川越氷川神社(延喜式内論社)/埼玉県川越市

20130930

昨日、9月29日(日)にお参りしてきました。
表側の参道が二筋あり、氷川会館の前に大鳥居があります。
観光バスが停まっていて、これ以上下がれず全部が入りません(汗)
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木製の鳥居としては日本一の大きさです。高さは約15mで、平成のご大典奉祝行事として建立されました。社号は勝海舟の筆によるものです。
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もう一つの参道、社殿に直進する参道の鳥居。
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すぐ次の鳥居があります。
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手水舎は意外と質素。
後述の「祓いの川」があるからでしょうか。
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日曜なので、初参りなどの家族でごった返しています。
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次のグループのお参りする人たちを案内するため、巫女さんがスタンバイ。
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祓いの川

この川に「人形(ひとがた)」とよばれる和紙を流して、心身の穢れを祓う「人形流し」が行えるそうです。
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ご神水
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戌岩
その姿が鼻先を神前に向けた戌(いぬ)に似ていることから戌岩(いぬいわ)とよばれています(片耳が垂れた戌の顔です)。戌は安産の象徴ですから、安産を望む方が撫でています。
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拝殿
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このお宮は、出雲伊波比神社の論社としてあげています。

川越氷川神社は今から約千五百年前、古墳時代の欽明天皇二年に創建されたと伝えられています。室町時代の長禄元(1457)年、太田道真・道灌父子によって川越城が築城されて以来、城下の守護神・藩領の総鎮守として歴代城主により篤く崇敬されました。 江戸時代に入ってのちも歴代の川越藩主より社殿の造営や特別の計らいを受けました。
主祭神は素盞鳴尊(すさのおのみこと)。
合祀神が、脚摩乳命(あしなづちのみこと)と 手摩乳命(てなづちのみこと)の夫婦神様。さらにその娘であり、素盞鳴尊の妃神である奇稲田姫命(くしいなだのみこと)。そして、素盞鳴尊と奇稲田姫命のご子孫であられる大己貴命(おおなむちのみこと)の五柱の神様です。

神紋は「八雲紋」です。
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本殿
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天保年間に川越城主松平斉典が寄進し建立されました。ご本殿には木の良さを生かした江戸彫りと呼はれる関東特有の精緻な彫刻が全面に施されています。江戸時代の化政年間の名彫師・嶋村源蔵の手により、7年の歳月をかけて施されたものです。これらの彫刻は それぞれ川越氷川祭りで繰り出される山車と密接に関わっております。また明治三年には御遷宮が行われた由緒ある場所です。江戸時代の名工の技が、静かに息づいています。県の重要文化財です。 かの有名なE.モースも本殿の彫刻を見て、その緻密さに驚いたと言います。

川越祭りの際、今年は10月20日(日)に本殿の彫刻が一般公開されます。年間でこの日だけです。
この日にきちんと撮る予定にしています。
今日は垣の隙間から、少し紹介しておきます。
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拝殿のほうに戻ってくると、ちょうど氷川会館のほうに結婚式を挙げている方が通るところでした。
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氷川会館に向かう通路には灯篭が下がり、とてもいい感じです。
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舞殿
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続いて境内社ですが、非常に多いです。なので全部撮ってきました。
護国神社
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柿本人麻呂神社
学問・歌道に優れた柿本人麻呂をお奉りする全国でも珍しい神社です。直系のご子孫である、綾部家が戦国時代に川越に移住してきたことからおまつりされるようになりました。 学問・歌道の神様、安産・火防の神様として古くから信仰を集めています。
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柿本人麻呂神社の右脇には、山上憶良の歌を刻んだ碑があります。有名な「令反惑情歌」(まどえるこころをかえさしむる歌)がしたためられています。
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碑面の憶良の長歌は、万葉集巻五に載っているもので、山上憶良が、筑前の国府にいた時、神亀五年に制作したものだそうです。
序と反歌がついている。序は、漢文体、長歌反歌は万葉仮名で、その通りに筆写彫刻されている。
序には、父母妻子を顧みず、いたずらに空想にはしり、本来の君臣・父子・夫婦の道にもとる一部の人をいましめ、惑える心を歌でひるがえさせようとしたという意が述べられている。万葉仮名は避けて読みやすく表記すると、次のようである。

父母を 見れば尊し 妻(め)子見れば めぐしうつくし 世の中は かくぞことわり もち鳥の かからはしもよ 行方(ゆくえ)知らねば うけぐつを ぬぎ棄(つ)るごとく ふみぬぎて 行くちふ人は 岩木より成りてし人か 汝(な)が名告(の)らさね 天(あめ)へゆかば 汝がまにまに 地(つち)ならば 大君います この照らす日月(ひつき)の下は 天雲の むかぶすきはみ 谷ぐくのさ渡るきはみ 聞こしをす 国のまほらぞ かにかくに 欲しきまにまに しかにはあらじか

(反歌) ひさかたの天路(あまじ)は遠しなほなほに家に帰りて業(なり)をしまさに

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稲荷神社
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日吉神社
ご祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)。
山の神様。その昔、皇室の守り神になることを誓われた神様で、そこから転じて一般の人々の安全も守る神様となった。
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加太粟島神社
ご祭神は少彦名命(すくなびこなのかみ)。
女性の願いを叶える神様。ことに婦人病の治癒、手芸の上達にご利益があると昔から言われている。もともとは和歌山県に祀られている神様。
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菅原神社
菅原道真公をお祀りする祠。学業守護の神様として信仰されてきました。
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松尾神社
祭神は、大山咋神と中津島姫命(松尾大社から勧請したとすれば)
家業の繁栄、特にしょうゆやお酒などの醸造業とそれに関連する仕事の守り神様。
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馬頭観音碑
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八幡神社
ご祭神は誉田別名(ほんだわけのみこと)。
古くから武家の氏神、守護神として信仰されてきた。外敵から身を守り、武芸、武術の上達にご利益があると信仰されてきました。
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御嶽神社の碑
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烏帽子岩の碑
富士山にある烏帽子岩のことです。
富士講(富士道)開祖の長谷川角行とその弟子食行身禄の名前が左右にあることがわかります。
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稲荷神社
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春日神社
奈良にある春日大社の分祠です。
ご祭神は、武甕槌神(タケミカヅチノミコト)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、斎主神(いわいぬしのかみ)、比売神(ひめがみ)。
健康長寿、家内安全にご利益があると言い伝えられています。
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子の権現社
ご祭神は大己貴命(おおなむちのみこと)、天日鷲命(あめのひわしのかみ)。
足腰を丈夫にしてくださる神様。足腰が悪いときには、お参りして祠にある履物を一組いただきます。治ったらお礼に履物を二組奉納します。
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疱瘡神社
ご祭神は、少彦名命(すくなびこなのかみ)。
伝染病を治してくれる神様。
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厳島神社
ご祭神は、宗像三女神 (市杵島姫命、田心姫命、湍津姫命)
航海、交通安全の神様。
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水神社
昔、当社の境内からは御手洗川という湧き水が湧いており、脇の上尾街道の憩いの場所でした。水の守り神様です。
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嶋姫神社
ご祭神は、祖島姫神
水害の災難を避けてくださる神様。川越には島のつく地名が多いのですが、これは昔、荒川や入間川が氾濫によって出来た土地です。人々は荒れる川からこの土地に避難して助けてもらったそうです。
雷電神社
ご祭神は大雷神(おおいかづちのかみ)。
落雷を避けるための神様です。その昔、川越城に雷が落ちたとき、お殿様の命によってお祀りされるようになったそうです。
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三峰神社
ご祭神は、伊邪那美命(いざなみのみこと)。
盗賊除け・魔除けの神様として信仰されてきました。家内安全の神様ともいえます。秩父の三峯神社を川越の講(信仰する人たち)が当社の境内に奉ったもの。
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蛇霊神社
これは、お宮さん側の説明が無いので、どういう信仰かわかりません。
弁財天のお使いが蛇ですし、頭が人間で身体が蛇という「宇賀神(うがじん)」もいます。
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琴平神社
航海や舟、水上の安全を守る神様です。もともとは香川県にある金比羅様がもとになります。
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御嶽神社
ご祭神は大山咋神(おおやまくいのかみ)と国常立命(くにのそこたちのみこと)。
家内安全や悩み事の解決をしてくださる神様。長野にある御岳山をご神体とする御嶽講がはじまりです。江戸からひろまって川越にも伝わってきたというようです。
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本殿裏手の御神木。樹齢600年。
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この御神木は周りを巡れるように、また根元を保護するため石段が組んであります。8の字を描くように廻ると良いと、説明があります。
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二本のご神木の間に立ち、注連縄を見上げると、とても気持ちが良かった。
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大田道灌の手植えの矢竹
江戸城・川越城を建築した大田道真・道灌は川越氷川神社を篤く尊崇しました。長禄元年道真は和歌を献納し、道灌は境内に矢竹を植樹したといいます。
献詠和歌も説明書きに添えられていました。
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絵馬のトンネル。洒落ていますね。
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こちらは、おみくじの結び所。
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当所のは、鯛のおみくじなんですね。「あい鯛みくじ」というらしい。
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おみくじの入った鯛を釣るんですね(笑)
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裏を流れる新河岸川に、陽が差し込んで綺麗でした。
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ベビー・ロマンチカ

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系統: FL フロリバンダ
作出: 2003年 フランス Mailland
花色: オレンジピンク~淡黄
花形: カップ
花径: 小中輪
芳香: 微香     
開花: 完全四季咲き 

コロンとしたロゼット咲きの花形とオレンジとピンクが交じり合った花色がマッチして大変可愛いらしいバラです。
ちょっとオレンジがキツイ感じがありますが。

バラは基本、香りと花保ちは反比例だそうです。この薔薇は「切り花種」で、花はすごく長持ちするようですね。

ちなみに、この色の薔薇の花言葉は「純粋」、「才能」 だとか。

2013年5月22日 谷津バラ園にて


前玉(さきたま)神社(延喜式内社)/埼玉県行田市

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9月24日(火)にさきたま古墳群の二子山古墳、将軍山古墳など見たあと、昼食・休憩したあとにここにお参りしました。
道からの入り口のところに、大きな槇がそびえています。
御嶽山信仰の奉納植樹で、推定樹齢600年のご神木。
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幹に空洞ができていて、中に木曽御嶽山の石碑が置かれています。
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社号標
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一の鳥居
この鳥居は、延宝4年(1676)に忍城主阿部正能家臣と領民氏子たちによって建立されたもの。
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明神系の形式で、笠木、島木が一体に作られ、両端に反増を持ち、さらに笠木、島木は二本の石材を中央額束の上で組み合わせています。
また、扁額(へんがく)には「富士山」と書いてあります。
なので、これは境内にある浅間神社が当時強く信仰されていたことがわかります。
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参道
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古式な感じの狛犬
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建立時期が読み取れませんでしたが、立派な石灯篭一対。
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二の鳥居
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手水舎
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柱四本ともに立派な龍の彫刻がありました。
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神楽殿
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三の鳥居
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石の祭壇がありました。結界をしてあります。神事に使用するのでしょう。
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その横に「浅間塚古墳」の説明が。当社は古墳の上にあるのです。
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石段を上がると、右手に浅間神社があります。
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浅間神社は近世初頭、忍城中にあった浅間神社を勧請し、古墳上にある社を「上の宮」、中腹にある社を「下の宮」と呼んで、浅間さまの名で親しまれるようになりました。
また、当社には富士浅間信仰が盛んになってから、富士の行者が己の命の終わるとき、当所にのみ雪を降らすと言い残し、その予言通り6月1日亡くなった日に雪が降り、これを奇異とした忍城主下総守氏長が、この地に浅間神社を祀ったという一説もあります。
浅間神社の御祭神は木花(桜だけを指すという説もある)の様に美しいとされる木花開耶姫命(コノハナサクヤヒメ)です。子育て・安産・産業の神様として関東一円に崇敬されています。
中でも当歳児から三歳児の額に朱印を押し、富士山の御利益をいただき、子供の無事成長を祈る「初山」は有名で、県内にとどまらず関東圏外からも参拝に訪れているそうです。

正面に大きな絵の額がかかっています。
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浅間神社の祭神は木花開耶姫命ですが、そうではなさそうですね。端に居るし、艶めかし過ぎる(笑)
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木花之佐久夜毘売といえば、さきたま古墳で開催される「さきたま火祭り」の主役です。
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浅間神社からむ先に進むと、二つの小さなお社があります。
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恵比須社
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中には、大きめなのが二体、小さいのが二体、祀られていました。
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天神社
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中には天神様が祀られている。
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西行の歌碑があります。
西行は二度武蔵の国を通過していますが、この歌は二度目の旅の時に立ち寄ったものと推定されています。
「和らぐる 光を花にかざされて 名をあらはせる さきたまの宮」
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いよいよ社殿に上がる石段ですが、両側に「万葉灯篭」が立っています。
元禄10年(1697年)10月15日、当神社の氏子たちが所願成就を記念して奉納したものです。この地を詠んだ万葉集の歌、「小崎沼」と「埼玉の津」が刻まれています。
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右側「埼玉の津」の碑
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『佐吉多万能  津爾乎流布禰乃  可是乎伊多美
 (埼玉(さきたま)の 津(つ)に居(を)る船の  風をいたみ)
       都奈波多由登毛  許登奈多延曽禰』
       (綱は絶ゆとも  言(こと)な絶えそね)
巻十四 三三八〇
◇ 訳 ・・・
 埼玉の渡し場に停まっている船の(船を留めておくためのその)綱が、烈しく吹く風のために切れることがあっても、私たちの恋は切れて絶えないでおくれ(例え二人は逢えずとも、決して心伝える便りは絶やさないで下さい)。
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左側「小埼沼」の碑
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『前玉之 小埼乃沼爾 鴨曽翼霧 
 (埼玉の  小埼の沼に  鴨そ翼(はね)霧(き)る)
   己尾爾   零置流霜乎  掃等爾有欺』
   (己(おの)が尾に 降りおける霜(しも)を 払(はら)ふとにあらし)
巻十四 三三八〇
◇ 訳 ・・・・・
 埼玉の小埼の沼で、鴨が羽ばたきをして水しぶきを上げている。自分の尾にふり降りた霜を払おうとしていようだ。
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石段を上がると社殿です。
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拝殿
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本殿は覆屋に囲われていました。
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社額
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前玉神社が最初に祀られた時代については、一説には大化の改新(645年)より一世紀以上さかのぼる安閑天皇、宣化天皇あるいは雄略天皇の頃の古墳時代(400年代後半~500年代前半)ではないかと考えられています。その名残として社は古墳群に向かって祈願するように建立されています。
由緒:
前玉神社は「延喜式」(927年)に載る古社で、幸魂(さいわいのみたま)神社ともいいます。700年代の古代において当神社よりつけられた【前玉郡】は後に【埼玉郡】へと漢字が変化し、現在の埼玉県へとつながります。前玉神社は、埼玉県名の発祥となった神社であると言われています。
武蔵国前玉郡(むさしのくにさきたまのこおり)は、726年(神亀3年)正倉院文書戸籍帳に見える地名だと言われており、1978(昭和53)年に解読された稲荷山古墳出土の鉄剣の銘文から、471年には大和朝廷の支配する東国領域が、北武蔵国に及んでいたのは確実であると言われています。

御祭神は、『古事記』所載の出雲系の神である、前玉比売神(サキタマヒメノミコト)と前玉彦命(サキタマヒコノミコト)の二柱です。天之甕主神(アマノミカヌシノカミ)の子で、甕主日子神(ミカヌシヒコノカミ)の母です。

欄間の彫刻
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向背柱の彫刻が二段にわたって設けられています。
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神紋は「右三つ巴」ですね。
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拝殿から、本殿が置かれているのが見えました。
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欄間の左右に、猿田彦命と天の鈿女の彫刻があります。
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あと細かな彫刻を撮れるだけ撮ってきたのですが、帰ってから整理していて気が付きました。
十二支を彫っているんですね。
あわてて、確認したら、残念!!
二つ欠けています(泣)
10月にも、あちらに行くので、そのときに撮ってきましょう。
(2013.10.19に「さきたま講座」を受講した際に撮ったので追加しました。)


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辰・巳
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(2013.10.19撮影)
親子の犬が戯れている図ですね)
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(2013.10.19撮影)
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蚊の来襲に悲鳴を上げながら、写真を撮り終え、下ってきて
浅間神社の前の石碑を眺めました。

宝暦6年(1756)奉納の常夜燈
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「富士登山三十三度大願成就」の石碑
「丸正」という富士講が、明治42年に建てたもの。
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最後に、三の鳥居の前から入っていく「明治神社」にお参りしました。
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明治時代に埼玉地区の神社を合祀したものだそうです。
祭神ですが、いろいろ調べたのですが合計16柱という数しかわかりませんでした。
内訳を知りたいものです。

社額がきれいな色でした。
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二子山古墳の工事・将軍山古墳の整備/さきたま古墳群

20130925

このあいだ朝日新聞の埼玉欄に、二子山古墳で内堀の水を抜いて埋め立て、空堀にする工事を進めているという記事がありました。それによると、浸食により墳丘外周の崩落が深刻になったためとあります。また出土した微生物の死骸から、6世紀初めに築かれたときは空堀だったと考えられており、埋め立てで当初の姿に戻るとも。
現在の姿は1968年に復元されたときに水堀として整備されたものだそうです。
記事にあった航空写真。
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それで、昨日9月24日(火)に見に行ってきました。
さきたま古墳の全容。
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二子山古墳の全貌
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駐車場から道に沿って歩いていき、上の図で右下隅のところから入っていきました。
目の前にあるのが外堀です。
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内堀のところに来ると、埋め立てられてなにか作業をしています。
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方墳の底辺のところですが、発掘をしている感じですね。
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もう一列、こちらも発掘しています。
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方墳の底辺の左端まできました。
内堀の、テントから向こうは水堀になっています。
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さっき入って来た位置まで戻ります。方墳の底辺の右端のところです。
内堀のまわりを人が歩けるようになっているので、反時計まわりに一周することにしました。
灌木の垣根の向こう側が内堀です。
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少し行くと、埋め立てが途切れます。こちらが早く埋め立てられたみたいで水辺には草がびっしり生えています。
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また少し行くと、サギが悠然としていました。水堀が無くなったらこのサギも困るだろうな。
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円墳の端まできました。
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円墳の外周を囲む内堀。
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反対側まで来ると、向こうの方、方墳のところで埋め立てられているのが見えます。
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望遠にズームします。
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埋め立ての端まできました。こちらは埋め立てられたばかりですね。
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振り返って、円墳の周囲を眺めます。これが来年には水堀でなくなってしまうというわけです。
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最初の全貌の写真で、左側外堀の外縁のところに曼珠沙華が咲いていたので、一緒に。
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それから将軍山古墳に向かいました。さっき将軍山古墳が見えた時に、とても気になったので。

途中、きれいにコスモスが咲いていたので、一緒に二子山古墳を。
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ポピーも咲いています。
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そして、気になったのが将軍山古墳。
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将軍山古墳の全貌。
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方墳の右端のところから。
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建物が見えますが、あそこから中に入れ、内部の石室を見ることが出来ます。
今年の春に行った時の記事があります。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1203.html

私が、さっきとても気になったと書いたのは、その春に来た時にはこの古墳は草ぼうぼうで置かれている埴輪がかろうじてわかる程度だったのです。
春の状態
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それが今は、こうです。
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おまけに、凧が上がっています(笑)
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方墳底辺の左端からの眺めが、起伏に富んでいていいですね。
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望遠でひきつけると、迫力があります。
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置かれている埴輪
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ついでだから、稲荷山古墳の上にあがって、周りを見ることにしました。
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方墳の中央に階段があります。
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方墳の上に上がると、一旦下って円墳に上がります。
あの円墳から、有名な「金錯銘鉄剣」が発掘されました。
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将軍山古墳が見えます。
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反対側には、忍城を水攻めにしたときに石田三成が本陣にした「丸墓山古墳」が見えます。
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丸墓山古墳の横の「石田堤」に曼珠沙華が咲いていて綺麗でした。
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これでちょうどお昼の時間になったので、近くの東屋で途中コンビニで買ってきたおにぎりで昼食。
そのあとベンチでしばらくウトウトと寝ました。

休憩して、また元気が出たところで、「前玉神社」の写真を撮ったのですが、それは次回の記事にします。

その後、「さきたま史跡の博物館」で企画展「古代の豪族~将軍山古墳とその時代~」を見ました。
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展示されていたのは、いずれも6世紀後半に築かれた「将軍山古墳」、千葉県木更津市「金鈴塚古墳」、群馬県高崎市「八幡観音塚古墳」、同じく高崎市「綿貫観音山古墳」から出土したものでした。

古墳時代に浅学の私は、新鮮なことばかりでしたが、ここで印象に残ったのは、ここ「さきたま古墳群」にあるような全長100m前後の巨大前方後円墳は、畿内でも大和地方を除くとそう多くなく、山陰、北陸、四国、東海地域ではほとんど築かれず、千葉・埼玉・群馬の関東地方に多いことがわかりました。
つまり古墳時代には、大和地方と関東地方が突出していたようです。
これは、稲荷山古墳から発掘された「金錯銘鉄剣」に書かれていることでもわかります。
はしょって書くと「先祖代々大王(大和朝廷の長、つまり天皇)の親衛隊長をし、私はワカタケル大王(雄略天皇)が天下を治めるのを助けてきた」とあります。
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またちょっと、知識を広げられて嬉しく思いながら博物館を出て、以前来た時に気になっていた建物に寄ってみました。
「行田市 はにわの館」です。
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ここで、埴輪のレプリカでも買えるかなと期待したのですが、そうではなく、「はにわ作り体験」をする所でした。その日は、もう受付は終了していました。
入り口の前には、製作された埴輪がたくさん置かれていました。
どれも立派な出来で、感心しながら見てきました。
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(続く)





ロビ第28号&29号組立/ロボット「ロビ」

20130924

【第28号】

第28号で紹介されているロボットは、神戸の甲南大学にいるロボットの漫才コンビ「あいちゃんとゴン太」です。
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当初はオープンキャンパスにやってきた高校生向けに、新設された「知能情報学部」をアピールするために単体のロボットを作った。「あいちゃん」のほうですね。
当初は、学部のことを質問されたときに答えられる自動応答機能、簡単なあいさつ、時間を教える、音声指示によって移動する、という機能だった。
それがうまくいったため、もう一台作り、同学部の灘本明代教授が以前から手掛けていた「漫才シナリオ自動生成システム」を使って漫才をさせることになった。
Webサイトに掲載されているニュースを選ぶと、そこからキーワードを拾って漫才を作り、二台で「のり」と「つっこみ」を演じる。


今回使用するパーツ
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今回の作業
① すねのパーツを取り付ける
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② サーボケーブルに保護シールを貼る


完成状態
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【第29号】

第29号で紹介されているロボットは、パナソニック㈱の病院内搬送ロボット「ホスピー」です。
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いつも薬剤部のそばに待機しており、タッチパネルで行先を入力、表示される。本体の後ろの扉を開けると収納庫。IDカードでないと扉は開けられない。移動は建物のCADデータから作成したマップを使用。障害物の感知には、例えば待合室で足を組んで座っている人の靴のつま先まで感知できるようにしている。
安定性は抜群で、大人が倒そうとしても倒せない程度だという。
近くに移動している人や物ががあると、停止して待つ。

今回使用するパーツ
右ひざのサーボモーター。
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
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② サーボをテストし、IDを書き込む
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③ IDの書き込みを確認する
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完成状態
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荏原神社/品川宿を歩く(5)

20130923

9月17日(火)の歴史クラブの催しで、「旧東海道『品川宿』を歩く」の続きです。
品川寺で、旧東海道を折り返し品川駅に向かって歩いて、松岡畳店の前を通り、海岸線の跡を見て、目黒川までやってきました。品川橋です。
品川橋から下流を見たところ。
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上流に30mほど歩くと、荏原神社の前の「鎮守橋」です。
赤い橋がいいですね。
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鎮守橋を渡ります。
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社号標
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鳥居
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東海七福神の恵比寿様が釣竿を垂れています。
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振り返ると、鳥居の方向と橋の方向が大きくずれています。
これは目黒川の改修工事で、目黒川の方向が大きく変わったので、橋の方向も変わってしまったというわけです。
(これは3月に撮った写真なので、区内で一番早く咲くという「寒緋桜」が咲いています。)
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手水舎
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明治29年に奉納の狛犬
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こちらは、背中に子獅子を載せ、胸のところに居る子獅子が牡丹の枝を咥えているという、凝った意匠の狛犬です。
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拝殿
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御祭神は、高龗神(たかおかみのかみ)、天照皇大神、須佐之男尊、豊受姫之命、日本武尊、手力雄之尊。
元明天皇和銅二年(709)九月九日、大和国丹生川上神社より高龗神(水神)の勧請を受けて、貴布禰大明神と号し、品川総鎮守だったという古社です。
京都の貴船神社も同じ祭神ですね。
同じく北品川鎮座の品川神社が北の天王社と呼ばれ、当社の通称は南の天王社。
合祀されている、天照皇大神・豊受姫之命は後一条天皇長元二年(1029)の勧請。
手力雄之尊の勧請年月は不詳です。
日本武尊は、『明治神社志料』では境内社の白鳥神社祭神なので、明治以降に本殿相殿に祀られたのでしょう。
須佐之男尊の勧請は宝治元年(1247)。牛頭天王の面が天王洲の海に浮いていたのを漁夫が寄木神社に奉納しその後、当社に奉安されたといい、これにより天王洲という地名となった。
牛頭天王(須佐男之尊)が水神であることから、参加者をかっぱになぞらえ、「かっぱ祭」と俗称されています。

なお、明治四年南品川神社と改称、明治五年郷社に列し、同八年荏原神社と改称した歴史があります。
明治になって、天皇の勅使によって祭祀・奉幣が行われる准勅祭社に指定された品川神社は当社のことであるという。
当社が、この准勅祭社であるという説は、准勅祭社の社名の中に品川貴船と記されている文献があり、品川鎮座の貴船社、つまり当社のことであるという主張のようです。

それで、准勅祭社を基とする「東京十社」には、「品川神社」のところにいわゆる品川神社と荏原神社が併記されています。(Wiki)

千木が平削ぎですから、高龗神は女神であることがわかります。
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拝殿は彫刻が素晴らしい。
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欄間に親子でしょうか、二頭の龍が上下にいます。
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社額
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向背柱には、左右に鳳凰の彫刻が。
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神紋は「右三つ巴」です。
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ここで、珍しいものを見つけました。
拝殿の庇の上から龍の頭が覗いています。こんなのは初めて見ました。おそらく、ここでしか見られないのでは。
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拝殿の周りの壁には、色々な鳥の彫刻が並んでいました。これで全部撮れたのではないかと思います。
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本殿は、流れ造りで端正な、森厳な感じのするものでした。
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帰りがけに舞殿があるのに気付きました。
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ここで一応解散し、疲れている人は近くの「新馬場」駅から電車に乗り、品川駅まで歩きたい人は歩きました。

(了)


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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


ASエルフェン狭山FC

20130922

まずは、なでしこリーグ昇格おめでとうございます!!!

以前から、なでしこジャパンは大好きでした。
といってもテレビでの応援だけですが(汗)
今も、対ナイジリア戦を見ながら書いてます(笑)

それで地元のチームを応援しなくていいのかな、と気にはなっていました。
今年狭山FCは、残念ながらチャレンジリーグに降格し、苦節の時期を迎えていました。
このあいだ久しぶりに、狭山FCのHPをのぞくと、今年好調でなでしこリーグに昇格が決まったとあるではないですか(嬉)

何といっても、戦力増強が大きいですね、
元日本代表の、GK山郷のぞみ、FW荒川恵理子、MF伊藤香菜子、MF大野忍。
特にアフロヘアーの荒川選手は女子サッカー創設以来の選手です。

それで今季最終試合が、13時から川越陸上競技場で今日あるというので、応援に行ってきました。

今日の相手は、福岡 J・アンクラス。今年の結果が思わしくなく、降格が決まっているそうです。

試合前のウォーミングアップ。やはり大野選手、荒川選手は目立ちます。
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スタートラインアップの写真撮影
後列左から、山郷選手、荒川選手。右から二人目が伊藤香菜子選手。
前列右端が大野選手。
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現在チャレンジリーグでの得点ランキングは、2位に伊藤香菜子選手、3位が荒川選手。
応援団も、昇格が決まったので余裕ですね。
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円陣を組んだメンバー
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さあ、始まりました。
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中盤が、大野、伊藤が居るため、ここでのボール支配が強いので、安心して見ていられる。
大野はさすがにウマい。
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前半は、ゴールが反対側だったので、あまり写真は撮らずに応援に専念。
まずディフェンスがとてもしっかりしていて、安心してみていられます。
山郷選手の加入で、守備陣がレベルアップしていますね。
まず、伊藤香菜子選手が先制ゴール。続いて奈良選手が2点目を。いやあ調子いいなと思ってたら、今度は荒川選手が3点目を入れてくれました。

ライトサイドバックの薊選手が、前後に活発に動き回っていたのが印象に残りました。
ワールドカップでの鮫島選手を彷彿とさせる、いい動きでしたね。

3-0で前半終了。

後半は、狭山の攻めゴールが近くになったので、写真を撮りました。

ゴール前の攻防。
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経過は覚えていませんが、ゴールに攻め込むのは、なんとDFの清原選手。コーナーキックからの展開だったかな。
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コーナーキックでボールに殺到する狭山FCメンバー。
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FW鈴木薫子選手のシュート。
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荒川選手の、自身今日のハットトリックのシュート。チームでは5点目のシュート。
荒川選手のシュートにGKが飛びつく。
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ゴールのネットを揺らしました。
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結局後半は、相手に1点を許したものの、荒川選手が2ゴールをあげ、結果は5-1で圧勝でした。
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応援席の前で、拍手に応える選手たち。
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ヒロイン・インタビューは、山郷選手と荒川選手。
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GK山郷のぞみ選手
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FW荒川恵理子
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やはり、楽しかったですね。
これではずみがついたので、狭山FCの試合にはどんどん応援に行こうかなと思いました。


日本対ナイジェリアの試合も、後半27分のところで2-0でリードしています。


品川宿を歩く(4)

20130921

9月17日(火)の歴史クラブの催しで、「旧東海道『品川宿』を歩く」の続きです。
品川神社でちょっとのんびりしてから、次は東海寺に向かいました。

東海寺
臨済宗大徳寺派の東海寺は、萬松山と号し、寛永15年(1638)徳川家光が沢庵宗彭を招聘して開山しました。寺領5,000石、境内地4万7000坪を賜った別格本山格の寺院で、臨済宗大徳寺派の江戸触頭でした。明治維新で廃寺となったものを、かつての塔頭玄性院が旧跡を引き継いで現在に至っています。
元禄5年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたものです。

参道入り口。境内は大幅な工事を行つていて、こちらの山門からは入れませんでした。
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庭は工事中で、庭らしいかんじはまったくありません。わずかに残っている植え込み。
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古学殿の建物
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本堂らしき建物をのぞいたら、石庭がありました。
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梵鐘は、元禄5年(1692)住持天倫宗忽が撰文し、名工といわれた幕府の御用鋳物師である椎名伊予守良寛によって造られたものである。総高198cm、口径106cm、撞座は竜頭の側面方向に2ヶ所、乳は乳の間ごとに縦横5箇ずつ配列されている。
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少し離れた東海寺の大山墓地には、沢庵和尚のお墓のほか、本居宣長も教えを受けたという国学者・賀茂真淵、天文学・数学・暦学で有名な渋川春海(安井算哲)、明治時代に鉄道の国有化に尽力した「日本の鉄道の父」と呼ばれる井上勝のお墓があります。
私は、最近「天地明察」という本で、渋川春海(安井算哲)に夢中になったことがあったので、その墓に詣でたかったのですが、時間の関係で果たせませんでした。
近々、お参りしたいと思っています。

次いで海蔵寺です。
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宗派は時宗、本尊は阿弥陀如来立像。永仁6年(1298)藤沢遊行寺二祖他阿真教上人が、宗祖一遍上人の教えをつぎ、念仏をすすめて諸国を巡化の途中、たまたま当地にとどまること三年間、多くの衆生を教化された時に、妙覚庵運心称する妙好人があり、上人の徳風に帰依され祖先伝来の三尊仏を上人に寄進し、伽藍を結構して運心の寄附の三尊仏を安置したのが現在の本尊である。
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江戸時代に入り、品川宿がおかれ、ここで死亡した人達も葬られたのである。元禄4年(1691)から明和2年に至るまでその数7万余人といわれている。宝永5年(1708)7月8日土地の有力な信者の集まりがこれを改葬し、その骨を集め、墳墓を築きその上に観音像を安置したのが巷間に伝えている頭痛塚である。頭痛を病めるものがその平癒祈願をすると利益があるといって、香煙の耐えたことがないといわれている。また当時鈴ヶ森刑場で処刑された人や、品川遊郭に於いて死亡した遊女等も葬られている。

本堂の向かいには、関東大震災のときの死者を供養する大きな石仏があります。
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頭痛塚は、墓地の一番奥にありました。
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次いで、妙蓮寺です。宗派は顕本法華宗系単立。総本山妙満寺11世寂光院日遵上人が長享元年現在地に創建した。2世中世院日存上人は、日遵上人の弟子で妙満寺14世に列せられ、「本亦対論用意抄」の著述を残した学者でもあった。
現在の本堂は寛政年間建立の本堂を中に組入れた近代建築である。
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墓所には江戸時代の由比正雪の乱に加わったことで知られる丸橋忠弥の首塚があります。
丸橋忠弥は出羽の国の人で、徳川家光が死去した後、江戸幕府の転覆を計画した一人でしたが、事前に事件が発覚して、忠弥らは捕らえれた。首班の油井正雪は自害した。丸橋忠弥は宝蔵院の槍の達人で、現在の千代田区御茶ノ水に道場を持っていたという。こうして捕らえられた二人は大森の鈴が森にて、処刑され丸橋忠弥の首級は、ここ北品川の妙連寺に埋葬されたといいます。
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近くに「薄雲太夫の墓」があったので、帰ってから調べてみました。
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「古今比売鑑・薄雲」(ここんひめかがみ・うすぐも)は、江戸元禄年間に評判だった遊女・薄雲を描いたもので、作者は月岡芳年(つきおかよしとし)。
「薄雲」という女性は江戸時代、吉原京町1丁目の三浦屋四郎左衛門のお抱え遊女だったと伝えられています。大変な猫好きとして知られ、肌身離さずべったりくっついていたとか。真偽のほどは定かではありませんが、一説では招き猫の発祥にこの薄雲がかかわっているという話があるようです。
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そして、ここから第一京浜を日差しの中ちょっと長い距離を歩いて、青物市場近くの「さくら水産」で昼食です。午前中はほんとによく歩いた。

昼食を食べて休憩して、元気が出たところで午後の部スタートは「品川寺(ほんせんじ)」です。
品川寺
東海七福神は、毘沙門天。
品川寺の歴史は、町そのものです。遠く、大同年間(806年~810年)に開創された品川で最も古いお寺です。本尊「水月観音(すいげつかんのん)」は、弘法大師空海上人(774年~835年)が東日本を教え導いた時、この地の領主、品河(しなかわ)氏に授け、以来、応永2年(1395年)品河左京亮(しなかわさきょうのすけ)の代まで代々同家に伝えられました。同年、足利(あしかが)・上杉(うえすぎ)の合戦(上杉禅秀の乱)で品河一族は滅び、それ以後は、草堂に安置され「観音堂」と称され、町の人々の信仰を集めてきました。
門前に「江戸六地蔵」の一つが鎮座されていて、迎えてくれます。
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その向かいには、場所柄「溺死者供養の塚」の石碑が。
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門のむすぐ前には、立派な亀に乗った供養塔が。
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山門
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本堂
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ここの梵鐘は、一度海外に流出したが奇跡的に戻ったことで有名です。
明暦3年(1657年)の銘があり、徳川幕府第四代将軍徳川家綱の寄進とされる。鐘身に六観音像を鋳出する。この鐘は幕末に海外へ流出し、パリ万博(1867年)・ウィーン万博(1873年)に展示されたと伝えるが、その後所在不明となっていた。大正8年(1919年)、当時の住職であった仲田順海は鐘がスイス・ジュネーヴ市のアリアナ美術館に所蔵されていることを突き止め、返還交渉を開始した。外務大臣幣原喜重郎ほか多くの人々の尽力により、ジュネーヴ市議会は鐘を日本へ戻すことに同意し、昭和5年(1930年)、同市の好意により品川寺に返還された。平成3年(1991年)には品川寺からジュネーヴ市に新しい梵鐘が贈られた。品川区とジュネーヴ市は平成3年に友好都市となったが、交流の契機となったのはこの梵鐘である。
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鐘身に六観音像を鋳出しています。
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ジュネーブとの友好の碑
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境内左奥には龍宮城の雰囲気がする弁天堂が建っている。
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中にはカラフルな弁才天が祀られていました。こちらの弁才天像は琵琶を持たず、手が八本ある八臂弁財天です。八本の手には剣・弓・矢など武器を携えています。
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そして鐘楼の近くに、点々と七福神が祀られていました。

布袋尊
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大国さん
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恵比須さん
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寿老人
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福禄寿
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弁財天
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毘沙門天
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自然石を利用した庚申塔
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その横に文字と三猿の庚申塔
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ここから、また品川に向かって旧東海道を戻ります。

松岡畳店
旧東海道散歩地図にも載っている、創業安永8年(1779)という、江戸時代からの畳屋さんです。
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住所を、わざと二つ掲示して皮肉ってるのかな(笑)
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現存する旧東海道の海岸線の跡。ここ数メートルほどが当時の石垣。ずっと形は残っていますが、他の場所はコンクリートとか新しくなってしまっている。
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この辺の、当時の写真です。左側の海岸の石垣が今見た場所にあたります。
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(続く)


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品川神社/品川宿を歩く(3)

20130919

9月17日(火)の歴史クラブの催しで、「旧東海道『品川宿』を歩く」の続きです。
品川宿本陣跡から品川神社に向かいました。
第一京浜道路をはさんで眺めます。左側に富士塚がそびえています。
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品川神社の由来は、後鳥羽天皇の御世、文治三年(1187)に、源頼朝が海上交通安全と、祈願成就の守護神として、安房国の洲崎明神である、天比理乃畔命を勧請して、品川大明神と称した。
洲崎神社(すさきじんじゃ、すのさき-)は、千葉県館山市にある神社であり、夫の天太玉命を祀った安房神社と后神天比理乃咩命を祀った洲崎神社が共に館山にあり、共に安房国一宮となっています。
源頼朝が勧請したのは洲崎神社のほうですが、それにはこういう事がありました。
治承4年(1180年)8月、源頼朝は石橋山の合戦に敗れ海路で安房国へ逃れた。『吾妻鏡』治承4年(1180年)9月5日の条によれば、安房に逃れた源頼朝は上総介及び千葉介へ参上を要請する使者を送り、当社へ参拝して使者が交渉を成功させて無事帰還した場合には神田を寄進するとの御願書を奉じている。この使者は無事に役目を果たし、同年9月12日の条では当社に神田が寄進された。
後醍醐天皇の御世(1319年)に、当国の守護職二階堂出羽入道道慈、(貞藤と云い北条高時の臣、鎌倉に二階堂と云う、地名があるそこに住していた)宇賀之売命を勧請し社殿等を再建し社地を吉端岡と名付けた。永享四年正晴入道幸純社殿等を再建す。(幸純は道慈の子孫なること南品川海婁寺に詳かなり)、文明十年六月太田道濯、素蓋鳴尊を勧請す。
慶長五年徳川家康関ケ原の戦に出陣の折神前にて祈願し太々神楽を奏し、後神輿、償面等奉納す。寛永十四年将軍家光の命により東海寺鎮守と定められてから幕府の御修復所となり、元縁七年将軍綱吉社殿等再建、嘉永四年将軍家慶社殿再建した。
明治元年准勅祭神社に定められた。

東海七福神の「大黒天」が鳥居前に立っています。
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社号標
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鳥居の前に狛犬
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一の鳥居
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鳥居をくぐろうとして驚いた。なんと龍が巻き付いている、珍しい鳥居だ。
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石段を登っていくと、左手に富士塚への登り口があったので、登っていく。
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品川丸嘉講300名の人により、1869年(明治2年)から1872(明治5年)の三年をかけて築かれた。富士山から溶岩を運んで作ったので、この富士塚に登ることで富士山に登ったのと同じご利益があるとされている。
毎年7月に行われる「品川丸嘉講」による山開きの神事は、品川区の無形民俗文化財に指定されている。

登り始めてすぐに、猿田彦の祠
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役小角の神変堂
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途中から急こう配に
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頂上からの眺めはいいですね。
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一の鳥居から真っ直ぐ石段を登って、上がりきると二の鳥居。
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さらに三の鳥居。下総(千葉県)佐倉城主で、家光の側近であった堀田正盛が寄進したもの。
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狛犬は、既に一の鳥居のところに一組ありましたが、石段を登ってから拝殿までに更に三組あります。
二番目の狛犬
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三番目は焼き物なので、金網で保護されています。
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社殿前の、大きくて立派な狛犬。
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立派な能舞台もありました。
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手水舎。ここの水盤も堀田正盛が寄進したもの。
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ここに「天下一なめの面」と神輿を説明する額があります。
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慶長5年(1600年)徳川家康公が、関が原の闘いに出陣の際、当社に戦勝を祈願して参拝したことも有名です。合戦を終えて、家康公は、勝利の御礼として品川神社に御神面(赤いお面)を奉納しました。
「国の常立命」だと云われます。
その御神面というのが、写真のように、口から舌を出している赤面です。
これが、『天下一嘗(ひとなめ)の面』というものです。
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そして、江戸に疫病が流行ったある年のこと、 「御神面を神輿(みこし)に付けて町々を廻れば、人々を苦しみから救う」とのお告げがあり、それ以来、祭礼の神輿(みこし)に御神面をつけて渡御することになったのだそうです。
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本殿
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祭神は天比理乃咩命
合祀神が素盞嗚尊と宇賀之売命

神紋は「三つ葉葵」と「流水三つ巴」ですね。
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本殿の裏手に板垣退助のお墓がありました。右が板垣退助、左が奥様絹子夫人の墓。
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板垣退助のお墓
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絹子夫人の墓。4番目の奥様で、社会改良特に女子教育に功績のあった方だそうです。
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その近くに「板垣死すとも・・・」の碑が。
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佐藤栄作氏の書でした。
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境内に浅間神社がありますが、
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鳥居の奥に一対の石灯篭があり、三代将軍家光の時代である慶安元年(1648年)に、亀岡政重、後藤光利が寄進したもので、江戸時代初期の石像遺物として価値が高いそうです。
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火消しの組合が奉納したもので、各組の纏が彫りこまれています。
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東海七福神発祥の碑がありました。
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(続く)


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利田(かがた)神社と鯨塚/品川宿を歩く(2)

20130918

9月17日(火)の、歴史クラブの催し「旧東海道『品川宿』を歩く」で、北品川橋から「品川浦の舟だまり」を見たあと、ここにやってきました。

安政の古地図「芝 三田 二本榎 高輪邉絵図」で、細~い出島になっている先端に「弁財天」と書いてあります。今ではまったくの陸地ですが、ここが「利田神社」です。
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今は、このとおり埋め立てられてしまって、まるっきり陸地ですね。
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利田神社は、寛永3年(1626)に、東海寺の沢庵が弁財天を勧請したのが始まりとされます。当地一帯は安永3年(1774)から天保5年(1834)にかけて、南品川宿名主利田吉左衛門により開発されたことから利田新地と呼ばれ、当社も利田神社と称します。
洲崎弁天ともいわれ浮世絵師歌川広重の名所江戸百景の一つにも描かれているそうです。

鳥居
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灯篭と中門
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狛犬が良い感じでした。
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社殿
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祭神は、かっては弁才天だったようですが、いまは市杆島姫命にかわっています。
神紋は、「波に三つ鱗」です。
「三つ鱗」の鱗は龍が大蛇となって海中に去る時に鱗を三つ落としたというところから来ているそうです。
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利田神社の横に鯨塚があります。
この鯨碑(鯨塚)は、寛政十年(一七九八)五月一日、前日からの暴風雨で品川沖に迷い込んだところを品川浦の漁師達によって捕らえられた鯨の供養碑である。鯨の体長は九間一尺(約十六・五メートル)高さ六尺八寸(約二メートル)の大鯨で、江戸中の評判となった。ついには十一代将軍家斉(いえなり)が浜御殿(現、浜離宮恩賜庭園)で上覧するという騒ぎになった。
全国に多くの鯨の墓(塚・塔・碑など)が散在するが、東京に現存する唯一の鯨碑(鯨塚)である。また、本碑にかかわる調査から品川浦のように捕鯨を行っていない地域での鯨捕獲の法を定めていることや、鯨見物に対する江戸庶民の喧騒ぶりを窺い知ることができる貴重な歴史資料です。

本来の鯨塚
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新しい鯨塚
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説明に、谷素外の句が添えられている。
「江戸に鳴 冥加やたかし なつ鯨」
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新しい鯨塚の噴水の龍
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当時の品川での生活の説明板
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広場にはモニュメントが。
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旧東海道・品川宿を歩く(1)

20130918

昨日、9月17日(火)に、歴史クラブの催しで、「旧東海道『品川宿』を歩く」に参加しました。
昼食ポイントの確保(参加30名)の関係と、立ち寄りポイントの関係で旧東海道を外れるのが多いので、品川寺(青物市場)で折り返して、品川に戻るという往復コースを計画しました。
コースは、品川駅⇒八つ山橋⇒土蔵相模⇒品川舟溜り⇒鯨塚⇒利田神社⇒品川台場(御殿山下砲台)跡⇒善福寺⇒一心寺⇒養願寺⇒品川本陣跡⇒品川神社⇒東海寺⇒海蔵寺⇒妙蓮寺⇒昼食(青物市場駅近く)⇒品川寺⇒海岸線跡⇒荏原神社(解散)⇒品川駅または新馬場駅

今回は案内役だったので、写真は一部当日撮ったのもありますが、大半は下見(8/28)の際に撮ったものです。更に「歴史街道倶楽部」参加のとき(3/7)に撮ったものもあります。

品川宿:
江戸時代の東海道の第1宿。次宿は川崎宿。品川宿は当初、北品川宿・南品川宿の2宿で機能を分担していたが、享保7年(1722)歩行(かち)新宿が宿場として認められ、以降3宿で構成された。現品川区域には古代の官道の駅、大井駅が置かれていたと推定され、中世にも鎌倉街道の品川宿があった。北条氏時代の伝馬制下でも品川は宿の機能を担っていた。天正18年(1590)関東へ入部した徳川家康は、領国経営のために江戸を基点に据えた街道と伝馬制度の整備に着手し、慶長元年(1596)江戸一小田原間の石切伝馬手形を下した。17世紀後半になると、江戸に近い北品川宿の北側に人家が出来て新町が形成されていった。品川宿は南品川宿・北品川宿・歩行新宿の三宿で成り立つこととなった。また従来の南北の両品川宿を新宿に対して本宿といった。

広重の「東海道五十三次」では二つの版があるので、両方載せておきます。
「品川 日之出」(保永堂版)
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「品川」(隷書版)
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狭山市駅に8時に集合し、ラッシュに揉まれながら電車で品川駅に到着。
落伍者が無いことを確認し(笑)、歩き出します。

駅を出ると、第一京浜沿いにしばらく進みます。
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八ツ山橋を渡ります。
旧八ツ山橋は,明治5年東京新橋から横浜間の鉄道開通に伴い旧東海道に架けられたわが国初の跨線橋で,当時は木橋だった。いつからか鋼桁中路橋に架け替えられたが,大正3年,昭和5年と2回に分け単純タイドアーチ橋に架け替えられた。その後,老朽化のため昭和60年に架け替えられ現在に至っています。

橋に「旧東海道」の表示が。
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反対側には「八ツ山橋」と、なかなかクラシカルな橋桁です。
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下はJRの線路で、色々な電車が通っていきます。
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渡ってから振り返ったところ。
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橋の袂に旧橋の親柱と橋門構が京橋の親柱と共に展示されています。
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道を挟んだ反対側に、旧東海道を歩き出す人のために、説明板などが置かれた休憩できる広場があります。ここで品川宿の説明をしました。
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この辺には、かって御殿山というレジャーポイントがありました。
大判錦絵「品川 御殿やま」
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品川宿の一番江戸よりが歩行(かち)新宿で、食売(めしうり・飯盛)旅籠が集中していた。また、歩行新宿の西側には桜の名所御殿山があった。江戸時代初期から元禄15年(1702)にかけて、この地に将軍家の品川御殿が設けられ、鷹狩の際の休息所として、また幕府の重臣を招いての茶会の場として利用されていた。御殿の位置は現北品川3丁目5番付近と推定される。桜の名所で知られる御殿山は寛文(1661-73)の頃から桜が移植されたと伝えられ、八代将軍徳川吉宗の園地(公園)化政策で有数の桜の名所となった(御殿山のはか飛鳥山・隅田堤・小金井堤などに桜を植樹)。文政7年(1824)の宿差出明細帳写(品川町史)によれば御殿山の面積は11500坪で、桜600本・櫨(はぜ)60本・松5本・雑木750本と記録されている。幕末の御殿山は品川台場築造の土砂採取で一部を削られた。さらに明治に入り鉄道施設工事によって御殿山は南北に貫く切り通しとなり、桜の名所としての面影はなくなった。

ということで、何となく森は残っているものの、山という形容には程遠いですね。
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旧東海道品川宿歩きの道標一番には、「東海道八ツ山口」とあります。
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旧東海道は、ずっとこのように商店街のなかを通っています。
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歩き始めてすぐに「問答河岸」というのがありました。
これは、1640年、徳川家光が附近にある東海寺を訪れた際、ここで沢庵と次のような問答をしたとされる。
家光「海近くして東(遠)海寺とは是如何」
沢庵「大軍を率いて将(小)軍と謂うが如し」
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次いで、土蔵相模跡。
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歩行新宿2丁目の家並であるが、ここは宿場の役務として人足を出していたところで「歩行新宿」と名づけられ
た。家業としては「□印」がつく「食売旅寵」や水茶屋が多い。実質遊郭である。
現在は写真のように、NICマンション(ファミリーマート)のところが元外見が土蔵造りであった旅寵。高杉晋作、久坂玄端、伊藤俊輔(博文)井上馨などがイギリス公使館疲打ちの謀議をこらしたところ。今は亡きフランキー堺(居残り左平次)石原裕次郎(高杉)小林旭(伊藤)競演『幕末太陽伝』で映画化され話題を呼んだ作品の舞台。
食売旅籠歩行新宿の中でも大きな旅寵が、現在の北品川1-23角にあった「土蔵相模」である。これは歩行新宿にあった「相模屋」という、旅篤と言うよりもむしろ妓楼で、外壁が土蔵のような海鼠壁だったため通称「土蔵
相模」と呼ばれた。江戸吉原を「北」、品川宿を「南」の遊郭と通称した。
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北品川橋にやってきました。
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「品川浦の舟だまり」ですね。近くまでビルが迫っていますが、ここから海に出られます。
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釣り船、屋形船のお店もあります。
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それから、「鯨塚」と「利田神社」に寄りましたが、ここは別ページで載せます。

そして、御殿山下砲台(台場)跡です。
1853年6月3日(幕末)ペリー来航に衝撃を受けた幕府は、江戸内湾防御のために11基の台場築造を計画した。工事は、勘定吟味役の江川太郎左衛門が指揮を取り、同年8月から御殿山・伊予今治藩や泉岳寺の一部の土砂を切り崩して進められたが、完成したのは「御殿山下砲台」を含めて6基であった。
他の台場と異なり、資金不足の計画変更のため、品川の海岸沿いに陸続きで五稜形の砲台が築造され、154門の大砲が備えられた。
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この台場がそのまま現在の台場小学校となっており、敷地が五稜形のまま。
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台場を築いた石や、明治3年(1870)から昭和32年(1957)まで第二台場にあった品川灯台(国の重要文化財に指定され愛知県犬山市の明治村に移築)のレプリカが台場小学校庭入口に残っています。
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善福寺
品川善福寺は1294(永仁2)年創建という時宗のお寺で、元は藤沢遊行寺(時宗の総本山)の末寺であったとか。伊豆の長八の龍の鏝(こて)絵があることで知られています。
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鏝(こて)絵の龍がすごいです。だいぶ剥げ落ちているのが痛々しいですが、やはり見事なものです。
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さらに旧東海道を歩いていきます。
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「尾張屋」という古くからやっていたような店が。それにしてもショーウィンドウに神輿とは。
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一心寺
真言宗智山派寺院で豊盛山延命院と号し、安政2(1855)年大老井伊直弼により開山したと伝えられる。
東海七福神の「寿老人」
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養願寺
旧東海道から虚空蔵横丁を入ったところにあり、正安元年(1299年)の創建と伝えられ、虚空蔵尊を本尊とする寺としては都内で唯一の寺。品川虚空蔵として親しまれてきました。
寺では鎌倉時代の制作と推定される「銅造阿弥陀如来像」と万治元年(1658年)造立の木造不動三尊像(三躯)を安置しています。阿弥陀如来像は、長野・善光寺の本尊の模作の一つであるが、鎌倉時代の製作と推定され、大変貴重なものです。
東海七福神の「布袋尊」。
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また旧東海道を歩いていくと、こんなお店が。品川らしい。
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品川宿本陣跡にやってきました。
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本陣とはもともと武将が戦場にいるときの本拠地をさす言葉だが、転じて武家の主人の宿泊場所を示す。寛永12年(1635)に参勤交代の制度が整えられた頃から、「本陣」の名で呼ばれるようになった。品川宿の本陣は、初め、北品川宿と南品川宿に1軒づつあったが、南品川宿では早くに廃れ、江戸時代中ごろには北品川宿のみとなった。本陣の建物は、武家屋敷に見られるような、門・玄関・書院などがあり、大名行列の乗物や長持ちなどの荷物を置く場所が設けられていた。大名の宿泊時には、その大名の名前を記した関札(せきふだ)を立て、紋の入った幕を掲げたという。

文政6年の火災により焼けてしまい、今は何もなく公園になっている。
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明治天皇の行在所になったとかで、「聖蹟公園」になっていて、碑があります。
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一角に「新聞少年」の碑がありました。
私は兄と妹の三人兄弟でしたが、親の教育方針で三人とも小学生の間は新聞配達をやらされました。
懐かしい。
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(続く)


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ロビ第26号&27号組立/ロボット「ロビ」

20130915

【第26号】

第26号で紹介されているロボットは、「Team OSAKA」による「ヴィジオン・ヴィーゴス」。
「Team OSAKA」は、大阪市と大阪産業創造館の呼びかけで結集した、ヴィストン㈱、㈱システクアカザワ、ロボ・ガレージ、大阪大学、石黒研究室による産学連携チーム。
2004年から2008年までロボカップで活躍しました。
当時、ロボット単体としての性能は世界一だった。
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ボールを拾って、見事にキックします。
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現在、「Team OSAKA」の活動は止まっているそうで、残念ですね。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボをテストする。
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② IDを書き込み、確認する。
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③ サーボに足首テープを貼る。
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完成状態
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【第27号】

第27号で紹介されているロボットは、綜合警備保障㈱(ALSOK)が開発した巡回警備ロボット「リボーグQ」です。
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ALSOKがロボットの研究を始めたのは30年以上前の1982年というから驚きです。
遠隔操作、エレベーターの乗り降り、タッチパネル、音声案内機能を持った「ガードロボC4」を2002年から販売開始しました。夜はガードマン、昼はインフォーメーション係りをこなします。
その発展形が「リボーグQ」です。
巡回警備については、天井にランドマークを貼るだけで済むので設置は簡単とのことです。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① 横回転サーボを取り付ける
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② 縦回転サーボを取り付ける
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③ 右足カバーを取り付ける
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完成状態
右足の先が、ほぼ出来上がった。
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紅の豚

20130914

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宮崎駿監督が引退を表明して、世界中大騒ぎとなった。
私も彼の作品は大好きだったので、とても残念だが、私にも経験あるけれども、「あ、もうダメだな」と思う時は誰にでもやってくる。
それは視力だったり、体力だったり、根気だったりする。
それでも続けるひともいる。いさぎよく身を引く人もいる。

私も、もちろん「となりのトトロ」なんてすばらしい作品で好きだが、一番好きな作品となると「紅の豚」である。
これは男心をほんとにくすぐってくれるし、癒しもしてくれる。

最後の作品となるであろう「風たちぬ」も飛行機に関した作品となったが、生家が航空機産業に関係していたため、幼い頃から空を飛ぶことに憧れていた宮崎が、自分の夢として描いた作品である。宮崎自身がその演出覚書において、「疲れて脳細胞が豆腐になった中年男のためのマンガ映画」にしたいと記している。
まさに脳細胞が豆腐になった私が好きでたまらないわけだ(笑)

あらすじ:
賞金稼ぎを生業とする飛行艇乗りjマルコは、以前から対立している空賊・マンマユート団に襲われたバカンスツアーの女学校の生徒達を助ける。
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その夜、幼なじみのジーナが経営するホテルアドリアーノへ出かけたマルコは、そこでカーチスというアメリカ人と出会い、彼の飛行技術の優秀さを察知する。同時刻のアドリアーノでは、マルコに業を煮やした空賊連合が、マルコに対抗するため若きアメリカの飛行艇乗りカーチスを雇う相談をしていた。
数日後、飛行艇の整備のためにミラノに向かって飛んだマルコは、飛行途中でカーチスに遭遇。離脱を試みるが格闘戦中エンジンが停止し、撃墜されてしまう。辛くも一命を取りとめたマルコは、大破した愛機とともにミラノへ向かい、馴染みのピッコロ社に修理を依頼する。人手不足のピッコロ社で修理・再設計を担当したのは、ピッコロの孫で17歳の少女フィオだった。
フィオの才能と献身的な努力により見事復活した愛機と共に、マルコは、アドリア海の飛行艇乗りの名誉を賭けて、カーチスとの再戦に挑む。だがその時、国家に対して非協力的なマルコを空賊たちもろとも葬ろうと、イタリア空軍の大部隊が迫りつつあった。

キャスト:
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マルコ・パゴット:本作の主人公。黒眼鏡、口ひげをたくわえている豚人間。。真紅の飛行艇に乗って空中海賊を相手にする賞金稼ぎ。かつてはイタリア空軍の大尉でエース・パイロットだったが、軍隊社会に嫌気がさしたため、自らに魔法をかけて豚の姿となり、軍を去った。
ジーナに惚れていて、ただ純粋に飛行艇を操縦していたころ、彼女を載せて遊覧飛行をしたことがあったが、従軍した戦争や戦友の死など様々な経緯の末、現在の関係に至っている。
普段は、アジトの無人島でワインを飲みながらラジオで音楽を聴き、ジタンの煙草をくゆらせる気ままな日々を送っている。
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街に出る時は白いスーツに赤いネクタイを着用し、ボルサリーノの中折れ帽をかぶる。その上にカーキ色のトレンチコートを着るのが常である。
終盤のカーチスの反応から、最終的には人間に戻った様子。

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マダム・ジーナ:本作のヒロイン。マルコの幼なじみ。ホテル・アドリアーノのジーナと呼ばれ有名。空賊達を含め近隣の飛行艇乗りにとってはマドンナであり、「アドリア海の飛行艇乗りは、みんなジーナに(一度は)恋をする」と言われている。彼女がいるホテル・アドリアーノ近辺は事実上の中立地帯。歌い手としても非凡。これまでに三度、飛行艇乗りと結婚したものの、全員と死別している。
自室の隠し無線機を使用し「ハートのG」のコールサインで秘密裏に軍の情報を入手している。フェラーリンと共にポルコを本名で呼ぶ数少ない人物であり、密かにポルコを愛していた様子。

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フィオ・ピッコロ:本作のもう1人のヒロイン。17歳。ピッコロのおやじの孫娘で飛行機設計技師、アメリカでの修行経験がある。マルコが高く評価するほどの腕前。秘密警察に追われ改修後のサボイアの飛行テストもままならずに、ピッコロ社を去ろうとするマルコに「自分の仕事に最後まで責任を持ちたい」理由で同行する。男勝りで勝気な反面、マルコにはその際の内心の怖さも吐露している。

ピッコロのおやじ:イタリア ミラノの飛行艇製造会社「ピッコロ社」の経営者で、フィオの祖父。マルコの昔馴染み。金払いにはシビアだが、面倒見の良い性格。3人の息子がいて、普段はその息子たちが設計を担当するのだが、不況の折の出稼ぎで3人とも不在で男手が足りないことから、仕事が入ると多くの親戚(全員女性)を従業員として工場を運営する。サボイアの改修に関しては機体全般はフィオに任せ、自らは最も得意とするエンジンチューニングに専念する。

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マンマユート・ボス:大きな鼻にゴーグルが特徴の空中海賊マンマユート団の親分。マンマユート団は、直訳すると「ママ助けて団」であるが、原作『飛行艇時代』によると「ママ怖いよ団」。空賊連合とは一定の距離を置いて一匹狼を気取っていたが、マンマユート団単機ではマルコに抗しきれず、不本意ながら連合と仕事を共にする。直情的ではあるが人情に厚く部下にも慕われる。マルコの過去を知る人間の一人。メインキャラクターであるが、正式な名前は設定されていない。空賊なので金品の強奪は行うが、仲間外れを作ってはかわいそうだと襲撃した船に乗っていた子供を全員人質に取るなど優しい一面も。

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ドナルド・カーチス:アメリカ人(祖母はイタリア人のクォーターらしい。空賊連合が雇った用心棒で、マルコのライバルとなる飛行艇乗り。マルコには「アメリカ野郎」と呼ばれているが同時に腕前も認められている。惚れっぽい性格で、ジーナやフィオを次々口説くも玉砕する。後日、アメリカに帰国し西部劇の主演俳優となる。彼にとっては空賊の用心棒、映画俳優はあくまでも彼の人生の最終目標であるアメリカ合衆国大統領への布石に過ぎない。


作品名に含まれる「紅」だが、これはもちろん主人公が操縦する機体色なのだが、実に良い色です。
この「イタリアン・カラー」には、特に思い入れもあります。
F1に夢中だった頃、フェラーリのこの色にはほんとにワクワクしましたね。
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加藤登紀子の歌がいい。「さくらんぼの実る頃」と 「時には昔の話を」の二曲を唄っています。


珠玉/開高健

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氏の絶筆となった本で、アクアマリン、ガーネット、ムーン・ストーンという3つの宝石を題材にした3つの短編が入っています。
氏は、文章を推敲に推敲を重ねて書いて、命を削ってしまった人だからして、何度読み返しても文章にはうなるばかりです。

アクアマリンを持っていたのは、高田先生という、作家がバーでよく一緒に飲む人。
アパートに一人で住んでいて、何も持っていない人だが、ある日作家にチャブ台に広げてみせてくれる。
「人間本来無一物ですが」と云いながら。
だまって先生の言葉にうなずきながらチャブ台の石の集群に見とれる。泡の入ったのもなく、猫の瞳の入ったのもないが、どの石もこの石も、煌めきわたる。指がちょっとふれただけでたちまち切子の面が新しい光をとらえて反射する。淡い青だけれど薄弱な青ではない。つよい、みごとな、張りつめた煌めきの青で底がない。淡いのに強いのである。それでいて暢達である。のびのびしている。衰弱や未熟の淡さではない。これは海の色の他の何でもないが、北の海ではなくて、まぎれもなく陽光に輝やく南の海のものであろう。それも深海ではなく、童女の微笑のように日光とたわむれる岸近くのさざ波であろう。プランクトンや、卵や、精のひしめきあいを含んでいるはずなのに一切の混濁と執着を排しきっている。

作家は「『文房清玩』とはいい言葉ですね」とためいきをつく。

ガーネットは菜館の店主から作家が借りる。
折に触れ眺めるたびに、その石は色々な緋色を見せる。その色から作家は東南アジアの夕焼けの色、闘魚「ベタ」の色、アラスカのキングサーモンの色を想いだす。その色にまつわる混沌とした事象を想いだす。
たとえば、こうである。
 石はつめたい。凛と張りつめて冷澄である。そこにみなぎる赤は濃くて暗くて、核心部はほとんど闇である。深沈とした激情と見える。どれだけ透かしてみても、泡、亀裂、罅(ひび)、引っ掻き傷など、何もない。石そのもののどこかに明るさがあり、のびやかな華と感じられるが、照り、艶、カット、色価、全体としての石品の何からくるものだろうか。指の腹で愛撫していると、カットの鋭さがヒリヒリとこたえて、いよいよ冷澄に感じられる。石化した焔である。氷の血ともいえようか。しかし、ある朝、革袋からとりだしたとき、なにげなく指でふれると、たちまち曇りがあらわれ、こまかい霜を吹いたようになった。色がくすんだ朱に変った。おやと思って眼を凝らすと、瞬後に曇りは散って、晴れて、朱のくすみが消えた。それは二度と発現しなかった。指の腹で何度撫でてみても、あたたかい息を吐きかけてみても、氷河の雪どけ水の青白い河のなかに明滅するサケの腹は、その婚姻色は、ふたたびあらわれようとしなかった。それは一瞬あらわれ、たちまち消えてしまった。
その石を返したあと、作家はつづやく。
「またしても事物の力に敗れたか」

ムーンストーンは作家が買った石である。
この石のたたえるおだやかな乳白色には〝はんなり″と呼びたいものがある。春のおぼろ月夜に似たそれである。しかし、この石のおぼろさはそれだけではすまなくて、精妙な半透明があるために、〝冷澄″や〝玲隴″が入ってくる。〝はんなり″はどちらかといえば〝人肌″の温感をしのばせるけれど、冷澄なはんなりとか、玲隴としたはんなりとかいう美学はあるものだろうか。肌はつめたいけれど血は熱いという白哲の女がいたら、そうなるだろうか。 その、玲璃の、気高い、澄んだ乳霧のさなかにほの白い章が浮いて、くっきりと浮いて、青く光る。乳霧が青光りで煌めくのである。こうなると清楚を超えて凄みがあらわれる。指さきでいろいろな角度に向きを変えてあそんでいると、どうかしたはずみに、一瞬、暈が消えて清潔な青の燦光が石の内面すべてにみなぎるかと見えることがある。それは瞬後に消えて、煌めきは暈の内部へつつましやかにこもってしまう。こういう無言のたわむれに魅せられる。花の魅力の一つは自身の美しさにまったく気がついていないということにあるかと思われるが、この端麗な小石はさまざまにあそびながら、全身で歓声をあげてはしゃぎたちつつ、ふとだまりこんでしまう。それでいて冷澄に短めきつづけ、無心でありつづける。

もちろん、石が主役ではなくて、その石にまつわった人間が主役です。
開高健の本を読むたびに、その表現力に降参しているので、どういう風に石を表現しているのか紹介したまでです。

最後を飾るのは、新潟の山奥にある山小屋の温泉での若い女性新聞記者との究極の「交わり」である。
これは読んでもらうしかありませんね。
そして、「・・・・・女だったのか」で話は終わります。

蛇足ですが、この本はだいぶ昔に買った本です。
発行日を見ると1990年となっていますから、この年に買ったと思います。
それ以来、宝石は買ったことがありませんが、よく河原から石を拾ってきます。
赤、白、黒は、色や模様の綺麗なものが溜まっていますが、私がいつも探すのは「緑」。
これは良いものが見つからないですね。
気に入って、机の上に置いているのがこれです。
長辺で5Cmちょっとですから小さいものです。
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廣瀬神社(延喜式内社)/埼玉県狭山市

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今年の春から「関八州式内社めぐり」を始めたので、私が住んでいる市に唯一存在する式内社の当社を早いうちに紹介しなければと、今日写真を撮ってきました。
地元ということで、いままでも色々と訪ねているので、その時の写真も織り交ぜて紹介していきます。

社号標
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鳥居
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参道は桜並木となっています。
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参道を横切っている公道を渡ると境内となります。
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境内は、欅、樫などの樹が多くて、気持ちの良い空間となっています。
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なかでも、ひときわ目立つのが県指定天然記念物の二本の大ケヤキです。
樹齢1000年の大欅
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樹齢900年の大欅
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神楽殿
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その横に神輿庫
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ここに掛けられている「徳維新」の額は、江戸末期の高名な書家「中澤雪城」の揮毫によるもの。
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当社の神輿(2012年秋季例大祭のとき)
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氏子が、舎人の衣装でかつぎます。
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ちゃんと猿田彦命が先導します。
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社殿の前の参道には、三対の灯篭が並びます。
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真ん中の灯篭がいいですね。
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手水舎
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社殿は、拝殿、本殿ともに「流れ造り」であるが、拝殿の平入に参拝者の便を図って立派な屋根をかけているのが特徴。
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正面の御神号額は「明治の三筆」と称された野村素介の御染筆である。
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拝殿内部
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神紋は「左三つ巴」
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主祭神は若宇加能売命、相殿神が神火産霊命、木花咲耶姫命、八衢比古命、八衢比売命、久那斗命です。

創建は、社伝によれば景行天皇代に日本武尊が東征の折、この地を通りかかった際、この地が大和国広瀬郡川合(現在の奈良県北葛城郡河合町)に似ているとして、その地に祀られていた廣瀬大社の神々を分祀し、武運長久と五穀豊穣を願ったことによる。
これを信ずれば当神社は廣瀬大社の分社ということになるが、日本武尊自身が伝説的人物である上、廣瀬大社にも武蔵国に分祀を行ったという記録は残されておらず、分社であるとは認めがたい。現在では「広瀬」の社号は廣瀬大社に由来するものではなく、この地が川の合流点に位置し広く瀬が広がっているから「広瀬」という自然地名からついたもので、偶然の一致であるとされる。
しかし入間郡内でも有力な古社であったのは事実で、六国史である『日本文徳天皇実録』の嘉祥3(850)年6月3日條に「詔以武藏國廣瀬神。常陸國鴨大神御子神主玉神。並列於官社」として、官社に列せられたことが記されている。
またそれから約80年後の延長5(927)年にまとめられた延喜式神名帳では、そのまま「廣瀬神社」の名で武蔵国入間郡五座の一座に列せられている。

若宇加能売命・神火産霊命は、この神社の本社とされている大和国の廣瀬大社の祭神である。廣瀬大社側の伝承によると、若宇加能売命は豊宇気比売大神・宇加之御魂神と同神という。一方、神火産霊命は火の神・カグツチの別名であり、廣瀬大社側の「穂雷命」に相当する。
他の神々は明治40(1907)年の神社合祀の際、愛宕神社と浅間神社を合祀した際に祭神となったものである。木花咲耶姫命が旧浅間神社、八衢比古命・八衢比売命・久那斗命が旧愛宕神社の祭神である。八衢比古命は猿田彦命、八衢比売命は天宇受売命と同一神であり、久那斗命は神格不明であるが災いを遮る神とされ、道祖神として信仰されていたものであった。

拝殿の千木先端が「内削ぎ(平削ぎ)」となっており、女性神を表わしている。
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本殿が瓦葺きで、鯱鉾が載っているのが変わっている。
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太鼓楼
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樹齢400年の「不朽の梅」
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梅は200年を超えるとよじれるそうですが、すごい幹です。
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こういう花を咲かせます(2012年撮影)。
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その奥に句碑がありますが、安政5年に建てられた当地在住の18名の方の合同句碑です。
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左から三人目の句が、当地の偉人清水宗徳15歳の時の句です。
「月澄めば香も一入ぞ梅の花」
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社殿の左側は、欅の林となっていて、実に気持ちがいい。
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池もあります。
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池の手前には、「霞神社」がありますが、これは明治の日清・日露以来の、この地から出征した若者の御霊を祀っているものです。
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芭蕉の句碑があります。
「物言波ば 唇さむし 秋の空」
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これは、「斜子織」の碑で、埼玉県令の白根多助が詠んだ歌、漢字をあてていますが、わかりやすく書くとこうなります。「ひろせのなみのあやなるを たれかわごえのなにながしけむ」と刻まれています。
これは、江戸時代から明治にかけて、三井とか大丸で売られ、好評を博していた「川越斜子」の織物が、実はここ広瀬で織られていたことを説明しています。
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樹齢1000年の根元にある灯篭で「照風灯」と名づけられています。
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大正11年奉納のものですが、ハートとか五徳とか彫刻がユニークで、珍しいものだと思います。
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境内社が二つ覆屋の中に入っています。
八幡神社と杉森稲荷社です。
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杉森稲荷社が檜皮葺きの社殿で彫刻もなかなかのものです。
祭神は保食命、猿田彦命、大宮廼売命
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その横に八幡神社。
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廣瀬神社で忘れてならないのが、アオバズクの営巣・子育てです。
6月の初めにやってきて、ペアリングがあり、境内の樫や欅の樹で営巣、ヒナができて子育てをし、8月の半ばに東南アジアのほうに飛びだっていきます。
私は、去年からその撮影をしています。
アオバズクの家族
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親鳥
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可愛いヒナ
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最後に、この境内でこの地域の方々が、4/1~11/15の期間、毎朝ラジオ体操をしています。
私もアオバズクを見に来た時は一緒に体操します。
お年寄りから子供たちまで毎朝一緒に体操しているんですよね。
とっても素晴らしいコミュニティが、この地域ではできあがっています。
素晴らしいです。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


ドヴォルザーク/ヴァイオリン協奏曲

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指揮:イルジー・コウト
管弦楽:NHK交響楽団
バイオリン:ヴェロニカ・エーベルレ
2008年11月21日 NHKホール

ドヴォルザークは前年の1878年にヨーゼフ・ヨアヒムと出逢い、協奏曲の作曲を思い立つ。したがって作品はヨアヒムに献呈されたが、彼はこの作品に疑念を抱いていた。第1楽章において、オーケストラのトゥッティのぶっきらぼうな削減に反感を覚えたためとか、あるいは再現部を切り詰めてそのまま緩徐楽章に進むことに好感を覚えなかったためだと言われる。また、終楽章における執拗な反復にも狼狽したようだ。いずれにせよヨアヒムは実際にこの作品を演奏したことはなかったものの、この作品について大っぴらな発言をすることはなく、代わりにただ独奏パートの校訂を要望しただけだった。

楽曲は、古典的な急-緩-急の3楽章構成に則っている。今日になって漸くこの作品の独創性が認められるようになってきた。わけても第2楽章の美しい抒情性が名高い。

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ヴァイオリンソロのヴェロニカ・エーベルレは、10歳でソリスト・デビューしてすでにドイツでは「コンサート優勝で箔をつける必要は無い」なんて言われているらしい。「ムター以来」とも言われるとか。
当時まだ19歳という、ドイツ生まれの若いヴァイオリニスト。いまもミュンヘン音大でアナ・チュマチェンコ先生のクラスで勉強中だとか。
聴いた印象は非常に厚みのある「美音」の持ち主。
非常にオーソドックスな演奏で、低音域が伸びやかなドヴォルザークの曲をしっかりと演奏していた。
なによりも、こんなに美人だったら、いつでも聴いていたい。いや、演奏を見ていたい(笑)
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ドヴォルザークでコンチェルト、と言えば一にも二にもロ短調のチェロ協奏曲を指すほど有名ですが、しかしこのヴァイオリン協奏曲もとてもいいと思う。
このヴァイオリン協奏曲は、チェロ協奏曲と同じ種類の魅力を抱えている。それはつまり濃厚な民族情緒であり、独奏ヴァイオリンの名人技であり、耳馴染みの良いメロディの豊富さであり、コンチェルトとしての面白さが不足なく詰まっている。

ソロバイオリンとオーケストラのバランスがいいですね。ソロからオケにきれいな旋律が引き継がれていき、時にはソロの音にオケの音が柔らかく、暖かく覆いかぶさっていく。N響らしいですよね。



ベッシュ・ボンボン

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この薔薇で、めでたく100品銘の紹介となりました。
今まで撮った写真で300品銘くらいあると思いますが、俗に一万種と云われていますからまだまだですね。
これからも頑張って集めていきます。

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系 統: S シュラブ
作出年: 2009年  
作出国: フランス
作出者: Arnaud Delbard
花 色: アプリコット~ピンクの複色
花 径: 大輪
香 り: 強香
開花性: 四季咲き

切れ込みが入る花弁がたっぷりと重なって、個性的なシルエットの大輪咲きです。
花弁は淡い黄色からグラデーションがかってピンクの縁取りがが入ったり、絞りになったり様々な表情を見せるようです。

甘い香りの強香種とのことですが、嗅いだ印象はフルーツ系の新鮮な香りでした。甘い香り好きな私にとっては嬉しい香りでした。

名はその愛らしい色、形、香りから「桃のお菓子=ペッシュ・ボンボン」と命名されたそうです。


2013年6月2日 軽井沢レイクガーデンにて
この時期だとバラ園は、まだ全然咲いていませんでした。ショップにあった薔薇です。


みか神社(延喜式内社)/埼玉県児玉郡美里町

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この神社は、鎌倉街道散歩の際、2012年7月10日に訪れました。「鎌倉街道散歩」の記事では簡単に紹介しただけでしたが、今年の春から「関八州式内社めぐり」を始めたので、改めて掲載することにしました。

参道入り口の社号標
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参道の入口に「芭蕉」と書かれた句碑がありました。ここで詠まれたということではなくて、出典は『一井庵宛消息』かららしいです。
「 麦刈りて桑の木ばかり残りけり 」
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鳥居があり、手水舎があります。
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参道が左に直角が曲がり、右手に神楽殿、正面に社殿となります。
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狛犬
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社殿は、拝殿の後ろに本殿
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祭神は、櫛御気野命、櫛甕玉命であり男女の酒造の神様です。
合祀神が大山咋命、宇賀能御魂命、天宇受女命、佐田比古命、迦具土命、須佐之男命となっています。
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社名の「みか」の漢字がPCでは出せません。

みか神社の創立年代は不詳であるが、醍醐天皇の延喜式神明帳に登載されている古い社で、祭神に櫛御気野命、櫛瓺玉命の二神が祀られている。江戸時代の享保8年(1723)に正一位を授けられたと伝えられ、宝暦8年(1758)に建設された境内の碑にも「正一位みかの神社」とある。現在の社殿は宝暦13年に再建したもので、これを記した棟札が残っている。
社名のみかとは酒を造るために用いた大きな甕のことで、現在、当社に御神宝とされていたと思われる土師器のミカが四個保存されている。
例祭は、毎年4月13日と10月15日に行われ、以前は秋の例祭に新米で濁酒を二瓶造り、これを神前に奉納して、その一つは翌年春の参拝者に分け与え、他の一つは秋の例祭のときに新調したものと交換していた。現在は清酒を奉納し、これを御供物として参拝者に分け与えている。(埼玉県掲示より)

宝暦13(1763)年に建てられたという社殿は立派で美しいものです。
拝殿
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本殿は、美しい流造でした。
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本殿の背面上部
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本殿の背面下部
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社叢の草むらには、ツユクサと桜草が咲いていた。
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当社のすぐ隣に、「摩訶池」という、摩訶不思議な名前の池があります。
調べてみると、昔は今よりも何倍も大きかったといいます。現在この池は灌漑用に利用されています。曝井の遺跡のそばの常福寺の開山、空興上人はこの地が水利が悪く、農民が困っているのをみて、摩訶般若の秘法を修して面積四町余歩の池を築かせたといい、その池が「摩訶の池」だと伝えられています。
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『居眠り磐音 江戸双紙』第37巻「一矢ノ秋」&第38巻「東雲ノ空」/佐伯泰英

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第37巻「一矢ノ秋」

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この巻では、まず品川柳次郎がお有と所帯を持って1年がたち、仲人の桂川甫周にあいさつに行き、ついでに診察をしてもらい、お有がめでたく妊娠していることがはっきりした。
坂崎磐音とおこんは、尾張名古屋を出るときに尾州茶屋中島家が京都の本家に身を寄せるように手配したが、その筋は容易に推測されるとして、途中で味方の眼もくらまし、実は霧子の育った、高野山内八葉外八葉のうちにある雑賀衆の隠里「姥捨の郷」にて日々を過ごしていた。そこには弥助、霧子に加えて途中から合流した松平辰平と重富利次郎も一緒であった。おこんは男子を出産し、「空也」と磐音は名付け、その子もすくすくと成長して、二歳になっていた。

田沼の刺客雹田平も、ようやく磐音たちのありかを捉え、唐人などの百から二百人の刺客でもって襲う手立ての準備を進めている。
しかし、弥助と雑賀衆もまた、京に潜んでいる雹田平を京都の茶屋本家の協力で網にかけて、監視下においていた。茶屋は徳川家の細作の家系、その力もまたすごかった。

磐音は、刺客雹田平らとの決戦が近いと感じ、その決戦の後江戸にもどる決心をし、松平辰平を密かに江戸に送り関係者にその情報をもたらす。重富利次郎もまた尾張に派遣され、磐音が尾張に滞在中懇意となった尾張徳川家重臣などに、江戸に出て田沼との勝負の際の布石をしていた。

田沼意次の愛妾「おすな」が、女人禁制の高野山奥の院に、田沼の代参として、しかも駕籠に乗ったまま入り込むことを高野山に通告してきた。もちろんこれは磐音を攻撃する雹田平らの指揮をするためである。
いよいよ決戦の時が来た。

この巻で磐音が相対したのは、雹田平の唐人剣、その他は特に流派の説明なし。
小田平助が相対したのが、剛毅一刀流。


第38巻「東雲ノ空」

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この巻では、六郷の渡しを磐音と思しき7人の連れが大っぴらに渡ろうとして、待ち構えていた田沼の密偵たちに阻まれるが、それは品川柳次郎とお有の夫婦を含む、目くらましの一行であった。磐音とおこんは小田平助とともに密かに多摩川の丸子の渡しを渡っていた。いよいよ磐音たち一行が帰って来たのである。おこんのお腹には二人目の子が出来ていた。
江戸に来る前に、磐音たちは京都に1か月滞在し、高野山奥之院副教導の室町光然や茶屋本家の力を借り、朝廷の公家にも会い、田沼打倒の布石を打った。その後尾張名古屋にも3か月滞在し、尾張徳川家重臣と再会し、田沼に対する包囲網を強化していた。

両国橋を空也の両手を磐音とおこんが引いて、三人で歩いて渡り、江戸に戻ってきたことを確信した。
磐音たちは、小梅村にある今津屋の寮で生活を始める。今津屋はなんと隣家を買い取り、道場をこしらえていた。
小田平助の案内で磐音が中に入ると、佐々木道場の懐かしい門弟が十人ほど出迎えてくれた。佐々木道場の再興である。

重富利次郎は、土佐高知藩江戸上屋敷に磐音と共に父母に無事江戸に帰着の報告にいくが、その際振袖をおこんに着せられた霧子を同道する。
松平辰平もまた磐音と共に、旗本松平家に帰着のあいさつにいくが、母は福岡の大商人箱崎屋治郎平の末娘お杏から厚い手紙の束を手にして待っていた。

この巻で磐音が相対したのは、天真正伝神道流、公儀御庭番衆道潅組頭甲賀濡八、相州一刀流、その他は特に流派の説明なし。


古事記を知る(21)

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4-4 八千矛神の妻問い物語
此八千矛神。將婚高志國之沼河比賣幸行之時。到其沼河比賣之家歌曰。

夜知富許能。迦微能美許登波。夜斯麻久爾。都麻麻岐迦泥弖。登富登富斯。故志能久爾爾。佐加志賣遠。阿理登岐加志弖。久波志賣遠。阿理登岐許志弖。佐用婆比爾。阿理多多斯。用婆比爾。阿理加用婆勢。多知賀遠母。伊麻陀登加受弖。淤須比遠母。伊麻陀登加泥婆。遠登賣能。那須夜伊多斗遠。淤曾夫良比。和何多多勢禮婆。比許豆良比。和何多多勢禮婆。阿遠夜麻爾。奴延波那伎。佐怒都登理。岐藝斯波登與牟。爾波都登理。迦祁波那久。宇禮多久母。那久那留登理加。許能登理母。宇知夜米許世泥。伊斯多布夜。阿麻波勢豆加比。許登能。加多理其登母。許遠婆。

爾其沼河比賣未開戸。自内歌曰。

夜知富許能。迦微能美許等。怒延久佐能。賣爾志阿禮婆。和何許許呂。宇良須能登理叙。伊麻許曾婆。知杼理爾阿良米。能知波。那杼理爾阿良牟遠。伊能知波。那志勢多麻比曾。伊志多布夜。阿麻波世豆迦比。許登能。加多理碁登母。許遠婆。
阿遠夜麻邇。比賀迦久良婆。奴婆多麻能。用波伊傳那牟。阿佐比能。恵美佐迦延岐弖。多久豆怒能。斯路岐多陀牟岐。阿和由岐能。和迦夜流牟泥遠。曾陀多岐。多多岐麻那賀理。麻多麻傳。多麻傳佐斯麻岐。毛毛那賀爾。伊波那佐牟遠。阿夜爾。那古斐岐許志。夜知富許能。迦微能美許登。許登能。迦多理碁登母。許遠婆。

故其夜者不合而。明日夜爲御合也。
又其神之嫡后須世理毘賣命。甚爲嫉妬。故其日子遅神和備弖。
三字以音自出雲將上坐倭國而。束装立時。片御手者繋御馬之鞍。片御足踏入其御鐙而。歌曰。

 奴婆多麻能。久路岐美祁斯遠。麻都夫佐爾。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許禮婆布佐波受。幣都那美。曾邇奴岐宇弖。蘇邇杼理能。阿遠岐美祁斯遠。麻都夫佐爾。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許母布佐波受。幣都那美。曾邇奴棄宇弖。夜麻賀多爾。麻岐斯。阿多泥都岐。曾米紀賀斯流邇。斯米許呂母遠。麻都夫佐爾。登理與曾比。淤岐都登理。牟那美流登岐。波多多藝母。許志與呂志。伊刀古夜能。伊毛能美許等。牟良登理能。和賀牟禮伊那婆。比気登理能。和賀比気伊那婆。那迦士登波。那波伊布登母。夜麻登能。比登母登須須岐。宇那加夫斯。那賀那加佐麻久。阿佐阿米能。佐疑理邇。多多牟叙。和加久佐能。都麻能美許登。加多理碁登母。許遠婆。

爾其后取大御酒坏。立依指擧而歌曰。

 夜知富許能。加微能美許登夜。阿賀淤富久邇。奴斯許曾波。遠邇伊麻世婆。宇知微流。斯麻能佐岐邪岐。加岐微流。伊蘇能佐岐淤知受。和加久佐能。都麻母多勢良米。阿波母與。賣邇斯阿禮婆。那遠岐弖。遠波那志。那遠岐弖。都麻波那斯。阿夜加岐能。布波夜賀斯多爾。牟斯夫須麻。爾古夜賀斯多爾。多久夫須麻。佐夜具賀斯多爾。阿和由岐能。和加夜流牟泥遠。多久豆怒能。斯路岐多陀牟岐。曾陀多岐。多多岐麻那賀理。麻多麻傳。多麻傳佐斯麻岐。毛毛那賀邇。伊遠斯那世。登與美岐。多弖麻都良世。

如此歌。即爲宇伎由比
四字以音而。宇那賀気理弖。六字以音至今鎮座也。此謂之神語也。

(読み)
コノヤチホコノカミ コシノクニノヌナカハヒメヲヨバヒニイデマシシトキ ソノヌナカハヒメノイヘニイタリテウタヒタマハク 

ヤチホコノ カミノミコトハ ヤシマクニ ツママギカネテ トホトホシ コシノクニニ サカシメヲ アリトキカシテ クハシメヲ アリトキコシテ サヨバヒニ アリタタシ ヨバヒニ アリカヨハセ タチガヲモ イマダトカズテ オスヒヲモ イマダトカネバ ヲトメノ ナスヤイタトヲ オソブラヒ ワガタタセレバ ヒコズラヒ ワガタタセレバ アヲヤマニ ヌエハナキ サヌツトリ キギシハトヨム ニハツトリ カケハナク ウレタクモ ナクナルトリカ コノトリモ ウチヤメコセネ イシタフヤ アマハセズカヒ コトノ カタリゴトモ コヲバ

ココニソノヌナカハヒメイマダトヲヒラカズテ ウチヨリウタヒタマハク 

ヤチホコノ カミノミコト ヌエクサノ メニシアレバ ワガココロ ウラスノトリゾ イマコソハ チドリニアラメ ノチハ チドリニアラムヲ イノチハ ナシセタマヒソ イシタフヤ アマハセヅカヒ コトノ カタリゴトモ コヲバ
アヲヤマニ ヒガカクラバ ヌバタマノ ヨハイデナム アサヒノ エミサカエキテ タクヅヌノ シロキタダムキ アワユキノ ワカヤルムネヲ ソダタキ タタキマナガリ マタマデ タマデサシマキ モモナガニ イハナサムヲ アヤニ ナコヒキコシ ヤチホコノ カミノミコト コトノ カタリゴトモ コヲバ

カレソノヨハアハサズテ クルヒノヨミアヒシタマヒキ
マタソノカミノオホギサキスセリビメノミコト イタクウハナリネタミシタマヒキ カレソノヒコヂノカミワビテ イズモヨリヤマトノクニニノボリマサムトシテ ヨソヒシタタストキニ カタミテハミマノクラニカケ カタミアシソノミアブミニフミイレテ ウタヒタマハク 

 ヌバタマノ クロキミケシヲ マツブサニ トリヨソヒ オキツトリ ムナミルトキ ハタタギモ コレハフサハズ ヘツナミ ソニヌギウテ ソニドリノ アヲキミケシヲ マツブサニ トリヨソヒ オキツトリ ムナミルトキ ハタタギモ コモフサハズ ヘツナミ ソニヌギウテ ヤマガタニ マギシ アタネツキ ソメキガシルニ シメコロモヲ マツブサニ トリヨソヒ オキツトリ ムナミルトキ ハタタギモ コシヨロシ イトコヤノ イモノミコト ムラトリノ ワガムレイナバ ヒケトリノ ワガヒケイナバ ナカジトハ ナハイフトモ ヤマトノ ヒトモトススキ ウナカブシ ナガナカサマク アサアメノ サギリニ タタムゾ ワカクサノ ツマノミコト カタリゴトモ コヲバ

ココニソノキサキオホミサカヅキヲトラシテ タチヨリササゲテウタヒタマハク

 ヤチホコノ カミノミコトヤ アガオホクニ ヌシコソハ ヲニイマセバ ウチミル シマノサキザキ カキミル イソノサキオチズ ワカクサノ ツマモタセラメ アハモヨ メニシアレバ ナヲキテ ヲハナシ ナヲキテ ツマハナシ アヤカキノ フハヤガシタニ ムシブスマ ニコヤガシタニ タクブスマ サヤグガシタニ アワユキノ ワカヤルムネヲ タクズヌノ シロキタダムキ ソダタキ タタキマナガリ マタマデ タマデサシマキ モモナガニ イヲシナセ トヨミキ タテマツラセ 

カクウタヒテ スナハチウキユヒシテ ウナガケリテ イマニイタルマデシズマリマス コレヲカミコトトイフ

(現代語訳)
 この八千矛神(大国主命)が、越国の沼河比売に求婚しようとして、お出かけになったとき、その沼河比売の家に着いて歌われた歌は、

八千矛の神の命は、日本国中で思わしい妻を娶ることができなくて、
遠い遠い越国に賢明な女性がいるとお聞きになって、美しい女性が
いるとお聞きになって、求婚にしきりにお出かけになり、求婚に通い
つづけられ、大刀の緒もまだ解かずに、襲(おすい)をもまだ脱がない
うちに、少女の寝ている家の板戸を、押しゆさぶって立っておられると、
しきりに引きゆさぶって立っておられると、青山ではもう鵠が鳴いた。
野の堆はけたたましく鳴いている。庭の鶏は鳴いて夜明けを告げている。
いまいましくも鳴く鳥どもだ。あの烏どもを打ちたたいて鳴くのをやめ
させてくれ、空を飛ぶ使いの鳥よ。――これを語り言としてお伝えします。

とお歌いになった。そのとき沼河比売は、まだ戸を開けないで、中から歌って、

八千矛の神の命よ、私はなよやかな女のことですから、わたしの心は、
浦洲にいる水鳥のように、いつも夫を慕い求めています。ただ今は自分の
意のままにふるまっていますが、やがてはあなたのお心のままになる
でしようから、鳥どもの命を殺さないで下さい、空を飛びかける使いの鳥よ。
――これを語り言としてお伝えします。

青山の向うに日が沈んだら、夜にはきっと出て、あなたをお迎えしましょう。
そのとき朝日が輝くように、明るい笑みを浮かべてあなたがおいでになり、
白い私の腕や、雪のように白くてやわらかな若々しい胸を、愛撫したり
からみ合ったりして、玉のように美しい私の手を手枕として、脚を長々と
伸ばしておやすみになることでしようから、あまりひどく恋いこがれなさい
ますな、八千矛の神の命よ。――これを語り言としてお伝えします。

と歌った。そしてその夜は会わないで、翌日の夜お会いになった。
 また八千矛神の正妻の須勢理毘売命は、たいそう嫉妬深い神であった。そのために夫の神は当惑して、出雲国から大和国にお上りになろうとして、旅支度をして出発されるときに、片方のお手をお馬の鞍にかけ、片方の足をその御鐙に踏み入れてお歌いになった歌は、

黒い衣裳をていねいに着こんで、沖の水鳥のように胸元を見ると、鳥が
羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これは似合わない。岸に寄せる
波が引くように後ろに脱ぎ棄て、こんどはかわせみの羽のような青い
衣裳をていねいに着こんで、沖の水鳥のように胸元を見るとき、鳥が
羽ばたくように、袖を上げ下げして見ると、これも似合わない。
岸に寄せる波が引くように後ろに脱ぎ棄て、山畑に蒔いた蓼藍を臼で
舂き、その染め草   の汁で染めた藍色の衣をていねいに着こんで、
沖の水鳥のように胸元を見ると、鳥が羽ばたくように、袖を上げ下げして
見ると、これはよく似合う。いとしい妻の君よ、群鳥が飛び立つように、
私が大勢の供人をつれて行ったならば、引かれてゆく鳥のように、私が
大勢の供人に引かれて行ったならば、あなたは泣くまいと強がって言っても、
山の裾に立つ一本の薄のようにうなだれて、あなたは泣くことだろう、
そのあなたの嘆きは、朝の雨が霧となって立ちこめるように、嘆きの霧が
立ちこめるであろうよ。いとしい妻の君よ。――これを語り言としてお伝え
いたします。

とお歌いになった。そこでその后は大御杯を取って、夫の神のそばに立ち寄り、杯を捧げて歌われた歌は、

八千矛の神の命は、わが大国主神よ。あなたは男性でいらっしゃるから、
打ちめぐる島の崎々に、打ちめぐる磯の崎ごとに、どこにも妻をお持ちに
なっているでしょう。それにひきかえ、私は女性の身ですから、あなた
以外に男はありません、あなたのほかに夫はないのです。綾織の帳の
ふわふわと垂れている下で、苧(からむし)の夜具のやわらかな下で、
𣑥(たく)の夜具のざわざわと鳴る下で、沫雪ののように白い若やかな胸を、
𣑥の綱のように白い腕を、愛撫しからませ合って、わたしの美しい手を
手枕として、脚を長々と伸ばしておやすみなさいませ。さあ御酒を
召し上りませ。

とお歌いになった。こう歌ってただちに杯をかわして夫婦の契りを固め、互いに首に手をかけて、現在に至るまでむつまじく鎮座しておられる。以上の五首を神語という。

(注)
○八千矛神 八千矛神は大国主神の別名とされているが、元来は別神であった。この歌物語は、八千矛神を主人公とする物語が、大国王神に結合されたものである。
○高志国 越国すなわち北陸地方をさす。
○沼河比売 越後国頸城郡沼川郷の地名による女神。糸魚川市にこの女神を祭る奴奈川神社がある。この地方では、純文時代にヒスイの玉造りが行なわれた。
〇八島国 大和朝廷の支配権の及んでいた日本国内をさす。
○妻枕(ま)きかねて 「枕く」は共寝をする、娶るの意。
○さ婚(よば)ひに 「よばひ」は求婚すること。
○襲(おすひ)をも 「おすひ」は頭からかぶって衣服を覆った布。
○わが立たせれば この歌は第三人称で歌われているが、中途で第一人称に転じて「わが」が用いられている。○鵺は鳴きぬ 「ぬえ」はトラツグミの古名。夜半から早朝にかけて、哀調をおびた声で鳴く。
○庭つ鳥 庭で飼う鳥の意で、「鶏」の枕詞。
○うれたくも 「うれたし」はいまいましい、腹立たしいの意。
○打ちやめこせね 打ちこらして、鳴くのをやめさせてくれ、の意。
○いしたふや 「天馳使」の枕詞であろうが、語義は明らかでない。
○天馳使 空を飛びかける使いの意で鳥をさす。「いしたふや 天馳使」の二句は、前の「この鳥も 打ちやめこせね」に続く。
○事の語言もこをば これをば、物語の語り言としてお伝えします、の意。この三句は、神語歌と天語歌の終りに添えられた結びの詞である。
○ぬえ草の なよなよとした草のような、の意で「女」の枕詞。
○浦渚の鳥ぞ 浦の渚にいる鳥(千鳥・鶴など)のように、つねに夫を慕い求めている、の意であろう。
○我鳥 自分の意のままにふるまう鳥の意。次の「汝鳥」とともに、自己を鳥にたとえた語。
○な殺(し)せたまひそ どうか殺さないでください、の意。前の歌に歌われた鳥の命を殺さないでください、という意。
○ぬばたまの 「ぬばたま」は檜扇の実で、色が黒いので、この句は「黒」「夜」などの枕詞となった。
○夜は出でなむ (八千矛神に対して)夜になったら出ておいでなさい、の意とする説もあるが、夜にはきっと出て、あなたを家に迎え入れましょう、の意と解釈するのがよい。
○朝日の 朝日の明るいように、の意で「笑み栄え」の枕詞。
○𣑥綱(たくづの)の 楮の樹皮の繊維で作った白い綱のように、の意で「白き」の枕詞。
○沫雪の 沫雪のように白く柔らかな、の意で「若やる胸」の枕詞。
○そだたき そっと軽くたたいたり撫でたりして、愛撫することであろう。
○たたきまながり 「たたき」は「そだたき」と同じで愛撫すること。「まながり」は語義未詳。からみつく意であろうか。
○股長に 股を長くのばして。
○寝はなさむを 「なす」は「寝」の敬語。
○な恋ひ聞こし 恋い慕って下さいますな、の意。
○嫉妬(うはなりねたみ) 「うはなり」は後で娶った妻。前妻が後から娶った妻をねたむこと。
○沖つ烏 沖の水鳥が首を曲げて、自分の胸のあたりをつつくようにの意で、「胸見る」の枕詞。
○はたたぎも 烏が羽ばたきをして翼をひろげるように、両袖をひろげ伸ばすことであろう。
○そに脱き棄て 「そ」は背で、うしろをいう。岸に寄せた波が後ろへ引くように、衣服を後ろに脱ぎすてること。
○そに烏の 「そに」はカワセミ(翡翠)の古語。背の色が緑青色であるから、「青き」の枕詞としたもの。
○山県に 山間の畑に。
○あたね舂(つ)き 「あたね」は、「あかね(茜)」の誤りとする説や、「藍蓼」のヰが脱落したもので、「蓼藍」であるとする説などがあるが、明らかでない。
○染木が汁に 「染木」は染め草の意。
○いとこやの 「いとこ」はいとしい人の意。
○群鳥の 群れをなして飛ぶ鳥のように、の意で「群れ往なば」の枕詞。
○引け鳥の 「引け鳥」は、一羽が飛び立つと、それに引かれて飛び立つ鳥の群れをいう。「引け往なば」の枕詞。○山との 「やまと」は山本、山のふもとの意とされているが、本来は大和の意であったかもしれない。
○項かぶし 項(うなじ)を垂れて、うなだれての意。
○霧に立たむぞ 朝の雨が霧となって立ちこめるように、あなたの深い嘆きの霧が立ちこめるであろう、の意。
○若草の 若草の芽が二葉相対しているので、「つま」の枕詞となった。
○吾が大国主 この句は、八千矛神と大国主神とが同神とされたので、後から挿入された句であろう。
○うち廻(み)る 「廻る」はめぐる、廻るの意。
○綾垣の 綾織の絹の帳をいう。
○ふはやが下に ふわふわとしている下で。
○むし衾 「むし」は、苧(からむし)の茎の繊維で織った布。「衾」は掛け蒲団。
○にこやが下に 柔らかな下で。
○𣑥衾(たくふすま) 楮(こうぞ)の皮の繊維で織った白い掛け蒲団。
○豊御酒奉らせ 「奉る」は召し上るの意。この御酒を召し上ってください。
○うきゆひ 盞結(うきゆひ)の意で、酒をくみ交して契りを結び固めること。
○うながけりて 互いに首に手をかけ合う意という。
○神語 「神語歌」の「歌」の字が落ちたものであろう。神事を語り伝えた歌の意で、「天語歌」と同様、宮廷歌曲の名称である。

 (解説)
神語歌は、八千矛神を主人公とする妻問い物語で、五首の歌謡で謡い伝えられていたものを、大国主神に結びつけ、沼河比賣や須勢理毘売が導入されて、劇的に構成されたらしい。
特徴の一つに、海人集団の生活や体験に関係の深い詞句が多く用いられている。たとえば、「浦渚の烏」「沖つ鳥胸見る時」「辺つ波背に脱ぎ棄て」「うち廻る島の崎崎」などがそれである。
はるばる高志国に求婚に出かけるというのも、大和朝廷が北陸地方に支配権を確立した、七世紀半ばごろの政治情勢と関係がありそうである。
「𣑥綱の白き腕」にはじまる十句の官能的描写の詞句は、沼河比売の歌と須勢理毘売の歌とに、共通的に用いられている。

男に訪ねてこられて、いったんは拒むが、そのあとで一晩待ってくれたら・・・・・で、そのあとに言うことが、いかにも古代のおおらかな、抒情的で、官能的であって、素晴らしく、古事記のなかで好きな場所である。

「ヌナカハヒメ」という名は、越後国頸城郡沼川郷に因むが、同時に「ヌ」は生命の象徴としての玉の意であり、その地を流れる姫川は翡翠の産地で、翡翠は縄文から古墳時代にかけて勾玉の主材料だった。
あの名は「翡翠の勾玉の川の姫」なのだ。
また、古代語の「みどり」は新芽のつややかさを言い、生まれたての子を「みどりご(緑児)」と云うのに通じている。
「新生」という言葉がキーワードとなってくる。
私も、あの辺に旅行に行ったとき、姫川が海に流れ込む「宮崎海岸」で翡翠の原石を拾おうとしたことがある。
今でも、入間川でも荒川でも、河原で石を探すとき、緑色の石を探している。
どうして緑色の石を探すのか、わかったような気がした。


フレンチ・レース

20130901

130901french01.jpg


130901french02.jpg


系 統 F フロリバンダ
作出年 1980年  
作出国  アメリカ
作出者  W A Warriner
花 色   クリーム色
花 径 中輪
香 り    微香
開花性  四季咲き

写真は、もう開ききって最後の輝きを放っている時期のものです。
その名の通り、繊細で優美な花びらがとても落ち着いた感じですね。
ほのかにアイボリーがかった花色もいいです。
白い薔薇が大好きな私としては、押さえておきたい一品ですね。


2013年5月22日 谷津バラ園にて


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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