湯島聖堂

20130228

昨日、2月27日に所属する歴史クラブの催しで、湯島聖堂、神田明神、湯島天神、麟祥院、旧岩崎邸庭園の順に歩きました。午前中は生憎の雨、午後は雨が上がり曇り空の下、寒い一日でしたが梅は充分に楽しむことができました。

JR御茶ノ水駅を降りてすぐのところに湯島聖堂はあります。

1690年(元禄3年)、林羅山が上野忍が岡(現在の上野恩賜公園)の私邸内に建てた忍岡聖堂「先聖殿」に代わる孔子廟を造営し、将軍綱吉がこれを「大成殿」と改称して自ら額の字を執筆した。またそれに付属する建物を含めて「聖堂」と呼ぶように改めました。
大成院の建物は、当初朱塗りにして青緑に彩色されていたと言われているが、その後度々の火災によって焼失した上、幕府の実学重視への転換の影響を受けて再建も思うように出来ないままに荒廃していきました。その後寛政異学の禁により聖堂の役目も見直され、1797年(寛政9年)林家の私塾が、林家の手を離れて幕府の官立の昌平坂学問所となる。これは「昌平黌(しょうへいこう)」とも呼ばれる。「昌平」とは、孔子が生まれた村の名前で、そこからとって「孔子の諸説、儒学を教える学校」の名前とし、それがこの地の地名にもなりました。これ以降、聖堂とは、湯島聖堂の中でも大成殿のみを指すようになったそうです。また、2年後の1799年(寛政11年)には長年荒廃していた湯島聖堂の大改築が完成し、敷地面積は1万2千坪から1万6千坪余りとなり、大成殿の建物も水戸の孔子廟にならい創建時の2.5倍規模の黒塗りの建物に改められた。この大成殿は明治以降も残っていました。
ここには多くの人材が集まりましたが、維新政府に引き継がれた後、1871年(明治4年)に閉鎖されてしまいました。
教育・研究機関としての昌平坂学問所は、幕府天文方の流れを汲む開成所、種痘所の流れを汲む医学所と併せて、後の東京大学へ連なる系譜上に載せることができるほか、この地に設立された東京師範学校(現在の筑波大学)や東京女子師範学校(現在のお茶の水女子大学) の源流ともなっています。また、敷地としての学問所の跡地は、そのほとんどが現在東京医科歯科大学湯島キャンパスとなっているそうです。

JR御茶ノ水駅から聖橋を渡ってすぐ右に折れて入っていくと、「入徳門」があります。
この時、雨が降り始めてあわてて門の中に駆け込んだため、全景は無しです。
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「入徳門」をくぐって、石段の手前に梅が一樹咲いていました。
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今日初めて観る梅です。
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石段を登ると「杏壇門」と呼ばれる大きな門があります。
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その中に前庭と呼ばれる中庭があり、その奥に大成殿がそびえています。杏壇門、大成殿をはじめ、聖堂内の建物は、みな独特の渋い青緑色に塗装されています。
現在の大成殿は伊東忠太設計、大林組施工により、1935年(昭和10年)に鉄筋コンクリート造で再建されたものです。
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大成殿は間口20m、奥行14mの長方形の建物で、大成殿内部は土,日曜,祝日には公開しているとのことですが、私が行った日は当然ながらお堂の扉は閉まっていました。
大成殿内部には、孔子の聖像が中央の神龕(厨子)に収められており、その左右には孟子、曾子、顔子、子思のの四賢人の像が置かれているということです。

湯島聖堂のシャチホコ、「鬼□頭(きぎんとう)」です。
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大成殿屋根、棟の両端に鎮座。
鬼□頭は一種の鯱(しゃちほこ)で、竜頭から鯨のように水を噴き上げている。鯱が水を噴出して火災から建物を守る目的で置かれています。 形態は、一種の鯱(しゃち)型で、龍頭魚尾、二脚双角頭より潮を吹き上げ、頭を外側に向けて取り付けられています。


屋上の聖獣・鬼龍子(きりゅうし)です。
聖堂の大成殿屋根、流れ棟の四隅角に鎮座しています。
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形態は、狛犬に似た姿で、顔は猫科の動物に似ており、牙を剥き、腹には鱗があり蛇腹・龍腹となっている。
想像上の霊獣で、孔子のような聖人の徳に感じて現れるといいます。

境内の古めかしい塀で歴史をしのびます。
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少し先に歩くと、巨大な孔子の銅像が立っていました。1975(昭和50)年に台北のライオンズクラブから寄贈されたもので、高さ4.5メートル、重量は1.5トンもあり、世界一大きな孔子銅像だそうです。
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孔子銅像の前には、楷樹(カイノキ)の大樹が植えられています。この木は、中国山東省の孔子墓所にある楷樹の種子を持ち帰り、その苗から育てられたものとのことです。
「楷」の字はこの木のように「強く真っ直ぐ」という意味を持っており、漢字書体の「楷書」の語源とされます。
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「仰高門」から出ようと歩いていると、「斯文会館」の屋根の上にも守護獣が居ました。棟にも鯱らしきものが。
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昭和10年(1935)の復興聖堂の設計を担当した伊東忠太博士の考案した棟飾りということはわかりましたが、名前もなくその意味も今は明らかではないそうです。

こちらが正門だそうで、その「仰高門」から私たちは出ました。「仰高」とは、論語の中にある孔子の徳を仰ぎ見るという意味の言葉だそうです。
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「仰高門」から出たところで、「古跡 昌平坂」という石標がありました。
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昌平坂は湯島聖堂の東側にあり、神田川の近くから北に伸びています。その昌平坂の南側の入口に、立てられているものです。
その昌平坂の入口近くに湯島聖堂の正門があるというわけです。

湯島聖堂から神田明神に向かいましたので、次回は神田明神をお届けします。

(続く)


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古事記を知る(13)

20130226

3-2 二神の誓約生み
爾天照大御神詔。然者汝心之清明何以知。於是速須佐之男命。答白各宇気比而。生子。
自宇以下三字以音下効此
故爾各中置天安河而宇気布時。天照大御神先乞度建速須佐之男命所佩十拳劔。打折三段而。奴那登母母由良爾。此八字以音下効此振滌天之眞名井而。佐賀美爾迦美而。自佐下六字以音下効此於吹棄気吹之狭霧所成神御名。多紀理毘賣命。此神名以音亦御名謂奥津嶋比賣命。次市寸嶋上比賣命。亦御名謂狭依毘賣命。次多岐都比賣命三柱。此神名以音速須佐之男命。乞度天照大御神所纏左御美豆良八尺勾璁之五百津之美須痲流之珠而。奴那登母母由良爾。振滌天之眞名井而。佐賀美邇迦美而。於吹棄気吹之狭霧所成神御名。正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命。亦乞度所纏右御美豆良之珠而。佐賀美邇迦美而。於吹棄気吹之狭霧所成神御名。天之菩卑能命。自菩下三字以音亦乞度所纏御鬘之珠而。佐賀美邇迦美而。於吹棄気吹之狭霧所成神御名。天津日子根命。又乞度所纏左御手之珠而。佐賀美邇迦美而。於吹棄気吹之狭霧所成神御名。活津日子根命。亦乞度所纏右御手之珠而。佐賀美邇迦美而。於吹棄気吹之狭霧所成神御名。熊野久須毘命。併五柱。自久下三字以音
於是天照大御神告速須佐之男命。是後所生五柱男子者。物實因我物所成。故自吾子也。先所生之三柱女子者。物實因汝物所成。故乃汝子也。如此詔別也。
故其先所生之神。多紀理毘賣命者。坐胸形之奥津宮。次市寸嶋比賣命者。坐胸形之中津宮。次田寸津比賣命者。坐胸形之邉津宮。此三柱神者。胸形君等之以伊都久三前大神者也。
故此後所生五柱子之中 天之菩卑能命之子建比良鳥命。
此出雲國造。无邪志國造。上莬上國造。下莬上國造。伊自牟國造。津嶋縣直。遠江國造等之祖也。次天津日子根命。凡川内國造。額田部湯坐連。木國造。倭田中直。山代國造。馬来田國造。道尻岐閇國造。周芳國造。倭淹知造。高市縣主。蒲生稲寸。三枝部造等之祖也。

(読み)
 アマテラスオホミカミ シカラバミマシノココロノアカキコトハイカニシテシラマシトノリタマヒキ ココニハヤスサノヲノミコト オノモオノモウケヒテ ミコウマナトマヲシタマフ
 カレココニオノモオノモアメノヤスノカハヲナカニオキテ ウケフトキニ アマテラスオホミカミマヅタケハヤスサノホノミコトノミハカセルトツカノツルギヲコヒワタシテ ミキダニウチヲリテ ヌナトモモユラニ アメノマナイニフリススギテ サガミニカミテ フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ タキリビメノミコト マタノミナハオキツシマヒメノミコトトマヲス ツギニイチキシマヒメノミコト マタノミナハサヨリビメノミコトトマヲス ツギニタギツヒメノミコト ハヤスサノヲノミコト アマテラスオホミカミノヒダリノミミヅラニマカセルヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲコヒワタシテ ヌナトモモユラニ アメノマナイニフリススギテ サガミニカミテ フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ マサカアカツカチハヤビアメノオシホミミノミコト マタミギリノミミヅラニマカセルタマヲコヒワタシテ サガミニカミテ フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ アメノホヒノミコト マタミカヅラニマカセルタマヲコヒワタシテ サガミニカミテ フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ アマツヒコネノミコト マタヒダリノミテニマカセルタマヲコヒワタシテ サガミニカミテ フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ イクツヒコネノミコト マタミギリノミテニマカセルタマヲコヒワタシテ サガミニカミテ フキウツルイブキノサギリニナリマセルカミノミナハ クマノクスビノミコト
 ココニアマテラスオホミカミハヤスサノホノミコトニノリタマハク コノノチニアレマセルイツハシラノヒコミコハモノザネアガモノニヨリテナリマセリ カレオノヅカラアガミコナリ サキニアレマセルミバシラノミコハ モノザネミマシノモノニヨリテナリマセリ カレスナハチミマシノミコナリ カクノリタマヒキ
 カレソノサキニアレマセルカミ タキリビメノミコトハ ムナカタノオキツミヤニマス ツギニイチキシマノヒメノミコト ムナカタノナカツミヤニマス ツギニタギツヒメノミコトハ ムナカタノヘツミヤニマス コノミバシラノカミハ ムナカタノキミラガモチイツクミマヘノオホキミナリ
 カレコノノチニアレマセルイツハシラノミコノナカニ アメノホヒノミコトノミコタケヒラトリノミコト コハイズモノクニノミヤッコムザシノクニノミヤツコカミツウナカミノクニノミヤツコシモツウナカミノクニノミヤツコイジムノクニノミヤツコツシマノアガタノアタヘトホツアハミノクニノミヤツコラノオヤナリ ツギニアマツヒコネノミコトハ オフシカフチノクニノミヤツコヌカタベノユエノムラジウバラキノクニノミヤツコヤマトノタナカノアタヘヤマシロノクニノミヤツコウマゲタノクニノミヤツコミチノシリノクヘノクニノミヤツコスハフノクニノミヤツコヤマトノアムチノミヤツコタケチノアガタヌシカマフノイナキサキクサベノミヤツコラノオヤナリ

 (現代語訳)
 そこで天照大御神が仰せられるには、「それでは、あなたの心が潔白で邪心のないことは、どのようにして知るのですか」と仰せられた。これに答えて速須佐之男命は、「それぞれ誓約(うけひ)をして子を生みましょう」と申し上げた。こうして二神が天の安河を中にはさんで、それぞれ誓約をするとき、天照大御神がまず建速須佐之男命の帯びている十拳剣を受け取って、これを三つに折り、玉の緒がゆれて玉が音を立てながら、天の真名井の水に振り解いで、これを噛みに噛んで砕き、吐き出す息の霧から成り出でた神の御名は、多紀理毘賣命、またの御名は奥津嶋比賣命という。次に成り出でた神は市寸嶋比賣命、またの御名は狭依毘賣命という。次に成り出でた神は多岐都比賣命である。三柱
速須佐之男命が、天照大御神の左の角髪に巻いておられる、多くの勾玉を貫き通した長い玉の緒を受け取り、玉の緒がゆれて玉が音を立てるほど、天の真名井の水に振り濯いで、これを噛みに噛んで砕き、吐き出す息の霧から成り出でた神の御名は、正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命である。また右の角髪に巻いておられる玉の緒を受け取って、これを噛みに噛んで砕き、吐き出す息の霧から成り出でた神の御名は、天之菩卑能命である。
 また御鬘(みかずら)に巻いておられる玉の緒を受け取って、噛みに噛んで吐き出す息の霧から成り出でた神の御名は、天津日子根命である。また左の御手に巻いておられる玉の緒を受け取って、噛みに噛んで吐き出す息の霧から成り出でた神の御名は、活津日子根命である。また右の御手に巻いておられる玉の緒を受け取って、噛みに噛んで吐き出す息の霧から成り出でた神の御名は、熊野久須毘命である。合わせて五柱の神である。
 そこで天照大御神が、速須佐之男命に仰せられるには、「この後で生まれた五柱の男の子は、私の物である玉を物実として成り出でた神である。だから当然私の子です。先に生まれた三柱の女の子は、あなたの物である剣を物実として成り出でた神である。だからつまりあなたの子です」 と、このように仰せられて区別なさった。
 そして、その先に生まれた神の多紀理毘賣命は、宗像神社の沖つ宮に鎮座されている。次に市寸嶋比賣命は、宗像神社の中つ宮に鎮座されている。次に多岐都比賣命は宗像神社の辺つ宮に鎮座されている。この三柱の神は、宗像君等があがめ祭っている三座の大神である。そして、この後で生まれた五柱の子の中で、天之菩卑能命の子の建比良鳥命、 これは出雲国造・武蔵国造・上莬上國造・下莬上國造・伊自牟國造・津嶋縣直・遠江國造等の祖神である。次に天津日子根命は、凡川内國造・額田部湯坐連・木國造・倭田中直・山代國造・馬来田國造・道尻岐閇國造・周芳國造・倭淹知造・高市縣主・蒲生稲寸・三枝部造等らの祖神である。

 (解説〉
乞ひ度して: 先方からもらい受けて。
ぬなと: 玉の音の意。
もゆらに: 玉が触れ合って鳴る様。
正勝吾勝勝速日天之忍穂耳命: 「正勝吾勝」は、正しく吾勝ちぬの意。「勝連日」は、速かに勝つ神霊の意。「忍穂」は多くの稲穂の意。書紀では、生まれる子が男子であれば、心の潔白な証拠としている。この神は皇室の祖神として、天孫降臨の段にも現われる。
天之菩卑能命: 「天穂日命」 とも記す。稲穂の神霊の意。出雲国造をはじめ、出霊系諸氏族の祖神。
物実: 神の生成するもとになる物。
胸形の奥つ宮: 福岡県宗像郡の宗像神社は、沖つ宮・中つ宮・辺つ宮の三社から成り、沖つ宮は玄界灘の孤島沖ノ島に祀られている。

 誓約の神話に侶、呪儀の神秘的な内容が、繰り返しの多い荘重な表現で語られている。この神話の主眼は、二神の誓約によって、剣と玉を物実として、三女神がスサノヲノ命の子として、五男神が天照大御神の子として、化生したと伝える点にある。三女神は宗像神社の祭神である。この神を祭った宗像君は、北九州を本拠として、日本海や朝鮮半島との海上交通に活躍した、海人系の豪族である。
タキリビメを祀る沖津宮(沖ノ島)からは、大陸からもたらされた古代の祭祀具が約12万点も見つかっており、その三分の一が国宝だそうである。
 一方、五男神のうちアメノホヒノ命は、出雲国造の祖神であり、アマツヒコネノ命は、凡川内國造や山代国造などの豪族の祖神である。そして皇祖神であるオシホミミノ命と、出雲国造の祖神であるアメノホヒノ命とが、兄弟の関係で結ばれていることは、天照大御神とスサノヲノ命とが、姉弟の関係で結ばれていることと同じ構想である。
『日本書紀』では、誓約に先立ってスサノヲノ命は、もし女が生まれたら邪心があるとせよ、男が生まれたら清き心であるとせよ、と言ったと記している。『古事記』にはこのことが記されていない。そして「日本書紀」と反対に、女が生まれたのでスサノヲノ命の心の潔白が証明された、としている。ところが「古事記」にも、アメノオシホミミノ命の神名には、「正勝吾勝勝速日」が添えてあるから、男子が生まれたので誓約に勝った、とするのが本来の伝承であったろうと考えられる。「古事記」に、なぜ女子の生まれたことを勝ちのしるしとしたのか、これは大きな問題である。あるいは「古事記」 の伝承は、女帝の持統天皇や元明天皇の時代に形成されたために、このように改変されたのではあるまいか、と考えられる。
また、稗田阿礼の女性説も、このような記述に力を得ている。

三姉妹の神は『宗像三女神』と呼ばれて、肥の国(福岡県)の宗像郡にある、沖の島・大島・宗像にそれぞれ祀られております。
とくに玄界灘に浮かぶ沖の島には古代の祭祀場である石座があ り、たくさんの宝物が出土し、海の正倉院と呼ばれています。
この島は今でも、神々と神主以外は誰も足を踏み入れることができない禁足地なので、いまだに神々しいご神気が島中に漂っているそうです。

宗像三女神の一柱で『古事記』では多紀理毘売命、『日本書紀』では田心姫(たごりひめ)・田霧姫と表記される。別名奥津島比売命(おきつしまひめ)だが、『日本書紀』第三の一書では市杵嶋姫(市寸島比売・いちきしまひめ)の別名としている。
神名の「タキリ」は海上の霧(きり)のこととも、「滾(たぎ)り」(水が激しく流れる)の意で天の安河の早瀬のこととも解釈される。日本書紀の「タゴリ」は「タギリ」が転じたものである。
この女神を単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、また、天照大神(あまてらす)と素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)の誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。

また、次女のいちきしま姫は『弁天さま』とも呼ばれて、宮島、江ノ島、琵琶湖の竹生島、吉野の奥の天河などに祀られている。

三女のタギツヒメを単独で祀る神社は少なく、宗像三女神の一柱として各地の宗像神社・厳島神社などで、また、アマテラスとスサノオの誓約で生まれた五男三女神とともに各地の八王子神社などで祀られている。


「古事記絵詞」から神々の誕生
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一番下にイザナキとイザナミの神生み、それで生まれた神が上方に向かって描かれていき、一番上がアマテラスとスサノオの「うけい」が描かれている。
両神の左方に三女神、右方に五男神が小さく描かれている。

八重垣神社の板絵「アマテラス(左)とイチキシマヒメ(右)」
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沖ノ島で奉仕する神官
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本多政重の話「生きて候」/安部龍太郎

20130225

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少し前に「加賀百万石」という本で記事を書いたときにも書いたが、私の実家は金沢の隣町である。実家は無人にしているので、たまに帰っても寝るのはつらいので、金沢のホテルにいつも泊まっている。
金沢を歩いていると「本多」の名前がついているのに、よく出くわす。町の名前だったり記念館だったり。
これまでは、歴史については不勉強で、徳川家康の懐刀本多正信は知っていたが、加賀藩での本多は何なのかなあ、と思ったがそのままになってた。
本多正信の次男本多政重だということはわかったので、本多政重について知りたいと思い読んだのがこの本である。

家康の側近本多正信には二人の息子がいた。その次男、政重が主人公で、彼は7歳の時槍奉行倉橋長右衛門の養子になっていた。
親友のため、徳川秀忠の乳母の息子を斬り殺した政重は、父正信の助言で徳川家を出奔し、そのまま放浪の旅に出る。

慶長の役(朝鮮出兵)では前田利家の希望に沿い、朝鮮に渡って戦況を見聞。朝鮮の状況がどうなっているのか、石田三成らがまったく情報をくれないため、前田利家は困っていた。
前田家と政重の関係は、養父倉橋長右衛門が大阪出仕の際に同行していた時、前田利家に招かれ利家の次男利政に剣を教えた。それで豪姫とも知り合う。

朝鮮の悲惨な状況は、この本で読むのが初めてだった。まったく無益な戦を秀吉はやったものだ。
政重は石田三成と計って停戦に持ち込もうと努力する。
秀吉主催の醍醐の花見で、前田利政と共に警護に当たっていた政重のところに、石田三成が酒を注ぎにやって来た。
「近いうちにそれがしの屋敷に参られよ。朝鮮での戦いについて、いろいろと話を聞かせて頂きたい」
「あれは負け戦です」
秀吉に聞こえたら首が飛びそうなことを、政重はためらいもせずに言ってのけた。
ところが三成は顔色ひとつ変えず、
「それゆえ話を伺いたい。どうすればうまく矛を収められるか、知恵を貸していただきたいのでござる」
政重の肩にそっと手を置いて立ち去った。

朝鮮での戦況視察中、竹蔵という少年に出会い、弟子にする。
「倉橋さまのお役に立ちたかったんです。そしたら家来にしてもらえるんやないかと思いまして」
「私は家来など持たぬ」
「そんなら弟子でもいいです。俺に戦の仕方を教えてくんなはれ」
竹蔵がいきなり土下座をした。
途中から、これはひょっとして、と思い始めた。案の定、後の宮本武蔵のことだった。これはまったくのフィクションの部分であろう。

朝鮮で宇喜多秀家と縁の出来た政重は宇喜多秀家に仕えることになる。宇喜多家にあっては、関が原の合戦で、宇喜多軍主力として、徳川方井伊軍と真正面から戦っている。政重は、関ヶ原の合戦に敗れた後、敗軍の将、宇喜多秀家をかくまって貰うために、薩摩、島津家を訪れ、了解を取り付ける。併せて、徳川・島津両家の和議にも働く。
この本の力点は本多政重と宇喜多秀家との主従関係を軸に書かれていて、大谷吉継家仕官、福島正則家仕官には全く触れていない。上杉家に直江兼継の継嗣として迎えられることも、エピローグでさらりと触れているだけである。
前田家での家老としての事歴も、項目としてさらりと触れているだけだった。
この辺が私としては、最も知りたいところだったが。

最終的には、加賀100万石前田家の筆頭家老として、5万石という陪臣としては全国最高の禄高を得て、その家はそのまま幕末まで続くわけである。

迫力の合戦場面や政重の槍(やり)さばきなど、読みどころは多いが、やはり功利や時代に流されず生きた政重その人に最も感銘を受けた。

それから、エピソードとしてしか語られていないが、金沢御坊のことである。加賀一向一揆の本拠で織田信長に滅ぼされるまでは「仏の国」だった。
熱心な一向宗徒だった本多正信は徳川家康の録を離れ、金沢御坊に籠っていたが、いよいよ落城となったとき正信の妻は宗教に殉じて死に、正信は二人の子を連れて脱出、また家康に仕えたという。
政重の原点は金沢にあったということ。

この本を読み終わって、ますます本多政重のことをもっと知りたいという思いが強い。


音で描く宮沢賢治の宇宙~冨田勲×初音ミク

20130223

「音で描く賢治の宇宙~冨田勲×初音ミク 異次元コラボ」と題した番組が、ETVで2月3日に放送され、録画しておいたものを、折にふれて見ていた。

ホルストの組曲「惑星」を冨田勲が編曲したアルバム、調べたら1977年購入のLPだが、それを今でも持っている。
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当時の私はジャズばかり聞いていたが、冨田勲がシンセサイザーで出してくる音楽は当時ビッグニュースだったので購入したものだ。
その冨田勲が、現在80歳にして、宮沢賢治したというので、私も飛びついた(笑)

冨田勲新制作「イーハトーヴ」交響曲世界初演公演が、2012年11月23日に東京オペラシティコンサートホールで行われた。
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番組は、下記の交響曲を構成する曲の一部を放映しながら、合間にこの曲作りのエピソードを紹介している。
1. 岩手山の大鷲<種山ヶ原の牧歌>
2. 剣舞/星めぐりの歌
3. 注文の多い料理店
4. 風の又三郎
5. 銀河鉄道の夜
6. 雨にも負けず
7. 岩手山の大鷲<種山ヶ原の牧歌>


冨田さんが長年描きたいと思い続けてきた、作家・宮沢賢治の世界です。賢治の4次元的・宇宙的な世界観を、どうやって音楽で表すか。悩んだ末、冨田さんが思いついたのは、なんとインターネットの動画サイトで大人気のバーチャル・シンガー“初音ミク”の起用。こうしてオーケストラと初音ミク、200人の合唱が奏でる、前代未聞の壮大な交響曲が生まれることになりました。
記者会見で冨田氏は、初音ミクのフィギュアを持って現れた。
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人の複雑な指揮の緩急に合わせて変幻自在にミクが歌い、ダンスするという歴史的なパフォーマンスが誕生する。従来の常識は、あらかじめプログラミングされたミクの歌に合わせて人が演奏。今回は、ミクが大友直人指揮に合わせながら管弦楽と大合唱団とともに歌う舞台が実現。

「注文の多い料理店」の物語の中に妖艶に変幻したミクが登場、可憐な歌声とダンスで魅惑のメロディーを歌い上げます。
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料理店から出られない客と、バーチャルの世界から出られないミクが「~~出られない」と唄う姿が重なります。

テクニックとしては、オーケストラの中にキーボード奏者を一人置き、彼が入力したテンポでプログラムが動くことで実現した。ミクの映像も指揮のテンポに合わせるため、あらかじめ用意した映像でなく、その場で映像を作っていくという方法をとった。
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これは複合画面で、左上にミク、右上に指揮者、下の真ん中にキーボード奏者を配して、其々の動きを同時に見せてくれました。

200人の合唱は、時には迫力があり、時には賢治のピュアなこころを現すものであり、素晴しかった。
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風の又三郎も初音ミクが演じた。
よりリアルでハートフルなミク。まさに天使ミクが人と一体化した瞬間でした。
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子どもの頃に感じた賢治への印象をすべて曲に込めた、という冨田さん。その原点は『銀河鉄道の夜』にありました。
戦時中に過ごした愛知県。空襲に怯える日々に加え、三河地震(1945年1月)の被害に直面した少年時代の冨田さん。この番組で知ったのだが、終戦直前の直下型の大地震である三河地震は、2000人もの死者が出たのだが、報道管制のため知られず、助けはほとんど来なかったという。
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戦争は、こういう形でも国民を鞭打つのだ。
『銀河鉄道の夜』が冨田さんに夢と希望を与えてくれたといいます。
『銀河鉄道の夜』をモチーフにした楽章。はるか上にまで続くような闇と光が包む中、賛美歌が響き渡る会場は幻想的な雰囲気に。その場にいたら、さぞかし深く感動していたことだろうなと思いました。
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冨田さんを創作に駆り立てたのは、10年前の約束でした。
親戚でもある、東北大学の元総長・西澤潤一さんと交わしていた、詩『雨ニモマケズ』に曲をつけるという約束。それが、東日本大震災を受けて形になったのです。
少年のころの地震の記憶がよみがえった冨田さんは、今こそ形にしなければ、と岩手を訪ね、賢治の遺品や岩手山などの自然からインスピレーションを受け、作品を創り上げました。
冨田さんは言いました。
「(震災を受けて)ぼくも奮起しなければバチが当たる」「東北の人たちが、この曲を聴いてがんばってくれたら嬉しい」

死後発見されたノートに書きつけられた『雨ニモマケズ』
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西澤潤一さんに贈られた『雨ニモマケズ』を見せながら語る冨田さん。
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第6楽章に置かれた『雨ニモマケズ』は合唱のみで表現され、深い祈りがストレートに伝わってくるようでした。
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賢治が愛してやまなかった種山ヶ原の牧歌にも、ミクが合せて踊ります。
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演奏は日本フィルハーモニー交響楽団
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大歓声と拍手に応える指揮者大友直人さんと冨田さん。
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CDは既に出ています。
望むらくは、初音ミクも併せて楽しみたく、ブルーレイとかDVDで出して欲しいものです。


プリンセス・ド・モナコ

20130222

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系 統: HT ハイブリッドティ
作 出: 1982年 フランス M L mailland
花 色: 白に桃の覆輪
花 径: 大輪
香 り: 良香
開花性: 四季咲き

白とピンクの覆輪系のハイブリットティーローズの中でも、群を抜いて美しいバラ。
モナコ公国王妃となった、故グレース・ケリーに捧げられたこのバラは、その名前の通りとても存在感があり、上品で甘い香りがします。
花形・色・咲き方・香り・・・・どれをとっても申し分ないですね。


グレース・ケリーといえば、その気品を湛えた美貌は「クール・ビューティー」(cool beauty)と賛美されました。人気絶頂の最中、ヨーロッパの王族と結婚し女優業から引退してしまったのですよね。
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残念なことに、1982年9月13日、自らハンドルを握りローバー3500を運転して南仏のロックアジェルの別荘からモナコに戻る途中に脳梗塞を発症。そのまま急カーブの坂道でガードレールに激突し、道路横の崖を40メートルほど転落して自動車は大破した。事故後すぐに病院へ搬送されたが意識が回復しないまま翌日に死亡(52歳)。

出演作品:
真昼の決闘
モガンボ(ゴールデングローブ賞 助演女優賞受賞、アカデミー助演女優賞ノミネート)
ダイヤルMを廻せ!
裏窓
喝采(アカデミー主演女優賞受賞、ゴールデングローブ賞 主演女優賞 (ドラマ部門)受賞)
緑の火・エメラルド
トコリの橋
泥棒成金
白鳥
上流社会


2001年5月 向ヶ丘遊園バラ園(今は無き)にて


『居眠り磐音 江戸双紙』第29巻「冬桜ノ雀」&第30巻「侘助ノ白」/佐伯泰英

20130221

第29巻「冬桜ノ雀」
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この巻での大きな出来事は、千鳥ヶ淵一番町の高家瀬良家の屋敷に咲いている冬桜が評判で、それを磐音、おこん、霧子が見に行く。
これがこの巻のタイトルだが、そこにちょうど屋敷に戻ってきた瀬良の駕籠に、ご家人の侍が千宋易ゆかりの茶碗を返してくれと直訴しているのに出くわす。見かねて磐音が止めに入って騒動に巻き込まれる。
それから、佐渡の金山の水揚げ人足に江戸の無宿人を送り込むことが始まっているが、能楽の丹五郎という渡世人が三国峠の直前に、仲間を誘って逃げ出した。どうも江戸でひと仕事して、上方に逃げるようだと、年番方与力笹塚孫一から例によって持ち込まれる。
ちょうどその頃、関前藩の新造の千石船が師走に江戸に到着した。荷積みに工夫がこらされた船であり、時期も時期で、かなり関前藩には潤った商いとなる。
この船に笹塚孫一が目をつけ、能楽の丹五郎一味を釣り出すのに利用される。

悪人で「土壇場の久助」という男が出てくるが、その際に「土壇場」の説明があった。
斬罪を執行するために積み上げた土の壇のことだそうである。よく使うのに語源を知らなかった(汗)

西の丸の家基に磐音が出稽古に参じているが、家基が気鬱な様子なので問うと、夢に苦しめられているという。そしてその夢というのが盲目の老剣士と花笠を被った見目麗しい娘が毎夜出て来るというので、磐音は愕然とする。磐音が道場で対面した二人だったからである。
家基が高熱を発し、意識が不明となる。その夢のせいらしい。磐音は、それにどう対決するのか。

陽気のよい日に、ふたたび今度はおえいを誘って冬桜を見に行く。その後おえいの誘いで、湯島の切通し片町に、牡丹猪鍋の店「篠山」に、おえい、磐音、おこん、早苗の四人で食べに行く。江戸中期ころよりこのような店があったようだ。

この巻で、磐音が相対したのは、タイ捨流、東軍流、他は特に流派の説明なし。


第30巻「侘助ノ白」
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父親の付き添いで、国許の高知に帰った重富利次郎。高知城下に入ったところで、花売りの老婆と娘に出会うが、娘から侘助の白い花を一輪もらう。
これがこの巻のタイトルである。高知での騒動の発端のころ、桂浜を見下ろす廃城での月夜でも侘助の白い花が目立った。利次郎は誰かの面影と重ねているようだった。

土佐藩は藩祖山内一豊から9代目。大地震と大火により、幕府から一万五千両の借財を背負っていた。藩主は教育に力を入れていたが、藩財政は一向に好転の兆しが見られない。利次郎の父の帰国は、そのことに関してらしい。藩財政を立て直すと称し、実は商人と結託しよからぬことを謀る悪人が出てきたらしい。
高知に着いた翌日登城した利次郎の父が、城下がりの道で襲われる。迎えに行った利次郎が曲者たちに真剣で立ち会うことになったが、見事三人に傷を負わせ退ける。江戸を発つ直前に磐音から真剣の扱いについて特に手ほどきを受け、道中鍛錬してきた成果だった。

江戸では、道場で暮れの餅つきの最中、武芸者が立ち会いを申込み磐音が応対する。棒術と云わず「槍折れ」と云う。戦国時代、槍先を折られた武芸者が手元に残った柄だけで戦い続けた、名残の術。
小田平助というが、実に人なつこい人間性と武術の巧みさに磐音が惚れ込み、道場の客分になってもらう。

金兵衛長屋の磐音が暮らしていた部屋に入った浪人が行方が分からなくなり、金兵衛に頼まれ磐音が捜索する。水戸家の偉い武家と破戒坊主が組んではじめた地下の闘剣場の闘剣士に、食うに困って志願していた。

直心影流の極意伝開書に曰く、「一円相を以て形の始めとす」とあると、一円相の説明がされていた。一円相は宇宙の理を表現したもの。円に始めなく終わりもない。「天地万物同根一空、花は紅柳は緑、夜あらば昼、陰あらば陽あり。生あるものは必ず滅し、型あるものは必ず無に帰す。人は死して土に還る。しかして土から芽が生じて花が咲き、実を結ぶ」と教えるそうである。

この巻で、磐音が相対したのは、富田天信正流槍折れ、神無刀流、直心正継流、円明流、他は特に流派の説明なし。


古事記を知る(12)

20130219

3.天照大神と須佐之男命
3-1 須佐之男命の神やらひ
故各随依賜之命所知看之中。速須佐之男命。不知所命之國而。八拳須至于心前。啼伊佐知伎也。
自伊下四字以音下効此其泣状者。青山如枯山泣枯。河海者悉泣乾。是以悪神音。如狭蠅皆満。萬物之妖悉發。故伊邪那岐大御神詔速須佐之男命。何由以汝不治所事依之國而。哭伊佐知流。爾答白。僕者欲罷妣國根之堅洲國故哭。爾伊邪那岐大御神大忿怒。詔然者汝不可住此國。乃神夜良比爾夜良比賜也。自夜以下七字以音故其伊邪那岐大神者。坐淡海之多賀也。
故於是速須佐之男命言。然者謂天照大御神将罷。乃参上天時。山川悉動。国土皆震。爾天照大御神聞驚而。詔我那勢命之上来由者。必不善心。欲奪我國耳。即解御髪。纏御美豆羅而。乃於左右御美豆羅。亦於御鬘。亦於左右御手。各纏持八尺勾璁之五百津之美須痲流之珠而
自美至流四字以音下効此於曾毘良邇者負千入之靫。訓入云能理下効此自曾至邇以音附五百入之靫。亦所取佩伊都此二字以音之竹鞆而。弓腹振立而。堅庭者於向股踏那豆美三字以音如沫雪蹶散而。伊都二字以音之男建訓建云多邢夫踏建而。待問。何故上来。爾速須佐之男命答白。僕者無邪心。唯大御神之命以。問賜僕之哭伊佐知流之事故。白都良久。三字以音僕欲往妣國以哭。爾大御神詔。汝者不可在此國而。神夜良比夜良比賜故。以為謂将罷往之状参上耳。無異心。

(読み)
 カレオノモオノモヨサシタマヘルミコトノマニマニシロシメスナカニ  ハヤスタノヲノミコト ヨサシタマヘルクニヲシラサズテ ヤツカヒゲムナサキニイタルマデ ナキイサチキ ソノナキタマフサマハ アヲヤマヲカラヤマナスナキカラシ ウミカハハコトゴトニナキホシキ ココヲモテアラブルカミノオトナヒ サバエナスミナワキ ヨロズノモノノワザハヒコトゴトニオコリキ カレイザナギノオオミカミハヤスサノヲノミコトニノリタマハク ナニトカモミマシハコトヨサセルクニヲシラサズテ ナキイサチルトノリタマヘバ マヲシタマハク アハハハノクニネノカタスクニニマカラムトオモフガユエニナクトマヲシタマヒキ ココニイザナギノオホミカミイタクイカラシテ シカラバミマシコノクニニハナスミソトノリタマヒテ スナハチカムヤラヒニヤラヒタマヒキ カレイザナギノオホミカミハ アフミノタガニナモマシマス
 カレココニハヤスサノヲノミコトマヲシタマハク シカラバアマテラスオホミカミニマヲシテマカリナムトマヲシタマヒテ スナハチアメニマイノボリマストキニ ヤマカハコトゴトニトヨミ クニツチミナヨリキ ココニアマテラスオホミカミキキオドロカシテ アガナセノミコトノボリキマスユエハ カナラズウルハシキココロナラジ アガクニヲウバハムトオモホスニコソトノリタマヒテ スナハチミカミヲトキ ヒダリミギリノミミズラニモ ミカズラニモ ヒダリミギリノミテニモ ミナヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲマキモタシテ ソビラニハチノリノユギヲオヒ イホノリノユギヲツケ マタイツノタカトモヲ トリオバシテ ユハラフリタテテ カタニハハムカモモニフミナヅミ アワユキナスクエハララカシテ イツノヲタケビ フミタケビテマチトヒタマハク ナドノボリキマセルトトヒタマヒキ ココニハヤスサノヲノミコトノマヲシタマハク アハキタナキココロナシ タダオホミカミノミコトモチテ アガナキイサチルコトヲトヒタマヒシユエニ マヲシツラク アハハハノクニニマカラムトオモヒテナクトマヲシシカバ オホミカミ ミマシハコノクニニハナスミソトノリタマヒテ カムヤラヒヤラヒタマフユエニ マカリナムトスルサマヲマヲサムトオモヒテコソマイノボリツレ ケシキココロナシトマヲシタマフ。

 (現代語訳)
 こうして、それぞれ御委任になったお言葉にしたがってお治めになったが、その中で速須佐之男命だけは、委任された国を治めずに、長い顎髭が胸元にとどくようになるまで、長い間泣きわめいていた。そのはげしく泣く有様は、青々とした山が、枯木の山のようになるまで泣き枯らし、川や海の水は、すっかり泣き乾してしまうほどであった。そのために、禍をおこす悪神のさわぐ声は、夏の蠅のように充満し、あらゆる悪霊の禍が一斉に発生した。
 そこで伊邪那岐大御神が、速須佐之男命に仰せられるには、「どういうわけで、あなたは私の委任した国を治めないで、泣きわめいているのです」と尋ねられた。これに答えて須佐之男命が申すには、「私は亡き母のいる根の堅洲国に参りたいと思うので、泣いているのです」と申しあげた。それで伊邪那岐大御神がひどく怒って、「それならば、あなたはこの国に住んではならない」と仰せられて、ただちに須佐之男命を追放してしまわれた。さてその伊邪那岐大神は、近江の多賀に鎮座しておられる。
 そこで須佐之男命が申すには、「それでは天照大御神に事情を申しあげてから、根の国に参りましょう」と言って天に上ってゆくとき、山や川がことごとく鳴動し、国土がすべて震動した。すると、天照大御神がその昔を聞いて驚き、仰せられるには、「私の弟君が上って来るわけは、きっと善良な心からではあるまい。私の国を奪おうと思って来るのに違いない」と仰せられて、ただちに御髪を解いて角髪に束ね、左右の角髪にも御鬘にも、左右の御手にも、みなたくさんの勾玉を貫き通した長い玉の緒を巻きつけ、背には千本も失のはいる靫を負い、脇腹には五百本も夫のはいる靫をつけ、また臂には威勢のよい高鳴りのする鞆をお着けになり、弓を振り立てて、堅い地面を股まで没するほど踏み込み、沫雪のように土を蹴散らかして、雄々しく勇ましい態度で待ちうけ、問いかけて「どういうわけで上って来たのか」 とお尋ねになった。
 そこで須佐之男命が答えて申すには、「私は邪心を抱いてはいません。ただ伊邪那岐大御神のお言葉で、私が泣きわめくわけをお尋ねになったので、私は亡き母のいる国に行きたいと思って泣いているのです、と申しました。ところが大御神が、おまえはこの国に住んではならない、と仰せられて、私を追放なさいました。それで、母の国に参ります事情を申しあげようと思って、参上しましただけです。謀叛の心など抱いてはおりません」と申した。

 (解説)
啼きいさちき: 「いさちる」は泣きわめくこと。
さ蝿如す: 「さ」は「さ苗」「さ月」の「さ」と同様に、神稲の意。田植えのころに群がる蝿のように。
妣(はは)の国:「妣」は亡き母の意で、イザナミノ命をさす。
神やらひ:神を追放すること。
なせの命:「なせ」は男性を親しんで呼ぷ語。
みすまるの珠:「みすまる」は、緒に通しつないだもの。
いつの高鞆:「いつ」は盛んな威力。「高鞆」は、高い音を発する鞆の意。「鞆」は弓を射るとき、左の腎に着ける武具で、弦があたって音を発した。

出雲系神話の祖神とされたスサノヲノ命は、もともと根の国と深い関係をもっていた。スサノヲノ命が、根の国に行きたがって泣いたというのは、元来この神が根の国を主宰する神であったからであろう。根の国は、海のかなたにあると考えられた異郷で、神々の故郷であり、また穀物や富の根源世界とも考えられた。
 しかし天照大御神と対立するスサノヲノ命は、荒ぶる神として描かれている。「青山は枯山如す泣き枯らし、…」には、水神としてのスサノヲノ命が泣くとき、海河の水がことごとく涙となって乾上がる様が、壮大な表現で語られている。この神が高天原に上るとき、山川が鳴動し、国土が震撼したというところにも、スサノヲノ命の荒ぶる神としての激しさが語られている。一方、この荒ぶる神を待ち受けて、天照大御神が武装して雄々しい姿を示す場面も、力強く荘重に描かれている。これらの神話に語られたスサノヲノ命は、暴風雨神であろうといわれている。出雲神話においては、農耕に慈みを与える水神としてのスサノヲノ命が、高天原神話では、暴風雨を思わせる荒ぶる神として描かれているのであって、スサノヲノ命の性格は複雑である。

古事記に、「さてその伊邪那岐大神は、近江の多賀に鎮座しておられる。」
と書かれている「多賀大社」
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関東での伊邪那岐大神を祀っている代表的な神社を二つ挙げておきます。
まずは筑波山、男体山に伊邪那岐命を祀り、女体山に伊邪那美命を祀っています。
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奥秩父の三峰神社にも伊邪那岐命と伊邪那美命が祀られています。
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所沢航空発祥記念館

20130218

零戦を充分に楽しんだ後、他の展示されているものをのんびりと見て回りました。

玄関を入ったロビーの天井には「会式一号機」が展示してあります。
これは、所沢飛行場で設計、製作され、1911年完成、飛行に成功した国産初の軍用機のレプリカです。
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1922年製造、陸軍甲式二型練習機のプロペラ
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「ノースアメリカンT-6G」
1955年から自衛隊の練習機として使用された。
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「シコルスキーH-19」
世界で初めてシングルローターヘリコプターの飛行を成功させた「ヘレコプターの父」、イゴール・シコルスキーが製作した中型実用ヘリコプター。日本では三菱重工がライセンス生産。自衛隊に66機導入。
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エンジン
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室内
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「バートルV-44」
アメリカのバートル社から購入の大型輸送ヘリコプター。1959年から導入、その年の伊勢湾台風では救助用に大活躍。その時皇太子殿下(現在の天皇)が皇室としては初めてヘリコプターに搭乗、災害を視察。
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ライト社 空冷式星形9気筒エンジン
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運転席
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広い室内
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「富士T-1B-10」
戦後日本で設計、開発した国産量産飛行機の第一号。1958年初飛行。
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この鼻がいいね。
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上から見たら、こんなに美しい。
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石川島播磨製ジェットエンジン
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「セスナ310Q 1970年型スカイナイト」
本田航空で使用されていたもの。
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コンチルンタル製エンジン
ターボ過給機つき空冷式水平対向6気筒
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運転席
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上には、色々な機体がぶら下がっていたが、どういうものかわからず。
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ここからは、航空の歴史のコーナー。

航空思想のパイオニア、二宮忠八が1894年上申したが採用されなかった「玉虫号」。
カラス、昆虫、トビ魚からヒントを得て設計。しかし、1903年にライト兄弟の飛行成功のニュースを知り、飛行機設計を断念。
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1910年12月、陸軍徳川大尉による、東京代々木練兵場でアンリ・ファルマン機での国内初飛行。
そのジオラマ
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1913年、日本で最初の航空死亡事故発生。
飛行機はブレリオ、搭乗者は木村、徳田両中尉。
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国産機の初飛行
奈良原三次氏設計、製作の「奈良原式二号機」が、1911年所沢飛行場で初飛行成功。
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「ニューポール 81E2」
比企郡都幾川村出身の民間飛行家、岩田正夫氏が1926年に郷土訪問飛行を行った。その際都幾川の河原に着陸した際、機体を損傷。そのまま村に寄贈された。慈光寺に70年間保存されていたが、その間機体は腐食のため、エンジン、操縦室周辺、着陸装置を残すのみの状態となってしまった。
設計図をもとに再現されたレプリカである。
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二階にあがります。
「所沢メモリアルギャラリー」
所沢飛行場の歴史や埼玉・所沢の航空人の紹介、資料を展示してあります。

「管制塔」
レーダーをはじめ、実際に使われていた管制装置の展示、航空管制の役割を紹介しています。
この管制卓は、平成4年の3月まで所沢の運輸省東京航空交通管制部で使用されていたもの。
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「大空」
フライトシミュレーターなどで、飛行間隔を体験できます。
フライトシミュレーターのところには、お姉さんがいてちょっと気恥しかったのでパス(笑)
セスナの操縦体験機のところには誰も居なかったので、のびのびと遊びました(笑)

まだ映画の予約時間まで少しあったので、コーヒー飲んで休憩してから、最後に大型スクリーンの映画館で、30分ほどの映画「日本の航空技術史」を見ました。
零戦の技術、最新の787での日本の技術など、とても面白かった。


(了)


来日した零戦を見に行く(2)/所沢航空発祥記念館

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会場内に展示してあったパネルの写真で、この零戦のこれまでの推移を述べていきます。

展示されている零戦は、1944年サイパン島で米軍によって捕えられた零戦52型機で、1957年から米国のプレーンズ・オブ・フェーム航空博物館(POF)が所有している。POFが所有した当時、尾翼は何度も塗装が塗り重ねられていたが、ていねいに塗装を取り除いていくと、61-120の機番が現れた。

POFで展示中の零戦61-120号機
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1943年5月に、61-120号機は中島飛行機小泉製作所(群馬県)で製造された機体だった。
零戦生産機数の6割強は中島飛行機、4割弱は開発メーカーの三菱重工。

1943年の中島飛行機小泉製作所の零戦製造ライン
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1943年6月、零戦61-120号機は、第261航空隊へ配属された後、硫黄島で1944年2月まで留まっていた。翌月、第261航空隊は、サイパン、テニアン、ロタ、パラオ島防空のため、サイパン島に移動し、第一飛行場(サイパン島アスリート飛行場)を基地とした。
*「61-120」の「61」は「第261航空隊」の下二桁の「61」

1944年6月、米国海兵隊によってアスリート飛行場は占領され、零戦61-120号機を含む零戦13機はそっくりそのまま捕獲された。この中には現在スミソニアン航空宇宙博物館に展示されている零戦61-131号機も含まれていた。

1944年7月、捕えられた零戦は米軍航空母艦に載せられて米国本土に輸送された。61-120号機は米国各地の基地で飛行テストを重ね、多くのテストパイロットが操縦桿を握った。パイロットの中にはチャールズ・A・リンドバーグも含まれていた。
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ノースアイランド海軍航空基地でテスト飛行中の61-120号機。
(尾翼にTAIC5と記されている。TAIC:米海軍航空情報部)
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1944年11月30日、テスト飛行が一通り終了した。4ケ月ですべての秘密がおばかれた零戦はその後「余剰品」としての宣告を受けた。

1946年、米国一般市民が初めて61-120号機に触れることとなったロサンゼルスのエアーショー。
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1957年、スクラップとなりうる運命の零戦61-120号機をPOFが入手した。以降、米国内の技術者、各博物館、工場をはじめ、零戦設計者の堀越二郎氏の協力も得て復元作業が行われる。エンジン、電気系統、油圧系統などのオーバーホールや強度確保のための主翼桁の復元などが行われた。

オーバーホールしたエンジンが初めて期待に取り付けられた。
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1977年11月、栄エンジンを試運転、翌年の1978年6月、33年ぶりの「再」初飛行に成功。以後、今回の来日以前に日本に二度の里帰り飛行を実施している。

1977年、POFスタッフによるエンジンの初試運転。
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1978年、カリフォルニア州チノ空港を飛び立った61-120号機。33年ぶりに大空を舞った。
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○ 2012年11月26日、そぼ降る雨の中、コンテナ二台に載った零戦が所沢航空発祥記念館に到着。8時過ぎから翌日の組み立て見学会に向けての準備作業が行われた。

左のコンテナに胴体後半とエンジン、右のコンテナに主翼と胴体前半が載る。
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主翼と胴体前半のユニットがコンテナから姿を現す。
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胴体後半と水平尾翼のユニットがコンテナから引き出される。
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日米両軍の標識が主翼下面左右に配された1944年に飛行中の61-120号機。
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現在の61-120号機
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傘をさす零戦の胴体前半と後半の接合作業。
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主脚がゆっくり引き出される。
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「着地」した瞬間
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15時半、全て無事格納完了。
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○ 2012年11月27日、前日と打って変わって晴れ渡る空。本日の予定は、機体にエンジン、尾翼等の取り付け作業の組み立て見学会。

機体に取り付ける栄エンジンに付いたオイルを拭い取る。
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午前9時46分、見学者の待つ舞台に向けて零戦発進。
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栄エンジンを機体に設置。
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エンジンを数分始動、白煙を上げながら乾いたエンジン音が響く。
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エンジンを積んで重くなった零戦を押して格納完了。
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次回は、零戦以外の航空発祥記念館に展示されていたものを掲載します。
(続く)




来日した零戦を見に行く(1)/所沢航空発祥記念館

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2月13日(水)に、零戦を見に行きました。
現在世界でただ一機の飛行可能な零戦がアメリカにあり、それが来日したということで、飛行機ファンにはたまらないものです。
2012年12月1日から2013年3月31日まで公開ということになってます。
エンジンを回してみせるイベントもあるようですが、その時にはものすごい混雑で何時間もまえから並ぶことになるようで、私は空いている時をねらって出かけました(笑)

駐車場に車を停めて、入り口に向かって歩くと、航空発祥記念館の横にデカい機体が置いてありました。
C-46中型輸送機(天馬)です。
別名「空のデゴイチ」。この機体は航空自衛隊入間基地で使用していたもの。
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シリンダーをイメージさせる「所沢航空発祥記念館」
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入り口横には「零戦来日!」の大きなポスターが。
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館内には、ところ狭しと機体が並んでいます。
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その様子については、後で述べるとして、一番奥の零戦展示会場に急ぎます。
途中に、零戦の見事な模型があったので、これは紹介しておきます。
1/16模型で、関口 劯氏寄贈。
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会場に入ると、零戦のまわりを上からとかあらゆる方向から見られるようになっていました。
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この零戦が、無傷の状態で米軍に捕獲されたため、ほぼ当時の部品の状態で、飛行可能な状態で今あるわけですが、その説明はパネルで丁寧に説明されていました。それは次回説明するとして、まずはじっくりと周りから眺めます。
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真正面から眺めると迫力あります。
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後ろ姿もいいですね。
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高い所から見下ろすこともできます。
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「海軍零式艦上戦闘機52型」の緒元
全幅:11.0m
全長:9.1m
最大速度:564.9Km/h
航続距離:1,920Km
エンジン:栄21型空冷複列星型14気筒1,100馬力
乗員数:1名

まずはプロペラとエンジン
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プロペラが良い形してます。
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隙間からエンジンを覗き込みます。
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独立型の排気口
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水滴型のキャノピー
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キャノピー越しに運転席を覗き込みます。
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横に展示されていた計器盤。
左が零戦21型のもの、右が零戦62型のもの。
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格納式の前輪。
左右同時でなく、順番に格納するようにして、油圧ポンプを小型化している。
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後輪、下に鏡を置いて内部が良く見えるようにしてある。
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装備の20mm機銃。
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主翼先端が丸になっているところが、この零戦の人懐っこさである。
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沈頭リベットのせいで、どこも滑らかな表面になっている。
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日の丸の後ろの星が、現在の所属を表していてちょっと悲しい。
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(続く)


ブラームス/交響曲第1番ハ短調作品68

20130213

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指揮:サイモン・ラトル
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
録音:2008年11月 ベルリン、フィルハーモニー

「ブラームスはお好き?」と問われれば、「もちろん!」と答える私だ。
去年だったか、映画「クララ・シューマン愛の協奏曲」を見たが、あのなかのブラームスはあきれるほど行動的で、クララをもベッドに引きずりこんでいたが、あんなはずはないのだ。
作品から受けるイメージとか、いろんな記事を読む限りでは、ブラームスは実に紳士的で奥ゆかしすぎるほどの好人物。
クララとの仲を考えると、じれったくてたまらない感じなのだ。私なら、何度でもクララに迫っていたに違いない。

問題は、この曲である。
口の悪い人は、「ベートーベン交響曲第10番」と言うが、私には「ああやっぱりブラームスだなあ」と聴こえる。

ブラームスは、ベートーヴェンの9つの交響曲を意識するあまり、管弦楽曲、特に交響曲の発表に関して非常に慎重であったことで知られている。最初の交響曲は特に厳しく推敲が重ねられ、着想から完成までに21年という歳月を要した労作である。
ハンス・フォン・ビューローに「ベートーヴェンの交響曲第10番」と呼ばれ高く評価された。「暗から明へ」という聴衆に分かりやすい構成ゆえに、第2番以降の内省的な作品よりも演奏される機会は多く、最もよく演奏されるブラームスの交響曲だ。

第二楽章は美しくて好きな楽章。次第にロマンティックでうっとりした気分に入っていき、ヴァイオリン、ファゴット、オーボエ、によって非常に美しいメロディが出てくる。そして弦楽合奏による陶然とするような美しい部分が続く。

そして、なんといっても第四楽章がいい。
序奏部は威厳あふれる堂々とした気分で始まる。
木管楽器などを中心とした高揚感のある部分の後,ティンパニの連打になり、それが弱くなった後,有名なホルンのソロの部分。このメロディは,ブラームスがクララ・シューマンに贈った歌曲の断片のメロディ。
ちなみにこの歌曲の歌詞は「山の上高く,谷深く,私は1000回もあなたにお祝いのご挨拶をします」というもので,ブラームスのクララに対する情熱が溢れたもの。
そういうつもりで聞くと非常に情熱的にも感じられる。
このメロディがフルートに清々しく引き継がれていく。


で、サイモン・ラトルですが、ブラームスの交響曲4曲についてこんなふうに語っています。
「交響曲の形式をロマン派時代に持ち込むこんだ新古典主義者だ。 ワーグナーのトリスタントとイゾルテはブラーム・交響曲第1番の10年前に作曲されていて、ワグナーのオペラより古典的な印象を受ける。 ドイツ的精神に満ちていて、遠くから聞こえるホルンの音などでね、音で森を表現しようとした。欠けているものはドイツ的なパトス(熱情)だ。そして、感情を派手に表現するのが嫌いだった。」

ラトルは、全体としてはむしろやや遅めのテンポで響きも華麗になりすぎないよう抑え気味にしつつ、強奏では大迫力をきかせています。
ベルリン・フィルの見事な技量とパワーを基に、ブラームスの音楽の精妙な美の表現と深い響きの雄大な演奏を実現していると思います。

音が実にきれいな録音なのも、何よりです。


名君の碑(いしぶみ)/中村彰彦

20130212

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名君保科正之のことを知ったのは「天地明察」でした。
そしてNHK大河ドラマ「八重の桜」で「会津魂」の源泉として、しばしば保科正之の名があがります。
それで、この本を読んでみました。

「天地明察」では、安井算哲が会津の城にて会った時の、保科正之の人となりを作者冲方丁は「座相」で語っています。その姿勢の自然なること、軽やかでまるで畳の上に「浮いて」いるかのごとく見えた、と書いています。

今回、この本を読んで保科正之のことを詳しく知ってみると、「己を空しくして他のために尽くしきった」人となりを「座相」で、実に適切に表していたなあ、あらためて感じ入りました。

二代将軍秀忠のご落胤として生れた幸松は、信州高遠の保科家を継ぎます。やがて異母兄である三代将軍家光に引き立てられ、幕閣に於いて重きをなすに至ります。会津へ転封となった後も、名利を求めず、傲ることなく、「足るを知る」こそ君主の道とした清々しい生涯を、時に熱く、時に冷静に描いています。

まずは、保科正之は生まれなかったかも知れない、という驚愕すべき話が登場します。
板橋の近在に田畑を開いた、もと小田原北条の武士の娘、お静が江戸城に奉公にあがり、あろうことか秀忠の手がついて、子供ができる。
しかし、正室お江世の方の迫害が厳しく、思い余ったお静は、宿下がりをして子供を堕してしまう。
お静は、なんとなくこれでもう子供は出来ないと安心していたら、またもや身ごもってしまった。
今度は、周囲に知れる前に、奉公辞退を願い出て、実家に戻ってしまう。
お静は密かに子供を産んで育てようと思ったのだが、父親と兄は、また正室お江世の方が刺客でも送り込んでくるのではないかと心配し、今回も堕せとお静に迫る。
そのとき、お静の弟である才兵衛が堕すことに反対してくれて、お静は子供を産むことになる。
その子が、のちの正之、幼名幸松である。
保科正之の生前の大恩人が存在するのだ。

保科正之が養子となって、信州高遠で育ったことを知って嬉しくなりました。
桜の高遠だけでなく、保科正之を育てた高遠、とまた一段と高遠が好きになりましたね。

その人柄はまさに「忠義」の一語です。3代将軍家光の異母弟でありながら、それを利用するような傲慢さも無く、むしろ兄に迷惑をかけない、兄のために家族をもなげうって尽くす心。加えて藩政における数々の政策と先見の明。今の政治家、特に地方の首長にはぜひ読んでもらいたい一冊です。
「仁」の心で政治や民生に一途に挑むその姿と江戸幕府の礎を築いたその功績は抜群といえます。
現在の政治家では、この事績の一つでも成功させることができるかどうか疑問です。
混迷を極める今の政治の舞台に、もしこの人がいたらどうなるのだろうかと想像してしまいます。
利権の代弁者ばかりの、政治家ではない「政治屋」ばかりが目につく国会。


また、この本を読んで感じたのは、正之の生涯は恵まれていたなと、それは家光の人を見る眼があったればこその地位だったから。家光もたいした人物でした。
この辺も強く感じました。

家光の臨終の直前、家光に呼ばれて参上した正之に家光は言う。
「ひ、肥後よ、弟よ。そ、その方、余の恩を忘れてはおるまいの」
「はい」
正之は頬に熱いものが伝うのを感じながら、力をこめてうなずいた。
「知ってのとおり、大納言はまだ11歳じゃ。そちに頼みおくぞ」

将軍の使者として、朝廷に参上した時、朝廷は正之に「従三位に叙し、左近衛権中将に任ず」と詔した。しかし正之は、奉答の猶予を願って退出してしまう。
部下の田中三郎兵衛が後学のために教えをこうと、「鎌倉の世に、九郎判官が何故に滅んだか思い出せ。将軍家のお許しもなく、官位を頂戴できるか」
この時、将軍家綱は13歳である。
実質的には正之が政治を動かしている状況である。それでも、この謙虚な態度を取り続ける。

保科正之が江戸を、どんなふうにしたかというと。
これ以前の多摩地方は見渡す限りの武蔵野の原野のうちに、水利もないため茫漠たる荒れ地が広がるばかりだった。
そこに、正之は玉川上水を通し、今日も東京都民に飲み水を供給しているのである。

振袖火事の際、幕府の米蔵が焼失の危機に面したとき、武家火消の手当てが無理な状況を見て、即座に米蔵の開放を命じ助かった米は町民に開放することを約束して、町民に火を消させるという逆転の発想をしてみせた。
これ以後、火消の組織化を行う。

振袖火事の大火の後、米価の高騰をみて、米七斗を金一両以上で売ってはならぬと触れを出し、ここで逆転の発想をしてみせる。
江戸に滞在中の大名を一時的にみな、国に帰してしまった。従う者たちの人数も入れると相当な人口減である。

江戸再建計画の指揮をとる。
両国橋の架橋。火除け地として上野広小路を設けた。大名を郊外に移転。神田川の拡張、掘割の開削。

焼失した江戸城天守閣は、もうそんな時代でないとして再建をしないことにした。

極め付きは、政治からの引退を決意したとき、それ以後の幕閣の人たちの体制を守るため、正之が幕政に関与した書類は全て焼かせ、正之が政治に関与した痕跡を消してしまった。
私もそうだが、人間という者は、自分がこういうことをしたという記録を残したがるものである。
正之の「滅私奉公」のかたちは毅然としてゆるがない。
私なんぞは、頭を垂れて反省しきりである。


ヤオコー川越美術館

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この美術館は昨年の春にできていたようで、最近知ったので、2月9日(土)にカミさんと買い物の後行ってきました。
場所は、川越博物館や氷川神社の近くだとわかっていたのですが、住宅地の中にあるためたどりつくのにちょっと迷いました。
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建物は、有名な建築家の伊東豊雄氏の設計によるもの。
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この日は風が強くて、建物の周りの水が波立っていた(笑)
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エントランス
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中は、2つの展示室、エントランス、カフェと休憩を兼ねたラウンジ、の4つの空間で構成されています。
ラウンジに大きな櫻の絵「爛漫」が飾られていました。
この写真には写っていませんが、この左側に、窓に沿ってテーブルが4つあり、そこでコーヒーなどを飲みながらこの絵を鑑賞できます。
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この美術館は「三栖右嗣記念館」となっています。
株式会社ヤオコーの実質上の創業者である故川野トモ名誉会長が30年近く前、三栖右嗣氏の個展で20号のコスモスの絵を求めて以来、家族ぐるみで三栖右嗣氏と親しくお付き合いをしていたそうです。
三栖右嗣氏は、日本洋画壇を代表する、知る人ぞ知る優れた画家。昭和57年から埼玉県比企郡玉川村(現ときがわ町)に移り住み、創作活動を続けていたとあり、ビックリしました。

この玉川村ですが、ここにある工場に私はずいぶん長く通っていました。
当時の私の仕事は、生産設備の設計、導入、設置、維持をしていましたから、この工場の立ち上げから関係していて、そのせいもあり、その工場、まわりの土地にとても愛着があるところです。

そのせいもあり、絵もかなり好みでもあり、すっかり三栖右嗣のファンとなりました。
2010年に82歳で亡くなられているのは残念です。

三栖右嗣氏略歴
1927(昭和 2年)神奈川県に生まれる。
1952(昭和27年)東京藝術大学(安井教室)卒業。
1972(昭和47年)アメリカにアンドリュー・ワイエスを訪ねる。
銀座・飯田画廊にて昭和51年(1976)まで毎年個展。
1975(昭和50年)沖縄海洋博覧会「海を描く現代絵画コンクール展」に『海の家族』を出品、 大賞受賞。沖縄県立博物館蔵。
第19回安井賞展に『老いる』を出品。安井賞受賞。東京国立近代美術館蔵。
皇太子殿下(現:天皇陛下)依頼により『沖縄の海』を制作。東宮御所蔵。
毎日新聞社よりカラーリトグラフ四曲一双屏風『紅梅図』刊行。
「日本秀作美術展」<読売新聞社主催>に『富良野風景』を出品。
現代作家デザインシリーズ「三栖右嗣展」<朝日新聞社主催>。
1990(平成 2年)「花のある名作美術展」に『ナガールの花束』出品<NHKサービスセンター主催>。
緞帳『爛熳』を制作<和光市文化センター>。
1994(平成 6年)緞帳『薫風』を制作<玉川村文化センター>。
1996(平成 8年)『爛漫』500号を制作<(株)ヤオコー本社>。
リトグラフの2世紀記念展に招待出品<フランス>。
2010(平成22年)4月 逝去 享年82歳

「爛漫」 油彩 500号
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「富良野麦畑」 油彩 120号
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「パリの風景」
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「秋日」
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長野の林檎園シリーズのうちから
「枯草の上」
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畠山記念館/「春を祝う」展

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2月3日に、富岡八幡宮境内で「深川めし」を食べた後、「高輪台」まで地下鉄で行き、そこから歩いて5分ほどの畠山記念館に行きました。
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「春を祝う-仁清・乾山・光琳-」展です。
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出展数は少ないですが、見ごたえのある品ばかりでした。

白梅模様小袖貼り付け屏風/尾形光琳
尾形光琳が描いた小袖を屏風に張り付けたもの。
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布袋図/尾形光琳
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赤楽茶碗 銘 「李白」/本阿弥光悦
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結鉾香合/尾形乾山
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錆絵富士山香炉/野々村仁清
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展示を見終わったあと、庭を散策しました。茶室が多かった。

浄楽亭
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名月軒
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樹齢300年の松
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樹齢250年のモチノキ
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牛がうずくまった感じの石で、いいのがありました。
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富岡八幡宮と深川めし

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2月3日は、カミさんが介護から解放される日で、一日案内役です(笑)
深川めしを食べたいというので、富岡八幡宮に行きました。

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富岡八幡宮は、別名を「深川八幡」ともいいます。
建久年間に源頼朝が勧請した富岡八幡宮(横浜市金沢区富岡)の直系分社で、大相撲発祥の地。
主祭神は応神天皇(八幡神)
相殿神は、ずいぶんいます。神功皇后、仁徳天皇、天照皇大神、常磐社神、武内宿祢命、日本武尊、天児屋根命、竈大神。

鳥居をくぐってすぐの所に、伊能忠敬の銅像が建っています。
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近代日本地図の祖である伊能忠敬は近くの黒江町(現在は門前仲町1丁目)に隠宅を構えており、全部で10回の測量旅行を企画しましたが、遠国に出かけた第8回までは、出発の都度必ず、内弟子と従者を率いて富岡八幡宮に参詣して、無事成功を祈念したのち、千住、品川宿など測量開始地点に向かって歩き出したということです。
「天地明察」の小説のなかでも、安井算哲が「北極測地」の測量に参加した際、一行がここに集合して、富岡八幡に参詣後出発していますね。

銅像の傍らに建てられたGPSによる国家基準点(三等三角点)もあります。
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日本最大の神輿とされている一の宮神輿が展示されていました。
あまりの大きさに1991年(平成3年)に初渡御が行われただけで以後は展示のみらしいですね。
重量が4.5トン。鳳凰の眼は4カラットのダイヤです。
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狛犬
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社殿は、天和3年に焼失し、元禄16年には地震により損壊し、大正12年の関東大震災でも損壊し、さらに空襲でも被害を受けるなどし、再建や修復を繰り返したようです。
現在の社殿は昭和31年に造営され、鉄筋コンクリート製。
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この日は、15時から豆まきということで、舞台が用意されていた。
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江戸勧進相撲の発祥の地としても知られ、しばしば境内で本場所も開催されました。特に明治維新以降、幕府や大名家の加護を失った相撲界が、神道との関わりを強調することで生き残りをはかったためもあり、相撲との結びつきが強まったようです。現在も新横綱誕生のおりの奉納土俵入りなどの式典が執り行われています。

大関力士碑、巨人力士身長碑
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横綱力士碑、超五十連勝力士碑、出羽海一門友愛之碑ほか、相撲にまつわる数々の石碑が建っています。
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力持ち碑、力石
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七渡神社
御祭神は市木嶋姫命。
八幡宮が創祀される以前から祀られる地主神。関東大震災・東京大空襲の災難もくぐりぬけ、このときに弁天池に避難した人は一命を取りとめたといいます。また、ご祭日にはお使いの白蛇が出てくるという話もよく聞かれ、神社の職員も度々目にしているそうです。
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鳥居をくぐってすぐの所に、三猿なので庚申塔だと思うが「針塚」とあった。
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弁天池を渡っていきます。
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きれいな社殿です。
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永昌五社稲荷神社
御祭神は倉稲魂命。
五穀豊饒・商売繁盛の神様として、特に地元の肥料商関係者から絶大な信仰を集めています。近隣の稲荷社五社が合祀された神社だそうです。
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狛犬が二組置いてありましたが、とても良い感じです。
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御神木のいちょうの木
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さて、いよいよ「深川めし」です。富岡八幡宮の境内に有る「深川宿」というお店で食べました。
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ここ深川は、江戸時代は漁師の町として栄え、江戸前の魚貝類や海苔などを捕る漁師さんたちが大勢いました。 特に、良質のあさりやカキが沢山捕れ、それらは深川名物とされていたのです。
忙しい漁の合間に手早く作れ、しかもおいしく栄養価の高い「深川めし」は、漁師の日常食としてもてはやされました。
「深川めし」には、もう一つ、あさりの炊き込みご飯もありますが、それは大工などの職人さんが弁当に持っていけるものをという事で、生まれたと言われています。

ということで、「深川めし」と「あさりの炊き込みご飯」がセットになったものを食べました。
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美味しかったですね。
食の細いカミさんが完食しましたから。


ヘンドリクス・カリーバー/ポークカレー

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2月2日に、日本青年館で法隆寺の仏像の講演を聴きましたが、その前にここでカレーを食べてから行きました。

千駄ヶ谷から、外苑西通りをぶらぶらと歩いて、霞ヶ丘団地交差点と仙寿院交差点の間、ビクターのスタジオ脇にあります。
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名は天才ギタリスト、ジミ・ヘンドリックスからきてるそうです。
当然ながら、BGMはジミヘンでしたね。

ランチメニューは「チキンカレー」「野菜カレー」「キーマ・マトンカレー」「日替わりカレー」でした。
日替わりカレーは、この日は「ポークカレー」でした。
たしか、事前に調べたとき、ポークのデカい塊の記事が記憶にあったので、これにして、1/2ナン1/2ライスでオーダーしました。
これは大正解(嬉)
すごいカタマリだった!!
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カレーは、スパイス感はしっかりしていて、インドカレー的ではあるんですが、どこか日本的。
つまり、しっかりこなれた味だということです。

角煮は、柔らかくて美味しかった。
スプーンで楽にほぐせたから、かなり煮込んであったと思います。
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付けてあったピクルスがよかった。
大根、にんじん、キノコ、ごぼう、蓮根など。
いかにも自家製といった感じで、ほんのりとした酸味が美味しかった。
このピクルスで、好感度がぐぐーーっとアップしました(笑)

夜のメニューが、壁に書き出されてあったのですが、
非常に魅力的で、今度ぜひ夜に食べに来ようと思いましたね。

あと、奥のボックス席の壁に、横尾忠則が高倉健を描いた「止めてくれるなオッカサン」の有名なポスター、あれにプラスアルファした、バカデカイパネルが飾ってあって、これにしばは見とれてしまった。
いかにもジミヘンぽかったな(笑)


算数学習支援

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今日は雪の予報で、前日からテレビで大騒ぎしていたが、道に積もるほどの雪でなくて良かった。
今日からある小学校のコーディネーターから要請があり、支援の応援に参加することになっていた。

そこの学区の中学のサマースクールの際に、どうも小学校で落ちこぼれた子が、そのまま中学でも落ちこぼれている、との問題提起があり、それを解消する支援活動なのである。

支援する内容は、高学年の算数の授業に入り込んで、遅れている子を重点指導するもの。

どういうやり方を取るのかな、と昨日もあれこれ予想して心配していた。
このあいだも、新聞やテレビで、問題を解くのに掛ける二つの数の順番が違っていたら×、これはおかしいと、大騒ぎしていたばかりである。

今日、参加してみたら何ということはなかった。
先生が解き方を説明して、それから教科書の問題を6問とか8問を生徒が解く。
それをボランティアが見守っていて、遅い子が解くのを手助けしてあげる、といったものだった。

今日は4年生のクラス二つを、それぞれの時限に支援。
授業は、「小数点がある数字の割り算」と、「四捨五入して二けたの概数を求める」問題だった。
遅い子といっても、いろいろな子がいる。
良く理解できていないから、答えに建てた数が小さいため割る数よりも大きい余りのまま、進めてしまう子。
4で割って見て、消して、5で割って見て、消して、6で割って見て、消して・・・・・
と一つ一つきちんとやっていくので、結果時間がかかってしまって間に合わない子。

少し見ていると、遅い子がわかるので、それからはマンツーマンみたいな形で助けてあげる。

できる子ができない子を助けてあげるシステムになっているらしくて、ボランティアの手が回らない時は、子供同士で助け合っている。
とてもほほえましい。

問題が解けると、子供が嬉しそうな顔をするので、とてもかわいい。
子供の笑顔はなによりも宝だ。

今日一日だけではなんともいえないが、いまの算数は大変みたいだ。
ちょっと解くのが遅い子は置いてけぼりになってしまう感じがした。

今日の支援では、結局全員の生徒が全部問題を解けた状態で終わったので、よかった。

ほんわかした気分で帰途についた。


平家物語を聴く

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2月2日の夜、狭山市駅前のコミュニティホールで「平家物語」を聴きました。
17:30開場、18:00から開演ということだったので、17:15くらいに会場に行くと、そんなに並んでいなくて、最前列に座ることができました。200人くらいの人が聴いていたと思います。

語り・琵琶演奏:櫻井亜木子
琴伴奏:大平光美

プログラム:
1.那須の与一
2.一ノ谷合戦より敦盛
(休憩)
3.祇園精舎
4.壇ノ浦
5.司会の方のピアノと琵琶、琴で2曲演奏

櫻井亜木子さんのプロフィール:
東京都出身。1999年東京音楽大学音楽学部音楽教育学科卒業。在学中に薩摩琵琶を田中之雄氏に師事。
2000年NHK邦楽技能者育成会第45期生卒業。同年、桐朋音楽大学短期学部・オペラコース科目等単位履修生卒業、湯西川・平家落人大祭にて演奏、京都・六波羅蜜寺御開帳行事にて奉納演奏。2001年ブダペスト・ジャパンフェスティバルにて演奏。2002年壇ノ浦・赤間神宮耳なし芳一祭にて奉納演奏。2003年壇ノ浦・赤間神宮先帝祭にて奉納演奏、ブダペスト・スプリングフェスティバルにて演奏。
国内外で幅広い演奏活動を行っている。

大平光美さんのプロフィール:
幼少の頃よリビアノをはじめる。12歳より山田流筝曲の手ほどきをうけ、平成8年より生田流筝曲を師事。NHK邦楽技能者育成会第45期卒業。第4回賢順記念全国筝曲コンクール入選。彩の国さいたま県民芸術文化祭会長賞受賞。都営大江戸線開通祝典演奏。サッカーワールドカップ関連式典演奏。アイルランド大使館主催・大統領来日レセプションコンサートにて「アイリッシュケルト音楽の至宝・Altan」 と共演。
独自の音世界の創造とジャンルを逢えた活躍をしている。


日本琵琶楽コンクールで日本一になった鶴田流琵琶奏者、櫻井亜木子さんと箏弾き語りシンガーソングライターとして活躍中の大平光美さんとで、薩摩琵琶と琴による、美しく艶やかに、勇ましく雄渾に、心に木霊する典雅な調べ「平家物語」の世界を楽しむ、というものでした。

琵琶といえば平家物語と思い浮かべますが、櫻井亜木子さんは平家落人の里・日光市湯西川温泉で、琵琶語りを聴かせているそうです。

琵琶のバチが振られると同時に、一気に平家物語の世界へと引き込まれました。
演奏は、バチで弦を弾き、こすり、叩き、引っかけ、幾種類もの音を放ちます。圧倒的な迫力です。
琵琶の魅力は特有の音色にあります。霊的なものさえ感じさせられます。

櫻井亜木子さんは、サービス精神旺盛な方で、楽器としての琵琶について紹介し、薩摩琵琶の撥(ばち)が大きな理由など、興味深い話を次々としてくれました。

これは当日の写真ではありません、ネットで探してきた写真ですが、この二つの琵琶を曲により使い分けていました。
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そして、物語の冒頭に置かれる有名な「祇園精舎」について、そもそもの意味するところや、祇園精舎の鐘の音がどういうものだったろうか・・・・・
実は瑠璃(ガラス)による風鈴のようなものであったかもしれない等の興味深い話しを、何種類かの鈴とか、あのユータローが持っている大きなシャンパンク゜ラスに水を入れた状態で縁をこすって出す音とか、実演を交えて解説してくれて、楽しかったですね。

やはり、「平家物語」はいいですねえ。


法隆寺の仏像の意味

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2月2日に、日本青年館大ホールで行われた、JR東海の奈良学文化講座「法隆寺、その祈りと仏像に秘められた謎」という講演会に行ってきました。
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これは往復はがきで参加申し込みをして、当日参加費1000円を払うというもので、定員は1360人でした。

講演は次の二つでした。
「法隆寺のみほとけと宇宙-釈迦三尊と救世観音、伝百済観音の造形について」/奈良教育大学教授・山岸公基氏

「歴史を遡って見る法隆寺の実相-平安・鎌倉時代の姿から」/実相寺住職&種智院大学前学長・頼富本宏氏

ところが、私がうっかりして、この日に二つの催しに申し込んでしまい、夕方から他の催しにどうしても参加したかったので、こちらの方は前半の山岸氏の公演のみ拝聴してきました。

内容は、法隆寺の仏像のなかで、釈迦三尊、弥勒菩薩、救世観音、及び伝百済観音が何を表しているか、というものでした。
その概要をここに述べておきます。


1.釈迦三尊像(西院金堂本尊)3躯 各銅造 鍍金 像高8&4c皿(中尊釈迦如来坐像)・
92.4c皿(右脇侍菩薩立像)・90.7cm(左脇侍菩薩立像) 飛鳥時代前期[契未年=推古天皇
31年(623)] 司馬鞍首止利作
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法隆寺金堂釈迦三尊像中尊は、須弥山上に位置づく釈迦如来を表現している。
釈迦の神格化の過程で、亡母摩那(マーヤー)への説法のため須弥山の頂、忉利天に上り、三道宝階を降下してインド北部サンカシヤに帰還した、との伝説が流布した。この伝説に基づいて須弥山上で説法する釈迦の図像が生み出され、婆婆世界最高の高山にあって精神世界を指導するブッダにふさわしい姿とみなされた。

須弥山とは、古代インドの宇宙観の中で我々の小宇宙、婆婆世界の中央にそびえる山で、日本には仏教の伝来に伴ってその観念が伝播した。『倶舎論』によれば、須弥山は二重デコレーションケーキのような形状の風輪、水輪、金輪の上面、四大海の中央に位置し、高さは八万由旬(8万×7.2Km)、婆婆世界最高の高山である。我々が住むのは須弥山の南、贍部洲(南閻浮提)であり、須弥山中腹には四天王天、山頂には忉利天があり、帝釈天をはじめとする神々が住む。
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2.弥勒菩薩(成仏後は弥勒仏)
中宮寺弥勒菩薩
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 釈迦の死後、後継者弥勒が兜率天での-生を終え南閻浮提に再生するまでには56億7千万年という法外な時間の経過が必要とされている。
兜率天での姿を表現する際には菩薩、下生し悟りを開いた後の姿を表現する際には如来としてあらわされる。弥勘を半跏思惟の菩薩として造形するのは中国南北朝時代にあっては非主流的で、三国時代の朝鮮半島、飛鳥~白鳳時代の日本列島には広く流布したが、おそらく兜率天で下界の南閻浮提の人々を気遣う姿として好まれたのであろうという。

3.観音晋薩立像(救世観音。東隣夢殿本尊) 木像(樟)飛鳥時代前期(6世紀末~7世紀前半)
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飛鳥時代前期の日本仏教の傾向から、『法華経』普門品の観音菩薩としてつくられた蓋然性が大きい。
衆生が苦悩を受けた際、一心に観音の名を称えると、観音はただちにその「音声を観じて」皆解脱することができると説かれ、万能の救済神として信仰を集めた。


4.観音菩薩立像(伝百済観音。現百済観音堂安置)1躯 木造(樟)乾漆盛上 彩色 像高210.9cm 飛鳥時代後期(7世紀中葉)【なお「百済観音」は20世紀以降の称であり、本像は朝鮮三国時代の百済とは無関係に近い。】
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『観無量寿経』の観音菩薩であると説明された。
観音菩薩は最初期には婆婆世界における万能の救済神として構想されたとみられるものの、かなり早い時期から、万能であるだけに活動の場が婆婆世界に限定されなくなる。婆婆世界の西、十万億土を隔てた阿弥陀(無量寿)如来の浄土、安楽世界(=極楽浄土)は、婆婆世界の衆生も「南無阿弥陀仏」と称えれば死後救いとられ成仏できる楽園で、観音菩薩はその教主阿弥陀の脇にも登場する。阿弥陀は別名の通り無量の寿命をもち、また婆婆世界の尺度からは法外とも思えろような偉大な体躯を持つ[『観無量寿経』真身観(十三観のうち第九)によれば、「仏身の高さは六十万億那由他恒河沙由旬(60万×10の60乗×10の52乗×7.2Km)、眉間の白豪は右に旋りて婉転し、(大いさ)五つの須弥山の如し」]とされ、『観無量寿経』の観音もこれに準じることとなる。


以上のような説明であったが、スケールを持ち込んで考えると、とてつもない寸法の世界となり、まさに宇宙的規模となっているのが、吃驚した。
仏像の前に立った時、ほんとうはこれだけの巨大なスケールを持った姿なんだと思って眺めたら、これまでとまったく異なって見えるかも知れない。

私は、いままでは梅原猛著の「隠された十字架-法隆寺論」を片手に法隆寺に行ったものだが、今度法隆寺を訪ねたら、ぜひとも今回の講義をもとにして仏像に会ってきたいと思った。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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