風付、向拝三間、軒唐破風付で、銅瓦葺。
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千鳥破風と唐破風の二重屋根が映える。
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向背部の彫刻も見事。
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総欅素木造なのが、清々しい。
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本殿は三間社流造で、銅瓦葺。幣殿は桁行三間、梁間一間、一重、両下造で、銅板葺。
重厚な造りと、彫刻が素晴らしい。
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ご祭神は次の2柱。
大山祇命(おおやまつみのみこと)
積羽八重事代主神(つみはやえことしろぬしのかみ)

2柱は「三嶋大神(みしまのおおかみ)」または「三嶋大明神(みしまだいみょうじん)」と総称される。

三嶋大社の祭神に関しては、古くは大山祇命祭神説・事代主神祭神説が存在した。大山祇命説は、鎌倉時代の『東関紀行』に始まって『源平盛衰記』『釈日本紀』『二十一社記』『日本書紀纂疏』等の諸史料に見える説である。三嶋神が伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)に由来するという伝説に基づき、事代主神説が唱えられるまでは広く定着していた。一方の事代主神説は、江戸時代後期の平田篤胤の『古史伝』での主張に始まる説である。室町時代の『二十二社本縁』に「都波八重事代主神(中略)伊豆賀茂郡坐三島神、伊予国坐三島神同体坐云」とある記載に基づく。

江戸時代までの祭神は大山祇命とされていたが、幕末に事代主神説が国学者の支持を得たため、明治6年(1873年)に事代主神に改められた。その後大正期に入って大山祇命説が再浮上したため、2柱説が昭和27年(1952年)に制定されて現在に至っている。

近年の研究では、三嶋神は「御島神」すなわち伊豆諸島の神を意味するとして、上記2説とも後世の付会とする見方が有力視される。この中で、噴火の盛んな伊豆諸島で原始的な造島神・航海神として祀られたのが「ミシマ神」の始まりであるという。そして「ミシマ」の音から、後世に他の神に結び付けられたとも推測されている。

火山活動によって、海上にもたらされる幸の神と解せば、山神である大山祇命と、海の幸の神である事代主命をあわせ祀る現状が結果的には、正解だと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

三嶋大明神の、伊豆諸島における后神や、御子神は『三宅記』によって知ることができる。
后神は、神津島(正后である阿波咩命)、大島(波布比売命)、三宅島(伊古奈比咩命、伊賀牟比咩命、伊波乃比咩命、佐伎多麻比咩命)、新島(久爾都比咩命)、沖ノ島(八丈島)(優波夷命)である。
御子神については省略する(御蔵島と利島は御子神のみ)。


「みしま」であるが、古代「み」とは神のことであり、「みしま」は「神の島」となる。
「神津島」も、「神つ島」であり、やはり「神の島」である。
埼玉県所沢市の博物館では、縄文時代に使われた黒曜石を産地別に展示してあるが、男鹿半島とか神津島など遠い所のものがあって、縄文人の行動範囲、交際範囲の広さに驚いたものである。
縄文時代、まだ伊豆諸島は噴火活動が盛んであり、怖い島でもあり、黒曜石の採れる貴重な島でもあった。
縄文人が伊豆諸島の神に祈りをささげたのは、当然なことと思う。


神紋は、「各切三」と「五七の桐」だそうだが、確認できたのは「五七の桐」だけであった。
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摂末社に参拝。

摂社・若宮神社
ご祭神:物忌奈乃命(ものいみなのみこと)、誉田別命(ほんだわけのみこと、応神天皇)、神功皇后、妃大神
社格:神階帳「正五位上 第三王子并十八所御子達」、伊豆国元二宮
古くは「八幡宮」「若宮八幡宮」「若宮社」等とも称された。
祭神の物忌奈乃命は三嶋神の御子神で、神津島の物忌奈命神社の祭神である。古くは「元ツ神」と呼ばれた地主神で、大社西の二ノ宮町に鎮座したという(西若町の若宮神社付近と推定。移転時期不明)。社家は西大夫で、『吾妻鏡』では「二宮八幡宮」に料所を付す記事が見える。鎌倉時代中期の西大夫没落とともに衰退、のち「若宮」と称されるようになり、さらに大社境内に遷された。この遷座とともに三宮の浅間神社が二宮に格上げされたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)8月20日の再建。
社地移転に関する伝承として、三嶋神が地主神の若宮八幡に藁一把分だけの土地を譲るよう頼み、若宮八幡が了承すると、三嶋神は藁束を解いて一本ずつ輪にして広大な社地を占有するに至ったと伝わる。
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摂社・見目(みるめ)神社
ご祭神:波布比売命、久爾都比咩命、伊賀牟比咩命、佐伎多麻比咩命、伊波乃比咩命、優波夷命
三嶋神の后神6柱で、総称して「見目6柱」とも。
6柱は三嶋神の后神で、「見目(みめ)」とは「御妃(みめ)」を意味するともいわれる。古くは、本社例祭の前々日に幕府から奉献された玉簾を見目神社の前で渡す儀礼が行われたという。現在の社殿は慶応4年(1868年)9月3日の再建。
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末社・東五社
ご祭神はいずれも不詳。
大楠社、天神社、聖神社、第三社、幸神社
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末社・西五社
祭神は不詳。
船寄社、飯神社、酒神社、第二社、小楠社
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〇国指定天然記念物のキンモクセイ  
舞殿の横にあり、樹齢1200年という。
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芸能殿
神門の前、右奥にあり。
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芸能殿からさらに奥に入って行くと、神鹿苑がある。
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わりと広いので、鹿も元気そうだ。
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見に来た子供も喜んでいる。
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その近くに芭蕉の句碑あり。
「どむみりと 棟や雨の 花曇り」
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宝物館
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宝物館前に、「三嶋神社」という古い社額が置いてあった。
石なので大鳥居にかかっていたものかもしれない。
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宝物館前に明治45年奉納の、江戸狛犬流れ尾型の良いものが置かれていた。
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〇元神宮斎主お手植えの檜
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これで参拝を終え、帰途につきました。


「神社巡拝」に飛ぶ



伊豆国一之宮・三嶋大社(前編)

20170708

鎮座地:静岡県三島市大宮町2丁目1−5
参拝日:2017年4月9日

青春18キップがまだ残っていたので、日帰りで参拝してくることにしました。
最寄りのJRの駅で7:39の電車に乗り、高麗川、八王子、橋本、茅ケ崎、熱海経由で普通電車を乗り継いで、三島駅に着いたのが11:13でした。

ちょっと早いですが、昼食を三島駅前で食べてから、のんびりと三嶋大社に向かい歩き出しました。

少し歩くと、「愛染院跡の溶岩塚」というものあり。

〇愛染院跡の溶岩塚
かつてこの地にあった愛染院は、真言宗高野山派(しんごんしゅうこうやさんは)に属し、三嶋大社の別当寺院(べっとうじいん)(注1)で10数カ所の末寺を持つ、伊豆随一の大寺院であったと言われています。鎌倉二代将軍源頼家の親書「心経」も所有(現在は三嶋大社所有)していました。この愛染院が跡形もなく消滅してしまったのは、明治新政府が明治元年(1868)神仏分離令(しんぶつぶんりれい)を発令したからです。この分離令は明治新政府が神道を優位に考え、それまでの仏教に対する政策を変えたものです。
 現在残っている溶岩塚は、約1万4千年前に、新富士の噴火活動により流下して、末端部の溶岩が温度が下がって固結しようとしているとき、後部から押されて盛りあがって塚になったものです。この溶岩には、数多く大小の穴が見られますが、冷えるときに溶岩中に含まれていた水蒸気などの気体成分が抜け出た跡です。この溶岩塚を取り囲むようにケヤキやムクノキの大木が生い茂り、木の根が溶岩に絡(から)み付くように地表に露出しています。この溶岩塚は、三島市指定文化財(天然記念物)に指定されています。
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「愛染の滝」もあり、少し水が出ているようです。
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大通りを、三島大社に向かって左折したところに、湧水があり。
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可愛い人形が井戸水を組んでいるようなかたちにしてあった。
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これが無かったら、通り過ぎていたのだろうが、気が付くと感じの良さそうな公園があった。

〇白滝公園
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この辺にも、至るところ溶岩が露出している。
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大木の根が溶岩をつかんでいる。
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公園の奥に、綺麗な川があり。
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公園の外れに「白滝観音堂」があった。

〇白滝観音堂
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公園の横を、「桜川」が流れている。
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菰池(こもいけ)と白滝公園を源流とする桜川は、三嶋大社西側の祓所(はらいど)神社の脇を通り、南へと流れています。かつては祓所川とも言われていました。
現在、三嶋大社に向かう川沿いの道に、柳が植えられ「柳通(やなぎどお)り」と呼ばれています。美しく手入れされた花壇とともに、太宰治や若山牧水など三島ゆかりの文学者7人の文学碑も並び「水辺の文学碑」として、親しまれているそうです。
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正岡子規「面白や どの橋からも 秋の不二」
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十返舎一九の「東海道中膝栗毛」の三島宿のところ。
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松尾芭蕉「霧しぐれ 富士を見ぬ日ぞ 面白き」
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他に、若山牧水、司馬遼太郎、太宰治、井上靖の碑も写真に収めてきたが、ここでは割愛します。

三嶋大社の脇の入り口まで来ました。
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境内図
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この入り口は社務所と神池の間を入って行きます。

手水舎
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手水鉢が、凝った形でした。
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池の中に祓所神社があります。
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池の上に、すごく枝を伸ばしている木があり。
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参道を進みます。
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神池のところに、ご神木があり、その幹に祠が祀られていた。
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総門のところまで来たので、正面の大鳥居から入り直します。
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大鳥居のある正面入り口。
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ここは、広重の浮世絵「東海道五十三次」に描かれている。
保永堂版「三島 朝霧」
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大鳥居前を東西に旧東海道があります。

社号標
社格等:式内社(名神大)、伊豆国一宮、伊豆国総社、旧官幣大社、別表神社
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通説では、「三島」の呼称は伊豆諸島に対する尊称「御島(みしま)」に由来するとされる。伊豆諸島を指す地名の「三島」としては、古くは天平13年(731年)に「伊豆三島」の記載が、平安時代の『和名類聚抄』では伊豆国賀茂郡に「三島郷(みしまごう)」の記載が見える。なお、別説として伊予国一宮の大山祇神社(大三島神)を由来とする説もある。

現在の鎮座地の地名は「三島」であるが、これは先の伊豆諸島を指す「三島」とは異なり、古代の史料には見えない地名である。当地は、古代には伊豆国の国府があったことから「国府(こう)」と称された。そして三嶋神が国府に祀られたのち、13世紀末頃から大社にちなんで地名も「三島」と呼ぶようになったとされる。

創祀年代は不詳。
三嶋、あるいは三島と書かれる各地の神社の根元社であり、伊豆国一の宮である。
三嶋は、「御島」から変化したもので、もとは、富士火山帯である、伊豆七島に代表される伊豆諸島の神。
噴火や造島を神格化したものだと思われる。

三嶋大明神は、三宅島を本拠とし、伊豆諸島に多くの后神や、多くの御子神を持ち、造島・開発に努め、伊豆半島東岸の白浜に、正妃・伊古奈比咩と並んで鎮座していたという。
延喜式に記載されている伊豆三嶋神社は、その当時のものだと思われるが、その後、平安中期以降に、国府のあった現在地に新宮として分祀されたのが当社。
源頼朝の崇敬が篤く、現在のような大社となった。

この遷座に関して、以下のような伝説がある。
遷座に際して、当時、ここに鎮座していた若宮八幡の神に対し、三嶋大神は「藁ひとつかみ分だけの土地を譲って欲しい」と頼み、承諾された。ところが、三嶋大神は、その藁を解き、一本に長く繋ぎ合わせて、広大な社地としてしまったのだ。
その後、若宮八幡は、境外摂社に祭られたが、唯一、三嶋大社に対して背を向けているという。

大鳥居から入ります。
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ちょうど桜が満開で、境内が桜の名所ということで、人出もすごいし、至る所に屋台も設けられていて、すごいことになっていた。

〇たたり石
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〇相生松
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若山牧水の歌碑あり。
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神池の中を参道が通っていて、その参道が桜並木であり、とても美しい風景となっていた。
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この桜風景については、既に「桜行脚」のコーナーで記事をアップしています。

その記事を読む


神池
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参道は、桜並木の下。
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参道の狛犬は、昭和34年奉納の岡崎型狛犬です。
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神池に、厳島神社があります。

末社・厳島神社
ご祭神:市杵島姫命
三嶋大社の神池に浮かぶ厳島神社は、北条政子が勧請したと伝えられ、家門繁栄、商売繁盛、安産、裁縫等の守護神として信仰されている。
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厳島神社の前には、「蘭渓灯篭」があり。
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総門の前まで来ました。
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記事が長くなったので、以後は「後編」とします。


三嶋大社(後編)の記事を見る



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氷室神社

20170613

鎮座地:奈良県奈良市春日野町1-4
参拝日:2017年3月24日

青春18キップの三日目。
この日帰宅するので、普通電車を乗り継いでほどほどの時間に家に着くためには、奈良を9時ころに出ないといけない。それで朝食前にホテルを抜け出して、まず東大寺南大門の狛犬の写真を撮って、その後すぐ近くのこの社に参拝した。
ここに寄ったのは、社名が面白い名前なので調べてみると、ここの樹齢100年の枝垂れ桜が奈良で一番最初に咲くとのことだったので、寄ってみた。

社号標
式内小社(論社)、旧社格は村社、神饌幣帛料供進社。
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由緒:
元明天皇の御世、和銅3年7月22日、勅命により平城新都の左京、春日の御蓋の御料山(春日山)に鎮祀され、盛んに貯水を起こし冷の応用を教えられた。これが平城七朝の氷室で、世に平城氷室とも御蓋氷室とも春日の氷室とも言われた。翌和銅4年6月1日初めて献氷の勅祭を興され、毎年4月1日より9月30日まで平城京に氷を献上せられた。奈良朝七代七十余年間は継続せられたが、平安遷都後はこの制度も廃止せられ、遂に150年を経て、清和天皇の御世、貞観2年2月1日現在の地に奉遷せられ、左右二神を増して三座とせられた。以来、現在の春日大社の別宮に属し式年に営繕費、年中の祭礼等は、興福寺、春日社の朱印高二万石の内と社頭所禄三方楽所料二千石の一部によって行われたが、明治維新後はこの制度も廃せられ、専ら氏子と冷凍氷業界の奉賛によって維持せられて今日に及んでいる。また、本殿東側には末社として、南都舞楽の楽祖なる狛光高公を祀った舞光社がある。

境内図
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鳥居は朱塗りの両部鳥居。
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参道の右手に「鏡池」が。
冬季に凍ったら、鏡になるからなのだろう。
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早朝で人が少ないので、鹿ものんびりとしている。
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紅梅が咲いていた。
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手水舎
珍しいことに、つるべ式の井戸がついている。
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祓戸社
住吉社とも呼ばれ、手水舎の向かいに祀られている。
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四脚門の前右手にある大きな木が枝垂れ桜。
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氷室神社のしだれ桜は「奈良一番桜」と呼ばれ、奈良で最も早く開花する桜であると言われています。氷室神社の桜の開花を追うように、あちこちで桜が開花していくそうで、いわば古都の春の始まりを告げる大変縁起の良い桜なのです。
境内には何本かしだれ桜がありますが、最も迫力のあるものは、「四脚門」と呼ばれる門前に建つ一本です。
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残念ながら、まだまだ。
一番早く開花するところが、まだこの状態だった。
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安政4年(1857)奉納の狛犬があることはわかっていたが、なんと「出雲型(丸台座型)」だった。
幸運に感謝。
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今回の旅のサブテーマは「出雲族の痕跡を探す」というものだったが、最後の訪問地でも直接結びつきはしないが、出雲地方との繋がりのあるものを発見したのは、とても嬉しい。

「四脚門」と東西廊は奈良県指定文化財。
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四脚門をくぐると、すぐに拝殿・舞殿がある。
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明治三年に廃止されるまで、氷室神社に置かれた旧南都楽所を中心に奈良における舞楽が受け継がれてきました。明治維新により三方楽人(奈良・大阪・京都)が国に召され、曲や舞が一本化されていったのが、現在の宮内庁楽部です。しかし、上京せず地方に残った楽人や舞があり、独自の伝承が見られるのです。南都晃耀会は奈良流を重んじる有志により戦後間もなく結成されました。このたび結成五十周年記念事業として後継者養成のため南都流舞楽伝承教室を企画し、伝承活動に励んでおります。今年も氷室神社の献氷祭、例祭、舞楽初めの他、唐招提寺、東大寺、薬師寺などの諸行事に奉仕の予定です。

本殿の前に回れるようになっている。
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瑞垣の前には石灯篭、瑞垣から灯篭が吊るされている。
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神門
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本殿には三柱の神が祀られている。
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ご祭神:
闘鶏稲置大山主命 (ツゲノイナギオオヤマヌシノミコト)
大鷦鷯命(オオササギノミコト 仁徳天皇のこと)
額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)

闘鶏稲置大山主命は、大和国北東部を支配した闘鶏国造(つげのくにのみやつこ・つげこくぞう 都祁国造・都下国造とも)の子孫にあたり、仁徳朝の国造。氷室の氷を初めて御所に献上し、以後、氷室の管理者となった。
闘鶏国造は、八井耳命。神武天皇の皇子で、綏靖天皇の兄。弟に皇位を譲り、神祇の奉斎者となった。

大鷦鷯命(オオササギノミコト)は、第16代仁徳天皇(にんとくてんのう)。
応神天皇の崩御の後、最も有力と目されていた皇位継承者の菟道稚郎子(うじのわきいらつこ)皇子と互いに皇位を譲り合ったが、皇子の薨去(『日本書紀』は仁徳天皇に皇位を譲るために自殺したと伝える)により即位したという。この間の3年は空位である。
難波に都を定め、人家の竈(かまど)から炊煙が立ち上っていないことに気づいて3年間租税を免除し、その間は倹約のために宮殿の屋根の茅さえ葺き替えなかった、と言う記紀の逸話(民のかまど)に見られるように、仁徳天皇の治世は仁政として知られ、「仁徳」の漢風諡号もこれに由来する。

額田大仲彦命(ヌカタノオオナカツヒコノミコト)は、記・紀にみえる応神天皇の皇子。
母は高城入姫(たかきのいりひめ)。「日本書紀」によれば,応神天皇なきあと皇位がさだまらずにいたとき,倭(やまと)の屯田(みた)と屯倉(みやけ)を掌握しようとして異母弟の大鷦鷯尊(おおさざきのみこと)(仁徳(にんとく)天皇)に阻止された。闘鶏(つげ)(奈良県都祁村)で氷室を発見,氷を仁徳天皇に献じたともいう。「古事記」では額田大中日子命(みこと)。

本殿の右手前に、仁徳天皇の歌碑あり。
「高き屋に のぼりて見れば 煙立つ 民の竃は にぎはひにけり」
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境内社・舞光神社
ご祭神:狛光高の御霊
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拝殿の左右に回廊が回っているが、工事中の感じである。
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四脚門から出て、社殿に向かって左に、招魂社と万葉歌碑あり。

招魂社
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万葉歌碑
「うらうらに照れる春日(はるひ)にひばりあがり情(こころ)悲しもひとりしおもへば」
(万葉集 巻19 4292 大伴家持)
万葉集巻19の最後を飾る、大伴家持の歌三首の中の一首です。
「おぼおぼ(ぼんやりと)として物憂いような春の日、ほんのりと霞んだ春の光にひばりが舞い上がっているのを見ると、何ということもなく悲しみがこみ上げてくる」と、歌によってしか表現できない人間の心のひだ、胸の内の淋しさ、ゆらぎなど、景を借りて象徴した家持最高の傑作といわれます。皇親政治と藤原氏、みにくい政争の世、衰退していく大伴氏、苦しく眺める家持の春愁の歌です。
氷室神社では和銅4年(711年)献氷の勅祭が始まり、毎年平城京に氷を献上されたと伝えます。その後途絶えていたこの制度を再興し、現在に継承されています。
由緒ある境内の見事なしだれ桜の下に、この歌碑は建立されました。
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これで、参拝を終えホテルに帰り、朝食を食べ、JR奈良駅から帰途につきました。
奈良駅を8:53に出発、加茂、伊賀上野、亀山、名古屋経由で、普通電車を乗り継いで、途中名古屋で昼食、熱海で夕食の際に45分程度休憩し、新宿に着いたのが21:00頃。
楽しい青春18キップの旅三日間だった。


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穴師坐兵主(あなしにますひょうず)神社(大兵主神社)

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鎮座地:奈良県桜井市穴師1065
参拝日:2017年3月23日

青春18キップ二日目の午後、纏向駅から山の辺の道を当社まで歩いて来たのは、一つには出雲の野見宿禰を祀る相撲神社があること。
いま一つは「穴師」という地名に惹かれたからである。「穴師」というのは、主として鉄だが鉱物資源のある場所を探し当て、それを採掘する集団のことである。
当然出雲系だとみられるが、ここの祭神をみると但馬すなわち吉備族のニオイもしているようである。

JR纏向駅から歩いて5分くらいのところに一の鳥居あり。
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そこから山の辺の道を1.6Km歩いたところに当社がある。

山の辺の道沿いに、相撲神社(右側)と穴師坐兵主神社(正面)がある。
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社号標「大兵主神社」
旧県社
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式内社三社が合祀されている。
・式内社 大和國城上郡 穴師坐兵主神社 名神大 月次相嘗新嘗
・式内社 大和國城上郡 卷向坐若御魂神社 名神大 月次相嘗新嘗
・式内社 大和國城上郡 穴師大兵主神社

御由緒:
当社は3神殿にして、古典の伝えるところによると、今より、2千年前の御創建にかかり、延喜の制で名神大社に列せられ、祈年、月次、相嘗、新嘗のもろもろの官幣に預り、元禄5年には正一位の宣旨を賜った最高の社格をもつ大和一の古社である。
御神徳: 衣食住を守護し、風水を司る。」

巻向山(穴師山)山中・弓月岳にあった穴師坐兵主神社(上社)が、応仁の頃に焼失し、現在地に鎮座していた穴師大兵主神社(下社)に合祀され、同じく巻向山にあった卷向坐若御魂神社も合祀されて、現在のような祭祀形態となったらしい。

元の穴師坐兵主神社は、垂仁天皇2年に倭姫命が天皇の御膳の守護神として祀ったとも、景行天皇が八千矛神(大国主)を兵主大神として祀ったともいう。旧鎮座地は「弓月岳」であるが、比定地には竜王山・穴師山・巻向山の3つの説がある。祭神の「兵主神」は現在は中殿に祀られ、鏡を神体とする。神社側では兵主神は御食津神であるとしているが、他に天鈿女命、素盞嗚尊、天富貴命、建御名方命、大己貴神の分身の伊豆戈命、大倭大国魂神とする説がある。

穴師大兵主神社については鎮座年代は不詳である。祭神の「大兵主神」は現在は左社に祀られ、剣を神体とする。大兵主神の正体については、八千戈命(大国主)、素盞嗚命、天鈿女命、天日槍命という説がある。

中世ごろから、穴師坐兵主神社が穴師上社、穴師大兵主神社が穴師下社と呼ばれるようになった。応仁の乱のときに若御魂神社と穴師上社の社殿が焼失したことから、この2社を穴師下社(大兵主神社)に合祀した。明治6年(1873年)に郷社に列し、昭和3年(1928年)に県社に昇格した。

巻向坐若御魂神社の祭神「若御魂神」は稲田姫命のことであるとされる。現在は右社に祀られ、勾玉と鈴を神体とする。元は巻向山中にあった。若御魂神については、和久産巣日神のことであるとする説もある。

鳥居をくぐり先に進む。
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しばらく山道を歩く。
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ここで、山の辺の道と分かれ、境内に入る。
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一段上がると、由緒書きがある。参道はまだ続く。
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手水舎
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少し行くと、まことに可愛い狛犬が迎える。大正?年奉納。

なんと、阿形の狛犬は舌を出している(笑)
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吽形には角があるが、それも可愛らしい。
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祓社
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社殿前に広場あり。
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社殿には、石段を上がるが、大きな石灯篭が二組あり。
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拝殿前の狛犬。
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拝殿
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向拝は唐破風
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本殿は、拝殿から更に石段で上がる。
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本殿は、三社が並ぶ。
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中央に祀られている兵主神は、穴師坐兵主神社の祭神。
社伝によると垂仁天皇二年の創祀。鏡を御神体とするらしい。
貞観元年に従五位下から従五位上に神階が昇り、延喜の制では名神大社に指定された。

兵主神については諸説あり、神社案内では御食津神。
一説には軍神として、大己貴神としたり、中国の武神・蚩尤とする。

『史記封禅書』の八神に、天主、地主、兵主、陽主、陰主、月主、日主、四時主があり、兵主は「蚩尤」であり、黄帝と戦った軍神で、兵器の創始者である。
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兵主神は但馬に多くみられる。

右に祀られている若御魂神は、社伝では三種の神器を守護された稲田姫命。
勾玉と鈴を御神体とする、芸能の神。
一説には稚産霊を祀ると考えるものもある。

左に祀られている大兵主神は、社伝では、剣(ホコ)を御神体とする武勇の神、相撲の祖神らしい。
一説には兵主神の親神として素盞嗚尊を祀るとするものあり。

また、穴師という鉄生産の地との関係から、大兵主(あるいは兵主)を天日矛とする説もある。


神紋は「橘」。
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境内社に参拝。

出雲大神
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水神社、橘神社、稲荷社
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この境内社は立派だが、不明。
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天王社
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これで参拝を終え、纏向駅の近くまで来た道を戻り、箸墓古墳に向かった。


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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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