石碑の文字を読む

20120930

いま、狭山市の歴史講座研究コースでどんなことを学んでいるか、というと。
石碑・石仏の文字を読むことをやっています。
9月27日(木)の内容を紹介しましょう。

これは福徳院境内に置かれている、三面八臂の馬頭観音
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「寛保元年酉年 奉建立馬頭観世音尊 三月吉祥日」
と書いてあります。
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タワシで苔を落としたり、水で濡らして文字を読みやすくしました。
これは、お寺の許可を得て、やっています。

寛保元年と酉年というのは合っているので、間違いありません。
丙午(ひのえ うま)のように干支の組み合わせなどで年号を読み込みます。
将軍徳川綱吉の代で、西暦1741年ということになります。

馬頭観音の横に立っているので「馬頭観世音」と読めますが、草書体で書かれると、読むのが大変です。
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これは、豪商綿貫家の供養塔です。
西の鴻池、東の綿貫と言われましたが、徳川幕府瓦解で江戸幕府要人への貸倒で没落しました。
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四面に仏を表す種子を刻んでいます。

正面に「阿閦如来」の種子
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右側に「大日如来」の種子
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背面に「阿弥陀如来」の種子
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左面に「虚空蔵菩薩」の種子
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四面に、びっしりと供養の内容が書かれています。概略は百観音の霊場巡拝と、大勢の者と大乗妙典を読誦等をして、仏の功徳を広く差し向けたというようなことが書かれているそうです。
私は、とりあえず写真に撮ってきて、これからじっくりと読み込もうと思っています。
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最初の面で、知らない字があちこちに出てきています。
自信ないが「以」ではないかと思う。意味がつながる。
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「尓」だろうか。「じ」「に」、「なんじ」「しかり」
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これを、これから読めなかった字を調べた上で、正解かどうかを先生に見てもらいます。

徳林寺境内の地蔵堂
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この前に、左右二体の灯篭に、三地蔵が彫ってあり、左右合せて「六地蔵」となっています。
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この背面。これも読みやすくするため水で濡らしました。お寺の許可を得てやっています。
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「武州入間郡」と書かれている。
「刕」を「州」と読ませます。
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寄進者の名前が、ずらっと書かれていますが、これは読めませんでした。
苗字です。
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「岡安」だそうです。

こんな具合に、石仏・石碑の文字を読むのにハマりつつあります(笑)
「判じ絵」のように、すこし読めてくると楽しくて仕方ありません。


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つるビショップスタッド・バデルボルン

20120926

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作出:1964年 ドイツ・コルデス
花色:朱赤色
花形:半八重平咲き
花径:5cm
樹形:つる性
芳香:微香

平咲き半八重の朱赤色の花を咲かせます。
強健で栽培しやすい品種のようです。

2006年6月 神代植物園にて

軽井沢でテニス合宿

20120924

22日、23日と所属しているテニスクラブの合宿でした。
今年は私が企画ということで、もちろん軽井沢です。
参加者は9名。もっと参加して欲しいところですが、今回は都合悪い人が多かった。

3台の車に分乗して、軽井沢に11時ころ着き、信州蕎麦を食べてから、テニス。
この日は天気が良くて、気持ちよく楽しみました。
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17時ころまでテニスで汗を流し、ホテルに。
塩沢湖近くの、テニス合宿がメインの「パイプのけむり」というホテル。
夕食はバイキング。
生ビールでわいわいやって、部屋に戻って宴会。
持ち込んだ酒が、ワイン、焼酎、「久保田」、大吟醸・・・・・
12時近くまで、飲んでました。

問題は日曜日。
前夜から降りだした雨が、本格的。
水不足で悩んでいたので、待ち望んでいた雨なのかもしれませんが、
私らにとっては「無情の雨」(泣)

バイキングの朝食も、意気あがらず(笑)
どうしようか、と言っても、どこに行っても雨ではねえ・・・・・・
美術館で行きたいところもあったのだが、そんなムードでもなかった。

近くの「つるや」という大型スーパーで「りんご」とか買う話に。
けっこう良いものが見つかった。
買ったのは、りんご、松茸(カナダ産)、いなご、トマトジュース。
ひょっとして、この「つるや」というのは、軽井沢銀座の奥にある、文豪に愛されたという老舗旅館の経営?
だとしたら、現代的な対応、立派なものだ。

そして、どうしても行きたいと言う人がいたので、アウトレットへ。
軽井沢に来て、雨で楽しみを奪われた人が集まってきちゃって、すごい混雑だった。
私も「ラコステ」のショップがあったので、入ってみたが、特に今は欲しいものも無かったので、冷やかしだけで終わった。ずいぶんラコステが好きで着てきたが、最近はフィラしか欲しいと思わなくなった。

ここで解散となって、早々と帰ってきたので、私の車に同乗した人の家に、それぞれ送り届けても、家に着いたのが15時ころ。
カミさんに、もっと遊んで来ればよかったのに、と言われたが、楽しみにしてたテニスが出来ないと、がっくりきちゃったからね。


『居眠り磐音 江戸双紙』第23巻「万両ノ雪」&第24巻「朧夜ノ桜」/佐伯泰英

20120920

第23巻「万両ノ雪」
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この巻での大きな出来事は、明和八年(1771)に伊勢への「おかげ参り」は二百万人を超えたというが、内藤新宿の追分、子安稲荷近くの麹屋におかげ参りの白装束姿の一味が押し入り、金蔵を破って千両箱を奪って消えた。それを当時与力の笹塚孫一が担当した。若い食売(めしもり)女・お香を若い男が二十五両で見受けした話を聞きつける。お香はだんご屋を開業する。お香の店を根気よく見張ったあげく、一味の頭を捕える。
お香のだんご屋の店先に、その頭にもらったという万両が植えられていたが、これがこの巻のタイトルとなっている。
しかし、この頭と目される男・大次郎は口を割らず、結局お香への殺人未遂ということで三宅島への遠島となった。それが6年前の話である。
その大次郎が島抜けをした。
大次郎は、島に入って半年で島を支配してしまい、妻と妾二人を持つという「やり手」な人間。
お香は、甘味屋の職人と一緒になり、「甘味処まんりょう」という店は江戸で評判の店になっている。
再び、笹塚孫一はお香の店を見張ることになる。
ということで、この巻の前半ずっと大次郎、お香、笹塚孫一の話が続いていく。
坂崎磐音は、どこに消えてしまったのか?

前巻で、品川柳次郎は父親と長男の放蕩で品川家断絶もやむなきところ、佐々木玲園と速水左近の運動で、晴れて品川家の跡目を継ぐことになったが、一方で幼馴染の椎葉お有と再会し、椎葉家にも相手に相応しい男と認められていた。
椎葉家を訪れた帰りに、柳次郎は笹塚孫一を襲う男を倒し、笹塚孫一の命を救う働きをする。

磐音とおこんは大芝居仕立てで江戸に戻ってくるが、磐音は、金兵衛長屋を出て佐々木道場に移る。
そして正月七日の具足開きの朝、正式に佐々木家に養子縁組の儀式が執り行われ、佐々木磐音となった。

久しぶりの佐々木道場で、磐音は道場破りと相対するが、佐々木道場の扁額所望と引き換えに道場破りは茶碗を賭けるが、磐音に敗れて置いていく。
この茶碗が、大聖寺藩の家宝「一国茶碗散り櫻」とわかる。
大聖寺藩は関ヶ原以前山口正弘の領地だったが、西軍に応じて大聖寺城に籠城した山口家を攻め滅ぼしたのが、金沢二代藩主前田利長。山口正弘は見事に自刃したが、遣いに太閤秀吉ゆかりの赤織部を託して、前田利長に家族と家臣の助命を乞うた。
という謂れの茶碗だった。

そして、おこんが気をもんでいた、今津屋の内儀お佐紀がついにめでたく男子を出産した。

この巻で、磐音が相対したのは、天然神道流、深甚流、他は特に流派の説明なし。


第24巻「朧夜ノ桜」
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この巻での大きな出来事は、麻布広尾村の屋敷で、磐音の友人の桂川国端が稲葉鳥取藩の重臣の娘、織田桜子と祝言をあげる。

おこんが速水左近の家に養女に入る日、今津屋では送り出す船を仕立てた。磐音もよく利用する船宿川清の屋根船は、舳先には高張提灯が掲げられ、紅白の布で飾られていた。
深川六軒掘長屋の皆に送られ猿子橋でおこんが乗り込むと、宮戸川の皆さん、品川柳次郎親子などが見送り、柳橋では今津屋の奉公人や出入りの客皆が紙吹雪で見送った。
磐音は、母に言付かったと懐剣をおこんに渡す。磐音の母が坂崎家に嫁入りのとき携えてきたもので、おこんが江戸で武家披露のときに身に着けて欲しいと磐音に預けたものだった。

磐音は、江戸でも三味線造りの名人と言われた三味芳四代目の次男鶴吉と再会する。磐音が奈緒を追って旅をしていた時、北陸の金沢で知り合った男である。
そして、江戸に戻った鶴吉は父の仇を討つが、それは第七巻の話である。
この時に手柄として、南町奉行所年番与力方笹塚孫一は磐音に二百両を渡したが、磐音は鶴吉の三味線造りの店再興にと、思っていたのである。
吉原会所の四郎兵衛の協力もあって、聖天町にあった、鶴吉の父の先代の店を磐音が用意する。

その鶴吉から、旅の途中立ち寄った遠州相良で見聞し、探ったことを磐音に話し、このところ立て続けに起きている佐々木道場の道場破りは、遠州相良藩の主、田沼意次配下の仕業であることがわかった。
鶴吉が探ってきた刺客五名の名前を見て、佐々木玲園はため息をつく。古い剣客なら必ず一度は名前を聞いたことがある剣客ばかりだという。

桜の季節、磐音とおこんの祝言は、佐々木道場で行われた。祝言は身内の限られた人数で行い、多数詰め掛けた祝いの客には、道場の広間で車座になって、菰樽の酒と、浮世小路の卓袱料理「百川」のお弁当でもてなした。弁当の数が五百。ついている鯛は若狭屋、赤穂屋が磐根、今小町のおこんのためにと揃えてくれた。
それと宮戸川の親方が焼いた鰻のかば焼きが、また味を添えた。
おこんがお色直しに着たのは、磐音の母が博多の呉服屋に注文して仕立てた加賀友禅。紫縮緬地に孔雀が大きく羽を広げ、海棠と菊があでやかに絡んだ衣装は、華やいだ中にも落ち着きが見えた。
おこんが姿を現すと、道場の招き客は、おおっとどよめいた。

この巻で、磐音が相対したのは、陣中無念流、タイ捨流薙刀、二天一流、平内流、琉球古武術、タイ捨流、他は特に流派の説明なし。

鹿子(しし)舞/狭山市・八幡神社

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この八幡神社は鎌倉街道沿いにあり、新田義貞が鎌倉に攻め上がるとき、この神社に参拝し、「新田義貞駒つなぎの松」が残っています。

この鹿子舞は、埼玉県内全域で行われている一人立ち獅子舞のひとつであり、太鼓を叩きながら三人一組になって踊る三匹獅子舞のかたちをとっています。
土日の両日にわたり、鹿子舞の一行が地区内にある神社・寺院をまわって、舞いを奉納しながらねり歩きます。
土曜日は、12時に八幡神社を出発、「天満天神社」、「水神社」、「子の神社」、「清水八幡」、「諏訪神社」、「長栄寺」と廻り、17時ころ終了。
日曜は、12時に八幡神社を出発、「旭愛宕社」、「峰愛宕社」、「白山神社」、「八幡神社」の順です。

八幡神社で舞うのは日曜だけなので、この日に行くとして、調べてみると峰愛宕社は遠く離れているので、峰愛宕社から白山神社はタクシーで移動とか。置いてけぼりを食うので、白山神社で待ち構えて、白山神社と八幡神社で舞を見ることにしました。

「鹿子舞」は、昔は「獅子舞」と書かれておりましたが、明治時代の初め、同社の別当寺(神仏分離以前に神社に設けられた寺院)であった成円寺を獅子舞の一行が出発したところ、維新政府の神仏分離政策により獅子は仏教に属すものとしてとがめを受けました。このとき土地の機転者が、「私のところは獅子でなく鹿子である。鹿は神の使いである」といって禁を免れたというもので、それ以来、鹿子舞と書くようになったとのことです。

白山神社では境内が狭いため、お囃子と獅子舞の人たち、関係者しか入れず、見物人は道路からの見物となりました。
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白山神社から八幡神社に向かう行列。
金棒を先頭に、神官、氏子、山伏、花笠、歌役、笛役、天狗、世話人、そして3頭の鹿子と続きます。
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山伏役の人が、ほら貝を吹きながら行きます。なかなか見事に吹いていました。
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八幡神社に到着。急な石段を上がります。
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鹿子は、石段の途中で、草鞋を履き替え、服装を整え、「砂糖水」を飲んで、お浄めをして鹿子舞に備えます。
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お囃子の笛。あと唄と、ささら、鹿子の太鼓で行います。
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3匹の獅子は、女獅子(金の獅子)をめぐって 若い獅子(赤い獅子)と年上の渋い獅子(黒い獅子)が争います。
それに天狗がちょっかいを出す。
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鹿子の袴はかまを見るとヘビの鱗うろこ模様が染め抜かれていますが、これは雨乞あまごいや五穀豊饒を祈願したためと考えられています。

これだと鹿だと言い張れそうな感じもしますね(笑)
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舞いには「竿がかり」と「花すい」があります。
四隅に花笠が立ち、真ん中に竿が渡されます。
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花笠の中に少女が入って、ささらを演奏しています。
花笠が重いのでしょう、介添え役の人が花笠を支えています。
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竿は、障害の壁を表していて、女獅子に会いに行くのに穴を掘ってくぐって行きます。
若い獅子(赤)が挑戦。
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見事くぐり抜けて、女獅子(金)とイチャイチャ
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年寄りの獅子(黒)も挑戦しますが、うまくいかず、二度三度と挑戦します。
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やれやれ、やっとくぐったわい(汗)
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年寄りの獅子(黒)が、女獅子(金)と若い獅子(赤)の間に割って入り、邪魔をします。
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舞が長いのと、暑さで、途中で休憩が入ります(笑)
水を飲ませてもらったり、
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うちわであおいでもらったり。
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この鹿子舞の特徴は、「各盞(かくさん)の儀」と呼ばれる儀式が伝承されているところにあります。これは奉納舞をはじめる前と終わりに行うもので、「来年の同月同日の何時まで」と次回の儀式が必ず行われるように約束することをいいます。


舞が終了。ささら役の少女が獅子と記念撮影。一頭の獅子は後ろでぐったりしています(笑)
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見学に来ていたボーイスカウトの皆さんも記念撮影。
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ずいぶんと長い舞なので、驚きました。
いま、どういう舞をしているかをマイクで解説をしてくれたので、判りやすくて良かったですね。
満足しました。

(了)

天地明察/その三・保科正之/冲方丁

20120916

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「天地明察」については、既に二回記事にしています。
その一・「算額」
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-406.html

その二・算術絵馬
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-634.html

最近、映画の公開にあたって、またこの本の事が色々なところで取り上げられていて、私もまた読み返したところです。

私は、この本によって「保科正之」という偉大な存在を知った。実に安井算哲の偉業は、保科正之の命によって推進されたものであった。

保科正之とは
三代将軍家光の異母弟にして、将軍や幕閣から絶大な信頼を得ている、会津肥後守。
徳川秀忠のまぎれもない「御落胤」だが、実父秀忠との面会はついに叶わなかった。
しかし、三代将軍家光は、この異母弟に絶大の信頼を寄せて事実上の副将軍として扱った。
のみならず、四代将軍家綱の養育を正之にまかせ、その後見人に据えて幕政建議に努めさせている。
さらに臨終の際、家光は正之を病床に呼び、「徳川宗家を頼みおく」と言い残したという。
まさに徳川幕府の陰の総裁だった。

保科正之は、徳川家から親藩の証しとして「松平」を名乗ることを許されたにもかかわらず、自分を育ててくれた保科家を敬い、保科姓を決して捨てなかった。

保科正之は、将軍とは、武家とは、武士とは何であるか、という問いに「民の生活の安定確保をはかる存在」と答えを定めている。

・江戸の生活用水の確保として計画された玉川上水の開削も保科正之の建議。
・明暦の大火の際
 ・火災に襲われた米蔵を「米の持ち出し自由」として、延焼を防いだ
 ・江戸の食量不足への対応から参勤していた諸藩を国元に帰らせた
 ・江戸の治安維持のため軍勢を置くことは、食量不足を加速させるだけとして反対
 ・火災後の江戸城天守閣の再建は、既に戦国時代ではないとして見送った。
そして天守閣が再建されることはなかった。
・会津藩では「社倉」を成功させ、飢饉の年にも他藩に米を貸すほどになり、
「会津に飢人なし」と評された。
・「殉死追い腹の禁止」、「大名人質の廃止」、「末期養子の禁止の緩和」はいずれも保科正之の建議。


安井算哲に対する吟味
保科正之が改暦の事業を託すに当たり、その人となりを慎重に吟味している。

まずは、老中、酒井雅楽頭忠清。
「お主、お勤めで打つ御城碁は、好みか?」
「嫌いではありません」
「しかし、退屈です」
秘めていたはずの想いが、よりにもよって老中の前で口をついて出た。


北極出地
北極星を仰ぎ見る角度から、その地の緯度がわかるが、それを日本全土で測量する「北極出地」の事業に老中、酒井雅楽頭忠清の命で安井算哲は参加する。
算哲の役目は、隊長・建部昌明と副長・伊藤重孝の補佐である。
これには、各藩とも幕府の隠密行動と捉え、抵抗が激しかったが、特に加賀藩は強硬だった。
結局、「天測不能」とならなかったのは、弱冠19歳の藩主・前田綱紀が「天測」に興味を示し、城中で観測の実態を詳しく説明したことによる。
その際、藩主・前田綱紀が算哲に「肥後守様から、そなたの名前を聞いている」と言われ、算哲はビックリする。
藩主・前田綱紀は、保科正之の娘を娶っていたのだ。
藩主・前田綱紀は、その若さで藩の改革に乗り出し、徹底した新田開発、貧民救済、学問普及によって、のちに「加賀に貧者なし」と評されることになる。
後日、安井算哲に対しても、強力な後ろだてになってくれた人物だった。


次いで、水戸光国。
水戸藩二代目藩主、当時39歳。のちに光圀と改名し、権中納言・黄門様となったお方。
光国が振ってくる話は「北極出地」であり、それを説明するうち、亡き建部昌明に約束した「渾天儀」製作の話になり、
光国は「そなた、その渾天儀とやらを、独力にて成し遂げる気か?」
「いえ・・・・、まずは古今の諸説、過去の記録に、先達のお力を頼る他にありませぬ」
ふーむ、と光国が唸った。
「そなた、余に似ておるわ」

のちに、渾天儀を光国に献上すると、両手で抱きながら唸り続けた。
このような成果を自分があげられなかったのが、よほど悔しかったようである。


そして、ついに安井算哲は、保科正之に呼ばれて会津の鶴ケ城に行く。
会津で逢うというのも、保科正之の深謀であった。改暦の業は幕府のすることではない、とするため保科正之も安井算哲も江戸の会津藩邸に住んでいるのに、江戸で会わずに会津まで出かけて会っている。

座相
この本で、保科正之の人となりを表すのに「坐相」で表現している。
 その人は日当たりの良い場所に、ぽつんと坐っており、深々と平伏する春海は、
「よく来た、安井算哲」
 優しい声に顔を上げ、その、ただ坐っている相手の姿を目にしただけで、はっと驚いた。
坐相というのは、武士や僧や公家を問わず、一生の大事であり、日々の修養の賜物である。坐ったときの姿勢作りに、品格や人徳までもがおのずからにじみ出る、というのが一般的な所作挙動における発想だが、春海が見たのは、およそ信じがたい姿だった。
 不動でいて重みが見えず、〝地面の上に浮いている”とでも言うほかない様相である。
 あたかも水面に映る月影を見るがごときで、触れれば届くような親密な距離感を醸しながら、それでもなお水面の月を人の手で押し遣ることは叶わないことを思い起こさせる。
 そんな神妙深遠の坐相をなすのは、痩顔細身に深く雛を刻まれ、病が癒えてのちもさらに視力衰弱し、白濁しかけた両目を優しげに細める、齢五十七の一人の男であった。不思議なこと
に、そこにいるのは、ただの男だったのである。というのも顔を上げたその瞬間、春海の脳裏
から、目の前の人物が将軍家の御落胤であり、幕府要人であり、会津藩藩主である、といった
ことがらが給麗に消えていた。正之の坐相によって余計な思いを瞬く間に消された。そして、ただ目の前にいる保科正之という人物に、心服しきっていた。


改暦事業に対する保科正之の指導
保科正之は、「改暦による世の影響を考察せよ」と命じた。
これを安井算哲が、考え抜いた末に、保科正之の応援で一大プロジェクトチームが設けられたにも関わらず、表面上は幕府の事業としなかった。
それは天皇の根本的な存在理由「天を司る」権威を失墜しかねなかったからだ。
保科正之は、そこまで読んでいた。
結果、安井算哲の立てた戦術は、「帝の勅令」と「幕府の朱印状」となった。


保科正之の滅私奉公
最後に、保科正之が死の際になしたことである。
家老の友松勘十郎に命じて、正之がなした幕政建議書のことごとくを焼かせてしまった。
後世、あらゆる幕政のおおもとが正之の建議に依っていると知られれば、将軍の御政道の権威を低めてしまう、という配慮からであった。
これほどまでの「滅私奉公」の例を、他には知らない。


古事記を知る(02)/記念切手

20120913

少し前の話ですが、カミさんが買い物のついでに郵便局に寄ったらしくて、
「古事記の切手が出ていたよ」と。
気を効かせて買ってくれれば良かったのに、と思いながら(笑)
2週間くらい前に買ってきたものです。

郵便局に行くと、記念切手やらデザイン切手を展示してあるところに見当たりません。
ありゃーーー、と思いながら、窓口の人に恐るおそる聞きました。
調べてくれて、持ち出してきました。
ありましたね~~(嬉)
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ネットで調べてみたら、発行されたのが7月20日だそうですから、まだ皆さんのところにもあると思いますよ。

4枚の絵が使われています。

木華開耶媛(このはなさくやひめ)
堂本印象画/京都府立堂本印象美術館蔵
山の神オホヤマツミの娘で、サクラの花の美しさとはかなさを象徴する女神です。高天の原から地上に降りたニニギの命と結婚し、ウミサチビコ(海幸彦)・ヤマサチビコ(山幸彦)を生みました。
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「火退(ほそけ)」
堂本印象画/宮内庁三の丸尚蔵館蔵
ヤマトタケルノミコトは、父天皇の命令で東国に遠征しますが、焼津に行った時、土地の豪族にだまされて野原に誘い出され周りから火を着けられます。とっさの判断で周囲の草をなぎ払い、「向かい火」を着けて難を逃れました。古事記によれば、その時に用いた剣(草那芸の剣)と火打ち石は、伊勢神宮を祀っていた叔母ヤマトヒメから与えられた品とされます。
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板絵著色神像/伝素盞嗚尊(でんすさのおのみこと)
八重垣(やえがき)神社蔵
高天の原から追放されて出雲に降りたスサノヲノミコト(古事記の表記は「須佐之男命」)は、ヤマタノヲロチ(古事記の表記は「八俣之遠呂知」)を倒し、生贄として捧げられることになっていたクシナダヒメ(古事記の表記は「櫛名田比売」)と結婚し、地上にはその子孫が繁栄することになりました。
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板絵著色神像/伝稲田姫命(でんいなたひめのみこと)
重要文化財 八重垣(やえがき)神社蔵
『古事記』では櫛名田比売と表記され、『日本書紀』の記述のように「奇し稲田(くしいなだ)姫」すなわち霊妙な稲田の女神と解釈されます。
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古事記を知る(01)

20120908

御存じの方が多いと思いますが、古事記が編纂されて今年が1300年という重要な節目の年にあたります。
それで色々な雑誌が特集号を出しています。
それを読んでいるうち、私もどっぷりと古事記にハマってしまいました。
私は、いま市の歴史講座の研究コースに学んでいますが、そんなわけで私の研究テーマを「市内神社の祭神が登場する古事記」としてしまいました。
研究コースのメンバーで研究テーマの確認やら調整をしている際に、古事記に関して誰も取り組んでいないことに気づき、私は当初別のテーマを考えていたんですが、「編纂1300年の大事な年に誰も知らん顔は無いだろう」という訳で、そういうテーマに変更してしまった訳です(笑)

市内には、「白髭神社」、「諏訪神社」、「八幡神社」、「浅間神社」など沢山の神社があり、其々の祭神が祀られています。その神社の境内にまた境内社があったりして、すごい数のお宮さんがあります。
祭神だけでなく、合祀神も祀られていますから、まずは、どの範囲まで取り組むかというので悩みました。
主なお宮さんの、祭神・合祀神で29柱(神様の単位)となりましたので、その範囲に絞ることにしました。

その神様が古事記の中でどのように活躍しているのかを、まとめていきます。
それを次回から紹介していきますが、古事記にどう書かれているかを調べる上で、どうしても漢字の原文が欲しくなりました。
その理由は:
1)古事記の文章全体を見れば、漢字の意味とやまとことばの意味の対応に基づく表意漢字主体に書かれている。音仮名表記された箇所は、何らかの理由で表意漢字にすることが難しい場合、あるいは音仮名表記することに積極的な意義がある場合だったと思われる。
(山口桂記「古事記の表記と訓読」)
2)現在は「あいうえお・・・・・・」で50音となっていますが、古事記が編纂された当時は、88の音節を区別していた。
例えば「モ」の仮名には二類あり、「毛」の用例は48個、「母」の用例は150余個。両者は栽然と使い分けられていて、一つも例外なし。
3)編纂を命じた天武天皇は歌人であった(政敵大友皇子は漢詩人)。よって古事記は楽劇として口誦されるようなものだったらしい。
「上」と小さく書き込みがあるのは、「上声」を示す発音記号(漢字の四声(しせい)の一。尻上がりに高く発音するもの。)

そういう事を知ると、どうしても漢字の原文で古事記を味わいたくなりますよね。
そんな訳で、漢字原文が載っている本を探しましたが、なかなか見つかりませんでした。市の図書館にも全然ありません。
アマゾンで探していたら、「古事記伝」という本があり、本居宣長撰/倉野憲治校訂の本です。17巻ありますが、第1巻が出たのがなんと1940年です。戦中に出された本ですね。
古事記を世に出したのが本居宣長といいますから、うってつけの本です。
これに漢字の原文が載っています。
もう新刊としては出ていませんが、中古をアマゾンで買えます。
ほんとにアマゾンさまさまです。

もう一つ参考にしたのが「古事記 全訳注/次田真幸」という本で、上、中、下の3巻です。
そんなに詳しく書いていませんが、ほどほどの分量でわかりやすく解説されています。

「古事記伝/本居宣長撰/倉野憲治校訂」
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「古事記 全訳注/次田真幸」
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次回から、古事記について、最初から取り上げていきます。



東松山サンバカーニバル

20120902

昨日、9/1の土曜日に行ってきました。
情報では15:30からとあったので、東松山の駅に少し前に着きました。
地元のよさこいをやってましたが、肝心のサンバは17時からとのこと。
がっくり来ましたが、待つしかありません(涙)
会場の通りを、一応見て歩きましたが、駅に一番近いところにステージが設けられていて、そこが一番良さそうです。そのステージというのが、大型トラックの荷台です(笑)
そのステージで地元の団体が、いろんなイベントをやっているのを見ながら場所取りして待ちました。

時間より早めにパレードがやってきて、はじまり、はじまり。
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サンバのビートに乗って、浮き浮きでした。
けっこう楽しかったですね。



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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