上野国式内社(2)/関八州式内社めぐり

20130331

29日の、所属する市の歴史クラブ企画の「関八州式内社めぐり」続きです。

美和神社
群馬県桐生市宮本町2-1-1
御祭神は、大物主櫛甕玉命で、素盞嗚命合祀されています。
大物主櫛甕玉命は大物主命の別名です。
『古事記』によれば、大国主神とともに国造りを行っていた少彦名神が常世の国へ去り、大国主神がこれからどうやってこの国を造って行けば良いのかと思い悩んでいた時に、海の向こうから光輝いてやってくる神様が表れ、大和国の三輪山に自分を祭るよう希望した。大国主神が「どなたですか?」と聞くと「我は汝の幸魂(さきみたま)奇魂(くしみたま)なり」と答えたという。『日本書紀』の一書では大国主神の別名としており、大神神社の由緒では、大国主神が自らの和魂を大物主神として祀ったとある。
ミシマノミゾクヒの娘のセヤダタラヒメ(勢夜陀多良比売)が美人であるという噂を耳にした大物主は、彼女に一目惚れした。セヤダタラヒメに何とか声をかけようと、大物主は赤い矢に姿を変え、セヤダタラヒメが用を足しに来る頃を見計らって川の上流から流れて行き、彼女の下を流れていくときに、ほと(陰所)を突いた。彼女がその矢を自分の部屋に持ち帰ると大物主は元の姿に戻り、二人は結ばれた。こうして生れた子がヒメタタライスズヒメ(イスケヨリヒメ)で、後に神武天皇の后となった。
大物主は蛇神であり水神または雷神としての性格を持ち、稲作豊穣、疫病除け、酒造り(醸造)などの神として篤い信仰を集めています。

この社の社伝によると、崇神天皇の御代に大和御諸山から勧請。
延暦十五年に官社に列した。
近世には、美和、三輪の社号を併用していたが、明治になり美和としたそうです。

ここには、沢山のお宮が並んでいました。左手から入ると美和神社で、境内左手には、八意思兼神社。境内を右手に歩くと、松尾神社の小祠があり、その奥に金毘羅神社。その右隣りに西宮神社があるという具合です。

左手から入りますが、鳥居の前の松の木には驚きました。
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鳥居の扁額
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美和神社の拝殿
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神紋は、三つ巴ですね。
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拝殿を開けてくださったので、覗き込むと本殿が高くなってるので、上る階段がありました。
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本殿
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八意思兼神社の前の灯篭が良かった。
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関東一社であるという、桐生西宮神社にもお参りしました。
桐生西宮神社は延喜式内上野十二社の一社美和神社の御祭神が大国主命である関係から明治三十四年十月摂津西宮神社の御分霊をいただき商業、工業、農業、交通、海運、漁業等に霊験あらたかな蛭子大神(恵比寿様)を桐生ケ岡公園に接する古木生い繁る美和神社の荘重な神域におまつりした神社です
此の西宮神社を関東一社と申します理由は蛭子大神を御祭神とする神社は桐生だけで各地の恵比寿様は国土開発等に御神徳のある大国主命又事代主命をお祀りした神社であり御祭神の相違から区別されて関東一社と称せられて居ります
十一月十九日、二十日の例大祭には近郷近在は申すまでもなく栃木、埼玉等隣接各県から参拝者は数十万を数え桐生全市に恵比寿講の雰囲気が溢れまれに見る賑やかな大祭典となります。
-境内案内板より-

境内の一番右手から上がります。
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狛犬
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拝殿
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大国神社
群馬県伊勢崎市境下渕名2827
御祭神は大國主命
配祀が、日葉酢媛命・渟葉田瓊入媛命・眞砥野媛命・竹野媛命・薊瓊入媛命
大國主命は有名なので省略し、配祀のうち日葉酢媛命について簡単に記しておきましょう。
日葉酢媛命は垂仁天皇の皇后です。垂仁天皇との間に景行天皇のほか2皇子・2皇女を産んでいます。
日葉酢媛命について有名な話は葬儀に関してです。葬儀にあたって、それまで行われていた殉死を悪習と嘆じていた天皇が群卿に葬儀の方法を問うと、野見宿禰が生きた人間の代わりに埴輪を埋納するように進言したため、その陵墓に初めて人や馬に見立てた埴輪が埋納され、以後も踏襲されるようになったといいます。

この神社については、垂仁天皇の御代、諸国に疫病が蔓延し、人々が死ぬ状況の中、天皇は諸国の神々に、その救済を祈った。東国へ派遣された、百済の車臨が、当地に来た時、御手洗池で手を洗っている白髪の老人と出会い、名前を尋ねると、「大国主命」であると告げる。
そこで、車臨が、人々の救済を願うと、老人の姿は消え、疫病もなくなったという。そこで、垂仁天皇は、車臨を賞賛し、当地を与えたといいます。

入り口に赤い鳥居があり、そこから満開の桜のトンネルの下に参道があります。
これには感激ですね。
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境内前にも、鳥居があり、また赤い鳥居があります。
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境内は広かったですね。
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拝殿はかなり大きく、背後の本殿も大きい。
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神紋は三つ巴です。
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本殿もりっぱな建物でした。
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そこに施されている彫刻も見事です。
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象の彫刻が多いのが特徴。
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御手洗池に祀られていた御手洗神社は、当社に合祀されていますが、手水舎の左側に「御手洗の石燈籠」と呼ばれる石幢があります。
この石幢は、昔近くの御手洗池畦で出土したと伝えられ、長い間人々の信仰を集めてきたそうです。
石幢は鎌倉時代に中国から伝えられ、日本では幢身にじかに笠を乗せた単制のものと、当石幢のような石燈籠ふうのものが発達した。石幢は仏教でいう「輪廻応報」「罪業消滅」という人々の願いをこめて建立されたものと考えられ、ガン部と称する部分を火袋として点灯し浄火とした。
輪廻車は、復元されたものだとか。
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本殿の真裏に大国主命と書かれた石祠がありました。この石祠が大國神社で、一番大事な場所でしょうか。
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大国主命の石祠の左右に数多くの境内社が並んでいました。
地神神社、牛頭天王宮、八幡神社、摩利支天宮、疱瘡神社、少彦名神社、西宮神社、弥都波能女神、八坂神社、諏訪神社、住吉神社、稲荷神社、多賀神社という多くの神が鎮座されていました。

その一部を掲載しておきます。
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倭文(しとり)神社
群馬県伊勢崎市東上之宮町字明神東380
御祭神は天羽槌雄命(あめのはづちのおのみこと)。
配祀が倉稻魂命、菅原道眞、豊受姫命、木花咲耶姫命、大己貴命、大山祇命、誉田別命、素盞嗚命、菊理姫命と実に多いです。
天羽槌雄命は、天照大神を天の岩戸から誘い出すために、文布(あや)を織ったとされる。文布は倭文布とも倭文とも書き、「シドリ」また「シヅリ」という織物である。同じ織物の神では栲幡千々姫命、天棚機姫命が挙げられるが、天羽槌雄神は機織りの祖神とされている。また倭文(しどり)氏の遠祖でもある。
信仰としてはどちらの名でも織物の神、機織の神として信仰され、全国の倭文神社、静神社、服部神社などで祀られています。

社前を小川が流れ、赤い欄干の小さな橋を渡ると境内です。
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朱の両部鳥居があります。両部鳥居の代表としては厳島神社のものが有名ですが、あまり見かけない珍しいものです。
しかも、これは瓦が載っている立派なものです。
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境内は、ちょうど桜が咲き誇り、とても良い眺めです。
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境内右側にも道路沿いに鳥居があり、そこからも出入りが出来ます。
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東鳥居から入るとすぐに石碑が並んでおり、双体の古い道祖神がありました。
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少彦名神も
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拝殿に赤城山等の山々と、上野国の各式内社が描かれた額が奉納されていた。
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右半分に、その日訪ねてきた赤城神社、賀茂神社、美和神社、大国神社、倭文神社が書き込まれています。
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神紋は、やっと鬼瓦にあるものを見つけました。
『神社名鑑』によれば、柏となっていますが、これはどうみても「抱き芭蕉」ですね。
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それから、朱印帳に押印する朱印ですが、石製で江戸時代以前から仕様されているという伝承のもので、中央に「蛇文字」でひらがなの「しとり」と書いてあります。
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本殿
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本殿脇にあった磐座
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「倭文神社の田遊び」というのがあります。
倭文神社の田遊びは、上之宮町の倭文神社で毎年1月14日に行われる田植えの予祝行事です。
笹竹を持つ祭員が笹竹を振り、ご神歌奉唱しながら鳥居と拝殿を3往復した後、町内を巡行します。昔は最後に参会者による笹竹の奪い合いがあり、この竹で養箸を作ると蚕が当たるとされていました。
この田遊びの、ご神歌は中世まで遡り、貴重です。
-案内板より-
案内板にあった写真
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田遊神事の神歌(案内板にあったもの)
これを、当会の説明担当の方が唄ってくれました。この神社の総代の方に教わったと思いますが、生で聞けてとても有難かったです。
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次回からは、下野の国を廻ります。

(了)



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上野国式内社(1)/関八州式内社めぐり

20130330

所属する市の歴史クラブ企画の「関八州式内社めぐり」に参加しました。私は今回から参加ですが、「上野国式内社」の三回目にあたります。

赤城神社(三夜沢)
群馬県前橋市三夜沢町114  
御祭神は大己貴命(大国主命)、豊城入彦命

豊城入彦命は崇神天皇の第1皇子で、東国の治定にあたったとされ、記紀には上毛野君や下毛野君の始祖とあります。
『日本書紀』によると、崇神天皇は豊城命(豊城入彦命)と活目尊(いくめのみこと、後の垂仁天皇)に勅して、共に慈愛のある子でありどちらを後継者とするか決めがたいため、それぞれの見る夢で判断すると伝えた(夢占)。豊城命は「御諸山(みもろやま)に登り、東に向かって槍(ほこ)や刀を振り回す夢を見た」と答え、活目尊は「御諸山に登り、四方に縄を張って雀を追い払う夢を見た」と答えた。その結果、弟の活目尊は領土の確保と農耕の振興を考えているとして位を継がせることとし、豊城命は東に向かい武器を振るったので東国を治めさせるために派遣された。

赤城神社は論社であり、山頂大沼の畔の赤城神社、中腹の現在訪ねている当社、そして前橋市にある二宮赤城神社となっています。
赤城山の神、「赤城大明神」が存在するのですが、この扱いが時代によって揺れていたようです。
三夜沢のこの神社も、「あしき山霊の神」だとして一線を画したり、復古運動でまた祀ることが計画されたりと。
赤城大明神は、上野国の二之宮であるが、伝説では、本来、一之宮であったが、財の君である、貫前の女神を他国へ渡してはならないと、女神に一之宮を譲ったという。
さらに、赤城神が絹機を織っていて絹笳が不足したので、貫前の女神から借りて織り上げたという。

赤城神社境内より500m手前に「惣門」があります。
高麗門の形式です。
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その手前に映えている杉が、高尾山の有名な「蛸杉」そっくりだった。
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入り口には、白木の一の鳥居が聳えています。
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境内は広く、木々が茂って、鬱蒼とした空気に満ちています。
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狛犬
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拝殿
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神紋は「菊」
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中門と本殿
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本殿の千木と鰹木で、気になることがあった。
千木が「平削ぎ(内削ぎ)」となっていて、鰹木の数も8本と偶数である。
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普通平削ぎの千木、鰹木の数が偶数は祭神が女の神様の場合である。
男の祭神の場合は、千木は外削ぎ、鰹木の数は奇数となります。
ここの祭神は男の神様なのだが・・・・・・
合わない??
家に帰ってから、ネットでいろいろ調べると、やはりこれに疑問を呈している方が何人も居られました。
その中で、「赤城神社の主祭神である赤城大明神は元は赤城姫という人間だったそうで、要するに女神らしいです」とあったので、それで私も納得しました。
先に「赤城大明神」の扱いが変遷していると書きましたが、本殿は「赤城大明神がもともとの祭神なんだよ」と主張しているようでした。

中門の前に有名な俵藤太が献木したと伝えられる「タワラ杉」が三本聳えています。
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俵藤太といえば、竜神を助けて大ムカデを弓で退治した英雄。
赤城山大神(上野)と二荒山大神(下野)の神戦では、赤城山がムカデ、二荒山が蛇となり、結果、ムカデの赤城山大神が、弓で傷つき負けている。
が、これは二荒山側に伝わる伝承にすぎない。
俵藤太は、上野・下野両国の英雄なのです。

鎌倉時代、上野国(群馬県)東部から下野国(栃木県)南部にかけての地域は、幕府の弓馬の家として一目を置かれた大武士団の拠点でした。彼らはともに「秀郷流」を称していましたので、おそらく秀郷がムカデ退治の弓矢の名手「俵藤太」として説話の世界で活躍を始めるのはこのころからです。秀郷流武士団のなかでも赤城神社への信仰が篤かったのは大胡氏でしたが、富岡市一之宮貫前神社境内にある「藤太杉」にも同様な伝説が伝わっていることから、弓矢の名手秀郷へのあこがれは、中世の武将たちに共通する意識だったのかもしれません。
-境内案内より-

境内に入って右手に神池があり、その側に、神代文字の碑があります。
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『一般に日本民族は漢字が伝わる以前は、文字というものを知らなかったとされているが、伝説ではそれ以前に神代文字と呼ばれるものがあったといわれ、現在ははっきりしているものだけでも数種類にもなります。
この碑文は復古神道を体系づけ実践化し、又「神代日文伝(かむなひふみ)」の著作者で神代文字肯定者の一人でもある江戸時代の国学者平田篤胤の養子鐵胤が、上部の神文については、鐵胤の子延胤が撰文し、書は篤胤の門人権田直助によるものです。
神文については、対馬国「阿比留家」に伝わる神代文字(阿比留文字)で書かれ、復古神道の遺物として重要なもので明治三年三月に建てられました。』
(案内板より)
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神楽殿
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奉納額
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三夜沢赤城神社は明治初めまでは、赤城山頂にある、大沼、小沼への信仰から発した西宮と、地蔵岳信仰の東宮の東西雨宮が並び祀られていたが、現在は-社になっています。現在の社殿は明治になって東宮の地に造営されたもので、西宮の跡地には、鳥居の沓石一対が残っている。
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この灯篭が気に入った。
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賀茂神社
群馬県桐生市広沢町6-833  
御祭神は別雷神。
神名の「ワケ」は「分ける」の意であり、「雷を別けるほどの力を持つ神」という意味であり、「雷神」ではない。
『山城国風土記』逸文には、賀茂別雷命について次のような記述がある。賀茂建角身命の娘の玉依姫が石川の瀬見の小川(鴨川)で遊んでいたところ、川上から丹塗矢が流れてきた。それを持ち帰って寝床の近くに置いたところ玉依日売は懐妊し、男の子が生まれた。これが賀茂別雷命である。賀茂別雷命が成人し、その祝宴の席で賀茂建角身命が「お前のお父さんにもこの酒をあげなさい」と言ったところ、賀茂別雷命は屋根を突き抜け天に昇っていったので、この子の父が神であることがわかったという。丹塗矢の正体は乙訓神社の火雷神であったという。
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神紋は加茂葵(二つ葉葵)。
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本殿の彫刻が立派でした。
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これは猿田彦と天の鈿女ですね。(向かって左側面)
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背面
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背面の下部。おっと、仙人がオッパイ吸ってる(笑)
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右側面
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本殿の前には石燈籠が立っています。
永和4年(1378)に造立されたもので、年代が明らかなものでは桐生市最古の石燈籠だそうです。
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自然石に万葉集の歌を刻んだ金のプレートをはめ込んだものがありました。
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当時の漢字をあてた歌で、読んでもなかなかピンときませんでした。
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「万葉集巻第14、上野国相聞往来歌」というのを頼りに、ネットで探すと、ありましたね(嬉)
まったく、今のネット検索は、ほんとに頼りになります。

「新田山(にひたやま) 嶺(ね)には着かなな 吾(わ)によそり 間(はし)なる児らし あやに愛(かな)しも」
(作者不詳)。

(大意) (新田山の嶺(ね)が他の山と接していないように)共寝はしないが私に心を寄せ、皆から離れているあの娘が、なんとも言えず可愛い。

社殿の右側には座している香取神社・鹿島神社。
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左側には八坂神社。
三社並んでいるが、中央が元々賀茂神社に鎮座していた八坂神社とのことです。
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句碑の道がありました。
句が刻まれた石は河川にある天然の石だそうだ。
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その中から幾つか紹介。

「貞樹」とは、宮司の前原貞樹氏ではないかと思います。
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この「稲洋」という方は、わかりません。
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雪片の つれ立ちてくる 深空かな / 素十
高野 素十氏は、1893年(明治26年)茨城県北相馬郡山王村(現・取手市神住)に生まれる。東京帝国大学医学部に入学。法医学を学び血清化学教室に所属していた。同じ教室の先輩に秋桜子がおり、医学部教室毎の野球対抗戦では素十が投手をつとめ秋桜子が捕手というバッテリーの関係にあった。 1918年(大正7年)東京帝大を卒業。大学時代に秋桜子の手引きで俳句を始め、『ホトトギス』に参加し、高浜虚子に師事する。ドイツに留学し帰国後に新潟医科大学(現・新潟大学医学部)法医学教授に就任し、その後、学長となる。大学を退官後、俳誌『芹』を創刊し主宰する。
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(続く)


桜のトンネル

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入間川沿いに、家のすぐ近くを通っているサイクリングロードの桜のトンネルをカミさんと歩いてきました。
私が住んでいる、ニュータウンの横2Kmくらいが桜のトンネルになっています。
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場所によっては、覆いかぶさってきている感じのところもあります。
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けっこう家族連れで楽しんでいます。
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どこかの学生たちも、はしゃいでいます。
この直後、シャッター押しを頼まれました(笑)
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26、7年になると思いますが、樹も大きくなりました。
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幹から直接、思い切り大きな房で咲いていた。
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振り仰ぐと、実に気持ちいい。
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ピンクの蕾が、いい感じです。
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伸びる、伸びる。
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桜の花はかわいいですねえ。
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チャイコフスキー/交響曲第1番ト短調『冬の日の幻想』

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指揮:ヘルベルト・フォン・カラヤン
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団  
録音:1979年2月 ベルリン、フィルハーモニー

1866年1月にチャイコフスキーは、恩師アントン・ルビンシテインの弟ニコライ・ルビンシテインが設立したモスクワ音楽院の講師として招かれ、サンクトペテルブルクからモスクワに出ます。音楽院では和声と楽器法を教えることになっていたが、9月の開校までの間、貧しかったチャイコフスキーはニコライ邸の食客として過ごし、ニコライに勧められて交響曲を作曲しました。
交響曲が仕上がると、チャイコフスキーはサンクトペテルブルクのアントン・ルビンシテインやニコライ・ザレンパに楽譜を見せて意見を乞うた。二人はこれを酷評、チャイコフスキーは彼らの意見を取り入れて楽譜に手を加えて再び見せたが、二人の反応は依然として厳しいものでした(第2稿)。
チャイコフスキー26歳のとき。

チャイコフスキーは、8年後の1874年にこの曲を改訂します(第3稿)。
今日ではこの稿が演奏されている。

楽曲構成
第1楽章「冬の旅の幻想」 Allegro tranquillo - Poco piu animato
ヴァイオリンの弱いトレモロに乗ってフルートとファゴットが民謡風な第1主題を出す。木管に律動的な動機が現れ、これが低弦に移って進んでいく。ニ長調の第2主題はクラリネットで明るく出るが、やはり民謡風である。弦がトレモロを刻む小結尾では金管、ティンパニ、管による華やかな楽想となる。ア・テンポで展開部となり、主として第1主題を扱う。3小節の全休止後、再現部となる。第1主題は低音弦とホルンの和音により導入され、ヴァイオリンとヴィオラで、第2主題はト長調でフルートで奏される。小結尾も再現された後、第1主題によるコーダとなり、冒頭の楽想を再現して静かに終わる。

第2楽章「陰気な土地、霧の土地」 Adagio cantabile ma non tanto - Pochissimo piu mosso
序奏は弱音器を付けたヴァイオリンの柔らかく物語るような旋律。主要主題Aは、旋律の後半はハ短調に傾き、哀調を帯びたもの。はじめにオーボエ、二回目にチェロ、三回目はホルンでそれぞれ歌われる。この旋律は序曲『雷雨』作品76の中でも使用されている。ポキッシモ・ピウ・モッソの副主題(B)は主要主題の素材を用いた軽いエピソード的なもので、変イ長調でフルートにより奏されてからヴァイオリンに引きつがれる。まもなく主部が回帰し、今度は主要主題がヴィオラで展開的に取り扱われる。次いで副主題が変ホ長調で再現された後、主部が華麗に回帰する。ホルンにより主要主題が変形して奏され、クライマックスを作る。これが収束するとコーダとなり、ヴァイオリンの序奏主題が還ってきて締めくくる。

第3楽章 Scherzo. Allegro scherzando giocoso
木管の短い前奏につづいて、4部に分割されたヴァイオリンが軽快な主要主題を出す。この主題は1865年にチャイコフスキーが作曲した嬰ハ短調のピアノソナタ(作品80、遺作)の素材を用いている。主部は弱音主体で夢幻的な雰囲気をもつ。中間部では、ヴァイオリンとチェロがワルツ風に歌い、木管とホルンがこれに絡む。主部が再現すると、主題は今度は木管で奏される。コーダでは、中間部のワルツがハ短調で現れ、チェロとヴィオラが独奏でカデンツァ風に奏して歯切れよく終わる。

第4楽章 Finale. Andante lugubre - Allegro moderato - Allegro maestoso - Allegro vivo - Piu animato
序奏では、ファゴットが暗い動機を断片的に出し、これをヴァイオリンが受け取って、哀愁を湛えた旋律を歌う。これは、南ロシア・カザン地方の民謡「咲け、小さな花」に基づいており、この楽章で大きな役割を果たす。この動機を繰り返しながらト長調に転じてアレグロ・モデラートに速度を上げていく。高音弦の装飾を伴ってクライマックスに達したまま主部になだれ込み、第1主題が金管を伴って快活で華やかに出される。ロ短調で第2主題は序奏主題を行進曲調にしたもので、ヴィオラとファゴットによる。展開部ではまず序奏主題が現れ、次に第1主題の動機から現れた新しい旋律を対位法的に扱う。これが発展したところでそのまま再現部へ入る。第1主題は型どおり再現され、第2主題はわずかに木管に出るが、すぐに速度が落ちで序奏の再現となる。ここから次第に高揚していき、アレグロ・ヴィーヴォで長大なコーダに入る。序奏主題(第2主題)が全管弦楽で高らかに奏され、圧倒的なクライマックスを形成してゆく、ピウ・アニマートでさらに力と熱を加え、全合奏で壮麗に締めくくる。
(以上、WIKIから)


なんとも題名の通り憂愁でいかにもロシアの冬の風景が浮かんでくるような曲調。
もちろん彼らしい華麗なオーケストレーションはこの頃から健在であります。
第1楽章で、クラリネットが出てきたところで、いいなあこれは、と思ってしまいます。
第2楽章と第4楽章が好きです。第2楽章は美しくも哀しげなゆったりとした歌謡調のメロディーが絶品。第4楽章は、いかにもロシア民謡的な旋律の序奏と、弾けるようなアレグロとの対比が見事。そしてたたみかけるように盛り上げていくコーダにシビレてしまいます。

聴いているCDは、カラヤンとBPOのもので、「チャイコフスキー・コレクション/カラヤン&BPO(CD8枚組)」DG輸入盤に納められているもの。
後期三大シンフォニーは何度も録音しているカラヤンですが、前期三曲の録音は一度きりで、ベルリン・フィルの同曲録音も珍しいらしいです。
造型的にはやはり様になっているというか、第2楽章のホルンのソリに入る所などもケレン味たっぷりで聴き応えがあります。それとフィナーレはさすがにカラヤンらしい派手な響きが充溢しています。


宮沢賢治歌碑/秩父・野上駅

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26日に鉢形城で桜を撮ったあと、秩父鉄道野上駅に向かいました。
この駅のところにある宮澤賢治の碑を撮るためです。

宮沢賢治が初めて東京に出てきたのは、大正5年3月20日で、このときは盛岡高等農林学校の修学旅行でした。
そして、同じ年の7月末、再度上京してドイツ語講習を受けており、9月に岡高等農林学校の秩父への地質旅行に合流しました。
大正時代、岩手県の盛岡高等農林学校では、毎年のように秩父へ地質旅行を実施していました。
大正5(1916)年には当時、同校の2年生だった宮沢賢治が、翌年には賢治の無二の親友となった保阪嘉内が関豊太郎教授に引率されて、長瀞をはじめ秩父地域を訪れました。
長瀞での賢治については、既に記事にしています。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1110.html

この旅行については、萩原昌好という方が詳しく調査され、『宮沢賢治「修羅」への旅』(朝文社、平成6年)で、次のように推定されています。
○9月1日:午後7時発の列車で盛岡発。
○9月2日:在京中であった賢治は上野駅で合流し、熊谷へ。
○9月3日:熊谷から寄居を経て国神へ。
○9月4日:国神から馬車を利用し、小鹿野へ。
○9月5日:小鹿野から三峰山へ。小鹿野から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月6日:三峰山から秩父大宮(現秩父市)へ。
○9月7日:秩父大宮から本野上を経て帰途に。秩父大宮から保阪嘉内に葉書を出す。
○9月8日:盛岡到着。

このなかで、「本野上」とありますが、現在の野上駅は開業当初は本野上駅という名前だったのです。
秩父への旅行を終え、7月からの東京滞在へも終わりを告げて、盛岡に帰ろうとする時でした。
だから賢治の歌は、感傷的な歌になっています。
 「盆地にも 今日は別れの 本野上 駅にひかれる たうきびの穂よ」

秩父鉄道の野上駅です。
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駅の看板が傾いていないか?
筆頭株主の米投資会社サーベラスから路線廃止を迫られている動揺か?
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駅の待合室には、こんな看板がありました。
つつじの岩根山と七草寺の最寄駅ですね。
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賢治の碑は、駅舎横の桜の木の下にありました。
ここの桜は、まだまだですね。
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碑のところから、駅のホームの畑を見るともなしに見ると、あれっと思いました。
もしかして、とうきび、すなわちトウモロコシの畑かな?
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ホームに乗客が入ってきたので、電車が来ることがわかったので、待っていて碑と一緒に撮りました。うまく撮れましたね(嬉)
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脱線事故を起こして、休止していたSLがまた復活したというニュースが、このあいだ新聞に載っていましたが、この日は平日なのでSLはいくら待っていても来ません(笑)
この碑とSLを一緒に撮ったら最高ですね。


鉢形城の桜/埼玉県寄居町

20130326

以前鎌倉街道がらみで、鉢形城の写真を撮りにきたときに良い桜があるなと見つけたので、今年写真を撮るのを楽しみにしていました。
それで今朝、様子をネットで見ていたら、なんと21日の記事で「咲いた」とあったので、吃驚して飛び出したわけです。
予想よりもずいぶん早くて、今日も予定していた用事が3つばかりあったのですが、翌日以降に変更して車で飛んでいきました。
関越自動車道の花園インターを降りて、15分ほどで着いてしまいます。

鉢形城は、蛇行する荒川の流れに削られ、切り立った岸壁の上に築かれた多くの郭を持つ城郭です。
いつ築かれたかは明らかではありません。鉢形に陣をはった平将門を追って源経基が鉢形城に入ったという記録や畠山重忠が居城したという伝説がありますが、文明8年(1476年)に長尾景春が主家の山内上杉顕定に叛いて、鉢形城に拠点を構えたのが資料として明らかな最初の出来事・長尾景春の乱です。
この乱を鎮めたのは、扇谷上杉家の家宰を務めていた太田道灌でした。荒川の上流から兵を乗せた筏を流し、岸壁の下に着いた兵士が岩の壁をよじ登り城兵を慌てさせたといいます。
長尾景春の乱が治まった後は山内上杉氏の勢力下に入りました。
しかし、天文15年(1546年)にあったとされる河越夜戦で上杉方が北条氏康に敗れると、山内上杉氏の家臣で鉢形城の城主であった藤田重利は氏康の三男氏邦を娘の大福の婿に迎え、北条氏の体制に組み込まれる事になりました。氏邦は当初長瀞町の天神山城に入りましたが、永禄3年(1560年)には鉢形城を改修し居城としました
鉢形城は、戦国時代、豊臣秀吉の全国制覇に最後まで抗した小田原の北条氏の配下にあり、北条早雲から三代目の氏康の三男氏邦が守っていました。守兵は3500名。
この城を攻めた豊臣秀吉軍は、前田利家・上杉景勝・島田利正、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍、実に5万の兵でした。
北条方は、それに良く耐え、1ケ月の攻防戦を繰り広げたといわれます。

「のぼうの城」で忍城は有名になりましたが、同じ時期に鉢形城も豊臣方と戦ったわけです。

昨年の5月に「寄居北条まつり」を楽しみました。
その記事があります。下記をクリック。2回に分けて記事にしています。

http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-951.html

http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-952.html

さて、鉢形城に着きました。二の曲輪と三の曲輪近くの臨時駐車場に車を置きました。
この辺は良く整備されています。
二の曲輪から三の曲輪方面
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馬隠しから馬出への通路
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三の曲輪
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目的の桜が見えます。
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道路から初めて見える桜
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ぐるぐるっと、まずは四方から眺めます。

土塁の縁に生えています。
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逆光に映えるシルエット。
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土塁にしっかり根を下ろしています。
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エドヒガン桜、樹齢150年ほど。
この桜は、二本の幹が一旦伐採され、その株元から12本の芽が成長したものです。
見事な樹形ですよね。

12本の幹がしっかりと立っています。
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青空に映えています。
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エドヒガンの花を楽しみましょう。
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根本の辺には、オオイヌフグリがたくさん咲いていました。
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散り始めていて、そんなに多くないですが、桜の花びらもあります。
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桜のすぐ近くの土塁の北側の斜面に、カタクリも咲いていました。
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可憐な、いい形をしています。
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桜と一緒に撮ろうと頑張ったのですが、なかなか難しくて、これが精一杯でしたね。
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櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html






組立ロボット「ロビ」はじめました

20130325

ロボット「ロビ」を御存じでしょうか?
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週刊マガジンの付属部品を組み立てていくと、高度なロボットが出来上がると言う訳です。
テレビのCMや情報番組の特集で見た人も多いと思います。
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対話型、自立歩行、けっこう高度なロボットを作れます。
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こんなこともしますよ。
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それで、購読することにしました(笑)
1号は本屋さんで買ってきましたが、インターネットで定期購読を申し込み、家に送って来るので、買いっぱぐれはありません。
高度なロボットなので仕方ないとも思いますが、週刊で70回ほどといいますから、一年以上かかるというので、ちょっと気が遠くなりますが、それでもロボットを手に入れるためにがんばりましょう。
これから、その経過を記事にしていくつもりです。
現在、3号まで届いています。

3号までで、届いた部品です。
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1号についてきた、かわいいフィギュアの「ミニロビ」
お気に入りのアシモのモデルと。
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アシモのモデル、フィギュアたちと一緒に。
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3号までで、組みあがって実体をしのばせるパーツとしては、目から口までの顔の一部ですね。
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ミニロビちゃんを載せてみました(笑)
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古事記を知る(14)

20130324

3-3 天の石屋戸
爾速須佐之男命白于天照大御神。我心清明故。我所生之子得手弱女。因此言者。自我勝云而。於勝佐備。
此二字以音離天照大御神之營田之阿此阿字以音埋其溝。亦其於聞看大嘗之殿屎痲理此二字以音散。故雖然爲。天照大御神者登賀米受而告。如屎。酔而吐散登許曾。此三字以音我那勢之命爲如此。又離田之阿埋溝者。地矣阿多良斯登許曾。自阿以下七字以音我那勢之命爲如此登此一字以音詔雖直。猶其悪態不止而轉。
天照大御神坐忌服屋而。令織神御衣之時。穿其服屋之頂。逆剥天斑馬剥而所堕入時。天衣織女見驚而。於梭衝陰上而死。
訓陰上云富登故於是天照大御神見畏。閇天石屋戸而刺許母理此三字以音坐也。爾高天原皆暗。葦原中國悉闇。因此而常夜往。於是萬神之聲者狭蠅那須此二字以音皆満。萬妖悉發。
是以八百萬神於天安之河原神集集而。
訓集云都度比高御産巣日神之子思金神令思訓金云加尼而。集常世長鳴鳥令鳴而。取天安河之河上之天堅石。取天金山之鐡而。求鍛人天津痲羅而。痲羅二字以音科伊斯許理度賣命自伊下六字以音令作鏡。科玉祖命令作八尺勾璁之五百津之御須痲流之珠而。召天兒屋命布刀玉命布刀二字以音下効此而。内拔天香山之眞男鹿骨拔而。取天香山之天波波迦此三字以音木名而。令占合痲迦那波而。自痲下四字以音天香山之五百津眞賢木矣根許士爾許士而。自許下五字以音於上枝取著八尺勾璁之五百津之御須痲流之玉。於中枝取繁八尺鏡。訓八尺云八阿多於下枝取垂白丹寸手青丹寸手而。訓垂云志殿此種種物者。布刀玉命布刀御幣登取持而。天兒屋命布刀詔刀言禱白而。天手力男神隠立戸掖而。天宇受賣命手次繁天香山之天之日影而。爲鬘天之眞拆而。手草結天香山之小竹葉而。訓小竹云佐佐於天之石屋戸伏汙氣此二字以音而。踏登杼呂許志此五字以音爲神懸而。掛出胸乳裳緒忍垂於番登也。爾高天原動而八百萬神共咲。
於是天照大御神以爲恠。細開天之石屋戸而。内告者。因吾隠坐而以爲天原自闇。亦葦原中國皆闇矣。何故以天宇受賣者為樂。亦八百萬神諸咲。爾天宇受賣白言益汝命而貴神坐故歓喜咲樂。如此言之間。天兒屋命布刀玉命指出其鏡。示奉天照大御神之時。天照大御神逾思奇而。稍自戸出而臨坐之時。其所隠立之天手力男神取其御手引出。即布刀玉命以尻久米
此二字以音縄控度其御後方。白言従此以内不得還入。故天照大御神出坐之時。高天原及葦原中國自得照明。
於是八百萬神共議而。於速須佐之男命負千位置戸。亦切髭。及手足爪令抜而。神夜良比夜良比岐。


(読み)
 ココニハヤスサノヲノミコトアマテラスオホミカミニマヲシタマハク アガココロアカキユエニ アガウメリシミコタワヤメヲエツ コレニヨリテマヲサバ オノズカラアレカチヌトイヒテ カチサビニ アマテラスオホミカミノミツクダノアハナチ ミゾウメ マタソノオホニヘキコシメストノニクソマリチラシキ カレシカスレドモ アマテラスオホミカミハトガメズテノリタマハク クソナスハ エヒテハキチラストコソ アガナセノミコトカクシツラメ マタタノアハナチミゾウムルハ トコロヲアタラシトコソ アガナセノミコトカクシツラメト ノリナヘシタマヘドモ ナホソノアシキワザヤマズテウタテアリ アマテラスオホミカミイミハタヤニマシマシテ カムミソオラシメタマフトキニ ソノハタヤノムネヲウガチテ アメノフチコマヲサカハギニハギテオトシイルルトキニ アメノミソオリメミオドロキテ ヒニホトヲツキテミウセキ カレココニアマテラスオホミカミミカシコミテ アメノイハヤドヲタテテサシコモリマシマシキ
 スナハチタカマノハラコナクラク アシハラノナカツクニコトゴトニクラシ コレニヨリテトコヨユク ココニヨロヅノカミノオトナヒハサバヘナスミナワキ ヨロヅノワザハヒコトゴトニオコリキ ココヲモチテヤホヨロヅノカミアメノヤスノカハラニカムツドヒツドヒテ タカミムスビノカミノミコオモヒカネノカミニオモハシメテ トコヨノナガナキドリヲツドヘテナカシメテ アメノヤスノカハノカハラノアメノカタシハヲトリ アメノカナヤマノカネヲトリテ カヌチアマツマウラヲマギテ イシコリドメノミコトニオホセテ カガミヲツクラシメ タマノヤノミコトニオホセテ ヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲツクラシメテ アメノコヤネノミコトフトダマノミコトヲヨビテ アメノカグヤマノマヲシカノカタヲウツヌキニヌキテ アメノカグヤマノアメノハハカヲトリテ ウラヘマカナハシメテ アメノカグヤマノイホツマサカキヲネコジニコジテ ホツエニヤサカノマガタマノイホツノミスマルノタマヲトリツケ ナカツエニヤサカノカガミヲトリツケ シズエニシラニギテアヲニギテヲトリシデテ コノクサグサノモノハフトタマノミコトフトミテグラトトリモタシテ アメノコヤネノミコトフトノリトゴトネギマヲシテ アメノタヂカラヲノカミミトノワキニカクリタタシテ アメノウズメノミコトアメノカグヤマノアメノヒカゲヲタスキニカケテ アメノマサキヲカヅラトシテ アメノカグヤマノササバヲタグサニユヒテ アメノイハヤドニウケフセテ フミトドロコシカムガカリシテ ムナヂヲカキイデモヒモヲホトニオシタレキ カレタカマノハラユスリテヤホヨロヅノカミトモニワラヒキ
 ココニアマテラスオホミカミアヤシトオモホシテ アメノイハヤドヲホソメニヒラキテ ウチヨリノリタマヘルハ アガコモリマスニヨリテアマノハラオノヅカラクラク アシハラノナカツクニモミナクラケムトオモフヲ ナドトアメノウズメハアソビシ マタヤホヨロズノカミモロモロワラフゾトノリタマヒキ スナハチアメノウズメナガミコトニマサリテタフトキカミイマスガユエニエラギアソブトマヲシキ カクマヲスアヒダニ アメノコヤネノミコトフトタマノミコトカノカガミヲサシイデテ アマテラスオホミカミニミセマツルトキニ アマテラスオホミカミイヨヨアヤシトオモホシテ ヤヤトヨリイデテノゾミマストキニ カノカクリタテルアメノタヂカラヲノカミソノミテヲトリテヒキイダシマツリキ スナハチフトタマノミコトシリクメナハヲソノミシリヘニヒキワタシテ ココヨリウチニナカヘリイリマシソトマヲシキ カレアマテラスオホミカミイデマセルトキニ タカマノハラモアシハラノナカツクニモオノヅカラテリアカリキ
 ココニヤホヨロヅノカミトモニハカリテ ハヤスサノヲノミコトニチクラオキドヲオホセ マタヒゲヲキリ テアシノツメヲモヌカシメテ カムヤラヒヤラヒキ

(現代語訳)
 そこで速須佐之男命が、天照大御神に申すには、「私の心が潔白で明るい証拠として、私の生んだ子はやさしい女の子でした。この結果から申せば、当然私が誓約に勝ったのです」と言って、勝ちに乗じて天照大御神の耕作する田の畔を壊し、田に水を引く溝を埋め、また大御神が新嘗祭の新穀を召し上がる神殿に、糞をひり散らして穢した。このような乱暴をするけれども、天照大御神はこれをとがめないで仰せられるには、「あの屎のように見えるのは、酒に酔ってへどを吐き散らそうとして、わが弟君はあのようなことをしたのであろう。また田の畔を壊したり、溝を埋めたりするのは、土地をもったいないと思って、我が弟君はあのようなことをしたのであろう」 と、善い方に言い直しされたけれども、なお須佐之男命の乱暴なふるまいは止むことなく、ますますはげしくなった。
天照大御神が神聖な機屋においでになって、神に献る神衣を機織女に織らせておられたとき、須佐之男命はその機屋の棟に穴をあけ、まだら毛の馬の皮を逆さに剥ぎ取って、穴から落し入れたとき、機織女はこれを見て驚き、梭で陰部を突いて死んでしまった。これを見て、天照大御神は恐れて、天の石屋の戸を開いて中におこもりになった。そのために高天原はすっかり暗くなり、葦原中国もすべて暗闇となった。こうして永遠の暗闇がつづいた。そしてあらゆる邪神の騒ぐ声は、夏の蠅のように世界に満ち、あらゆる禍がいっせいに発生した。
 このような状態となったので、ありとあらゆる神々が、天の安河の河原に会合して、高御産日神の子の思金神に、善後策を考えさせた。そしてまず常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に天の安河の川上の堅い岩を取り、天の金山の鉄を採って、鍛冶師の天津痲羅を捜して、伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、玉祖命に命じて、たくさんの勾玉を貫き通した長い玉の緒を作らせた。次に天兒屋命と布刀玉命を呼んで、天の香具山の雄鹿の肩骨を抜き取り、天の香具山の朱桜を取り、鹿の骨を灼いて占い、神意を待ち伺わせた。そして天の香具山の枝葉の繁った賢木を、根ごと掘り起こして釆て、上の枝に勾玉を通した長い玉の緒を懸け、中の枝に八咫の鏡を懸け、下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を垂れかけて、これらの種々の品は、布刀玉命が神聖な幣として捧げ持ち、天兒屋命が祝詞を唱えて祝福し、天手力男神が石戸の側に隠れて立ち、天宇受売命が、天の香具山の日陰蔓を襷にかけ、眞拆鬘を髪に擬い、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおし下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑った。
 そこで天照大御神はふしぎに思われて、天の石屋戸を細めに開けて、中から仰せられるには、「私がここにこもっているので、天上界は自然に暗闇となり、また葦原中国もすべて暗黒であろうと思うのに、どういうわけで天宇受売は舞楽をし、また八百万の神々はみな笑っているのだろう」と仰せられた。そこで天宇受売が申すには、「あなた様にもまさる貴い神がおいでになりますので、喜び笑って歌舞しております」と申しあげた。こう申す間に、天兒屋命と布刀玉命と布刀玉命が、その八咫鏡をさし出して、天照大御神にお見せ申しあげるとき、天照大御神がいよいよふしぎにお思いになって、そろそろと石屋戸から出て鏡の中をのぞかれるときに、戸の側に隠れ立っていた天手力男神が、大御神の御手を取って外に引き出し申した。ただちに布刀玉命が、注連縄を大御神の後ろに引き渡して、「この縄から内にもどっておはいりになることはできません」と申しあげた。こうして天照大御神がお出ましになると、高天原も葦原中国も自然に太陽が照り、明るくなった。
 そこで八百万の神々が一同相談して、速須佐之男命にたくさんの贖罪の品物を科し、また髭と手足の爪とを切って祓えを科して、高天原から追放してしまった。

 (解説〉
常世:永遠の世界の意で、海の彼方にある、生命の根源世界とされた異郷。
伊斯許理度売命:「石凝姥(いしこりどめ)」の意で、石の鋳型を用いて鏡を鋳造する老女をいう。
ははか:朱桜(かにわざくら)の古名。この木の皮で鹿の肩骨を杓いて占った。
八尺鏡:「尺」は「咫」の略字。大きな鏡のこと。直径46.5センチの巨大な鏡が、平原古墳(福岡県)から出土している。
尻くめ縄:注連縄のこと。侵入を禁じ、聖域を示すために張る縄。
千位(ちくら)の置き戸:たくさんの台の上に載せた品物の意で、罪穢れを祓い購うために差し出す物品である。切り祓へしめて:髭や爪を切るのは、身体の一部を以てする祓の一種で、古代の刑罰と見ることができる。

 天の石屋戸には、古墳の石室のイメージが投影している。そして、天照大御神が石屋戸にこもり、ふたたび石屋戸から出現する物語には、神の死と復活再生の信仰がうかがわれる。ことに穀神が年ごとに死んで、春新たな生命を得て復活する、という信仰との関係が深い。

  スサノヲノ命は、神田を破壊し、祭殿を壊すなど、重大な罪を犯す邪神として語られている。根の国から訪れる邪神が、罪や禍いや穢れをもたらす、と考えられたのである。罪や穢れの権化ともいうペきスサノヲノ命が、高天原から追放されたとするのは、大祓の祝詞の思想を、神話的に語ったものと見てよいであろう。

宮崎県高千穂町の、アマテラスを祀る天岩戸神社の近くを流れる岩戸川。そのほとりに巨大な岩盤と洞窟がある。ここは八百万の神々が集まり、石屋戸開きの相談をしたという「天安河原」であると伝えられている。
もちろん、「天安河原」は高天原に存在したということだから、地上に存在するわけはないが、古事記の神代編を説話とするなら、その話のヒントを与えてくれた場所ということになるか。
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天岩戸の場面は、たくさん描かれていると思うが、珍しいもので浮世絵に書かれたものがある。
「岩戸神楽乃起顕」歌川国貞
大判三枚続き
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明るく楽しげな「天のうづめの命」小杉放菴
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カタクリ/狭山市・稲荷山公園

20130322

所沢で大こぶしを撮ったあと、狭山市に戻って稲荷山公園のカタクリを撮りました。

カタクリって、調べてみると面白いんですよね。
一年のサイクルはこうです。
早春、地上に姿を現す期間は4-5週間程度で、群落での開花期間は2週間程と短い。その後葉や茎は枯れてしまう。
5月中旬から9月末までは、地下で休眠状態となる。最大30 cm程の深さにある長さ5-6 cmの筒状楕円形の鱗茎は、10月下旬ごろに発根し始める。雪解けを待って、地上に糸のような細い葉を伸ばす。

そして、花が咲くまで7、8年かかるんです。
発芽1年目の個体は細い糸状の葉を、2年目から7-8年程度までは卵状楕円形の1枚の葉だけで過ごし、鱗茎が大きくなり、2枚目の葉が出てから花をつける。毎年少しずつ鱗茎に養分が蓄積され、発芽から開花までには7-8年を要する。開花初期は開花と結実がある有性生殖と結実がない無性生殖を繰り返し、個体が大きく成長した後は複数年に渡り開花が継続する。カタクリの平均寿命は40-50年ほどと推定されている。

それから、片栗粉はカタクリから作っていると思っていましたが、今は違うそうです。
かってはこの鱗茎から抽出したデンプンを片栗粉として調理に用いていた。精製量がごくわずかであるため、近年は片栗粉にはジャガイモやサツマイモから抽出したデンプン粉が用いられているとのこと。


稲荷山公園の見晴台からの眺め
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その横に下に降りていく道があります。
ちょっとほころびかけた山桜の下をくぐります。
「カタクリの花が咲いています」の立札が。
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こんな道を降りて行きます。
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たくさん咲いていますね。
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それでは、いいなと思った写真を載せておきましょう。
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大こぶし/所沢市砂川堀

20130322

今日、午前中小学校の卒業式に出席してから、昼食後2ケ所に写真を撮りに出かけました。
一つは、この「大こぶし」、もう一つは「カタクリ」です。
月曜から木曜まで行事が入ってしまったので、やっと飛び出せました。

まずは所沢市の大こぶしです。この樹のことを知ったのは2月ころで、花の時期を待っていました。
ちょっと遅いかなと思ったけれど、とにかく行ってみました。

所沢入間バイパス誓詞橋交差点北側ということで、車を走らせているとすぐにわかりました。
遠くからみても、一目瞭然。大きいです。
ただ、行ってみたら個人の畑の中にあるので、樹に近づくことは出来ません。ぐるぐるっと一回りしました。
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畑のあぜ道で、できるだけ近くに行けるところで、望遠を使って撮りました。
ちょうど畑の方がトラクターで畑を起こしている最中でした。
樹齢はわかりませんが、堂々とした幹です。
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ちょっと遅かったけれど、やはり大したものでした。
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小学校の卒業式

20130322

昨年の4月から、学校支援ボランティアのコーディネーターを引き受けているが、今日担当している小学校の卒業式に出席してきました。

この学校で私がお世話したのは、
5月に、4年生対象の「福祉体験授業」
6月に、6年生対象の「地域の歴史を学ぶ」
7月に、3年生~6年生対象の夏休み「サマースクール」算数の強化テスト
1月に、1年生対象の「むかし遊びをしてみよう」

卒業生は、3クラスで118名。
女の子は、袴をはいた子が7,8名居たほか、それぞれ思い思いのお洒落をしているのが可愛らしかった。

卒業証書授与では、名前を呼ばれて檀上で、父母への感謝、将来の夢、中学ではこんなことをやりますなど一人一人が大きな声で述べてから、卒業証書を受け取っていた。
とても良いなと思い、娘たちもこの小学校だったので、家に帰ってカミさんに娘たちの時もそうだったのかと聞くと、そういう事はしなかったと言うので、今の校長先生のやり方かもしれない。
先生になりたいという子供が多かった。サッカー選手になりたいとか、ずっと歌を唄っていきたいとか、中学でも勉強と部活を両立させて頑張りたいとか、聞いていてとても胸がほのぼのした。

「別れの言葉」というのが、とてもドラマチックで、色々なところから大きな声で思いを交歓したり、皆で声を合わせて宣言したり、歌を唄ったりと、楽劇みたいな感じで、聞いていてうるうるしてしまった(笑)

子供たちの元気な声を聞いて、また元気をたくさんもらった。


東京都民族芸能大会

20130321

昨日、20日(水)に池袋の東京芸術劇場で行われた、「東京都民俗芸能大会」に行ってきました。
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二日間行われ、最初の日19日は「海辺の芸能」と称して伊豆大島に伝わる芸能が中心です。
20日は「川辺の芸能」ということで、内容は順次説明します。

一緒に行った仲間が気が付いて教えてくれたので、住所、氏名など届けてカメラ撮影許可の席につきました。
舞台のときは二階から見下ろして撮るのが良いので、仲間と離れ二階に飛んでいったら、良い席から撮ることができました(嬉)

神田囃子
足立区千住 神田囃子千四会
 神田嚇子は、神田明神の祭礼に演じられる祭り囃子を言い、当初は江戸祭り囃子の源流である葛西囃子が演じていましたが、やがて神田明神の氏子たち自らで祭り囃子を演じるようになり、江戸の庶民文化が花開いた文化文政頃には多くの名人を生み独自の芸能として洗練を極めました。
 千四会は、江戸四宿として江戸期より賑わいをみせた千住宿の鎮守の一つである千住四丁目氷川I神社の鎮守講の囃子として命名され、昭和51年、秋山銀蔵の呼びかけにより発足した祭り世話人会有志が、青少年不良防止育成のため、お囃子およびお神輿部の有志を募ったことが始まりです。
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高木獅子舞
東大和市高木 高木獅子舞保存会
高木の獅子舞は、口伝によると江戸時代からのものといわれ、その昔、悪病が流行り、その退散と五穀豊穣を願って奉納されたのがはじまりと伝えられています。
獅子舞は、四隅に華やかな彩りの牡丹をあしらった花笠衣装の簓子(ささらこ)が立った花園(土俵)の中で、一頭の雌獅子をめぐって二頭の雄獅子と狐が舞い絡みます。
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舞いが進み、「思いもよらぬ朝霧が降りて、そこで雌獅子が隠されさよな」との唄あたりに来ると、雄獅子二頭による雌獅子の奪い合いとなり喧嘩が始まります。
四隅に居た簓子(ささらこ)が集まって雌獅子を隠します。
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隠された雌獅子に言い寄る狐が追い払われるくだりを最高潮に、その後和解した三頭の獅子が舞い納めます。
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鳳凰の舞
西多摩郡日の出町平井 鳳凰の舞保存会
鳳凰の舞は、都心から西へ約50キロに位置する日の出町の下平井地区に古くから伝わる民俗芸能で、かつては雨乞いや悪病退散を祈って舞われたものです。伝承によれば、上方より伝わった雨乞い踊りに祇園囃子と風流踊とが結びつき、それに江戸で生まれた奴歌舞伎の太刀踊が加わって鳳風の舞になったと考えられています。
鳳凰の舞は「奴の舞」「鳳風の舞」の二場で構成されています。
「奴の舞」は小学生の男子が舞うもので、赤い襦袢に短い単衣、赤い襷をかけて、垂れ結びにした三尺帯という衣装に、頭には鳶色の鉢巻を前に結び、頬に紅を付け鼻筋に白く白粉を塗ります。
祇園囃子にあわせて奴が舞いながら出てきて大太鼓を中心に円陣を作り、一人一人が独特な台詞をいいます。
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「鳳凰の舞」は中学生から40代までの男性が舞い、鳳凰の被り物をつけた者5人は白い襷を、赤い頭巾をつけた者5人(軍配1人、ササラ4人)は赤い襷をして腰に幣を差します。
大太鼓を中心に円陣を組み、軍配の掛け声によって鳳凰が大太鼓を叩きながら勇壮活発な舞を演じます。
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おしゃらく
江戸川区葛西地区 葛西おしゃらく保存会
東京都と千葉県の境を流れる江戸川(旧利根川)の下流域に伝承する「おしゃらく」は、踊り念仏が起源で、その演目から、「小念仏」「万作踊り」「粉屋踊り」「飴屋踊り」などの名称で、近世江戸を中心に広く関東、東北地方に広まった一業の芸能です。その内容は多種多様で、念仏唄、子守唄、はやり唄、数え唄、里謡のほか飴屋や瞽女が流した唄などを含む、雑多な性質を持つものです。おしゃらく節は「上げ」「唄」「切り」から成り、念仏踊りの特徴を持った、江戸の風俗を色濃く残す庶民芸能です。
おしゃらくの語源は「お酒落」な意だそう。
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葛西神楽
江戸川区 東都葛西神楽保存会
葛西の里神楽は、埼玉県の鷺宮神社に伝わる催馬楽神楽から分流した江戸流神楽の一つで、江戸時代の安政年間(1854~60)に西小松川村の鎮守、天祖神社の秋元順之助によって東葛西領下ノ割地区一帯に広められたと伝えられています。
演目は「八俣の大蛇」でした。

櫛名田姫登場
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続いて父親の足名椎が酒甕をかついで登場。
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大蛇登場。よくあるぬいぐるみの蛇ではなくて、龍の面をつけた上品な扮装ですね。
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酒をぐびりぐびりと
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あ~~ ンマイ
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髪の毛を酒に浸して飲むなんて洒落た技も(笑)
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大蛇は酒に酔って寝てしまいます。足名椎が杖で打ってたしかめます。
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須佐之男命登場
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やっつける前に、櫛名田姫を俺にくれ、と交渉(笑)
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須佐之男命と大蛇の大立ち回り
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大蛇の後ろを切り裂くと「草なぎの剣」が出てきます。
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草なぎの剣を櫛名田姫にあげる。
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須佐之男命は、歌舞伎のような大見得をきって退場。
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須佐之男命が退場した後、足名椎が喜びの踊りを舞って終わります。
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福島芝囃子
昭島市福島町 福島芝囃子保存会
福島芝囃子を受け継いでいる昭島市福島町は、市の南側に位置し、多摩川の中流域に沿った住宅地区です。慶応2年(1866)6月に発生した大規模な「武州世直し一揆」の一団が鎮圧された「福島の渡し」跡が町内にあります。
福島芝磯子は、地域の伝承によれば幕末の嘉永年問(1850年代)に地元有志によって始められたもので、初めは目黒囃子を継承していましたが、明治初期に埼玉県三芳町千曲座の師匠から芝流の伝授を受け、芝囃子を行うようになったものです。芝囃子は別名「御座敷囃子」とも言われ、キザミ(締太鼓を小さく打つ技法)が多く、曲全体が流麗であることを特徴としています。
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木場の木遣と木遣念仏百万遍
江東区深川地域 木場木遣保存会木響會
「木場の木遣り」は、深川の木場で働く川並み(筏師)によって歌われたもので、その発祥は江戸初期に遡ります。江戸では材木問屋は主として京橋、日本橋、神田及び浅草のあたりにあり、建築請負をも兼ねていましたが、1657年の明暦の大火で一斉に被災したことにより、以後、幕府の命で材木を深川方面の島影の水上に保管することとなり、その貯木場が木場と名付けられ、木場は川並み衆が活躍する舞台となって木遣りも盛んに歌われるようになりました。

今年も、観客席の後ろから木遣りを唄いながら登場
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会場に、木遣りの唄が朗々と流れます。ほんとに良い声をしています。惚れ惚れ。
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上から見ていたら気になったのが、この草履のはき方。これが粋なのかな。
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「木遣り念仏」は、川並み衆の問で行われてきた念仏で、江戸初期から木場の大店において、通夜の席上、僧侶の帰った後や、命日の前夜などに出入りの川並み衆や職人らが部屋に集まり行われたものです。木魚や鉦の音とともに念仏を唱え、その都度「十遍」「二十遍」などと書かれた札を返していき、人々は輪になってこの念仏を受け、大きな数珠を回して拝み、仏の供養をします。
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去年と演目が一緒だったのは、木遣りだけ。木遣りは何度聴いても惚れ惚れするし、大満足でした。
特に「八俣の大蛇」の神楽が良かった。
もう、毎年の恒例行事になりますね。






無量寺/寒緋桜&梅

20130319

西ヶ原で宮澤賢治の足跡をたどった際に、ここ無量寺にもお参りしました。
ここのしだれ梅が有名だからです。

無量寺は、平安時代から続く歴史あるお寺で、古くから江戸六阿弥陀の三番目として広く知られているようです。
古くは長福寺と言いましたが、将軍吉宗の治世に、吉宗の世子長福(後の将軍家重)の名をはばかり、無量寺と改称。福寿無量に諸願を成就させるというところから、無量寺と名付けられました。
江戸時代将軍が岩淵筋で鷹狩をした時に休息所にしたといわれています。
元禄14年には五代将軍「綱吉」の生母・桂昌院の参拝記録が残されています。

阿弥陀如来坐像の右手には、本尊である不動明王像が安置されていますが、ある晩、忍び込んだ盗賊がこの不動明王像の前で急に動けなくなり、翌朝捕まったと言い伝えられおり、「足止め不動」と呼ばれ信仰されています。
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門から入ると、山門との間、両側に竹が植えられています。
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山門の瓦が三つ葉葵ですね。
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山門をくぐると桜が咲きかけていました。
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そこで目白が櫻を忙しくついばんでいました。
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お寺の人に聞いたら、桜は、「琉球寒緋桜」だとわかりました。
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有名な枝垂れ梅は、まだまだでした。ガックリ。
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これが満開だと、傘のうちに入ると、ほんとに良い眺めだと思います。
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それでも、てっぺんの辺で咲きはじめていた。
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これは、随分くねくねした梅でした(笑)
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本堂の近くの梅。この梅も花が少なかったが、他に蕾が見当たらないのを見ると、この梅はこのくらいの花着きなんでしょうね。
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本堂の前の宝篋印塔
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その陰から梅がのぞいていた。
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石仏が集められていたが、どれも姿のいいきれいな石仏でした。
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「御茶所」という庵の前の石灯篭が見事だった。
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これは、何という花でしょうか。珍しいと思って撮ってきました。
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賢治最初の上京(2)/宮沢賢治の東京における足跡

20130318

15日(金)に行った、「賢治最初の上京(1)」の続きです。
二本榎の一里塚から歩き出します。
奥田弘氏の本では、こう書かれている。
今は一本になってしまった二本榎の一里塚の跡にたつと、古い煉瓦塀に囲まれた印刷局滝野川工場が見えてくる。束京高等蚕糸学校の跡だ。この煉瓦塀に沿って行きつもどりつするのであるが、新しい知識に胸をふくらませたであろう賢治たちの姿はもうしのぶよすがもない。

印刷局滝野川工場
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福島泰樹氏は、こう書いている。
大蔵省の印刷局もいまは印刷局病院に姿を変え、煉瓦塀は腰の低いコンクリートの外壁へと姿を変じた。すべてを破壊し、轟然と過ぎ去ってゆく「時」は暴力であるのかもしれない。いま、高層ビルに変じるであろう建築工事中の病棟を見上げながら、奥田弘の苛立ちを羨ましく思う。大正五年、賢治が目の当たりにした煉瓦塀は健在であったのだ。

奥田弘氏が訪ねた時には、まだ煉瓦塀が残っていた。福島泰樹氏は、それが腰の低いコンクリートの外壁に代わってしまっていることを嘆いている。
現在はどうか?
また変わっていた。開放的な鉄かアルミの柵に変じていた!!
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隣が印刷局東京病院です。
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大蔵省印刷局病院の、これまた広大な敷地が元「高等蚕糸学校」の跡地です。賢治一行は農事試験場を訪れる前に、高等蚕糸学校を見学したのでしょうか。王子からの道順からたどってゆけばその順になります。
通りに面した痛院の外壁のところに、「東京高等蚕糸発祥之地」の記念碑があります。
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農事試験場も蚕糸学校も、明治政府の威信をかけた事業であった。
明治二十九年、「蚕業講習所」と改称され、本格的な学校としての機能を果たします。すなわち本科二年、別科六ケ月、加えるに研究科も設置され、前途洋々たる青少年たちが西ヶ原に馳せ参じた。
明治三十人年には、入学資格も中学卒業程度となり、修業期間は三ケ年となる。大正三年、「東京高等蚕糸学校」と改称され、養蚕科、製糸科、製糸敦婦養成所が置かれた。

そして、その隣は「北区滝野川公園」で、ここが「西ヶ原農事試験場」跡です。
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公園のメイン・ロード。右手の建物は「東京北区防災センター」、奥が体育館。
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明治になつて貝塚が発見されたそうで、遺跡の説明もあります。
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福島泰樹氏は、こんなふうに書いている。
公園の土の感触を楽しんでいると、せせらぎの昔。林のこ中の人工庭園の中を水は音をたてて流れてゆく。小鳥の噛りとせせらぎが入り交じり、目を瞑ると頭の中を、救急車であろうか、サイレンが遠ざかってゆく。「シラカシ」、「コナラ」……。木に付けられた標識を見みやりながらせせらぎを抜ける。体育館手前の空間には、これまた人工の滝が音をたてて激しく落下している。

私が訪ねた時には、水は流れておらず水路も人口滝も干上がっていた。
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その人口滝の奥に、跡地に建てられた記念碑があります。
敷地内の囲いの外に、垣根と植え込みを設け、その中に「農業技術研究発祥の地」という巨大な自然石と、傍らの小ぶりの自然石に、由来と「国立試験研究機開の筑波研究学園都市への移転に伴い この地での研究を終わる、「西ヶ原」 の栄光の不滅を祈念しここに記念碑を刻む」とあります。
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種芸、農芸化学、病理、昆虫、煙草、園芸部に加え、「地質調査所土性課」が移されてきたのは明治三十人年。賢治が目を皿にして注視したであろう当時の資料は、筑波に保管されているのでしょう。

広大な原野だっただけあって、公園も、消防署にしても、体育館にしても実にゆったりと建てられていますが、当時の農事試験場をしのばせる景観は残ってないですね。

碑に向かって右側の景観
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碑に向かって左側の景観
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碑の正面の景観。歩いてきた本郷通りの方向です。
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園内の光景。ほんとにゆったりとした感じ。
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ベンチに腰を下ろして休みながら、当時の宮澤賢治のことを思った。
賢治が生まれた明治29年には、三陸地方を大津波が襲い、賢治が誕生した8月には、陸羽大地震が花巻を襲っている。そして冷害が東北を相次ぎ襲った。
当時疲弊していた、東北の農村を立て直す意欲に燃えた宮澤賢治だったであろう。

農事試験場跡を出て、私は上中里駅に行った。
というのは、奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、王子から西ヶ原に歩いただけでなく、上中里駅から西ヶ原を訪ねた時のことも書いているからである。

奥田弘氏の文章。
わたしは、二度ほど、この足跡をたずねた。初めは、上中里駅から行った。切り通しの、ゆるやかな坂道を登り、八幡太郎義家の鎧を納めてあるという平塚神社を右に見ながら、西ヶ原二丁目の停留所前に立った。東京では、珍らしくなった蝉の声が、神社の境内から聞えていた。右折すると間もなく、古びた鉄筋の二階建てが見える。それが農事試験場である。今は、農林省農業技術研究所になっている。

福島泰樹氏の文章。
坂の上がり口にある「蝉坂」の由来に目をやる。なるほど「蝉坂」は「攻め坂」の転批、中里村一帯は古戦場であったのだ。この坂の上にあった平塚城(室町期) の合戦を彷彿する地名だ。「現在の坂道は昭和十人年七月、昔の坂を拡幅して出来た道です」。
 右手に平塚神社の境内を見上げながら坂をのぼってゆく。豊島氏の居城跡、源義家に起源を発する古い神社だ。坂をのぼりきると本郷通り(日光御成道・岩槻街道)にぶつかる。御成道は本郷追分で中山道から分岐し、滝野川、王子、赤羽、岩淵、川口、鳩ヶ谷を経て岩槻に至る道だ。

上中里駅
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駅前に「飛鳥の小径」という掲示板があった。飛鳥山公園を中心とする散歩道の案内だ。
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これが「蝉坂」
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途中に平塚神社への入り口がある。平塚神社境内は坂の上と同じ高さの平面なので、これだけ高低差があることがわかる。台地の先端を平塚城としたことがよくわかる。
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坂を上りきると、右手に平塚神社正門があり、そこに平塚城跡の説明がある。
平塚城は源義家が後三年の役で奥州に遠征した帰路の逗留地。鎌倉・室町時代の平塚城は、この地域の領主であった豊島家代々の居城だったが、文明十(1478)年、大田道灌によって落城しています。
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平塚神社
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狛犬が立派だった。
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賽銭箱の日の丸の扇が源義家を偲ばせる。
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福島泰樹氏の文章によると。
神社の角を石の囲い沿いに右に曲がると、「平塚亭/つるおか」の看板が目に飛び込んでくる。
この春、農事試験場跡を訪ねた私は、店に立ち寄ってお茶を御馳走になっている。仕事着の白い上っ張りを羽織った色白で端整な顔をした主人は、私の質問にこんなふうに応えてくれた。
「店の創業は大正四年で、団子や饅頭を商う茶店でした」。大正四年なら賢治一行が見学に来る前年ではないか。ならば一行は、神社の境内の雑木林を望む茶店で、団子や饅頭を頬張っていたかもしれない。
「このあたりには帝大生たちも下宿していました。市電に乗って本郷へ通っていました。この道は、昔と変わってはいませんよ」。遥かを見やるように主人は言ったものだ。「ええ、この先には桑畑がありました」。にわかに東京高等蚕糸学校がリアリティーを帯びてくる。「滝野川一帯にはまだ田圃なんかもあ
りましてね、職人たちが植木を栽培していましたよ」。

現在の、神社の角を右に曲がったところの光景。
高い建物は消防署の建物。
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平塚亭/つるおか
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残念!!
その日は、このお店お休みでした。
宮澤賢治が頬ばったかも知れないお団子を、私も食べようと楽しみにしていたのに(泣)
ショックでした。またの機会ですね。

このあと、ついでだからと「無量寺」を訪ねました。次回の記事にします。
無量寺を出たあと、駒込の駅に向かいます。
「旧古河庭園」の前を通るためです。
大正9年、盛岡高等農林を退職後、農事試験場の嘱託となった恩師・関豊太郎教授を、宮澤賢治は訪ねています。
それで、福島泰樹氏は、コンドルの設計した洋館を「設計にも関心のあった宮澤賢治のことだ。もしかすると塀の外から一瞥しているかも知れない」と書いている。

大正時代はわからないが、現在は塀が高く、道路の反対側からなら、辛うじてチラと一部が見えるだけだ。
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現在の入り口に立てば、洋館はかなり見える。
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「旧古河庭園」から駒込駅に通じる坂を下っていると、途中にこの坂の説明があった。
この坂の名は、この辺りに住んで居た中世の武将保坂大炊介にちなんで「大炊介坂」と呼ばれているが、坂の上の平塚神社にちなんで「宮坂」とも、樹木に覆われているので「暗闇坂」とも呼ばれていた。
この道は岩槻街道で、江戸時代には将軍の日光東照宮社参の行列が通ったため「日光御成り道」と呼ばれたが、現在は「本郷通り」と呼ばれている。
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「大炊介坂」を下りきって振り返る。
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これで、宮澤賢治が初めて上京した、大正5年3月20日の足跡をめぐる逍遥は終わりました。
賢治が訪ねた西ヶ原農事試験場見学と東京高等蚕糸学校の両方とも、跡形もなくなっています。
大正5年と現在という月日の長さから考えて、やむを得ないと思います。

宮澤賢治たちが翌日訪ねた「農事試験場渋谷分校」と「駒場農科大学」には近日中に訪ねます。


参考にした二書。
一つは、「宮澤賢治研究叢書-賢治地理」という本に納められている奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」。これは昭和41年(1966)6月に第4回宮澤賢治研究会で発表されたもの。
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もう一つは、歌人福島泰樹氏の「宮澤賢治と東京宇宙」という本で、1996年12月に第1刷発行のもの。
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(了)


賢治最初の上京(1)/宮沢賢治の東京における足跡

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「宮沢賢治の東京における足跡」を歩いてみようと思ったのは、雑誌「サライ」2010年7月号の特集「宮澤賢治を旅する」に「賢治の歩いた東京」という部分があり概要を知ったので、いずれ歩いてみようと思っていた。
賢治最初の上京は3月20日である。この日に歩こうと思っていたが、その日と前後の日にも予定が入ってしまい、前倒しに昨日の15日に歩いてきました。

参考にしたのは、次の二書です。
一つは、「宮澤賢治研究叢書-賢治地理」という本に納められている奥田弘氏の「宮澤賢治の東京における足跡」。これは昭和41年(1966)6月に第4回宮澤賢治研究会で発表されたもの。
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もう一つは、歌人福島泰樹氏の「宮澤賢治と東京宇宙」という本で、1996年12月に第1刷発行のもの。
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つまり、奥田弘氏の文章は47年前、福島泰樹氏の本は16年前に発行されたものである。

奥田弘氏の本によれば、この上京は、盛岡高等農林学校の修学旅行であり、賢治ひとりの旅行ではないが、彼の生活史、制作史にとって、重要な意味を持っている。この上京は、彼にとって最初の上京であり、新しい知識を摂取する場所として、また、終生、願ってやまなかった「家」からの脱出先の場所として、彼の目を聞かせたものと考えられる。
この三月の上京における宿泊先の旅館は判明していない。東京での足跡は、次のとおりである。
 3月20日 西ヶ原農事試験場見学・東京高等蚕糸学校見学
 3月21日 駒場農科大学見学

京都で解散した後、自由行動になって、東京に再びもどってから上野から盛岡に戻っていく際の行動は、また記事にするつもりです。

福島泰樹氏の本によれば、盛岡高等農林学校二学年の修学旅行の一団十数人を乗せた夜汽車が「上野停車場」に到着したのは、大正5(1916)年3月20日(月)午前5時40分のことであった。

盛岡高農の創設は明治三十五年、日本で最初の農業専門学校である。宮沢賢治が入学した大正四年にさかのぼってみるなら、上級学校の数は今日では想像もつかないぐらい少ない。大学をあげるなら、東京、京都、東北、九州の名を冠した帝国大学が四校あるのみ、私立の大学は認められてはいなかった。
そのうち、農業関係の大学は東京帝国大学と東北帝国大学農科大学(札幌農学校)二枚を数えるのみで、専門学校は盛岡高農と明治四十一年に創立された鹿児島高農の二校であった。したがって北の都・盛岡には、農業に日本の将来の夢を託した青年たちが、全国から馳せ参じていたのであった。

この写真は、大正5(1916)年5月下旬、盛岡高等農林学校の自啓寮9号室のメンバーが、植物園で記念撮影したものです。
中央が室長の賢治、手前に寝そべっているのが嘉内。
(写真掟供は、保阪庸夫氏、山梨県立文学館)
保阪嘉内氏は、山梨県出身で宮澤賢治の無二の親友。
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一行は前日午後1時5分盛岡発の東北本線に乗り込んでいるから、実に16時間35分の時間を要している。
この日、東京は晴れだったという。
福島泰樹氏の本によれば、東京の北口玄関、上野駅の開業は明治16(1883)年。東北本線では24に青森まで全通したとある。
賢治一行が降り立った北の玄関口・上野駅舎の落成は、明治18年7月。どっしりとした蔵のような石造りの母屋に、西洋風の長い麻。入母屋切妻破風を思わせる西洋瓦茸の清酒な建築物と言いたいところだが、大正三年に落成した東京駅舎の風格にはほど遠い。東京駅が皇居を控えた帝都の象徴であるのに対し、上野駅はあくまでも北の玄関口であったのである。
東京駅舎は焼け残ったが、上野駅舎は大正12年、関東大震災で焼失した。
現在の駅舎が完成したのは、賢治が最後の上京を果たした半年後の昭和7年4月。完成までに実に十年近い歳月を要している。であるから賢治は大震災以後の上京の都度、その工事の経過を目のあたりにし、完成間近い上野駅舎を後に、重たい病をかこちながら郷里花巻へと向かっていった。

さて、私は西武新宿線、山手線経由で上野に着いた。昔信越線、東北本線、常磐線などでにぎわっていた場所に行ってみる。
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私は長野県佐久で育ったから、小諸駅から信越線で上野駅に出ている。結婚して富山県福光の人間になってからは、夜行を利用すれば上野駅、昼間の移動は北陸線で米原に出て、そこから新幹線で東京駅となった。現在は特急「はくたか」で越後湯沢、そこから上越新幹線で大宮まで出てくるようになっている。

常磐線のホームに「特急いわき」が停車していた。
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現在は、盛岡からなら新幹線で、この新幹線改札から出てくる。
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ちなみに、この日は団子鼻で有名な「200系車両」の最後の運転日ということで、鉄カメラマンの姿が目立った。

かって私も、利用した中央改札口から外に出る。
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残念ながら、現在の上野駅の正面玄関は浅草方面に向いているが、129年前の夏落成をみた旧・駅舎は、御成街道のある広小路方向、皇居の方角に向いていたので、宮澤賢治一行がこの場所から出たわけではない。

現在の上野は、パンダと櫻である。
聞けば、パンダの夫婦も繁殖活動も落ち着いて(子供が出来ていればいいな)、この日から一般公開が復活した由。
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古さをしのばせる場所を探していたら、正面玄関ホールに回廊があるのに気が付いた。ここは今まで来たことが無かった。リニューアルされたものか、新設されたものかわからない。
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正面玄関から外に出た。
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玄関前の広場に陸橋が縦横に展開されていて、驚いた。私が上野駅を利用していた頃には無かった風景だ。
陸橋の上から、上野駅正面を撮る。
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周りをブラブラしていたら、こんなものを発見した。
「ああ上野駅」の碑である。
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記録では、早朝に上野駅に到着した一行は、東京府北豊島郡滝野川村大字西ヶ原(現・北区西ヶ原二丁目)にある農事試験場に向かったとある。
福島泰樹氏の本によれば、おそらく宿泊先である上野駅周辺の旅館に荷物を置き、顔を洗い口を漱ぎ、朝食を済ませてから試験場へと向かっていったのであろうとしている。

ここでは、私の体験も重ねて、少しは上野の山を散歩したのではないかなと考えた。
私が大学が決まって、渋谷の叔母(母の妹)のところに一年間居候することが決まり、やはり夜行で上京してきた時、早朝上野のお山の西郷さんの銅像の前で同行していた兄が撮ってくれた写真が残っている。
この銅像は、高村光雲作であり、明治31(1898)年に建てられているから、初めての東京だということで上野のお山に足を延ばしていたら、宮澤賢治はこの銅像を見たに違いない。
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そうなれば、隣の彰義隊の墓にもお参りしたかもしれない。
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このくらいで、上野をきりあげて次に向かおうと、公園口に向かって歩いていると、こんな写真が掲示されていた。
明治42(1909)年の上野公園入口である。
当時既に大階段があった。これを上れば西郷さんの銅像である。
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奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、賢治が上京した当時は、現在の上中里駅は、まだ開業せず、おそらく、王子駅から、飛鳥山下を徒歩でおもむいたものと推測される、と書いている。
私も、上野から京浜東北線で王子駅に移動した。
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王子駅からの、現在の光景。左手に飛鳥山があり、道路(本郷通り)には都電が走っている。
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奥田弘氏の本によると、王子駅から歩を運んだのは、さわやかな五月のはじめだった。公園の若葉が日に映えて、明かるかった。坂道をのぼる都電の車輪のきしむ音と絶え間なく行きかう自動車の排気音とが、次第に、奥田弘氏の気持をいらだたせた、とある。
というのは、奥田弘氏が渋沢秀雄氏の文章で紹介している、宮澤賢治がここを訪れた頃の王子駅の附近は一面の水田で、森の散在するなかを縫う豊島川(隅田川上流)には船の白帆が隠見した。王子駅のそばで製紙会社の煙突が煙を吐いてはいたが、あとは詩情あふれる田園風景で、晴れた日は北の方に筑波山が青く点描された。
こういう渋沢氏がのべているような風景はなく、ぎっしり建てこんだ街なみだけである、と奥田弘氏は嘆いているのだ。

今は、もっと驚くことがあった。
王子駅から、すぐに飛鳥山に入ろうとすると、急な上り勾配の坂が待っている。
ところが、こんな楽しい乗り物が今はあるのだ(笑)
「あすかパークレール」という乗り物。2009年7月からの運行だというから、奥田弘氏と福島泰樹氏両者とも、これは知らないということになる。
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花には少し早い、まだまだ殺風景な桜の林を眺めながら、貿拾たちの一団は、足どりも軽く、なだらかな坂道をのぼって行ったことであろう。
飛鳥山公園の中に足を踏み入れてみたが、まだまだ開花にはほど遠い感じだ。
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本郷通りの飛鳥山交差点まで来ると、都電は大きくカーブして「あすか山」駅に入る。そこを見ながら歩いていたら、「滝野川一丁目」からの電車が駅に止まったと思ったら、すぐに後ろからもう一台電車が来て、玉つき状態みたいになって、前の電車が発車しだした(笑)
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そろそろ、どこかで昼食をとらねば、と思いながら歩いていたら、「和風ラーメン」という看板が目に入ったので、それを食べることにした。頼んだのは「みそラーメン」。
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出てきました。どんぶりなのね(笑)
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味はまあまあ。具がいろいろと沢山入っていたので嬉しかった。

「二本榎一里塚」にやってきました。
前方で、大きなクレーンで大きなビル工事をしているところが、印刷局滝野川工場(東京高等蚕糸学校の跡にできている)。
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奥田弘氏の本では、こう書かれている。
今は一本になってしまった二本榎の一里塚の跡にたつと、古い煉瓦塀に囲まれた印刷局滝野川工場が見えてくる。束京高等蚕糸学校の跡だ。この煉瓦塀に沿って行きつもどりつするのであるが、新しい知識に胸をふくらませたであろう賢治たちの姿はもうしのぶよすがもない。

「西ヶ原一里塚」は、「日光御成道」の日本橋から二里、「本郷追分」の次に位置します。榎の巨木おい繁り、往時のままの姿を保っているのは都内では西ヶ原を残すのみだそうです。
塚と榎は当時、東京市電の軌道延長路線上にあたり、この工事に伴う道路改修工事で撤去されそうになりましたが、渋沢栄一や東京市長・滝野川町長を中心とする地元住民の運動によって保存に成功したことが、道路わきの塚の掲示板に説明がありました。
その掲示板にある写真が、大正時代の一里塚の写真です。
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宮澤賢治は、この風景のなかを西ヶ原農事試験場に向かって歩いていったのです。

現在は、旧道の両側にあった一里塚がそのまま残り、旧道がそのまま片方向の道路となった。反対方面の道路が一里塚の外側に新設された。結果として片方の一里塚が道路の真ん中に存在することになったというわけです。

七神社の鳥居脇に位置する、道路わきの一里塚。王子方面に振り返ってみています。
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道路の中央に残った形の一里塚。これも王子方向に見ています。
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(続く)


64/横山秀夫

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この本は、ちょっと前なのでどういう番組だったか忘れたが、テレビで奨められていた本で、購入リストに入れてあり読んだ本だ。
私は、いままで「警察もの」は読んだことがなかった。
それだけに新鮮だった。
それから、このあいだ新聞に「本屋大賞」のノミネート作品が載っていたが、そのなかに入っており、確かに面白かった。

アマゾンでの、この本の紹介記事はこちら。
『警察発表』に真実はあるのか
<昭和64年>に起きたD県警史上最悪の翔子ちゃん誘拐殺人事件をめぐり、刑事部と警務部が全面戦争に突入。狭間に落ちた広報官・三上義信は己の真を問われる。怒濤の展開、驚愕の傑作ミステリー!

D県警の広報が記者クラブと加害者の匿名問題で対立する中、警察庁長官による、時効の迫った重要未解決事件「64(ロクヨン)」視察が1週間後に決定した。たった7日間しかない昭和64年に起きたD県警史上最悪の「翔子ちゃん誘拐殺人事件」。長官慰問を拒む遺族。当時の捜査員など64関係者に敷かれたかん口令。刑事部と警務部の鉄のカーテン。謎のメモ。長官視察の日に一体何が起きるのか? 組織対個人。驚愕の長編ミステリー。

警察組織と新聞記者の接点になる「広報官」という存在、いままでそういう目で見たことが無かった。
「三上」という広報官は、実に屈折に富む人物で、4つの問題を抱えながら納得のいかない人事をこなしている。広報官を拝命して広報のあり方も大きく変えたいと思っているのだが、警察内部でも記者クラブとの関係もうまく行かなくなってくる。今まで刑事部で捜査にあたってきたが、自分でも「本籍は刑事部」と思い、いずれ捜査の現場に戻りたい。しかし、刑事部からは「警務に身を売った」とみなされ、事件の中身を教えるとマスコミに漏れるだけだと何も情報が入らない。キャリア組の上司は、何も知らなければリークの危険もなく、言われただけでいいのだと通告される。初めはキャリアの上司に屈せず改革を進めていたが、私的なことから上司に弱みを見せてしまう。娘が家出してしまったのだ。本庁につてのあるキャリアの警務部長は、すぐに本庁に写真をファックスし、全国の警察官が気を付ける態勢を作ってくれるのである。自分だけなら上司に屈せず地方の派出所に飛ばされてもいいが、娘が突然戻ってきたときのために今の家に住み続けるしかないと思えば、組織の中で仕事していかなくてならない。

ずっしりとしたボリュームの小説だ。ページ数は著者最長の647ページにも及ぶ。長い。
読みはじめて、すごく密度の濃さを感じた。
ところが、密度の濃さに慣れたと気づいたときには、もう作者のワールドにはまっていた。
流れるストーリーにぐいぐい引っ張られて、途中で本を置けない。

横山秀夫の本を読んでいない人のために、こんな文章だと紹介しておこう。
両眼以外、翳りに沈み込んで同化する。それは顔とは呼べない。顔は必要ない。いっとき、見る側に特化した何者かになれる。にきび面になり、異性の目が気になり出した頃には、その窮屈で汗臭いかぶり物の裏側がどこよりも落ち着ける場所になっていた。
 母の願いがあり、この顔があり、剣道があって、その延長線上に警察官の道があった。
 必然か。
 たまたまか。
 三上は手拭いを絞って顔を拭った。ごつごつとした感触が手のひらに伝わる。
剣道を通して礼節を学んだ。体を鍛え上げた。心はどうか。いったい何を学び、どう鍛えられたろう。人並みの正義感は備えていた。闘争心もあった。だから胸を張って任官し、刑事として雄々しく振る舞った。だが・・・・・。
 囁く声がする。
 刑事が新しい面になった。
 たまたま手に入れた代わりの面を、これ幸いと二十数年かぶり続けてきた。
(楽な仕事だ。世の中で一番な)
刑事という職は人生の隠れ蓑になりうる。尾坂部はそんなことを言ったのかもしれなかった。楽な仕事でないことはあまねく知られている。刑事の苦労や苦悩や悲哀は小説やテレビドラマやドキュメンタリーの過剰供給によって刷り込まれ、誰もが知った気になっている。刑事と名乗れば勝手に相手のスイッチが入る。自分の口から何も語る必要がないことが楽なのだ。ましてや刑事は現実の苦労も悲哀もたやすく棚上げできる。常に追うべき獲物がいるからだ。所轄時代、いみじくも松岡は部下をこう鼓舞した。愚痴らず楽しめ。俺たちは給料をもらって狩りをしているんだからな・・・・・・・。
 理性はともかく、犯罪を憎む本能は刑事に備わっていない。あるのはホシを狩る本能だけだ。三上もそうだった。ホシを割り、追い込み、落とす。延々と繰り返される日々に個人のメンタリティーは色を失い、鈍く光る刑事色に染め上げられていく。誰も抵抗しない。むしろ自ら進んでより濃く染まろうとする。狩猟は生活のためのみならず、猟場に留まりたいと願う者たちにとって唯一の趣味であり、最高の娯楽でもあるからだ。
 幸田に訊いてみるがいい。狩りの権限を剥奪され、狩られる側になった彼に。ただ妻子と生きるためだけに労働する彼に訊け。刑事の仕事は大変だったか、と。
 三上は長い息を吐いた。
 存分に狩りを楽しんだツケが回ってきた。今さら刑事の面を脱ごうものなら、人生そのものがズルズルと剥けてしまいそうだ。霧出するのは地金とは限らない。ありのままの自分などもはや存在しないと考えるべきなのだ。刑事が麻薬であることは「前科」の一年間で知った。壁一面を這い回る虫は見ずとも、薬が切れれば、デフォルメされた恐怖心や劣等感と日々向き合わねばならなくなる。
(刑事のまま警務を生きるのか)
 改めて領く。
 四日後に長官が来る。今は正気を保つことが何より大切に思える。家族を守るために警務陣営の旗の下に立つ。刑事の心は悲鳴を上げるだろうが、それこそが正気である証だ。無理やり統合しなくていい。身悶えながら、しかし粛々と広報官の職務を遂行すればいい。
 不意に心が波立った。
 おい、こんなにのんびりしていていいのか。
 長官は何を言うのか。それがどんな結果を招くのか。まだ何もわかっていないのだ。


やはり刑事というのは、すごい職業だと思う。
しかし、それにも増してすごい存在があった。娘を殺された父親の執念である。
最後のほうは、ジェットコースターにのっているかのように、ストーリーに振り回され、圧倒され、感心されつくした。


アントン・ブルックナー/交響曲第1番ハ短調(リンツ稿)

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指揮:オイゲン・ヨッフム
演奏:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1965年10月 ベルリン、イエス・キリスト教会

もう、だいぶ前になるがブルックナーの1番が欲しくて、新宿のタワーレコードに行ったときのこと。
ブルックナーの交響曲がずらっとならんでいる中で、やはり1番は少なくてたった3枚しか無かった。
だが・・・・・
その中の一枚を見て驚いた、ヨッフム/ベルリンフィルのものである。
宇野氏が「ヨッフム/ベルリンフィルのものがピカイチだ。しかしこれは全集しか出ていないので・・・・・・」と書いてあったのだが・・・・??
買いに来るにあたって、いろいろ調べたので、これは頭に入っていた。
見ると、ジャケットの見出しに「全集からの分売」とあるではないか。
即、購入してきたものが、このCD。


ブルックナーは、1845年から10年間聖フロリアン教会オルガニストとして務めたのち、1856年リンツ大聖堂の奏者に任ぜられます。
ブルックナーが、本格的に作曲活動を開始したのは、この時期であり、1865年、「トリスタン」の初演に立会い、大いなる感銘を受け、ビューローとの接点もでき、翌66年に、この第1交響曲を完成させました。実に41歳の時です。

そして1番には「リンツ稿」と、最初の作曲から24年を経過した後に手直しされた「ウィーン稿」がある。
「ウィーン稿」は、作曲者が1年もの長きを費やして改訂したものではあるが、研究者からは「リンツ稿の持つ若々しさが失われた」と評されることが多い。「ウィーン稿」は都会風に洗練された官能的な音楽になっているとの意見もある。
つまり1番にはふたつの曲があるわけだ。
こういうところが、いかにもブルックナーらしい。交響曲を世に問うたのも遅ければ、それをまた24年後に未練たらしく作り変える(笑)
いかにも人間臭い、俗っぽいブルックナーの世の処し方よ。

それに引き換え、産み出された曲の、なんと情緒に満ちていることか。
旋律の運びも自信に満ちている。田園情緒もまた、深く美しい。
緩徐楽章の一幅の絵のような儚い美しさは、後年の大交響曲にはないものである。

弦の刻みで軽やかに始まる1楽章は、心地よいテンポによる推進力あふれる楽章だが、初めのヴァイオリンが勢いよく出る時点で、ああこの曲は、いいなあ と思ってしまう。
その第2主題はゆったりとテンポを落として、こちらも田園情緒を味あわせてくれる。
そして、第2楽章は、低弦音から始まる主要主題は叙情性に富む穏やかなもの。調和のとれた平和なムードが横溢し弦の柔和な旋律やファゴットの旋律がなかなかいい。3本のフルートで作られる和音がちりばめられて、至福の世界を醸し出してゆく。
独特のブルックナー・リズムあふれる3楽章は、粗野で原始的なスケルツォ。
「火のように」と付された終楽章、実に強烈に締めくくられる。


60代前半だったオイゲン・ヨッフムがベルリン・フィルを指揮した録音。ヨッフムが気力の充実した演奏を展開。ベルリン・フィルの威力も凄い。
ベルリンフィルがフルトヴェングラー時代のドイツ的な音色をかろうじて残している時期の録音なのだそうです。
ヨッフムは、ブルックナー全集をふたつ出していて、一つはこのベルリンフィルのもので、もう一つはドレスデン国立菅とのもの。
評価としては、後期の交響曲はヨッフムが円熟した時期のドレスデン国立菅とのものが良くて、初期の交響曲はヨッフム若き時期のベルリンフィルのものが良いということらしい。
ということでヨッフムに関しては、二つの全集を揃えたいと思っているが、まだはたしていない(汗)


狂言「入間川」と「入間様」

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3月9日(土)に、狂言「入間川」を観ました。
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これは狭山市の「狂言入間川を観る会」の催しです。
狭山市入間川(現埼玉県狭山市)には、文和2年/正平8年(1353年)に鎌倉公方足利基氏が宿営地を設け、9年間北関東の上杉氏勢力に対抗しました。入間川御陣もしくは入間川御所と呼ばれました。
つまり、この9年間は関東の行政機関が入間川(地名)にあったわけです。
西武新宿線の駅名も、以前は「入間川駅」だった。しかし、狭山市の最寄駅としてわかりにくいということで現在の「狭山市駅」になりました。
狭山市では「入間川」という名は大きな存在です。

シテ 大名:山本東次郎
アド 入間の何某:山本則俊
小アド 太郎冠者:山本則秀

なお、平成24年度 重要無形文化財保持者(人間国宝に)山本東次郎氏が指定されたそうです。
写真がないかなと、ウェブで探したらありました。左側が大名の山本東次郎氏です。
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狂言のあらすじ:
舞台はあずまの国、入間川沿い。

この川の名に伴い、予備知識として、この狂言の成立した当時「入間様(いるまよう)」といって、言葉遊びが流行っていたことを、まず念頭に置いてください。
この入間様というのは、物事を言うのに、全く逆の意味を言うこと。例えば、楽しい時に、「楽しくない」と言ったり、怒っていないときに、「怒ってる」と言ったり、そんな、些細な遊びを下敷きにして、この狂言は始まります。

都に勤めていた大名が任務を終えて、太郎冠者を引き連れ、東国に下り、入間川に差し掛かり、渡り瀬を探します。

入間川は、軍事的に重要な防衛線なため、もちろん橋はかけられなかったわけです。

そこで登場するは、ちょうどあたりを通りがかった「入間の何某」。
大名は、地元の何某に渡り瀬を尋ねます。
「このあたりは川底が深いから、もうすこしむこうで川を渡りなさい。」入間の何某は親切にも、渡り背を教えるのですが、大名は、まるで無視して、太郎冠者や何某の止めるのも聞かず、目前の川瀬を渡りはじめます。

案の定、深みの石に足を取られて、濡れ鼠になる大名。途端に、大名は激昂して、入間の何某に向かい刀に手を掛けます。

「入間の何某と名乗るなら、当然、入間様を使うはず。入間の者が、ここは深いというならば、浅瀬の筈。大名をまんまと騙して濡れ鼠にさせた罪は重い。手打ちにしてくれるわ!」

さて、入間の何某はどのようにピンチを切り抜けるのでしょう?

件の入間の何某は、これに騒がず大名に「弓矢八幡、成敗いたす」と誓わせて「やら心安や」と述べます。大名が入間言葉を持ち出したのを逆手にとって「成敗する」と誓わせたので逆に成敗できないだろうという理屈です。

ここから逆さ言葉を使っての応酬になります。
命を助ける、助けない。忝ない、忝なくもない。物を与えても、祝着にもござらぬ・・・などなど、やり取りが続いて、大名は様々な物を男に与えます。

そこで入間の何某が、頂き物を持って帰ろうとすると、大名が引き留め「入間様を除けて真実を言え」と持ちかけ、男が「身に余ってかたじけのうござる」と言ったのをタネにして、与えた物を取り返し退場する。


【入間様】
これまで知りませんでしたが、狂言に採用されている以上,それ以前から入間地方には「入間様」(いるまよう)というスタイルが存在していたことになります。
「入間川」が作られたのは15世紀中頃以前とのこと。
ということは,少なくとも中世までさかのぼります。

入間様は「入間詞(いるまことば」ともいい、「大辞林」には「入間川が逆流することがあったので名づけられたとする説もある」と書かれています。入間川の逆流のほうが元だというわけである。

この「入間川の逆流」の話。アマゾン川などで見られる海の潮の満ち引きによって海水が遡行するような現象はどうか?
あり得ない。入間川はけっこう高低差があって急流なのである。

調べていると、『神話の森』というホームページで、『廻国雑記』という興味深い紀行文を紹介していました。

『廻国雑記』
http://nire.main.jp/rouman/sinwa/kaikoku.htm

16世紀に書かれ,作者は道興准后(左大臣近衛房嗣の子)という人。この人については狭山市でも笹井観音堂、笹井白髭神社に立ち寄ったという伝承が残っている。

その「いるま川」の部分。
これよりいるま川にまかりてよめる、 

  立ちよりて影をうつさば、いるま川、わが年波もさかさまにゆけ

此の河につきて様々の説あり。水逆に流れ侍るといふ一義も侍り。また里人の家の門のうらにて侍るとなむ。水の流るる方角案内なきことなれば、何方をかみ下と定めがたし。家々の口は誠に表には侍らず。惣じて申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り。

まず、歌がいいですね。

入間川が逆流する話を載せ、それも一理あるといい、入間詞について「申しかよはす言葉なども、かへさまなることどもなり。異形なる風情にて侍り」と書く。

この文章だと、川の逆流の話は伝聞のようである。となると、やはり逆流より入間詞のほうが元であって、あるいは特殊な方言が通じなかった経験から話が拡大していったようにも思えるが、よくわからない。

「特殊な言葉」ということでいうと、道興准后が笹井白髭神社に立ち寄ったという伝承が残っているが、この白髭神社は高麗神社の分祀されたものであり、高麗神社というのは「高麗王福徳」が祭神であり、高麗王福徳は渡来人二千人を率いて、高麗に定着した人物。
なので、渡来系人物と話したときに話が通じなかったという可能性は考えられる。

それから、川の逆流の話では、面白いことを発見した。
それは、このブログを見たときに驚いた。
saheizi-inokoriさんの、「梟通信~ホンの戯言」というブログです。
http://pinhukuro.exblog.jp/19164666

入間川がまるで環状線のように円を描いています。これで、かなり納得できました。
移動するルートによって、二度入間川を渡ります。
例えば青梅から熊谷に直線的に移動するとします。
最初に入間川を渡るときは、右から左に流れている。二度目に渡るときは左から右に流れている、というわけです。

私は、入間川の河原みたいなところに住んでいるのですが、入間川がこんな風に円を描いている事は今まで知りませんでした(笑)

入間川の逆流の話は、こういう話であれば、誰でも納得できます。

「入間様」については、私としては、こういう事で一応の納得をみることができました。


品川宿周辺(3)/旧東海道

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3月7日(木)、歴史街道倶楽部の催しで、「江戸名所図会『品川宿』を歩く」の続きです。
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品川宿交流館から歩き出してすぐに「品川橋」です。目黒川にかかっていて、目黒川まで「北品川」でしたが、目黒川を渡ると「南品川」となります。
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橋のたもとに紅梅が咲いていました。
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目黒川
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川沿いにちょっと歩くと「荏原神社」です。

旧社格は元准勅祭社。郷社。旧称を天王社、貴布彌大明神という。荏原神社は「南の天王」と呼ばれる。また東海七福神の中の1社として恵比須を祀る。
和銅2年(709年)9月9日、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて南品川に創建したのに始まる。
長元2年(1029年)に伊勢神宮より豊受大神・天照大神を勧請。
宝治元年(1274年)に京都祇園社(八坂神社)より牛頭天王を勧請。
康平5年(1062年)、源頼義・義家は奥州安倍氏征伐に際し当社と大國魂神社に参蘢し、品川の海中で身を浄める(※このことより、現在でも大國魂神社の神職は例祭のくらやみ祭に際し当社に参詣して禊を行う)。
以降、源氏、上杉氏、徳川氏など多くの武家の信仰を受け、品川の総鎮守として崇敬さる。後に現在地に遷座。旧鎮座地には今も水神の貴布彌神社(きふねじんじゃ)があるように、もとは「品川貴船社」と称す。
明治元年(1868年)勅祭社に准ぜられた(准勅祭社という)が、同3年改めて郷社に列した。
明治8年、品川貴船社の名を改めて、荏原郡の名をつけて「荏原神社」に改称。
6月の天王祭には、天王洲沖で神面をつけた神輿が海に入る「御神面海中渡御」が行われる。これは、宝暦元年6月、品川沖の海面から牛頭天王の面が発見されたことに因むものである。「天王洲」の地名はこのことによるものである。天王洲は現在は埋め立てにより陸地になっており、当社の氏子地域になっている。
牛頭天王(須佐男之尊)が水神であることから、参加者をかっぱになぞらえ、「かっぱ祭」と俗称される。
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寒緋桜が満開の感じで、見事に咲いていました。
この桜は、区内で一番早く見られる桜として地域の人たちに親しまれているそうです。
元々は緋寒桜と呼ばれていましたが、彼岸桜と間違われることから「緋」と「寒」をひっくり返して「寒緋桜」の名称となりました。
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鳥居から鎮守橋が見えます。荏原神社への参道である目黒橋に架かる橋です。が、参道がくいっと曲がってしまっています。
昭和3年(1928年)に目黒側の川筋が変えられた為に、こうなってしまったとか。
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鎮守橋を渡って、荏原神社を振り返ります。
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「街道松の広場」にある「浜松の松」。
浜松から寄贈されたもの。
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問屋場跡
継立業務等を行う宿場の役所、問屋場跡(現 製薬実験社)で、その後、同じ建物内に人馬の荷の重さを検査する貫目改所も設けられた。
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海岸線跡
埋め立てられて住宅地になっているが、旧東海道との間の路地には海岸線をしのばせる石垣が残っています。
青々と草が茂っている石垣がそうです。
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ガイドの方が見せてくれたこの辺の、当時の東海道(方向は逆です)。
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街道沿いの、畳屋さん。看板が右からです。
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「青物横丁」になりました。
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「旧東海道」の案内
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釜屋跡
ここはもと「釜屋」のあったところです。釜屋は南品川にあった建場茶屋のひとつで、東海道を上がり下りする旅人たちは、ここで休息したり、見送りや出迎えの人たちと宴会をひらいたりしました。大変繁盛したので、のちには本陣のような構えに改築しました。それで俗に「本陣」とよばれたりした。
有名な新選組副長土方歳三も、隊士を連れて、慶応三年十月二十一日に休息しています。
また、慶応四年一月(1868)の鳥羽・伏見の戦いに敗れた新選組隊士たちは、同月十五日に品川に上陸し、しばらく釜屋に滞在しました。
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品川寺(ほんせんじ)
品川寺の歴史は、町そのものです。遠く、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺です。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え、導いた時、この地の嶺主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利(あしかが)・上杉(うえすぎ)の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。

門前に立派な石塔がある。
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銅造地蔵菩薩坐像
山門前左手にある露座の仏像。宝永5年(1708年)に造られた、江戸六地蔵の第一番。現存する江戸六地蔵像のうち唯一頭上に傘を載せていない。
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こういうものが近くにあった。
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山門脇にある、推定樹齢600年の大イチョウ。
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大イチョウの下にあった、珍しい自然石の庚申塔
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梵鐘
明暦3年(1657年)の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出する。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていた。大正8年(1919年)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原喜重郎ほか多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930年)、同市の好意により品川寺に返還された。平成3年(1991年)には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られた。品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となったが、交流の契機となったのはこの梵鐘である。
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境内に「七福神」すべてがあるようだったが、団体行動の悲しさ、四体撮ったところで、時間切れ。
又の機会とする。
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以上で、今回の「品川宿めぐり」は終了。京急「青物横丁」駅で解散しました。

(了)


品川宿周辺(2)/旧東海道

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3月7日(木)、歴史街道倶楽部の催しで、「江戸名所図会『品川宿』を歩く」の続きです。
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さらに旧東海道を歩いていくと、マンションの入り口にきれいな表示が。
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やはり品川ですねえ。
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品川宿本陣跡にやってきました。
本陣・脇本陣
本陣とはもともと武将が戦場にいるときの本拠地をさす言葉だが、転じて武家の主人の宿泊場所を示す。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が整えられた頃から、「本陣」の名で呼ばれるようになった。品川宿の本陣は、初
め、北品川宿と南品川宿に1軒づつあったが、南品川宿では早くに廃れ、江戸時代中ごろには北品川宿のみとなった。本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門・玄関・書院などがあり、大名行列の乗物や長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を記した関札(せきふだ)を立て、紋の入った幕を掲げたという。

文政6年の火災により焼けてしまい、今は何もなく公園になっている。
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灯篭が一つ。寂しいかぎり。
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明治天皇の行在所になったとかで、「聖蹟公園」になっていて、碑があった。
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ここで、旧東海道から大きく外れ「品川神社」にお参り。
品川神社の由来は、後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃畔命を勧請して、品川大明神と称した。後醍醐天皇の御世(1319年)に、当国の守護職二階堂出羽入道道慈、(貞藤と云い北条高時の臣、鎌倉に二階堂と云う、地名があるそこに住していた)宇賀之売命を勧請し社殿等を再建し社地を吉端岡と名付けた。永享四年正晴入道幸純社殿等を再建す。(幸純は道慈の子孫なること南品川海婁寺に詳かなり)、文明十年六月太田道濯、素蓋鳴尊を勧請す。
慶長五年徳川家康関ケ原の戦に出陣の折神前にて祈願し太々神楽を奏し、後神輿、償面等奉納す。寛永十四年将軍家光の命により東海寺鎮守と定められてから幕府の御修復所となり、元縁七年将軍綱吉社殿等再建、嘉永四年将軍家慶社殿再建した。
明治元年准勅祭神社に定められた。
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東海七福神の「大黒天」が鳥居前に立っている。
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鳥居をくぐろうとして驚いた。
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なんと龍が巻き付いている、珍しい鳥居だ。
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石段を登っていくと、左手に富士塚への登り口があったので、登っていく。
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猿田彦の祠
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役小角の神変堂
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途中から急こう配に
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頂上からの眺めはいいですね。
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本殿
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神紋が葵ですね。
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立派な能舞台もあります。
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狛犬
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本殿の裏手に板垣退助のお墓がありました。右が板垣退助、左が奥様の墓。
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その近くに「板垣死すとも・・・」の碑が。
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佐藤栄作氏の書でした。
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梅が咲いていた。
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旧東海道に戻ると、「品川宿交流館」です。一休み。
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(続く)


品川宿周辺(1)/旧東海道

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3月7日(木)に、歴史街道倶楽部の催しで、「江戸名所図会『品川宿』を歩く」に参加しました。
コースは、品川駅一 八つ山一 御殿山一 品川宿一 品川船溜り一 土蔵相模一 利田神社一品川神社一東海寺一 品川本陣→ 荏原神社→ 品川寺一 青物市場駅

品川宿:
江戸時代の東海道の第1宿。次宿は川崎宿。品川宿は当初、北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、享保7年(1722)歩行(かち)新宿が宿場として認められ、以降3宿で構成された。現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があった。北条氏時代の伝馬制下でも品川は宿の機能を担っていた。天正18年(1590)関東へ入部した徳川家康は、領国経営のために江戸を基点に据えた街道と伝馬制度の整備に着手し、慶長元年(1596)江戸一小田原間の石切伝馬手形を下した。17世紀後半になると、江戸に近い北品川宿の北側に人家が出来て新町が形成されていった。品川宿は南品川宿・北品川宿・歩行新宿の三宿で成り立つこととなった。また従来の南北の両品川宿を新宿に対して本宿といった。

広重の「東海道五十三次」のうち「品川 日の出」(保永堂版)
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安政の古地図「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」より
赤い線が東海道
右上の海に出っ張ってる「御用地」のあたりが現品品川駅
6番が御殿山
10番のところで渡っている川が目黒川。目黒川下流を「品川」と呼んで、それが地名になったそうです。
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今回の記事は、品川駅から「法禅寺」までです。
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品川駅に集合し、まずは品川駅の説明があった。
明治五年(1872)九月十二日、新橋一横浜(桜木町)間に最初の鉄道が開業した。文明開化を誇る大事業のスタートであった。弱冠二十一歳の明治天皇も臨席して、日比谷練兵場と品川沖の軍艦から祝砲が放たれ、新橋の式典についで、蒸気機関車も含めて十両編成の特別列車が新橋一横浜間を往復した。翌日から営業運転が開始され、毎正時に発車して一日九往復、片道徒歩で一日掛かりだっものを、時速三十四キロ、五十三分で走ったという。運賃は上等で一円十二銭五厘、下等で三十七銭五厘、一円で米三十キロ買えた時代であった。途中の停車駅は品川・川崎・鶴見・神奈川の四駅あった。

駅を出ると、第一京浜沿いにしばらく進みます。
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八ツ山橋を渡ります。
旧八ツ山橋は,明治5年東京新橋から横浜間の鉄道開通に伴い旧東海道に架けられたわが国初の跨線橋で,当時は木橋だった。いつからか鋼桁中路橋に架け替えられたが,大正3年,昭和5年と2回に分け単純タイドアーチ橋に架け替えられた。その後,老朽化のため昭和60年に架け替えられ現在に至っている。

渡ってから振り返ったところ。
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橋の袂に旧橋の親柱と橋門構が京橋の親柱と共に展示されています。
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橋に「旧東海道」の表示が。
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御殿山の方向を見る。
品川宿の一番江戸よりが歩行(かち)新宿で、食売(めしうり・飯盛)旅籠が集中していた。また、歩行新宿の西側には桜の名所御殿山があった。江戸時代初期から元禄15年(1702)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661-73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のはか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。文政7年(1824)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られた。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。

ということで、何となく森は残っているものの、山という形容には程遠いですね。
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大判錦絵「品川 御殿やま」
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旧東海道は、ずっとこのように商店街のなかを通っています。
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歩き始めてすぐに「問答河岸」というのがありました。
これは、1640年、徳川家光が附近にある東海寺を訪れた際、ここで沢庵と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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次いで、土蔵相模跡。
歩行新宿2丁目の家並であるが、ここは宿場の役務として人足を出していたところで「歩行新宿」と名づけられ
た。家業としては「□印」がつく「食売旅寵」や水茶屋が多い。実質遊郭である。
現在は写真のように、NICマンション(ファミリーマート)が元外見が土蔵造りであった旅寵。高杉晋作、久坂玄端、伊藤俊輔(博文)井上馨などがイギリス公使館疲打ちの謀議をこらしたところ。今は亡きフランキー堺(居残り左平次)石原裕次郎(高杉)小林旭(伊藤)競演『幕末太陽伝』で映画化され話題を呼んだ作品の舞台。
食売旅籠歩行新宿の中でも大きな旅寵が、現在の北品川1-23角にあった「土蔵相模」である。これは歩行新宿にあった「相模屋」という、旅篤と言うよりもむしろ妓楼で、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵
相模」と呼ばれた。江戸吉原を「北」、品川宿を「南」の遊郭と通称した。「美南見」は「南」をいう。
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北品川橋にやってきました。
「品川浦の舟だまり」ですね。近くまでビルが迫っていますが、ここから海に出られます。
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釣り船、屋形船のお店もあります。
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先ほどの、安政の古地図「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」で、細~い出島になっている先端に「弁財天」と書いてあります。今ではまったくの陸地ですが、ここにお参りしました。
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「利田神社」ですね。
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狛犬が良い感じでした。
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利田神社の横に鯨塚があります。
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一七九八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料です。
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御殿山下砲台(台場)跡
 1853年6月3日(幕末)ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画した。工事は、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山・伊予今治藩や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基であった。
他の台場と異なり、資金不足の計画変更のため、品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。
この台場がそのまま現在の台場小学校となっており、敷地が五稜形のまま。
品海橋を築いた石や、明治3年(1870)から昭和32年(1957)まで第二台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが台場小学校庭入口に残っています。

真ん中上の黒い五角形が台場です。
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灯台のレプリカ
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善福寺
品川善福寺は1294(永仁2)年創建という時宗のお寺で、元は藤沢遊行寺(時宗の総本山)の末寺であったとか。伊豆の長八の龍の鏝(こて)絵があることで知られています。
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鏝(こて)絵の龍がすごいです。だいぶ剥げ落ちているのが痛々しいですが、やはり見事なものです。
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法禅寺
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本堂の脇に大きな銀杏が聳えていました。
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境内に、「流民叢塚碑」があります。
この碑は、天保の大飢饉でなくなった人たちを祀る供養塔です。
天保4年(1833)に始まった天候不順は、その後数年におよび、多数の餓死者を出した。 品川宿には、農村などから流浪してくる者が多く、この附近で病や飢餓でたおれる人が891人を数えるに至った。これらの死者は法禅寺と海蔵寺に葬られた。本寺には五百余人が埋葬されたという。
初めは円墳状の塚で、この塚の上に、明治4年(1871)に造立の流民叢塚碑が建てられていた。昭和9年に境内が整備された折、同じ場所にコンクリート製の納骨堂が建てられ、上にこの碑が置かれた。
碑の正面には、当時の惨状が刻まれており、天保の飢饉の悲惨さを伝えるとともに、名もない庶民の存在を伝えています。
そこにあった六地蔵です。碑の設立当初からあったと思われる古いものです。
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(続く)


旧岩崎邸庭園

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2月27日麟祥院を出て、最後に訪ねたのは旧岩崎邸庭園です。

旧岩崎邸は1896年(明治29年)に三菱創設者・岩崎家本邸として建てられました。英国人ジョサイア・コンドルによって設計されたもので、現存するのは洋館・撞球室・和館の3棟です。木造2階建・地下室付きの洋館は、本格的なヨーロッパ式邸宅で近代日本住宅を代表する西洋木造建築です。館内の随所に見事なジャコビアン様式の装飾が施されていて、同時期に多く建てられた西洋建築にはない繊細なデザインが、往事のままの雰囲気を漂わせています。

洋館と結合された和館は書院造りを基調にされていて、広間には、橋本雅邦が下絵を描いたと伝えられる日本画などが残っています。現存する広間を中心に巧緻を極めた当時の純和風建築をかいま見ることができます。
大名庭園を一部踏襲する広大な庭は、建築様式と同時に和洋併置式とされ、「芝庭」をもつ近代庭園の初期の形を残しています。
1961年に洋館と撞球室が重要文化財に指定。1969年に和館大広間は洋館東脇にある袖塀とともに、1999年に煉瓦塀を含めた屋敷全体と実測図がそれぞれ重要文化財に指定されました。

旧岩崎邸庭園として公開されているのは旧邸宅敷地の一部に過ぎず、かっての敷地は西側の湯島合同庁舎、南側の湯島四郵便局や切通し公園一帯を含んでいたといいます。

入り口のところから重厚な塀があって、そこに岩崎家の紋章が刻まれています。
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岩崎家の家紋は「重ね三階菱」で、三菱のマークのもとになったとの説明がついていました。
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ここは人気が高いです。平日というのに人が一杯です。私たちのグループは、背後にいます。
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ほんとに立派な洋館です。これが個人の邸宅だったというのは驚き。
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玄関の意匠
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外装も立派。
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邸内は撮影禁止のため、洋館の中を見て、和館の中を見て、庭に出てきました。
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和館の外観
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庭のほとんどが芝生のため、庭で見るものはわずか。
藁ぼっちと牡丹
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洋館と和館全景。芝生が枯れているため寒々としているのが残念。
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水仙との取り合わせで
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見事にスックと、音叉みたいに二本に分かれている。
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バルコニー
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列柱が見事
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ちょっといい写真が撮れた。
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塀の上にプランターが置かれているのが洒落ていますね。
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(了)


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石川啄木碑・三原堂・麟祥院

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2月27日、湯島天神の続きです。
湯島天神を出て、湯島天神切通しを上がる途中に、石川啄木の碑があります。
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これは歌稿ノート(明治44年1月)の文字を拡大し彫り込んだもので、
<二晩おきに、 夜の一時頃に切通きりどおしの坂を上りしも――
勤めなればかな。>  (悲しき玩具、初出)

の歌碑です。 この「勤め」とはようやく安定した収入を得るようになった朝日新聞社勤務(明治42年3月から)である。3日に一回午前一時までの夜勤があった。夜勤の帰りは乗換えの電車はなく上野広小路の停留所からこの切通坂を、真っ暗なので湯島天神の石垣をまさぐりながら、いろいろな思いを抱きながらのぼったて、喜乃床(当初数か月は蓋平館)に帰った。月給25円の新米校正係にとっては一回1円の夜勤手当は大事な収入だった。 が、この勤務による過労は病を得る原因ともなった。明治43年12月には体調不調のため夜勤を辞さざるを得なくなったということでした。
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その日の、お土産として寄ったお店は、本郷の「三原堂」でした。
創業昭和7年の老舗です。
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名物の「大学最中」の看板
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季節がら、ウインドウにはお雛様がかざられていました。
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購入したのは下記の三品

もちろん大学最中、白餡を購入。
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果宝(かほうもの)
新しいお菓子らしいですが、美味しかった。
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天神太鼓。餡が三種類あると言われたので、全部買ってきて食べ比べ(笑)
美味しかった。
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麟祥院
徳川家光の乳母として知られる春日局の菩提寺です。
寛永元年(1624年)、春日局の隠棲所として創建。はじめ、報恩山天沢寺と称したが、春日局の法号をもって「天沢山麟祥院」と号するようになる。
1887年には井上円了が、この寺の境内の一棟を借りて東洋大学の前身である「哲学館」を創立した。そのため「東洋大学発祥之地」でもあり、碑も建てられていました。
当時はお寺の周囲にカラタチの生垣をめぐらせていたので、「からたち寺」と親しく呼ばれていたそうです。
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庫裡の前に立派な碑がありました。
細かい字でびっしりと書かれていて、時間が無くて読めず、説明もないので何の碑かは、わからず。
ただ、下の霊亀の彫刻が素晴らしいので、撮ってきました。
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墓地の入り口付近には、どうして集まったのかわかりませんが、ものすごい数の石仏が置かれていた。
かわいそうですね。
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門を入って左手奥、樹木の茂みの中に春日局の墓があります。
左に葵の紋と、右の隅切角に三(すみきりかくにさん)の家紋は春日局の家紋です。
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春日局の墓は、無縫(むほう)塔(卵塔)の墓
春日局の墓石は、四方に穴が貫通している大変めずらしい形をしています。
これは局が「黄泉(よみ)からも天下のご政道(せいどう)を見守れる墓」を作ってほしいという遺言によってこのような形に建立されたものだそうです。
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斜め45度から見ると、四方に穴が開いてるのがよくわかります。
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麟祥院を出てからは、旧岩崎邸庭園に向かいました。次回記事です。

(続く)


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湯島天神

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神田明神を出てから湯島天神に向かう途中で昼食を取りました。この日の参加者は23名だったので、幹事さんは場所を決めるのに苦労したと思います。
楽しく食べたあと、湯島天神です。
ここは昨年も梅を撮りにきました。昨年は辰年だったこともあり、境内の龍を撮ることも目的でした。
三回アップしていますね。こちらもどうぞご覧ください。
URLのところをクリックすれば、そのページに飛びます。

2012.2.28に「湯島天神の梅」
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-897.html

2012.3.2に「湯島天神」
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-899.html

2012.3.4に「龍/湯島天神(東京)」
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-901.html

今年はまずは、境内の石碑関係を撮って歩きました。団体行動なので忙しかったです(笑)

湯島天満宮に銅の鳥居から入りました。「梅まつり」なので屋台がびっしりと並んでいます。
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社殿の破風には、神紋の「加賀梅鉢紋」がたくさんありました。
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千木が「外削ぎ」になっています。縦に削いでありますね。
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最近知ったのですが、これは祭神が男神の場合です。ちなみに女神の場合は「平削ぎ」になります。
ここの祭神は、天之手力雄命 (あめのたぢからをのみこと)と菅原道真公です。
それから鰹木の数も男神の場合奇数で、女神の場合は偶数になります。

境内梅園の一角に「奇縁氷人石」という石柱が立っています。石柱の右側には「たつぬるかた」、左側には「をしふるかた」と記されている。これは江戸時代の「迷子石」の名残だそうです。かっての江戸では迷子になってしまう子どもも少なくなかった。それに備えて子どもは名や住居を記した「迷子札」を提げていたそうだが、「迷子札」を持っていない子どももおり、そのまま行方不明になってしまうこともあった。そうしたとき、迷子を出した親は自分の子の、迷子を見つけた方はその子の名や背格好、特徴などを紙に書いて「迷子石」に張った。
相応の成果があったらしいです。
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『菅家遺誡の碑』というのがあり、撮って来て調べたら笑っちゃいました。
これは道真が残した公家の家訓をまとめた書とされていたが、現在ではこれは偽書であり後世に道真に仮託して記されたものと考えられているそうです。和魂洋才の元となった言葉「和魂漢才」の出典としてこの書の道真の言葉とされているが、実は和魂漢才は平田篤胤による加筆改ざんと指摘されているとのこと。
なお『菅家遺誡』全文は『日本思想大系』8古代政治社会思想(岩波書店 1979年)に偽書として収録されているようです。
それを今でも堂々と置いているのは、湯島天神も太っ腹だなあと、感心しました(笑)
まあ菅原道真だろうと平田篤胤だろうと「和魂漢才」の出典には違いはありません。
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泉 鏡花の「筆塚」
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湯島天神はお蔦と主税の悲恋を描いた物語「婦系図」の舞台として登場することでも広くその名を知られています。主税がお蔦に別れを切り出し、“切れるの別れるのって、そんなことは芸者の時に言うものよ。私にゃ死ねと言って下さい”という有名な台詞をお蔦が口にする場面、その舞台が湯島天神の境内。

湯島天神の梅は、その八割ほどが白梅らしい。確かに境内を歩いていてそんな感じだった。
その名も「湯島の白梅」という楽曲があり、流行したそうです。
その「湯島の白梅」の歌詞中に、「青い瓦斯(ガス)燈」が登場するそうです。湯島天神境内にはかつて五基のガス灯があったという。
1885年(明治18年)に東京府瓦斯会社(現在の東京ガス)が設立されている。やがて電気の光に取って代わられるまでの短い期間、ガスの灯は“文明開化”の象徴として東京の夜を照らしたのですよね。湯島天神のガス灯は、使われなくなってからも、そのうちの一基だけが長くその姿を残していたが、それも1965年(昭和40年)に撤去されてしまったそうです。
そして今、湯島天神境内に、東京ガスの協力を得てまたガス灯が設置されているわけです。点灯する屋外のガス灯は東京都内で唯一のものだそうです。
屋台があるので、きれいに撮れません(泣)
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ちゃんと灯がついていました。
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講談高座発祥の地
江戸時代中期までの講談は、町の辻々に立っての辻講釈や粗末な小屋で聴衆と同じ高さで演じられていた。文化四年(1807)湯島天満宮の境内に住み、そこを席場としていた講談師・伊東燕晋が、家康公の偉業を読むにあたり、庶民と同じ高さでは恐れ多いことを理由に高さ三尺・一間四面の高座常設を北町奉行・小田切土佐守に願い出て許された。これが高座の始まりであり、我が国伝統話芸・講談高座発祥の地だそうです。
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文具至宝碑
「中国より渡来した「紙・筆・墨・硯」は文房四宝と称せられ読み書き算盤の寺子屋時代から明治の学制発布により高い文化を育てる文具として大きく貢献をしてきた。今や文房具はOA器機にいたる迄その範疇を広げ四宝から至宝に至って戦後の日本国を世界の大国に復興せしめた教育の原動力となった十一月三日(文化の日)を文具の日として定め平成元年を迎えるに当たり先人に報恩感謝の念を捧げつつここ学問の神さま湯島天神の境内に文具至宝碑を建立する」だそうです。
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菅公一千年祭碑
梅園の中にありました。
一枚の石で出来ているので、圧巻。
日下部鳴鶴が書いたという書体が立派です。
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世界の王さんの「努力」の碑
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梅も、結局ずいぶん撮りました(笑)
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紅白が見事。
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渡り廊下のところのボンボリとの取り合わせを今年も狙いました。
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これは社殿の裏にあって、好きな枝垂れ梅です。
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湯島天神で梅を満喫したあとは、春日の局の墓のある麟祥院に向かいました。次回報告。

(続く)


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神田明神

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2月27日、湯島聖堂から向かったのは神田明神です。

神田明神は、正式名称「神田神社」。神田祭をおこなう神社として知られます。
祭神は、一ノ宮に大己貴命(オオナムチノミコト、だいこく様)、二ノ宮に少彦名命(スクナヒコナノミコト、えびす様)、三ノ宮に平将門の3柱を祀ります。
社伝によれば、天平2年(730年)、武蔵国豊島郡芝崎村に入植した出雲系の氏族が、大己貴命を祖神として祀りました。神田はもと伊勢神宮の御田(おみた=神田)があった土地で、神田の鎮めのために創建されたものです。
承平5年(935年)に平将門の乱を起こして敗死した平将門の首が京から持ち去られて当社の近くに葬られ、将門の首塚は東国(関東地方)の平氏武将の崇敬を受け、嘉元年間(14世紀初頭)に疫病が流行し、これが将門の祟りであるとして供養が行われ、延慶2年(1309年)に当社の相殿神とされました。平将門神に祈願すると勝負に勝つといわれているようです。

立派な鳥居の向こうに随身門が見えています。
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随身門。まだまだ雨です(泣)
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外側正面に隨神像を配し、右は豊磐間戸神、左は櫛磐間戸神を安置。この像は熊本城域内の樹齢500年の楠で、加藤清正公お手植えと伝えられているものを使用している。一木造。長崎平和祈念像制作者として有名な北村西望(きたむら・せいぼう)氏の監修による。松下幸之助氏奉納です。
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内側には大国主神の神話をモチーフにした彫刻が飾られています。
「因幡の白兎」
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これはスサノオに試されて、鏑矢を拾ってこいと言われ野に行くと火責めにされます。すると鼠が現れ穴に隠れることが出来ますが、その場面ですね。
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立派な社殿。ここでは狛犬の向きに注意しておいてください。
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社殿の破風
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社殿の屋根には、水鳥の彫刻が載せられています。
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鳥の下部に水の波紋があり、神紋も流水巴です。
怨念を水に流すという意味なのでしょうか。将門の霊を、水神として祀りなおしているのでしょうか。
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流水巴の神紋
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狛犬の向きは、阿吽二頭が向き合っているのが普通だと思います。
ここでは、正面を向いているのが特徴。
意味はわかりません。
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だいこく様尊像(大国主神)
昭和51年完成。高さ6,6メートル重さ約30トンで石造りとしては日本一のだいこく像として建立。
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えびす様尊像
正式のお名前を少彦名命(すくなひこなのみこと)といいます。
古事記では、「大国主神が出雲の美保の岬におられる時、波頭の上から蘿藦(ががいも)の実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで衣服に着て、近づいて来る神があった。」と書かれています。
この神は出雲系の祖神・神産巣日神の御子であり、大国主神に協力して国造りをした神です。
国造りをした大国主神と少彦名命は江戸の町造りをする人にとって、うってつけの神だったわけです。

海の仲間(イルカ、タイ、ヒラメ、トビウオ、カツオ、フグ、亀)に守られて大海原を渡られる『少彦名命』の彫刻となっている。
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波頭に立つ、ちっちゃな神様
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獅子山
獅子山に乗る石獅子は武州下野の名工石切藤兵衛(別名・油売藤兵衛)が生涯でわずか3つしか造らなかったものの中の1つと伝えられ、3つの獅子は「坂東三獅子」として有名であった。
かっては神社境内参道の両脇に岩組の石獅子として据えられていたが、関東大震災により崩壊し子獅子を紛失、親獅子2頭を保存していたが、今上天皇陛下ご即位を奉祝し子獅子を新調し新たに「獅子山」として建立された。
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社殿と獅子山の間に、紅白の梅があるが、ちょっとまだ早かった。
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国学発祥の碑
国学は、荷田春満(1669~1736)により江戸において始められた学問である。春満は伏見稲荷大社神職の出。有名な赤穂事件のとき、当時吉良邸に出入りしていた春満が赤穂浪士たちにひそかに情報を提供し討入をたすけたというエピソードもある。その春満に最初に入門したのが神田明神神主家の芝崎好高であり、邸宅を講義の場として提供するなど国学の普及・発展につとめた。また春満の弟子・賀茂真淵(1697~1769)も、神主芝崎家の邸に一時住んでいた。真淵は、御三卿・田安宗武に仕え、その一方で江戸在住の武家・町人層を中心に国学を広めた。
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銭形平次の碑
野村胡堂(1882~1963)の名作『銭形平次捕物控』の主人公、平次親分が神田明神下台所町の長屋に恋女房お静と2人で住み明神界隈を舞台に活躍していたことから、昭和45年に日本作家クラブが発起人となり碑を建立した。
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阿部筲人(しょうじん)の句碑
「山茶花の散るや己の影の中」
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裏手にも、少し梅の木があった。
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角田竹冷の句碑
「白うをや はばかりながら 江戸の水」
意味は、白魚もとれる神田川の水は、恐れおおくも、その昔将軍さまのお茶の水にも召されたという江戸一番の名水である、ということらしい。
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小唄塚・小唄作詞塚
神田明神の神田祭は、江戸っ子の「粋」と「いなせ」と「勢い肌」の象徴であったので、江戸小唄の中に神田祭は随所に取り入れられている。
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さざれ石
伊吹山山麓で産出されたものが奉納されていた。
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男坂を下って次の湯島天神に向かいます。
ここは眺めがよいことから、毎年1月と7月の26日に観月(夜待ち)がおこなわれたそうです。又、当時の江戸湾を航行した船の灯台の役割も果たしていたといわれます。
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次回は湯島天神です。

(続く)


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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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