三和神社(延喜式内社)/栃木県那須郡

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25日(金)の歴史クラブ式内社めぐりですが、健武山(たけぶやま)神社から向かったのは、那珂川町三輪にある「三和神社」です。

ずいぶんと高い樹が茂っている森にありました。森の手前の駐車場でバスを降りると、入り口に朱塗りの両部鳥居が迎えます。
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ここの注連縄も中央で左右からのを結んでいました。
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ここは鎮守の守りといった規模のお宮さんです。
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社伝によると、推古天皇12年(604年)に大和国の大神(おおみわ)神社から勧請して創建されたという。
藤原資家(すけいえ)が賊を征伐する際に戦勝を祈願した。資家は平安時代の人物で、藤原北家道長流の一族、 那須氏の祖で、天養元年(1144年)に社殿を造営した。以後は資家の子孫である那須氏によって那須氏が除封されるまで守られ続けてきた。
那須氏除封後は、地元の氏子により維持されている。

沿革は、境内案内より転記します。
始め毛野国三輪山と称する当山の三つ又の槻木(現在のケヤキ)の大木を御神体として芽の 輪を捧げて奉祀する。
元明天皇和銅六年(七一三)に初めて神殿を建立する。
称徳天皇神護景雲二年(七六八)神祇官(勅使)の奉幣に預かり三和の神号を勅宣される。
仁明天皇承和五年(八三八)九月下野国那須郡三和神官社に預かる。〔続日本後紀〕
陽成天皇元慶四年(八八〇)八月下野国従五位下三和神、正五位上を授けられる。〔三代実録〕
光孝天皇仁和元年(八八五)二月下野国正五位上三和神、従四位下を授けられる。〔三代実録〕
醍醐天皇延喜五年(九〇五)延喜式神名帳に選載され式内社となる。〔延喜式〕
堀河天皇長治二年(一一〇五)須藤権守貞信、八溝討伐に際し三和神に祈願する。
近衛天皇天養元年(一一四四)八月本社拝殿造立、現社殿は明治一六年新築、昭和四五年改築する。
また、神社には氏子により五穀豊穣を祈願する天祭(町指定無形民俗文化財)が天正年間 (一五七三~一五九一)から伝えられている。

拝殿
御祭神は大物主命。
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拝殿前の狛犬。溶岩を石材にして彫った感じですね。
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拝殿を斜めから
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社額
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拝殿内部
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拝殿正面に「飛天(翼があるので、仏教では迦陵頻迦となるが)」の額があった。
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お寺では「飛天」は珍しくないが、神社で飛天とは?

帰ってきて、ネットで調べてみると「神社と飛天」に関しては2件見つかった。
一つは、高砂市の曽根神社の観音堂の釣鐘に彫られているという。
これは神社にあるけど観音堂でしかも釣鐘である。やはり仏教系。
福岡県古賀市、天降神社神殿の彫刻である。本殿を飾る木造彫刻は、江戸時代中頃(18世紀前半)の作で市内随一の見事な彫刻であり、本殿入口の海老紅梁(えびこうりょう)の飛天像は、明治維新の廃仏毀釈の際、地元住民の配慮で難を逃れた、とある。
明治維新の廃仏毀釈のときに問題になったとあるので、これも神仏混淆の産物らしい。

やはり、三和神社の奉納額も神仏混淆の産物であろうか。

神紋は、手彫りの感じだが「菊」ですね。
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神明流れ造りの本殿
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拝殿の左側に伝承館の建物があります。
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三和天祭りというのが平成6年(1994年)に町指定無形民俗文化財に指定され、この建物で行われていたようです。しかし、残念ながら5年前から途切れてしまっているそうです。

境内社の八雲神社
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境内社の稲荷神社
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なお、当社の駐車場の近くに、春になるとカタクリが群生するそうです。

東国の三和神社創建の順をたどると、崇神天皇の御世に東国の豪族たちが大和政権に屈していったルートを知ることが出来るそうです。
豊城入日子の東国征討の話と相まって、とても興味を引く話です。
私も、そういう観点からも、これから注意してみていきたいな、と思いました。


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健武山神牡(延書式内社)/栃木県那須郡

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25日(金)に、笠石神社から向かったのが健武山(たけぶやま)神社です。
馬頭町(現那珂川町)の中心市街地から県道52号線によって、武茂川沿いに東進すること約2.8キロメートル、古歌にも「那須のゆりがね」と歌われた産金の地に鎮座するのが健武山神社で、土地の人々は「健武山」よりむしろ「健武さん」と親しみを込めて呼んでいる。

道より石段を上がったところに、銅製の大鳥居(神明鳥居)が聳えている。
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社号標
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社号標と対をなす左手のほうに「古代産金の里」という大きな碑がありました。
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石碑建立の由来が書いてあります。
奈良時代の天平19年(747)奈良に大仏鋳造が始められ、仏像に塗る黄金に不足し聖武天皇は大層お悩みになられた。この年下野国から黄金の発見が奏上された。これが我が国最古の黄金である。この地の黄金は長年にわたって朝廷に献上され大陸文化の輸入に役立った。後、平安時代の承知2年(835)黄金を産する山に鎮座する武茂の神に従五位下の位が授けられた。かくの如くこの地はわが国最古の産金の里であった。
これを後世に伝えるため「古代最古の里」の碑を建立するものである。
昭和63年3月  天生目順一郎

先に進みます。
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杉の巨木が聳えています。
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手水舎
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岩石を組み合わせた素朴な感じがいいですね。
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狛犬
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社伝によれば806 〈大同元)年の創祀といわれるが、詳しいことはわからない。
『続日本後紀』の835(承和2)年2月23日の条に、「下野国武茂の神に従五位下を授く。この神は沙金を採る山に座す」とあるのは、この健武山神社のことであるが、創祀後わずか30年ほどで贈位の事があるのは不自然である。恐らくそれ以前から、産金の守りとして祀られていたのではあるまいか。
この9世紀初頭の創祀とされる社伝よりも古く、下野国ではすでに金の産出が知られていた記録がある。『東大寺の要録』には、「747(天平19)年12月、下野国で黄金が採れた」旨の記載がある。聖武天皇は743(天平15)年に諸国の国分寺・国分尼寺の中心として、東大寺本尊の慮舎那大仏(るしやなだいぶつ)の造立を発願された。
 747(天平19年)という年は、その大仏鋳造の大工事が開始された年にあたる。新たに黄金は産出されたという報告は一大朗報であったに違いない。以来、この地で採取された砂金は、下野国交易の商品として,正私以外のその他の特産物として中央政府に献上されていた。『延書式』には、「沙金150両、煉金84両」が記され、その採金には格夫(ようふ)を用い、それらの食糧は正税で賄えと定めている。つまり私的で集めた人夫ではなく、公的に認められた労働力を用い、食糧も公費をもって賄う、いわば国営事業として公認されたものであったということになる。このような黄金産出の地の鎮守として健武山神社が中央に知られ、その神恩に対して贈位のことが行われたのが9世紀初めであったわけで、恐らくこの神社の創祀は奈良時代の747(天平19)年前後の頃まで遡って考えてよさそうである。

由緒沿革:
806 〈大同元〉年に創祀され、835(承和二)年に従五位下の贈位が奉ったというこの神社について、その後幕末に近いころまでの推移は伝えるものがない。
中世にはこの地は宇都宮氏から分出し武茂氏の支配するところであった。武茂泰宗をはじめ歌人としても知られた人々を出している武茂氏は、当然領内の鎮守のこの神社への崇敬厚いものがあったと思われるが、中世に関しては神社の沿革を伝えるものは残っていない。近世に入ってからは、武茂郷一帯は徳川御三家の一つ水戸徳川領となる。武茂の古名も廃されて、馬頭の名に改められた。それまでは中世からの神仏混合の姿のまま、神社は修験大泉院が累代にわたり奉仕していた。1717(享保二)年に健武山神社と改称したと伝えられるが、1761(宝暦11)年には那須三社健武大権現と称した。
1884(天保15)年は12月に弘化と改元されるが、その正月に水戸徳川斉昭は修験大泉院の神社奉仕を廃止し、改めて神官を任命して奉仕にあたらせた。そして健武山神社を那須郡16村の鎮守とし、社殿の修営、大遷宮を行い、これに要する神器、遷宮費用の全ては水戸藩により奉納された。さらに斉昭は社領17石の地を寄進し、毎年3月29日の例祭には奉幣師を遣わした。明治維新の廃藩の後は、こうした保護を失うことになるが、後に郷社に列せられた。

神明造り拝殿
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御祭神は、日本武尊と金山彦命。

神紋は「三つ葉葵」ですが、水戸徳川家のものでしょう。
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本殿は「神明流れ造り」
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これで参詣は終わりましたが、隣の民家の巨大な二階建ての倉庫か作業所が気になりました。
養蚕をやっていたのではないかと思われます。
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また、そのお宅の庭に山茶花の巨木もありました。
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国宝「那須国造碑」(笠石神社)

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25日(金)、那須温泉神社のあと、黒羽の那珂川河原の「ヤナ場」の小屋で、鮎の塩焼き、鮎の釜めしと鮎尽くしの料理を楽しみました。小屋と云ってもガラス戸で囲まれ暖かくてとても良かった。

それから大田原市湯津上の笠石神社に行きました。式内社ではありませんが、番外としてこの神社のご神体である、国宝の「那須国造碑(なすのくにのみやっこのひ)」を拝観しました。

笠石神社の入り口には、神明式の石の鳥居があります。
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碑は現在 徳川光圀公創建になる笠石神社の御神体として祀れています。
とても親切な宮司さんが、実に豊富な資料を惜しげもなく見せて下さり、説明してくれました。
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碑の拓本
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那須国造碑(国宝・700年築造)は 多胡碑(群馬県・特別史跡・711年築造)、多賀城碑(宮城県・重要文化財・762年築造)と並ぶ日本三大古碑の一つとされています。
高さ120cm 幅約48c皿 厚さ40cm角柱形の砕身の上に高さ約28cmの笠石がのる。石材は八溝山地の花崗岩を用いている。

19字×8行=152字の碑文が刻まれており、古代国家確立期の興味深い内容を伝えている数少ない金石文の資料です。
「金石文」とは金属や石などに記された文字資料のこと。紙、布などに筆で書かれた、文字に対し、刀剣、銅鏡、青銅器、仏像、石碑、墓碑など刻出、鋳出、象俵などの方法で表した文字を指します。
碑の価値は金石文以外にも、六朝的な書風を保つ、槽・行書の文字は、書道史上からも貴重なものです。
六朝槽書とは、中国の南北朝時代(439~589)に使われていた書体で現在の槽書の起源となった書体の-つ。
このような立派な書がどうして出来たかというと、これより少し前14名の帰化人がこの地方に送られてきて、そのうち5名が僧侶だという記録があります。その帰化人の中に教養の高い人物が居たのでしょう。

永昌元年(689年)、那須国造で評督に任ぜられた那須直葦提の事績を息子の意志麻呂らが顕彰するために、700年に建立されたものである。「永昌」という元号は唐のものであるが、日本の元号は686年に天武天皇の崩御により701年の大宝まで停止されていた為、唐の元号を使用したと考えられている。

碑発見の経緯は、延宝4年(1676)僧侶・円傾が湯津上村を通りかかった時、里の人が近寄ると怪我をしたり、  馬をつなぐと足をくじいたり、血を吐いたりするという、草むらに横たわる不思議な崇り石があるという話を聞き、これを馬頭村の大金重貞に話したところ、重貞はその碑を調べ自身の著作「那須記」に記し、天和3年(1683年)巡行してきた水戸光囲にその書を献上し光園の知るところとなりました。
光囲は石碑の保存顕彰の為、元禄4年(1691年)には碑堂の建立を開始し、同5年には、碑の主を求めて、日本で最初の学術的な発掘調査を上・下侍塚古墳(国指定史跡)で行いましたが、被葬者は明らかになりませんでした。同年6年には完成した、碑堂に自ら参詣しました。
この一連の作業は大金童貞が現地指挿をとり、光囲の指示は家臣の佐々介三郎(さっさ・すけ・さぶろう)宗淳(むねきよ)を通じて行われました。重貞は事の経緯を「笠石御建立起(かさいしごこんりゆうき)」に記しています。
銘文が鮮明なのは1000年近くの間、碑文面を下にして埋もれていた為とみられています。

佐々介三郎の文書
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2008年に読売新聞夕刊に載った、「古代遺跡の発掘調査は水戸光圀公が初めて行った」という記事。
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「光圀公古碑大墳墓の調査年表」もいただきました。
この古碑が日本で一番古く貴重なものだと判断した光圀公はやはり、すごい人だと思いました。

碑文の解読に挑んだ人々。新井白石とか青木昆陽の名前があります。
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碑文の内容は、宮司さんからいただいた「笠石神社縁起」に書かれているものが、一番私には良いなと思ったので、それを載せておきます。
碑文
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仮名交り文で解釈。
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祭神「那須国造直韋提」の略歴
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いよいよ、碑を拝観します。

社殿前の狛犬。とても良い姿をしています。
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中門
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社殿の中に、ご神体として碑が納まっています。
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ご神体故、写真の撮影は許可されませんでしたので、境内の説明板にあった写真を載せておきます。
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宮司さんに見せてもらった本に載っていた碑文の刻字の写真です。
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温泉神社(延喜式内社)/栃木県那須郡

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25日(金)に、台風の影響で雨が降るなか、歴史クラブの行事「式内社めぐり」下野国の二回目に行ってきました。
この日最初に訪れたのが当社です。
「温泉神社」という名前に最初馴染めなかったのですが、調べてみると式内社だけで、全国で10社温泉にちなむ神社があるんですね。

「温泉神社」という名前の式内社:
・温泉神社(福島県いわき市・いわき湯本温泉) - 祭神:大己貴命・事代主命・少彦名命。
・那須温泉神社(栃木県那須郡那須町・那須温泉郷) - 今回訪問の神社
・湯泉神社(兵庫県神戸市北区・有馬温泉) - 「温泉神社」と表記されることもある。祭神:大己貴命・少彦名命・熊野久須美命。

「温泉に関する式内社」
・温泉石神社(宮城県大崎市・鳴子温泉) - 祭神:大己貴命・少彦名命。
・由豆佐売神社(山形県鶴岡市・湯田川温泉) - 祭神:溝樴姫命・大己貴命・少彦名命。
・湯前神社(静岡県熱海市・熱海温泉) - 祭神:少彦名命。
・御湯神社(鳥取県岩美郡岩美町・岩井温泉)- 祭神:大己貴命・八上姫命・御井神・猿田彦命。
・玉作湯神社(島根県松江市・玉造温泉) - 祭神:櫛明玉神・大名持神・少毘古那神。
・湯神社(愛媛県松山市・道後温泉) - 祭神:大己貴命・少彦名命。
・火男火売神社(ほのおほのめじんじゃ大分県別府市・鉄輪温泉) - 祭神:火之加具土命、火焼速女命。

日本は火山帯が縦横に走り、各地に温泉があります。温泉は、湯神・温泉神として古来より崇敬の対象となってきました。その神を祀るのが湯神社・温泉神社です。古代に発見された温泉の多くは、大己貴神(大国主)と少彦名神が発見したと伝えられ、温泉神社の祭神である温泉神にはこの二神が充てられていることが多い。
大己貴神(大国主)と少彦名神は、医療・医薬・温泉の神とされている。

考えてみると、昔、医者にも診てもらえず、薬もろくになかった時代、庶民にとっては温泉ほどありがたいものは無かったことでしょう。このような有難いものをもたらしてくれたのは神だと思うのは自然なことだったと思います。

社号標
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一の鳥居は八幡鳥居でした。
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創立は、第三十四代舒明天皇の御代(六三〇年)狩野三郎行広、矢傷の白鹿 を追って山中に迷い込み神の御教により温泉を発見し神社を創建、 温泉の神を祀り崇敬の誠を尽くした。狩野三郎行広は後年那須温泉 開発の祖として見立神社祭神として祀られている。

由緒:
・上代より当温泉神社の霊験は国内に名高く 聖武天皇の天平十年(七三八年)には都より貴人が那須に湯治に下った事が載せられている。従って神位次第に高まり清和貞観十一年 (八六四年)には従四位勲五等が贈られている。
・文治元年(一一八五年)那須余一宗隆、源平合戦屋島の戦に温泉神社を祈願し見事扇の的を射、名声を轟かせ後一門を挙げて厚く崇敬 した。
・建久四年(一一九三年)源頼朝那須野原巻狩の折小山朝政の射止めし九岐大鹿を奉納。
・元禄二年(一六八九年)俳人松尾芭蕉「奥の細道」をたどる途中温泉神社に参詣、那須余一奉納の鏑矢等宝物を拝観、殺生石見物等が曽良の随行日記に載せられている。
このときの芭蕉の句 「石の香や 夏草あかく 露あつし」
・大正十三年(一九二二年)摂政宮殿下(昭和天皇)の行啓を仰ぎ那 須五葉松のお手植えを頂く。大正十一年(一九二〇年)久邇宮良子 女王殿下御参拝、那須五葉松のお手植えを頂く。

特に、源平合戦において那須余一宗隆が屋島の戦いで扇の的を射る際に当社に祈願し、見事余一名声を挙げて後、那須氏の崇敬をうけ領民こぞって温泉神社を勧請し奉り、現在那須郡内には、八十数社の温泉神社又は湯泉神社が祀られているとのことです。

ここで、那須余一が弓を射る前に祈願した『南無八幡大菩薩』は記憶にあったのですが、果たして温泉神社に祈願したのか?
その名場面を吉川英治全集「新・平家物語(5)」 浮巣の巻 を読み返してみました。
吉川英治はこう書いていました。
 なんとはなく、余一の胸に「今だ」という直感が走った。
――とともに、何か、吹きぬかれたような、すがすがしさとともに、身のうちから、『南無八幡大菩薩』
と、自然に口へ出、つづいて、『年々、奉射し奉りたる香取の神、もし今もって、迷悟を抜けぬわが弓ならば、矢を海中へ折り捨てて余一宗高に死を降し給え。またもし、少年の日より、年毎の奉射を怠らざるの効い、今日にあらしめ給うなれば、あの扇の首真ん中に、余一の矢を射中(いあ)てさせ給え。  ――あわれ、ふるさとの那須ノ湯泉大明神、亡き父上や母たちも護りてよ』

確かに当社に祈願していましたね。

参道が長く続きます。
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途中、「さざれ石」が
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二の鳥居の前に、旧い社号標が
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二の鳥居
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注連縄が真ん中で結ばれています。
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社額
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少し進むと右手に「見立神社」があります。
祭神は天児屋根命、狩野三郎行広(温泉発見の功により合祀)
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石段を上がると三の鳥居
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その横に御神木のミズナラがありました。樹齢800年。
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少し進むと、左手に境内社が三社並んでいました。
右から琴平神社(御祭神:大物主命)、神明宮(御祭神:大日霊命(おおひるめのみこと)=天照大神の別名)、山神社(御祭神:大山祇命)
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長い参道でしたが、やっと社殿が見えてきました。
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社殿に上がる石段の手前左に、芭蕉の句碑がありました。
「湯をむすぶ 誓いも同じ 石清水」
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狛犬
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樹齢800年の「那須の五葉松」
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拝殿
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本殿
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祭神は、大己貴命 (おおなむちのみこと)、少彦名命 (すくなひこなのみこと)
相殿神は誉田別命 (ほんだわけのみこと)=応神天皇です。

神紋は、拝殿扉と賽銭箱は「右三つ巴」でした。
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が、『栃木県神社誌』には「卍紋」とあるそうです。
本殿の屋根に、中央に卍紋、左に巴、そして右に「柊輪沢瀉」の三つが並んでおり、この三つが神紋でしょう。
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九尾稲荷
後述の殺生石にちなむお稲荷さんですね。
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境内の外れから、「殺生石園地」が見えます。
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そこに向かって降りていく小道が「あじさいの道」だそうですが、この季節に少し咲いていたのに驚きました。
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芭蕉の句にちなむ「石の香橋」を渡ると殺生石です。
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殺生石の由来:
昔中国や印度で美しい女性に化けて世を乱し悪行を重ねていた白面金毛九尾の狐が今から八百年程前の鳥羽天皇の御世に日本に渡来しました。この妖狐は「玉藻の前」と名乗って朝廷に仕え日本の国を亡ぼそうとしましたが、時の陰陽師阿部泰成にその正体を見破られて那須野ヶ原へと逃れて来ました。
 その後も妖狐は領民や旅人に危害を加えましたので朝廷では三浦介、上総介の両名に命 じ遂にこれを退治してしまいました。ところが妖狐は毒石となり毒気を放って人 畜に害を与えましたのでこれを「殺生石」と 呼んで近寄ることを禁じていましたが、会津 示現寺の開祖源翁和尚が石にこもる妖狐のう らみを封じましたのでようやく毒気も少なく なったと語り伝えられています。
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殺生石の近くには、色々な碑が立っていますが、まずは芭蕉の句碑
「石の香や 夏草あかく 露あつし」
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昭和五十五年国立劇場十二月歌舞伎公演「玉藻前曦袂(たまものまえあさひのたもと)」の上演記念参拝之碑
当時出演された歌舞伎役者の名前が刻まれています。
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千体地蔵
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湯の花採取場
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作業をしている人が居て、聞いたら毒ガスが出ているので定期的に測定しているのだそうです。
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「盲蛇石」があります。
その由来:
 昔、五左ェ門という湯守が長くきびしい冬を越すために山に薪を採りに行きました。その帰り道、五左ェ門がこの殺生河原で一休みしていると、2 メートルを越える大きな蛇に出会いました。大きな蛇の目は白く濁り盲の蛇でした。かわいそうに 思った五左ェ門は、これでは冬を越せないだろうと蛇のためにススキと小枝で小屋を作ってあげま した。
 次の年、蛇のことを忘れなかった五左ェ門は、 湯殿開きの日に小屋に来て蛇をさがしました。しかし、蛇の姿はどこにもなく、かわりにキラキラと輝く湯の花がありました。盲蛇に対する暖かい気持が神に通じ、湯の花のつくり方を教えてくれ たのでした。その後、湯の花のつくり方は村中に広まり、村人は盲蛇に対する感謝の気持を忘れず、蛇の首に似たこの石を盲蛇石と名付け大切にしたのだそう です。
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賽の河原
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「史跡 殺生石」の看板
私たちは温泉神社から、いちばん奥に入り下ってきましたが、温泉神社に行かず直接「殺生石」を見に来た場合は、ここから入ることになります。
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『居眠り磐音 江戸双紙』第39巻「秋思ノ人」&第40巻「春霞ノ乱」/佐伯泰英

20131024

第39巻「秋思ノ人」

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この巻では、甲府勤番に流されていた速水左近がその任を解かれて江戸に帰る。それは城中で御三家水戸、尾張、紀州の当主が顔を揃えて田沼意次に談判し、奏者番への就任をとりつけたものだ。
それまでの甲府勤番は「山流し」と云われ懲罰的な任命だったから、不貞腐れる人間が多くなげやりなものだった。それを速水左近はきちんと任務を全うし、甲府に善政をしいたから、江戸に帰ると知ると別れを惜しむ人間が多かった。
その江戸帰りの日が三日急に早まったのは、磐音らの警護を間に合わなくし、途中で速水左近を亡き者にしようとの田沼派の策略であった。
奏者番には、田沼意次の子息意知が就任しており、田沼一派は腹が収まらないのである。
まずは先乗りしていた弥助が急場をしのぎ、笹子峠にて田沼に籠絡された甲府勤番侍一派の襲撃は、旧武田家家臣の「ご浪人様」たちの活躍で追い払う。彼らは速水左近の人柄に惚れ込んでいたのである。
弥助からの早飛脚で田沼派の計略を知った磐音は、速水左近の子息、杢之助と右近兄弟と霧子を連れて急行する。
速水左近一行は、用人が足を痛めたため、追っ手をかわそうと青梅に出る道に変更する。
青梅往還が、田沼一派と速水左近・磐音一行の決戦となる。

高野山で磐音に倒された田沼意次の愛妾おすなには、やくざな弟が居た。それが読売屋と組んで田沼から金を引き出そうと企む。その読売屋というのが、情報をかき集めた結果を読売にするのでなく、脅迫に使って稼いでいる悪党だった。

江戸城では、速水左近が奏者番としての仕事を始める。奏者番というのは人数が多く、大名の子息が城中のしきたり、作法を徹底的にしつけられる役目である。
大名の子息でない異例の者が二人いた。一人は田沼意次の息子であるということで就任していた意知、いま一人は直参旗本の身分でありながら徳川御三家の推挙を受けて就任した速水左近である。
初日から二人は冷たい火花を散らした。

この巻で磐音が相対したのは、神厳一刀流、先軍一流、タイ捨流、速水左近は無間一刀流、その他は特に流派の説明なし。


第40巻「春霞ノ乱」

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この巻では、まず天明三年の春におこんが無事に二人目の女の子を生む。睦月と名付けられる。
その前に年の瀬には木下一郎太と瀬上菊乃の祝言があった。

突如、磐音の父にして関前藩国家老の坂崎正睦が江戸に出てくる。母照乃も同行してきたのだから、おこん等は大喜びだが、坂崎正睦は密行だという。
その正睦が勾引(かどわかし)に遭うという事件となる。
藩の財政を立て直すため、磐音ら若手が起案した関前の産物を江戸で販売することが成功し、藩の財政は立て直された。それが今では長崎から仕入れた物品を売りさばくというように様変わりしてきたようだ。
抜擢された江戸家老の一派が、その甘い汁を吸おうと私利私欲に走りだしたらしい。
禁制のアヘンの話も飛び出してきた。幕府に知れたらお家取り潰しである。

江戸家老の鑓兼参右衛門というのは、調べが進むと紀伊の伊丹家の部屋住みから養子に入った人物で、磐音が以前知遇を得た紀伊藩お目付け役に会い確かめると、田沼意次の正室が伊丹本家の娘ということで、なんと田沼に繋がっていることが判明した。
田沼の手が関前藩に及んでいたのである。
紀伊藩お目付け役の糸川氏に会ったあと、呼ばれていくと紀伊藩主の姿があった。
今回の事件が片付いたら、紀伊藩の指南役になれと言うのだった。

そして田沼の陰謀という事がわかると、父正睦を監禁している場所として、神保小路のもと佐々木道場を取り上げ日向鳳斎なる人物が配置されている屋敷が浮かび上がってきた。
今津屋の由蔵の働きで、隣の屋敷の土蔵を借り受け、磐音らの奪取の働きが始まる。


この巻で磐音が相対したのは、江戸起倒流、その他は特に流派の説明なし。


須恵器からみた埼玉古墳群の葬送儀礼/さきたま講座

20131020

19日(日)に、さきたま史跡の博物館で受講しました。

忍城址のある水城公園で「ほていあおい」の写真を撮ったりした後、以前前玉神社で干支のうち「戌と亥」の写真を撮り漏らしてあったので、それを撮りました。
前玉神社の記事に追加してあります。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1311.html

その後、さきたま古墳群に行き、博物館の前にある「瓦塚古墳」を眺めながら、コンビニのおにぎりで昼食。
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13:30から講座が始まりました。
今回のテーマは、「須恵器からみた埼玉古墳群の葬送儀礼」
講座では詳細な説明がありましたが、浅学の私はまだ理解がよくできないため、以下の記事は私が大雑把に把握したものを、簡単に述べたものであることを、お断りしておきます。

まずは、古墳群のおさらい。
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古墳から出土する土器には「須恵器」と「土師器」があります。

須恵器(すえき):
成形にろくろ技術を用い、窖窯(あながま)を用い1100度以上の高温で還元焔焼成。灰色硬質。
稲荷山古墳出土の須恵器
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土師器(はじき):
成形は基本的に、紐状の粘土を積み上げるのを色濃く残している。野焼きで作るため焼成温度(800~900度)が低く、強度があまりなかった。褐色軟質。
土師器の例:糀谷遺跡(鳩山町)
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埼玉古墳群での土器出土状況
埋葬施設:
豊富な副葬品(装身具、武器、馬具など)が出土しているが、土器の出土は無い。
墳丘造り出し:
最も土器の出土量が多い場所であり、器種も豊富。

埋葬施設、墳丘造り出しの場所
稲荷山古墳では下記に示す。
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稲荷山古墳では竪穴系の埋葬施設だが、将軍山古墳では横穴式石室となる。
将軍山古墳で埋葬時の石室が再現されています。
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将軍山古墳の石室内からは、装身具、武器、武具、馬具など豊富な副葬品が出土したが、土器は須恵器無蓋高坏1点のみである。
奈良県藤の木古墳や群馬県綿貫観音山古墳、千葉県金鈴塚古墳などの横穴式石室内からは通常豊富な土器が出土しており、将軍山古墳は様相が異なっている。
未発掘の鉄砲山古墳がどうなっているか、期待がかかっている。

出土品から墳丘造り出しで、葬前祭祀、葬送、葬後祭祀が行われたとみられる。
土器の配列から、他者にも見せることを意識していたことが推定される。

前方後円墳からは、須恵器を主体に数多くの土器が出土。一方、稲荷山古墳の南側に位置する小円墳では、土師器が主体であり須恵器は少なく器種も限定的。
明確な階層差と捉えることができる。

土器の形態の、古墳別による特徴の説明があったが、省略します。

須恵器は、比較的大量生産が可能になったため、大生産地が発生し、そのネットワークが存在した。
大阪府陶邑窯跡群生産のものが、稲荷山古墳、埼玉2号古墳から出土。
愛知県猿投窯跡群生産のものが、稲荷山古墳、奥の山古墳から出土。

全国的にも出土事例の少ない、奥の山古墳の「須恵器装飾付壺と器台」は寄居町末野窯跡群生産のもの。
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古墳時代に、こういう物流のネットワークがあったのは驚きでした。


陸橋の照明

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最初、折れたのを応急的に縛ってあるんだと思いましたよ!!

先月、たきたま古墳に行ったときのこと、熊谷を走っていた時にこれに出くわしてビックリしたので、今日「さきたま史跡の博物館」に行くときに写真を撮ってきました。
熊谷の、さる陸橋の照明です。
陸橋の上だけです。この芸術的な照明があるのは。
最初、今日アップした写真で最後の写真のやつが目に飛び込んできたので、「折れたやつをくくりつけてあるんだ」と思いました(笑)
そんなあぶないこと、と思ってよく見たら、芸術的なんですね(笑)
これ、初めて見ましたが、珍しいですよね。
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ほていあおい/行田市水城公園

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今日は、さきたま古墳にある「さきたま史跡の博物館」で「さきたま講座」を受講したのですが、早目に着いたので、それでは忍城址公園のところで、カミさんに十万石まんじゅうでも買っていこうかと、そちらに向かったら、たくさん花をつけている池がありました。
思わず車を停めて、写真を撮り、名前を近くで休んでいた方に尋ねると「ほていあおい」だと教えてくれました。

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観月雅楽の会/大宮氷川神社

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昨日17日、歴史クラブの方8名で観てきました。

氷川神社については、下記をクリックしてください。
記事を読む


18時から行われるという事で、席が心配だったので早目に行きました。16:30くらいに行ったら、ちらほらと席を確保している人が居たので、私たちもさっそく席をとりました。最前列です(笑)
グループで行っているので、時間をつぶすのも楽で、すぐに時間となったような感じでした。

雅楽が行われる舞殿
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観月ということで、まわりにススキが配してあります。
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舞楽のときに演奏される場所に楽器が。
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暗くなってきました。
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まず、舞殿と拝殿の間に置かれたかがり火が点火されました。
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本日の演目は、神楽が2曲、管弦が1曲、雅楽が2曲です。

神楽(みかぐら)
宮中で行われる神楽の事です。宮中賢所前庭で、年2回の神楽の儀と新嘗祭の後に行われております。

【人長舞 其駒】
皇室に伝承された最も厳粛な音楽的宗教儀礼に御神楽というものがあります。神への感謝と鎮魂の儀式の進行役、且つ舞を舞う人を「人長」その舞を「人長舞」と呼びます。<其駒>は神楽の最後の曲として神を送り帰すことから、神の乗る馬が連想され、その馬をいたわる歌がうたわれます。
  “其駒ぞや われにわれに草乞ふ草は取り飼わん 水はとり 草は取り飼わん“
  (我が愛する駒が我に草を乞う、その可憐さよ 早速みずみずしい草葉を取ってきてやろう)
天宇受売命が天の岩戸の前で舞ったのが起源とされており、右手の榊こは、白布が巻き付けられた直径30cの藤の輪があり、三種の神器の鏡を表わすとされています。
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【豊栄舞】
「乙女舞」とも称して、臼田甚五郎氏が作詞、東儀和太朗氏(元宮内庁楽部楽長)が作曲作舞され、日本の国の弥栄を願い神社本庁が祭祀舞として制定したものです。楽曲は得っ転落越殿楽の今様調であり、一歌・間奏・二歌の三部構成からなっています0
  “あけの雲わけうらうらと とよさか昇る朝日子を 神のみかげと拝めば その日その日の尊しや”
  “地にこぼれし草の実の 芽ばえて伸びて美しく 春秋飾る花見れば 神のめぐみの尊しや”

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管 絃
大陸系の雅楽器で奏する楽器演奏です。現在では、専ら唐楽を演奏し、ほとんど高麗楽は演奏されません。唐楽には、壱越調・平調・双調・黄鐘調・盤渉調・太食調の6つの調子があります。今回は、太食調の曲を演奏します。

【合歡塩(がっかえん)】
天皇の御即位式の大饗の第二日目に奏される、舞楽『太平楽』の急に用いられる楽曲で、作和不明ですが、合歡塩は五音がととのい、歓喜の声をそなえているので、「合歡塩」と名付けられたと伝えられています。
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舞楽
音楽とともに奏する舞で、歌に伴って舞う「国風舞」と唐楽の伴奏で舞う「左舞」、および高麗楽の演奏で舞う       「右舞」とがあります。

【胡蝶】
高麗壱越調、小曲、楽曲、童舞です。美しい蝶のとびかう姿を舞楽化したもので、番舞(つがいまい)は『迦陵頻』です。額にあてる天冠に山吹の花をつけて挿頭花(かざし)とし、大きな美しい蝶の羽根を背に負い、右手に山吹の花の枝を手にして4人で舞います。
楽は、「高麗小乱声」「高麗乱声」を奏し、次いで「小音取」、「当曲」となります。
宇多上皇が延喜6年、童相撲を御覧になられた際に藤原忠房が作曲し、敦実親王が舞の手を作ったもので、その後も醍醐天皇の延喜6年の六条院での童相撲の際にも終了後、この舞が上演されております。
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【蘭陵王】
唐楽。壱越調。陵王、羅陵王、没日環午楽ともいいます。もとは沙陀調でした。林邑の八楽の一つです。走物の一人舞であります。
中国の北斉(550年頃)の蘭陵王長恭は顔が美しい将軍であったので戦場に出る時に味方の士気が上がらないので、いつも獰猛な仮面をかぶって指揮をとって勝っていました。あるとき周の大軍を金庸城の敵の中に深く攻め入って被った時、将兵たちが蘭陵王入陣曲を作って歌い、敵を打ち破るありさまを舞としたものです。金色の大型の面をつけ、毛すべりの裲襠(りょうとう)装束を着て、右手に金色の桴(ばち)を持って勇壮に舞います。およそ舞楽のうちでも最も軽快華麗なものです。小乱声、笛の追吹のある陵王乱声陀、沙陀調音取、当曲、按摩乱声の順に奏して舞います。
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観月雅楽の会ということですが、あいにく雲が多くてなかなか月が出てくれません。
雅楽演奏の前の休憩のときに、一瞬、月が姿を見せてくれました。
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ショスタコーヴィチ/ヴァイオリン協奏曲第1番

20131016

この曲は、例のジダーノフ批判が始まったことから、ショスタコーヴィチは出来上がっていたものの、発表を控えていて、スターリン死後の雪解けの雰囲気の中発表したもの。
ということは、ショスタコが本音で書きたかった曲だということになる。
4楽章あって、交響曲のようであり、いやいややっぱりカデンツァがあるから協奏曲か、と言う感じだ。

第1楽章 Nocturne - Moderato
ノクターン。序奏部を伴う三部形式。中間部の主題にはオクターブ内の12音がすべて現れており、ショスタコーヴィチが最晩年に用いた独自の12音技法の先駆となっている。
この夜想曲は導入部を持った三部形式からなり、全般的に沈鬱な色彩とムード的抒情性をたたえ、メロディーの半音階的構成は特徴的でもある。
夜想曲とはいえ、感情を厳しく制御した、思索的な音のする楽章を象徴するかのように低弦で重々しく4小節の序奏があると、独奏ヴァイオリンがその主題を模倣する。この主題は民謡といった従来の旋律から取られたものではなく、半音を巧みに使った非常に不定形のもので、導入部全体に渡る一つの無限旋律を形成し、理知的な進み方をしていく。また、15小節目以降に含まれる動機とその展開は、この楽章の骨格をなすものでもある。ちなみに、導入部前半の低弦の動き、24小節目よりあらわれるファゴットの使用は、交響曲第10番との類似を感じさせる。この導入部は、第1部の主要主題に発展し、かなり瞑想的な性格を帯びる。79小節目からの6小節の間はオクターヴ内の12の音が揃っている。

第2楽章 Scherzo - Allegro
ショスタコーヴィチがきわめて得意とする快速なスケルツォ。独奏ヴァイオリン主導で、次々にテーマが展開される。
交響曲第6番第2楽章後半部を髣髴とさせる、フルートとバス・クラリネットのオクターヴのおどけた主題を提示する。独奏ヴァイオリンがこれにアクセントを付ける。いわゆる西欧近代的なしゃれた味わいのある楽想である。33小節で主題は独奏ヴァイオリンに移り、楽器を加えて45小節から107小節はその発展形となる。やせた骨ばった独奏ヴァイオリンがきわめて印象的である。

第3楽章 Passacaglia - Andante
主題と8つの変奏によるパッサカリア。構成上、ここにパッサカリア楽章が置かれているのは、交響曲第8番第4楽章を彷彿とさせる。第8変奏の後は独奏ヴァイオリンの長大なカデンツァとなり、切れ目なく第四楽章に続く。楽器ではフルート、ピッコロ、タム・タム、シロフォン、チェレスタ、ハープが休みとなり、重厚な雰囲気をは裏腹に、簡素でシンプルな表現に終始している。また、調性の面でも常にヘ短調を維持しており、テンポの点でもアンダンテで一貫されていることも特徴的である。
この楽章は、ショスタコーヴィチのバッハの音楽に対する傾倒と見ることもできるが、そのことは後半のカデンツァで最もよく感じ取ることができる。

第4楽章 Burlesque - Allegro con brio
ブルレスケ。ロンド形式。バス・クラリネット、チェレスタ、ハープは使われない。

叩き付けるような激しい独奏とけたたましいまでの伴奏が特徴。前楽章からティンパニーが打ち出しを合図になだれ込む。2小節の序奏に引き続いて、管弦楽が土俗的なロンド主題をイ短調で華やかに奏する。主題は4小節目から木管群で提示されるが、シロフォンの鋭角的な輪郭付けをされており、舞曲調かつこの曲で最も判り易い最も自然な旋律で、明るい感じの音楽である。この主題は10小節目でニ長調に飛び移り、次の小節で変ホ長調になり、その次でまたいったん原調に戻る。すると、17小節目で突然ハ短調に転調し、またすぐに原調に復するといった風に、目まぐるしく調性が変わっていく。29小節以下、独奏ヴァイオリンが加わってクラリネットと対位法的にからみあいながら主題の発展を行い、64小節目から変形主題が独奏楽器を中心に現れて主部を完結する。

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ヴァイオリン:五嶋みどり
指揮:クラウディオ・アバド
管弦楽:ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団
1997年12月 ベルリン、フィルハーモニア

ライブ録音したのが97年、26歳のこと。遅めのテンポでたっぷりとした弾きで、しっとりとヴァイオリンの音色がしっかり出ている。技巧的にまったく不安がないばかりか、一音一音に込められた覇気がひしひしと伝わってくる。
アバドの持ち味である繊細さと鋭さ、天下のベルリンフィルだけあって、2楽章や終楽章は凄まじいまでの鳴りっぷりです。


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ヴァイオリン:リサ・バティアシュヴィリ
指揮:デーヴィット・ジンマン
管弦楽:NHK交響楽団
2009年1月10日 NHKホール

解説の西村さんが、カデンツァがすごい、とちょっと昂奮している。その迫力ある弾きっぷりに釘付けとなります。
リサ・バティアシュヴィリは、グルジア出身、16歳の時にシベリウス国際ヴァイオリンコンクールで認められ、現在20代後半、世界で活躍中。
彼女の音色は見事に美しく、きわめて流麗な演奏である。どこか思索的な演奏だなと思った。
すっくと伸びた長身の体をダイナミックに使いこの曲をこともなげに、ねじ伏せていく様は壮観で、ヴィジュアル的にもいうことなしのものがあった。
ちなみに使用しているヴァイオリンは日本財団から貸与されているストラディバリ。


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ヴァイオリン:ヴィクトリア・ムローヴァ
指揮:ピーター・ウンジャン
管弦楽:NHK交響楽団
2013年4月13日 NHKホール

ムローヴァは1983年に西側に亡命しているから、旧ソ連の状況をよく知っている音楽家。ヴィブラートは控えめで、その結果音楽の純度と緊張感が高い。3楽章のアダージョが圧巻。繊細で細かで表現力がすばらしい。N響も頑張って、リズム感がシャープで完璧なアンサンブルを見せた。終演後の喝采がN響定期にしてはすごいものだった。


龍勢まつり/椋神社奉納神楽

20131014

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昨日、13日(日)は歴史クラブの行事で秩父の「龍勢まつり」に行ってきました。
私が今年で三回目ということもあって、企画者ということで、7月末の桟敷席の予約から担当しました。
大型バスの手配やら、ブルーシート、テーブル代わりのダンボール、食べもの・飲み物の買いだし等は、他のスタッフの皆さんがやって下さったので、私は説明資料の作成などかえって楽をさせてもらったような状況でした。

昨日の龍勢の打ち上げについては、まったく写真などを撮っていないので、
椋神社の由緒、龍勢まつりのあらましとか、龍勢の打ち上げの様子は、すみませんが昨年の記事を読んでください(笑)
その記事を読む


では何をしていたかというと、私は椋神社神楽殿で催される神楽を動画で撮影していたからです。

とはいえ、神楽を撮影しながらでも、龍勢の打ち上げはすごい音がするのでわかります。
その時は打ち上げを見ていました。
今年も、成功あり、失敗あり、一発勝負なのでいろいろありました。
今年は風の向きが観客席のほうに吹いていて、中には打ち上げ櫓の付近に落下して火事騒ぎになったりして、ハラハラな場面もありましたね。
神楽殿のところにも、背負い物の番傘が一つヒラヒラと舞ってきたときもありました。

神楽を撮影できたのは、演目二つでした。
「岩戸開き」と「釣り場」です。
それぞれ30分くらいかかる、長い立派な神楽でした。

撮影した動画からキャプションした写真で説明しましょう。
「岩戸開き」

オモイカネ登場
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龍勢が打ちあがると、思わず見てしまうアメノウズメとお囃子のボウヤ(笑)
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スサノオが登場。あんまり暴れなかった。
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タジカラノヲ
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アメノウズメが岩戸の前で踊る
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タジカラノヲが岩戸を引っ張るがなかなか動かない
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ようやっと、岩戸を持ち上げます。
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アマテラスオオミカミが鏡を抱いて登場
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「釣り場」
これは、神様が持っていた釣竿を借りた里人が、色々なものを釣り上げるという内容です。

神様が釣竿を持って登場し、舞います。
恵比須さまでしょうか。
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アクシデントがあって、撮れませんでしたが、里人は実に色々なものを釣り上げます。
魚はもちろんですが、お札とか、お酒とか、大人が喜びそうなものばかり(笑)

撮影再開したのは、最後に釣り上げた龍が暴れているところ。
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釣った里人は、剣を持った龍に尻を突かれたりして舞台の上を追いかけまわされます。
苦し紛れに、里人は舞台の柱によじ登って難を逃れます(笑)
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こりごりだと、里人は神様に釣竿を返します。
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神様が舞っていると、舞台の下に小さい子供を手を引いた年寄りがやってきて、舞台の上の里人に何かねだります。
里人は、お供えしてある物(菓子でしょうか)を取ってきて、子供にあげます。
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そうすると、見物していた子供が「わたしにも」「俺にも」と欲しがるので、また里人はお供えを取ってきてあげるんですね(笑)

するうち、今度は観光客らしき大人がねだります。
さすがに、里人はダメダメと手を振ってオコトワリ(笑)
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こういうのが、いいですよね。
いかにも里神楽ですよね。

舞台の下に長老(?)が来たりすると、出番が終わったばかりの演者があいさつに出てきたり、神楽の演者やお囃子を子供が混じってやっていて、同級生が冷やかしに舞台の下にくると、手を振ったりしているのが、いかにも地域のお祭りの里神楽の楽しさが出ていて、見ていて楽しかったです。


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ロビ第30号&31号組立/ロボット「ロビ」

20131012

【第30号】

第30号で紹介されているロボットは、サスティナブルロボティクス社の「ヘクサレッグス」。
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6本の脚を3本ずつ前に動かし、道なき道を移動する。3本で立っていられて、脚は上下できるので前に出した脚を地形に応じて高さを決める。
脚の先が地面に着いたことをセンサーが確認すると、モーターは止まり、脚は固定される。
だから長時間立っていることは平気。バッテリーを消費しない。
山中での定点観測、移動しながらのパトロールなどが期待される用途。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボケーブルを配線する
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② サーボモーターを固定する
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③ 右ひざフレームを取り付ける
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④ 右すね内側カバーを取り付ける
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⑤ サーボケーブルに保護シールを貼る


完成状態
右ひざの関節が取り付けられた。
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【第31号】

第30号で紹介されているロボットは、慶應義塾大学で開発が続けられているテレイグジスタンスロボット「テレサーⅤ」。
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黒いヘッドユニット、ベルト状のベスト、グローブを装着したオペレーターと奥に居るアバターロボットの組み合わせ。
オペレーターの頭の向き、状態の傾きやひねり、腕の曲げをロボットは再現。オペレーターが見聞きしているのはロボットのカメラやマイクからのもの。親指、人差し指、中指はロボットの指からの感覚を得る。
人と握手したり、紙コップを掴んだりは、あらかじめプログラムした動きではなく、リアルタイムにオペレーターが得た情報でオペレーターが行う動作を再現する。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
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② サーボをテストし、IDを書き込む
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③ IDの書き込みを確認する
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④ サーボを右脚に取り付ける
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完成状態
右脚に4つ目の関節が取り付けられた。
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尾山神社/石川県金沢市

20131010

「なぎさドライブウェイ」を楽しんだ後、金沢駅の近くでレンタカーを返し、タクシーで香林坊にあるホテルに着いたのが16時。
カミさんはちょっと足を痛めてしまい、ホテルで寝ていたいというので、一人で尾山神社の写真を撮りにきました。
毎年金沢ではいつも香林坊のホテルに泊まるので、そこから歩いて数分の尾山神社には何度も来ています。
しかし、「神社巡拝」を始めた現在、あまりきちんとした写真が溜まっていないので、今回きちんと写真を撮ろうと思ったのです。

大通りからの尾山神社の眺め
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社号標
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鳥居
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石段の上には神門がそびえています。
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明治8年(1875)建立の神門は三層のアーチ型楼門で、屋根には日本最古といわれる避雷針、最上階の三層目の窓にはステンドグラスがはめ込まれています。夜には灯りが点され、その灯りは海をゆく船からも見え、灯台がわりにもなったといわれます。
神門のデザインは、現在では斬新と評されますが創建時は「醜悪」と言われて不評だったとか。不評の声は昭和10年(1935)に価値が認められて国宝(現在は重要文化財)に指定されるまで続いたそうです。
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夕日を浴びて、ステンドグラスが光っています。
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手水舎
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横に「導水管」が置かれていました。
三代藩主利常公のときに、犀川上流から金沢城への「辰巳用水」が完成しました。それを機にその一部を金谷御殿に引き、サイフォンの原理を利用して、「響音瀑」とよばれる滝を造ったそうです。
現在は水路は絶たれているが、発掘された導水管だそうです。
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青銅の、獅子のような狛犬
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拝殿
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神紋は「梅鉢」
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「梅鉢」は至る所に見えます。
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慶長4年(1599)3月、利家公が薨去します。その後、二代利長公は、利家公を仰ぎ神として祀ろうとしました。しかし、当時、前田家は、なんといっても外様大名の立場です。徳川幕府の許可なくして、勝手なことはできません。利長公とて、徳川幕府をはばかり、公然と神社創建に踏み切ることができませんでした。
そこで利長公は、守護神としていた物部八幡宮ならびに榊葉神明宮を遷座する名目で、卯辰山麓に社殿を建立し、利家公の神霊を合祀しました。これが、卯辰八幡宮です。むろん藩あげて、厚く祭儀を執り行い、尊崇しました。
ちなみに、物部八幡宮は、もと東海老坂村の鎮座です。利長公が、越中国の守山城におられたとき、守護神としていました。榊葉神明宮は、もと越中国阿尾の鎮座です。
 さて、廃藩置県後、 旧加賀藩士等は祭祀を継続し、利家公の功績を不朽に伝えんと、明治6年旧金谷御殿の跡地である現在の社地に社殿を新築しました。尾山神社と称して、郷社に列せられます。翌明治7年には県社に昇格、そののち明治35年には別格官幣社に列せられました。また、平成10年には正室であるお松の方も合祀されました。
廃藩後、旧藩士たちは禄を離れて、必ずしもその生活は楽ではなかったはずです。
それにしては、素晴らしい雄大な社殿を造営したものと感嘆いたします。これもひとえに、利家公の神威の然らしめるところ、前田家三百年の仁政があればこそです。


拝殿の前に、珍しい樹が三本あります。

「淋子(りんず)紅梅」
前田利家の金沢城入城(1583年)400年記念に献木された梅の木。
資生堂がご当地香水シリーズを発表していますが、その土地のシンボル的な花や木の香りを香水にしたもので、金沢では、前田家の家紋で市の木になっている「梅」が選ばれ、この紅梅の香りを基調とした香水が作られたそうです。
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「蚊母樹(いすのき)」
樹齢200年。西日本に自生し、観賞用に育てられるそうですが、この地方では珍しいようです。
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「菊桜」
兼六園一、いや日本一と云われた菊桜です。
天然記念物の兼六園菊桜は、昭和45年枯れ死したが、当時兼六園園丁だった方が枝を接木して育てていたものを寄進しました。
花弁が300枚を優に超え、花色が三色に、深紅から薄紅、落花時は白くと変化するそうです。
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本殿
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レンガに梅鉢紋(前田家の家紋)の組み合わせ。神社にレンガというのは珍しいですよね。
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前田利家銅像
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おまつの方像
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前田利家公の鯰尾の冑
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「遥拝所」があったので、登ってみると伊勢神宮と明治神宮への遥拝所でした。
このあいだの伊勢神宮遷宮の儀の際もここから遥拝されたのでしょう。
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拝殿の右側の神苑(かつての金谷御殿の名残を伝える庭園の一部)
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アーチ型石橋の図月橋(とげつきょう)があります。
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とてもいい庭園でした。
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東神門
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東神門はもともと金沢城二の丸御殿の唐門と伝えられます。 金沢城の建物は残っているものが少ないのですが、これは宝暦9(1759)年 の大火でも焼けなかったといわれます。
形は唐門で、格式の高さをうかがわせますが、彩色は一切なし。 唐破風の空間部分には、下の写真にあるように龍と雲、下部には波の彫刻、真ん中は蟇股に 加賀梅鉢があります。
一説にはこの龍のおかげでこの唐門が焼失しなかったといわれています。
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門扉の窓のデザインもいいですね。
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内側からの眺め。
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門を通して、金沢城の石垣が見えます。
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東神門の近くに、「母子順風の像」があります。
このアクロバティックな像には、参詣者も驚かされるのではないしょうか(笑)
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摂社・金谷神社の御祭神は、歴代(第二代~第十七代)加賀藩主とその正室です。
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金谷神社入り口にあった「さし石」
若い藩士たちが力比べに使ったもの。
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稲畑汀子氏の句碑
稲畑汀子氏は、昭和6年に生まれ、祖父は高浜虚子、父は年尾、稲畑家に嫁ぐ。昭和24年以来「ホトトギス」を主宰した。日本伝統俳句協会会長を務め、句集、随筆等多数の著書があり、俳句の国際化にも尽くした。
「時雨虹とは晴れてゆく空のあり」
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稲畑廣太郎氏の句碑
稲畑汀子氏の子、高浜虚子の曾孫になるわけですね。
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最後に、一昨年(2011年)に撮った夜景を載せておきます。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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なぎさドライブウェイ

20131008

先に「気多大社(能登国一之宮)」の記事をアップしましたが、この日(10/6))富山県城端の親戚を訪ねた後、福光インターから高速に乗り、羽咋を目指しました。
森本で北陸高速から「能登半島縦貫有料道路」に乗り換えるつもりが「のと里山海道(のとさとやまかいどう)」なる道になりました。
???でしたが、ナビに従い進行、進行。

「能登海浜道路」が出来たのが昭和48年です。羽咋までの開通でした。
前年から、こちらに住んでいた私たち家族にとっては、海沿いのドライブコースはとても気持ちよく何度も来たものでした。

なんでも、無料化ということになり、「のと里山海道」という名前が公募で決まったのが、2012年だそうです。
そして、今年2013年の3月から無料化となりました。

名前は変わっても、きもちのいい道路は変わりません。

これは2001年に、長女と二人で遊びに来たときの写真。今回はカミさんと一緒なので、路肩に停めたら怒られること間違いなし(笑)
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高松PAで、今回撮った写真。
以後は今回撮った写真です。
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で、柳田インターで降りて、「気多大社」にお参りしました。

その後、どこかでお昼をと探しながら一般道を走っていたら「能登そば」のお店があったので、そこで昼食。美味しかった(嬉)

その後、久しぶりに「なぎさドライブウェイ」に行こうかと、「のと里山海道」を走り千里浜インターで降りました。
このとおり、どの車も嬉々として波打ち際を走ってます。
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「なぎさドライブウェイ」は、石川県羽咋郡宝達志水町今浜から同県羽咋市千里浜町に至る延長約8kmの観光道路です。
日本で唯一、一般の自動車やバスでも砂浜の波打ち際を走ることができる数少ない道路として広く知られています。
一般の自動車や大型車が走行できる理由はこの海岸の砂が特別細かく締まっている(水分を吸って固くなる)ため、普通の砂浜のように沈まないためなんですね。

今回私たちは、千里浜インターで降りて、千里浜側から走り出しました。

この日は日曜日なので、車の数が多いですね。
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羽咋のあたりで、能登半島がカクッと曲がっているので、そっちを見ると半島が横たわっています。
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波打ち際に立つと、とても気持ちがいい。
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バスも走っています。団体客は大喜びでしょう。
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車を停めて、のんびりと海を眺めました。
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遠くで子供たちが遊んでいます。
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そろそろ帰ろうかということで、「なぎさドライブウェイ」を終点まで走って、そこにある今浜インターで「のと里山海道」に乗り、金沢に向かいました。



気多大社(能登國一之宮)/石川県羽咋市

20131008

10月の5~7日に、用事があり帰省しましたが、5日に用事は済み、6日(日)にここを訪れました。
昔、北陸に住んでいた頃はよくこの辺にドライブに行きました。
「なぎさドライブウエィ」、当社など、それから能登金剛・巌門あたりで遊ぶか、七尾湾に出て能登島などで遊ぶか、ちょうど日帰りのドライブコースにはうってつけでした。
気多大社も4、5度目くらいになると思います。
当社は、下図で赤の矢印のところです。
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社号標
式内社「能登國羽咋郡 気多神社」、名神大、能登國一宮、 旧國幣大社
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鳥居は両部式で、大きく素木の仕上げです。
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社額
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鳥居を入るとすぐに、古札納め所があったのですが、きちんと神棚が備えてあります。
きちんとしてるなあ、と思っていたら若いカップルが古いお守りを納めていました。
う~~ん、若いのにエライ!!
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「氣」の字の張り紙がきになったのですが、この字が当社のシンボルらしく、至る所で目にしました。
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鳥居から神門までの参道は、開放的で気持ちよかった。神門の向こうに「入らずの森」が広がっています。
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狛犬が揃って上を向いていて、顔がよくわからん(笑)
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手水舎
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境内の灌木も根上りがすごいです。浜風が強いのでしょうね。
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神門の前の一対の石灯篭が背が高く立派でした。
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神門
天正12年建立の檜皮葺き、切り妻造りの四脚門。国の重要文化財です。
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当社は、どこも全く塗られていないで素木が質実剛健な感じでいいですね。
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神門から拝殿を
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拝殿
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御祭神は大己貴命。
本殿後方は、「入らずの森」と呼ばれる一万坪の社叢で、国指定天然記念物であり、一般の立ち入りは禁止されている。その「入らずの森」に、奥宮が鎮座し、素盞嗚尊と奇稲田姫命が祀られています。
年に一回大晦日に宮司等神職により清掃のため立ち入るだけです。
また、この森には、三基の円墳があるそうです。

古縁起によれば、人王八代孝元天皇の御宇、越中北島の魔王が鳥に化して人民を害し、鹿島路湖水には大蛇が出現して人民を苦しめていた。この時、大己貴尊が出雲より眷属を引き連れて来臨し、化鳥と大蛇を退治し、この地に垂跡したといいます。

『万葉集』に越中国司として赴任した大伴家持が参詣したときの歌が載っています。天平20年(748)、越中守大伴家持が出挙のため能登を巡行したとき気太神宮に赴き参り 海辺を行く時に作る歌一首(万葉集・4025番)

(気多神宮に参詣するため、海辺を行ったときに作った歌一首)
「志雄道(シヲジ)から 直(タダ)越え来れば 羽咋の海 朝なぎしたり 舟梶もがも」

(志雄道から まっすぐに山越えして来てみたら 羽咋の海は朝凪している 舟と梶があればよいが)
・志雄道--富山県氷見から石川県羽咋に至る古道で、能登半島基部を東西に横断していたという
なお、この歌は、家持が越中国(現富山県と石川県能登地方を含む)の国司(746--51在任)として国内巡察に出かけたとき(天平20年-748)の歌という。そのとき家持は、国府のあった伏木から氷見(以上富山県)へ出て、能登半島基部を横断して志雄へ、半島西側を北上して羽咋に至り、そこから七尾に抜けたといわれ、この歌は気多神社奉幣時の前後かと思われます。

拝殿は質実剛健です。
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神紋は「菊」ですね。
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拝殿の背後に本殿があります。拝殿と本殿は江戸時代前期、承応2年、三代藩主前田利常お抱えの名工山上善右衛門の建築です。この人は加賀の那谷寺、高岡の瑞龍寺なども手掛けています。
本殿は両流れ造りといいますが、ほとんど見えなくてわかりません。
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なんと「幸せむすびどころ」という建物がありました(笑)
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大国主神(おおくにぬしのかみ)は須世理毘売(すせりひめ)と結婚する時、須佐之男命(すさのおみこと)から幾多の試練を課せられ、それを乗り越えて結ばれたところから、そのご利益にあやかろうということでしょう。
有名なようで、若いカップルが多かったですね。

その建物の中に、なんとも古風な神輿が置かれていました。
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本殿左右に若宮神社・白山神社が鎮座しています。

左の若宮神社。祭神は事代主命です。
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右の白山神社。祭神は菊理姫命です。
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神庫附棟
校倉造りです。
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「入らずの森」入り口には、鳥居がありますが当然中には入れません。
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拝殿前の「えんむすびの松」
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幹が一度地面に着くかと思うばかりに撓んで、そこから真っ直ぐ上に伸びています。
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奉納絵馬がすごい数です。
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境内社「太玉神社」
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うっそうとした樹が、ほとんど根上りしています。
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社殿への参道
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狛犬
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社殿  祭神は太玉命。
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「縁むすび石」があって、小石がたくさん積まれていました。
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境内社「菅原神社」
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参道の両側に、びっしりと祈願の絵馬が。
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絵馬の中に「的中絵馬」というのがありました。的の絵馬と矢がセットになっていて、願いが叶うと「的中した」とお礼詣りにきて矢を指していくんですね。なかなか面白い。
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境内の石垣の蔦が、紅葉しかけていました。
今年の秋発見一号!!
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養老大黒像
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最後に当社の境内にある、折口信夫父子の歌碑を紹介します。
入り口には、能登半島特有の風よけが置かれていました。
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折口信夫の歌碑
昭和2年6月、折口が春洋ら学生を伴い初めて口能登を探訪したときに詠まれた歌です。

 「気多のむら 若葉くろずむ 時に来て
   遠海原の 音を聴きをり」

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折口信夫の弟子にして、養子となった藤井春洋の歌碑
昭和19年、春洋が金沢駐屯中に面会した師の折口を思い、詠んだものといわれています。

 「春畠に 菜の葉荒びし ほど過ぎて
   おもかげに師を さびしまむとす」

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帰省

20131004


明日、5日(土)から7日(月)まで
用事があり、富山県の郷里に帰省します。

今回はちょっと時間に余裕があるので、
どこかで遊ぶこともできるので楽しみです。

私は、外ではまったくPCにはさわらないことに
しているので、更新は8日からになります。

それでは。



古事記を知る(22)

20131003

4-5 大国主神の神裔
故此大国主神。娶坐胸形奥津宮神多紀理比賣命生子。阿遅
二字以音鉏高日子根神。次妹高比賣命。亦名下光比賣命。此之阿遅鉏高日子根神者。今謂迦毛大御神者也。
大国主神亦娶神屋楯比賣命生子。事代主神。亦娶八嶋牟遅能神
自牟下三字以音之女鳥耳神生子。鳥鳴海神。訓鳴云那留此神娶日名照額田毘道男伊許知邇神鳴田下毘又自伊下至邇皆以音生子。國忍富神。此神娶葦那陀迦神自那下三字以音亦名八河江比賣生子。速甕之多気佐波夜遅奴美神。自多下八字以音此神娶天之甕主神之女前玉比賣生子。甕主日子神。此神娶淤加美神之女比那良志比賣此神名以音生子。多比理岐志麻流美神。此神名以音此神娶比比羅木之其花麻豆美神木上三字花下三字以音之女活玉前玉比賣神生子。美呂浪神美呂二字以音此神娶敷山主神之女靑沼馬沼押比賣生子。布忍富鳥鳴海神。此神娶若晝女神生子。天日腹大科度美神。度美二字以音此神娶天狭霧神女遠津待根神生子。遠津山岬多良斯神。
右件自八嶋士奴美神以下。遠津山岬帯神以前。稱十七世神。


(読み)
カレコノオホクニヌシノカミ ムナカタノオキツミヤニマスカミタキリビメノミコトニミアヒテウミマセルミコ アヂシキタカヒコネノカミ ツギニイモタカヒメノミコト マタノミナハシタテルヒメノミコト コノアヂシキタカヒコネノカミハ イマカモノオホミカミトマヲスカミナリ
オホクニヌシノカミマタカムヤタテヒメノミコトニミアヒテウミマセルミコ コトシロヌシノカミ マタヤシマムヂノカミノムスメトリミミノカミニミアヒテウミマセルミコ トリナルミノカミ コノカミヒナテリヌカタビチヲイコチニノカミニミアヒテウミマセルミコ クニオシトミノカミ コノカミアシナダカノカミマタノナハヤカハエヒメニミアヒテウミマセルミコ ハヤミカノタケサハヤヂヌミノカミ コノカミアメノミカヌシノカミノムスメサキタマヒメニミアヒテウミマセルミコ ミカヌシヒコノカミ コノカミオカミノカミノムスメヒナラシビメニミアヒテウミマセルミコ タヒリキシマルミノカミ コノカミヒヒラギノソノハナマズミノカミノムスメ イクタマサキタマヒメノカミニミアヒテウミマセルミコ ミロナミノカミ コノカミシキヤマヌシノカミノムスメアヲヌマヌオシヒメニミアヒテウミマセルミコ ヌノシトミトリナルミノカミ コノカミワカヒルメノカミニミアヒテウミマセルミコ アメノヒバラオホシナドミノカミ コノカミアメノサギリノカミノムスメトホツマチネノカミニミアヒテウミマセルミコ トホツヤマザキタラシノカミ
ミギノクダリヤシマジヌミノカミヨリシモ トホツヤマザキタラシノカミマデ トヲマリナナヨノカミトイフ

(現代語訳)
 さてこの大国主神が、宗像の沖つ宮に鎮まる神の、多紀理比賣命を妻として生んだ子は、阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネノ)神、次に妹の高比賣命で、またの名を下光比賣(シタテルヒメノ)命という。この阿遅鉏高日子根命は、賀茂の大御神といっている。
 大国主神が、また神屋楯比賣(カムヤタテヒメノ)命を妻として生んだ子は、事代主神神である。また八嶋牟遅能(ヤシマムヂノ)神の女の鳥耳神を妻として生んだ子は、鳥鳴海神である。この神が、日名照額田毘道男伊許知邇(ヒナテルヌカタビチヲイコチニノ)神を妻として生んだ子は、國忍富神である。この神が、葦那陀迦(アシナダカノ)神、またの名は八河江比賣を妻として生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(ハヤミカノタケサハヤヂヌミノ)神である。この神が、天之甕主(アメノミカヌシノ)神の女の前玉比賣(サキタマヒメ)を妻として生んだ子は、甕主日子神である。この神が、淤加美神の女の比那良志比賣(ヒナラシビメ)を妻として生んだ子は、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミノ)神である。この神が、比比羅木之其花麻豆美(ヒヒラギノソノハナマヅミノ)神の女の活玉前玉比賣(イクタマサキタマヒメノ)神を妻として生んだ子は、美呂浪神である。この神が、敷山主神の女の青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を妻として生んだ子は、布忍富鳥鳴海(ヌノオシトミトリナルミノ)神である。この神が、、若晝女(ワカツクシメノ)神を妻として生んだ子は、天日腹大科度美(アメノヒパラオホシナドミノ)神である。この神が、天狭霧神の女の遠津待根(トホツマチネノ)神を妻として生んだ子は、遠津山岬多良斯(トホツヤマサキタラシノ)神である。
 右にあげた八嶋牟遅能神神から、遠津山岬多良斯神までの神々を、十七世の神という。

(注)
○胸形の奥つ宮 福岡県宗像郡の宗像神社の沖つ宮。前出(八五真)
○阿遅鉏高日子根神 「あぢ」は美称で、農具の鉏を神体とする農耕神であって、雷神として信仰されたらしい。奈良県御所市鳴神にある高鴨阿治須岐託彦根命神社の祭神である。
○高比売命 「高比売」は「高日子」に対応する美称。
○下光比売命 「した照る」は赤く照りはえる意。下に「下照比売」とあり、天若日子の妻となったことが記されている。
○迦毛の大御神 カモは氏族名に品名に用いられた。葛城の賀茂社の祭神である意。
○事代主神 「ことしろ」は「言知る」の意で、託宣をつかさどる神である。奈良県御所市の鴨都味波八重事代主命神杜(鴨都波神社)の祭神。
○前玉比賣 「前玉」は幸魂の意であろう。
○淤加美神 竜蛇神で水をつかさどる神。
○活玉前玉比売神 「活玉」は生魂、「前玉」は幸魂の意であろう。
○天狭霧神 霧の神。
○十七世の神 須佐之男命の子の八嶋士奴美神から数えて十五世である。

(解説)
 この系譜の最後に、「右の件の八嶋士奴美神以下・・・・・」と記されている。八島士奴美神は、須佐之男命の神裔を述べた系譜の中に、スサノヲノ命とクシナダ姫との間に生まれた神として記されている。よって、この大国主神の神裔を述べた系譜は、元来、須佐之男命の神裔を述べた系譜と一続きのものであったのが、分断されたものとみられている。
大国主神の神裔としてあげられた神々の中には、名義未詳のものが多くあるが、これらの神々の中で特に重要性を有するのは、大国主神の子とされたアヂスキタカヒコネノ神と、コトシロヌシノ神とである。アヂスキタカヒコネノ神は、天若日子の神話に現われる神であり、コトシロヌシノ神は、大国主神の国譲り神話に重要な役を演じている。もともとアヂスキタカヒコネノ神は、コトシロヌシノ神とともに、大和の葛城の賀茂の神として信仰された神であって、オホナムヂノ神との関係はなかった神であるとする説が多い。
アヂスキタカヒコネノ神は、水神としての農耕神であり、コトシロヌシノ神は、神の託宣をつかさどる神として信仰された。

ここで、前玉比賣が出てくるが、「さきたま古墳群」の中にある「前玉神社(延喜式内社)」の祭神である。
そして「前玉」から「埼玉」と字が変化して「埼玉県」となっているわけですね。
このお宮さんは、最近訪ねたばかりです。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1311.html

そこから考えられることは、「さきたま古墳群」を作り上げた豪族は「出雲族系」と云っていいだろうと思います。
100m前後の大型前方後円墳は、畿内でも大和地方を除くとそう多くなく、山陰、北陸、四国、東海地域ではほとんど築かれず、千葉・埼玉・群馬の関東地方に多いことがわかりました。
つまり古墳時代には、大和地方と関東地方が突出していたようです。

「古事記」を編纂していたころ、確かに朝廷は大和系が主流だったのでしょうが、全国に存在する「出雲族」はかなりの勢力だったとみられます。

だから、「天地はじめのとき」最初に出現する「造化三神」が、天之御中主神は絶対の最高神として、残り二神が大和系の高御産巣日神、出雲系の神産巣日神となっている。そして天皇の系譜につながっていく大和系と、出雲系の二つの大きな流れがあります。
大和系朝廷がまとめた「古事記」ですが、さすがに出雲系を無視することが出来なくて、かなり気を使っていることがわかります。


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四季歩

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とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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