根津神社&権現太鼓

20130430

4月28日(日)に根津神社に、つつじ祭り及びイベントを見に行ってきました。
根津神社について、きちんと写真を撮ってなかったので、まずはそれをして、つつじはとても良い花が沢山ありました。それは次回のアップとします。
色々なイベントも期待して行ったのですが、その日のイベントには惹かれるものがなく、「根津権現太鼓」のみ撮っただけでした。

WIKIでおさらいすると、根津神社は1900年ほど前に日本武尊が千駄木に創祀したとされる。文明年間(1469年-1486年)には太田道灌により社殿が造られた。
万治年間(1658年-1661年)に同所が太田氏の屋敷地となったため東方に移り、のちさらに団子坂上(現 区立本郷図書館周辺、元根津)に遷座した[3]。
宝永2年(1705年)江戸幕府第5代将軍・徳川綱吉が兄綱重の子・綱豊(甲府藩主。のちの第6代将軍・家宣)を養嗣子に定めた。綱豊が江戸城に移ると、当社が家宣の産土神とされていたことから、綱豊の屋敷地(旧甲府藩邸、現在地)を当社に献納して普請を開始した[3]。社殿は宝永3年(1706年)に完成し、同年遷座した。
「根津権現」の称は明治初期の神仏分離の際に「権現」の称が一時期禁止されたために衰退したが、地元では現在も使われる場合がある。単に「権現様」とも称される[4]。文学作品では「根津権現」として出てくることが多い。

鳥居から入ります。
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神橋の上は、つつじ園を撮る人で鈴なりです。
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楼門も立派です。
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左右に随身
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神楽殿
今日もいろいろなイベントがあるようでしたが、私の興味を惹くものはなく、残念。
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つつじ祭りで人が押しかけているため、参拝者の列が唐門より手前から並んでいました。
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ここの透かし塀は見事です。
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左右に立派な燈篭があったが、銘文が見当たらず、由緒は不明。
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狛犬
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尻尾とか背中の毛並とか力強くていいですね。
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ここにも神紋「万字巴」がありました。
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拝殿
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ここは権現造りが完成したところと云われていて、とても立派で華麗ですね。
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祭神は、主祭神が須佐之男命、大山咋命、誉田別命であり、相殿神として大国主命、菅原道真公です。

神紋の「万字巴」は賽銭箱と狛犬の台座にありました。
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拝殿の神紋は、普通の「卍」でした。
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拝殿の屋根に気になるものを発見。
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おそらく、雨樋の代わりでしょうね。このほうが古い形なのかな。

本殿も華麗です。
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垂木も黒の漆塗りで、立派。
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徳川家宣奉納の神輿が公開されていた。
祭礼は天下祭として賑わっていたそうである。
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徳川家宣胞衣塚
第6代将軍・家宣の胞衣(胎児を包んだ膜と胎盤)を埋めた塚。当地が甲府藩邸であった時に家宣が生まれたことに由来する。
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つつじ園から、ずっと並んでいる「乙女稲荷」の鳥居
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つつじ園の様子は、次回アップします。
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境内で「根津権現太鼓」が披露されていました。全員女性で華麗、見事な演奏でした。
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氷川丸・みなとよこはま/横浜散歩

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4月25日の横浜散歩の続きです。
外人墓地から歩いてすぐの「みなとの見える丘公園」にやってきました。
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建物が多くなって、見晴らしは悪くなっていますね。
マリンタワーとインターコンチネンタルホテルが辛うじて見えます。
それでも大型船が横付けされてるのが港らしい。
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手前に建物が多くて、レインボーブリッジがはるか遠くの感じですね。
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ズームして撮りました。
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続いて、歩いてすぐ「ホテル・ニューグランド」に裏側から入り込みます。
中庭
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このホテルは、山下公園真向かいに位置し、横浜に於ける主要なランドマークの一つです。
横浜市は関東大震災で壊滅的な打撃を受けたため、当時の横浜市長の提案により、横浜市在住の有力者を集めた「横浜市復興会」を結成。そこで決議された「外人ホテル建設の件」が、ホテルニューグランド建設の端緒となった。 名称は公募によって集められたが、関東大震災で倒壊し廃業した外国ホテル「グランドホテル」の後継館として訪日客に謳う狙いで選ばれたとも、公募の中に適当な名称がなかったため、横浜市復興会計画部長の井坂孝が命名したという説もあり、定かではない。
こうしてニューグランドは、横浜市復興計画の一環として官民一体となって建設が進められ、当初は今日の第三セクターとして発足した。現在の本館は、1927年創業時に渡辺仁の設計で建築され、クラシックホテルの代表例として名高い。
このニューグランドの厨房から、ドリア、ナポリタン、プリンアラモードなど後に広く知られる料理が広まりました。

玄関を入ってすぐのアプローチ。実に優雅です。
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玄関
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山下公園からの眺め。
若いころ山下公園に遊びに来たとき、いつかこのホテルに泊まりたいね、とカミさんと話したことを思い出した。すっかり忘れていた(汗)
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マリンタワーも緑に埋まっています。
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「咲いたさいた桜が咲いた」の碑を見つけました。
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帰ってから調べてみると、1993(平成5)年に樹齢約50年の宮城県産のしだれ桜が寄贈されたものだそうです。
ちょうど向こうにこれから行く氷川丸が見えています。
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いよいよ、何度もこの辺に遊びに来ているのに、いままで乗らなかったのでこの日楽しみにしていた「氷川丸」です。
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氷川丸(ひかわまる)は、日本郵船が1930年に竣工させた日本の12,000t級貨客船。北太平洋航路で長らく運航された。
世界的には傑出した存在ではない中級サイズの貨客船ではあるが、その接客設備とサービスの優秀さによって太平洋を往来する著名人たちに愛用され、数多くの逸話を残した船として知られる。多くの日本商船が喪失された太平洋戦争でも沈没を免れた数少ない大型貨客船で、戦後も1960年まで北太平洋航路で運航を続けた。
船名は埼玉県さいたま市の氷川神社に由来するものである。これにちなみブリッジの神棚には氷川神社の祭神が勧請され、保存船となった後も氷川神社を祀っている。

船尾が優美です。
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いよいよ乗船。
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さすがに、通路は狭いです。
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この階段の優雅なこと!
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レストラン
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ノスタルディックな展示
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ホールのスイッチのところに洒落たステンドグラス。
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一等客室
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一等特別室
ベッドの上の飾り毛布が優雅。
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デッキに出ました。
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ほんとに航海に出発するときなら、船首の眺めはすごくワクワクしていたことでしょうね。
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隣の桟橋のマリーンシャトル。
この日はじめて見えたマリンタワーの全景です。
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救命ボートが、いかにもクラシックな船かを演出しています。
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大桟橋には客船が一つだけでした。
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下の機関室も見ました。私は機械屋としての仕事が多かったので、こういうところが大好きなのですが、みんなズンズン行ってしまうので、残念だった。また来よう!
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氷川丸のさよならメッセージ。名残惜しく下船です。
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やはり氷川丸は良かった。
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バックシャンの氷川丸
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「赤い靴はいてた女の子」の像にやってきました。
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野口雨情の詩になる童謡『赤い靴』をはいていた女の子にはモデルが存在したそうです。 1904年(明治37年)7月15日静岡県清水市宮加三(旧二見村)に生まれた「岩崎きみ」がその子である。 「きみ」とその母「かよ」とは、故あって北海道に渡るが、この地で母はまだ2歳になったばかりのわが子をアメリカ人宣教師ヒュエット夫妻にその養育を託すさだめとなった。 やがて宣教師夫妻には母国への帰国が命ぜられるが、このとき「きみ」は不治の病におかされており、夫妻はやむなくこの幼子を孤児院(当時麻布十番にあった鳥居坂教会の孤児院)に残して旅立った。「きみ」はひとり癒えることのない病の床にあって相見ることも叶わぬ母を慕いながらわずか9歳の短い生涯を終えた。 いま、この女の子は、青山墓地の鳥居坂教会の共同墓地(東京六本木)に眠っている。一方、母「かよ」はそんな娘の死も知らないまま、「きみ」はヒュエット夫妻とアメリカに渡り、幸せに暮らしていると信じ、1948年(昭和23年)に「きみちゃん、ごめんね」の言葉を残して64歳で他界したという。
♪赤い靴
(作詞:野口雨情/作曲:本居長世)
赤い靴はいてた女の子
異人さんにつれられて
行っちゃった

横浜の埠場から船に乗って
異人さんにつれられて
行っちゃった

今では青い目になっちゃって
異人さんのお国に
いるんだろう

赤い靴見るたび考える
異人さんに逢うたび
考える

この像のところから氷川丸が見えます。
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ここからこの日の最終ポイント、「日本郵船歴史博物館」に向かいます。

県庁の横を通り
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横浜税関の前を通り(振り返って見たところ)
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日本郵船歴史博物館に来ました。
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日本郵船の歴史、イコール日本の明治以降の航海の歴史ですよね。
船舶の変遷、各種船舶の構造、日本郵船の昔のパンフレット、客船で供されたサービス、昔の乗船記念品など見どころ満載でした。
写真撮影禁止だったので、館内の写真をネットで公開されているものを集めました。
私の撮った写真ではないですが、こんな感じです。
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今回の横浜散歩は、三溪園も良かったし、氷川丸も楽しかったし、横浜中華街の食事も楽しかったし、とても満足の一日でした。

(了)



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三溪園(2)・横浜中華街・外人墓地/横浜散歩

20130427

昨日の記事の続きです。
ちょっと疲れたので、三溪記念館の中にある茶席で休憩です。
25人に、お茶を点ててくださったのですが、大変だったと思います(笑)
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コースのところどころに、昔の三溪園を説明する写真が掲示されていました。
これは造成中の内苑
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いよいよ三重塔がある丘に上がります。
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頂上付近は両側の竹藪がすごいことになっていて、倒れ掛かって道を塞ぐ勢いです。
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見晴台「松風閣」にやってきました。今の見晴台は何の変哲もない建物でしたが、昔の「松風閣」の写真が園内に掲示されていました。
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昔の「松風閣」は、初代・原善三郎が別荘として建てたもの。命名は伊藤博文。ここの一室には下村観山が描いた「四季草花図」の障壁画があったが、関東大震災により、建物とともに消失した。

見晴台からの眺め。埋め立てられたところにガスタンクやら、工場やらが建っていてあまりいい景色ではありません。
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ズームすると、ちょっと見栄えが良くなったかな(笑)
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昔の写真で、右手の丘が今居るところだと思います。これを見ると、三溪園が海岸に面していたことがわかります。
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見晴台から三重塔に行く途中に「出世観音」がありました。
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「旧燈明寺三重塔」
京都・木津川市の燈明寺(廃寺)にあったもの。現在、関東地方にある木造の塔では最古。
建築:室町時代康正3(1457)年
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「初音茶屋」
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開園当時、三溪園には誰もが出入りできた(外苑)ばかりでなく、無料の湯茶サービスもあった。初音茶屋もその一つ。三溪園を訪れた芥川龍之介は、友人であった三溪の長男への手紙にこの湯茶接待の印象を書き、「ひとはかり浮く香煎や白湯の秋」という句詠んで締めくくってあったという。
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「横笛庵」
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「横笛の像}
横笛は今から800年ほど前、建礼院徳子に仕えた女官で、平家物語には平重盛に仕えた斉藤時頼(滝口入道)との悲恋が語られている。この像はその横笛が滝口入道から送られた恋文をもって作られたと伝えられたが、現存しない。なお横笛が出家後に住んだと言われる奈良・法華寺にも同様の像が伝わっているが、関わりなどは不明。
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「寒霞橋」
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寒霞橋と横笛庵の昔の写真
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「旧東慶寺仏殿」
縁切り寺の名で知られる鎌倉・東慶寺にあった禅宗様の仏堂。
建築:江戸時代寛永11(1634)年
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「旧矢箆原(やのはら)家住宅(合掌造り)」
飛騨・白川郷にあった建物。飛騨の三長者の一人といわれた矢箆原家の合成ぶりがうかがえる建物。
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「三溪園天満宮」
この天満宮は、もは間門(まかど)天神といい、三溪園にほど近い間門の旧家高梨家の先祖が本牧の丘の中腹に建てたもの。昭和52年に、ここに移されたそうです。
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入り口の辺に戻ってきました。見納めです。
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昼食は横浜中華街の「状元楼」で。上海料理の老舗です。
朝早かったのでお腹ペコペコ。美味しかった。
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食事が終わった後、おみやげ購入タイム30分。
私は家族への土産を三溪園で買ってしまったので、中華街の写真を撮っていました。
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さすが中華街の交番。いいですねえ。
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会芳亭
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このお店も有名ですよね。装飾がいいです。
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朝陽門
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関帝廟通り
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これは背中合わせに「天長門」と「関帝廟通」となっています。
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ここから、ちょっとバスに乗って外人墓地の近くまで行き、あとは「みなとの見える丘」、「山下公園」などずっと歩いて、バスには日本郵船歴史博物館のところで乗ります。

外人墓地
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墓地の案内図のプレート
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こりプケートにただ一人日本人の名前がありました。林貞子さんといって、フェリスの副校長をされた方ですね。
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外人墓地を出るときに、近くの園児でしょうか、ほがらかな一団がやってきました。こどもというのは、かわいいですねえ。
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(続く)


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三溪園(1)/横浜散歩

20130426

昨日4月25日、歴史クラブの行事で横浜を散歩してきました。
参加者は25名。バスをチャーターしての日帰り旅行です。
コースは、三溪園、横浜中華街、外人墓地、みなとの見える丘、山下公園、氷川丸、日本郵船歴史博物館。
7:30に狭山市を出発して、バスは渋滞もなく順調に走り、行く手にみなとみらいの大観覧車が見えてきました。
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大黒PAで小休止しましたが、その直前左右は輸出される車が見渡すかぎり並んでいるのは壮観です。私もかっては車関係の仕事をしていたので、こういう光景にはワクワクしますね。
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大黒PAは「フォンターナ・ダイコク」なんていう洒落た名前がついていました(笑)
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周りは高架の道路が交差して、壮観です。
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あれが大桟橋とか、港の見える丘とか、騒いでいるうちに最初の目的地、三溪園に到着。
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三溪園は、17.5haの敷地に17棟の日本建築が配置されています。
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実業家で茶人の原富太郎によって造園され、現在は公益財団法人三溪園保勝会が運営している。名称の三溪園は原の号である三溪から。2006年11月17日に国の名勝に指定された。

三溪園は、国の重要文化財建造物10件12棟(移築元:京都5棟、和歌山3棟、神奈川2棟、岐阜1棟、東京1棟)、横浜市指定有形文化財建造物3棟を含め、17棟の建築物を有する。単に各地の建物を寄せ集めただけではなく、広大な敷地の起伏を生かし、庭園との調和を考慮した配置になっている。

原富太郎は岐阜県出身の実業家で、横浜の原商店に養子として入り、生糸貿易で財を成した。原は事業のかたわら仏画、茶道具などの古美術に関心を持って収集した。平安時代仏画の代表作である「孔雀明王像」(国宝、東京国立博物館蔵)をはじめ、国宝級の美術品を多数所蔵し、日本の美術コレクターとしては、益田孝(鈍翁)と並び称される存在であった。彼は古美術品のみならず室町時代の旧燈明寺三重塔をはじめとする京都ほか各地の古建築を購入して移築、庭園も含めて整備を進めていった。1906年(明治39年)5月1日に市民に公開し、その後も建造物の移築は続けられた。

原富太郎の古美術コレクションは戦後の混乱期に散逸し、建造物だけがかろうじて残った。1953年(昭和28年)に財団法人三溪園保勝会が設立され、再び庭園の整備を行い、今日に至っている。
(以上WIKIPEDIAから)

園内に入ると、大池越しにここのシンボル三重塔が見えます。
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池の傍の藤がちょうど見どころでした。
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「鶴翔閣」
原三溪が住まいとして建てた建物。
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「御門」
京都東山の西方寺にあった薬医門
建築:江戸時代宝永5(1708)年
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「白雲邸」
三溪が隠居所として夫人と一緒に暮らした建物。
建築:大正9(1920)年
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「臨春閣」
紀州徳川家初代藩主の頼宣が和歌山・紀ノ川沿いに建てた数寄屋風書院造りの別荘建築。
建築:江戸時代慶安2(1649)年
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随所に灯篭とか石の鉢が置いてあります。
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「旧天端寺寿塔覆堂」
豊臣秀吉が京都・大徳寺に母の長寿祈願のために建てさせた寿塔(生前墓)を納めるための建物。
建築:桃山時代天正19(1591)年
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月華殿に上がる坂
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脇に可愛らしい滝が作ってあった。
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「月華殿」
京都・伏見城にあった、大名来城の際の控所として使われたといわれる建物。
建築:江戸時代慶長8(1603)年
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「聴秋閣」
京都・二条城にあったといわれる、徳川家光・春日局ゆかりの楼閣建築。
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竹林に筍が伸びていた。
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(続く)


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われに千里の思いあり(上巻・風雲児・前田利常)/中村彰彦

20130423

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いままで、「加賀百万石/津本陽」を読み、二代目前田利長(利家の長男)、三代目利光のことがわかった。そして、その時に興味を持った筆頭家老の本多政重の話を「生きて候/安部龍太郎」で読んだ。
そして、この本があることを知って、「なぜ加賀百万石は徳川政権の中で生きながらえたのか」について読むことにした。
作者の中村彰彦氏については、「名君の碑」という本で、これも私が敬愛する名君保科正之についての話で感銘を受けたので、楽しみに読み始めた。


越前の朝倉義景に仕えている侍上木新兵衛の娘お千世は、父が急死したため母親に連れられ金沢に来た。
お千世は前田利家の正妻お松の方おつきの奥女中に雇われる。
そして、秀吉の朝鮮侵攻のため肥前名護屋に利家が在陣していたとき、秀吉の各将への指図で、国許から洗濯女(実質は夜伽)を呼び寄せることになった時、お松の方が「誰ぞ希望する者はいないか」に対し、お千世が「私が参ります」と応じる。
お千世は、利家の子を身ごもる。利家はその子に「猿千代」と名前をつけてくれた。
その猿千代は、越中守山城主の前田対馬が守り役で育てられる。

ここで利家に付いて挿話がある。秀吉と共に吉野に花見を楽しんだときに利家が作った歌が二作。
散らぬ花風
ちらさじとおもふ桜の花の枝よしのの里は風もふかじな
花の祝
吉野山花の盛りの久しきに君がよはひはかぎりあらじな
利家は、一見槍一筋の荒武者のようだが、実は「論語」をよく読んで武将の生きる道について深く考える一方、参議と佐近衛権中将を兼ねて殿上人たちとも交わるうちに、和歌にも秀でるようになっていたのである。

猿千代が7歳のときに、利家は死ぬ。

嫡男利長が後を継いだが、前田家の対徳川家との最初の危機が発生する。それは利家の病が篤くなった時、家康が利家を見舞ったが、利家は最後の機会と思い家康の暗殺を企てる。慎重な利長はそれを止めたのだが、そういう計画があったことを家康に知られ、家康は「前田討伐」を宣言する。
利長は権中納言を辞職し、人質に芳春院(利家の妻・お松の方)を差し出して恭順を誓う。その交渉の際に友誼を深めるためとして、猿千代と徳川秀忠の次女子々姫との婚儀も決まった。猿千代8歳と子々姫2歳である。

家康は、前田討伐を止め、上杉討伐をすると発表する。天下を取るため、直江兼続と石田光成に兵を挙げさせる誘い水なのである。

前田家では、秀忠の娘を受け入れるのに、猿千代を二代目利長の養子とし、犬千代と名前を改めさせる。犬千代というのは、利家も利長も幼名がそうだったので、猿千代が後継者と宣言したわけである。

前田利家が関が原の合戦の直前、西上しようとすると、小松城主の丹羽長重が横槍を入れてきた。交渉の結果和議となり、犬千代は人質として小松城に入る。
丹羽長重と初対面のとき、長重が犬千代に梨を剥いてくれると、その梨を左手で受け取り、一口乳母のお信に食べさせてから、食べた。
長重が聞くと、特に外ではお信に毒見をさせてから食べている、左手で受け取ったのは武士は刀を扱う右手は常に自由にさせておくべきだと答える。
長重は、犬千代の聡明さに感じ入る。

結局前田利家は関ヶ原には間に合わなかったが、論功褒賞では北国平定を認められ、丹羽長重から取り上げた小松12万5千石と、弟の利政が動かなかったので、能登一国を召し上げられたが、それは利長に与えられた。結果、ここに加越能合せて「加賀百万石」が誕生したわけである。
そして、犬千代は8歳ながら小松城の城主となった。

お珠の方(子々姫)との婚儀も済んで、10歳の犬千代は利長に連れられ、お礼言上のため江戸に初めて出る。秀忠が自ら板橋宿にて出迎えるなど、徳川の対応はすこぶる好意的だった。
その後の接待も、鷹狩に誘われるとかすこぶる好意的に見えたが、いよいよ別れの挨拶に利長、犬千代が登城すると、場所は大広間(外様の扱い)、さんざ待たされたあげくの秀忠のそっけない対応で利長は冷水を浴びせられる。

その後、二人は伏見にまわって家康に挨拶する。利長は犬千代に、家康の人心掌握術の見事さを説明しながらこういった。
「いにしえの前漢の高祖劉邦は、籌策を帷幄のうちにめぐらして勝ちを千里の外に決した、といわれる。これは、計略さえきちんとできていれば戦場へはまだ千里以上離れているうちから勝ちを制することができる、という意味だ。」と王者の心得を説いた。犬千代ははじめて利長に教えを受けて嬉しくてならなかった。

徳川秀忠が朝廷より二代将軍に任じられ、家康が大御所になったので、利長と犬千代は伏見城に祝い言上に参上する。すると家康が言いだして、犬千代が家康の烏帽子親により元服する運びとなった。
前田家安泰のためには、吉事である。しかし、一方で前田は徳川の手駒であることに決着することになった。
犬千代は元服し、従四位下、松平筑前守利光となった。
そして、利長は幕府に隠居を許され、利光に家督を譲って、富山城に移った。

私は佐伯泰英の「居眠り磐音江戸双紙」が好きで読み進んでいるが、その中で加賀藩お家流として、富田・中条流の名前は出てきて知っている。その話が出てきた。
大聖寺攻めの際にもよく働いた人持組頭の富田越後守重政は、中条流の剣の道統を継いで、「名人越後」 と異名を取る者。そのせがれ重家も若くして剣技精妙の域に達し、無刀取りの秘術さえ身につけていた。これは剣を抜いた相手に素手で立ちむかい、一瞬の隙を突いてその剣を奪い取ってしまう摩討不思議な技である。
 ある時、利光は重家の秘術をなんとしても見たいと思いたち、かれをほかにだれもいない御座所に召して命じた。
「その方の家に伝わるという無刀取りによって、予の攻めを躱してみよ」
紋羽織を脱いで袴の股立ちを取った利光は、刀掛けの大刀をつかんで抜刀するや、ぴたりと右八双に構えた。まだ正座したまま柔和な顔だちを見せていた重家は、落ちついて答えた。
「されば御覧に入れたく存じますが、うしろの戸口より人がのぞいております。秘術なれば、お退らせ下され」
「そうか」
と応じた利光が、背後を振り返った時のこと。つと立って利光に迫った重家は、そのこぶしを押さえてしまい、「無刀取りとは、かようにいたすのでござる」といった。
大いに感じ入った利光は、ますます稽古に励んだため、その武芸は単なる殿さま芸などではなくなったのだ。

利長が藩主の頃に前田家に仕えていた本多政重が宇喜多秀家に義理を示したのと、直江兼続に乞われたため前田の録を離れていたが、再び藤堂高虎の紹介で利長を通じて利光に仕えることになった。
利光が三万石で召し抱えることを決めたのは、本多政重がよほど才覚と品格が優れていたのと、利光が政重と話してみて、よほど気に入ったからであろう。
そして、利長時代の臣が家老となっていて、利光としては使いにくかったところに、新たに利光が抱えた家来であるから、初めて利光の股肱の臣と云え、利光は政重を重用することになった。

前田家の徳川政権との関係で第二の危機は、利長が富山藩22万石を幕府に返上すると申請したときである。これは大阪城方の切り崩しに応じないと言う姿勢を明確にしたいという利長の考えだが、利光はそれを素直に受け入れられなかった。加賀百万石から利長隠居の所領として貸してある領地だからである。
この時も本多政重が家康と秀忠に対して上手に交渉して、加賀藩に戻すことを保証してもらった。
この結果により、本多政重は加増となり5万石の筆頭家老となった。

すぐにまた、第三の危機がやってくる。幕府の出したキリスト教禁教令である。高山南坊(高山右近)、内藤如庵、豪姫と従ってきた宇喜多秀家の旧臣などキリスト教徒が多かったためである。
利光は自ら出向いて、そうでなければ、大島に流されている宇喜多秀家への援助を打ち切ると豪姫を脅迫までして、強引に豪姫に棄教させる。


(中巻に続く)

古事記を知る(16)

20130422

3-5 八俣の大蛇
故所避追而。降出雲國之肥上河上在鳥髪地。此時箸従其河流下。於是須佐之男命。以爲人有其河上而。尋覓上往者。老夫與老女二人在而。童女置中而泣。爾問賜之汝等者誰。故其老夫答言僕者國神。大山
津見神之子焉。僕名謂足名椎。妻名謂手名椎。女名謂櫛名田比賣。亦問汝哭由者何。答白言我之女者自本在八稚女。是高志之八俣遠呂智此三字以音毎年来喫。今其可来時故泣。爾問其形如何。答白彼目如赤加賀智而。身一有八頭八尾。亦其身生蘿及檜榲。其長度谿八谷峡八尾而。見其腹者。悉常血爛也。此謂赤加賀智者。今酸漿者也。爾速須佐之男命詔其老夫。是汝之女者。奉於吾哉。答白恐亦不覚御名。爾答詔吾者天照大御神之伊呂勢者也。自伊下三字以音故今自天降坐也。爾足名椎手名椎神。白然坐者恐立奉。
爾速須佐之男命。乃於湯津爪櫛取成其童女而。刺御美豆良。告其足名椎手名椎神。汝等醸八鹽折之酒。且作廻垣。於其垣作八門。毎門結八佐受岐
此三字以音毎其佐受岐置酒船而。毎船盛其八鹽折酒而待。故随告而。如此設備待之時。其八俣遠呂智信如言来。乃毎船垂入己頭飲其酒。於是飲酔死由伏寝。爾速須佐之男命。抜其所御佩之問十拳劔。切散其蛇者。肥河變血而流。故切其中尾時御刀之刅毀。爾思怪。以御刀之前刺割而見者。在都牟刈之大刀。故取此大刀。思異物而。白上於天照大御神也。是者草那藝之大刀也。那藝二字以音
 故是以其速須佐之男命。宮可造作之地求出雲國。爾到坐須賀此二字以音下効比地而詔之。吾来此地。我御心須賀須賀斯而。其地作宮坐。故其地者於今云須賀也。玆大神初作須賀宮時。自其地雲立騰。爾作御歌。其歌曰。夜久毛多都。伊豆毛夜幣賀岐。都痲碁微爾。夜幣賀岐都久流。曾能夜幣賀岐袁。於是喚其足名椎神。告言汝者任我宮之首。且負名號稲田宮主須賀之八耳神。

(読み)
 カレヤラハエテ イヅモノクニノヒノカハカミナルトリカミノトコロニクダリマシキ コノヲリシモハシソノカハヨリナガレクダリキ ココニスサノヲノミコト ソノカハカミニヒトアリケリトオモホシテ マギノボリイデマシシカバ オキナトオミナトフタリアリテ ヲトメヲナカニスエテナクナリ イマシタチハタレゾトトヒタマヘバ ソノオキナアハクニツカミ オホヤマツミノカミノコナリ アガナハアシナヅチ メガナハテナヅチ ムスメガナハクシナダヒメトマヲストマヲス マタイマシノナクユエハナニゾトトヒタマヘバ アガムスメハモトヨリヤヲトメアリキ ココニコシノヤマタヲロチナモトシゴトニキテクフナリ イマソレキヌベキトキナルガユエニナクトマヲス ソノカタチハイカサマニカトトヒタマヘバ ソレガメハアカカガチナシテ ミヒトツニカシラヤツヲヤツアリ マタソノミニコケマタヒスギオヒソノナガサタニヤタニヲヤヲヲワタリテ ソノハラヲミレバコトゴトニイツモチアエタダレタリトマヲス ココニアカカガチトイヘルハ イマノホホヅキナリ カレハヤスサノヲノミコトソノオキナニ コレイマシノムスメナラバ アレニタテマツラムヤトノリタマフニ カシコケレドミナヲシラズトマヲセバ アハアマテラスオホミカミノイロセナリ カレイマアメヨリクダリマシツトコタヘタマヒキ ココニアシナヅチテナヅチノカミ シカマサバカシコシタテマツラムトマヲシキ
 カレスサノヲノミコト スナワチソノヲトメヲユツツマグシニトリナシテ ミミヅラニササシテ ソノアシナヅチテナヅチノカミニノリタマハク イマシタチヤシホヲリノサケヲカミ マタカキヲツクリモトホシ ソノカキニヤツノカドヲツクリ カドゴトニヤツノサズキヲユヒ ソノサズキゴトニサカブネヲオキテ フネゴトニソノヤシホヲリノサケヲモリテマチテヨトノリタマヒキ カレノリタマヘルママニシテ カクマケソナヘテマツトキニ カノヤマタノヲロチマコトニイヒシガゴトキツ スナハチフネゴトニオノモオノモカシラヲタレテソノサケヲノミキ ココニノミエヒテミナフシネタリ スナハチハヤスサマヲノミコト ソノミハカセルトツカノツルギヲヌキテ ソノヲロチヲキリハフリタマヒシカバ ヒノカハチニナリテナガレキ カレソノナカノヲヲキリタマフトキミハカシノハカケキ アヤシトオモホシテ ミハカシノサキモチテサシサキテミソナハシシカバ ツムガリノタチアリ カレソノタチヲトラシテ アヤシキモノゾトオモホシテ アマテラスオホミカミニマヲシアゲタマヒキ コハクサナギノタチナリ
 カレココヲモテハヤスサノヲノミコト ミヤツクルベキトコロヲイヅモノクニニマギタマヒキ ココニスガノトコロニイタリマシテノリタマハク アレココニキマシテ アガミココロスガスガシキノリタマヒテ ソコニナモミヤツクリテマシマシケル カレソコヲバイマニスガトゾイフ コノオホカミハジメスガノミヤツクラシシトキニ ソコヨレクモタチノボリキ カレミウタヨミシタマフ ソマミウタハ ヤクモタツ イヅモヤハガキ ツマゴミニ ヤハガキツクル ソノヤハガキヲ ココニカノアシナヅチノカミヲメシテ イマシハアガミヤノオビトタレトノリタマヒ マタナヲイナダノミヤヌシスガノヤツミミノカミトオホセタマヒキ

 (現代語訳)
 こうして高天原を追われて須佐之男命は、出雲国の肥河の川上の鳥髪という所にお降りになった。このとき、櫛がその川を流れ下って来たので、須佐之男命は、その川上に人が住んでいるとお思いになって、尋ね捜して上って行かれると、老夫と老女二人が、少女を間に置いて泣いていた。そこで須佐之男命が、「あなた方はだれか」とお尋ねになった。すると老夫が答えて、「私は国つ神の大山津見神の子です。私の名は足名椎、妻の名は手名椎といい、娘の名は櫛名田比売といいます」と申しあげた。
 また「あなたはどういうわけで泣いているのか」とお尋ねになった。これに答えて、「私の娘はもともと八人おりましたが、あの高志の八俣の大蛇が毎年襲ってきて、娘を食ってしまいました。今年も今、その大蛇がやって来る時期となったので、泣き悲しんでいます」 と申した。すると須佐之男命が、「その大蛇はどんな形をしているのか」とお尋ねになると、答えていうには、「その目は赤かがちのように真っ赤で、胴体一つに八つの頭と八つの尾があります。そして体には、ひかげのかずらや檜・杉の木が生えていて、その長さは八つの谷、八つの峰にわたっており、その腹を見ると、一面にいつも血がにじんで爛れています」と申しあげた。ここに赤かがちというのは、今いう酸醤(ほおずき)のことである。
 そこで速須佐之男命がその老人に、「そのあなたの娘を、私の妻に下さらないか」と仰せられると、「恐れ入ります。しかしお名前を存じませんので」とお答えした。すると須佐之男命は答えて、「私は天照大御神の弟である。そして今、高天原から降って来たところだ」と仰せられた。そこで足名椎・手名椎神が、「それならば恐れ多いことです。娘を差し上げましょう」と申しあげた。そこでハヤ須佐之男命は、たちまちその少女を爪形の櫛に姿を変えて、御角髪に刺し、その足名椎・手名椎神に命じて、「あなた方は、いく度もくり返し醸した濃い酒を造り、また垣を作り廻らし、その垣に八つの門を作り、門ごとに八つの桟敷を作り、その桟敷ごとに酒桶を置き、桶ごとにその濃い酒を満たして待ち受けよ」と仰せられた。
 それで命じられたとおり、そのように準備して待ち受けているとき、その八俣の大蛇がほんとうに老人の言葉のとおり現われた。大蛇はただちに酒桶ごとに自分の頭を垂れ入れて、その酒を飲んだ。そして酒に酔って、その場に留まって寝てしまった。このとき速須佐之男命は、身につけておられた十拳剣を抜いて、その大蛇をずたずたにお切りになったので、肥河の水は真っ赤な血となって流れた。そして大蛇の中ほどの尾をお切りになったときに、御剣の刃が毀(こぼ)れた。そこで不審にお思いになって、御剣の先で尾を刺し割いて御覧になると、すばらしい大刀があった。そこでこの大刀を取り出し、不思議な物だとお思いになって、天照大御神にこのことを申し上げてそれを献られた。これが草なぎの大刀である。
 さてこうして速須佐之男命は、新居の宮を造るべき土地を出雲国にお捜しになった。そして須賀の地においでになって、「私はここに来て、気分がすがすがしい」と仰せられて、そこに新居の宮を造ってお住みになった。それでその地を今でも須賀と呼んでいる。この大神が初めて須賀の宮をお造りになったとき、その地から盛んに雲が立ちのぼったので、御歌をお詠みになった。その御歌に、
八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を
とお歌いになった。
 そしてその足名椎神を呼んで、「あなたをわが宮の首長に任じよう」と仰せられ、また名を与えて、稲田の宮主須賀八耳神と名づけられた。

(解説)
○足名椎・手名椎の「ナヅ」は「撫づ」の意で、娘の手を撫で足を撫でていつくしむ、の意で名づけたのであろう。
○櫛名田比売は、書紀では「奇稲田姫」と記している。霊妙な稲田の女神の意。「櫛」の字を用いたのは、櫛をさした巫女であることを暗示するためであろう。
○高志は、北陸の越国とする説もあるが、出書国の古志郷(出雲市古志町のあたり)をさすと見ておく。斐伊川や神門川の下流の流域にあたる。
〇八俣のをろちは、「を」は峰、「ち」は霊威を表わす。書紀に「八岐大蛇」と記す。「身一つに八頭八尾あり」と記すとおり、頭と尾がいくつもある蛇体の水神大小の支流を合わせて流れる肥河の水霊である。
○革なぎの大刀は、倭建命が相模国でで野火攻めに逢ったとき、草なぎの剣で草を刈りはらった、という伝説が中巻に記されている。草なぎの剣は、熱田神宮のご神体とされている。
○須賀は、島根県大原郡大東町須賀の地。ここに須佐之男命・稲田比売命を祭る須我社がある。
○「妻ごみに」は、「こみ」はこもらせる意。妻をこもらせるために。

八岐大蛇は、肥河の水霊としての巨大な蛇神である。中国の神話でも、巨大な水霊の相柳(しょうりゅう)は、九首の人面蛇神とされている。一方クシナダ姫は、元来は神祭りの日に、神(水神)の訪れを待ち受け、神の妻となるべき巫女であった。酒を醸し、桟敷を結い、酒桶を並べて待つのは、神を祭るための準備であった。その姫が大蛇に呑まれるというのは、年ごとに雨期になると肥河が氾濫して、流域の稲田が壊滅する恐怖を、神話的に語ったものであろうクシナダ姫を中にすえて嘆く老夫婦は、水害の発生におびえる農夫の姿を思わせる。
英雄神スサノヲノ命が、大蛇を退治してクシナダ姫を救う話は、大蛇の形で表象された邪霊の暴威を鎮め、英雄の功によって川の氾濫を止め、豊作が約束されたことを意味している。
なお大蛇の尾から草薙剣が発見される話は、肥河の上流一帯が優秀な砂鉄の産地であり、肥河の流域で剣が鍛造されたことと関連があるであろう。大蛇の腹がいつも血に爛れていると いうのも、肥河に鉄を含んだ赤い水が流れ込む様と見ることができる。この霊剣が、天照大御神に献上されたとするのは、三種の神器の草薙剣の起源を説明するために、後から加えられた要素であろう。


雑誌の口絵
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日御崎神社の出雲神楽
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今年3月20日に行われた東京都民俗芸能大会で、葛西神楽が演じた「八俣の大蛇」は狂言風、歌舞伎風でとても良かった。
櫛名田比売
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須佐之男命と大蛇の立ち回り
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須佐之男命と櫛名田比売(古事記絵詞/山辺神宮蔵)
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須賀神社(島根県雲南市)
手前は歌碑
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ロビ第06号&07号組立/ロボット「ロビ」

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【第06号】

第6号で紹介されているロボットは、「弓曳童子」です。
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江戸時代に完成した「からくり人形」は、電池もモーターも無し、ぜんまいが動力源、動きはカムによって行います。
前掲の写真のは、江戸末期に「からくり義衛門」こと田中久重が製作した「弓曳童子」を、1998年に9代目玉屋庄兵衛氏が完全復元したもの。
矢を連続して4本放ちます。

第6号で届いたパーツ。
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今回の組み立て
①ヘッドスタンドにテストボードを取り付ける
②バッテリーケースを取り付ける
③テストボードに配線する
④サーボモーターを動かしてみる
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スイッチを入れたが、動きません(汗)
テキストに、異常な場合の症状からの原因も書いてあったので、配線の問題だということがわかった。
この辺の配慮は有難い(嬉)
ケーブルの両端を、コネクターに差し込み直す。
サーボモーター側は、裏蓋を外しただけで作業がやり直せたので助かった。
結果は、OK!!
サーボモーターの軸が動いた時は、嬉しかった。

完成した状態
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【第07号】

第7号で紹介されているロボットは、「クワトロ」です。
JAXA(宇宙航空研究開発機構)が、将来火星に送り込む探査ロボットの試作機です。
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NASaで開発され、2012年8月に着陸した「キュリオシティ」は重量900Kgと大きく思いものだが、「クワトロ」はわずか35Kgである。
「小さいけれど、すごく賢いもの」を目指して開発している。

「ロビ」に関しては、首モーター、肩モーター、腕モーターの説明が載っている。
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第7号で届いたパーツ。
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今回の組み立て
①左耳に裏側カバーを取り付ける
②両方の耳を頭部に取り付ける
③ボディに頭部を取り付ける
④首を振らせてみる
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完成状態
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首を振るだけの単純な動きだが、動くとやっぱり嬉しい(笑)

カミさんが、現在体調が悪くて寝たり起きたりだが、ロビちゃんは「バカ受け」である(笑)
ちょっとは気晴らしになっているようで、良かった(嬉)


ブルーライト

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ハイブリッド・ティー・ローズ
作出:1995年 日本 伊東良順
花弁色:藤
咲き方:四季咲き
芳香の強さ:強香
花形:剣弁高芯咲き

1994年JRC金賞「香りの大賞」受賞

このバラは、藤色の優美さと剣弁高芯咲きの端正さが絶妙なバランスで、素晴らしい芳香を併せ持った品種です。

「ブルーライト」とくると、私なんかは「ヨコハマ」と続けてしまう年代ですが、
もちろん薔薇の品種造りに携わっている方には、一歩でも青色に近づけたいということから、銘柄に「ブルー」と入っていたら、自信作と思ってもいいですよね。

私は、それまでなんとなく薔薇の花が好きで写真を撮っていましたが、最相葉月さんの「青いバラ」という本を読んで、薔薇の奥深さと、ミスター・ローズ故鈴木省三さんのことを知って、できるだけ薔薇の種類を集めたいと写真にのめりこんだ私です。
これだけの色が出ていたら、もうそれで最高! と私は思ってしまいますね。



2010年6月、旧古河庭園にて


シベリウス/交響曲第1番 ホ短調 作品39

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指揮:レイフ・セーゲルスタム
演奏:ヘルシンキ・フィルハーモニック・オーケストラ
録音:2002年5月

シベリウスはこの第1番と番号が付けられた交響曲を作曲する前に、民族叙事詩「カレワラ」に基づき、独唱と合唱を伴うカンタータ風の「クレルヴォ交響曲」(1891~92年)を作曲していた。「クレルヴォ交響曲」から本作が作曲されるまでの間に声楽を伴わない標題付きの交響曲が計画されたが放棄されている。すでに交響詩の分野では「フィンランディア」を初め、「エン・サガ」、「トゥオネラの白鳥」を含む「4つの伝説曲」など代表作となる傑作を創作していた。
本作に着手する(1898年4月)直前の1898年3月にシベリウスはベルリンでベルリオーズの幻想交響曲を聴き、大きな感銘を受けたことを記している。そしてシベリウスは滞在先のベルリンで早速交響曲の作曲に着手したのだった。
この頃のシベリウスは、音楽院の大学教授の座にあったのだが、雑務が多く作曲もままならず、しかも酒におぼれ浪費癖をおぼえ、自堕落な生活を送っていた。
しかし、そんなシベリウスを心配する人たちの運動で「芸術家年金」が授与されることになり、彼は教授を辞めて、酒も葉巻も控えこの作品の作曲に専念した。
しかしそれも長続きはせず、酒に酔ったあげく乱闘騒ぎまで起こしている(苦笑)
5月にはフィンランドへ帰り、国内各地を移動しながら作曲を進め、1899年の初めに完成させた。

交響曲第1番では後年の交響曲に見られるような有機的な構成はみられないが、なにかしらのイメージを喚起させるような、幻想的な雰囲気を秘めています。
交響詩風交響曲とったイメージでしょうか。30代半ばの若きシベリウスの情熱がこの曲に反映されて、民族的であり、ロマン的な雰囲気に満ちていて、繊細、かつ大胆であり、私にはとても魅力的に聴こえます。

第1楽章 Andante, ma non troppo - Allegro energico  
序奏付きソナタ形式。ティンパニのトレモロの上でクラリネットが寂しげな序奏主題を奏でる。突然第2ヴァイオリンが刻みを始め、アレグロ・エネルジーコの主部に入ると、残りの弦楽器が第1主題を提示する。この主題はシベリウス特有の雄大な広がりを感じさせる。第1主題がおさまったところで、ハープの特徴的な伴奏を伴ったフルートの副主題の後、オーボエが第2主題を提示する。展開部は幻想的で交響曲と言うよりは交響詩を連想させる。型どおりの再現部の後、終結部は金管楽器の重々しい響きに続いてピツィカートで締めくくられる。

第2楽章 Andante (ma non troppo lento)  
三部形式。第1主題は第1ヴァイオリンとチェロで演奏される穏やかなもの、第2主題はファゴットから木管楽器がフガート風に受け渡す。さらに副主題で盛り上がった後、中間部に入る。ここではホルンが穏やかな主題を奏でる。この後副主題を巧みに使いながら盛り上がり最初の主題が回帰する。

第3楽章 Scherzo.Allegro  
三部形式。スケルツォ主題はティンパニに導かれ、弦楽器、木管、ホルンが掛け合いながら提示する荒々しいものである。トリオ部分ではホルンが主体となり、伸びやかな牧歌を歌う。スケルツォが回帰すると、最初とは楽器の組み合わせや手順を変えて発展する。

第4楽章 Finale(Quasi una Fantasia).Andante - Allegro molto - Andante assai - Allegro molto come prima - Andante (ma non troppo)  
序奏付きソナタ形式。「幻想風に」という指示通り、幻想曲や交響詩のような楽章である。アンダンテの序奏では、第1楽章冒頭の序奏主題が弦楽器によりユニゾンで演奏される。アレグロ・モルトの主部ではクラリネットとファゴット、オーボエが不安げな第1主題を提示する。この主題が強さを増し、シンバルや大太鼓がアクセントをつけたところでヴァイオリンが下降音型で崩れ落ち、アンダンテ・アッサイの第2主題がヴァイオリンのユニゾンで切々と歌われる。やがてアレグロ・モルトに戻って第1主題による展開部に入る。そのまま再現部に入り、第1主題を再現した後、再びアンダンテとなり第2主題の再現が行われるが、曲はそのまま拡大を続けクライマックスを築き上げる。その後第1主題によるコーダとなり、急速に減衰し最後はピツィカートで曲を閉じる。
(以上Wikipediaから)

指揮のレイフ・セーゲルスタムは、1944年フィンランドのヴァーサ出身。
なによりも、彼の風貌がいい(笑)
サンタが指揮しているようじゃないですか。
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シベリウス音楽院やニューヨークのジュリアード音楽院で学び、指揮のかたわら随分作曲もしているとの事。
この録音はヘルシンキ・フィルの音楽監督をしていたときのものだから、いわば子飼いのヘルシンキ・フィルの良いところをとことん曳きだしていると思われる。
骨太でダイナミック、そして、これぞシベリウスと思わせる旋律の美しさ。
とても気に入ってます。


鎌倉街道散歩/高崎から(4)

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11日に歩いた鎌倉街道ですが、いよいよ4回目で目的地「一本松橋」まで記事にして終了となります。
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佐野の浮橋ならぬ木橋から「佐野の舟橋歌碑」に戻り、鎌倉街道を歩いていきます。
「常世神社」入り口の案内があって助かりました。
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常世神社

この神社は謡曲“鉢木”に主人公として登場する佐野源左衛門常世の宅跡と伝えられる場所に建っています。謡曲“鉢木”は観阿弥の作とされています。
領地を一族に奪われた源左衛門が、この里で窮迫の生活を送っていました。ある大雪の日、旅の僧(実は鎌倉幕府執権北条時頼)に一夜の宿を頼まれます。彼は暖をとる薪もないことから、秘蔵する盆栽の“鉢木”を焚いてこの僧をもてなしました。彼は僧との話の中で、今はこんなに落ちぶれているが、れっきとした鎌倉武士で、いざ鎌倉に事があれば真っ先に駆けつけるつもりで居ると話します。時頼は鎌倉に帰ると早速、諸国の武士に鎌倉集参を触れます。源左衛門が時頼の前に呼ばれ、当夜の僧が時頼であったことを知らされ、薪にした松・桜・梅の鉢に因んで、この文字の付く3領地を拝領したというものです。
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社殿をのぞくと、中に石祠が安置されていました。
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一画に、「鉢の木」を題材にした絵画が飾られていますが、普段は覆扉で保護されています。
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扉を開けると、鮮やかな色彩の絵があって吃驚しました。
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常世神社から、新幹線の高架沿いに少し行くと「定家神社」です。

定家神社

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社殿に比べ、境内の広さにびっくりしますが、戦前まで「定家さまの森」と言われるほど、木がこんもり茂っていたそうです。
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「定家」とは、小倉百人一首の撰者・藤原定家のことです。その藤原定家がこの神社のご祭神として祀られているわけです。
「定家神社由緒略記」によると、「創建年月詳か(つまびらか)ならず。相伝ふ処によると、定家は往時この地に来たり、草菴(そうあん)を結んで暫く居住の後、帰洛に臨みて別れを惜しみ、護持する所の観音像を土人に附与し記念とす。後土人欽慕の余り祠を建てこれを祭ると。観音像今尚存在せり。」
藤原定家がこの地に住んでいたのか、とちょっと驚きましたが、続けてこう書かれているんですね。
「往時この地を髙田の里と称し、上野國神明帳群馬郡西部に従三位髙田明神あり。是によって之を観すれば髙田明神は即ち本社となる。
而して新古今集の歌<駒止めて 袖打ちはらふ かげもなし 佐野の渡りの 雪の夕暮れ>
と詠ぜし紀伊國佐野を此処と誤認して定家を併祭せしより、後世遂に定家神社と称したるに至りし由、古文書による。現社殿は元文四己羊年(1739)造営。」
ということで、土地の人が勘違いしての創作となります。

思うに、近くの「佐野の舟橋」も「常世神社」も、謡曲と結びついているわけですね。
だから、この辺の人は謡曲に詳しくなり、謡曲の中に、「定家」という演目もあったことから、勘違いして「定家神社」を産み出してしまったのだと思います。
真偽を問うよりは、昔の人の教養の高さに感心したほうが良いのではないかと思いました。
結果として、ここ高崎に全国的にも珍しい「謡曲三名跡」を持つことになっているわけですから。

最近塗り直したのでしょう。実に社殿が鮮やかな色で、よく映えています。

拝殿
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本殿は、実に鮮やかな極彩色で、見事な彫刻がされています。
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神紋は、三つ葛の葉ですね。
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境内に、定家ならぬ万葉集の歌碑がありました。
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万葉集巻14 東歌
「佐野山(さのやま)に 打つや斧音(をのと)の 遠かども 寝(ね)もとか子ろが 面(おも)に見えつる」
(作者) 未詳。相聞往来の歌。
(大意) (佐野山の遠くに響く斧の音のように)遠くに離れてはいるが、供寝をしようというのか、あの娘が面影に見えた。

そして、松尾芭蕉の句碑もありました。
「松杉をほめてや風のかほる音」
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さきほどの万葉集の歌碑の横に「仁王堂」があります。
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昔は、道を隔てた東側にあったそうですが、昭和の初めに定家神社境内に移されたそうです。
そのお堂の中に仁王様が二体ならんで納められています。
珍しいですよね。
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境内に、何という花でしょうか、杉の林の下に一面に咲いていました。
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定家神社から新幹線の高架をくぐってすぐのところに「放光神社」があります。
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放光神社

社殿は屋根や土台が痛んできたということで、平成22年(2010)に建て替えられたので真新しくなっていますが、由緒はかなり古いのです。
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「明治維新に際し再興すといふ。上野国神名帳載する所の正四位上放光明神すなはちこれなり。此処に放光庵と称する仏堂あり。文禄中(1592-96)の建立なりしが、明治九年(1876)に至りこれを廃止、その跡を以て放光神社の神地に併す。堂は放光山天平寺と称する伽藍の跡なりと。」
鳥居の横には、「史蹟 放光寺 放光明神跡」と刻まれた、大きな石碑が建っています。
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裏面には、こう刻まれています。
「抑〃(そもそも)吾カ(が)佐野ノ郷ハ 奈良時代既ニ闢(ひら)ク 大化改新前屯倉(みやけ)ヲ設置セラレ 佐野三家ノ首 建守尊(たけもりのみこと)ノ子孫此地ニ住セリ 天平年間(729-49)放光寺ヲ建立シ氏寺トナス 又放光明神ヲ祀リ氏神トナス 彼ノ山上古碑建立者長利僧ハ即チ該寺ノ僧ナリ 尓後悠久千二百年 可惜(おしむべし)史蹟トシテ現存スルモノ唯一祀ノミ 時偶々(たまたま)昭和十四年十月一日 佐野村ノ高崎市ト合併スルヤ 道路ノ拡張ニ依リ地域狭小トナル為ニ 史蹟ノ湮滅(いんめつ)セン事ヲ恐レ記念碑ヲ建立シ両阯ヲ永久ニ保存セントス  昭和十八年三月二十八日  世話人 赤石治市郎 堀口甚四郎」

「山ノ上碑」の碑文に「佐野」という文字があり、山名とも距離的に近いことから、長利という僧がいた「放光寺」はここ佐野にあったと、長いあいだ信じられていました。
しかし、昭和49年(1974)前橋市総社町の山王廃寺発掘調査で、「放光寺」とヘラ書きされた瓦が発見され、今は山王廃寺が「放光寺」であったという説の方が有力になっているようです。

「三家(屯倉)」(みやけ)は、六世紀から七世紀前半にかけて、各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことだそうです。佐野では、健守命という豪族がその管理をしていたということですから、その子孫は代々財産のある長者であったに違いありません。
それを物語るかのように、佐野には「長者屋敷」という字(あざ)がありました。
実は、そこが「佐野の船橋伝説」に出てくる「朝日の長者」の屋敷があった所だという話があります。
ここもまた佐野ならではの、伝説と謎に満ちた地でありました。

ここの前に鎌倉街道が延びています
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ずっと道なりに歩いていくと、烏川にかかる「一本松橋」に出ます。

一本松橋

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一本松橋から上流を望むと「神籠石」が見えます。
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一本松橋は現在はコンクリート造りの頑丈な橋になりましたが、それまでは毎年のように大水で流されていたそうです。それで橋の無い時は、渡し船で川を渡っていたようです。
その際に、神籠石にかかる川の水で水量を測り、渡る目印にしていたそうです。


今回は、鎌倉街道上つ道のスタート地点高崎から、この一本松橋まで歩きました。
けっこう史跡や伝承が多くて、楽しめた一日でした。

(了)



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鎌倉街道散歩/高崎から(3)

20130414

11日に歩いた鎌倉街道の続きです。
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琴平神社参道の荘厳寺前で右に入る細い道があります。これが鎌倉街道だといわれています。
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ちょっと歩くと新幹線の高架にぶつかります。
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どうなるのかな、と近づいてみるとちょっと横にずれたところに道があります。
それを渡ると、さきほどの道とつながる方向に道が延びている。
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少し歩いたところに道祖神があります。

僧形道祖神

右の道が、いま歩いてきた鎌倉街道。
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天保4(1833)建立で、僧形の男女が雲の上に乗っている。「天孫降臨型」と呼ばれる、地方では非常に珍しいもの。
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双体道祖神には珍しく、並んで立っているだけのおとなしいものです。
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そこから更に歩いて行くと、少し先に「秩父巡礼の道しるべ」があります。

秩父巡礼の道しるべ

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馬頭観音があり、台座に「左 婦ぢおか ちちぶミち 右 たかさき」と彫られているそうです。
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「左 婦ぢおか ちちぶミち」は、右から彫られているのが読み取れます。
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傍にあるのが猿田彦と資料にありますが、「馬頭観世音」という文字がうっすらと読めます。
模様が刻んでありますが、何だかよくわからない。これが猿田彦なのかな?
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再び、鎌倉街道を歩いて行きます。
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「天満宮入り口」という小さな標柱があったので、寄ってみます。
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太天神天満宮

書かれている説明によると、謡曲「鉢の木」で有名な佐野源左衛門常世が創建したとの伝承のお宮でした。
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入ってすぐのところに、小さい双体道祖神がありました。かなり磨滅していますが、辛うじて手をつないでいるのがわかります。
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社額
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中には、石祠が納められていました。
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社の後ろに、いろいろな石仏が並べられていましたが、やはり「秩父巡礼の道しるべ」の馬頭観音がありました。
台座の右端に「右 やまな ふぢおか ちゝ婦」と彫られています。
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ここから少し歩きますが、万葉歌碑「佐野の舟橋歌碑」があります。
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佐野の舟橋歌碑

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歌碑に刻まれた文字はすっかり薄れていて読めません。
裏面には、文政十年(1827)建立とあります。

「かみつけの 佐野のふなはし とりはなち 親はさくれど わはさかるがへ」

昔、この辺りに、舟を並べて橋にした「舟橋」というのがありました。
この「佐野の舟橋」には、こんな悲しい伝説があります。
烏川を挟んで、東の佐野には「朝日の長者」と呼ばれた飯野主馬、西の片岡には「夕日の長者」と呼ばれた片岡民部という者がいました。
朝日の長者には那美(なみ)という娘、夕日の長者には小次郎という息子がいます。若い男女は、いつしか親の目を忍んで夜毎に逢引きをするような仲となりますが、それを知った親は二人が会えなくしようと、橋の板を何枚か外してしまいます。それとは知らず、いつもの通り闇夜の逢引きに来た二人は、足を踏み外して川の中へ。
翌日の川下で、しっかりと抱き合ったままの二人の死体が発見されました。
碑に刻まれている歌は、この伝説を詠った万葉歌だそうです。

万葉集が編纂されたのは奈良時代の759年頃だそうですから、佐野の舟橋の悲恋物語は少なくともそれ以前から語り継がれていたものですね。

ほかには、お地蔵さまと道祖神が置かれています。
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「佐野の舟橋」は、葛飾北斎の「諸国名橋奇覧」の中に、その姿が描かれていまから、有名な橋だったわけですね。
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碑のすぐ西方に今も木橋が架かっているということで、見にいきます。
この道も鎌倉街道の一つです。
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たしかに木橋です。すごい。
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豪雨などで度々流されますが、その度に木橋で架けられてきたそうです。
近年、当然ながら脚部のみ鉄製となっています。
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歩いて行くと、とても気持ちのいい風も吹いていて、最高ですね。
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のどかに釣りを楽しんでいる人もいました。
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すぐ近くにある「常世神社」から、次回の記事とします。



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鎌倉街道散歩/高崎から(2)

20130413

11日に歩いた、鎌倉街道上つ道の続きです。
竜広寺から、東の方に歩いて鎌倉街道が通っていた地帯にいき、佐藤病院の化け石を見に行きます。
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佐藤病院の化け石

佐藤病院というのは、元御殿医だそうですが、行ってみるとすごく立派な病院でした。
産婦人科のようで、高崎で出生する子は、みなこの病院で生まれるんじゃないかと思いました。
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玄関入口の東側のコーナーに小さな社と大きな石があります。
この石は、「化け石」(または、ぼけ石)と呼ばれていて、旧街道筋にあって、馬に蹴られたから馬蹴り石ともいわれているという。
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興禅寺の絵図

佐藤病院からちょっと歩くと、興禅寺です。
山門
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山門と興禅寺本堂の間に道が走っていますが、本堂の寺域の塀の前に、綺麗な石仏が立っていました。
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延宝6(1678)年建立の古いものですが、とても美しい観音様でした。
頭の上は化仏だと見え、手にはつぼみの蓮華を持っていますから「聖観音」だと思われます。
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興禅寺は、井伊直政による高崎城築城の際に境内をせばめられ、その後大河内氏が城主になってから、天保年間に現在地に堂宇(どうう)を移しています。旧市内では最も由緒ある寺院で、新田義重を開基として治承元(1177)年に創建されたと言われています。
その後衰えていたものを、和田城城主和田右兵衛大夫(わだうひょうえだゆう)信耀が再興して、菩提寺(ぼだいじ)としたという歴史があります。
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この興禅寺に伝わる絵図に鎌倉街道が書かれています。
高崎市のサイトで入手した「境内古絵図」
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和紙に墨で描かれた古い絵図です。今はまったく当時のおもかげはありませんが、烏川(からすがわ)の流れに沿って和田城、「いざ鎌倉」のために整備された鎌倉街道、街道に直接面した大きな敷地の中に興禅寺の様子が描かれています。
また、これに隣接する街道沿いには馬上宿(ばじょうのしゅく)の注記があります。高崎城築城以前の和田氏の時代のことで、天文から天正年間(1532~1591)の頃のものとされています。

興禅寺から竜広寺の前から入ったところにある坂道、「小万坂」に行きます。先ほどの古絵図に、すでに「小万坂」が書き込まれています。
この途中に「小万地蔵」があります。
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小万地蔵

鎌倉時代、夫妻の回国者があり、この辺で妻が病のため没しました。その妻の名を『小万』といい、里人はこれを哀れみ、堂宇を建立して地蔵尊を祀りました。
「小万地蔵」が出来て、それから坂を「小万坂」と呼ぶようになったのでしょう。
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地蔵堂のなかには、たくさんのお地蔵様が祀られています。
中央の小さなお地蔵様が小万地蔵です。
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ここから、鎌倉街道がはっきりしています。細い道がずっと続きます。
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小万地蔵から私は一旦高崎城址地下駐車場に戻り、車で城南小学校の手前まで行き、そこから歩きました。以後は、要所に車を置いて歩くということになります。
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鎌倉街道橋

城南小学校の横を歩いて行くと、上信電鉄の線路にぶつかります。
城南小学校の裏口の辺に踏切があり、そこを渡ります。
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渡って、ちょっと右に行くと「鎌倉街道記念碑」があります。
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鎌倉街道記念碑のところから、歩道橋がかかっていて、これが「鎌倉街道橋」なんだそうです。下の写真のクリーム色がそうです。
上を走っているのが、県道71号「西上州やまびこ街道」の「城南大橋」です。
「鎌倉街道橋」の下を走っているのが、県道71号から国道17号(中山道)に乗るための車道です。
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鎌倉街道橋を渡ると、右手に琴平神社の森が見えます。
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琴平神社

通称「多中のこんぴらさま」と呼ばれる琴平神社です。
石段下にある看板には、文化年間(1804~1817)頃、高崎藩士・寺田宗有(むねあり)が、一昼夜で讃岐から分霊を勧請したと伝わる、と書かれています。
寺田宗有という人、天狗の化身か?

山門
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外側には随身
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内側には、なんと仁王様です。
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境内
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石段の両脇を天狗が守っているという珍しい神社です。
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拝殿の扁額
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神紋は「葉団扇」ですね。
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天狗が奉納されています。
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本殿
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本殿の横に大黒天が祀られていた。
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絵馬殿
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立派な奉納額
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ここにも天狗が奉納されている。
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内部には、色々な絵馬が奉納されていました。
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社殿がある小山の麓に、溶岩で出来た洞穴があります。
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中へ入ってみると、「和田稲荷大明神」が祀られていました。
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境内には、飯玉神社も祀られています。
琴平神社のある新後閑(しごか)という地名の由来は、和田氏の家臣・新後閑左京亮が居住していたことからだそうです。
その新後閑氏の祖先・倉賀野氏が祀る飯玉神を勧請したのが、この飯玉神社だということです。
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失礼して中を覗くと、大黒様、えびす様もいらっしゃいますし、金精様のようなのもいらっしゃいます。
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境内には、昭和45年(1970)に建立されたという「天満宮」もあります。
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面白いと思ったのは、神社額と賽銭箱の奉納者です。
福田赳夫氏の賽銭箱、中曽根康弘氏の神社額。
これが奉納された頃は、群馬県を二分してトップ争いをしていた両政治家の揃い踏みでした(笑)

琴平神社で、ずいぶん写真を載せてしまい、あまり進んでいませんが、残りは次回とします。



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鎌倉街道散歩/高崎から(1)

20130412

昨年は、色々な取り組みをはじめたせいで鎌倉街道に関してはほとんど出来ませんでした。
今年は再度巻き返しを図ります。
昨日11日に、鎌倉街道上つ道のスタート地点である高崎から佐野の一本松橋まで歩きました。
赤が鎌倉街道、緑が実際歩いた道、黄色が史跡です。
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関越自動車道高崎インターから、ナビを頼りに高崎城址地下駐車場まで行き、ここで車を置きます。
高崎城址から鎌倉街道を歩きだす前に、高崎駅近くの大信寺に向かいます。
ここには、徳川忠長の墓があります。

大信寺

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徳川忠長は、二代目将軍秀忠の次男です。秀忠とお江は忠長を溺愛し次期将軍にしようとしますが、春日局が家康に「天下泰平のためには嫡子相続を」と直訴し、家光が将軍になったことは有名な話です。
忠長は、それでも甲府・駿河・遠江合せて55万石を領し、駿河大納言と呼ばれました。しかし徳川忠長は、家光に憎まれたこともあり、乱行があったとして高崎城に幽閉され、寛永10年(1633)に自刃させられました。

墓所入り口の扉が閉ざされ、閂がかけられていたので、ご住職にお願いして開けていただきました。
入ってすぐの場所に忠長の墓がありますが、その手前に大きな武蔵型板碑がありました。
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忠長の墓
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高さ2.3メートル余の五輪塔です。
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五輪塔の火輪の部分に葵の紋が刻んでありますが、「裏葵」となっています。
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忠長の33回忌、家光は既に他界していたので、ようやく墓を建立できたのですが、その際罪人だったので表葵をはばかり、裏葵にしたそうです。

ちなみに葵の紋については、家康が「将軍家は表三つ葉、尾張家は表二つ裏一つ、紀伊家は表一つ裏二つ、水戸家は裏三つとする」と定めたとされています。
ところが、水戸黄門の例の印籠の紋が表葵三つであるように、なぜかこの家康の命令は守られていないようです。

忠長の墓の横に「守随彦三郎の墓」があったので、これも紹介しておきます。
江戸の「秤座」守随家の三男です。守随家は武田家から甲斐における秤の製造・販売の特権を与えられていた。武田氏滅亡後、家康から当初は甲斐一国を認められ、最終的には東33ケ国の特権を得たといいます。
高崎では三男彦三郎が「高崎秤座」を開き、地方秤座の名代役を幕末まで務めた、と説明書きがありました。
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ここから、高崎城址に戻ります。

高崎城址

高崎城の地には古くは和田城と呼ばれる城がありました。和田城の創建は古く、平安時代末期に遡り、この地の豪族和田義信が築城したと言われます。
室町時代に関東管領の支配するところとなると、和田氏は管領の上杉氏に帰属します。その後武田信玄についたり、き北条氏に属したりします。豊臣秀吉の小田原征伐の際に前田利家・上杉景勝等の連合軍に大軍をもって包囲され、落城、廃城となりました。
関東に徳川家康が入部した際、井伊直政が家康の命により、和田故城の城地に近世城郭を築きました。この地は中山道と三国街道の分岐点に当たる交通の要衝であり、その監視を行う城が必要とされた為です。

城址を囲むお堀が綺麗です。
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東門
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乾櫓
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現在の天守閣、市役所の威容がそびえています。
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堀伝いに歩いてきて、「三の丸土塁」にやってきました。
ここが鎌倉街道上つ道の出発点です。
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左右に堀が続いています。
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いよいよ鎌倉街道を歩きだします。
三の丸土塁を振り返る。
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高崎公園の横を歩いていくと頼政神社です。

頼政神社

境内に足を踏み入れるとすぐに、内村鑑三の碑がありました。
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景色が映りこんでいて、わかり難いですが、こう書かれています。
上州無知亦無才
剛毅木訥易被欺
唯以正直接萬人
至誠依神期勝利
              鑑三

その意味は
「上州人としての私は、知恵も才能もなく、 剛毅木訥で、欺かれやすく、ただ正直をもって万人に接し、神によって至誠を尽くし、勝利を期した。鑑三」です。

(頼政神社 案内板)
 元禄八年(1695年)松平右京大夫輝貞公(大河内氏)が高崎藩主に封ぜらるや、同十一年(1698年)其の祖先源三位頼政公を祀って城東石上寺境内(現在東京電力営業所のある所)に頼政神社を建てた。宝永七年(1710年)輝貞公越後村上に転封せらるるや、社も亦其の地に移され、数年にして享保二年(1717年)高崎に再転封されるや社はまた現在地に移されたのである。 頼政公は、平安末期に、源家正統に生まれた武将にして歌人である。白河法皇に擢んでられて兵庫頭となり保元、平治の乱に功をたてた。後に剃髪して世に源三位入道と称す。 後年以仁王を奉じて平氏の追討を図り事破れて治承四年(1180年)宇治平等院で自刃した。家集『源三位頼政御集』がある。又、宮中で鵺を退治した話は有名である。 
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狛犬が、いい感じですね。
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拝殿
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神紋は「桔梗」ですね。
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本殿は朱塗りで立派です。
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頼政神社の社宝の写真が高崎市HPに掲載されていました。

稲妻の鎧
稲妻の鎧 稲妻の鎧は、篭手(こて)に雷文があることから、この名前がついています。
この鎧は、松平(大河内)輝聴(てるとし)が、黒船来航など世情風雲急を告げた天保(1830~1843年)の頃造らせたもので、大鎧(おおよろい)の形をとっていて、古い小札(こざね)も一部用いられています。
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白銀造太刀
輝貞が元禄時代に武蔵国の刀匠(とうしょう)藤原助隣に作らせたもので、箱書に元禄12(1699)年の年号が記してあります。
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源三位頼政は、歌人としても有名です。
新古今和歌集には
「今宵たれすずふく風を身にしめて吉野のたけにつきを見るらん」
千載集には
「都にはまだ青葉にて見しかども紅葉ちりしく白川の関」
恋歌で
「思へどもいはで忍ぶのすり衣心の中にみだれぬるかな」
などがあります。

次いで、高崎の地名のもととなったという竜広寺に向かいます。

高崎山竜広寺

山号の「高崎山」には、有名な由来があります。
「竜広寺」は、箕輪城主だった井伊直政が和田(高崎の旧称)に城を移した際、箕輪から白庵(びゃくあん)和尚を招請して開山したといいます。
直政は和田という地名も改めることとし、「松ヶ崎」にするか「鷹ヶ崎」にするか決めかねて、和尚に相談した。
和尚は、「松」も「鷹」も生き物は必ず死ぬものだから、「高」の字を用いて「高崎」とするのが良いだろう、と答えたそうです。
白庵和尚によって「高崎」の地名が決まったことから、「竜広寺」の山号は「高崎山」となったといいます。

山門
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山門の扁額に「高崎山」
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山門のところの枝垂れ桜が、盛りは過ぎていますがまだ咲いていました。
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本堂
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本堂の額を行者さんが支えています(笑)
その上の龍と麒麟の彫刻も素晴らしい。
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屋根の上の獅子
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ここ「竜広寺」には、「元ロシア兵の墓」があり、高崎市の指定史跡になっています。
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ここに眠る3人のロシア兵は、明治37年(1905年)の日露戦争に於いて捕虜となり、「竜広寺」に収容されてのち亡くなった兵士の墓だそうです。
当時、高崎には500人を超える捕虜が、市内の寺院などに収容されていたという。
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日露戦争では、高崎第15連隊が旅順港攻撃に参戦し、3日間に及ぶ「164高地」の激戦で、568人もの犠牲者を出してついに陥落させた。 「164高地」は、その功を讃えて、奇しくも「高崎山」と名付けられたという話もあります。

「ロシア兵の墓」がある一角は、もともと「陸軍墓地」です。
高崎の陸軍病院で亡くなった人218人の墓石が、ズラッと立っていました。一人一柱というのは丁寧ですね。
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鎌倉街道散歩/高崎から(2)に移動するには、下記クリック
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楽園のカンヴァス/原田マハ

20130410

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内容を紹介すると、ニューヨーク近代美術館の学芸員ティム・ブラウンは、スイスの大邸宅でありえない絵を目にしていた。MOMAが所蔵する、素朴派の巨匠アンリ・ルソーの大作『夢』。その名作とほぼ同じ構図、同じタッチの作「夢を見た」が目の前にあるのです。持ち主の大富豪は、真贋を正しく判定した者に作品を譲ると宣言、ヒントとして謎の古書を手渡した。好敵手は日本人研究者の早川織絵。リミットは七日間で、その古書を毎日一章ずつ読み、ヒントを得る。ピカソも登場し、二人の天才画家が生涯抱えた秘密が、いま、明かされようとしている。

好敵手(ライバル)は日本人研究者、早川織絵です。
話の冒頭では、なぜか大原美術館の監視人のアルバイトをしています。かってはその世界で注目の的だった新進気鋭の研究者だったのに、なぜか?
どうして監視人をしているのか?

そして、「カンヴァスに塗り籠められた真実」という疑念がティム・ブラウンに突き付けられます。
この絵(アンリ・ルソーの「夢を見た」)の下には、ピカソの「青の時代」の作品がある、つまり、ピカソの作品に上書きした絵ではないか?という推理です。
アンリ・ルソーの絵を守るのか、ピカソの「青の時代」の作品を発掘するのか?

息もつかせぬ展開が、ジェットコースターのように読んでいる者を揺さぶってくれるんですね、この小説は。

新聞の書評で面白そうだと思い図書館に予約したら、予約順番が35番でズッこけました。それでようよう順番が来て読み始めたら、止まりません。カミさんとも取り合いになって、カミさんが持っていたいというのでアマゾンで購入しました。

原田マハさんという方の作品は初めてでした。読み終わって彼女の経歴をみたら、ある意味納得。
1962年、東京都小平市生まれ。中学、高校時代を岡山市で過ごす。関西学院大学文学部日本文学科および早稲田大学第二文学部美術史科卒業。マリムラ美術館、伊藤忠商事、森ビル森美術館設立準備室にそれぞれ勤める。森ビル在籍時、ニューヨーク近代美術館に派遣され同館にて勤務。その後フリーのキュレーター、カルチャーライターに。
MOMAに勤務したこともあり、キュレーターの経験もある。
この小説が真に迫っているのは納得でした。
他にも、ずいぶん面白そうな題の小説を書いています。ちょっと追いかけてみたい作者ですね。

この本は、山本周五郎賞をはじめとして、色々な賞を取っています。
ちょうど今朝の新聞で、「本屋大賞」の発表がありました。
この本もノミネートされていましたが、大賞は石田尚樹氏の「海賊とよばれた男」でした。


全集のなかの一冊でアンリ・ルソーの画集を持っています。
大學を卒業して2年目、結婚したばかりのころに、美術好きのカミさんが欲しいといって、隔月配本の全集を買いました。給料が5万くらいのときに、この全集は一冊4000円でした。
大版の本で、ずっしりと重くて手に持ってみることができないほどです。
当時は高い買い物だと思いましたが、今ではこんな大きな本は出版されていないと思います。気に入っています。
アンリ・ルソーの作品の中から、私の好きなものを二つ紹介しておきます。
スキャナーがA4サイズなので、全部入らないのでゴメン。

「謝肉祭の夕べ」の部分
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ジャングルものの中では、私も「夢」が一番好きですが、もう一つあげるとすれば、これ。
「陽気なおどけものたち」の部分
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山王日枝神社/東京都千代田区永田町

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昨日は、カミさんが介護から解放される日だったので、カミさんの行きたい所を案内しましたが、一つ私が行きたい所も入れ、日枝神社にお参りしました。

日枝神社は江戸三大祭の一つ、天下祭の山王祭が行われることで有名です。
私は昨年、猿田彦の写真が欲しくて、せっかくだからと先頭から最後まで全て写真を撮りましたが、それは記事にしています。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-968.html

文明10年(1478年)、太田道灌が江戸城築城にあたり、川越の無量寿寺(現在の喜多院・中院)の鎮守である川越日枝神社を勧請したのに始まるといいます。徳川家康が江戸に移封されたとき、城内の紅葉山に遷座し、江戸城の鎮守とした。
慶長9年(1604年)からの徳川秀忠による江戸城改築の際、社地を江戸城外の麹町隼町に遷座し、庶民が参拝できるようになった。社地は家康により5石、元和3年(1617年)に秀忠により100石、そして寛永12年(1635年)に徳川家光からの寄付を加えて600石となった。
明暦3年(1657年)、明暦の大火により社殿を焼失したため、万治2年(1659年)、将軍家綱が赤坂の松平忠房の邸地を社地にあて、現在地に遷座した。この地は江戸城から見て裏鬼門に位置する。

地下鉄南北線の「溜池山王」駅から歩いてすぐ、まず社務所横に通じる細い石段の参道がありましたが、ここからは登りません。
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南参道に立つ山王鳥居
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「山王造り京風二重鳥居」、俗に「山王鳥居」(その形から「合掌鳥居」「日吉鳥居」)と呼ばれる、鳥居の上部が合掌した手のような三角の形になった鳥居は、滋賀の日吉大社を総社とする山王神社の特徴。山王の教えと文字を形にしたものといいます。
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この参道は山王橋といって、道路を挟んでいます。エスカレーターがあるんですね(笑)
便利です。
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振り返ると、すごいです(笑)
東京のど真ん中にあるんだなと、わかりますね。
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ちょっと、いい表示ですね。
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神門のところに来ました。
日枝神社は大山咋神を主祭神とし、相殿に国常立神、伊弉冉神、足仲彦尊(たらしなかつひこのみこと)を祀ります。
足仲彦尊とは、仲哀天皇のことです。八幡神社の祭神、応神天皇の父であり、母である神功皇后の夫であらせられます。

大山咋神について説明しておきましょう。
須佐之男命と神大市比売との間には、宇迦御魂神(稲荷神社の祭神)と大年神が生まれます。その大年神と天知迦流美豆比売との間に生まれたのが大山咋神です。
須佐之男命の孫ということになります。
古事記では、「またの名を山末之大主神という。この神は近江国の比叡山に鎮座し、また葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。」と書かれています。
大山咋神の「くひ」は神霊の依り代としての杭の意であろうといわれます。日枝神社の祭神で比叡山の山の神です。
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ズラッと酒樽が並んでいます。
古事記で「葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。」と書かれていますが、これは京都の松尾大社のことで、渡来人の秦氏の氏神でした。
秦氏は酒造の技術も日本に伝えたことから、中世以降、松尾神(大山咋神)は酒造の神としても信仰されているわけです。
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外に向かって随身像
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内側には神猿像が奉安されています。猿は山王信仰で神の使いです。
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神門の内側には、「皇城の鎮(しずめ)」額が。
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本殿
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本殿の前にも神猿がいます。右が夫で左が妻&子。神猿は「まさる=魔去る」で超~縁起がいいそうです。
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お参りをしました。
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神紋は三つありました。
二葉葵、三巴、および菊紋ですね。
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拝殿の天井絵が見事なのですが、授与所で図録を売っていたので求めてきました。
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屋根の水受けが綺麗な形でした。
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二対の灯篭が見事なので、説明を読むと、とんでもないものでした。
万治2(1659)年に奉納されたもので、明暦大火の二年後に奉納されたもので、奉納者は徳川家綱です。
現存する数少ない江戸時代初期の工芸品であり、徳川将軍家より奉納されたという、貴重な品でした。
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続いて、宝物館を拝見。無料でした。
大田道灌像
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古い山王祭の説明書き
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境内に見事な藤棚があったが、驚いたことにほころびかけているのがあった。
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岐阜県揖斐郡の山中から発掘された「さざれ石」
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絵馬も神猿が多い。
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末社の山王稲荷参道。鳥居が見事です。
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境内を全部見終わったので、やはり境内に有った和食レストランでお昼を食べました。
築地の「植むら」がしているお店で、美味しかった。
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満腹して、幸せな気分で次の目的地に向かいますが、入るときに通らなかった表参道から出ました。
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表参道の山王鳥居
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横には、ご神木の銀杏の樹が。見事な太さです。
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常楽寺の一本桜/埼玉県狭山市

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今年から、「狭山の歴史ガイドの会」に入りました。私の初仕事が5月にある史跡めぐりでの説明で、私の担当は常楽寺の石仏などに決まりました。
それで、確認したいことがあって、昨日、常楽寺に行ったのですが、思いがけなくもこの一本桜が咲いているのに出くわしました。
以前、ここに見学に来たときに、ここにも良さそうな桜の木があるなとは思ったのですが、すっかり忘れておりました。
家から歩いて来れる場所で、ほんとに近い所なのに、申し訳ないなあ、と反省。

常楽寺。現在無住ですがこの中に30体もの仏像があり、ほんとはすごいのですが。
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桜の全景
かなり散ってしまっていますが、まだまだ花が残っていてくれました。
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何も説明書きが無いので、推測ですが、エドヒガンだと思います。樹齢は、私が二かかえほどの幹の太さからして、7、80年くらいだと思われます。

石仏を保護するように枝を伸ばしている。
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しっかりとした幹
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まだまだ花が旺盛です。
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枝が一本、スックと伸びているのがいいですね。
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まだまだ花が残っています。
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ズームして、花を楽しみましょう。
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櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/sakuratop.html








ロビ第05号組立/ロボット「ロビ」

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第5号で紹介されているロボットは、まず「通天閣ロボ」です。
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通天閣観光(株)が、日本橋商店街と共同制作したもの。
製作は岩気祐司氏で、外装は日本橋商店街の各社が得意なパートを受け持った。
身長は、人が行けるところなら何処でも行けるということから、170Cmで実際の通天閣の約60分の一。
テレビ出演を意識して、電源が入って居なくても直立していられるようにしたこと。
こういうイベント出演は、待ち時間が長いからだとか。
2010年3月にお披露目して、イベントが無ければ、通天閣のどこかに居るとのことです。

二つ目のロボットは、ロビの設計者高橋智隆氏が製作した、女性型二足歩行ロボット「エフティ」。
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技術的な問題は、ボディ内部に歩行のための部品をたくさん入れると着ぶくれしてしまう。すると女性らしさ表現するためのきゃしゃなボディ、細い手足を実現しにくいことである。

細い二の腕やふともも。バッテリーは腰の中に水平に入っている。
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脚をX脚にしたり、女性らしいしなやかな動きを実現させているとか。


第5号で届いたパーツ。
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いままで保管していたパーツの中から使用。
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製作するのはヘッドスタンド専用のパーツ
①左胸に上腕を取り付ける
②ボディを組み合わせる
③サーボモーターを取り付ける
④バックカバーを取り付ける
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完成したパーツ
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ヘッドスタンドなので、完成した頭部を乗せる台。
サーボモーターが付いているので、胴体や脚部を汲んでいる間退屈しないように、首振って話すくらいのことが出来るのかな?
楽しみではある。

まだ未完成の頭部をチョコンと載せてみた(笑)
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プリンセス・ミチコ

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系統 F フロリバンダ
作出 1966年 イギリス ディクソン社
作出年 
花の形 半八重平咲き
花の色 オレンジ
咲き方 四季咲き
花の大きさ 中輪
芳香の強さ 微香

1967年、イギリスのディクソン社(Dickson Nurseries Limited)から当時皇太子妃だった皇后美智子に献呈された。女王エリザベス2世から贈られたとも伝わる。

この花は、見事にいまの皇后の姿とダブッて見える。
凛とした気品が漂い、その微笑に広大無辺な愛を感じる。

このバラのことを調べていて、品川区立公園「ねむの木の庭」(東五反田5)を知った。
この公園は2004年8月26日、美智子皇后の実家・旧正田邸跡地に開園。皇后陛下が高校生時代に作った詩「ねむの木の子守歌」にちなんで命名され、同公園の中心にはねむの木が植えられているほか、約60種類の草花、50本の樹木が植えられている。広さはおよそ200坪。

ここにも、このバラが植えられているそうなので、バラの季節になったら訪ねてみようと思う。

美智子妃殿下が登場するニュースを見るたび、頭が下がる思いがする。普通の家庭から皇室に入り、皇太子妃、そして皇后の立場を見事に全うしておられる。
周りを常に愛そうとなさっている、実に芯の強い美しさがそこにある。


2001年5月 向ヶ丘遊園バラ園(今は生田緑地バラ苑)にて


古事記を知る(15)

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3-4 大気都比売神
又食物乞大氣津比賣神。爾大氣都比賣。自鼻口及尻。種種味物取出而。種種作具而進時。
速須佐之男命。立伺其態。爲穢汚而奉進。乃殺其大宜津比賣神。故所殺神於身生物者。於頭生蠶。於二目生稲種。於二耳生粟。於鼻生小豆。於陰生麦。於尻生大豆。故是神産巣日御祖命。令取玆。成種。


(読み)
 マタヲシモノヲオホゲツヒメノカミニコヒタマヒキ ココニオホゲツヒメ ハナクチマタシリヨリ クサグサノタメツモノヲトリイデテ クサグサツクリソナヘテタテマツルトキニ ハヤスサノヲノミコト ソノシワザヲタチウカガイテ キタナキモノタテマツルトオモホシテ スナハチソノオホゲツヒメヲコロシタマヒキ カレコロサエタマヘルカミノミニナレルモノハ カシラニカヒコナリ フタツノメニイナダネナリ フタツノミミニアハナリ ハナニアズキナリ ホトニムギナリ シリニマメナリキ カレココニカミムスビミオヤノミコト コレヲトラシメテ タネトナシタマヒキ

 (現代語訳)
 また須佐之男命は、食物を大気都比売神に求めた。そこで大気都比売は、鼻やロまた尻から品々のうまい食べ物を取り出して、いろいろに調理し整えて差し上げるとき、速須佐之男命は、そのしわざを立ち伺って、食物を穢して差し出すのだと思って、ただちにその大気都比売神を殺してしまった。そして殺された神の身体から生まれ出た物は、頭に蚕が生まれ、二つの目に稲の種が生まれ、二つの耳に粟が生まれ、鼻に小豆が生まれ、陰部に麦が生まれ、尻に大豆が生まれた。そこで神産巣日の御母神は、これらを取らせて五穀の種となさった。

 (解税)
大気都比売神: 「け」は「うけ」「うか」と同じく、食物の意。食物をつかさどる女神。
神産巣日の御祖命:カムムスヒノ神は、出雲神話の生成の母神で、高天原神話のタカミムスヒノ神に対する。「御祖命」は御母神の意。
 ここで、それまでのストーリーとは無縁の、きわめて唐突な感じで五穀の起源を語る神話が挿入されています。こういうのを「遊離神話」といいます。
食物の神が、なぜ殺されたと伝えられたのでしょうか。それは穀物を収穫する際に、鎌で刈り取ることによって穀神は死に、種を蒔くことによって穀神は復活する、と考えた古代の信仰にもとづくものと思われます。
 スサノヲノ命がオホゲツヒメを殺したとされたのは、スサノヲノ命の粗暴な振舞として語られたものでしょう。しかし一方で、スサノヲノ命は出雲神話では、農耕や穀物に関係の深い神とされていたので、穀物の起源を語る神話に登場させたと思われます。

大気都比売神は、穀物・養蚕の神として信仰されるが、後に同じ穀物の神である稲荷神と混同されるようになり、ウカノミタマの代わりに稲荷社に祀られていることがあります。


佐村河内守さんの番組「魂の旋律」を観た

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ここ数日、実は佐村河内守の作曲ではなく、ゴーストライターが作曲していたということで大騒ぎになっています。
昨日、ゴーストライター氏が会見したので、やはり事実かと。
そして、全聾ではないとも発言がありました。
非常にガックリきています。
この記事を消そうと思いましたが、
【こういうこともあるのだ】と、しばらく置いておこうと思います。
(2014.2.7 追記)



3月31日夜に、NHKで放送された番組を、その時見られなくて録画しておいたものを昨夜観ました。
番組のタイトルは、「音を失った作曲家“魂の旋律”」でした。

佐村河内守(さむらごうち・まもる) さんの作品は、とても素晴らしいし、日本人なら絶対に聴くべきだと思っています。
彼は大変な人です。
被爆者を両親として広島に生まれる。4歳から母親よりピアノの英才教育を受け、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし「もう教えることはない」と母親から告げられ、以降、作曲家を志望。中高生時代は音楽求道に邁進し、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳のと き、原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。
高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学ぶ。
1988年、ロック歌手として誘いを受けたが、弟の不慮の事故死を理由に辞退。聴力の低下を隠しながらの困難な生活が続く中、映画『秋桜』、ゲー ム『バイオハザード』等の音楽を手掛ける。1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びるが、この作品に 着手する直前に完全に聴力を失い全聾となっていた。
抑鬱神経症、不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まない頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
2000年、それまでに書き上げた12番までの交響曲を全て破棄し、全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。同年から障害児のための施設 にてボランティアでピアノを教える。この施設の女児の一人は、交響曲第1番の作曲にあたり佐村河内に霊感を与え、この作品の被献呈者となった。 2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を完成。

番組では最初に、彼がいかにクラシックファンから支持されているかを、2012年2月号の「レコード芸術」誌での「リーダース・チョイス~読者が選んだ2011年ベスト・ディスク30」にて、このCDが堂々15位となっていることで説明しています。
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ベートヴェン、ブラームス、マーラーなど並み居る大作曲家たちと並んで、しかも発表されて間もない曲が入ったのです。まだ生存している人が、しかも日本人がですから、いかに皆さんから佐村河内守さんが支持されているかがわかります。
実は私も、この「レコード芸術」誌記事で知って、すぐに『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を購入してファンとなりました。

この曲は、2008年9月1日、広島市の広島厚生年金会館ホールで行なわれた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて第1楽章と第3楽章が広島交響楽団により世界初演され、世に知られるようになりました。

番組では、2月25日に東京芸術劇場大ホールで、大友直人指揮&日本フィルハーモニア交響楽団の東京初演の映像が流れました。
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私は、広島の原爆ドームほか、悲惨な遺跡を初めて見たときの衝撃はいまでも忘れられません。
佐村河内さんは被爆2世ということなのですが、現在も全聾の障害以外にも苦しんでいらっしゃいます。
光を浴びることで偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では暗室に籠り、外出時には光を避けるためのつばの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされているとのことでした。
番組では、その彼を支え続ける奥様の映像も流されました。
24時間轟音として鳴り響く耳鳴りから逃れるため、大量の薬を服用し意識をもうろうとさせているそうです。
そして、体調が良いわずかり時間に作曲をしている。
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作曲も、自分が描きたい旋律が浮かんでも、いつも轟音として耳鳴りが鳴り響いているので、その中に埋もれようとしてしまう。その中からなんとか拾いあげる作業とか。
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番組でのイメージの映像
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彼は、聴力を失ってしまって絶望のどん底に突き落とされてしまい、一時はまったく作曲活動をやめてしまったわけですが、そんな彼を立ち直らせてくれたのが、障害を持つ子供たちに音楽を教えることを通してだったのです。
最初は大久保美来さんという少女を支えてあげようと、また曲作りを再開したそうです。
彼女は先天的に、右手の肘から先が無く、義手でヴァイオリンを弾きます。
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佐村河内守さんの二枚目のCDに収容されている曲《ヴァイオリンのためのソナチネ》は、大久保美来さん(当時11才)に献呈されています。
佐村河内守さんが病で苦しんでいる時、大久保美来さんからのメール「大丈夫?」とか簡単なメールでも、ずいぶん救われているそうです。佐村河内守さんにとって、彼女はまさに「天使」なんでしょう。

番組の後半は、彼の新たな曲作りを追います。
それは東日本大震災の被災地の方々を、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』が励ましていることを知り、被災地へのレクイエム(鎮魂曲)を贈りたいというものでした。
エピソードとして、石巻で母を亡くした少女との交流が流されました。
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完成した「レクイエム」の譜面。
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演奏は、3月10日に石巻の湊小学校にて、田部京子さんのピアノで、地元の人たちの前で初演されました。
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祈りに満ちた、後半はすごく癒される、とても良い曲だと思いました。

佐村河内守さんの、今まで出ているCDを紹介しておきます。
交響曲第1番「HIROSHIMA」/大友直人&東京交響楽団
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ヴァイオリンソロ2曲
弦楽四重奏曲第1番&第2番
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このCDに収容されているのは、
1.無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ
2.ヴァイオリンのためのソナチネ嬰ハ短調(大久保美来さんに献呈)
ヴァイオリン:大谷康子、ピアノ:藤井一興
3-5.弦楽四重奏曲 第1番
6-8.弦楽四重奏曲 第2番
大谷康子(第1ヴァイオリン)、田尻順(第2ヴァイオリン)、青木篤子(ヴィオラ)、西谷牧人(チェロ)



ロビ第04号組立/ロボット「ロビ」

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第4号と第5号が、先週末届いていたので、まずは4号を組立ました。

第4号で紹介されているロボットは、大和ハウス工業が開発した「床下点検ロボット モーグル」です。
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このモーグルの外装デザインは、ロビの設計者である高橋智隆氏が手がけたものです。
家屋の床下にもぐっていくときに求められるのは、悪路と段差の走破性だそうで、モーグルは2本のクローラー(無限軌道)により、15cmの段差を乗り越えることが出来る。
前方上部には距離計、点検用カメラ、LED照明がついている。
開発は、大和ハウス工業と千葉工業大学、筑波大学が共同で開発。三菱電機特機システム(株)とで実用化し、現在50台が全国で稼働中だという。

4号で届いたのは、下の部品。
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今回の組み立ては、
①フロントヘッドカバーを取り付ける
②バックヘッドカバーを取り付ける
③右耳に裏側カバーを取り付ける
④サーボモーターの裏ぶたを取り外し、ケーブルを接続する
⑤サーポカバー(ヘッドスタンド用)を取り付ける
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特に、問題もなくスムーズに組み立て完了しました。

眼と口だけだったのが、頭がついて頭部らしくなってきました。
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右耳に裏側カバーがついた。
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ケーブルを接続したサーボモーター
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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