同級会

20110227

2月26日 土曜日、もう昨日になってしまったが、
小学校・中学校の同級会に、長野県佐久市まで行ってきた。
山村の学校だったので、
私のクラスは、33人で1学級しか無かった。
なので、小中と9年間組み換えなしで一緒だった。
鼻たらした小僧のときから、そろそろ色気づいたころまでずっと一緒だった。

だから仲良かったと思う。
高校、大学くらいまでは毎年同級会はあったが、それがどうしたことか
いつの間にかやらなくなってしまい、
なんと40年ぶりに再会の人が多かった。

集まったのは16名。
女性の方もたくさん出てくれた。
当然ながら、小学生のころとは変わっているのが当たり前。
誰が誰やらわからなくて、困った(笑)

それでも、お互いに近況報告が済んで、誰だかはっきりわかると、
昔の子供のころの気分に帰って、談笑に花が咲いた。
4時間大変な盛り上がりだった。

分かってみたら、笑い話だが、
私と同級生の一人とは、住んでるところが車で10分もかからないところで、
お互いに吃驚した(笑)

これからは、幹事を盛り立てて、毎年開けるよう頑張ろう。

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小江戸川越 建築ウォッチング(2)

20110225

あさひ銀行川越支店(旧八十五銀行本店)
この建物は、明治11年に旧川越藩の御用商人を中心にとして設立された第八十五国立銀行が名称変更を経て、大正7年に改築した本店の建物。
外観は、当時流行のネオルネッサンス様式を取り入れて、正面角部に塔屋を設けた形をとっている。
設計者の保岡勝也は、当時珍しかった鉄筋コンクリートの優位性を主張し、耐久性から「経済的」であることを主張した。この建物は、実際関東大震災にも耐え、今日でも現役の銀行店舗として使われている。
鉄筋コンクリートが一般に普及するのは関東大震災以降であり、この建物は現存する早期の鉄筋コンクリート建物事例として貴重な存在である。
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屋上にあがり塔屋部分を観察
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塔の壁にこんな記念プレートが。
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下には、蔵づくりの街が見える。
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「時の鐘」も見える。
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下に降りて、町を歩いて眺めた「時の鐘」。
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「時の鐘」は、今から約400年前の寛永年間に当時の川越藩藩主、酒井忠勝によって建設されたといわれている。火災によりたびたび鐘楼が焼失しており、現在の4代目は1893年(明治26年)に起きた川越大火の翌年に再建されたものである。
古くは鐘撞き守が決まった時間に時を知らせていたが、現在では機械式で1日4回(午前6時、正午、午後3時、午後6時)時を知らせている。
ということで、現在でも町の人の生活に溶け込んだ存在である。

蔵づくりの町
以前は、ゴテゴテした看板や、無粋な電柱・電線でゴチャゴチャしていましたが、町の復興委員会の根気良い活動で、看板の撤去、電線などの地下施設により、とてもきれいな街並みになりました。
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川越の町は寛永16年(1639年)頃、川越城主松平伊豆守信綱が「十か町四門前」の町割りを定め、札の辻と呼ぶ高札場を中心にして拡がっていったと言われています。
江戸文化の影響を受け城下町そして商人の町として栄えてきた川越には、江戸・町家形式の蔵造りの建物が連なり、既に東京では見られない江戸の面影をとどめています。
東京都日本橋には、昔は蔵造りの建物が並んでいましたが、今では一軒もなく、ここ川越にしか残っていません。
蔵造りは「倉」に用いるのが普通ですが、川越では一般の町家で家全体を土蔵造りにしています。特に黒くて厚い壁、大きな鬼瓦と高い棟、どっしりとした風格のある蔵造りが、これだけ軒を連ね残っているのは他の都市では見られない景観です。
川越に多くの蔵造り店舗が生まれたのは、明治26年の川越大火を契機としています。この大火では町の3分の1以上である1300余戸を焼失し、川越は大きな被害を受けました。
町の復興にあたり川越商人は、日本の伝統的な耐火建築である土蔵造りを採用しました。当時の耐火建築としては西洋から入ってきたレンガ造りがあったが、川越商人は蔵造りを選んだわけです。そして、新しい材料であるレンガは、蔵造りの屋敷の塀とか地下蔵に使い込みました。黒漆喰と赤レンガの色調がしっくりと合って、町並みを構成する大事な要素となっています。

また、蔵造り以外にも、近代洋風建築や和風住宅、寺社、そして時の鐘など各時代を代表する多様な建築様式の建物を見学することができます。まるで町そのものが博物館のようです。

私は、25年くらい前に近くの市に越してきて、当時この辺にも遊びに来ましたが、あまり良い印象はありませんでした。
ところが今回、このウォッチングで本当に吃驚しました。
こんなに綺麗な街並みに変っていたんですから。
のぞいて見たくなるお店も多かったですね。
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川越建築ウォッチング(1)

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昨日、「川越建築ウォッチング」という催しに参加した。
埼玉県川越市は、「小江戸 川越」とか「蔵づくりの町 川越」として有名。
朝の9時半から17時まで見て歩いて、そのあと親睦会(食事会)というプログラムであった。

最初の訪問は「川越女子高 明治記念館」である。
女子高に入っていくのは、オジサンとしてはやはりワクワクしてしまう(笑)
入っていくと、二階どうしをつなぐ渡り廊下から見下ろしていた高校生二人が、4、50人のオジサンたちが下をゾロゾロ歩いて来るのを見て、口をアングリあけて仰天していたのが可笑しかった。

この建物は、明治44年に川越高等女学校が町立から県立に移管されるにあたり、建築された校舎の一部だそうです。
同窓会のご尽力で、かねて懸案だったこの建物が平成6年に保存修復がなされたとのこと。
学校の歴史の貴重な証人である、このような校舎を大切に保存することは、
心の教育に必要な落ち着きや風格、そして人間的なあたたかさを養ううえに大事なことだと思う。

外観
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清潔な廊下
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部室のドアに、こんな可愛いマークが
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会議室の照明
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川越女子のマーク入りの特製ガラス
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和室(大広間)
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和室(小部屋)の茶道具
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この櫻が咲いたら、文字どおり「櫻の園」だ。
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拝見し終わり、校門から出たときに、一人の生徒が自転車でやってきた。
手前で自転車を降り、「こんにちは」とはっきり挨拶していった。
こういうことが、きちんと出来る生徒さんが居る間は、日本もまだまだ大丈夫。

(続く)


川越建築ウォッチング(2)に飛ぶ
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武蔵野の露と消ゆとも 皇女和宮と将軍家茂/羽生 雅

20110220

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2003年5月24日 初版第1刷発行

この人の本を読むのは初めてだ。
羽生 雅氏は、埼玉県川越市出身。東京都立大学人文学部史学科卒。
大学での専攻は平安摂関史だったが、卒業後、浮世絵等の江戸美術や伝統工芸などにたずさわる職に従事する中で、江戸に興味を持つ。現在、仕事の傍ら、平安時代をはじめとする古代史、江戸史、その他一部西洋史の研究にも取り組んでいる。

この本を読んで、強く「歴史の綾」というものを感じた。
いままで、ほとんど知らなかった「徳川家茂」について知ることができた。

このときの将軍継嗣問題については、この間の大河ドラマ「天璋院篤姫」でも見た。
家慶の跡を継いだ十三代家定は、病弱で体質的に欠陥があり、後嗣を得る見込みがなかった。そこで、次代の将軍職をめぐって、熾烈な争いが展開された。
後嗣となる将軍世子の第一候補には、まず御三家の当主、徳川慶喜が挙げられた。
御三家水戸藩王の徳川斉昭、外様第二の大藩・薩摩の藩主、島津斉彬、幕府老中の阿部正弘、三者三様、目的はそれぞれに異なるが、ともあれ、〝幕政改革〟という思惑が一致した彼らは、その手始めとして、自分たちに都合のいい将軍候補を擁立した。それが斉昭の七男、慶喜である。この動きに、越前藩主松平畢水や、土佐藩主山内豊信らも同調した。
ちょうどそのころ、将軍家走の正室が亡くなったので、島津斉彬は江戸城内部からも裏工作をはかるべく、養女の敬子をその後釜に据えて、大奥へ送り込んだ。のちの天璋院である篤姫である。
その雄藩諸大名を中心とした大きな流れの前に、敢然と立ちはだかったのが、譜代大名の頭目、井伊直弼だった。
井伊は、「幕府が二百年来続いたのは、将軍家というものの威徳であり、将軍個人の賢愚とは関係ない」という持論のもと、血統のよさを理由に、御三家紀伊家の当主、徳川慶福を将軍後嗣に推した。
内外の難局にあたっていた阿部正弘が心労のせいか急死し、島津斉彬も志なかばにしてこの世を去ると、井伊は十七年ぶり九人日の大老に就任して、慶福を世子と決定し、将軍継嗣問題に終止符を打った。
安政五年(一人五人)六月、紀伊藩主徳川慶福は、正式に十三代将軍家定の後継者となり、「家茂」と改名し、宗家入りした。それが現十四代将軍である。

歴史の激動期であるので、この本に書かれており、私が感動した物語はいくらでもあるが、紙数の関係から、私が「目からウロコ」の部分を少し書いておく。
皇女和宮を正室に迎えたことから、将軍家茂と光明天皇の仲はすこぶる良かったことである。
将軍家茂が諸般の情勢から上洛したのは、実に家光以来であるから、これはすこぶる「大英断」であった。
これを決心したのは、皇女和宮が降嫁の道中詠んだというこの歌を思ったときに決断できたと、この本で紹介されている。
 惜しまじな 君と民との為ならば
    身は武蔵野の露と消ゆとも


天璋院をはじめとする武家女たちと相容れず、大奥から疎んじられながらも、また幕府が降嫁時の約束の不履行を何度重ねても、一度だって和宮は都に帰ると言い出したことはなかった。
それは、国家のために、己は犠牲になることを決めていたからに違いない。
はじめてこの歌を聞いたとき、家茂は「ずいぶんごたいそうな覚悟だな」程度にしか思わず、それほど自分のもとは恐ろしげなところかと、不快な気持ちにもなつたりした。
だが、そんな自分は、つくづく稚かったと思う。
上洛することが決まった今になつて、ようやく和宮の気持ちがわかった。

和宮が生まれてすぐ父の天皇が亡くなったため、孝明天皇は和宮の兄ではあるが、父親のような気持ちで和宮を育てた。
そのこともあり、孝明天皇は上洛した将軍家茂と何度も膝をまじえて、身内として話し合い、家茂を非常に信頼して、政治は家茂にまかせるつもりであった。
これを証明するのが、天皇が家茂を従一位に叙したことである。表向きの理由は「歴代山陵修補の功賞」だったが、その実は義弟を一段と取り立てたかったのだろう。彼の妻である、たった一人の妹のためにも。〝従一位″といえば、臣下が到達できる最高の位である。正一位は死者に追贈されるもので、生存中賜られることはない。

だから、家茂が病のため急死しなければ、幕末維新の様相はかなり異なったものになったに違いない。
天皇のもとの政府になっただろうが、首相くらいの地位に「徳川家茂」がなっていたかもしれない。


もう一つ、家茂は必要があって海路上洛する際に、勝海舟を知り、彼と親しく交わり、彼から神戸に操練所開設、それを諸藩士を含めて教育することを提言され、閣老たちの反対を覚悟した上での独断で許可する。
操練所と併せて、将軍直々に経営が許された勝の海軍塾に集まった面々の中には、土佐の脱藩士、坂本龍馬もいた。
塾頭を務め、勝の指導のもと、時流を見る目と柔軟な思考を養った龍馬は、のちに(船中八策)なる国策をまとめて、大政奉還の偉業へと導くのである。ここで学んでいなければ、いくら龍馬といえどもこの秘策は生まれなかっただろうし、家茂の英断がなければ、操練所は創設されなかった。
つまり、世に称えられる「坂本龍馬」は存在しなかったかもしれない。
そういう意味では、家茂と勝麟太郎が、「坂本龍馬の偉業」の基をこしらえたのである。


そして、どうしても書いておきたいのは、「会津藩」のことである。
会津藩主松平容保は、非常に実直な人柄で関係者に信頼されていた。このように書かれている。
帝の厚遇はたいそううれしかったが、家茂は時勢というものの力を目のあたりに見せつけられたような気がした。そして、その流れにいとも簡単に呑まれてしまう人間の弱さを。
ともあれバ手のひらを返したようなこの朝廷の変化も、守護職松平肥後守(容保)の努力なくしてはありえなかったことだけは、はっきりとしている。
いつになく心安らかに天皇と会見できたことが、肥後守の献身的な働きの賜物であることを、家茂は十分に承知していた。
それゆえ、二条城に戻るなり、肥後守を呼び出すと、彼を主賓に酒宴をもうけて、その労をねぎらった。
「前回に増しての帝の厚遇、すべてその方の尽力のおかげだ、肥後。よくやってくれた。苦労をかけたな」「いえ……。今はすべてが喜びに変わりました」
主君の言葉に、一段と痩せこけた守護職が目尻を濡らす。
将軍上洛実現のために、文字どおり骨身を削ってきた容保は、将軍家に対する帝の恩遇が望外であったことを聞き及んで、人一倍歓喜するところが大きかった。
さらに数日後、家茂は再び容保を召して、親しく茶を共にしながら京洛の話を聞くと、今までの働きを賞して、手ずから金品を授けた。

そして、天皇からも一方ならぬ信頼をされていたことが、このように語られている。
そもそも、体調に自信のなかった容保は、会議に出席できないことを理由に、当初から参与の辞意を表明していたが、慶喜がそれを認めなかった。帝の信任篤い会津藩主を、名前だけでも面子に連ねておきたかったのである。そんなわけで、「国事参与松平中将」が実際に会議に参加したことは、ただの一度もなかった。
だが、神経衰弱ぎみの容保には、かえつてそのほうが幸いだったかもしれない。線が細く、何事も真面目に受け止めてしまう質の謹直な彼には、まるで狐狸のごとき慶喜や久光と渡り合うことなど、土台不可能だった。
これより前の二月十三日、まったく復調の見通しが立っていないにもかかわらず、容保は参与会議で決定した長州攻めの副将となる(軍事総裁職)に任じられた。精鋭会津藩の武力が必要とされたからに他ならない。
このため、一年数カ月にわたる京都守護職は解任されたが、不意の人事に驚いた孝明天皇が、容保の復職を迫る異例の事態が起こった。
十六日の夜、容保は廷臣の野宮定功から、一通の極秘書簡を受け取った。
(長州征討の一件で、そなたは副将に任じられたため、守護職を免じて、替えを春嶽になすことを関白から承った。甚だ残念でならず、副将を他の藩主に替えるよう一橋中納言に申し入れたが、卿は国事が最重要であると言って承知しなかった。兵力のあるそなたの藩がその任にうってつけであることは、朕も承知している。だが、免職は遺憾でならない。できるだけ早い復帰を望む)
という文面であり、紛れもなく天皇の御簾筆だった。
容保が内密の御嵩翰を受け取るのは、これがはじめてではない。八日に続いて二度目である。いずれも帝の赤裸々な本音が綴られた、きわめて個人的なものであり、武臣にしてこれほどまでに深く信頼を寄せられるのは未曾有のことで、誠にもって栄誉なことといえた。

これほど、天皇から信頼されていた会津藩が、なぜに「朝敵」とされてしまったのか。
これは「蛤ご門の変」で長州を都から追い落としたのが会津藩だったからに他ならない。
これも朝廷守護のため、当時の朝廷の出した結論から会津藩が実行したに過ぎない。

維新の際の「会津戦争」というのは、一重に長州の「会津憎し」による、私怨報復なのだ。
それと長州に落ちて、また復活した長州派の公家の策謀であろう。
幕末に、朝廷守護に任じていた会津藩が「朝敵」というのはやはりおかしい。
家茂が急死し、慶喜の「トカゲのしっぽ切り」に翻弄され、松平容保の「一徹さ」が生んだ悲劇である。


皇女和宮のイメージは、この本を読んで劇的に変わった。
和宮は、しっかり自我をもったお人だった。
もうすでに、有栖川宮という婚約者がいた和宮は、当然のごとく抵抗した。
「嫌やっ。都を離れるくらいなら、尼にでもなつたほうがましや!」
とても故郷離れがたく、和宮は兄帝に直書を奉って、そのお勧めを固く辞退した。
秋風も吹きはじめた八月の半ばすぎ、関東から幕府の切り札ともいえる強力な仲介者が京に上ってきた。
元大奥上臈年寄「姉小路」こと勝光院である。
勝光院はたいそうな妹腕家で、十二代将軍家慶の死によって一線を退くまで、奥女中の最高権力者たる(本丸取締り)の老女として、江戸城大奥に君臨していた。
さる天保の改革の折、大奥に贅沢品の使用や購入を禁じた水野越前守の政策に反発し、「大奥は人間の三欲の一つ、性欲を捨てての一生奉公。そこへまた、もう一つの欲も奪うのでございますか?して、貴殿もまた、お部屋方(妻妾)の数をお減らしになられましたかえ?」
と詰め寄って、やり手の老中首座を赤面させたという逸話は、殊に有名である。
勝光院は公家橋本家の出身で、和宮の母・観行院にとって叔母にあたる。
勝光院は和宮に言う。
「では、さっそく用件に入りましょうか。はっきり申し上げますが、宮さまはちと、わがままが過ぎるのではあらしやいませんか?」
 案の定、勝光院の言葉は、しよっぱなから若い皇女の胸をえぐつた。
「み、宮が、わがままと言うんか?」
「世間がそう申しております。お側の者はみなご遠慮申し上げて、お耳に入れませんやろが」
「ど、どうして……」
「たった一人の御皇妹でありながら、国事にお困りの御上の御簾襟をお悩ませするとは困ったものやとか、世間知らずの姫宮さんやから、甘えが通ると思っているんやとか……。
まあ、御上がお国のためと思い、考えに考えてお決めになられたことを拒絶なされば、道義にもとると思われても致し方ありますまいが」
また、現実的な面からも和宮を諭した話も面白かった。
そんな袖が擦り切れた着物を着ることもなくなる。和宮の母の実家の橋本家でも、玄関で秘伝の膏薬「白丁散」を売って、わずかな足しにしている始末であるが、それも助けられるだろうと。
当時の天皇家、公家は本当に困窮していたのである。

そして、覚悟を決めた和宮は、交換条件に姉の敏宮の住まいを定めてもらう。
敏宮は、婚約者だった開院宮愛仁親王が亡くなってしまったので、皇女ゆえにめったな再縁も望めず、独り身のまま閑静な生活を送っていた。朝廷にはこの皇女のための邸宅を新造する余裕がなかったので、その住居は一定せず、現在は翰王寺門跡の京都の里坊である河原屋敷を借用して住んでいるという、肩身の狭い身の上である。
他ならぬ和宮の懇願なので、幕府は無下に拒絶することもできず、今後先例としない条件でこれを承諾した。
和宮が姉のもとに暇乞いに訪れたときは、すでにこの約束がなされたあとだったので、敏宮は腹違いの妹の厚意にたいそう感謝して、深く頭を下げた。
「そんなお気になさいますな。いま宮が姉宮さんにして差し上げられることといえば、関東に命じてやることぐらいですやろから」
そう答えつつ和宮は、(見も知らぬ東の荒夷に皇女の操を捧げるんや。これくらい安いもんや)と思っていた。

そうしてて徳川家に嫁ぎ、家茂の実直な人柄に出会い、家茂を愛して彼を支えた。
家茂もまた、和宮を愛した。
こんな話が載っている。天皇が家茂に和宮の様子を聞く。
「だから、せめて将軍の口から、宮の近況を聞きたいと思う。のろけでも何でもよい」
そう言われて、家茂はしばし思案した。他でもない、天皇の求めでは、はぐらかしてしまうこともできないので、自分たちの親密な夫婦仲をあまり露骨でなく語れ、かつ和宮の人柄のよさが感じられるような逸話はないものかと、記憶の糸をたぐる。
考えた末、去年御浜御殿に行ったときのことを話すことにした。
「……昨年、私が江戸に戻りましてから、宮さまと品川沖沿いの別業に行ったことがございました - 」
去る秋、家茂と和宮と天埠院は、将軍家の別荘である御浜御殿を訪れた。
御浜御殿は、もともとは四代将軍家綱の弟、甲府宰相こと徳川綱重の下屋敷だったが、それを相続した綱重の子・綱豊が五代将軍綱吉の養嗣子となり、六代将軍家宣となつたため、以後将軍家の海辺の別邸として利用されるようになつていた。
そのときに庭を散策しようということになって、御殿の広縁から外に出ようとしたら、どうしたわけか、宮と院の草履だけが沓脱石の上にあり、将軍のそれは下に置かれていた。
天璋院はかまわず先に降りたが、これを見た和宮は、とっさにポンと石の上に跳んで自分の履物をよけると、そこに家茂の草履を上げて、「どうぞ」とお辞儀したのだった。
その話を聞いた天皇は、心中ひそかに唸った。
この和宮の行為が、どれほど大きな意味を持つことか、家茂同様、孝明天皇にはよく理解った。
皇女が素足で踏み石の上に降りて、手ずから草履を直したのである。和宮の適切な判断力と機敏さを伝えるよい話であるが、内親王としてはあるまじき行為ともいえた。
古来の慣例どおり、自分では何一つ用事をしない特異な環境で育ってきた和宮が、その出自にそぐわぬ行動をためらわずとったのは、ひとえに家茂の影響であろう。彼への思いが、無意識のうちに彼女にそうさせたのである。
その心が察せられたからこそ、天皇は唸ったのだ。妹の夫への愛情を見せつけられたようで。確かに、申し分ないのろけ話だった。

各代将軍のなかで、唯一側室を持たなかったのが家茂である。
家茂は、実直に和宮を愛したようである。
それに引き替え、慶喜は一夜たりとも女性なしでは寝れないと、上洛にも複数の側室を連れていったそうである。

家茂亡きあと、事態は変転し、慶喜が将軍職を放り出して江戸にスタコラと逃げ帰ってきてからの、和宮の働きを勝海舟が振り返る。
維新での活躍以来、勝は和宮に一目置いている。一見かよわそうな姫宮さまだが、その実は現在の有栖川宮や、かつて精力的に政治に関わっていた中川宮こと賀陽宮にも劣らぬ気概の持ち主である。いや、勝自身は和宮を彼ら以上だと評価していた。
朝廷側の代表として二条関白とともに公武合体運動を担った中川宮には孝明天皇、征討大総督として関東に進軍してきた有栖川宮には新政府という力強いバックがあったが、徳川家の救済に努める和宮には、何も頼るべきものはなかった。それどころか、〝朝敵″というお荷物を背負っての戦いだった。
その悪条件のもとで、彼女は己の命を賭すことによって実を挙げた。
確かに、江戸総攻撃中止や無血開城は、自分と西郷の力によるものだったかもしれない……。
しかし、徳川家処分の軽減については、明らかに和宮の功が大であると、勝は思っていた。
戊辰の戦の折、十四代将軍の未亡人であると同時に、今上帝の叔母でもある和宮は、官軍が抱えるアキレス腱の一つだった。朝廷がわざわざ勝に宛てて勅旨を下し、彼女を保護して京都に送り返してくれるように頼んできたほどである。和宮が江戸城にいるままでは、新政府側は人質を取られているも同然だったからだ。
その和宮が、頑として帰京を拒んだぼかりか、朝敵である徳川家に敢然と味方し、具体的な嘆願運動を行ったのは、彼らにとって大いなる誤算だっただろう。
天皇は子供心に、関東にいる叔母宮のことをひどく心配していた。官軍の名を借りて東征を仕掛けている薩長軍は、叔母宮に無事であってほしいと願う幼帝の希望を無視することはできなかった。
天皇の気持ちを慮れば、和宮を死なせることはできず、そして婚家に殉ずる覚悟の宮を生かすためには、徳川家の息の根を止めてしまうわけにはいかなくなったのである。
勝は思う。
もし和宮が、婚家を見捨てて生家に戻り、徳川家の窮状も見て見ぬふりをして関知しなかったら、いったいどうなっていただろうか、と。
彼女のことがなければ、朝廷は徳川に対して何の義理もない。官職の一つである征夷大将軍を務めていたというだけの一武臣にすぎない。しかもその任官も、所詮は天皇の命によるものである。
したがってその場合は、自分たちや諸大名による嘆願など、一顧だにされなかった可能性もあった。
その結果、慶喜が処刑されたり、徳川家が取りつぶされたりしていたら、きっともっと多くの幕臣が黙ってはいなかっただろう。自分の努力も水の泡と消え、日本の首府・江戸は火の海と化し、天下の大騒乱となつていたに違いない。
慶喜の助命、幕臣の生活保障とともに、勝がもっとも心胆を砕いたのは、人口二百万ともいわれる江戸の市民を戦禍から救うことであり、経済的混乱を未然に防いで、早急に彼らの生活を安定させることだった。


「お願い。私が死んだら、けっして皇室のほうに葬らないで。徳川家のほうへ埋めて。大樹さまのお側に…‥」
和宮は、常々近侍の看たちにそう言って聞かせ、死を語るなど不吉だと制されながらも、会う人ごとにその切なる願いを口にした。
そして維新から9年が経ったころ、和宮はにわかに脚気を患い、侍医の遠田澄庵に転地療養を勧められた。澄庵は元江戸城の奥医師で、家茂の末期に和宮の命で急ぎ江戸から大坂へ駆けつけた漢方医の一人である。医師の指示に従って、箱根の塔の沢に湯治に赴いた和宮だったが、八月三十日、衝心が起きて、危篤状態に陥った。
それから三日後の明治十年九月二日、同地の旅館「環翠楼」にて、和宮はこうじた。
享年三十二歳。誕生年月も一緒だったおしどり夫婦らしく、命を落とした死因まで夫家茂と同じであった。
箱根で客死した和宮の遺骸は、東京へと戻され、増上寺の徳川御廟に葬られることになつた。
降嫁したとはいえ、天皇家の一員であり、二品内親王という高位の女性が、一度は朝敵ともなった臣下の家の霊廟に入るのである。異例のことだった。遺言によって、特に許されたのだ。新政府に生前の功労を認められた和宮だからこそ許可された特別措置だった。
葬儀は徳川宗家が喪主となつて盛大に行われ、その宝塔は、本人の願いどおり、夫君昭徳院の脇に建てられた。将軍夫妻の塞が隣同士に並べられたのも、これがはじめてのことだった。
棺の中には、黄泉路につく和宮が、死出の旅の供に選んだひと品があった。当時としてはまだ珍しい、一枚の写真である。
そこには、齢二十一で時を止めた、若き日のままの十四代将軍が写っていた。和宮は彼の隣で、彼の写真を胸に抱いて、永遠の眠りについたのである。死のその間際まで、亡き家茂を愛していたのだ。
法名「好誉和順貞恭大姉」 -。波潤の生涯を終えた皇女は、彼女が終生変わらずに愛しつづけたその夫とともに、異郷の地-武蔵野の露となったのだった。


ずいぶん長く書いてしまった(汗)
いままで知らなかった将軍家茂と和宮のことを、この本で知ることができた。
ふたたびだが、「歴史の綾」を思わせることが多かった。
歴史好きには、たまらない本である。

早すぎる別れ

20110220

昨夜、大学のときの友人N君が亡くなり、通夜に行ってきた。
ガンであり、致し方ないが早すぎる別れであった。

私は大学で軟式庭球部で活動したが、N君はその部で主将をやった程の中心人物だった。
私は、N君と田舎が近いせいもあり、仲よくしてもらった。
彼の家に遊びに行き、泊まったこともあった。

N君が主将だったこともあり、OB会の役員もしていたので、通夜には同学年だけでなく、先輩の方々、後輩の方々も集まり、テニス関係だけで40名ほど居たと思う。
6時から通夜がはじまり、7時ころには焼香も済み、その後ちょっと故人を偲んで帰ってくるというのが通常だが、昨夜は、N君の引き合わせで先輩、後輩も集まったので貴重な交流の場となり、9時にお開きになるまで非常に盛り上がった。

喪主の奥様も同じ部であり、N君が主将、奥様がマネージャーで、部活動を通して結ばれたお二人なのだ。
同学年のメンバーで会を作って、年に一回くらいは集まっていたのだが、
喪主の奥様のために、普段出席しない女性の方々も駆け付けたので、卒業以来の再開に話がはずんだ。

そして、一年後輩の方々がとても懐かしんでくれたのは嬉しかった。
一年後輩は、直接いろいろと面倒を見た人たちなので、とても懐かしく、再開が嬉しかった。

昨日、昼間アルバムを引っ張り出して見ていて、思いついて合宿の写真などをスキャンしてプリントして持っていったのだが、皆さんが喜んでくれたので良かった。

奥様と息子さん娘さんともお話したが、息子さんのふとしたしぐさ、立ち姿などがN君とそっくりで驚き、ほほえましかった。

このような場では、あっという間に学生のときの気分に戻って、気持ちが熱くなる。
やはり、一番多感な時期を一緒に過ごした仲間だから。
あのころ思っていたことを、また省みるのは悪いことではない。

N君のおかげで、懐かしい方々と再開できたことにも感謝し、合掌。


第4番和田不動尊真福寺/関東三十六不動

20110217

詳細な記事は、拙ホームページにあります。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/wadafudou.html

三浦一族の傑物で源頼朝の重臣を務めた和田義盛は平家追討を悲願としていたが、或る夜の夢に不動尊が現れ「我を勧請祈願すれば必ず悲願成就せん」との夢告を得た。早速義盛は堂を建立し、夢に出た不動尊の姿を刻ませ、御本尊として安置した。治承元年(1177)のことである。
三浦一族滅亡とともに、この寺も廃寺となったが、1615年この地の有力者田口重勝が中興した。

横浜から相鉄に乗って10分ほどで和田町駅に着き、そこから5、6分歩くとお寺に着く。
その入り口のところに「満願地蔵」がある。
昔浅間宝寺というお寺があったが、平家の残党を隠したと焼打ちに合い、焼け跡からたくさんの遺骨が出てきた。真福寺中興の田口重勝の弟、重信が地蔵堂を建立してそれを祀ったものという。
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参道は、四国八十八所霊場と、西国・坂東・秩父の百観音霊場の砂を敷き詰めたもの。
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突き当たると「修行大師像」が迎える。
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右に折れると本堂が見える。
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昭和20年、大空襲で伽藍は悉く焼失。かろうじてご本尊が助かったのみ。
やがて再興の機運が高まったが、和尚さんはまず地域社会への奉仕を考え、反対を押し切って幼稚園設立を先にしたという。仏教の慈悲心を建学の精神として設立した。
なので、本堂再建は1960年にようやく建ったという。

木鼻の獅子の目が光っている。ここの不動明王と同じである。
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本尊の前に天女の前掛けが
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本尊・不動明王は全国でも稀な、利剣を前に突き出して向けている御姿である。
正面に拝すると、お不動さまの目が眼光も鋭く欄々と輝いている。和田義盛の激しい気性が乗
り移ったとも云われ、それだけに真剣に祈りをささげればきっと願いを叶えて下さる仏さまであろう。
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ご朱印をいただいた。
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庭に出て、他の仏像にもお参りする。
文殊菩薩の頭が、みんなが撫でるのでピカピカである。
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六地蔵
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合掌観世音像。たいへん品のあるお姿だ。
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大変立派な樹があった。
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門前に、高野山のポスターが貼られてあったが、とてもいいポスターだったので貼ってあったのを全部撮ってきました。
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横に、和田義盛にゆかりのあるという「和田稲荷」があったので、そちらもお参りした。
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それにしても、お稲荷さんの前に生えている二本の木が、ともに「夫婦(めおと)」になっているとは。
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(了)

ヒマラヤキッチン(保土ヶ谷・和田町)/カレー

20110216

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今日は、和田不動尊に行ってきました。
例によって、カレーのお店あるかなと調べて行ったわけです。
横浜から相鉄に乗って10分くらいの和田町駅で降りて、駅の近くでしたが、和田町というのは小さい町で、こういうお店がここにあったのが驚きでした。

店内の様子
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お店に三人の人が働いていましたが、みんなネパール人(?)でした。

ランチのメニューから、「スペシャル・カレーセット」 1050円 にしました。
・カレー二種類⇒ 「チキン」と「シーフード」にした。
・チキンティッカ:タンドリー窯で焼いた骨なしチキン
・パパド:米粉のせんべい
・ナンとライス
・サラダ
・ドリンクはバナナラッシーを頼んだ。
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辛さは、三段階で「一辛、二辛、三辛」だったので、普通のレベルを聞いたら「一辛」だと言ったので、それでお願いした。
ちょっと物足りなかったかな。次回は「二辛」で。


ナンが美味しくて、デカイ!!
おかわり自由だそうだが、これを二枚食べたらどうなるのか(笑)
ライスは、ちゃんとタイ米でした。

マスターが人なつこい人で、店を出るとき立ち話しながら、外までついてきた(笑)
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群雄割拠/女子カーリング

20110214

昨日、カーリングの全日本最終日の結果を知って驚いた。本橋麻里(24)が主将を務めるロコ・ソラーレ(LS)北見(北海道)か、チーム青森だと思っていたら、長野代表の中部電力が優勝!
私が育った土地は軽井沢の隣町。したがって軽井沢にはすごく愛着がある。
その軽井沢に長野オリンピックの時に会場となった立派なカーリング場がある。しかし、今までチーム青森の牙城を崩せず長野のチームが優勝したことは無かった。
それだけに、ついにやったかと、うれしくて仕方ない。

まずは中部電力が決勝で勝ったシーン。
“美しすぎるカーリング選手”市川美余(21)が、会心の一撃を生んだ。3―3の同点で迎えた第8エンド。サークル内に中部電力のストーン3個がひしめく中、V6を狙うチーム青森・山浦麻葉(26)=村上新町病院=のラストショットは、中心にピタリと止まる第1ショット。このピンチにサード市川がラインを読み切ると、スキップ藤沢が青森の第1ショットだけをはじき出すミラクルショットを決め3得点。試合を決めた。
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 読みが当たりVを呼び込んだ市川は「接戦続きで(大会が)早く感じた」と端正な顔立ちから笑みをこぼした。力強いガッツポーズを決めた藤沢も「余計なことを考えず投げた。優勝できてうれしい」と笑った。
 中部電力カーリング部は09年4月に創部。同年8月に現メンバーが結成された。
軽井沢町出身の市川美余(21)と佐藤美幸(21)、清水絵美(20)を勧誘。2年連続でジュニア世界選手権代表に選ばれた北海道北見市出身の藤沢にも声をかけた。
4人全員が社員。市川と清水は上田営業所、佐藤と藤沢は佐久営業所で事務職に就く。
通常は午後5時に社業を終え、軽井沢の練習拠点で連日2時間。大会2か月前の強化期間は一日4時間の氷上練習で鍛えた。また、昨年10月にはカナダへ1か月間の武者修行。7勝14敗と負け越したが、その経験を今回生かした。

新旧交代が女子カーリング界に訪れた。前回3位で平均年齢20歳の中部電力が、バンクーバー五輪代表3人を擁するチーム青森に快勝。今秋のパシフィック選手権代表の座をつかんだ。

トリノ、バンクーバー両五輪代表の本橋麻里(24)が主将を務めるロコ・ソラーレ(LS)北見(北海道)は、準決勝でチーム青森に6―8で敗れるなど3位。
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 準決勝でチーム青森に敗れるなど3位に終わったLS北見・本橋の言葉に、暗さはみじんもない。「10試合戦ったが、悔いの残る試合はなかった」。昨年8月に新チーム結成。本橋以外の4人中3人が昨年の北海道選手権優勝メンバー。その実力を発揮し1次リーグは7戦全勝。しかし決勝トーナメントは「メンタル面の強さが順位の1、2、3位に表れた」と本橋は冷静に分析した。

チーム青森の近江谷も健在だ。
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で、中部電力、チーム青森、ロコ・ソラーレ(LS)北見の3強ということになるのだが、次回オリンピックということになると、ここにもう一つ強力なチームが存在する。

札幌国際大のチームだ。
カーリングに詳しい人なら、「常呂高校」と言えば、あのチームかと思い出すはず。
一昨年、昨年と日本選手権の決勝でチーム青森を苦しめた。特にバンクーバーオリンピック出場がかかった昨年の試合は延長までもつれ込んだ末に敗れている。

このあいだ、スポーツ大陸「絆を信じて」という番組で取り上げていた。
4人は小学生の頃からカーリングを始めチームを結成し、中学になって1人入れ替わって、現在まで同じメンバーで活動している。
中学からずっと一緒の常呂高校(北見市常呂町)のメンバーの4人が、そろって札幌国際大へ進学し、既に世界の大会で活動している。
彼女達がここまで力をつけたのはコーチの小林さんの存在が大きい。中学のときに強くなりたくて彼女たちがコーチを頼んだ人だ。やっぱりいいチームにはいいコーチがいるんですよね。
大学のほうも、常呂高校チームの小林博文コーチを専属の技術指導員として委嘱し、同大のスポーツ人間学部の教員らも協力して指導している。
結果は着実に出している。
・ユニハーシアード日本代表選考会優勝
・日本ジュニアカーリング選手権優勝
番組では、ハイライトだったパシフィック・ジュニア選手権大会決勝で、韓国を破った10エンドの逆転のスロー。
緊張感たっぷりの一投でした。
逆転のスローは、自軍のストーン(青)をはじいて相手のストーン(黄)に当て、相手のストーンを外に出すというもの。
それが実現して、飛び上がって喜ぶメンバーたち。
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番組では、明るくカーリングを楽しんでいる大学生の女の子と試合でのこの勝負強さのギャップ。
小さい頃から見ている小林さんが選手を信じ、優勝した時に浮かべた涙。
実にいいチームなんですね。
そして、スキップの吉村紗也香を筆頭として、4人ともかわいらしくてこれは間違いなく人気が出そう。
華のあるチームです。


ということで、4強です。
そして、それぞれのチームに、華となる人がいて・・・・・・

カーリングは、ものすごく面白くなってます。

それにしても、全日本選手権、どうしてテレビで放送しなかったのか理解に苦しむ。
去年、あんなにカーリングに沸いたのに。



原点

20110213

今日は、本来ならテニス仲間である友人と一緒に、富士市まで富士山の写真を撮りに行く予定にしていた。
梅と取り合わせの写真を撮れるいい場所の情報をもらっていたので。
しかし昨日まで雪まじりの天気が続いていたため行くのを延期したのだった。
今朝起きたら、天気が良かったので腹が立ったが、仕方ない(苦笑)
またの機会である。

最近、ようやく富士山の写真を撮りにいけるようになったが、これはずっと私が以前から願っていたことである。
2001年の12月に、私は「くも膜下出血」で倒れた。
当然手術したのだが、この辺のことは拙ホームページに書いてあるので、そちらを読んでいただくことにしよう。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/essay-020105.html

手術後3日間ICUに居たあと、一般病室に移った。
それから一週間くらいは、頭痛と発熱に悩まされた。
血管の萎縮を防ぐため、日に四回血管を広げる薬を点滴する。
すると、必ず頭痛が起きる。
夜は必ず熱が出た。
氷枕と、熱がひどいときは、ソケイ部に氷のボールを置いて身体を冷す。
頭痛薬は日に二回飲めるが、飲んでから5時間くらいの効き目。
だから、看護婦さんに「今飲んじゃったら、あとが苦しいですよ、
もうちょっと我慢できませんか」などとなだめられたり、
夜中に熱を冷ます処置やら、看護婦さんには面倒をかけっぱなしだった。

一週間経ち、脳の精密検査。この検査で異状なしということで、ほんとに幸運な結果ということになった。
それから、退院までは一日一回1時間半の「高圧酸素療法」以外は、テレビを見たり本を読んだりのタイクツな日々だった。
検査、手術、検査と、三回も全身麻酔をしたせいで、極度の腰痛となり、歩くこともやっとの状態になったこともあって、「生き延びた」とはいえ、かなりの不安に脅かされていた。

そんな毎日だったが、私を慰めてくれたのは、病室のベッドから、きれいに富士が見えたこと。
朝から午前中は、晴れていればきれいな姿をみせてくれた。
夕焼けもきれいだった。

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朝の富士(クローズアップ)
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昼間の富士(クローズアップ)
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夕方の富士
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あのときは、本当に富士山に元気づけられた。
あのときから、富士山の姿が大好きになった。


退院して、リハビリ中の2月に、家の近くの川にかかった橋の上から撮った写真が残っている。
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一富士二鷹の写真
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これは夜明け前の写真
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皇居東御苑

20110212

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工芸館で人形展を見た後、東御苑を散策しました。目的は梅林です。

ここで、皇居東御苑のおさらい。
かつての江戸城の本丸・二の丸・三の丸跡に位置し、少し離れた場所の西の丸を含めた、この範囲のことを江戸城といった。緑豊かな雑木林に日本庭園や皇室関連の施設、江戸城の遺構などが残されている。
明治時代から戦前までは宮内庁や皇室関連の施設があった。戦後の1960年に閣議決定により一般公開される運びになり、1963年に特別史跡に指定、1968年から一般公開されるようになった。

工芸館から道を渡り、一番近い入り口を探したら北詰門でした。

北詰門から入ります。
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門前の橋からのお堀の眺め


門から入ると、正面に大きな石垣が
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反対に回ると全景がわかります。天守台です。江戸城の天守閣があったところ。
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上まで上がりましょう
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途中で振り返ると、広々とした御苑が
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天守台の上から、武道館の屋根が見えます
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下に降りて、桃華楽堂に
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桃華楽堂は、昭和41年2月に完成し収容人員は200名の音楽堂で、音楽好きの香淳皇后(こうじゅんこうごう)さまの還暦記念として建設されました。
鉄仙の花弁を形どった屋根と八面体の珍らしい建物で、ホール外壁のモザイク・タイルの図柄は、各面とも大きく羽ばたく鳥を抽象的に描いたものに、日月星・衣食住・風水火・春夏秋冬・鶴亀・雪月花・楽の音・松竹梅と八面の正面から左へ順に陶片であしらっています。

「桃華」の由来は、香淳皇后さまの御誕生日が三月なので桃の節句にちなんで桃とし、華の字形は十が六個と一で構成されていることから還暦(数え年61歳)を意味するということで命名されました。

全体として日本女性の優雅でおおらかな理想像をえがき出したものと言われています。陶片には,有田焼,信楽焼などが用いられており,玄関正面の屋根の上には鬼瓦の代わりとして金色の雛人形が飾られています。
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八面のうち、三面しか写真を撮らなかったことを後で悔みました。またの機会に全部撮りましょう。
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汐見坂を下って、梅林坂に向かいます。
汐見坂を下りてから、振り返ったところ。かなり急な坂です。
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汐見坂は、本丸と二の丸をつなぐ坂道でした。その昔、今の新橋から皇居前広場の近くまで「日比谷入り江」が入り込んでいて、この坂から海を眺めることが出来たそうです。

いよいよ、梅林坂で梅見です。
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水仙も咲いていました。
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東御苑の四分の一も歩いていませんが、今日はここまで随分あるいたので、これで切り上げ平川門から出ることにしました。

平川門のちょっと手前に、山茶花がきれいに咲いていました。
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平川門を抜けます。
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平川門前の橋から眺めたお堀
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どこかで休みたくて、平川門の向かいにある毎日新聞のビルに飛び込んで、そこにあった喫茶店で休んで、今日は終了。
この日、ほんとによく歩いた(笑)


「現代の人形」展/国立近代美術館工芸館

20110210

5日の記事、北の丸公園の続きです。
北の丸公園の千鳥ヶ淵のところに工芸館はあります。
レンガ作りの歴史的な建物。
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近衛師団司令部庁舎だったんですね。
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立派なファサードです。
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玄関で振り返ると
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展示は二階
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階段を上がったところのホール。
とても軍隊の建物だったとは思えません。
やはり近衛師団だったから、こんなに瀟洒な感じなのでしょうか。
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さて、展示されていた「人形展」ですが、実はそんなに期待していなかったのですが、ものすごく良かった。
素晴らしいものでした。
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平田郷陽 「桜梅の少将」 1936年作 高さ65cm
これが一番素晴らしいと思った。
後白河法皇50歳の賀に供奉して「青海波」を舞った平維盛に想を得た作品。
例えば眉。ただ筆で引かれたものではない。素地の段階から毛筋ほどの細かい凹凸として刻まれている。細部がすべてこのように作られており、見ていていつまでも見飽きないで前を離れられなかった。
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平田郷陽 「長閑(のどか)」 1958年作 高さ35cm
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四谷シモン 「解剖学の少年」 1983年作 高さ139.7cm
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吉田良 「すぐり」 1986年 高さ115cm
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友永詔三 「花占い」 1994年 高さ88.5cm
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大島和代 「夏の雨」 2003年 高さ40cm
突然の雨に駈け出した少女の一瞬のポーズ。風をはらんだスカートとかポーズがいいが、
特筆すべきは、軸足にも綿以外のものは入っておらず、絶妙のバランスで自立している。
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人形展を見終わって、満足した私たちは、次いで「東御苑」に向かいました。
それは次回の記事で。

(続く)

北の丸公園

20110208

2月5日の記事続く

国立近代美術館2Fのレストラン「アクア」で食事をして、満ち足りた気分で北の丸公園を散策。
雑木林の中に入っていったが、真冬のことゆえ、目立つのは樹のシルエットばかり(笑)
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池でも、水に映るケヤキのシルエットに目を取られる。
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これはなんという木か知らないが、この力強さはどうだ。
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土曜の昼間だというのに、芝生も閑散としています(笑)
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樹のウロに、芽生えを発見(嬉)
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元気に育ってくれよ
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千鳥ヶ淵のところで、紅梅、白梅を発見
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鶯が3羽くらい囀っていたが、動きがチョコマカ忙しく、レンズに捉えられなかった(苦笑)

千鳥ヶ淵沿いの散歩道は楽しい
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千鳥ヶ淵、首都高、東御苑、高層ビル
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見上げると、緑が気持ちいい
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なんという植物か知らないが、真冬にこんな実をつけて健気だ。
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工芸館の前まで来ると、銅像が目に付いた。
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「北白川宮能久親王」ということですが、この方について全然知らなかったので、家に帰ってから調べました。
実はこの方、幕末に彰義隊が担ぎ出した上野寛永寺の輪王寺宮公現親王なのです。
1858(安政 5)輪王寺宮を相続・門跡となられました。
1868(慶応 4)には将軍慶喜征討の中止を懇願するため、東征大総督となられた有栖川宮(ありすがわのみや)熾仁(たるひと)親王を駿府(すんぷ)に訪ねています。上野戦争では激戦の中、脱出して幕艦長鯨丸に乗って陸奥会津城に入城しました。
1870(明治 3)還俗(げんぞく)、伏見宮に復帰して軍籍に就き、同年直ちにプロシア留学を命ぜられています。1872(明治 5)留学中に北白川宮第二代を相続しています。
1877(明治10)帰国し近衛砲兵連隊に配属。1884(明治17)陸軍少将、歩兵第一旅団長。1892(明治25)陸軍中将、第六・第四師団長を歴任。
日清戦争では開戦後の1895. 1.(明治28)近衛師団長となり、台湾に出征。戦後も台湾守備を命じられ、台南で病没しました。 死後に陸軍大将を追贈されています。また台湾神社に祀(まつ)られました。でも、お墓は公現親王として輪王寺(東京都台東区の両大師)の歴代輪王寺宮墓地(宮内庁管理)です。

この像はかつて近衛歩兵第一・第二連隊正門前にありましたが、現在は東京国立近代美術館工芸館(旧近衛師団司令部)の側に置かれたということですね。


次回は、工芸館についての記事です

(続く)

国立近代美術館レストラン「アクア」/カレー

20110207

美術館で絵を見終わり、お腹もかなり空いたので、美術館の2階にあるレストランに。
ここは娘が推薦していたので、迷わずここにした。
H2Oと書いて「アクア」と読む。
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「フレンチの鉄人」石鍋裕シェフのプロデュースにより、「食」と「美」が一体化したカフェ・レストランだそうです。
白で統一された明るい店内でした。
外にはテラス席もあり、店内も窓際に二人席、しかも窓の方を向いて二人並んで座るのがいい感じですね。
残念ながら窓際の席は空きがありませんでした。
まあ、そういう良い席は若いカップルのためにあるようなもの。
私達は、どこでもいいのです(笑)
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目の前は皇居のお堀で桜の並木が続いているので、桜の季節は綺麗だろうなと想像しました。
だけど、その時期はものすごく混んで、入るの大変だろうな。
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美術館と関係なしに、外から自由に入れます。
帰りがけに撮ってきましたが、道路からのアプローチです。
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座るとメニューとお洒落なお水が持ってこられた。
イタリア産のミネラルウォーターで、テーブルにつき1本サービスされていた。

メニューを見て、カレーがあったので食べてみることにしました。
「アクア風ポークカレー」 800円。
それから「魚介類と鶏胸肉のベトナム風サラダ」 1,000円を取りました。
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カレーには、茹でた野菜(にんじん、ブロッコリー、蕪)が添えられていたが、美味しかった。
肝心のカレーの味も、オーソドックスな味ながら、上品なしっかりした味でよかった。
ポークはスライスでしたが、とても美味しくて、厳選されたいいポークだと思います。
サラダが、これまた美味しかった。

久しぶりに、こっちに来たが、やはり皇居のまわりはとても気持ちがいい。
これから、ちょくちょく行くことになるのでは。


東京都千代田区北の丸公園3-1 東京国立近代美術館2F
TEL:03-5219-3535 (レストラン直通)

「日本画の前衛」展/国立近代美術館

20110206

昨日、カミさんが母親の介護から一日解放されることになったので、カミさんの希望する場所に出かけた。
コースは国立近代美術館→北の丸公園→工芸館→東御苑である。
地下鉄の竹橋駅を降りて、美術館前に着いたのが11時。
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まずは、国立近代美術館の展示を見てからお昼を食べようということにした。
開催していたのは、「日本画の前衛」
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どんなのが出ていたかというと・・・・・
ここで紹介するのは、私が気に入ったものだけなので、全体像がわかるものではない(笑)
結果として、ほとんど前衛的な絵が入っていない(笑)

船田玉樹「花の夕」の一部
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田口壮「季節の停止」
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丸木位里、船田玉樹、岩橋英遠、谷口仙花 4名の合作
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船田玉樹「櫻の落ち葉」
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船田玉樹「紅梅(利休像)」
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丸木位里「紅葉」
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靉光「海」
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展示されている数のなかで、気に入ったのはそんなに無かったが、ほとんど混んでいなくて、のんびり回れたので、まあまあということになるか。

見終わって、二階のレストランで食事をしようと上にあがる。
階段をあがると、解放されたテラスになっている。
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テラスから眺められるのは皇居(東御苑)なので、気持ちがいい。

(続く)

秘すれば花なり/山崎澄彦

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この本は、619ページという長い話だが、面白くて一気に読んでしまった。

物語は、信長の「伊賀攻め」から始まる。
信長に睨まれた伊賀の一族が住む伊賀谷に通じる三本の道の6つの方角から寄せ手の軍が攻め込み、退路を断たれた伊賀一族を皆殺しにしたという話である。
このとき伊賀に隣接する柳生の里の柳生一族は、伊賀攻めに加わざるを得なかったが、頭領の柳生石舟斎は密かに伊賀衆を落ち延びさせることを図り、5男の又十郎がまだ11歳だったが密使の役目をさせる。
配下の忍びに助けられながら、又十郎はこの任務を果たした。
私は、この時伊賀の忍者は全滅したと思っていたが、この本によれば半分くらいは逃げだせたという。

本筋の話は、太閤の世になって石田三成が検地奉行として柳生の里に乗りこんできた時から始まる。
各大名への恩賞のため、それから太閤自身の費用捻出のため、土地が欲しかった豊臣秀吉は各地の豪族から土地を絞り取った。
この時の石田三成の傍若無人な振る舞いに腹を立てた又十郎と石田三成の間で言い争いがあり、この二人の確執がこの長い話の始まりとなる。
この時、柳生石舟斎は秀吉の甥にあたる秀次の指南役をしていたので油断しており、農民と一緒に開拓した田畑が帳簿に漏れていたのを、三成に厳しくつかれ、所領を全部没収されてしまう。

やがて、徳川家康に声をかけられた柳生石舟斎は、請われて「無刀取り」を家康自らが打ち太刀するのに対して披露する。
感心した家康はその場で誓文を書き、柳生石舟斎を指南役に請う。
石舟斎は同道していた、又十郎改め又右衛門を指南役として抱えてもらう。
又右衛門24歳である。

ここで、「無刀の術」である。
石舟斎は又右衛門に説く。
「心をとらわれねば、たとい十人して斬りかけられたとしても、最初の一太刀を受け流し、そのことを跡に心を留めず、次々と打ってくる相手の一太刀、一太刀を同じように受け流せれば、十人とも流れるように相手ができようぞ」。
「十度心は動いても、どの一人にも跡に心を留めるなと云うことじゃ。さすれば、次々に取り合いてもわが身は動転せず、相手が出来るということじゃ」
「そのために眼でのみならず、一切の執着を取り去った心で観ずることじゃ。それゆえ工夫がなければならぬ。ただ勝つための工夫ではない……」
「よいか又右衛門、技の冴えは、不動の勇じゃ。われ神仏と同根なり、一体なり、正義なり、と得心し得るその精神の捉えどころに発するものじゃぞ…⊥
「…‥・わが身は神仏と思えば、他人もまた神仏、相手を神仏と思えばいかなる場合にも、先に太刀は振るえぬはずや……柳生の剣は受けて立つ剣、それが無刀の心や」
「武具と武具とで渡り合うのでは、一方が死ぬか、さもなくば双方傷つき倒れる。素手で自刃をとれば双方無事で済もうと云うもの。これが兵法の境地」

石舟斎は、勝とうと思う気持ちや打たれることへの恐れ、そうしたとらわれから完全に離れ、本来あるべき心の自由さを獲得したときにはじめて、相手の動きに対して間髪を入れない対応が可能になる、というのである。

柳生の極意は「受け太刀」である。
相手に、先に仕掛けさせて、それに対して即座に応じて相手を打つ。
これが何事にも慎重な家康と、うまくマッチした。
剣法のみならず、兵法として活き、家康の傍に居て、家康が「又右衛門、どうじゃ」と振られた場合に、
「まずは、わざと相手を動かし、相手の出方によってこちらが動く。相手をこちらの望むように動かせたら上々」
と立案するので、家康に重用されるようになっていった。


朝鮮の役で豊臣恩顧の大名に恨まれ、彼らから攻められた石田三成が家康の屋敷に逃げ込むという、有名な場面の描写も面白い。

 ややあって、家康は肉の厚い瞼をあげ、大きく見ひらいた。「して佐渡どのは、どう思うぞ」
正信は小さく領きながら、「治部を葬り去る好機には違いござらぬが、さりとて徳川が、豊臣恩顧の大名たちの奢りを、見て見ぬふりしたとあっては、今後の仕置きはなり難く、かえつて信を失ってしまうことに相成りまする。それより、始末すればできたものを、と皆が思ういまこそ、治部を助けることで徳川の衆望は高まりまする。治部は骨でも抜いて、佐和山にでも蟄居させれば十分でござろう」 と白髪頭をゆらした。
すでに天下取りの猛志に燃えていた家康は静かに瞑目した。
が、その心はゆれていたのである。
(狙いは三成ごときの命ではない……) たしかにいま三成を始末しても何の利点もない。
それより、(わしに刃向かう者どもをあぶりだし、根こそぎ討滅しておかねば後々火種を残すことになるわ……)
そのためには、(治部を泳がし、それに乗ずることが肝要じゃな……)
と考えた。
正信の前に、又右衛門も同様の答えをしていて、これぞ柳生の「受け太刀」の極意である。

一刻あまりのち、家康から差し向けられた護衛に護られ、向島の徳川屋敷に三成は到着した。
庭の梅もようやく花を開いたばかりの奥座敷で、三成の左右を、本多正信・正純父子らと屋敷に滞在していた主だった側近と警護を兼ねた又右衛門らが囲むように列座していた。次の間には、同道した石田家の家老舞兵庫と岡部久右衛門が控えていた。
「江戸内大臣のご厚意、万謝の至りにござる。いまやこの三成わが身を守ることさえままならぬ身になり申した。恥を忍んでこの三成、内府どのを頼りにまかり越しまいてござる」
「いやいや、困ったときは相身互いじゃよ」
恐怖と屈辱とで、すでに顔が土気いろに変わっている三成が、「この三成の生殺、内府どのの掌中にござれば……」
と、云いかけたが、家康はそれをさえぎり、「何を申されるか。治部どのは豊家のためにご苦労されておる、大切な御身じゃ。無益な殺生で命を落とされてはせんなきことじゃ」
三成をいたわるように云った。
三成の心にしみ入るような家康の声であった。
一瞬、三成の両眼が青白く光ったように見えた。
「この三成、ただただ豊家の安泰を願うばかりでござる。命は惜しくはござらぬが、いまはただ太閤殿下の遺君秀頼公の……」
ここまで云ったとき、三成の声が震えだし、その所作に変化がおきた。落涙こそなかったが不覚にも三成は絶句し、両拳をついたのだ。
(助かった……)
という思いがそうさせたのであろう。
だが、これで家康との勝負は終わった。
一座の者は、思わず顔を見合わせた。
 又右衛門は、驚いたと同時にたまらなくなった。
(三成は命を惜しんでいたのか……なんと哀れな、将としての意地もないのか・…‥)
「いま治部どのを始末するは妙策にあらず……」といったことを後悔した。三成がこの程度の男とは思ってもみなかった。
(所詮太閤あっての三成であったのか……) そう思わずにはいられない。
(分別の心積もりは兵法の大事じゃ。喧嘩をいたさねばならぬ場に立ちても、戦うべきところと、戦うまじきところを見分けるのが分別や。万が一戦わねばならぬときには、負けたおりの心積りを持つのや。肝要なのは負けたときの負け方じゃ……)
 親父どのは、争いごとや駆け引きには勝ちもあれば負けもある。肝心なのは負けたときの負け方で、どれだけ、「勝手(有利)な僻(かたち)で負けることができるか……」
 を話してくれた。
 負けた後の掛け合いのなかで、
「勝った相手に調子に乗らせぬよう……」に、威圧感や恐怖感をそれとなく与えながら、折り合いの布石を打ってゆく駆け引きが将には、「求められるのだ……」と。
 それが三成にはできていない。
(治部少輔は刃向かうおりの分別も、負けた後の心積もりも持っておらなんだか……)
 又右衛門はそう思った。
 策士、策に溺れたにしても、これはあまりにお租末であった。
 又右衛門にそう見抜かれたように三成は、吏僚としては一級の策士であっても、戦場の修羅場をくぐり抜けた家康と駆け引きできる器量はなかった。家康に庇護を求めたのも、とりあえず目先の状況を好転させたいということにしか考えが及んでいなかったのだ。
退室する三成と又右衛門の眼が合う。
そのとき三成の顔に薄笑いの表情が、「してやったり、助かった」という。
又右衛門は、なんという恥知らずかと軽蔑する。


有名な関ヶ原の戦いだが、あまりにも有名で私もこの前後の事をあまり深く知ってはいなかったが、それ以前にもっと大事な戦いがあった、ということがわかって面白かった。
これより前に、家康は「上杉討伐」をするとして、今の栃木県小山まで東進していたが、これは石田三成など西軍が揃って旗を揚げるように仕組んだワナである。
そして、 三成は、織田秀信の凋落に成功し、それに伴いほとんどの美濃衆が西軍に投じたことで、岐阜城で徳
川勢をくい止められると読んでいた。それに加え家康不在の徳川先鋒軍を統制の取れない烏合の衆とみて楽観視していたのだ。
 その根拠はあった。岐阜城はただの城ではない。 斉藤道三がその築城能力を傾注して、稲葉山に築き上げたもので、その後信長が、それをさらに拡張し、堅牢化したものである。木曽川と墨俣川(長良川) に囲まれ、峻険な稲葉山の要害に護られた天下の堅城と云われるほどの岐阜城である。
 その岐阜城を軸に、犬山城、竹ケ鼻城はその両翼を構成している。しかもその両翼の城には、援軍の諸将を詰めさせている。そしてそれらの後詰めには、三成の入った大垣城がある。
 三成に云わせれば、「かように万全の備えがあろうか……」 なのである。
 しかし結果として三成の判断は甘かった。
 現実は三成の観念を無視していたのである。
この裏で、柳生一族の諜報活動、諸将の切り崩しが活発に行われていた。
石田三成の人を人と思わぬ言動が敵を作ったことも大きかった。

 僅か二日目あまりの戦闘で、最重要拠点の一つが陥落した。
 しかも若い秀信が野戦を任掛けるという無謀な作戦も相まって、いとも簡単に西軍の防衛線が突破されてしまったのである。後詰のつもりで大垣城で采配をふるっていた三成だが、大垣城で食い止めるという苦しい展開になってしまった。

そして、東軍が佐和山城を目指す動きで挑発すると、三成たちは慌ててそれを阻止すべく大垣城から打って出て、関ヶ原で食い止めようとした。
関ヶ原の戦い以前に、既に東軍の思うように、西軍は振りまわされていたのである。
東軍諸隊が関ケ原に布陣を完了したのは、卯の中刻ごろ(午前六時)であった。
 そしてこの日、濃州関ケ原で辰の上刻(午前七時)ごろからはじまった天下の帰趨を決する歴史的な合戦は、未の下刻(午後二時半ごろ)総崩れした西軍が遁走し、実質的な戦闘は七時間あまりで終わった。一日の野戦の攻防で勝敗が決したのである。
 この歴史的な会戦は、すでに事前の謀略戦で帰趨は決していた。ここでおこなわれた七時間あまりの合戦は、その最後の仕上げであったにすぎない。
 ついに上杉は動かず、毛利輝元も大坂城を出ることはなかった。そして、毛利勢の先鋒として南宮山に陣取った吉川広家は、毛利秀元、安国寺恵理からの再三の督促にも応じず、予定通り彼らの前に布陣したまま軍勢を動かさなかった。
 また小早川秀秋も、午の刻(正午)過ぎたころ、一万五千余の大軍を率い突如雪崩のごとく松尾山を駆けおり、大谷吉継勢の側背に突入し、粘る西軍の息の根を止めた。
一方、終始傍観の姿勢を取り三成の助勢要請も拒み続けた島津勢は、西軍諸隊が敗走し去ったとき、敵中突破による撤退という奇策を敢行し脱出に成功した。岐阜の防衛戦初っ端で戦上手の島津候があれこれ提案したことを三成が慎重論を展開し、まったく聞かなかったため、「戦がわからぬ司令官が上ではなんともしようがない」と愛想をつかされていたのだ。
 ついに家康の背後を突くことはなかった上杉勢も動くことは動いた。九月九日になって直江兼続が二万四千の大軍を率いて最上領に攻め込んだものの、山形城の支城長谷堂城の北方二十町ほどの丘陵菅沢山に布陣したときは、もはや関ケ原合戦のその日になっていたのである。


タイトルの「秘すれば花なり」だが、これは石舟斎が東西決戦の前に又右衛門に教えた言葉だ。
「こたびの天下分け目の戦い、いまこそ徳川さまのご恩に報いるときじゃぞ。柳生をあげて働くゆえ、そちも安心してお側に仕えよ」
 石舟斎もまた眼を細くして笑顔を浮かべた。
 家康はいま、次から次へと、息をつく間もなく天下を我が物にすべく手を打っている。それは、石舟斎のように(世を捨てた……)男の眼にも診てとれる。
 やがて石舟斎は瞑目し、言葉をつづけた。
「又右衛門、昔、伊賀の世阿弥がの、柳生の生きざまを、わしに云うて訊かせた言葉がある、「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」……いずれ分かるようになる。覚えておくがよい」
(……秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず……これが柳生の生きざまと……)
又右衛門は臥床に身を横たえてからも、なかなか寝つけなかった。

結局柳生又右衛門宗矩は、家康に仕え、二代目秀忠、三代目家光と、三代にわたって指南役を務めた。
家康をはじめ将軍家はこの間に何度も柳生に加増を打診したが、宗矩はこれを辞退し続けた。結局一万石であった。兵法家で大名になった者は居ないので破格ではあったが。
この辞退するというのが、重要な処世術で、人心掌握のコツ。度々の加増辞退により、三代にわたる将軍家の心を根こそぎ掴みとった。
宗矩の生きざまは、権力を持ってもしゃしゃり出ないで、陰に徹して、なお自ら語らず、あの世阿弥が云ったという「秘すれば花なり、秘せずは花なるべからず」と、その「秘したる花」なることを徹底して守ったのだ。


もうひとつ、この本で「管仲随馬」という言葉を知った。
 ふたたび鋭い目つきで又右衛門の顔を見やった石舟斎は、一呼吸おいて静かに口を開いた。
「又右衛門、「管仲随馬」という言葉を知っておるか」
「いえ……」
「老馬と師するのをはばかってはならぬ、という史記にある諺じゃ……わからぬことに往き遇えば、老馬の知恵が役に立つ……道に迷うたら老馬の後についてゆけば道は見つかる、と云う意味合いでの……ワッハハハ」
 石舟斎はそう云ってから、明るい笑顔を見せた。
 そして奥庭の一角にある銀杏の大樹に眼を投げた。
 やがて夏も終わろうとしており、日々その影が長くなってきている。
 やがてその笑いを消した石舟斎は、「そちのようにいまだ心愚昧なものは、先人の知を師とすることを弁えておかねばならぬ。そちは徳川どのに兵法をもって理を説く身ぞ。ゆめゆめ慢心するでない、そこを過ってはならぬぞ」 諭すように云った。
「……心して」
 又右衛門はうなずいてみせた。
(親父どのに会うてよかった……)
 唇を結んだまま、石舟斎の横顔をじっと見すえている又右衛門であったが、その双眼は静かに潤んでいた。


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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