プチ・トリアノン
20130531
所沢市山口地区を歩く(2)
20130530
5月28日(火)に、歩いてきた歴史クラブ企画の、前日の記事の続きです。
山口城址近くのファミレスで昼食休憩のあと、「中氷川神社」に向かいました。
中氷川神社(山口)

中氷川神社は埼玉県所沢市内に三ヶ島と山口に2社あるそうです。中氷川神社の「中」の意味は、大宮氷川神社と奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間、大宮氷川神社と武蔵国の国府(東京都府中市)の中間などの説があります。
祭神は、大宮氷川神社同様、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の3神を祀り、七社大神が加えられています。これは山口貯水池の湖底に埋もれた旧勝楽寺村鎮座の七社神社(八坂神社、秋葉神社、市杵島姫神社、諏訪神社、日枝神社、浅間神社、稲荷神社)を合祀したものです。
崇神天皇御代の創建と伝えられる。 平安時代末期に山口家継が社殿造営し、その後兵火により焼失したが、天正年間(1573年~1593年)に山口高忠が山口城とともに再興した。
昭和20年(1945年)には連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局初代局長のケン・R・ダイク准将が当社の祭礼を視察しました。全国の神社の中より、宮内省雅楽部多忠朝氏の琴を始めとする五人の部員が奏で、氏子の少女四人が浦安舞を舞う、当社の臨時例大祭を視察したことは、当時の日本政府に於いては固唾を飲む重大事でした。
大きな鳥居をくく゛ってから、参道が長く続きます。

もう一つ鳥居があり、直角に曲がると拝殿が見えます。

手水舎


拝殿の前の石段わきに、所沢市の巨木に認定されている、杉の巨木がそびえています。



拝殿

御本殿
出雲大社造(心の御柱二十五尺)です。

神紋は「右三つ巴」です。

七社神社が分けて鎮座されていました。


和魂宮

扉がひらいていて、ご神体の鏡と御札がたくさんはってある壷のようなものがおいてありました。
Wikiで和魂について調べてみると、荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである、とあります。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。
和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。
また、人間の心は、天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという考え方があり、一霊四魂(いちれいしこん)と呼ばれる。
祭神の須佐之男命が二極の面を持っていて、非常に荒々しい面と、農業・水利の神とされているように豊穣をもたらす神の側面を持っています。
勝軍地蔵尊の碑がありました。
柱石の上部に甲冑を着て錫杖を持ち、馬に騎乗する形の勝軍地蔵尊を浮彫りしてあります。


この日、午前中に見た佛蔵院にもありました。愛宕権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合のかたちであり、イザナミを垂迹神とし、地蔵菩薩を本地仏としています。
ただ、神社境内に存在するのは珍しいようです。
ここから次の狭山不動尊に向かう途中、「六斎堂」があったので、ちょっと立ち寄りました。
六斎堂

月の内、決まっている六つの斎日に「斎戒謹慎」する信仰です。
ご詠歌
南無大悲むつのちまたを照らしつつ導きたまふ法のかしこき

狭山不動尊

この寺は、天台宗別格本山で、山号は狭山山、寺号は不動寺。本尊は不動明王。埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られます。
1975年 (昭和50年) 西武グループが各地のプリンスホテルを開発する際に、芝増上寺をはじめとする各地の文化財をこの地に集め、西武鉄道グループが、当時のオーナーであった堤義明と親しかった寛永寺の助力により、天台宗別格本山として建立した。
1975年の開山と新しいが、建物は余所から移築した由緒あるものが殆どです。空襲などで荒廃した増上寺から焼け残ったものを文化財保護の為に移した徳川家霊廟に縁の物が中心。
勅額門(国重文)増上寺 台徳院=徳川二代将軍秀忠霊廟から

この額が後水尾天皇の手によるものなので勅額門


ここから石段を上がると、御成門(国重文)増上寺 台徳院=徳川二代将軍秀忠霊廟から


飛天など華麗な彫刻が施されている。

天井には天女の図がありますが、このように全景を撮ろうと思ったら、門の背後に回って低い位置からカメラを構えないと撮れません。

本堂、元は京都本願寺から移築の物だったが焼失、現在はコンクリ製。

ぐるっと石灯篭が囲んでます。

本尊の不動明王


本堂内に西武ライオンズ選手の奉納絵馬がありました。

代表として、渡辺監督の絵馬を紹介

第一多宝塔、大阪の旧畠山神社から移築

桂昌院宝塔、増上寺徳川家霊廟から移築

羅漢堂山門、田中平八郎邸から移築

羅漢堂、井上馨邸から移築
周囲を取り巻く大量の唐金灯篭は増上寺徳川家霊廟から移設。

大黒堂、奈良の極楽寺から移築


康信寺、西武グループの堤康次郎氏の法名に因んで名づけられた模様


桜井門から出ました。奈良の桜井寺から移築されたものです。

山口観音

金乗院(こんじょういん)といいます。真言宗豊山派に属し、山号は吾庵山、寺号は放光寺。本尊は千手観音で山口観音とも称される。
この寺は、古くから観音信仰の霊場として知られ、観音像や観音堂は寺伝によれば奈良時代の僧行基によって弘仁年間(810年~824年)に開かれたと伝えられ、この寺はその別当寺であった。鎌倉時代末期新田義貞が鎌倉を攻めた際には、この寺に祈願したといいます。
西武遊園地や球場は勿論の事、狭山湖や多摩湖すらなかった頃から、この地にあった名刹というわけです。
で、現在の山口観音ですが、山門、本堂辺りはいたって真面目。 ただ、本堂の外壁にマニ車が取り付けられている辺から、???となり、見て回るほどに思わずのけぞってしまう摩訶不思議な寺となっておりました。
手水舎にも、おなじみの龍でなく観音様がいらっしゃいます。

新田義貞公霊馬舎

本橋俊男氏の百頭の馬の彫刻


馬を描いた奉納絵馬がたくさん掲げられていた。

本堂

本堂にもたくさんの立派な絵馬が奉納されていた。


本堂の外壁にマニ車が取り付けられており、これを回しながら願い事を唱えて一周します。そう云われたらやりますよね(笑)

上には、弘法大師の一生を描いた絵馬が飾られていました。

本堂の裏側中心のところに、「裏観音」を拝めるようになっていました。
これは、本尊の千手観音が33年ごとのお開帳のときしか拝めないため、藤原時代に同じお姿の観音様を彫り、裏側に安置して拝めるようにしたものだそうです。

山口七福神なる派手な構造物


おびただしい数の水子地蔵のなかを上っていくと、朱塗りのデカイ塔が見える。八角の五重塔です。
千躰観音堂です。

さらにその塔の足元を囲うようにして仏国窟というトンネルがあります。
四国八十八ケ所と西国三十三ケ所の移し霊場です。



私は、こういうのを見ると全部欲しくなるんです。一つひとつ撮り始めましたが、時間がありません。また撮りにいきます。
上には上りませんでしたが、1層から4層までは棚が設けられ、観音像が奉納されている。 観音像は木製と陶器、彩色陶器の3種類がある。これらが壁面を覆っているようです。
情報によれば千躰観音堂とはいうものの実際にはまだ千躰集まっていないようです。そして最上階には以前ここに建っていたという大日如来の仏頭のみが飾られているそうです。
で、身体は何処に行ってしまったのかといえば、「鉄砲の弾になっちゃった」との事です。
加持祈祷に使われる水の井戸

八体守護仏
十二支の方向に八体の仏が居るとされており、生まれ年の本尊となる仏が決まっています。
私は酉年なので、この考えの守護仏は不動明王です。それで「関東36不動めぐり」とかをしているんです。

全部撮ってきましたが、二体紹介しておきます。
カミさんは亥年なので、阿弥陀如来

不動明王

帰りがけに、閻魔堂があるのに気付きもあわててお参り。


これで予定を全部クリアして、西武球場駅にたどりつきました。

ここ、山口地区は、比較的近いのですが、狭山不動尊を除いて初めてのところばかりで、実に新鮮でした。
とても楽しかった。
(了)
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山口城址近くのファミレスで昼食休憩のあと、「中氷川神社」に向かいました。
中氷川神社(山口)

中氷川神社は埼玉県所沢市内に三ヶ島と山口に2社あるそうです。中氷川神社の「中」の意味は、大宮氷川神社と奥氷川神社(東京都西多摩郡奥多摩町)の中間、大宮氷川神社と武蔵国の国府(東京都府中市)の中間などの説があります。
祭神は、大宮氷川神社同様、須佐之男命、稲田姫命、大己貴命の3神を祀り、七社大神が加えられています。これは山口貯水池の湖底に埋もれた旧勝楽寺村鎮座の七社神社(八坂神社、秋葉神社、市杵島姫神社、諏訪神社、日枝神社、浅間神社、稲荷神社)を合祀したものです。
崇神天皇御代の創建と伝えられる。 平安時代末期に山口家継が社殿造営し、その後兵火により焼失したが、天正年間(1573年~1593年)に山口高忠が山口城とともに再興した。
昭和20年(1945年)には連合国軍最高司令官総司令部民間情報教育局初代局長のケン・R・ダイク准将が当社の祭礼を視察しました。全国の神社の中より、宮内省雅楽部多忠朝氏の琴を始めとする五人の部員が奏で、氏子の少女四人が浦安舞を舞う、当社の臨時例大祭を視察したことは、当時の日本政府に於いては固唾を飲む重大事でした。
大きな鳥居をくく゛ってから、参道が長く続きます。

もう一つ鳥居があり、直角に曲がると拝殿が見えます。

手水舎


拝殿の前の石段わきに、所沢市の巨木に認定されている、杉の巨木がそびえています。



拝殿

御本殿
出雲大社造(心の御柱二十五尺)です。

神紋は「右三つ巴」です。

七社神社が分けて鎮座されていました。


和魂宮

扉がひらいていて、ご神体の鏡と御札がたくさんはってある壷のようなものがおいてありました。
Wikiで和魂について調べてみると、荒魂(あらたま、あらみたま)・和魂(にきたま(にぎたま)、にきみたま(にぎみたま))とは、神道における概念で、神の霊魂が持つ2つの側面のことである、とあります。
荒魂は神の荒々しい側面、荒ぶる魂である。天変地異を引き起こし、病を流行らせ、人の心を荒廃させて争いへ駆り立てる神の働きである。神の祟りは荒魂の表れである。それに対し和魂は、雨や日光の恵みなど、神の優しく平和的な側面である。神の加護は和魂の表れである。
荒魂と和魂は、同一の神であっても別の神に見えるほどの強い個性の表れであり、実際別の神名が与えられたり、皇大神宮の正宮と荒祭宮といったように、別に祀られていたりすることもある。人々は神の怒りを鎮め、荒魂を和魂に変えるために、神に供物を捧げ、儀式や祭を行ってきた。この神の御魂の極端な二面性が、神道の信仰の源となっている。また、荒魂はその荒々しさから新しい事象や物体を生み出すエネルギーを内包している魂とされ、同音異義語である新魂(あらたま、あらみたま)とも通じるとされている。
和魂はさらに幸魂(さきたま、さちみたま、さきみたま)と奇魂(くしたま、くしみたま)に分けられる(しかしこの四つは並列の存在であるといわれる)。幸魂は運によって人に幸を与える働き、収穫をもたらす働きである。奇魂は奇跡によって直接人に幸を与える働きである。幸魂は「豊」、奇魂は「櫛」と表され、神名や神社名に用いられる。
また、人間の心は、天と繋がる一霊「直霊」(なおひ)と4つの魂(荒魂・和魂・幸魂・奇魂)から成り立つという考え方があり、一霊四魂(いちれいしこん)と呼ばれる。
祭神の須佐之男命が二極の面を持っていて、非常に荒々しい面と、農業・水利の神とされているように豊穣をもたらす神の側面を持っています。
勝軍地蔵尊の碑がありました。
柱石の上部に甲冑を着て錫杖を持ち、馬に騎乗する形の勝軍地蔵尊を浮彫りしてあります。


この日、午前中に見た佛蔵院にもありました。愛宕権現は山岳信仰と修験道が融合した神仏習合のかたちであり、イザナミを垂迹神とし、地蔵菩薩を本地仏としています。
ただ、神社境内に存在するのは珍しいようです。
ここから次の狭山不動尊に向かう途中、「六斎堂」があったので、ちょっと立ち寄りました。
六斎堂

月の内、決まっている六つの斎日に「斎戒謹慎」する信仰です。
ご詠歌
南無大悲むつのちまたを照らしつつ導きたまふ法のかしこき

狭山不動尊

この寺は、天台宗別格本山で、山号は狭山山、寺号は不動寺。本尊は不動明王。埼玉西武ライオンズが必勝祈願を行う寺として知られます。
1975年 (昭和50年) 西武グループが各地のプリンスホテルを開発する際に、芝増上寺をはじめとする各地の文化財をこの地に集め、西武鉄道グループが、当時のオーナーであった堤義明と親しかった寛永寺の助力により、天台宗別格本山として建立した。
1975年の開山と新しいが、建物は余所から移築した由緒あるものが殆どです。空襲などで荒廃した増上寺から焼け残ったものを文化財保護の為に移した徳川家霊廟に縁の物が中心。
勅額門(国重文)増上寺 台徳院=徳川二代将軍秀忠霊廟から

この額が後水尾天皇の手によるものなので勅額門


ここから石段を上がると、御成門(国重文)増上寺 台徳院=徳川二代将軍秀忠霊廟から


飛天など華麗な彫刻が施されている。

天井には天女の図がありますが、このように全景を撮ろうと思ったら、門の背後に回って低い位置からカメラを構えないと撮れません。

本堂、元は京都本願寺から移築の物だったが焼失、現在はコンクリ製。

ぐるっと石灯篭が囲んでます。

本尊の不動明王


本堂内に西武ライオンズ選手の奉納絵馬がありました。

代表として、渡辺監督の絵馬を紹介

第一多宝塔、大阪の旧畠山神社から移築

桂昌院宝塔、増上寺徳川家霊廟から移築

羅漢堂山門、田中平八郎邸から移築

羅漢堂、井上馨邸から移築
周囲を取り巻く大量の唐金灯篭は増上寺徳川家霊廟から移設。

大黒堂、奈良の極楽寺から移築


康信寺、西武グループの堤康次郎氏の法名に因んで名づけられた模様


桜井門から出ました。奈良の桜井寺から移築されたものです。

山口観音

金乗院(こんじょういん)といいます。真言宗豊山派に属し、山号は吾庵山、寺号は放光寺。本尊は千手観音で山口観音とも称される。
この寺は、古くから観音信仰の霊場として知られ、観音像や観音堂は寺伝によれば奈良時代の僧行基によって弘仁年間(810年~824年)に開かれたと伝えられ、この寺はその別当寺であった。鎌倉時代末期新田義貞が鎌倉を攻めた際には、この寺に祈願したといいます。
西武遊園地や球場は勿論の事、狭山湖や多摩湖すらなかった頃から、この地にあった名刹というわけです。
で、現在の山口観音ですが、山門、本堂辺りはいたって真面目。 ただ、本堂の外壁にマニ車が取り付けられている辺から、???となり、見て回るほどに思わずのけぞってしまう摩訶不思議な寺となっておりました。
手水舎にも、おなじみの龍でなく観音様がいらっしゃいます。

新田義貞公霊馬舎

本橋俊男氏の百頭の馬の彫刻


馬を描いた奉納絵馬がたくさん掲げられていた。

本堂

本堂にもたくさんの立派な絵馬が奉納されていた。


本堂の外壁にマニ車が取り付けられており、これを回しながら願い事を唱えて一周します。そう云われたらやりますよね(笑)

上には、弘法大師の一生を描いた絵馬が飾られていました。

本堂の裏側中心のところに、「裏観音」を拝めるようになっていました。
これは、本尊の千手観音が33年ごとのお開帳のときしか拝めないため、藤原時代に同じお姿の観音様を彫り、裏側に安置して拝めるようにしたものだそうです。

山口七福神なる派手な構造物


おびただしい数の水子地蔵のなかを上っていくと、朱塗りのデカイ塔が見える。八角の五重塔です。
千躰観音堂です。

さらにその塔の足元を囲うようにして仏国窟というトンネルがあります。
四国八十八ケ所と西国三十三ケ所の移し霊場です。



私は、こういうのを見ると全部欲しくなるんです。一つひとつ撮り始めましたが、時間がありません。また撮りにいきます。
上には上りませんでしたが、1層から4層までは棚が設けられ、観音像が奉納されている。 観音像は木製と陶器、彩色陶器の3種類がある。これらが壁面を覆っているようです。
情報によれば千躰観音堂とはいうものの実際にはまだ千躰集まっていないようです。そして最上階には以前ここに建っていたという大日如来の仏頭のみが飾られているそうです。
で、身体は何処に行ってしまったのかといえば、「鉄砲の弾になっちゃった」との事です。
加持祈祷に使われる水の井戸

八体守護仏
十二支の方向に八体の仏が居るとされており、生まれ年の本尊となる仏が決まっています。
私は酉年なので、この考えの守護仏は不動明王です。それで「関東36不動めぐり」とかをしているんです。

全部撮ってきましたが、二体紹介しておきます。
カミさんは亥年なので、阿弥陀如来

不動明王

帰りがけに、閻魔堂があるのに気付きもあわててお参り。


これで予定を全部クリアして、西武球場駅にたどりつきました。

ここ、山口地区は、比較的近いのですが、狭山不動尊を除いて初めてのところばかりで、実に新鮮でした。
とても楽しかった。
(了)
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所沢市山口地区を歩く(1)
20130529
5月28日(火)に、歴史クラブの企画で歩いてきました。
中世に武蔵七党の一つ、村山氏に属する山口氏が根拠とした地区です。
平安後期、平頼任は武蔵国司に任命され、現在の東京都瑞穂町に館を構え、村山氏を名乗りました。
その孫の家継がここに館を築き、山口氏を名乗ったそうです。
コース全体の地図

右側の緑のマークが西所沢駅です。そこから赤のマークの史跡を右から順に見ていき、左側の緑のマーク、西武球場駅がゴール地点でした。
瑞岩寺
曹洞宗の寺。山口城の城主山口氏の菩提寺です。

山門があり、仁王像が脇に置かれている。

迫力があります。


山号

本堂


本堂左手にはここ山口城主であった山口氏の菩提を弔う3基の五輪塔や宝筐印塔の残欠が祀られています。

一番左の基礎部分に1383年銘があり、寺に現存する山口高実の位牌と一致しているそうです。

不動堂

不動堂の前には十二支をかたどった可愛いお地蔵さんが並んでいました。
申

酉

亥

佛蔵院
真言宗の寺。山口貯水池に沈んだ旧勝楽寺から昭和初期に現在地へ移転。
この仏蔵院は「江戸名所図会」に紹介されているそうです。
江戸名所図会によれば、「辰爾山仏蔵院勝楽寺 山口観音より十二丁ばかり西の方、勝楽寺村にあり。新義の真言宗にして、中戸の真福寺に属せり。中興開山は真恵と号す。(元和九年正月十四日化寂す。)本尊は近頃火災に亡びて、新たに座像ニ尺ばかりの十一面観音を安置す。この火災によって悉く旧記を亡ぼしたりとて、草創の時世等詳ならず。(尊海上人を以って中興開山とす。)」とある。
山門

本堂


本堂左手にあった、宝篋印塔。宝暦5(1755)年に建てられたもの。

その横には六地蔵

山門の近くに石仏群があります。

文久3年の六地蔵。アレッ、この彫り方だと8地蔵?・・・・・・真後ろには彫ってありませんでした(笑)

筆子碑
江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って建てた供養塔。

勝軍地蔵
鎌倉後期に起こった、愛宕信仰と結びついた地蔵信仰で、悪業煩悩に勝つ地蔵といわれる勝軍地蔵です。
延享4年(1747)銘の甲冑を着け馬にまたがっています。



近くに、平成6年建立と新しいですが、立派な不動明王がありました。

来迎寺

山門

本堂


武蔵七党のひとつ丹党の丹治泰家が、鎌倉時代中期の建長八年(1256)に造立した板碑で、所沢市内では最古です。

高さ 150Cm、下幅 58Cm、覆屋内に立っています。身部は、上方に阿弥陀如来の種子を蓮華座上に、下方は紀年銘・偈及び銘文を刻む。
身部上方、蓮華座上に阿弥陀如来の種子「キリーク」。
身部下方の刻銘は、向って右端から三行「無量寿経」に出る偈(げ)、二行で「観無量寿経」に出る偈(げ)、次に「建長八年(1256)、丙辰、二月廿三日」、左端に「左衛門尉丹治泰家、敬白」と刻む。
無量寿経に出る偈(げ):「設我得佛(せつがとくぶつ)、十方衆生(じっぽうしゅじょう)、至心信楽(ししんしんぎょう)、欲生我国(よくしょうがこく)、乃至十念(ないしじゅうねん)、若不生者(にゃくふしょうじゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく)」
[ たとえわれ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲し、乃至十念せん。もしわが国に生まれることができなかったら、我は仏にならない。]
観無量寿経に出る偈(げ):「光明遍照(こうみょうへんじょう)、十方世界(じっぽうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)、摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
[ 光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。]
摩耗が激しく、上部の「キリーク」はわかりますが、覆屋内で暗いせいもあって、身部下方の刻銘はほとんど読めませんでした。

庭に、何という花でしょうか、きれいな花が咲いていた。


勝光寺
入り口のわきに、立派な西国・坂東・秩父の百番供養塔があった。



ここの石灯篭が立派です。
山門前に二つ。(本堂前にも二基ありましたが、省略)

山門右側が惇信院(第9代 家重)の霊廟に献上された物。
長門国・長府藩(ちょうふはん) 毛利 匡満(もうり まさみつ)献上。長府藩(長州藩の支藩で現在の山口県下関市)は支藩でありながら城を持っていた珍しい藩だそうです。
山門左側が有章院(第7代 家継)の霊廟に献上された物。
丹波国・綾部藩 九鬼隆寛(くき たかのぶ)献上。綾部藩は(現在の京都府綾部市)無城大名です。
この山門は元禄七年~九年(1694~1696)に建築された。市指定文化財。
花頭窓と桟唐戸、粽柱は禅宗様の典型。屋根は入母屋造で和様の二軒平行垂木のように見える。禅宗様の貫、木鼻、斗栱が美しく組まれている。

本堂

本堂は、「京都龍安寺の塔頭の方丈を延宝5年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもちます。
調査結果から推測すると、この建物は、京都で解体され運びこまれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられます。関東地方では、稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重です。
鐘楼

窓から撞木がはみ出している(笑)

これは何という木でしょうか? きれいな花が咲いていました。


山口城址

平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、以来代々山口氏の居城となる。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。
その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原征伐で敗戦。廃城になった。
廃城後は再度城郭として用いられることはなく、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用された。明治時代以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われている。現在でも周辺の地名にはかつて城郭が在ったことに関連する地名が見られるものの、往時の遺構はごく一部しか残存せず、近年になって発掘調査が行われた他は所沢市教育委員会により城郭跡であることを示す碑と案内板が設置されたのみであった。
かろうじて残存していた城郭跡の敷地のうち、北西部は私有地として畑地等に利用され、南東部は至近の県道55号線の交差点に「山口城跡前」の名称がつけられたのみで長年に渡って放置されていたが、平成12年(2000年)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画もあったものの、開発反対と遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城郭跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。
発掘調査


かろうじて残存している土塁。
第4号土塁の一部

第2号土塁

同じ第2号土塁を反対側から、西武狭山線の線路を通して眺める。

他にも土塁とか、堀の石垣とかが残っているそうですが、私有地の中にあるため入れないようです。
これで、午前の部は終了。近くのファミレス「バーミヤン」でお昼を食べて休憩しました。
午後の部は、次回記事とします。
(続く)
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中世に武蔵七党の一つ、村山氏に属する山口氏が根拠とした地区です。
平安後期、平頼任は武蔵国司に任命され、現在の東京都瑞穂町に館を構え、村山氏を名乗りました。
その孫の家継がここに館を築き、山口氏を名乗ったそうです。
コース全体の地図

右側の緑のマークが西所沢駅です。そこから赤のマークの史跡を右から順に見ていき、左側の緑のマーク、西武球場駅がゴール地点でした。
瑞岩寺
曹洞宗の寺。山口城の城主山口氏の菩提寺です。

山門があり、仁王像が脇に置かれている。

迫力があります。


山号

本堂


本堂左手にはここ山口城主であった山口氏の菩提を弔う3基の五輪塔や宝筐印塔の残欠が祀られています。

一番左の基礎部分に1383年銘があり、寺に現存する山口高実の位牌と一致しているそうです。

不動堂

不動堂の前には十二支をかたどった可愛いお地蔵さんが並んでいました。
申

酉

亥

佛蔵院
真言宗の寺。山口貯水池に沈んだ旧勝楽寺から昭和初期に現在地へ移転。
この仏蔵院は「江戸名所図会」に紹介されているそうです。
江戸名所図会によれば、「辰爾山仏蔵院勝楽寺 山口観音より十二丁ばかり西の方、勝楽寺村にあり。新義の真言宗にして、中戸の真福寺に属せり。中興開山は真恵と号す。(元和九年正月十四日化寂す。)本尊は近頃火災に亡びて、新たに座像ニ尺ばかりの十一面観音を安置す。この火災によって悉く旧記を亡ぼしたりとて、草創の時世等詳ならず。(尊海上人を以って中興開山とす。)」とある。
山門

本堂


本堂左手にあった、宝篋印塔。宝暦5(1755)年に建てられたもの。

その横には六地蔵

山門の近くに石仏群があります。

文久3年の六地蔵。アレッ、この彫り方だと8地蔵?・・・・・・真後ろには彫ってありませんでした(笑)

筆子碑
江戸時代に庶民の教育機関であった寺子屋や家塾で、読書算や実務教育を教わった教え子が、師匠が死んだ際にその遺徳を偲んで、自分たちで費用を出し合って建てた供養塔。

勝軍地蔵
鎌倉後期に起こった、愛宕信仰と結びついた地蔵信仰で、悪業煩悩に勝つ地蔵といわれる勝軍地蔵です。
延享4年(1747)銘の甲冑を着け馬にまたがっています。



近くに、平成6年建立と新しいですが、立派な不動明王がありました。

来迎寺

山門

本堂


武蔵七党のひとつ丹党の丹治泰家が、鎌倉時代中期の建長八年(1256)に造立した板碑で、所沢市内では最古です。

高さ 150Cm、下幅 58Cm、覆屋内に立っています。身部は、上方に阿弥陀如来の種子を蓮華座上に、下方は紀年銘・偈及び銘文を刻む。
身部上方、蓮華座上に阿弥陀如来の種子「キリーク」。
身部下方の刻銘は、向って右端から三行「無量寿経」に出る偈(げ)、二行で「観無量寿経」に出る偈(げ)、次に「建長八年(1256)、丙辰、二月廿三日」、左端に「左衛門尉丹治泰家、敬白」と刻む。
無量寿経に出る偈(げ):「設我得佛(せつがとくぶつ)、十方衆生(じっぽうしゅじょう)、至心信楽(ししんしんぎょう)、欲生我国(よくしょうがこく)、乃至十念(ないしじゅうねん)、若不生者(にゃくふしょうじゃ)、不取正覚(ふしゅしょうがく)」
[ たとえわれ仏となるをえんとき、十方の衆生、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲し、乃至十念せん。もしわが国に生まれることができなかったら、我は仏にならない。]
観無量寿経に出る偈(げ):「光明遍照(こうみょうへんじょう)、十方世界(じっぽうせかい)、念仏衆生(ねんぶつしゅじょう)、摂取不捨(せっしゅふしゃ)」
[ 光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生をば摂取して捨てたまわず。]
摩耗が激しく、上部の「キリーク」はわかりますが、覆屋内で暗いせいもあって、身部下方の刻銘はほとんど読めませんでした。

庭に、何という花でしょうか、きれいな花が咲いていた。


勝光寺
入り口のわきに、立派な西国・坂東・秩父の百番供養塔があった。



ここの石灯篭が立派です。
山門前に二つ。(本堂前にも二基ありましたが、省略)

山門右側が惇信院(第9代 家重)の霊廟に献上された物。
長門国・長府藩(ちょうふはん) 毛利 匡満(もうり まさみつ)献上。長府藩(長州藩の支藩で現在の山口県下関市)は支藩でありながら城を持っていた珍しい藩だそうです。
山門左側が有章院(第7代 家継)の霊廟に献上された物。
丹波国・綾部藩 九鬼隆寛(くき たかのぶ)献上。綾部藩は(現在の京都府綾部市)無城大名です。
この山門は元禄七年~九年(1694~1696)に建築された。市指定文化財。
花頭窓と桟唐戸、粽柱は禅宗様の典型。屋根は入母屋造で和様の二軒平行垂木のように見える。禅宗様の貫、木鼻、斗栱が美しく組まれている。

本堂

本堂は、「京都龍安寺の塔頭の方丈を延宝5年(1677)に移築、行田の宮大工が建築した」との伝承をもちます。
調査結果から推測すると、この建物は、京都で解体され運びこまれた前身建物の部材を用い、行田の宮大工が関東間として建築したものと考えられます。関東地方では、稀な建築形式を受け継ぐ建造物として大変貴重です。
鐘楼

窓から撞木がはみ出している(笑)

これは何という木でしょうか? きれいな花が咲いていました。


山口城址

平安時代末期に武蔵七党村山党の山口家継によって築城され、以来代々山口氏の居城となる。
南北朝時代の応安元年(1368年)新田義宗、脇屋義治の挙兵に呼応した武蔵平一揆のおり、山口高清は一揆の中心・河越氏の側につき、鎌倉公方足利氏満方の上杉憲顕に攻められ山口城は落城。永徳3年(1383年)、南朝の力を得た高清の子山口高治は、祖父山口高実とともに再び兵を挙げ氏満と戦ったが敗北し、山口城に火を放ち自害して果てた。高治の子山口高忠は上杉氏家臣で武蔵国守護代の大石氏に従い、山口城の大改修を行ったが、もともと館であったため別個に勝楽寺村に根古屋城を築き、山口城の城郭としての機能を根古屋城に移した。
その後山口氏は上杉氏が没落すると、後北条氏に仕え武蔵国入間郡山口(所沢市山口)に40貫を知行していたが、1590年、小田原征伐で敗戦。廃城になった。
廃城後は再度城郭として用いられることはなく、江戸期には敷地の大半は開拓されて畑地や住居、溜池などに転用された。明治時代以後は更に道路や鉄道が建設され、開発によってその大半が失われている。現在でも周辺の地名にはかつて城郭が在ったことに関連する地名が見られるものの、往時の遺構はごく一部しか残存せず、近年になって発掘調査が行われた他は所沢市教育委員会により城郭跡であることを示す碑と案内板が設置されたのみであった。
かろうじて残存していた城郭跡の敷地のうち、北西部は私有地として畑地等に利用され、南東部は至近の県道55号線の交差点に「山口城跡前」の名称がつけられたのみで長年に渡って放置されていたが、平成12年(2000年)になり商業地として開発されることとなり、当初は遺構を取り壊して完全に整地される計画もあったものの、開発反対と遺構の保存を求める運動が起こされ、商業地として開発される敷地のうち一部が整備されて保存されることになった。現在は城郭跡であった部分の殆どは整地されて商業施設となっているが、保存運動によって残存した土塁や空堀のごく一部分が保存されている。
発掘調査


かろうじて残存している土塁。
第4号土塁の一部

第2号土塁

同じ第2号土塁を反対側から、西武狭山線の線路を通して眺める。

他にも土塁とか、堀の石垣とかが残っているそうですが、私有地の中にあるため入れないようです。
これで、午前の部は終了。近くのファミレス「バーミヤン」でお昼を食べて休憩しました。
午後の部は、次回記事とします。
(続く)
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ショスタコーヴィチ/交響曲第1番 ヘ短調 作品10
20130528
今回記事にするのは、この全集に入っている曲です。

この全集は、オランダの新聞社「フォルクスクラント」がライセンス発売したセットで、10枚のCD、付いている解説はオランダ語のみである(苦笑)
マリス・ヤンソン指揮で、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、サンクト・ペテルブルグ・フィル、ピッツバーグ響、ロンドン・フィル、オスロ・フィルという世界各国の8つのオーケストラを指揮して完成させた国際色豊かなもの。
なんでも、1枚ずつ発売される都度かなり評判になっていたものが、かなりの廉価のセットということで、最初の単売で揃えた方には申し訳ない、とどこかに書いてありました(笑)

指揮:マリス・ヤンソンス
演奏:ベルリン・フィルハーモニー
1994年6月デジタル録音
フォルクスクラント」ライセンスセットのCD01
この曲は、レニングラード音楽院の卒業制作として作曲された、ショスタコーヴィチ19歳の時の作品です。全体として清新で軽妙洒脱さにあふれ、巧みな管弦楽法を駆使したこの作品はすでにその後の活躍を予感させる完成度を示しています。この作品の発表によりショスタコーヴィチは「現代のモーツァルト」とまでたたえられ、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、アルトゥーロ・トスカニーニ、アルバン・ベルクらにより賞賛され、西側への紹介が行われるなど音楽界に衝撃的なデビューを果たすこととなりました。
ピアノが重要な役割を担い、ピアノ協奏曲風の場面もある曲です。
第1楽章 Allegretto - Allegro non troppo
冒頭部はトランペットとファゴットによる軽妙で不安さの伴う導入部から、ソナタ形式によるさまざまな展開部を経て、もとの導入部に戻る。
第2楽章 Allegro - Meno mosso - Allegro - Meno mosso
アレグロからメノ・モッソのトリオを経て、ピアノが活躍するアレグロの再現を経て、トリオ主題によるコーダへと一気に演奏される。モダンでスピード感あふれるスケルツォである。初演時はアンコール演奏された。
第3楽章 Lento - Largo - [Lento] (attacca:)
三部形式の緩序楽章で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の旋律がチェロ独奏に引用されるなど後期ロマン派の影響が見られる。小太鼓のトレモロがクレシェンドで響き、アタッカで切れ目なく最終楽章に移る。
第4楽章 Allegro molto - Lento - Allegro molto - Meno mosso - Allegro molto - Molto meno mosso - Adagio
不安で重々しいレントの導入部から激しいアレグロ・モルトの2つの主題に移る。2つの主題が巧妙に変化し、最後はトランペットにより導入部が堂々と奏でられ、トゥッティ(総奏)で華々しく終わる。
なにしろ、マリス・ヤンソンス&ベルリン・フィルハーモニーのこの演奏が初めて聴くものなので、「ヤンソンは・・・」なんて生意気なことは言えません(笑)
第2楽章の、ピアノが絡んで活躍するところとか、第3楽章のオーボエと独奏チェロの旋律が深く哀切な感じを出しているところに、何度も鳴り響くトランペット。
そして、レントから渦巻くように盛り上がる終楽章の頂点で、オケは全休止してしまい、前にトランペットが吹いた主題をティンパニが響かせる。
ショスタコらしき瞬間があちこちにあって、なかなか良い曲だと思いました。
19歳で、こうですか・・・・・・・・ショスタコ恐るべしです。

この全集は、オランダの新聞社「フォルクスクラント」がライセンス発売したセットで、10枚のCD、付いている解説はオランダ語のみである(苦笑)
マリス・ヤンソン指揮で、ベルリン・フィル、ウィーン・フィル、バイエルン放送響、フィラデルフィア管、サンクト・ペテルブルグ・フィル、ピッツバーグ響、ロンドン・フィル、オスロ・フィルという世界各国の8つのオーケストラを指揮して完成させた国際色豊かなもの。
なんでも、1枚ずつ発売される都度かなり評判になっていたものが、かなりの廉価のセットということで、最初の単売で揃えた方には申し訳ない、とどこかに書いてありました(笑)

指揮:マリス・ヤンソンス
演奏:ベルリン・フィルハーモニー
1994年6月デジタル録音
フォルクスクラント」ライセンスセットのCD01
この曲は、レニングラード音楽院の卒業制作として作曲された、ショスタコーヴィチ19歳の時の作品です。全体として清新で軽妙洒脱さにあふれ、巧みな管弦楽法を駆使したこの作品はすでにその後の活躍を予感させる完成度を示しています。この作品の発表によりショスタコーヴィチは「現代のモーツァルト」とまでたたえられ、ブルーノ・ワルター、オットー・クレンペラー、アルトゥーロ・トスカニーニ、アルバン・ベルクらにより賞賛され、西側への紹介が行われるなど音楽界に衝撃的なデビューを果たすこととなりました。
ピアノが重要な役割を担い、ピアノ協奏曲風の場面もある曲です。
第1楽章 Allegretto - Allegro non troppo
冒頭部はトランペットとファゴットによる軽妙で不安さの伴う導入部から、ソナタ形式によるさまざまな展開部を経て、もとの導入部に戻る。
第2楽章 Allegro - Meno mosso - Allegro - Meno mosso
アレグロからメノ・モッソのトリオを経て、ピアノが活躍するアレグロの再現を経て、トリオ主題によるコーダへと一気に演奏される。モダンでスピード感あふれるスケルツォである。初演時はアンコール演奏された。
第3楽章 Lento - Largo - [Lento] (attacca:)
三部形式の緩序楽章で、ワーグナーの『トリスタンとイゾルデ』の旋律がチェロ独奏に引用されるなど後期ロマン派の影響が見られる。小太鼓のトレモロがクレシェンドで響き、アタッカで切れ目なく最終楽章に移る。
第4楽章 Allegro molto - Lento - Allegro molto - Meno mosso - Allegro molto - Molto meno mosso - Adagio
不安で重々しいレントの導入部から激しいアレグロ・モルトの2つの主題に移る。2つの主題が巧妙に変化し、最後はトランペットにより導入部が堂々と奏でられ、トゥッティ(総奏)で華々しく終わる。
なにしろ、マリス・ヤンソンス&ベルリン・フィルハーモニーのこの演奏が初めて聴くものなので、「ヤンソンは・・・」なんて生意気なことは言えません(笑)
第2楽章の、ピアノが絡んで活躍するところとか、第3楽章のオーボエと独奏チェロの旋律が深く哀切な感じを出しているところに、何度も鳴り響くトランペット。
そして、レントから渦巻くように盛り上がる終楽章の頂点で、オケは全休止してしまい、前にトランペットが吹いた主題をティンパニが響かせる。
ショスタコらしき瞬間があちこちにあって、なかなか良い曲だと思いました。
19歳で、こうですか・・・・・・・・ショスタコ恐るべしです。
ファビュラス!
20130527
ロビ第10号&11号組立/ロボット「ロビ」
20130526
【第10号】
第10号で紹介されているロボットは、ヴィストン社の「ヴィストン・ティクノ」
身長131Cmの大型二足走行ロボット。


清潔感のある外装デザイン。声を発したり歌ったりでき、歌に合わせてダンスができる。
今回使用するパーツ

今回の作業
① 右ひじバックパネルを取り付ける
② 右上腕フレームを取り付ける
③ サーボケーブルに保護シールを貼る




完成状態

【第11号】
第10号で紹介されているロボットは、「ハルク・ツー」


千葉工業大学・未来ロボット技術研究センターと山中俊治氏の共同開発。
道路が整備されていない場所でも自由に移動できる。
8本脚にしたのは、4本でも6本でも問題ないが、前後2本ずつを他の作業(荷物を持つなど)に使えるから。
今回使用するパーツ

今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続
② サーボのテストをする
③ サーボIDを書き込む
④ 2つのサーボを接続し、取り付ける




完成状態

2つのサーボモーターが組み込まれて、腕らしくなった。
ロビの頭部と一緒に撮影

第10号で紹介されているロボットは、ヴィストン社の「ヴィストン・ティクノ」
身長131Cmの大型二足走行ロボット。


清潔感のある外装デザイン。声を発したり歌ったりでき、歌に合わせてダンスができる。
今回使用するパーツ

今回の作業
① 右ひじバックパネルを取り付ける
② 右上腕フレームを取り付ける
③ サーボケーブルに保護シールを貼る




完成状態

【第11号】
第10号で紹介されているロボットは、「ハルク・ツー」


千葉工業大学・未来ロボット技術研究センターと山中俊治氏の共同開発。
道路が整備されていない場所でも自由に移動できる。
8本脚にしたのは、4本でも6本でも問題ないが、前後2本ずつを他の作業(荷物を持つなど)に使えるから。
今回使用するパーツ

今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続
② サーボのテストをする
③ サーボIDを書き込む
④ 2つのサーボを接続し、取り付ける




完成状態

2つのサーボモーターが組み込まれて、腕らしくなった。
ロビの頭部と一緒に撮影

われに千里の思いあり(下巻・名君・前田綱紀)/中村彰彦
20130525

四代目光高は、『光高公教戒の五百首』を残すほど歌に明るかったが、それは妻の大姫の影響だった。大姫は水戸徳川家の娘で水戸光圀の姉にあたる。家光の養女となった大姫を育てたのは春日局だった。
その大姫が、光高の急死によりわずか19歳で寡婦となってしまった。
光高の忘れ形見の犬千代は、鳥が好きでその縁もあり次期将軍家綱の生母お楽の方にも可愛がられる、利発さと素直さを持った少年だった。
光高の死後、再び前田藩を統率していた前田利常は、家光臨終には徳川御三家に次いで、最後の別れをした。
利常と入れ替わりに呼ばれて入っていったのが、保科正之だった。
有名な場面である。
「ひ、肥後よ、弟よ。そ、その方、余の恩を忘れてはおるまいの」
「はい」保科正之は涙ながらに答えた。
「骨髄に徹し、片時たりとも忘れたことはござりませぬ」
「――――そうか」
「知っての通り、大納言はまだ十一歳じゃ。そちに、頼みおくぞ」
家光はもっとも信頼する正之に、次期将軍家綱の輔弼役たれ、と遺言したのである。
すぐに、保科正之は西ノ丸にゆき、泣きべそをかいている家綱を慰めた。
酒井忠勝以下が家綱にお悔やみを述べるために西ノ丸に出向くと、保科正之は静かに口を開いた。
「お上の御遺命により、本日ただいまより大納言様を後見いたすことになりました」
利常は、来客があるたび、襖一枚へだてて犬千代に会話を聞かせた。
大人はどのような言葉を用いて、どのようなことを話すかを犬千代に学ばせたのである。
加賀は、戦国時代百年余り一向一揆によって、農民の国を実現していた。だから加賀藩はまだ完全に農民を管理できていたわけではなかった。
利常は「改作法」という、それまでの「検見法」から「定免法」にあらため、そして不作の年などには困窮者には、米を貸し出すなど非常時の救済法をきちんと定め、貧しい農民層を救うことと、藩の税収を安定させることに成功させた。
これは、他藩に先駆けたもので、保科正之の有名な藩政にも先行するものだった。
犬千代の元服は、将軍家綱の面前で保科正之が烏帽子親を代わりに努めるという名誉なものだった。
そして、前田綱利という名になった。
江戸城の天守閣も焼け落ちた明暦の大火のあとの、保科正之と松平信綱の江戸の大改革は皆ご存知のとおりである。
江戸城の修復には、前田藩は天主台の再築を命じられ、利常と綱利は当時も評判となった立派な仕事をする。
この天主台は今でも残っている。
その天主台が完成し、家綱が検分した際のこと、家綱を案内した綱利は、梯子に乗る前にわらじと足袋を脱いではだしになった。将軍を先導するのに、土足で梯子を汚してはならないと思ったからである。「さすがに加賀百万石の当主だけのことはある」と老中たちの間で評判になった。
この立派な天主台の上に天守閣は、ついに建たなかった。
それは保科正之と松平信綱が、すでに徳川政権が安定した今、無用の出費をするへきではないと、しかし角が立たないよう、「当分見合わせる」という言い方で処したためである。
保科正之の見事な政治を傍で見ていた利常は、前田藩を託すのは保科正之と狙いを定め、見事保科正之の娘を綱利の妻に迎えることを実現、家綱からの許しを得る。
それで安心したのか、間もなく利常はこの世を去った。
将軍家綱は、すでに義父となっている保科正之に、改めて前田綱利の後見人たれと命じた。
保科正之は、すぐに綱利に対して、これまで藩政を見ていたのが利常であったため、綱利をまだ軽んじる家風があることを払しょくするため、これに対する施策を次々に綱利に助言する。
そしてこれを軽んじる者は保科正之がこれを許さぬと、通達を発する。
保科正之の助言を、常に筆を携え、きちんと書き取る綱利であった。
そればかりでなく、綱利は自分の質問に対する保科正之の助言に感じ入り、改めて師弟の契りを願い出たのであった。
そして綱利は、正之の知力と洞察力に感じるあまり、改めて正之が幕閣をどう指導してきたのかを自分なりに調べて、あらためて保科正之の政策のすごさに感じ入った。
綱利が自ら「綱紀」と改名したのは、師とあおいだ保科正之すでに亡く、身辺に不幸が続いたときであった。水戸徳川家の客分となってい、朱子学や陽明学に通じた朱舜水に助言を仰ぎ、決めた。
前田綱紀は、保科正之の薫陶よろしく学究の徒であった。
将軍が綱吉の代になっても、前田綱紀の人柄から、綱吉から信用をされ、「前田家は御三家の次とする」と綱吉からお墨付きをもらうほどであった。
前田綱紀の代で、徳川政権のなかでの加賀百万石の安泰は盤石のものとなったと云えよう。
それは保科正之の薫陶の結果だったと知って、保科正之ファンの私としては、とても嬉しかった。
古事記を知る(17)
20130524
3-6 須佐之男命の神裔
故其櫛名田比賣以久美度邇起邇而。所生神名。謂八嶋士奴美神。自士下二字以音下効比 其又娶大山津見神之女名神大市比賣。生子大年神。次宇迦之御魂神。二柱。宇迦二字以音
兄八嶋士奴美神。娶大山津見神之女名木花知流此二字以音比賣生子。布波能母遅久奴須奴神。此神娶淤迦美神之女名日河比賣生子。深淵之水夜禮花神。此神娶天之都度閇知泥上神自都下五字以音生子。淤美豆奴神。此神名以音此神娶布怒奴怒神此神名以音之女名布帝耳上神生子。天冬衣神。此神娶刺國大上神之女名刺國若比賣生子。大國主神。亦名謂大穴牟遅神。牟遅二字以音亦名謂葦原色許男神。色許二字以音亦名謂八千矛神。亦名謂宇都志國玉神。宇都志三字以音并有五名。
(読み)
ヌノカミトイフ マタオホヤマツミノカミノミムスメナハカムオホイチヒメニミアヒテ ミコオホトシノカミ ツギニウカノミタマノカミヲウミマシキ
ミアニヤシマジヌミノカミ オホヤマツミノカミノミムスメナハコノハナチルヒメニミアヒテウミマセルミコ フハノモヂクヌスヌノカミ コノカミオカミノカミノムスメナハヒカハヒメニミアヒテウミマセルミコ フカブチノヤレハナノカミ コノカミアメノツドヘチネノカミニミアヒテウミマセルミコ オミヅヌノカミ コノカミフヌヅヌノカミノムスメナハフタミミノカミニミアヒテウミマセルミコ アメノフユキヌノカミ コノカミサシクニノオオノカミノムスメナハサシクニノワカヒメニミアヒテウミマ゛ルミコ オホクニヌシノカミ マタノナハオホナムヂノカミトマヲシ マタノナハアシハラシコオノカミトマヲシ マタノナハヤチホコノカミトマヲシ マタノナハウツシクニタマノカミトマヲス アハセテミナイツツアリ
(現代語訳)
そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。
(注)
○くみどに起して:夫婦の交わりを始めての意。
○八島士奴美神:名義未詳。
○神大市比売:名義未詳。
○大年神:「年」は稲の稔りをいう。穀物の神。
○宇迦之御魂神:「うか」は、「うけ」と同じで、食物・穀物の意。穀物の神霊
○木花知流比売:同じく大山津見神の女(むすめ)と伝える木花之佐久夜毘売とともに、桜の花にちなんだ神。
○布波能母遅久奴須奴神:名義未詳。
○淤迦美神:水をつかさどる神としての蛇神。
○日河比売:「日河」は、氷川神社のある武蔵国の地名「氷川」と同じであろう。この神は水神であろう。
○深淵之水夜禮花神:「夜礼花」は語義未詳。淵の水をつかさどる神であろう。
○天之都度閇知泥神:名義未詳。
○淤美豆奴神:『出雲風土記』に「国引きましし意美豆努命」とある八束水臣津野命と同じ神であろう。
○布奴豆奴神:この神から刺国若比売まで、五神の名は名義未詳。
○大国主神:国土の偉大な主宰神の意。この神名は、もともと別神であった大穴牟遅神・葦原色許男神・八干矛神・宇都志国玉神などの神々を、一神に統合して新たに名づけたものである。
○大穴牟遅神:「な」は土地の意の古語で、、「むち」は尊貴の意。大地の主神の意。『出雲風土記』では、「天の下造らしし大穴持命」と記されている。
○葦原色許男神:書紀に「葦原醜男」と記している。「醜男」は頑強な男の意。葦原中国を代表する強い男の意。○八干矛神:多くの矛を有する神の意。この矛は武器であり、祭器であろう。
○宇都志国玉神:現(うつ)し国魂の神の意。現実の国土の神霊をいう。
スサノヲノ命の神裔を語るこの系譜伝承では、スサノヲノ命とクシナダ姫との結婚によって、ヤシマジヌミノ神が生まれ、この神の五世の孫として大国主神が生まれることを語っている。『古事記』では、大国主神はスサノヲノ命の六世の孫とされているが、書紀本文ではスサノヲノ命の子と記し、書紀の一書では六世の孫とも七世の孫とも伝えている。要するに大国主神またはオホナムチノ神は、スサノヲノ命を祖神とする直系の出雲系の神格とされたのであって、中間に現われる神々には名義未詳のものが多く、またそれらの神々は後から系図に挿入されたものであろう。
いっぽう、スサノヲノ命とカムオホイチヒメとの間には、大年神・ウカノミタマノ神のような穀神が生まれたとされており、これはスサノヲノ命が、農耕に関係の深い水の神として信仰されたことと関連がある。
この一節は、スサノヲノ命を主人公とする八俣の大蛇神話に次いで、大国主神を主人公とするもろもろの神話を語るための、つなぎとして記された部分である。したがって、大国主神に関する物語を展開するための、序曲ともいうべき部分である。
須佐之男命と櫛名田比売の最も古い図像
八重垣神社

東京・神田明神の大国主命像

故其櫛名田比賣以久美度邇起邇而。所生神名。謂八嶋士奴美神。自士下二字以音下効比 其又娶大山津見神之女名神大市比賣。生子大年神。次宇迦之御魂神。二柱。宇迦二字以音
兄八嶋士奴美神。娶大山津見神之女名木花知流此二字以音比賣生子。布波能母遅久奴須奴神。此神娶淤迦美神之女名日河比賣生子。深淵之水夜禮花神。此神娶天之都度閇知泥上神自都下五字以音生子。淤美豆奴神。此神名以音此神娶布怒奴怒神此神名以音之女名布帝耳上神生子。天冬衣神。此神娶刺國大上神之女名刺國若比賣生子。大國主神。亦名謂大穴牟遅神。牟遅二字以音亦名謂葦原色許男神。色許二字以音亦名謂八千矛神。亦名謂宇都志國玉神。宇都志三字以音并有五名。
(読み)
ヌノカミトイフ マタオホヤマツミノカミノミムスメナハカムオホイチヒメニミアヒテ ミコオホトシノカミ ツギニウカノミタマノカミヲウミマシキ
ミアニヤシマジヌミノカミ オホヤマツミノカミノミムスメナハコノハナチルヒメニミアヒテウミマセルミコ フハノモヂクヌスヌノカミ コノカミオカミノカミノムスメナハヒカハヒメニミアヒテウミマセルミコ フカブチノヤレハナノカミ コノカミアメノツドヘチネノカミニミアヒテウミマセルミコ オミヅヌノカミ コノカミフヌヅヌノカミノムスメナハフタミミノカミニミアヒテウミマセルミコ アメノフユキヌノカミ コノカミサシクニノオオノカミノムスメナハサシクニノワカヒメニミアヒテウミマ゛ルミコ オホクニヌシノカミ マタノナハオホナムヂノカミトマヲシ マタノナハアシハラシコオノカミトマヲシ マタノナハヤチホコノカミトマヲシ マタノナハウツシクニタマノカミトマヲス アハセテミナイツツアリ
(現代語訳)
そこで須佐之男命は、妻の櫛名田比売と、寝所で夫婦の交りを始めて、生んだ神の名は八島士奴美神という。また大山津見神の娘の、神大市比売という名の神を妻として生んだ子は、大年神、次に宇迦之御魂神の二柱である。兄の八島士奴美神が、大山津見神の娘の、木花知流比売という名の神を妻として生んだ子は、布波能母遅久奴須奴神である。この神が、淤迦美神の娘の、日河比売という名の神を妻として生んだ子は、深淵之水夜禮花神である。この神が、天之都度閇知泥神を妻として生んだ子は、淤美豆奴神である。
この神が、布奴豆奴神の娘の、布帝耳神という名の神を妻として生んだ子は、天之冬衣神である。この神が、刺国大神の娘の、刺国若比売という名の神を妻として生んだ子は、大国主神である。この神のまたの名は大穴牟遅神といい、またの名は葦原色許男神といい、またの名は八干矛神といい、またの名は宇都志国玉神といい、合わせて五つの名がある。
(注)
○くみどに起して:夫婦の交わりを始めての意。
○八島士奴美神:名義未詳。
○神大市比売:名義未詳。
○大年神:「年」は稲の稔りをいう。穀物の神。
○宇迦之御魂神:「うか」は、「うけ」と同じで、食物・穀物の意。穀物の神霊
○木花知流比売:同じく大山津見神の女(むすめ)と伝える木花之佐久夜毘売とともに、桜の花にちなんだ神。
○布波能母遅久奴須奴神:名義未詳。
○淤迦美神:水をつかさどる神としての蛇神。
○日河比売:「日河」は、氷川神社のある武蔵国の地名「氷川」と同じであろう。この神は水神であろう。
○深淵之水夜禮花神:「夜礼花」は語義未詳。淵の水をつかさどる神であろう。
○天之都度閇知泥神:名義未詳。
○淤美豆奴神:『出雲風土記』に「国引きましし意美豆努命」とある八束水臣津野命と同じ神であろう。
○布奴豆奴神:この神から刺国若比売まで、五神の名は名義未詳。
○大国主神:国土の偉大な主宰神の意。この神名は、もともと別神であった大穴牟遅神・葦原色許男神・八干矛神・宇都志国玉神などの神々を、一神に統合して新たに名づけたものである。
○大穴牟遅神:「な」は土地の意の古語で、、「むち」は尊貴の意。大地の主神の意。『出雲風土記』では、「天の下造らしし大穴持命」と記されている。
○葦原色許男神:書紀に「葦原醜男」と記している。「醜男」は頑強な男の意。葦原中国を代表する強い男の意。○八干矛神:多くの矛を有する神の意。この矛は武器であり、祭器であろう。
○宇都志国玉神:現(うつ)し国魂の神の意。現実の国土の神霊をいう。
スサノヲノ命の神裔を語るこの系譜伝承では、スサノヲノ命とクシナダ姫との結婚によって、ヤシマジヌミノ神が生まれ、この神の五世の孫として大国主神が生まれることを語っている。『古事記』では、大国主神はスサノヲノ命の六世の孫とされているが、書紀本文ではスサノヲノ命の子と記し、書紀の一書では六世の孫とも七世の孫とも伝えている。要するに大国主神またはオホナムチノ神は、スサノヲノ命を祖神とする直系の出雲系の神格とされたのであって、中間に現われる神々には名義未詳のものが多く、またそれらの神々は後から系図に挿入されたものであろう。
いっぽう、スサノヲノ命とカムオホイチヒメとの間には、大年神・ウカノミタマノ神のような穀神が生まれたとされており、これはスサノヲノ命が、農耕に関係の深い水の神として信仰されたことと関連がある。
この一節は、スサノヲノ命を主人公とする八俣の大蛇神話に次いで、大国主神を主人公とするもろもろの神話を語るための、つなぎとして記された部分である。したがって、大国主神に関する物語を展開するための、序曲ともいうべき部分である。
須佐之男命と櫛名田比売の最も古い図像
八重垣神社

東京・神田明神の大国主命像

谷津バラ園
20130523
昨日、ここに薔薇の写真を撮りに行ってきました。
私が薔薇園なるものに、生まれて初めて足を踏み入れたのは、何を隠そうここなんです。
大学一年のときに、当時入っていた習志野の寮から、ぶらぶらと散歩に出たときに、ふらっと足を踏み入れました。
信州の寒村から出てきたばかりの、山猿の私には、ものすごいカルチャーショックでしたね(笑)
華やかなバラの花ばかりで、バラの香りにむせて、しかも女性の姿がたくさん群れていて。
もう・・・・・・・・
クラクラしたのは覚えています。
カメラを趣味にするようになってから、花の中では特に薔薇を中心に撮るようになったのは、このときの強烈な印象があったからだと思います。
それから何十年も経っていますから、バラ園も変遷しています。
旧谷津バラ園は谷津遊園内の一施設として、昭和32年5月27日に秩父宮妃殿下をお迎えして開園しました。
そして、翌年にはローズガーデンとサンプルガーデンが開園して、当時東洋一とも言われる大バラ園が完成しました。
その後、京葉道路の開通にともない、バラ園は昭和40年に現在地に移りました。以降、品種的な補充が年々行われ、昭和51年には世界16ヶ国のバラ品種1,007種類が集められ、最盛期には、1,200種類余りが栽培されていました。
日本バラ会の試作場も園内の一隅にあり、世界各国のバラが試作され、毎年名花を世界に発表していました。昭和57年12月、谷津遊園の閉園にともないバラ園も閉鎖されましたが、住宅都市整備公団の団地建設にともない、再び谷津バラ園が習志野市の都市公園としてここに復元されました。
現在の谷津バラ園は昭和63年5月、よそおいも新たに再スタートしました。
新バラ園は従来のバラ園のデザインを尊重しながらも、いくつかの改良の手を加え、時代にふさわしいものになりました。
このバラ園の特色は、園路にスロープを設け、車椅子によるバラの観賞散策が楽しめること。その他、従来バラ園は洋風な庭園が主体であったものを和風に仕上げたコーナーを設けてあります。
また、静的なバラに動的な水の流れを配し、花のない時期においても造園の美しさを楽しめるよう塑像を配置するなど、一年を通して多くの方々に親しんでいただけるようにしました
園内に入ると、綺麗に仕上げられたレイアウトに目を奪われました。





こんなに、綺麗に整えられて維持されているのは、習志野市だけでなくて、民間の沢山の人たちの努力がなかったら、とうてい望めないことだと思います。
その方々に感謝したいと思いますね。
これがとてもありがたかった。

とても暑くて、写真を撮っていては、ここに逃げ込んで休んで、用意していったおにぎりをここのベンチで食べて。
とてもお世話になりました。
写真を撮りまくりました。

あちこちにある塑像もよかったですね。

赤いバラの海 「モンタナ」

純白の壁 「サラトガ」

ピンクの波 「ジャルダン・ドゥ・フランス」

白い海 「ファピュラス」

今年は、ミスターローズ故鈴木省三さんの生誕100年にあたります。
鈴木省三さん作出の薔薇を集めたコーナーがあったのですが、行くのが遅かったのでほとんどが終わっていました。
この「ふれ太鼓」は盛んに咲いてくれていました。

「つる・プリンセスミチコ」

黄色も頑張ってます。 「インカ」

ピンクと白の海もいいですね。「ブラッシング・ノックアウト」

遅かったので、終わってしまった花、綺麗な花が残っていないものが多く、綺麗に撮れたのは65種、340枚でした。
順次紹介していきます。
私が薔薇園なるものに、生まれて初めて足を踏み入れたのは、何を隠そうここなんです。
大学一年のときに、当時入っていた習志野の寮から、ぶらぶらと散歩に出たときに、ふらっと足を踏み入れました。
信州の寒村から出てきたばかりの、山猿の私には、ものすごいカルチャーショックでしたね(笑)
華やかなバラの花ばかりで、バラの香りにむせて、しかも女性の姿がたくさん群れていて。
もう・・・・・・・・
クラクラしたのは覚えています。
カメラを趣味にするようになってから、花の中では特に薔薇を中心に撮るようになったのは、このときの強烈な印象があったからだと思います。
それから何十年も経っていますから、バラ園も変遷しています。
旧谷津バラ園は谷津遊園内の一施設として、昭和32年5月27日に秩父宮妃殿下をお迎えして開園しました。
そして、翌年にはローズガーデンとサンプルガーデンが開園して、当時東洋一とも言われる大バラ園が完成しました。
その後、京葉道路の開通にともない、バラ園は昭和40年に現在地に移りました。以降、品種的な補充が年々行われ、昭和51年には世界16ヶ国のバラ品種1,007種類が集められ、最盛期には、1,200種類余りが栽培されていました。
日本バラ会の試作場も園内の一隅にあり、世界各国のバラが試作され、毎年名花を世界に発表していました。昭和57年12月、谷津遊園の閉園にともないバラ園も閉鎖されましたが、住宅都市整備公団の団地建設にともない、再び谷津バラ園が習志野市の都市公園としてここに復元されました。
現在の谷津バラ園は昭和63年5月、よそおいも新たに再スタートしました。
新バラ園は従来のバラ園のデザインを尊重しながらも、いくつかの改良の手を加え、時代にふさわしいものになりました。
このバラ園の特色は、園路にスロープを設け、車椅子によるバラの観賞散策が楽しめること。その他、従来バラ園は洋風な庭園が主体であったものを和風に仕上げたコーナーを設けてあります。
また、静的なバラに動的な水の流れを配し、花のない時期においても造園の美しさを楽しめるよう塑像を配置するなど、一年を通して多くの方々に親しんでいただけるようにしました
園内に入ると、綺麗に仕上げられたレイアウトに目を奪われました。





こんなに、綺麗に整えられて維持されているのは、習志野市だけでなくて、民間の沢山の人たちの努力がなかったら、とうてい望めないことだと思います。
その方々に感謝したいと思いますね。
これがとてもありがたかった。

とても暑くて、写真を撮っていては、ここに逃げ込んで休んで、用意していったおにぎりをここのベンチで食べて。
とてもお世話になりました。
写真を撮りまくりました。

あちこちにある塑像もよかったですね。

赤いバラの海 「モンタナ」

純白の壁 「サラトガ」

ピンクの波 「ジャルダン・ドゥ・フランス」

白い海 「ファピュラス」

今年は、ミスターローズ故鈴木省三さんの生誕100年にあたります。
鈴木省三さん作出の薔薇を集めたコーナーがあったのですが、行くのが遅かったのでほとんどが終わっていました。
この「ふれ太鼓」は盛んに咲いてくれていました。

「つる・プリンセスミチコ」

黄色も頑張ってます。 「インカ」

ピンクと白の海もいいですね。「ブラッシング・ノックアウト」

遅かったので、終わってしまった花、綺麗な花が残っていないものが多く、綺麗に撮れたのは65種、340枚でした。
順次紹介していきます。
プレイガール
20130522
舟を編む
20130521

18日(土)に、カミさんが介護から解放されて、大学のときの友人が名古屋から来て銀座で会うというので、途中まで一緒に行き、芝大神宮にお参りして、その後品川プリンスシネマで「舟を編む」を見ました。
出版社の辞書編集部を舞台に、新しい辞書づくりに取り組む人々の姿を描き、2012年本屋大賞で第1位を獲得した三浦しをんの同名小説を映画化したものです。
この小説については、記事にしてます。こっちをサラッと読んでもらってからのほうがいいですね。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1130.html
玄武書房という出版社の営業部に勤める馬締光也(松田龍平)は、真面目すぎて職場で少々浮いている。しかし言葉に対する卓越したセンスを持ち合わせていることが評価され、新しい辞書『大渡海(だいとかい)』の編纂を進める辞書編集部に異動となる。今を生きる辞書を目指している『大渡海(だいとかい)』は見出し語が24万語という大規模なもの。曲者ぞろいの辞書編集部の中で、馬締は作業にのめり込む。ある日、ひょんなことから知り合った女性香具矢(宮崎あおい)に一目で恋に落ちた馬締。なんとかして自分の思いを彼女に伝えたいが、なかなかふさわしい言葉が出てこず苦悩する。そんな中、会社の方針が変わり、『大渡海』の完成に暗雲がたちこめる……。
「なぜ、新しい辞書の名を『大渡海』にしようとしているか、わかるか」
「辞書は、言葉の海を渡る舟だ」
「ひとは辞書という舟に乗り、暗い海面に浮かびあがる小さな光を集める。もっともふさわしい言葉で、正確に、思いをだれかに届けるために。もし辞書がなかったら、俺たちは茫漠とした大海原をまえにたたずむほかないだろう」
「海を渡るにふさわしい舟を編む」
この大業が馬蹄に託される。
本を読んでから、映画を見たわけだが、やはり映像の力は強い。もちろん本を読んだ時に自分がハマッたエビソードが削られていたりして寂しい部分もあったが、それでも本を読んだときのあのワクワクした空間が映像で示されると、何ともいえない幸せな気持ちであった。
棚をiびっしり埋め尽くす用例カード

下宿は馬蹄一人の本で埋め尽くされる。

普通、知り合ったとしてもとうてい結ばれそうもない二人が結ばれる。

馬蹄は、毛筆で達筆すぎる字で書いた恋文を香具矢に渡す。

小説では、あまりに達筆すぎて香具矢は読めず、ラブレターだとわからなくて放っておかれ、ために馬蹄は地獄の苦しみに陥るのだが・・・・・・
映画では、香具矢が馬蹄に詰め寄る。
「ふつう、手紙というのはきちんと相手に伝わるために書くんじゃないの(怒)」
香具矢は読めないものだから、勤める料理屋の大将に読んでもらったのだ。
「どれだけ恥ずかしかったか・・・・・・・・(怒)」
香具矢の答えは「YES」であった。
辞書編集部を監修する、国語学の大家、松本先生。
病んでもなお新聞から用例カードを作り続ける。
傍らで、「そんなバカなこと、もう止めなさいよ」と云おうともせず暖かく手伝う妻。

本を読んでいて、私が最も感情移入したのは西岡という社員である。

「器用貧乏」という言葉があるが、西岡がそういうタイプ。辞書編集部に配属され仕事だと割り切って頑張ってきたが、一つのものにのめりこむ執着心が薄いので、馬蹄が辞書編集部に異動してきたとき、こいつにはかなわないと観念した。
そして、不採算部門として、「大渡海」の事業が潰されそうになったとき、悪知恵を出して業界にニュースを流して既定事実を作ってしまい、会社に止められない状況を作り出す。
しかし経費削減のため、西岡は営業部に回されてしまう。
西岡は辞書編纂の仕事と、馬蹄以下それに携わる人たちが大好きになっていた。
そして、去る前にいつ来るとも知れぬ後継者のために「引き継ぎ資料」を作るのである。
この「引き継ぎ資料」は、残念ながら映画には登場しなかった。
西岡は、「大渡海」に血潮を通わせるために必要不可欠の存在だったんです。
それで、馬蹄は執筆者のところに西岡の名前も掲載するんです。
ちょっとウルウルな話です。
映画では、これも出てきませんでした。
それから、映画を見に行ったときに、必ず買わずにいられないプログラム。
それが今回は、ものすごく秀逸だったのだ。
プログラムを拾い読みしているだけでも、実に幸せ(笑)
それから、紙質の話が本に載っていて・・・・・。
印刷や紙も重要事項なんですね。
本を読みながら、いろんな辞書を取り出してきて、めくってみたものです。
やっぱり辞書によって違いますね。
そしてね、プログラムに4枚だけなんだけど「辞書って面白い」という章に「大渡海」の紙です、と使ってあるんですよ(嬉)
馬蹄が「ぬめり感」とこだわった紙質です、と。
そして、「恋」、「言葉」、「仕事」の語釈が辞書によってこれだけ違うと、色々な辞書から集めて見せてくれてます。
「恋」だけご紹介。


すごいですよ。
このサービス精神に充ち溢れたプログラムは!!!
キャスト
馬締光也:松田龍平
林香具矢:宮﨑あおい
西岡正志:オダギリジョー
岸辺みどり:黒木華
タケ:渡辺美佐子
三好麗美:池脇千鶴
村越局長:鶴見辰吾
佐々木薫:伊佐山ひろ子
松本千恵:八千草薫
荒木公平:小林薫
松本朋佑:加藤剛
スタッフ [編集]
監督:石井裕也
脚本:渡辺謙作
芝大神宮
20130519
昨日は、カミさんが介護から解放されて、大学のときの友人が名古屋から来て銀座で会うというので、途中まで一緒に行き、ここにお参りして、その後品川プリンスシネマで「舟を編む」を見て、友人と東京駅で別れたカミさんと合流、新丸ビルで夕食を食べました。
芝大神宮は東京十社に入っている神社です。
祭神は天照皇大御神と豊受大御神。
相殿神として源頼朝公と徳川家康公
武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。明治維新にあたり、政府の教部省、太政官正院並びに東京府の許可のもと、明治5年8月30日(1872年10月2日)より、現今の神社名である「芝大神宮」を称す。
歴史としては、武蔵国に置かれた伊勢神宮の御厨である「飯倉御厨」(『神鳳鈔』)に創祀された神明社に起源を持つとされ、当初は飯倉山(現港区芝公園)に鎮座していた。
武将の信仰としては、源頼朝、足利尊氏の実弟直義、太田資長(道灌)、北条氏直、豊臣秀吉、徳川家康の名が上がる。
慶長3年(1598年)8月、増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地(港区芝大門)へ奉遷した。
市井においては、東海道沿線で江戸市中と市外の境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから、江戸時代に入って参詣者が増え、江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため、代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられる。
地下鉄「大門」駅から歩いて数分です。
場所が場所だけにビルに囲まれてしまっています。

大きい鳥居がそびえている。


社標

狛犬は愛嬌ある顔

こちらのは、角が生えていますね。

巻き毛が美しい、立派な狛犬でした。

手水舎

柱が6本あるんですよね。

傍の説明によると、四本柱の外側に棟持ち柱を立てた神名造りの様式なのだそうです。
拝殿

千木と鰹木が立派です。
千木は祭神が女性(天照大御神)なのを表わす「平削ぎ」となっています。

拝殿は厳かな造りになっています。

神紋は「右三つ巴」です。

本殿は、木に隠れてほとんど見えませんでした。

拝殿の横に、柳生宗矩の言葉が貼ってあった。

絵馬の種類が多くて、つい撮ってしまった。




力石
これは五十貫余あり、明治時代の有名な力持ち力士「金杉藤吉」が片手で差し上げたというもの。

星野立子氏、星野椿氏、星野高士氏三代の句碑がありました。

そよりとも風はなけれど夜涼かな/立子
千年の神燈絶えず去年今年/椿
界隈のたらだら祭なる人出/高士
生姜塚
当神社創建の時代、周辺には生姜畑が繁茂していたため、これを神前に供えたといい、その撤下を食すと風邪に罹りにくくなるとの評判が生じ、爾来、例祭期間中に生姜を授与するようになったといいます。

大きな灯篭があったので、銘文を見ると大正5年に建てられたもの。

親子獅子が彫られている。

「貯金塚」なるものがあった。
説明

説明を読むと、関東大震災の折、政府は混乱を恐れただちに「支払猶予令」を布いたが、その中でひとり預金の全額払い戻しを断行した銀行があった。
その名は「不動貯金銀行」といい、頭取は牧野元二郎氏であった。
現在のりそな銀行(旧あさひ銀行・旧協和銀行)につながる銀行だそうである。
貯金塚

武者小路実篤の書

その下に大黒さんの絵が彫られている。

芝大神宮は東京十社に入っている神社です。
祭神は天照皇大御神と豊受大御神。
相殿神として源頼朝公と徳川家康公
武蔵国日比谷郷に鎮座していたことから「日比谷神明(日比谷神明宮)」と、また飯倉御厨(後の武蔵国飯倉庄)に鎮座していたことから、「飯倉神明(飯倉神明宮)」と、さらに芝の地に住民が居留して町の様相を呈するに及び「芝神明(芝神明宮)」とも称されるに至った。また別に、伊勢神宮の内外両宮の祭神を祀ることから、関東における伊勢信仰の中心的な役割を担い、「関東のお伊勢様」とも尊称された。明治維新にあたり、政府の教部省、太政官正院並びに東京府の許可のもと、明治5年8月30日(1872年10月2日)より、現今の神社名である「芝大神宮」を称す。
歴史としては、武蔵国に置かれた伊勢神宮の御厨である「飯倉御厨」(『神鳳鈔』)に創祀された神明社に起源を持つとされ、当初は飯倉山(現港区芝公園)に鎮座していた。
武将の信仰としては、源頼朝、足利尊氏の実弟直義、太田資長(道灌)、北条氏直、豊臣秀吉、徳川家康の名が上がる。
慶長3年(1598年)8月、増上寺が当神社の旧鎮座地(芝公園)へ移転することとなったため、現在地(港区芝大門)へ奉遷した。
市井においては、東海道沿線で江戸市中と市外の境界線上(近くに金杉橋あり)に鎮座し、増上寺も隣接することから、江戸時代に入って参詣者が増え、江戸から出府する旅人にとっては道中無事を、入府する旅人にとっては道中無事の報賽をといった祈願が行われた。さらに江戸時代にはお蔭参りといわれる伊勢神宮への参拝が数多く見受けられるが、高額な旅費と長期間の旅程を要し、容易に行うことは難しかったため、代わりに伊勢神宮の祭神を祀り江戸市中に鎮座する当神社への参詣者が増えていったと考えられる。
地下鉄「大門」駅から歩いて数分です。
場所が場所だけにビルに囲まれてしまっています。

大きい鳥居がそびえている。


社標

狛犬は愛嬌ある顔

こちらのは、角が生えていますね。

巻き毛が美しい、立派な狛犬でした。

手水舎

柱が6本あるんですよね。

傍の説明によると、四本柱の外側に棟持ち柱を立てた神名造りの様式なのだそうです。
拝殿

千木と鰹木が立派です。
千木は祭神が女性(天照大御神)なのを表わす「平削ぎ」となっています。

拝殿は厳かな造りになっています。

神紋は「右三つ巴」です。

本殿は、木に隠れてほとんど見えませんでした。

拝殿の横に、柳生宗矩の言葉が貼ってあった。

絵馬の種類が多くて、つい撮ってしまった。




力石
これは五十貫余あり、明治時代の有名な力持ち力士「金杉藤吉」が片手で差し上げたというもの。

星野立子氏、星野椿氏、星野高士氏三代の句碑がありました。

そよりとも風はなけれど夜涼かな/立子
千年の神燈絶えず去年今年/椿
界隈のたらだら祭なる人出/高士
生姜塚
当神社創建の時代、周辺には生姜畑が繁茂していたため、これを神前に供えたといい、その撤下を食すと風邪に罹りにくくなるとの評判が生じ、爾来、例祭期間中に生姜を授与するようになったといいます。

大きな灯篭があったので、銘文を見ると大正5年に建てられたもの。

親子獅子が彫られている。

「貯金塚」なるものがあった。
説明

説明を読むと、関東大震災の折、政府は混乱を恐れただちに「支払猶予令」を布いたが、その中でひとり預金の全額払い戻しを断行した銀行があった。
その名は「不動貯金銀行」といい、頭取は牧野元二郎氏であった。
現在のりそな銀行(旧あさひ銀行・旧協和銀行)につながる銀行だそうである。
貯金塚

武者小路実篤の書

その下に大黒さんの絵が彫られている。

ロビ第08号&09号組立/ロボット「ロビ」
20130517
【第08号】
第8号で紹介されているロボットは、「ゴミ箱ロボット」

豊橋技術科学大学の開発したこれは、体を揺らしながらゆっくり施設内をぶらつき、ゴミを入れてもらえば体を曲げてお礼する。このロボットのできることは、これくらいである。
アーム類は無いので、自分でゴミを拾うことはできない。
このロボットは、わざと頼りなく作られている。その理由はロボットと人間社会の関わりを探るために作られた。
今回使用するパーツ

今回の作業
① 耳にパネルを取り付ける
② サーボケーブルに保護シールを貼る
③ サーボにサーボブルを接続する
④ サーボのテストをする
⑤ サーボIDを書き込む




完成状態

【第09号】
第8号で紹介されているロボットは、川田工業の「ネクステージ」である。


工場で働く産業用ロボットだが、顔があり2本の腕で、複数の仕事をこなす。
もともとの川田工業という会社は、本四連絡橋など橋梁事業で有名な会社。そういう会社も今は「ロボティクス事業部」でロボットに取り組んでいる。
位置情報を判断できるので、レイアウトの都合でちょっと場所をずらしたり、工具の位置がちょっとずれても、いつもどおり作業を続けることができるのが特徴。
今回使用するパーツ

今回の作業
① 指ホルダーを取り付ける
② 親指を取り付ける
③ サーボモーターを取り付ける
④ ひじのパーツを取り付ける
⑤ 前腕カバーを取り付ける





完成状態(二方向から)


第8号で紹介されているロボットは、「ゴミ箱ロボット」

豊橋技術科学大学の開発したこれは、体を揺らしながらゆっくり施設内をぶらつき、ゴミを入れてもらえば体を曲げてお礼する。このロボットのできることは、これくらいである。
アーム類は無いので、自分でゴミを拾うことはできない。
このロボットは、わざと頼りなく作られている。その理由はロボットと人間社会の関わりを探るために作られた。
今回使用するパーツ

今回の作業
① 耳にパネルを取り付ける
② サーボケーブルに保護シールを貼る
③ サーボにサーボブルを接続する
④ サーボのテストをする
⑤ サーボIDを書き込む




完成状態

【第09号】
第8号で紹介されているロボットは、川田工業の「ネクステージ」である。


工場で働く産業用ロボットだが、顔があり2本の腕で、複数の仕事をこなす。
もともとの川田工業という会社は、本四連絡橋など橋梁事業で有名な会社。そういう会社も今は「ロボティクス事業部」でロボットに取り組んでいる。
位置情報を判断できるので、レイアウトの都合でちょっと場所をずらしたり、工具の位置がちょっとずれても、いつもどおり作業を続けることができるのが特徴。
今回使用するパーツ

今回の作業
① 指ホルダーを取り付ける
② 親指を取り付ける
③ サーボモーターを取り付ける
④ ひじのパーツを取り付ける
⑤ 前腕カバーを取り付ける





完成状態(二方向から)


われに千里の思いあり(中巻・快男児・前田光高)/中村彰彦
20130515

この巻は、加賀前田藩三代藩主利常と、将軍家の姫との間に生まれ、文武両道に優れた待望の男子・光高が主人公となる。ときの将軍、家光にも気に入られ、その養女を娶った若年の藩主には、思いもかけない悲劇が待ち受けていた。
二代藩主利長が亡くなったのは慶長19(1614)年、最後まで大坂方の大野治長からの誘いの手紙を徳川家康に回すなど、徳川政権の中で前田家を守ろうとした守成の人だった。
このとき三代藩主は、まだ利光という名だった。利長が亡くなったため、江戸に人質として居た芳春院(お松の方)は金沢に帰り、利光の母寿福院が入れ替わりに江戸に人質として入った。
利光は、駿府の家康に本多政重と前田対馬を派遣し利長の遺品を献上。対して家康は利長の遺領、越中22万石を利光に安堵してくれた。
そして、いよいよ大阪城攻めである。先鋒は、左から藤堂高虎、伊達政宗、松平忠直、伊井直孝、前田利光。
藤堂と伊達の後ろに家康、前田の後ろに秀忠という布陣となった。結果的に大坂城に出丸を構築した真田幸村の「真田丸」の正面が前田勢ということになった。
開戦初日に、隣の伊井の赤備え勢が遮二無二突進するのに、利光は状況がよくわからないとして、兵を動かす采配を振ろうとはしなかった。さすがは前田利家の忘れ形見、あの落ち着き様はどうだと評判になる。しかし前田は真田丸にてこずる。トンネルを掘って攻め込む策も試したが、戦上手の真田には通用せず、硬直状態に。
家康は、南蛮渡来の巨大な攻城砲5門で、淀君の居室のある櫓を狙わせた。結果、淀君の侍女7、8人を吹っ飛ばした。それを目の当たりにした淀君は、恐怖におののいて講和を決意してしまった。
それで大坂冬の陣は終結に向かった。
続いて大阪夏の陣である。前田利光は前回と同様の陣地を割り当てられたが、今回は真田丸に幸村はこもっていず、前田勢二万の前には大野治房の四千五百の兵だけだった。それを激破して玉造口から本丸に殺到して前田勢は一番乗り、本丸は火に包まれた。徳川方の圧倒的勝利は間違いなかったが、このとき真田幸村は徳川家康の陣地に肉薄、家康の肝を冷やすことをやってのけたが、善戦はそれまで、三度目の強襲の際に幸村は討死した。ついに淀君・秀頼の親子が自刃して終わったが、そのあと前田勢に後ろからきた伊達政宗の軍勢が一斉に鉄砲を撃ちかけるという珍事件が発生、このときも利光の沈着冷静な判断で同士打ちという悲惨な状況には至らなかった。
大阪冬の陣、夏の陣の働きで、前田利光も朝廷から参議に任じられ「加賀の宰相さま」と呼ばれる身分になったが、利光が家臣の加増に努めた結果、本多の五万石を筆頭に一万石以上の家を16も有するようになった。世の中には一万石の大名も珍しくないのだから、すごいことである。
徳川家康がいよいよ死にそうだということで、利光は駿府に見舞いに参上。家康は息を喘がせながら利光に無念そうに云ったものである。
「予はなんとしでもその方を殺してしまいたかったのじゃが、将軍がぜひともご容赦を、とそなたをかばうので命を助けたのじゃ」
利光は憮然たる思いになった。
本多政重にそれをいうと、大阪夏の陣の終わった後、四国への移封の打診があったことからして、大阪城攻めの際の前田勢の働きを目のあたりにして、脅威を感じたことからであろう、と政重は答える。
利光は秀忠の娘を妻に迎え、将軍の血筋の一男一女をもうけているのにと、暗澹たる思いをした。
利光とお珠の方は大変睦まじく、お珠の方は15歳から24歳までのあいだに三男五女を生んだが、八人目の姫を生んだ後産後の養生が悪く病みついて、ついに亡くなってしまう。
大阪城攻めの際に、あれだけ沈着だった利光だが、いよいよお珠の方が臨終となったとき、彼は衝撃のあまり気を失ってしまう。
秀忠は利光の娘亀鶴姫を養女にと所望した。お珠の方を失い徳川との縁が切れた前田家にとってはありがたい話である。そして亀鶴姫は美作津山藩森忠政の次男忠弘であった。森忠政は森蘭丸の末弟で、秀忠に気に入られている存在だった。
秀忠が次々に大名を取り潰しているなか、前田家にとっては安心できる動きであった。
利光は、三代目将軍に家光がなったので、将軍と同じ「光」を使うのは恐れ多いと、「利常」と名前を改めると幕府に届け出る。ちょうどそのころ利光の嫡男犬千代が元服しようとしていたが、将軍は犬千代の元服名に「光」を使うよう言ってきた。よって前田家は三代目利常、四代目光高となる。
前田家に、再び存亡の危機がふりかかる。金沢城が火災で丸焼けになったあと、将軍家光は迅速に見舞いをしたが、その時の上使の一人に徳山五兵衛がいた。
前田利家がいよいよ死にそうなとき、徳川家康が見舞いに来ることを知り、最後の機会と思い家康暗殺を企てる。これは利長が沈着冷静な気質だったため、これを止めたのだが、利家が暗殺を命じた場に徳山五兵衛が居り、徳山五兵衛はその後出奔して家康のもとに駆け込み、企てがあったことを知らせて、まんまと徳川家に採用された人間である。
上使としてきた徳山五兵衛は、再建中の金沢城の工事に色々難癖をつけて帰ったが、その後前田家に謀反の動きありという話になってしまった。
これは加賀藩史上「寛永の危機」と称される、大変な危機であった。
利常・光高親子は急ぎ江戸に出府して、将軍に会おうとしたが、なかなか会わせてもらえない。
そこで江戸家老横山大膳は、一計を案じた。前田藩上屋敷、下屋敷で大勢の職人を雇って普請工事やら庭の手入れやら、連日大騒ぎを演じた。幕府でも何事かと老中土井利勝が横山大膳を呼び出して質したので、得たりと横山大膳が土井利勝に今回の「謀反の疑い」を晴らすべく弁明に努めた。
この「寛永の危機」には、もう一つ伏線があって、このころ家光の弟忠長が尾張大納言から甲府に蟄居の沙汰が下ったばかりであった。秀忠は最初忠長を次期将軍にしようと考えていただけに、家光が将軍になってから忠長の行状は人心が荒んだものだった。
そこにもってきて前田藩の城普請である。徳山五兵衛の讒言もあって、それで疑われた。
利常・光高親子は、徳川家と縁戚関係でうまくいっていても、どこに落とし穴があるかわからぬ、決して油断はできぬと思ったものである。
秀忠が何かの折には、利常と同席させたため、親しくなった立花宗茂が養父立花道雪の書を贈ってくれた。
神亀は寿なりと雖も猶竟るの時あり
騰蛇は霧を成せども終に土灰と為る
老驥櫪に伏すも志は千里に在り
烈士暮年、壮心己まず
盈縮の期は独り天のみに在らず
養恰の福は永年を得べし
幸甚だ至れる哉、歌うて以て志を詠ず
漢字を目で追いながら宗茂の声を聞くうちに、これは老いたる英雄が齢すでにつきつつあるのを自覚しながら、なおも志を失わずにいるおのれの姿を歌ったものだということが知れた。
「先代からは、これはこういう意味だと教わりましてな」
と宗茂はいって、漢詩を日本語に意訳してくれた。
「亀は長寿ではあるが、なお死をまぬがれない。天に昇るという蛇は霧を発生させることもできるが、ついには土くれとなる。対して駿馬は、老いて厩に伏したところで、その志は千里のかなたを駆けめぐろうとする。そのように烈士といわれるほどの者は、老いたとて壮心己みがたく大志をとげようとするものだ。命の長短は、ひとり天のみが定めるところとは限らない。みずから楽しむ心を養えば、末永く幸福を得ることもできよう。そう考えられるようになったことは幸いである。そこで、その気持ちを歌ってわが志を述べる。」
作者がこの本のタイトルむとしたのは、この漢詩からであった。
将軍家光は水戸藩主徳川頼房の娘を養女とし大姫と名付け、光高に嫁がせた。これでまた前田家と徳川将軍家とは縁戚関係が強化された。
光高は、利常の薫陶よろしく、快男子に成長。家光に気に入られ、家光を助けた。
私が、この三巻からここに拾っているのは、徳川政権のなかで前田家がいかにして加賀120万石を維持出来たのかであるので、光高の活躍と悲劇については「本を読んでみてください」ということで。
(続く)
常楽寺をガイド/埼玉県狭山市
20130514
先週の9日(木)ですが、今年から入会した「ガイドの会」の初仕事がありました。
ガイドするお相手は、狭山市シニアコミュニティカレッジの「狭山の歴史講座 普通コース」の方30名でした。
この日9時から13時まで、狭山市の柏原地区7ケ所を史跡めぐりした訳ですが、私はその一か所「常楽寺」を担当させてもらいました。
常楽寺は、私の家から歩いて5、6分のところにあります。
この春には、そこの一本桜をこのブログでも紹介しました。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1183.html
ガイドは無事に終わりましたが、ここには、良いものが割とあるので、調べた資料をもとに紹介しようと思います。
常楽寺
この寺は妙法山常楽寺といい、宗派は天台宗です。江戸音羽町普門院の末寺といわれていましたが確証はありません。
創建に関わる文書がないので時期、開基、開山などは不明ですが、発見された文書に「元文5年(1740)に西浄寺を同寺の末寺にする」との記載があり、それ以前であろうと思われます。また本堂内の十王像の閣魔(えんま)大王および脱衣婆(だつえば)像には、室町時代の「天正3年(1575)」との墨書(ぼくしょ)がありますが、どこに安置したか確定できませんので判断が難しいところです。市の説明資料は、概ねこれによっています。
現在は無住です。
本堂

この寺の本尊は木造寄木造玉眼の不動明王坐像で、その中に胎内仏が納入されています。また本堂内には不動明王立像、地蔵菩薩、観世音菩薩、釈迦十大弟子、十王像などの仏像が安置されています。1つの寺院に30体以上もの仏像があるのは狭山市内でも大変珍しいことです。
本尊、不動明王坐像

釈迦十大弟子立像、十王座像


境内の石仏のうち二つについて説明します。
(1)七親音の石仏

この七観音は一番上に千手観音、右側上から馬頭観音、聖観音、准胝(じゅんてい)観音、左側の上から十一面観音、如意輪観音、楊柳(ようりゅう)観音が細かいところまでていねいに彫られています。

この七観音は天保15年(1844)に、ここ柏原村の斎日講中が建てたものです。
斎日とは毎月8・14・15・23・29・30の6日間(六斎日)を指し、この日は仏教上の八斎戒を守って身を慎む精進日です。また鉦や太鼓をたたいて名号を唱えたので、これを「六斎念仏」ともいいます。
七観音は市内に2基あり、一石に7体の観音様が刻まれているのは珍しくここだけです。他の1基は徳林寺にありますが、これは別々に一体ずつ観音像が刻まれたものです。
八斎戒(はっさいかい)とは、仏教の戒律の1つで、在家が守るべき8つの生活規則のことである。
仏教の在家信者の守るべき基本的な五戒に後述の3つの戒を加えたもの。
五戒(ごかい):
・不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。
・不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の配偶者以外と交わってはいけない(不倫してはいけない)。
・不妄語戒(ふもうごかい) - 嘘をついてはいけない。
・不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。
で、五戒の内「不邪淫戒」の代わりに
・ あらゆる性行為を行わない(不淫戒)を守り、さらに
・歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない
・天蓋付きで足の高いベッドに寝ない
・正午以降は食事をしない
となり、これを六斎日の日に、講中の人はこれを守るわけです。
七観音の構成について説明します。
七観音は私たち衆生がその業により生死を繰り返す六つの世界、六道に各観音菩薩を配置してそこに墜ちた者を救うという仏です。真言宗では聖観音を地獄界、千手観音を餓鬼界、馬頭観音を畜生界、十一面観音を修羅界、准胝観音を人界、如意輪観音を天界にあてています。一方天台宗では人界に不空羂索観音観音をあてていますが、両宗派を取り入れて七観音といいます。また楊柳観音を加えて八大観音と称することもあります。なお、常楽寺の七観音は不空羂索観音の代わりに楊柳観音となっています。
ガイドの時には説明しませんでしたが、各観音の特徴も調べておいたので、ここに説明しておきます。
千手観音
正確には、千手千眼観世音菩薩といいます。千の手と千の眼は、慈悲の広大さと、救う手段の豊富さを表します。冠についている顔は11面または27面あります。顔がいくつもあるのは、救う相手により一番効果的な接し方をすることを表します。
造形的には実際に千本の手を持つものと、代表的な42本を持つものとがあります。

馬頭観音
頭が馬か、馬の頭を冠のように載せているのが特徴です。
観音様の、煩悩を除く力を、馬の速さと馬力になぞらえた仏様です。馬=乗り物=道のつながりで、道祖神のように道端に祀られ、馬の病気と安全を祈る仏様としても信仰されています。

聖観音
阿弥陀様の化身と考えられ、冠に阿弥陀様の化仏を付けているのが特徴です。

准胝(じゅんてい)観音
サンスクリット語のチュンディー(清浄)の音写です。
天人丈夫観音、七倶胝仏母尊とも呼ばれます。倶胝は無量大数と同じ意味です。七倶胝仏母尊は、遠い過去より諸仏の母として尊ばれた、となります。
三目十八臂と、手が多いので千手観音と間違われることがよくあります。まれに八臂もあります。

十一面観音
修羅の世界の救済者。頭の上に11の顔があります。
前の3面は慈悲、左の3面は忿怒、右の3面は狗牙上出(くげじょうしゅつ)、後の1面は暴悪大笑(ぼうあくだいしょう、悪を見て嘲笑する)。頂上に仏様の顔。
観音様が11のパターンで救う事を表します。

如意輪観音
如意輪の語源の如意宝珠を持っているのが特徴てす。如意宝珠は意の如く=思いのままに宝物を降らす珠と言うことです。龍王の脳の中から出たものと言われています。

楊柳(ようりゅう)観音
右手に柳の枝を持ちます。柳の枝で悪病を祓い清めるご祈祷があります。
薬王観音ともいいます。

(2)半跏趺坐の地蔵菩薩

この地蔵菩薩は丸彫半跏趺坐像(はんかふざぞう)で、台座の正面に延命地蔵菩薩経の侶(げ)という仏を称える言葉を詩の形に整えたものが刻まれています。
「毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 無仏世界度衆生 今世後世能引導」

銘文を見ると宝暦7年(1757)11月に柏原村の斎日講の女性達を主体に村の人々が協力して二世安楽、極楽往生を願い、当寺の住職典英の指導で建てたものであることが分かります。
増田家の墓地は以前永代寺にありましたが、幾度かの火災で無住の時代に増田家が常楽寺を創建して墓地もこちらへ移転したとの伝承があります。
増田正金五百年記念碑
柏原増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
誰が増田正金を呼んだのかは、不明ですが「入間川御所」を鎌倉公方足利基氏が引き払ってから30年後です。足利基氏の後継者でこの地方を管理していた人だろうと思われます。
また、もともとの増田家初代増田宗徳という人は甲冑師名鑑各派系図に載っており、柏原増田家は増田明珍家という有名な甲冑師の家柄だということです。
「増田正金五百年記念碑」は、正金没後500年を記念して大正15年(1926)3月に、増田家が建てたものです。
柏原には、槍鍛治、刀鍛冶、鋳物師が多く、小田原北条氏の頃は特に活躍したようです。
増田大水正金の槍(狭山市文化財)

増田正金五百年記念碑

銘文

増田家元祖大水正金伝云、武内宿爾後胤大沢大膳太夫正高三男、山田左近将監正国十一代大和郡山住人而俗名伊新之丞、世業鎗鍛冶、鎗銘日、柏原住人大水正金、応永三十二年二月廿三日逝去、大正十五年三月為満五百年記念建設
(了)
ガイドするお相手は、狭山市シニアコミュニティカレッジの「狭山の歴史講座 普通コース」の方30名でした。
この日9時から13時まで、狭山市の柏原地区7ケ所を史跡めぐりした訳ですが、私はその一か所「常楽寺」を担当させてもらいました。
常楽寺は、私の家から歩いて5、6分のところにあります。
この春には、そこの一本桜をこのブログでも紹介しました。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1183.html
ガイドは無事に終わりましたが、ここには、良いものが割とあるので、調べた資料をもとに紹介しようと思います。
常楽寺
この寺は妙法山常楽寺といい、宗派は天台宗です。江戸音羽町普門院の末寺といわれていましたが確証はありません。
創建に関わる文書がないので時期、開基、開山などは不明ですが、発見された文書に「元文5年(1740)に西浄寺を同寺の末寺にする」との記載があり、それ以前であろうと思われます。また本堂内の十王像の閣魔(えんま)大王および脱衣婆(だつえば)像には、室町時代の「天正3年(1575)」との墨書(ぼくしょ)がありますが、どこに安置したか確定できませんので判断が難しいところです。市の説明資料は、概ねこれによっています。
現在は無住です。
本堂

この寺の本尊は木造寄木造玉眼の不動明王坐像で、その中に胎内仏が納入されています。また本堂内には不動明王立像、地蔵菩薩、観世音菩薩、釈迦十大弟子、十王像などの仏像が安置されています。1つの寺院に30体以上もの仏像があるのは狭山市内でも大変珍しいことです。
本尊、不動明王坐像

釈迦十大弟子立像、十王座像


境内の石仏のうち二つについて説明します。
(1)七親音の石仏

この七観音は一番上に千手観音、右側上から馬頭観音、聖観音、准胝(じゅんてい)観音、左側の上から十一面観音、如意輪観音、楊柳(ようりゅう)観音が細かいところまでていねいに彫られています。

この七観音は天保15年(1844)に、ここ柏原村の斎日講中が建てたものです。
斎日とは毎月8・14・15・23・29・30の6日間(六斎日)を指し、この日は仏教上の八斎戒を守って身を慎む精進日です。また鉦や太鼓をたたいて名号を唱えたので、これを「六斎念仏」ともいいます。
七観音は市内に2基あり、一石に7体の観音様が刻まれているのは珍しくここだけです。他の1基は徳林寺にありますが、これは別々に一体ずつ観音像が刻まれたものです。
八斎戒(はっさいかい)とは、仏教の戒律の1つで、在家が守るべき8つの生活規則のことである。
仏教の在家信者の守るべき基本的な五戒に後述の3つの戒を加えたもの。
五戒(ごかい):
・不殺生戒(ふせっしょうかい) - 生き物を殺してはいけない。
・不偸盗戒(ふちゅうとうかい) - 他人のものを盗んではいけない。
・不邪淫戒(ふじゃいんかい) - 自分の配偶者以外と交わってはいけない(不倫してはいけない)。
・不妄語戒(ふもうごかい) - 嘘をついてはいけない。
・不飲酒戒(ふおんじゅかい) - 酒を飲んではいけない。
で、五戒の内「不邪淫戒」の代わりに
・ あらゆる性行為を行わない(不淫戒)を守り、さらに
・歌舞音曲を見たり聞いたりせず、装飾品、化粧・香水など身を飾るものを使用しない
・天蓋付きで足の高いベッドに寝ない
・正午以降は食事をしない
となり、これを六斎日の日に、講中の人はこれを守るわけです。
七観音の構成について説明します。
七観音は私たち衆生がその業により生死を繰り返す六つの世界、六道に各観音菩薩を配置してそこに墜ちた者を救うという仏です。真言宗では聖観音を地獄界、千手観音を餓鬼界、馬頭観音を畜生界、十一面観音を修羅界、准胝観音を人界、如意輪観音を天界にあてています。一方天台宗では人界に不空羂索観音観音をあてていますが、両宗派を取り入れて七観音といいます。また楊柳観音を加えて八大観音と称することもあります。なお、常楽寺の七観音は不空羂索観音の代わりに楊柳観音となっています。
ガイドの時には説明しませんでしたが、各観音の特徴も調べておいたので、ここに説明しておきます。
千手観音
正確には、千手千眼観世音菩薩といいます。千の手と千の眼は、慈悲の広大さと、救う手段の豊富さを表します。冠についている顔は11面または27面あります。顔がいくつもあるのは、救う相手により一番効果的な接し方をすることを表します。
造形的には実際に千本の手を持つものと、代表的な42本を持つものとがあります。

馬頭観音
頭が馬か、馬の頭を冠のように載せているのが特徴です。
観音様の、煩悩を除く力を、馬の速さと馬力になぞらえた仏様です。馬=乗り物=道のつながりで、道祖神のように道端に祀られ、馬の病気と安全を祈る仏様としても信仰されています。

聖観音
阿弥陀様の化身と考えられ、冠に阿弥陀様の化仏を付けているのが特徴です。

准胝(じゅんてい)観音
サンスクリット語のチュンディー(清浄)の音写です。
天人丈夫観音、七倶胝仏母尊とも呼ばれます。倶胝は無量大数と同じ意味です。七倶胝仏母尊は、遠い過去より諸仏の母として尊ばれた、となります。
三目十八臂と、手が多いので千手観音と間違われることがよくあります。まれに八臂もあります。

十一面観音
修羅の世界の救済者。頭の上に11の顔があります。
前の3面は慈悲、左の3面は忿怒、右の3面は狗牙上出(くげじょうしゅつ)、後の1面は暴悪大笑(ぼうあくだいしょう、悪を見て嘲笑する)。頂上に仏様の顔。
観音様が11のパターンで救う事を表します。

如意輪観音
如意輪の語源の如意宝珠を持っているのが特徴てす。如意宝珠は意の如く=思いのままに宝物を降らす珠と言うことです。龍王の脳の中から出たものと言われています。

楊柳(ようりゅう)観音
右手に柳の枝を持ちます。柳の枝で悪病を祓い清めるご祈祷があります。
薬王観音ともいいます。

(2)半跏趺坐の地蔵菩薩

この地蔵菩薩は丸彫半跏趺坐像(はんかふざぞう)で、台座の正面に延命地蔵菩薩経の侶(げ)という仏を称える言葉を詩の形に整えたものが刻まれています。
「毎日晨朝入諸定 入諸地獄令離苦 無仏世界度衆生 今世後世能引導」

銘文を見ると宝暦7年(1757)11月に柏原村の斎日講の女性達を主体に村の人々が協力して二世安楽、極楽往生を願い、当寺の住職典英の指導で建てたものであることが分かります。
増田家の墓地は以前永代寺にありましたが、幾度かの火災で無住の時代に増田家が常楽寺を創建して墓地もこちらへ移転したとの伝承があります。
増田正金五百年記念碑
柏原増田家の初代・増田大水正金(ますだたいすいまさかね)は応永年間(1394~1428)に大和国(奈良県)の大和郡山から柏原に移住し、槍鍛治を業として応永32年(1425)2月に亡くなっています。槍鍛治としての増田家は4代、約125年程度は続いたと考えられますが、その後は荒井(新居)、岡、豊田、入子姓の柏原鍛治集団に引継がれたと推察されます。
誰が増田正金を呼んだのかは、不明ですが「入間川御所」を鎌倉公方足利基氏が引き払ってから30年後です。足利基氏の後継者でこの地方を管理していた人だろうと思われます。
また、もともとの増田家初代増田宗徳という人は甲冑師名鑑各派系図に載っており、柏原増田家は増田明珍家という有名な甲冑師の家柄だということです。
「増田正金五百年記念碑」は、正金没後500年を記念して大正15年(1926)3月に、増田家が建てたものです。
柏原には、槍鍛治、刀鍛冶、鋳物師が多く、小田原北条氏の頃は特に活躍したようです。
増田大水正金の槍(狭山市文化財)

増田正金五百年記念碑

銘文

増田家元祖大水正金伝云、武内宿爾後胤大沢大膳太夫正高三男、山田左近将監正国十一代大和郡山住人而俗名伊新之丞、世業鎗鍛冶、鎗銘日、柏原住人大水正金、応永三十二年二月廿三日逝去、大正十五年三月為満五百年記念建設
(了)
寄居北条まつり2013
20130513
昨日12日、埼玉県寄居町で行われる「寄居北条まつり」に、歴史好きの友人たちと行ってきました。

昨年に引き続き、二回目です。
10時に寄居駅につき、ポスターで各種イベントを確認しながら会場に向かって歩いていきました。
「京亭」にさしかかると、入り口に粋なポスター。

入り口横には、佐々紅華さんの碑もあります。

「京亭」という料理旅館が解放されているのですが、浅草オペラの創始者であり、「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」などの作曲家「佐々紅華」がここを永住の地と定めて、自ら図を引いて建てたそうです。
それが、その後一時は某宮家の邸宅となったりしましたが、現在は「鮎の宿 京亭」となっています。
建物も庭も素晴らしいです。

庭から、合戦の舞台となる玉淀河原がよく見えます。

ちょうど、声楽家による「君恋し」をやっていました。

それが終わったので、とりあえず玉淀河原に行ってみました。
武者行列に参加する馬が河原でのんびりしていました。



11:10からの、北条華舞台で行われる、女性邦楽ユニット「花くれない」の演奏を聴きにいきました。

このユニットは、普段は別々に活動している演奏者がこの日のためにユニットを形成して演奏してくれる、というものでした。
唄・三味線:山本晋乃さん、囃子:島村聖香さん、三味線:成瀬朋子さん、笛:望月太喜若さん。


そして、それに引き続き楽しみにしていた琵琶の演奏が12:00からありました。
去年とても良かったので、今年は動画を撮ろうと楽しみにしていました。
演奏は、首藤久美子さんという薩摩琵琶では若手の実力者です。


この日は、「那須与一」と「創作琵琶曲 大福(おふく)御前」を演奏。
「大福(おふく)御前」は、昨年ここで初演されたものです。
大福(おふく)御前というのは、北条氏邦の奥方。
鉢形城を攻撃した豊臣方の藤田信吉(上杉景勝勢の先鋒)は弟であった。大福御前は寄せ手の弟を介して城兵の安全を図った。このため多くの城兵の命が助けられたといわれる。彼女は北条氏邦を追って自刃する。
演奏のかたわら、首藤さんが琵琶の構造、演奏方法を説明してくれたのは、とてもよかった。

後半の「大福(おふく)御前」はここが舞台だけに聴いていてグッとくるものがありました。

ところが最後の山場にさしかかった時に、警察の迷子の放送が長々と流れ、琵琶の名調子にカブッてしまい、動画を撮っていた私としては、もうガックリでした(泣)
まあ、外の舞台での、迷録画ということで(笑)
続いて、京亭で12:45からの、女性ジャズボーカルによる「君恋し」を聴きにいきました。
女性ボーカリストは、MASUMIさんという方で着物で登場です。
ユニットは、峰岸慶典トリオ。

スタンダードナンバーと「君恋し」でしたが、良かったですね。
ハスキーなボーカルと、演奏もベースの音もしっかり出ていて、ギターのテクもばっちり。
久々に生の演奏を聴いて嬉しかったですね。


いよいよ、玉淀河原での合戦の再現です。
ここには、荒川の流れを見下ろす形で「鉢形城」があったのですが、ちょっと説明しておきます。
鉢形城の歴史
鉢形城は、蛇行する荒川の流れに削られ、切り立った岸壁の上に築かれた多くの郭を持つ城郭です。
いつ築かれたかは明らかではありません。鉢形に陣をはった平将門を追って源経基が鉢形城に入ったという記録や畠山重忠が居城したという伝説がありますが、文明8年(1476年)に長尾景春が主家の山内上杉顕定に叛いて、鉢形城に拠点を構えたのが資料として明らかな最初の出来事・長尾景春の乱です。
この乱を鎮めたのは、扇谷上杉家の家宰を務めていた太田道灌でした。荒川の上流から兵を乗せた筏を流し、岸壁の下に着いた兵士が岩の壁をよじ登り城兵を慌てさせたといいます。
長尾景春の乱が治まった後は山内上杉氏の勢力下に入りました。
しかし、天文15年(1546年)にあったとされる河越夜戦で上杉方が北条氏康に敗れると、山内上杉氏の家臣で鉢形城の城主であった藤田重利は氏康の三男氏邦を娘の大福の婿に迎え、北条氏の体制に組み込まれる事になりました。氏邦は当初長瀞町の天神山城に入りましたが、永禄3年(1560年)には鉢形城を改修し居城としました
北條まつりについて
鉢形城は、戦国時代、豊臣秀吉の全国制覇に最後まで抗した小田原の北条氏の配下にあり、北条早雲から三代目の氏康の三男氏邦が守っていました。守兵は3500名。
この城を攻めた豊臣秀吉軍は、前田利家・上杉景勝・島田利正、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍、実に5万の兵でした。
北条方は、それに良く耐え、1ケ月の攻防戦を繰り広げたといわれます。
「北条まつり」は、これを再現しようという祭りです。
いよいよ部隊が入場してきます。



鉄砲隊もいます。

チビッコ軍団も

砲撃戦が始まりました。
先ほどの火薬を、入れ子にセットして砲口から入れて火縄に火をつけるとズドン!! です。
大砲は丸太に穴を開けたものですが、けっこう派手な音と煙で迫力がありましたね。
一門で30発くらいは撃ったのではないでしょうか。
ずいぶん派手に撃っていて、なかなか楽しかったです。



最初は槍部隊の乱戦。


こんな子も、立派に戦ってます(笑)

外人さんも

水中での熱戦も


けっこう迫力です。

いよいよ大将戦






これも、すごい戦いでしたね。




今年は、しつこく何度も大将戦があったりして、長時間の合戦となりました。この日はものすごく暑い日になったのですが、合戦に参加された方の頑張りはすごいものでした。
ほんとに脱帽ものでしたね。
この辺で、今年の合戦はお仕舞にしようかのう・・・・・・

本当にお疲れ様でした。

昨年に引き続き、二回目です。
10時に寄居駅につき、ポスターで各種イベントを確認しながら会場に向かって歩いていきました。
「京亭」にさしかかると、入り口に粋なポスター。

入り口横には、佐々紅華さんの碑もあります。

「京亭」という料理旅館が解放されているのですが、浅草オペラの創始者であり、「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」などの作曲家「佐々紅華」がここを永住の地と定めて、自ら図を引いて建てたそうです。
それが、その後一時は某宮家の邸宅となったりしましたが、現在は「鮎の宿 京亭」となっています。
建物も庭も素晴らしいです。

庭から、合戦の舞台となる玉淀河原がよく見えます。

ちょうど、声楽家による「君恋し」をやっていました。

それが終わったので、とりあえず玉淀河原に行ってみました。
武者行列に参加する馬が河原でのんびりしていました。



11:10からの、北条華舞台で行われる、女性邦楽ユニット「花くれない」の演奏を聴きにいきました。

このユニットは、普段は別々に活動している演奏者がこの日のためにユニットを形成して演奏してくれる、というものでした。
唄・三味線:山本晋乃さん、囃子:島村聖香さん、三味線:成瀬朋子さん、笛:望月太喜若さん。


そして、それに引き続き楽しみにしていた琵琶の演奏が12:00からありました。
去年とても良かったので、今年は動画を撮ろうと楽しみにしていました。
演奏は、首藤久美子さんという薩摩琵琶では若手の実力者です。


この日は、「那須与一」と「創作琵琶曲 大福(おふく)御前」を演奏。
「大福(おふく)御前」は、昨年ここで初演されたものです。
大福(おふく)御前というのは、北条氏邦の奥方。
鉢形城を攻撃した豊臣方の藤田信吉(上杉景勝勢の先鋒)は弟であった。大福御前は寄せ手の弟を介して城兵の安全を図った。このため多くの城兵の命が助けられたといわれる。彼女は北条氏邦を追って自刃する。
演奏のかたわら、首藤さんが琵琶の構造、演奏方法を説明してくれたのは、とてもよかった。

後半の「大福(おふく)御前」はここが舞台だけに聴いていてグッとくるものがありました。

ところが最後の山場にさしかかった時に、警察の迷子の放送が長々と流れ、琵琶の名調子にカブッてしまい、動画を撮っていた私としては、もうガックリでした(泣)
まあ、外の舞台での、迷録画ということで(笑)
続いて、京亭で12:45からの、女性ジャズボーカルによる「君恋し」を聴きにいきました。
女性ボーカリストは、MASUMIさんという方で着物で登場です。
ユニットは、峰岸慶典トリオ。

スタンダードナンバーと「君恋し」でしたが、良かったですね。
ハスキーなボーカルと、演奏もベースの音もしっかり出ていて、ギターのテクもばっちり。
久々に生の演奏を聴いて嬉しかったですね。


いよいよ、玉淀河原での合戦の再現です。
ここには、荒川の流れを見下ろす形で「鉢形城」があったのですが、ちょっと説明しておきます。
鉢形城の歴史
鉢形城は、蛇行する荒川の流れに削られ、切り立った岸壁の上に築かれた多くの郭を持つ城郭です。
いつ築かれたかは明らかではありません。鉢形に陣をはった平将門を追って源経基が鉢形城に入ったという記録や畠山重忠が居城したという伝説がありますが、文明8年(1476年)に長尾景春が主家の山内上杉顕定に叛いて、鉢形城に拠点を構えたのが資料として明らかな最初の出来事・長尾景春の乱です。
この乱を鎮めたのは、扇谷上杉家の家宰を務めていた太田道灌でした。荒川の上流から兵を乗せた筏を流し、岸壁の下に着いた兵士が岩の壁をよじ登り城兵を慌てさせたといいます。
長尾景春の乱が治まった後は山内上杉氏の勢力下に入りました。
しかし、天文15年(1546年)にあったとされる河越夜戦で上杉方が北条氏康に敗れると、山内上杉氏の家臣で鉢形城の城主であった藤田重利は氏康の三男氏邦を娘の大福の婿に迎え、北条氏の体制に組み込まれる事になりました。氏邦は当初長瀞町の天神山城に入りましたが、永禄3年(1560年)には鉢形城を改修し居城としました
北條まつりについて
鉢形城は、戦国時代、豊臣秀吉の全国制覇に最後まで抗した小田原の北条氏の配下にあり、北条早雲から三代目の氏康の三男氏邦が守っていました。守兵は3500名。
この城を攻めた豊臣秀吉軍は、前田利家・上杉景勝・島田利正、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍、実に5万の兵でした。
北条方は、それに良く耐え、1ケ月の攻防戦を繰り広げたといわれます。
「北条まつり」は、これを再現しようという祭りです。
いよいよ部隊が入場してきます。



鉄砲隊もいます。

チビッコ軍団も

砲撃戦が始まりました。
先ほどの火薬を、入れ子にセットして砲口から入れて火縄に火をつけるとズドン!! です。
大砲は丸太に穴を開けたものですが、けっこう派手な音と煙で迫力がありましたね。
一門で30発くらいは撃ったのではないでしょうか。
ずいぶん派手に撃っていて、なかなか楽しかったです。



最初は槍部隊の乱戦。


こんな子も、立派に戦ってます(笑)

外人さんも

水中での熱戦も


けっこう迫力です。

いよいよ大将戦






これも、すごい戦いでしたね。




今年は、しつこく何度も大将戦があったりして、長時間の合戦となりました。この日はものすごく暑い日になったのですが、合戦に参加された方の頑張りはすごいものでした。
ほんとに脱帽ものでしたね。
この辺で、今年の合戦はお仕舞にしようかのう・・・・・・

本当にお疲れ様でした。
八幡山古墳・忍城址/埼玉県行田市
20130511
8日に行った、歴史クラブ行事の続きです。埼玉古墳群を見て、昼食後バスで移動して八幡山古墳に来ました。

八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉(わかこだま)古墳群のひとつで、7世紀前半につ<られた直径80mの大型の円境と推定されています。
昭和9年に約2Km東にあった小針(こばり)沼埋め立てのために古墳を崩した際に石室が現れ、翌年に発掘調査が行われて、前、中、後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。その後、昭和52年~54年に発掘調査と復元整備が行われて、現在の姿になっています。
古墳の石室は、江戸時代から開口していたと思われます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には「八幡社社地は塚の上にて、鋪十闇四方、高さ一丈五、六尺、巽方(南東)に塚の崩し所あり、その間より石棺と覚しきもの顕る。三方平らかなる石にて積み上げ、厚さ一尺の黒き岩石を屋根とせり。内の広さ三畳敷ほどにて、その中は八幡の石祠を置き、いかにも上代の墳墓と見えたれど、今土人もその故を伝えず」とあります。八幡山古墳の名称も、石室内に八幡社を祀って果たことに由来しているそうです。
発掘調査では最高級の棺である漆塗り木棺の破片や銅椀など豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られた人物がかなりの権力者であったと考えられます。こうしたことから、『武蔵国造物部連兄麻呂(むさしの<にのみやっこもののべのむらじえまろ)』の墓と推定する説もあります。彼の名は『日本書紀』には登場しませんが、『聖徳太子伝暦』に登場する人物です。伝記の記述は、舎人として聖徳太子に使え、太子の死後、国造として故郷へ赴任したことを語つています。
なお、この石室は奈良の石舞台に匹敵する巨大な石室であることから、『関東の石舞台』とも呼ばれています。
真横から見ると、確かに大きい石室です。

石室の上には、上りやすくなっていて、一時は人で一杯になりました(笑)


もちろん私も上りました(笑)
一番上からの全景。さすがに長い。

三枚に分けて全長を撮りました。
上部(最奥部)

中央(中室)

下部(入り口側)

管理する人が来て、扉を開けてくれました。
前室は、立っていられるくらいの高さ。


中室は天井が低くて、背をかがめないといけない高さ。

奥室は、天井が高かった。

天井は、巨大な一枚岩。

石の組み合わせが見事。復元工事での仕事だと思いますが。

ここから、帰り際に他の会員の方が昔の写真があると、教えてくれました。傍らの管理事務所みたいなところにあって、鍵がかかっていましたが、ガラス越しに撮れました。上のほうに飾ってあったので、ガラスにレンズをくっつけられなくて、ガラスの反射に一部消されてしまいましたが、なんとか撮れました。


それから、「のぼうの城」でまた一躍人気の出ている忍城址に向かいました。

15世紀後半に築かれた忍城は、現在の行田市街地に位置していた平城です。この地は、扇状地に伏流する荒川の水が集まる広い沼沢・低湿地にある島状の微高地となっており、自然堤防を利用して、忍城は築城されました。最初の城主は、鎌倉時代から御家人として地位を固めた成田氏となっていますが、具体的な築城者及び築造時期については、文献によって違いがあるため、明確なことが分っていません。
天正18(1509)年、成田氏長の代に、映画「のぼうの城」の題材となった石田三成率いる豊臣軍の忍城攻めが行われました。地形を利用した忍城の堅牢な守りに苦戦した石田三成は、石田堤を築き、水攻めに踏み切りました。しかしその結果は、水は予想したほど溜まらず、竣工から4日日に運悪く豪雨に見舞われたため、堤防が決壊してLまい、水攻めの策は失敗に終わりました。その後、成田氏が属していた北条氏の小田原城が落城したことに伴い、忍城も開城することとなりました。
開城後の忍城は徳川家康の四男松平忠吉が城主となるまでの間、家臣である松平家忠が城を預かり、戦によって損傷した城の修復を行いました。鹿長5(1600)年から幕府直轄領となり、寛永10(1633)年に松平信綱が城主となるまでの間、城番が城を管理するようになります。この間、鷹狩りに訪れた家康が農村を視察するなどして、農業基盤整備及び河川改修が進められてきました。
寛永16(1639)年には、徳川家光の側近であった阿部忠秋が、松平信綱に代わり、城主となっています。以後、阿部氏が9代184年にわたって城主を務めることになります。
その後文政6(1823)年に、奥平松平氏に替り、明治となり、廃城となりました。
沼橋門から入ります。


鐘楼

忍城時代の鐘が、博物館の中に置いてありました。

狭間の設けられた塀

現在は、行田市郷土博物館となっています。

至る所に「のぼうの城」のポスターが。

歴代城主の家紋


博物館の中は撮影禁止なので写真を写していません。以下はネットで探した写真です。
陳列室の様子

忍城の復元模型(阿部氏の時代)

忍城の鯱

御三階櫓の上から、丸墓山古墳が見えているはずなのですが、見分けがつきません(泣)

反対側に、関東の名山が見えました。ズームを効かせてます。
右の高いのが、日光男体山。

赤城山

榛名山

見学が終わって、駐車場に近いあたりから、御三階櫓を振り返って見納め。

(了)
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八幡山古墳は、この周辺に広がる若小玉(わかこだま)古墳群のひとつで、7世紀前半につ<られた直径80mの大型の円境と推定されています。
昭和9年に約2Km東にあった小針(こばり)沼埋め立てのために古墳を崩した際に石室が現れ、翌年に発掘調査が行われて、前、中、後室の3室からなる全長16.7mの巨大な石室であることが明らかになりました。その後、昭和52年~54年に発掘調査と復元整備が行われて、現在の姿になっています。
古墳の石室は、江戸時代から開口していたと思われます。江戸時代の『新編武蔵風土記稿』には「八幡社社地は塚の上にて、鋪十闇四方、高さ一丈五、六尺、巽方(南東)に塚の崩し所あり、その間より石棺と覚しきもの顕る。三方平らかなる石にて積み上げ、厚さ一尺の黒き岩石を屋根とせり。内の広さ三畳敷ほどにて、その中は八幡の石祠を置き、いかにも上代の墳墓と見えたれど、今土人もその故を伝えず」とあります。八幡山古墳の名称も、石室内に八幡社を祀って果たことに由来しているそうです。
発掘調査では最高級の棺である漆塗り木棺の破片や銅椀など豪華な遺物が発見されており、この古墳に葬られた人物がかなりの権力者であったと考えられます。こうしたことから、『武蔵国造物部連兄麻呂(むさしの<にのみやっこもののべのむらじえまろ)』の墓と推定する説もあります。彼の名は『日本書紀』には登場しませんが、『聖徳太子伝暦』に登場する人物です。伝記の記述は、舎人として聖徳太子に使え、太子の死後、国造として故郷へ赴任したことを語つています。
なお、この石室は奈良の石舞台に匹敵する巨大な石室であることから、『関東の石舞台』とも呼ばれています。
真横から見ると、確かに大きい石室です。

石室の上には、上りやすくなっていて、一時は人で一杯になりました(笑)


もちろん私も上りました(笑)
一番上からの全景。さすがに長い。

三枚に分けて全長を撮りました。
上部(最奥部)

中央(中室)

下部(入り口側)

管理する人が来て、扉を開けてくれました。
前室は、立っていられるくらいの高さ。


中室は天井が低くて、背をかがめないといけない高さ。

奥室は、天井が高かった。

天井は、巨大な一枚岩。

石の組み合わせが見事。復元工事での仕事だと思いますが。

ここから、帰り際に他の会員の方が昔の写真があると、教えてくれました。傍らの管理事務所みたいなところにあって、鍵がかかっていましたが、ガラス越しに撮れました。上のほうに飾ってあったので、ガラスにレンズをくっつけられなくて、ガラスの反射に一部消されてしまいましたが、なんとか撮れました。


それから、「のぼうの城」でまた一躍人気の出ている忍城址に向かいました。

15世紀後半に築かれた忍城は、現在の行田市街地に位置していた平城です。この地は、扇状地に伏流する荒川の水が集まる広い沼沢・低湿地にある島状の微高地となっており、自然堤防を利用して、忍城は築城されました。最初の城主は、鎌倉時代から御家人として地位を固めた成田氏となっていますが、具体的な築城者及び築造時期については、文献によって違いがあるため、明確なことが分っていません。
天正18(1509)年、成田氏長の代に、映画「のぼうの城」の題材となった石田三成率いる豊臣軍の忍城攻めが行われました。地形を利用した忍城の堅牢な守りに苦戦した石田三成は、石田堤を築き、水攻めに踏み切りました。しかしその結果は、水は予想したほど溜まらず、竣工から4日日に運悪く豪雨に見舞われたため、堤防が決壊してLまい、水攻めの策は失敗に終わりました。その後、成田氏が属していた北条氏の小田原城が落城したことに伴い、忍城も開城することとなりました。
開城後の忍城は徳川家康の四男松平忠吉が城主となるまでの間、家臣である松平家忠が城を預かり、戦によって損傷した城の修復を行いました。鹿長5(1600)年から幕府直轄領となり、寛永10(1633)年に松平信綱が城主となるまでの間、城番が城を管理するようになります。この間、鷹狩りに訪れた家康が農村を視察するなどして、農業基盤整備及び河川改修が進められてきました。
寛永16(1639)年には、徳川家光の側近であった阿部忠秋が、松平信綱に代わり、城主となっています。以後、阿部氏が9代184年にわたって城主を務めることになります。
その後文政6(1823)年に、奥平松平氏に替り、明治となり、廃城となりました。
沼橋門から入ります。


鐘楼

忍城時代の鐘が、博物館の中に置いてありました。

狭間の設けられた塀

現在は、行田市郷土博物館となっています。

至る所に「のぼうの城」のポスターが。

歴代城主の家紋


博物館の中は撮影禁止なので写真を写していません。以下はネットで探した写真です。
陳列室の様子

忍城の復元模型(阿部氏の時代)

忍城の鯱

御三階櫓の上から、丸墓山古墳が見えているはずなのですが、見分けがつきません(泣)

反対側に、関東の名山が見えました。ズームを効かせてます。
右の高いのが、日光男体山。

赤城山

榛名山

見学が終わって、駐車場に近いあたりから、御三階櫓を振り返って見納め。

(了)
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埼玉(さきたま)古墳群(2)/埼玉県行田市
20130510
8日に行ってきた、歴史クラブの企画の埼玉古墳群の続きです。
丸墓山古墳に続いて、稲荷山古墳に向かいます

稲荷山古墳は、全長120m、後円部径62m、後円部高さIl・7mの2番目に大きな古墳です。後円部上に稲荷社の祠があったことから命名されました。
稲荷山古墳は、昭和12年に前方部が削平されて、円墳のような姿になっていました。風土記の丘整備事業の一環として、昭和43年に後円部の発掘調査が行われ、2基の埋葬施設が発見されました。一つは「粘土槨」と呼ばれる竪穴の中に粘土を敷いて木棺を置いたものですが、盗掘され、出土遣物はほとんど残っていませんでした。もう一方は、「礫槨(れきかく)」で舟形に掘り込んだ竪穴に河原石を貼り付け、中央の空間に木棺を置いたものです。こちらは上に稲荷社があったためか盗掘されてなく、埋葬時の様子を完全に留めた状態で、金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土しました。
外堀からは、多くの円筒埴輪や朝顔形埴輪、武人や巫女などの人物埴輪が出土しました。出土遺物から、古墳群中、最も古い5世紀後半から末の築造と考えられます。
前方部は平成16年に復元されました。
上ります。

後円部の頂上から丸墓山古墳を眺めます。

前方部は復元されたばかりなので、新しい感じです。そのはるか前方に富士山が見えました。


金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土した礫槨(れきかく)発掘場所。

こんな感じで埋葬されていました。

もう片方の粘土槨発掘場所。

方形部分は、後円部からいったん下がって、また上がっています。

後円部から方形部先端まで、ゾロゾロ移動。

降りてから、稲荷山古墳の方形部を振り返ります。

続いて将軍山古墳。これは稲荷山古墳の後円部から眺めたもの。

将軍山古墳は、石室の中を見ることができます。

方形部のほうから眺めた将軍山古墳。

将軍山古墳は、全長90m、復円部径39mの前方後円墳で、古墳群中4番目の大きさです。現在の墳丘は平成9年に復元されたものです。
墳丘と造出しには円筒埴輪や形象埴輪(教・盾・大刀など)が立て並べられ、土師器や須恵器が置かれていたと考えられます。
明治27年(1894)に地元の人々によって石室が発掘され、馬具や武器、武具類、銅椀(どうわん)など豪華な謝葬品が出土しました。馬冑(ばちゆう・馬用の冑)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき・馬に装着する旗竿金具)、銅椀(どうわん)などは朝鮮半島との関わりの強い遺物です。その他に、甲冑や大刀の残片、各種馬具、ガラス玉などが出土しています。
石室は横穴式で、天井石には緑泥片岩が、奥壁・側壁には房州石と呼ばれる千葉県富津市で産出した石材がそれぞれ使われています。出土遣物や石室の構造からみて6世紀後半の築造と考えられます。
石室入り口

)
入ってすぐ、二階の石室に上がります。

石室内部は埋葬されていた状態に復元されています。

こんな感じの道具が出土。


整備される前の将軍山古墳。

出土されたときの姿や出土したものの写真パネル。

外に出て、墳丘に置かれた埴輪の写真を撮っておいたのだが、家に帰ってびっくり(笑)
一緒に鳥を撮った覚えは無かったが、ちゃんと入っていた。

二子山古墳
全長138m、後円部径70m、後円部高13m、前方部高14.9mの前方後円墳で、古墳群の中でも、また武蔵国でも最大の古墳です。名称は、横から見ると二つの山のように見えることに困ります。
周堀や墳丘の造出し周辺から、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥など)の破片、土師器や須恵器の破片か出土しています。埴輪は鴻巣市の生出塚(おいねづか)窯と東松山市の桜山窯から供給されたものです。
築造時期は外堀の底に6世紀初頭に噴火した榛名山ニッ岳の火山灰が堆摸していることから、5世紀末と考えられます。一方、出土遺物から推定して、6世紀初頭とする説もあります。

周堀のふちに沿って歩きます。確かにデカイ。

前玉神社です。
この鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせています。
貫は一本の石材で作られてくさびはなく、柱はややころびを持ち、台石の上に建ちます。正面左側の柱の銘文によれば、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領内氏子により建立されました。建立から330年余り経過している貴重なもの。


狛犬も古いものです。


前玉神社は、高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。
前玉神社の御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アマノミカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。
前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。
武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。
神社境内

神紋は「左三つ巴」

何の祭壇でしょうか?

社殿

鉄砲山古墳
全長109m、復円部径55m、復円部高9m、前方部高10.1mの前方後円墳で、この古墳の周辺に忍藩の砲術演習場があったための名称です。
発掘調査の結果、墳丘中段に埴輪列が巡っていたことが判明しました。また、墳丘西側のくびれ部付近に、古墳の名前の由来となった忍藩の砲術演習場の遺構が見つかり、約150発の弾丸が発見されています。忍藩はもともと、和流砲術が盛んな藩であり、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航後には、江戸湾の第3台場の警備についていました。

奥の山古墳
全長70m、後円部径34m、後円部高5・6m、前方部高6・0mの前方後円墳で、埼玉古墳群中2番目に小さい古墳です。渡柳三大墳を東から見たとき、一番奥に位置します。
造出しから、多くの須恵器片が出土し、接合作業の結果、装飾付壷や高坏形器台であることがわかりました。
このような須恵器が東日本の古墳から出土することは非常に珍しく、大変貴重な発見です。
周堀から円筒埴輪・形象埴輪の破片も出土しています。出土遣物から、6世紀中頃から後半の築造と推定されます。




最後が、瓦塚古墳です。
全長73m、後円部径36.5m、後円部高5.1m、前方部高4.9mの前方後円墳で、平面形態を見ると、前方部が後円部に比べて大きく造られています。古墳の名前は、明治時代初期に瓦職人がこの付近に居住していたことに由来します。
前方部前面の縁の真ん中が三角形に突き出た形状になっていて、古墳を大きく見せる効果があります。これは「剣菱形」と呼ばれる形状で、古墳時代後期の前方後円墳に見られます。剣菱形が確認されている古墳は、今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と全国でわずかです。
周堀や中堤から多量の円筒埴輪と形象埴輪(人物・馬・水鳥・鹿・犬・大刀・盾・家など)が出土しています。埴輪の他に、須恵器・土師器も出土しています。大半は造出周辺からで、高坏や提瓶(ていへい)、器台など供献用の土器であることから葬送儀礼に用いられたものと考えられます。出土遺物から、6世紀前半から中頃の築造と推定されます。

これで、ここの見学は終り。昼食、休憩してから、次の目的地「八幡山古墳」に向かいました。
次回の記事です。
(続く)
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丸墓山古墳に続いて、稲荷山古墳に向かいます

稲荷山古墳は、全長120m、後円部径62m、後円部高さIl・7mの2番目に大きな古墳です。後円部上に稲荷社の祠があったことから命名されました。
稲荷山古墳は、昭和12年に前方部が削平されて、円墳のような姿になっていました。風土記の丘整備事業の一環として、昭和43年に後円部の発掘調査が行われ、2基の埋葬施設が発見されました。一つは「粘土槨」と呼ばれる竪穴の中に粘土を敷いて木棺を置いたものですが、盗掘され、出土遣物はほとんど残っていませんでした。もう一方は、「礫槨(れきかく)」で舟形に掘り込んだ竪穴に河原石を貼り付け、中央の空間に木棺を置いたものです。こちらは上に稲荷社があったためか盗掘されてなく、埋葬時の様子を完全に留めた状態で、金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土しました。
外堀からは、多くの円筒埴輪や朝顔形埴輪、武人や巫女などの人物埴輪が出土しました。出土遺物から、古墳群中、最も古い5世紀後半から末の築造と考えられます。
前方部は平成16年に復元されました。
上ります。

後円部の頂上から丸墓山古墳を眺めます。

前方部は復元されたばかりなので、新しい感じです。そのはるか前方に富士山が見えました。


金錯銘鉄剣をはじめ多くの副葬品が出土した礫槨(れきかく)発掘場所。

こんな感じで埋葬されていました。

もう片方の粘土槨発掘場所。

方形部分は、後円部からいったん下がって、また上がっています。

後円部から方形部先端まで、ゾロゾロ移動。

降りてから、稲荷山古墳の方形部を振り返ります。

続いて将軍山古墳。これは稲荷山古墳の後円部から眺めたもの。

将軍山古墳は、石室の中を見ることができます。

方形部のほうから眺めた将軍山古墳。

将軍山古墳は、全長90m、復円部径39mの前方後円墳で、古墳群中4番目の大きさです。現在の墳丘は平成9年に復元されたものです。
墳丘と造出しには円筒埴輪や形象埴輪(教・盾・大刀など)が立て並べられ、土師器や須恵器が置かれていたと考えられます。
明治27年(1894)に地元の人々によって石室が発掘され、馬具や武器、武具類、銅椀(どうわん)など豪華な謝葬品が出土しました。馬冑(ばちゆう・馬用の冑)や蛇行状鉄器(だこうじょうてっき・馬に装着する旗竿金具)、銅椀(どうわん)などは朝鮮半島との関わりの強い遺物です。その他に、甲冑や大刀の残片、各種馬具、ガラス玉などが出土しています。
石室は横穴式で、天井石には緑泥片岩が、奥壁・側壁には房州石と呼ばれる千葉県富津市で産出した石材がそれぞれ使われています。出土遣物や石室の構造からみて6世紀後半の築造と考えられます。
石室入り口

)
入ってすぐ、二階の石室に上がります。

石室内部は埋葬されていた状態に復元されています。

こんな感じの道具が出土。


整備される前の将軍山古墳。

出土されたときの姿や出土したものの写真パネル。

外に出て、墳丘に置かれた埴輪の写真を撮っておいたのだが、家に帰ってびっくり(笑)
一緒に鳥を撮った覚えは無かったが、ちゃんと入っていた。

二子山古墳
全長138m、後円部径70m、後円部高13m、前方部高14.9mの前方後円墳で、古墳群の中でも、また武蔵国でも最大の古墳です。名称は、横から見ると二つの山のように見えることに困ります。
周堀や墳丘の造出し周辺から、円筒埴輪、朝顔形埴輪、形象埴輪(人物・馬・鳥など)の破片、土師器や須恵器の破片か出土しています。埴輪は鴻巣市の生出塚(おいねづか)窯と東松山市の桜山窯から供給されたものです。
築造時期は外堀の底に6世紀初頭に噴火した榛名山ニッ岳の火山灰が堆摸していることから、5世紀末と考えられます。一方、出土遺物から推定して、6世紀初頭とする説もあります。

周堀のふちに沿って歩きます。確かにデカイ。

前玉神社です。
この鳥居は明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせています。
貫は一本の石材で作られてくさびはなく、柱はややころびを持ち、台石の上に建ちます。正面左側の柱の銘文によれば、延宝4年(1676)11月に忍城主阿部正能家臣と忍領内氏子により建立されました。建立から330年余り経過している貴重なもの。


狛犬も古いものです。


前玉神社は、高さ8.7m、周囲92mほどの浅間塚と呼ばれる古墳上に建てられております。
前玉神社の御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アマノミカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。
前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。
武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。
神社境内

神紋は「左三つ巴」

何の祭壇でしょうか?

社殿

鉄砲山古墳
全長109m、復円部径55m、復円部高9m、前方部高10.1mの前方後円墳で、この古墳の周辺に忍藩の砲術演習場があったための名称です。
発掘調査の結果、墳丘中段に埴輪列が巡っていたことが判明しました。また、墳丘西側のくびれ部付近に、古墳の名前の由来となった忍藩の砲術演習場の遺構が見つかり、約150発の弾丸が発見されています。忍藩はもともと、和流砲術が盛んな藩であり、嘉永6年(1853)のペリー艦隊の来航後には、江戸湾の第3台場の警備についていました。

奥の山古墳
全長70m、後円部径34m、後円部高5・6m、前方部高6・0mの前方後円墳で、埼玉古墳群中2番目に小さい古墳です。渡柳三大墳を東から見たとき、一番奥に位置します。
造出しから、多くの須恵器片が出土し、接合作業の結果、装飾付壷や高坏形器台であることがわかりました。
このような須恵器が東日本の古墳から出土することは非常に珍しく、大変貴重な発見です。
周堀から円筒埴輪・形象埴輪の破片も出土しています。出土遣物から、6世紀中頃から後半の築造と推定されます。




最後が、瓦塚古墳です。
全長73m、後円部径36.5m、後円部高5.1m、前方部高4.9mの前方後円墳で、平面形態を見ると、前方部が後円部に比べて大きく造られています。古墳の名前は、明治時代初期に瓦職人がこの付近に居住していたことに由来します。
前方部前面の縁の真ん中が三角形に突き出た形状になっていて、古墳を大きく見せる効果があります。これは「剣菱形」と呼ばれる形状で、古墳時代後期の前方後円墳に見られます。剣菱形が確認されている古墳は、今城塚古墳、河内大塚山古墳、見瀬丸山古墳、鳥屋ミサンザイ古墳、瓦塚古墳と全国でわずかです。
周堀や中堤から多量の円筒埴輪と形象埴輪(人物・馬・水鳥・鹿・犬・大刀・盾・家など)が出土しています。埴輪の他に、須恵器・土師器も出土しています。大半は造出周辺からで、高坏や提瓶(ていへい)、器台など供献用の土器であることから葬送儀礼に用いられたものと考えられます。出土遺物から、6世紀前半から中頃の築造と推定されます。

これで、ここの見学は終り。昼食、休憩してから、次の目的地「八幡山古墳」に向かいました。
次回の記事です。
(続く)
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埼玉(さきたま)古墳群(1)/埼玉県行田市
20130509
8日に、歴史クラブの行事で行ってきました。参加者43名のバス旅行でした。
埼玉古墳群は国指定史跡で、県名発祥の地「埼玉」にあります。前方後円墳が8基、円墳が2基、方墳が1基の合計11基の大型古墳を中心として、稔数40基ほどの古墳が存在していました。現在は、前方後円墳が8基、円墳が2基残っています。
埼玉古墳群は国宝金錯銘鉄剣が出土したことで有名ですが、大型の古墳がせまい範囲に集中して築造されていることも大きな特徴です。また、5世紀後半から7世紀初め頃までの釣150年の間に次々に造られたことも特徴で、築造した豪族の勢力を物語っています。
埼玉古墳群の謎
(1) それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現われた。
(2) 東西500m、南北800mのせまい範囲の中に大型の古墳が造られた。
(3) 前方後円墳は同じ規格で築造されている。
・長方形の二重の堀を巡らしている。(通常、盾型)
・造出しは西側にある。
・ほぼ同じ方向を向いている。
武蔵国造の乱:第二十七代 安閑天皇即位元年甲寅(きのえとら)534年
日本書紀に、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族小杵(おき)と、国造の地位を争ったことが記されています。争いに勝ち、武蔵国国造に任命された、笠原直使主は埼玉群笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされています。さきたまの地に突如として、畿内に匹敵する大型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓と考えることもできます。
埼玉古墳群の場所は交通の要衝地
東日本では、交通の要衝地に大型古墳が集中する傾向にあると言われています。埼玉古墳群の場所について見ると、当時は東京湾に注いでいた利根川と利根川の支流であった荒川の合流点近くに位置していて、利根川、荒川、渡良瀬川、思川などを伝って各地と容易に連絡できる内水面交通の要衝地点でありました。
大宮台地
埼玉古墳群は、南から延びてきていた大宮台地上に築造されました。これは発掘調査でわかっています。築造されたときは周囲より高い場所にありましたが、関東造盆地運動と呼ぼれる地殻運動によって台地が沈降し、今では周囲と変わらず平坦になっています。
まずは「さきたま史跡の博物館」で学芸員の説明を受け古墳からの出土品を見ました。
さきたま史跡の博物館

駐車場から博物館に歩いていくときにあった、「埼玉県名発祥の地」の碑

博物館にあった埼玉古墳群の航空写真

写真撮影は、フラッシュをたかなければOKでした。
国宝「金錯銘鉄剣」
稲荷山古墳の副葬品を昭和53年に保存処理の作業を行いました。鉄剣のレントゲン写真を撮影すると、剣身の両面に金象蕨の文字字が刻まれていることがわかりました。古墳時代の金石文としてはこれまでで最も数字の多い115文字が刻まれ、歴史的価値の高い内容をもっていました。
銘文が発見されたことにより、昭和58年、この剣を含めた稲荷山古墳の礫榔・粘土榔の出土品のすべてが国宝に指定されました。
銘文には、刀を作らせたヲワケという人物の「上祖」(先祖)からの8代にわたる系譜と、ヲワケがヤマト王権の中心である大王家(後世の天皇家の前身)に先祖代々仕え、国を治めるのを助けてきたことを誇るために刀を作らせて、文字を記したことが書かれています。


国宝「鉄剣」

埴輪がいいですね。





左側が馬につける旗竿金具

馬の冑

こんな風になるらしい。これは朝鮮半島でよく見られるそうで、その文化がここまで来ていたことを示します。

国宝「龍文透彫帯金具」稲荷山古墳

説明のチラシで模様がはっきりします。

チラシによると、このように飾っていたらしい。

国宝「画文帯環状乳神獣鏡」稲荷山古墳


ガラス玉

きりがないので、このくらいにしましょう。
外に古墳を見に行きます。
古墳の配置図

最初に見た古墳は「愛宕山古墳」です。名前の由来はかって墳丘上に愛宕神社が祀られていたことによります。

いまは三体の石仏が立っていました。

詩碑がありました。


家に帰ってから調べると、地元出身の濱梨花枝さん(与謝野晶子門下)の歌碑でした。
「史跡埼玉村古墳群」の標示

石田堤
この日、後で忍城にも行ったので、後で詳しく述べますが石田三成が忍城を水攻めにしたとき、丸墓山古墳を起点に南北に堤を築きました。その一部です。

丸墓山古墳のふもとにあった、「埼玉村古墳群」の石碑


丸墓山古墳

エッチラオッチラ上ります(汗)

丸墓山古墳には、永禄3(1560)年に上杉謙信が、天正18(1590)年に石田三成がそれぞれ忍城を攻めた時に陣をはったところだといわれています。
そんな罰あたりな、というのは現在の感覚で、あの時代には古墳の価値は考えられなかったのでしょうね。
「のぼうの城」という本はすごく面白かったのですが、石田三成が古墳に陣を張ったという記憶が無かったので読み直してみると、こう書かれていました。
「丸墓山に本陣を敷いたのは三成である。・・・・(中略)・・・・三成は、大谷吉継が丸墓山にのぼってきたときに、『この山、古の貴人の墓じゃそうな・・・・・・・』」
私が、この古墳のことが全く頭に上がらなかったので、読みとばしていたのだした(汗)
丸墓山古墳の上から忍城の方向を望みます。

肉眼では、かすかにそれとわかる程度でした。ずいぶんと遠くに陣を張ったものだな、という印象でした。
私のカメラは1000mm相当までズームできるので、確かに忍城を捉えることができました。

丸墓山を下りるときに、下から三人のチビッコ集団が猛烈な勢いで上ってきた(笑)

下りたところの近くに黄色い花が咲いていたので、この花と一緒に撮った丸墓山古墳。

続いて、稲荷山古墳に向かいますが、途中にメタセコイヤの林があったので、パチリ。
稲荷山古墳から先は、次回報告。
(続く)
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埼玉古墳群は国指定史跡で、県名発祥の地「埼玉」にあります。前方後円墳が8基、円墳が2基、方墳が1基の合計11基の大型古墳を中心として、稔数40基ほどの古墳が存在していました。現在は、前方後円墳が8基、円墳が2基残っています。
埼玉古墳群は国宝金錯銘鉄剣が出土したことで有名ですが、大型の古墳がせまい範囲に集中して築造されていることも大きな特徴です。また、5世紀後半から7世紀初め頃までの釣150年の間に次々に造られたことも特徴で、築造した豪族の勢力を物語っています。
埼玉古墳群の謎
(1) それまで古墳が造られていなかった場所に、突如として現われた。
(2) 東西500m、南北800mのせまい範囲の中に大型の古墳が造られた。
(3) 前方後円墳は同じ規格で築造されている。
・長方形の二重の堀を巡らしている。(通常、盾型)
・造出しは西側にある。
・ほぼ同じ方向を向いている。
武蔵国造の乱:第二十七代 安閑天皇即位元年甲寅(きのえとら)534年
日本書紀に、笠原直使主(かさはらのあたいおみ)が同族小杵(おき)と、国造の地位を争ったことが記されています。争いに勝ち、武蔵国国造に任命された、笠原直使主は埼玉群笠原(現在の鴻巣市笠原)に拠点を持ったとされています。さきたまの地に突如として、畿内に匹敵する大型前方後円墳が現れたこと、稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の銘に見える「ヲワケ」の父の名の「カサヒヨ」が「カサハラ」と読めることなどから、笠原を本拠とした武蔵国国造の墓と考えることもできます。
埼玉古墳群の場所は交通の要衝地
東日本では、交通の要衝地に大型古墳が集中する傾向にあると言われています。埼玉古墳群の場所について見ると、当時は東京湾に注いでいた利根川と利根川の支流であった荒川の合流点近くに位置していて、利根川、荒川、渡良瀬川、思川などを伝って各地と容易に連絡できる内水面交通の要衝地点でありました。
大宮台地
埼玉古墳群は、南から延びてきていた大宮台地上に築造されました。これは発掘調査でわかっています。築造されたときは周囲より高い場所にありましたが、関東造盆地運動と呼ぼれる地殻運動によって台地が沈降し、今では周囲と変わらず平坦になっています。
まずは「さきたま史跡の博物館」で学芸員の説明を受け古墳からの出土品を見ました。
さきたま史跡の博物館

駐車場から博物館に歩いていくときにあった、「埼玉県名発祥の地」の碑

博物館にあった埼玉古墳群の航空写真

写真撮影は、フラッシュをたかなければOKでした。
国宝「金錯銘鉄剣」
稲荷山古墳の副葬品を昭和53年に保存処理の作業を行いました。鉄剣のレントゲン写真を撮影すると、剣身の両面に金象蕨の文字字が刻まれていることがわかりました。古墳時代の金石文としてはこれまでで最も数字の多い115文字が刻まれ、歴史的価値の高い内容をもっていました。
銘文が発見されたことにより、昭和58年、この剣を含めた稲荷山古墳の礫榔・粘土榔の出土品のすべてが国宝に指定されました。
銘文には、刀を作らせたヲワケという人物の「上祖」(先祖)からの8代にわたる系譜と、ヲワケがヤマト王権の中心である大王家(後世の天皇家の前身)に先祖代々仕え、国を治めるのを助けてきたことを誇るために刀を作らせて、文字を記したことが書かれています。


国宝「鉄剣」

埴輪がいいですね。





左側が馬につける旗竿金具

馬の冑

こんな風になるらしい。これは朝鮮半島でよく見られるそうで、その文化がここまで来ていたことを示します。

国宝「龍文透彫帯金具」稲荷山古墳

説明のチラシで模様がはっきりします。

チラシによると、このように飾っていたらしい。

国宝「画文帯環状乳神獣鏡」稲荷山古墳


ガラス玉

きりがないので、このくらいにしましょう。
外に古墳を見に行きます。
古墳の配置図

最初に見た古墳は「愛宕山古墳」です。名前の由来はかって墳丘上に愛宕神社が祀られていたことによります。

いまは三体の石仏が立っていました。

詩碑がありました。


家に帰ってから調べると、地元出身の濱梨花枝さん(与謝野晶子門下)の歌碑でした。
「史跡埼玉村古墳群」の標示

石田堤
この日、後で忍城にも行ったので、後で詳しく述べますが石田三成が忍城を水攻めにしたとき、丸墓山古墳を起点に南北に堤を築きました。その一部です。

丸墓山古墳のふもとにあった、「埼玉村古墳群」の石碑


丸墓山古墳

エッチラオッチラ上ります(汗)

丸墓山古墳には、永禄3(1560)年に上杉謙信が、天正18(1590)年に石田三成がそれぞれ忍城を攻めた時に陣をはったところだといわれています。
そんな罰あたりな、というのは現在の感覚で、あの時代には古墳の価値は考えられなかったのでしょうね。
「のぼうの城」という本はすごく面白かったのですが、石田三成が古墳に陣を張ったという記憶が無かったので読み直してみると、こう書かれていました。
「丸墓山に本陣を敷いたのは三成である。・・・・(中略)・・・・三成は、大谷吉継が丸墓山にのぼってきたときに、『この山、古の貴人の墓じゃそうな・・・・・・・』」
私が、この古墳のことが全く頭に上がらなかったので、読みとばしていたのだした(汗)
丸墓山古墳の上から忍城の方向を望みます。

肉眼では、かすかにそれとわかる程度でした。ずいぶんと遠くに陣を張ったものだな、という印象でした。
私のカメラは1000mm相当までズームできるので、確かに忍城を捉えることができました。

丸墓山を下りるときに、下から三人のチビッコ集団が猛烈な勢いで上ってきた(笑)

下りたところの近くに黄色い花が咲いていたので、この花と一緒に撮った丸墓山古墳。

続いて、稲荷山古墳に向かいますが、途中にメタセコイヤの林があったので、パチリ。
稲荷山古墳から先は、次回報告。
(続く)
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八丁道・前田利長公墓所/富山県高岡市
20130506
4日に行った瑞龍寺の続きです。
瑞龍寺の前から、一直線に前田利長公墓所までの参道「八丁道」が延びています。その長さ870mです。



途中の参道沿いに、この道の歴史が書かれていました。

普段は参道として親しまれているが、有事に備える防御線の一部だったらしい。
「高岡開闢由来記」には「八丁道幅員15間余。両側老松列せしは舞子浜移し植しなり。また両側に石灯篭真向い々々に建設、赤間石なり」とあり、幅の広い昼なお暗き森厳とした大参道であった。
明治8年:繁久寺住職が官許を得て老樹木を伐採。いつの間にか、道幅が狭くなり、石灯篭も次第に紛失し、殺風景な道路となる。
大正2年:古城公園とともに八丁道の整備も図り、桜を植える。
昭和22年:瑞龍寺、前田利長公墓所、八丁道を風致地区に指定
昭和42年から:区画整理事業を展開、道路の拡張を行う。
平成2年:八丁道歴史的景観整備事業を行う。高岡市は「うるおい」や「個性」を大切にしたまちづくりをめざし、八丁道では、この道の歴史的なイメージを継承させるよう整備を行う。
石灯篭は、なかには古い感じのものもあります。


両側の植え込みも整備されていて、綺麗すぎるくらい(笑)

真っ直ぐ、まっすぐ続いています。

黄色いつつじが咲いていました。

墓所まで、もうちょっというところで途切れていました。
この灯篭は、2013年5月の「前田利長公四百年大遠忌記念」と、2015年3月の「北陸新幹線開通記念」で建てられたもの。

途中に「繁久寺利長公墓所」という看板もあったので、お寺に先に寄ってみました。

門から入ったところに、回廊に五百羅漢がずらっと並んでいて壮観でした。


お寺が閉まっている感じで、利長公墓所らしいものはわかりません。
もしかして、これかなと思えるものが駐車場から塀に設けられた覗き窓から見えました。

台座にある紋は、梅鉢が前田家、五七の桐は豊臣秀吉、一番右の紋は誰のかわかりません。信長が使った紋の中にこれはありません。

前田利長公墓所の入り口

入ってすぐに、墓所の説明があります。

1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい。
八丁道の延長の方向に少し歩き、突き当たりを左に曲がると墓所が見えます。

鳥居の前の大灯篭のデカイのにはびっくりです。

鳥居のところで礼拝するようになっています。

鳥居の先は、堀であり、石橋がかかっていて渡れますが、中には入れません。

9月13日(前田利長が高岡に入城した日)に行われる前田利長公顕彰祭(利長公墓前祭)の時だけは一般公開されて中に入ることが出来るそうです。
石橋を渡り切った門のところから撮ります。


大名の墓としては日本一と言われる高さ11.9メートルの石塔(地表面から石塔の笠までの高さ)。

石塔下部の戸室石で造られた基壇は、約250平方メートルの三層基壇となっており、高さが5.0メートルあり、側面には狩野探幽下絵とされる130枚もの蓮華図文様が彫刻されています。

墓所の参道に満天星躑躅(どうだんつつじ)が見事に咲いていました。



(了)
瑞龍寺の前から、一直線に前田利長公墓所までの参道「八丁道」が延びています。その長さ870mです。



途中の参道沿いに、この道の歴史が書かれていました。

普段は参道として親しまれているが、有事に備える防御線の一部だったらしい。
「高岡開闢由来記」には「八丁道幅員15間余。両側老松列せしは舞子浜移し植しなり。また両側に石灯篭真向い々々に建設、赤間石なり」とあり、幅の広い昼なお暗き森厳とした大参道であった。
明治8年:繁久寺住職が官許を得て老樹木を伐採。いつの間にか、道幅が狭くなり、石灯篭も次第に紛失し、殺風景な道路となる。
大正2年:古城公園とともに八丁道の整備も図り、桜を植える。
昭和22年:瑞龍寺、前田利長公墓所、八丁道を風致地区に指定
昭和42年から:区画整理事業を展開、道路の拡張を行う。
平成2年:八丁道歴史的景観整備事業を行う。高岡市は「うるおい」や「個性」を大切にしたまちづくりをめざし、八丁道では、この道の歴史的なイメージを継承させるよう整備を行う。
石灯篭は、なかには古い感じのものもあります。


両側の植え込みも整備されていて、綺麗すぎるくらい(笑)

真っ直ぐ、まっすぐ続いています。

黄色いつつじが咲いていました。

墓所まで、もうちょっというところで途切れていました。
この灯篭は、2013年5月の「前田利長公四百年大遠忌記念」と、2015年3月の「北陸新幹線開通記念」で建てられたもの。

途中に「繁久寺利長公墓所」という看板もあったので、お寺に先に寄ってみました。

門から入ったところに、回廊に五百羅漢がずらっと並んでいて壮観でした。


お寺が閉まっている感じで、利長公墓所らしいものはわかりません。
もしかして、これかなと思えるものが駐車場から塀に設けられた覗き窓から見えました。

台座にある紋は、梅鉢が前田家、五七の桐は豊臣秀吉、一番右の紋は誰のかわかりません。信長が使った紋の中にこれはありません。

前田利長公墓所の入り口

入ってすぐに、墓所の説明があります。

1614年(慶長19年)に没した前田利長の冥福を祈るため、3代藩主前田利常(利長の異母弟、後に養嗣子)が33回忌にあたる1646年(正保3年)に造営したものである。周囲に堀を構えたその墓所の豪壮なことは武将のものとして全国的に珍しい。
八丁道の延長の方向に少し歩き、突き当たりを左に曲がると墓所が見えます。

鳥居の前の大灯篭のデカイのにはびっくりです。

鳥居のところで礼拝するようになっています。

鳥居の先は、堀であり、石橋がかかっていて渡れますが、中には入れません。

9月13日(前田利長が高岡に入城した日)に行われる前田利長公顕彰祭(利長公墓前祭)の時だけは一般公開されて中に入ることが出来るそうです。
石橋を渡り切った門のところから撮ります。


大名の墓としては日本一と言われる高さ11.9メートルの石塔(地表面から石塔の笠までの高さ)。

石塔下部の戸室石で造られた基壇は、約250平方メートルの三層基壇となっており、高さが5.0メートルあり、側面には狩野探幽下絵とされる130枚もの蓮華図文様が彫刻されています。

墓所の参道に満天星躑躅(どうだんつつじ)が見事に咲いていました。



(了)
瑞龍寺/富山県高岡市
20130505
2日に電話がかかってきて、高岡の叔父が亡くなったという。私が若いころ大変お世話になった方で、最近入院されたことは知っていたが、こんなに早く亡くなられるとは思いもかけなかった。
3日がお通夜だというので飛んでいき、4日のお葬式まで出席して帰ってきた。
この際だから、北陸にもう一日か二日居ようと思ったが、この時期で泊まるところが確保できなかった。
帰りの列車までの空き時間で、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」と「前田利長公墓所」だけ寄ってきた。
最近「加賀百万石/津本陽」、「われに千里の思いあり/中村彰彦」と加賀百万石前田藩の歴史を読んできたので、寄りたかったのだ。高岡の瑞龍寺はこれまで何度も行ったことはあったが、この際きちんと写真を撮っておきたかった。
高岡駅の南口から歩いて5分くらいで、瑞龍寺と前田利長公墓所を一直線で結ぶ、870Mの「八丁道」にぶつかります。
今回は先に瑞龍寺にお参り。

途中、前田利長公の銅像がありました。

瑞龍寺門前

加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。
それまでここには町は無かった。富山県で第二の都市高岡は、このとき生まれたのである。
前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。
前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある)。建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。
伽藍配置の考え方を説明した図が門前にあった。

総門

梅鉢の紋は、意外なことにこの総門にあっただけだった。

総門を入ると、広大な白砂の空間が広がっている。この雄大な「無」の空間は武将にふさわしいと、私は大好きだ。

あれあれっ、入っちゃダメだよ笑い

堂々とした山門が迎える。

扁額

「高岡山」の山号と仁王さん。



左右に回廊が延びている。設計に珍しく和算が使われている、とパンフレットにあった。良くわからぬが、このデザイン大好きである。

山門をくぐると、仏殿までまた真っ直ぐな道である。

さっきの白砂の庭と異なり、ここは芝生となっている。

屋根は、金沢城石川門と同じく鉛の瓦。

扁額

名工山上善右衛門によるもの。総欅作り。ご本尊は中国明代の釈迦、文殊、普賢の三尊を祀る。




堂内にはほかにも色々な仏像が置いてあった。
大権修理菩薩

名前は不明


仏堂の先には「法堂」が。総檜造りで、境内で一番大きな建物。

寺額

大きな広縁

般若の間にある「烏瑟沙摩(うすさま)明王」

法堂の裏にある石廟。前田利長、前田利家、織田信長、信長の側室正覚院、織田信忠が祀られている。
云うまでもなく、利長の夫人は織田信長の四女・永である。

利長の廟は立派



利家の供養塔

信長の供養塔

法堂に戻って、回廊を一周します。

回廊の窓から山門を望む。

大きな木魚が下がっている。

同じく山門

反対側の回廊

大庫裡
天井が曲線の漆喰で、結露に対する工夫がされているそうです。

このあと、瑞龍寺を出て前田利長公墓所に向かいますが、次回記事とします。
(続く)
3日がお通夜だというので飛んでいき、4日のお葬式まで出席して帰ってきた。
この際だから、北陸にもう一日か二日居ようと思ったが、この時期で泊まるところが確保できなかった。
帰りの列車までの空き時間で、前田利長の菩提寺「瑞龍寺」と「前田利長公墓所」だけ寄ってきた。
最近「加賀百万石/津本陽」、「われに千里の思いあり/中村彰彦」と加賀百万石前田藩の歴史を読んできたので、寄りたかったのだ。高岡の瑞龍寺はこれまで何度も行ったことはあったが、この際きちんと写真を撮っておきたかった。
高岡駅の南口から歩いて5分くらいで、瑞龍寺と前田利長公墓所を一直線で結ぶ、870Mの「八丁道」にぶつかります。
今回は先に瑞龍寺にお参り。

途中、前田利長公の銅像がありました。

瑞龍寺門前

加賀藩2代藩主前田利長(1562年 - 1614年)が、織田信長・信忠らの追善のため、文禄3年(1594年)金沢に創建した宝円寺(後に法円寺と改称)が瑞龍寺の前身である。利長は慶長10年(1605年)、44歳の若さで家督を異母弟の利常(1594年 - 1658年)に譲り、自らは隠居した。利長には実子がなかったため、30歳以上年下の異母弟で、当時まだ少年であった利常を養嗣子としたのである。隠居後の利長は金沢から富山に移転するが、富山城の炎上を機に高岡に移り、ここに新たに高岡城を築いた。
それまでここには町は無かった。富山県で第二の都市高岡は、このとき生まれたのである。
前述の法円寺は、利長死去の前年である慶長18年(1613年)、高岡に移された。
前田利長は慶長19年(1614年)没し、後を継いだ3代藩主前田利常は、法円寺を利長の菩提寺とし、利長の法名瑞龍院に因んで寺名を瑞龍院と改めた(後、さらに瑞龍寺に改称)。
前田利常は承応3年(1654年)から瑞龍院の伽藍の本格的整備に着手した(伽藍整備の開始は、利長の三十三回忌にあたる正保3年(1646年)からとする説もある)。建築工事は、加賀藩お抱えの大工頭・山上善右衛門嘉広(代々「善右衛門」を名乗る)が棟梁となって進められた。山門、仏殿、法堂が一直線に並び、左右に回廊をめぐらして諸堂を対称的に配置する伽藍配置は中国の径山万寿寺にならったものといい、伽藍整備が完成したのは利長の五十回忌にあたる寛文3年(1663年)頃であった。
伽藍配置の考え方を説明した図が門前にあった。

総門

梅鉢の紋は、意外なことにこの総門にあっただけだった。

総門を入ると、広大な白砂の空間が広がっている。この雄大な「無」の空間は武将にふさわしいと、私は大好きだ。

あれあれっ、入っちゃダメだよ笑い

堂々とした山門が迎える。

扁額

「高岡山」の山号と仁王さん。



左右に回廊が延びている。設計に珍しく和算が使われている、とパンフレットにあった。良くわからぬが、このデザイン大好きである。

山門をくぐると、仏殿までまた真っ直ぐな道である。

さっきの白砂の庭と異なり、ここは芝生となっている。

屋根は、金沢城石川門と同じく鉛の瓦。

扁額

名工山上善右衛門によるもの。総欅作り。ご本尊は中国明代の釈迦、文殊、普賢の三尊を祀る。




堂内にはほかにも色々な仏像が置いてあった。
大権修理菩薩

名前は不明


仏堂の先には「法堂」が。総檜造りで、境内で一番大きな建物。

寺額

大きな広縁

般若の間にある「烏瑟沙摩(うすさま)明王」

法堂の裏にある石廟。前田利長、前田利家、織田信長、信長の側室正覚院、織田信忠が祀られている。
云うまでもなく、利長の夫人は織田信長の四女・永である。

利長の廟は立派



利家の供養塔

信長の供養塔

法堂に戻って、回廊を一周します。

回廊の窓から山門を望む。

大きな木魚が下がっている。

同じく山門

反対側の回廊

大庫裡
天井が曲線の漆喰で、結露に対する工夫がされているそうです。

このあと、瑞龍寺を出て前田利長公墓所に向かいますが、次回記事とします。
(続く)
根津神社のつつじ
20130501
ここのつつじを4月28日(日)に撮ってきました。
根津神社については、前回の記事で紹介しています。
今回はつつじの紹介です。
境内はツツジの名所ですが、徳川綱吉の父で甲府宰相・徳川綱重の下屋敷が、ここにあった時に造られた庭園がすでに「つつじヶ岡」と呼ばれていたといいますから、花の名所としても300年以上の歴史を持つことになります。
境内にある約2000坪のつつじ苑には、約50種3000株のツツジが咲き競っています。そして、広大な斜面を活かした配置の仕方に、見せ方の工夫を感じさせられます。
鳥居から入りますが、「つつじ祭り」ということで人出がすごく、ここでは呼び込みも盛んで下は写せません。

参道の斜面に早くもつつじの花が迎えてくれます。

神橋の上は、つつじ園を移す人で鈴なりです。

人出が多いので、拝殿にも長蛇の列でした。

乙女稲荷の前から、つつじを写しはじめました。

つつじの銘柄については、メモしてこなかったので、ここからは花をアップするだけにします。お楽しみください。


























つつじ園の斜面を、あっちこっちと写して汗だくになりました(笑)
もうこの辺で、と切り上げて小さい池のところに降りてきて、終了!!

根津神社については、前回の記事で紹介しています。
今回はつつじの紹介です。
境内はツツジの名所ですが、徳川綱吉の父で甲府宰相・徳川綱重の下屋敷が、ここにあった時に造られた庭園がすでに「つつじヶ岡」と呼ばれていたといいますから、花の名所としても300年以上の歴史を持つことになります。
境内にある約2000坪のつつじ苑には、約50種3000株のツツジが咲き競っています。そして、広大な斜面を活かした配置の仕方に、見せ方の工夫を感じさせられます。
鳥居から入りますが、「つつじ祭り」ということで人出がすごく、ここでは呼び込みも盛んで下は写せません。

参道の斜面に早くもつつじの花が迎えてくれます。

神橋の上は、つつじ園を移す人で鈴なりです。

人出が多いので、拝殿にも長蛇の列でした。

乙女稲荷の前から、つつじを写しはじめました。

つつじの銘柄については、メモしてこなかったので、ここからは花をアップするだけにします。お楽しみください。


























つつじ園の斜面を、あっちこっちと写して汗だくになりました(笑)
もうこの辺で、と切り上げて小さい池のところに降りてきて、終了!!
