桧原神社(倭笠縫邑)

20170514

鎮座地:奈良県桜井市三輪字桧原
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの二日目、大神神社、狭井神社参拝のあと、出雲屋敷跡など山の辺の道を歩いて、ここに到着。

山の辺の道を大神神社の方から来ると、この入り口になる。
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境内に入ってから、正面の入り口に回った。
大神神社と同じく、注連柱が立つ。
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社号標
式内社 大和國城上郡 卷向坐若御魂神社 大 月次相嘗新嘗、大神神社摂社
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この神社には、二つの系統の神統があることがわかる。
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私がここまで足を延ばしたのは、ここでは大神神社と同じ三つ鳥居を介して三輪山を拝することができるとあったからである。
ここが「倭笠縫邑(やまとかさぬいのむら)」の地であることは、頭になかったので、大事な場所に来れたことに感謝した。

まずは、三つ鳥居を拝して、三輪山に参拝。
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大神神社摂社として、社殿は無いが、
御祭神は、天照大神若御魂神、伊弉諾尊、伊弉册尊

〇豊鍬入姫宮(とよすきいりひめのみや)
ご祭神:豊鍬入姫命
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 桧原神社は、万葉集などに「三輪の檜原」と数多くの歌が詠まれた台地の上にある。大和国中が一望できる絶好の場所に位置し、眼下に箸墓の森が見え、二上山の姿も美しい。 かってこの付近は大和の笠縫邑と呼ばれた。そのため境内には「皇大神宮倭笠縫邑(やまとのかさぬいのむら)」と書いた大きな石碑が立っている。

 檜原台地に建つ桧原神社は、大神神社付近の摂社群の中では、最も北に位置している上に社格も最も高く創建も古い。天照大神が伊勢神宮に鎮座する前に、宮中からこの地に遷され、この地で祭祀されていた時代がある。伊勢神宮へ遷されると、その神蹟を尊崇して、檜原神社として引き続き天照大神を祀ってきた。そのため、この神社は広く「元伊勢」の名で親しまれている。

第十代・崇神天皇は、木(紀)国造である荒河刀弁の娘・遠津年魚目目徴比売を妻として 豊木入日子命と豊鉏入日売命の男女二人をもうけられた。 豊木入日子命は上毛野の君、下毛野の君等の祖となった。 豊鉏入日売命は、伊勢皇太神宮の祭主となった。

『日本書紀』崇神天皇6年条によれば、百姓の流離や背叛など国内情勢が不安になった際、天皇はその原因が天照大神(のちの伊勢神宮祭神)・倭大国魂神(のちの大和神社祭神)の2神を居所に祀ったことにあると考えた。そこで天照大神は豊鍬入姫命につけて倭の笠縫邑(かさぬいのむら)に祀らせ、よって磯堅城の神籬を立てたという。一方、倭大国魂神は渟名城入姫命につけて祀らせた。

皇女豊鍬入姫命はさらに大宮地を求めて丹波、大和、紀伊、吉備などの各地を巡り、 ついで第十一代・垂仁天皇の御代、皇女倭姫命が代わって大御神さまにお仕えし、 大御神の永遠にお鎮まりになるべき大宮地を求めて、各地を苦心してご巡幸されたのち、 「この地は、朝日夕日の来向ふ国、浪音の聞えざる国、風音の聞えざる国、弓矢・鞆の音 聞えざる国、大御神の鎮まります国ぞ」 と申されて、垂仁天皇二十六年九月、伊勢の五十鈴川上の現在の地にお鎮まりなった。
その後、代々皇女が神宮の司祭に選任されている。

『古事記』では、豊鉏比売命(豊鍬入姫命)は伊勢の大神の宮を祀ったと簡潔に記されている。

砂利の境内は清潔というか清廉な雰囲気。
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瑞垣のすぐ前には、北白川房子氏の歌碑があります。
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檜原神社からは、古来から大和の国人々から聖なる山として崇められた「二上山(にじょうざん)」の姿が美しく見られます。檜原神社からはほぼ真西の方角にあたり、春分・秋分の日の頃には、二上山の雄岳と雌岳の間に夕陽が沈むため、神聖視されてきました。
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参道に立つと、注連柱の間から二上山が、うっすらと見えた。
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前川佐美雄氏(日本芸術院会員)の歌碑
春がすみ いよいよ濃くなる真昼間の なにも見えねば 大和と思え
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池田黙々子氏歌碑
「観月や 山の辺道を 桧原まで」
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これで、桧原神社の参拝を終え、できるだけ大神神社の摂末社に参拝するため、来た山の辺の道を大神神社の方に引き返しました。


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狭井神社

20170506

鎮座地:奈良県桜井市三輪1422
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの旅二日目、素佐男神社、大神神社のあと、山辺の道を歩いてここに到着。

社号標
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式内社「狭井坐大神荒魂神社五座」。
病気平癒の神社。
狭井神社は狭井川の畔にある大神神社の摂社で、正式な名前は「狭井坐大神荒魂(さいにいますおおみわあらみたま)神社」という。本社の荒魂をお祭しており、延喜式神名帳に記されている古社。
古より「華鎮社」と称された。

社伝によれば、創祀は垂仁天皇の時代とされている。大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)を主神として祀り、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命および事代主神を配祀している。荒魂(あらみたま)とは、荒ぶるような猛々しい働きをもって現れる霊魂のことである。戦時や災時などにあたって現れ、祭祀(さいし)を受けることによって和魂(にぎみたま)の性質に変わる。

狭井神社は、鎮花祭(はなしずめまつり)が行われる神社として昔から有名であり、「花鎮社」ともいう。鎮花祭りは、俗に「くすりまつり」ともいい、毎年4月18日に大神神社とこの狭井神社で執り行われる重要な祭りで、その起源は崇神天皇のとき、全国に疫病が流行したが大田田根子を召して祭神の大物主神を祭ったところ疫病が止んだことにあるという。実際は、春になって花の花粉が飛散する陽気の頃はさまざまな病気が流行するので、これを鎮めるために祀ることから起こったのだろう。

『延喜式』の鎮花祭記述
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鳥居
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境内は思ったよりはるかに広い。
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皇后陛下の歌碑があり。
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手水舎
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一段上がって、拝殿前に。
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やはり、ここも注連柱があり。
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拝殿の唐破風の檜皮葺の意匠が美しい。
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拝殿
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拝殿内に「華鎮社」の社額がかかっている。
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拝殿内部
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本殿は屋根がかろうじて伺えるだけ。
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ご祭神:
主祭神は、大神荒魂神(おおみわのあらみたまのかみ)
配祀は、大物主神、姫蹈鞴五十鈴姫命、勢夜多多良姫命、事代主神。

大神神社摂社なので、神紋はやはり「三本杉」
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薬井戸・狭井に向かう入り口に、ご神水を使用した「水琴窟」がありました。
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これに耳を近づけると、澄んだいい音色がしていた。
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〇薬井戸・狭井
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たくさん蛇口がありました。
見ていると、けっこう頻繁に土地の方がキャリアを引いて水をいただきに来ています。
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私たち旅人にも、安心してご神水をいただけるよう、減菌されたコップが用意されていました。
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お水をいただくと、何とも言えない清浄な味に感じられました。
美味しい水でした。

御神体である三輪山への登拝口が境内にあります。
但し、三輪山は御神体であり山そのものが神域であるため、軽率な気持ちで入山することは出来ない。(明治に渡るまで「神域」として一般の入山禁止であった。)登拝料を払い受付より渡されるたすきを首にかけるなどの厳守すべき規則があり、それを了承した上で登拝することが義務づけられている。なお、入山中は撮影・飲食は禁止である。

三輪山の標高は467.1mです。その山頂に高宮神社があり、信仰者の登頂を認めている。登拝口は拝殿の右側にある。社務所に願い出て、住所・氏名・入山時間・性別を記入し、登拝口で祓いをすませれば、木綿襷を肩にかけて誰でも登頂できる。ただし、往復とも指定された一本道だけを通ること、禁則地域には絶対立ち入らないことなど厳しい制約が課せられる。途中に急な坂道もあり、普通の人なら頂上まで1時間はかかるとのことである。なお、登頂は有料である。

私の今回の旅は、サブテーマに出雲族の痕跡探しを挙げており、出来るだけ広範囲を廻りたいので、登頂は我慢した。次回はぜひ登らせていただきたいと思っている。

登山口
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「鎮女(しずめ)池」
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鎮女(しずめ)池のほとりに、三島由紀夫氏の「清明」碑がある。
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説明の中にある、摂社率川神社の「三枝祭」は、その起源も古く、文武天皇の大宝元年(701)制定の「大宝令」には既に国家の祭祀として規定されており、大神神社で行われる鎮花祭と共に疫病を鎮めることを祈る由緒あるお祭り。
昔、御祭神姫蹈韛五十鈴姫命が三輪山の麓、狭井川のほとりにお住みになり、その附近には笹ゆりの花が美しく咲き誇っていたと伝えられ、そのご縁故により、後世にご祭神にお慶びいただくために酒罇に笹ゆりの花を飾っておまつりする様になったと言い伝えられています。

国が行うお祭りとして重んぜられた三枝祭は、平安時代には宮中からの使いが御供えの幣物や神馬を献上するなど、非常に丁重な祭祀が行われましたが、後世いつの間にか中絶していたのを明治十四年再び古式の祭儀に復興され、現在に及んでいます。
このお祭りの特色は、黒酒、白酒の神酒を「罇(そん)」「缶(ほとぎ)」と称する酒罇に盛りその酒罇の周囲を三輪山に咲き匂う百合の花で豊かに飾り、優雅な楽の音につれて神前にお供えする事です。又神饌は古式に則り美しく手が加えられ、折櫃に納めます。そして、柏の葉で編んで作ったふたをして、黒木の御棚と言う台にのせて宮司自らがお供えします。

延喜式に書かれている「三枝祭」
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私は、三島由紀夫の小説はあまり親しんではいないが、絶筆となった「豊穣の海」シリーズは、前評判が騒がれたこともあり全て初版で買って、三島由紀夫の小説の中で唯一愛読しているものだ。
大神神社に参拝し、「三枝祭」に参加した本多が、松枝清顕の生まれ変わり、飯沼勲と出会うシーンは、三千本の百合の花のイメージと共に、今でも鮮明に蘇ってくる。

鎮女(しずめ)池には、大神神社末社市寸島姫神社がある。

〇大神神社末社・市杵島姫神社
ご祭神:市杵島姫命
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ここでも、卵が供えられている。
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しばらく、鎮女(しずめ)池のほとりで休んだ後、「出雲屋敷」跡に向かって、山辺の道を歩き出した。
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大和国一之宮・大神神社

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鎮座地:奈良県桜井市三輪1422
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの旅の二日目、ホテルで朝食後JR奈良駅8:00発の桜井線に乗り、三輪駅8:25に降り立ちました。
いよいよ奈良大和の三輪・巻向地域の旅のスタートです。

三輪駅から、大神神社と反対方向に向かい、大鳥居に向かいます。

さすがに大鳥居はデカイ!!
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大鳥居と三輪山
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昭和59年10月13日 昭和天皇陛下行幸を記念、ご在位60年を奉祝し、この大鳥居が建立された。
高さ 32.2m、柱間 23.0m、柱の直径 3.0m、本体総重量 180トン というもの。

圧倒されます。
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大鳥居から真っ直ぐ道が二の鳥居に向かっているが、それからちょっと外れて、大鳥から100mほど歩くと、一の鳥居がある。

社号標
式内社 大和國城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗、大和國一宮、旧官幣大社
別称を「三輪明神」・「三輪神社」とも。
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神武東征以前より纏向一帯に勢力を持った先住豪族である磯城彦が崇敬し、代々族長によって磐座祭祀が営まれた日本最古の神社の一つで、皇室の尊厳も篤く外戚を結んだことから神聖な信仰の場であったと考えられる[1]。旧来は大神大物主神社と呼ばれた[2]。

三輪山そのものを神体(神体山)としており、本殿をもたず、江戸時代に地元三輪薬師堂の松田氏を棟梁として造営された拝殿[3]から三輪山自体を神体として仰ぎ見る古神道(原始神道)の形態を残している。三輪山祭祀は、三輪山の山中や山麓にとどまらず、初瀬川と巻向川にはさまれた地域(水垣郷)でも三輪山を望拝して行われた。拝殿奥にある三ツ鳥居は、明神鳥居3つを1つに組み合わせた特異な形式のものである。三つ鳥居から辺津磐座までが禁足地で、4~5世紀の布留式土器や須恵器・子持勾玉・臼玉が出土した。三輪山から出土する須恵器の大半は大阪府堺市の泉北丘陵にある泉北古窯址群で焼かれたことが判明した。

全国各地に大神神社・神神社(美和神社)が分祀されており、既に『延喜式神名帳』(『延喜式』巻9・10の神名式)にも記述がある。その分布は、山陽道に沿って播磨(美作)・備前・備中・周防に多い。

例年11月14日に行われる醸造安全祈願祭(酒まつり)で拝殿に杉玉が吊るされる、これが各地の造り酒屋へと伝わった。

国史には奉幣や神階の昇進など当社に関する記事が多数あり、朝廷から厚く信仰されていたことがわかる。貞観元年(859年)2月、神階は最高位の正一位に達した。また、『延喜式神名帳』には「大和国城上郡 大神大物主神社 名神大 月次相嘗新嘗」と記載され、名神大社に列している。

現代においても、今上天皇が複数回参拝(皇太子時代を含む)しており、美智子皇后は毎年4月に催される「鎮花祭(はなしずめのまつり)」に心引かれたという。

神階:
六国史における神階奉叙の記録。いずれも神名は「大神大物主神」と記される。
嘉祥3年(850年)10月7日、正三位 (『日本文徳天皇実録』)
仁寿2年(852年)12月14日、従二位 (『日本文徳天皇実録』)
貞観元年(859年)正月27日、従二位勲二等から従一位勲二等 (『日本三代実録』)
貞観元年(859年)2月、正一位勲二等 (『日本三代実録』)

木製の一の鳥居
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神橋は渡れず、脇を通る。
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大鳥居からの道と合流、車道の脇に砂利の参道がある。
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JR桜井線の踏切を渡る。
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二の鳥居に到着。
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ここまできて、今日の巡拝の都合上、先に素佐男神社に参拝しました。
記事はアップしてあります。

素佐男神社から二の鳥居に戻って来て、いよいよ大神神社に参拝。

境内図
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二の鳥居の斜め前に「幽玄」と書かれた木札があります。
この文字は、大神様を深く信仰なさった福田青山師の筆になりもの。
傍書には「探幽入玄談玄口不開不言大教言外の教即随神の大道也」とあります。
福田青山師は、明治13年和歌山県那賀郡岩出町に生まれ昭和42年、88才で亡くなられているが、社会に貢献することを徳とされた方。
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二の鳥居
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掲額には「三輪明神」とある。
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気持ちのいい参道をいきます。
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神橋
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「祓戸神社」で禊をしてから参拝します。
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〇夫婦岩
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手水舎
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ご祭神大物主神が蛇神であることから、巳の口から水が出ている。
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○しるしの杉
三輪の七本杉の一つであり、保存されている。
言い伝えでは、勢州奄芸郡の猟人が異女に逢って妻にし一児を儲けた。その後、母子の去った所は分からないという歌がある。
恋しくは尋ねてもみよ我が宿は三輪山もと杉たてる門
夫はこれを尋ね求めて神木の本で会い、三人同じく神となった。当社の祭に勢州奄芸郡の人が来て執行するのはその縁による。
(『国花記』による)
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この石段を上がると拝殿前広場だが、石段の右に「衣掛の杉」がある。
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〇衣掛の杉
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石段を上がる。
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石段の上には、通常の鳥居とは違った、三輪神社独特の「注連柱(しめはしら)」が立つ。
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注連柱をくぐると、拝殿前の広場です。
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拝殿の右前に「巳の神杉」があります。
物主大神の化身とされる白蛇が棲むことから名付けられたご神木。樹齢500年とも言われる。蛇の好物の卵が参拝者によってお供えされている。
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やはり、神々しい樹です。
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大好物の卵が供えられている。
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拝殿
江戸時代中期、寛文4年(1664年)の造営。大正10年4月30日重要文化財指定。
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私たちは普通、柏手(かしわで)と礼拝で参拝するが、三輪の周辺では拝殿前に御幣が供えられていて、参拝者が自分で御幣を振って浄めてから参拝が出来るようになっている。
そのようにしている方がわりと多かったが、私は慣れぬことはするほうでは無いのでしなかった。
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檜皮葺きの厚いこと。
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当社には本殿はなく、三輪山(三諸山)を祀る神社。
三輪山は典型的な神奈備山で、山中には幾つかの磐座がある。
また、拝殿奥に、社伝に「一社の神秘なり」と記された三つ鳥居があり、そこから奥は禁足地となっている。

三つ鳥居は、希望すれば拝観できるようだが、時間の関係もあり、大神神社を特集したテレビ番組で見ているので省略しました。

ご祭神:
主祭神は、大物主大神 (おおものぬしのおおかみ、倭大物主櫛甕玉命ともいう)

大物主神は蛇神であると考えられ水神または雷神としての性格を合わせ持ち稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として特段篤い信仰を集めている。また日本国の守護神(軍神)、氏族神(三輪氏の祖神)である一方で祟りなす強力な神(霊異なる神)ともされている。

ご配神は、大己貴神 (おおなむちのかみ)と少彦名神 (すくなひこなのかみ)。

祭神の伝承:
記紀には、次の記述がある。大国主神(大己貴神)は少彦名神とともに国造りをしていたが、大国主が、「お前は小さな神だな」と愚弄したために国造りなかばにして少彦名神は常世に帰ってしまった。大国主神が「この後どうやって一人で国造りをすれば良いのだ」と言うと、海原を照らして神が出現した。その神は大国主の幸魂奇魂(和魂)であり、大和国の東の山の上に祀れば国作りに協力すると言った。その神は御諸山(三輪山)に鎮座している大物主神である。

崇神天皇5年から疫病が流行り民が死亡し、同6年には、百姓流離し国に叛くものがあって、憂慮した天皇は、天照大神と倭大国魂神を祀るが安からず、天照大神を豊鍬入姫命に託して笠縫邑に祀り倭大国魂神を渟名城入媛命に託して祀るが髪が抜け落ちてやせ細り祭祀が出来なくなった(崇神記六年条)。 同7年2月、巫女的な性格を持つ皇女倭迹迹日百襲媛命に憑依して、大物主神を祀れば平らぐと神懸りし、その後、天皇に大物主神が夢懸りして現れ、その神託に従って同7年11月に物部連の祖伊香色雄(いかがしこを)に命じ、磯城彦後裔である三輪氏の祖である茅渟県(ちぬあがた)陶邑(東陶器村)の意富多多泥古(大田田根子)を探し出して祭祀主として大物主神を祀らせた。その結果、国内が鎮まり、五穀豊穣して百姓が賑わった(崇神記七年二月辛卯条)。

倭迹迹日百襲媛命は聡明で未来を予言することができた。崇神天皇の命により北陸道を平定しようと出発した将軍の大彦命が道中で不思議な童歌を詠う少女に出会った。大彦命はただちに引き返して天皇に報告した。これを聞いた倭迹迹日百襲媛命は武埴安彦命と吾田媛の反逆を予言した。武埴安彦命らによる反乱は大彦命・彦国葺命らによって討伐された。 その後月日は流れ、倭迹迹日百襲媛命は大物主神の妻になった。しかしこの神はいつも夜にしか姫のところへやって来ず姿を見ることができなかった。百襲姫は夫にお姿を見たいので朝までいてほしいと頼んだ。翌朝明るくなって見たものは夫の美しい蛇の姿であった。百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて三輪山に帰ってしまった。百襲姫はこれを後悔して泣き崩れた拍子に、箸が陰部を突き絶命してしまった(もしくは、箸で陰部を突き命を絶った)。百襲姫は大市に葬られた。時の人はこの墓を箸墓と呼んだ。

さらに『日本書紀』によると、雄略天皇六年、天皇は少子部連スガル(蜾蠃)に、三輪山の神が見たいので、捕って来いと命じたところ、少子部連スガルは三輪山に登り大きな蛇を捕えてきて、天皇にお見せした。
天皇は斎戒していなかったため、大蛇は雷のごとき音をたて、目を輝かせてたという。

このように、当社祭神大物主神は蛇神であり、雷神である。

また、大物主神は密かに陶津耳命の娘・活玉依姫のもとへ通い、活玉依姫が妊娠。
父母は怪しんで、針を苧玉巻(おだまき:糸を巻く玉)につけ、神の裳にかけさせた。
明朝、その糸を辿ると、三諸山に行き着いた。
糸を巻いて輪にしたものが三丸(三輪のこと)残っていたので三諸山と号し、三輪という。


神紋は、「三本杉」と「三つ輪」
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勅使殿
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大神神社参拝はこれで終え、摂末社参拝に向かいます。
その範囲が広大で、「山野辺の道」に沿って行うことになります。

「くすり道」を上がります。
薬の神様・狭井神社さいじんじゃへの参道で薬業関係者奉納の薬木・薬草が植えられている。
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「山野辺の道」に出ました。
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「医薬の神さま」の碑
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「くすり道」から「山野辺の道」に出たところから、一旦大神神社の方に戻り、摂社・活日神社に参拝。

【摂社・活日神社】
ご祭神:高橋活日命
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そして、狭井神社の方向に進み、摂社・磐座神社に参拝。

【摂社・磐座神社】
ご祭神:少彦名神
鳥居の向こうには社殿がありません。神の鎮まる磐座をご神座とし、薬の神様である少彦名命を祀ります。
磐座信仰の根付く三輪山には、奥津磐座・中津磐座・辺津磐座と呼ばれる磐座群が鎮まります。三輪山の麓に位置する磐座神社の磐座は、辺津磐座の一つということになります。
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更に「山野辺の道」を歩き、摂社・狭井神社に出ました。
摂社・狭井神社は次の記事となります。



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素佐男(すさのお)神社

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鎮座地:奈良県桜井市三輪305
参拝日:2017年3月23日

青春18キップの旅の二日目、ホテルで朝食後JR奈良駅8:00発の桜井線に乗り、三輪駅8:25に降り立ちました。
いよいよ奈良大和の三輪・巻向地域の旅のスタートです。
大神神社参拝は、大鳥居からスタートし、二の鳥居まできて、今日の巡拝の都合上、先に素佐男神社に参拝しました。

社号標
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大神神社の摂末社ではありません。
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境内に入ると、正面は薬師堂で、その前を右折すると素佐男神社。
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手水舎
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磐座がある。三輪山の周囲には、磐座が多い。
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鳥居
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拝殿の前に、昭和3年奉納の狛犬。
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拝殿前の巨木に掛け渡した大きな注連縄が目立つ。
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桜井市江包に鎮座する素戔嗚神社の「御綱祭り」が有名だが、それを連想させる。
御綱祭り:隣の大西地区との間で行われる男綱と女綱を契り結ぶ祭り

左の巨木
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右の巨木
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注連縄の中央には、杉の枝が御幣として下がっている。
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拝殿
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本殿
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ご祭神は、素戔嗚命尊


白山神社
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庚申(こうしん)塔
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愛宕(あたご)大権現
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金比羅(こんぴら)大権現
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薬師堂
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堂内の薬師如来と十二神将
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石地蔵
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素佐男神社前から、大神神社に延びる「山野辺の路」を行きます。
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前方に黄色い鳥居が見えるが、あれは大神神社の「自動車お祓い所」。
その向こうが、二の鳥居だ。
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御靈神社(上御霊神社)

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鎮座地:京都市上京区上御霊前通烏丸東入上御霊竪町495
参拝日:2017年3月22日

青春18キップの旅の初日、比叡山坂本の日吉大社に参拝してから京都に出て、大田神社、山城国一之宮・賀茂別雷神社(上賀茂神社)に参拝し、その後出雲路・幸神社に参拝した後、鴨川デルタから北上して河合神社、山城国一之宮・賀茂御祖神社(下鴨神社)、続いて当社に参拝しました。

今回ここを訪ねたのは、鴨川西岸に広がる出雲路町(この地域は古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する)訪問の一環です。

このことを知ったのは、岡本雅享氏の「出雲を源郷とする人たち」によってでした。
埼玉県に出雲系の神社が多く、自然と出雲族の痕跡に関心が強くなったので、今回の「18キップの旅」のサブテーマを「出雲族の痕跡」としています。

賀茂川と高野川が合流し鴨川となるY字地帯(京都市左京区下鴨)に鎮座する賀茂御祖神社(下鴨神
社) の境内に、山城(背)国愛宕郡の式内社、出雲井於(いのへの)神社の比定社(通称比良木社)がある。この出雲社に近い西鳥居を出て賀茂川へ向かうと、出雲路橋を渡り、同川西岸に広がる出雲路(松ノ下・立テ本・俵・神楽)町に至る。そのまま鞍馬口通を西へ向かい、出雲路橋郵便局方面へ曲がって南へ進むと、出雲寺跡といわれる御霊神社に辿り着く。その200mほど南西には現出雲寺がある。この賀茂川西岸に分布する出雲の地名や社寺は、古代・中世の愛宕郡出雲郷に由来する。

八世紀、神賀詞奏上のため60年間で15回という頻度で大和入りしていた出雲国造たちは、途上にある山背の出雲郷に立ち寄り、藤原・平城京で官人として働く出雲臣たちから畿内政権の動向など聞いていたのだろう。出雲国造は延暦17(798)年まで大領として政治権力を維持していた。山背の出雲郷は、その出雲国造の意向で作られた、出雲人の一大拠点だったのではないかと推定されている。

 京都市上京区の御霊神社は中京区の下御霊神社に対し、上御霊神社とも呼ばれる。同社地にあったという出雲寺も、度々上出雲寺と呼ばれた。江戸中期『山州名跡志』は、上出雲寺は「今の上御霊社地にあり。(平安)遷都巳前の草創也。……地を出雲路と称す」 (巻21)という。出雲路=出雲寺だったのかもしれない。
文献上は『智証大師年譜』 に天安2(858)年12月27日 「帝城に入り、出雲寺に寓す」 とあるのが早いが、創建は神亀3(726)年の愛宕郡出雲郷計帳以前に遡るとみられる。
御霊神社境内で1936年頃、白鳳時代の瓦が出土した。出雲寺の遺物とされるその瓦を2005年に調べた前田義明・現京都市考古資料館長は、早期の瓦が藤原京本薬師寺跡の瓦と酷似する点から、出雲寺の建立を700年前後とみる。
各種記録には、京都で疫病が流行した時には出雲寺で供養が行われている。
出雲寺を御霊信仰と結びつけたのは 「出雲の神は崇る」 と考えた畿内政権貴族だろう。
その後、御霊堂が栄える傍ら出雲寺が衰退し、主従逆転したようだ。

入り口
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鳥居の横には、「応仁の乱勃発の地」という碑が立っている。
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ちょうど、呉座勇一氏著「応仁の乱」を読み進んでいる最中だったので、ちょうど良かった。
これまで、日野富子くらいしか記憶になかったが、これを読んでみるとおびただしい人物が関係しているのに唖然とする。

社号標
式内社 山城國愛宕郡 出雲井於神社 大 月次相嘗新嘗 私云神式第二相嘗祭出雲井上上社一座是也、式内社 山城國愛宕郡 出雲高野神社、旧府社
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桓武天皇の時代、各地で疫病が流行した。これは御霊の祟りであるとして、貞観5年(863年)5月20日、平安京の神泉苑で御霊会が催された。この時に慰霊された御霊は崇道天皇・伊予親王・藤原夫人・観察使(藤原仲成)・橘逸勢・文屋宮田麿らであった。この御霊会が当社および下御霊神社の創祀であるとしている。

現在の下御霊神社を下出雲寺御霊堂、当社は上出雲寺御霊堂と称した。朝廷の篤い崇敬を受け、至徳元年には正一位の神階を授けられた。

室町時代の文正2年(1467年)1月18日、失脚した管領の畠山政長と畠山義就との私闘が当社境内の森で行われた(御霊合戦)。この戦いは応仁の乱の前哨戦となり、応仁の乱発祥の地とされる。
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四脚門の前に、大正14年奉納の京うちわ型尾の狛犬があり。
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楼門(四脚門)
伏見城の四脚門を移築されたものと伝えられています。
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随身
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手水舎
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参道の中ほどに、明治28年(1895)奉納の、浪速型狛犬があり。
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舞殿
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舞殿の奥に拝殿があり。
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拝殿前には、天保15年(1844)奉納の京うちわ型尾の狛犬があり。
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拝殿
享保18年(1733)御寄進の内裏賢所御殿の由緒ある遺構を昭和45年に復原したものです。
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拝殿内、幣殿の前には随身が侍り、獅子狛犬も侍っている。
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平安時代に確立された、官国弊社の狛犬の基準は「獅子は金箔を押し、毛髪には緑青を塗り、金の毛描きを施す。狛犬は、銀箔を押し、毛髪には群青を塗り、銀の毛描きを施す。」とある。
ここのは、獅子狛犬とも金箔だが、色は守られている。
この姿のものを、遠いのでズームしたカメラを通してだが、肉眼で見られたのは、とても嬉しかった。
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本殿
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ご祭神:
社伝によると、延暦十三年(794)、崇道天皇の神霊を祀り、後に七座を加えたという。
「八所御霊」と称される。
崇道天皇(早良親王。光仁天皇の皇子)
井上大皇后(光仁天皇の皇后)
他戸親王(光仁天皇の皇子)
藤原大夫人(藤原吉子、桓武天皇皇子伊予親王の母)
橘大夫(橘逸勢)
文大夫(文屋宮田麿)
火雷神(以上六柱の荒魂。)
吉備大臣(吉備真備)

祭神は9世紀前半から民衆の間で広まり、863年(貞観5年)には公式の御霊会で祭られるようになった御霊信仰が元になっている。当初の御霊会で祭られたのは崇道天皇、伊予親王、藤原夫人、観察使(藤原仲成、橘大夫(橘逸勢)、文大夫(文室宮田麻呂)の六所御霊であった。追加された二神について、火雷神は菅原道真、吉備聖霊は吉備内親王、または伝承にある井上内親王が産んだ皇子とする説、さらに火雷神は落雷を司る雷精で、吉備聖霊は鬼魅(災事を起こさせる霊力)であると解釈する説もある。

相殿に小倉実起・小倉公連・中納言典待局・小倉季判、若宮に和光明神(菅原和子)を配祀する。

これらの諸神は(吉備真備を除いて)いずれも政争に巻き込まれて憤死した人々で、その怨霊を慰めるために創建されたのが当社である。


神紋は、「有職桐」という。複雑な紋である。
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絵馬所
宝暦年中(江戸時代中期)御寄進の内裏賢所権殿を絵馬所につくり改めたもの。
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境内社ですが、貴重な狛犬がたくさん見られて舞い上がってしまっていて、ほとんど参拝てきていなかった(汗)

「福寿稲荷神社」のみです。
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松尾芭蕉の句碑がありました。
俳聖松尾芭蕉は元禄3年(1690)当社に参詣「半日は神を友にや年忘」の句を奉納した。
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これで参拝を終えて、西門から退出しました。
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西門
寛政年間(江戸時代中期)に再建されたものです。
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こちらの社号標は、時計つきのものだった(笑)
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時計は、ちゃんと動いていました。
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この後、現在の出雲寺を訪ね、この日の予定は終了。
バスで京都駅に向かい、京都から奈良までJRで移動。JR奈良駅近くのホテルに入り、長かった「青春18キップ・初日」が終わりました。



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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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