天地明察/その二・算術絵馬/渋谷・金王八幡

20110331

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昨日、目黒に用事があったので、早めに出て渋谷の「金王八幡」に寄った。
第一の目的は「金王桜」を今年撮りたいと思っていたので、まだ早いと思ったが満開の時期の見当をつけるため。
第二の目的は「算術絵馬」がはたしてあるのかどうか?

この本に関して、一つ記事を書いているが、「算術絵馬」の確認は後回しにして、川越にも「算額」が多いのに驚いて、それについて書いた。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-406.html


渋谷「金王八幡」の「算術絵馬」についてのくだりを、あらまし書いておく。
この本の主人公は「碁打ち衆」の一人「安井算哲」。「碁打ち衆」というのは将軍の前で「上覧碁」を打ったり、大名の碁の相手をする役目であり、常に本因坊家と覇を争っている安井家の総帥が「安井算哲」。
父親が急死したため、後を継いで総帥となったが、まだ若干22歳。
しかし、既に定石を打つのみの仕事に飽きてしまっている彼が夢中になっているのが「算術」。

物語の冒頭、江戸での定宿にしている会津藩屋敷から早朝籠を飛ばして行く先は、渋谷宮益坂にある金王八幡。
そこにある「算術絵馬」を見るためだ。
誰かが算術の問題を絵馬に書いて吊るしておく。
それを誰かが解く。
その答えが合っていれば「明察」と出題者が書き込んで一件落着。
答えが間違っていれば「惜しくも」とか「誤謬なり」となる。
当時は、「学問所」とか「学問寺」はあったが、開かれた場所では無いし、もちろん今のように「学会」とか専門誌が発行されているわけではない。
それでも武士だけではなく町人・農民でも必要から「算術」を勉強し、ひいては研究する熱心な人たちが当然ながら居た。
最初はある問題を極めたときに、感謝の気持ちから神社に「算額」や「算術絵馬」を奉納した。
それが発展して、絵馬に考案した問題を書く、誰かが回答する。といった交流の場ができたらしい。

さて安井算哲、または自分で考えた名前「渋川春海」が金王八幡に着くと、絵馬の一角に「算術絵馬」がある。
それを書き写すうち、問題に熱中して刀を絵馬の下に放り出し、地面に算盤を広げて算木で問題を解きだした。
そこに「娘」がやってきて、掃除の邪魔だと箒で春海を追い立てる。
春海はきれいな娘に一瞬見とれるが、その娘とちょっと言い争いをしているうち、娘から「もう登城の時間では」とやんわりたしなめられる。
春海は、自由になる時間は登城前の時間だけなので、早朝に江戸城近くから駕籠を飛ばしてやってきていたのである。
あわてて、春海は待たせてあった駕籠に乗って出た瞬間、刀を忘れたことに気づいて大慌てで絵馬のところに戻った。
娘は、刀を忘れるなんて、とあきれた顔をして春海を見ている。
春海は、そのとき何気なく「算術絵馬」を見て仰天する。
春海が苦心して解こうとしていた問題に答えが書き込まれているではないか。誰かが春海と入れ違いに来て答えを書き込んでいったのだ。
未回答だった絵馬、その数7つ。そのすべてに回答がされていた。
あわくった春海が娘に尋ねると、「一瞥即解」であったと。
そんなすごい人物が居るのかと、呆然とする春海。

そのすごい人物とは、それから春海の良きライバルになるのだが、「関 孝和」であった。
この名前は「和算」の偉人として、私でも知っていた人物。
このときの娘は、その後すぐに「算術塾」で再開し、春海をよく助けていく。
「渋川春海」は、算術を基礎として、すごい事業に取り組むのだが、それはこの本を読んでいただければわかる。

金王八幡は、行ってみたらすごく由緒のあるお宮でした。「渋谷」の地名のもとにもなっていて、「渋谷金王丸」についても驚きました。
この辺の話は、「金王桜」をアップするときに書きましょう。
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さて、金王八幡の絵馬掛けの場所に行って眺めました。
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ありましたね(嬉)
前から、このようにあったのか、それともこの本の影響で置かれるようになったのか・・・・・・
そのへんのところは、聞き忘れたので、こんど金王八幡に行ったときに聞いてみよう。
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かかっていた「算術絵馬」は全部撮ってきたので、紹介しておきます。
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目黒・大鳥神社

20110331

昨日、目黒に用事があって出かけましたが、ついでに近くの大鳥神社に寄りました。

まずは歩いていたら桜が咲いていたので、撮ってきました。
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大鳥神社ですが、主祭神は日本武尊です。
相殿神として、国常立尊(日本の国開きの神様)と 弟橘媛命(日本武尊の妃)。

大鳥神社のHPから、由来を転記しておきます。
景行天皇の御代、当所に国常立尊を祀った社(やしろ)がありました。日本武尊は景行天皇の皇子であり、天皇の命令で熊襲を討ち、その後に東国の蝦夷を平定されました。この東夷平定の折、当社(大鳥神社)に立寄られ、東夷を平定する祈願をなされ、また部下の「目の病」の治らん事をお願いされたところ、首尾よく東夷を平定し、部下の目の病も治って、再び剣を持って働く事ができるようになったので、当社を盲神(めくらがみ)と称え、手近に持って居られた十握剣(とつかのつるぎ)を当社に献って神恩に感謝されました。この剣を天武雲剣と申し、当社の神宝となっております。
当社の社伝によると、「尊の霊(みたま)が当地に白鳥としてあらわれ給い、鳥明神(とりみょうじん)として祀る」とあり、大同元年には、社殿が造営されました。当社の社紋が鳳凰(ほうおう)の紋を用いているのはこのためです。
また、江戸図として最も古いとされる長禄の江戸図(室町時代)に当社は鳥明神と記載されております。尚、この江戸図に記載される社は九社しかなく、当社は江戸九社の一つにかぞえられております。 

鳥居をくぐって入っていきます。
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狛犬
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社殿
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屋根付きの庚申塔
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三猿だけの延宝塔
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切支丹灯籠といわれる「織部式灯籠」
かって、この地にあった肥前島原藩主松平主殿守の下屋敷にまつられ、ひそかに信仰されていたものと伝えられている。
竿石の下部に刻まれた像には足の表現が無く、イエス像を仏像形式に偽装した珍しい型の切支丹灯篭。
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櫛塚
古事記によると、伊耶那岐命は愛する妻伊耶那美命の死を悲しみ、「黄泉の国」に会いにいくが、変わり果てた身体に恐れおののき、「この世」へ逃げ帰る。
暗闇の死の世界から逃げるために、髪にさしていた「竹のくし」を抜いて火をつけ、松明代わりにして生還した。

また、この大鳥神社の主神「日本武尊命」は妻の「弟橘媛命」と東国にわたる際、浦賀水道で嵐にあい、海神の怒りを鎮めるため、妃は海に身を投げ、身代わりとなった妃の「くし」が浜に流れ着き祀られている。
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祇園桜の孫桜(埼玉県・熊谷市)

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埼玉県熊谷市 中央公園内、 2001年4月1日撮影

熊谷の桜が新聞に出ていたので、写真を撮りに行った。京都円山公園の有名な「祇園桜」の孫桜だそうな。
坂東武者「熊谷次郎直実」の娘の名前をとって、二本に「玉津留姫」と「千代鶴姫」と名づけられている。
行ってみると、「千代鶴姫」は盛りを過ぎ、だいぶ葉が多くなってしまっている。
「玉津留姫」のほうは、ちょうど盛り。まだ、10年の若木である。
「祇園桜」と同じ上品な白い花の枝垂れ桜だった。

熊谷次郎直実は、平家物語で平敦盛を討ち取るシーンで有名だ。
壇ノ浦の戦いで、沖のほうに騎馬で逃げていく武者に熊谷次郎直実が「返せや、返せ」と呼びかけたところ、
その武者が引返してきて、一騎打ちとなり、熊谷直実が組み伏せて、討ち取ろうとしたが相手があまりに若い武者だったため、
「落ち延びよ」と云ったが、その若武者は「もはやこれまで、覚悟は出来ている」といさぎよく答えたため、討ち取った。
あとで、この若武者が平敦盛とわかったという話である。

この話は、いろいろ考えさせられる話である。どうして引返したのか、どうして逃げなかったのか。
こういう意見もある。
「簡単に討ち取られるのは、ほんとの勇気ではない。 恥をかいてでも、生き延びていくほうが本当の勇気ではないか。」と。
みんな、いさぎよく討ち死にできずに、恥をさらしてきた。これは確かだ。
上司と意見が衝突したとき。自分が意図したように改善が進まず会社の体質に嫌気がさしたとき。
「こんな会社辞めてやる」と啖呵をきれれば、どんなにか気持ちのいいことか。
しかし、そのたびに辞めていたんでは、周りがたまったものではない。
それが出来ないから、いさぎよく散った敦盛がうらやましい・・・・
という感じはある。

敦盛は恰好よさの絶頂で花と散る誇りを選んだ。
それは、我々が夢見る一つの男の死の典型・・・・

桜のように、きれいに散りたい・・・・

桜が散る様子は美しく、人の心を動かす。

「玉都留姫」全景
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真っ白な花が勢い良く咲いている。
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これがほんとの玉すだれ
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さらに、そのすぐ傍に、やはり同じくらいの若い桜で薄紅の枝垂れ桜があった。
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こちらは小さい薄紅の花弁でなんとも言いようの無い可憐さだ。
これも、幸せな気持ちで撮った。
ちょうど、上品なお姫様と、可憐で可愛い腰元のペアの感じ。これから、ずっと何百年、共に生きていくのだろう。
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前夜に珍しく雪が降り、朝出てくるときはかなり真っ白だった。
途中寄り道をして、熊谷に来たのは昼ころだったから雪はほとんど消えており、あちこちに水たまりがあるのみだった。
私より前に来ていて写真を撮っていたカメラマンが水溜りをしきりに撮っている。
何を撮っているのかなとのぞきこんで解った。水に映った桜を撮っているのである。
さっそく真似して撮っておいたが、PCで見て仰天した。
すごい写真が撮れてました(嬉)
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http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html




川越中院の桜

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埼玉県川越市小仙波町5-15-1、 2006年3月25日撮影
枝垂れ桜、樹齢300年。

川越といえば喜多院が有名ですが、そのすぐ南に中院があります。
かっては喜多(北)院、中院、南院(廃寺)で一寺を成し、中院が最も格式が高かったといいます。
川越ではなんといっても、中院の枝垂れ桜が有名です。

枝垂桜は、他の桜よりも開花が早い。
それで、一週間前に様子を見に行った。開花はまだだったが、この日はものすごい強風が吹いていて、風に飛ばされたつぼみがたくさん落ちていた。
そのつぼみを拾って家に帰り、なんの気なしに水に浮かべておいたら、
なんと!!!
次の日に開花してくれました(嬉)
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全景
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正面のが「川越中院の枝垂れ櫻」です。
樹齢300年です。
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この日は青空で、とても気持ちが良かった。
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桜に戯れる獅子の図。
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振り仰げば天から降ってくるかのような桜。
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たおやかな枝垂れと取り合わせの景色。
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早朝なので、まだ人が少なくてのんびりとした風情が楽しめたが、私が写真を撮り終わるころには、ドッと人が押し寄せてきて人混みが出来てしまった。





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火渡り祭の記事アップ

20110326

今日は土曜日なので、計画停電は無し。ありがたい。

昨日、車にガソリン入れるのに20分くらい並んだが、まあまあこのくらいなら良いよな、と思っていた。
今日そのスタンドの前を通ったら、全然並んでいなかった。
どうやらガソリンの供給は大丈夫になったようだ。

とはいえ、テレビで報じられている被災地への援助物資のほうは、とても十分とは言えないレベルだ。
なんとかしてあげたいと、気持ちが焦る。

3月13日に参加してきた、高尾山薬王院・火渡り祭の記事をホームページのほうにアップしました。
ブログには、ほんの一部しか紹介できなかったので、興味のある方は見てください。

http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/takaohiwatarisai.html

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第13番目赤不動尊南谷寺/関東三十六不動霊場&吉祥寺

20110325

今夜は、6時20分から7時40分くらいまで計画停電でした。
夜の停電は、出来ることが限られてしまいますね。
寝ることくらいですね、私のできることは(笑)

昨日、駒込にある目赤不動にお参りしてきました。
お不動さんですから、もちろんこれ以上の災害が被災者の方々に起きないようにと願ってきました。

「赤目」不動縁起:
比叡山の南谷に万行律師という持戒智徳の名僧がいた。常に不動明王を尊信し、昼夜不退に不動真言を唱え、精進を重ねていた。万行は不動明王の正真の尊体を拝み奉るまでに自ら精進することを誓い、願わくば観念の床に影向し給えと祈願し続けた。
ある晩、一人の聖童が万行の夢枕に現われた。童子は「万行よ、汝は多年明王を尊信すること深切なり。伊賀の国の赤目山に来たれ。不動明王の霊験あらん。」と告げ終わると金色のまばゆい光を放って飛び去っていった。
夢から覚めるや、不行信心肝に銘じっつ、御告げにまかせて、速やかに比叡山を発った。伊賀国に着くと直に赤目山に登り、絶頂の盤石に端座すること三日三晩。口に真言を唱え、手に秘印を結び、心寂然として明王の来迎を待ち奉っていた。
突然、虚空に声が響いた。
「汝、謹んで諦聴せよ。我が身は無相空寂、周遍法界にして有時は彿と現じ、降魔忿怒の形は垂迩示現なれども、末世下根のものは、なお感見する事あたわず。しかしながら、汝、身命を惜しまず信心深きゆえにこの霊像を与うべし。」
我に返り掌を開いて見ると、是即ち黄金の一寸二分の不動明王の尊像にて悪魔降伏忿怒の尊様俄然たる火焔の勢い、良しや聖手の妙作。有難くも尊く、欽喜の涙にむせび、礼拝恭敬し続けた。
法楽を済ませると、尊像を持して赤目山を下り、比叡山南谷の庵に奉安した。
 しばらく後、万行は感得した黄金不動尊の威徳を鑑み、黄土衆生の志願を起こし、感得の尊像を護持して、諸国を巡り歩いた。ついに足は関東に向かい、元和元年(一六一五)、下駒込なる有縁の地を得、ここに堂を建てて尊像を安置した。

駒込駅から1300m、本郷通り沿いにあります。
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不動堂
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お堂には、信者の立派な扁額がかかっていました。
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本尊の黄金不動明王は、酉年にのみ開帳となっています。
御前立の不動明王は、間近に見ることが出来て嬉しいです。
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関東36不動巡拝のご朱印をいただきました。
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とろけ地蔵
「とろけ地蔵」は、目黒の大円寺が有名ですが、ここにもあります。
やはり漁師が海から引き揚げたのでしょうか。それとも空襲の業火でこうなったのでしょうか。
災厄を「とろけさせてくれる」そうです。
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境内に、きれいな紅梅が咲いていました。
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吉祥寺
ついでなので、すぐ近くにある「吉祥寺」にお参りしました。
大田道灌が江戸城築城のときに城内の井戸から「吉祥」の金印が出たため、城内にその寺を設けたそうです。
その後今の場所に移り、栴檀林(学問所)として千人を超す学僧をかかえたようです。
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入ると、真っ直ぐな銀杏並木の参道です。
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本殿の前も、広々とした空間が広がっています。
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狛犬がユーモラス。どうも獅子のようです。
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もう片方は、子に乳を与えています。
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関東大震災、大空襲でも焼け残った「経蔵」。東京で最古。
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経蔵の前に狛寅発見!
毘沙門天を祭るお寺では、狛犬ではなく狛寅を設置することがあると言います。
毘沙門天と狛寅のつながりは、日本で最初に毘沙門天が現れたとされる信貴山朝護孫子寺や鞍馬寺の縁起に、「毘沙門天に援(助)けられたのが、寅年、寅日、寅刻だった」とあったことかららしい。
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二宮尊徳の墓
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懐かしい「二宮金次郎」の像もあります。
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八百屋お七の比翼塚
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江戸も前期、1682(天和 2)年十二月大火のために本郷の八百屋市左衛門の一家は檀那寺である駒込の吉祥寺に避難しました。そこで市左衛門の娘お七は寺小姓の吉三郎と恋に落ちます。
やがて一家は無事に本郷へ戻ります。しかし、お七は吉三郎に逢いたくてたまりません。翌1683(天和 3)年一月もう一度火事になったら吉三郎様に逢(あ)えるとばかり、娘十六、お七は新築された我が家に放火してしまいます。
不憫に思った奉行が十五かと訊ねても、お七は正直に十六と答えます。同年三月、伝馬町から江戸引き回しの上、哀れ鈴ヶ森で火炙(ひあぶ)りとなります。

お七の悲恋の物語は井原西鶴の『好色五人女』で取り上げられ江戸のベストセラーとなりました。
『好色五人女』では、駒込の吉祥寺となっていますが、
史実ではお七の一家の避難先は白山の円乗寺で、吉三郎も円乗寺の寺小姓であり、お七の墓も円乗寺にあるそうです。
吉祥寺の比翼塚は文学愛好者により建立されたものである。
(比翼塚とは、相愛の男女や心中した男女を葬った墓のこと)

境内に沈丁花がきれいに咲いていました。
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ホームページには、もっと詳しく載せています。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/meakafudou.html

関東36不動トップページ
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/kantou36fudoutop.html


未来/今井美樹

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今朝テレビを見ていて、思わず釘付けになりました。
「かわいい」
「きれいきれい」。慣れない口調と手つきでほうきを使い、廊下のほこりや泥をはいているのは、今村摘希(つみき)ちゃん(1歳)だ。摘希ちゃんが掃除をすると、みけんにしわを寄せて行き交う被災者の顔がほころぶ。
そもそも掃除を始めたのは、摘希ちゃんの母親美和さんの妹、遠藤貴美子さん(33)だった。「それぞれができることをしないと。周りが汚れてくると心がすさんでくる」との思いから、毎日ほうきを取った。その姿を見た摘希ちゃんや摘希ちゃんの姉、南美衣さん(11)らも手伝うようになったという。
元気いっぱいの摘希ちゃんだが、美和さんは「なんでこういうことになっているのかも分からないだろうし、空腹もがまんできず、かわいそう」と話す。飲食物のほかに、おむつも不足がちで途方に暮れる。
しかし、そのなかでも摘希ちゃんは「私たちのアイドル」(美和さん)だという。周囲の被災者も、掃除する摘希ちゃんに「ありがとう」「えらいね」と声をかける。そのたびに摘希ちゃんは、右手の人さし指をほおに当てる「かわいいのポーズ」を取ってみせていた。
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いつでも、子供は大人の心を癒してくれます。
大人も、子供にできるだけ良い世の中を残してあげたいと頑張る。

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みなさんの元気づけになるかどうか、わからないけど
タイトルの「未来」という言葉だけでこれを引っ張り出しました。

今井美樹が大好きなので(笑)
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-48.html

このあいだ、ドラマ「冬のサクラ」に今井美樹さんが出るというので喜びました。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-564.html

おまけに、大好きな「小岩井農場の一本桜」も登場したので大喜びでした。
が・・・・・・・・・
3回目を最後に、まったく見ませんでした。
あまりにも今井美樹を苛めてくれるんだよね(怒)
その苛め方が、執拗で異常すぎた。
かって好きだったのに、歯車が壊れて憎むようになった・・・・・なら許せるが。
最初から、苛める相手をつかまえて、いたぶって楽しんでいる・・・・・・
としか思えない、いたぶり方なので私は降参してしまい、見られなくなった。
当分、苛めていた高嶋政伸の顔を、どこかで見るとムカツイて困ると思う(苦笑)

今井美樹が可哀想すぎて、見ていられなかった。
このあいだ、終わったらしいが、最終回も敢えて見なかった。


恋の唄~reprise
春が来ればすべてが輝いて
涙さえも愛しい思い出になる
雪解けの水に未来をのせて
どこまでも歩いていく

恋をすれば誰もが詩人になる
風の音もせせらぎも曇り空も
「あなた」という名の宇宙に住む
私には永遠のメロディー

忘れないで私はどんな時も
あなただけを想って生きている
だからお願い笑顔のままで
私に夢を見させて

だからお願い笑顔のままで
私に夢を見させて


慕情
丘の上の白い屋根を
金色に染める夕陽

思い出すわあの日のこと
風の中のふたり

時が巡っても私の恋は
いつまでも変わらない真実

暮れなずんだ空に捧ぐ
永久に続く慕情

やがて空に月が浮かび
孤独だけを照らす

なぜか離れててもあなたの事を
想うだけで・・・満たされるの・・・不思議

恋の唄が聞こえるでしょう?
永久に続く慕情

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テンペスト/池上永一

20110321

上巻 「若夏(うりずん)の巻」
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下巻 「花風(はなふう)の巻」
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あらすじ:
誰よりも聡明な少女・真鶴は、女であるというだけで学問を修められないことを不公平に思っていた。跡継ぎと目されていた兄の失踪を機に、宦官・孫寧温と名乗り、性を偽って生きていくことを誓う。
科試に合格した寧温は、王府の役人として、降りかかる難題を次々と解決し、最速の出世を遂げていく。
そんな寧温を阻む、数々の敵。遂に謀反人として八重山に流刑にされた寧温は真鶴に戻り、九死に一生を得る。その類稀なる美貌と才覚を見初められ、自分の意思とは裏腹に王の側室として王宮へ返り咲くこととなる。

平穏な生活はペリーの来航により風雲急を告げる。外交に長けた人物として、八重山にいる(と思われている)孫寧温に王府へ戻るよう王命が下る。昼間は宦官の役人、夜は側室と、真鶴は一人二役をこなさなければならなくなってしまう。


登場人物
真鶴(まづる)= 孫寧温(そん ねいおん):
孫家待望の第一子として誕生したが、男児を強く望んでいた父親はショックのあまり、名前を付けず、いない者として存在を無視されて幼少時代を過ごす。名前は3歳になった頃に自分で付けた。仕出し係として宣教師ベッテルハイムに食物を届けていた時に、英語やドイツ語など計13カ国語を習得した。
「孫寧温」は父親が生まれてくる男児のために考えた名前。13歳にして科試に宦官ということで受け、最年少合格してしまう。評定所筆者主取に任命され、財政構造改革を断行する等功を上げ、重役となる。女を捨てていたはずだが、浅倉雅博に恋心が芽生える。徐丁垓に女であることを見破られるが琉球を救うため徐丁垓を討つが、彼が仕掛けた周到な罠で謀反人の疑いをかけられ、八重山へ流刑となる。
後に王の側室として王宮へ戻る。

孫嗣勇(そん しゆう):
真鶴の義兄。男子が欲しかった真鶴の父親が実姉の三男を養子にもらった。父親からの厳しいしごきに耐えかね、失踪してしまう。その後、辻の遊郭で踊奉行に徴発(スカウト)され王宮の踊童子になる。花当となり寧温と再会。体を張って寧温を守る。

喜舎場朝薫(きしゃば ちょうくん):
6歳にして四書五経を読んだ神童として名を馳せた。寧温のよきライバル。科試に首席合格し、評定所に配属される(寧温が上司)。宦官である寧温にときめき、戸惑いを隠せない。

浅倉雅博(あさくら まさひろ):
薩摩藩御仮屋詰めの武士。琉歌を詠むのが上手い。寧温のことを好きになる。御仮屋の役人の中では穏健派。職を辞し、真鶴に戻って市井に紛れていた真鶴に心を奪われ求婚するも運命のいたずらか、引き裂かれてしまう。

儀間親雲上(ぎまペーチン):
北京の国子監に留学していた。派手好きな男。雅やかな所作を身に付けている。「琉球の在原業平」と異名を取る風流人。かつては科試受験を目指していたが、父親が楽をさせようと賄賂を贈って留学することになった。寧温との出会いで一念発起し、科試を再受験、合格し、銭蔵奉行に配属となる。

尚育王(しょういくおう):
第18代琉球国王。穏やかな性格の美丈夫な青年。機会の平等を謳い、科試教育を徹底させる。古い慣例を打破する政策を次々と生み出した。寧温に財政改革を命じる。

尚泰王(しょうたいおう):
第19代琉球国王。父・尚育王急死に伴い、わずか6歳で即位、摂関政治となる。幼さゆえに、よく遊んでくれる徐丁垓を信頼してしまう。後に真鶴を側室として王宮へ引き止める。

真美那(まみな):
尚泰王の側室。真鶴が側室試験で出会った少女。聡明で真鶴以外に唯一教養試験を突破した。より聡明な真鶴に憧れ、親友となる。朝薫の従妹に当たる。生まれながらのお嬢様であり、その破天荒な行動は「お嬢様爆弾」と称される。

徐丁垓(じょ ていがい):
清国の宦官。宦官でありながら、紫禁城の後宮の女全員を抱いたとして追い出された。紫禁城から追い出すために冊封使節団に紛れ込まされた。自ら「女を抱くために宦官になった」と言うように、琉球の花街でも絶倫の好色漢として有名。清国では一応科挙に受かっただけあって、知性と情報力は備えているが、人格は腐りきっている。寧温の正体を見破り、脅迫し犯し、言いなりにさせ、遂には琉球乗っ取りを画策する。

明(めい):
真鶴の子。母親譲りの旺盛な知識欲を有する聡明な少年。真鶴手製の教科書であらゆる知識を吸収していく。自分が王族の血を引くことを知らない。


あらすじと登場人物紹介で、既におわかりだと思う。
これは「劇画」のようなものである。
おもしろかった、物凄く。
ただし、これを読む時には、エンターテイメントとして割り切って読まないと、肩透かしを食らってしまう。

琉球の歴史大河小説をだと思って期待すると、その「軽さ」とエンタメ重視の姿勢に、耐えられない人もいるだろう。
なるほど、琉球王国というのはそういう存在で、そういう「美」があったのか!と思わせる、知らしめさせる物語世界の美しさには、感動しました。

これは、いつか来た道と思ったら、「HERO」とか「LOVERS」とかの世界だよね。
チャン・イーモウ監督の映画が好きなら、おすすめだと思います。


この小説の中に挿入されている琉歌が彩りを添える。

つぼで露待ちゆる花の咲き出らば
      匂や誰が袖に移ち呉ゆが

(蕾で露を待つ花のおまえは、これから誰の袖に匂いをつけるのだろうか)


別れゆる袖に匂ひ移ちたばうれ
      面影の立たば伽にしやべら

(別れ際にあなたの袖の匂いを私に移してください。そうすれば思い出すときはいつでもあなたの袖の匂いを伽にして心を慰めましょう)

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プロ野球開幕の話

20110318

決まったらしいですね、開幕。
セ・リーグは当初予定どおり3/25から強行するんだって。
パ・リーグは2週遅れの4/12開幕。

開催時期は、いろいろな意見で揺れていたらしい。
スポーツ新聞などのサイトの記事を転載してみる。

ふ~~ん、決まったんだ。
だけど、まさか東京ドームではやらないよね。
いくら都区内は停電が無いといっても、そんなエゴ丸出ししないでしょ?
東京の電力確保のために東北が原発事故で放射能で痛めつけられてるのに!?
大きな電力使って東京ドームでやるなんて。
良識ある人は東京ドームに行けないでしょ?
昼間神宮球場借りるとか・・・・・
頭働かないの?

意見の両サイドを掲げてみる。
まずは、開幕時期を見直したほうがいいと発言している人。
マグニチュード9.0の大地震が本拠地(仙台)を直撃したことで、楽天の星野監督のショックは大きく、「これからもっと被害が出てくるだろう。全てのスケジュールを白紙にしなくてはならない」と言った。
「まだ連絡が取れない知人がいる」という東北高(宮城)出身の日本ハム・ダルビッシュは、「野球人でもあるが、人間でもある。野球だけを考えてはいられない」と話した。これらがまっとうな声ではないか。
金本が沈黙を破った。セが「3・25開幕」の方針を固めたことに、黙っていられなかった。
「今、被災者のことを思うと、野球開催どころじゃないというのが正直な気持ち。勇気を与えるというのは、もう少し落ち着いて、食事ものどを通り、電気も通って、ある程度生活が確保されてから『さあ、がんばろう』という気持ちになると思う」
東北福祉大時代の4年間、仙台で過ごしたアニキにとって、今回の震災は人ごとではなかった。市内には恩師の伊藤義博元監督(享年56歳)の墓があり、現時点でも連絡のつかない友人もいるという。テレビで多数の住民が避難生活を余儀なくされ、水や食料の不足に苦しんでいる姿を見ると、野球どころではないというのが本心だ。

今度は、予定どおり開幕すべしと主張している人。
巨人・渡辺恒雄球団会長が16日、3・25のシーズン開幕を厳命した。都内ホテルで行われた燦燦会で「明るい活力を持って、国民の大衆に見せることができるのはプロ野球選手」と、被災地復興のために全力プレーをみせるよう選手に要望した。
「東日本巨大地震復興支援」として会を始め、壇上に立った渡辺会長。開幕問題に触れ「開幕を延期しろとか、プロ野球をしばらくやめろとか俗説がありましたが、大戦争のあと、3カ月で選手から試合をやりたいと声があり、プロ野球を始めました。フェアプレー、緊張した試合をすれば見ている人は元気が出て、エネルギーが出て生産力が上がる」と力説した。
ナベツネさんは都内の高級地に住んでて、計画停電も知らないらしい(笑)
巨人の原監督は今回の大地震に関し、「我々はプロ野球人としてしっかり戦い、多くの人を喜ばせることに集中したい」と話したが、この状況下で25日に開幕しても、被災者やその関係者たちは、とても野球を楽しむ余裕などないだろう。
「国民感情も同じですよ」と言うのは、プロ野球ファンの矢口高雄氏(漫画家)だ。
「今、25日の開幕を楽しみにしているファンがどれだけいるのか。私は開幕しても、スタンドでビールを飲みながら大声でひいきのチームに声援を送る気にはとてもなれない。選手の中にも家族や知人が被災した者がいるでしょう。これほどの死者や行方不明者が出ている現実を重く受け止めるべきです。今年はプロ野球の開幕延期は仕方ないことです」

安否不明はまだ1万人以上、つらい避難生活を強いられている人も31万人以上いる。

「我々はプレーで元気づける」なんて言う前に、「プロ野球界は支援活動など、できること、やるべきことがあるはずだ」と、前出の矢口氏は言う。


ここまでは、最初に書いたように、サイトの記事をそのまま転載したので、私の意見・意志は入ってませんので、上の記事を読んで気に入らないところがあっても、私にアタラナイように(笑)


私は、関係者でも何でもないから何時から開催したらいい、という意見もないが、
疑問が一つある。
これだけの全国的な惨事が起こったのだから、起こる前に作成していた計画を見直すくらいの事をしないのだろうか?
これは開催時期だけでなくて、年間のスケジュールのことである。
もし、しているよ、ということなら有難いことです。

私が考えているのは、こういうことです。
いろんな活動を通して被災地をバックアップしたいと思うので、
例えばシーズン後半の時期なら、半年後くらいなら東北でも野球ができる施設も確保できるのではないか?
一昔前なら、ろくな施設もない地方球場でプロ野球の試合を見た思い出が、私には沢山ある。
それを思えば、不十分な施設だって昼間なら試合は出来るだろう。
そうすれば、元気づけられるし、経済的にも潤うと思うのだ。
半年後でも、まだまだ傷跡はたくさん残っていると思う。
阪神大震災の話しで、こういう話があった。
「ニュースに挙がらなくなってからが、辛かった」と。
球団も、選手たちも現地に行くとなれば、それなりに心づくしもするだろう。
また「百聞は一見にしかず」
またニュースに取り上げられたら、また支援の輪も広がるし。

そんな観点から、今年のスケジュールを見直したらどうだろうか・・・・
そのくらいの工夫と配慮が無けりゃ、落ち目のプロ野球を持ち直せないと思うけど。

ピンク・サマースノーとあれこれ

20110317

私は、あえてブログの活動を続けます。
被災地以外の人間は、元気に活動して被災地をバックアップするべきだと思うからです。


今日は、阪神大震災に遭った女性トラック運転手、森本佳代子さんの話を届けます。
森本さんは、仕事でトラックを運転していましたが、
姫路からの帰り路、助手席の二歳の男の子にミルクを飲まそうと、
高速を下りたとたんに地震にあい、
命拾いをしました。高速を直進した仲間のトラックは
落ちた高速道路で即死。

死体やケガ人を運び、夕方に疲れて工場街に入ったら、
おおぜいの人におにぎりや水をもらい、生き返ったという。
自宅で一休みした森本さんは命拾いした自分に、
何かできることはないかと考え、
服や下着八百万円分を買ってトラックで被災地に配ったそうです。
はいていた靴も小学生の女の子にあげ、
帰り道のトイレにはだしで入ったそうです。

阪神震災後の森本さんは、
震災後10年にわたり、救援活動を続けました。
その様子が、映画やテレビ番組始め、新聞や雑誌によって報道され、
体験を聞かせて欲しいとの声に、救援活動のカンパ集めとして、
各地で講演活動をしました。
また、高校英語教科書に取り上げられたことから、
震災を知らない世代にも少なからぬ反響をを呼び起こしました。

そして、ボランティア団体を作り、被災者の中でも、
高齢者の独居世帯の人達の為に、
電話による緊急通報システムを1500台設置しました。
今は700台に減っていますが、
今も数人のメンバーが24時間体制で待機しています。
その費用は、森本さんの講演などによるカンパ集めが欠かせないとのことです。

震災当時幼かった高校生達が、
教科書によって震災の悲劇と森本さんの活動を知り、
その感想を綴った手紙を全国から寄せるようになり、
その中からクリスマスに被災者へ贈るクッキーを焼く運動が拡がり、
今も心を込めて焼かれたクッキーが森本さんの元へ届けられています。
 このクッキーはカンパのお礼としても使われて、講演の席などでは、
被災者と支援者をつなぐ、心の架け橋となっています。

以上、森本さんのブログより、要約。


これからは、私のショボイ個人の話(笑)
今日の計画停電は12時20分から。
暖房がないため、日の当たる場所で過ごしました。
久しぶりに「太陽のめぐみ」を実感しましたね。とてもポカポカと暖かでした。

昨日、カミさんに頼まれ買い物に出て愕然としました。
スッカラカンの棚が多い。
お米、ティッシュペーパ―、ろうそく、電池などなど
たぶん「明日は我が身」の不安からでしょう。
その気持ちはわからないではないですが、
被災地では、一日にオニギリ一個でしのいでいるケースも多いです。
こちらで、あまりに買い占めたら被災地に回らなくなる心配があります。
みんなで、ちょっとずつ我慢しても、結果は大きく変わるでしょう。

助け合い、思いやりの心が大切だと思う。


ピンク・サマースノー

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系統  ClF クライミングフロリパンダ
作出年 不明  
作出国 日本
作出者 伊丹ばら園
花色  淡いピンク
花径  中輪
香り  微香
開花性 一季咲き
樹形  つる

とげの少ない人気の白バラ「サマー・スノー」の枝変わりで、ピンク色の花を咲かせます。
花色は徐々に淡くなり、満開の時は2色の花が入り乱れて咲いているかのように見えます。
「サマー・スノー」と同様の性質をもち、初心者でも育てやすい品種です。

これは2001年に、今は無き「向ヶ丘遊園」で撮ったものです。
そのとき表示されていたのが「サマー・スノー」でしたが、今回調べてみるとサマー・スノーは純白ですね。
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私が撮ったのは「ピンク・サマースノー」が正しいようです。


外伝・役小角 夜叉と行者/黒須紀一郎

20110315

ほんのちょっと前、停電が復旧した。
私の地域の名前が3つのグループに載っており、実際はどのグループに属するのか停電になってみないとわからず、昨日は一日そのために振り回され、結局は停電が無かった。
今日は停電があり、これでやっと属するグループがはっきりした(苦笑)
やはり夜の停電というのはつらい。
だが、こちらはちゃんと自分の家で毛布にくるまっていたわけだが、電気の通じない被災地の方のご苦労はいかばかりか、大変な辛さだと思う。


この間、「役小角/黒須紀一郎」について書いた。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-611.html

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続いて、この本を読んだが、とても面白かったので紹介しておきます。
この本は持統天皇(女帝)に焦点を絞って、小角との関わりを書いている。

持統天皇は「永遠」にこだわり、「永遠の命」を求めて小角に教えを乞う。
そのために、吉野に行宮を営み、その近く象山に持統天皇と小角二人だけで会うための社殿を用意する。
持統天皇の吉野行きは実に32回を数えた。
小角は「胎息法」、「仙薬」について教え、持統天皇の健康をむしばむ、持統天皇に棲みついている「夜叉」を明らかにして、それを安らげる。
夜叉は、鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)の母親「遠智娘」であった。
それまで天皇の住まいである「宮」は一代かぎりのものであったが、「永遠の命」の一つの答えとして持統天皇は初めて永遠の都「藤原京」を作った。
それは、結果としてそんなに長く続かなかったが「平城京」、「平安京」とその考えは受け継がれていった。


鵜野讃良皇女(のちの持統天皇)からの視点で、この本に出てくる事件を列挙してみよう。

○大事をなすのに助けになるからと、中臣鎌子連の奨めで、中大兄皇子は、蘇我倉山田麻呂(石川麻呂)の長女を召して妃としようとする。(石川麻呂は鵜野皇女の祖父である)
○ところがその長女は「身狭臣(蘇我日向)」に盗まれてしまう。
○憂え恐縮している倉山田麻呂のために、次女「遠智娘」が自ら進んで中大兄皇子に嫁ぐ。
○「遠智娘」は「鵜野讃良皇女」を生む。
○乙巳の変(大化の改新)が起こる。蘇我入鹿を大極殿に呼び出した中大兄皇子は、中臣鎌子や倉山田石川麻呂らと共謀して、これを惨殺した。この変事を聞いた父の蘇我蝦夷は、甘橿丘にあった宮殿に自ら火を放って焼死した。
○大化五年、蘇我日向が、右大臣倉山田石川麻呂に謀反の疑いがあると訴えた。石川麻呂は飛鳥の山田寺に逃がれるが、中大兄の罠と知った石川麻呂は、妻子ら八人と共に首を括って死ぬ。
○石川麻呂が無実なことを証明する文書がみつかり、蘇我日向は筑紫大宰として左遷される。
○遠智娘は中大兄を恨み、それが鵜野皇女の潜在意識となる。

○鵜野皇女は弟王子(大海人皇子)に嫁ぐが、なんと中大兄の娘4人が同じ日に弟王子に嫁ぐという異常なことであった。(他の三人は大田王女、新田部王女、大江王女)
しかも、それは弟王子の嬪であった「額田王女」を中大兄が嬪として貰い受ける身代わりであった。
○天智天皇失踪
○壬申の乱で、弟王子(大海人皇子)は大友皇子(弘文天皇)に大勝し、大友皇子は自ら首をくくって死ぬ。鵜野皇女は弟王子(大海人皇子)と常に行動し、鵜野皇女のほうが勇ましいようであった。
○天武天皇(大海人皇子)没す
○皇后(鵜野皇女)は高市王子に大津皇子を謀反の疑いありと討たせる。
○草壁王子は、日嗣王子(後継者)とされたが3年後没す。
○皇后(鵜野皇女)が「持統天皇」として即位する。
○持統天皇が退位し、孫の軽皇子が「文武天皇」として即位する。


いままで、蘇我一族は中大兄皇子によって滅ぼされたと思っていた。
蘇我蝦夷・入鹿親子は乙巳の変(大化の改新)で討たれ、蘇我赤兄は中大兄によって、有馬王子謀殺事件に加担させられ、壬申の乱で島流しの刑に処せられた。

しかし、蘇我の血は遠智娘から持統天皇によって天皇の血筋に引き継がれたし、一方で蘇我の血は「藤原不比等」の嫡妻「娼子」にも引き継がれ、その三人の子から現代へと続く巨大な「藤原の血脈」となるのである。
天皇家と不可分の関わりを保ち続けながら、今も大河となって流れ続けている。
その表を掲げておく。
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持統天皇が、日本ではじめての都「藤原京」を作るためには、巨大な財力を必要とした。
本書では、山の民の巨大な財産である「丹砂」を、伊勢で算出する分だけを小角が持統に分けてあげたためであるとしている。

この本で持統天皇がクローズアップされ、あの時代の複雑に錯綜する「歴史の綾」がとても面白かった。

高尾山薬王院火渡り祭に参加してきました

20110313

詳細な記事は、拙ホームページにあります。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/takaohiwatarisai.html

今日、高尾山で火渡り祭があるというので、大惨事に対して気休めにしかならないかも知れませんが、火伏の行事ということで、参加してきました。

まだ、大分時間前ですが、会場にはたくさんの人が詰めかけていました。
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行が始められるにあたって、主催者側から今回の大地震の被災者に対する鎮魂の言葉があり、参加している方全員がその気持ちで参加していたと思います。

最初にお払いがありました。
マサカリで
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弓矢で
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火がつけられて、まず周りを「梵天札」を差した御神輿が火の回りを廻って浄められます。
この梵天札は、この日この会場でだけ発行される「火伏せ」のお守りとして授与されます。
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火は燃え盛ります
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3、40分くらい燃えていたでしょうか、燃え尽きてきました。
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火渡りのために、はだしになります。
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先頭の行者が塩をまいて浄めて、渡りはじめます。
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一般の人も大勢渡りました。
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火渡りのあと、薬王院の大阿闍梨から祝福を受けます。
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詳しくは、後日記事にしますが、「行」ということなので、厳かな雰囲気の中行われて、参加していて本当に浄められた心地がしました。
貴重な経験でした。
やはり、東北の大地震の被災者の方々に対する気持ちが常にありましたね。


大丈夫か心配

20110312

ついに恐れていたことが起こった。
福島原発で爆発。
すでに放射能漏れは云々されているが、大事に至らないで欲しい。

原子力の安全については危惧していた。
いままで、政府・行政、電力会社が「原子力は絶対安全」とキャンペーンを展開するたび、本当かなと思っていた。
電力会社は営利企業である。
原子力利用を「絶対安全」にするため、コスト高にあえぎ、会社がつぶれそうだ、という話を聞いたことがあるだろうか。
「原子力施設」を本当に不沈艦にこしらえていたのだろうか。
これは、私のように企業で働いた経験があれば、すぐにわかることである。
ましてや、現代は非常にシビアな世の中である。
「絶対に安全」なんて望めるべくもない。
サルでもわかることである。

今回の震度は、想定外なのだろうか。
海岸に建てていて、津波は想定外?

「絶対に安全」と豪語するなら、今回のレベルは想定内のはず。

また、何らかのシステムに携わっていた人なら、システムの安全がいかにもろいのか知っているはず。
強固に構築したシステムでも、ボルト一本で、もろくも崩れることがある。

政府・行政の責任は重い。
営利企業の言う「原子力は安全」を鵜呑みにして、その上にアグラかくなんて、目下のほか。

原子力の「万一の事故」というのは悲惨なのだから、
原子力施設の立地条件を厳しくし、近くに人が住まないようにするのは、政府・行政の責任なのだと思う。


悲惨な大地震が起きてしまいました

20110312

大変な大地震が発生してしまいました。
ただただ、テレビの悲惨な状況の画面に胸を痛めています。
みなさんのところは、いかがでしょうか?
心配してます。

私の住まいは、東京都から埼玉県に入ったところです。
そんなに揺れはひどくなくて、数個棚から落ちた程度です。
壊れたものが一つありますが、それは揺れている最中に、
棚の上の物を非難させているときに、誤って私が落として壊したもの(汗)

当方は、まったく無事で申し訳ないような感じです。

娘が二人とも都内に住んで勤め先も都内。
心配しましたが、
電話は通じませんでしたが、携帯のメールは通じたので、
状況は把握できてよかったです。

長女は早期に帰宅をあきらめ、ホテルを確保。
2万5千円のしか空いてないとこぼしてますが、無事に泊まってます。
次女は勤め先からすぐにタクシーをつかまえましたが、
電車で30分のところを4時間半かかったようです。
夜の10時には、自分の住まいに帰り、一安心しました。
都内の電車がすべて止まってしまい、
ものすごい数の「帰宅難民」が発生したようですが、
二人とも、決断が速かったのが良かったみたいです。

テレビの画面からは、悲惨な状況が刻々と中継されています。
被害にあわれた方々がお気の毒でなりません。
早く落ち着いて、早く復興を祈るばかりです。

サプライズ

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ドイツのコルデス社が1989年に発表した黄バラで、
フロリバンダ系のバラです。
日本ではサプライズと命名され、海外ではゴールデン・ホルスタインといわれているそうです。
サプライズは、驚くほどに色鮮やかな黄色というので名付けられたのでしょう。
ホルスタインという名前から連想するのは牛の品種だけですが(汗)、
調べてみると、Holsteinはドイツ北部州南部の地域で、かつては公国で1866年にプロイセンに編入されたとありました。
このバラが、その地域に関係しているのではないかなと思います。

ミスターローズ、鈴木省三さんゆかりの「ローズガーデン・アルバ」で
この薔薇を見たときは、蕾で開いてなかったのですが、
鮮やかな黄色で印象に残りました。
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これは、ネットで入手した写真です。
開きかけ
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開いた姿
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役小角 /黒須紀一郎

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関東36不動を巡拝中だが、そこで「役行者、または役小角」に出会う。
たとえば高尾山では、
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-537.html
浄心門を入ってすぐに神変堂があり、修験道の開祖「役小角」である「神変大菩薩」を祭っています。
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それで、気になっていたのだが、ちょうど面白そうな本を見つけたので読んだ。
第一巻が「異界の人々」、第二巻が「神の王国」とサブタイトルがついている。

役小角だけでなく、中大兄皇子や大海人皇子についても、今までの認識を覆された。
すごく面白かった。

筆者の「あとがき」を引用しながら紹介しよう。
 役行者という名を聞けば、誰でも想起するのは、その超能力的な話であろう。
葛城山などの岩屋(岩窟)に住み、身には葛布をまとい、松の実を食し、その勝れた呪力によって鬼神を使役し、海上をさながら陸地のように走り、鳳風のように天空高く飛翔するといった話である。また、日本独自の金剛蔵王権現を祈りだして、これを大峯山上ケ岳の蔵王堂に祀った修験道の開祖としても知られている。
 室町時代の末ごろに出来た『役行者本記』が、役行者に関してまとめられた書物の初めだといわれているが、これとても偉人伝説の類に漏れず、行者を神格化した幻想的な話が多い。
では、役行者という人物は実在しなかったのかというと、そうではない。彼の存在は、正史である『続日本紀』 の文武天皇三年(六九九年)五月二十四日の条に、はっきりと記されている。

 五月二十四日、役の行者小角を伊豆鴫に配流した。はじめ小角は葛木山に住み、呪術 をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足の師匠であった。のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると讒言されたので、遠流の罪に処せられた。世間のうわさでは「小角は鬼神を思うままに使役して、水を汲んだり、薪を採らせたりし、若し命じたことに従わないと、呪術で縛って動けないようにした」といわれる。                         (宇治谷孟訳『続日本紀』)

 小角とは役行者の名であり、正確には賀茂役君(かものえだちのきみ)小角といった。『役行者本記』などから類推すると、小角の生きた時代は七世紀の半ば前(六三四年)から八世紀の初頭(七〇三年) ということになろう。そして、この時代は、当時倭国といわれた日本が、激動した時代でもあった。乙巳の変(大化の改新)、百済出兵、白村江敗戦、壬申の乱と、古代史の中でも特筆すべき事件が並んでいる。
 小角もこの事件の最中に生きていたわけだから、後世になって神格化された役行者ではなく、この乱世に実在した役小角に光を当てたら、どのような小角像が浮かびあがってくるか・・・
それが、本書のモチーフとなっている。
たしかに、小角は葛木山(金剛山・葛城山)を中心にした山中で修行をし、原始的な山岳信仰に、大陸から伝わってきた陰陽道や道教、それに雉密呪術を加えて、修験道の原型を作り上げたのも事実であろう。反面、小角が関わったとされる吉野から宇陀、伊勢、美濃を結ぶラインは、壬申の乱で挙兵した大海人が軍を進めた道筋と奇妙に重なるのである。この道は、丹砂や鉄、銅の産出する道でもある。となれば、壬申の乱で、小角が大海人と何らかの接点を持った可能性も出てくる。
本書では、積極的に時の政権と関わりを持つことによって、自らの夢を実現しょうとする小角の生身の姿が描かれている。


小角たち賀茂の民は、蘇我宗家に隷属する部曲(かきのたみ)であった。私有する民であるから自由はない。
小角の家は、代々この葛城上郡辺りの賀茂一族を束ねる家柄だった。
乙巳の変(大化の改新)で蘇我宗家が滅び、大王家の部民にされ、扱いは奴婢と同じになってしまった。
小角の父親、間介麻呂は役君(えだちのきみ)で、賀茂の役民(えだちのたみ)の長である。

その父親から、かってこの国は賀茂一族の開いた国だったことを教えられ、倭国を最初に治めた饒速日(にぎはやひ)大王、またの名を天照国照彦火明命(あまてるくにてるひこほあかりのみこと)の宮殿跡を教えられる。
宮殿跡の柱の穴を、独りで木の棒で掘っているときに、小角は山の民の棟梁「五鬼童」に声をかけられる。
山の民というのは、朝廷や豪族に虐げられて、山に逃げ込んだ賀茂一族がほとんどであり、その神の宮殿跡を掘っている小角に五鬼童は感心し、後継者とすべく飛鳥寺の僧「自覚」と共に小角を教育する。
小角も、虐げられている役民(えだちのたみ)を救いたいと、強くなることを志願して山に入り修行を続ける。
山の生活を小角に教えて助けるのが、「前鬼」、「後鬼」の夫婦であった。
高尾山の神変堂でも鬼が従っていたが、これで納得。

小角が薬師の真鳥に教わっている場面で、
「おお、あった。これだ、これだ」
 真鳥が叫んだ。
 見ると、真鳥の背丈と同じくらいの大きな草が、紅紫色で筒状の花をつけている。
「これが烏頭(トリカブト)です。わしらは、ブシとも呼んでいます」
 真鳥は、小角に、手に取ってよく見るように言うと、担いでいた袋の中から、長めの刀子(小刀)を取出して、その根元を掘り始めた。見事な手際である。そして、引き抜くと、拳大の根が出てきた。
「この毒は凄いんですぞ、小角さま。この汁を矢尻に塗って射かけたら、熊でもころりと倒れます。だから、むやみやたらに使ってはなりませぬ。これを干したのは熱病に効きますが、量を間違えると、それこそころりと逝ってしまいます」
 真鳥は、小角によく見せた後、その根を袋の中に入れた。
「おお、そうそう。小角さま、醜女を何でブスというのか知っていなさるかな」
 真鳥が、真剣な表情で小角を見た。勿論、小角には分からない。
「このプシの量を間違えると、ああなってしまうということです。顔が歪むほど苦しまねばなりませぬ。よくよく用心なさることです」
 真鳥は、何度も鳥頭の危険性と効用を説明して、その場を離れた。


小角が20歳になったとき、都では大事件が起きる。
大王孝徳を難波に置き去りにして、中大兄は飛鳥に帰ってしまう。皇后も付いて行ってしまう。
天皇が、皇太子や母親、重臣・群臣たちによって、置き去りにされたのである。皇后の間人までもが、夫を捨てて中大兄に従ったのだ。
孝徳帝は憤死する。

 孝徳の後の斉明は、奇怪な女帝であった。六五五年に飛鳥板蓋宮で即位すると、先ず手がけたのが、小墾田宮の造営であった。瓦葺きの宮殿を建てようというのである。それまでの宮殿は殆どが茅葺きか草葺きで、板葺きとなったのも、板蓋宮が最初であった。ところが瓦葺き、大変な難工事である。
 しかし、斉明はそれを強行しょうとした。が、懸念した通り、工事は難航した。
結局、斉明の計画は失敗に終わった。しかもその間に、肝腎の板蓋宮までもが焼失してしまったのである。
諦め切れない斉明は、今度は場所を変えて、飛鳥岡本に造営を決めた。これは、何とか完成に漕ぎつけられたが、次に斉明がやろうとしたのが、両槻宮(ふたつきのみや)造営である。何とこれを、多武峰の頂上に築こうというのである。飛鳥の東にそびえる多武峰は、高さが二百丈(六〇〇メートル)を越える。ここに、楼閣を造り、周りを堅牢な石垣で囲もうというのだから、まさに正気の沙汰とは言えない。巨大な石を運ぶため、香久山の西から石上山まで運河を掘り、そこに二百艘の船を浮かべた。運河掘削に三万余人の人夫を要し、石垣を組むのに七万余人が徴発された。世人はこれを「狂心の渠(たぶれごころのみぞ)」と呼び、「石の山岡は、造った端から壊れるだろう」と誹謗した。
 これほどの民の怨嵯の声にも拘らず強行した両槻宮だが、これも結局完成することが出来なかった。残ったのは、膨大な浪費と民の疲弊であった。怒りは直接斉明に向けられ、岡本宮が放火されるという事態にまで発展した。
 そして、この次に斉明が行なったのが、蝦夷の討征である。斉明四年(六五八)に始まったこの阿部比羅夫を将とする遠征は、その後五年、六年と三年間つづけて行なわれた。百八十般の船団が、秋田から津軽半島にまで北進して行くのである。その戦費たるや、膨大なものになる。このように考えていくと、斉明の行なったことは、全てが国力の消耗につながることばかりである。

斉明と中大兄は過酷な税金を取り立て、使役に駆り出す。
そのころ小角は里に下りて、病を治したり、雨止めを行ったりして、修得した不動明王の修験力をみせる。
税金の確保のため、浮浪人狩りがはじまり、山に逃げ込む人が増える。
小角と前鬼、後鬼がこれを助ける。


この時期、海の向こうの韓半島では、激震がうねっていた。百済、高句麗、新羅の三つ巴の争いから、新羅は唐に助けを求める。
唐にしてみれば、韓半島に介入する絶好の口実が出来たのである。
唐・新羅の連合軍が百済、高句麗を攻める。

斉明と中大兄は百済を助けるため、出兵を決定する。
斉明は百済系の人間で、百済・倭国の大連合国を夢見ていたようだ。
中大兄は、のちに百済から亡命してきた高位高官たちで、倭国に新百済国を作ろうとした。
それにしても、この中大兄という人は、不思議な人物であった。
彼が鎌足らと図って、乙巳の変を起こしたのは、二十年前のことである。この変に成功して、中大兄は孝徳大王の日嗣王子となった。当然、次の大王位に即く立場である。しかし、六五四年に孝徳が崩御した後、大王となったのは斉明であった。中大兄の母親であり、しかも斉明は、鮮明の後皇極という名で大王位に即いているから、二度目ということになる。この時、中大兄は三十歳だから、大王となるには充分過ぎる年齢である。それだけではない。中大兄は、六四五年の乙巳の変に成功した時、既に二十歳であった。しかも、母の皇極は、彼を大王に推したという。しかし、彼は大王とはならなかった。
 孝徳が崩御した後、大王とならない中大兄の正体を、民は訝しんだ。
そして、人々の疑問が晴れないまま、孝徳から斉明へと大王位が引き継がれ、今度の斉明崩御という事態となった。しかもその時は、白村江へ向けて大軍を進発させる真っ最中であった。それでも、中大兄は、大王位に即かない。倭国の興廃を懸けた一戦に、倭国は最高指揮官を欠いたままで戟おうというのである。無茶な話であった。なぜ中大兄は、大王位に即こうとしなかったのか。と、いうよりは、即けなかったのか。謎は多い。

 中大兄が、二万七千の将兵に出撃命令を出したのが六六三年の三月であったが、それより二年前、つまり斉明が崩御した年の八月には、既に阿曇比羅夫らをして、武器や食糧を百済に送らせていた。
 つづいて九月には、朴市秦田釆津らに五千の将兵を与えて、百済へ向かわせた。田釆津は、あの古人大兄事件に連座した罪と引き替えに、出兵を強制された豪族の一人である。
 翌六六二年一月には、百済抵抗軍の鬼室福信らに、矢十万本・糸五百斤・綿一千斤・布一千端、他になめし皮や種叔などの軍需物資を送っている。
 三月に入ると、唐・新羅の攻撃を受けている高句麗からも、救援の依頼がきた。それに対し、倭国は将兵を派遣している。この将兵は直接倭国から出撃したものか、それとも百済に向かった先遣部隊がこれに当たったのか、その辺のことを『日本書紀』は何も記していない。
 五月、再び阿曇比羅夫らは、百七十隻の軍船を率いて、百済の王子余豊嘩を百済に送り届けた。豊嘩は、前武王の時代に、倭国へ送られてきた王子である。以降、三十年間も倭国に留めおかれたままであった。しかし、百済王家が滅び、義慈王以下王子たちが捕虜として、唐へ連行されてしまった今となっては、抵抗軍には、担ぐべき旗頭がいない。そこで、倭国に置き去り同然となっていた豊嘩に白羽の矢が立ったのである。中大兄は、鬼室福信の要望を受け入れて、豊嘩を百済に送り届け、しかも、百七十隻の軍船をも発進させたのであった。この百七十隻に何人の将兵が乗っていたかは、記されてはいない。しかし、少なくとも五千から万に近い数だったのではなかろうか。豊嘩は、この船団に送られて無事百済の港に着き、鬼室福信らの出迎えを受けて王位に即いた。 更に、中大兄は諸国に命じて、軍船、武器、兵糧などを那ノ大津に集めさせた。
 そして、翌六六三年三月、いよいよ二万七千の大軍団が玄界灘を渡って、韓半島へと向かったのである。目指すは百済の首都を流れる白村江(自江)である。二万七千の軍勢は、前・中・後の三軍に分かれ、上毛椎子、巨勢訳語、阿倍比羅夫らがそれぞれの将軍となった。
 八月には、先に出撃していった大船団の後詰めとして、伊豆水軍の塵原君臣に、一方の兵を率いて白村江へ向かうよう命令が下った。
 このように見ていくと、数字に現われている将兵の数だけを合計しても、四万二千となる。この他に、六六二年一月に矢十万本や糸五百斤などを送った船には、将兵は乗っていなかったのであろうか。また、同じ年の五月に豊嘩を送り届けた百七十隻の軍船にも、将兵はいなかったのでぁろうか。そのことについて、『日本書紀』は何も語っていないが、もし仮にこれら二度の派遣に、将兵が乗船していたとなると、唐・新羅との戦いに送られた数は、五万人近くになる。恐るべき数である。当時の倭国の総人口は、六百万ほどだったと言われているから、何と人口の一分弱の将兵が、動月されたことになる。現在の人口で換算すれば、百万近い数となろう。信じられないほどの数である。これだけの数が、亡国間近の百済救援に向かおうというのだ。暴挙というだけでは済まされない。

一方、「弟王子」が五鬼童の推薦で小角に会う。
この王子は、大海人皇子のことで、中大兄と同様現帝斉明を母、鮮明を父とする直系の王子とされている。しかし噂では、弟王子の方が実際には年齢が上ではないかといわれ、そう思ってみると、体型、容貌ともに兄中大兄とは似ていない。また一説では、斉明がまだ鮮明に嫁ぐ前、高向王の妃であったことがある。その二人の間に生まれたのが弟王子で、斉明は鮮明と再婚するに当たって、この弟王子を連れてきたのでは、とも言われている。ともあれ、現在ではれっきとした中大兄の弟王子であることにちがいはないし、立派な王位継承者でもある。ところが、何故か、禁裏ではこの王子の名を呼ぶことはなく、ただ弟王子と言っているだけなのだ。

倭国は、白村江の戦いで唐に大敗する。

667年3月、中大兄は突如として近江への遷都を決定した。
近江政権は多数の百済亡命高官を政権の中枢に入れるのである。まさしく、唐から派遣されている郭務悰が企図した通り、倭国は新百済国となる。百済国であれば、その国は、新旧を問わず必然的に唐の属国となる。だから、唐に併合されても文句は言えない。戦わずして、倭国を乗っ取るという唐の戦略に乗ってしまったのである。

小角は蓑面寺で、金押実と会う。
金押実は、新羅で第6位の高官。臣下では筆頭の地位。新羅は、唐とことを構えることにしたと、小角に告げる。
唐は百済を倒した後、反転して新羅を討つつもりだと。
やはり、倭国の動静が重要となるのだ。

天智十年(六七一)十一月、いったん唐に帰った郭務悰がやって来た。軍船四十七般、兵月二千人を率いて。
本当は数万を率いて出発したのだが、新羅水軍により壊滅的な打撃を受けて、残った兵ではあった。
郭務悰の軍は、近江朝だけを狙った威嚇の軍勢であった。
この一報は、那ノ大津を守っていた栗隈王から弟王子へ直接届けられた。
栗隈王によって、郭務悰軍は那ノ大津に足止めされる。


大王天智が失踪する。
これは、延暦寺の僧皇円が記した『扶桑略記』 の中の記載である。
皇円は、平安時代の僧で、比叡山の阿閣梨となった高僧であり、彼の弟子には浄土宗の開祖法然がいる。この『扶桑略記』によれば、天智は馬で山階郷に行き、そのまま帰らなかった。山林のどこで崩じられたかは分か
らない。ただ、履いていた沓が落ちていたので、そこを墓とした。場所は、山城国宇治郡山科郷北山だ、というのである。

『日本書紀』では、天智は痛死したことになっている。大海人王子吉野入りの契機となった天智病床の記述は有名である。
天皇は病が重くなり、「私の病は重いので後事をお前に任せたい」云々といわれた。東宮は病と称して、何度も固辞して受けられず、「どうか大業は大后にお授け下さい。そして大友皇子に諸政を行なわせて下さい。私は天皇のために出家して、仏道修行をしたいと思います」といわれた。天皇はこれを許された。
十二月三日、天皇は近江宮で崩御された。十一日、新宮で精した。
となっていて、どこにも天智が山科で行方不明となったことを匂わせる記載はない。
不思議なのは、『日本書紀』に、天智の陵墓の記載がないということ。
『日本書紀』が完成したのは、天智の死後五十年も経っていない。
病没ならば、きちんと陵墓があり、記載されたはず。
そうなれば、遺体もなく死亡したかどうかも定かではない天智の陵墓を造ることは憚られたと考える方が自然だ。

天智陵には、今でも沓塚という異名がある。
たまたま、私の会社が山科に工場があり、よく通った。
京都市営地下鉄東西線をよく利用したが、「御陵(みささぎ)」駅というのがあり、調べてみたら天智天皇の御陵だというので、訪ねたことがある。
とても閑静で、荘厳なところだった。
その時のことは、私のHPに載せてある。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/yamashinagoryou.html

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弟王子(大海人皇子)は、唐から狙われている近江朝廷、ひいては倭国を救うため、大友皇子(弘文天皇)と対決することを決意し、兵を起こす。
壬申の乱で挙兵した大海人が軍を進めた、吉野から宇陀、伊勢、美濃を結ぶラインは、山の民(賀茂族)が支配する、丹砂や鉄、銅の産出する道でもある。
丹生または辰砂とも言い、硫化水銀である。この辰砂は『抱朴子』 にも出てくるように、古代においては不老長生の秘薬として珍重され、古代日本の王たちも血眼になってこれを求めた。古代の壬や豪族の墳墓に、辰砂が用いられているのも、その故であろう。古代の権力者は、死後の再生を願って、遺骸の枕元に辰砂を埋納させた。それほど辰砂は、古代人にとって秘薬だったのである。従って、その価値もまた極めて高かった。
しかし、辰砂の持つ価値は、そればかりではない。辰砂を熟して気化させ、それを水で冷やすと水銀が出来る。水銀は、金や叙、銅などと結合して合金を作る性質を持っている。つまり、それらの鉱石から金、銀、銅を抽出するには、水銀の原材料となる辰砂は欠かすことの出来ない物質なのである。仏教をもって国家の統一を図ろうとする権力者にとって、仏像の効能は大きい。その金色に輝く仏像は、水銀アマルガム法によって、初めて可能になるのである。他にも、贅をつくしたきらびやかな金、銀のメッキ細工も、このアマルガム法によらなければ出来ない。
 不老長生の秘薬であり、同時に大半の金属をたちどころに金銀の色に変えてしまう辰砂こそ、古代にあっては最高の宝であった。

つまり、大変な力を持っている一族を小角が統率して、弟王子(大海人皇子)に協力したので、大友皇子(弘文天皇)に大勝し、大友皇子は自ら首をくくって死ぬ。


そして、天武天皇の時代になるが、ここで小角に災難がふりかかる。
天武は密かに、自分の後継者を大津王子と考えていた。嫡子は、鹿野が生んだ草壁王子であったが、父親の天武に似ず、線が細く神経質なところがあった。それに引き替え、太田の生んだ次子大津は天武に似て、器量・才幹共に勝れ、王者の風格があった。天武はこの大津に後事を託す考えで、天武政権樹立に関わる二つの大事を打ち明けた。一つは、新羅の非公然の協力があって、天式政権が生まれたこと。そして、もう一つは、賀茂(神)の民との密約であった。
 しかし、六八六年、天武は大津を後継者に出来ないまま、崩御してしまった。そして、その一月後に、悲劇が大津を襲った。謀反の罪で謀殺されたのである。
同時に、天武と小角が交わした密約も、消失した。二十数年の努力が、一瞬で泡沫となった。
大王位には、后の鹿野が即いた。持続女帝である。そして、この持続政権に、藤原不比等が加わった。勿論、藤原鎌足の次子であり、日本史上屈指の大政治家となるその不比等である。不比等は、草壁王子とその子軽王子の後見人という重要な地位にいたのである。
不比等は驚くべき秘密を持統天皇から聞かされた。金峰山に住む役小角のことであつた。勝れた呪術者として、不比等もその名を知っていた。ところが何と、この行者の棟梁である小角と先帝天武との間に、驚くべき密約があったらしいというのだ。不確かではあったが、持統は天武の言葉の端々から、そのことを知ったという。
「天武の天下取りに協力した代償として、小角ら山の民に国を与える。その国は、倭国の山全体を版図とする」というのである。

六九七年、持統が孫の文武に譲位した。
翌年、持統の退位を待っていたかのように、不比等は動いた。間人として葛木山に放っていた韓国広足をして、小角を護訴させたのである。『続日本紀』は、そのことを次のように記している。
五月二十四日(文武天皇三年・六九九)、役の行者小角を伊豆嶋に配流した。はじめ小角は葛 木山に住み、呪術をよく使うので有名であった。外従五位下の韓国連広足の師匠であった。
のちに小角の能力が悪いことに使われ、人々を惑わすものであると謹言されたので、遠流の罪に処せられた。
刑部省の役人は、小角を捕らえる先に、先ず茅原村に向かい、母親の白尊女を捕縛した。そして、金峰山の小角の許に人を送り、母親を助けたければ素直に縛につくように命じた。そうでもしなければ、険阻な金峰山の頂上(山上ケ岳) にいる小角を捕まえることは到底出来なかったからだ。

 六九九年五月、小角は従容として縛につき、伊豆大島に流された。
十七歳で葛木山に入り、数々の修行を重ねてきた小角にとって、大島での生活もこれまでと変わることはなかった。小角は、海の見下ろせるこの岩穴に寵もり、金剛蔵王権現の力を借りて、全国に広がっているカスミと交信した。各地の重要なカスミには、小角の念波を受信出来る弟子が配置されていた。彼らと互いに交信しながら、小角はこの大島の岩穴にあって、賀茂の民の民人済度を祈りつづけた。
 いずれにしても、小角はこの大島で三年の流刑生活を終えた。しかし、小角は大和にも吉野にも帰ることはなかった。いや、帰ることが出来なかったというべきであろう。遠流というのは、重い刑である。たとえ刑期を終えたからといって、自分の故郷に戻ることは許されないのだ。大島を出た小角の足は、各地の霊山をカスミとする神の王国へと向かった。数百年もの昔から、賀茂(神) の民が夢見つづけた神の王国を、自分の目で確かめる旅に小角は出た。それは、亡き五鬼童への報告も兼ねていた。大島にあって、毎日のように仰ぎ見た霊峰富士、峨々たる山塊をなす箱根の霊山、それらを手始めに小角は一歩一歩歩を進めていった。
 手にした錫杖が、軽やかな音を立てている。ふと、前鬼の顔が、小角の脳裏に浮かんだ。おそらく、どこかの霊山の奥深くで、天智と共にひっそりと暮らしているにちがいない。ひょっとして、前鬼に逢えるかもしれぬな。
 そう思いながら、小角は嬉しそうに目を細めた。その柔らかな視線の先には、幾重にも重なり合って天を突く神の王国があった。
 役小角の没年は、大宝元年(七〇一) とされている。六十八歳であった。


高尾山をはじめ、役小角の行跡が残っているのは、伊豆大島から許されて帰って諸国を歩いた時だろう。
薬、鉱石、天文、気即法などを極めた小角は、各地で神のように崇められたのは間違いない。

第3番野毛山不動尊・横浜成田山/関東三十六不動霊場

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詳細な記事は、拙ホームページにあります。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/yokohamanaritafudou.html

3月2日に横浜成田山にお参りしてきました。

まず、御本尊の不動明王は理源大師聖宝の御作。
徳川家累代の秘蔵仏であったが、元禄年間成田山中興開祖・照範上人が、徳川家より祈願を懇嘱された際に祈躊の本尊として賜わり、その後塔頭の観音院に奉安されてきたものである。
日米通商条約の締結により港が開かれると、一漁村であった横浜は俄かに発展を見せ、全国各地から押し寄せる移住者を吸収して一躍国際港の街となった。
これら移住者の中には成田不動尊を信奉する東京や千葉の人々が非常に多く、成田山大本山より御分霊をお迎えして朝夕明王の御加護を仰ごうとする熱烈なる念願のもとに、大本山は、明治三年(2870)原口照輪上人を開基として、太田村の普門院境内に遥拝所を設けた。本尊には成田山塔頭・観音院に安置されていた、かの理源大師御作の不動明王像を遷座奉安した。これが当院の開創である。
その後信徒の増加、講社の設立につれ、普門院境内の遥拝所では手狭となった。
『高島易断』で名高い高島嘉右衛門はかねてより成田山の篤信者であったが、此の教会設立の話を聞いて大いに喜び、早速に自らの広大な敷地を寄進した。これが現在の当院の境内であり、通称「野毛山」と呼ばれた。

浮世絵に見る「野毛山の切通し」
昔から、大変な崖地だったことがわかる。
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「桜木町」駅からのんびり歩いても5,6分で入り口に着いてしまいます。
成田山に直行?、バイパスする?階段があります。
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が、水行堂などを見ながら行きたいので、そちらに向かいます。
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入ると、寄進された不動明王などが並んでいる。
どこの溶岩でしょうか、奇岩を使ったものが多い。
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前不動堂、この奥が水行堂で、行者が水垢離をするところ。
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これは「福満弁財天」
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ここに、きれいな鳥が休んでいるのに気が付きました。カワセミ?
糞の様子からして、いつもここに居るようです。
飛び立つところを撮ろうと15分くらい待っていたが、一向に動かないので根負け(笑)
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役行者窟
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傾斜地に36童子が立っていたが、あまり整備されていない感じだった。
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階段を更に上っていくと、石垣が途切れて窟になっており、寄進された不動明王が鎮座。
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こ階段を上がれば、本堂。
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階段の上り口のところに、狛犬ならぬ獅子が。
左には、「子落としの獅子」
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右は、子獅子がもうすぐ近くに居る。
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階段を上がりきって本堂の前で振り返ると、桜木町の町が。昔なら横浜の海が見えたのでしょうが、今はマンションでさえぎられてしまっていますね。
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本堂
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向背の竜
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本尊の不動明王
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ご朱印をいただいた。
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そのあと、間もなく「護摩行」があるというので、ご祈祷に参加させていただきました。

横浜成田山本堂と並んで、いろいろなお堂やお宮さんが並んでいる。
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大師堂の「お大師さま」
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延命地蔵尊
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子育て地蔵尊(萬徳寺)
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寄進された不動明王
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灯台かと思い、近づいてみると「海員悼逝之碑」というものだった。
碑文を読むと、当時の海員倶楽部の所属船員が、維新以来海難に殉じた海員の霊を慰めるため、明治36年に建てたもの。
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題字は伊藤博文の筆によるもの。
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「海員悼逝之碑」の足元に「野毛の七福神」が祀ってあった
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(了)

36 Spices(横浜・桜木町)/カレー

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今日は、関東36不動めぐりで、野毛山不動尊(横浜成田山)に行きました。
例によって、桜木町でカレーの美味しそうなお店あるかな~~と検索したら、このお店が良さそうだったので食べてきました。
お店の名前の通り、36種のスパイスを使ったカレーがあるということで、期待して。
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お店の中は、落ち着いた感じです。
欧風レストランの内装をそのまま利用したのかな?
なんて勘ぐりたくなる(笑)
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ゴチャゴチャ飾ってあるより、私はこのほうが好きですが。

インド人の人がオーダー取りに来ました。
しかし・・・・(汗)
昨夜、ネットで確認した36スパイス入りの「チキン36」とかのメニューが無い!
ランチメニューだけ。

それで、カレーが2種ついて、タンドリーチキンも付いてるセットにしました。
980円
カレーは、チキンと野菜
ナンかライスかどちらかだったので、ナンにしました。
ドリンクはマンゴーラッシーに。

辛さも10段階あるとの情報だったのですが、聞かなかったのでランチセットは普通のレベルで統一しているんじゃないかな。
辛さはホドホドでした。私にはちょうど良かった。

来ました(嬉)
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右がチキンカレー、左が野菜カレー。
チキンカレーは、味に雑味が無いすっきりした感じで、良かった。
野菜カレーは、にんじんやらブロッコリー、じゃがいも等の塊が入っていて美味しかった。
よくある豆が中心の緑色っぽいやつではなくて、色からはにんじんかかぼちゃがベースの感じ。
野菜の甘みがしっかり出てて、もっと辛くても良い感じだった。

タンドリーチキン、スパイスをまわりにビッシリまぶしてある感じでパンチがあります。
そして、ジューシーでした。
美味しかった。

マンゴーラッシーは、とっても濃厚なマーゴージュースの大サービスでした(笑)


で、一応ランチセットに満足して出てきたんですが、やはり36種スパイスのカレーを食べたかった。
もしかしたら、聞いてみたら食べられたのかもしれないと、午後ずっと悔んでました(笑)

今度は、電話してから行こう(笑)


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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