古事記を知る(11)

20130131

2-6 禊祓と三貴子
是以伊邪那岐大神詔。吾者到於伊那志許米。
志許米岐此九字以音穢國而在理。此二字以音故吾者為御身之禊而。到坐紫日向之橘小門之阿波岐此三字以音原而。禊祓也。故於投棄御杖所成神名。衝立船戸神。次於投棄御帯所成神名。道之長乳齒神。次於投棄御裳所成神名。置師神。次於投棄御衣所成神名。和豆良此能宇斯能神。此御名以音次於投棄御褌所成神名。道俣神。次於投棄御冠所成神名。飽咋之宇斯能神。自飽字以下三字以音次於投棄左御手之手纏所成神名。奥疎神。訓奥云淤伎下効此訓疎云奢加留下効此次奥津那藝佐毘古神。自那字以下五字以音下効此次奥津甲斐辦羅神。自甲字以下四字以音下効此次於投棄右御手之手纏所成神名。邉疎神。次邉津那藝佐毘古神。次邉津甲斐辦羅神。
 右件自船戸神以下。邉津甲斐辦羅神以前。十二神者。因脱著身之物。所生神也。
於是詔之上瀬者瀬速。下瀬者瀬弱而。初於中瀬随迦豆伎而。滌時。所成坐神名。八十禍津日神。訓禍云魔賀下効此次大禍津日神。此二神者。所到其穢繁國之時因汚垢而所成之神者也。次為直其禍而所成神名。神直毘神。毘字以音下効此次大直毘神。次伊豆能賣神。扞三神也。伊以下四字以音次於水底滌時所成神名。底津綿上津見神。次底筒之男命。於中滌時所成神名。中津綿上津見神。次中筒之男命。於水上滌時所成神名。上津綿上津見神。訓上云字閇次上筒之男命。
 此三柱綿津見神者。安曇連等之祖神以伊都久神也。
伊以下三字以音故安曇連等者。其綿津見神之子宇都志日金拆命之子孫也。宇都志三字以音其底筒之男命中筒之男命上筒之男命三柱神者。墨江之三前大神也。
於是洗左御目時。所成神名。天照大御神。次洗右御目時。所成神名。月讀命。次洗御鼻時。所成神名。建速須佐之男命。
須佐二字以音右件八十禍津日神以下。建速須佐之男命以前。十四柱神者。因滌御身所生者也。

此時伊邪那岐命大歓喜詔。吾者生生子而於生終。得三貴子。即其御頸珠之玉緒母由良邇
此四字以音下効此取由良迦志而。賜天照大御神而詔之。汝命者所知高天原矣。事依而賜也。故其御頸珠名。謂御倉板擧之神。訓擧云板多那次詔月讀命。汝命者所知夜之食國矣。事依也。訓食云袁須次詔建速須佐之男命。汝命者所知海原矣。事依也。

(読み)
 ココヲモテイザナギノオホカミノノリタマハク アハイナシコメ シコメキキタナキクニニイタリテアリケリ アハオホミマノハライセナトノリタマヒテ ツクシノヒムカノタチバナノヲドノアハギハラニイデマシテ ミソギハラヒタマヒキ カレナゲウツルミツエニナリマセルカミノミナハ ツキタツフナトノカミ ツギニナゲウツルミオビニナリマセルカミノミナハ ミチノナガチハノカミ ツギニナゲウツルミモニナリマセルカミノミナハ トキオカシノカミ ツギニナゲウツルミケシニナリマセルカミノミナハ ワヅラヒノウシノカミ ツギニナゲウツルミハカマニナリマセルカミノミナハ チマタノカミ ツギニナゲウツルミカカフリニナリマセルカミノミナハ アキグヒノウシノカミ ツギニナゲウツルヒダリノミテノタマキニナリマセルカミノミナハ オキザカルノカミ ツギニオキツナギサビコノカミ ツギニオキツカヒベラノカミ ツギニナゲウツルミギリノミテノタマキニナリマセルカミノミナハ ヘザカルノカミ ツギニヘツナギサビコノカミ ツギニヘツカヒベラノカミ
 ミギノクダリフナトノカミヨリシモ ヘツカヒベラノカミマデ トヲマリフタバシラハ ミミニツケルモノヲヌギウテタマヒシニヨリテ ナリマセルカミナリ
 ココニカミツセハセバヤシ シモツセハセヨワシトノリゴチタマヒテ ソソギタマフトキニ ナリマセルカミノミナハ ヤソマガツビノカミ ツギニオホマガツビノカミ コノフタバシラハ カノキタナキシキグニニイタリマシシトキノケガレニヨリテナリマセルカミナリ ツギニソノマガヲナホサムトシテナリマセルカミノミナハ カムナホビノカミ ツギニオホナホビノカミ ツギニイズノメノカミ ツギニミナソコニソソギタマフトキニナリマセルカミノミナハ ソコツワタツミノカミ ツギニソコヅツノヲノミコト ナカニソソギタマフトキニナリマセルカミノミナハ ナカツワタツミノカミ ツギニナカヅツノヲノミコト ミヅノヘニソソギタマフトキニナリマセルカミノミナハ ウハツワタツミノカミ ツギニウハヅツノヲノミコト
 コノミバシラノワタツミノカミハ アヅミノムラジラガオヤガミトモチイツクカミナリ カレアヅミノムラジラハ ソノワタツミノカミノミコウツシヒカナサクノミコトノスエナリ ソノソコヅツノヲノミコトナカヅツノヲノミコトウハヅツノヲノミコトミバシラノカミハ スミノエノミマエノオホカミナリ
 ココニヒダリノミメヲアラヒシタマヒシトキニ ナリマセルカミノミナハ アマテラスオホミカミ ツギニミギリノミメヲアラヒタマヒシトキニ ナリマセルカミノミナハ ツクヨミノミコト ツギニミハナヲアラヒタマヒシトキニ ナリマセルカミノミナハ タケハヤスサノヲノヲノミコト
 ミギノクダリヤソマガツビノカミヨリ ハヤスサノヲノヲノミコトマデ トヲマリヨバシラノカミハ ミミヲソソギタマフニヨリナリマセルカミナリ
 コノトキイザナギノミコトイタクヨロコバシテノリタマハク アレハミコウミウミテウミノハテニ ミバシラノウヅノミコトタリトノリタマヒテ ヤガテソノミクビタマノタマノヲモユラニトリユラカシテ アマテラスオホミカミニタマヒテノリタマハク ナガミコトハタカマノハラヲシラセト コトヨサシテタマヒキ カレソノミクビタマノナヲ ミクラタナノカミトマヲス ツギニツクヨミノミコトニノリタマハク ナガミコトハヨルノヲスクニヲシラセト ツギニタケハヤスサノヲノミコトニノリタマハク ナガミコトハウナハラヲシラセト コトワサシタマヒキ

(現代語訳)
 このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
 それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。
  以上の船戸神から、辺津甲斐弁羅神までの十二神は、身につけていた物を脱ぎ捨てることによって、成り出でた神である。
 そこで伊邪那岐命が仰せられるには、「上の瀬は流れが遠い。下の瀬は流れがおそい」と仰せられ、初めて中流の瀬に沈みもぐつて、身の穢れを洗い清められたときに成った神の名は、八十禍津日神、次いで大禍津日神である。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき、触れた穢れによって成り出でた神である。次にその禍を直そうとして成り出でた神の名は、神直毘神、次いで大直毘神、次いで伊豆能売である。次に水の底にもぐって、身を洗い清められる時に成った神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命である。次に水の中程で洗い清められる時に成った神の名は、中津綿津見神、次いで中筒之男命である。水の表面で洗い清められる時に成った神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命である。
 この三柱の綿津見神は、阿曇連らの祖先神としてあがめ祭っている神である。そして阿曇連らは、その綿津見神の子の、宇都志日金拆命の子孫である。また底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、住吉神社に祭られている三座の大神である。
 さてそこで左の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は、天照大御神である。次に右の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は月読命である。次に御鼻をお洗いになる時、成り出でた神の名は、建速須佐之男命である。
  右にあげた八十禍津日神から、速須佐之男命までの十柱の神は、御体を洗い清めることによって、成り出でた神である。
 このとき、伊邪那岐命はたいそう喜んで仰せられるには、「私は子を次々に生んで、最後に三柱の貴い子を得た」と仰せられて、ただちに御首の首飾りの玉の緒を、ゆらゆらと揺り鳴らしながら、天照大御神にお授けになって仰せられるには、「あなたは高天原をお治めなさい」と御委任になった。それでその御首飾りの珠の名を御倉板擧之神という。次に月読命に仰せられるには、「あなたは夜の世界をお治めなさい」と御委任になった。次に建速須佐之男命に仰せられるには、「あなたは海原をお治めなさい」と御委任になった。

(解説)
しこめしこめき:「しこめし」を繰り返した形で、醜悪なの意。
道俣神:道路の分かれ道を守る神。褌(はかま)の形からの連想である。道祖神、塞の神(さえのかみ)とも。
岐(ちまた、巷とも書く)または辻(つじ)とは、道路が分岐・交叉する場所のことである。このような場所は、人だけでなく神も往来する場所と考えられた。神の中には悪神・悪霊もおり、これらの侵入を防ぐために祀られたのが岐の神である。このことから塞の神(さえのかみ)とも呼ばれる。
この神は、『日本書紀』や『古語拾遺』ではサルタヒコと同神としている。また、『古事記伝』では『延喜式』「道饗祭祝詞」の八衢比古(やちまたひこ)、八衢比売(やちまたひめ)と同神であるとしている。

綿津見神:ワタツミは海を主宰する神。海神は三神一組であるから、ワタツミノ神を底、中、上に分けた。
阿曇連:福岡県の志賀島を本拠とした海人系の豪族で、海人集団を率いて海上に雄飛した。
墨江の三前の大神:大阪市住吉区の住吉神社に祀られている三神のこと。
天照大御神:天高く照り給う大御神の意で、太陽神としての面と、皇祖神としての面とがある。女神とされているのは、この神が巫女神の性格をも有するからであろう。
月読命:「月読」は月齢を数える意。月の神。
建速須佐之男命:「建速」は勇猛迅速の意で、この神の荒々しい性格を表す称辞。「須佐」は元来出雲国(島根県)飯石郡の地名で、この神は本来、出雲地方で祖神として信仰されていた神である。

黄泉国の神話には、死の穢れや死霊の祟りの恐ろしさが語られているが、それらの穢れを解消する方法を語っているのが、禊ぎ祓えの物語である。古代の重要な宗教的儀礼であった禊は、海に向かって水の流れる河口で行なわれたり、また川原でも行なわれたが、要するに水の浄化力によって、罪・穢・禍など、いっさいの災禍を洗い清めるための呪儀である。
 祓のとき、三柱のワタツミノ神と、三柱のツツノヲノ命が成り出でたとされている。これらの海神や航海の守護神は、ともに海人集団によって信仰された。ワタツミノ神は安曇連によって、ツツノヲノ命は津守連によって祭られた。ワタツミノ神やツツノヲノ命が、イザナキノ命の禊の際に成り出でたとされるのは、イザナキノ命が、本来海人集団の信仰する神であったこと、禊の習俗が、元来海人集団の実修していた宗教的儀礼であったこと、などによるものと思われる。
最後に、天照大御神・月読命・須佐之男命の三神が、イザナキノ命の三貴子として成り出でたとされている。この場合、スサノヲノ命が天照大御神と姉弟の関係で結ばれているのは、注目すべき点である。スサノヲノ命は、元来出雲神話の祖神であって、皇室神話の祖神である天照大御神との間には、血縁的関係はなかったはずである。それが共にイザナキノ命の子として結合されたのは、皇室神話と出雲系の神話とを統合するために採られた方法であると思われる。

天照大神を祀る神社を「神明神社」といい全国各地にあるが、その総本社は神宮(伊勢神宮)の内宮(皇大神宮)である。皇大神宮は三種の神器のうちの一つ八咫鏡(ヤタノカガミ)を御神体として安置する神社である。
宮崎県高千穂町岩戸には岩戸隠れ神話の中で天照大神が隠れこもったとされる天岩戸と天照大神を祀る天岩戸神社がある。

出雲八重垣神社板絵、左側がアマテラス
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伊勢神宮内宮
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ツクヨミを祭神とする神社にはいくつかの系統がある。
1: アマテラスの弟神としてツクヨミを祀るもの。代表例は先述の内宮(皇大神宮)別宮の月讀宮、外宮(豊受大神宮)別宮に月夜見宮がある。
2: 本来はツクヨミとは関係のない月の神を祀っていたものが、後に神話に登場するツクヨミに習合した神社。代表例は出羽三山の一社の月山神社(山形県東田川郡庄内町)である。全国にある月山神社の多くは、出羽三山の月山神社から勧請を受けたものである。
3: 京都の月読神社は壱岐市の月讀神社から勧請を受けたものである。

伊勢 月讀宮
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須佐之男命を主祭神としている神社は、 八坂神社(京都府)、廣峯神社(兵庫県姫路市)、津島神社(愛知県津島市)、氷川神社(埼玉県)、須佐神社(島根県出雲市)、八重垣神社(島根県松江市)
あと、祇園神社、八坂神社、弥栄神社、素盞嗚神社、素盞雄神社、須佐神社、天王神社、天王社、津島神社、 須賀神社、須我神社、素鵞神社、氷川神社、簸川神社、八雲神社、杭全神社など

八坂神社
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氷川神社
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ジム・トレーニングをはじめて一年

20130130

ジムに行ってきた。
ジムに着いて、最初にやるのは、血圧と体脂肪率の測定。
血圧は、130/58
体脂肪率は16.6
まずまずだ。体脂肪率は、だいたい15.5~17の間で安定している。

このジムに行き出したのが去年の2月だから1年経った。
土日はテニスなので、たいてい週の真ん中辺、水曜あたりに行く。

ここは所沢体育館のジムである。
この体育館は、国体開催の際バレーボールの会場として建てられた。
なので、なかなか立派な施設だ。
このあいだは、春高バレーの準決勝、決勝の舞台となったところ。

現在は、第三セクターで運営されているとのことで、サービスもいい。
料金は所沢市民料金で、1回400円。狭山市民も同じ料金でOK。
これで2時間たっぷり汗をかける。

トレーナーが、各人の希望を聞きながら適切なプログラムを組んでくれて、
それが入ったメモリーを器械に挿すと、荷重や回数はコントロールしてくれるので、楽だ。

現在の私のプログラムは、こうなっている。
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この中で、いちばんキツイのは、10番の「ウェーブ・エキサイト」
8Kgのバネのついたペダルを左右交互に踏む。
1分間に110回。それを現在9分続けるようになっている。
つまり990回踏みつづけるということだ。
これを中腰の姿勢でやる。
テニスをやっているなら、これがいいと「体幹の持久力」の向上のために、トレーナーがプログラムに加えてくれた。

トレーニングを上がる前に、15分のストレッチを行う。
テレビで繰り返しビデオを流していて、その前でやるのだが、
これをきちんとやると、2時間たっぷりとトレーニングしても、
翌日まったくダメージが残っていない。

ジムに行くようになってから、基礎体力があるということは、こういうことかと思うのが、駅などの階段をトントントンと軽やかに上がっていけるとき(嬉)

以前は、夜にテレビの前で、カミさんと交互に肩を揉んでいたが、
今では私がカミさんの肩を揉むだけ。
ほんとに私は肩が凝らなくなった。

嬉しいのは、一年前の冬に膝に痛みが出てきて、あ~~あ俺もトシだなあ(泣)
と思ったのに、この冬はまったく膝に痛みは出なくなった。

常時、三名のトレーナーが居て、いろいろ面倒を見てくれる。
その中の一人が、スラッと背が高くて、姿勢もすごくいい。
場所が場所だけに、バレーボールやってるの? と聞いたら、
「ボールがつかないんです」
何のこっちゃと思ったら、バレエをやてるアルバイトさんだった。
まさかバレリーナと知り合いになれるなんて(嬉)

一年続いたのは、このためか??!!
(笑)


舟を編む/三浦しをん

20130128

これは表紙でなくて、内扉の装画です。
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久しぶりに、途中で本を置けないで、一気読みをしてしまいました。
この本は、2012年本屋大賞を受賞した作品だそうですが、たしかに面白く、素晴しかった。
ちなみに、三浦しをんさんの本は、初めてでした。

辞書作りに人生を掛けてきた荒木が、定年退職する松本先輩の為にも、後継者となる社員を探します。最初軽薄な感じで描かれる西岡という若い社員が「辞書向けの人材」として推薦したのが、同社他部署の馬締(まじめ)です。そして彼らは、言葉の海を渡る舟たる辞書「大渡海」を編み始めます。
主人公格にあたる青年・馬締がとても好ましい。言葉を扱うにふさわしいというか、どこか古風で、とにかく本が好きで、変わっています。何気なく生活する中で、ふいに出てきた言葉、例えば「あがる」と「のぼる」の意味を考えていたり。

三浦しをんの滑らかな文章をそのまま載せたいところだが、こんな場面がある。
歓迎会の席上、馬蹄は趣味を聞かれて「エスカレーターを見ること」だといいます。
「電車からホームに降りたら、俺はわざとゆっくり歩くんです。乗客は俺を追い越して、エスカレーターに殺到していく。けれど、乱闘や混乱は生じません。まるでだれかが操っているかのように、二列になつて順番にエスカレータ一に乗る。しかも、左がわは立ち止まって運ばれていく列、右がわは歩いて上っていく列と、ちゃんとわかれて。ラッシュも気にならないほど、うつくしい情景です」
あっけにとられながら、荒木と松本先生は嬉しくなる。馬蹄は、やはり辞書づくりに向いている。
その情景は、そこかしこに散らばつていた無数の言葉が、分類され、関連づけられて、整然と辞書のページに並び収まることに通じている。
荒木は語る。
「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか」
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
この大業が馬蹄に託される。

この本のタイトル「舟を編む」。
素晴しい言葉だと思った。

「語釈」という言葉が出てきます。辞書において、掲載の言葉を説明する文章のことです。ある言葉を説明するためには、どうしても別の言葉を用いないといけない。
また辞書の最大の売りである、掲載用語数。辞書を作る際に、どんな言葉を載せるか、その何万にも及ぶ膨大な言葉の数をリストアップして、採用不採用を決めていく。
これは、実際の作業は気の遠くなるような、地味な作業だと思う。
しかし、三浦しをんはこんなシーンを描いてみせて、「言葉」を愛する人間なら恍惚となって、脱帽してしまうような世界を見せてくれる。

「それで、岸辺さんのご用はなんですか」
「『あい 【愛】』 の項目なんですが」
 岸辺は校正刷りを馬蹄に見せた。「語釈の①が、『かけがえのないものとして、対象を大切にいつくしむ気持ち』というのは、まだわかります。でも、その直後に置かれた単語の例が、『愛妻。愛人。愛猫。』 というのは、どうでしょうか」
「まずいですか」
「まずいですよー」
 岸辺は声を荒らげた。「だって、愛妻と愛人を併記しちゃってる時点で、『かけがえのないもの』という語釈と矛盾しませんか。『妻と愛人とどっちが大切なのか、はっきりしろ!』 って感じですよ。さらに、人間に対する愛と猫に対する愛が同列だなんて、いくらなんでも散漫すぎます」
「愛に差異も上下もありません。俺は、飼い猫を妻と同じぐらい愛しています」
「そうは言っても、猫と性交はしないでしょう!」
思わず叫んでしまってから、アルバイトの学生の目が気になり、岸辺は身を縮めた。馬蹄は脳内で、「せいこう」に当てはまる漢字をいくつか検索しているようだった。思い当たるものがあったのか、赤面してもごもご言う。
「それは、まあ…」
「ほら」
 岸辺は勝ち誇り、胸を張った。「さらに変なのは、恋愛的な意味での『愛』について説明した、②の語釈です。『②異性を慕う気持ち。性欲を伴うこともある。恋。』となっていますよね」
「なにかおかしいでしょうか」
 馬蹄はすっかり自信をなくした様子で、岸辺の顔色をうかがってくる。
「なんで異性に限定するんですか。じやあ、同性愛のひとたちが、ときに性欲も伴いつつ相手を慕い、大切だと思う気持ちは、愛ではないと言うんですか」
「いえ、そんなつもりはありません。しかし、そこまで細かく目配りする必要が…⊥
 「あります」
 岸辺は馬蹄の言葉をさえぎつて断定した。「まじめさん。『大渡海』は、新しい時代の辞書なんじやないんですか。多数派におもねり、旧弊な思考や感覚にとらわれたままで、日々移ろっていく言葉を、移ろいながらも揺らがぬ言葉の根本の意味を、本当に解釈することができるんですか」
 「ごもっともです」
 馬蹄は肩を落とした。「若かったころ、『れんあい【恋愛】』の語釈について岸辺さんと同じような疑問を感じたことがありました。それなのに俺は、日々の作業に追われ、その事実をすっかり忘れてしまっていた。面目ないかぎりです」
 このごろようやく、岸辺は辞書の仕事に少し自信が持てるようになった。馬蹄に意見を聞き入れてもらえることも多く、辞書編集部の戦力として求められているんだと感じられるようになつた。
 安堵と誇りとともに、岸辺は「あい【愛】」の校正刷りを馬蹄から返してもらった。馬蹄はふと思い出したように言った。
「そういえば、西岡さんにも言われたことがあります。「その言葉を辞書で引いたひとが、心強く感じるかどうかを想像してみろ」と。自分は同性を愛する人間なのかもしれない、と思った若者が、『大渡海』で『あい【愛】』を引く。そのときに『異性を慕う気持ち』と書いてあったら、どう感じるか。そういう事態を、俺はちゃんと想像できていなかったんですね」
「そのとおりです」
 岸辺はうなずき、馬蹄が反省しているらしいのを見て、すぐにフォローした。「でもまあ、しょぅがないですよ。なんだかんだいって、まじめさんは負け知らずのエリートですもん」
 嫌味としてではなく、素直な思いから出た言葉だ。
「エリート?」
「ええ。大学院まで出て、美人の奥さんがいて、辞書編纂のエキスパート。少数派であるがゆえの悩みなんて、なさそうです」


私が最も感情移入したのは西岡という社員である。
「器用貧乏」という言葉があるが、西岡がそういうタイプ。辞書編集部に配属され仕事だと割り切ってがんばってきたが、一つのものにのめりこむ執着心が薄いので、馬蹄が辞書編集部に異動してきたとき、こいつにはかなわないと観念した。
そして、不採算部門の経費削減のため、西岡は営業部に回される。
しかし、西岡は辞書編纂の仕事と、馬蹄以下それに携わる人たちが大好きになっていた。
そして、去る前にいつ来るとも知れぬ後継者のために「引き継ぎ資料」を作るのである。
対外交渉において、馬蹄を手助けできる人材は絶対に必要だ。いつか来るべき新編集部員のために、西岡は自分が知っていることを残していきたかったのだ。
たくさんの執筆者それぞれの、癖、好み、弱み、勤務先で置かれた立場、私生活。これまで集めた情報のすべてを、パソコンに入力する。出来する可能性のあるトラブル、そのときに取るべき対処法も、できるだけ詳しくシミュレートし、書きだした。
完成した文書をプリントアウトし、青い表紙のファイルに収めた。流出しては困るので、パソコンのデータは消去し、ファイルには「マル秘 辞書編集部内でのみ閲覧可」とマジックで大書する。
そして、極め付きの「プラスアルファ」も残していく。
こちらは、ちょっとやそっとでは見つからない場所に。

物語の途中で、次のページからいきなり13年後の話になっていた(笑)
ちょっと面食らったが、辞書編纂の仕事というのは長丁場なんですね。
「ライフワーク」という言葉がしっくりきます。
そして、やっと岸辺という新編集部員がやってきます。
今まで、バリバリのファッション雑誌の編集をしていた女性。
それが、埃のうず高くたまった職場に。まるで異次元の世界に入ってきます(笑)
そして枯れ木のような馬蹄主任!

ここで西岡の残していった、「マル秘」ファイルと、「プラスアルファ」の資料が役立つんですね。
岸辺は噴出してしまう。
何世紀も辞書編集部に棲息してきたみたいに、超然として見える。枯れかけた樹木か乾いた紙のように、愛憎とも性欲とも隔絶して見える。そんなまじめさんも、恋に悩み、「深夜の日記」的なラブレターまでしたためてしまったことがあるんだと。

西岡は、「大渡海」に血潮を通わせるために必要不可欠の存在だったんです。
それで、馬蹄は執筆者のところに西岡の名前も掲載するんです。
ちょっとウルウルな話です。


それから、紙質!
辞書の手触りにはぬめり感が必要、これには吃驚しました。
厚みを押さえつつめくりやすい、文字が映える、目に優しい色合い…。
印刷や紙も重要事項なんですね。
いろんな辞書を取り出してきて、めくってみました。
やっぱり辞書によって違いますね。

新刊だと高いだろうから、こんど神田古書街に行って自分の好きな辞書を選んでこようと思った。
その時には「手触り」もしっかりと選んで、ずっと傍に置いておける『大渡海』のような辞書を選びたいですね。

三浦しをんさんの文章がとても美しいと思いました。
読んでいて、とても心地の良い文章でした。


ベートーヴェン/交響曲第1番ハ長調作品21

20130126

久しぶりにのんびりとした気分で過ごしている。
市の歴史講座の研究コースも、いよいよ論文を完成させるところまできた。私のテーマ「市内神社祭神と古事記の関係」は34ページのボリュームで完了。
木曜にお互いの論文をチェックし合い、誤字脱字のチェックも終えて、修正したものを月曜までに私のところにUSBで持ち込み、私の知り合いの印刷屋さんで印刷・製本に回すところまできた。
二週間ほどサボッていたジムにも、午後に行ってきたので身体も生き返ったように爽快だ。

ベトのシンフォニー一番を聴こうと取り出したのがこのCD。
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指揮:ロヴロ・フォン・マタチッチ
演奏:NHK交響楽団
録音:1966年12月29日 東京厚生年金会館

一番最初に買ったのはブルーノ・ワルターのものだった。
二枚目を買う時に、いろいろ調べていて目に付いたのがレコード芸術2009年2月号で「特選盤」になっていたマタチッチ&N響のものだった。
宇野功芳さんが推薦の記事をこう書いている。
≪今からちょうど42年前の12月、「第9」の前プロとして演奏された「第1」の最初の楽章、主部に入ってクレッシュンドし、ffに達したときの巨大さというものは、今日でも決して忘れることが出来ない。ところがおどろいたことに、今回CDで耳にしたら、そのffの2小節(4つの4分音符)だけマタチッチはテンポを速め、3小節日から元に戻しているではないか。ちっとも気がつかなかった。
主部は実に悠々と進む。出はずいぶん遅いが、だんだんと普通のテンポに近づいてゆくのが典味深い。再現部からはスケ-ルはいっそう大きくなり、ダイナミックの凄みを増し、やがてすばちもいコーダを迎えるのである。
第2楽章は良いテンポで強めに歌い、とくに第2テ-マを歌いぬいているのが見事。メヌエットはこんなにスローな演奏も珍しいが、そのテンポが意味深く、巨大だ。
そしてフィナーレの序奏部。巨大さが逞しい男性美となり、やがて巨木となり、三分の際もない表情がこの短かい数小節の中にぎっしりとつまっている。主部は第1薬草に劣らぬものすごさであり、金管の強奏はウィーン古典派をはみ出す。≫

この演奏は聴いていて熱くなりますね。
曲自体、モーツァルトやハイドンの影響がかなり感じられ、まだベートーヴェンらしさがないとはいえ、29歳のベートーヴェンの若々しい勢いが感じられていい。
マタチッチの豪快な表現、音楽の持つ巨大なエネルギーの放射がすばらしい。
どっしりとした構えで、豪放で、聞いていて元気になる演奏。
聴き慣れているN響の音が、ここでは豪快さを加味して、N響の気合が入っていることが歴然とわかる。


花のあと

20130125

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この映画も映画館に行けなかったので、テレビで放送されるのを心待ちにしていた。
というのは、何かの番組でこの映画に出演する北川景子が居合を習うのを放送していたので、その剣士ぶりが楽しみだったからだ。

映画を見たら、櫻で始まって櫻で終わる。
櫻行脚をしている私には、たまらないシチュエーションだった。これだけでも永久保存版となった(笑)
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藤沢周平の海坂藩を舞台としたいわゆる「海坂もの」のひとつである。

あらすじ
満開の桜の下で以登に声をかけたのは、羽賀道場の高弟・江口孫四郎であった。父・寺井甚左衛門に剣の手ほどきを受けた以登は、道場の二番手、三番手を破るほどの剣豪であったが、孫四郎とは未だ剣を交えたことはなかった。わずかでも孫四郎の人柄に触れた以登は、父に孫四郎との手合わせを懇願する。以登は孫四郎に竹刀を打ち込む中で胸を焦がしている自分がいることに気がつく。ただ一度の手合わせで以登が感じたものは、紛れもなく初めての恋心であったが、家が定めた許婚がいる以登は孫四郎への想いを断ち切る。その数ヵ月後、孫四郎が藩の重役・藤井勘解由の卑劣な罠にかかって自ら命を絶った。江戸から帰国した許婚・片桐才助の手を借りて事件の真相を知った以登は、孫四郎の無念を晴らすために、そして自らの淡い想い出のために剣を取るのだった…。


この映画では、失われた感が強い日本人の良さなるものが思いきり美化されて描かれ、そのまっすぐな登場人物たちの心、行動がたまらなくいい。

以登の女剣士ぶりは、期待した以上だった。稽古着姿といい、真剣での立ち回りといい、よく出来ていたと思う。それにしても撮り方がうまい。
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そして、襖を開けたり、前に進み出る時の所作を丁寧に描いていて、こうしたしきたり、作法が厳然と守られている時代のなかで、かなわぬ思いを内に秘めて日々生きて行かざるを得ない、武家社会の中の女性の悲しみがよく伝わってくる。
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すごいのは、以登の許婚である才助(甲本雅裕)である。大飯は食うわ不作法だわ、以登の尻にタッチするわの傍若無人ぶりだが、一たび以登に孫四郎の死の原因の探索を頼まれるや、人脈を使ってたちまち真相を探り当てる。
見た目は風采が上がらず、役に立たないように思われながら、実は心の内は誰よりも誠実で、以登の孫四郎への思いも薄々感じながらも、以登を優しく見守り、以登の為に献身的な助力をする。
なにしろ、私も見ていて以登が負けそうになったとき、きっと才助がなんとかしてくれるだろうと、早とちりして思ったくらいだ(笑)
この男、後に家老にまで上り詰め、昼行燈と呼ばれながら長く筆頭家老を勤めたとナレーションで語られる。
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そして、「武士の一分」に続き、またもや敵役の市川亀治郎である。
おいおい、と言いたくなった(笑)
普段テレビで接している市川亀治郎が好きだけにね。
しかし、実に見事なハマリ役ではある。頭が切れて、そつのない良い男の悪役ぶりを、憎ったらしくも演じてくれる。
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中西健二監督の、映像はとにかく綺麗。
庄内地方の、四季の美しい風景を丹念に描いており、その映像だけでも満足でした。
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キャスト
以登:北川景子
片桐才助:甲本雅裕
江口孫四郎:宮尾俊太郎
藤井勘解由:市川亀治郎
語り:藤村志保
監督:中西健二


フランシーヌ・オースチン

20130124

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系統: ER イングリッシュローズ S シュラブ
作出: 1988年 イギリス David Austin
花形: 八重/多弁
香り: 軽い
開花: 四季咲き

小さく輝くような白のポンポン咲きの花を細めの枝につけています。
最盛期は花が房咲になって真白になるほど咲くようです。
花が小さいので可愛らしいですね。

香りは、オールドローズとムスク香の混ざった香りが甘く香って漂います。

花の名前の「フランシーヌ・オースチン」は、デビッド・オースチンの長男のお嫁さんの名前だといいます。


2012年6月 軽井沢レイクガーデンにて
私が着いたのは、早朝の雨と霧があがったばかりだったので、このような写真となりました。


子供たちと「むかし遊び」

20130122

現在、学校支援ボランティアのコーディネーターをしていますが、今日は小学校の「むかし遊び」の企画を支援してきました。
生活科の授業として、地域の人から昔からの遊びを教わったり一緒に遊ぶことで、昔からの遊びの良さや楽しさを知り、また地域の人との交流も図るというものです。
対象は小学校1年生。
3クラスあるので、100名あまりの子供たちとなります。
遊びは、けん玉、こま、竹馬、竹とんぼ、お手玉、あやとり、おりがみ、羽根つきの8つです。

一つの遊びに、ボランティアの方3人確保したいと思い、支援を募りましたが、寒い冬のこと故なかなか集まらず、歴史講座で知り合った友人にお願いしたりして、なんとか24名確保できたので、ホッとしました。

全部、体育館のなかでやることにして、遊びの場所を決めておいて、そこでボランティアは待っています。
子供たちは好きな遊びのところに行って遊びます。
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けん玉
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こま
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竹馬
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竹とんぼ
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お手玉
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あやとり
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おりがみ
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羽根つき
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子供たちは、とても楽しそうに遊んでいました。
それにも増して、楽しそうなのが大人たちでしたね。
私も、楽しみました。なによりも子供たちの笑顔がいいです。

時間が1時限ということで、45分間だったので、子供達も、大人たちも、「えっ、もう終わり?」と不満そうでした。

この小学校では、初めての企画だったのですが、うまくいったので、これからも続けたいということでした。

ボランティアの方からも、多くの方から、次もぜひ参加させてくれと言ってきたので、私もとても嬉しかったですね。


古事記を知る(10)

20130120

2-5 黄泉國
於是欲相見其妹伊邪那美命。追往黄泉國。爾自殿騰戸出向之時。伊邪那岐命語詔之。愛我那邇妹命。吾興汝所作之國。未作竟故可還。爾伊邪那美命答白。悔哉不速來。吾者為黄泉戸喫。然愛我那勢命。
那勢二字以音下効此入來坐之事恐故欲還。且具興黄泉神相論。莫視我。如此白而。
還入其殿内之間。甚久難待。故刺左之御美豆良
三字以音下効此湯津津間櫛之男柱一個取闕而。燭一火入見之時。宇士多加禮斗呂呂岐弖。此十字以音於頭者大雷居。於胸者火雷居。於腹者黒雷居。於陰者拆雷居。於左手者若雷居。於右手者土雷居。於左足者鳴雷居。於右足者伏雷居。併八雷神成居。
於是伊邪那岐命見畏而逃還之時。其妹伊邪那美命言令見辱吾。即遣豫母都志許賣
此六字以音令追。爾伊邪那岐命取黒御鬘投棄。乃生蒲子。是摭食之間逃行。猶追。亦刺右之御美豆良之湯津津間櫛引闕而投棄。乃生笋。是抜食之間逃行。且後者。於其八八雷神副千五百之黄泉軍令追。爾抜所御佩之十拳劔而。於後手布伎都都此四字以音逃來。猶追到黄泉比良此二字以音坂之坂本時。取在其坂本桃子三個待撃者。悉逃返也。爾伊邪那岐命告桃子。汝如助吾。於葦原中國所有宇都志伎此四字以音青人草之。落苦瀬而患愡時。可助告。賜名號意富加牟豆美命。自意至美以音
最後其妹伊邪那美命身自追來焉。爾千引石引塞其黄泉比良坂。其石置中。各對立而度事戸之時。伊邪那美命言。愛我那勢命。為如此者。汝國之人草一日絞殺千頭。爾伊邪那岐命詔。愛我那邇妹命。汝為然者。吾一日立千五百産屋。是以一日必千人死。一日必千五百人生也。故號其伊邪那美命謂黄泉津大神。亦云以其追斯伎斯此三字以音而。號道敷大神。亦所塞其黄泉坂之石者。號道反大神。亦謂塞坐黄泉戸大神。故其所謂黄泉比良坂者。今謂出雲國之伊賦夜坂也。

(読み)
 ココニソノイモイザナミノミコトヲアヒミマクオモホシテ ヨモツクニニオヒデマシキ スナハチトノドヨリイデムカヘマストキニ イザナギノミコトカタラヒタマハク ウツクシキアガナニモノミコト アレミマシトツクレリシクニイマダツクリヲヘズアレバカヘリマサネトノリタマヒキ ココニイザナミノミコトノマヲシタマハク クヤシキカモトクキマサズテ アハヨモツヘグヒシツ シカレドモウツクシキアガナセノミコト イリキマセルコトカシコケレバカヘリナムヲ マヅツバラカニヨモツカミトアゲツラハム アヲナミタマヒソ カクマヲシテ ソノトノヌチニカヘリイリマセルホド イトヒサシクテマチカネタマヒキ カレヒダリノミミヅラニササセル ユツツマグシノ ヲバシラヒトツトリカキテ ヒトツビトモシテイリミマストキニ ウジタカレトロロギテ ミカシラニハオホイカヅチヲリ ミムネニハホノイカヅチヲリ ミハラニハクロイカヅチヲリ ミホトニハサクイカヅチヲリ ヒダリノミテニハワキイカヅチヲリ ミギリノミテニハツチイカヅチヲリ ヒダリノミアシニハナルイカヅチヲリ ミギリノミアシニハフシイカヅチヲリ アハセテヤクサノイカヅチガミナリヲリキ 
 ココニイザナギノミコトミカシコミテニゲカヘリマストキニ ソノイモイザナミノミコトアレニハヂミセタマヒツトマヲシタマヒテ ヤガテヨモツシコメヲツカハシテオハシメキ カレイザナギノミコトクロミカヅラホトリテナゲウチタマヒシカバ スナハチエビカヅラノミナリキ コヲヒリヒハムアイダニニゲイデマスヲ ナホオヒシカバ マタソノミギリノミミヅラニササセルユツツマグシヲヒキカキテナゲウテタマヘバ スナハチタカムナナリキ コホヌキハムアヒダニニゲイデマシキ マタノチニハ カノヤクサノイカヅチガミニチイホノヨモツイクサヲソヘテオハシメキ カレミハカセルトツカノツルギヲヌキテ シリヘデニフキツツニゲキマセルヲ ナホオヒテヨモツヒラサカノサカモトニイタルトキニ ソノサカモトナルモモノミヲミツトリテマチウチタマヒシカバ コトゴトニニゲカヘリキ ココニイザナギノミコトモモニノリタマハク イマシアヲタスケシガゴト アシハラノナカツクニニアラユルウツシキアヲヒトクサノ ウキセニオチテクルシマムトキニ タスケヨトノリタマヒテ オホカムヅミノミコトトイフナヲタマヒキ
 イヤハテニソノイモイザナミノミコトミミズカラオヒキマシキ スナハチチビキイハヲソノヨモツヒラサカニヒキサヘテ ソノイハヲナカニオキテ アヒムキタタシテコトドヲワタストキニ イザナミノミコトノマヲシタマハク ウツクシキアガナセノミコト カクシタマハバ ミマシノクニノヒトクサヒトヒニチカシラクビリコロサナトマヲシタマヒキ ココニイザナギノミコトノノリタマハク ウツクシキアガナニモノミコト ミマシシカシタマハバ アレハヤヒトヒニチイホウブヤタテテナトノリタマヒキ ココヲモチテヒトヒニカナラズチヒトシニ ヒトヒニカナラズチイホヒトナモウマルル カレソノイザナミノミコトヲヨモツオホカミトマヲス マタカノオヒシキシニヨリテ チシキノオホカミトマヲストモイヘリ マタソノヨミノサカニサヤレリシイハハ チガヘシノオホカミトマヲシ サヤリマスヨミドノオホカミトモマヲス カレソノイハユルヨモツヒラサカハ イマイズモノクニノイフヤザカトナモイフ

 (現代語訳)
 そこで伊邪那岐命は、女神の伊邪那美命に会いたいと思って、後を追って黄泉国に行かれた。そこで女神が、御殿の鎖した戸から出て迎えたとき、伊邪那岐命が語りかけて仰せられるには、「いとしいわが妻の命よ、私とあなたとで作った国は、まだ作り終わっていない。だから現世にお帰りなさい」と仰せられた。すると伊邪那美命が答えて申すには、「それは残念なことです。もっと早く来て下さればよかったのに。私はもう黄泉国の食物を食べてしまったのです。けれどもいとしい私の夫の君が、わざわざ訪ねておいで下さったことは恐れいります。だから帰りたいと思いますが、しばらく黄泉国の神と相談してみましょう。その間私の姿を御覧になってはいけません」 と申した。
 こう言って女神は、その御殿の中に帰っていったが、その間がたいへん長くて、男神は待ちきれなくなられた。それで男神は、左の御角髪(みずら)に挿していた神聖な爪櫛の太い歯を一本折り取って、これに一つ火をともして、御殿の中にはいって御覧になると、女神の身体には蛆がたかり、ごろごろと鳴って、頭には大雷がおり、胸には火雷がおり、腹には黒雷がおり、陰部には拆雷(きくいかづち)がおり、左手には若雷がおり、右手には土雷がおり、左足には鳴雷がおり、右足には伏雷がおり、合わせて八種の雷神が成り出でていた。
 これを見て伊邪那岐命が、驚き恐れて逃げて帰られるとき、女神の伊邪那美命は「私によくも恥をかかせた」と言って、ただちに黄泉国の醜女を遣わして追いかけさせた。そこで伊邪那岐命は、髪に着けていた黒い鬘を取って投げ捨てると、たちまち山ぶどうの実が生った。これを醜女たちが拾って食べている間に、男神は逃げのびた。なお醜女たちが追いかけて来たので、男神はこんどは右の御角髪に刺している爪櫛の歯を折り取って投げ捨てると、たちどころに筍が生えた。それを醜女たちが抜いて食べている間に、男神は逃げのびた。
 そして後には、その八種の雷神に、千五百人もの大勢の黄泉国の軍勢を従わせて追跡させた。そこで男神は、身に着けておられる十拳の剣を抜いて、うしろ手に振りながら逃げて来られた。なお追いかけて、現世と黄泉国との境の黄泉比良坂のふもとにやって来たとき、男神は、そこに生っていた桃の実三つを取って、待ちうけて投げつけたところ、黄泉の軍勢はことごとく退散した。そこで伊邪那岐命が、その桃の実に仰せられるには、「おまえが私を助けたように、葦原の中国に生きているあらゆる現世の人々が、つらい目に逢って苦しみ悩んでいる時に助けてくれ」と仰せられて、桃の実に意富加牟豆美命という神名を与えられた。
最後に、女神の伊邪那美命自身が追いかけて釆た。そこで男神は、巨大な干引の岩をその黄泉比良坂に引き据えて、その岩を間にはさんで二神が向き合って、夫婦離別のことばを交わすとき、伊邪那美命が申すには、「いとしいわが夫の君が、こんなことをなさるなら、私はあなたの国の人々を、一日に千人締め殺しましょう」と申した。すると伊邪那岐命が仰せられるには、「いとしいわが妻の命よ、あなたがそうするなら、私は一日に千五百の産屋を建てるだろう」と仰せられた。こういうわけで、一日に必ず千人の人が死ぬ一方、一日に必ず千五百人の人が生まれるのである。
 それでその伊邪那美命を名づけて黄泉津大神という。また男神に追いついたので、道敷大神と呼ぶともいう。また黄泉の坂を塞いだ岩は、道反之大神と名づけ、また黄泉国の入口を塞いでおられる黄泉戸大神ともいう。そして、かのいわゆる黄泉比良坂は、今の出雲国の伊賦夜坂という坂である。

(解説)
汝妹:男から女性を親しんで呼ぶ語。
黄泉戸喫:黄泉国の火で煮炊きした食べ物を食べること。
なせ:女性から男性を親しんで呼ぶ語。
男柱:櫛の両端の太い歯。
ころろきて:ころころと音を立てて、の意。
拆雷(きくいかづち):物を裂く威力のある雷。
黒御鬘:「かづら」は蔓草などを輪にして頭髪にまとい、呪物としたもの。
青人草:漢語の「蒼生」の訳語であろうという。人民の意。
事戸を度(わた)す:「ことど」は夫婦離別の呪言をいう。

伊邪那岐命が、女神に会うために黄泉国を訪れる物語は、古代の貴人の死に際して行なわれる殯宮儀礼を背景として、形成されたものといわれている。
「我をな視たまひそ」というタブーを犯して、男神が女神の屍体を見るのは、実は肉親を葬って後、近親者が死屍を見に行く風習のあったことに関連して語られている。
桃の実を投げて邪霊を退散させる話は、桃の木が邪気を退ける呪力を有する、という中国思想によったものである。また千引の岩を引きすえる話は、岩石が邪気悪霊の侵入を防ぐとする、古代の信仰に基づいて語られている。

出雲の「黄泉比良坂」 住所:島根県松江市東出雲町揖屋
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武士の家計簿

20130118

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このあいだ、テレビで放送された映画です。
この映画のCMがテレビで流れていたとき、面白そうだなと思いつつも見逃した映画でした。
で、見てビックリ!
舞台が加賀藩ではないですか。
私の直前の記事が、津本陽著「加賀百万石」です。あれは利家が亡くなる直前からスタートし、加賀百万石が盤石の態勢になるまでを描いたものでしたが、この映画の時代は幕末でした。
以前から疑問に思っていたのは、百万石という大藩の加賀藩が幕末の際に影が薄かったのは何故なんだろう、ということでした。

まずは映画ですが、歴史学者磯田道史氏の著書『武士の家計簿 「加賀藩御算用者」の幕末維新』という、一般向けの教養書で、ドキュメンタリー的なノンフィクションを原作として映画『武士の家計簿』が製作されたものです。
磯田氏は2001年(平成13年)に神田神保町の古書店で、加賀藩の下級藩士で御算用者(会計処理の役人)を務めた猪山家に残された、約37年間の入払帳や書簡を入手して、ドキュメンタリーを書いたそうです。

映画のあらすじ:
江戸時代後半。御算用者(会計処理の専門家)として、代々加賀藩の財政に関わってきた猪山家。八代目の直之(堺雅人)は、生来の天才的な数学感覚もあって働きを認められ、めきめきと頭角をあらわす。これといった野心も持たず、ただひたすらそろばんを弾き、数字の帳尻を合わせる毎日の直之にある日、町同心・西永与三八(西村雅彦)を父に持つお駒(仲間由紀恵)との縁談が持ち込まれます。
お駒の母親の実家が加賀友禅を商う商家ということで、犀川だろうか、浅野川だろうか、友禅流しの作業にお駒も加わっている場面が流れます。
30年くらい前には、まだ実際に川で友禅流しをしているのを見られたものです。今では工房の水槽でやるようになってしまいましたが。
この場面がとても懐かしかった。

自らの家庭を築いた直之は、御蔵米の勘定役に任命されるが、農民たちへのお救い米の量と、定められていた供出量との数字が合わないことを不審に思い、独自に調べ始める。やがて役人たちによる米の横流しを知った直之は左遷を言い渡されるが、一派の悪事が白日の下にさらされ、人事が一新、左遷の取り止めに加え、異例の昇進を果たす。だが、身分が高くなるにつれ出費が増えるという武家社会特有の構造から、猪山家は出費がかさんでいく。すでに父・信行(中村雅俊)が江戸詰で重ねた膨大な借金もあり、直之は“家計立て直し計画”を宣言。それは家財一式を処分、質素倹約をし、借金の返済に充てるという苦渋の決断だった。愛用の品を手放したくないと駄々をこねる母・お松(松坂慶子)。しかし、お家を潰す方が恥であるという直之の強い意志により、家族は一丸となって借金を返済することを約束。

こうして猪山家の家計簿が直之の手で細かく付けられることになった。倹約生活が続く中、直之は息子・直吉にも御算用者としての道を歩ませるべく、4歳にして家計簿をつけるよう命じ、徹底的にそろばんを叩き込んでいく。

猪山成之ですが、Wikiによれば、代々の家職で事務処理と計算に優れた成之は、平時の会計事務にとどまらず、(その延長で)兵站事務にも才能を発揮し、加賀藩の京都禁裏守衛諸隊の兵站を仕切った。加賀藩が新政府方に入ると、大村益次郎のもとで軍務官会計方にヘッドハンティングされ、新政府軍の財政を支えた。大村が1869年(明治2年)に暗殺された後は、兵部省会計少佑海軍掛を経て大日本帝国海軍の主計官となり、海軍主計大監(大佐相当官)まで昇進して、呉鎮守府会計監督部長を最後に、1893年(明治26年)に予備役となっています。

映画では、主題ではないので加賀藩の幕末での動向はチラと出てきただけでした。
調べてみると、当時の当主斉泰の正室は十一代徳川家斉公の娘の溶姫。世子の慶寧を生んでいます。世子の慶寧は尊皇攘夷思想に傾倒。当然ながら側近も勤王派でした。禁門の変時、慶寧は御所を守る為、兵とともに京にいました。朝廷と幕府に長州を許すように懇願しますが、戦闘が避けられないとみるや長州との交戦を嫌って無断で撤兵、帰国してしまいます。
慶寧の敵前逃亡に幕府は激怒。幕府の追及を恐れた当主斉泰は慶寧を謹慎させ、勤王派の側近は切腹、流刑等で全て処分してしまいました。
慶応二(1866)年に、慶寧は家督を継ぎ当主となりますが、家中には勤王派は皆無。羽をもがれた鳥でした。このまま何も出来ずに幕末を迎えることになります。
鳥羽伏見の戦いでは幕府の命で出兵。京に向かう途中で幕府軍の敗北を知り進軍を中止。政府軍に恭順を願い出ます。恭順後は積極的に政府軍に協力し、北越や会津の戦いでは主力となっています。その武功を認められて、賞典禄一万五千石を得ています。

映画を見ていた時は、猪山成之が大村益次郎と一緒に仕事をしているということがいきなり出てきて、解りにくかったのですが、これで納得しました。京都で加賀藩の人間は、尊皇攘夷派と親しくなったということでしょう。

この映画のキャッチコピーは「刀でなく、そろばんで、家族を守った侍がいた。」だったそうだが、森田芳光監督のほのぼのした良い味が出ている映画です。

キャスト
森田芳光:監督
猪山直之:堺雅人
猪山駒:仲間由紀恵
猪山成之:伊藤祐輝(幼少時:猪山直吉:大八木凱斗)
猪山常:松坂慶子(直之の母)
おばばさま:草笛光子(直之の祖母)
猪山信之:中村雅俊(直之の父)
西永与三八:西村雅彦(駒の父。町同心で直之の剣術の師)


当然なか゜ら登城シーンでの金沢城とか武家屋敷とか、現存する金沢の遺産がずいぶんと登場していて、嬉しかったですね。
私の撮った写真で紹介しておきます。

金沢城
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武家屋敷町
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加賀百万石/津本陽

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私は信州佐久の生まれだが、結婚して婿養子に入り富山県の人間になった。
富山県と言っても金沢の隣町(山越えだが)に位置していて、当時は加賀藩で、我が家は「十村役」を務める家だった。
今は埼玉県に住んでいて、富山の家は無人、田も墓もそのままである。
帰省したときは、普段無人だった家に泊まるのはつらいので、金沢に泊まって、金沢で遊んでいる。
だから金沢の町は詳しい。
だが、加賀百万石の歴史となると・・・・・・???

もちろん前田利家、おまつは充分知っているつもりだが、江戸時代初期に豊臣恩顧の大名で関ヶ原以降徳川方に組したのに、続々と潰されていった中で、百万石を維持できたのは何故か?

そんな疑問に答えてくれたのが、この本である。
この本は、前田利家が亡くなる直前から物語が始まる。

前田利家は病床にあって、家康が見舞いに来るというので、最後のチャンスと思い家康の暗殺を計画する。
子には前田利長、利政の兄弟が居り、弟の利政は父親に似て豪の者。血気にはやって家康を待ち構える。
長男の利長は慎重だ。今家康を討ったら、信長を明智光秀が討った時点に逆戻り、とてもじゃないが秀吉、家康、利家に並び立つ人物は見当たらない。天下はまた麻のごとく乱れるであろうと。
そう利長は父親を説得して、家康暗殺をあきらめさせる。

関ヶ原の役では、利長は東軍に組するが、能登十万石の利政は西軍に組する構えで兵を動かさなかった。
これは、真田でも真田幸村が西軍、真田正之が東軍と分れたように、家を残すための策と思われる。
東軍が勝ち、慎重派の前田利長が残ったので、前田百万石が残った分岐点だったと思われる。

加賀百万石は、利家の正室、芳春院(おまつ)が人質として江戸に居たせいだと言う話が表面に出ているが、
そんな単純な話で、秀吉の盟友として大藩を誇った前田家が徳川家との確執を解けるはずもないのである。

なにしろ関ヶ原の時は、二代目前田利長(利家の長男)、大阪冬の陣・夏の陣の時は三代目利光(利家の四男)である。君主も出来た人間とはいえ、徳川家との関係維持に苦心する家臣団の努力が読んでいてなるほどと思わせる。

金沢を歩いていると「本多」の名前がついているのに、よく出くわす。町の名前だったり記念館だったり。
加賀藩で家老だったようだが、徳川家重臣の本多は知ってるけど、こっちは何だ?
と思ったがそのままになってた。
その疑問も、この本を読んで氷解した。
徳川の重臣本多正信の次男本多政重が送り込まれていたのである。
本多政重は前田家のために、徳川家重臣との重要な折衝を受け持ち、よく働いたことがわかった。

元和2年(1616)4月、家康は病篤く、薨去に先立ち、前田利光ら諸候を召し寄せ、遺言をした。家康は、わが死後に謀叛をする輩があらわれたときは、徳川家の総力をあげて対戦するとの決意を表わし、諸大名を威嚇した。家康は前田利光に、つぎのようにいった。「儂は前田の身代を取りつぶすよう、たびたび申して参ったが、秀忠はいかにしても同心をいたさず、今に至りしよ。されば、そのほうは儂に恩義はいささかもなく、ただただ秀忠が恩によりて今日ありと心得よ。この儀を忘却いたすでないぞ」

キリシタン大名で有名な「高山右近」、彼が「高山南坊」という名で前田家の客将になっていたことを、この本で知った。最後は徳川政権のキリシタン弾圧令で、ルソンに移住し、そこで亡くなるのだが、関ヶ原、大阪城冬の陣・夏の陣など大切な局面ではけっこう重要な役目を負っていたことがわかった。


ずいぶんと面白く読むことができた。
前田利長、利光の藩主の動きもさることながら、金沢城下で起こる、その時その時の事件なども詳しく書いてあって面白かった。


マーラー/交響曲第1番ニ長調「巨人」

20130114

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指揮:レナード・バーンスタイン
演奏:ロイヤル・コンセルトヘボウ・オーケストラ
録音:1987年10月 アムステルダム、コンセルトヘボウ

今日は関東に久しぶりに、だいぶ雪が降って交通がかなり乱れたようです。
私は一歩も外に出なかったので、何の影響もありませんでしたが。
雪景色でも撮ろうかと思ったのですが、途中から雨になりずっと降っていたので写真も撮りませんでした。
雪の影響と言えば、だいぶ前のことですが富山県に帰省するのに、長岡まで新幹線、そこから特急の予定でした。
大宮で新幹線に乗る前に心配だから、駅員に確認したら「まだ動いてます」ということで乗ったら、長岡に着いてみたら北陸線は全面運休。長岡で泊まったとしても翌日動くかわからないし、泣く泣く東京駅まで引っ返し、東海道新幹線で米原まで、そこから特急で金沢に行き、それからバスで帰ったことがありましたね。
ヘトヘトになりましたが、今となっては懐かしい思い出ですね。

さて、今日の曲はマーラーです。
1884年から1888年にかけて作曲されたが、初め「交響詩」として構想され、交響曲となったのは1896年の改訂による。「巨人」という標題は1893年「交響詩」の上演に際して付けられ、後に削除されたものである。この標題は、マーラーの愛読書であったジャン・パウルの小説『巨人』(Titan)に由来する。この曲の作曲中に歌曲集『さすらう若者の歌』(1885年完成)が生み出されており、同歌曲集の第2曲と第4曲の旋律が交響曲の主題に直接用いられているなど、両者は精神的にも音楽的にも密接な関係がある。
(以上Wiki)

この曲を作曲した頃のマーラーには、二つの恋の話が残っています。
一つは、ソプラノ歌手、ヨハンナ・リヒターに対する恋です。彼女のために「花の章」という小品を作曲しました。しかし、この思いは残念ながらヨハンナには通じませんでした。
「花の章」、「さすらう若人の歌」の主題の引用も織り交ぜ、1888年に「2部5楽章からなる交響詩」を作曲しました。
第1部 青春の日々より
  1 果てしなき春
  2 花の章
  3 満帆に風を受けて
第2部 人生喜劇
  4 座礁、カロ風の葬送行進曲
  5 地獄から天国へ!
しかし、この交響詩は、マーラーにとっては、自身の失恋の思い出があまりに色濃く反映されているため、1894年のワイマールにおける演奏を最後にすべての標題を削除、さらにはヨハンナと最も直接的に関連がある「花の章」を除いて全4楽章構成に組みなおしたのです。

この当時のいま一つの恋は、カール・マリア・フォン・ヴエーバーの孫、カール・フォン・ヴエーバー大尉の夫人マリオンに対するものでした。
ヴェーバー大尉は、祖父が残した未完の喜歌劇、『三人のピント』 の草稿を所有していた。ヴェーバーが音を付けたのは、台本の半分ほどに過ぎず、大半がピアノ・スケッチ程度だった。マーラーはその完成を依頼され、空白部分はヴェーバー作品から転用したり、自分で作曲したりしたという話があります。
マーラーが『交響曲第一番』の作曲に没頭していて、第一楽章を完成した真夜中、マーラーはヴェーバー家に駆け込み、曲面の七つのA音をピアノで鳴らすために、ヴェーバー夫妻も手伝わなければならなかったという話も。
そして、マーラーとヴェーバー夫人の仲がどうなったのかというと、スキャンダルが表に出ることは、ヴェーバー大尉にとって、退役を余儀なくされることを意味した。彼はできる限りは目をつぶっていた。しかし事は危機的状況に陥り、ある日ヴエーバーはドレスデンへの旅の車中、人前で突然笑い出して拳銃を抜き、ウイリアム・テルさながら座席の枕を撃ち始めた。彼は取り押さえられ、列車も止まり、完全な錯乱状態で警察に連行され、そこから直接病院に送り込まれた。彼はすでに軍の間でも、奇矯な人物として知られていたが、マーラーとの醜聞は彼の理性を決定的に奪い去った。
そして、彼の妻マリオンは後悔に打ちのめされ、再び恋人マーラーに会うことをきっぱり拒んだという。

いずれも失恋に終わったとはいえ、当時28歳のマーラーの恋心が生んだ第一番です。
聴いていて、青春の息吹や濃厚なロマンティシズムが横溢しているようで、いいですよね。

この録音は、若い頃から尽力し続けたバーンスタインが、マーラーゆかりのオーケストラであるロイヤル・コンセルトヘボウ管弦楽団を指揮した演奏ですからね、悪かろうはずがありません。
第一楽章のクラリネットの響きと第三楽章の一つ一つの旋律に感情が込められているような濃厚な演奏が好きですね。
この曲に対するバーンスタインの愛情や優しさに溢れている演奏だと思います。


ブライス・スピリット

20130113

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系統  ER イングリッシュローズ S シュラブ
作出  1999年 イギリス David Austin
花色  レモンイエロー
花形  丸弁
花径  中輪 直径7cm程の小さめのかわいらしいバラ
芳香  中香  
開花  四季咲き  

小さなカップ咲きのソフトイエローの花で、かわいいですね。
多くの香りバラがそうであるように、花弁が薄いバラ。

香りは、軽いムスクローズの香りで、さわやかな良い香りがします。

咲き終わりにはホワイトに近くなって花弁の外側がほんのり赤くなるそうですが、
ここでは、多くの蕾のなかで咲き始めたばかりで、咲き終わりの物はありませんでした。

「ブライス・スピリット」の、「ブライス」とは何だろう?
と思って調べてみると、ファッションドールで、あるようです。
写真が沢山載ってるのでわかりましたが、大きな頭の大きな瞳が特徴。
後頭部から伸びた紐を引くことにより、瞳の色と目線が4パターンに変化するとか。
私は見たことがありませんが、マニアックなドールコレクターには人気だそうです。


2012年6月 軽井沢レイクガーデンにて

『居眠り磐音 江戸双紙』第27巻「柘榴ノ蠅」&第28巻「照葉ノ露」/佐伯泰英

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第27巻「柘榴ノ蠅」
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この巻での大きな出来事は、山形から戻る磐音と吉原会所の若い衆が千住掃部宿で休んでいた時、磐音はお家騒動の諍いににより窮地に陥った若侍を助けるのだが、それによりその騒動に巻き込まれる。
いま一つは、佐渡の金山の水替え人足の不足から、江戸の無宿人を送り込むことが始められたが、その道中から竜神の平造一統4人が脱出した。隠し金を手に入れて上方に逃げるため江戸に戻ってくるようだ。
そして、以前から西の丸の家基が願っていた、外出と宮戸川での鰻を食す企てが結構される。当然田沼意次派もそれを嗅ぎつけて襲撃を企てるに違いない。

磐音が我が家に帰り、夕食を家族だけでなく住み込みの門弟と食べながら山形での話をした後、磐音とおこんの二人だけの夜、おこんは寝化粧をしながら、なかなか磐音のところに来なかった。磐音が山形で奈緒と会ったからである。
磐音はおこんを呼び、土産を渡す。それは紅板と一本の絵蝋燭であった。
紅板の表には見事な金蒔絵が施されていた。流水が描かれ、金色に色付いた紅葉が三つ四つと浮かんでいる。 携帯用の紅板は、紅猪口同様、蒔絵の二枚板の内側に光を嫌う紅が塗られたもので、紅筆を使って唇にさした。使わないときは金蒔絵の紅板を合わせておけば、光が遮断された。
高価な紅を金蒔絵の紅板仕立てに工夫した化粧道具は、京辺りの高貴な女人が求めるものか。
蝋燭に絵付けが施されるようになったは、奥羽地方が発祥の地とされる。仏壇に供える花がない季節、蝋燭に花々の絵を措いて備えたのが始まりとされた。四季の花々が措かれたために、「花紋燭」と呼ばれたそうな。
この絵蝋燭と紅板を磐音の江戸土産に持たせたのは、渡した人は名を云わなかったが、磐音とおこんは奈緒だとわかった。

磐音は愛刀包平を御家人鵜飼百助のもとに砥ぎに出した。
磐音が訪ねると、鵜飼家の庭に柘榴の木があり、真っ赤に熟れた実に蠅がたかっている。これがこの巻のタイトルである。
包平の替わりは義父佐々木玲園が使ってみよと渡された、近江大掾藤原忠弘。
包平より、藤原忠弘は二寸二分短い。この間合いの違いが真剣勝負では命取りになるかもしれない。そのことを佐々木玲園も鵜飼百助もそれとなく磐音に伝える。
それがとうなるか。

この巻で、磐音が相対したのは、初実剣理方一流、中条家流、他は特に流派の説明なし。


第28巻「照葉ノ露」
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この巻での大きな出来事は、南町奉行所定廻り同心木下一郎太とともに上総に出向く。一郎太の出入りの旗本家に不祥事が出来し、その解決のため。13歳の少年設楽小太郎が、それまで武術の指南役だった侍と母親を討たねばならないのだ。
道場の「でぶ軍鶏」こと重富利二郎は土佐藩家中の息子だが、父親が土佐に帰る用事があり、同行することになった。
磐音が西の丸家基の剣術指南に登城することになった。西の丸にも暗躍する田沼意次派をけん制するためである。

設楽小太郎の母親お彩が哀れである。
庄屋の娘として17歳まで上総で穏やかな人生を歩んでいた。それが陣屋に奉公していた時、設楽貞兼に見初められ、強引にも江戸に連れて行かれて直参旗本の妾になり、大勢の奉公人に傅かれての暮らしぶりに変わった。さらに小太郎を産んで正室となり、一段と貫禄と落ち着きを増した。 平穏な旗本家に黒い翳を落としたのは貞兼の酒乱癖だ。
貞兼によるお彩への狼藉がひどすぎるので、同じく上総から方向に上がって、地下人から剣術指南になっていた佐江傳三郎が止めに入り、刀を振り回していた設楽貞兼を、誤って殺してしまった。
思い余ったお彩と佐江傳三郎が逃亡したのである。

磐音、おこん、利二郎が旅支度の買い物に出る。笠、道中羽織、袴、足袋、刀の柄嚢、手っ甲脚絆、武者草鞋、矢立、日誌、小ぶりの柳行李、着替え一式、常用する薬、扇子、糸針、懐中鏡、櫛、鬢付け油、蝋燭、提灯、火打ち道具、麻縄、手ぬぐい。
やっぱり大変だ。
着るものは、当時は古着が当たり前だったようだ。

竹村武左衛門が、身体にガタがきて日雇い人工の仕事が無理になり、いよいよ武士生活をあきらめ、陸奥磐城平藩五万石安藤対馬守の下屋敷門番となることになった。
竹村武左衛門の引っ越し祝いの宴の最中、突然雷を伴った大雨が降り出した。雨の最中も茶碗酒を飲み続けた竹村武左衛門がいつものように酔い、眠ったところでお開きになった。
その時分にほ雷雨は去り、爽やかな光が戻っていた。安藤家下屋敷前の運河の土手に柿の木があり、大振りの柿と色付いた葉が雨上がりの光に照らされて鮮やかだった。
「かような光景を照菓と呼ぶのであろうな。雨のせいで一段と美しい」
「照菓ですか。未だ菓に玉の露が乗っております」
磐音とおこんが、話す。
この巻のタイトルである。

木下一郎太が道場に北町奉行所与力の娘瀬上菊乃を伴って現れた。一郎太と菊乃は幼馴染だったが、菊乃が嫁に行ったとき、一郎太は深い喪失感があった。その一郎太に再び希望の灯が灯ったのは、菊乃が嫁ぎ先から離縁されて戻ってきたからだ。

この巻で、磐音が相対したのは、安房一心流、真天流、薩摩示現流、心形刀流、他は特に流派の説明なし。


古事記を知る(09)

20130110

2-4 火神迦具土神
故爾伊邪那岐命詔之。愛我那邇妹命乎。
那邇二字以音下効此謂易子之一木乎。乃匍匐御枕方。匍匐御足方而哭時。於御涙所成神。坐香山之畝尾木本。名泣澤女神。故其所神避之伊邪那美神者。葬出雲國與伯伎國堺比婆之山也。
 於是伊邪那岐命。祓所御佩之十拳劔。斬其子迦具土神之頸。爾著其御刀前之血。走就湯津石村所成神名。石拆神次根拆神。次石筒之男神。三神次著御刀本血亦走就湯津石村所成神名。甕速日神。次樋速日神。次建御雷之男神亦名建布都神。
布都二字以音下効此亦名豐布都神。三神次集御刀之手上血。自手俣漏出所成神名。訓漏云久伎闇淤加美神。淤以下三字以音下効此次闇御津羽神。
 上件自石拆神以下。闇御津羽神以前。併八神者。因御刀所成神者也。
 所殺迦具土神之於頭所成神名。正鹿山上津見神。次於胸所成神名淤縢山津見神。
淤縢二字以音次於腹所成神名奥山上津見神。次於陰所成神名闇山津見神。次於御左手所成神名志藝山津見神。志藝二字以音次於御右手所成神名羽山津見神。次於左足所成神名原山津見神。次於右足所成神名戸山津見神。自正鹿山津見神至戸山津見神併八神故所斬之刀名謂天之尾羽張。亦名謂伊都之尾羽張。伊都二字以音

(読み)
 カレココニイザナギノミコトノリタマハク ウツクシキアガナニモノミコトヤ コノヒトツケニカヘツルカモトノリタマヘテ ミマクラベニハラバヒ ミアトベニハラバヒテナキタマフトキニ ミナミダニナリマセルカミハ カグヤマノウネヲノコノモトニマス ミナハナキサハメノカミ カレソノカムサリマシシイザナミノカミハ イズモノクニトハハキノクニトノサカヒヒバノヤマニカクシマツリキ
 ココニイザナギノミコト ミハカセルトツカノツルギヲヌキテ ソノミコカグヅチノカミノミクビヲキリタマフ ココニソノミハカシノサキニツケルチ ユツイハムラニタバシリツキテナリマセルカミノミナハ イハサクノカミツギニネサクノカミ ツギニイハツツノヲノカミ ツギニミハカシノモトニツケルチモユツイハムラニタバシリツキテナリマセルカミノミナハ ミカハヤビノカミ ツギニヒハヤビノカミ ツギニタケミカヅチノヲノカミマタノミナハタケフツノカミ マタノミナハトヨフツノカミ ツギニミハカシノタカミニアツマルチ タナマタヨリクキデテナリマセルカミノミナハ クラオカミノカミ ツギニクラミツハノカミ 
 カミノクダリイハサクノカミヨリシモ クラミツハノカミマデ アハセテヤバシラハ ミハカシニヨリテナリマセルカミナリ
 コロサエマシシカグヅチノカミノミカシラニナリマセルカミノミナハ マサカヤマツミノカミ ツギニミムネニナリマセルカミノミナハオドヤマツミノカミ ツギニミハラニナリマセルカミノミナハオクヤマツミノカミ ツギニミホトニナリマセルカミノミナハクラヤマツミノカミ ツギニヒダリノミテニナリマセルカミノミナハシギヤマツミノカミ ツギニミギリノミテニナリマセルカミノミナハハヤマツミノカミ ツギニヒダリノミアシニナリマセルカミノミナハハラヤマツミノカミ ツギニミギリノミアシニナリマセルカミノミナハトヤマツミノカミ マサカヤマツミノカミヨリトヤマツミノカミマデアハセテヤバシラ カレキリタマヘルミハカシノナハアメノヲハバリトイフ マタノナハイツノヲハバリトイフ

 (現代語訳)
 そこで、伊邪那岐命が仰せられるには、「いとしい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもよらなかった」と言って、女神の枕もとに這い臥し、足もとに這い臥して泣き悲しんだとき、その御涙から成り出でた神は、香具山のふもとの丘の上、木の下におられる、名は泣沢女神という神である。そしてお亡くなりになった伊邪那美神は、出雲国と伯耆国との境にある比婆の山に葬り申しあげた。
そこで伊邪那岐命は、腰に佩いておられた十拳剣を抜いて、その子迦具土神の頸を斬られた。するとその御剣の先についた血が、神聖な岩の群れに飛び散って、成り出でた神は石拆野神と根拆野神、次に石筒之男神である。三神 次に御剣の本についた血も、神聖な岩の群れに飛び散って、成り出でた神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神で、この神のまたの名は、建布都神といい、豐布都神ともいう。三神 次に御剣の柄にたまった血が、指の聞から漏れ流れて、成り出でた神の名は、闇淤加美神と闇御津羽神である。
  以上の石拆野神から闇御津羽神まで合わせて八神は、御剣によって成り出でた神である。
 また殺された迦具土神の頭に成り出でた神の名は、正鹿山津見神で、次に胸に成り出でた神の名は、淤縢山津見神、次に腹に成り出でた神の名は、奥山津見神、次に陰部に成り出でた神の名は、闇山津見神である。次に左の手に成り出でた神の名は、志藝山津見神、次に右の手に成り出でた神の名は、羽山津見神、次に左の足に成り出でた神の名は、原山津見神、次に右の足に成り出でた神の名は、戸山津見神である。正鹿山津見神から戸山津見神まで、合わせて八神。 そして伊邪那岐命がお斬りになった太刀の名は、天之尾羽張といい、またの名を伊都之尾羽張という。

(解説)
一つ木:一柱の意で、一神のこと。
十拳剣:「つか」は長さの単位で、一握りの手の幅をいう。十握りの長さの剣。
ゆつ石村:「ゆつ」は神聖な・清浄なの意。「石村」は岩の群れ。
石拆神・根拆神:「石根拆神」を二つに分けたもので、剣の神としての雷神の威力を表す。
甕速日神・樋速日神:ともに雷火の威力を神格化したもの。
建御雷之男神:勇猛な雷の男神の意で、雷神は剣の神霊と考えられた。
建布都神・豐布都神:フツは光るもの、神霊の降臨すること、の意とする。(三品影英博士)
闇淤加美神:クラは谷間の意。オカミは水を掌る龍蛇神。
闇御津羽神:ミツハは水神。谷間の水神をいう。
羽山津見神:ハヤマは端山で、山の麓をいう。
伊都之尾羽張:イツは威力の盛んなこと。

イザナキノ命が剣で火神を斬る物語は、剣の霊威で火の猛威を鎮める、という信仰に基づいて語られている。カグツチノ神の頸を斬って血が飛び散り、最後に剣の神霊であるタケミカヅチノ神や、水神であるクラオカミ・クラミツハノ神が成り出でた、という物語の背後には、鉄を火で焼き、赤い火花を散らして打ち鍛え、刀剣を作る鍛冶の作業が連想されていると思われる。
 カグツチノ神の身体から、八神の山の神が成ったという伝承については、火山の爆発を語ったものと見る説や、焼畑を作るための山焼きの風習に関係がある、とする説などがある。
しかしカグツチノ神は、雷火の神であろうと考えられるから、山と雷との関係に基づく伝承であろうかとも思われる。

迦具土神は、秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社、愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。
火男火売神社(大分県別府市)は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。

「揖夜(いや)神社」
出雲の、この神社はまさに「伊賦夜坂」の場所にあたるとされ、主祭神としてイザナミを祀っている。
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「花の窟神社」
三重県熊野市にも、イザナミがこの地に埋葬されたという神社がある。地元で季節の花を供えてイザナミを祀ってきたことが「花の窟神社」という名の由来となった。この神社には本殿はなく、熊野灘に面する高さ70mの巨岩が御神体である。
また巨岩に対面する「王子の窟」にはヒノカグツチが祀られている。

「花の窟神社」
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巨岩の御神体
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日本橋七福神(2)

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引き続き、7日に廻った日本橋七福神めぐりです。

○松嶋神社(大鳥神社)
大国神
祭神:稲荷大神〔いなりのおおかみ〕伊邪那岐神〔いざなぎのかみ〕 伊邪那美神〔いざなみのかみ〕 日前大神〔ひのさきのおおかみ〕(天照大神) 北野大神〔きたののおおかみ〕(菅原道真公) 手置帆負神〔たおきほおいのかみ〕 彦狭知神〔ひこさしりのかみ〕 淡島大神〔あわしまのおおかみ〕 八幡大神〔やはたのおおかみ〕 猿田彦神〔さるたひこのかみ〕 琴平大神〔ことひらのおおかみ〕 天日鷲神〔あめのひわしのかみ〕(大鳥大神) 大宮能売神〔おおみやのめのかみ〕(おかめさま) 大国主神〔おおくにぬしのかみ〕

江戸時代の国学者賀茂馬淵翁が元文2年(1737)11月14日より松島稲荷社に寄宿され、当社に於いて神の道を説かれたと「賀茂馬淵翁伝新資料91頁」に記されているが、社記類は大震災と戦災によってすべて灰塵に帰してしまっているので、創立年月日は詳らかでないが、口伝によると鎌倉時代の元享(1321)以前と推測される。
昔この辺りが入り海であった頃小島があり、柴田家の祖先が下総の国からこの小島に移り住み、邸内に諸神を勧請し、夜毎揚げる燈火を目標に舟人が航海の安全を得たと伝えられる。
正中元年(1324)3月2日夜刻三男柴田権太に百難救助すべしとの神示があり、霊験自在円満の感応あり其の奇得を遠近の諸人が信仰し、これにより正一位稲荷大明神の位記を奉らる。
天正13年(1585)2月13日住民の希望に従い、邸宅を公開し参拝の自由を許容せり。島内松樹鬱蒼たるにより人々松島稲荷大明神と唱え、又、権太の木像を安置し権太大明神とも俗称された。
(神社本庁明細)
正徳3年(1713)新町が開設される時に社号に因んで町名を松島町と称した。当時近辺を埋め立て武家屋敷を造営するために、日本各地から技をもつ人々が集められてそのまま住まいを構え、町の中心に位置した松島稲荷に、それぞれの故郷の神々の合祀を頼んだために他社に比べ御祭神が14柱と多い。
明治7年4月2日松島稲荷神社の名称を以って村社に列格される。
大正5年6月10日松島神社と改称。
昭和8年2月1日都市計画法の実施に伴い蛎殻町4丁目に改称せられ、その為松島町は消滅する。(松島神社由緒書より)

写真を載せようとして、唖然としたのは全景の写真が無くなっていた(汗)
撮ってきた写真のうち、駄目なもの、不要なものを削除するときに誤って削除してしまったらしい。
なので、全景の写真のみネットでいただいてきました。
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ここからは私が撮った写真
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大国神です。
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○甘酒横丁
そのあと、甘酒横丁で小休止です。
何人かが、有名な鯛焼き屋さんで並び(30分かかりましたね)、その間他の人は自由行動。

駄菓子バー
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家に帰ってから調べてみると、モツ鍋とか料理と駄菓子食べ放題とか、懐かしの給食と駄菓子コースとか、県民ショーで話題になった駄菓子が揃っているみたいです。

これは凄いですね。お風呂の木桶、腰掛、ほうきなんかも、こういうの見かけなくなっちゃいましたよね。
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この柳屋の鯛焼きが有名ですね。参加者全員の分を数名の方が30分も並んで買っていただいて、有難かったです。小豆のあんこが絶妙でした。
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私は、鳥忠の有名な卵焼きをお土産に買いました。
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○末廣神社
毘沙門天
祭神:宇賀之美多摩命、武甕槌命(毘沙門天)

末広神社は、江戸時代の初期に吉原(当所葦原と称した)がこの地にあった当時(元和3年から明暦3年まで)その地主神、産土神として信仰されていました。明暦の大火で吉原が移転してからは、その跡地の難波町・住吉町・高砂町・新泉町の四ヶ所の氏神として信仰されていました。
社号の起源は、延宝3年社殿修復のさい年経た中啓(扇)が発見されたので氏子の人達が悦び祝って末廣の二字を冠したものです。
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石の鳥居に、石の扁額が良いですね。
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狛犬がいいです。
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毘沙門天です。
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○笠間稲荷神社東京別社
寿老神
祭神:宇迦之御魂神

笠間稲荷神社東京別社は、日本三大稲荷のひとつ茨城県笠間稲荷神社の東京別社です。江戸時代末期に笠間藩主牧野貞直公が、本社より御分霊を奉斎して建立されました。紋三郎稲荷として親しまれています。
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二か所入り口が在って、微妙に扁額が違いますね。
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お稲荷さんには珍しく、狐の像が見当たらないなと探してしまいました(笑)
手水舎に絵の奉納がありました。
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本殿
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○椙森神社
恵比寿神
祭神:五社稲荷大神、恵比寿大神

椙森(すぎもり)神社の創建は、社伝によれば平安時代に平将門の乱を鎮定するために、藤原秀郷が戦勝祈願をした所といわれています。
室町中期には江戸城の太田道灌が雨乞い祈願のために山城国伏見稲荷の伍社の神を勧請して厚く信仰した神社でした。そのために江戸時代には、江戸城下の三森(烏森神社、柳森神社、椙森神社)の一つに数えられ、椙森稲荷と呼ばれて、江戸庶民の信仰を集めました。
しばしば江戸城下等の火災で寺社が焼失し、その再建の費用のために有力寺社で当りくじである富興行が行われ、当社の富も人々に親しまれました。
明治維新後も、東京市中の古社として盛んに信仰されましたが、惜しくも関東大震災で全焼し、現在の社殿は昭和6年に耐震構造の鉄筋入りで再建されました。
境内には富塚の碑が鳥居の脇に立ち、当社で行われた富興行をしのんで大正8年に建てられたもので(昭和28年再建)で、富札も残されており、社殿と共に中央区民文化財に登録されています。(中央区教育委員会掲示より)

ここの狛犬も、いい感じです。
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本殿
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祭壇
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富塚
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手水舎に、江戸火消の纏の一覧が奉納されていた。
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これで七福神めぐりは、無事終了です。
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(了)


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日本橋七福神(1)

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4日に、江戸火消の木遣り、梯子乗りを写真撮ったあと、下見がてら回りました。
そして、歴史クラブの催しで、7日に皆さんと回ったので、松の内に2回も回ってしまいました(笑)

七福神というのは、日本産は1神だけ、インド産が3神、中国産が3神なんですね。
インドのヒンドゥー教(大黒・毘沙門・弁才)、中国の仏教(布袋)、道教(福禄寿・寿老人)、日本の土着信仰(恵比寿・大国主)が入りまじって形成された、神仏習合からなる、日本的な信仰対象です。室町時代末期頃から信仰されているといわれています。
○恵比寿:古くは「大漁追福」の漁業の神である。時代と共に福の神として「商売繁盛」や「五穀豊穣」をもたらす、商業や農業の神となった。唯一日本由来の神様。
○大黒天:インドのヒンドゥー教のシヴァ神の化身マハーカーラ神。日本古来の大国主命の習合。大黒柱と現されるように食物・財福を司る神となった。
○毘沙門天:元はインドのヒンドゥー教のクベーラ神。仏教に取り入れられ日本では毘沙門天(ヴァイシュラヴァナ)と呼ばれる。
○弁財天:七福神の中の紅一点で元はインドのヒンドゥー教の女神であるサラスヴァティー神。
○福禄寿:道教の宋の道士天南星、または、道教の神で南極星の化身の南極老人。
○寿老人:道教の神で南極星の化身の南極老人。
○布袋:唐の末期の明州(現在の中国浙江省寧波市)に実在したといわれる仏教の僧。

で、日本橋の七福神巡りですが、七福神と言っていながら八ケ所あるんですね(笑)
恵比寿さんのところが2ケ所あって、八福神と言う人もいます。
4日と7日と2回廻ったので、写真が入り乱れていますが、勘弁してください。


7日は電車を乗り継いで地下鉄「小伝馬町」駅で降りました。
それで、七福神めぐりの前に「吉田松陰終焉の地」すなわち「伝馬町牢屋敷跡」に立ち寄りました。
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現在は公園になっている一角に、「吉田松陰終焉の地」の碑が立っています。
「安政の大獄」で吉田松陰は、この牢に収容され、亡くなったわけです。
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本来の順番でいえば最後になると思うのですが、賓田恵比寿神社からお参りしました。

○賓田恵比寿神社
恵比寿神:運慶作と伝えられ、徳川家康から下賜されたもの
祭神:事代主命、少彦名命、大国主神、大己貴命、素盞嗚命

宝田神社は慶長11年の昔360余年前江戸城外宝田村の鎮守様でありました。徳川家康公が江戸城拡張により宝田、祝田、千代田の三ヶ村の転居を命ぜられ(現在宮城内槻山附近)ましたので、馬込勘解由と云う人が宝田村の鎮守様を奉安申し上げ、住民を引率してこの地に集団移動したのであります。馬込勘解由と云う人は、家康公が入府の時、三河国から随行して此の大業を成し遂げられた功に依り、徳川家康繁栄御祈念の恵比寿様を授け賜ったので平穏守護の御神体として宝田神社に御安置申し上げたのが今日に至ったのであります。作者は鎌倉時代の名匠運慶の作と伝えられます。
其の後村民の生活は金銀為替、駅伝、水陸運輸、それぞれ重要な役を賜り、馬込勘解由は名主となって三伝馬取締役に出世し御役名に因んで大伝馬町の町名を賜って、伊勢・駿河・遠江・美濃・尾張、家康公ゆかりの国々より商人を集めて、あらゆる物資の集散地として大江戸開発と商売発祥の地として大変賑わったのであります。現在も周辺の老舗大小商社が軒を並べて今尚盛んな取引が続いて居ります。宝田恵比寿神は商売繁盛、家族繁栄の守護神として崇敬者は広く関東一円に及び毎年10月19日「べったら市」、20日の恵比寿神祭が両日に亘り盛大に執り行われます。べったら市は「年またあらたまる」今年も年末が近づき、お正月を迎える心構えをする商家にとって大切な年中行事として旧家は今日でも恵比寿講をお祝いするのであります。
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本尊の恵比寿像は、やはり堂々としたものだった。
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○小網神社
福禄寿、弁財天
祭神:倉敷魂神(稲荷大神)、市杵島比賣神(弁財天)

稲荷大神を主祭とし、527年前に鎮座した歴史的に古いお社。5月の大祭では東部有数の神社大御輿で賑う。11月末に繰り広げられるどぶろく祭りは奇祭としてとみに有名。なお、福禄寿は福徳長寿の神、また弁財天は営業隆昌、学芸成就の神として、親しまれている。
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4日は、行列が100mほど並んで、境内に入れる状態でなかった。
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7日には、中に入れたので嬉しかったですね。
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境内に、可愛らしい銭洗い弁財天が。
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本堂の彫刻が見事です。
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昇り龍
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降り龍
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○茶の木神社
布袋尊
祭神:倉稲魂大神

「お茶ノ木様」と町内の人々に親しまれている茶ノ木神社の御祭神は倉稲魂大神(ウカノミタマノオオカミ)で伏見系の稲荷様である。
昔この土地は徳川時代約3000坪に及ぶ下総佐倉の城主大老掘田家の中屋敷であって、この神社はその守護神として祀られたものである。社の周囲にめぐらされた土堤芝の上に丸く刈り込まれた茶の木がぐるりと植え込まれ、茶と茶の木の緑が見事であたっと伝えられている。その中屋敷は勿論のこと周囲の町方にも永年火災が起こらなかったため、いつのころから誰と言うとなく火伏の神と崇められ、堀田家では年1回初午祭の当日だけ開門して一般の参拝を自由にされた由「お茶ノ木様」の愛称で町の評判も相当であったと伝えられている。
また、新たに昭和60年布袋尊を御遷座申し上げて日本橋七福神詣りに加わることになった。
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ここのキツネさんは、ちょっとこわい(笑)
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祭神の前に鏡が置かれ、その横にあるのが布袋尊?
聞けばよかった。
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○水天宮
弁財天
祭神:天御中主大神、安徳天皇、建礼門院、二位ノ尼
境内社:紫灘神社、弁財天、秋葉神社、火風神社、高尾神社
弁財天は手に琵琶を持たずに剣や矢を持つ珍しい姿で、運慶作と伝えられています。

当社は文政元年(1818)港区赤羽にあった有馬藩邸に当時の藩主有馬頼徳公が領地(福岡県久留米市)の水天宮の御分霊を神主に命じて藩邸内に御分社を祀らせたのが創めです。久留米の水天宮は今からおよそ700年程前に創建されたと伝えられております。彼の壇ノ浦の戦いで敗れた平家の女官の一人が源氏の目を逃れ久留米付近に落ち延び、一門と共に入水された安徳天皇、建礼門院、二位の尼の御霊をささやかな祠をたててお祀りしたのが創めです。
江戸時代の水天宮は藩邸内にあった為、庶民は普段参拝できず、門外より賽銭を投げ参拝したといいます。ただし毎年5日の縁日に限り殿様の特別の計らいにより藩邸が解放され参拝を許されました。その当時ご参拝の妊婦の方が鈴乃緒(鈴を鳴らす晒しの鈴紐)のおさがりを頂いて腹帯として安産を祈願したところ非常に安産だったことから人づてにこの御利益が広まりました。その当時の水天宮の賑わいを表す流行り言葉に「なさけありまの水天宮」という洒落言葉があった程です。
明治維新により藩邸が没収され有馬邸が青山に移ると共に青山へ、更に明治5年11月1日、現在の蛎殻町に御鎮座致しました。
関東大震災では神社も被災しましたが、御神体は隅田川に架かる新大橋に避難し難を逃れました。その後御復興も相成り、昭和5年流れ造りの社殿が完成、時移り昭和42年現在の権現造りの社殿となりました。

交差点から、すでに水天宮の威容が見える。
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階段の上の両側に立派な狛犬。
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鳥居の前の龍の灯篭
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龍が金網に押し込められたみたいで、ちょっと気の毒(笑)
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本堂は立派なものです。
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たくさん奉納された絵馬を見れば、この水天宮の人気がわかりますね。
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今日は、境内の弁財天社にお参り。
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毎月5日と巳の日だけ公開されるという弁天さまが公開されていました。
が、ガラスに直射日光があたり、御簾ごしでもあり、よくわからないのが残念。
辛うじてお顔がわかった。
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境内に「白侘助」が咲いていた。
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(続く)


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麒麟の翼

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3日にTBSで放送されたこの映画を録画していて、観た。
吃驚した。
明日日本橋七福神めぐりをするのだが、この映画でその日本橋七福神がキーワードとなる舞台となっているではないか。
なんというタイミング!!
これで、明日の七福神めぐりが一段と楽しくなった。

『麒麟の翼』は、東野圭吾の推理小説。
舞台は『新参者』と同じ日本橋。ここには五街道の起点であることから、「ここから羽ばたく」という意味を込め橋の中央に大きな翼を持った麒麟の像が設置されている。表題の「麒麟の翼」とはこの麒麟像を示すもので、物語における重要な意味をあらわしている。

あらすじ:
夜の日本橋。
寒い夜のこと。日本橋の欄干にもたれかかる男を巡査が目撃する。男の胸にはナイフが刺さっていた。どうやら男は死にかけた状態でここまで歩いてきて、力つきたようだ。その後、男は病院で死亡してしまう。

加賀恭一郎(阿部寛)と松宮脩平(溝端淳平)(シリーズものでお馴染みの刑事の凸凹コンビ)も参画して事件の捜査が始まる。その中、事件直後に若い不審な男が現場から逃走中にトラックにはねられ、昏睡状態に陥っていることが分かった。「彼が人殺しをするはずがない」と否定する恋人中原香織(新垣結衣)。しかし、彼の持ち物からは被害者が持っていた財布と書類鞄が発見される。そして、被害者とのある関係が浮上したことから、警察は不審な男を犯人と断定し裏付け捜査を進めてしまう。

一方、被害者が部長を務めていた会社で「労災隠し」が発覚し、その責任が被害者にあることが公になる。このことで被害者家族は一転して世間・学校からのバッシングにさらされてしまう。

果たして、若い男は真犯人なのか。被害者はなぜ瀕死の状態で日本橋まで歩いてきたのか。加賀と松宮はその真相に挑む。

加賀と松宮が聞き込みをしているなかで、被害者が日本橋七福神めぐりをしていたのではないかいうことが判明する。被害者が水天宮のお賽銭箱の上に、何回も100羽の折鶴を置いて写真を撮っていたこともわかった。
いったい、これは事件とどんな関係があるのか?
水天宮には、どんな御利益があるのか?

日本橋の麒麟像の下に中原香織(新垣結衣)と共にやって来た加賀恭一郎(阿部寛)は、像を見上げて彼女にこう説明する。
「これ知っていますか。麒麟です。本来は翼がないんです。でも、ここは日本の道のスタート地点。この翼は、ここから日本中に飛び立っていけるという願いを籠めて造られたそうです」

この新しい日本橋を設計したのが、幕臣であった妻木頼黄(よりなか)という人。
東京駅などを手掛けた辰野金吾、赤坂離宮を代表作とする片山東熊と共に、明治期の建築界の3大巨匠の1人だそうです。
妻木氏は、新しい日本橋を設計するに当たって、江戸への愛を籠めて和洋折衷の様式を採用し、その橋のモニュメントとして配置した麒麟像にも同様の工夫を加えた。麒麟は、東洋の想像上の生き物で、本来は翼を持っていません。
妻木氏は、これに西洋のペガサスのような翼を付けました。
その意味は、この橋から全国に旅立つ人たちの安全や飛躍を願ったものでしょう。
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私も以前日本橋を記事にしたことがありますが、その時にこの麒麟像についてはビックリしました。
「なんだ、これは!!」と(笑)
その時の記事
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-836.html

だから、以前にこの映画が公開されたとき、テレビで流されたこの映画のCMがこの麒麟像が登場するものだったので、この映画を見たかったのだが、観そびれてしまっていた。

この映画からの教訓は、加賀が被害者の息子の高校時代の教師糸川肇(劇団ひとり)に云った言葉。
「最初に間違ったことを教えると、何度も同じ間違いを繰り返すんだよ」
その時は、何を云われているか判らなかった教師だが、事件の全貌が明らかになった時、崩れ落ちる教師。
何か事故とか事件があったとき、当面はつらいけれども、真実を明らかにしていれば、それ以上の不幸の連鎖は食い止められる。
それを隠してしまうと、当座はうまくいったとしても、その後の判断基準がどうしても事実を隠す方に行ってしまい、結果的にはもっと大きな不幸が起きることになる。

私にとっては、被害者である父親の姿が悲しくて、泣けて仕方がなかった。

キャスト:
加賀恭一郎 - 阿部寛
中原香織 - 新垣結衣
松宮脩平 - 溝端淳平
青柳悠人 - 松坂桃李
吉永友之 - 菅田将暉
杉野達也 - 山﨑賢人
横田省吾 - 柄本時生
青柳遥香 - 竹富聖花
青柳史子 - 相築あきこ
黒沢翔太 - 聖也
青山亜美 - 黒木メイサ(友情出演)
加賀隆正 - 山崎努(特別出演)
八島冬樹 - 三浦貴大
糸川肇 - 劇団ひとり
吉永美重子 - 秋山菜津子
小竹由紀夫 - 鶴見辰吾
小林 - 松重豊
金森登紀子 - 田中麗奈
青柳武明 - 中井貴一


ブラームス/ヴァイオリン協奏曲ニ長調作品77

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ヴァイオリン:アンネ・ゾフィー・ムター
指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:1981年9月 ベルリン

ヴァイオリン協奏曲が聴きたくなって、これを引っ張り出しました。

ブラームスは、1877年9月にバーデン・バーデンでブルッフのヴァイオリン協奏曲第2番をサラサーテが演奏するのを聴き、その演奏に強い感銘を受け、同時に作品が技巧の披露の他には内容が希薄であることへの疑問を受け、ヴァイオリン協奏曲の作曲を思い立った。

1878年イタリア旅行の帰りに、避暑地ペルチャッハに滞在し、ここで本格的にヴァイオリン協奏曲の作曲を行った。高名なヴァイオリン奏者ヨーゼフ・ヨアヒムの助言を受けながら作曲したこの曲は、ベートヴェン、メンデルスゾーンの作曲したものと並んで「3大ヴァイオリン協奏曲」と称せられるものになった。
(以上Wikipediaから)

このCDは、カラヤンが当時18才だったヴァイオリニスト、アンネ=ゾフィー・ムターを起用したもの。

私は、ブラームスが弱々しいと言ったという話があるが、それでも第2楽章が好きだ。
なかなか、どうして立派な楽章だと思う。
序奏部から惹きこまれる。さすがBPO、巧いなあとうならせる。管も弦も凄すぎる。
ブラームスが時折垣間見せるリリシズムがここにある。
そしてムターのヴァイオリンがすこぶる美音なんだ。時に妖しい音でぞくぞくさせてくれる。
録音当時、ムター18歳。彼女の艶麗さは、ここで既に発揮されている。

ときとして若手の奏者が放つキラメキが、ここにある。


江戸火消の木遣り・梯子乗り

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正月の行事、江戸火消の木遣りと梯子乗りが、この日に日本橋で行われるのを、去年の正月にmatsumoさんのブログで知り、私も見たくて出かけました。

調べたら、タカシマヤの正門前が10時ということなので、間に合うように地下鉄日本橋の駅に着いたのが9時40分でした。
タカシマヤのウインドウの正月飾りなどを見ながら、江戸火消の到着を待ちました。
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開店が10時なので、買い物客やカメラマンで正門の前に人垣ができました。

待つことしばし、火消の人たちが木遣りを唄いながらやってきました。
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一行は、タカシマヤ店内のロビーに入って行き、まずは纏の披露です。
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その後、朗々たる木遣りの唄声がロビーに響きわたりました。
やはり、木遣りはいいですね(嬉)
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火消の皆さんの足元は、やはり草鞋でした。格好いいですね。
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正面玄関前で、いよいよ梯子乗りの披露です。
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両側から、トビで引っ張って梯子を支えます。
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まずは一番手の乗り手が「あけまして・・・・・」の幔幕を披露。
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次々と、見事な技を披露してくれます。
マイクで技の名前を言ってくれたのですが、覚えられません(汗)
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両手は頭の後ろで組んでます。
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すごいですね
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二人乗り
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ハラハラ
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梯子の片方の柱一本の上だけに乗っている(汗)
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見事に、梯子乗りの技を披露したあと、火消の頭の音頭で、シャンシャンと手締め。
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意気揚々と、皆さんが引き上げていきました。
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さっきロビーで木遣りを聞いていたとき、火消の皆さんの背後の垂れ幕に「与謝野晶子」の名前が入っていたのが気になったので、見に行きました。
ロビー中央に飾られていましたが、高島屋の名前を詠いこんだ歌があったのですね。
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最初から最後まで、きちんと聴き、見ることができたので、これで江戸火消の皆さんを追うのはやめて、日本橋七福神めぐりを、軽く下見して帰ってきました。
7日に、市の歴史クラブのイベントが日本橋七福神めぐりなのです。

今日見たら、いずこもすごい行列ですね。最初の小網神社が一番並んでて、100mくらい(汗)
当日は参加人数が多いので、これは大変なことになると思います。


富士と茶畑/狭山茶の話

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狭山市のお茶畑からの富士です。狭山茶で有名なところですから、こういう取り合わせの場所を探していましたが、良いところが見つかりました。
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富士山が綺麗に見える場所が茶畑の端なので、上のような写真になりましたが、このようにお茶畑が広がっています。
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【狭山茶の歴史】
せっかくだから、狭山茶の歴史をかいつまんで掲載しておきましょう。

●狭山茶の特長
『色の静岡、香りの宇治、味の狭山』と言われていますが、茶葉の厚さと伝統の火入れにより色・香り・味ともに濃い茶である。
狭山茶の特徴は丹念に選りすぐられた新茶葉と、「狭山火入」という伝統の火入れが、江戸時代から変わらぬ美味しさの秘訣だそうです。この火入れにより狭山茶特有の濃厚な甘味を得ることが出来るとか。手揉み茶の製法は「茶葉を蒸して焙烙に和紙を敷き、揉み乾かす」というもので、保存活動が展開されているそうです。

●お茶のはじまり
・日本でのお茶の栽培のはじまりは、臨済宗の開祖・栄西が建久2年(1191)、宋から帰国時に茶の種子を持ち帰り、肥前国背振山(佐賀県)に播種。
・お茶を本格栽培したのは、明恵上人で建永元年(1206)に後鳥羽上皇から栂尾(とがのお)山を賜り、高山寺を創建。翌2年に背振山から茶の種子を移入、高山寺に播種。・以後、付近の御室(おむろ)・醍醐(だいご)・宇治、大和国室生(むろう=奈良県)、伊賀国八鳥(はっとり=三重県)、伊勢国河居(かわい=三重県)、駿河国清見(きよみ=静岡県)、武蔵国河越にまく。

●茶道の誕生
詳しくは省略しますが、村田珠光、武野紹鴎、千利休らにより茶道が盛んになり、茶を飲む習慣が広まります。

●河越茶
・最澄の高弟の円仁(慈覚大師)が、天長7年(830)に無量寺を創建しました。喜多院の前身ですが、寺院内に茶園がったようで、河越茶発祥の地としての伝承が残ります。
川越市・中院にある「狭山茶発祥之地」の碑。当時は北院(喜多院の前身)・中院・南院(現在は無し)があったとか。
ネットで手に入れた写真
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・虎関(こかん)禅師の手で暦応3年(興国元年=1340)に成立したとされる文章用例集『異制庭訓往来』の中で、全国の茶産地について「我が朝の名山は栂尾を以て第-となすなり。仁和寺、醍醐、御室、宇治、般若寺、神尾寺は是れ補佐たり。此の外、大和室生、伊賀八鳥、伊勢河居、駿河清見、武蔵河越の茶、皆是れ天下の指言するところなり」と記述されていますから、鎌倉時代末期には、河越が茶産地として広く認知されていた証拠となります。
・河越茶が挙げられたのは、河越氏の存在が大きかったと思われる。
・南北朝時代以後、武蔵国は相次ぐ戦乱により戦場と化す。15世紀になると、諸記録から「河越茶」の記述がなくなる。茶園の管理がおろそかになり、徐々に衰退していったものと推察されています。

●狭山茶の生産
・江戸時代中期までは、茶樹の利用は、畦畔としての利用だったようです。畑を区切る畦畔(けいはん)として利用。冬季の表土の飛散を防止した。
茶葉を加工して飲用茶を作っていたかは不明。

いまでも市内の畑の至る所に、茶樹の畦畔は残っています。
江戸時代、「知恵伊豆」と謳われた松平信綱が川越藩主の時期に熱心に新田開発をしました。新田といっても畑ですが。
今日、その時の区画の姿が今でもそのまま残っている「堀兼」で写真を撮ってきました。
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茶樹のすぐ南、北風のあたらない場所で何かの苗を育てていました。
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樹は、まぎれもなくお茶の木ですね。
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◆茶の試作
・吉川温恭(よしずみ)は入間郡宮寺村(現入間市)の人。明和4年(1767)の生まれで、宮大工をしながら農業に従事。享和2年(1802)6月、古い茶樹から葉を摘み、釜煎りにして飲む。思いのほか美味。
・旧知の村野盛政(もりまさ)を招いて茶を勧め、これを契機に本格的な製茶を開始。      \
・村野盛政は入間郡坊村(現入間市)の人。明和元年(1764)の生まれで、小野派一刀流の師範。寛政年間(1789~1801)から茶業再興を考え、孝和年間(1801~04)に吉川温恭とともに着手。

◆宇治製法の探求と江戸への販売
・温恭が試作した茶は、黒製といわれる釜煎り茶。当時の江戸では、青製(緑茶)といわれる宇治茶が市場を独占していた。
・温恭は文化4年(1807)3月、製茶法を探る目的で宇治へ出発。
・多摩郡今井村(青梅市)の持田半右衛門は、文化年間(1804~18)に宇治を訪れ、身分を隠して下働きをしながら製茶技術を探求。

・吉川家の記録では、文化9年(1812)にはじめて江戸へ販売。
村野家の記録では、文化13年(18ほ)に江戸の山本山へ販売とある。
・文政2年(1819)6月、山本山ほか4軒の茶問屋が、吉川家と村野家の製茶に限り宇治茶並みの値投で取引。

●狭山茶の海外輸出
・横浜の開港で、対外貿易の開始により、製茶は生糸と並ぶ重要な輸出品となる。ことにアメリカでは緑茶が好まれ、輸出量が急増。狭山茶は蒸しが強くて変色せず、味も香りも変わらないため好評であった。
・新興茶産地の狭山地方は、横浜に近いという地理的条件も手伝って急激に発展。外国人商人が、絹織物を扱う八王子商人に製茶の納品を依頼したことも発展に輪をかける。そのため狭山茶は、八王子商人が扱うので「八茶」と呼ばれた。

・茶が国際的商品価値を持つようになると、狭山地方以外でも製茶がはじまる。供給不足を悪用して、柳の葉を混入した粗製茶を製造するものまで出現した。

◆狭山会社の設立
・明治8年(1875)7月、黒須村(入間市)の繁田武平(はんだぶへい)や柏原村(狭山市)の増田忠順(ただより)ら30人により設立。
・設立趣旨は、①粗製濫造の弊害を正して狭山茶の声価を保持。②良茶製造の意思がある者への資金の貸与。③外国人商人の手を経ない直輸出の実施など。
・明治9年(1876)2月にニューヨークの佐藤商店と契約、直輸出を開始。
・ニューヨーク市場での狭山会社の製茶は評価が高く、売れ行きも好調。

狭山会社のお茶のパッケージ
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◆狭山会社の倒産
・華々しい直輸出で注目を集めたが、内情はむしろ逆で、経営は悪化の一途をたどる。
・その最大の理由は、佐藤商店への売掛金と生産者貸付金の累積による運転資金の不足。
・外国人商人による粗製茶輸出の影響で日本茶の取引価格が下落。そのあおりを受けて佐藤商店の経営が破綻、明治11年(1878)に閉鎖。
・狭山会社は同16年(1883)をもって解散。

◆その後のアメリカ市場
・明治16年(1883).3月、アメリカ政府は日本茶と中国茶のうち、偽茶や枯れ葉の混入、または薬品などによる着色茶の輸入を禁止。
・日本政府は、茶の品質保持と規格の統-のため、茶業組合の設立を奨励。これを受け、埼玉県も県下に39の茶業組合を設立。
・明治17年(1884)4月、堀兼・中新田・上赤坂・加佐志・東三ツ木・青柳(以上狭山市)、中福・下赤坂・上松原・  下松原(以上川越市)の10か村により、堀兼茶業組合の設立。組合規約を定めて、不良茶や偽似茶の製造を禁止。純粋な本色茶で色と味を旨とし、輸出には着色しないことを明記。
・これにより茶の品質は格段に向上したが、着色茶の輸出防止にはほとんど効果なし。
・その理由は、こうした規制外にあった外国人商人が、買い取った茶に着色して輸出したため。

・しかも紅茶とコーヒーの攻勢により、日本茶の価格はしだいに下落。アメリカ市場からの後退を余儀なくされる。


●狭山茶業の機械化
◆高林謙三による製茶機械の発明
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・天保3年(1832)、高麗郡平沢村(日高市)の生まれ。西洋医学を学び、文久3年(1863)から川越藩の侍医。
・茶業の将来性を見込んで、明治3年(1870)に医師を廃業、山林を開いて製茶を開始。
・1人1日6~7斤(3.6~4.2kg)という手挟み製茶の生産性の悪さを嘆き、明治14年(1881)から製茶機械の研究を開始。
・同17年(18S4)に焙炉機、翌18年に生葉蒸機・製茶摩擦機を試作して特許を取得。
・試運転の結果、熟練職人の4倍ほどの4貫(約15kg)を製造。コストは従来の3分の1以下の1日1人14銭2厘。

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◆予想外の失敗
・明治22年(1889)、埼玉製茶会社が高林式製茶機械を購入して製造を開始。
・機械の取り扱いに不慣れな職工の誤操作により、大量の不良茶を生産。全品返却の事態を招く。

・大量の不良茶生産により、狭山茶は製茶機械の導入を中止。その後、茶業組合と埼玉県は、製茶機械の使用禁止と機械製茶不買運動を展開。

・これに対し、高林はその後も製茶機械の改良に努力。明治31年(1898)に茶葉粗揉機を完成、特許を取得。
・高林式製茶機械は翌32年、静岡県南山村(菊川市)の松下幸作が導入。以後、性能のよさから同県を中心に急速に普及。

◆狭山地方における製茶機械の導入
・機械化により静岡茶の生産高は急激に上昇。良茶は手操みに限るとする狭山茶は、生産力の違いから取り残されて販売不振に陥る。
・茶業組合や県当局の圧力があるなか、入間村の志村久松は大正元年(1912)または二年に製茶機械を導入、機械製茶に踏み切る。これを契機に、周辺町村の茶農家が導入を開始。
・大正7年(1918)、入間・堀兼・入 間川など3町11村の茶農家が、製茶機械使用解禁の陳情書を県当局に提出。県当局もこれを受け入れ、同年に製茶機械の使用を認め、同10年(1921)からは機械の共同購入に対して補助金を交付。


☆せっかく地元で、製茶機械が発明されたのに、狭山は初期トラブルによって製茶機械化に否定的になってしまった。その後も改良に努力した発明家の結晶は静岡に持っていかれてしまい、静岡が現在のダントツの地位確保となってしまった。
これは、狭山にとっては、かなり皮肉的な結果だ。


●狭山茶の現状
・狭山茶の生産地は茶の生産地としては最も都市化が進んだ地域である。
・1960年代から生産地のほぼ全域が東京のベッドタウンとなり、人口が急増。相次いで住宅や商工業施設が建設される一方で茶畑は減少していった。
・埼玉県の茶の生産量も静岡県・鹿児島県・京都府など他の主要産地に比べかなり少ない(但し、埼玉県は茶産地としては比較的寒冷地にあるため、年に2回しか摘み取りができないことが、生産量の少ない大きな要因となっている。温暖な鹿児島の茶産地などは年に数回摘み取りが可能である)。
・生産量では現在、静岡:42%、鹿児島:27%、三重県:8%がベストスリーです。
その後は、宮崎、京都、福岡、奈良(2%)と続き、埼玉県は「その他」の中に埋もれてしまっています。ですから、狭山茶は全国の中では1%くらいかと思われます。

◆一方で人口急増の結果、地元の需要が増えたため遠方に出荷する必要がなくなり、近郊農業として確立。都市化は経営上の利点ともなっている。また元来観光地でないため観光客向けの販売には頼っておらず、生産性の高い安定した経営・流通が実現している。


ということで、狭山茶は有名なのに、生産量があまりに少ないのに私も吃驚したのだが、東京及びその近郊という一大消費地の近くで生産しているので、その名前が知られているということだろう。


(了)


今年もよろしくお願いします

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新年、明けましておめでとうございます。

今年の、私の年賀状です。
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昨年は、色々と変化のあった一年でした。
忙しかったですが、これから何をやっていくかが、見えてきたような気がします。
それを楽しんでいくつもりです。

あくまでも、マイペースで、のんびりと、進めていくつもりです。

よろしくお願いします。


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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