ブラン・ドゥブル・ドゥ・クーベル

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系統:ハイブリッド・ルゴサ
作出:1892年、フランス、Cochet-Cochet
樹形:シュラブ(半蔓性)
花径:中輪
花色:白
花弁の数:半八重咲き
香り:強香

谷津バラ園の香りのコーナーにあった薔薇です。
酔うような甘い香りがしました。色は純白なのに、不思議な気持ちがしました。
名は、“クーベル村の白い八重咲きの花”という意味だそうです。

純白で柔らかな花びらはよくティッシュペーパーのような・・と形容されるそうですが、純白な薔薇が大好きな私にはたまりませんね。


2013年5月22日 谷津バラ園にて



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『居眠り磐音 江戸双紙』第31巻「更衣ノ鷹(上)」&第32巻「更衣ノ鷹(下)」/佐伯泰英

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第31巻「更衣ノ鷹(上)」

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この巻での大きな出来事は、武者修行に出ている松平辰平は、熊本から博多に出てきた。磐音も立ち寄った有地内蔵助の道場で修業をすることになる。

西ノ丸家基に対する田沼意次の攻撃が次第に厳しくなる。気になるのは西ノ丸御医師の一団から桂川甫周が外され、代わって法眼千賀道隆が入った。調べてみると田沼意次の息がかかった人物。じわりじわりと外堀が埋められていく。
ついに磐音も家基の剣術指南役を解かれる。

家基が鷹狩を行うので、佐々木玲圓と磐音は陰ながら警護をする。
鷹場について詳しい説明があった。
家光のときに江戸から五里四方を将軍の家鷹場、さらに十里の間を御三家の鷹場とした。綱吉のときに一旦廃され、吉宗の代に再び復活し、葛西、岩淵、戸田、中野、六郷が新たに加えられた。
鷹場付近に、小菅御殿、御殿山、靑戸御殿、中山御立場(中野)、東金御成り街道のお茶屋御殿、中山道の鴻巣御殿、白金御殿が整備され、のちに地名として残る。
よく利用されたのが「目黒筋」で、目黒村を中心に駒場原、碑文谷原、広尾原などである。

鷹狩の最中、家基は四人組の鉄砲に狙われるが、磐音と弥助、霧子らで守り通す。

おこんが桂川甫周からの使いと謀られ、出かけたところを田沼意次の愛妾の行列にかどわかされる。
矢場女だったおすなが若いころの田沼意次に見初められて妾になり、いまは裏の仕事をこなしている悪女である。
その隠れ家に乗り込む磐音と弥助、霧子。

この巻で磐音が相対したのは、武州陣甲流、独創二天一流、その他は特に流派の説明なし。


第32巻「更衣ノ鷹(下)」

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この巻では、いよいよ田沼意次の用人が佐々木道場に押しかけてきたのを皮切りに、西ノ丸家基を亡き者にしようとする田沼意次の手があからさまになってくる。
いままで佐々木道場の後ろ盾となっていた、将軍御傍御用取次の速水左近も四面楚歌の状態となり、西ノ丸家基の周囲に田沼意次の手の者があてられる人事がどんどん推し進められる。

磐音は、おこんの父親金兵衛から、「あんたは純真無垢で、戦い方を知らない」と云われ、吉原会所の四郎兵衛に会いに行く。
四郎兵衛は、田沼意次の凄さを語る。
「宝暦四年(1754)より、美濃郡上藩金森家三万八千石に一揆が起こりました。藩の財政窮乏を打開せんと、年貢の取り方を定免制から検見取へと強引にも改めようとしたのです。年貢が重くなることを恐れた領民らは藩に強訴しましたが、受け入れられず、江戸に出て老中に駕寵訴をなし、目安箱に訴状を投げ入れることを繰り返しました。さらには美濃郡上津の預かり地、越前の白山中居神社でも神職たちの石徹白騒動が起こり、大騒動に発展したのでございます。何年にもわたる美濃郡上騒動です。
時の将軍家重様は、あまりの大騒動に、幕府の要職の者が絡んでいなければ、かような騒ぎになるまいと『お疑い』を示され、幕府では宝暦八年(1758)七月二十日に評定所で五手掛の審理をすることになりました」
 五手掛とは、幕府で最高の審理体制であり、老中の指揮のもと、寺社奉行、町奉行、勘定奉行、大目付、目付の五役が担当した。
「御用取次の田沼意次様は、御庭番を美濃郡上に飛ばしてことの真相せ探らせ、家重様お疑いのように幕閣の者が関係している事実を探り出されて、『風聞書』にまとめて提出なされた。この結果、家重様より遠慮会釈なく吟味即断せよとのお墨付きを得て、九月三日の五手掛の場に出座なされたのでございます。老中でもない田沼意次様は、家重様代理の役で異例にも出座された上に、この場を仕切られた。その結末は悲惨にして過酷なものでした。老中本多正珍様は罷免逼塞、若年寄本多忠央様は改易、大目付曲淵英元様ほ罷免の上、無役の小普請入り、さらに閉門、勘定奉行大橋義親様は改易、陸奥相馬藩へのお預け、美濃郡上藩三万八千石金森頼錦様は改易の上、陸奥盛岡藩にお預け、金森家は断絶しております。この五手掛の出座した老中、若年寄の重職ともども、稀にみる厳しい処罰を行い、見事に処断したのが、四十歳の御用取次田沼意次様なのでございますよ」
四郎兵衛が、「ふうっ」 と大きな息を吐いた。

「ただ今の幕府にこれほど肝が据わった人物はおられませぬ。そのことを幕府、世間も忘れ、城中で閏閥に走った結果、田沼様が隠然たる力を持たれたが如く評するのは、間違いにございます。佐々木様、田沼様の上に老中首座松平武元様ら先任の老中がおいでですが、残念ながら田沼様ほどの切れ味はございませぬ。誤解されることを恐れず申し上げますと、松平様方は田沼様に華丸をぎゅっと掴まれて身動きできない、それが実情にございますよ」
「家基様の将軍就位は田沼意次様の一存にかかっていると言われますか、四郎兵衛どの」
「家基様は、田沼意次様を受け入れるには明敏清廉にして正直すぎます。暗愚を装い、田沼意次様にすり寄ることこそ、家基様の十一代様へのただ一つの道」
「家基様にできましょうか」
「さもなくば、田沼意次様自らと一族の保身のために、家基様の暗殺を果たすまで手を緩めますまい」
と四郎兵衛が言い切った。

この巻で磐音が相対したのは、神道一心流、古流、尾張柳生新陰流、タイ捨流、その他は特に流派の説明なし。


この巻で、磐音にとって大暗転を迎え、そのショックで半月以上記事にできずにおりました。
しかし「居眠り磐音」はまだまだ十巻以上も続いていくこと故、いつまでも放っておけず、先に進むためにようよう記事としました。
憎さも憎し、田沼意次。


ロビ第14号&15号組立/ロボット「ロビ」

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【第14号】

第14号で紹介されているロボットは、ご存知ホンダの「アシモ」です。
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2000年に登場して以来ですから、最近のアシモはすごいですよね。
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コミュニケーション能力も、人が三人同時に話しかけても、聞き分けられるし、人が歩く方向を予測してぶつからないように歩行するなど、大したものです。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① 右腕をボディに差し込む
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② サーボと右腕を固定する
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完成状態
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右肩を回転するサーボモーターも、ボディの内側に付いている。
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頭部と一緒に
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これで右腕の動きは全て整った。
腕を前に挙げる
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腕を後ろに下げる
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腕を下す
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腕を上げる
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肘を伸ばす
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肘を曲げる
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【第15号】

第15号で紹介されているロボットは、NECの「PaPeRo」です。
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このロボットはコミュニケーション機能に特化して作られています。
顔認識は30人可能で、伝言ができます。音声は600語認識ができる。話せる言葉は3000語。
基本的にWindowsパソコンにいろいろなセンサーを有しているということなので、機能の拡大は容易。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① 指ホルダーを取り付ける
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② 親指を取り付ける
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③ サーボケーブルに保護シールを貼る

完成状態
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軽井沢レイクガーデンの花

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6月2日に両親の墓参りに行き、その後軽井沢で遊んできました。
レイクガーデンに寄ったのは、あるいはバラが咲いているかなと思ったからですが、まだ全然咲いていなかった。
しかし、その代わり園内に植えられている草花の花を楽しむことができました。
薔薇は全部銘札がついているのに、草花の場合は野趣を損なうという園の方針らしくて、まったく銘札がついていませんでした。これは残念なことです。
ほとんど名前がわからなくて、帰ってから名前を調べようとしたのですが、たぶん外来種が多いらしくてわかりませんでした。それでもかわいい花が多かったので、眠らせてしまうのも残念なので紹介しておきます。

ということで載せたんですが、すぐによくコメントをいただくJさんから、コメント欄にて名前を教えてくださいました。
実に感謝感激です。
本文中にも、教えていただいた名前を赤で追記しました。
改めて、花名と一緒に見ていただくと幸いです。
ほんとに、Jさんありがとうございました。



レイクガーデン
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名前のわかっているもの

1.オオデマリ
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2.オドリコソウ
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3.シロヨメナ
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4.タイツリソウ
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5.マロニエ
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6.ムラサキカタバミ
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7.ラナンキュラス
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名前がわからないもの

NO.8 ⇒なんじゃもんじゃの木(ヒトツバタゴ)
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NO.9 ⇒アルケミラ・モリス(レディースマントル)
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NO.10 ⇒タニウツギ  多分・・
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花が終わって枯れた感じになった枝
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NO.11 ⇒アケボノフウロ(ゲラニウム)
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NO.12 ⇒シラー・カンパニュラータ
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NO.13 ⇒ジュウニヒトエ(アジュガ)
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NO.14 ⇒九輪草(さくらそうの1種です)
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NO.15 ⇒九輪草(さくらそうの1種です)
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NO.16
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NO.17 ⇒ユーフォルビアの1種です 多分
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NO.18 ⇒リクニス・フロスククリ
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NO.19 ⇒リムナンテス
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NO.20 ⇒ポテンティラ
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NO.21 ⇒チャイブ
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NO.22 ⇒サフィニア
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もし、知ってるのがあったら、書き込んで教えてくださったら嬉しいです。


御鑓拝借/佐伯泰英

20130624

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文化十四年(一八一七)の陰暦三月、主人公赤目小籐次は豊後森藩下屋敷の厩番、五尺一寸(一五三センチ)禿げ上がった額に大目玉、団子鼻、両の耳も大きい四十九歳の中年、江戸時代であれば初老といっていい歳である。お世辞にも格好いいとはいえない小籐次は、伊予の水軍が不安定な船戦で遣う剣術を源とした来島水軍流剣法の一子相伝者=来島水軍流の達人である。愛刀は備中国次直。小籐次の仕えていた豊後森藩は元々伊予来島の河野水軍一翼を担った来島家の家系であった。

酒好きの小籐次は柳橋の万八楼であった大酒会で一斗五升の酒(三升入の漆杯で五杯、つまり一斗五升)を飲んだ末に、藩主・久留島通嘉の参勤下番の行列を六郷の渡しまで見送る習わしを欠礼してしまう。これがシリーズの副題となる「酔いどれの」由来となる。

その結果、用人の高堂伍平はかんかんに怒り、小籐次は奉公を解かれ、屋敷から追い出されることになった。

だが、そこには小籐次のある目論見があった。江戸城中で他藩主から辱めを受けたことを通嘉から聞かされ、脱藩して意趣返しをする決意を固めていたのである。小籐次の孤独な闘いが始まった。


この「御鑓拝借」については、NHKのテレビドラマになっている。しかし私はたまたま都合が悪く、番組欄のチェックも遅れて録画もできず、放送が終わってから「しまった」というのが二回も繰り返されていたのである(笑)
どうして残念かといえば、作者が佐伯泰英なので面白いに決まっているからだ。
そして、ついこの間「一路」を読んで、あらためて大名行列のなんたるかを知ったばかりである。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1222.html

しかも、NHKがドラマ「酔いどれ小藤次」を放送し始めた。このドラマを楽しむためにも原点を知っておかずばなるまい・・・・・・・
なので、この本を読んだのだが、やはり面白かった。

しかも、読んで見ると4本目の「御鑓拝借」の舞台は、品川宿ではないか。
ちょうど今、所属している「歴史クラブ」の行事として品川宿周辺のぶらぶら歩きを企画している最中なのであります。
この本を読みながら、地図を見て、ただ稲荷と書いてあるけど、それはこっちのお稲荷さんかな、それともあっちかな・・・・・
御鑓を拝借してから、海岸で追っ手と死闘になりますが、たぶん場所はここだろう・・・・・
なんて、かなり楽しみました(笑)


登場人物で好感をもったのが、黒崎小弥太という人物。
御鑓を奪われた側は、面目を潰されてしまったので、小籐次に追っ手を差し向け御鑓の奪還をしようとするのだけど、逆に返り討ちにあう羽目に。
追手の一人だった黒崎小弥太は小籐次の剣の腕には敵わないと潔く認め、思い切って小籐次の目的を問いただします。
すると、初めて小籐次は藩主通嘉が受けた侮辱のことを明かし、さらには奪い取った御鑓は江戸の町にさらすという計画を打ち明けます。
驚いたのは黒崎です。 そんなことをされてしまったら、面目を失った藩は取り潰しを免れません。
何とか、解決策はないものかと、黒崎は小籐次から聞かされた話を主に伝えるための猶予をもらいます。

自分は逆立ちしても小籐次を討ってヒーローにはなれないと、冷静に判断できて、ならば正確な情報を手に入れようと動く、黒崎小弥太に共感を覚えた。


ベートーヴェン/ヴァイオリン協奏曲ニ長調Op.61

20130623

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ヴァイオリン:ヤッシャ・ハイフェッツ
指揮:アルトゥーロ・トスカニーニ
管弦楽:NBC交響楽団
録音:1940年3月11日, Studio 8H
トスカニーニ・コンプリートRCAレコーディングズ大全集のCD No.41/85

ベートーヴェン中期を代表する傑作の1つ。彼はヴァイオリンと管弦楽のための作品を他に3曲書いている。2曲のロマンス(作品40および作品50)と第1楽章の途中で未完に終わった協奏曲(WoO 5)がそれにあたり、完成した「協奏曲」は本作品1作しかない。しかしその完成度はすばらしく、『ヴァイオリン協奏曲の王者』とも、あるいはメンデルスゾーンの作品64、ブラームスの作品77の作品とともに『三大ヴァイオリン協奏曲』とも称される。

この作品は同時期の交響曲第4番やピアノ協奏曲第4番にも通ずる叙情豊かな作品で伸びやかな表情が印象的であるが、これにはヨゼフィーネ・フォン・ダイム伯爵未亡人との恋愛が影響しているとも言われる。

この作品の構想されたのがいつ頃なのかを特定する証拠はないが、交響曲第5番第1楽章のスケッチにこの作品の主題を書き記したものが存在するという。いずれにしても、『傑作の森』と呼ばれる中期の最も充実した創作期の作品であることに違いはない。
(以上WIKIから)

いまは亡き吉田秀和さんが「私の好きな曲」という本の中で、タイトルはブラームスの協奏曲なのだが、このベートヴェンの協奏曲についても書いている。
「この曲は、数ある「ベートーヴェン的開始」のなかでも、また独特の位置を占めるものである。「ベートーヴェン的開始」と私が呼ぶのは、たとえば第五交響曲の有名な出だしとか、『第九』 のそれとかを思い出していただければよろしいのだが、ベートーヴェンがそれまで前例のなかった、そうしてすごく冴えた、印象的な「開始」 の仕方をいくつもやってみせた芸術家だったことは、ことわるまでもあるまいが、そのなかでも、このヴァイオリン協奏曲の開始は水際立ったものである。
 これほティンパニのソロのピアニッシモでのゆったりした連打ではじまる。このはじめ方は、はじめてきく人には、あるいはうっかりきく人には、いつはじまったかちょっとわからないような、まことにさりげない、さっばりした始まり方のようにみえるが、一度それに気がついたことのある人には、もう忘れることのできないもので、そういう人たちは、この曲の場合、曲がはじまる前からすでに予期して待ち受けないわけにいかなくなる。そこに、そっと、きこえるかきこえないかで、ボン、ボン、ボン、ボンと四つ鳴る。それだけで息づまるような緊張が生ずる。こんなに単純な一つの音のくり返しだけで、これだけ強烈な緊張のつくられたためしは、ほかのどこにあるのだろうか?」

吉田秀和さんの文章は、まだまだ続くのだが、これを読んでから当然ながら私も、曲がはじまる前からすでに構えて待ち受けるようになった(笑)
名曲を聴くときのわくわくした気分に、さらに緊張感が付け足されたのである。

快速で定評のあるトスカニーニであるからして、この出だし、もの凄い速さです、しかししかし、急いでいる感じはありません。
長大な前奏の後に、独奏が出てくる訳ですが、ハイフェッツの演奏は、素晴らしいとしか言いようがありません。
この曲独特の緊張感に、彼の緊張の糸の張り詰めたような強靭な歌いまわし、独特のクールな芸風は比類なき孤高の境地に達しています。

あまり音響の良くないスタジオでの録音で、音質はさほど良くはありませんが、ハイフェッツのスタイルで救われている感じ。
マエストロも、熱い、生き生きしている演奏です。
ベートーヴェンに対するマエストロの愛情を感じます。


フランクリー・スカーレット

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系 統:: F フロリバンダ
作出: 2008年  アメリカ Dr. Keith W. Zary
花 色: 明るいスカーレット赤
花 径: 中大輪
香 り: 中香
開花性: 四季咲き

咲き始めから終わりまで明るいスカーレットで、次の花が上がるのが早いので、燃えるような花が次々と咲く姿を見せ続けてくれるそうです。

濃いピンクの花びらで、魅力的なバラです。

薔薇の名前の由来は見つかりませんでしたが、「フランク」と「スカーレット」ならありますよね。
二番目の夫がたしか「フランク」だよな、と思い調べてみるとたしかにそうですね。
南北戦争のさなか、アトランタの陥落も目前となったが、出産を目前に控えたメラニーを看護して脱出の機会をスカーレットは失う。
しかし、アシュレーの言葉どおりにメラニーの出産を助ける。
しかし、衰弱した産後まもないメラニーとその赤ん坊をかかえて進撃する北軍の砲声の中で、ついに彼女は途方にくれた。そこで、大嫌いなレットに彼女は助けを求める。
タラへの帰還を望む彼女を、炎上するアトランタからやせ馬の馬車でレットは脱出させる。
そして危険地帯を通り抜けた後、レットは軍隊に入るからこの先は一人で帰るようにスカーレットに告げる。
冗談だと笑うスカーレットに情熱的なキスを残して、レットは南軍のまもる前線へと行く。
置き去りにされて怒り心頭に発したスカーレットだが、ようやく故郷・タラへと到着した。
しかし北軍の駐屯で荒廃し、頼りにしていた母・エレンも腸チフスで病死していた。
一夜にしてオハラ家の主となった彼女の意識は、飢えを凌ぐことと故郷を守ることだけに集中する。
スカーレットは税金の金の工面に窮して、妹の恋人、フランク・ケネディを奪って第2の結婚をした。
やがて、フランクの商才のなさから自ら商売を始める。
この頃、女性が主体的に経営を行うなど男を差し置く事はタブーに近かったことや北軍の移住者と友人になったりして周囲の評判はさらに下降し、メラニーを始めとするウィルクス家の人々とレットを除き彼女の周囲から古い友人は続々と離れていく。
また彼女の不用心な行動は黒人から襲われるという事件を引き起こし、制裁を加えようとしたフランクは銃弾に倒れてしまう。

ちなみに、私はスカーレットのようなタイプは苦手です(笑)

2013年5月22日 谷津バラ園にて


古事記を知る(18)

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4.大国主神
4-1 因幡の白兎
故此大國主神之兄弟八十神坐。自然皆國大國主神於大國主神。所以避者。其八十神各。有欲婚稲羽之八上比賣之心。共行稲羽時。於大穴牟遅神負帒。爲従者率往。於是至氣多之前時。裸菟伏也。爾八十神謂其菟云。汝将為者。浴此海鹽。當風吹而。伏高山尾上。故其菟従八十神之教而伏。爾其鹽隨乾。其身皮悉風見吹拆故。痛苦泣伏者。最後之來大穴牟遅神。見其菟言。何故汝泣伏。菟答言。僕在淤岐嶋。雖欲度此地。無度因故。欺海和邇
此二字以音下効比言。吾與汝競欲計族之多少。故汝者。隨其族在悉率來。自此嶋至于氣多之前。皆列伏度。爾吾踏其上走乍讀度。於是知與吾族孰多。見欺而列伏之時。吾踏其上読度來。今将下地時。吾云汝者我見欺言竟。即伏最端和邇捕我。悉剥我衣服。因此泣患者。先行八十神之命以。誨告浴海鹽當風伏。故爲如教者。我身悉傷。於是大穴牟遅神教告其菟。今急往此水門。以水洗汝身。即取其水門之蒲黄敷散布。輾轉其上者。汝身如本膚必差。其身如本也。此稲羽之素菟者也。於今者謂菟神也。故其菟白大穴牟遅神。此八十神者必不得八上比賣。雖負帒。汝命獲之。

(読み)
カレコノオホクニヌシノカミノミアニオトヤソカミマシキ シカレドモミナクニハオホクニヌシノカミニサリマツリキ サリマツリシユエハ ソノヤソガミオノモオノモ イナバノヤカミヒメヲヨバ〃ムノココロアリテ トモニイナバニユキケルトキニ オホナムヂノカミニフクロヲオホセ トモビトトシテヰテユキキ ココニケタノサキニイタルケメトキニ アカハダナルウサギフセリ ヤソガミソノウサギニイヒケラク イマシセムハ コノウシホヲアミ カゼノフクニアタリテ タカヤマノヲノヘニフシテヨトイフ カレソノウサギヤソガミノヲシフルママニシテフシキ ココニソノシホノカワクマニマニ ソノミノカハコトゴトニカゼニフキサカエシカラニ イタミテナキフセレバ イヤハテニキマセルオホナムヂノカミ ソノウサギヲミテ ナゾモイマシナキフセルトトヒタマフニ ウサギマヲサク アレオキノシマニアリテ コノクニニワタラマクホリツレドモ ワタラムヨシナカリシユエニ ウミノワニヲアザムキテイヒケラク アレトイマシトトモガラノオホキスクナキヲクラベテム カレイマシハ ソノトモガラノアリノコトゴトヰテキテ コノシマヨリケタノサキマデ ミナナミフシワタレ アレソノウヘヲフミテハシリツツヨミテワタラム ココニアガトモガラトイヅレオホキトイフコトヲシラム アザムカエテナミフセリシトキニ アレソノウヘヲフミテヨミワタリキテ イマツチニオリムトスルトキニ アレイマシハアレニアザムカエツトイヒヲハレバ スナハチイヤハシニフセルワニアヲトラヘテ コトゴトニアガキモノヲハギキ コレニヨリテナキウレヒシカバ サキダチテイデマシシヤソガミノミコトモチテ ウシホアミテカゼニアタリフセレトヲシヘタマヒキ カレヲシヘノゴトセシカバ アガミコトゴトニソコナハエツトマヲス ココニオホナムヂノカミソノウサギニヲシエタマハク イマトクコノミナトニユキテ ミヅモテナガミヲアラヒテ スナハチソノミナトノカマノハナヲトリテシキチラシテ ソノウエニコヒマロビテバ ナガミモトノハダノゴトカナラズイエナムモノゾトヲシエタマヒキ ソノミモトノゴトクニナリキ コレイナバノシロウサギトイフモノナリ イマニウサギガミトナモイフ カレソノウサギオホナムヂノカミニマヲサク コノヤソガミハカナラズヤカミヒメヲエタマハズ フクロヲオヒタマヘレドモ ナガミコトゾエタマヒナムトマヲシキ

 (現代語訳)
 さてこの大国主神の兄弟には、多くの神々が居られた。しかしみな、この国を大国主神にぉ譲り申しあげた。お譲りしたわけはつぎのとおりである。その大勢の神々は、みなそれぞれ因幡の八上比賣に求婚しようという下心があって、いっしょに因幡に出かけたときに、大穴牟遅神(大国主神)に袋を背負わせ、従者として連れて行った。ところが気多の岬にやって来たとき、丸裸になった兎が横たわっていた。これを見た大勢の神々が、その兎にいうには、「お前がその体を直すには、この潮水を浴びて、風の吹くのにあたって、高い山の頂に寝ておれ」と教えた。それでその兎は、神々の教えたとおりにして、山の上に寝ていた。
すると浴びた潮水が乾くにつれて、兎の体の皮膚が、すっかり風に吹かれてひび割れた。それで兎が痛み苦しんで、泣き伏していると、神々の最後について来た大穴牟遅神が、その兎を見て、「どういうわけで、お前は泣き伏しているのか」と尋ねると、兎が答えて申すには、「私は隠岐島にいて、ここに渡りたいと思いましたが、渡る方法がなかったので、海にいるワニをだまして、『わたしとお前とくらペて、どちらが同族が多いかを数えてみたい。それでお前はその同族を、ありったけ全部連れて来て、この島から気多の岬まで、みな一列に並んで伏しておれ。そうしたら、私がその上を踏んで、走りながら数えて渡ることにしよう。こうして私の同族とどちらが多いかを知ることにしよう』と、こういいました。
 そして、ワニがだまされて並んで伏しているとき、私はその上を踏んで、数えながら渡って来て、今や地上に下りようとするとき、私が『お前は私にだまされたのだよ』と言い終わるやいなや、一番端に伏していたワニが私を捕えて、私の着物をすっかり剥ぎ取りました。そのために泣き悲しんでいたところ、先に行った大勢の神々がいわれるには、『潮水を浴びて、風にあたって寝ておれ』とお教えになりました。それで教えのとおりにしましたら、私の体は全身傷だらけになりました」と申しあげた。
 そこで大穴牟遅神は、その兎に教えて仰せられるには、「今すぐにこの河口に行って、真水でお前の体を洗って、ただちにその河口の蒲の花粉を取ってまき散らし、その上に寝ころがれば、お前の体はもとの膚のようにきっと直るだろう」と仰せられた。それで教えのとおりにしたところ、兎の体は元どおりになった。これが因幡の白兎である。今もこの兎を兎神といっている。そこでその兎は、大穴牟遅神に、「あの大勢の神々は、きっと八上比賣を娶ることはできないでしょう。袋を背負ってはいるが、あなた様が娶られるでしょう」と申しあげた。

(解脱〉
「稲羽」は因幡国で、鳥取県東部の古名。「八上比売」は因幡国八上郡の地名による女神の名。「気多の前」は因幡国気多郡の海浜。今、鳥取市西北の白兎海岸に、気多岬や白兎神社などの伝説地がある。
白兎海岸
沖合に見えるのが、白兎が住んでいたという淤岐嶋。見る角度によって島の形が大きな兎が横たわっているように見える。
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白兎神社
参道にはいくつもの兎の石像が置かれている。
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「和邇」南方の説話では、淡水に棲む鰐(クロコダイル)であるが、わが国では「海の和邇」「鰐魚」と記されている。これはワニザメのことで、鮫や鱶をワニと呼んだ。「水門」は川が海に注ぐ川口をいう。「蒲黄(かまのはな)」は蒲の穂の黄色い花粉をいう。古代では、止血、鎮痛にきく草薬として用いられた。

知恵のある陸の動物が、愚かな水中の動物をだまし、川を渡ることに成功するという筋の話は、インドネシアや東インド諸島にもあるそうです。インドネシアの話は、洪水のため州を渡ることができなくなった鼠鹿(ねずみじか)が、鰐をだまして呼び集め、その背を踏んで川を渡り、愚かな鰐を嘲ける、という筋である。因幡の白兎の説話も、竹の中に棲んでいた兎が、洪水のために、竹の根に乗ったまま、隠岐島に漂着したので、元の地に帰ろうとしてワニをだました、という筋であったらしい。兎とワニの話が、インドネシア方面から伝わってきた動物説話であることは、明らかである。
 大穴牟遅神は、民間で医療の神として信仰されていたので、白兎の話にこの神を登場させて、大穴牟遅神が医療の神であることを語ったのである。未開社会では、医療を施す能力のある者は、民衆からとくに尊敬されたのである。呪医が酋長なり、さらに王者となることは、土人社会では珍しくなかったという。
 この段から「根の国訪問」の段にかけて、大穴牟遅神が大国主神にまで成長する過程が語られている。大穴牟遅神が医療の神であったことは、大国主神となるための資格として、必要であったのである。
 なお大穴牟遅神と八十神とが、八上比売に求婚に出かけるというのは、妻争い説話の形式によったものである。兎の予言を待つまでもなく、意地の悪い冷酷な八十神に対して、大穴牟遅神は慈愛に富んだ、妻争いの勝利者となるにふさわしい神として描かれている。

大国主神の若い頃の名「大穴牟遅神」は、日本書紀では「大己貴命」と表記されている。
神田明神や、ついこの間訪ねた日光二荒山神社の祭神は「大己貴命」となっている。

神田明神
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日光二荒山神社
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ロビ第12号&13号組立/ロボット「ロビ」

20130619

【第12号】

第12号で紹介されているロボットは、富士ソフト㈱の「パルロ」
パルロの仕事場は、老人ホームやデイサービス(通所介護)といった高齢者福祉施設。
そのために開発されたのではないが、そま機能が介護予防に効果的と分かり使用されている。
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相手と目を合わせて話す「コミュニケーション機能」、自由に二足走行し、簡単なダンスこなす「移動・モーション機能」、人の顔を覚える「学習機能」、みずからwebサイトから情報を入手したりする「インターネット接続機能」などを備えている。


今回使用するパーツ
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今回の作業
① 肩連結金具にケーブルを通す
② 肩フレームを取り付ける
③ 肩パネルを取り付ける
④ サーボケーブルに保護シールを貼る

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完成状態
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【第13号】

第13号で紹介されているロボットは、セコム㈱の「小型飛行監視ロボット」
敷地内に不審な車や人が入ってくると、自動で起動。車や人に近づき一定の距離を保ちながら前後左右から撮影。逃走したら敷地ぎりぎりまでおいかけ、逃走の方向を把握する。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する

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ヘッドスタンドのICボードにサーボモーターを接続したところ
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② サーボのテストをする
③ サーボIDを書き込む

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完成状態
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大前(おおさき)神社/真岡市

20130618

14日(金)の下野国式内社巡りは、茂木町の荒橿神社から、この日の最終目的地、真岡市の大前神社に移動しました。

案内板
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「延書式神名帳」式内社 下野国芳賀郡大前神社
所在地 栃木県真岡市東郷937
御条神
・大己貴(オオナムチ)神 (だいこく様)
・事代主(コトシロヌシ)神 (えびす様)
配祀 ・天照皇大神、八百万神

鳥居は「両部鳥居」で、立派なものです。
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鳥居をくぐると、すぐ左に境内社の「大前恵比寿神社」があり、日本一のえびす像がドーンと鎮座しています。
鯉だけで5mといいますから、すごいです。
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拝殿
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狛犬
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拝殿は、元禄の初めに完成したそうで、彫刻が立派です。
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神紋は、屋根には普通の「右三つ巴」ですが、この賽銭箱には「流水巴」となっています。
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「流水巴」は神田明神と同じです。神田明神も当社も平将門に関係が深いので、この神紋はうなづけます。

祭神
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縁起
  神護景雲元年(767)社殿を再建。社伝によれば、大前山般若寺縁起に「当山は大前山金剛院と称し、創立は清和天皇の貞観4年(862)慈覚大師の開基にして、古聖に建立千妙寺と号せり。野州芳賀郡鎮守大前神社別当也云々」とある。
 大前神社は1500年有余の歴史を誇る延書式内の名社です。ご祭神は福の神様のだいこく様とえびす様で、開運招福の願いを叶えてくれる神様です。欝蒼とおいしげる杜には、安土桃山時代末期に造られた、極彩色の彫刻豊かな御本殿がそびえたち、名工藤田孫平治や島村円哲工人達の足跡が偲ばれます。
大前神社の長い歴史を紐解くと、武将平将門も戦の勝利を祈願(天慶2年(939)。太平記に見える坂東荒武者・紀清両党の芳賀氏が崇拝し、天正16年(1588)には、平家物語(大前神社本)を神前に奉納されました。
そして、二宮尊徳大人も 当社のみそぎ所に龍もり大前堰を改修(文政10年(1827))し、茨城県にもおよぶ大事業を完成されましたことは有名です。
 延喜式の神名帳(延喜5年(905))に掲戟された神社を延喜式内社又は式内社といいます。当時朝廷より幣帛、供物が届けられた由緒正しい神社です。下野国には十二社あり、千百年余の昔から今日まで、式内社巡拝が行われております。

本殿
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本殿を囲む垣も実に美しい。
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本殿の彫刻が素晴らしいので、できるだけ撮りました。
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本殿の背後には、左右に鳳凰、中央には菱形模様となっています。
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透かし塀も美しい。
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塀の透かしから、なんとか本殿の正面を覗きます。
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本殿の扉の前、おそらく拝殿から見える位置に鏡を置いています。
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名工による彫刻で、琴高仙人をはじめとして神仙思想の彫刻が12ケ所あると聞けば、よし、全部撮ってやると意気込みました。

本殿正面の彫刻は、これがやっと。
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これが「琴高仙人」
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境内に説明板があり、「神使の鯉」と「琴高仙人」の説明がありました。
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他の仙人も、撮れるものは撮りました。
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8人撮れました、本殿正面は右側の二つが、これがやっとでした。わかりませんね。
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本殿正面の三つが残念ながら撮れませんでしたね。

真岡市名木に指定されている「スダジイ」
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天明3年作の銅灯篭
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灯篭の細部、龍と獅子
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絵馬堂に、なかなか良い絵馬がたくさん奉納されていた。
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これは、よくわからなかったが、写真を拡大してみたら、中世の絵巻風に描かれていて、なかなか良い。
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境内に、平将門と当社、大前堰、五行川、勤行川のことが説明してあった。
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これで、下野の国式内社めぐりの第一回は、「日光二荒山神社・中宮祠」、「日光二荒山神社・山内」、「荒橿神社」、「真岡・大前神社」を廻り、終了です。


(了)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html



荒橿神社

20130617

14日(金)に、日光二荒山神社本社からバスで移動しました。茂木の町から神社のある高藤山に入るところでバスの通れる道を探して上がりはじめ、もうここからは無理だと歩き始めました。そこへ土地の人が車で下りてきて、もうちょっと行ったら少し道が広くなるので、このバスならなんとか行けると。
それで無事に神社のところにバスで到着。
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入り口のところの説明板には、こうあります。
大同元年(806年)、茂木桔梗城主の鬼門除社として城の丑寅の方、字高藤山に創祀されたと言われている古社です。
国常立尊、国狭槌尊、豊斟渟尊の三神が祀ってあり、延喜式神社に列しています。
境内は県指定天然記念物である「荒橿神社のケヤキ」をはじめ、樹齢数百年のスギ、カシなどに囲まれ、夏でも薄暗くひやりとし、平安の神威をさそってくれます。
(環境省・栃木県)

石の鳥居
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参道は、一直線で両側に巨木が並んでいます。
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県指定天然記念物である大ケヤキ
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風格のある、堂々とした、拝殿の前の狛犬。
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拝殿
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本殿
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神紋は「菊」と「右三つ巴」ですね。
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何の倉でしょうか?
壁が全て木で、窓の造りが面白い。
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三重塔(阿弥陀堂)の初層のみが残っていた。
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これはどういうことなのか?
神社に阿弥陀堂、三重塔はおかしい。別当寺が廃仏希釈で無くなったのかな?

現地の説明板(平成2年茂木町教育委員会)には以下のようにあった。
荒橿神社三重塔(現阿弥陀堂):
この三重塔(現阿弥詑堂)の創建については、桔梗城が完成した元弘3年(1333)戦勝祈願のために「三階堂阿弥陀堂」を建立したという説があるが、それを確認できる資料的な裏付けは全くない 。
昭和63年阿弥陀堂詳細調査を行う。その結果、最も重要な上層の組上げ工法から、細部の様式に至るまで、下野西明寺三重塔(天文12年/1543)との共通点が多く、時期的な近さが感じられる。
さらに、本塔は全体として簡略化された部分が目立つことなどから、西明寺三重塔より若干時期が新しい可能性が強い。それを裏付けるものとして、阿弥陀堂に安置されていた阿弥陀像の体内に残された墨書に永禄7年(1564)銘があること等から、この阿弥陀堂の創建は永禄年間(1558-70)と推定しても良いであろう。
(以下略)

説明板に載っていた三重塔の図
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どうして壊れたのか、どうして壊されたのかはわからん・・・・・・?
そこにこだわったのは、一昨年に長野県佐久市臼田町にある、佐久一之宮・新海三社神社を訪れたときに、ちょっといい話を聞いていたからである。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-795.html

廃仏希釈で壊されたのなら残念だなと思い、家に帰ってから調べた。

そしたら、いろいろな事がわかってきた。

まず、入り口にある栃木県の説明ですが、
「大同元年(806年)に創祀された」はいいとして、
「茂木桔梗城主の鬼門除社として創られた」とあるのですが。

茂木桔梗城は築城年代は定かではないが建久年間(1190年~1199年)に茂木三郎知基によって築かれたと云われています。 茂木氏は八田知家が源頼朝より得た下野国茂木保の地頭職を三男知基に譲り、茂木氏を名乗ったことに始まる、と。
八田知家が建久3年(1192年)築城し、茂木氏と称した、と書いたものもあります。
これより早くに築かれたというものはありませんでした。
延喜式神名帖は、延喜5年(905年)に作業が始まり、延長5年(927年)発行なので、
延喜式に載るためには、これより早くに存在しなければなりません。

なので、わからないところがありますが、
「茂木桔梗城主が鬼門除社として信仰した」というのは確かでしょう。

阿弥陀堂が壊れたのに関しては、近くの古老の話を載せているサイトがありました。
それによると、戦後には初重の状態であった、その原因は杉の大木が倒れ塔を直撃したからである、
というものでした。
ともあれ、廃仏希釈で破却された、というような無残な話は見当たらなかったので、その点はホッとしている。

ここの次の、真岡市にある「大前神社」は次回記事とします。

(続く)


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廣瀬神社のアオバズク

20130616

6月1日に、今年もアオバズクがやって来たと、記事にしました。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1221.html

その後、もうペアになってるはずだと思いながら、ここんところ天気が悪くて行けなくて・・・・・
今日は午後から天気が良くなったので、夕方17時ころ見にいきました。

居ますね。肉眼だと、もうちょっと小さく見えます。
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寝てます(笑)
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地元の人に聞くと、もうペアになってるそうです。片方は巣穴に入ってるとのこと。
卵を温めているんですね。
漠然と、二羽並んでるところ見たいなと思ってましたが、それは無理ですよね、やはり。
片方が卵抱いてて、もう片方が見張ったり、エサ取ってきたり。

巣は、この木の真ん中辺。わかりますか?
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ズームします。これがうまい具合に樹が用意してくれた巣穴なんです。
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おっと、動きましたね。
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また寝ます(笑)
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あらら、こんどはしっかりこっちを見てますね。
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顔を掻きます。
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ずいぶんと尾を広げました。
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後ろを掻いたのか、後ろを見たのか。
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また眠そうな、半眼になったので、今日はサヨナラ・・・・・
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ちゃんとペアになったのを聞けたので、安心して、帰ってきました。





日光二荒山神社(山内)

20130616

日光二荒山神社・中宮祠からいろは坂を下って日光市内にある日光二荒山神社に移動しました。

駐車場でバスを降りてしばらく歩くと、入り口に金の神紋つきの大きな社標がそびえています。
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銅の大鳥居
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神門
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神門の袖垣もきれいです。
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神門を入ると広い境内に大きな拝殿がドーンと。
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ここで、こちらの本社関係をおさらい。
所在地が 栃木県日光市山内2307 となります。
日光山内(につこうさんない)という地名は、日光東照宮、日光山輪王寺、日光二荒山神社、家光廟大猷院(たいゆういん)のある一帯をさす。ニ荒山神社は日光束照宮の西奥に鎮座し、日光山内と呼ばれる日光の社寺のうちでは最奥に位置する。元は現在の別宮・本宮神社の地に鎮座しており、元和3年(1617)東照宮造営の際に現在地に移転し、社殿もー新され移転後は「新宮」と称された。現在の社殿はその時に造営された。
ニ荒山神社の創建は神護景雲元年(767)勝道上人が二荒山(男体山)の神を現在の本宮神社境内に勧請したのが始まりと伝えられている。延暦元年(782)には男体山頂に嗣(現在のニ荒山神社奥宮)を建立し二荒山修験道の基礎となり、以降神仏習合の形態となった。
弘仁11年(820)には空海が女峰山の祭神である田心姫命を勧請し滝尾権現を建立して遥拝所とし、嘉祥元年(848)には慈覚大師が日枝神社を滝尾権現境内に勧請した(後の新宮)。
その後、現在の本社の境内付近に二荒山神社を遷座し、本宮には太郎山の祭神である味耜高彦根命を勧請したことで、日光三山である男体山、女峯山、太郎山の祭神、大己貴命、田心姫命、味耜高彦根命をそれぞれ祀る二荒山神社本社、滝尾神社、本宮神社の日光三所が確立し、12世紀には神仏習合の形態がさらに強まり本地である千手観音、阿弥陀如来、馬頭観音が当てられた。
現在の日光二荒山神社本社本殿は元和5年(1619)、2代将軍徳川秀忠が造営したもので、単層入母屋(正面千鳥破風付)、銅瓦葺(元檜皮葺)、桁行11m、梁間12、軒唐破風向拝を付した安土桃山様式の八棟造りを採用した神社本殿建築の遺構として貴重な存在で周囲に付随する唐門・掖門・透塀・鳥居と共に国指定重要文化財に指定されている。拝殿は正保年間(1644~48)に建てられたと推定される建物で単層入母屋、銅瓦葺、桁行16m、梁間12m、日光に建てられた社殿建築の中では彫刻や文様が少なく採用している彩色の数も限定的なことが特徴で本殿同様に国指定重要文化財に指定されている。

明治元年の神仏分離によって明治4年に二荒山神社・東照宮・輪王寺の二社一寺に分離。一時衰退したが、明治6年に二荒山神社は国幣中社、東照宮は別格官幣社に列せられた。
現在は宗教法人二荒山神社として氏子約2万5000人、講社崇敬者3万人、日光市の総代として崇敬奉れている。

手水舎
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青竹を立てて、そこから水を出していて、実に清らかな感じで良かった。
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神楽殿
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日枝神社
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神輿舎には、三柱の祭神それぞれの神輿が安置されていた。
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大己貴命の神輿
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田心姫命の神輿
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味耜高彦根命の神輿
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大国殿(宝形造)
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その前に、お菓子の神様だという「大国田道間守(だいこくたじまもり)」の像が立っていた。
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大国殿内の祭陣
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大国殿の前に「円石」が置いてあった。
「人の心を丸く 角立てず おだやかに 生きれば 自然に 人は幸せになります」と書いてあった。
まったくです。
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銅灯篭(通称化灯篭(ばけとうろう)、重要文化財)
火を灯すと怪しげな姿に化けたといわれ、武士が刀で切りつけた傷が無数にある。
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刀の傷跡
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朋友神社(みともじんじゃ)、祭神は少名彦名命(すくなひこなのみこと)。
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向背の彫刻、荒々しい獅子。
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二荒霊泉、まろやかないい味でした。
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その前に奉納植えされていた「矢羽すすき」がきれいでした。
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清水比庵歌碑
「春風の 二荒のやまは おほらかに 雲井にそびえ またはかくるる」
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日光連山遥拝所というのがありました。
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男体山、女峯山、太郎山を模したものでした。
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「高天原」
春の例祭弥生祭の高天原神事で、本社・滝尾・本宮の三社の神輿が集まり、八乙女が二荒山神社に古くより伝わる御前神楽を奏する場所とのことでした。
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本殿を神苑より仰ぎます。
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安土桃山様式の八棟造りが美しいですね。
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拝殿に戻ってきました。
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この竹の飾り、いいですね。
京都の上加茂神社にある立砂がすごく好きなんですが、この竹の飾りはまた雅でいいです。
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拝殿内部
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あらためて拝殿と本殿を
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ご神木がものすごく多くて(笑)
ここで、まとめて紹介。
神門前にあった、「縁結びの御神木」
杉に楢のやどり木です。
神社の説明がユニーク(笑)
「すぎ(き)なら一緒に! 好きならばと一緒になりました」
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本社境内第一の巨杉、樹齢約700年。
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伝弘法大師御手植えの高野槇 樹齢約千年
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三本杉
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夫婦杉
上の方で、くっついてるところありますよね。
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親子杉
根を一つにした三本杉
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参拝が終り、今日の昼食をレストランでとるため歩いていく途中でみつけた草花。
日光は、珍しい植物も多いんですよね。
勉強不足ですが、掲載。

ユキノシタ
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花筏は、葉の中央に花が咲きますが、これは何という花なのか?
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これも名前不明。小さい花が咲いています。
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レストランに向かう道。日光のこういう道が好きです。
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昼食は、日光の「大名御膳」と云ったらおわかりと思います。
日光湯葉が、湯葉さしも含めて三点あり、これだけで満足。栗おこわも美味しかった(嬉)
大満足でした。

次の目的地、茂木町に向かうバスの中から、「神橋」をパチリ。
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日光二荒山神社に居るときは、既に雨はあがり、傘も不要で助かりました。
ただ、台風3号が熱帯性低気圧に変わって傍に居るので、空は見ていてすごかった。バスの中から雲を見ていて飽きなかった。

これは、厚い雲にポッカリ開いた青空。
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雨雲と白い雲のせめぎ合い(笑)
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次は「荒樫(橿)神社」です。

(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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二荒山神社中宮祠

20130615

昨日14日(金)に、歴史クラブの「関八州式内社勉強会」に参加しました。
前回まで三回上野国延喜式内社を廻り、今回から下野国延喜式内社となります。
第一回目は、「日光二荒山神社・中宮祠」、「日光二荒山神社・山内」、荒樫神社、大前神社を廻りました。
その最初の記事となります。
参加者は21名、中型バスをチャーターして、狭山市駅前を7:00に出発。
台風3号が襲来ということで気がもめましたが、熱帯性低気圧に変わり、天気予報は雨のち曇り。

中禅寺湖わきの、日光二荒山神社・中宮祠駐車場に着いたときは、まだ小雨がパラパラしていて、傘を片手の見学となりました。

中禅寺湖の上にも、まだ暑い雲が覆っていました。
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湖わきの銅鳥居から参拝を始めました。
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石段を上がったところで、振り返る。
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そこに水神の碑が。
中宮祠渡船組合が、湖の水神に感謝の誠を捧げ、安全を気祈願して大正10年に建立したもの。
祭神は「水波能売神」
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そこから石段を上がると「八脚門」
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八脚門をくぐると、広場に出ます。正面に唐門。
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ここで、日光二荒山神社・中宮祠について、おさらい。
中禅寺湖の北岸、男体山山麓の景勝の地に鎮座する神社で、参拝が困難な事から麓に中宮祠を建立。男体山の山頂にあるこ荒山神社奥宮と、ニ荒山神社本社の中間にあるので、中宮祠と呼ばれている。延暦3(784)年、日光山内にある勝道が山頂をきわめたあと、ここに二荒権現をまつる社殿を建てたのがはじまりである。
式内社(名神大社)論社、下野国一宮。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
正式名称は二荒山神社であるが、宇都宮市の二荒山神社(ふたあらやまじんじや)との区別のために地名を付して、「日光二荒山神社」と呼ばれる。

日光三山は男体山(なんたいさん)=古名を二荒山(ふたらさん)・女峰山(にょほうさん)・太郎山からなり、当社はそれぞれに神をあてて祀っている。
主神・大己貴命(おおなむち命・オオクニヌシ神・男体山の神)
妃神・田心姫命(たごりひめ命・女峰山の神)
子神・味耜高彦根命(あじすきたかひこね命・太郎山の神)

ニ荒の名も男体山と女峰山の二荒(ニ現)神をフタアラと呼んだのに由来するという。他に観音菩薩が住むとされる「補陀洛山(ふだらくさん)」が訛った説等があります。
ちなみに「ニ荒」を音読して「日光」の名を生んだとされています。

手水舎
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「幸の湖に魚を放ちたるの碑」
幸の湖は中禅寺湖の別名。明治のころ、それまで魚が住んでいなかった湖に宮司が魚を試しに放ったところ、育った。そのことを感謝する碑。
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唐門の前の狛犬。
境内には三組の狛犬が居るが、これが一番新しい。
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唐門
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唐門にも魚の装飾が
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唐門の透かしが美しい。左手が拝殿。
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唐門をくぐると、最初に「登拝門」に向かいました。
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ここの鳥居の神紋が何故か、他の場所の神紋と逆なんですね。
他の場所は全て「右三つ巴」なのに、ここだけ「左三つ巴」なんです。
(左、右の言い方は論争となっています。私は神社検定のテキストの説明どおりにしています。時計方向の右周りを「右三つ巴」としています)
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このことは、来る前からわかっていたので、その理由を宮司さんに尋ねました。
定説は無いそうです。
その上で、教えてくれたのは、
第一の説:江戸時代に出来たものは、全部「右三つ巴」。東照宮設営以来幕府の管理下になった。
第二の説:「登拝門」の向こうは「神域」なので、あそこだけ神域から見て正しく見えるように、向きを逆にした。

男体山大蛇御神像(愛称きんぴん大蛇)
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神社公式サイトの説明(ちと長い):
日本昔話に「戦場ヶ原の伝説」があります。むか~し、むかし、男体山の神が大蛇に変じ、赤城山の神がムカデに変じて領地争いを行ったといわれます。
赤城山のムカデに攻め寄られた時、弓の名手「猿丸」の加勢を受けて、男体山の大蛇はみごと赤城山の大ムカデを撃退し勝利しました。
戦いが行われた所を「戦場ヶ原」、血が流れた所を「赤沼」、勝負がついた所を「菖蒲ヶ浜」、勝利を祝い歌った所を「歌ヶ浜」、と言い奥日光の地名になっております。
負傷したムカデは退散して、弓矢を地面に刺したところ、湯が噴き出しその湯で傷を癒したので「老神温泉」と言われております。
大蛇を「オロチ」とも言いますが、「オ」は峰・「ロ」は助詞、「チ」は神霊を意味し、古代人は蛇のとぐろを巻いた姿が山に見えることから、オロチを山の神と称えたと言われます。
勝利した男体山の大蛇は「勝利」・「金運」の守護神とされます。
この由縁より黄金の大蛇にあらゆる願いを込め、特に金運がついて、ぴんぴん元気で過ごせます様に、祈りを込めて、愛称を「きんぴん大蛇」と名づけました。

登拝門前の狛犬。古式を感じさせる、いかめしさがいいですね。
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登拝門は、参拝するようになっていますが、ここから男体山に上る入山口でもあります。
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登拝門の中に入ると、登山道がはじまっています。
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「靴清め所」
古く、わらじを履いて登拝した頃は、神聖なる山の土を門の外に持ち出さぬよう、ここでわらじを履き替えていたとか。今は、ここで靴をきれいにして、降りることになっているそうです。
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登拝門を出て、本殿を拝す。
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本殿の彫刻がかわいい(笑)
タツノオトシゴの様な龍が顔をくっつけている。
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拝殿から本殿への回廊の外に狛犬が。昔は回廊が無く、本殿の前に居たのであろう。
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その横にある銅灯篭
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六面に可愛い獅子が
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本殿前の反対側の狛犬
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こちらのには角があるのだが、それが丸くてかわいい角だった(笑)
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樹齢1100年、栃木県天然記念物の「いちい」
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「さざれ石」 ここのは、だいぶ一体化が進んでいて岩になりかけていた。
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境内に七福神があるということで、こういうのは全部きちんと撮らないと気が済まない(笑)
全部撮りました。
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弁財天のところは、銭を洗えるようになっていた。
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牛石と巫女石
明治5年まで、中禅寺湖畔は「女人禁制・牛馬禁制」だったといいます。この禁を破った巫女は「巫女石」に、牛は「牛石」になったと云われています。
この話は、事前に手に入れていて、こういう話が私は大好きなので、この写真を撮るのを楽しみにしていました。
ところが、在る場所を事前にきちんと調べておかなかったのが間違いのもとでした(泣)
まず、銅鳥居から上がったところに「牛石」が。
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ここにあった説明では、「明治以後いつの間にか無くなってしまっていたものを、人々の努力で復元したもの」との神社の説明がありました。

それで「巫女石」はどこにあるかと、宮司さんに教えてもらい、「日光二荒山神社・中宮祠」から「日光二荒山神社・山内」に移動するときに、バスを止めてもらい撮影しました。
場所は一の鳥居でした。
私の聞き方が悪かったのでしょう。
「あれれ。これも牛石?!」
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ここの栃木県の説明では、「この辺を道路工事したときに出てきた石で、無くなってしまっていた牛石の顔の部分とみられる」とありました。

現在「牛石」は2つあるわけです。銅鳥居から上がったところと、一の鳥居の脇。

混乱している私の頭。バスが動き出して、また大きな鳥居があり、そこに石があるのがチラッと見えました。
が、またバスを止める勇気は私には無かった(苦笑)

家に帰ってから調べると、その鳥居は「大鳥居」と呼ばれているもので、そこにあるのがまさにチラッと拝見した巫女石でした。
この写真は、他所でいただいたものです。
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また、あっちに行ったときに、自分でも写真を撮ろうと、楽しみに待つことにしました。

次回は「日光二荒山神社・山内」からの記事になります。

(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html



ブラッシング・ノックアウト

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系統: F フロリバンダ・ローズ(シュラブ)
作出: 2004年 アメリカ J.M.Bell
交配親: ノックアウトの枝代わり
咲き方: 四季咲き
花の大きさ: 中輪7~8cm
芳香の強さ: 微香

淡いピンクの花が株を覆っています。説明によると春から晩秋まで次々と花を上げてくるようです。
花色はやや変化するようですね。
半八重咲きで、可愛らしいチューリップみたいな花の形と、甘いピンクがいいですね。

ノックアウトも人気があるようですが、私はまだお目にかかっておりません。
いつか、どこかでまみえるのを楽しみにしましょう。


2013年5月22日 谷津バラ園にて


地域の歴史と文化を子供たちに語る/学校支援ボランティア

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昨日、担当する柏原小学校の6年生に、「柏原の歴史・文化にふれよう-お話を聞く会」を実施しました。
三年前から始まった企画で、社会の時間2時限を使って行います。
去年からコーディネーターの私が窓口になり、私もメンバーでもある「狭山歴史ガイドの会」の協力で行っています。

二部構成で、一部では生徒101人全員を対象に15分「柏原の歴史についての概要」を話しました。
ガイドの会の会長さんとか、班長さんにお願いしようとしたら、「柏原に住んでるアンタがやらなくてどうする」と押し切られて、今年は私が話すハメになりました。

話したのは、以下の話を子供向けにわかりやすく話しました。

1.歴史から生き方を学ぶ。
「東日本大震災」での原発事故の放射能で、多くの人が被害。
関係者は「想定外」と云ったが、普段歴史に関心があった人は首をかしげた。
というのは、平安時代に発生した「貞観地震」というのが今回の場所に近く、やはり巨大な津波が発生していたから。しかし、原子力関係者は「具体的なデータが無いからよくわからない」として、その地震が無かったかのように無視してしまった。
一方で、こういう事もあった。
その昔の津波のときに、ここまで津波が来たと石碑を置いて、そこより下には家を建てなかった。
海岸から遠くなるけど高いところに住んで海辺に通って仕事したり漁に出たりしていた。
今回の津波のときには、大きな地震のあとには津波が来るぞと、子供たちも聞かされていたので、おじいちゃん、おばあちゃん逃げようと云って、子供たちがお年寄りを助けて避難して、死んだ人は一人も居なかったという地域があった。
とても、素晴らしいことです。
「伝承」といいますが、昔からの言い伝えを大事にして、暮らし方や生き方の参考にしていきましょう。
2.柏原の縄文時代
柏原には24もの遺跡が見つかっている。
柏原が住み易かった。
入間川という大きな川が近いので、そこで魚や貝が取れて、高台なので入間川が氾濫しても安全だった。
智光山公園のところで大量の湧水が出ていて、それが柏原のほうに流れてきていた。
生活するのに必要なきれいな水があった。
遺跡のへんの畑のわきを歩いていると、今でも縄文土器のかけらが拾える。
私も、こんなふうに拾ったものを、持っています。
小さなカケラだが、5000年前の人が作って使っていたものだと思うと、とても不思議な気がする。
「勝坂式土器」とか「加曾利式土器」とか貴重なものが発見されている。
3.中世の「城山砦」に関する話
最初に出てくる名前は「柏原太郎」。
鎌倉幕府を開いた源頼朝の家来で「畠山重忠」という有名な人がいる。
源頼朝が東北を攻めたときに、畠山重忠の名前と一緒に「柏原太郎」の名前が書かれている。
この人が最初に城山砦を作ったと思われている。
それから、天文14年(1545年)、467年前、それまで関東を納めていた上杉氏と、小田原から勢力を広げてきた北条氏の勢力争いの戦があった。
川越城をめぐる戦いのときに、大将の上杉憲政(のりまさ)が城山砦に陣を敷いた。
なので、ここを「上杉砦」とも言う。
残念ながら「川越夜戦」で上杉がたは敗れ、越後に落ちていった。
越後では上杉謙信が出て武田信玄と川中島の戦いなどをする。
上杉謙信の先祖が城山砦に陣を構えたことがあったというわけです。
4.この頃の柏原の産業
鉄を鍛えて主に武器を作っていた。槍や刀を作っていた。
大和郡山から、甲冑師の明珍家系の人が招聘されて槍鍛冶を始めたのがはじまり。
入間川で良質な砂鉄が採れた。
鋳物師といって鉄の鋳物でいろいろな製品を作る人もいた。
5.江戸時代の生活
柏原のお百姓さんは、貧しかったんでしょうか?
いろいろな文書で、柏原ではちゃんと朝も夕もお米を食べていたことがわかっている。
これは当時としては豊かだった証拠。
柏原には、よみ・書き・そろばんを教える寺子屋という学校が3つあった。
柏原は豊かだったようですから、子供の80%くらいは寺子屋で勉強していた。
同じころイギリスのロンドンだと、10%だと云います。
日本はすごかった。
江戸時代は、とてもリサイクルが上手な社会でした。
植物の利用が徹底していました。
藁で何を作っていたか? あげてみましょうか。
蓑(雨具)、ぞうり、米俵、肥料、屋根の材料、土に混ぜて壁の材料、畳、ムシロ、縄、飼葉(牛や馬)
竹で何を作っていたでしょう?
ざる、ホウキ、熊手、かご、傘、竹の皮でくるむ、遊び道具、楽器
和紙(木の繊維)、服の材料(絹、木綿、麻など)
こういうものは、駄目になったら、土の上に捨てておけば、自然に土になります。燃やせば灰は、肥料に役立ったりします。
柏原でも、狭山市全体でも雑木林は、いま人気がある。
あの雑木林は、自然に昔からあったものではありません。
江戸時代に、ここに住む人が作り上げたもの。
薪をとって燃料にしました。落ち葉も燃やして燃料にしたり、落ち葉を集めて堆肥(肥やし)にしました。燃やした灰を畑に撒くと、アルカリ性のものだから土が中和されて、作物が良く取れるようになる。
栗の樹が生えていれば、栗ごはんになるし。きのこも生えてくるし。
だから、全部を畑にしないで雑木林を作った。

現在の私たちが参考にすることが江戸時代にはたくさんあります。
いま環境問題という言葉がニュースなどでよく言われます。
実は、環境を大切にしようという法律が、世界で一番最初に出されたのが日本です。
これも江戸時代なんですね。寛文(かんぶん)6年(1666年)に出された「諸国山川掟」というものです。

時間の関係で、このくらいにしますが、歴史を勉強すると、自分たちの生き方にとても参考になるので、ぜひ興味を持ってください。


二部は、体育館の中で7つの場所に分かれて、並行進行でお話をしました。
今年は「予習タイプ」ということで、生徒は学校に置いてある本で勉強し、現地に行って観察し、インターネットで調べて、結果わからないこと、疑問なことを、質問集として出してきました。
こちらはあらかじめもらってあるので、それを組み込んでお話をしました。本でもインターネットでも書かれているのが大人向けなので、子供たちはやはりあまりわかっていません。

お話は、休憩を挟んで同じことを二回繰り返すので、子供たちは聞きたいテーマを二つ聞くことができます。
話は以下の7つのテーマでした。
私も一つ受け持ちました。
ア)上宿の庚申塔と下宿の馬頭観音について
イ)西浄寺のねずみの図と大六天の碑・大山灯篭
ウ)城山砦跡
エ)常楽寺の七観音と大水正金の槍および五百年碑
オ)永代寺の本尊、不動明王および霊場巡拝供養塔など
カ)影隠し地蔵と円光寺のお地蔵さん
キ)白髭神社の子返しの図、御正体、韋駄天の図、柏原祇園囃子

子供は行きたいところに行けるので、人気・不人気がありましたね。
30人くらいあつまったところと、10人くらいのところ。
お寺にあった河鍋暁斎の「ねずみの図」とか、神社の絵馬で「子返しの図」、「韋駄天の図」とか絵は人気がありました。石仏は、お地蔵さんはかろうじてまあまあ。それ以外の石仏は振るいませんでしたね。

話をしながら見ていると、グループの中で熱心に聞いている子もいれば、そうでない子もいます。
それでも、その子たちが何かを得てくれれば嬉しい。

今思っていることは、狭山市内でもこういう事をやっている学校がまだまだ少ないので、
他の学校にも展開していくよう努力したい。


小説 上杉鷹山/童門冬二

20130611

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あらすじ:
数日前、治憲は米沢藩の藩主の座を相続した。まだ十七才の青年藩主である。
だが、米沢藩は困窮に喘いでいた。借金を頼みに行った色部照長は不首尾に終わったことを告げた。そして、一つだけ策があるという。それは藩を幕府に返上することである。それ程までに追詰められていた。
米沢はもともと、藩祖・上杉景勝の家臣・直江兼続の領地であった。景勝は家来の国に転がり込んだのだ。そのとき、所領が減ったにもかかわらず、家臣の人員整理を行わなかった。
そして、ここでも悪役吉良上野介が登場するのである(笑)
自分の子供を養子としてこの藩に送り込んだ吉良上野介は、息子が藩の人間にバカにされないように給与の大盤振る舞いをさせるのである。
しかも他の藩にもバカにされるな、と外交費をじゃんじゃん使わせる。外で使わせたら中でも使うようになるのは当たり前。
その結果、米沢藩は収入の約九割が人件費として支出される異常な状態になってしまっていた。
だが、治憲は藩を返上しないことを決意した。そのつもりがあるのなら、一度改革を断行してみてからでも遅くないと思った。
そこで、小姓の佐藤文四郎に命じて人物を探させた。そして佐藤文四郎が持ってきたのは、竹俣当綱、莅戸善政、木村高広、藁科松柏らである。これは治憲が注目していたのと一致していた。
物語は、これらの人の改革の話もさることながら、佐藤文四郎が中心で進んでいく。
十九の時に治憲が始めて米沢に入国する。その途中で治憲は炭の中の種火をみて、近習達を呼び、この種火のようにお前達は改革の火種となってくれと頼む。そしてその場で、種火から炭に火が移され皆に手渡された。
この種火が改革のシンボルとなる。
米沢に入国した治憲は竹俣当綱を執政に、莅戸善政を奉行に任命し本国での改革を始める。
治憲は米沢藩の殖産を竹俣らに命じる。
重臣達が妨害をし、両者の対立は決定的となったて、重臣達は治憲追い出しを企む。だが、先代藩主・重定のおかげで命拾いをし、この事件に関わった重臣達には厳罰が言い渡された。
藩政に落ち着きが戻り、改革が進む。そのなかで人物養成のために治憲は学校を作ることを決断する。学校は興譲館と名付けられた。

そして、治憲はいつまでも自分を頼っていては人が育たないと思い、思い切って若くして隠居するのだが・・・・
すぐに改革は後戻りしてしまう。人間て弱いものなんですよね。
そして再登板。

小説の最後のほうで、棒杭についたザルにおにぎりとか旅に必要なものが入っていて、お金をいれてそれを取る“棒杭の商い”というのが出てきます。鷹山の考えが下々まで行き渡り、たとえ棒杭に対しても嘘はつかないようになったのだと、鷹山の部下が鷹山に語る件があります。

この商い、今も無人の野菜売り場の形で畑の近くで、ほうぼうで見られます。
ある程度みんな豊かになってるから、成り立っているんでしよう。
売れた野菜の数と缶に入ってるお金が合わないのは、どこの無人売り場でも共通の問題だと聞いたことがあります。
これは、貧しくてやるんじゃなくて、現代人の心が荒んでいるからだと思う。

童門冬二は、人民への「愛」の心を基礎にした改革ゆえに、鷹山による藩政改革は、幕府による寛政の改革(松平定信)、天保の改革(水野忠邦)とは異なり、成功したとしている。

現代の視点からも、彼がその跡継ぎ(養子)治広に伝えた「伝国の辞」は、おそらく孟子の影響を受けているのだろうが、単なる美辞麗句ではなく、実績と関連して考えるとき、その開明性、啓蒙性は時代を大きく先んじている。

一.国家は、先祖から子孫に伝えられるもので、決して私すべきものではないこと
一.人民は国家に属するもので決して私してはならないこと
一. 国家人民のために立ちたる君であって、君のために人民があるのではないこと

これを突き付けてやりたい人が、たくさん居ますねえ・・・・・・・・・・(ハァ)


佐村河内 守/交響曲第1番「HIROSHIMA」

20130610

ここ数日、実は佐村河内守の作曲ではなく、ゴーストライターが作曲していたということで大騒ぎになっています。
昨日、ゴーストライター氏が会見したので、やはり事実かと。
そして、全聾ではないとも発言がありました。
非常にガックリきています。
この記事を消そうと思いましたが、
【こういうこともあるのだ】と、しばらく置いておこうと思います。
(2014.2.7 追記)




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指揮:大友直人
演奏:東京交響楽団
録音:2011年4月11~12日 パルテノン多摩 大ホール

このCDは、以前クラシックの記事がとても多い頃に、私の記事に対するコメントでこの曲がすごいと教えてくださる人が居ました。それまで私は全然知らなくて「さむら・かわちのかみ」、ずいぶん大仰な名前だなあ、なんて(笑)
「河内守」なんて名前があるわけはないのに、そう読んでしまったのですね。
それで、とにかくCDを買ったのが2011年の8月末でした。凄く良い曲でビックリしました。

その後、2012年2月号の「レコード芸術」誌での「リーダース・チョイス~読者が選んだ2011年ベスト・ディスク30」にて、このCDが堂々15位となっていました。ベートヴェン、ブラームス、マーラーなど並み居る大作曲家たちと並んで、しかも発表されて間もない曲が入ったのです。まだ生存している人が、しかも日本人がですから、いかに皆さんから佐村河内守さんが支持されているかがわかります。
今や大変な人気です。NHKのTV番組でも私の知るだけでも3回取り上げられています。
最近の番組に対して、記事も書きました。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1179.html

この記事のなかで、「レコード芸術」誌の記事を読んでCDを購入したと書きましたが、これは記憶違いでした。
CDジャケットの写真をスキャナーで取り込んだのが、2011年9月2日になってますから。

「交響曲第一番」を、ベートーヴェンを皮切りに好きな作曲家のものをずっと取り上げてきましたが、「締め」にこの曲を取り上げる次第です。

佐村河内守(さむらごうち・まもる 1963年9月21日~) という人は、大変気の毒な人です。
被爆者を両親として広島に生まれる。4歳から母親よりピアノの英才教育を受け、10歳でベートーヴェンやバッハを弾きこなし「もう教えることはない」と母親から告げられ、以降、作曲家を志望。中高生時代は音楽求道に邁進し、楽式論、和声法、対位法、楽器法、管弦楽法などを独学。17歳のと き、原因不明の偏頭痛や聴覚障害を発症。
高校卒業後は、現代音楽の作曲法を嫌って音楽大学には進まず、独学で作曲を学ぶ。
1988年、ロック歌手として誘いを受けたが、弟の不慮の事故死を理由に辞退。聴力の低下を隠しながらの困難な生活が続く中、映画『秋桜』、ゲー ム『バイオハザード』等の音楽を手掛ける。1999年、ゲームソフト『鬼武者』の音楽「交響組曲ライジング・サン」で脚光を浴びるが、この作品に 着手する直前に完全に聴力を失い全聾となっていた。抑鬱神経症、不安神経症、常にボイラー室に閉じ込められているかのような轟音が頭に鳴り止まな い頭鳴症、耳鳴り発作、重度の腱鞘炎などに苦しみつつ、絶対音感を頼りに作曲を続ける。
2000年、それまでに書き上げた12番までの交響曲を全て破棄し、全聾以降あえて一から新たに交響曲の作曲を開始。同年から障害児のための施設 にてボランティアでピアノを教える。この施設の女児の一人は、交響曲第1番の作曲にあたり佐村河内に霊感を与え、この作品の被献呈者となった。 2003年秋、『交響曲第1番《HIROSHIMA》』を完成。

私は、広島の原爆ドームほか、悲惨な遺跡を初めて見たときの衝撃はいまでも忘れられません。
佐村河内さんは被爆2世ということなのですが、現在も全聾の障害以外にも苦しんでいらっしゃいます。
光を浴びることで偏頭痛や耳鳴りの発作が誘発されるため、自宅では暗室に籠り、外出時には光を避けるためのつばの広い帽子とサングラスを着用することを余儀なくされているとのことです。

この曲は、2008年9月1日、広島市の広島厚生年金会館ホールで行なわれた「G8議長サミット記念コンサート〜ヒロシマのメッセージを世界に〜」にて第1楽章と第3楽章が広島交響楽団により世界初演されました。
全曲版の初演は2010年8月14日、秋山和慶指揮の京都市交響楽団により、京都コンサートホールで演奏されたそうです。

このCDの録音の時にもドラマがあったそうです。録音にあたられた音楽プロデューサー岡野博行さんのホームページから、抜粋を転載します。
*****
2楽章を無事録り終え、最後の1時間は、3楽章に当てられました。25分を越える長い楽章ですが、できるだけ音楽の流れを重視するため、一度は通して録っておこうということになりました。演奏が始まると、オーケストラも大友さんもすさまじい集中力で、この難曲を、ほとんど乱れもなく、鳥肌が立つような素晴らしい演奏で進んでいきます。そしていよいよ最後のクライマックス、というところで事件がおきました。17時16分、3月11日以来、最大級の余震が起きたのです。マグニチュード7.0、福島周辺での震度は6弱。もちろんそのときはそこまでの情報はなかったのですが、会場のパルテノン多摩も大きく揺れ、マイクも、そして天井の反響板も大きく揺れ出しました。音楽は、いったん集中力が切れると、次になかなかいいテイクは生まれません。この素晴らしい演奏が止まらないで最後まで行ってくれ!と祈るような気持ちでした。オーケストラのメンバーの方たちも、当然揺れは感じているものの、ここは行くしかないという感じで、緊張感が途切れず、最後の大クレッシェンドに突き進み、3楽章は終わりました。
終わった後は、しばらく放心状態で、大友さんも、「今日はもうエネルギーを出し切ってしまったから、ここで終わりにしましょう」という提案。予定より30分ほど早く、1日目は終了になりました。この奇跡的なテイクは、心配されたノイズもなく、最終的なCDに、ほぼそのまま使っています。
*****

佐村河内さんがこの曲を完成できたエピソードもあります。
盲児のための施設にてボランティアでピアノを教えことで知り合った盲目運命を背負った「しお」という少女。
彼女との出会い、真の心の交流から、強いインスピレーションをえて、これまで何度も挫折していた交響曲に取り組むこととなった・・・・。
ということで、この作品の献呈者となっています。

作曲者自身のコメントによれば第1楽章「運命」、第2楽章「絶望」、第3楽章「希望」がテーマになっています。
第1楽章序奏は「Andante tenebroso」の陰鬱なティンパニーの打音がこれからの「悲劇性」を予感させる。
楽章の演奏時間では「第2楽章」が最も長くこのCDの演奏では35分弱を要し「第1楽章」の様々の動機も増幅されながらテーマの「絶望感」の境地が伝わってくる。
第3楽章ー「Allegro molto tempestoso(嵐のように極めて速く)」に入るとまだしばらく「悲劇性」は持続され「レクイエム」の「怒りの日」をイメージさせるが楽章後半部は雲間から「希望の光」がさし始める。そしてコーダへと向かう美しい弦の響きが「平和」への祈りを捧げるかのようにカリヨンとともにマーラー風に高々と歌いあげられ劇的に幕がおろされる。

各楽章とも「調性」がとられているので聴きやすいですね。
ショスタコービッチやマーラーの香りを感じる大編成の効果的な展開と、そのメロディの美しさに感銘を受けました。
いわゆる現代作品の聴きにくい、とっつきにくさは全くありません。

「絶望」を表す第2楽章でさえ、けっして全否定ではないように思いました。第3楽章の「希望」は、ベートーヴェンの交響曲のように喜び歌い上げられるものではありませんが、圧倒的な「絶望」から最後に希望の鐘が鳴り響くところまで、傷だらけになって血を流しながら、それでも絶望のなかからみずからもがき出てくる、そんなものを感じさせられました。希望の音楽でもあると思います。

HIROSHIMAという表題を抜きにしても、クラシック音楽の1つの交響曲作品として、文字どおりマーラーやショスタコーヴィチに続いていく、すばらしい作品だと思います。


ブラスバンド

20130609

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系 統: F フロリバンダ
作出年: 1993年  
作出国:  アメリカ
作出者:  Jack E. Christensen
花 色:   杏黄色
花 径: 中輪
香 り:    微香
開花性:  四季咲き

1995年AARS受賞。

微妙な花色の花をたくさん咲かせます。
気温の低いうちの一番花は暖かい橙色で、高温になる二番花はすっきりした杏色の花色になるようです。

大輪の花を咲かせていますが、それとは対照的にとても繊細な雰囲気も感じられる素敵なバラです。

バラ園でたくさんの薔薇を撮っていると、少ない色の薔薇、オレンジなんかに惹かれることがあります。
薔薇の花言葉で、赤いバラはおなじみ、黄色のバラはあまり良い意味ではありません。
オレンジはどうかな、と調べてみました。
こういう花言葉でした。
~気さくで気取らないあなたにぴったり~
すこやか ・ 無邪気 ・ 愛嬌 ・ 爽やか・信頼 ・ 絆


2013年5月22日 谷津バラ園にて


KITTEガーデンと東京駅

20130607

4日(火)の江戸城濠と御門を一周したあと、東京駅に来ました。
目的は、いま旬の「KITTEガーデン」から東京駅を見よう、というのでした。

東京駅にきました。
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中央郵便局をちょっとのぞいてから、「KITTE」に入ります。
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これが6階の「KITTEガーデン」
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東京駅を、ほんとに間近から見下ろすことが出来るんですね。
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これは、実用? 飾り?
昔は実用だったのかな。
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丸の内南口、人が出入りしています。
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テラスは長いので、東京駅建物の南端まできました。
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ここの位置からだと列車の発着がよく見えます。

東海道新幹線
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東北・上越・長野のどちらか新幹線。車両に詳しくないので(汗)
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これは何線?
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山手線
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歴史グループ行事としては、ここで解散となりましたが、私はもうちょっと、中をブラブラしました。
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エスカレーターで降りているときに「旧東京郵便局長室」との案内があったので、寄ってみました。
4階にありました。
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室内には、家具調度はなく写真の展示がされていました。
旧東京郵便局長室の写真
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柱と天井は復元したものらしい。
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ここからも東京駅が間近に見れます。
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昭和4年の、東京郵便局工事の写真パネルが置いてありました。

向こうは、当時の丸ビルですね。
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当時の東京駅がわかります。
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1階まで降りてきたので、カミさんにお土産を探しました。
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桂新堂というお店で、夏向けのエビせんのセット「夏きらり」というのを購入。
この写真は桂新堂のサイトからダウンロードしたものです。
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これは、カミさんにバカうけでしたね(嬉)

それから、東京駅を上から撮ったので、地上からの写真も撮りました。
全景は一枚では収まりません。
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東京駅に近づいて撮ります。
丸の内南口
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丸の内口
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これは何のデザインなのかわからないが、素敵ですね。
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丸の内口の駅名板
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丸の内北口
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(了)


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江戸城の濠と御門を巡る(2)

20130606

4日(火)に歴史クラブの企画で歩いてきましたが、その後半の記事です。
北の丸公園出口から、陸橋で道路を渡ります。
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陸橋の上から眺めて、この道の左側、白いタワーがある手前の辺が「アクア」だな、なんて見た。
「アクア」というのは、国立近代美術館のレストランで、道路側からレストランだけ利用できます。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-583.html

陸橋を渡ったところにある北詰橋門(きたはねばしもん)から入ります。
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北桔橋門は、本丸大奥に近い門で、外との出入りに使った門です。
江戸城本丸防御の為に、橋をはねあげて遮断していました。高麗門形式で小ぶりですが、扉など重装です。
堀も深くなっています。

北桔橋門に向って左側が平川濠
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北桔橋門に向って右側が乾濠
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意外と頑丈な門
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北桔橋門から入ると目の前に天主台がドーーンと。
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天主台上り口のほうにきました。
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江戸城の天守は、慶長11年(1606)の家康、元和8年(1622)の秀忠、寛永15年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であったともいえます。
 慶長の天守は、現在より南の富士見多聞のあたりに位置していたと考えられます。5層の天守の高さは、国会議事堂とほぼ同じくらいだったといわれています。
 元和・寛永の天守は、現在の天守台とほぼ同じ位置にありました。
 元和の天守は元和8年(1622)、2代将軍秀忠の本丸海造の際、慶長の天守を撤去して新しく建てたもので、翌9年に完成し、高さは慶長の天守を上回っていたといわれています。
 寛永の天守は、寛永15年(1638)、3代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので、「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣でした。

 この寛永の天守は、明暦3年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれます。これが現在残る天守台ですが、四代将軍綱吉の叔父である保科正之の戦国の世の象徴である天守閣は時代遅れであり、城下の復興を優先すべきであるとの提言により、以後天守閣は再建されることはありませんでした。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っています。

この天主台については、「われに千里の思いあり(下巻・名君・前田綱紀)/中村彰彦」に詳しく書かれています。
三代目利常と五代目綱利は、この工事を当時も評判となった立派な仕事をします。
(四代目光高が急死し、利常が隠居の身から再度綱利を補佐していた)
その天主台が完成し、将軍家綱が検分した際のこと、家綱を案内した綱利は、梯子に乗る前にわらじと足袋を脱いではだしになった。将軍を先導するのに、土足で梯子を汚してはならないと思ったからである。「さすがに加賀百万石の当主だけのことはある」と老中たちの間で評判になった。
この立派な天主台の上に天守閣は、ついに建たなかった。
それは保科正之と松平信綱が、すでに徳川政権が安定した今、無用の出費をするべきではないと、しかし角が立たないよう、「当分見合わせる」という言い方で処したためである。
保科正之の見事な政治を傍で見ていた利常は、前田藩を託すのは保科正之と狙いを定め、見事保科正之の娘を綱利の妻に迎えることを実現、家綱からの許しを得る。
綱利改め、綱紀は保科正之のよき弟子となり、徳川政権のなかで前田120万石を幕末まで保たせた基礎をしっかりと作った。

汐見坂を下ります。
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汐見坂のわきの濠は「白鳥濠」といいます。
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江戸時代はじめの江戸城では、本丸と東側の二の丸との間には掘が南北に造られていました。
しかし、明暦の大火後の本丸の拡張に伴い、白鳥堀の部分を除き堀の大部分が埋め立てられました。家光が最初に造営した二の丸御殿では、白鳥堀の中に能舞台が造られていて、御殿から能を鑑賞することができました。
白鳥堀には「財宝伝説」があるそうです。それは、明暦の大火の際に、本丸から金銀財宝を放り込んだのに違いないという伝説だそうです。
また、この白鳥堀は独立した堀となっていて、水が流れ込む流路がありません。しかし、堀には豊かな水量があります。この堀の水源はほとんどが湧き水だそうです。

梅林坂と汐見坂の間の石垣は、平成14年から平成17年にかけて修復されました。
この石垣の下からは、紅葉山に移転した東照宮の遺構が見つかり、また明暦の大火の際の大量のがれきも見つかりました。
ここにあった東照宮は、元和4年(1618)に紅葉山に創建された東照宮が本丸天守台下に分祀され、さらに寛永14年(1637)にここに移されたものです。
また、寛永20年の二の丸御殿造営の時にも北東の位置に東照宮が造営されていて、一時期江戸城には3つの東照宮がありました。
これらは、貞応3年(1654)に紅葉山東照宮が造り変えるときに統合されて、再び一か所となりました。

ここの石垣も火災などで傷んだものは新しい石と交換されました。
石材は昔と同じ東伊豆産の安山岩を使っていますが、長年の風雨にさらされたものと新しい石材とはやはり表面の色が異なり、取り替えた方が白っぽくなっています。
白い交換された石は汐見坂の側に多くなっています。これは火災などで焼けて傷んだ石が汐見坂の側に多かったためのようです。

修復工事の様子が掲示されていました。
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やはり、白い石がわかりますね。
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梅林坂と汐見坂の間の石垣全景
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梅林坂から平川門に出てきました。
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平川濠には、のんびりカワウが休んでいた。
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平川門
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平川門の枡形には、内堀(大手堀)に出る正規の高麗門とは反対側に、もう一つ高麗門がある。
帯曲輪門と云うらしいですが不浄門とする解説が多くあります。ここを出ると、大手堀と平川堀とを仕切る細長い帯曲輪が北西の竹橋門方向へ続いている。このルートが大奥の通用門で、またここから城内の死者を運び出したので不浄門とも呼ばれている。ここを生きてくぐったのは、絵島と浅野内匠頭の2人だけらしい。

一方、大手堀を渡る平川橋と正規の高麗門は御三卿(田安・清水・一橋)の登城門であった。現在は、ここも大手門・北桔橋門とともに、年末年始をのぞき一般に開放されている皇居東御苑の入口の一つになっている。
渡櫓門の櫓部は関東大震災で大破したがのちに復元された。また、高麗門は橋に正対していないのが特徴である。

渡櫓門から見える平川濠の石垣で、ずいぶん白い石が多いのが見える。修復の跡でしょう。
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渡櫓門
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渡櫓門を出て左側にある、大奥の通用門だった帯曲輪門
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これが正規の高麗門
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平川橋
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平川橋は、平川門の前のお濠に架けられている木橋です。現在の江戸城の木橋は、この平川橋と和田倉橋の二つになってしまいました。
平川橋には擬宝珠(ぎぼし)があり、江戸のおもかげを残してくれています。
ここにある擬宝珠はすべて江戸時代のもので、擬宝珠が製作された慶長19年と寛永元年という年と職人の名前が刻まれています。平川橋の擬宝珠はすべてで10個あります。
しかし、この擬宝珠が元はどこの橋のものであったかはわからないそうです。
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平川橋からの大手濠、国立近代美術館方面
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平川橋を振り返る
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大手濠緑地というそうですが、そこに紀元二千六百年(皇紀)記念の和気清麻呂像がありました。
今のカレンダーでいうと、1940年(昭和15年)だそうです。
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「震災大いちょう」というのも近くにありました。
関東大震災による火災から焼失を免れたことから、この名称が付けられている。
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大手濠の突き当たりに、大手門の入り口が望まれます。
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大手門
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江戸城の正門で、ここから諸大名は登城し三の丸に入った。彼らも二の丸濠を渡る下乗橋前で駕籠を降り、大手三の門、中の門、書院門(中雀門)へて本丸玄関前に至った。
江戸時代も火災・震災のたびに再建されてきた。1923年の関東大震災でも大破、2年後に渡櫓を解体し両側の石垣を築き直す大修理が行われた。太平洋戦争末期の1945年4月13日、渡櫓は全焼。1965~67年にかけて復元工事を行った。一方、高麗門はほぼ江戸時代の様子をとどめている。
現在は、年末年始をのぞき一般に開放されている皇居東御苑(旧本丸・二の丸にあたる)の入口の一つとして誰でもくぐれるようになっている。

高麗門の前にたたずむ美女二人。皇居のまわりはやはり外人さんが多い。
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渡櫓門
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渡櫓門の鯱
大手門の渡櫓 (わたりやぐら) の屋根で、睨みをきかせている鯱 (しゃち) です。江戸中を焼き尽くした明暦の大火 (1657年) で前のものが焼失してしまったため、その後すぐに作られたものだそうです。
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現在ある渡櫓と鯱は、戦災の後に復元されたものです。
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渡櫓門の前にあった碑
「大手門渡櫓復元昭和四十一年十月竣工宮内庁」とありました。
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大手門を振り返ります。こちらの濠は「桔梗濠」となります。
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白鳥を望遠で。
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巽櫓(たつみやぐら)まで来ました。
桜田櫓とも巽櫓ともいわれる。江戸城に残る唯一の隅櫓で、その姿は美しく濠に映えています。魯の中には有事に備えて、鉄砲・弓・長柄・持筒などが保管されていました。白亜漆喰総塗込めで横に二条の線があり、出窓状の突き出しが石落としで、弓や鉄砲を撃つ狭間があります。江戸城にはこのような二層または三層の櫓が20基もありましたが、今では富士見櫓・伏見櫓の三基が残っているだけです。皇居参観や観光で訪れる人に最初に目に入るのがこの桜田櫓であり、江戸城のシンボルになっています。この櫓の左手に桔梗門があります。

巽櫓から桔梗門(内桜田門)を望む。
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桔梗門
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この門は二の丸、三の丸に入る南門で,幕府の要職者が登下乗する門であり、大門六門の一つとして厳重に警備され、門外に下馬札があり、供の者が控えていた場所で、藩主を待つ間の噂話から「下馬評」という言葉が生まれました。
門名の由来は、道灌の桔梗紋が屋根瓦に残っていたので桔梗門になったという説や,道灌時代の泊船亭はこの辺りで、船で各大名がここから帰郷したので「帰郷」が「桔梗」になったという説があります。

桔梗門から巽櫓を望む。
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桔梗門前の広場は、閑散としています。
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おまわりさんも、のんびりムード。
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ここから東京駅に向かいましたが、巽櫓をもう一度る
石落としがよくわかります。
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「馬場先濠」を渡ります。
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郵船ビルディングの皇居側角にトロフィー型の碑がありました。どういうものか調べましたがわからなかった。
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東京駅に到着。
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この日は、最後に「旧東京中央郵便局」跡地に再開発された 「JPタワー」の6階にある「KITTEガーデン」テラスから東京駅を眺めようという企画がありました。
とても良い眺めで、楽しかったです。

それを次回報告。

(続く)


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江戸城の濠と御門を巡る(1)

20130605

昨日、4日(火)に歴史クラブの企画で歩いてきました。
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図で一番下の外桜田御門から歩き出して、時計回りに内桜田御門(桔梗門)まで回りました。

地下鉄「桜田門」駅から地上に出ると外桜田御門の前です。
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外桜田御門は工事中で、どんな門かほとんどわかりません。
昨年、日枝神社山王祭の御幸祭の行列を追いかけてて、この門から入って近道をして先行し、内堀通りを進む行列を撮るのに利用したので、私は通ったことがあります。
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桜田門(さくらだもん)は、江戸城[1](現在の皇居)の内堀に造られた門の一つ。桜田堀と凱旋堀の間にある。昭和36年(1961年)に「旧江戸城外桜田門」として国の重要文化財(建造物)に指定された。内桜田門と外桜田門の2つが存在するが、前者は桔梗門とも呼ばれ、単に「桜田門」という場合には後者を指すことが多い。
当初は小田原街道の始点として小田原口と呼ばれていた。寛永13年(1636年)にそれまでの柵戸仕立の門を現在のような桝形門に改築、桜田門とよぶようになる。外側の高麗門(こうらいもん)と内側の渡櫓門(わたりやぐらもん)の二重構造になっており、間に桝形がある。大正12年(1923年)の関東大震災で一部が破損、鋼鉄土蔵造りに改修される。
安政7年(1860年)にこの門の近くで水戸藩浪士らによる大老井伊直弼の暗殺事件(桜田門外の変)が起きた。井伊邸は現在憲政記念館の建っている辺りにあり、桜田門から西に500メートルほどの所にあった。
昭和7年(1932年)には昭和天皇の暗殺未遂事件(桜田門事件)が起きた。

向かいには通称「桜田門」の警視庁があります。
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旧法務省本館の赤レンガ棟もあります。
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「桜田濠」に沿って進みます。
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外桜田御門を振り返る。
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高校生の一団と一緒になりました。登校の時間にしては遅いので、どこかに見学にいくのでしょう。
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国会議事堂が見えるところまできました。
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憲政記念館の時計塔が見えます。
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桜田濠の突き当たり、半蔵御門の土手が見えます。
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最高裁判所
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高校生の一団は、国立劇場のほうに入っていきました。国立劇場か国立演芸場で見学みたいですね。
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半蔵御門
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ここは、一般人は入れないので、お巡りさんが頑張っています。
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ズームを効かして、門を撮影。
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半蔵御門は城の西端に位置し、まっすぐ甲州街道(現・国道20号)に通じている。大手門とは正反対の位置にある。
この門内は、江戸時代には吹上御庭と呼ばれ、隠居した先代将軍や、将軍継嗣などの住居とされた。現在は吹上御苑と呼ばれ、御所(今上天皇の住居)、吹上大宮御所(かつての香淳皇后の住居)、宮中三殿、生物学御研究所、天皇が田植えをする水田などがある。天皇及び内廷皇族の皇居への出入りには、主にこの門が用いられている。他の皇族は乾門を使用することが多い。一般人の通行は認められていない。太平洋戦争で旧来の門は焼失し、現在の門は和田倉門の高麗門を移築したものである。
半蔵門の名称については、この門の警固を担当した徳川家の家来服部正成・正就父子の通称「半蔵」に由来するとする説と、山王祭の山車の作り物として作られた象があまりにも大きかったために半分しか入らなかったことに由来するとする説がある。定説は前者であり、服部家の部下(与力30騎、伊賀同心200名)がこの門外に組屋敷を構え、四谷へと通じる甲州街道(現在の国道20号、通称麹町大通り・新宿通り)沿い一帯が旗本屋敷で固められていたことに由来するという。
これは、非常時に将軍を甲州街道から幕府の天領である甲府へと安全に避難させるためと言われている。その意味で、半蔵門は江戸城の搦手門にあたる。
この日の説明では、この辺には秘密の地下道が数多く存在し、地下鉄の工事で発見されたりしているとか。服部家隠密の仕業でしょうね。

これが、服部家の部下が組屋敷を構え両側を固めていたという、四谷へと通じる道。
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これから、千鳥ヶ淵緑道に入ります。
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タイトル、作者がわからなかったので、帰宅してから調べました。
「自由の群像」
半蔵壕の南端、千鳥ヶ淵公園に立つ「自由の群像」は、マスコミ功労者の顕彰記念像のひとつ。広島・平和記念公園の「原爆の子の像」 の作家・菊地一雄の制作によるもので、昭和30年(1955)11月3日文化の日に除幕式が行われた。三人の男性ブロンズ像は「自由」「自尊」「進取」をあらわしているという。  
自由のために一身をペンにささげた新聞人たちを顕彰するものなので、その像は高いところから人々を見おろすものではふさわしくないということで、台座は低く設計されており、その周りに四角い池がレイアウトされている。
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ちっちゃな展望台があったので、半蔵御門を撮りました。
濠は「半蔵濠」
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英国大使館、すごく広いのにびっくりしました。
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首都高、都心環状線を横切る。
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千鳥ヶ淵緑道は、木陰の道でとても気持ちのいい道だった。
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千鳥ヶ淵戦没者霊苑
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千鳥ヶ淵戦没者霊苑の塀が続く。
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千鳥ヶ淵ボート場のところにきました。
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テラスには入れなかったが、その前から濠を撮りました。
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いまは、紫陽花と山吹が咲いていました。
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ボート乗り場を見渡せるところまできました。
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園児たちのお散歩、ドライブ?(笑)
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この辺の濠
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美女の像に思わず惹きつけられました。
熊谷喜美子氏作「桃花流水」
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傍らに、「”桃花流水”によせて 熊谷喜美子」という説明がありました。
紀元4~5世紀,官職を捨てみずから農耕にたずさわった中国の詩人哲学者,陶淵明の著書「桃花源記」より引用
大河の支流に道を見失った一人の漁夫が,今を盛りと咲き香る美しい桃の林に迷い込み,好奇心にかられて,なおも奥地の水源へと船を進ませると,そこには,光り輝くユートピアがあった。
広々とした土地,良田,美池,桑竹畑,楽しそうに働く男女の歌声,それはそれより500年前,秦の始皇の虚政を逃れた子孫が,美しい谷間に,住みつき,世間との交渉を絶ち,完全な調和と,平和の社会をなして安隠に暮らしていた姿だった。
やがて,男は故郷へ帰るが,のちに二度とこの地を探しあてることはできなかった。
平和な地で,万物を深くやさしく愛し続ける女達の一人が,収穫の甘き桃を持ちて,水辺に立つ姿を,男は生涯胸にいだきつづけた。

残念ながら、涼しかった千鳥ヶ淵緑道は終了。
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靖国神社の大鳥居が見えた。
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大山巌元帥の像
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子爵品川弥次郎像
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常燈明台
明治四年(1871)靖国神社(当時は東京招魂社)に祭られた霊のために立てられたといわれている。正式には高燈籠というが通称九段の常燈明台といわれている。
始めは靖国神社前揩行社の構内に築造された。台石は当時各藩からそれぞれ拠出されたと伝えられている。
この常燈明台の灯りは品川沖に出入る船ばかりではなく、遠く房総からも望見されたという。
昭和五年(1930)道路改修にともない元の位置から道路を経たてた反対側の現在の所へ移した。平成元年に老朽化のため復元作業がなされた。
九段坂を中心とした明治・大正時代の錦絵、写真、絵画には必ずこの常燈明台が見られ、明治調を残している建造物として珍重されている。
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蕃所調書跡
ペリー来航後、蘭学に止まらない洋学研究の必要を痛感した江戸幕府は、従来の天文台蛮書和解御用掛を拡充し、1855年(安政2年)、「洋学所」を開設した。しかしこれが開設直後の安政の大地震で全壊焼失したため、1856年3月17日(安政3年2月11日)、「蕃書調所」と改称し、古賀謹一郎を頭取、箕作阮甫・杉田成卿らを教授として、同年末(安政4年1月)に開講した。
幕臣の子弟を対象に(1858年(安政5年)以降は藩士の入学も認めた)、蘭学を中心に英学を加えた洋学教育を行うとともに、翻訳事業や欧米諸国との外交折衝も担当した。1862年(文久2年)には学問所奉行および林大学頭の管轄下に入り昌平黌と同格の幕府官立学校となった。同年6月15日(5月18日)、「蕃書」の名称が実態に合わなくなったことを理由に「洋書調所」と改称、翌1863年10月11日(文久3年8月29日)、「開成所」と改称された。
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昭和館
国立の博物館(厚生労働省社会・援護局所管)。いわゆる戦中、戦後の国民生活を中心とした資料を展示しています。1999年(平成11年)3月27日開館。
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ここで、この近くにあった「さくら水産」で、昼食・休憩となりました。
今日は25名の参加者でしたが、幹事さんは場所確保が大変です。いいところを見つけたと感心しました。
今日は暑かったので、とてもありがたかった。

午後の部開始は「田安門」から。
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大田道灌時代、江戸城の合戦場はこのあたりであったといわれています。田安門は、寛永13年(1636)に建てられたと考えられ、昭和38年には解体修理が行われました。北面する高麗門とその西側に直交する渡櫓門からなる枡形門です。高麗門の扉の釣金具に製作に携わったと考えられる職人の名文があります。
田安門の辺りは,古くは「田安口」または「飯田口」ともいい,上州方面への道が通じていたといわれています。
門名の由来は、門内には田安台といって,はじめ百姓地で田安大明神があったので門名に称としたといわれています。江戸城造営後は北丸と称し,代官屋敷や大奥に仕えた女性の隠遁所となりました。有名な千姫や春日局、家康の側室で水戸頼房の准母英勝院の屋敷などもこの内にありました。
享保15年(1730)八代将軍吉宗の第二子宗武は,ここに一家を創立して田安家を興しました。宗武は、賀茂真淵に師事し、国学の造形には深いものがありした。宗武の子松平定信(白河楽翁)はここで生まれました。
現在田安門がある北の丸公園には,田安門から南北をつらぬくように西側一帯を田安家,東側一帯を清水家が所有していました。
現在は田安門から北の丸公園へ常時出入りできます。
現在の門は寛永13年(1636)のもので、現存する旧江戸城建築遺構のうちで最古のものです。

高麗門の前から牛ケ淵を望む。
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高麗門
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高麗門の内側
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渡り櫓門
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渡り櫓門の横に「弥生慰霊堂」という碑がありました。
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知らなかったので調べてみました。
弥生慰霊堂(やよい いれいどう)は東京都千代田区の北の丸公園にある慰霊施設。かつては弥生神社・弥生廟と言った。警視庁及び東京消防庁の殉職者を祀る。

社殿は神社建築に近いもので拝殿と本殿からなり、本殿は神明造の屋根であるが千木・堅魚木がない。現在でも鞭懸(神明造の破風にある8本の棒)が残っている。拝殿は吹き抜けで土間となっている。参道入口には狛犬のようなものがあり、また本殿正面の脇には燈籠があるなど、全体的に神社だった頃の面影を漂わせている。境内には「御野立所記念碑」がある。

武道館にくると、何かのコンサートの準備でしょう。大型トラックがたくさん停まっていた。
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科学技術館の前の車道が、一本の木を挟んで通るようになっていた。こういうの良いですね。
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科学技術館
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首都高の上を通ります。
首都高は右側でトンネルから出てきて
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左側、竹橋ジャンクションとなります。
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北の丸公園の出口までやってきました。
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今回は、ここまで。

(続く)


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鼻顔(はなづら)稲荷神社/長野県佐久市岩村田

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昨日、6月2日(日)に長野県佐久市にある私の両親の墓参りに行きました。
その後、このお稲荷さんにお参りしました。
去年、ひょんなことでこのお稲荷さんが日本五大稲荷の一つだとわかり、吃驚したのです。
子供のときから馴染みのあるお稲荷さんでしたから。
ちなみに日本五大稲荷とは、京都伏見稲荷、愛知豊川稲荷、佐賀祐徳稲荷、茨城笠間稲荷と当社だそうです。

入り口の案内は、こうなっています。
鼻顔稲荷神社鎮座の年代については、記録上詳しく知ることは出来ませんが、永禄年間((1558年~1569年、桶狭間の合戦の頃)に京都の伏見稲荷大社より御分霊をいただいて祭られた神社と伝えられ、以来東信濃における稲荷信仰の中心として広く崇敬を集め栄えて参りました。
鼻顔稲荷神社の御神徳は顕著で、天下泰平、五穀豊穣、家内安全、商売繁盛、交通安全、進学成就の守護神として霊験あらたかで御功績は実に広大無辺です。

湯川をはさんで対岸からの眺めです。
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水が少なくなったなあ、というのが印象。一番右が神楽殿で、この下にボートのり場があり、高校のころにはその桟橋から飛び込んで泳いだり、ボートに乗ったりして遊んでいました。

社殿が懸崖造りなのがわかります。
左から拝殿本殿、社務所、参籠殿となります。
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入り口。私は高校三年間、この前の道を自転車で朝夕通って通学しました。
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境内案内図
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鳥居が三本並んでいます。
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社額の上に屋根がかかっているのが珍しい。
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手水舎
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水琴窟があるというので楽しみにしていましたが、どうも詰まってしまっているようで、妙なる音は聞けず。残念!
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神楽殿が川を背に建っています。
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男坂
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上りきると、鳥居が並んでいます。
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また下に戻って、他の参道をいきます。
急石段は通行禁止。
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上から見たところ。高校のころ、上りは平気なのですが、ここを下りるのは大変だったことを想いだしました。前を向いては降りられなかったと思います。今は石段が埋められてしまっていて、上ろうにも上れなくしてありますね。
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急石段の左右には、狛犬がいました。なかなか風情があります。通る人もいなくなって退屈そうです(笑)
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女坂の登り口には、高い石灯篭が立っています。
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その横には相生の樹が。
赤松とけやきの大木が交わりながら仲良く共生しているので、縁結びの樹だとか。
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女坂を登ります。
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脇には、道祖神とか月待ち供養等など古い石仏が並んでいます。
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これは、初期のかたちの祠型の道祖神ですね。
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このあたりから、足場の上の鉄板の階段です。
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上りきると、岩村田の街が一望できます。
左手の遠くの森が岩村田城址。
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岩村田内藤藩について
元禄16年(1703年)8月、武蔵国赤沼藩より内藤正友が武蔵国・上野国・常陸国・上総国・下総国など各地で1万5000石から転じて佐久郡の内、27ヶ村で1万6000石を与えられ、岩村田陣屋が置かれたことに始まる。その後、摂津国・河内国(現在の大阪府)内の地へ一時移封されたが、その次男である第2代藩主・内藤正敬の代に再度この佐久郡内の地へ移封された。このように所領の場所が頻繁に入れ替わることが多かったが、藩政で特に見るべきところは無く、そのまま代が相次いだ。
第6代藩主・内藤正縄は老中・水野忠邦の実弟であった関係で、伏見奉行となって、その功績により城主格に昇進された。最後の藩主・内藤正誠は日光祭礼奉行・奏者番・寺社奉行などを歴任する。戊辰戦争では新政府軍に与して宇都宮城の戦いや北越戦争に出兵する。この頃、岩村田では築城計画がなされていたが、明治2年(1869年)に版籍奉還が行なわれ、さらに廃藩置県が行なわれて藩が廃されたため、城は未完成のまま廃城となった。

ということで、珍しいことに幕末になって城持ちを許されたが、城を築城中に明治維新を迎えてしまい、未完成のまま廃城となったという城址です。

まずは、御姿殿があります。鍵を咥えた稲荷狐と巻物を咥えた子持ちの稲荷狐が安置されています。普通よくある姿は、参道の両側に居て迎えるというものですが、ここでは建物の中で出迎えてくれています。
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鍵を咥えた稲荷狐
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巻物を咥えた子持ちの稲荷狐
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建物に入れて大事にされているわけがわかりました。
とても美人の狐ですよね(笑)

いよいよ懸崖造りの社殿です。
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参籠殿に入ると、幟の列と奉納絵馬、酒樽がたくさんあります。
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これは。字は読みにくくなっていますが、まだ絵が鮮やか。
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桑の葉の型紙に名前が書いてあります。
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奉納者の名が消えてしまっていますが、酒造りの絵と思われる。
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昭和11年奉納で、繭で文字を描いてあったが、だいぶ繭が失われています。
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北辰一刀流、千葉周作門下生の奉納。真ん中に北斗七星が描かれている。
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これは稲荷信仰と習合した、陀枳尼天を描いたものですね。
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拝殿
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前に奉納された、かわいい狐たち
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岩に納められた本殿
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神紋は「焔宝珠」ですね。
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御祭神は「宇迦乃御魂命」、配祀は「猿田彦命」と「大宮能売大神(天の鈿女)」
鼻顔稲荷という名前については、説明らしい説明は見当たりません。
これは私の勝手な解釈ですが、猿田彦はご存知のように天狗と外観は同様の顔なので、「鼻顔」がぴったりきます。「猿田彦命」からきたものではないかと思っています。

拝殿の前の床は、このように隙間から下を見ると宙に浮いているのがわかります。
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カミさんに、それを教えたら気が付いていなかったらしく、動けなくなってしまいました。
悪いことをした(笑)

裏側に、同じく岩に塗り込められた旧本殿があり、こちらもお参り。
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こちらの稲荷狐は、玉を咥えたもの、巻物を咥えたものでした。
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登り切った上に、大神宮があるとのことだったので、こちらもお参りしました。

鳥居にも注連縄が飾られていました。
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両側に、このように灯篭が飾られていた。
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拝殿
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祭神は、天照皇大神。
この神社は平安時代に創建され、明治の初期までは、今の裏町(現在中央公園)にあり、その後、この地に移築されたもの。岩村田の神社仏閣の中でも最も古い歴史を誇るものです。

鼻顔稲荷から大神宮までの間に、いろいろな碑がありました。
紹介しておきます。

萩原井泉水句碑
「空をあゆむ ろうろうと 月ひとり」
井泉水の弟子であった当地出身の故・関口江畔の遺志により、その子関口父草が主となり建てられたものである。
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山頭火・関口江畔・父草 句碑
漂白の俳人といわれる種田山頭火が、昭和11年5月10日鼻面稲荷を訪れてから70年を記念して建てたものです。山頭火を招いたのは、鼻面稲荷に隣接して居を構え、おなじ自由律俳句「層雲」の同人であった関口江畔・父草の句を、各自の自筆で刻みました。
「浅間をむこうに深い水を汲みあげる  山頭火」
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その両側面に、関口江畔・父草の句も刻まれています。
「兄も弟も日に焼けて 学校へ行く日となった朝飯  関口江畔」
「足もと照らしつつゆく自分の足もと  関口父草」 

あと、山室 静という方の「故郷」の碑がありました。
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山室静は、1906年鳥取市で生まれ、七歳で父を失い祖父の地である佐久で育つ。少年時代に詩作をはじめ1930年代からヒューマニズムに立つ文芸評論を主とするも、つねに誌心を失わず、自然を愛し、清澄自在の境地を開示して、真正の詩人と謳われてきた。また、北歌文学研究の先駆者として知られ、多彩な文学活動の成果により、文学・文化賞を受賞すること六度に及ぶ。
この間、小諸市に高原学舎を設立、堀辰雄氏らと「高原」を発行し、佐久文化会議を興して佐久文化賞を創設するなど、郷里の文化振興と人材育成に貢献した。

碑には「故郷」からの抜粋詩が刻まれています。
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故 郷      山室 静

  それは雪と水の郷土
  冬は早く訪れ、その白い暴君は長く君臨する
  かくて地表は刃物のようにとがり、時折り樹々はえ堪えずしてみづから裂ける
  それは萌え出ようとする者と抑えようとする者とのはげしい無言の格闘を示す

  だが、やがて遂に待たれた春がくる
  閉ざされた氷の下にも鬱々の声をたたぬ川は
  そのとき溢れ、みなぎり、押しきって、泥まみれに氾濫する
  その泥の中にはげしい青草の香りがある
  そんなとき少女は一夜にして大人になり、胸は疼きふくらんで
  若者の目は近づく春の祭と播種を思ってあつく燃える

  それは寒冷と枯瘠の土地
  はげしい労働も乏しい収穫でしか酬われぬ貧と苦の郷里
  しかも暴君は時折りもう収穫の前にやって来る
  まるで貧婪な立毛差押えのように

  だが、年々歳々
  その飢と寒さの郷土に子供は育ち、少女は身ごもることを止めぬ
  そして、よりあたたかき日、より光ある日を待ちのぞんで
  あこがれ、欲し、たたかい
  それを生みいだす。


(了)


一路/浅田次郎

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父の不慮の死により家督を相続、交代寄合蒔坂家の御供頭として江戸への参勤を差配することになった小野寺一路、十九歳。二百年以上前に記された家伝の「行軍録」を唯一の手がかりに、古式に則った行列を仕立て、いざ江戸見参の道中へ。
 お役目を果たせなければ家禄召し上げという身で、一所懸命におのれの本分を全うしようとする一路。その前途に、真冬の中山道の難所が立ち塞がる。さらに行列の内部では、ひそかに御家乗っ取りの企みが......。

「一路」という本が面白い、という評判をどこかで目にして、ネットで見たこの本の出版元のサイトの記事がこうでした。

読んで、ものすごく面白かった。
本を読んでいて、声を出して笑ってしまったというのは久しぶりでした。

舞台は、文久元年(1861年)、既に黒船が現れ、尊皇攘夷などと言われている世のことです。
関ヶ原にほど近い田名部という土地。そこは、七千五百石の蒔坂家が収める領土であり、また様々な背景から、旗本でありながら「交代寄合」という、大名並の格式が与えられている。
小野寺一路は、ずっと江戸で修行の身であり、剣の腕前も学問も秀才なのだったが、急ぎ国元に帰らなくてはならなくなった。
父・弥九郎が亡くなったのだという。失火であり、士道不覚悟、小野寺家は取り潰しの沙汰でもおかしくない状況なのだった。
しかし、そうもいかない事情がある。一路の家は代々、参勤交代の手配をすべて行う供頭という役目を担ってきていた。参勤交代の時期は迫っており、ともかく一路が供頭となって次の参勤交代を仕切らねばならなくなってしまった。家督相続は、参勤交代を無事に済ますための仮の沙汰。つまり、一路が参勤交代を無事務め上げなければ、小野寺家は絶えてしまうのだった。
重役から「しかと申し付けたぞ」と言われ、悄然として一路は、玄関口だけポツンと焼け残った屋敷跡に赴いた。そこで一路は、「元和辛酉歳蒔坂左京大丈夫様行軍録」という小冊を見つけた。これはまさしく、二百数十年に渡って受け継がれてきた参勤交代の心得を記したものなのだった。参勤交代の出立まで数日を残した今、これしか頼りに出来るものはない。
その「行軍録」は、僅かながら一路と話をしてくれる人に聞いてみると(一路と話をしてはならん、というお触れが出ているのだ)、二百数十年の間にだいぶ簡略化されているらしく、現在では行われていないことも多いのだという。
一路は決意した。自分はこの「行軍録」に記されている通りに中山道を歩き、無事江戸までお殿様をお送りしてみせると…。

最初にかかげた表紙の装丁に、中山道の田名部から江戸までの工程が載っています。それを見ると「岩村田」に泊まることになっている。そこは私が通った高校がある町です。
これも嬉しくなった。

主役級の人物を挙げるとすると、道中御供頭である一路、お殿様である蒔坂左京大夫、参勤交代の先頭を行く佐久間勘十郎、田名部にある浄願寺の坊主である空澄、参勤交代には加わらず国元に留まる勘定役の国分七左衛門、複雑な事情から二君に使える形となり心労が絶えない御用人・伊東喜惣次と言った面々がいるのだけど、みんな本当に素晴らしい人物なんである。

一路は、愚直に「行軍録」に記されている通りに実行しようとする。容易に予想されるのは、人数にしても当初は80名の規模だったものが、いまは40名くらいになっているように、二百数十年の間にだいぶ簡略化されている。それを強行しようすれば、あらゆるところで摩擦が起こるのは必然。

ところが、そうでもないのである。
それは「謀反のうわさ」のせいであった。
藩の陰の実力者が主犯なのだが、この参勤交代で問題が起これば藩主に詰め腹切らして、その陰謀者は以前より幕府の実力者によしみを通じているので代わって藩主の座につこうという算段だ。
そういう噂が密かにめぐっているため、それに義憤を感じた人たちが、黙って一路に協力してくれるのである。
この辺が、どうにもこうにもこちらの涙腺をゆるませる。

七千五百石の知行を取る旗本、蒔坂左京大夫。格式高い「交代寄合表御礼衆」二十家が筆頭、城中では大名に伍しての帝鑑間詰、ただしバカの鑑。歴代のバカにつき、歴代が無役。
おまけに芝居ぐるい。三月朔日の町入能の折、飛び入りで下手くそな「藤娘」を舞って、上様の不興を買った。贔屓の成田屋を、あろうことか飛び六方の花ミリから引き倒し、あげくの果てには町人に変装して出待ちをしていたところを町与力に見咎められて、謹慎を申し渡された。その成田屋から借用した鎌倉権五郎の衣装に隈取りまでして、隣屋敷から躍りこんできたときには、病床に伏せっておられたお祖父様も、さすがに怒鳴りつけた。
蒔坂左京大夫というのはよほどのアホなのか。

ところがそうではないのだ。
アホのまねしている理由というのが、アホが理由で藩主をクビになれば、やんごとない理由で藩主になれず脇役に追いやられた謀反の首謀者に藩主の座を譲れる。
そういう人物なのである。

極め付きは、楽しみにしていた岩村田宿の一夜前の和田宿である。藩主が熱を出して寝込んでしまった。付き添いの医師の処方した薬を毒見すると一路が言い出した。
一路は既に、医師が謀反に組していることを探り出していた。ここで毒殺されれば万事休す。
毒味をしようとする一路と、医師が処方する眠り薬の毒味など聞いたことがないと抵抗する医師の双方に、御殿様は言う。
どちらも忠義の心から出たのだから斥しりぞけるわけにゆかぬ。「おのおのの忠心を嘉(よみ)するための手立てはひとつきりじゃ。余と小野寺が同時に良軒の調合した眠り薬を嚥めばよい。さすれば余は、せめぎ合う忠義の心を、ふたつながら裏切らずにすむ……邪心ありて余が死するにしろ、忠心を疑うて生き延びるよりは上策であろう」
なんという御殿様なのだろうか。己が分限をわきまえ、臣下を、民を思いやる気持ち、「慈悲の心」こそが大切なのだ。
医師は、謀反の首謀者から「藩のためには、こうするしかない」と言われ、それを信じ、一路の父親を眠り薬で焼死させ、御供付き添いも毒殺してきた。
しかし、この行列で藩主の真の姿がわかり、一路の真っ直ぐな「一所懸命」の働きも目にし、藩主毒殺の指示には従う気持ちは去っていたのだ。

さて、私の通った高校があった「岩村田宿」である。先代の働きでようよう城持ち大名になったという。そういえば岩村田城址ってあったような気がする。それがなんと幕末に出来た!??
ビックリである。そんなことがあるんですね。
岩村田内藤家は、三河以来の譜代中の譜代。風雲急を告げる京師に赴き、21ケ年の長きにわたり伏見奉行を務めた。徳川家の屋台骨を揺るがしかねない輩を捕え、江戸に送り、皇女和宮の降嫁に尽力した人物である。
その働きで、晴れて城持ちが許された。
ところが当代は、19歳の若僧で、舞い上がっている。
本来しきたりでは、本陣に泊まった参勤交代の大名に、その地の主はあいさつに出向くのである。
それを岩村田内藤家の当主は、「城なしの身分が、城持ちを呼びつけるのか」と逆にあいさつに来いとふんぞりかえるのだ。
蒔坂左京大夫は、「怒るな、怒るな」と一路をなだめ、自分から出向く。
それで当主をギャフンといわせてから、江戸城帝鑑間でお世話になった先代の墓参りをするのでした。

楽しみにしていた「岩村田宿」だったが、とんだ人間の登場となってしまった。
まあ、それはどうでもいいとして、この本で誉めそやされている岩村田内藤家先代の事跡は、ぜひ自分でも調べたくなった。

軽井沢では、あろうことか加賀百万石のお姫様に一路が惚れられるという顛末が持ち上がるし。
ほんとうに面白かった。



アオバズクがやってきた

20130601

去年から観察をはじめた、廣瀬神社のアオバズクですが、
廣瀬神社の氏子であり、歴史仲間で親しくさせてもらっている山畑さんから、5月27日に居るのが確認されたと教えてもらいました。
毎年5/27に初めて確認されることが多いそうです。
鳥の時計というのも恐るべしですよね。

去年は、知るのが遅かったために、ヒナ三羽がある程度大きくなってからの観察でした。
それでも、ちょっといい写真が撮れて、けっこう周囲からはお褒めをいただきました(嬉)
これが、その時の記事です。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-999.html


起き抜けに車で飛んで行って、7:20くらいに到着。
双眼鏡を持ったご婦人が居て、居る場所を教えてくれました。

居る木がこんな感じなので、下のほうの枝で邪魔されてない見通せる位置から見上げます。
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肉眼では、こんな感じ。真ん中辺に居るのがかろうじてわかりますね。
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最初、捉えた位置は後ろから。
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この位置だと横からでした。
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場所を移動して、アオバズクがよく見通せる位置を探すわけです。

やっと、顔が見える位置を探し当てました(嬉)
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何枚か撮った中で、顔の前で何か光ってます。
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拡大してみたら、顔を掻いたのか片足が顔の前にあって、それに光が当たっていたんですね。
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これから、ペアができて、ヒナが生まれて、ヒナが飛べるようになり、8月中旬には東南アジアの方に旅立ちます。
その過程を、できるだけレポートしていきたいと思います。
乞う、ご期待!!


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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