ありがとうございました

20121231

今年は、わりと忙しい一年でした。
・市の歴史講座の研究コース
・歴史講座OBで組織する「歴史クラブ」の行事参加
・4月から引き受けた「学校支援ボランティアコーディネーター」
・それではと「ボランティアコーディネーター養成コース」に通いました。
・おまけにテニスクラブの会長も(笑)

歴史講座研究コースで取り組んでいるのが、「市内主要神社祭神と古事記」です。市内には沢山の神社があるのですが、古事記に登場する祭神を祀っている神社が25社あります。
市内の神社については、その概要が把握できました。
古事記については、熟読しました。
古事記には謎の部分も多く、当分どっぷりとつかっていそうです(笑)

半面、以前から取り組んでいた、「鎌倉街道散歩」と「関東36不動めぐり」については、あまり取り組めませんでした。
研究コースの論文が片付いたら、再度ネジを巻くつもりです。

「学校支援ボランティアコーディネーター」を引き受けたので、行事のたび子供たちの笑顔に接して、とても楽しい思い出がずいぶんと出来ました。
これからも続けていくつもりです。
子供たちに、機会あるたびに郷土の歴史を教えて、歴史を学ぶ大切さを教え、郷土を愛する気持ちを育てていきたいですね。

テニスをやってて、体力が落ちてきたのを痛感したので、2月から週に一度くらいですが、ジムに通っています。
トレーナーが組んでくれたプログラムのテーマは「体幹の持久力」です。おかげで、だいぶ体幹がしっかりしてきたように思います。
駅の階段などを、トントンとはずむように上がっていくとき、基礎体力があるってこういうことなんだなと、嬉しくなりますね(笑)
健康が何より大事だと思うので、これからも続けていきます。

政権が代わっても、相変わらずの国民の生活から乖離した政治が続くようです。
今の選挙制度では国民のために働こうとする議員が選ばれないのは確か。
言いたいことは山ほどありますが、ブログはあくまで趣味のために楽しみでやっていることなので、政治に関することは書きません。

カミさんが、自分の母親の在宅介護に縛られ、自由のない毎日を送っています。私だけが好きな事をやっている毎日なので、申し訳ない気持ちで一杯ですね。せいぜい機会があれば、カミさんを望むところに連れていこうと思っています。

色々と書きましたが、このブログで私の好きなことを発信してきました。
それについて、いつも親切なコメントをいただき、ありがとうございました。

自分では、わりと楽しい一年だったと思っています。
どうも、ありがとうございました。
皆さま、良いお年をお迎えください。


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宮沢賢治歌碑/長瀞

20121230

11月21日に長瀞を訪れましたが、ここに行ったきっかけは、秩父に行った帰りに花園インター近くの道の駅で、埼玉県立自然の博物館のチラシを手に入れ、そこに「宮沢賢治歌碑」があることがわかったからです。

その時の記事は下記クリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1081.html

その時に手に入れた埼玉県立自然の博物館の小冊子「地球の窓・長瀞の自然」に「宮沢賢治と保阪嘉内」と題する記事が載っていて、宮沢賢治がこの辺を訪ねた概略がわかったので、ここに載せておきます。

埼玉県立自然の博物館
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大正時代、岩手県の盛岡高等農林学校では、毎年のように秩父へ地質旅行を実施しました。
大正5(1916)年には当時、同校の2年生だった宮沢賢治が、翌年には賢治の無二の親友となった保阪嘉内が関豊太郎教授に引率されて、長瀞をはじめ秩父地域を訪れました。
旅行中に荒川の清流に洗われた結晶片岩の美しい色と模様に感動した賢治は、
「つくづくと『粋なもやうの博多帯』荒川ぎしの片岩のいろ」
という歌を葉書にしたためて、山梨県の実家に帰省中の嘉内に送りました。

自然の博物館前にある歌碑
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虎岩
賢治の歌は、この虎岩を歌ったものとされている。
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宮沢賢治と保阪嘉内は、盛岡高等農林学校でともに熱い志をいだき、無二の親友となりました。年度はちがいますが地質旅行という行事で、秩父地方の地質観察に釆ています。
写真は、大正5(1916)年5月下旬、盛岡高等農林学校の自啓寮9号室のメンバーが、植物園で記念撮影したもの。
中央が室長の賢治、手前に寝そべっているのが嘉内。
(写真掟供は、保阪庸夫氏、山梨県立文学館)
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この旅行については、萩原昌好という方が詳しく調査され、『宮沢賢治「修羅」への旅』(朝文社、平成6年)で、次のように推定されています。
○9月1日:午後7時発の列車で盛岡発。
○9月2日:在京中であった賢治は上野駅で合流し、熊谷へ。
○9月3日:熊谷から寄居を経て国神へ。
○9月4日:国神から馬車を利用し、小鹿野へ。
○9月5日:小鹿野から三峰山へ。小鹿野から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月6日:三峰山から秩父大宮(現秩父市)へ。
○9月7日:秩父大宮から本野上を経て帰途に。秩父大宮から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月8日:盛岡到着。

賢治が在京中とありますが、賢治の年譜を調べると、この年「7月末、上京してドイツ語講習を受ける。」
とあります。
賢治の飽くなき探求心には驚くばかりです。


それから、この記事を書くために調べていたら、宮沢賢治の歌碑がもう一つ、秩父鉄道野上駅裏手にもあることがわかりました。
「盆地にも 今日は別れの 本野上 駅にひかれる たうきびの穂よ」と刻まれているそうです。
近々、そこを訪れようと思っています。


古事記を知る(08)

20121229

一度掲載したものを見直し、再掲載中です。

2-3 二神の神生み
既生國竟更生神。故生神名大事忍男神。次生石土毘古神。
訓石云伊波亦毘古二字以音下効此次生石巣比賣神。次生大戸日別神。次生天之吹上男神。次生大屋毘古神。次生風木津別之忍男神。訓風云加邪訓木以音次生海神名大綿津見神。次生水戸神名速秋津日子神。次妹速秋津比賣神。自大事忍男神至秋津比賣神併十神。
 此速秋津日子速秋津比賣二神。因河海持別而。生神名沫那藝神。那藝二字以音下効此次沫那美神。那美二字以音下効此次頰那藝神。次頰那美神。次天之水分神。訓分云久麻理下効此次國之水分神。次天之久比奢母智神。自久以下五字以音下効此次國之久比奢母智神。自沫那藝神至國之久比奢母智神併八神。
次生風神名志那都比古神。此神名以音次生木神名久久能智神。此神名亦以音次生山神名大山上津見神。次生野神名鹿屋野比賣神。亦名謂野椎神。自志那都比古神至野椎神併四神。
 此大山津見神野椎神二神。因山野持別而。生神名天之狭土神。訓土云豆知下効此次國之狭土神。次天之狭霧神。次國之狭霧神。次天之闇戸神。次國之闇戸神。次大戸惑子神。訓惑云痲刀比下効此次大戸惑女神。自天之狭土神至大戸惑女神併八神。次生神名鳥之石楠船神。亦名謂天鳥船。次生大宜都比賣神。此神名以音次生火之夜藝速男神。夜藝二字以音亦名謂火之炫比古神。亦名謂火之迦具土神。迦具二字以音因生此子美審登此三字以音見炙而病臥在。多具理邇此四字以音生神名金山比古神。訓金云迦那下効此次金山比賣神。次於屎成神名波邇夜須比古神。此神名以音次波邇夜須比賣神。此神名亦以音次於尿成神名彌都波能賣神。次和
久産巣日神。此神子謂豊宇氣比賣神。
自宇以下四字以音故伊邪那美神者。因生火神。遂神避坐也。
自天鳥船至豊宇氣比賣神併八神。
   凡伊邪那岐伊邪那美二神共所生嶋壹拾肆嶋。神参拾伍神。是伊邪那美神未神避以前所生。
唯意能碁呂嶋者非所生。亦蛭子與淡嶋不入子例。

(読み)
 スデニクニヲウミヲエテサラニカミヲウミマス カレウミマセルカミノミナハオホコトオシヲノカミ ツギニイハツチピコノカミヲウミマシ ツギニイハズヒメノカミヲウミマシ ツギニオホトヒワケノカミヲウミマシ ツギニアメノフキヲノカミヲウミマシ ツギニオホヤピコノカミヲウミマシ ツギニカザモツワケノオシヲノカミヲウミマシ ツギニワタノカミミナハオホワタツミノカミヲウミマシ ツギニミナトノカミミナハハヤアキツヒコノカミ ツギニイモハヤアキツヒメノカミヲウミマシキ オホコトオシヲノカミカラアキッヒメノカミマデアハセテトバシラ
 コノハヤアキツヒコハヤアキツヒメノフタバシラノカミ カハウミニヨリテモチワケテ ウミマセルカミノミナハアワナギノカミ ツギニアワナミノカミ ツギニツラナギノカミ ツギニツラナミノカミ ツギニアメノミクマリノカミ ツギニクニノミクマリノカミ ツギニアメノクヒザモチノカコ ツギニクニノクヒザモチノカミ アワナギノカミカラクニノクヒザモチノカミマデアハセテヤバシラ
 ツギニカゼノカミミナハシナツヒコノカミヲウミマス ツギニキノカミミナハククノチノカミヲウミマス ツギニヤマノカミミナハオホヤマツミノカミヲウミマス ツギニヌノカミミナハカヤノヒメノカミヲウミマス マタノミナハノヅチノカミトマヲス シナツヒコノカミヨリノヅチノカミマデアハセテヨバシラ コノオホヤマツミノカミノヅチノカミフタバシラ ヤマヌニヨリテモチワケテ ウミマセルカミノミナハアメノサヅチノカミ ツギニクニノサヅチノカミ ツギニアメノサギリノカミ ツギニクニノサギリノカミ ツギニアメノクラトノカミ ツギニクニノクラドノカミ ツギニオホトマトヒコノカミ ツギニオホトマトヒメノカミ アメノサヅチノカミヨリオホトマトヒメノカミマデアハセテヤバシラ
 ツギニウミマセルカミノミナハトリノイハクスフネノカミ マタノミナハアメノトリフネ ツギニオホゲツヒメノカミヲウミマシ ツギニヒノヤギハヤヲノカミヲウミマス マタノミナハはヒノカガピコノカミ マタノミナハヒノカグツチノカミトマヲス コノミコヲウミマスニヨリ ミホトヤカエテ ヤミコヤセリ タグリニ ナリマセルカミノミナハカナヤマピコノカミ ツギニカナヤマビメノカミ ツギニクソニナリマセルカミノミナハハニヤスピコノカミ ツギニハニヤスビメノカミ     ツギニユマリニナリマセルカミノミナハミツハノメノかみ ツギニワクムスヒノカミ コノカミノミコヲトヨウケビメノカミトマヲス カレイザナミノカミハ ヒノカミヲウミマセルニヨリテ ツヒニカムサリマシヌ アメノトリフネヨリトヨウケビメノカミマデヤバシラ

 (現代語訳)
 伊邪那岐.伊邪那美神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、大事忍男神、次に石土毘古神を生み、次に石巣比賣神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神の、名は大綿津見神を生み、次に水戸の神の、名は速秋津日子神、次に女神の速秋津比賣神を生んだ。 大事忍男神より秋津比売神まで合わせて十神。
 この速秋津日子・速秋津比売の二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、沫那藝神と沫那美神、次に頰那藝神と頰那美神、次に天之水分神と国之水分神、次に天之久比奢母智神と国之久比奢母智神である。 沫那藝神より国之久比奢母智神まで、合わせて八神。
 次に風の神の、名は志那都比古神を生み、次に木の神の、名は久久能智神を生み、次に山の神の、名は大山津見神を生み、次に野の神の、名は鹿屋野比賣神を生んだ。この神のまたの名を野椎神という。 志那都比古神より野椎神まで、合わせて四神。この大山津見神・野椎神の二神が、山と野を分担して生んだ神の名は、天之狭土神と国之狭土神、次に天之狭霧神と国之狭霧神、次に天之闇戸神、国之闇戸神、次に大戸惑子神と大戸惑女神である。 天之狭土神より大戸惑女神まで、合わせて八神である。
 次に生んだ神の名は、鳥之石楠船神で、またの名は天鳥船という。次に大宜都比賣神を生んだ。次に火之夜藝速男神を生んだ。またの名は火之炫比古神といい、またの名は火之迦具土神という。この子を生んだために、伊邪那美命は、陰部が焼けて病の床に臥された。そのときの嘔吐から成った神の名は、金山比古神と金山比賣神である。
 次に糞から成った神の名は、波邇夜須比古神と波邇夜須比売神である。次に尿から成った神の名は、彌都波能賣神と和久産巣日神である。この和久産巣日神の子は、豊宇氣比賣神という。そして伊邪那美神は、火の神を生んだのが原因で、ついにお亡くなりになった。 天鳥船より豊宇氣比賣神神まで、合わせて八神である。
  伊邪那岐.伊邪那美神が、共々に生んだ島は、すべて十四島、また神はすべて三十五 神である。 
これらは、伊邪那美神が亡くなられる前に生まれた。ただし意能碁呂島は、生んだのではない。また蛭子と淡島とは、子の数には入れない。

(解説)
石土毘古神:岩や土の男神
石巣比賣神::岩や砂の女神
大戸日別神:家の戸口の神
天之吹男神:屋根を葺く男神
大屋毘古神:家屋を掌る男神
大綿津見神:海を主宰する神
水戸の神:河口をつかさどる神
速秋津日子神・速秋津比賣神:禊ぎに関する神で、海に流れ込む水を呑み込む神
沫那藝神・沫那美神:水面に立つ泡の神
頰那藝神・頰那美神:ツラは水面の意味
天之水分神・国之水分神:「水分神」は農業用水を分配する分水嶺の神
天之久比奢母智神・国之久比奢母智神:水を汲む瓢(ひさご)の神、すなわち灌漑を掌る神
志那都比古神:シナは風長(しな)の意で、風を掌る神
久久能智神:ククは茎の意、チは霊威を表す
大山津見神:山を支配する神
鹿屋野比賣神:カヤは屋根を葺く草の意
野椎神:野をつかさどる神霊の意
天之狭土神・国之狭土神:サは接頭語で、山野の土の神
天之狭霧神・国之狭霧神:サは接頭語で、山野の霧の神
天之闇戸神・国之闇戸神:クラトは暗い所の意で、谷間の神をいう
大戸惑子神・大戸惑女神:マトヒは道に迷う意
鳥之石楠船神:神が天がけるときに乗る楠の船を神格化したもの
天鳥船:鳥のように天がける船の意
大宜都比賣神:穀物や食物を掌る女神
火之夜藝速男神:火の焼く威力を神格化したもの
火之炫比古神:火の輝く威力を神格化したもの
火之迦具土神:カグはカガと同様、光輝くこと、光輝く火の神霊の意
みほと:女陰
金山比古神・金山比賣神:鉱山の神の意
波邇夜須比古神・波邇夜須比売神:ハニは赤黄色の粘土で、土器をつくる材料。ヤスは「ねやす」で、水を加えてねばりを与えること。
彌都波能賣神:灌漑用水を掌る女神
和久産巣日神:ワクは若々しいの意。ムスヒは生産の神を表す。農業の生産を掌る神。
豊宇氣比賣神:ウケは食物の意。食物を掌る女神。
神避(かむさ)り:神がこの世から去ること

火の神の生誕を語る部分は、火の起源を述べた神話と見てよい。此の火神生誕の話は、早く高木敏雄氏の述べられた(「比較神話学」参照)ように、火きり臼と妃きり杵を用いて火をきり出す、古代の発火法を背景として語られたものと思われる。この場合、火きり杵は男根、火きり臼は女陰に見立てられていることになる。
火の神の後には、鉱山の神・粘土の神・灌漑の神・生産の神・食物の神が生まれる。

これらの多くの神々によって、古代人の生活環境と、農業経済を中心とする文化の状態を、おぼろげながら知ることができる。
イザナミの神は大地母神の性格を持っているから、農業文化には特に関係が深い。

淤能碁呂島伝承地の淡路島南に位置する小さな島「沼島」にある「おのころ神社」の「イザナキ・イザナミの像」
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フェアー・ビアンカ

20121228

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系統: ER イングリッシュローズ
作出: 1982年 イギリス デビッド・オースチン
咲く時期: 四季咲き
花色: 純白に僅かなクリーム色
香り: 強香

いかにもイングリッシュローズらしい花容で、純白に僅かなクリーム色が混じる色合いと精細な花弁が印象的です。
香りも高くミルラの香りを含むそうですが、独特で、クチナシの香りを想像しました。
フェアビアンカの香りには、肌の黒ずみの原因となるメラニン色素の生成を妨げる成分が含まれていると、カネボウ化粧品が学会発表を行ったそうです。

シェイクスピアの喜劇「じゃじゃ馬ならし」の主人公カタリーナ・ミノーラ の妹の名前がビアンカですね。


2012年6月 軽井沢レイクガーデンにて
朝、小雨が降ったあとなので、濡れた花弁が印象的です。


ブルックナー/交響曲第5番変ロ長調/ギュンター・ヴァント

20121227

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指揮:ギュンター・ヴァント
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1996年1月12-14日、ベルリン、フィルハーモニー[ライヴ]

ブルックナーが聴きたくて、取り出したのがこれ。
ブルツクナーを聴きたいと思ったときに何を聴くかいつも迷う。みんな好きだからだ。
私は「ブルックナーおじさん」そのものが大好きだ。
これは、田代櫂さんという方が書いた「アントン・ブルックナー 魂の山嶺」という本を読んでから。
とても不器用な、ちょっとこっけいな愛すべきおじさんが作曲すると、祈りに満ちたスケールのどでかい交響曲が生まれる。
しかも、この人は作曲したものに未練たらたらで、20年くらい経ったあとでも手直ししたりする(笑)

この曲は、「対位法的」交響曲あるいは「幻想風」交響曲といわれているが、本当にブルックナーらしい傑作だと思う。

冒頭の「ブルックナーの霧」が晴れてから、壮大なスケールで曲が進行していく。
第1楽章、第2楽章のアダージョでは、ブルックナーの繊細なところも堪能できる。
最終楽章の「コラール」がまた雄大かつ荘厳、壮麗な音楽です。

ヴァントにとっては、この曲が運命交響曲だったようです。
ブルックナー指揮者としての道を決定付けてくれたのが、第5番。
WDR(ケルン西ドイツ放送)との録音が各紙誌で絶賛を受け、世に知られるようになったそうです。

ヴァントのアプローチでいいなと思うのは、やや早めのインテンポで、質実剛健そのもの。しかし雄渾なスケール感を失っていないのがいい。
ベルリンフィルならではの超絶なアンサンブルがもちろん味わえます。
この曲は、きわめてかっちりしたスケールの大きな曲だが、第2楽章など自然を彷彿とさせるような抒情的な音楽のところがある。そこでも感傷的な音楽にはならずに、崇高さを保っているところが素晴らしい。
終楽章が、壮大なスケールで進行するが、音楽がごく自然に滔々と進行していくのは、さすがヴァントの指揮だなと、感じ入る。


国僧日蓮/童門冬二

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鎌倉街道を調べていて、色々ある史実の中で、日蓮が佐渡に流された時この道を通っていったということがあります。
埼玉県児玉町にある鎌倉街道沿いの寺で、玉蓮寺というのがあり、この寺の由来は日蓮が佐渡に流された時、当所児玉六郎時国邸に一泊したことが記録に残っています。児玉党は武蔵七党と呼ばれる武士団のなかで最有力な存在だったそうです。
時国は、日蓮に帰依し、日蓮が赦免されて帰るときも久米川まで送っていき、そこで別れるとき、日蓮から「久米」の姓をもらい、以後久米と名乗りました。そして日蓮入寂後、邸宅を廃して寺院とし、「玉蓮寺」と名付けたそうです。

で、日蓮についても関心が湧きました。
たった一晩泊めただけで、人の心を虜にする日蓮の魅力とは?

「過激」というイメージがありましたが、若き日の日蓮を突き動かしていたのは飽くなき探求心でした。
当時、後鳥羽上皇が隠岐に流され、そこで崩御されたが、王城鎮護の祈りを高僧たちが行っているのに、何故そんなことが起こるのか?

日蓮は、鎌倉で、それに飽きたらずついに比叡山に上ります。そこにあるお経を片端から読み、ついには若年にありながら比叡山内の2ケ寺を任されるまでになる。
比叡山内のお経を読破し、そこで「法華経」こそ正しい教えと確信する。
そして、この本によれば、比叡山を開いた最澄は法華経を第一としていたが、第三代慈覚大師のときから、法華経の上に大日経が置かれ、日蓮が比叡山に上がったころには、真言密教が主流を占めていた。

日蓮は、釈迦が開いた仏教の教えが、どうして真言密教やら、禅宗やら、念仏の浄土宗やら色々な教義に分かれてしまったのかと嘆き、釈迦の晩年、正しい教えは「法華経」であると言っていると、法華経以外の経文を信ずる宗派は全て間違っていると攻撃します。

私はというと、特にどの宗派が良いというのではないが、「関東36不動尊めぐり」をしている最中で、真言密教の悪口が出てくると、ちょっと面白くなかった(笑)

だいたい、日本は「八百万の神」、「曼荼羅の仏たち」を信じる国だから、そこに「正しいのはこれ一つ」という主張は、なかなか受け入れられない。
当然日蓮は、迫害されたり、罪に問われたりします。

しかし、念仏宗の盛んな佐渡に流され、念仏宗を攻撃していた日蓮は「野垂れ死に」するように扱われても、いつしか周囲に日蓮の信者が出来て行き、ついには地頭の本間重連でさえ帰依するようになったのだから、日蓮の人間的な魅力がすごかったということだろう。

この本では、日蓮の沢山残っているという手紙から、日蓮の緻密な心遣いや慎重な行動を述べている。
さもありなん、という感じで、日蓮の信者が増えて行ったことは納得できました。

もう一つ、この頃の北条政権の姿が書かれています。
この頃には、北条一族のなかでの北条得宗家の利権死守の闘争に明け暮れ、これでは北条が滅びたのも無理ないなと言うことが良くわかった。


ところざわ太鼓祭り(2)

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23日に所沢ミューズで行われた「ところざわ太鼓祭り」の前半を前日掲載しましたが、休憩をはさんで後半です。
後半の最初は、再び、プロの和太鼓奏者「TAKERU~猛~」による演奏でした。
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後半のトップバッターは
【鼓太郎】(府中市)
中学の太鼓部で活躍した4人が、卒業と同時に結成したグループで、全員女子。
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かっこいい羽織です。
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キレのいい演奏でした。
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少女も頑張っていました。
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【じょんから太鼓 紅楽座】(所沢市)
2010年に所沢で結成された津軽三味線と和太鼓のユニット。
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衣装が綺麗で、しかも津軽三味線と和太鼓の曲が、実によかった。
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そして阿波踊り「むさし葵連」とのコラボです。
「むさし葵連」は狭山市で活動している連です。今年の「高円寺阿波踊り」に写真を撮りに行きましたが、この連もなかなか良かったという記憶があります。
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【入間修武太鼓】(入間市)
自衛隊入間基地の太鼓部です。
今年は英国空軍から招待され、イギリスの航空ショーで演奏したそうです。
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太鼓の配置を自在に変えながら、勢いのある演奏でした。
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この人の制服姿を見てみたいものです。
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【創作和太鼓 鼓 悠】(所沢市)
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曲が変わり、法被も脱いで熱演。
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【川越ふじ太鼓】(川越市)
幼稚園での活動から始まった「和太鼓教室」が川越で一番大きなグループに。2013年3月の全国大会にジュニアチームが出場が決まっているそうです。
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おかめとひょっとこが登場。この二人は大きな盛り立て役みたいです。
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【フィナーレ】
出場者全員が勢ぞろい。圧巻の迫力でした。
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私は、写真を撮るため、二階の最前列に居たが、それでも音の迫力はすごかった。
一緒に行った歴史の仲間は、一階の前から6,7列くらいだったので、太鼓の響きがハンパでないと言っていた。
4時間、太鼓の音を聴き続けたわけだが、どのグループも曲に工夫を凝らしていて、まったく飽きることが無かった。
たぶん、毎年聴きにいくことになるだろう。
素晴しかった。

(了)


ところざわ太鼓祭り(1)

20121224

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23日(日)に行ってきました。第3回ということですが、全部で4時間熱のこもった演奏でした。
今回は前半のみ掲載。

オープニングは、プロの和太鼓奏者「TAKERU~猛~」による演奏でした。
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やはりプロの音は、強さとキレが違います。

トップバッターは、
【重松流祭囃子保存会 御幸町囃子連】(所沢市)
たいていは山車に乗っての演奏だそうですが、今日は舞台用にアレンジして。
踊りが付いているのが特徴。
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お囃子は、わりと小人数でした。
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いろんな踊り手が出てきました。
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【華太鼓】(所沢市)
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【和太鼓 狭山けやき会】(狭山市)
幅広い年齢層で、週に二回熱心に練習しているそう。
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バチが速くて、写ってない。
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【天神太鼓】(所沢市)
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これは腹筋が大変!!
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【和太鼓 「連」】(毛呂山町)
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衣装に工夫がされていた。
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【ところ太鼓】(所沢市)
年齢層が厚い、家族的なチーム。
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美女集団の姉妹チーム「鼓桜」のメンバーでしょうか。女性の活躍が目立ちました。
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(続く)


古事記を知る(07)

20121222

一度掲載したものを見直し、再掲載中です。

2-2 二神の国生み
於是二柱神議云。今吾所生之子不良。猶宜白天神之御所。即共参上。謂天神之命。布斗麻邇爾
上。此五字以音卜相而詔之。因女先言而不良。亦還降改言。
故爾反降。更往廻其天之御柱如先。於是伊邪那岐命。先言阿那邇夜志愛袁登賣袁。後妹
伊邪那美命。言阿那邇夜志愛袁登古袁。如此言竟而。御合。生子淡道之穂之狭別嶋。
訓別云和気下効此次生伊豫之二名嶋。此嶋者身一而有面四。毎面有名。故伊豫國謂愛上比賣。此三字以音下効此讃岐國謂飯依比古。粟國謂大宜都比賣。此四字以音土左國謂建依別。次生隠岐之三子嶋。亦名天之忍許呂別。許呂二字以音次生筑紫嶋。此嶋亦身一而有面四。毎面有名。故筑紫國謂白日別。豊國謂豊日別。肥國謂建日向日豊久士比泥別。自久至泥以音熊曾國謂建日別。曾字以音次生伊伎嶋。亦名謂天比登都柱。自比至都以音訓天如天次生津嶋。亦名謂天之狭手依比賣。次生大倭豊秋津嶋。亦名謂天御虚空豊秋津根別。故因八嶋先所生。謂大八嶋國。
然後還坐之時。生吉備兒嶋。亦名謂建日方別。次生小豆嶋。亦名謂大野手上比賣。次生大嶋。亦名謂大多痲上流別。
自多至流以音次生女嶋。亦名謂天一根。訓天如天次生知訶嶋。亦名謂天之忍男。次生両兒嶋。亦名謂天両屋。自吉備兒嶋至天両屋併六嶋

(読み)
 ココニフタバシラノカミハカリタマヒツラク イマアガウメリシミコフタハズ ナホアマツカミノミモトニマヲスベシトノリタマヒテ スナハチトモニマイノボリテ アマツカミノミコトヲコヒタマヒキ ココニアマツカミノミコトモチテ フトマニニウラヘテノリタマヒツラク ヲミナヲコトサキダチシニヨリテフサハズ マタカヘリクダリテアラタメイヘトノリタマヒキ
 カレスナハチカヘリクダリマシテ サラニカノアメノミハシラヲサキノゴトユキメグリタマヒキ ココニイザナキノミコト マヅアナニニヤシエヲトメヲトノリタマヒ ノチニイモイザナミノミコト アナニヤシエヲトコヲトノリタマヒキ カクノリタマヒヲエテ ミアヒマシテ ミコアハヂノサワケノシマヲウミタマヒキ ツギニイヨノフタナノシマヲウミタマフ コノシマハミヒトツニシテオモヨツアリ オモゴトニナアリ カレイヨノクニヲエヒメトイヒ サヌギノクニヲイヒヨリヒコトイヒ アハノクニヲオホゲツヒメトイヒ トサノクニヲタケヨリワケトイフ ツギニオキノミツゴノシマヲウミタマフ マタノナハアメノオシコロワケ ツギニツクシノシマヲウミタマフ コノシマモミヒトツニシテオモヨツアリ オモゴトニナアリ カレツクシノクニヲシラビワケトイヒ トヨクニヲトヨビワケトイヒ ヒノクニヲタケヒムカヒトヨクジヒネワケトイヒ クマソノクニヲタケビワケトイフ ツギニイキノシマヲウミタマフ マタノナハアメヒトツバシラトイフ ツギニツシマヲウミタマフ マタノナハアメノサデヨリヒメトイフ ツギニサドノシマヲウミタマフ ツギニオホヤマトトヨアキヅシマヲウミタマフ マタノナハアマノミソラトヨアキヅネワケトイフ カレコノヤシマゾマヅウミマセルクニナルニヨリテ オホヤシマクニトイフ
 サテノチカヘリマストキニ キビノコジマヲウミタマフ マタノナハタケヒガタワケトイフ ツギニアヅキシマヲウミタマフ マタノナハオホヌデヒメトイフ ツギニオホシマヲウミタマフ マタノナハオホタマルワケトイフ ツギニヒメジマヲウミタマフ マタノナハアメヒトツネトイフ ツギニチカノシマヲウミタマフ マタノナハアメノオシヲトイフ ツギニフタゴノシマヲウミタマフ マタノナハアメフタヤトイフ キビノコジマヨリアメノフタヤノシママデアハセテムシマ

(現代語訳)
 そこで二桂の神が相談していうには、「今私たちの生んだ子は不吉であった。やはり天つ神の所に行って申しあげよう」といって、ただちにいっしょに高天原に上って、天つ神の指図を仰がれた。そこで天つ神の命令によって、鹿の肩骨を焼いて占いをして仰せられるには、「女が先に言葉を発したので良くなかった。また帰り降って、改めて言い直しなさい」と仰せられた。それで二神は帰り降って、またその天の御柱を、前のようにお回りになった。そしてイザナキノ命が先に、「ああ、なんと可愛い少女だろう」と言い、後に女神のイザナミノ命が、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言った。
 このように言い終わって、結婚して生まれた子は、淡路之穂之狭別島(淡路島)である。次に伊予之二名島(四国)を生んだ。この島は身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、伊予国をエヒメといい、讃岐国をイヒヨリヒコといい、阿波国をオホゲツヒメといい、土佐国をタケヨリワケという。次に三つ子の隠岐島を生んだ。またの名をアメノオシコロワケという。次に筑紫島(九州)を生んだ。この島も身体は一つで顔が四つある。それぞれの顔に名があって、筑紫国をシラヒワケといい、豊国をトヨヒワケといい、肥国をタケヒムカヒトヨクジヒネワケといい、熊曾国をタケヒワケという。次に壱岐島を生んだ。またの名をアメヒトツパシラという。次に対馬を生んだ。またの名をアメノサデヨリヒメという。次に佐渡島を生んだ。次に大倭豊秋津島を生んだ。またの名をアマツミソラトヨアキヅネワケという。そしてこの八つの島を先に生んだので、わが国を大八島国という。
こうして大八島を生んで帰られる時に吉備児島を生んだ。またの名をタケヒカタワケという。次に小豆島を生んだ。またの名をオホノデヒメという。次に大島を生んだ。またの名をオホタマルワケという。次に女島を生んだ。またの名をアメヒトツネという。次に知訶島を生んだ。またの名をアメノオシヲという。次に両児島を生んだ。またの名をアメフタヤという。吉備児島から天両児島まで合わせて六島。

(解説)
「ふとまに」は鹿の肩骨を朱桜(ははか=かば桜)の木で焼いて、吉凶を判断する占いのことです。
ここに出てくる島の名前は、次のように理解されます。
淡路之穂之狭別島:「淡路島」とその別称の「穂之狭別」を組み合わせた名称
伊予之二名島:四国の総称。
隠岐之三子島:隠岐島は島前・島後に分かれているが、島前が三島からなるので「三子島」といった。
筑紫島:九州の総称。古く、筑紫国が政治・文化の中心地であったから、そう呼ばれた。
熊曾国:熊国(熊本県の南部)と曾国(鹿児島県と宮崎県南部)とを合わせた、九州南部の古称。
大倭豊秋津島:大和国を中心とする畿内地方一帯を指した古称。
吉備児島:今の児島半島であるが、昔は島であった。
大島:山口県の大島(屋代島)であろう。
女島(ひめしま):国東半島の北にある姫島であろう。
知訶島:長崎県の五島列島をさす。
両児島:五島列島の南の男女群島の男島・女島であろう。

イザナキノ命は、古くから淡路島の海人集団の信仰する神であったこと、国生みの順序が淡路島から始まっていることから、イザナキ・イザナミ二神が淡路島やその付近の島々を生むという物語が、宮廷神話としたとき、大規模な大八島国生みの物語に発展したと松前健博士は言っています。
「古事記」では、淡路島から始まって四国・九州・壱岐・対馬の順に、瀬戸内海をへて大陸に通う航路に従って西に進んでおり、畿内以東はまったく考慮されていない。この神話は、淡路島を中心として形成された、古代の政治地図の姿を表している。
国名や神名に、穀物に因んだ名称が多い。
神名に「・・・ワケ」という名が多いのは、古代の天皇の謚号や皇子の名に用いられた「別」と関連があるようです。

ベートーヴェン/弦楽四重奏曲第15番Op.132

20121220

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演奏:アルバン・ベルク四重奏団
1983年12月 Seon Aargau Switzerland

アルバン・ベルクのベートーヴェン弦楽四重奏曲全集も、聴きこんできて15番まできた。
まったくベートーヴェンという人はすごい人だ。

第一楽章、薄明かりの中をただよう感じで、弦楽器の美しい和声が楽しめます。

第3楽章が非常に美しいです。
深い霧のなかから女神が立ち現われ、ゆったりとした神秘的な祈りに満ちた踊りが続いていくイメージ。

この曲を書いているとき、ベートーヴェンは腸の病気で血を吐いてしまうほど重体だったそうだ。当然死ぬかもしれないと言う恐怖にも襲われたことでしょう。病から回復したことを神に感謝する気持ちから、「病より癒えたる者の神への聖なる感謝の歌」という題名がついているそうです。

第1楽章はじめの感じから、暗い雰囲気の曲かと思ったが、暗いのは最初だけで、以後は意外と明るい感じで推移します。
最終楽章でも、悲しいような旋律ですがそれで滅入ってしまうということはありません。

その響きだけに耳を傾けていればいいと、自然な感じで聞いていられる曲ですね。

ただ音楽を聴く。
その音楽が聞こえてくる。
静かな、なんとなく幸せな気分。


フェー

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系統: FL フロリバンダローズ
作出: 1963年 作出者 W. Kordes & Sons 作出国 ドイツ
咲く時期: 四季咲き
花形: 房咲き
花色: 橙系 サーモン系
香り: 穏やかな芳香


ドイツ語で「妖精」を意味するようです。

2002年6月 京都府立植物園にて


古事記を知る(06)

20121217

一度掲載したものを見直し、再掲載中です。

2.伊邪那岐命と伊邪那美命
2-1 淤能碁呂島
於是天神諸命以。詔伊邪那岐命伊邪那美命二柱神。修理固成是多陀用幣流之國。賜天沼矛而。言依賜也。故二柱神立
訓立云多多志天浮橋而。指下其沼矛以畫者。塩許袁呂許袁呂邇此七字以音畫鳴訓鳴云那志而。引上時。自其矛末垂落之塩。累積成嶋。是淤能碁呂嶋。自淤以下四字以音
於其嶋天降坐而。見立天之御柱。見立八尋殿。於是問其妹伊邪那美命曰。汝身者如何成。答曰吾身者成成不成合處一處在。爾伊邪那岐命詔。我身者成成而成餘處一處在。故以此吾身成餘處。刺塞汝身不成合處而。為生成國土奈何。訓生云字牟下効此伊邪那美命答曰然善。爾伊邪那岐命。詔然者吾興汝行廻逢是天之御柱而。為美斗能麻具波此。此七字以音如此云期。乃詔汝者自右廻逢。我者自左廻逢。約竟以廻時。伊邪那美命先言阿那邇夜志愛袁登古袁。此十字以音下効此後伊邪那岐命言阿那邇夜志愛袁登賣袁。各言竟之後。告其妹曰女人先言不良。
雖然久美度邇
此四字以音興而。生子水蛭子。此子者入葦船流去。次生淡嶋。是亦不入子之例。
(読み)
 ココニアマツカミモロモロノミコトモチテ イザナギノミコトイザナミノミコトフタバシラノカミニ コノタダヨヘルクニヲツクリカタメナセトノリゴチテ アマノヌボコヲタマヒテ コトヨサシタマヒキ カレフタバシラノカミ アマノウキハシニタタシテ ソノヌボコヲサシオロシテカキタマヘバ シホコヲロコヲロニカキナシテ ヒキアゲタマフトキニ ソノホコノサキヨリシタダルシホ ツモリテシマトナル コレオノゴロシマナリ
 ソノシマニアモリマシテ アメノミハシラヲミタテ ヤヒロドノヲミタテタマヒキ ココニソノイモイザナミノミコトニ ナガミハイカニナレルトトヒタマヘバ アガミハナリナリテナリアハザルトコロヒトトコロアリトマヲシタマヒキ イザナギノミコトノリタマヒツラク アガミハナリナリテナリアマレルトコロヒトトコロアリ カレコノアガミノナリアマレルトコロヲ ナガミノナリアハザルトコロニサシフタギテ クニウミナサムトオモフハイカニトノリタマヘバ イザナミノミコトシカヨケムトマヲシタマヒキ ココニイザナギノミコト シカラバアトナトコノアメノミハシラヲユキメグリアヒテ ミトノマグハヒセムトノリタマヒキ カクイヒチギリテ スナハチナハミギリヨリメグリアヘ アハヒダリヨリメグリアハムトノリタマヒ チギリヲヘテメグリマストキニ イザナミノミコトマヅアナニヤシエヲトコヲトノリタマヒ ノチニイザナギノミコトアナニヤシエヲトメヲトノリタマヒキ オノオノノリタマヒヲヘテノチニ ソノイモニヲミナヲコトサキダチテフサハズトノリタマヒキ シカレドモクミドニオコシテ ミコヒルゴヲウミタマヒキ コノミコハアシブネニイレテナガシステツ ツギニアハシマヲウミタマヒキ コモミコノカズニハヒラズ

 (現代語訳)
 そこで天つ神一同のお言葉で、イザナキノ命・イザナミノ命二柱の神に、「この漂っている国土をよく整えて、作り固めよ」と仰せられて、神聖な矛を授けて御委任になった。そこで二柱の神は、天地の間に架かった梯子の上に立たれ、その矛をさし下ろしてかき廻されたが、潮をごろごろとかき鳴らして引き上げられる時、その矛の先からしたたり落ちる潮水が、積もり重なって島となった。これがオノゴロ島である。
 二神はその島にお降りになって、神聖な柱を立て、広い御殿をお建てになった。そしてイザナキノ命が、女神のイザナミノ命に尋ねて、「おまえの身休はどのようにできていますか」と仰せられると、女神は、「私の身体はだんだん成り整って、成り合わない所が一所あります」とお答えになった。そこでイザナキノ命が仰せられるには、「私の身体はだんだん成り整って、成り余った所が一所あります。それで、この私の身体の成り余っている所を、おまえの身体の成り合わない所にさしふさいで、国土を生み出そうと思う。生むことはどうだろう」と仰せられると、イザナミノ命は、「それは結構でしょう」とお答えになった。
 そこでイザナキノ命が仰せになるには、「それでは私とおまえとこの神聖な柱を回り、出会って結婚をしよう」と仰せになった。そう約束して男神は、「おまえは右から回って会いなさい。私は左から回って会いましょう」と仰せられ、約束のとおり回るとき、イザナミノ命が先に、「ああ、なんとすばらしい男性でしょう」と言い、その後でイザナキノ命が、「ああ、なんとすばらしい少女(おとめ)だろう」と言い、それぞれ言い終って後、男神は女神に告げて、「女が先に言葉を発したのは良くない」と仰せられた。しかし聖婚の場所で結婚して、不具の子水蛭子を生んだ。この子は葦の船に乗せて流し棄てた。次に淡島を生んだ。この子も御子の数には入れなかった。

(解説)
淤能碁呂島:比定地は多いようだが、淡路島の南に位置する小さな島「沼島」もその一つ。
ここに高さ30mの「上立神岩」がある。イザナキとイザナミが回った「天の御柱」とも言われるが、「天の沼矛」にも見えてきます。島には「おのころ神社」もあるといいます。
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「天瓊を以て滄海を探るの図/小林永濯・画、明治時代」
右がイザナギ、左がイザナミ
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「あなにやし」というのは、「あなに」はああ、ほんにの意で、「やし」は感動を表します。「えをとこを」は、「え」は愛すべき、可愛いの意で、「をとこ」は若い男。「を」は感動を表します。兄妹結婚によって、不具の子が生まれたとする説話は、中国南部から東南アジアにかけて広く分布しているそうです。

流された蛭子神が流れ着いたという伝説は日本各地に残っています。日本沿岸の地域では、漂着物をえびす神として信仰するところが多く、ヒルコがえびす(恵比寿・戎)と習合・同一視されるようになった。ヒルコ(蛭子神、蛭子命)を祭神とする神社は多く、和田神社(神戸市)、西宮神社(兵庫県西宮市)などで祀られています。
西宮神社は、カミさんの母親が近くに長く住んで居たので、我が家にはちょっと身近な存在である。
テレビで毎年放送されて有名なのは、毎年1月10日前後の3日間で行われる十日えびす(戎)で、「開門神事福男選び」ですよね。

イザナギを祀っているのは、伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)、 多賀大社(滋賀県)、 江田神社(宮崎県宮崎市)、 朝代神社(京都府舞鶴市)、 三峯神社(埼玉県秩父市)、 筑波山神社(茨城県つくば市)、 常陸國總社宮(茨城県石岡市)、 熊野神社(千葉県四街道市)、各地の 伊邪那岐神社 など

イザナミを祀っているのは、伊弉諾神宮(兵庫県淡路市)、 多賀大社(滋賀県)、 花窟神社(三重県熊野市)、 三峰神社(埼玉県秩父市)、 筑波山神社(茨城県つくば市)、 熊野神社(千葉県四街道市)、 熊野大社(島根県松江市)、 神魂神社(島根県松江市)、 佐太神社(島根県松江市)、 飯盛神社(福岡県福岡市)など



古事記講演会/古事記を知る(05)

20121216

昨日、奈良県立橿原考古学研究所の東京講演会「古事記の新たな世界」が新宿であり、それを聞いてきました。
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1.天武天皇と「古事記」

古事記が天武天皇の指導のものに編纂されたが、太安万侶と稗田阿礼が、ともに大海人皇子と勢力的、地縁的に深い関係だった。
・「古事記」に天武天皇が傾倒していた中国道教の影響がある。
・国生み神話で、最初に淡路島が出てくるが、淡路島は海人集団の雄である阿曇氏の根拠地。ここの神話が取り込まれたとみられるが、「日本書紀」では淡路島が歓迎されない島となっており、古事記と正反対の扱いとなっている。
・古事記のストーリーが天孫降臨神話から海神宮神話へ大きく転換しているが、天武天皇が幼少の頃、尾張の海人の家系につながる乳母に養育されたこと、アマテラスは海洋神であったことなどの影響が大きい。
・「高天原」は日本書紀には表記がなく、古事記だけの表記だが、持統天皇の謚名が「高天原広野姫天王」と称され、道教経典に「皇天原」という名があることから、天武天皇との関連が考えられる。

以上が内容のあらましだった。
以前から天武天皇には、文化の保存という点では敬服しきりである。
・漢字の流入によって失われつつある「やまとことば」や伝承
・仏教の導入に対して、それまで信仰されていた(よろず)神
・天津神(渡来民族の神)に対する国つ神(従来の土俗神)
・舞楽でも唐楽・高麗楽に対する国風歌舞

そして、何よりも天武天皇が伊勢神宮の式年遷宮の制度を詳しく記述させ実行させたために、現在の私達は当時の衣食住をそのまま知ることができるのである。
例えば、当時は米を蒸して食べていたことなど。

2.太安万侶墓の発掘からわかること。

太安万侶墓の墓が発見されたのは、わずか30年前!!
これが発見されたために、それまで学者によっては太安万侶の存在自体否定していた人も居たというから、とても大きな発見だったわけだが、この講演で吃驚したのは、それがまったく偶然に見つかったということだ。

お茶畑を営む夫妻が茶木の改植作業中に、木炭で囲った空洞のなかで火葬骨を見つけられ、その下から墓誌が現れた。

発掘前の現場
左上の場所に、小さい丸があるのが、発掘場所。
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墓誌というのは、もともと柩につけられるものなので、今まで全国で16点しか確認されていないとかで、本当に良く見つかったものだ。
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3.考古学からみた古事記の世界
-舒明期再建見-


この講演で示された「古事記編纂関連の皇統」
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右上に書かれた30代敏達天王イコール33代推古天皇である。
ここまでが、古事記に書かれている。

推古天皇の次の舒明天皇については、いままでよくわかっていなかった。
蘇我一族の隆盛に続いて「大化の改新」が歴史的な事として、舒明天皇については、さしたる事績なしと片づけられていた。

ところが、1997年の発掘調査で、桜井市吉備に大規模な寺院の跡が確認された。

そして舒明天皇が志した「百済大寺」、「百済大宮」の規模が明らかになってきた。
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その後の「都城計画」の先駆けとなるものを舒明天皇が「創業」していたようだ。


聴いていて、とても面白かった。

出雲大社に関しても、ついこのあいだの2000年に発掘された「宇豆柱」によってそれまで疑問視されていた、出雲大社の高層建築が裏付けられたばかりである。

「古事記」の世界は、古い時代の話なのだけれども、考古学でもいまだに新しい発見が続いている、現代の学問でもある。
それが、色々と勉強していて、とても楽しい。


『居眠り磐音 江戸双紙』第25巻「白桐ノ夢」&第26巻「紅花ノ邨」/佐伯泰英

20121215

第25巻「白桐ノ夢」
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この巻での大きな出来事は、西の丸家基が、もと道場の師範・依田鐘四郎を通して磐音に言伝をし、宮戸川のかば焼きと桜餅を桂川補周と磐音が西の丸に届ける。そして殴られ屋の向田源兵衛が登場する。今津屋で見掛け、殴られ屋をやっていて騒ぎが起こりそれを磐音が助けて、道場の客分にする。安芸広島藩の紛争に関わって藩を抜けたらしい。
田沼意次の西の丸家基を狙う次の手は、乱破雑賀衆の刃となって磐音たちを襲う。

大工の棟梁銀五郎が磐音とおこんの子が生まれ、成人したときに何か良い道具が作れるようにと白桐の苗を庭に植えた。すでに淡紫色の花が清楚に咲いていた。この巻のタイトルである。

同じ道場で競い合っていた辰平が武者修行の旅で、目録をもらうという効果をあげた便りに利次郎が焦っているのを磐音が厳しい稽古をつけたあとで「直心影流の兵法目録に「十悪非(あらず)」とある、と諭す。
十悪とは我慢、過信、貪欲、怒り、恐れ、危ぶみ、疑い、迷い、侮り、慢心をいう。
迷いとは二つの考えが心の中で閲ぎ合い、対立する動きである。辰平の修行を認めようとする心と辰平に負けてなるものかという気持ちが相争い、そなたから余裕を奪っていた。直心影流初伝に 『一个(いっか)の私念が萌せば則ち自ら滅亡を取る事必せり』と戒めておられる。剣を志す者、常に平常心を保つよう努力し、断じて邪心、妄念を生じさせてはならぬのだ」
「はい」 利次郎が必死に頷く。「稽古に入る前に、そなたはそれがしに今の気持ちを披露したな。辰平には辰平
の行く道あり、そなたにはそなたの進むべき道がある。だが、その辿り着く頂きは同じところだ。道中の早い遅いを迷うたところでなんの意味があろう」
「若先生、いかにもさようでした」
利次郎が莞爾と笑った。

隅田川沿いの長命寺境内の桜餅の話が出てきた。今年の春に隅田川の両岸を歩いた時に立ち寄ったところだ。元祖山本屋と大黒屋の二つがあり、この本では船頭の小吉の勧めで、磐音とおこんは大黒屋に寄るが、私は山本屋に寄った。そこの二回に正岡子規が暮らしたことがあったからである。

品川柳次郎が椎葉お有に尻をたたかれ、佐々木道場に通うことになる。

竹村武左衛門が仕事で怪我をする。娘の早苗が家の窮状を見かねて、どこかに奉公に出たいと宮戸川に相談する。磐音はおこん、両養親に相談し、佐々木家に奉公できるように計らう。

この巻で、磐音が相対したのは、間宮一刀流、奥山流、乱破雑賀衆、他は特に流派の説明なし。


第26巻「紅花ノ邨」
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この巻での大きな出来事は、磐音の許嫁だった小林奈緒が白鶴太夫となり、紅花大尽の前田屋の嫁になったが、吉原会所からの連絡で、前田屋が乗っ取られそうな騒動が起こっているというので、磐音は吉原会所の若い者と一緒に山形に出向く。どうも山形藩の悪い人間が紅花を藩の専売制にしようと姦計をめぐらしているらしい。
これが山形藩を二分する騒動になる。

紅花や紅は「万葉集」に多くみられるというから、古代からのものである。また淡い紅色が日本人に深く愛された要因の一つに、冠位や身分を示す青、赤、黄丹(きあか)、支子(くちなし)、深紫(こきむらさき)などの禁色の赤だが、薄い紅花の赤は「許色(ゆるしいろ)」として使うことが許されていた。

まばゆいばかりの黄色の花畑から、女衆が花びらを摘む。
紅花は薊の仲間だから、茎や葉の縁に棘がある。花を摘むとき、棘が刺さって痛いのだが、朝早く露が上がらないうちに摘むと、棘がやわらかで手に刺さらないそうだ。
家に持って帰り、庭に広げた筵の上に干して、黄色がいい花びらだけを選び出す。
選んだ花びらを桶に入れて女の素足で踏み込む、そうすると黄色の色の素が流れ出る。
黄色を絞り出した花びらを筵に並べて乾燥させ、一昼夜放っておくと、赤く発酵する。真っ赤に発酵した花びらを木臼に入れて、餅みたいに杵で搗くと、赤餅のようになる。
搗いた紅餅を手で丸めて小分けにする。その丸紅餅を筵に並べて、その上から別の筵をかける。
その上に女衆が乗って、甚句なんぞを歌いながら、また踏む。
頃合い、紅餅をひっくり返して乾燥させれば、紅の原料の紅餅の出来上がり。
これが千石船で京や江戸に送られる。

騒動の中、奈緒は鍵を握る文書を携えて姿を消していたが、それを追う磐音と再会する。しかしそれは磐音が奈緒の後ろから語りかける形で、結局奈緒は振り向いて磐音の顔は見なかった。奈緒の覚悟である。
磐音は奈緒に、琴平、慎之助、舞の三人は、白鶴城を見下ろす猿多岬の墓地に眠っていることを教える。
そして、いつの日にか前田内蔵助と一緒に参るよう奈緒に言うのだった。

この巻で、磐音が相対したのは、一寸剛流、無外流、林崎夢想流、鹿島新陰流、他は特に流派の説明なし。


神代植物園

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一昨日から掲載している、12月11日の三鷹周辺の社寺めぐりの続きです。
深大寺を見て回ったあと、美味しいお蕎麦を食べて心地よい気分で神代植物園に入りました。

入ってすぐの雑木林は、私のお気に入りの場所です。
もう晩秋の気配ですね。
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今日のお目当ては大温室ということで、バラ園を突っ切ります。
バラは咲いてるものもあるのですが、みな寒さにやられて無残な姿で、可哀想でした。
それでも、綺麗な花を見つけました。
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バラ園を突っ切ると大温室です。
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「ゴクラクチョウ」
本当に極楽鳥のようです。
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熱帯睡蓮です。
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団体行動で、皆ズンズン進んでいくので、本来なら名前を確認しながら撮るのですが、その余裕がありません(泣)
今回は名前なしで(汗)
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球根ベゴニアです。
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これも名前なしで、勘弁してください。
それにしても、ふわふわの花で、色も微妙な色ばかりで、素晴しかったです。
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続いて洋ランです。
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正門のところで、時間待ちでちょっと時間があったので、植物会館の展示をいそいでのぞきに行きました。
入り口のところに、カボチャやらひょうたんなどが並べてあった。
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ここでの最後の一枚は「ヒメザクロ」です。
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これで、今日のイベント昼間の部は終わり。
バスと電車を乗り継いで帰ってきて、忘年会に突入でした(笑)
みんな歴史好きな仲間ですから、息合いあいと楽しいひと時を過ごしました。

(了)


深大寺

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昨日掲載した、12月11日の三鷹周辺の社寺めぐりの続きです。
八幡大神社前からバスで深大寺に移動しました。
深大寺では、ボランティアガイドの方が説明案内してくれたので、今まで何度も深大寺に来ていたのに知らない事だらけでした。

まずは参道の真ん中辺に、小さい橋がかかっていて、名前が「福満橋」です。
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『縁起』によれば、深大寺を開いた満功上人(まんくうしょうにん)の父、福満(ふくまん)が、郷長右近(さとおさうこん)の娘と恋仲となりましたが、右近夫妻はこれを悲しみ、娘を湖水中の島にかくまってしまいます。時に福満は玄奘三蔵(げんじょうさんぞう)の故事を思い浮べ、深沙大王(じんじゃだいおう)に祈願して、霊亀の背に乗ってかの島に渡ることが出来たのです。娘の父母もこの奇瑞を知って二人の仲を許し、やがて生まれたのが満功上人であったと伝えています。
長じて満功上人は、父福満の宿願を果すために出家し、南都に法相(ほっそう)を学び、帰郷後、この地に一宇(いちう)を建て深沙大王を祀りました。時に天平五年(七三三)、これが深大寺開創の伝説です。

山門です。梅の季節には両側に紅白の梅が咲いていて、とてもいいですよね。
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正面には「浮岳山」の山号額を掲げています。慶応元年(1865)の火災の際にも常香楼とともに被災をまぬがれた建物で、現在、山内で一番古い建物です。屋根裏にあった棟礼には、元禄八年(1695)に千人の寄進者・人足によって、このあたりの地形(じぎょう)と山門の普請(ふしん)が行われた。と記されています。東京に残っている江戸時代の建築の中でも、意匠的に特にすぐれたものの一つとされています。

形式は、主柱を3.6m問隔に立てて扉を付け、後方に細い控え柱を立てた薬医門(やくいもん)とよばれるものです。柱、梁、組物などの材はケヤキ。屋根は切妻(きりずま)の茅葺き。屋根裏板や垂木はスギで造られています。ケヤキ部分をベンガラで赤色に、スギ部分を黒で塗った、山内唯一の彩色された建物です。
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鐘楼
毎日朝6:00、昼11:30、夕方17:00(夏は18:00)に鐘つきが行なわれています。
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ここで、鐘楼の柱が「几帳面」である説明が。これは柱などの角に施した面の一つ。方形の角を落として鋭角に削り、その両側に刻みを入れたもの。もと几帳の柱に用いられたことから語源となった。
深大寺の建物が、如何に丁寧に作られているかの証し。
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釣鐘の下にも、反響装置が工夫されている。
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常香楼と本堂
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常香楼は、幕末の大火の際に焼かれ、そのきずあとが今は北側になった面に残っています。山門とともに焼け残りました。
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平安時代、清和天皇の貞観年中(八六〇年頃)、武蔵の国司蔵宗(こくしくらむね)が反乱を起こし、この降伏を祈念するために、修験の達者である比叡山の恵亮和尚(えりょうかしょう)が勅命をうけ東国に下りました。恵亮和尚は深大寺を道場に定めて、逆賊降伏の密教修法を行ない、その平定の功により清和天皇は、近隣七ヶ村を深大寺に寄せられ、寺を恵亮和尚に賜りました。昭和五十八年、深大寺開創千二百五十年を記念して建立された山上の開山堂には、深大寺開基満功上人そして天台宗第一祖、大楽大師(だいらくだいし)恵亮和尚の両祖師像が祀られています。

ここで、句碑などを見て回りました。

篠原温亭(俳人)
『はせ栗の落つれば拾ふ住居哉』
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高浜虚子
『遠山に日の当りたる枯野かな』
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中村草田男
『萬緑の中や吾子の歯生え初むる』
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石坂泉泣子(俳人)
『菩提樹や生涯つきぬ寺清水』
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清水比庵(歌人)
『門前の蕎麦はうましと誰もいふこの環境のみほとけありがたや』
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「そば守り観音」というのがあった。
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「深大寺そぼ」を有名にしたのは、江戸時代、深大寺の北の台地は米の生産に向かないため、小作人はそばを作り、米の代わりにそば粉を寺に納め、寺ではそばを打って来客をもてなしたのが、深大寺そばの始まりと伝えられている。深大寺そばを有名にしたのは、元禄年間、深大寺の総本山であった上野寛永寺の公封手法親王(輪王寺門跡東叡山門主)に献上したところ、親王は大いに賞賛なさり将軍家や全国の諸大名に広く推奨された。そのため、深大寺そばの名が高まったそうです。

元三大師堂に上がる石段の左に、「参詣道標」が置いてあります。
仙川の甲州街道に建てられていたが、東京オリンピック開催に伴う道路拡張で、ここに移されたもの。
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元三大師堂
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元三大師堂の境内の木の根元の四方に石仏がありました。
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まずは、不思議な形なのがこれ。
『角大師』-良源(りょうげん)、または慈恵大師(じえだいし)、または元三大師(がんさんだいし)だそうです。
疫病が流行した時、『元三大師』が夜叉の形相になって疫病を追い払った姿であるといわれて、魔除けの護符として、比叡山の麓の坂本や京都の民家に貼られたそうです。
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「六地蔵」
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「千手観音」
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「馬頭観音」と彫ってあります。
とてもユーモラスな馬です。(牛みたいに見えるけど)。
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元三大師堂の向背の彫刻。鳳凰、麒麟、親子の龍と立派でした。
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元三大師堂の天井の消えかかった龍。
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釈迦堂
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重要文化財の「銅造釈迦如来倚像(白鳳仏)」を安置する堂宇。
深大寺での重要文化財のひとつ、この釈迦如来像は明治四十二年、柴田常恵氏により元三大師堂の壇下から見出されて注目を浴ぴるようになったものです。なぜ深大寺にあるのかは謎に包まれているそうです。
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「延命観音」
昭和四十一年秋田県象潟港工事の際、ちょっとした事故がありその処理のため海底の大石を引上げたところ、偶然何かが彫刻してあるのを見つかりました。後に慈覚大師自刻の延命観音とわかり、縁あって翌年、深大寺に奉安されました。

説明図
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石窟の中にあり暗かったが、カメラの感度をISO1600にして、フラッシュなしで何とか撮影しました。
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深沙大王堂
深沙大王は、江戸時代まで深大寺の総鎮守で、このお堂は元三大師堂と同じく参詣の人が絶えなかった。明治の神仏分離令で破却され、昭和43年に再建された。深沙大王像は、秘仏で住職が在任中に一度拝める程度であるという。
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龍と扁額
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このお堂の裏の塀が、新しいもののようだが、瓦を使った凝ったものだった。
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以上で、ボランティアさんのガイドが終わり、ペコペコなお腹でお蕎麦屋さんに飛んでいき、美味しいお蕎麦をすすりこみました(笑)


神代植物園の記事に飛ぶ


三鷹周辺の社寺/井の頭弁財天・禅林寺・八幡大神社

20121212

昨日、私が所属する歴史クラブのイベントで三鷹周辺の社寺を廻ってきました。
吉祥寺駅から歩き始めて、まずは井の頭公園です。
井の頭公園も、すっかり晩秋の気配です。
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すすきは少なかったですね。
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それでも、まだ紅葉が楽しめる樹がありました。
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徳川家康が好んでお茶をたてるのに使ったという通称「お茶の水」の井です。
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今回の目的は、井の頭公園の池畔にある弁財天です。
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ここは、関東源氏の祖・源経基の創建で、伝教太師が延歴8年(789)の作という天女神を本尊に祀ったことに始まると伝えられる。
このご本尊は8本の手を持った八臂像で、頭上に宇賀神を載せ、鳥居を冠しているそうです。秘仏なので、12年に一度、巳年にご開帳されているそうです。
ということは、来年ですね。絶対にみなければ。

社殿の前に、一対の狛犬がいましたが、調べてみると明和8年(1771)設置とされるものでした。
これはいいですね。気に入りました。
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本殿向背の龍です。
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その向かいの、社務所らしき建物にも龍の絵馬らしきものが飾られていました。
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井の頭公園から徒歩で、下連雀4丁目にある「禅林寺」に向かいました。
ここは森鴎外と太宰治の墓があります。

禅林寺の山門、わりと独特のデザインをしていますね。鐘つき堂が一体化しています。
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四方に厄除けの鬼瓦が頑張っていました。
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森鴎外の墓、遺言により本名の森林太郎墓と彫られています。
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本堂の前に、その遺言書が石碑に彫られていました。
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それから、墓地へと通じる通路に、森鴎外によせられた永井荷風の書の写しが貼られていました。
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太宰治の墓です。
森鴎外を尊敬していた太宰治の希望で、この寺に墓が建てられたそうです。
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毎年6月19日の桜桃忌には、全国から多くの太宰文学愛好者が集まってくるそうです。

本堂前の、広場の中央にそびえる大イチョウです。かなりの大木で高さは30mもあり、三鷹市では一番大きいイチョウで市の文化財に指定されています。
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それから、そのすぐ近くにある「八幡大神社」にお参りしました。
ここは、明暦の大火(振袖火事)で罹災した神田連雀町から入植した人々の鎮守として、寛文4年(1664)に創建されたもの。
祭神は応神天皇です。

立派な、新しい山門が建てられていました。
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この山門に御神輿が収蔵されていました。
この神輿の屋根の鳳凰の眼は、3カラットのダイヤがはめ込まれていて、豪華な神輿としてギネスブックに掲載されたそうです。
この日、天気が良すぎてガラス越しにのぞきこみますが、よく写せません。豪華さは伝わるのではないかと思います。
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横に置かれた獅子頭も立派なものでした。
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山門の前に、ご神木の「スダジイ」がありますが、三鷹市の天然記念物に指定されたもので、実に堂々としていました。
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本殿
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本殿向背の龍
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本殿の屋根の千木と鰹木も立派でした。
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驚いたのは、本殿の裏手にズラッと並んだ、各町内の神輿の収蔵庫です。
実に壮観ですね。
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各町内の神輿が大事に保管されていました。
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入り口の鳥居の近くに、紅葉の綺麗な木が一本残っていました。
これが今年の紅葉の見納めかな。
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深大寺の記事に続く



ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125 「合唱つき」/朝比奈隆

20121210

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ソプラノ : 菅 英三子
アルト : 伊原直子
テノール : 福井  敬
バリトン : 多田羅迪夫
合唱 : 大阪フィルハーモニー合唱団
管弦楽 :大阪フィルハーモニー交響楽団
指 揮 : 朝比奈隆
収録 : 2000年12月29、30日  大阪フェスティバルホール(ライブ)

朝、風邪ぎみで、ちょっと調子がすぐれないので、カーテンを全部あけて太陽の光を浴びながら聴くことにした。
今年の「第九」聴きはじめである。
最初は、なんといっても朝比奈御大のものから聴きたい。

このCDは、二枚セットで、一枚目が2000年12月29日演奏で朝比奈御大250回目の「第九」、
二枚目が翌30日で20世紀最後の演奏ということで、二枚セットにしてあります。
同じ曲を同じ指揮者・演奏者・場所での2日連続の、それぞれライブ録音をセットで出しているのは珍しいと思う。
今日聴いているのは、朝比奈御大250回目の「第九」のほう。

第一、第二楽章、朝比奈御大の力強いタクトの動きが目に見えるようだ。
大阪フィルの重厚な音の行進が心地よい。
第三楽章の繊細な音の連なりに、朝比奈御大の真摯な表情を思い浮かべる。
第四楽章、満を持して歌がはじまる。歌詞はうろ覚えでとぎれとぎれでも心が洗われる。

こんな雄大な音楽を作ってくれたベートーヴェンに、感謝、感謝。


新宿御苑

20121208

昨日は新宿で忘年会でした。
そして、ただ飲むだけじゃ芸が無いと、その前に新宿御苑で紅葉などを楽しんでからのもうとの幹事の粋な計らいで、久しぶりに訪れました。

新宿門から入ったのが15:30ちょっと前でした。
すぐにカエデが紅葉したいい路がありました。
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「子福桜」というのが、パラパラでしたが咲いていました。
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家に帰ってから調べてみたところ,ジュウガツザクラとシナミザクラとの雑種だそうで,秋から冬と春の年二回咲くそうです。
一つの花から実が二つ以上できる子宝に恵まれるサクラだからということだそうです。

あざやかに紅葉したカエデです。
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「十月桜」です。
こちらは、割と花をつけていました。
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たぶんメタセコイヤだと思いますが、夕陽で赤らんだ綺麗な黄葉です。
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「ヒマラヤシーダー」枝ぶりがすごく力強い。
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広場で逆光が綺麗なので撮りました。
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「サルビア・レウカンサ」シソ科とありましたが、花穂が長いのに驚きました。一番手前のが50cmくらいありました。
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プラタナス(鈴懸)の並木がきれいでした。鈴懸の路です。
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何という花かわかりませんが、綺麗に咲いていました。背景との取り合わせの景色も抜群。
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「車輪梅」
バラ花壇の隅にありました。これでバラ科だそうです。
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枝や葉が車輪のように集まり、花が梅に似ているから名付けられたとか。
わずかに咲いている花を見つけました。
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中の池のところで、水に写る景色を狙ってみました。
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これは山茶花を手前に置いて。
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松とドコモビルのシルエットが面白かった。
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これは、黄、赤、緑の配色が抜群ですね。
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この松(?)が、実に良い形です。
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「モミジハスズカケノキ」
養生が、あまりに痛々しくて、思わず近寄ってしまいました。
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もみじ葉の所以
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まあるい実をつけていました。
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ぐるっと一周して新宿門まで戻ってきました。
門の傍のいちょうの黄葉で、オシマイ。
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久しぶりに新宿御苑に来ましたが、黄葉・紅葉を堪能したし、珍しいのも幾つか発見したし、なかなか楽しかった。

(了)

フィデリオ

20121207

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系統: FL フロリバンダローズ
作出: 1964年 フランス Meilland
花色: 朱赤
光の関係で、オレンジから朱色に見えます。

「フィデリオ)」はオペラ好きなら、あぁとうなずくことでしょう。ベートーヴェンが作った唯一のオペラです。
政治犯として捕らわれの身になった夫フロレスタンを、妻のレオノーレが男装してフィデリオと名乗り、見事に救出すると言う、胸のすくようなオペラです。

Fidelio の語源はラテン語 fidelis で、辞書によると「信頼すべき,真実の,確固たる」の意味であり、また「忠実な,貞節な」 という意味も含むのだそうです。

古事記を知る(04)

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これまで、「黄泉の国」の段まで掲載してきましたが、掲載の内容に少し問題あるのではないかとの疑問が湧き、申し訳ないですが、今までの記事は削除し、再度掲載し直します。
ご迷惑をおかけします。

1.天地の初め
天地初發之時。於高天原成神名。天之御中主神。
訓高下天云阿痲下效此次高御産巣日神。次神産巣日神。此三柱神者。並獨神成坐而。隠身也。
次國稚如浮脂而。久羅下那洲多陀用幣琉之時。
琉字以上十字以音如葦牙因萠騰之物而成神名。宇麻志阿斯訶備比古遲神。此神名以音次天之常立神。訓常云登許訓立云多知此二柱神亦獨神成坐而。隠身也。上件五柱神者別天神。
次成神名國常立神。
訓常立亦如上次豊雲上野神。此二柱神亦獨神成坐而。隠身也。次成神名宇比地邇上神。次妹須比邇去神。此二神名以音次角杙神。次妹活杙神。二柱次意富斗能地神。次妹大斗乃瓣神。此二神名亦以音次淤母陀流神。次妹阿夜上訶志古泥神。此二神名皆以音次伊邪那岐神。次妹伊邪那美神。此二神名亦以音如上上件自國常立神以下。伊邪那美神以前。扞稱神世七代。上二柱。獨神各云一代。双十神。各合二神云一代也。

(読み)
アメツチノハジメノトキ。タカマノハラニナリマセルカミノミナハ。アメノミナカヌシノカミ。ツギニタカミムスビノカミ。ツギニカミムスビノカミ。コノミハシラノカミハ。ミナヒトリガミナリマシテ。ミミヲカクシタマヒキ。
ツギニクニワカクウキアブラノゴトクニシテ。クラゲナスタダヨヘルトキニ。アシカビノゴトモエアガルモノニヨリテナリマセルカミノミナハ。ウマシアシカビヒコヂノカミ。ツギニアメノトコダチノカミ
コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ。ミミヲカクシタマヒキ。カミノクダリイツバシラノカミハコトアマツカミ。
ツギニナリマセルカミノミナハクニノトコタチノカミ。ツギニトヨクモヌノカミ。コノフタバシラノカミモヒトリガミナリマシテ。ミミヲカクシタマヒキ。ツギニナリマセルカミノミナハウヒヂニノカミ。ツギニイモスヒヂニノカミ。ツギニスグヒノカミ。ツギニイモイクグヒノカミ。ツギニオホトノヂノカミ。ツギニイモオホトノベノカミ。ツギニオモダルノカミ。ツギニイモアヤカシコネノカミ。ツギニイザナギノカミ。ツギニイモイザナミノカミ。カミノクダリクニノトコタチノカミヨリシモ。イザナミノカミマデ。アハセテカミヨナナヨトマヲス。カミノフタバシラハ。ヒトリガミオノオノヒトヨトマヲス。ツギニナラビマストバシラハ。オノオノフタバシラヲアハセテヒトヨトマヲス。

(現代語訳)
 天と地とが初めて分かれた開闢の時に、高天原に成り出でた神の名は、天之御中主神、次に高御産巣日神、次に神産巣日神である。この三柱の神は、皆単独の神として成り出でた神で、姿形を現わされなかった。
 次に国土がまだ若くて固まらず、水に浮いている脂のような状態で、水母のように漂っているとき、葦の芽が泥沼の中から萌え出るように、萌えあがる力がやがて神と成つたのが、宇麻志阿斯訶備比古遲神であり、次に天之常立神である。この二柱の神も単独の神として成り出で、姿形を現わされなかった。
以上の五柱の神は、天つ神の中でも特別の神である。
 次に成り出でた神の名は、国之常立神、次に豊雲野神である。この二柱の神も、単独の神として成り出で、姿形を現わされなかった。
 次に成り出でた神の名は、宇比地邇神、次に女神の須比邇神である。次いで角杙神、次に女神の活杙神である。次いで意富斗能地神、次に女神の大斗乃弁神、次いで於母陀流神、次に女神の阿夜訶志古泥神。次いで伊邪那岐神、次に女神の伊邪那美神である。
 上に述べた国之常立神から伊邪那美神までを合わせて神代七代という。
 
(解説)
天地開闢し、まずは神が、イザナキノ神とイザナミノ神が生まれるまで、次々と生まれます。高天原というのは、天つ神の世界と考えられた天上界で、葦原の中国に対する世界です。
天地開闢の一番最初に現れたのが、次の三柱の神ですが、私はここではこの三柱の神に注目したいと思います。天之御中主神は、天の中央にあって、天地を主宰する神の意。高御産巣日神・神産巣日神の二神は、万物の生産・生成を掌る神で、タカミムスヒは高天原系(皇室系)、カムムスヒは出雲系の神である。
天地開闢の一番最初に現れたのが、この三柱の神ということで、万物の生産・生成を司る神ということは間違いありません。
そして、注目したいのが、古事記編纂にあたり重要視しなければならない二つの系統があり、それは皇室系と出雲系だということが、既にここに出てきているということです。

私の住んでいる市には、小さいお宮ながら「三柱神社」というのがあり、祭神はこの三柱の神です。
ちなみに奈良とか柳川にも同じ名前の神社はありますが、祭神はまったく違います。

高御産巣日神は、葦原中津国平定・天孫降臨の際には高木神(たかぎのかみ)という名で、また登場してきます。
天照大神の御子神・天忍穂耳命(あめのおしほみみ)が高皇産霊神の娘栲幡千千姫命と結婚して生まれたのが天孫瓊々杵尊であるので、タカミムスビは天孫ニニギの外祖父に相当する。
さらに天照大神より優位に立って天孫降臨を司令している伝も存在することから、この神が本来の皇祖神だとしてもいいと思います。
高皇産霊神は、東京大神宮、三峰神社、御霊神社、人見神社などに祀られています。

神産巣日神は、本来は性のない独神であるが、造化三神の中でこの神だけが女神であるともされる。
あとでまた出てきますが、なんといっても大国主が兄神らによって殺されたとき、大国主の母が神産巣日神に願い出、神皇産霊尊に遣わされた蚶貝姫と蛤貝姫の治療によって大己貴命(大国主)が蘇生するんですよね。
これからみても、神産巣日神が出雲系のルーツだということがわかります。
神産巣日神は、安達太良神社、八所神社、東京大神宮、高牟神社、出雲大社などに祀られています。

(続く)

秩父夜祭

20121204

12月3日、昨夜ですが秩父夜祭に行ってきました。
歴史の仲間8人で出かけました。所沢と西武秩父往復の特急に安心して乗るため、11月3日の早朝に二人で並んで8人分の指定を確保しておいたわけです。

所沢で16時ちょっと前にレッドアローに乗り込み、西武秩父に17時に降り立って、まずは秩父神社を目指しました。
そこに笠鉾・屋台が勢ぞろいしているとのことだったので。
秩父鉄道の「お花畑」駅から線路に平行な道を秩父神社まで歩いていきましたが、両側にびっしりと屋台が並び、人手も多く、さすが日本三大夜祭の一つだと思いました。

秩父夜祭の特徴は、なんといっても神幸行列を夜に行い、真夜中に神社と武甲山の間にある御旅所で神事を執り行うというのが最大の特徴です。斎場祭が行われるのは夜の10時以降であり、神幸行列が神社にもどると朝の4時をすぎるそうです。

また、最も知れ渡っている有名な伝説は武甲山の男神(蛇神・蔵王権現)と秩父神社の女神(妙見菩薩)が年に一度の逢瀬を楽しむというものです。

秩父神社の境内に入ると、二台の山車が並んでいました。他の屋台は境内の周辺に置かれていました。
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まずは秩父神社にお参り。
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御神輿もスタンバイしています。舎人の衣装が立派です。
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神馬もつながれていました。
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笠鉾・屋台が出発するまで境内に留まることにしました。

「中近笠鉾」です。
現在の笠鉾は3代目で、1880(明治13)年に造られた名工荒木和泉の傑作です。構造は八棟造りの屋根の上に、3層の笠を立てた大型の笠鉾です。
唐破風のところの彫刻は「八岐大蛇」
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参考までに笠鉾なので、花笠をつけたときには、こんな感じになります。
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こちらは「宮地屋台」
秩父最古の歴史を有し、登り勾欄のない古い形をとどめています。秩父の屋台の中では最も端正な形をしているといわれます。
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若衆が、中近笠鉾の花笠の花(縁起物)を売り歩いていました。
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出番を待っている、いなせな男衆。
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女衆も粋でしたね。
鉢巻きから木札を下げています。
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イエーイと仲間で記念撮影。
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神幸行列が始まりました。厚い人垣で近寄れません。
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神輿が門から出てきました。
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神馬がストロボの光とかに興奮したのでしょう。遠くにいた私たちにもわかるほど仁王立ちして、すごいなあと話していたら、人垣が割れて神馬がこちらに向けて暴走してきました。危うい所でしたが、なんとか手前で止められました。
これは、その後一生懸命馬をなだめているところ。向こうの馬の居るところが行列の通るところで、そのこっち側に厚い人垣があったのです。
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いよいよ中近笠鉾のほうから、動き出します。
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ちょっと進んだところで方向転換。
笠鉾・屋台の方向転換には『ギリ廻し』と言われる方法が取られます。人込みで近くで見ることは出来ませんでしたが笠鉾・屋台の後部に「てこ」の支点になる台をセットし2本のテコ棒に10人ほど取り付いて後ろの車輪を持ち上げ、土台の中心部に「ギリ棒」をセットし車輪を浮かして、20人ぐらいの曳き手がギリ棒を軸にして一気に方向転換するそうです。
笠鉾の後ろが持ち上げられます。
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私達が居るところを通り過ぎていきます。
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次いで宮地屋台が動き始めます。
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やはり「ギリ回し」で方向転換。
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威勢よく動いていきます。
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宮地屋台の後幕には赤い髪の3匹の「猩々」(中国の想像上の霊獣)が描かれています。
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続いて、私たちも通りに出ようと試みましたが、通りの手前でまったく進めず。
そこに「上町屋台」が通りかかりました。
四つ棟造りの屋根と、登り勾欄が附設された比較的新しい形の屋台です。
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見事な彫刻です。
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後幕には「鯉の滝登り」が描かれています。
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これで、一応満足したのと、ものすごい人手のため、身動きできず、交通規制が敷かれていて思う方向にも行かれないため、これで見物は切り上げ、遅い夕食を取ることにしたのが8時ちょっと前。
人混みで、思うように動けないため、できるだけ西武秩父に近い所まで移動して、繁華街からちょっと外れたところでうどん屋を見つけて食べました。

それから西武秩父駅に戻りましたが、交通規制と一方通行になっていて、かなりの大回りで帰るハメに。
一人だとパニくっていたかもしれない(笑)

駅には、「まつり会館」に展示されている昭和の名工による「昭和屋台」の十分の一のミニチュアが展示されていた。
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西武秩父発21:25のレッドアローで帰途につきました。

今回は、団体行動なのと、人混みで思うように行動できず、秩父神社境内だけでの見物となったが、神幸行列すべてと、笠鉾・屋台全部を見ることができる秩父神社近くのポイントは見当がついたので、来年はそこで写真撮影をしようと思う。
また、「おねり(歌舞伎道中)」と「歌舞伎公演」が3日の15時から18時くらいまであることがわかったので、これも来年の楽しみとしました。

(了)




古事記を知る(03)

20121202

11月30日から今日の12月2日まで、私が受講しているコミュニティ・カレッジの文化祭がありました。
そこで、私も歴史講座研究コースの一員として展示発表したので、それを紹介したいと思います。
タイトルは「狭山市のサルタヒコ」です。

1.古事記のなかの猿田彦

<古事記原文>
爾日子番能邇邇藝命將天降時。居天之八衢而。上光高天原。下光葦原中國之神於是有。故爾天照大御神高木神之命以。詔天宇受賣神。汝者雖有手弱女人。與伊牟迦布神自伊至布以音面勝神。故専汝往將問者。吾御子為天降道。誰如此而居。故問賜之時。答白。僕者國神。名猨田毘古神也。所以出居者。聞天神御子天降座故。仕奉御前而。参向之侍。

<現代語訳>
 さてヒコホノ二二ギノ命が、天降りなさろうとするときに、天から降る道の辻にいて、上は高天原を照らし、下は葦原中国を照らしている神がいた。そこで、天照大御神と高木神の仰せによって、アメノウズメノ神に命じて、「あなたはか弱い女であるが、向き合った神に対して、気おくれせず圧倒できる神である。だから、あなた一人で行ってその神に向って、『天つ神の御子の天降りする道に、そのように出ているのはだれか』と尋ねなさい」と仰せになった。それでアメノウズメノ神が問いただされたとき、その神が答えて申すに、「私は国つ神で、名はサルタビコノ神と申します。私がここに出ているわけは、天つ神の御子が天降っておいでになる、と開きましたので、ご先導の役にお仕えいたそうと思って、お迎えに参っております」と申し上げた。

注)
日本書紀では猿田彦の風貌についての記述あり、「その神の鼻長は七咫(あた)、背長は七尺、目が八咫鏡のように、またホオズキのように照り輝いている」としている。
咫(あた):手を開いたときの中指の先から親指の先までの長さ。1 咫は 0.8 尺。
八咫鏡は円周 8 咫、すなわち径 2 尺という意味である。


(天孫降臨の段、省略)


故爾詔天宇受賣命。此立御前所仕奉。猨田毘古大神者。専所顯申之汝送奉。亦其神御名者。汝負仕奉。是以猨女君等。負其猨田毘古之男神名而。女呼猨女君之事是也。故其猨田毘古之神。坐阿耶訶此三字以音地名時。為漁而。於比良夫貝自比至夫以音其手見咋合而。沈溺海鹽。故其沈居底之時名。底度久御魂。度久二字以音其海水之都夫多都時名。謂都夫多都御魂。自都下四字以音其阿和佐久時名。謂阿和佐久御魂。自阿至久以音於是送猨田毘古之神而。還到。乃悉追聚鰭廣物鰭狭物以。問言汝者天神御子仕奉耶之時。諸魚皆仕奉白之中。海鼠不白。爾天宇受賣命謂海鼠云。此口乎不答之口而。於紐小刀拆其口。故於今海鼠口拆也。是以御世。嶋之速贄献時。給猨女君等也。

<現代語訳>
 さてそこで、二二ギノ命がアメノウズメノ命に仰せられるには、「この先導の役に奉仕したサルタピコノ大神は、独りでこの神に立ち向かって、その正体を明らかにして言上した、そなたがお送り申しなさい。またその神の御名は、そなたが負うて、天つ神の御子にお仕え申しなさい」と仰せられた。
こうして猿女君たちは、そのサルタピコの男神の名を負うて、女を猿女君と呼ぶことになったのは、こういう事情によるのである。
さてそのサルタピコノ神は、阿耶訶におられるとき、漁をしていて、ひらぶ貝にその手をはさまれて、海水に沈み溺れなさった。それで海の底に沈んでおられるときの名は、底どく御魂といい、その海水が泡粒となって上るときの名は、つぶたつ御魂といい、その泡が裂けるときの名は、あわさく御魂という。
 さてアメノウズメノ命は、サルタピコノ神を送って帰って来て、ただちに大小のあらゆる魚類を追い集めて、「おまえたちは、天つ神の御子の御膳としてお仕え申しあげるか」と問いただしたとき、多くの魚がみな「お仕え申しましょう」と申しあげた中で、海鼠だけは答えなかった。そこでアメノウズメノ命が海鼠に向かって、「この口は答えないロか」と言って、紐小刀でその口を裂いた。だから今でも海鼠の口は裂けている。こういうわけで、御代ごとに志摩国から初物の魚介類を献上する時に、猿女君たちに分かち下されるのである。

注)
猿女君:宮廷で鎮魂の呪儀を行った女官
阿耶訶:三重県松坂市の西に大阿坂・小阿坂の地名あり。猨田毘古神を祀る阿射加神社がある。


2.古事記について
◆今年がちょうど編纂1300年という節目の年になります。
◆漢字原文を持ち出した理由は、古事記の文章全体から漢字の意味と「やまとこと
ば」の意味の対応に基づく表意漢字主体に書かれていることがわかるから。音仮
名表記された箇所は、何らかの理由で表意漢字にすることが難しい場合、あるい
は音仮名表記することに積極的な意義がある場合だったと思われます。
◆古事記では88の音節を区別しています。(現在は50音)
例えば、「モ」にあてるのに二種類あり、「毛」の用例は48個、「母」の用例は150
余個。両者は栽然と使い分けられていて、一つも例外がありません。
伊・韋、延・恵、於・袁(イ・ヰ、エ・ヱ、オ・ヲ)(い・ゐ、え・ゑ、おとを)等
◆当時、圧倒的な漢語文化の流入(天智天皇・大友皇子によって推進)とその影響
によって、記録する文字を持たない古語と古歌が消え去るのを恐れた天武天皇
が、「日本書紀」とは別に編纂したのが「古事記」だといわれる。
◆楽劇のように口誦されるのが普通。(黙読は百年くらいの歴史しかありません)
伊邪那美命先言阿那邇夜志愛上袁登古袁。のように「上」と小さく書き込みが
あるのは、「上声」を示す発音記号。
(上声:漢字の四声(しせい)の一つ。尻上がりに高く発音するもの。)


3. 猿田彦とはどういう神か
◆サ(神稲)ル(の)タ(田)。・・・・・サ(穀霊)クラ(神座)に通じる
猿は元来太陽神とされたが、太陽神は稲田の神とも考えられて、「猿田毘古」
と呼ばれたのであろう。
◆日本の先住人の王だったという説。または天孫族(=天津神=大陸からの渡来
民族)と、国津神(=天孫族渡来前の原住民)との仲を取り持った有力豪族の長、
という見方もある。
◆「日本書紀」では「衢(ちまた)の神」と同神と記されている。
道の神、道案内の神、旅人の神、出会いの神とされる。通常、この役目として村
の境などに「道祖神」がある地域が多い。道祖神は男女の二像が多く、ほとんど
が猿田彦命と天宇受売命とされる。
しかし狭山市には道祖神が一つもなく、地蔵、観音、庚申塔がその役目をした。
現在、亀井神社境内にある石祠はそうかもしれない。
◆神なのに、唯一素顔を見せて人気者(異称が多い)
  ・稲荷社(ウカノミタマと猿田彦を祭神とするところが多い)
狭山市では広瀬神社境内社が該当
  ・白髭明神
  ・庚申(お寺では庚申堂・庚申塔(青面金剛など)、神社の庚申社には猿田彦
を祀る)←狭山市に庚申社なし
  ・祭礼の神輿渡御の際、鼻高面を被った猿田彦役の者が先導をする。


4. 猿田彦の図像

「大日本国開闢由来記」より
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瓊々杵尊降臨/安田靫彦
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魚屋北渓:「春磐戸 其二 サルタヒコ」
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5.狭山市内に存在する猿田彦
5-1 猿田彦を祭神とする神社

ルーツは高麗神社です。高麗神社は高麗王若光を祀る神社ですが、白髭明神(猿田彦)を合祀しています。高麗王若光は渡来人2000人をまとめて、この地に定着させた人物です。
渡来技術が周辺に伝播していくとともに、白髭明神(猿田彦)も分祀されていきました。
例えば、柏原は入間川から採れる良質の砂鉄から製鉄・鉄加工を行い、槍鍛冶、刀鍛冶が盛んでした。これは渡来技術を活かしたものです。
・柏原白髭神社
・根岸白髭神社
・笹井白髭神社
・亀井神社
・亀井神社境内猿田彦石祠
・廣瀬神社
・廣瀬神社境内・杉森稲荷社

5-2 祭礼の先導役の猿田彦
狭山市廣瀬神社の例大祭
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(参考:川越まつり)
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(参考:東京赤坂日枝神社の山王祭り神幸祭)
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5-3 えっ・・・じゃあ、獅子舞に出てくるのは?
八幡神社の獅子舞で調べてみました
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・花の団扇を持っている(葉団扇が変化したもの)
・背中の紋が葉団扇
・先導役でなく、獅子舞を構成する立派な踊り手である
・法螺貝を吹く山伏役が一緒に登場する

⇒これは「天狗」ですね

(了)

プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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