シュプライツァー/オーストリッヒャー・レンシェン リースリング・カビネット(白)

20100630

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伊勢丹で、ドイツのワインで甘口が欲しいと言ったら、薦められた。
「とにかく、飲みやすいですから」と。
伊勢丹の店員のいう「飲みやすい」というのは、どんなワインなのかと買って帰った。
飲んで驚いた。
こんなに美味しくて飲みやすいワインがあるとは。
「フルーティ」という言葉があるが、まさにこのワインのためにあるような言葉。
甘口では、私にとってNO.1の位置に座った。


ドイツ、ラインガウのシュプライツァー醸造所産。
葡萄 : リースリング:100%

1641年より家族経営にてワイン造りを開始して、現在は二人の若い兄弟が醸造所の管理を行っている。
この二人はガイゼンハイム大学を卒業し、その後、技術専門学校でさらに技術を学び、現在それぞれの長所を活かし畑、セラーの仕事を分類しコンタクトを取りながらワイン造りをおこなっているそう。
数々の高い評価をはじめ、2001年版ドイツワインワインガイドブック"Gault Millau"に於いて、その年にただ1件のみ選ばれる、注目醸造所に選ばれた実力派の造り手。
非常に権威のあるワインガイドゴーミヨ誌で最高評価は5つ星に評価されているそうだ。

一口飲んだ瞬間、まるで白桃を食べているような甘さの感覚が広がる。素晴らしい絶妙な酸味とのバランス。雑みの無い、ストレートな味わいが特徴です。
ピーチみたいな甘口感はまるでフルーツのよう。飽きがこない質の高い甘さがとてもいい。しっかり冷やして頂くとより爽やかさを感じて病みつきになりそう。
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シャラポア復活か

20100626

ウィンブルドンの放送を見ていたら、シャラポアの2回戦の試合を流した。
かなり調子が良さそうだった。
2008年に肩の手術をして、そのシーズンは棒に振り、去年は復帰したものの、フォームがずいぶんコンパクトになって、以前の勢いが感じられなくてさびしい思いをしていた。

それが今年は、以前のダイナミックなフォームに戻って、力強い試合をしていて嬉しかった。
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2回戦の相手は、ルーマニアのヨアナ・ラルカ・オラル。
ランクは114位とのことだが、どうしてどうしてすごく良いプレーをした。
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結局試合は、オラルがすごく良い動きをしてシャラポアをずいぶんと苦しめたが、常にちょっとシャラポアが上を行って、ストレートで勝った。

シャラポアが復活してくれると、応援のし甲斐がある。
テニスの試合も目が離せなくなる。

振り返ってみると、2003年にツアー初優勝を、有明センターコートでしたときは、まだこんな少女だったのだ。
(ジャパンオープンで撮影)
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それが、翌年日本に現れたときには、こんなになっていて吃驚した(笑)
(ジャパンオープンで撮影)
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このときも優勝したんだ。
(ジャパンオープンで撮影)
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絶頂にいたシャラポアに陰りが見えたのは、この試合から。
準決勝でイワノビッチと試合していて、脚を痛めて棄権。
(2007年1月東レパンパシで撮影)
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2007年は、怪我で苦しみ、思い切って2008年に肩の手術をした。
そして、復活をしてきた。
まだまだ24歳と若いシャラポア。
これからまた、頑張ってくれ。

山紫陽花(2)

20100622

京都植物園にて

七段花
(幻の紫陽花と呼ばれていたが、戦後六甲山で発見された)
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紅山紫陽花
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舞妓紫陽花
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額姫紫陽花(先祖返り)
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2002年6月 撮影

国立西洋美術館/上野

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アップしようとして、見たら全体像がわかる写真が全然無い。
よく行くのにね。

地獄の門については、素晴らしいので撮ってあった。

『神曲』地獄篇は、作者にして主人公のダンテが古代ローマの詩人ウェルギリウスに導かれて、地獄を巡るという内容である。「地獄の門」は、この地獄の入口にかかる門であり、『神曲』地獄篇第3歌の冒頭は、門の頂に記された銘文から始まっている。

オーギュスト・ロダンの未完の作品に、前述の「地獄の門」をテーマとして制作された、巨大なブロンズ像『地獄の門』がある。「考える人」はこの門を構成する群像の一つとして造られたもので、単体作品としても独立して高く評価されている。このロダン作「地獄の門」は、上野恩賜公園の国立西洋美術館をはじめ、世界に7つが展示されている。
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レストラン「すいれん」
この美術館に来たときだけでなく、上野に来た時にはたいてい利用するお気に入り。
西欧料理が中心で、料理が美味しいのと、中庭の眺めが落ち着いていて素晴らしい。
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「すいれん」からの中庭の眺め
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奇しくも、美術館の前庭にある地獄の門も、館内とはいえ「すいれん」も催しのチケット無しで行けるところだった(笑)。

2002年9月 撮影

曹操の墓が見つかった(2)

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2009年12月27日、河南省安陽市郊外の西高穴村の「曹操高陵」を、三国時代に活躍した曹操(155-220年)の墓と断定したと発表した。
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番組では、それを三国志の世界に魅せられた俳優・北村一輝が考古学者と一緒に見て歩くというものだった。

どうして今まで、曹操の墓がわからなかったかというと、曹操の指示で「墓の上には塚を設けるな、木も植えるな」というものだったため、地表に何の目印もなかったことから唐時代以後に完全に位置がわからなくなってしまったようです。
また、「72の疑塚説」があります。盗掘を恐れた曹操が72基の陵墓を築き、都の門がすべて開かれて72台の棺を運ぶ車が四方八方へと発車して埋葬地を秘密にしたという伝説です


発掘調査が始まったころの写真。手前の右側半分。盗掘された穴が開いている。
左側にも誰のものかわからない墓がある。
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現在青い屋根がかけられているのが、曹操の墓。
畑の中にある。
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曹操の墓の入り口。
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墓の構造
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陵墓の面積は約740平方メートル。文物局が昨年12月から発掘を進めていた。大部分が盗掘されていたものの、二つの墓室の中からは、埋葬品や鉄剣が見つかった。
出土した銘のある石碑は59枚あり、長方形をしており銘文には副葬品の名称と数量が書かれていた。そのうち八枚の石碑には「魏武王常所用格虎大戟」と書かれており、かつてこの墓より盗掘されたとされる石枕の上にも「魏武王常所用慰项石」と書かれていることから相通じる内容であった。
陵墓内からは、60歳前後とみられる男性と2人の女性の頭や足の骨が見つかった。
2人の女性は夫人であろう。


俳優・北村一輝は「レッド・クリフ」や「三国志演義」などから、曹操を悪辣な人物だと思っていたようで、曹操ゆかりの地を訪ねるうち、その認識が変わっていく。

駅前に大きな曹操の像がそびえ立っている。
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町の人に聞くと、今でも曹操の人気が高い。
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鄴(ぎょう)を訪ねる。
袁紹の本拠地であったが、204年(建安9年)に曹操が侵攻して有名な「官渡の戦い」で袁紹を破り、拠点のひとつとし、銅雀台などの壮麗な宮殿を造営した。これ以降魏の主要都市として発展した。
ここにも曹操の大きな像が立っている。
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三国志の「魏書武帝紀」によると、曹操は建安25年(AD220年)の正月に洛陽で死去し、二月に棺によって運ばれ高い丘の上にある「西門豹の祠から西の原っぱの上」に葬られたとされている。

西門豹の祠
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西門豹とは、曹操よりも600年くらい前の人で、孔子の弟子であり、鄴の知事に起用された。
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当時鄴では、毎年に河に住む神(河伯)に若い女性と多大な財産を、巫女や三老と言われる長老や儀式を管理していた役人に差し出し、それらを河に沈めるという人身御供の儀式がしきたりとなっていた。これにより集められた金銭は膨大なもので、民衆の生活が困窮するほどであった。また年頃の娘がいる家は逃げ、その田畑は荒れ放題となっていた。
西門豹はこの迷信により、巫女・三老・役人が迷信に付け込み肥え太り、その分、農民達が困窮したので土地が枯れたと見た。更に灌漑が必要だが、迷信ある限り河に手を付けられないと判断し、まずはこの一掃に着手することにした。儀式が行われる日、河辺には巫女達と多数の見物人が居た。そこへ西門豹は見学したいと護衛を伴って参加した。そしていけにえの女性を見せられるや、「これでは器量が悪すぎる。もっと良い娘を連れて行きますので、待ってくださいと河の神に伝えられよ」と言い、「お怒りを買わぬためにも、使者には最も河の神と親しい者がよかろう」と巫女の老婆を河に沈めた。 しばらくして「沈めた巫女が帰ってこない。様子を見てこられよ」と言い、弟子の女性たちを河に沈めた。更に「弟子達も帰ってこない。河の神への願いが余程難航しているようなので、次いで河の神様に貢献している三老に手助けをお願いしよう」と言い三老が河に沈められた。更にしばらくして「おかしい、三老も帰ってこない。更に次いでとなると、多額の金銭を集めた役人であろうか」と役人達を沈めようとしたが、役人達は「その任は何卒お許しください」と平伏して詫びた。その顔色は血の気が引きすぎて土のような色で、更に頭を打ちすぎて流血するほどであった。西門豹はしばらく待った後、「どうやら河の神は客をもてなして帰さないようだ。皆も帰るがよい」と言った。役人も民衆も度肝を抜かれ、これ以降いけにえの儀式は行われなくなった。西門豹は河の神を信じている風にして、儀式の中心人物を反論できなくしたまま一掃し、迷信も一掃したのである。

次に西門豹は鄴付近の村の長老を呼び集め、黄河や漳河から鄴の田畑へ灌漑するという大事業を始めた。この大事業に対し鄴の人々は「今のままでも暮らしてはいける。何故これほどのことをやらねばならぬのか」不平不満を漏らしたが、西門豹は「この功績は100年後に評価される業績である」と述べ、工事を遂行させた。
この灌漑により、鄴の農業は大きく発展し、魏は強国となって列侯に並べられた。

彼の祠だとされる西門豹祠は、漳河河畔の鄴の故地である安陽市付近に多数ある。


曹操は、天下は安定していないので、葬儀が終わったら古いしきたりに従わなくて良い。葬儀が終わった後、喪に服さない。兵を率いるものは持ち場を離れるな。役人は職務を続けよ。遺体は平服で、金、玉、宝を埋葬してはいけない。
手に職を持っていない側室は、靴の作り方を覚えて売るがよい、と側室が自分の手で生きていくようにまで気を使い、
大雨のように涙を流して息を引き取ったという。

実際に今回見つかった墓にはその規模に対して副葬品はもとより墓所内の装飾も少なく、壁画もなく非常に質素なものである。

当時の長年に渡る戦乱の歴史から社会全体で生活水準は下がり、そのような環境から曹操は副葬品を質素にするべきだと提唱したのだろう。実際に曹操は非常に節約家で十年間も同じ布団を使い続け、その臨終の際も粗末な服を二重に着ていたそうだ。

やはり曹操は、立派な人物たったようで、それを裏付けるような番組だったので、曹操ファンの私としてはとても嬉しかった。

曹操の墓が見つかった(1)

20100617

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北方謙三の「三国志」が大好きで、何度か読み返している。
同じく「水滸伝」も好きでこちらも読み返しているから、北方謙三が好きというほうが正確か。
このあいだBSジャパンで、「曹操の墓が見つかった」という番組を見て飛び上がった。

曹操が私は大好きだ。
学生の頃に吉川英治の三国志を読んで、そのときに劉備玄徳は勿論だが、曹操に心惹かれた。
彼には華がある。
だから、若い時の自分が惹かれたのだろうと思っていた。
が、今も読んでいて、やはり曹操が一番気になる。
曹操が始めて登場するのは、29歳。近衛騎兵隊長で黄巾の乱の制圧の戦いに、五千の兵を率いて参加する場面である。
この時に、百名の兵を率いて義勇兵として参加、見事な戦いをした劉備玄徳と出会う。
霊帝が崩御して、後継者争いから乱世に突入していく時、曹操は、西園八校尉の一人、つまり中央軍の八人の将軍の一人だった。
宮中の血で血を洗う勢力争いの、混乱の中で綾をなしたのは、三人。
曹操と、袁紹と、董卓。
曹操は宦官の家系であり、これが彼の心に影を落としている。よく学問をし、間者を使って情勢を把握し、大望を抱いている。
袁紹は名門中の名門出身で、やはり西園八校尉の一人。曹操とは幼馴染だが、曹操が宦官の家系なので軽んじている風がある。
董卓は辺境の将軍からのし上がってきた、己の欲望だけの人物。
宮中の血の海の混乱の中で、曹操は必死に幼い帝を探すが、幼い帝を確保して実権を握ってしまったのは、董卓。
袁紹が失望して、洛陽を出ていった後、曹操は董卓に一緒に手を組むことを誘われる。
曹操は、ここで冷静に判断する。
軍部のトップに立てると言っても、所詮借り物の軍隊。董卓のような卑しい人間と、いずれ袂を分かつときに自分の軍でなければ、どうしようもないと。
しかし、ここで董卓の誘いを断れば、自分は殺されるだろう。
その晩に、即座に単騎で洛陽を脱出する。
この脱出が、曹操の間者が牛を六、七百頭暴走させて、それに紛れて脱出するという派手なもの。
そして、賞金をかけられた身で、馬が潰れれば、歩き、また間者が用意した馬を乗り継いで、家族が暮らしている場所まで、八百里を駆ける。
途中で、見張りの兵と出くわした時は、堂々と名乗り、威厳で、道を開けさせ、無事に落ち延びる。

曹操が全国に発した、打倒董卓の檄文で30万の兵が集まる。
主力は、袁紹・袁術の兄弟、孫堅、公孫賛。公孫賛の陣中に劉備玄徳がいる。
その18名の諸侯の会議で、途中まで曹操が仕切り、同盟軍の盟主として、袁紹を推薦する。
袁紹は、いちおう遠慮してみせるが、当然のような顔で受ける。
そして、董卓の軍と虎牢関で戦う。
董卓陣には、赤兎馬に乗る呂布がおり、この軍隊が強く攻めあぐむ。
この呂布に劉備玄徳の部下の関羽と張飛があたり、曹操と劉備玄徳が組んで互角の戦いをするが、虎牢関で両軍がにらみ合いをしている間になんと、董卓が守りにくい洛陽を捨て、帝を連れて長安に移ってしまう。
それを知った同盟軍の本陣で曹操は強硬に追撃を主張する。
袁紹は、力なくうなだれているばかりだ。
曹操は、自分の兵五千だけを率いて追撃する。そして、待ち構えていた呂布に敗れる。
曹操の馬は倒れ、歩いて落ち延びる。部下が馬をくれる。
逃げる。敵と遭遇し戦う。馬がつぶれ、河を一人で泳いで渡り、九死に一生を得る。 敗残の兵をまとめ、本陣に戻る。
「曹操殿、よく戻られた」
馬を降りた曹操に、袁紹が声をかけた。
「洛陽を焼かれたら負けだ、と袁紹殿は言われた、だからこの戦は負けだ」
しんとした、曹操の声は遠くまで通っているようだ。
「私も負けた、完膚なきまでに負けた。しかし私は戦って負けた。 そして諸君は、闘わずして負けたのだ。私は闘わずして負けた諸君に、決別を告げる」
袁紹の顔が歪んでいる。ほかの諸侯も、ただうつむいていた。

この戦で、曹操は負けはしたが、希代の勇将として名をなす。無形の、財産を手に入れたのだ。
帝を握って、権勢を振るう董卓。
名門の名だけで、兵が集まっている袁紹。
己の才覚だけで、力を蓄えていく、劉備玄徳と曹操。
私が曹操に惹かれるのは、強い意志と行動力。真っ直ぐな、いさぎよさが、ある。

映画「レッドクリフ」では曹操は悪役として描かれているが、「北方三国志」では劉備、孫権、そして曹操が対等に英雄として描かれている。

曹操が私は大好きだ。
この男の事を考えるとき、「運」ということを考える。
才能のある人間は、いくらでもいる。豪傑もしかり。
しかし、そういう人間がすべて英雄になれる訳ではない。
死地で運を掴み取った者が英雄となる。死んでしまっては、おしまいなのだ。
曹操は、そういう死地に敢えて自分から踏み込んでいき、運を切り開いていく。
何度も九死に一生の場面に陥る。
そして、生き延びて、大きくなっていく。

最初は、幼帝を擁した卓に近衛軍の将軍に誘われた時、組むに値しない人物として、単騎で洛陽城を脱出して郷里まで落ち延びる。

第二
曹操の檄で集まった連合軍と卓が虎牢関で戦い、戦線が膠着したとき、卓が洛陽を捨て、都を移してしまう。
曹操は追撃を主張するが、諸侯は動かず、曹操軍だけで追撃。殿軍の呂布の待ち伏せにより、壊滅的に破れ、曹操は単騎となって川を泳ぎ、難を逃れ、九死に一生を得る。
本営に戻った曹操はこう言う、「私は闘って負けた。私は闘わずして負けた諸君に訣別を告げる」。
そして、曹操ここにありと知らしめる。

第三
黄布賊百万の軍を、三万の兵で破り、青洲を手にした曹操は父の弔い合戦を陶謙としている最中、重臣陳宮が裏切り、呂布を担いだため、呂布と闘うことになる。
呂布の騎馬隊に翻弄され、城に逃げ込むが、先回りした呂布の騎馬隊が待っているなかに飛び込む。
火の中に馬で突っ込み、呂布の追撃をかわし、九死に一生を得る。

第四
水に滞陣していた時、袁紹側から降伏してきた張繍が差し出してきた、雛氏という女に溺れていたとき、寝所で張繍軍に襲われる。
数騎で逃げていくなかで、自分と馬が矢を受け倒れる、長男の馬を借り、川を渡り九死に一生を得るが、典偉という護身役と、長男を失う。

第五
そして赤壁の戦いである。
大敗した曹操は、わずか数騎で落ちていく。それに気づいた張飛と超雲子竜の軍が追いかける。その差数キロ。
曹操から「虎痴」と呼ばれ愛された護衛の許猪が偉かった。馬が潰れてしまえば万事休す。馬をだましだまし、時には泥濘のなかを歩いて、また馬に乗って、実にしんぼう強く逃げる。
追う張飛たちも同様だ。
しかしついに、お互いに姿が見えるほど近づいたときに、かろうじて曹操は出迎えてきた味方の軍に逃げ込む。

曹操は、こうして死ぬか生きるかの境目で生き延び、こうした経験から、大きな人間に育っていく。

赤壁の戦いで破れ、ついに天下統一は成し得ず、三国膠着のなかで曹操は病に倒れるわけだが、その墓がやっと見つかったという。

どんな墓だったのかは、次回報告。

美ら海水族館(1)/沖縄

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ここを訪ねるのは、ほんとに楽しみにしてた。
中央の入口では、でっかい門がお出迎え。
上に大きなシーサーが。
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11月というのに、あちこちにブーゲンビリアとかハイビスカスの花が咲いている。
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案内板にもかわいいシーサーが。
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いよいよ入口。ジンベエザメがお出迎え。
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館内の写真は次回から・・・・・・
お楽しみに

2007年10月20日撮影

ミラノ/スフォルツェスコ城(2)

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場内の広場
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中世で使用された投石用の弾が、堀に置かれていた。
中世の戦争シーンではおなじみのもの。
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壁を修復しようとしたら出てきたダ・ヴィンチの下絵だそう。
何が書いてあったのか?
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ロンダニーニのピエタ(未完)
ミケランジェロの最後の作品。
もう目が見えなくなっていたミケランジェロが手探りで作っていたとのこと。
その情熱がすごい。
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2005年10月6日 撮影

旧古河庭園/東京

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今日は、仕事のほうが休みを取れる状況になったため、会社を休んで薔薇の写真を撮りに出かけた。
どこに行こうかと、ネットで調べていたら、都内にまだ行ってない所があった。

この土地は明治の元勲陸奥宗光の別邸だったが、宗光の二男が古河財閥の養子になったとき、古河家の所有となったもの。
現存している建物の設計者は、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸庭園洋館などを手掛けたジョサイア・コンドルである。
日本庭園の作庭者は、京都の小川治兵衛だというので、吃驚した。

石造りの洋館
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薔薇園は、期待したほどの規模ではなかったが、それでも撮ってなかった薔薇を20種撮れた。

ダブルデライト
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マダム サチ
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ブルーライト
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クリスチャン ディオール
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レッド ドロシー パーキンス
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薔薇を撮り終えたころは汗だく。
それでも、心字池のまわりが深い木立で、その下で休んでいるととても気持ちが良かった。
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金閣

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これは、もうずいぶん以前に閉園になった、向丘遊園のバラ園で撮ったものです。
黄色で風格のある剣弁高芯咲きの巨大輪で、
和風の華やかな感じが好きです。

系 統: HT ハイブリッドティ
作出年: 1975年  
作出者: 岡本勘治郎 氏
花 色: 濃黄金色
花 径: 大輪
香 り: 中香
開花性: 四季咲き


2001年5月 向丘遊園バラ園にて

東慶寺/鎌倉

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北条時宗の夫人が開山した。
現在は男僧の寺であるが、明治36年(1903年)までは代々尼寺であり、尼五山の第二位の寺であった。後醍醐天皇の皇女用堂尼、豊臣秀頼の娘などが住持として入寺している。
東慶寺は、近世を通じて「縁切寺(駆け込み寺)」として知られていた。江戸時代、離婚請求権は夫の側にしか認められていなかったが、夫と縁を切りたい女性は、当寺で3年(のち2年)の間修行をすれば離婚が認められるという「縁切寺法」という制度があった。幕府公認の縁切寺として、江戸から多くの女性が東慶寺を目指した。

この寺は文化人の墓が多いことでも有名で、墓地には鈴木大拙のほか、西田幾多郎、岩波茂雄、和辻哲郎、安倍能成、小林秀雄、高木惣吉、田村俊子、高見順、前田青邨(筆塚)、川田順、レジナルド・ブライスらの墓がある。

この寺に紫陽花を見に行ったのは、2001年のこと。

門前の紫陽花
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境内の紫陽花
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ここにはイワタバコの自生地があり、こちらも人気がある。
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今年2月に北鎌倉に遊んだときの写真。
梅がまだ2分咲きといったところだった。
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今年5月に鎌倉でテニスを楽しんだ際に、ここにも寄った。

本堂
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国歌に出てくる「さざれ石」
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カルミナ(アメリカ石楠花)が満開だった。
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山紫陽花(1)

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京都植物園に薔薇の写真を撮りにいったとき、
数人のカメラマンさんが撮っているところに行ってみると、
山紫陽花のコーナーでした。
そのかわいらしさに吃驚しました。

銘:舞妓紫陽花
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銘:白舞妓
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銘:美方八重
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銘:富士の滝
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2002年6月 撮影
プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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