沼田の桜
20120430
昨日、櫻の写真を一日撮ってきました。沼田で「苗代桜」と「シダレ桜」二本の桜を撮り、それから開通したばかりの金精峠を通って日光に出て、輪王寺の「金剛桜」を撮りました。
同行は、全日本写真連盟の副支部長の肩書を持つプロ級の写真愛好家のEさん。去年と今年一緒に市の歴史講座で学んでいる人です。
朝5時に家を出て、関越自動車道で沼田インターまで。ということは、あの大変な事故から1時間後くらいに、対向車線ですが、あの場所を通過したことになります。二人ともまったく気が付かなくて、日光からの帰りにはじめてラジオをつけたので、事故を知りました。
沼田インターから15分くらいで、「苗代桜」につきました。
「発知の苗代桜」
ヒガンザクラ、樹齢500年。
群馬県沼田市中発知町字日影
ちょうど苗代作りのころに咲き始めるので、地元の人たちがそう呼んでいるそうです。
桜の語源は「さ」が稲に宿る神を表し、「くら」は神がよりつく座を意味する。つまり、田の神が集う場が櫻の樹となるわけです。



樹齢500年の幹はすごいですね。


ヒガンザクラの花は細かくてかわいい花です。


逆光で撮りました。

苗代桜の下の道を入って行ったところに桜がたくさん咲いている場所があったので行ってみました。

小さなお寺でした。


ここも桜が満開でした。


仏教5色の旗。幔幕はよく見ますが、このように旗にしているのは珍しい。

石楠花をはじめ、たくさんの花が境内に植えられていました。




「上発知のシダレ桜」
エドヒガン、樹齢不明(幹からして300~400年?)
群馬県 沼田市上発知町
いままでの実績をみると、「苗代桜」よりも一週間くらい遅いので、ダメかなと思っていたが、「苗代桜」のまわりに集まっていたカメラマンの話を聞くと、もう咲いているというので、喜んで移動しました。
塚の上に咲いています。


遠くに雪山が見えるので、カメラマンに人気があるようです。

堂々たる幹です。


樹勢が盛んでいいですね。


樹の下のお地蔵さんがいい感じです。

花はかわいい感じの花です。

遠くの雪山を、アップでとらえてみました。いい感じですね。

沼田の桜を撮り終えて、沼田インターの近くで昼食を食べ終わったのが11:30。同行していたEさんが、冬季は閉鎖される金精峠が27日に開通したそうだから、日光に行こうと言いだしました。
私が今年行きたい桜の一つに、日光輪王寺の「金剛桜」があることを彼は聞いていたからです。
そこには、私は5月4、5日くらいに手くことにしていたので、ちょっと早いよと言いながら、喜んで乗っかりました(笑)
(続く)
櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
同行は、全日本写真連盟の副支部長の肩書を持つプロ級の写真愛好家のEさん。去年と今年一緒に市の歴史講座で学んでいる人です。
朝5時に家を出て、関越自動車道で沼田インターまで。ということは、あの大変な事故から1時間後くらいに、対向車線ですが、あの場所を通過したことになります。二人ともまったく気が付かなくて、日光からの帰りにはじめてラジオをつけたので、事故を知りました。
沼田インターから15分くらいで、「苗代桜」につきました。
「発知の苗代桜」
ヒガンザクラ、樹齢500年。
群馬県沼田市中発知町字日影
ちょうど苗代作りのころに咲き始めるので、地元の人たちがそう呼んでいるそうです。
桜の語源は「さ」が稲に宿る神を表し、「くら」は神がよりつく座を意味する。つまり、田の神が集う場が櫻の樹となるわけです。



樹齢500年の幹はすごいですね。


ヒガンザクラの花は細かくてかわいい花です。


逆光で撮りました。

苗代桜の下の道を入って行ったところに桜がたくさん咲いている場所があったので行ってみました。

小さなお寺でした。


ここも桜が満開でした。


仏教5色の旗。幔幕はよく見ますが、このように旗にしているのは珍しい。

石楠花をはじめ、たくさんの花が境内に植えられていました。




「上発知のシダレ桜」
エドヒガン、樹齢不明(幹からして300~400年?)
群馬県 沼田市上発知町
いままでの実績をみると、「苗代桜」よりも一週間くらい遅いので、ダメかなと思っていたが、「苗代桜」のまわりに集まっていたカメラマンの話を聞くと、もう咲いているというので、喜んで移動しました。
塚の上に咲いています。


遠くに雪山が見えるので、カメラマンに人気があるようです。

堂々たる幹です。


樹勢が盛んでいいですね。


樹の下のお地蔵さんがいい感じです。

花はかわいい感じの花です。

遠くの雪山を、アップでとらえてみました。いい感じですね。

沼田の桜を撮り終えて、沼田インターの近くで昼食を食べ終わったのが11:30。同行していたEさんが、冬季は閉鎖される金精峠が27日に開通したそうだから、日光に行こうと言いだしました。
私が今年行きたい桜の一つに、日光輪王寺の「金剛桜」があることを彼は聞いていたからです。
そこには、私は5月4、5日くらいに手くことにしていたので、ちょっと早いよと言いながら、喜んで乗っかりました(笑)
(続く)
櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
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浅草・待乳山聖天の龍
20120428
ここの謂れが、推古三年九月二十日、浅草寺観世音ご出現の先瑞として一夜のうちに涌現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古九年夏、この地方が大干魃に見舞われた時、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩をお救いあそばされた。これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であると記されているそうです。
それで
ここには龍がたくさん居るのではと、期待したのですが、それほどでもありませんでしたね。
天井画は、さすがに迫力満点。素晴らしかったですね。
手水舎の龍

水盤の龍

本殿天井画
堅山南風画伯揮毫による墨画の龍

それで
ここには龍がたくさん居るのではと、期待したのですが、それほどでもありませんでしたね。
天井画は、さすがに迫力満点。素晴らしかったですね。
手水舎の龍

水盤の龍

本殿天井画
堅山南風画伯揮毫による墨画の龍

隅田川畔ウォーク(3)
20120428
24日に、市の歴史講座OB「歴史クラブ」の催しで、一日隅田川畔を歩いてきました。前回「向島百花園」をアップしましたが、その続きです。
【白髭神社】
天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。

狛犬が、とても良い感じだったので撮ってきましたが、調べてみると文化12年(1815年)吉原の松葉屋半右衛門と山谷の料亭八百善が奉納したものでした。さすが、堂々としていますが、どこかあか抜けしているように感じます。


石碑がまとめて置かれてありましたが、気になったのを撮っておきました。
まず「黒人塚」です。
ひょっとして、幕末とか明治に事件でもあって殺された黒人の? なんてのは、やはり妄想でした(笑)
「浜辺黒人」、北島玄二「うつせみの」の狂歌碑(黒人塚)だそうです。

後ろに立っているのは、四世今日庵「こころほど」の句碑でした。
この碑が気に入ったのですが調べてみると、天広丸「くむ酒は」の狂歌碑でした。

【白髭橋】
これは、江戸時代には無かった橋です。
創架は1914年(大正3年)5月。近在の人々が基金を募って資本金を作り「白鬚橋株式会社」を設立、大正2年4月に着工して約一年で完成した木橋である。長さは一三〇間(約230m)であったと伝えられる。橋に番小屋を置き、大人一人1銭の通行料を取ったが、当時は渡し舟も多く走り、経営は苦しかったという。後に2銭に値上げするも間に合わず橋の維持に支障をきたすようになり、1925年(大正14年)に東京府が買い取り、関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられることとなった。


白髭橋からのスカイツリー

【橋場不動院】
天平宝字四年、奈良東大寺大仏の建立に尽力した良弁僧正が、相州大山寺で、一刀三礼して刻まれた一木三体不動(一本の木で三体の仏像を彫る)の随一と称せられ、悪魔降伏の威想を備え、信ずる者には、必ず霊験を与え給う不可思議の尊像として、古来よりご秘仏としてあがめられています。
江戸時代には橋場寺として、周辺の三条公、有馬侯、池田備前侯等をはじめとする武家屋敷の人々の尊信を集め、現在の本堂は江戸時代の建立で、小堂ながら美しく、江戸時代の特徴をよく現しています。明治末年の大火、関東大震災、戦炎などに、不動院を中心とした橋場の一角だけは、災禍を免がれたことから、「霊験あらたかな火伏せの橋場不動尊」として、信仰の的となっているそうです。


本堂の右前にある樹齢七〇〇年の大銀杏。江戸時代、隅田川往来の目印になったといわれます。江戸時代には、隅田川が交通機関でした。船で行きかう人々が不動院の大銀杏を見て橋場の地を知ったことでしょう。船着き場もあってここから吉原へ向かった人も多くいました。

【隅田川畔】
隅田川をはさんでのスカイツリー。絵になりますね。

堤防の壁に、大きな壁画が色々と飾られていて、楽しかった。
「浅草公園池畔観覧場のにぎわい」
凌雲閣がそびえ、二葉飛行機も飛んでいます。

明治の浮世絵「待乳山雪のたそがれ」

東京真画名所図解「今戸橋 雪」

桜橋という、人と自転車だけの橋があった。

待乳山聖天の向かいに「平成中村座」がかかっていました。

【待乳山聖天(まつちやませいでん)】
推古三年九月二十日、浅草寺観世音ご出現の先瑞として一夜のうちに涌現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古九年夏、この地方が大干魃に見舞われた時、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩をお救いあそばされた。これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であると記されているそうです。

この築地塀が、唯一江戸時代のものだそうです。

本殿

境内各所に巾着と大根が記されています。
大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。 巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを示されたものです。
歓喜天が本尊だけあって、大根が悩ましい(笑)



門前に、「池波正太郎生誕の地」の碑がありました。
時代小説の傑作を生みだしたのは、この地で育ったのが大きいのでしょうね。

また隅田川畔を吾妻橋まで歩きました。
「春のうららの隅田川・・・・」は武島羽衣の作詞ですが、その自筆の碑がありました。
実に美しい文字です。

正岡子規の句碑
「雪の日の隅田は青し都鳥」

桜の枝とスカイツリーの取り合わせの妙。
桜が咲いていれば・・・・・(涙)

吾妻橋にたどりついたところで、解散でした。
地下鉄で帰路につきました。疲れたあ~~
待乳山聖天の龍に続く
【白髭神社】
天暦5年(951)に慈恵大師が関東に下った時に、近江国比良山麓に鎮座する白髭大明神の御分霊をここに祀ったと、社伝の記録は伝えている。当社の御祭神猿田彦大神が、天孫降臨の際に道案内にたたれたという神話より、後世お客様をわが店に案内して下さる神としての信仰が生まれた。

狛犬が、とても良い感じだったので撮ってきましたが、調べてみると文化12年(1815年)吉原の松葉屋半右衛門と山谷の料亭八百善が奉納したものでした。さすが、堂々としていますが、どこかあか抜けしているように感じます。


石碑がまとめて置かれてありましたが、気になったのを撮っておきました。
まず「黒人塚」です。
ひょっとして、幕末とか明治に事件でもあって殺された黒人の? なんてのは、やはり妄想でした(笑)
「浜辺黒人」、北島玄二「うつせみの」の狂歌碑(黒人塚)だそうです。

後ろに立っているのは、四世今日庵「こころほど」の句碑でした。
この碑が気に入ったのですが調べてみると、天広丸「くむ酒は」の狂歌碑でした。

【白髭橋】
これは、江戸時代には無かった橋です。
創架は1914年(大正3年)5月。近在の人々が基金を募って資本金を作り「白鬚橋株式会社」を設立、大正2年4月に着工して約一年で完成した木橋である。長さは一三〇間(約230m)であったと伝えられる。橋に番小屋を置き、大人一人1銭の通行料を取ったが、当時は渡し舟も多く走り、経営は苦しかったという。後に2銭に値上げするも間に合わず橋の維持に支障をきたすようになり、1925年(大正14年)に東京府が買い取り、関東大震災後の震災復興事業の一環として現在の橋に架け替えられることとなった。


白髭橋からのスカイツリー

【橋場不動院】
天平宝字四年、奈良東大寺大仏の建立に尽力した良弁僧正が、相州大山寺で、一刀三礼して刻まれた一木三体不動(一本の木で三体の仏像を彫る)の随一と称せられ、悪魔降伏の威想を備え、信ずる者には、必ず霊験を与え給う不可思議の尊像として、古来よりご秘仏としてあがめられています。
江戸時代には橋場寺として、周辺の三条公、有馬侯、池田備前侯等をはじめとする武家屋敷の人々の尊信を集め、現在の本堂は江戸時代の建立で、小堂ながら美しく、江戸時代の特徴をよく現しています。明治末年の大火、関東大震災、戦炎などに、不動院を中心とした橋場の一角だけは、災禍を免がれたことから、「霊験あらたかな火伏せの橋場不動尊」として、信仰の的となっているそうです。


本堂の右前にある樹齢七〇〇年の大銀杏。江戸時代、隅田川往来の目印になったといわれます。江戸時代には、隅田川が交通機関でした。船で行きかう人々が不動院の大銀杏を見て橋場の地を知ったことでしょう。船着き場もあってここから吉原へ向かった人も多くいました。

【隅田川畔】
隅田川をはさんでのスカイツリー。絵になりますね。

堤防の壁に、大きな壁画が色々と飾られていて、楽しかった。
「浅草公園池畔観覧場のにぎわい」
凌雲閣がそびえ、二葉飛行機も飛んでいます。

明治の浮世絵「待乳山雪のたそがれ」

東京真画名所図解「今戸橋 雪」

桜橋という、人と自転車だけの橋があった。

待乳山聖天の向かいに「平成中村座」がかかっていました。

【待乳山聖天(まつちやませいでん)】
推古三年九月二十日、浅草寺観世音ご出現の先瑞として一夜のうちに涌現した霊山で、その時金龍が舞い降り、この山を守護したことから金龍山と号するようになった。その後、同じく推古九年夏、この地方が大干魃に見舞われた時、十一面観世音菩薩が悲愍の眼を開き、大聖歓喜天と現れたまい、神力方便の御力をもって、この山にお降りになり、天下萬民の苦悩をお救いあそばされた。これがこの山に尊天が鎮座ましました起源であると記されているそうです。

この築地塀が、唯一江戸時代のものだそうです。

本殿

境内各所に巾着と大根が記されています。
大根は身体を丈夫にしていただき、良縁を成就し、夫婦仲良く末永く一家の和合を御加護頂ける功徳を表しています。 巾着は財宝で商売繁盛を表し、聖天さまの信仰のご利益の大きいことを示されたものです。
歓喜天が本尊だけあって、大根が悩ましい(笑)



門前に、「池波正太郎生誕の地」の碑がありました。
時代小説の傑作を生みだしたのは、この地で育ったのが大きいのでしょうね。

また隅田川畔を吾妻橋まで歩きました。
「春のうららの隅田川・・・・」は武島羽衣の作詞ですが、その自筆の碑がありました。
実に美しい文字です。

正岡子規の句碑
「雪の日の隅田は青し都鳥」

桜の枝とスカイツリーの取り合わせの妙。
桜が咲いていれば・・・・・(涙)

吾妻橋にたどりついたところで、解散でした。
地下鉄で帰路につきました。疲れたあ~~
待乳山聖天の龍に続く
隅田川畔ウォーク(2)
20120426
24日に、市の歴史講座OB「歴史クラブ」の催しで、一日隅田川畔を歩いてきましたが、昨日に引き続きアップします。今日は「向島百花園」だけです。
【向島百花園】

ここは、とても良かったですね。本来は二時間くらい撮りまくりたいところでしたが、団体行動の悲しさ、今回は駆け足でした。
シャガ(射干、著莪、胡蝶花)

りんご

「源平桃」
赤、白、赤&白の三色の花を咲かせていました。

熊谷草 (くまがいそう)

八重桜「関山」

「むさしあぶみ」

「ゆきもちそう」

桜草「漁火」

桜草「玉珊瑚」

桜草「御目見得」

桜草「花の筵」

桜草「琴の調」

桜草「糸車」

桜草「紅葉の秋」

桜草「夕栄」

やはりスカイツリーも見えます。

「路地琴」
ひしゃくで水をそそぎ、竹の筒に耳をあてて聴きます。
水琴窟が鉄琴のような澄んだ音だとすると、これは木琴のような音でした。

日本橋石柱
横にあった説明では、「日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える」とありました。

雪中庵梅年句碑
「黄昏や 又ひとり行く 雪の人」

二神石碑「くくのちの神 かやのひめの神」
この二柱の神は古事記上巻にある伊那那岐、伊那那美二神が生んだ神話の中に出てくる神で、久久能智神は木の神、鹿屋比売神は野の神である。

初代河竹新七追善しのぶ塚の碑
刻んである文面は、調べてみると「隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。 明治13年(1880)3月」との事。

芭蕉「春もやや」の句碑
「春もやや けしき ととのう 月と梅 はせを」

「福禄寿尊の碑」
ここ百草園は「墨田川七福神」のうち福禄寿尊をいただいています。

隅田川ウォーク(3)に続く
【向島百花園】

ここは、とても良かったですね。本来は二時間くらい撮りまくりたいところでしたが、団体行動の悲しさ、今回は駆け足でした。
シャガ(射干、著莪、胡蝶花)

りんご

「源平桃」
赤、白、赤&白の三色の花を咲かせていました。

熊谷草 (くまがいそう)

八重桜「関山」

「むさしあぶみ」

「ゆきもちそう」

桜草「漁火」

桜草「玉珊瑚」

桜草「御目見得」

桜草「花の筵」

桜草「琴の調」

桜草「糸車」

桜草「紅葉の秋」

桜草「夕栄」

やはりスカイツリーも見えます。

「路地琴」
ひしゃくで水をそそぎ、竹の筒に耳をあてて聴きます。
水琴窟が鉄琴のような澄んだ音だとすると、これは木琴のような音でした。

日本橋石柱
横にあった説明では、「日本橋の変遷は木橋、石橋、鉄橋と各あるが、石橋時代の模造品と思うが、文字は徳川慶喜と伝える」とありました。

雪中庵梅年句碑
「黄昏や 又ひとり行く 雪の人」

二神石碑「くくのちの神 かやのひめの神」
この二柱の神は古事記上巻にある伊那那岐、伊那那美二神が生んだ神話の中に出てくる神で、久久能智神は木の神、鹿屋比売神は野の神である。

初代河竹新七追善しのぶ塚の碑
刻んである文面は、調べてみると「隅田川よ二面よと歌舞伎にも浄瑠璃にも世にもてはやさるる荵売は、安永四とせ中村座の春狂言に初代中村仲蔵が勤め、前の河竹新七の作なり。そが正本を、ある人より贈られて久しゅう秘蔵せしは、名を嗣ぐ者の幸せと悦びしが、この度ここに埋みて、昔忍ぶの墳と名づけその故よし記しつくるは、隅田川の流れ絶えず伝えて、二面の二つなき功績を、後の世に遺さんとてのわざになんありける。 明治13年(1880)3月」との事。

芭蕉「春もやや」の句碑
「春もやや けしき ととのう 月と梅 はせを」

「福禄寿尊の碑」
ここ百草園は「墨田川七福神」のうち福禄寿尊をいただいています。

隅田川ウォーク(3)に続く
隅田川畔ウォーク(1)
20120425
市の歴史講座OB「歴史クラブ」の催しで、昨日一日隅田川畔を歩いてきました。
吾妻橋から白髭橋の間の両岸です。隅田七福神の場所が中心でした。正月ではないので、今回は七福神については触れないで回りました。
地下鉄浅草駅から地上に出ると吾妻橋です。すぐにスカイツリーがお出迎え。

【吾妻橋】
江戸時代に架設された隅田川の橋としては五番目の橋で、江戸期に架橋された最後の橋でもあった。
江戸時代の300年間に隅田川に架けられた橋は、『千住大橋』、『両国橋』、『新大橋』、『永代橋』、『吾妻橋』 の五橋のみで、多くの町民は不便な渡し船を利用していたわけである。
『吾妻橋』 の名称の由来は諸説ある。
架設当初は 『大川橋』 が正式な橋名であったらしいが、左岸(向島方面) にある 「吾嬬(あづま)神社」 への道筋にあたることから、『吾嬬橋』 とも呼ばれており、これが 『吾妻橋』 に転じたという。
また一説には、幕府押し付けの 『大川橋』 の名称に反発した付近の町民が、江戸の東に位置するこの橋を 『東(あずま)橋』 と呼んでいたからとも伝えられている。
明治 9年(1876) の架け替えの時に、正式に 『吾妻橋』 と命名された。

左岸側の橋のたもとに「あづま地蔵」があった。

そのちょっと上手に「勝阿波守」の銅像が立っていた。
「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたもので、明治維新の際江戸を戦禍から救った恩人である。

隅田川の遊覧船も、ずいぶん格好いいものがあるので驚いた。

隅田公園から牛島神社に歩いて行く途中、スカイツリーが下から全部見える場所があった。

【牛島神社】

縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。本所総鎮守の社として知られています。 また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得たといいます。
スカイツリーと神職さんのツーショット

幾つかあった牛の中で、この牛がよかった。

談洲楼烏亭焉馬の狂歌碑
「いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹」

談洲楼烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
八重桜がきれいでした。

【三囲(みめぐり)神社】

宇迦之御魂神を祀る。旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。
元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀した。
日比翁助/石垣の歌碑
「いしがきの 小石大石持ち合ひて 御代は ゆるがぬ 松ヶ枝の色」

日比翁助は三越呉服店の会長、近代的百貨店の創始者である。
俳人宝井其角の句碑
「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」

三柱鳥居
三井邸より移したもので、原型は京都太秦・木嶋神社にあるそうです。

三柱鳥居の向かいには、三本足の柱を持つ屋根のついた手水鉢がありました。

三囲神社の灯ろうの火袋には三つの穴があいています。


コンコンさん
享和2年(1802)の奉納
目じりのさがった温和な表情を、ここいら辺では「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。

ライオン像
神社境内の狛犬のそばにライオン像がおかれている。三越百貨店の入り口に置かれているものと同じ像で、2009年に三越から奉納された。かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社からの申し出により、三越と強い縁を持っている事から実現した。

【長命寺周辺】
長命寺は、境内が保育園になっており、「保育中なので立ち入り禁止」となっていて入れませんでした。
長命寺桜もち
桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(1717年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。 その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。 これが江戸に於ける桜もちの始まりです。

正岡子規仮寓の地の説明板があった。

それによると、正岡子規は向島周辺の景色を好み、大学予備門の学生だった時期、長命寺桜もち「山本や」の二階を3ケ月ほど借り、自ら「月香楼」と名付けて滞在、句を詠んだそうである。
墨堤植桜の碑
隅田川の桜は、家綱、吉宗の将軍が植えさせたのと、隅田村の村民の努力ですが、それを榎本武揚の篆額、
濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻で由来を記したものです。

浮世絵などの、当時の絵で説明した説明版もあった。

野口雨情の「都鳥の詩」
「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」

「言問団子桟橋」というのがあった。

名にしおはばいざ言問はん都鳥
我が思ふ人はありやなしやと
隅田川の都鳥はユリカモメだそうです。撮って帰って、はたしてこれがそうかと調べました。
夏羽と冬羽が混ざった状態ですね。

隅田川ウォーク(2)に続く
吾妻橋から白髭橋の間の両岸です。隅田七福神の場所が中心でした。正月ではないので、今回は七福神については触れないで回りました。
地下鉄浅草駅から地上に出ると吾妻橋です。すぐにスカイツリーがお出迎え。

【吾妻橋】
江戸時代に架設された隅田川の橋としては五番目の橋で、江戸期に架橋された最後の橋でもあった。
江戸時代の300年間に隅田川に架けられた橋は、『千住大橋』、『両国橋』、『新大橋』、『永代橋』、『吾妻橋』 の五橋のみで、多くの町民は不便な渡し船を利用していたわけである。
『吾妻橋』 の名称の由来は諸説ある。
架設当初は 『大川橋』 が正式な橋名であったらしいが、左岸(向島方面) にある 「吾嬬(あづま)神社」 への道筋にあたることから、『吾嬬橋』 とも呼ばれており、これが 『吾妻橋』 に転じたという。
また一説には、幕府押し付けの 『大川橋』 の名称に反発した付近の町民が、江戸の東に位置するこの橋を 『東(あずま)橋』 と呼んでいたからとも伝えられている。
明治 9年(1876) の架け替えの時に、正式に 『吾妻橋』 と命名された。

左岸側の橋のたもとに「あづま地蔵」があった。

そのちょっと上手に「勝阿波守」の銅像が立っていた。
「勝海舟の銅像を建てる会」から墨田区に寄贈されたもので、明治維新の際江戸を戦禍から救った恩人である。

隅田川の遊覧船も、ずいぶん格好いいものがあるので驚いた。

隅田公園から牛島神社に歩いて行く途中、スカイツリーが下から全部見える場所があった。

【牛島神社】

縁起によると、貞観(859-879)のころ慈覚大師が一草庵で須佐之男命の権現である老翁に会い、「師わがために一宇の社を建立せよ、若し国土に騒乱あらば、首に牛頭を戴き、悪魔降伏の形相を現わし、天下安全の守護たらん」との託宣により建立したと伝え、牛御前社と呼ぶようになったとも伝えます。また「江戸名所図会」では、牛島の出崎に位置するところから、牛島の御崎と称えたのを、御前と転称したものであろうと説明しています。本所総鎮守の社として知られています。 また、由緒によると、治承4年(1180)伊豆に旗上げした頼朝が、敗れて房州に逃れ、再挙して隅田川を渡る際には、千葉介常胤が当社に祈願してことなきを得たといいます。
スカイツリーと神職さんのツーショット

幾つかあった牛の中で、この牛がよかった。

談洲楼烏亭焉馬の狂歌碑
「いそかすは(がずば) 濡れまし物と 夕立の あとよりはるる 堪忍の虹」

談洲楼烏亭焉馬は本名中村利貞、字は英祝、通称は和泉屋和助です。寛保3年(1743)生まれ、本所相生町5丁目(現緑1丁目)の大工の棟梁で狂歌や戯文をよくする文化人としても有名でした。談洲楼の号は五世市川団十郎と義兄弟の契りを結んだことから団十郎をもじったもの、また竪川に住むことから立川焉馬、職業が大工であることから「鑿釿言墨曲尺」とも号しました。
八重桜がきれいでした。

【三囲(みめぐり)神社】

宇迦之御魂神を祀る。旧村社(現在はかつての小梅村にあたる地区にあるが、旧地は須崎村にあったと推測されている)。元、田中稲荷と称した。創立年代は不詳。伝によれば、近江国三井寺の僧源慶が当地に遍歴して来た時、小さな祠のいわれを聞き、社壇の改築をしようと掘ったところ、壺が出土した。その中に、右手に宝珠を、左手にイネを持ち、白狐に跨った老爺の神像があった。このとき、白狐がどこからともなく現れ、その神像の回りを回って死んだ。三囲の名称はここに由来するという。
元禄6年(1693年)、旱魃の時、俳人其角が偶然、当地に来て、地元の者の哀願によって、この神に雨乞いする者に代わって、「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」と一句を神前に奉ったところ、翌日、降雨を見た。このことからこの神社の名は広まり、京都の豪商三井氏が江戸に進出すると、その守護神として崇め、三越の本支店に分霊を奉祀した。
日比翁助/石垣の歌碑
「いしがきの 小石大石持ち合ひて 御代は ゆるがぬ 松ヶ枝の色」

日比翁助は三越呉服店の会長、近代的百貨店の創始者である。
俳人宝井其角の句碑
「遊(ゆ)ふた地や田を見めくりの神ならは」

三柱鳥居
三井邸より移したもので、原型は京都太秦・木嶋神社にあるそうです。

三柱鳥居の向かいには、三本足の柱を持つ屋根のついた手水鉢がありました。

三囲神社の灯ろうの火袋には三つの穴があいています。


コンコンさん
享和2年(1802)の奉納
目じりのさがった温和な表情を、ここいら辺では「みめぐりのコンコンさんみてぇだ」と言ったそうである。

ライオン像
神社境内の狛犬のそばにライオン像がおかれている。三越百貨店の入り口に置かれているものと同じ像で、2009年に三越から奉納された。かつては池袋三越店頭に設置されていたもので、同店の閉店に伴い、神社からの申し出により、三越と強い縁を持っている事から実現した。

【長命寺周辺】
長命寺は、境内が保育園になっており、「保育中なので立ち入り禁止」となっていて入れませんでした。
長命寺桜もち
桜もちの由来は、当店の創業者山本新六が享保二年(1717年、大岡越前守忠相が町奉行になった年)に土手の桜の葉を樽の中に塩漬けにして試みに桜もちというものを考案し、向島の名跡・長命寺の門前にて売り始めました。 その頃より桜の名所でありました隅田堤(墨堤通り)は花見時には多くの人々が集い桜もちが大いに喜ばれました。 これが江戸に於ける桜もちの始まりです。

正岡子規仮寓の地の説明板があった。

それによると、正岡子規は向島周辺の景色を好み、大学予備門の学生だった時期、長命寺桜もち「山本や」の二階を3ケ月ほど借り、自ら「月香楼」と名付けて滞在、句を詠んだそうである。
墨堤植桜の碑
隅田川の桜は、家綱、吉宗の将軍が植えさせたのと、隅田村の村民の努力ですが、それを榎本武揚の篆額、
濱邨大澥の撰文、宮亀年の彫刻で由来を記したものです。

浮世絵などの、当時の絵で説明した説明版もあった。

野口雨情の「都鳥の詩」
「都鳥さへ夜長のころは水に歌書く夢も見る」

「言問団子桟橋」というのがあった。

名にしおはばいざ言問はん都鳥
我が思ふ人はありやなしやと
隅田川の都鳥はユリカモメだそうです。撮って帰って、はたしてこれがそうかと調べました。
夏羽と冬羽が混ざった状態ですね。

隅田川ウォーク(2)に続く
龍/ボストン展
20120423
現在、上野の国立博物館で開催している「ボストン美術館 日本美術の至宝」展については、この間記事にしています。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-932.html
私がこの美術展を見に飛んで行ったのは、曽我蕭白の龍が出展されていたからですが、その他にも龍が登場していたので、まとめて紹介します。
「騎龍弁天/橋本雅邦」
弁天は、智恵と技芸、財宝の神として広く民衆に親しまれてきたが、本来の河神としての性格から龍と結び付けられてきている。

「龍虎図屏風/長谷川等伯」


「仙境・蕭史・弄玉図/狩野養信」
簫(しょう)を手にし、龍、鳳凰に乗る男女は蕭史と弄玉。
春秋時代、秦の君主である穆公は、簫の名手であった蕭史と自分の娘の弄玉を結婚させた。弄玉は蕭史から簫を習ううち、鳳凰の鳴き声を真似て吹けるようになり、その音色を問いた鳳凰が現れた。穆公が建てた鳳楼で二人はしばらく暮らし、弄玉は鳳凰に乗り、粛史は龍に乗り昇天したという。本図はこの故事にちなむ「吹簫引鳳図」のバリエーションで、長寿富貴や夫婦和合の吉祥画題となっている。



「雲龍図/曽我蕭白」
もともとは、8面からなる襖絵だったが、胴体部分を描いた4面が失われている。
頭部

拡大

尾の部分

http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-932.html
私がこの美術展を見に飛んで行ったのは、曽我蕭白の龍が出展されていたからですが、その他にも龍が登場していたので、まとめて紹介します。
「騎龍弁天/橋本雅邦」
弁天は、智恵と技芸、財宝の神として広く民衆に親しまれてきたが、本来の河神としての性格から龍と結び付けられてきている。

「龍虎図屏風/長谷川等伯」


「仙境・蕭史・弄玉図/狩野養信」
簫(しょう)を手にし、龍、鳳凰に乗る男女は蕭史と弄玉。
春秋時代、秦の君主である穆公は、簫の名手であった蕭史と自分の娘の弄玉を結婚させた。弄玉は蕭史から簫を習ううち、鳳凰の鳴き声を真似て吹けるようになり、その音色を問いた鳳凰が現れた。穆公が建てた鳳楼で二人はしばらく暮らし、弄玉は鳳凰に乗り、粛史は龍に乗り昇天したという。本図はこの故事にちなむ「吹簫引鳳図」のバリエーションで、長寿富貴や夫婦和合の吉祥画題となっている。



「雲龍図/曽我蕭白」
もともとは、8面からなる襖絵だったが、胴体部分を描いた4面が失われている。
頭部

拡大

尾の部分

ハンバーグカレー/麹町・サロン・ド・カッパ
20120420
ここには10日に行ったのですが、アップが遅れました。
このお店は、なにかのテレビ番組です。レポートの内容が気に入ったので店名をメモしておいて、今回食べてみました。
地下鉄麹町駅を出て南側すぐのところに、あります。
お店の名前が「サロン・・・・」というのが,お店を見てなるほどと思いました。ガラス貼りで明るくて、ちょっとしたギャラリーのような内装です。



ここは夜はイタリア料理屋、昼はカレー屋という珍しいスタイルのお店です。
何でもこちらのオーナーシェフが昔勤めていた店で出していたカレーが好評で、いずれまた出したいと思っていたそうです。新しくオーナーシェフとしてこちらの店をオープンした際に、そのカレーをランチで出そうという事で、このようなスタイルになったとか。
メニューには、特製ビーフカレー、ゴーダチーズカレー、旬野菜カレー、ハムカツカレー、豚ロースかつカレーなどの定番のほかにも、ホタテ貝柱カレー、日替りカレー、ロコモコカレー、ミックスカレーなどなかなか面白そうなカレーがメニューに並んでいました。
テレビに取り上げられるのがわかります。これだと人気があるでしょう。
私は、ちょうど12時ジャストの数分前に着いたのですんなりと座れましたが、それから近くの会社務めらしい女性が大勢詰めかけて来ましたから。
で、今回チョイスしたのが「ハンバーグカレー」
余談ですが、私は数年前までハンバーグを外で食べたことがありませんでした。
料理もシンプルなのが好きで、肉ならステーキか、焼き肉、すき焼きだと。
ところが3~5年前くらいに、出張が多くて、こっちで仕事終わってから新幹線で名古屋とか京都に移動して、向こうで朝から仕事することが毎週くらいにあって。
そのときに品川で駅弁を買って新幹線に乗るのですが、品川の「エキナカ」で売っていた「デミグラスハンバーグ弁当」を一度買ったらやみつきになって、それに近くの店で売っている「生春巻き」と共に食べることが多くなって、ハンバーグに対する認識が変わりました。
今回選んだのは、「ハンバーグカレー」って食べたことが無かったから(笑)

カレーは本当にルーが黒い。ふわっと香る匂いはデミグラスソースのようで、それにカレーが混ざってる感じ。
ルーをはかなり香ばしいですが、スパイス感はそれほど強くありません。
問題のハンバーグは柔らかくてジューシーというよりは、とてもプチプチした肉団子のような感じで、食べごたえありましたね。
ビーフシチューのソースを彷彿とさせる、洋食風なカレーでした。
お店の雰囲気も良いし、カレーは美味しいし、いろいろなカレーを楽しみに通いたくなりましたね。
このお店は、なにかのテレビ番組です。レポートの内容が気に入ったので店名をメモしておいて、今回食べてみました。
地下鉄麹町駅を出て南側すぐのところに、あります。
お店の名前が「サロン・・・・」というのが,お店を見てなるほどと思いました。ガラス貼りで明るくて、ちょっとしたギャラリーのような内装です。



ここは夜はイタリア料理屋、昼はカレー屋という珍しいスタイルのお店です。
何でもこちらのオーナーシェフが昔勤めていた店で出していたカレーが好評で、いずれまた出したいと思っていたそうです。新しくオーナーシェフとしてこちらの店をオープンした際に、そのカレーをランチで出そうという事で、このようなスタイルになったとか。
メニューには、特製ビーフカレー、ゴーダチーズカレー、旬野菜カレー、ハムカツカレー、豚ロースかつカレーなどの定番のほかにも、ホタテ貝柱カレー、日替りカレー、ロコモコカレー、ミックスカレーなどなかなか面白そうなカレーがメニューに並んでいました。
テレビに取り上げられるのがわかります。これだと人気があるでしょう。
私は、ちょうど12時ジャストの数分前に着いたのですんなりと座れましたが、それから近くの会社務めらしい女性が大勢詰めかけて来ましたから。
で、今回チョイスしたのが「ハンバーグカレー」
余談ですが、私は数年前までハンバーグを外で食べたことがありませんでした。
料理もシンプルなのが好きで、肉ならステーキか、焼き肉、すき焼きだと。
ところが3~5年前くらいに、出張が多くて、こっちで仕事終わってから新幹線で名古屋とか京都に移動して、向こうで朝から仕事することが毎週くらいにあって。
そのときに品川で駅弁を買って新幹線に乗るのですが、品川の「エキナカ」で売っていた「デミグラスハンバーグ弁当」を一度買ったらやみつきになって、それに近くの店で売っている「生春巻き」と共に食べることが多くなって、ハンバーグに対する認識が変わりました。
今回選んだのは、「ハンバーグカレー」って食べたことが無かったから(笑)

カレーは本当にルーが黒い。ふわっと香る匂いはデミグラスソースのようで、それにカレーが混ざってる感じ。
ルーをはかなり香ばしいですが、スパイス感はそれほど強くありません。
問題のハンバーグは柔らかくてジューシーというよりは、とてもプチプチした肉団子のような感じで、食べごたえありましたね。
ビーフシチューのソースを彷彿とさせる、洋食風なカレーでした。
お店の雰囲気も良いし、カレーは美味しいし、いろいろなカレーを楽しみに通いたくなりましたね。
東京国立博物館/「ボストン美術館・日本美術の至宝」展
20120418
4月14日(土)に行ってきました。

まず「第一章 仏のかたち 神のすがた」です。
いろいろな画像、仏像が展示されていましたが、その中から一点紹介。
弥勒菩薩立像/快慶作

「第二章 海を渡った二大絵巻」
これは面白かった。
「吉備大臣入唐絵巻」
この部分は、高殿に幽閉されて待たされている吉備大臣が、阿倍仲麻呂の幽鬼の案内で超能力で楼閣を抜け出し、宮殿で検討中の試験問題を盗み聞きする場面。

このように、説明がされていて、わかりやすく楽しめた。

「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」
その部分。牛車の車輪が回転していて、迫力ある画になっている。

「第三章 静寂と輝き 中世水墨画と初期狩野派」
なかには、良いなと思った画があったが、ここでは省略。
「第四章 華ひらく近世絵画」
長谷川等伯の「竜虎図」は、別途龍の絵を集めて紹介。
俵屋宗達、尾形光琳など良いものがあったが、ここでは省略。
伊藤若冲の「十六羅漢図」があった。部分を紹介。

「第五章 曽我蕭白」
これを楽しみにしていたのだ。とにかく、シニカルなまなざしとやさしいユーモアが共存する不思議な絵である。
「龐居士・霊昭女図屏風(見立て久米仙人)」
龐居士は中国唐代の隠者であるが、川で洗濯をする娘の足に気を取られ法力をうしなった久米仙人の逸話に通じて描いている。


「朝比奈首曳図屏風」
腰に大きな岩を括り付けた青鬼と、体を紅潮させた武者が首引きの力比べをしている。

「商山四皓図屏風」
中国始皇帝による圧政と国乱をさけるため、商山に遁世した四人の公、学者を描いたもの。
部分

「虎渓三笑図屏風」
僧・慧遠は、俗世に繋がるとして三十余年も寺から虎渓橋より外に出なかったが、詩人の陶淵明と道士の陸修静が訪問した際、見送るときに話に夢中になってこれを渡り越し、虎の鳴声で気づいて三人で大笑したという図である。
部分

「酔李白図屏風」
詩人李白が、玄宗皇帝が楊貴妃との舟遊びに李白を呼び出そうとしたが、酒家にて酔っていて船に乗らない図である。
部分

「第六章 アメリカ人を魅了した日本のわざ 刀剣と染織」
いま「居眠り磐音 江戸双紙」を読み進んでいるが、その10巻で主人公の磐音の愛刀「包平」が、斬り合いで刃こぼれをしてしまい、砥ぎに出す。
で、脇差だけの姿で今津屋に行くと主の吉衛門が、今津屋に借金のかたに持ち込まれてそのままになっている刀が蔵にたくさんあるので貸してくれるという。その中から磐音が長い時間をかけて選び出した一剣は、備前長船長義だった。
この展示会でも「備前長船」は3点出品されていたが、残念ながら「長義」は無かったが、この「兼光」は長さも大太刀の部類で磐音が選んだものを彷彿とさせた。

展示会を見終わってお腹がペコペコ。本館横のホテルオークラレストランで昼食。
その後、桜の時期に公開される庭園を楽しみにしていたのだが、この日はあいにくの雨で公開は中止。
本館の常設展も櫻にちなんだ面白い企画をしていたので、本館も見て歩いた。

本館の広いこと、迷路なこと(笑)。
クタクタになりました。けど、かなり面白かった。

まず「第一章 仏のかたち 神のすがた」です。
いろいろな画像、仏像が展示されていましたが、その中から一点紹介。
弥勒菩薩立像/快慶作

「第二章 海を渡った二大絵巻」
これは面白かった。
「吉備大臣入唐絵巻」
この部分は、高殿に幽閉されて待たされている吉備大臣が、阿倍仲麻呂の幽鬼の案内で超能力で楼閣を抜け出し、宮殿で検討中の試験問題を盗み聞きする場面。

このように、説明がされていて、わかりやすく楽しめた。

「平治物語絵巻 三条殿夜討巻」
その部分。牛車の車輪が回転していて、迫力ある画になっている。

「第三章 静寂と輝き 中世水墨画と初期狩野派」
なかには、良いなと思った画があったが、ここでは省略。
「第四章 華ひらく近世絵画」
長谷川等伯の「竜虎図」は、別途龍の絵を集めて紹介。
俵屋宗達、尾形光琳など良いものがあったが、ここでは省略。
伊藤若冲の「十六羅漢図」があった。部分を紹介。

「第五章 曽我蕭白」
これを楽しみにしていたのだ。とにかく、シニカルなまなざしとやさしいユーモアが共存する不思議な絵である。
「龐居士・霊昭女図屏風(見立て久米仙人)」
龐居士は中国唐代の隠者であるが、川で洗濯をする娘の足に気を取られ法力をうしなった久米仙人の逸話に通じて描いている。


「朝比奈首曳図屏風」
腰に大きな岩を括り付けた青鬼と、体を紅潮させた武者が首引きの力比べをしている。

「商山四皓図屏風」
中国始皇帝による圧政と国乱をさけるため、商山に遁世した四人の公、学者を描いたもの。
部分

「虎渓三笑図屏風」
僧・慧遠は、俗世に繋がるとして三十余年も寺から虎渓橋より外に出なかったが、詩人の陶淵明と道士の陸修静が訪問した際、見送るときに話に夢中になってこれを渡り越し、虎の鳴声で気づいて三人で大笑したという図である。
部分

「酔李白図屏風」
詩人李白が、玄宗皇帝が楊貴妃との舟遊びに李白を呼び出そうとしたが、酒家にて酔っていて船に乗らない図である。
部分

「第六章 アメリカ人を魅了した日本のわざ 刀剣と染織」
いま「居眠り磐音 江戸双紙」を読み進んでいるが、その10巻で主人公の磐音の愛刀「包平」が、斬り合いで刃こぼれをしてしまい、砥ぎに出す。
で、脇差だけの姿で今津屋に行くと主の吉衛門が、今津屋に借金のかたに持ち込まれてそのままになっている刀が蔵にたくさんあるので貸してくれるという。その中から磐音が長い時間をかけて選び出した一剣は、備前長船長義だった。
この展示会でも「備前長船」は3点出品されていたが、残念ながら「長義」は無かったが、この「兼光」は長さも大太刀の部類で磐音が選んだものを彷彿とさせた。

展示会を見終わってお腹がペコペコ。本館横のホテルオークラレストランで昼食。
その後、桜の時期に公開される庭園を楽しみにしていたのだが、この日はあいにくの雨で公開は中止。
本館の常設展も櫻にちなんだ面白い企画をしていたので、本館も見て歩いた。

本館の広いこと、迷路なこと(笑)。
クタクタになりました。けど、かなり面白かった。
第18番目黒不動尊・瀧泉寺/関東36不動めぐり
20120416
目黒不動には、4月10日に行ってきたのですが、櫻の写真アップなどの関係で延び延びののアップとなりました。
順番を後回しにして、目黒川の桜を楽しみながらの参拝としました。
JR目黒駅から「行人坂」を下って、太鼓橋を渡っていき、駅から約1Kmのところにあります。
門前には、歌舞伎や芝居で有名な「白井権八」と彼が処刑された後彼の墓前で後追い心中した「遊女小紫」の比翼塚があります。

目黒不動の開基は、天台座主第三祖・慈覚大師円仁です。大同三年(808)大師がまだ十五歳の時、師の広智阿閣梨に伴われて比叡山へ登る途中、目黒の地に立寄り、その夜に不動明王の霊夢を感じ、自らその尊像を彫刻して安置したのに始まります。
大師は比叡山へ登って伝教大師最澄の弟子となり天台の教義を研究されていたが、承和五年(838)唐に渡り求法の旅を続けること十年。或る日、長安の青龍寺に詣でて本尊の不動明王の尊像を拝すると、かつて目黒の霊夢に現れた御姿に酷似しているのに驚き、不思議な奇瑞に感涙咽んだという。
帰朝して伝灯大法師位を授けられ、天台座主第三祖となったが、その後再び目黒の地に下り、堂宇の建設に着手しました。
大師はまず堂宇建設の敷地を定めるに当たり、所持の独鈷を投じた。すると、落ちた処に瀧泉が忽ち湧き出し、大師はこれを「独鈷の滝」と称しました。
仁王門

仁王さんは、頑丈な針金のため、よく姿がわからない。


仁王さんの裏側には「唐犬」がいます。


仁王門をくぐると、「男坂」の階段ですが、その横に「鷹居の松」があります。
ある時、徳川三代将軍家光公が、この地で鷹狩りをした際、その鷹が行方知らずになり、不動尊に祈念したところ、たちまち鷹が飛び帰り、この松にとまった。家光はその威力を深く尊信する。現在は二代目の「鷹居の松」が植えられています。

「男坂」の階段を上りきると、狛犬が居ます。


本堂


本尊の不動明王(秘仏として十二年に一度、酉年御開帳)

いただいたご朱印

本堂の裏に大日如来が鎮座してます。


境内には、本尊のほかにも色々なお不動さんがあります。
「前不動堂」


「独鈷の滝」

今なお千百有余年絶えず湧出しており、数十日も旱天が続いても、滝の水は滑れることなく、開山以来、満々と漲り落ちて不動行者の洗心浄魂の場とされている。現在、この滝場に、身代わりとなって水を浴びて下さる「水かけ不動明王」が勧請されています。

「石不動」


「山不動(腰立不動)」

「護衛不動尊」

納経所


青木昆陽(甘藷先生)の碑
この寺の墓地に、さつまいもを広めた青木昆陽の墓があり、境内には記念碑が立っている。


「十五夜お月さん」「赤とんぼ」などの作曲家「本居長世」の碑

大きな鈴懸の樹(プラタナス)がありました。櫻と一緒に。

順番を後回しにして、目黒川の桜を楽しみながらの参拝としました。
JR目黒駅から「行人坂」を下って、太鼓橋を渡っていき、駅から約1Kmのところにあります。
門前には、歌舞伎や芝居で有名な「白井権八」と彼が処刑された後彼の墓前で後追い心中した「遊女小紫」の比翼塚があります。

目黒不動の開基は、天台座主第三祖・慈覚大師円仁です。大同三年(808)大師がまだ十五歳の時、師の広智阿閣梨に伴われて比叡山へ登る途中、目黒の地に立寄り、その夜に不動明王の霊夢を感じ、自らその尊像を彫刻して安置したのに始まります。
大師は比叡山へ登って伝教大師最澄の弟子となり天台の教義を研究されていたが、承和五年(838)唐に渡り求法の旅を続けること十年。或る日、長安の青龍寺に詣でて本尊の不動明王の尊像を拝すると、かつて目黒の霊夢に現れた御姿に酷似しているのに驚き、不思議な奇瑞に感涙咽んだという。
帰朝して伝灯大法師位を授けられ、天台座主第三祖となったが、その後再び目黒の地に下り、堂宇の建設に着手しました。
大師はまず堂宇建設の敷地を定めるに当たり、所持の独鈷を投じた。すると、落ちた処に瀧泉が忽ち湧き出し、大師はこれを「独鈷の滝」と称しました。
仁王門

仁王さんは、頑丈な針金のため、よく姿がわからない。


仁王さんの裏側には「唐犬」がいます。


仁王門をくぐると、「男坂」の階段ですが、その横に「鷹居の松」があります。
ある時、徳川三代将軍家光公が、この地で鷹狩りをした際、その鷹が行方知らずになり、不動尊に祈念したところ、たちまち鷹が飛び帰り、この松にとまった。家光はその威力を深く尊信する。現在は二代目の「鷹居の松」が植えられています。

「男坂」の階段を上りきると、狛犬が居ます。


本堂


本尊の不動明王(秘仏として十二年に一度、酉年御開帳)

いただいたご朱印

本堂の裏に大日如来が鎮座してます。


境内には、本尊のほかにも色々なお不動さんがあります。
「前不動堂」


「独鈷の滝」

今なお千百有余年絶えず湧出しており、数十日も旱天が続いても、滝の水は滑れることなく、開山以来、満々と漲り落ちて不動行者の洗心浄魂の場とされている。現在、この滝場に、身代わりとなって水を浴びて下さる「水かけ不動明王」が勧請されています。

「石不動」


「山不動(腰立不動)」

「護衛不動尊」

納経所


青木昆陽(甘藷先生)の碑
この寺の墓地に、さつまいもを広めた青木昆陽の墓があり、境内には記念碑が立っている。


「十五夜お月さん」「赤とんぼ」などの作曲家「本居長世」の碑

大きな鈴懸の樹(プラタナス)がありました。櫻と一緒に。

第9巻「「遠霞の峠」

この巻での大きな出来事は、一つは吉原の太夫選び。遊女三千人の吉原に、太夫と認められた花魁が居たのは宝暦年間(1751~64)まで。それで新しい太夫を三人選ぶことになった。前評判では三浦屋の当代高尾、松葉屋の揚羽、そして丁子屋の白鶴(奈緒)である。
もう一つは、深川の長屋暮らしの師匠である、鰻捕りの幸吉がいよいよ鰻屋「宮戸川」に奉公に出る。ところが早々に釣り銭騙りに会い、被害にあった店のうち奉公に来たばかりの娘が身投げするという死者まで出る騒ぎになり、やはり磐音が解決する事件となる。
いま一つは豊後関前藩の再起をかけた物産を積んだ借り上げ弁才船が初めて江戸に向かう。おりしも紀州灘から遠州灘にかけて春嵐が荒れて、沈没する船も出る。豊後関前藩の物産は、いかに・・・・??
そして江戸では江戸家老利高と、磐音の父が取り立てた者があろうことか策謀を図って物産商いの実権を握ろうとする陰謀が進んでいた。
そしてまた、磐音はやくざの借金取りの用心棒で青梅まで出かけることになる。ところがその先があって秩父で娘を買って江戸に戻る用心棒も引き受ける羽目に。これをおこんが知ったら・・・・??
磐音の身辺では、妹伊代の婿となった井筒源太郎が藩主実高の江戸入りに同行してきて磐音と初めて会う。
源太郎は、磐音が関前藩の再起に大きい役割を果たしていること、磐音への藩主実高の信頼が篤いことに驚く。また江戸で見聞して、もはや今津屋のような商人衆がこの世を動かしている事を思い知らされる。
磐音がやくざの借金取りの用心棒で秩父まで行くのだが、通った道が「青梅道」で甲州裏街道あるいは甲州脇往還と称されいる。慶長11年(1606)に江戸城大増築が完成したが、その折青梅の石灰を大量に必要とし、代官大久保長安が運送がうまくいくよう整備したものだという。
この巻で、「札差」がいかにして巨額の富手に入れたのかの説明があった。札差は、知行地から上がる禄米や蔵米取りの旗本御家人に成り代わって換金する仕事である。しかしこの手数料ではさほど儲かるわけがない。旗本御家人相手の金融によって稼いだのだ。武家相手の貸し借りは町民相手よりも危険が伴うとして、利息が年2割、仲介手数料が1割五分、合わせて三割五分以上の利息を旗本御家人は払わねばならなかった。
これで札差は、どんどん儲けていったのだ。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは5回だったが、対する流派は、「鹿島神伝流」を名乗る者が二人。それだけで、あとの三名は流派が書かれていない。
種切れか??
第10巻「朝虹ノ島」

この巻での大きな出来事は、一つは江戸城の石垣の修理に美作国津山藩が行うことになるが、津山藩に資金を用立てする今津屋も豆州熱海の石切場下見に同行することになり、磐音も依頼を受けて同行する。品川柳二郎と竹村武左衛門も一緒である。
この石の切り出しの仕事を独占して自分の懐を肥やそうとする腹黒い人物が策謀をめぐらし、いろいろな騒動が持ち上がる。この事件で、将軍家治の御側衆速水左近の力を借りることになる。
いま一つは両国東広小路の見世物で大力の姉妹の見世物があったが、妹が若侍にたぶらかされて行方がわからなくなる。以前助けてやった矢場「金的銀的」の親方から磐音に相談があり、調べてみると他にも何人か娘芸人が行方不明になっていることがわかり、事件となる。
いま一つは、たまたま通りがかりに一人の武士が多数の武士に囲まれ討たれようとしているのを磐音が助ける。その武士は女性が扮装していて、因幡鳥取藩三十二万石のお家騒動であった。この女侍に頼まれて磐音は活躍することになるが、長屋の名主金兵衛さんによると、「女難」の相が出ていると喝破される。
しかし女難といってみても、この小説には濡れ場なんてものは皆無である(笑)
それが清々しいこと、この上なしなのだが、一方では私のような者には、ちと物足りないのだが(笑)
泉養寺境内の古杉の下で、愛刀包平にて、直心影流の形を丹念になぞる場面があるが、八相、一刀両断、右転左転、長短一味、龍尾、面影、鉄破、松風、早船とある。
私は剣道には疎いので、どんな型かと調べてみたら、下記のサイトに丁寧に型の写真つきで説明がされていた。
http://www.kashimashindenjikishinkageryu.com/kata.html
磐音の愛刀は「包平」という名刀だが、包平は備前三平の、助平、高平とともに備前の三名刀鍛冶であり、後鳥羽上皇の御帯刀を鍛えた名工である。磐音の使っているのは二尺七寸の「大包平」と言われる長刀の部類の由。それが、この巻の斬り合いで刃こぼれをしてしまい、砥ぎに出す。
で、脇差だけの姿で今津屋に行くと主の吉衛門が、今津屋に借金のかたに持ち込まれてそのままになっている刀が蔵にたくさんあるので貸してくれるという。その中から磐音が長い時間をかけて選び出した一剣は、備前長船長義が鍛造したもの。この剣は越前の大名家が長年保有していた逸品であり、長義は正宗十哲の一人という。
江戸城が築かれた頃、真鶴から稲取海岸にかけての界隈で、小松石がたくさん切り出され、海上輸送で江戸に運ばれた。江戸城が完成した後も、伊豆山、熱海、多賀、網代、初島のあちこちで石が採取され、江戸の町屋建設に使われたという。
私がよく遊びに行ったのは城ケ崎海岸のあたりだが、あそこの岩場も巨岩がゴロゴロしていたのを思い出し、さもありなんと思った。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは、「心鏡流」、「関口流抜刀術」、「東軍一刀流」、「林崎夢想流」、「富田信流」である。

この巻での大きな出来事は、一つは吉原の太夫選び。遊女三千人の吉原に、太夫と認められた花魁が居たのは宝暦年間(1751~64)まで。それで新しい太夫を三人選ぶことになった。前評判では三浦屋の当代高尾、松葉屋の揚羽、そして丁子屋の白鶴(奈緒)である。
もう一つは、深川の長屋暮らしの師匠である、鰻捕りの幸吉がいよいよ鰻屋「宮戸川」に奉公に出る。ところが早々に釣り銭騙りに会い、被害にあった店のうち奉公に来たばかりの娘が身投げするという死者まで出る騒ぎになり、やはり磐音が解決する事件となる。
いま一つは豊後関前藩の再起をかけた物産を積んだ借り上げ弁才船が初めて江戸に向かう。おりしも紀州灘から遠州灘にかけて春嵐が荒れて、沈没する船も出る。豊後関前藩の物産は、いかに・・・・??
そして江戸では江戸家老利高と、磐音の父が取り立てた者があろうことか策謀を図って物産商いの実権を握ろうとする陰謀が進んでいた。
そしてまた、磐音はやくざの借金取りの用心棒で青梅まで出かけることになる。ところがその先があって秩父で娘を買って江戸に戻る用心棒も引き受ける羽目に。これをおこんが知ったら・・・・??
磐音の身辺では、妹伊代の婿となった井筒源太郎が藩主実高の江戸入りに同行してきて磐音と初めて会う。
源太郎は、磐音が関前藩の再起に大きい役割を果たしていること、磐音への藩主実高の信頼が篤いことに驚く。また江戸で見聞して、もはや今津屋のような商人衆がこの世を動かしている事を思い知らされる。
磐音がやくざの借金取りの用心棒で秩父まで行くのだが、通った道が「青梅道」で甲州裏街道あるいは甲州脇往還と称されいる。慶長11年(1606)に江戸城大増築が完成したが、その折青梅の石灰を大量に必要とし、代官大久保長安が運送がうまくいくよう整備したものだという。
この巻で、「札差」がいかにして巨額の富手に入れたのかの説明があった。札差は、知行地から上がる禄米や蔵米取りの旗本御家人に成り代わって換金する仕事である。しかしこの手数料ではさほど儲かるわけがない。旗本御家人相手の金融によって稼いだのだ。武家相手の貸し借りは町民相手よりも危険が伴うとして、利息が年2割、仲介手数料が1割五分、合わせて三割五分以上の利息を旗本御家人は払わねばならなかった。
これで札差は、どんどん儲けていったのだ。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは5回だったが、対する流派は、「鹿島神伝流」を名乗る者が二人。それだけで、あとの三名は流派が書かれていない。
種切れか??
第10巻「朝虹ノ島」

この巻での大きな出来事は、一つは江戸城の石垣の修理に美作国津山藩が行うことになるが、津山藩に資金を用立てする今津屋も豆州熱海の石切場下見に同行することになり、磐音も依頼を受けて同行する。品川柳二郎と竹村武左衛門も一緒である。
この石の切り出しの仕事を独占して自分の懐を肥やそうとする腹黒い人物が策謀をめぐらし、いろいろな騒動が持ち上がる。この事件で、将軍家治の御側衆速水左近の力を借りることになる。
いま一つは両国東広小路の見世物で大力の姉妹の見世物があったが、妹が若侍にたぶらかされて行方がわからなくなる。以前助けてやった矢場「金的銀的」の親方から磐音に相談があり、調べてみると他にも何人か娘芸人が行方不明になっていることがわかり、事件となる。
いま一つは、たまたま通りがかりに一人の武士が多数の武士に囲まれ討たれようとしているのを磐音が助ける。その武士は女性が扮装していて、因幡鳥取藩三十二万石のお家騒動であった。この女侍に頼まれて磐音は活躍することになるが、長屋の名主金兵衛さんによると、「女難」の相が出ていると喝破される。
しかし女難といってみても、この小説には濡れ場なんてものは皆無である(笑)
それが清々しいこと、この上なしなのだが、一方では私のような者には、ちと物足りないのだが(笑)
泉養寺境内の古杉の下で、愛刀包平にて、直心影流の形を丹念になぞる場面があるが、八相、一刀両断、右転左転、長短一味、龍尾、面影、鉄破、松風、早船とある。
私は剣道には疎いので、どんな型かと調べてみたら、下記のサイトに丁寧に型の写真つきで説明がされていた。
http://www.kashimashindenjikishinkageryu.com/kata.html
磐音の愛刀は「包平」という名刀だが、包平は備前三平の、助平、高平とともに備前の三名刀鍛冶であり、後鳥羽上皇の御帯刀を鍛えた名工である。磐音の使っているのは二尺七寸の「大包平」と言われる長刀の部類の由。それが、この巻の斬り合いで刃こぼれをしてしまい、砥ぎに出す。
で、脇差だけの姿で今津屋に行くと主の吉衛門が、今津屋に借金のかたに持ち込まれてそのままになっている刀が蔵にたくさんあるので貸してくれるという。その中から磐音が長い時間をかけて選び出した一剣は、備前長船長義が鍛造したもの。この剣は越前の大名家が長年保有していた逸品であり、長義は正宗十哲の一人という。
江戸城が築かれた頃、真鶴から稲取海岸にかけての界隈で、小松石がたくさん切り出され、海上輸送で江戸に運ばれた。江戸城が完成した後も、伊豆山、熱海、多賀、網代、初島のあちこちで石が採取され、江戸の町屋建設に使われたという。
私がよく遊びに行ったのは城ケ崎海岸のあたりだが、あそこの岩場も巨岩がゴロゴロしていたのを思い出し、さもありなんと思った。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは、「心鏡流」、「関口流抜刀術」、「東軍一刀流」、「林崎夢想流」、「富田信流」である。
目黒川の桜
20120411
昨日、目黒に行ってきました。例によって「関東36不動めぐり」なんですが、順番からいうと、とっくに済んでいないといけないんですが、目黒川の桜が咲いているときに行こうと、とってあったんです(笑)
JR目黒駅から、行人坂を下ると目黒川の太鼓橋です。
太鼓橋は約250年前、大喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が、資材を出し合って宝暦14年(1764)から6年の歳月を経て完成した。このアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、安藤広重が「江戸名所百景-目黒太鼓橋夕日の岡」として描いている。
橋のたもとに大きな椎の木があるが、前述の広重の絵の中にも描かれているものだ。
黒くツブれてしまっているが、手前に椎の木が入ってます。

現在の太鼓橋

太鼓橋から、ちょっとズームして「新目黒橋」を。
こちらは、広重の絵を意識した形だ。

太鼓橋から上流を望む

川沿いに、櫻を見ながら歩く


川沿いの道が、見事な桜のトンネルになっていて、実に気持ちがいい。


櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
JR目黒駅から、行人坂を下ると目黒川の太鼓橋です。
太鼓橋は約250年前、大喰上人が造り始め、後に江戸八丁堀の商人達が、資材を出し合って宝暦14年(1764)から6年の歳月を経て完成した。このアーチ形の石橋は江戸の中でも他に例がなく、安藤広重が「江戸名所百景-目黒太鼓橋夕日の岡」として描いている。
橋のたもとに大きな椎の木があるが、前述の広重の絵の中にも描かれているものだ。
黒くツブれてしまっているが、手前に椎の木が入ってます。

現在の太鼓橋

太鼓橋から、ちょっとズームして「新目黒橋」を。
こちらは、広重の絵を意識した形だ。

太鼓橋から上流を望む

川沿いに、櫻を見ながら歩く


川沿いの道が、見事な桜のトンネルになっていて、実に気持ちがいい。


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坂戸・慈眼寺しだれ桜
20120409
埼玉県坂戸市中小坂285
シダレ桜、樹齢約250年
今年の「一本桜」行脚の最初の桜です。
ここの桜は、このあいだまで知らなかったのですが、「聖天宮」を見に行ったときに、チラシが置いてあり、知りました。
ちょっと遅いかなと思いながら、今日行ってみたら満開からちょっと過ぎたくらいで、ちょうど良い感じでした。
このお寺は説明によると、慈眼寺(ジゲンジ)は初代法印可説和尚により安土桃山時代、慶長年間には既に開基されたものと思われます。
真言宗智山派のお寺で、第十代法流開基(中興開山とも言う)隆章(リュウショウ)和尚が宝暦五年(1755)住職としてその任につき現在の堂宇境内等教化の道場として整備された様です。
この頃に植えられたとの、言い伝えがあるそうで、それによると樹齢が約250年ということになります。












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シダレ桜、樹齢約250年
今年の「一本桜」行脚の最初の桜です。
ここの桜は、このあいだまで知らなかったのですが、「聖天宮」を見に行ったときに、チラシが置いてあり、知りました。
ちょっと遅いかなと思いながら、今日行ってみたら満開からちょっと過ぎたくらいで、ちょうど良い感じでした。
このお寺は説明によると、慈眼寺(ジゲンジ)は初代法印可説和尚により安土桃山時代、慶長年間には既に開基されたものと思われます。
真言宗智山派のお寺で、第十代法流開基(中興開山とも言う)隆章(リュウショウ)和尚が宝暦五年(1755)住職としてその任につき現在の堂宇境内等教化の道場として整備された様です。
この頃に植えられたとの、言い伝えがあるそうで、それによると樹齢が約250年ということになります。












櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
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つるデンティベス
20120408

系統:クライミングローズ(CL)
作出国:アメリカ
作出年:1935年
交配親:デンティベスの枝変わり
咲き方:一季咲き(返り咲き)
花の大きさ:大輪
芳香の強さ:微香
芳香の種類:スパイシー系
この薔薇を撮ったときに、メモしてきたのが「デンティベス」だったので、名前から調べて「木立性ハイブリットティ」だということで、一旦は記事にしちゃったのですが、すぐに私よりも薔薇に詳しいJさんの書き込みで、神代植物園での咲いていた場所から「つるデンティベス」だとわかりました。
記事を作っている時に、「ハイブリット・ティ?」と気が付けば良かったのですが(汗)
紅紫の雄しべが美しいクレマチスにも似た花形です。
香りは、スパイシーなツンとする香りでした。
夜には花弁を閉じるそうです。だから「眠る薔薇」という人もいます。
一重のバラですが、大きな花で、とっても華やかです。
神代植物園のバラ園で写真を撮っていて、棚仕立てのところにこれがあって、「なんだ、これは」と驚いたのを覚えています。
2006年6月 神代植物園にて
櫻行脚
20120404
初めて、山梨県にある樹齢2000年の「山高神代桜」を見てから、
いわゆる「一本桜」の「名桜」と呼ばれる桜を中心に桜行脚が始まりました。
桜の季節が短いため、想うようには会えていませんが、
これまで会った桜の一覧をホームページに整理しました。
写真としてはホームページのほうが見栄えがあります。
が、ホームページのほうは容量制限があって、枚数に限りがあります。
つらいところです。
このブログのカテゴリー「写真(櫻行脚)」のほうが櫻周辺も含めての情報は豊かです。
どちらも一長一短ありますので、どちらでも楽しんでください。
ホームページの「櫻行脚」トップページ
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
なお今年も、どの櫻に会いにいこうかと色々と計画を楽しんでいます。
随時アップしていきますので、ご期待ください。
いわゆる「一本桜」の「名桜」と呼ばれる桜を中心に桜行脚が始まりました。
桜の季節が短いため、想うようには会えていませんが、
これまで会った桜の一覧をホームページに整理しました。
写真としてはホームページのほうが見栄えがあります。
が、ホームページのほうは容量制限があって、枚数に限りがあります。
つらいところです。
このブログのカテゴリー「写真(櫻行脚)」のほうが櫻周辺も含めての情報は豊かです。
どちらも一長一短ありますので、どちらでも楽しんでください。
ホームページの「櫻行脚」トップページ
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
なお今年も、どの櫻に会いにいこうかと色々と計画を楽しんでいます。
随時アップしていきますので、ご期待ください。
富士/広重「東海道五十三次」
20120403
昨夜、BSの番組「謎解き 江戸のススメ」で、江戸から見えた富士山を取り上げていた。
当然日本橋からの富士山も取り上げられた。
で、広重の浮世絵の図版を取り出して眺めていたのだが、この「東海道五十三次」にどれだけ富士山が登場するのだろうかと抜き出してみたら、「保永堂版」、「隷書版」合わせて18枚あった。
それを紹介しておこうと思います。
ちょっと画像を大きくしたら、右側が隠れてしまっています(汗)
クリックすれば全体を見ることが出来ます。
隷書版「日本橋」

保永堂版「川崎 六郷渡舟」

隷書版「戸塚」

保永堂版「平塚 縄手道」

保永堂版「箱根 湖水図」

隷書版「沼津」

保永堂版「原 朝之富士」

隷書版「原」
図に描かれるのは、次の吉原宿との間にある一本松立場付近。この辺りからの富士の眺めは東海道随一との聞こえが高かった。

保永堂版「吉原 左富士」
東海道を江戸から京に上る際、富士は常に右側に見えているのだが、吉原宿の東で道が大きく湾曲していて、一時的に富士山が左側に見える。

隷書版「吉原」
これは江戸に下がる一行で一時的に右側に富士が見える図となっている。

隷書版「蒲原」
富士川舟渡しの図

保永堂版「由井 薩埵嶺」

隷書版「興津」

隷書版「江尻」
画面下の松が茂っているところが三保松原である。ここに「羽衣の松」がある。

隷書版「嶋田」
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われた難所、大井川の川越しの様子である。

保永堂版「舞坂 今切真景」
今切とは、明応七年(1498)の地震で浜名湖の湖畔が切れ、遠州灘とつながった場所をさす。地震以後、舞坂宿と荒井宿の間は船渡しとなり、「今切の渡し」と呼ばれた。

隷書版「荒井」

隷書版「御油」
愛知県豊川市御油町、江戸日本橋から数えて35番目の宿駅。宿場はずれの古街道本野が原の情景で、北条泰時の命により、柳が多く植えられたという場所。
ここが富士が描かれた最遠の地である。

(了)
当然日本橋からの富士山も取り上げられた。
で、広重の浮世絵の図版を取り出して眺めていたのだが、この「東海道五十三次」にどれだけ富士山が登場するのだろうかと抜き出してみたら、「保永堂版」、「隷書版」合わせて18枚あった。
それを紹介しておこうと思います。
ちょっと画像を大きくしたら、右側が隠れてしまっています(汗)
クリックすれば全体を見ることが出来ます。
隷書版「日本橋」

保永堂版「川崎 六郷渡舟」

隷書版「戸塚」

保永堂版「平塚 縄手道」

保永堂版「箱根 湖水図」

隷書版「沼津」

保永堂版「原 朝之富士」

隷書版「原」
図に描かれるのは、次の吉原宿との間にある一本松立場付近。この辺りからの富士の眺めは東海道随一との聞こえが高かった。

保永堂版「吉原 左富士」
東海道を江戸から京に上る際、富士は常に右側に見えているのだが、吉原宿の東で道が大きく湾曲していて、一時的に富士山が左側に見える。

隷書版「吉原」
これは江戸に下がる一行で一時的に右側に富士が見える図となっている。

隷書版「蒲原」
富士川舟渡しの図

保永堂版「由井 薩埵嶺」

隷書版「興津」

隷書版「江尻」
画面下の松が茂っているところが三保松原である。ここに「羽衣の松」がある。

隷書版「嶋田」
「箱根八里は馬でも越すが越すに越されぬ大井川」と唄われた難所、大井川の川越しの様子である。

保永堂版「舞坂 今切真景」
今切とは、明応七年(1498)の地震で浜名湖の湖畔が切れ、遠州灘とつながった場所をさす。地震以後、舞坂宿と荒井宿の間は船渡しとなり、「今切の渡し」と呼ばれた。

隷書版「荒井」

隷書版「御油」
愛知県豊川市御油町、江戸日本橋から数えて35番目の宿駅。宿場はずれの古街道本野が原の情景で、北条泰時の命により、柳が多く植えられたという場所。
ここが富士が描かれた最遠の地である。

(了)