中氷川神社(延喜式内論社)/埼玉県所沢市三ケ島

20131130

住所:埼玉県所沢市三ヶ島1691-1

27日(水)の武蔵国式内社めぐりは、入間市の出雲祝神社からこちらに回りました。場所は県道179号線沿いなので、すぐにわかりました。

駐車場からの入り口に、神名鳥居があります。
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これは横からの入り口だったので、境内から一旦参道を戻りました。
社号標
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崇神天皇御代(紀元前97年~紀元前29年)に大宮氷川神社より勧進され、日本武尊が東征の折に立ち寄って大己貴命と少彦名命の両神を祀った、と伝えられる。
室町時代までは「中宮」、境内説明板説では大宮氷川神社と奥多摩氷川神社との中間にあるために「中宮」といわれたともいう。
江戸時代は境内が細長いことから「長宮明神社」と呼ばれた。 天正19年(1591年)徳川家康より朱印地を賜る。
明治初年、中氷川神社へ改称した。

こちらの鳥居も神明鳥居です。
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参道は桜並木となっていました。
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境内に入りました。
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手水舎
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屋根に亀がいました。
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可愛い獅子が手水鉢を覗き込んでいます。
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神楽殿
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神楽殿からの境内の様子
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昭和2年(1922)建立の炎尾型狛犬
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拝殿
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ご祭神は、須佐之男命(すさのおのみこと)、稲田姫命(いなだひめのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)、少彦名命(すくなひこなのみこと)。

拝殿内部
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拝殿にも彩色された彫刻があります。江戸期の作だそうです。
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向背には虎の彫刻
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光背柱には獅子と龍
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海老虹梁
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花の彫刻
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水を吐いている龍。防火の意味ですね。
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かなり凝ったデザインです。
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拝殿の奥に覆い屋があり、その中に本殿が鎮座しています。
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覆い屋の隙間は、本殿を眺めるに十分ですが、なんと金網が(泣)
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本殿の彫刻がとても見事です。また彩色も拝殿同様美しいです。
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神紋ですが、拝殿にはまったく見当たりませんでした。本殿の柱に彩色された神紋が三つ確認できました。
「左三つ巴」
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「八重向う梅」
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「丸に九枚笹」
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境内社を廻ります。
山王社
ご祭神:大山咋命
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八坂社
ご祭神:須佐之男命
荒脛社(あらはばきしゃ)を合祀しており、こちらのご祭神が手摩乳命(てなづちのみこと)、足摩乳命(あしなづちのみこと)で、稲田姫命の両親です。
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神明社
ご祭神:天照大御神
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稲荷神社
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大ケヤキの御神木が、根元しか残っていないかたちで保存されていました。
さすが、堂々たる存在感に圧倒されます。樹齡1000とか。
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裏の林も、いい感じですね。
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当社神官の子女で歌人の三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の歌碑
「はるのあめ けぶるけやきのこずえより おりおりつゆの かがやきておつ」
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「日歌輪翁之碑」がありました。
江戸時代の寛政4年(1792)、当神社の神官の家に生まれ、刻苦勉強し、天保の飢饉などの際には困窮者を助け、家畜の飼育、養蚕の奨励、池沼の浚渫など地元民の生活を助けた人だそうです。
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静謐な境内をあとにしました。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html






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出雲祝神社(延喜式内論社)/埼玉県入間市

20131129

住所:埼玉県入間市宮寺1

式内社めぐりですが、武蔵国では家から近いほうからだと地元廣瀬神社、川越氷川神社に行ったので、今回27日(水)には、入間市の出雲祝神社と所沢市三ヶ島の中氷川神社に行ってきました。

最初の入間市・出雲祝神社には近くの小学校をナビに入力したので、スムーズに行けました。

駐車場にはここの社叢「寄木の森」の説明がありました。
天穂日命の子孫が出雲の国よりこの地にやってきた時に樹種を携えてきて植樹したのがこの森で、市内ではめずらしいオガタマノキや野生のヤブツバキなどがあり、林相としては主にヒノキ・スギ・ヒサカキなどから構成されている。
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駐車場から本殿前への近道があり、これも良い感じでしたが、まずは一の鳥居に回ります。
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社号標
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なお、「入間郡・出雲伊波比神社」に比定されている論社としては、川越氷川神社、毛呂山・出雲伊波比神社、所沢・北野天神社に合祀されている物部天国渭地祇神社、および当社ということになります。

当社は、狭山丘陵の北麓、不老川(としとらずがわ)の流域にあります。
氏子区域宮寺は古くから人々の居住した所で、縄文中期の石塚遺跡、古墳後期の元狭山久保地坑遺跡がある。 当社創建を語る社伝も古く、景行天皇の代、日本武尊が東夷征伐のとき、当地小手指ヶ原に至り、天穂日命、天夷鳥命を祭祀して出雲祝神社としたといいます。

由緒:
もと寄木明神。第十二代景行天皇の頃(約2000年前)、日本武尊が東夷征伐に当たられた時、当地に立ち寄り、天穂日命・天夷鳥命を祭祀して、出雲伊波比神社と崇敬したことに始まる神社。
天穂日命の子孫が、出雲国より当地にやってきた際に樹種を携えて播種したのが、出雲祝神社の社叢で「寄木の森」といわれているという。

社号標の反対側に「牟佐志國造御社」と刻まれた石碑があった。祭神の兄多毛比命(えたもひのみこと)のことですね。
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一の鳥居(八幡型)
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鳥居の社号額は「寄木宮」となっています。
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参道が直線に続き、石段を上がると二の鳥居です。
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昭和7年(1932)建立の、流れ尾狛犬。
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二の鳥居(八幡型)
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こちらの社号額は「出雲祝神社」
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二の鳥居の横に、拝殿と向かい合う形で神楽殿があります。
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手水舎
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境内
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拝殿
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拝殿内部
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祭神は天穗日命(あめのほひのみこと)、天夷鳥命(あめのひなとりのみこと)、兄多毛比命(えたもひのみこと)。
(合祀神)天照皇大神、大国主命、伊弉諾命、伊弉冉命、倉稻魂命、菅原道真、大山祇命、市杵嶋姫命、速玉男命、事解之男命、大屋毘古命

神紋は「亀甲剣片喰」でした。
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拝殿の後ろに本殿の覆い屋があります。
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この覆い屋に設けてある隙間は、極々狭く、中は真っ暗で、まったく本殿は見えませんでした。
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次に境内社ですが、社殿の右側には八雲神社があります。
前には落ち葉がすごい。きれいな落ち葉でした。
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八雲神社
祭神:建速須佐之男命
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社殿の左側には護国神社があります。
前には銀杏の落ち葉が積もっていました。
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お賽銭受けの箱には、手彫りの可愛い大国さんと恵比須さんが置いてありました。
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社殿の裏手には、茶業に関係する碑があります。
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重闢茶場碑(かさねてひらくちゃじょうのひ)といいます。
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天保3年(1832)に撰されたもので、狭山茶の由来が記されています。題額は前縫殿頭(さきのぬいとののかみ)松平定常、碑文は後の大学頭(だいがくのかみ)林韑(はやしあきら)が作り、当時の一流書家であった巻大任(まきのたいにん)(菱湖)が筆をとったものです。
宇治の蒸し製煎茶法による新たな茶づくりを確立した狭山茶業復興の記念に建てられたといいます。
鎌倉時代栄西によってもたらされたという茶は、各地に広まり、この地方にも川越茶がつくられた。その後戦国の乱をへて衰微したが、江戸時代の後期に狭山茶復興の機運が起こり再興され、文化・文政時代に至って茶の復興し、茶戸五十有余におよび江戸との取引も盛んに行われた。
  碑文には、日本での茶の歴史、武蔵河越茶から狭山茶に至る経緯、復興に尽力した人物 吉川温恭と村野盛政、そして江戸の茶商山本家の六代目、山本嘉兵衛徳潤の名が記されています。また 茶の効能、茶づくりに対する心構えなどがまとめられて います。
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この碑の後方には、一つの畑に茶が栽培されていました。
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ロビ第34号&35号組立/ロボット「ロビ」

20131128

【第34号】

第34号で紹介されているロボットは、東京消防庁の救出ロボット、「ロボキュー」。
開発は、東京消防庁、複数の大学、企業連合による産公学のプロジェクト。
災害が起きた時、消防隊員が近づけない危険な場所に取り残された人を救助するためのものだ。
これは二代目で、小型、軽量化、無線操縦化が図られている。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① ラバーシューズに両面テープでモップを貼り付ける
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② サーボケーブルに保護シールを貼る


完成状態
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【第35号】

第35号では、8/31から9/1にかけて行われた「水中ロボコン in JAMSTEC‘13」の説明があった。
競技は「一般競技部門」と「高校競技部門」に分かれている。
「一般競技部門」には、遠隔操縦式水中ロボット「ROV」、自律型水中ロボット「AUV」、水中生物を模したアクアバイオロボットが参加する「フリースタイル」、とくに競技を行わない「一般デモ参加」の4部門からなる。
「高校競技部門」は、提供された水中ロボットキットを2日間で組立て、調整、操縦の練習、水中競技までわ行う。

AUV部門優勝は、九州工業大学チームの「DaryaBird」。長さ1.0m、重さ30Kg。
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ROV部門優勝は、杉浦機械設計事務所チームSMDの「SMDネブチューンROV」。長さ0.8m、重さ8Kg。
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フリースタイル部門優勝は、東京工業大学付属科学技術高校の3年生チームの「もるペン」
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
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② サーボをテストし、IDを書き込む
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③ IDの書き込みを確認する
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完成状態
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ヘルツ・アス

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系統: HT ハイブリッドティー
作出: 1998年、ドイツ、Tantau
咲く時期: 四季咲き
花の形: 半剣弁高芯咲き→
花の色: 赤
花径: 大輪
香り: 微香

こういう深紅の薔薇は目を引き付けますね。
「ヘルツ・アス」はドイツ語でトランプのハートのエースを表しているそうです。
ハートは心臓を現し、血液の赤からきているそうです。
この薔薇の色は、その名にぴったりだと思います。
また、花弁質がとても良いバラのため、雨が降っても染みになりにくい性質を持っているそうです。
梅雨時期に見るヘルツ・アスはとても趣のある咲き方をしていて、雨上がりの姿がとても美しいバラだそうです。今度、雨上がりにヘルツ・アスを撮りにいこうと思いました。


2011年6月 狭山市智光山ばら苑にて


琵琶劇唱~鶴田錦史の世界

20131125

前回の記事で、鶴田錦史について書いた本のことを書きましたが、鶴田錦史の演奏を聴きたくなって、アマゾンで検索したなかで、良さそうだと思って購入したのが、これです。

前回の記事



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1. 俊寛
2. 壇の浦
3. 義経

唄:鶴田錦史
琵琶:田中鶴旺、斎藤鶴竜、岩佐鶴丈

CDが届いて、レビューを読んでみたら、なんと鶴田錦史のラスト・レコーディングでした。それも亡くなる一週間前に録音されたものです。

レビューの記事によると、晩年、錦史はリウマチの痛みを薬で抑え、演奏活動を続けたが、弟子の成長を待って弾を止めた。奪われた力は補えばいい。自分の手が思うにまかせぬのなら、弟子の手がある。しかも一人ではない。三者三様、異なる旋律を奏でるアンサンブルをバックにすれば、それは一人の弾き語りではかなわなかった広がりのある音の世界が生み出せる。既に何回か試みていた合奏形式という琵琶楽の未知の領域に、本格的に二取り組んでいく。

その最も充実した果実が、このCDに収められた3曲だそうです。
自ら作曲した「好きな曲」である。いずれも平家物語に題材をとった作品。
平家滅亡の前奏曲ともいえる「俊寛」、壮絶な戦いと西海の泡と消えた栄華の虚しさを語る「壇の浦」、そして源氏の英雄九郎判官の生涯を三つのエピソードでつづる「義経」である。

三面の薩摩琵琶を駆使して織り成される源平音絵巻は、ひとつのオーケストラに匹敵する色彩を持っています。
普通に録音すると、あの迫力ある琵琶の音はマイクでひろえなくて、違った音になってしまうのだそうです。
それで工夫を重ねて、実の音に近づけた録音だそうです。
その張りつめた緊迫感がすさまじいです。
そして巨匠の語りは鬼気迫る迫力があります。

届いてから、毎日一度は聴いていますが、当分これを聴いていればいい、という感じです。
すごいですねえ、鶴田錦史という人は。




さわり/佐宮圭

20131124

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「さわり」というのは琵琶独特の音色で、「弦が振動しながら楽器の一部に微かに触れることで生まれる、複雑で深みのある音」だそうです。

琵琶の音は好きで、上原まりさんの「平家物語」のCDは持っていた。しかし琵琶を聴く機会がほとんど無いし、音楽はクラシックに軸足が乗っているので、琵琶はそんなには聴いていなかった。
それでも、毎年5月の「寄居北条まつり」に行くのは、特設舞台で琵琶の口演があるから、それが楽しみとなっている。

クラシックの世界で、琵琶がからんだ有名な演奏がある。
ニューヨーク・フィルハーモニック125周年記念委嘱作品として、武満徹が『ノヴェンバー・ステップス』を作曲し、1967年11月9日、ニューヨーク・リンカーン・センターにおいて、鶴田錦史と横山勝也のソロ、小澤征爾指揮ニューヨーク・フィルハーモニックにより初演された。
これは大成功で、海外での公演は200回以上に及んだという。
もちろん、小澤征爾大好きの私は、この曲の演奏にまつわるエピソードなどは、ずいぶんと知っているつもりでいた。
ニューヨーク・リンカーン・センターでの初演の映像も見ている。

しかし、朝日新聞に載ったこの本の紹介記事で、初めて知ったのである。
あの時、紋付き袴姿で琵琶を演奏している「鶴田錦史」は実は女性なのだと。

それでこの本に関心を持ち、切り抜いたはいいけれど、どこかにはさまってしまっていて、又それが出てきたので、取り寄せて読んだ。

この本は鶴田流を作った人、鶴田錦史のノンフィクションです。
7歳で琵琶を習い始めて、12歳で早くも師匠となり、13歳でレコードを出すほどの早熟な少女スター。
その時代は、ものすごい琵琶の人気が高かったようです。
演奏会は超満員で、琵琶を習いたがる人も多くて、師匠としての収入もすごかったようだ。

20代後半に、夫の裏切りを機に彼女は音楽を捨て、子供も捨てて、「男装」で実業界に身を投じ、大きな成功を納めます。生涯「男装」を貫きました。

40台半ばで武満徹と出会って、再び琵琶を手にしたあとは、琵琶の再興に尽力します。

彼女と対照的に、生まれが良くて、美人のために、超人気女流琵琶演奏家として幼い時から華やかな舞台に君臨し、しかしながら琵琶人気の凋落で、最後は借金生活。しかし琵琶一筋を貫いた水藤錦穣も登場します。

鶴田錦史の数奇な人生に驚きながら読み進み、琵琶自体の話や、琵琶の世界の歴史を、ひいては琵琶というもを世界に知ってもらうための彼女の努力を知りました。
武満徹が求める音を実現するために琵琶を改造してしまうとか、琵琶の改良もずいぶんとしています。

この本で、ずいぶんと琵琶に対する関心が深まりました。



ロビ第32号&33号組立/ロボット「ロビ」

20131123

【第32号】

第32号で紹介されているロボットは、(有)創和の「プレン」。
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開発コンセプトは「一人暮らしのOLさん向け」で、組立用キットとして発売された。
デスクトップロボットとして、運動性抜群で、バランス性がいいためローラースケートをこなす。
200台生産されて完売。追加生産の予定は無く、次のロボットを開発中らしい。


今回使用するパーツ
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今回の作業
① 右股関節フレームを組み合わせる
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② サーボケーブルに保護シールを貼る
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完成状態
股関節の内側フレームが組み込まれた。
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【第33号】

第33号で紹介されているロボットは、東洋初といわれるロボットを復元した「学天則」。
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大阪市立科学館に常設されている圧縮空気で動くロボット。
サイズは、全長3.2m、全幅3.2m。
毎時ちょうどになると、3分ほどのデモンストレーションを行う。まず瞑想を行い、インスピレーションがわいたら、それをペンで書き留める。
表情も変化する。
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オリジナルは、1928年に西村真琴氏が制作。無数のイボ状突起を持つ回転軸(ドラム)とゴム管の組み合わせで動かした。復元された現在のものは、もちろんマイコン制御となっている。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボをテストする
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② IDを書き込み、確認する
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完成状態
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鷲宮神社/埼玉県久喜市

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住所:埼玉県久喜市鷲宮1丁目6番1号

13日(水)の歴史クラブの見学会で、玉敷神社、行田市真名板(まないた)の古墳・板碑・薬師堂、加須市龍輿寺、大福寺、騎西城(郷土資料展示室)の次に、最後に訪れたのがここでした。

社号標
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由緒:
当神社は、出雲族の草創に係る関東最古の大社である。由緒は神代の昔に、天穂日宮とその御子武夷鳥宮とが、昌彦・昌武父子外二十七人の部族等を率いて神崎神社(大己貴命)を建てて奉祀したのに始まり、次に天穂日宮の御霊徳を崇め、別宮を建てて奉祀した。この別宮が現在の本殿である。
崇神天皇の御世には、太田々根子命が司祭し、豊城入彦命、彦狭島命、御諸別王が、それぞれ幣帛を奉納した。
景行天皇の御世には、日本武尊が当社の神威を崇め尊み、社殿の造営をし、併せて相殿に武夷鳥宮を奉祀した。
桓武天皇の御世には、征夷大将軍坂上田村麿が、武運長久を祈り奥州鷲の巣に当社の御分社を奉祀した。
中世以降には、関東の総社また関東鎮護の神として、武将の尊崇が厚く、歴史上有利な武将だけでも藤原秀郷・源義家・源頼朝・源義経・北条時頼・北条貞時・新田義貞・小山義政・足利氏歴代・古河公方・関東管領上杉氏歴代・武田信玄・織田信長・豊臣秀吉・徳川家康等があげられ、武運長久等を祈る幣帛の奉納や神領の寄進、社殿の造営等がなされた。なかでも江戸時代には、四百石の神領を与えられ、代々の将軍の名で朱印状が残されている。
 明治天皇の御世には、神祗官達により准勅祭社に定められ、勅使参向のもと幣帛の奉納がなされた。そして明治天皇行幸の際、当社に御少憩され、祭祀料として金壱封を賜り、昭和天皇の御世にも、幣帛を賜った。

大鳥居
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参道
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狛犬
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八幡太郎源義家の駒つなぎの桜
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ここのお神楽の説明板がありました。
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鷲宮の神楽が書物に登場するのは、『吾妻鏡』の建長3年(1251)の記事であり、鷲宮神社の神前で神楽を行ったところ見事な託宣(神のおつげ)が現われ、祈願が成就したといいます。しかし、この神楽が今に伝わるものと同じであるかは明らかではありません。
この他にも神楽を知る上で貴重な書物が残されています。一つは、享保11年(1726)、大宮司藤原国久の筆写による『土師一流催馬楽神楽歌実録』です。これには、神楽の中で歌われる催馬楽などの歌詞や神楽で使われる衣装、持ち物などが詳しく書かれています。
もう一つは、天保年間(1830~1843)に鷲宮神社の大宮司藤原国政が記した『鷲宮古式神楽正録』の写本で、神社の由来や神楽の詳細な内容が書かれています。これによると、藤原国久が廃れた祭祀を再興しようと「当社奥秘を社人に伝授」し、宝永5年(1708)に十二座神楽を行ったことがわかります。
これらの記録などから、現在の十二座の神楽が編成されたのは、宝永5年~享保11年頃、今から270~290年ほど前のことであったと推定されます。
なお、この神楽は、関東神楽の源流といわれ、江戸の里神楽の基礎を形成しました。『海録』(19世紀前半)という書物によると、当時江戸で行われていた十二座の神楽の原形に、「土師の舞」と呼ばれるものがあり、これは17世紀の後半頃江戸に入ってきたものであることがわかります。この「土師の舞」とは、十二座に編成される以前の鷲宮神社の神楽のことでありました。このことは、『鷲宮古式神楽正録』に書かれており、鷲宮側でもそのことが伝えられています。
日本を代表する神事芸能である神楽とは、神をまつる音楽や舞いのことです。
古くは、神遊びといい、その語源は、カムクラ(神座)からきたと言います。のちに様式化・芸能化され神楽となりました。
鷲宮神社に伝わるこの神楽は、国の重要無形民族文化財に指定されています。一般に「鷲宮催馬楽神楽」と言われていますが、正しくは「土師一流催馬楽神楽」と言います。
「土師」というのは、「土師の宮=鷲宮」転訛説に準じたものです。また、「催馬楽」とは、平安時代に広く流行した歌謡で、この神楽の各曲目ごとに歌われます。
曲目は、以前三十六座あったといわれていますが、現在は十二座形式になっています。
曲目の大半は、記紀(『古事記』と『日本書紀』)の神話を題材としています。演劇的な要素の強い江戸の里神楽に対し、演劇的な要素はなく一種の舞踊劇となっています。
舞いは、二人以上の連れ舞いが多く、宗教味の濃い動作が含まれており、古い祭りの儀式や作法をしのばせる格式をもっている典雅な舞いです。
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立派な灯篭がありました。
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手水舎
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社殿
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拝殿
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ご祭神は、天穂日命(あめのほひのみこと)、武夷鳥命(たけひなとりのみこと)、大己貴命(おおなむちのみこと)

神紋は「右三つ巴」でした。
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拝殿の奥に、ご本殿が鎮まります。
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最初に祀られたという「神崎神社」が本殿と並んであります。
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神崎神社は玉垣の隙間が小さくて、よく見ることが出来ませんでした。
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これが精一杯でした。
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神楽殿
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いろいろな絵馬がかかっています。
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これは「天石屋戸」を描いています。
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鷲宮の神輿
約3トンあり、いわゆる「千貫神輿」です。県内では最大ですが担ぐのに300人くらいが必要とあって、なかなか担げないでいました。近年は関東一円から担ぎ手が集まり、毎年9月の第一日曜には勇壮に担がれているとのことです。
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光天之池(みひかりのいけ)
古くから所在していたこの池は、経年とともに次第に土砂が水面に流れ込み、長らく地中に埋もれていた。この場を含む境内地にて平成11年(1999年)から境内整備事業の一環として復元作業および土砂の搬出が行われ、今日の姿となっている。また、池には「龍神様が住んでいる」という伝承がある。
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境内社もたくさんありました。

久伊豆神社
御祭神:大己貴命
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左:八坂神社、右:八坂神社神輿庫
御祭神:建速須佐之男命
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鹿島神社
御祭神:武甕槌神(タケミカヅチノカミ)
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八幡神社
御祭神:誉田別尊(ほんだわけのみこと)=応神天皇
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諏訪大神=建御名方命(たけみなかたのみこと)
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姫宮神社
御祭神:宗像三女神(多紀理毘売命(たきりびめ)、市寸島比売命(いちきしまひめ)、多岐都比売命(たぎつひめ))
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社務所の前にあったのが、「寛保治水碑」
県指定史跡です。
高さ2.6mの石灯籠に「刀禰上流以南修治告成り碑」と記し、長文の文字が刻まれています。
寛保2年(1742)8月、利根川が氾濫し、江戸市内にも達し、幕府は諸大名に堤防等の修築を命じた、その中で、羽生、騎西領を含めた上利根川南側の地域を担当した毛利家の工事は、特に困難を極め、人足100万人以上を要した。その完工記念にたてられた碑で、当時の難工事の様子が詳しく記されている。 なお、文章は江戸時代中頃の代表的儒学者である服部南郭の撰文である。
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おみくじに光があたって・・・・
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ご神木(?)のまわりに絵馬が。
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アニメ&ゲーム「らき☆すた」の舞台のモデルに当神社がなったそうで、絵馬も若い人のものが多いようです。
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ちなみに、このような由緒がある当社が式内社でないのは、恐らく当地一帯が利根川や中川の乱流地帯で、まだ開発が行き届かず、これを祀る氏族もその勢力が弱かったためだと思われます。



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大福寺、騎西城(郷土資料展示室)/埼玉県加須市

20131121

13日(水)の歴史クラブの見学会で、玉敷神社、行田市真名板(まないた)の古墳・板碑・薬師堂、加須市龍輿寺の次に訪れたのがここでした。

【大福寺】
住所:埼玉県加須市内田ケ谷1110

大福寺は、熊野山弥陀院と写し、真言宗智山派の寺院です。宥幸和尚により開山されたと伝えられています。本尊には不動明王を奉安しています。
 平安時代の末期、大福寺一帯は武蔵七党の野与党に属していた多賀谷氏が、ここに館を構えていたといわれています。発掘調査では、当時の陶磁器なども出土しているそうです。多賀谷氏は、源頼朝の上洛の随兵や弓始め射手として活躍したと伝えられています。 
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山門をくぐると、左手に板碑が並んでいます。
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大福寺の板碑は、14基あります。中でも中央には全国で6番日に古いとされる天福2年(1234)の板碑があります。

左から順に撮影しました。
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武士などの名を連ねた交名板碑
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全国で6番日に古いとされる天福2年(1234)の板碑
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幅広の青石に大日如来の梵字を大き<刻み、月輪で囲んでありす。
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下部には大日如来を受ける蓮座が深<刻まれています。
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まだまだ板碑が続きます。
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阿閦如来(あしゅくにょらい)如来種子を刻んだ板碑
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境内には、このように沢山の石仏が集められていました。
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その中で、皆の関心をひいたのがこちら。
子供を抱いているのではないかという意見が多かった。
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【騎西城(郷土資料展示室)】
住所:加須市上三俣2255

続いて訪ねたのは、稲田に浮き立つ白亜の城。町制20周年を記念し昭和50年に建てられた。史実の騎西城は土塁を廻らした平屋の館だが、天守閣を持つ城として復元された。館内には発掘訴査による出土品が展示され、豊富な陶磁器や武器・武具が在りし日の騎西城を偲ばせてくれます。
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騎西(私市)城は根古屋城・山根城とも呼ばれた城。いつ誰の手による築城か不詳だが康正元年(1455)には上杉・長尾・庁鼻和(こばなわ)氏らが守るこの城を足利成氏が攻略、数百人を討ち取り、敗走させている。
さらに永禄6年(1563)には上杉輝虎(謙信)に攻められ、惜しくも落城した。
 天正18年(1590)、徳川家康の関東入国により、騎西城へは松平康重が入封。騎西領48ケ村、2万石の領主となった。この領域は現騎西町のほか、加須市・鷲宮町・久喜市・菖蒲町の-部に及ぶ。
寛永9年(1632)、大久保忠職の美濃国加納城(現岐阜県岐阜市)への移封により、騎西城は廃された。

館内の入り口には、いかに騎西城が重要だったかを説明していた。
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発掘された障子堀 
障子堀とは堀の中に畝を残し、敵の進入を阻害するもの。ここで発見された障子堀は戦国時代のもので、幅約50mの堀一面に深さ釣1.5mのすり鉢状の穴が整然と並べられていた。
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障子梅から出た、南北朝期の特徴を残す兜。鉢の部分は16枚の鉄板を矧ぎ、錣(しころ)や吹返しの小札は革を黒漆で固めたと思われるが、革が腐食し漆だけが残っていた。
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出土した銅銭
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馬甲(馬の鎧)
障子堀から140枚見つかっている。
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短刀
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冑の前立ての一部
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戦国時代の鉄鍋鋳型
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徳川家康から騎西城主に、朝鮮出兵の準備を進めるように言ってきた手紙。
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騎西城から出された「年貢割り付け状」
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年貢の納付が済んだという「皆済状」
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安政2年の地震被害届
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伊勢暦
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縄文時代の出土品で、いままで講義を受けたが実物を見たことが無かったものがあって、嬉しかった。

穴を掘る、木を切る石斧。
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つぶす、たたき石
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粉にする摩石(すりいし)、石皿。
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縄目をつけた石
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砥石
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古墳時代の埴輪にも、いいのがありました。

馬形埴輪と水鳥形埴輪
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人物形埴輪と猪形埴輪
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(続く)


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真名板高山古墳・板碑・薬師堂(埼玉県行田市)&龍興寺(加須市)

20131120

13日(水)の歴史クラブの見学会で、玉敷神社の次に訪れたのが、行田市真名板(まないた)にある古墳と板碑と薬師堂が一か所に集まっているところでした。

【真名板高山古墳】
真名板高山古墳(全長90.5m、前方後円墳、6世紀後半築造)は一見するとごく普通の古墳ですが、実際は古墳の下の部分が3mもの川の堆積物に覆われ、墳丘部分だけが見えています。ボーリング調査によって、古墳が約3m埋没していること、深さ約2mの二重の周掘が巡っていることがわかりました。実際の全長は127mでさきたま古墳群の二子山(138m)に次ぐ大きな古墳です。墳丘の中央部から後円部は大きく削られています。
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丘に登るような感じで道が付いています。
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本来前方後円を結ぶ稜線が山道みたいになっています。
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墳丘の斜面には樹が茂っています。
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墳丘の下に降りて見上げてみました。
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墳丘の頂上には、2体の石碑が祀られています。
一つは富士講の石碑
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もう一つは輪王坐の石仏
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【板碑】
高さ 351cm、行田市内最大の板碑です。忍城址の行田市郷土博物館には、このレプリカがあります。
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上方に三弁宝珠、荘厳体の阿弥陀の種子「キリーク」、蓮華座
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中央に「南無阿弥陀仏」の六字名号、両脇に五輪塔
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下方中央に「建治元年(1275)乙亥九月日、沙弥西念、敬白」、左右に「右志者奉為過往、主君幽儀滅罪生善」「乃至法界群類平等、利益偽造立之如件」の刻銘があります。
沙弥西念が今は亡き主君の菩提供養のために建立したものです。
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横にかわいらしい板碑がちょこんと(笑)
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すぐ近くに、正面に「青面金剛」と彫った庚申塔、左横に「弁財天」、右横に「大黒天」が彫られた石碑がありました。
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【薬師堂】
延宝7年(1679)から天和2年(1.682)にかけて建立されました。当時、花蔵院(けぞういん)という真言宗の寺院があり、薬師堂はその境内において差配を受けていた堂であったといわれます。花蔵院は明治初期に廃寺となり、現在は薬師堂と仁王門のみが残っています。
県指定文化財、鎌倉時代後期薬師如来立像(1月1日および4月2日~8日の間の日曜御開帳)があります。
ここには、真板(まないた)氏の館があったと伝わっています。騎西町町史には、真板五郎次郎経朝は弓術に優れ、仁治4年(1243)、寛元2~4年(1244~1246)、建長3~5年(1251~1253)幕府の弓初めの射手を努めた、真板氏の出自は不詳と記載されています。
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仁王門
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ユーモラスな仁王様
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薬師堂
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真板(まないた)氏館跡の碑
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「新渠の碑」という、この地の偉人を称える碑がありました。
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原文を訳した説明がありました。
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薬師堂や板碑を保護するかのようにそびえている、樹齢700年の「真名板薬師堂の公孫樹」。
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ここを引き上げるときに、板碑のそばにこんな瓦のかけらを見つけました。ハートがあるんです。
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【龍輿寺】
真名板からバスで移動して、加須市上崎にあるこのお寺にお参りしました。
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大光山龍輿寺と号し臨済宗円覚寺派に属しています。文書によると不同年中(約1200年前)天裕和尚によって開かれたといわれています。古くから足利氏との関係が深<、境内には足利持氏とその子、春王・安王の供養
塔が現存している。
足利氏のゆかりのものも多<伝えられていたらし<、足利成氏寄進の達磨画像、持氏の束帯像があったといわれています。しかし、現在は足利家から寄進されたという膳と足利政氏・義氏からの寺領安堵状が残っているのみです。

龍興寺の青石塔婆
龍興寺には覆屋の中にコンクt」一卜で補強された1基の板碑があります。文永8年(1271)に造立された板碑です。埼玉県指定史跡になっています。
これこそ「青石塔婆」の名称の由来になったものです。板碑は卒塔婆・板石塔婆・青石塔婆など、様々に呼ばれてきました。しかし、昭和初年、龍興寺の板碑に『青石卒塔婆』の文字が刻まれているのが発見され、占<から青石卒塔婆の名称が用いられていたことを証明する史料として話題を呼びました。《青石とは荒川上流に産する緑泥片岩のこと。武蔵国の板碑の多<がこれを石材にしており、以後『青石塔婆』の名称が広<用いられるようになりました0》           「
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本堂
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本堂の前に一対の灯篭がありますが、請台のところにハートが彫っているいることと、茶道に関する彫刻があったのが珍しい。
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足利持氏・春王・安王供養塔
境内の覆屋に3碁の古びた石塔があります。永享の乱で亡<なった足利持氏とその子、春王丸と安王丸の供養塔(埼玉県指定史跡)です。
難を逃れた足利成氏が父と兄のために道立したといわれています。成氏は冥福を祈るために寺を修造、七堂伽藍を建立するとともに、寺領として上崎村を与えたともいわれています。
永享の乱とは、室町幕府を開いた足利尊氏は関東を抑えるため、次男基氏を鎌倉に下向させました。しかし、次第に強大化した勢力は4代持氏のころになると、頂点に達しました。幕府はこれを弱めようと、持氏と対立する上杉氏を助けて、永享11年(1439)に持氏を滅ぼしました。これが世にいう永享の乱です。
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山門の前に「石敢當」がありました。
これにはびっくりしました。沖縄に行くと、道がぶつかった所には必ずこれがあり。「また、あったよ」なんて面白がったものでした。沖縄だけの風習と思っていたので、関東でこれにぶつかるとは夢にも思っていませんでした。

小川のほとりに、ひっそりとありました。
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石敢當(いしがんとう)とは、中国で始まった魔除けの石柱です。道路の突当りや橋の訣などに造立し、様々な邪気をくい止め追い払う。沖縄をはじめとする南西諸島から九州南部におおくみられます。
明和8年(1771)に造立されました。『石橋施主回心』とあることから、石橋を渡って寺内に入ろうとする邪気を祓うため僧侶が造立したものと思われています。

山門
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山門の彫刻ですが、眼に石を入れているのが珍しい。
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山門前には沢山の石仏が並んでいました。その中で、寛政4年(1792)奉納の庚申塔がよかったですね。
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日月の彫刻が見事で、年代が古いのにはっきりと刻まれています。
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また本堂前に三蔵法師の一行があったのには、驚きました(笑)
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(続く)


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玉敷神社&宮目神社(延喜式内社)/埼玉県加須市騎西

20131119

ちょっとアップが遅れましたが、13日(水)に、歴史クラブの見学会があり、最初に訪れたのが当社です。

社号標
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旧県社・式内社(埼玉郡四座の山)
住所:埼玉県加須市騎西552番地
創建:不詳。説として
(1)第13代成務天皇の御世国造が出雲大社の分霊を遷座
(2)第42代文武天皇の御世多治比真人三宅麿が東山道鎮撫使として東国に下った際。
沿革:
(1)醍醐天皇の延長5年(927)延喜式内社となる。
(2)平安後期~鎌倉時代、武蔵七党の-つ私市党(きさいとう)の崇敬を受けた。
(3)天正2年(1574)、上杉謙倍が関東に攻め込み、私市城を攻略した時に当時、今の所より北方の正能村(旧騎西町正能)にあった当社は炎上、社殿、古記録、宝物等焼失。
(4)江戸時代、根古屋村(旧騎西町根古屋)にあった騎西城の大手門前に-時再建されたが、程なくして(1620年頃)城内でしばしば火災があり、現在地に移転。
(延喜式内社宮目神社杜域に社殿を造営。宮目神社は現在は境内杜になっている。)
(5)当社は江戸時代まで玉敷神社、久伊豆大明神(ひさいずだいみょうじん)と併称され、旧埼玉郡の総鎮守、騎西額48カ村の氏神であった。そして「騎西の明神様」として親しまれてきた。また、各地に「久伊豆神社」と称する分霊社が多く建立され、当社は久伊豆社の本社的存在であった。

一の鳥居(八幡鳥居)
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参道が長く直線に続いて、両脇を松並木が覆っています。
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二の鳥居(八幡鳥居)
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そこからちょっと行くと、右側に「天神社」があります。
祭神は菅原道真。
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少し進むと左側に、玉敷神社に隣接する国学者の河野省三の邸宅跡があり、今は公園として整備されています。
河野家は代々、玉敷神社に奉職してきた家柄だそうです。
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ここの藤はみごとなものだそうです。
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手水舎
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水がとても透き通っていて、気持ちがよかった。
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三の鳥居(八幡鳥居)
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境内に入ります。
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大正8年奉納の狛犬
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拝殿
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御祭神:大己貴命(おおなむちのみこと)=大国主命
配祀神:天照大神・豊受大神・伊邪那岐命・伊邪那美命他)

神紋は「右三つ巴」です。
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宮司さんのご好意で拝殿内にある市文化財の産額等を拝見することができました。
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産額
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更に親切な宮司さんが、この算額の内容をわかりやすく書いた資料を、後日送ってくださいました。
私は「天地明察」という本ほ読んだときに、渋谷の金王八幡、川越の神社の算額を見てまわったことがあるので、これは望外の喜びでした。
A4で4枚にわたる資料でしたが、そのうち最初のページの分を載せておきます。
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絵馬
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本殿は流造り
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茅葺の神楽殿
玉敷神社神楽ほ国指定無形民俗文化財であり、江戸時代初期より行われていると推定されます。
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樹齢500年の大いちょう
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玉薮神社の杜は陰樹(光に対する要求性が比較的低い樹木)を主体とした関東の極相林として学問的価値が高いそうです。
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【宮目神社】
境内社に移りますが、トップは何といっても宮目神社です。
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現在は玉敷神社境内社・地主神となっていますが、れっきとした延喜式内社です。
御祭神:大宮能売命(おおみやのめのかみ)
玉敷神社が遷座してくる前のこの地の鎮座神は宮目神社でした。
平成13年4月に林立していた白樫が倒壞し社殿に直撃。社殿が大破したために同年6月に新社殿竣工。

狛犬
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社殿
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神馬社(お馬様)
毎年5月4日に行われる「お馬くぐり」の雌雄2頭の木製の神馬像があります。
乳幼児の健康、成長を願って昔から行われてきた行事です。
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琴平神社
御祭神:大物主命
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稲荷神社
御祭神は説明が無かったが、宇迦之御魂神と思われる。
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白山神社
御祭神:菊理媛命、伊邪那岐命・伊邪那美命
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松尾社
御祭神:大山咋命
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厳島社(弁天様)
御祭神:市寸島比売命一柱か宗像三女神(多紀理毘売命、市寸島比売命、多岐都比売命)
見事な一枚岩の橋がかかっていました。
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八坂社(天王様)
御祭神:素戔嗚命
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絵馬は、ここに見えるもので4種と多いですね。
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河越・流鏑馬

20131117

11月16日(土)に国指定史跡河越館跡において、流鏑馬が行われるという情報を入手し、楽しみに出かけました。

場所は、東武東上線「霞が関」駅の近くです。
案内に従って、入間川の河川敷に駐車し、会場に向かいます。

河越館跡の標柱
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河越館について簡単に説明しますと、河越太郎重頼は1180年源頼朝に臣従し、鎌倉幕府創立に大きく貢献しました。1184年、重頼の娘京姫は源義経に嫁ぎますが、1187年義経の縁者との理由により謀殺されました。
しかし、所領は安堵され重頼の子重時、重員は鎌倉幕府の御家人として鎌倉北条氏に仕えたということです。

現在、ここには常楽寺というお寺になっています。
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駐車が心配で早目に来たので、日陰で本を読みながら待ちます。
お馬さんもスタンバイしてます。
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当初は、常楽寺での出陣式を見てから会場に向かうつもりでしたが、ふと会場の方を見ると既に馬場には沢山の人が場所取りをしています(汗)
私も、出陣式を見るのをあきらめて走っていき、なんとか最前列を確保しました。
的が3ケ所ありますが、私の陣取った位置は、一の的と二の的の真ん中辺でした。

行列がやってきて、民俗芸能が披露されてから、いよいよ流鏑馬の開始です。

「天地人三才の儀」
天に向かって矢を射ります。
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「扇舞の儀」
扇と鈴とで、優雅に行進してました。
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騎馬術を披露する武者の行進
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騎馬術演武(薙刀)
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騎馬術演武(抜刀)
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騎馬術演武(槍)
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騎馬術演武(弓)
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落馬もありました(笑)
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姫も負けてません。
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いよいよ、騎射です。
的に当たると、「カンッ」と気持ちのいい音がして、真っ二つに的が割れます。
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逆光で、一の的はうまく撮れませんでした。
ところが、二の的は難しいようです。
二の的を当てた人は、一の的も三の的も、全て当てていましたね。

姫の騎射
一の的を的中しました。
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二の的は射ることができませんでしたね。
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しかし三の的は的中でした。
遠く離れていても、的中すると、いい音が聞こえてくるのでわかります。

この武者も一の的は的中しました
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二の的は、惜しくも外しました。
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流鏑馬なるもの、初めて拝見しましたが、興奮しきりでした。
アッという間に駆け抜けていくので、撮るのは大変でしたが、楽しかったです。


笠間・茨城県立陶芸美術館

20131117

10日(日)に、笠間稲荷で社殿・境内、菊花・菊人形展、大和古流の演武をそれぞれ見て満足した後、門前のお蕎麦屋さんで美味しい蕎麦を味わった後、向かったのがここでした。
私の手持ちのガイドブックには、ここに行けば板谷波山、富本憲吉の作品に会えると書いてあったからです。

駐車場から上がっていくと、左に県立陶芸美術館、右は笠間工芸の丘があり、とても良いところでした。
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県立陶芸美術館
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そして、なんと企画展は大好きな板谷波山展をやっているではないですか(嬉)
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内部の感じ
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内庭には、板谷波山が使用した窯と田端旧宅・工房が置かれていました。

三方焚口倒焔式丸窯
波山は資金難のため少しずつ煉瓦を買い足し、扇形の煉瓦が必要なところは、普通の煉瓦を自ら扇形に切ったという。
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波山の田端旧宅・工房
金沢での教員生活をたたみ、東京に出てきて陶芸家として歩み始めたときの住処ですね。
田端から見える故郷の筑波山の山並みから「波山」と号するようになったそうです。
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居間
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台所
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粘土の置場
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企画展「没後50年 板谷波山展」
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晩年の板谷波山
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波山と家族記念ポートレート(大正3年頃)
この写真で、生きた時代がわかりますね。後列中央が波山、右が奥様。
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板谷波山は、明治5年に茨城県下館の豪商の家に生まれました。醤油醸造業や雑貨商だったといいますから、やきものには無縁の家でした。
それから91歳で昭和38年に亡くなるまでの経歴は、WIKIなどで見ていただくとして、ここでは省略します。
ただ、東京美術学校を卒業後、石川県立工業高校で教えながら7年間金沢で陶芸を研鑽されたことが、私にとても親近感を覚えさせる理由です。

この時代に製作した「彩色芭蕉蛙文花瓶」(板谷波山記念館蔵)が出品されていました。
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会場に入ってすぐのところに「そびえている」といった形容がぴったりな、高さ77.5cmの「彩磁蕗葉文大花瓶」には度肝を抜かれました。
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波山は、生涯で何度か作風を変えましたが、何といっても私の大好きなのは「葆光彩磁」です。
この展示会で知ったのですが、「葆光」という言葉には「光を包みかくすこと」や「自然のままの光」などという意味がある。「葆光彩磁」の「葆光」という言葉の起源は、中国・春秋時代の思想家・荘子による『荘子』「斉物論篇」と考えられている。鋭い彫文様による意匠を鮮やかな釉下彩で直截に表現する彩磁の表現は、ややもすると幾分強い表現になりやすい。そこで、波山はうつわから余情が醸し出されるような味わい深さを加えようとした。
そこはかとない余情を加えた作品は、とても素晴らしいものです。
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「葆光彩磁八つ手葉花瓶」
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「葆光彩磁葡萄唐草文花瓶」
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「葆光彩磁妙音紋様大花瓶」
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「葆光彩磁細口菊花帯模様花瓶」
この火炎は、法隆寺夢殿救世観音光背から写したものだそうです。
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「葆光彩磁牡丹文様花瓶」
赤を使用した、葆光彩磁の作品は珍しいようです。
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波山は、帰省したときには下館の郷土史の編纂や郷土資料の収集を呼びかけ、文化財の修復や保存にも力を注いだそうです。
郷土愛の表れが、関東大震災で被災した人に贈った「聖観音像(火よけ観音)」
300体贈ったそうだ。
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そして、郷土の80歳になった人に贈った「鳩杖」
これも300本送ったそうだ。
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思いがけず、板谷波山の作品をたくさん見ることができて、とても幸せでした。




大和古流/笠間稲荷

20131115

10日(日)にカミさんと二人で笠間稲荷に出かけました。目的は菊花・菊人形展でしたが、事前に調べたときにこの日は、「大和古流」の奉納があると知ったので、楽しみにしていました。

大和古流奉納とは:
今年で30回目を迎える「大和古流奉納」は、毎年当神社の「七五三」の儀式として、子供達の健康とすこやかな成長を願い、心を本旨とする礼法・兵法・華法などを奉納するものです。特に古くから魔を調伏する鳥として尊ばれているふくろうの羽を矢羽とした「降魔の矢」を射て、参拝の子供達に「降魔札」と呼ばれる厄除けのお守札を配る「降魔射礼の儀」が行われ、当流の21世当主・友常貴仁氏のご長男による弓術「陰陽射礼」と、剣術「抜刀術初発」の両儀式が奉納され、終了後には、弓術「陰陽射礼」の弓の型を七五三を迎えた子供達に体験してもらいます。大和古流奥儀秘儀「降魔射」の儀の後、縁起の「降魔札」を七五三の子供達に配ります。「降魔札」は前の晩参籠する大和古流当主自らの筆によるものです。
<降魔とは>
古くより弓矢は魔を払い、守護の役割をはたしてきました。堀河帝が物怪に悩まされた時、源朝臣義家は三度弓の弦を鳴らして見事物怪を追い払い、再び出て来ないように白羽の矢を置いて守護としました。
近衛帝・二条帝の御時には、義家の例にならい、弓矢を取らせては並びなき源頼政が警護の任につき、帝(みかど)の心を悩ませていた鵺(ぬえ)という化鳥を見事射落としました。
「降魔射」は、大和古流がこの古事来歴により、代々、時代に則して七五三の儀の際に「降魔の矢」を一手用いて行ってきました。
「降魔の矢」と言うのは、矢羽がふくろうの羽で、古来よりふくろうは深夜、人間の嫌う蛇やネズミなどを食することにより、魔を調伏する鳥として尊ばれています。この矢が上空を通過する事により、魔が払われてお札が「降魔札」となり、子供達の健康と成長を願う魔除けとなります。

【組み太刀】
事前に笠間稲荷のHPで調べた際には、大和古流奉納しか載っていなかったので、それを拝見する時間を頭に入れていました。
笠間稲荷に到着した時に、境内で剣術「抜刀術初発」の儀式が奉納されていました。既に「抜刀術初発」は済んでしまって、「組み太刀」の披露を木刀で行っていました。
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これも、開始の時間がわかっていれば、それに間に合うように来たのですが、残念でした。

笠間稲荷の写真を撮り、菊花・菊人形展を見たあと、11時半から奉納されるという事だったので、拝殿前にてスタンバイしました。
場所は、多くのカメラマンさんが陣取っているところに私も加わりました(笑)

【大和古流奥儀秘儀・降魔射】
楼門から神職を先頭に入場してきました。
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神職が、参列している観衆と奉納する武芸者をお祓いします。
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「降魔札」が、矢の飛ぶ下に置かれます。
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矢を射る場所に移動します。
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拝礼します。
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準備
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降魔の矢
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いよいよ射ます。
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的は、写真を撮るのをうっかりしましたが、五色の幕です。
先ほどの「降魔札」の上に矢を飛ばすことが目的なわけです。

一人が拝殿に行き、ほら貝を吹きます。
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そして一人が矢を放ちます。
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当流の21世当主が、他の人が矢を放つ場所よりかなり遠い位置の拝殿前から矢を放って締めくくります。
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入場するときから全ての矢を放ち終えるまでの礼法、所作が、何とも言えず厳かなもので実に素晴らしかった。



菊花・菊人形展/笠間稲荷

20131114

先に、10日にお参りした笠間稲荷の記事をアップしましたが、介護疲れのカミさんを何処に連れて行こうかと思ったときに、浮かんだのが菊を見に行こうかということでした。
それなら、関東では評判のここにしようということで、笠間を訪れることになったわけです。

聞きしに優る見事さでしたね。
笠間稲荷の広い境内のどこに行っても、菊、菊でした。

いちいち説明は不要と思いますので、ずらずらっとアップしていきます。
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菊人形展のテーマは「八重の桜」でした。
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何ケ所かで「お色直し」をしていました。聞けば期間中に三回くらい入れ替えるそうです。
生ものだから大変ですね。
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笠間稲荷神社(2)/茨城県笠間市

20131112

10日お参りした笠間稲荷の続きです。

本殿の裏側にあるのが「狐塚」で、人々の信仰の形を山に模した「お塚信仰」と呼ばれるものだそうです
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その周りにも沢山のキツネさんが奉納されています。
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本殿裏手の入り口の狛狐はちょっとユーモラスな感じですね。
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本殿横手の入り口の狛狐は、中々迫力があります。
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これは、「総門」もしくは「東門」と呼ばれ、文化十三年の再建です。
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東門、当初は左右に随身像が泰安されていましたが、楼門新築時に移され、総門と称されるようになりました。
現在は金色の御幣が置かれていました。
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左右に「毛綱」が奉納されていました。
大きな木材など運搬するさい通常の綱では切れてしまうので女性信者の長い毛髪と麻縄を撚り合わせて、超強度な綱にするのだそうです。よく社殿造営の際にするそうなので、ここの社殿の造営の際に使用されたものでしょう。
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彫刻もあります。
大己貴命の「因幡の白兎」ですね。
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これは「天孫降臨」。左の猿田彦が異常に大きく描かれていますね(笑) どうしてだろう。
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屋根には陶器製の龍がいます。
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本殿裏手の末社で、月読神社・白山神社・天満宮・粟島神社・山倉神社になります。
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祭神はそれぞれ、
月読神社:月読尊
白山神社:菊理媛神・伊邪那岐神・伊邪那美神
天満宮:菅原道真
粟島神社:少彦名神
山倉神社:高皇産霊神・建速須佐之男神・大国主神
でした。

聖徳殿は聖徳太子が祀られているほか、大黒天、事比羅社が合殿にて祀られています
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常陸七福神のうち、当社では大黒天をお祀りしています。
普通大黒天といえば俵の上に乗っていますが、それは元禄時代以降のお姿だそうです。
ここではくくり頭巾、狩衣姿で左肩に袋を背負い、右手に打ち出の小槌を持った本来のお姿です。
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嘉辰殿と美術館に囲まれた庭園も見事でした。
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池の周りにも菊が展示されていました。
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瑞鳳閣
大正天皇御即位記念(大正6年)に建てられました。伊東忠太の設計によるもの。
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前に大きな菊のツリーが仕立てられていました。
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屋根の意匠が見事です。
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子供たちの図画コンクールが行われていました。
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瑞鳳閣の奥が菊人形展の会場でそれを見て、拝殿前で行われた大和古流の演武を見て、楼門の前に引っ返してきて、絵馬殿が休憩所になっていたので、そこで一休みです。
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本当にたくさんの絵馬が掲げられていました。
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その横にあったのが、「建国記念の日」という石碑。日月をあしらった良いデザインでした。
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(了)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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笠間稲荷神社(1)/茨城県笠間市

20131111

昨日10日(日)にカミさんと二人で笠間稲荷に出かけました。ここの菊人形が有名だということで、訪ねました。
車で三郷まで行ったら、その先常磐高速は地震のため50Km制限となっていました。おやおやと思いながら走っていると、今度はハイウェイラジオが友部より先が通行止めだと云っています。
友部で降りて、すぐが笠間稲荷なので、事なきを得ました。

そして、お稲荷さんの近くの駐車場に留めて、鳥居を捜したら全然見つからないのです。
おかしいなあ、と思いながら交通整理をしている人に聞いたら、大震災で全部倒れちゃいました、ということでした。それで気が付いたのですが、あの辺の歩道が今でもずいぶんと波打っていますね。
まだ大震災の痕跡は残っています。

さて、鳥居を探しているときに見つけたのが、この大きな灯篭。
ここからお参りを始めました。
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社号標
旧社格は村社で、現在は神社本庁の別表神社となっています。別称胡桃下稲荷(くるみがしたいなり)、紋三郎稲荷とも言います。
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真っ直ぐな参道の両側に仲見世があるのですが、この日はズラッと菊が並んでいました。
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本来は目立っているのでしょうが、参道の両側に菊に埋もれたかたちで狐が並んでいます。
5組10体ありましたが、ここでは4体をご紹介。
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キツネがお使いとして選ばれたのは、稲荷大神が農業神であることと深く結びついています。民俗学者の柳田國男も指摘しているように、日本人には古くから神道の原形として「山の神、田の神」の信仰があります。これは春になると山の神が山から里へ降り、田の神となって稲の生育を守護し、収穫が終えた秋に山へ帰って、山の神となるという信仰です。
キツネも農事の始まる初午の頃から収穫の終わる秋まで人里に姿を見せていて、田の神が山へ帰られる頃に山へ戻ります。このように神道の原形である「田の神、山の神」と同じ時期に姿を見せるキツネの行動から、キツネが神使とされるようになりました。

参道が終り、大きな楼門が見えます。
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手水舎
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なんと、ここにも立派な彫刻が沢山あります。
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重層入母屋造の立派な楼門です。
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楼門の外側には「櫛磐間戸神」「豊磐間戸神」が祀られています。
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内側には二体の「神馬」の像が奉安されています。
白い馬と黒い馬で写真は白い馬ですね。古来から災いなど困ったことがあると、神さまに祈願する人のもとへ、除災招福のために天馬となって、天をかけて飛んで行き、災いを鎮めたと伝えられています。
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楼門を入った右側に、注連縄がかかっていますから、ご神木でしょう。古木があります。
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拝殿向かって右手の二株の藤樹は樹齢四百年、茨城県の天然記念物だそうです。とても見事な藤棚です。
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拝殿
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御祭神は宇迦之御魂神。
当社の御創建は、社伝によれば第36代孝徳天皇の御代、白雉2年(651)と伝えられています。
その後幾星霜を経て、桜町天皇の御代、寛保3年(1743)には時の笠間城主井上正賢により社地社殿が拡張され、又延享4年(1747)牧野貞通が城主となるや先例により祈願所と定められ、境内地・祭器具等が寄進されました。以来歴代藩主の篤い尊崇を受けました。

往古、この地には胡桃の密林があり、そこに稲荷大神さまがお祀りされていたことから、「胡桃下稲荷」(くるみがしたいなり)とも呼ばれています。また第十三代藩主井上正賢公の一族に門三郎という人がいて、利根川流域を中心に多数の人々に功徳を施し、信仰を広めたことから「お稲荷さんの門三郎」との名声を博し、いつしか門が紋にかわり「紋三郎稲荷」とも呼ばれるようになりました。今日では関東はもとより、全国から年間350万余の人々が参拝に訪れているようです。

拝殿正面の左右に、4枚の絵馬が架けられています。
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それから、拝殿の片方の横に、鳥と龍の彫刻が長い棒の先に立っていました。
当然反対側にもあったはずなのですが、この日は菊人形展あり、大和古流の演武あり、混乱していて確認できませんでした(汗)
帰ってきて調べると、青竜、朱雀(トリ)、白虎、玄武(ヘビガメ)の四神の彫刻だそうです。
残りは、次回訪れたときに確認します。
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拝殿の前にも、「八重の桜」の八重と中野竹子の菊人形が仁王立ちしていました。
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菊も綺麗に飾られています。
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神紋は、「包み抱き稲」。
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御本殿は江戸時代の末期安政・万延年間(1854~1860)の再建で、銅瓦葺総欅の権現造で、昭和63年国の重要文化財に指定されています。
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御本殿周囲の彫刻は、当時名匠と言われた後藤縫之助の作「三頭八方睨みの龍」「牡丹唐獅子」、弥勒寺音八と諸貫万五郎の作「蘭亭曲水の図」等実に精巧を極めています。

海老虹梁の彫刻もすごいですね。
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本殿の周りも素晴らしい彫刻で飾られています。
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出来るだけ撮ってきましたが、全部を網羅できていないと思います。これも宿題としておきます。
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今回は、帰ってきてから写真を整理しましたが、とても一回では載せられないので、二回に分けてアップすることにしました。残りは次回とします。


(続く)

その(2)には、下記をクリックしてください。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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メタセコイアの化石、アケボノゾウの化石/市・歴史散歩の講座

20131109

本日9時半から11時半に、水富公民館で「みずとみ歴史散歩」の第一回を受講しました。
これは市教員委員会が公民館と合同で展開している歴史散歩の講座です。

講師は橋本荘-氏で、私がガイドの会でお世話になっている大先輩。

演題は「水富地区の自然環境、笹井メタセコイアの化石林、アケボノゾウの化石」でしたが、ここでは表題の二つについて述べたいと思います。
橋本さんは、当時地元の教師だった関係で、発掘調査のお手伝いをしたので、発掘のとても貴重な写真とか、橋本さんが採集した化石などの実物を見せていただきました。
ここでは、私の手持ちの写真を添付します。

【笹井メタセコイアの化石林】
杉の仲間で、「アケボノスギ」といいます。
常緑針葉樹の杉にヒ対してアケボノスギは落葉針葉樹です。

まず、昭和14年(1939年)に、大阪市立大学の三木茂博士によって、和歌山県の第4紀(175万年前)の粘土層から、化石が発見されました。
昭和16年(1941年)学会発表、学名登録されました。
アメリカ西海岸に自生するセコイアスギと似ているが葉や球果のつき方が異なる。
このセコイア杉というのは、鷹さ100mに達する巨木で、根の部分をくりぬいてトンネルとし、そこを車が通り抜けるとか、よくテレビで取り上げられています。
アメリカ自生のヌマズギとも異なる特徴。
第3紀の終わり(300万~200万年前頃)に絶滅したと考えられでいた。

ところが、自生しているメタセコイアが発見されました。
昭和20年(1945年)中国四川省の林務官王戦氏、重慶近くの揚子江南岸の渓谷で、高さ・35m直径2・3mの針葉樹の大木を発見。
葉と球果から、南京大学の鄭(てい)教授は未知のものと判断。⇒北京大学胡博士がおどろいた。博士は三木博士の論文を読んでいた。これはメタセコイアである。⇒「生きている化石」を世界に紹介した。

笹井のメタセコイアの化石
戦後、昭和20年代に笹井ダム付近に在住の人は、掘って燃料として使っていた。
昭和49年8月の大型台風によって、河床が露出して発見される。
昭和50年2月に埼玉大学堀口萬吉氏を団長として調査。
炭化した木の根の株で、株の残っているものが18株、株の中心なし・根だけ9株、根の痕跡だけ2株の合計29株を発見。
炭化の少ない、「亜炭」という種。
昭和55年に、化石林の1株を抜きとり、今宿遺跡公園に展示してある。
写真は、博物館サイト掲載のもの。
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発掘現場は、「笹井ダム」と呼ばれている入間川の堰の近くです。
笹井ダム
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生きたメタセコイアは、戦後日本に入る。・・・・別所沼湖畔のが、その当時のもので古い。
昭和天皇が好まれたので、各地に広まる。
市内では、新狭山公園(野球場)、入間川中校庭、笹井ダム公園、その他。

ちなみに我が家にあります(笑)
私の通った小学校(長野県)にあった。⇒父親が挿し木で家の庭に植える。⇒私はこの木を気に入っていたので、狭山市に私の家を建てたときに、父親に依頼。⇒父親が挿し木で増やした苗木を私の家に植えてくれた。
本当は高い樹になるのだが、敷地が狭いので伸ばせず切り詰めているので可哀想。しかし元気です(笑)
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【アケボノゾウの化石】
県指定文化財(天然記念物) 平成15年3月18日
約250万~70万年前に日本列島に住む。
アジア、アフリカ象より小型。ステゴドンゾウの仲間。ステゴドンとはギリシャ語で「屋根の様な歯」の意味。
アジア象より小柄、2~3t 体長1・5~1.8m
長いキバ、ギザギザした山と谷の形の臼歯に特薇。
化石林調査の際、周辺地質調査をするため堀口先生を中心にした別働隊が発見。
昭和50年(t1975)2月に、堀口萬吉先生を団長。入間川左岸の東八木より大臼歯・肩甲骨など。         昭和60年(1985)県立自然の博物館の坂本治先生が発掘。ほぼ前の地点近くで肋骨、大腿骨、肩甲骨など1頭分74点、(以前の)調査では58点
現在、本物は県立自然の博物舘に全部。全身発掘は日本初である。
レプリカが狭山市博にあり。本物は狭山市で3点、狭山市博物館にあり。
時代は、第四期前期更新世(約100万年前)。

なぜ小さい象かというと:
祖先は500万~250万年前に中国の北部に棲息。ツダンスキーゾウやコウガ(黄河)象の仲間。
大型体高等3.8mでシンシュウ(信州)ゾウやミエ(三重)ゾウと推察される。
日本列島が大陸から離れて島になる。⇒狭い日本の環境に適応するため小型化した。

アケボノゾウ大臼歯(自然の博物館に展示)
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発掘された肋骨、大腿骨、肩甲骨など
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自然の博物館に展示されている、アケボノゾウの骨格
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【アケボノゾウの足跡化石】
発掘調査
第一次:平成3年(1991)12月
第二次:平成4年(1992)3月
第三次:平成4年(1992)12月
入間市仏子 西武線鉄橋下 左岸 A地点
        同         左岸 B地点
        同         A地点より200m下流のグランド下

自然の博物館に展示されている、アケボノゾウの足跡
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【蛇糞石(じゃふん石・じゃくそ石)】
別名サンドパパイプ
アナジャコ、カニなどの巣穴のあとに砂などが入って出来る…生痕化石
この名前は、昔この辺には大蛇が住んでいたという伝説からきている。
橋本さんが持っている二本を見せていただきました。
鉄を含んでいて、ずっしりと重い。なるほど入間川から良質な砂鉄が採れたという話ですからね。


知識としては、市の歴史講座で教わっていましたが、今回貴重な写真とか現物を見せていただき、かなりの興奮ものでした。良かったです。


大我井神社(延喜式内論社)/埼玉県熊谷市

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11月2日(土)に、さきたま古墳群にある史跡の博物館の「さきたま講座」を受講しました。内容は5日の記事のとおりですが、その日それではと、あの辺にある式内社に午前中行くことにしました。
何処に行こうかと考え、10/26日に「奈良神社」に行きましたが、その先のやはり407号線沿いにある大我井神社(おおがいじんじゃ)を選んだわけです。
407号線というのは、東山道武蔵野路だったと推定されている道です。
407号から入っていくと、まず妻沼聖天山歓喜院があり、そこの駐車場に停めました。大我井神社の場所がだいたいの方角しかわかっていなかったので。

鳥居は神明式です。
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鳥居をくぐると左右に祠がありますが、表示はありません。門神だと思います。
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手水舎
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参道の左側には、まだかろうじて高い樹が残っていました。
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参道の右側にもあったのだと思いますが、切り株と大きな穴があったので、樹が枯れたか倒れてしまったかのようです。
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なので、唐門と社殿だけが目立ち、左に富士塚があるのが見えます。
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唐門の由来
当唐門は明和7年(186年前)若宮八幡社の正門として建立された 明治42年10月八幡社は村社大我井神社に合祀し唐門のみ社地にありしを大正2年10月村社の西門として移転したのであるが爾来40有余年屋根その他大破したるにより社前に移動し大修理を加え両袖玉垣を新築して面目を一新した。
時に昭和30年10月吉晨なり
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彫刻は立派ですね。
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拝殿
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御祭神は、伊邪那岐命、伊邪那美命。
配祀が大己貴命。
合祀は、倉稻魂命、誉田別命、天照皇大神、速玉男命、事解男命、天穗日命、石凝姥命、菅原道眞。

日本武尊、東夷征伐のみぎり、軍糧豊饒の為に二柱大神相殿二神を合祭、始て大我井の森に稲置を建給いし神社という。鎮座地は利根川右岸の自然堤防の上。
奈良期に入植した渡来系氏族が、大我井の森に神社を祀ったことにはじまる。
平安後期に当地を支配した斎藤実盛が、自らの守護神であった聖天社を勧進し、以来総鎮守として発展するが、同時に白鬚神社の信仰は衰退。その後聖天宮は、忍城主成田氏や徳川家康によって庇護された。
当社は神仏分離令によって明治元年12月に聖天社境内を分割し、東側に伊邪那岐神・伊邪那美神を祀る「二柱神社」を建立。聖天社そのものは聖天山歓喜院が寺院として運営。
明治2年に社名を二柱神社から、古来以来の森にちなむ大我井神社と改称し社殿を造営。
女沼村聖天宮を式内社楡山神社の論社とする説もある。

住僧と神職の争いの話もあります。
慶応4年(1868)9月、神仏分離の布達に際し、当宮に奉仕する彌宜職の三人(田島河内・堀越大和・橋上宮内)は、密議を交して村役人に相談もせず、京都及び東京の裁判所に願い出て聖天宮を神宮の掌中に獲得しようと謀った。そのため時の住僧稲村英隆は入獄の難を受けたが、氏子一般民は寺院側に加担する者多く、神職側に不利が生じて止むなく時の判事の斡旋により、当時の聖天境内十二町九反余を二分し、七町九段余は聖天宮境域とし、残り五町余は大我井神社社地となし、「如絵図面、宿井往來可爲境事」と定めた。また「当村外廿八箇村、二柱之神之可爲氏子事」・「聖天之儀者、從是後、当村外二十八箇村永代可爲講中事」として円満に解決をみたのである、とあります。

拝殿内部
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神紋は、拝殿屋根瓦に「連珠三つ巴」があります。
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また、唐門には「連珠三つ巴」と「笹竜胆」の神紋があります。
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拝殿の後には神明造の本殿があります。
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本殿の千木と鰹木ですが、祭神が男女の神なので、どうなのかなと思い見ると、千木が外削ぎ、鰹木が奇数という事で、いずれも男の神を表わしていますね。
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本殿の後ろから
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拝殿の左に富士塚があります。
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頂上への石段の左右には、富士講にちなむ石碑が立っています。

○行(?)神霊(教祖・長谷川角行ではないかと思います)
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何の祠か不明
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角行霊神(富士講教祖)
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富士浅間大神
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小御嶽大神
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身禄神霊(食行身禄(伊藤伊兵衛))
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頂上に冨士浅間大神
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頂上からの境内の眺め。見えているのは唐門。
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西の鳥居。笠木に屋根がかかっている。木製の八幡鳥居が傷まぬよう屋根をかけたのか。
もしかしたら柱に穴があるので、両部鳥居だったものを稚児柱を取ってしまったのかも知れない。
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西の鳥居から入ったところに石碑が並んでいる。
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右から、正面に「是より西 摩多利神道」、側面に「従是北 御社領」と記された標石。
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冨士嶽大神
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浅間大神
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浅間大神
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冨士嶽
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伊奈利大神
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高尾山
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御山改修記念碑
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参道の左側に石が祀られています。
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傍に「福石由来坐碑」という碑が立っています。
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その下に彫られているのは、下記の文章です。
『福石由来坐碑
敬神尊王帝国大典亦我国民通社也故古今不乏
其事蹟盖福石玉垣造營其一事也謹接乏由来當
天明二年関東大洪水山霊流下巨石丂停字森下
地先人々感尊奇蹟祀神称福石神社爾来霊験不
浅廡民仰其徳故官下論告合祀村社大我井神社
是實明治四十二年十月也??然神付臣石徳在
神庭森下荒井氏子寄竊??神慮佛今上陛下行
給即位大禮展大掌大義哉其孝奉祝?不能??
諮畫福石玉垣造營以為永久不滅祈念????
可謂教神尊王兩行今竣工茲記其概要以傳??
云爾時大正四年星次乙卯十一月也』

境内に芭蕉の碑があるというので、探しました。
社務所の傍らにひっそりとありました。
「春の夜は櫻に明けてしまひけり」
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与謝蕪村の句碑もありました。こちらは、すごい立派です。芭蕉が気の毒になった(笑)
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「菜の花や月は東に日は西に」
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蕪村の句碑の前に、現代俳句の句碑が並んでいます。
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その横にも、猪俣千代子の句碑
「武蔵野に明日は初日となる夕日」
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猪俣千代子は『寒雷』『杉』同人、埼玉県俳句連盟会長だそうです。

鳥居の前に、藤原光俊の歌碑
「紅葉ちる太我井の杜の夕だすきまた目にかゝる山のはもなし」
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藤原光俊は鎌倉時代の歌人。新三十六歌仙のひとり。書は相馬御風。

最後に、宮崎利秀の句碑。
「下駄はきの一教師たり稲の花」
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


ソフトの押し売り、しかも(怒)

20131105

今日は、散々な目に合った。
腹が立って仕方が無い。

DVD-VIDEOを作成しようとしたのだ。
ソフトを立ち上げたら、途中で「この機能はバージョンアップが必要です」というテロップが出た。
おいおい、この間も作成したばっかりだぞ。
ちゃんと焼けたではないか。
しかし、その先ネットに繋げてバージョンアップした製品を購入するしか選択肢が無いのである。
何度やり直しても同じ。
バージョンアップ代、三千円とちょっとだが、これはまずいよね。
完全に押し売りである。
アップした機能は、他にもあるかもしれないが、タイトルが章立てして作れるようになった点くらいかな。
カードで購入するにしても、色々と入力させられて、
ダウンロードしてインストールして、
ようようDVD-VIDEOが焼けるようになった時には疲れ果てていた(泣)

DVD-VIDEOを三枚焼いて、他の用事をしていて、
ネットに繋げようとしたら、つながらない(汗)

あれこれ確かめて、モデムもLANサーバーも異常無いようだ。

それでは「システムの復元」だな。

それにしても、ウィンドウズ8では、コントロールパネルがどうしてあんなに判り難い場所に置いてあるのか(怒)

で「復元ポイント」がちょうど、問題のソフトインストール前の時点で設けられていたので、
そこで復元した。

パチパチパチ!!
見事に!
あっけなく繋がりました(嬉)

その後で、また猛烈に怒りが!!!

バージョンアップのインストールなので、当然従来のソフトを削除するわけです。
それと一緒に、関連するプログラムを削除していいか聞いてくるわけです。
「削除しない」を選べるわけですが、そうするとゴミがどんどん増えるわけです。
それで、今日は全部削除しました。
その中に、ネット接続に関連するブログラムがあったという訳です。

ソフトを押し売りされ、システムを壊され・・・・・・・
何なんですかね・・・・これは(怒)

半年前くらいに買ったPCにプリインストールされていたソフトなんだけど、
PCメーカーに、あんなソフト使うな、とメールしようか、とか
色々考えていて・・・・・・
こんなこと何時までも考えているのは、精神衛生上良くないと気が付きました。

こうやって、グチ書いたところで終りにします(笑)



さきたま将軍山古墳と上総金鈴塚古墳-出土馬具を中心に/さきたま講座

20131105

11月2日(土)に、さきたま古墳群にある史跡の博物館の「さきたま講座」を受講しました。
今回は、表題のテーマでした。
講師は、朝日新聞編集委員の宮代栄一氏です。
氏は、千葉県木更津市の金鈴塚古墳出土の馬具の復元製作を担当した方です。

古墳時代の馬というのは、権力と富の象徴でした。半島から入ってきたばかりで、その威力というのは現代のロールス・ロイス、戦車などに匹敵したわけです。
また馬の生産は、当時初めてと云える総合産業でもありました。
馬具もまた、当時の技術の粋を結集した「ハイテク製品」だったのです。
かなり装飾性の強いものです。
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宮代氏はまた、復元馬具をとりつける模型馬の製作にあたっては、大阪府蔀屋北遺跡から出土した馬の骨の標本に肉付けして当時の馬を再現しました。
古墳時代の馬具を取り付けた展示用の模型馬は全国で10例前後ありますが、いずれも現生の木曽馬や御崎馬、あるいはサラブレッドなどをモデルにしており、古墳時代の実物の骨から製作した馬の模型は初めてだそうです。
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さきたま古墳群の将軍山古墳からは、二組の馬具が出土しています。
一つは金銅製の統一されたデザイン性が優れたもので、半島系渡来品と見られるもの。もう一つは鉄製でばらばらな感じの倭製とみられるもの。
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馬冑と蛇行状鉄器(旗指物に使用)
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雲珠(うず)と杏葉(ぎょうよう)
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将軍山古墳の石室に展示してあった復元馬装
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金鈴塚古墳からは4組の馬具が出土しています。
その中で、一番立派なのがこれ。
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胸繫(むながい)にぶら下げた馬鐸
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今回の企画展では、群馬県の八幡観音塚古墳と綿貫観音山古墳からの出土品も展示してあるので、そちらについても説明があった。

八幡観音塚古墳からは3~4組の馬具が出土。
そのうち、一番立派なのがこれ。
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綿貫観音山古墳からは3組の馬具が出土しているが、きわめて装飾性が高くて、実際に取り付けられたかわからない感じとなっている。
雲珠(うず)と辻金具に花のように歩揺が取り付けられていて、とても豪華な感じだ。
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それぞれの古墳から出土した馬具の写真や図が説明され、資料もいただいたが、ここに載せるのは省略します。

それぞれの古墳から、2~4組の馬具が副葬されていたが、このことは、それらを持つことの出来る人物が、同じ墓に2代ないし4代続けて葬られたことを示しているようです。


奈良神社(延喜式内社)/埼玉県熊谷市

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10月26日の午後、熊谷図書館で「古代豪族は どのように地域を経営したか」を受講しましたが、その日それではと、熊谷にある式内社に午前中行くことにしました。
とりあえず熊谷の街から離れたところに行っておこうと、407号線沿いの当社に行くことにしました。
407号線というのは、東山道武蔵野路だったと推定されている道です。

「中奈良」交差点から入っていき、なんとか探し当て、そして今度は車を停める場所を求めてウロウロしていて偶然離れたところにある鳥居を発見しました。これが一の鳥居です。
八幡鳥居ですね。
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その道をずっと入っていくと、一対の灯篭、その向こうに鳥居と参道があります。
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二の鳥居もやはり八幡鳥居。
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そして境内の入り口に三の鳥居、両部鳥居です。
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ずいぶんと綺麗な、「奈良之神社」という社額がかかっています。
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拝殿
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拝殿の扁額も「奈良之神社」となっています。よって社名は奈良神社だが、読みは「ならのじんじゃ」となります。
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御祭神は、奈良別命。
合祀が、火産靈命、建御名方命、大國主命、大日孁貴命、彦火火出見命、木花咲耶姫命、素盞嗚命、豊宇氣毘賣命。

社伝によると、仁徳天皇の頃に下野国造となっていた奈良別命(豊鍬入彦命の4世の孫)が任を終えて、当地を開拓。奈良郷を築いたとされる。土民らが、その恩に感じ、徳を慕って当社、奈良神社を創立したという。
中世、熊野信仰の拡大にともなって、この地にも奈良神社と熊野権現の2社が鎮座しており、その後熊野権現を本社とし奈良神社を合祀したという。しかし関東管領両上杉氏の兵火によって社運は傾き、当社を保護していた忍城主成田氏も小田原氏滅亡後に移転し、近世期は長慶寺の支配下となった。

大田原市南金丸にある那須氏ゆかりの古社である那須神社(正式名称は那須総社金丸八幡宮 那須神社)や下都賀郡野木町の野木神社(旧郷社)も奈良別命が創建したという。また佐野市奈良淵町の町名の由来は「佐野は早くから大和朝廷の支配下にあり、豊城入彦命の東征後、奈良別王は下野国造としてこの地を統治し、奈良渕の地名はこれに因んだものという説」もあり下野国との関係が大変深い人物だったようだ。

神紋は「菊の中心に右三つ巴」
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拝殿正面に絵馬があるか、建物の絵が消えかかっていて、よくわからない。
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拝殿内部
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拝殿の屋根には、こんな装飾も。
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本殿は入母屋、妻入り瓦葺。
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本殿には彩色された彫刻が多くて、嬉しくなってしまいますね。
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波と花の彫刻ですが、花の向きが横を向いていたり、向こうを向いていたりと、面白い。
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鳥の彫刻
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獅子
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階段両側の装飾が面白い。
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左右の龍
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波の彫刻
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ぐるっと一回りしました。
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境内社は下記の通り。
国魂神社、八坂神社、怡母社、金山社、天神社、伊奈利社。
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「堅牢墜神」と刻まれた安政四年石塔がありましたが、これは初めてです。
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帰ってから調べましたがわかりません。
「堅牢地神」なら、あるのでその変形ではないかと思います。
堅牢地神(けんろうじしん)は、仏教における天部の神の1柱で大地を司る。通常は女神であるが密教では男神と一対とする。十二天の一である地天と同一視される向きもある。
堅牢地天、堅牢地祇、あるいは単に堅牢と呼ばれる場合もある。大地女神として、地の堅牢と神の不壊とに解釈される。つまり大地を堅固ならしめる神である。また仏法が流布される処に赴いて、その仏・如来の法座の下にあって警護するという。
『金光明王経』八堅牢地神品には、資材珍宝伏蔵及び、神通長年妙薬を求め、衆病を治癒医療する。
また怨敵を降伏させ、諸々の異論を制御せんとする時、浄室において道場を安置し、身を沐浴し、鮮潔の衣をまとい、草座の上にうずくまり、仏舎利尊像がある前、または舎利制底ある所にて、焼香・散華・飯食供養し、白月八日布灑星合する時に請召するとある。
また密教では、金剛界曼荼羅の四執金剛神の一尊である地天と同一視する。
胎蔵界曼荼羅では堅牢地神として外金剛部院に男性神とその后が配列されている。その形像は肉色で男女共に女形をなし、男神は左手に鮮やかな華を盛った鉢を持っている。
この鉢は大地を表し、鮮華は諸物生成の徳を表すとされる。女神は右手を心臓、左手を股にあてる。『覚禅抄』には雲中に坐す姿とし、その他さまざまな異形がある。密教ではこの神を供養(地天供)して地鎮の法を修する。


境内の様子です。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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講演「古代豪族は どのように地域を経営したか」

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10月26日(土)に、県立熊谷図書館で行われた表題の講演を受講しました。
会場になった熊谷図書館ですが、三つの県立図書館で専門分野を決めて活動をしているそうです。
「歴史と科学の熊谷図書館」、「科学と芸術の久喜図書館」、社会科学と産業の浦和図書館」との事でした。
私のように歴史に入れ込んでいる人間には、熊谷図書館が頼りになる存在ということですね。

先月から受講し始めた「さきたま講座」とタイアップして、この講演が企画されています。
今回の講師は、高崎市教育委員会・文化財保護課の若狭 徹氏でした。
古墳時代や埴輪に関して、何冊も本を書いている方です。
そして、何と云っても国内で先駆け、1981年に群馬県高崎市の「三ツ寺遺跡」でそれまで文献資料や埴輪でしか窺い知ることのできなかった「豪族の家」が初めて発掘されたのですが、その関係者の方です。

「三ツ寺遺跡」現地の説明板
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群馬県では、古墳時代に榛名山が二回も大きな噴火をして、ポンペイのように火砕流や火山灰で埋まったために、遺跡が当時の姿で発掘されるという特色があるそうです。

浅学の私ですから、見る物、聞くことが全て新鮮なことばかりでした。
パワーポイントで説明していただき、それの印刷されたものもいただいてきました。
いくらなんでも、それをそのまま載せるわけには当然いきません。

初歩的で恥ずかしいのですが、ここで私なりに整理できたことを箇条書きで書いておきます。

古墳時代とは
・3世紀から6世紀の350年間で、巨大な前方後円墳が造られた時代
・国家がまだできておらず、各地の豪族たちが連合していた時代(ヤマト王権)
・中国や朝鮮半島諸国と本格的に外交が始まった国際化の時代
・前方後円墳は単なる王の墓ではなく、共同体のシンボル。社会の象徴であった。

前方後円墳がピラミッドのように石貼りの外観でピカピカに輝いていた、という今の姿と違う説明には興奮しました。
復元された「保渡田八幡塚古墳」
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これは近々飛んで行って見たいと思います。

豪族とは何か
・農民たちを率いて地域経営を行うリーダー
・神をまつり、軍事警察を行って、地域の安全を保障
・交易・交流によって、財や技術を地域にもたらし、富を循環させる存在
・官僚制度が成立前の古墳時代豪族は、全人的な力を持っていた。

豊富な事例で、沢山の貴重なお話が聴けましたが、その中から幾つか紹介しておきます。

榛名山の麓、二つの大きな川に挟まれた扇状地に現地人が暮らしていた。その下の低湿地帯は未開発のままだった。
そこに東海地方から、長良川流域などで水利の技術を持った集団が移ってきて低湿地帯を開発して大きな勢力となった。
それは古墳が、当初は東海地方で見られる「前方後方墳」であり、その後ヤマト王権と結びつき「前方後円墳」に変化したことでもわかる。

「卑弥呼の鏡」
高崎市芝崎蟹沢古墳から出土したもの。
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鏡には「(正)始元年」の銘文がある。
正始元年(240年)は、邪馬台国の女王卑弥呼が、中国・魏に使いを送った年(239年)の翌年にあたる。
240年は魏の返礼使が来朝した年で、「魏志倭人伝」には「鏡百枚」ほかを卑弥呼に賜うとある。
蟹沢古墳の被葬者は卑弥呼かその後継者と係わりがあった人物である。

高崎市御布呂遺跡の、小区画水田の発掘された姿には圧倒された。
緩やかな傾斜地に何百という水田が連なっている様は圧巻である。

日本書紀に見る上毛野氏の外交は下記のごとく
(伝承)
・神功皇后49年、上毛野君の祖、荒田別・鹿我別は将軍として新羅に派兵。加羅7国を平定し、百済王と会見。
・応神天皇15年、荒田別と巫別は、百済に派遣され、学者の王仁を招聘する。
・仁徳天皇53年、上毛野君の祖、竹葉瀬は新羅が貢物を欠いた非礼を責めるため派遣される。弟田道が続いて新羅を討つ。4邑の民を連れ帰る。
(史実)
・舒明天皇9年(637)、将軍上毛野君形名は蝦夷征討で劣勢となる。妻が夫を励まし「汝の祖等は蒼海を渡り、万里を跨て、水表の政を平け、威武を以て後葉に伝へたり」と。
・天智天皇2年(663)、白村江の戦いに上毛野君稚子が前軍将軍として従軍し、新羅の二城を落とす。

日本の馬は古墳時代から
渡来人技師を招聘し、生産を開始した。
馬の出現は、近代自動車産業の新興に匹敵する。
権威(駿馬=リムジン)、軍事(軍馬=戦車)、運搬(荷役馬=トラック)、農耕(農耕馬=トラクター)、情報伝達(駅馬=公用車)
馬生産は古代の総合産業
馬、飼育システム、調教、生産出荷管理、塩生産、馬具生産(鉄、革、木工)

古代における馬生産に成功し、榛名山麓が馬の名産地となり、「群馬」の地名が誕生、県名のルーツとなった。

とてもここには全部載せきれませんが、古代の歴史を学び始めた私には、ワクワクする話ばかりでした。


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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