トワイス・インナ・ブルームーン
20120529

系統:ハイブリッドティー
作出: 2003年 Tantau ドイツ
「ブルームーン」(1964年作出)の後継品種として同じくタンタウ(Tantau)社によって作出されたバラです。
そんなわけで、「ブルームーンの再来」というような名前がついているようです。
私が薔薇の写真にのめりこんだのは、最相葉月さんの「青いバラ」という本を読んだのがきっかけでした。遺伝子が含まれていない為不可能とされていた「青いバラ」に少しでも近いものを造ろうとする人たちの努力を描いた本でしたが、薔薇の歴史も知ることが出来たすごい本でしたね。
その本で世界に誇る「ミスター・ローズ」故・鈴木省三さんのことも知りました。
青みがかった薄紫色のバラです。 神秘的できれいな色ですね。
2011.5.25 生田緑地ばら苑 にて
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等々力不動尊の龍
20120527
関東36不動めぐりで、等々力不動尊には5月7日に行ってきました。
その時の記事は下記にしてあります。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-955.html
ここにある龍を紹介します。
手水鉢の龍




本堂の入り口にも龍の彫刻があります。

残念ながら中央の龍は、鰐口が邪魔して見えません。可哀想。

向かって左側の龍

向かって右側の龍

下に下りて、等々力渓谷のところにある茶店「雪月花」

ここの庭先に湧水の落とし口に龍頭がありました。


「不動尊利剣の瀧」は二条の滝ですが、それぞれが龍頭から出るようになっています。

向かって左側の滝の龍頭、何か変だぞ?

横から見てわかりました。先の方が欠けてしまっていますね。

向かって右側の滝の龍頭。草でかくれんぼです。

辛うじて、どんな形化はわかりました。

(了)
その時の記事は下記にしてあります。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-955.html
ここにある龍を紹介します。
手水鉢の龍




本堂の入り口にも龍の彫刻があります。

残念ながら中央の龍は、鰐口が邪魔して見えません。可哀想。

向かって左側の龍

向かって右側の龍

下に下りて、等々力渓谷のところにある茶店「雪月花」

ここの庭先に湧水の落とし口に龍頭がありました。


「不動尊利剣の瀧」は二条の滝ですが、それぞれが龍頭から出るようになっています。

向かって左側の滝の龍頭、何か変だぞ?

横から見てわかりました。先の方が欠けてしまっていますね。

向かって右側の滝の龍頭。草でかくれんぼです。

辛うじて、どんな形化はわかりました。

(了)
ドロシー・パーキンス
20120524
第17番・等々力不動尊・明王院/関東36不動めぐり
20120521
ここには、5月7日に行きました。バタバタしていて、やっとアップです。
東急大井町線等々力駅から歩いて650mです。
山門から入ります。

境内は青々として気持ちのいいところでした。

本堂

当山の不動尊は役の行者の御作になる。役の行者は修験道の開祖で、大和を中心に山岳修験の行を極めていたが、その行の中で不動明王を刻まれた。
以来、大和にあって大きな霊験で尊崇を集めていた。
平安時代の末、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人の夢にこのお不動様のお告げがあった。「武蔵野国、調布の陵に結縁の地がある。永くその地に留まり衆生を済度せん。」
覚鑁上人は夢のお告げに従い、お不動様を背負って東国へ向かった。やがて武蔵野国に入ると、夢に見たのと同じ渓谷が目の前に広がった。瑞雲がたなびき嶺をおおう正しく霊地である。
覚鎮上人が手に持っていた錫杖で岩を穿つと、そこから清らかな滝が溢れ、その水しぶきの中に金色に輝く三十六童子が現れた。 上人はその中央に、奉持していたお不動様を安置されたのである。
と、由緒には書かれているが、「新編武蔵風土記稿」によると、「字小山にあり、境内満願寺領なり。本尊はなし、今は幣束を立て祭れり。」とあり、どうも役の行者由来の不動明王は失われているようである。
ちなみに「関東36不動霊場公式ガイドブック」には、後述の「不動の瀧」の上の不動明王の写真を載せている。
ご朱印をいただいた。

大師堂

懸崖造りの舞台がある。

弁天堂

不動尊利剣の瀧、等々力渓谷に下りていく。

途中に、神変窟がある。

役行者を祀っている「神変窟」

「神変窟」の上に奉納された不動明王が安置されている。


下まで降りると、茶店「雪月花」があり、喉の渇きを癒やした。

「不動尊利剣の瀧」の手前にお地蔵さんと観音さまがあった。いずれも綺麗なお姿であった。

「不動尊利剣の瀧」

二条の不動滝があり、今も行者が朝夕白衣を着て滝にうたれている姿を見かけるという。
普は相当な水量があったらしく爆音が轟いたので「トドロキ」の地名が生まれたとの伝説がある。
瀧の上に不動明王が安置されている。

不動尊利剣の瀧の横に、「稲荷祠」と「不動祠」がある。


等々力渓谷にかかる橋が、こちら側からの参道の始まりとなる。
正面に「不動尊利剣の瀧」、その横に、「稲荷祠」と「不動祠」

川をはさんで、等々力不動の反対側に「稚児大師」が安置されている。

のんびりと、等々力渓谷沿いに歩いた。


湧水が豊富で、このようにしているところがあった。

整備されているので野趣は無いが、実に歩いていて気持ちのいい場所だった。

(了)
東急大井町線等々力駅から歩いて650mです。
山門から入ります。

境内は青々として気持ちのいいところでした。

本堂

当山の不動尊は役の行者の御作になる。役の行者は修験道の開祖で、大和を中心に山岳修験の行を極めていたが、その行の中で不動明王を刻まれた。
以来、大和にあって大きな霊験で尊崇を集めていた。
平安時代の末、真言宗中興の祖、興教大師覚鑁上人の夢にこのお不動様のお告げがあった。「武蔵野国、調布の陵に結縁の地がある。永くその地に留まり衆生を済度せん。」
覚鑁上人は夢のお告げに従い、お不動様を背負って東国へ向かった。やがて武蔵野国に入ると、夢に見たのと同じ渓谷が目の前に広がった。瑞雲がたなびき嶺をおおう正しく霊地である。
覚鎮上人が手に持っていた錫杖で岩を穿つと、そこから清らかな滝が溢れ、その水しぶきの中に金色に輝く三十六童子が現れた。 上人はその中央に、奉持していたお不動様を安置されたのである。
と、由緒には書かれているが、「新編武蔵風土記稿」によると、「字小山にあり、境内満願寺領なり。本尊はなし、今は幣束を立て祭れり。」とあり、どうも役の行者由来の不動明王は失われているようである。
ちなみに「関東36不動霊場公式ガイドブック」には、後述の「不動の瀧」の上の不動明王の写真を載せている。
ご朱印をいただいた。

大師堂

懸崖造りの舞台がある。

弁天堂

不動尊利剣の瀧、等々力渓谷に下りていく。

途中に、神変窟がある。

役行者を祀っている「神変窟」

「神変窟」の上に奉納された不動明王が安置されている。


下まで降りると、茶店「雪月花」があり、喉の渇きを癒やした。

「不動尊利剣の瀧」の手前にお地蔵さんと観音さまがあった。いずれも綺麗なお姿であった。

「不動尊利剣の瀧」

二条の不動滝があり、今も行者が朝夕白衣を着て滝にうたれている姿を見かけるという。
普は相当な水量があったらしく爆音が轟いたので「トドロキ」の地名が生まれたとの伝説がある。
瀧の上に不動明王が安置されている。

不動尊利剣の瀧の横に、「稲荷祠」と「不動祠」がある。


等々力渓谷にかかる橋が、こちら側からの参道の始まりとなる。
正面に「不動尊利剣の瀧」、その横に、「稲荷祠」と「不動祠」

川をはさんで、等々力不動の反対側に「稚児大師」が安置されている。

のんびりと、等々力渓谷沿いに歩いた。


湧水が豊富で、このようにしているところがあった。

整備されているので野趣は無いが、実に歩いていて気持ちのいい場所だった。

(了)
寄居北条まつり(2)
20120515
首藤久美子さんの「創作琵琶曲 大福(おふく)御前」に酔いしれて、演奏が終わると、ちょうど武者行列がさしかかりました。

たくましい馬ですね。当時の馬はこういった感じだったと思います。

ちょっと一休み(笑)

こんな人も。そばにコスプレの少女たちが数人いましたが、それは撮るのは遠慮しました。

また河原に向かう途中、ちょっと時間があったのと、気になったので入ってみました。

「京亭」という旅館が解放されていたのですが、浅草オペラの創始者であり、「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」などの作曲家「佐々紅華」がここを永住の地と定めて、自ら図を引いて建てたそうです。
それが、その後一時は某宮家の邸宅となったりしましたが、現在は「鮎の宿 京亭」となっているそうです。
建物も庭も素晴らしいです。

野点ても行われていました。

庭の池泉も洒落た造りでした。

いまの石橋の上に立つと、玉淀河原の眺めが綺麗です。

ちょうどタイミングよく、お琴の演奏を聴くことができました。

そろそろ合戦が始まるよということで、玉淀河原に行きました。
武者の皆さんも思い思いにスタンバイです。

一番右の人が手に持っているのが、大砲の火薬です。

各軍団もスタンバイ


砲撃戦が始まりました。
先ほどの火薬を、入れ子にセットして砲口から入れて火縄に火をつけるとズドン!! です。
大砲は丸太に穴を開けたものですが、けっこう派手な音と煙で迫力がありましたね。
一門で30発くらいは撃ったのではないでしょうか。
ずいぶん派手に撃っていて、なかなか楽しかったです。


舟が置いてあるなと思っていたのですが、花火の仕掛けでした。こちらも派手に上げていました。

まずは武者の一騎打ちからはじまりました。

それから「○○軍団、かかれっ」とかの号令で軍団同士の戦いですが、場所取りが遠かったので何がなんだかわかりません(泣)



これはいかんと、ちょっと時間がたってから場所を移動しました。
が、すでに人が一杯で思うようにカメラを構えられない(泣)
なんとか撮れたのが、これ。

やがて、合戦も終わりに近づいたようで。


今年初めて行ったので、合戦のときには完全に場所取りに失敗しました。
様子がわかったので、来年は合戦の場面は迫力ある写真を撮ろうと思いながら引き揚げてきました。
でも、琵琶の演奏、お琴の演奏、名勝「玉淀河原」など楽しみが一杯だったし、市の歴史講座で知り合った仲間11人で行ったのですが、皆さん満足したのではないでしょうか。
(了)

たくましい馬ですね。当時の馬はこういった感じだったと思います。

ちょっと一休み(笑)

こんな人も。そばにコスプレの少女たちが数人いましたが、それは撮るのは遠慮しました。

また河原に向かう途中、ちょっと時間があったのと、気になったので入ってみました。

「京亭」という旅館が解放されていたのですが、浅草オペラの創始者であり、「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」などの作曲家「佐々紅華」がここを永住の地と定めて、自ら図を引いて建てたそうです。
それが、その後一時は某宮家の邸宅となったりしましたが、現在は「鮎の宿 京亭」となっているそうです。
建物も庭も素晴らしいです。

野点ても行われていました。

庭の池泉も洒落た造りでした。

いまの石橋の上に立つと、玉淀河原の眺めが綺麗です。

ちょうどタイミングよく、お琴の演奏を聴くことができました。

そろそろ合戦が始まるよということで、玉淀河原に行きました。
武者の皆さんも思い思いにスタンバイです。

一番右の人が手に持っているのが、大砲の火薬です。

各軍団もスタンバイ


砲撃戦が始まりました。
先ほどの火薬を、入れ子にセットして砲口から入れて火縄に火をつけるとズドン!! です。
大砲は丸太に穴を開けたものですが、けっこう派手な音と煙で迫力がありましたね。
一門で30発くらいは撃ったのではないでしょうか。
ずいぶん派手に撃っていて、なかなか楽しかったです。


舟が置いてあるなと思っていたのですが、花火の仕掛けでした。こちらも派手に上げていました。

まずは武者の一騎打ちからはじまりました。

それから「○○軍団、かかれっ」とかの号令で軍団同士の戦いですが、場所取りが遠かったので何がなんだかわかりません(泣)



これはいかんと、ちょっと時間がたってから場所を移動しました。
が、すでに人が一杯で思うようにカメラを構えられない(泣)
なんとか撮れたのが、これ。

やがて、合戦も終わりに近づいたようで。


今年初めて行ったので、合戦のときには完全に場所取りに失敗しました。
様子がわかったので、来年は合戦の場面は迫力ある写真を撮ろうと思いながら引き揚げてきました。
でも、琵琶の演奏、お琴の演奏、名勝「玉淀河原」など楽しみが一杯だったし、市の歴史講座で知り合った仲間11人で行ったのですが、皆さん満足したのではないでしょうか。
(了)
寄居北条まつり(1)
20120514

昨日、埼玉県寄居町で行われる「寄居北条まつり」に行ってきました。
河原で合戦の再現が行われることを知ったので、それを見るのを楽しみにしていたのです。
ここには、荒川の流れを見下ろす形で「鉢形城」があったのですが、ちょっと説明しておきます。
鉢形城の歴史
鉢形城は、蛇行する荒川の流れに削られ、切り立った岸壁の上に築かれた多くの郭を持つ城郭です。
いつ築かれたかは明らかではありません。鉢形に陣をはった平将門を追って源経基が鉢形城に入ったという記録や畠山重忠が居城したという伝説がありますが、文明8年(1476年)に長尾景春が主家の山内上杉顕定に叛いて、鉢形城に拠点を構えたのが資料として明らかな最初の出来事・長尾景春の乱です。
この乱を鎮めたのは、扇谷上杉家の家宰を務めていた太田道灌でした。荒川の上流から兵を乗せた筏を流し、岸壁の下に着いた兵士が岩の壁をよじ登り城兵を慌てさせたといいます。
長尾景春の乱が治まった後は山内上杉氏の勢力下に入りました。
しかし、天文15年(1546年)にあったとされる河越夜戦で上杉方が北条氏康に敗れると、山内上杉氏の家臣で鉢形城の城主であった藤田重利は氏康の三男氏邦を娘の大福の婿に迎え、北条氏の体制に組み込まれる事になりました。氏邦は当初長瀞町の天神山城に入りましたが、永禄3年(1560年)には鉢形城を改修し居城としました
北條まつりについて
鉢形城は、戦国時代、豊臣秀吉の全国制覇に最後まで抗した小田原の北条氏の配下にあり、北条早雲から三代目の氏康の三男氏邦が守っていました。守兵は3500名。
この城を攻めた豊臣秀吉軍は、前田利家・上杉景勝・島田利正、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍、実に5万の兵でした。
北条方は、それに良く耐え、1ケ月の攻防戦を繰り広げたといわれます。
「北条まつり」は、これを再現しようという祭りです。
10時に寄居駅に着き、とりあえず会場の河原に向かうと、早や河原に集結する軍団と一緒に歩くことになりました。

途中、イベント会場の「北条華舞台」を通りかかると、ちょうど信州上田の「真田陣太鼓」が演奏していたので、これを聞きました。
なかなか勇壮な演奏で、気分が高まりました。



会場の玉淀河原です。

大砲もたくさん並べてあります。対岸の上に鉢形城がありました。

対岸にも陣地ができています。

東松山太鼓が演奏されていましたが、続々と武者が集まってきます。

取材する人も、陣笠をかぶって。

合戦の進行の相談でしょうか?

居合のすえもの切を見せてくれるようです。


実に見事な腕前でした。


どんどん武者が集まってきます。

外人さんも参加していますね。

かわいい女武者もいました。

おぉ! 武田信玄公もお出ましです(笑)

見事な甲冑です。

いずみ保育園の、ちびっこ忍者隊です。

お父さんが武将、お母さんは雑兵、子供は・・・・・??

楽しみにしていた琵琶の演奏が12:15からあるので、一旦河原からイベント会場の「北条華舞台」に行きました。タイミングよく一番前の席に座ることが出来てラッキーでした(嬉)
演奏してくれたのは首藤久美子さんという薩摩琵琶では若手の実力者です。
この日首藤久美子さん作詞作曲の「創作琵琶曲 大福(おふく)御前」を初演してくれました。
大福(おふく)御前というのは、北条氏邦の奥方です。
鉢形城を攻撃した豊臣方の藤田信吉(上杉景勝勢の先鋒)は弟であった。大福御前は寄せ手の弟を介して城兵の安全を図った。このため多くの城兵の命が助けられたといわれる。彼女は北条氏邦を追って自刃する。

演奏のかたわら、首藤さんが琵琶の構造、演奏方法を説明してくれたのは、とてもよかった。

美しい琵琶です、薩摩琵琶特有の大きなバチは柘植製とのことで、こんなバチを作るのには太い柘植が必要である。

琵琶の弾き語りは、いつ聴いてもゾクゾクものである。
彼女の演奏は素晴らしいものだった。



寄居北条まつり(2)へは下記をクリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-952.html
インドカレー/尾山台・ザエカ
20120510
5月7日に、まずは目黒不動で前回撮り損じた龍の写真を撮り直し、「等々力不動」にお参りしたのですが、その途中でカレーを食べたくて、あらかじめ調べたら等々力には無さそうで、隣の尾山台駅の近くならあることがわかり、そこで食べました。
駅前から伸びる商店街にありました。
ビルの地下にあるお店です。


入ったのが11時半くらい。まだすいていて、先客は三人の一組だけ。店内が空いていたので頼んで店内の写真を撮らせてもらいました。

わりとすっきりした内装で、上品でした。インドの絵がかかっているので、インド料理の店とわかる感じです。
ホールは大柄なインドの人で、物腰が実にていねいで上品なおじさんでしたね。
オーダーしたのは、Bセット1000円。
カレーは2種類つくので、チキンとミックスシーフードを選びました。ナンとライスどちらかを選ぶということで、ナンをチョイス。タンドリーチキン、サラダとドリンクがついています。

カレーは、美味しかったけど辛さが足りなかった。もっと辛く頼めばよかったな。
タンドリーチキンは、わりと大きめで美味しかった。
セットでついて来るので、申し訳程度ってのがあるけど、この店のは大丈夫でしたね。
焼き立ての丸いナンは、ふっかふかで油っぽくなくて、生地自体に甘味があり、とても食べやすかった。
駅前から伸びる商店街にありました。
ビルの地下にあるお店です。


入ったのが11時半くらい。まだすいていて、先客は三人の一組だけ。店内が空いていたので頼んで店内の写真を撮らせてもらいました。

わりとすっきりした内装で、上品でした。インドの絵がかかっているので、インド料理の店とわかる感じです。
ホールは大柄なインドの人で、物腰が実にていねいで上品なおじさんでしたね。
オーダーしたのは、Bセット1000円。
カレーは2種類つくので、チキンとミックスシーフードを選びました。ナンとライスどちらかを選ぶということで、ナンをチョイス。タンドリーチキン、サラダとドリンクがついています。

カレーは、美味しかったけど辛さが足りなかった。もっと辛く頼めばよかったな。
タンドリーチキンは、わりと大きめで美味しかった。
セットでついて来るので、申し訳程度ってのがあるけど、この店のは大丈夫でしたね。
焼き立ての丸いナンは、ふっかふかで油っぽくなくて、生地自体に甘味があり、とても食べやすかった。
目黒不動尊の龍
20120507
関東36不動めぐりで、目黒不動尊には4月10日に行ってきました。
その時の記事は下記にしてあります。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-930.html
ところが、ここにある龍を全部撮ってないことがわかり、今日「等々力不動」にお参りする前に目黒不動に寄って撮りなおしてきました。
まずは「独鈷の滝」です。ここには三つの龍が居ます。
「水かけ不動」の前の手水舎の龍



独鈷の滝は、二つの龍頭から水を落としています。
一つは三本爪の龍


もう一つは玉を掴んだ龍


男坂を上がりきった右手に納札場があります。

その中央の塔の屋根に龍が居ます。



大本堂前の手水舎の龍



大本堂の大提灯の前に4つの龍の飾りがある。

左から




下から仰ぐとこんな感じ


大本堂の天井に、川端龍子が描いた龍があります。
本堂の外から、かろうじて撮れました。

絵馬に、この絵が描かれています。

(了)
その時の記事は下記にしてあります。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-930.html
ところが、ここにある龍を全部撮ってないことがわかり、今日「等々力不動」にお参りする前に目黒不動に寄って撮りなおしてきました。
まずは「独鈷の滝」です。ここには三つの龍が居ます。
「水かけ不動」の前の手水舎の龍



独鈷の滝は、二つの龍頭から水を落としています。
一つは三本爪の龍


もう一つは玉を掴んだ龍


男坂を上がりきった右手に納札場があります。

その中央の塔の屋根に龍が居ます。



大本堂前の手水舎の龍



大本堂の大提灯の前に4つの龍の飾りがある。

左から




下から仰ぐとこんな感じ


大本堂の天井に、川端龍子が描いた龍があります。
本堂の外から、かろうじて撮れました。

絵馬に、この絵が描かれています。

(了)
第11巻「無月ノ橋」

この巻での大きな出来事は、一つは磐音が愛刀包平の研ぎを頼んだ鵜飼百助邸を訪ねた折、旗本用人の狼藉を助ける。なんと徳川家に不吉をもたらすという勢州村正を正宗と改鑿した刀を持ち込んできたのだ。この悪辣な旗本の起こす騒動に巻き込まれる。この件では磐音を可愛がっている年番方与力笹塚孫一が斬られ瀕死の重傷を負う大事件となる。笹塚孫一をが死なずに済んだのは磐音の友人、蘭方医の中川淳庵のおかげである。
また一つは第9巻で秩父に権造一家の代貨し五郎造が娘を買いに行くのに同行し、結局娘たちを良心的な女郎屋一酔楼で勤め上げられるようにしたのだが、この一酔楼の主が将軍家治の日光社参に伴い先遣役を命じられた旗本の借金のせいで悪どい金貸しに乗っ取られそうになる。
そしていま一つは、十八大通の一人「髭の意休」なる人物が白鶴太夫を吉原から連れ出して紅葉見物をたくらむが、それを良しとしない同じ十八大通の一人大口屋八兵衛が、これを襲うという事件が起こる。金持ちの傲慢さで白鶴太夫に嫌われ恥をかかされたことがあったようだ。
「髭の意休」とは、不浄の者として虐げられし者たちの頭分「江戸弾左衛門」なる人物とか。
そしてまた、前巻で因幡鳥取藩三十二万石のお家騒動を磐音が動いて解決したと思ったのだが、残党がまた企み、磐音が新大橋でおこんを送る最中に襲われる事件が起こる。
友人の品川柳次郎の母、幾代に誘われて品川家の菩提寺「竜眼寺」に、彼岸の前の墓参に誘われる。「亀戸天神」の近くで、全国から数多い種類の萩を集めて植えため、「萩寺」と呼ばれて文人墨客に好まれ、江戸の名所の一つにあげられたとあるが、調べてみると現代でも「萩寺」ということで有名らしい。
今年の萩の季節には行ってみよう。
鳥取藩のお家騒動にからんで重臣の娘「桜子姫」を助けたが、この姫が磐根に惚れてしまい、付け回す。一度は磐音が宮戸川で鰻割きをした後風呂から上がると、銭湯の前に桜子姫が駕籠を停め待ち構えているので、それを町民が遠回りに囲んで見つめているという騒ぎに。
弱った磐音は、その日鰻を食べる約束をしていた中川淳庵と弟弟子の幕府奥医師、桂川国瑞と共に、桜子姫に宮戸川で鰻を食べさせる。
よく時代劇に検校とか按摩の金貸しがあくどい事をやる話が出て来るが、按摩の「鑑札」についての説明あり。
五代将軍綱吉に可愛がられた杉山検校は、綱吉に「欲しいものは」と問われ、「さして欲しきもの候はねど、折にふれてはただ一つ目が欲しく候」と答えたら、本所一ツ目の地に千坪を居邸として与え、爾来この屋敷を関東惣録屋敷と称し、検校、匂当、座頭、紫分、市名、都、無官の按摩の頭領として支配させたという。
江戸城の石垣普請の石調達にからんで、豆州熱海での不正を正した磐音の活躍を、将軍家治が耳にして、何ぞ礼をせねばと御側衆の速水左近に言ったため、速水左近から磐音に速水家伝来の脇差「粟田口吉光」を頂戴した。
「髭の意休」の紅葉狩り事件で、髭の意休と白鶴太夫の危難を救った磐音に、奈緒こと白鶴太夫の打掛が渡される。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは、「松田派新陰流」、「柳生新陰流」(道場のけいこで)、「心形刀流」&円明流(道場にて他流試合)、「雖井蛙(せいあ)流」、「四兼流」
第12巻「探梅ノ家」

この巻での大きな出来事は、一つは火事の騒ぎと一緒に押し入り強盗を働き家族、奉公人を皆殺しにする黒頭巾の一味の事件、これには磐音が風呂で出会った背中に見事な吉祥天の彫り物をした男が関係しているようだ。いま一つは師走の時期に今津屋の老分番頭由蔵のお供で磐音は鎌倉に行く。建長寺で今津屋の亡くなったお内儀お艶の三回忌の法要を主吉衛門の代参で行う。その後主吉衛門の後添いの候補に会うためであった。その相手とは小田原城下の脇本陣の主の娘お香奈であり、妹のお佐紀も同行していた。
またもう一つは、磐音の仲間である品川柳次郎が上方からの千石船の荷降ろしの仕事に行ったきり行方不明になってしまう。どうもその船の主、愛染明王の円之助とやらはとんでもない悪党らしい。
それから中川淳庵を通じて知り合った、幕府奥医師、桂川国瑞が謎の七福神に扮した集団に襲われる事件が起こる。桂川国瑞が蘭学に基づいた医療を行うのを嫌う守旧派か、それとも彼をねたむ同じ御殿医師の陰謀みたいである。
今津屋の老分番頭由蔵と磐音が鎌倉に行く途中、川崎宿の「万年屋」で「奈良茶飯」を食べるが、六郷川で採れた「新鮮なしじみの味噌汁」と「奈良漬」をつけた「奈良茶飯」をどんぶり1杯13文で提供し、東海道を旅する人や、川崎大師平間寺へお参りをする人々の食事処として大変繁盛したと言われています。
去年、関東36不動まいりで川崎大師に行った際、門前にそういうお店があったのを記憶している。今年も「風鈴市」には行くつもりなので、その時には絶対に食べてみよう。
麻布広尾村にある幕府御典医桂川家の別宅に、因幡鳥取藩の重臣の娘「桜子姫」が招かれ、中川淳庵と磐音も招かれている。長崎の「てんぷら料理」でもてなすが、磐音も桜子姫も初めて口にする料理だった。桜子姫は危ういところを磐音に救ってもらってから、磐音を追いかけまわしていたが、幕府奥医師、桂川国瑞が憎からぬ存在になってきたようだ。
今津屋の主、吉右衛門の後添いの話が進んできて、正月十五日の藪入りの日、小田原宿の脇本陣「小清水屋」の娘「お佐紀」が今津屋を訪れる。磐音と一緒に六郷の渡しまで出迎えたおこんは一目見た瞬間、「このお方こそ今津屋吉右衛門様に相応しいお内儀様」と確信する。
今津屋に着いたお佐紀は廊下に座り、吉右衛門に「今津屋吉右衛門様、佐紀にございます。主様にご挨拶する前に、お艶様にお断りしとうございます。仏間に入ることをお許しください」と声をかける。
それを聞いたおこんは、(この話は絶対にうまくいくわ)と胸が熱くなった。
この巻で、磐音は剣の師佐々木玲圓から次のような教えを受ける。
「磐音、いつかはそなたに申そうと考えておったことがある」
「なんでございましょう」
磐音は緊張した。
「技量が上がれば人というもの、つい刀を抜いて事の決着を図りたがるものじや。だが、それは下の下策。真の達人は剣を鞘に納めたまま勝ちを得る。そなたの務めには切羽詰まった戦いもあろう。だが、そのことを頭の隅においておくがよい。そなたにはそれができようと思うてな」
「先生のお吉菓、坂崎磐音、肝に銘じましてございます」
磐音は玲囲の教えに深々と頭を下げた。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは、「民弥流」、「心形刀流」である。

この巻での大きな出来事は、一つは磐音が愛刀包平の研ぎを頼んだ鵜飼百助邸を訪ねた折、旗本用人の狼藉を助ける。なんと徳川家に不吉をもたらすという勢州村正を正宗と改鑿した刀を持ち込んできたのだ。この悪辣な旗本の起こす騒動に巻き込まれる。この件では磐音を可愛がっている年番方与力笹塚孫一が斬られ瀕死の重傷を負う大事件となる。笹塚孫一をが死なずに済んだのは磐音の友人、蘭方医の中川淳庵のおかげである。
また一つは第9巻で秩父に権造一家の代貨し五郎造が娘を買いに行くのに同行し、結局娘たちを良心的な女郎屋一酔楼で勤め上げられるようにしたのだが、この一酔楼の主が将軍家治の日光社参に伴い先遣役を命じられた旗本の借金のせいで悪どい金貸しに乗っ取られそうになる。
そしていま一つは、十八大通の一人「髭の意休」なる人物が白鶴太夫を吉原から連れ出して紅葉見物をたくらむが、それを良しとしない同じ十八大通の一人大口屋八兵衛が、これを襲うという事件が起こる。金持ちの傲慢さで白鶴太夫に嫌われ恥をかかされたことがあったようだ。
「髭の意休」とは、不浄の者として虐げられし者たちの頭分「江戸弾左衛門」なる人物とか。
そしてまた、前巻で因幡鳥取藩三十二万石のお家騒動を磐音が動いて解決したと思ったのだが、残党がまた企み、磐音が新大橋でおこんを送る最中に襲われる事件が起こる。
友人の品川柳次郎の母、幾代に誘われて品川家の菩提寺「竜眼寺」に、彼岸の前の墓参に誘われる。「亀戸天神」の近くで、全国から数多い種類の萩を集めて植えため、「萩寺」と呼ばれて文人墨客に好まれ、江戸の名所の一つにあげられたとあるが、調べてみると現代でも「萩寺」ということで有名らしい。
今年の萩の季節には行ってみよう。
鳥取藩のお家騒動にからんで重臣の娘「桜子姫」を助けたが、この姫が磐根に惚れてしまい、付け回す。一度は磐音が宮戸川で鰻割きをした後風呂から上がると、銭湯の前に桜子姫が駕籠を停め待ち構えているので、それを町民が遠回りに囲んで見つめているという騒ぎに。
弱った磐音は、その日鰻を食べる約束をしていた中川淳庵と弟弟子の幕府奥医師、桂川国瑞と共に、桜子姫に宮戸川で鰻を食べさせる。
よく時代劇に検校とか按摩の金貸しがあくどい事をやる話が出て来るが、按摩の「鑑札」についての説明あり。
五代将軍綱吉に可愛がられた杉山検校は、綱吉に「欲しいものは」と問われ、「さして欲しきもの候はねど、折にふれてはただ一つ目が欲しく候」と答えたら、本所一ツ目の地に千坪を居邸として与え、爾来この屋敷を関東惣録屋敷と称し、検校、匂当、座頭、紫分、市名、都、無官の按摩の頭領として支配させたという。
江戸城の石垣普請の石調達にからんで、豆州熱海での不正を正した磐音の活躍を、将軍家治が耳にして、何ぞ礼をせねばと御側衆の速水左近に言ったため、速水左近から磐音に速水家伝来の脇差「粟田口吉光」を頂戴した。
「髭の意休」の紅葉狩り事件で、髭の意休と白鶴太夫の危難を救った磐音に、奈緒こと白鶴太夫の打掛が渡される。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは、「松田派新陰流」、「柳生新陰流」(道場のけいこで)、「心形刀流」&円明流(道場にて他流試合)、「雖井蛙(せいあ)流」、「四兼流」
第12巻「探梅ノ家」

この巻での大きな出来事は、一つは火事の騒ぎと一緒に押し入り強盗を働き家族、奉公人を皆殺しにする黒頭巾の一味の事件、これには磐音が風呂で出会った背中に見事な吉祥天の彫り物をした男が関係しているようだ。いま一つは師走の時期に今津屋の老分番頭由蔵のお供で磐音は鎌倉に行く。建長寺で今津屋の亡くなったお内儀お艶の三回忌の法要を主吉衛門の代参で行う。その後主吉衛門の後添いの候補に会うためであった。その相手とは小田原城下の脇本陣の主の娘お香奈であり、妹のお佐紀も同行していた。
またもう一つは、磐音の仲間である品川柳次郎が上方からの千石船の荷降ろしの仕事に行ったきり行方不明になってしまう。どうもその船の主、愛染明王の円之助とやらはとんでもない悪党らしい。
それから中川淳庵を通じて知り合った、幕府奥医師、桂川国瑞が謎の七福神に扮した集団に襲われる事件が起こる。桂川国瑞が蘭学に基づいた医療を行うのを嫌う守旧派か、それとも彼をねたむ同じ御殿医師の陰謀みたいである。
今津屋の老分番頭由蔵と磐音が鎌倉に行く途中、川崎宿の「万年屋」で「奈良茶飯」を食べるが、六郷川で採れた「新鮮なしじみの味噌汁」と「奈良漬」をつけた「奈良茶飯」をどんぶり1杯13文で提供し、東海道を旅する人や、川崎大師平間寺へお参りをする人々の食事処として大変繁盛したと言われています。
去年、関東36不動まいりで川崎大師に行った際、門前にそういうお店があったのを記憶している。今年も「風鈴市」には行くつもりなので、その時には絶対に食べてみよう。
麻布広尾村にある幕府御典医桂川家の別宅に、因幡鳥取藩の重臣の娘「桜子姫」が招かれ、中川淳庵と磐音も招かれている。長崎の「てんぷら料理」でもてなすが、磐音も桜子姫も初めて口にする料理だった。桜子姫は危ういところを磐音に救ってもらってから、磐音を追いかけまわしていたが、幕府奥医師、桂川国瑞が憎からぬ存在になってきたようだ。
今津屋の主、吉右衛門の後添いの話が進んできて、正月十五日の藪入りの日、小田原宿の脇本陣「小清水屋」の娘「お佐紀」が今津屋を訪れる。磐音と一緒に六郷の渡しまで出迎えたおこんは一目見た瞬間、「このお方こそ今津屋吉右衛門様に相応しいお内儀様」と確信する。
今津屋に着いたお佐紀は廊下に座り、吉右衛門に「今津屋吉右衛門様、佐紀にございます。主様にご挨拶する前に、お艶様にお断りしとうございます。仏間に入ることをお許しください」と声をかける。
それを聞いたおこんは、(この話は絶対にうまくいくわ)と胸が熱くなった。
この巻で、磐音は剣の師佐々木玲圓から次のような教えを受ける。
「磐音、いつかはそなたに申そうと考えておったことがある」
「なんでございましょう」
磐音は緊張した。
「技量が上がれば人というもの、つい刀を抜いて事の決着を図りたがるものじや。だが、それは下の下策。真の達人は剣を鞘に納めたまま勝ちを得る。そなたの務めには切羽詰まった戦いもあろう。だが、そのことを頭の隅においておくがよい。そなたにはそれができようと思うてな」
「先生のお吉菓、坂崎磐音、肝に銘じましてございます」
磐音は玲囲の教えに深々と頭を下げた。
この巻で、磐音が真剣で相対したのは、「民弥流」、「心形刀流」である。
日光・輪王寺「金剛桜」
20120501
4月29日、沼田の桜を撮り終えて、沼田インターの近くで昼食を食べ終わったのが11:30。同行していたEさんが、冬季は閉鎖される金精峠が27日に開通したそうだから、日光に行こうと言いだしました。
私が今年行きたい桜の一つに、日光輪王寺の「金剛桜」があることを彼は聞いていたからです。
そこには、私は5月4、5日くらいに行くことにしていたので、ちょっと早いよと言いながら、喜んで乗っかりました(笑)
いつも尾瀬に行くときに通る道を進んでいき、片品村で尾瀬に行くときには左折して橋を渡るところを直進して、金精峠に向かいます。
どんどん上がっていくと、丸沼高原スキー場では沢山の人がスキーを楽しんでいました。両側の山の斜面はまだまだ雪が多かった。
更に上がって、菅沼ではまだ全面氷に覆われていて、吃驚して車を停めて写真を撮りました。


そして金精トンネルを抜けると日光です。
車を停めて小休止しました。


ここは海抜1843m。まだ雪が多いです。

そこから100mくらいのところで、男体山と湯の湖がきれいに見えました。

湯の湖、戦場ヶ原は素通りして、竜頭の滝に寄りました。



中禅寺湖の横を通り、いろは坂を下って日光の市内に。輪王寺、東照宮の近くで駐車場にスルッと入れて実にラッキーでした。かなりどこも駐車場の前に列を作っていたのですが、実に運が良かった(笑)
めざす輪王寺です。
かなり大がかりな修理で、建物がスッポリと覆われてしまっていました。
残念ながら、金剛桜は昨日から花が開き始めたということで、一分さきにもなっていませんでした。
背景は修理の外装に描かれた本堂の絵なんです。

【日光輪王寺・金剛桜】
山桜の変種、樹齢約500年
日光・輪王寺境内
山桜の勝れた天然変種として、国の天然記念物に指定されている。


やはり幹がすごいですね。

それでも下のほうの枝が、ちゃんと咲いていたので嬉しかった。



繖房状に3、4花をつけ、花径は極めて大輪。花弁は円形で、花弁の縁は重なり合っている。

金剛桜のほかにも、いろいろな桜が咲いていました。



本堂に上る石段の脇に桜草が綺麗に咲いていた。

櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html
私が今年行きたい桜の一つに、日光輪王寺の「金剛桜」があることを彼は聞いていたからです。
そこには、私は5月4、5日くらいに行くことにしていたので、ちょっと早いよと言いながら、喜んで乗っかりました(笑)
いつも尾瀬に行くときに通る道を進んでいき、片品村で尾瀬に行くときには左折して橋を渡るところを直進して、金精峠に向かいます。
どんどん上がっていくと、丸沼高原スキー場では沢山の人がスキーを楽しんでいました。両側の山の斜面はまだまだ雪が多かった。
更に上がって、菅沼ではまだ全面氷に覆われていて、吃驚して車を停めて写真を撮りました。


そして金精トンネルを抜けると日光です。
車を停めて小休止しました。


ここは海抜1843m。まだ雪が多いです。

そこから100mくらいのところで、男体山と湯の湖がきれいに見えました。

湯の湖、戦場ヶ原は素通りして、竜頭の滝に寄りました。



中禅寺湖の横を通り、いろは坂を下って日光の市内に。輪王寺、東照宮の近くで駐車場にスルッと入れて実にラッキーでした。かなりどこも駐車場の前に列を作っていたのですが、実に運が良かった(笑)
めざす輪王寺です。
かなり大がかりな修理で、建物がスッポリと覆われてしまっていました。
残念ながら、金剛桜は昨日から花が開き始めたということで、一分さきにもなっていませんでした。
背景は修理の外装に描かれた本堂の絵なんです。

【日光輪王寺・金剛桜】
山桜の変種、樹齢約500年
日光・輪王寺境内
山桜の勝れた天然変種として、国の天然記念物に指定されている。


やはり幹がすごいですね。

それでも下のほうの枝が、ちゃんと咲いていたので嬉しかった。



繖房状に3、4花をつけ、花径は極めて大輪。花弁は円形で、花弁の縁は重なり合っている。

金剛桜のほかにも、いろいろな桜が咲いていました。



本堂に上る石段の脇に桜草が綺麗に咲いていた。

櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
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