ベートーヴェン/交響曲第9番ニ短調作品125

20131230

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指揮:クリスティアン・ティーレマン
演奏:ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団
ソプラノ:アネッテ・ダッシュ
メゾ・ソプラノ:藤村実穂子
テノール:ピョートル・ベチャーラ
バス:ゲオルク・ツェッペンフェルト
ウィーン楽友協会合唱団

今年のクラシック聴き納めの「第九」を何にしようかなと、アマゾンで探したときに目について求めたのが、ブルーレイでのこの盤でした。
2008年秋から、ティレマンとウィーン・フィル、ウィーン楽友協会、オーストリア放送協会、ユニテルの共同プロジェクトとして、ウィーンにおけるベートーヴェンの交響曲全曲演奏会とその録画・録音を行ったものです。
そのうちの、7番、8番、9番を収容した盤を購入したわけです。

ウィーン・フィルとして21世紀初のベートーヴェン交響曲全曲映像からの、交響曲第9番『合唱』。会場は音楽の殿堂として名高いウィーン・フィルの本拠地ムジークフェラインザール。指揮は21世紀の巨匠との呼び声高いクリスティアン・ティーレマン。

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メゾソプラノの藤村さんの名前があり、嬉しいですね。
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クリスティアン・ティーレマンは、ドイツベルリン出身の指揮者です。
歌劇場コレペティートアとして経験を積んだのち、1988年から1992年までニュルンベルク州立劇場、1997年から2004年までベルリン・ドイツ・オペラ、2004年から2011年までミュンヘン・フィルハーモニー管弦楽団の音楽総監督をそれぞれ務めた。
2012年にシュターツカペレ・ドレスデンの首席指揮者に就任。その他、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団やベルリン・フィルハーモニー管弦楽団などへ定期的に客演し、またバイロイト音楽祭やウィーン国立歌劇場で活躍するなど、コンサートとオペラ両面にて評価を得ています。
レパートリーとしては、ベートーヴェン、シューマン、ブラームス、ワーグナー、ブルックナー、リヒャルト・シュトラウス、プフィッツナーの作品を中心として、ドイツ・オーストリア系の古典派、ロマン派から20世紀初頭までの曲を得意としている
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現在主流になっているかのような古楽スタイルというのがありますが、テイーレマン・ウイーンフイルはそうではなく、堂々とした格調の高さを持って演奏しています。
よく云々されている、ティーレマンのテンポの変化のことに関しては、私はそのまま受け入れて、しかも好きだなと思っています。
合唱に至るまでの道のりの、ウィーンフィルの美しい演奏を堪能しました。
第3楽章のしみじみとした風情には、とても清冽な気分になりました。
映像がまた、美しいムジークフェラインザールで展開されているんですからね。
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いよいよ合唱に入ります!
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ソプラノのアネッテとメゾソプラノの藤村さん。
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みなさん素晴らしい歌唱で、合唱が素晴らしく美しくて鳥肌ものでした。
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ティーレマンは大変な実力のある指揮者だと思います。彼はこれからも期待していきたい一人ですね。
ブルーレイということで、音では細かいニュアンスまで伝わってくる大変精緻な録音で、ウィーンフィルの技量の高さがよく分かりました。バスやテノールの独唱も非常に素晴らしかったです。
そして映像もきれいで云う事なし。今年テレビもちょっと大画面にしたので、とても迫力があります。

第九が耳に馴染んで、段々と自分のものになってきた感じがします。
1951年のバイロイト音楽祭でのフルトヴェングラー指揮の盤から始まって、「第九」はこの盤で13枚目になりました。
何度聴いても、この曲は偉大な曲だとしみじみ思います。


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アカガイ(赤貝)

20131228

科 目 :ふねがい科
収拾者 :祖父
採取場所:石川県高松
採取日 :1934年

高松という場所は、金沢から能登方面に行くときに使う、現在は無料となっている「のと里山海道」に「高松PA」があって、だいたい休憩するのでおなじみの所です。
今年の夏も利用しました。
記事は下記をクリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1317.html

祖父が5組の貝殻を残しています。
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大型でよく膨らんだフネガイ科の二枚貝。アサリやハマグリなどと異なり,血液にヘモグロビンを含み,肉が赤みを帯びるのでアカガイという。殻の高さ9cm,長さ12cm,膨らみ7.5cmに達する。
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白色だが,殻頂から42本内外の太い肋が出ている。黒褐色の粗い毛の生えた皮で覆われ
ている。
79年も経っており、ホコリまみれだったので、私が洗ったため一部毛が剥げてしまったが、大部分はしっかり残っている。
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両方の殻のかみ合せはまっすぐで多数の小さい歯が1列に並び,殻を閉じると互いにかみ合う。また下側の縁は丸く膨らむ。
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アカガイという名は、中身が赤いことにより、貝殻の内面は驚くばかりの白色である。
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赤貝にはグルタチオンやビタミンB12、鉄、タウリンなどの栄養成分が含まれ、栄養価の高い貝。
寿司ネタでも高級部類に入る。
山陰地域では、中海沿岸で捕れた赤貝をムキ身にして炊く「赤貝ご飯」がよく食べられている。
私は、子供の頃「赤貝の缶詰」にも大変お世話になりました。


赤貝のことをネットで調べていたら、なんと「古事記」がらみの話もゲットしました(笑)
『古事記』にて、八十神に大火傷を負わされた大穴牟遅神を救うために神産巣日命が遣わした蚶貝比売(キサカイヒメ)はアカガイ、蛤貝比売(ウムキヒメ)はハマグリだと考えられており、赤貝の殻の粉を蛤汁で溶いて火傷に塗布したと考えられている。食用として用いられるだけでなく、殻のカルシウムが薬として用いられていたことが推測されている。
(WIKIPEDIAによる)



貝殻のコレクションについて

20131227

今年の夏に富山の田舎に帰ったときに、藏の中身を整理しました。
そのときにダンボールにぎっしり詰まった貝殻が出てきました。
その量に驚いたので、とりあえず現在の住まいに送り、整理を始めました。
父親がていねいに貝の名前、収集場所などを書いて添付してありましたが、離れてしまったものも多く、既に40年以上経っているので紙が虫に食われて、書いたものの一部しか読めないなど、苦労しましたが、父親の蔵書のなかに貝の図鑑もあったので、それで調べ、インターネットで調べたりして、作業を続けました。

本棚の一部に並べることにして、入れ物は最初コレクションボックスをネットで購入していましたが、一部は役立ちましたが、結果的に失敗したものも多かった。
役立ったのは、100円ショップで求めたいろいろなプラケースでしたね。このほうが格段に安い(笑)
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名前がはっきりして、リスト化できたのが72種でした。

一番古いのが、1898年に三浦海岸で祖父が収集したもの。
大半が戦前のものです。8割くらいが父親の収集したものですが、父は戦争で身体を壊したので戦後はほとんど収集していません。
父が収集していたのは、父の仲間で知られていたらしく、○○氏から寄贈というのもわりと多いです。

私も、能登でホネガイを購入したり、沖縄に遊びに行ったときには、ホテルの近くで貝殻がゴロゴロしていたので、沢山拾ったりしてあったので、それを追加しました。

祖父や父の収集した立派なもの。
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まだ綺麗に陳列できないでいるもの。
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参考にしている、父の蔵書のなかにあった図鑑。
私も、最近の図鑑で良いのが無いかとアマゾンで探しましたが、なかなか超えていると思えるのが見つかりません。詳細はやはりネットで検索しています。
昭和38年発行、(株)保育社「原色・日本貝類図鑑」
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せっかくなので、これからも機会があればコレクションを充実させていこうと思っています。

このブログでは順を追って紹介していきます。





古事記を知る(24)

20131226

4-7 大年神の神裔
故其大年神。娶神活須毘神之女伊怒比賣生子。大國御魂神。次韓神。次曾富理神。次白日神。次聖神。
五神又娶香用比賣此神名以音生子。大香山戸臣神。次御年神。二柱又娶天知迦流美豆比賣訓天如天亦自知下六字以音生子。奥津日子神。次奥津比賣命。亦名大戸比賣神。此者諸人以拜竈神者也。次大山咋神。亦名山末之大主神。此神者坐近淡海國之日枝山。亦坐葛野之松尾用鳴鏑神者也。次庭津日神。次阿須波神。此神名以音次波比岐神。此神名以音次香山戸臣神。次羽山戸神。次庭高津日神。次大土神。亦名土之御祖神。九神
上件大年神之子。自大國御魂神以下大土神以前。併十六神。
羽山戸神娶大氣都比賣神
自氣下四字以音生子。若山咋神。次若年神。次妹若沙那賣神。自沙下三字以音次彌豆麻岐神。自彌下四字以音次夏高津日神。亦名夏之賣神。次秋毘賣神。次久久年神。久久二字以音次久久紀若室葛根神。久久紀三字以音
上件羽山戸神之子。自若山咋神以下若室葛根神以前。併八神。

(読み)
カレソノオホトシノカミ カムイクスビノカミノムスメイヌヒメニミアヒテウミマセルミコ オホクニミタマノカミ ツギニカラノカミ ツギニソホリノカミ ツギニムカヒノカミ ツギニヒジリノカミ マタカガヨヒメニミアヒテウミマセルミコ オホカガヤマトオミノカミ ツギニミトシノカミ マタアメシルカルミヅヒメニミアヒテウミマセルミコ オキツヒコノカミ ツギニオキツヒメノミコト マタノナハオオベヒメノカミ コハモロヒトノモチイツクカマノカミナリ ツギニオホヤマクヒノカミ マタノナハヤマスエノオホヌシノカミ コノカミハチカツアフミノクニノヒエノヤマニマス マタカヅヌノマツノヲニマスナリカブラニナリマセルカミナリ ツギニニハツヒノカミ ツギニアスハノカミ ツギニハヒギノカミ ツギニカガヤマトオミノカミ ツギニハヤマトノカミ ツギニニハタカツヒノカミ ツギニオホツチノカミ マタノナハツチノミオヤノカミ
カミノクダリオホトシノミコ オホクニミタマノカミヨリシモオホツチノカミマデ アハセテトヲマリムハシラ
ハヤマトノカミオホゲツヒメノカミニミアヒテウミマセルミコ ワカヤマクヒノカミ ツギニワカトシノカミ ツギニワカサナメノカミ ツギニミヅマキノカミ ツギニナツタカツヒノカミ マタノナハナツノメノカミ ツギニアキビメノカミ ツギニククトシノカミ ツギニククキワカムロツタネノカミ
カミノクダリハヤマトノカミノミコ ワカヤマクヒノカミヨリシモワカムロツタネノカミマデ アハセテヤハシラ

(現代語訳)
 さて、かの大年神が神活須毘神の女の伊怒比賣を妻として生んだ子は、大國御魂神、次に韓神。次に曾富理神、次に白日神、次に聖神の五神である。また香用比売を妻として生んだ子は、大香山戸臣神、次に御年神の二柱である。また天知迦流美豆比賣を妻として生んだ子は、奥津日子神、次に奥津比売命、またの名は大戸比売(オホヘヒメノ)神である。この神は、人々が大事にお祭りしている竈の神である。次に生まれたのは大山咋神で、またの名を山未之大主神という。この神は近江国の比叡山に鎮座し、また葛野の松尾に鎮座して、鳴鏑を神体とする神である。次に生まれたのは庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、またの名は土之御祖神の九神である。
 上にあげた大年神の子の大國御魂神から大土神まで、合わせて十六神である。
 羽山戸神が大気都比売神を妻として生んだ子は、若山咋神、次に若年神、次に妹の若沙那売神、次に弥豆麻岐(ミヅマキノ)神、次に夏高津日神で亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根(ククキワカムロツナネノ)神である。
 上にあげた羽山戸神の子の若山咋神から若室葛根神まで、合わせて八神である。

(注)
○大年神:須佐之男命の神裔を述べた伝承の中に、須佐之男命と神大市比売の間に生まれた神とされている。
○神活須毘神:名義未詳。
○伊怒比売:名義未詳。
○大国御魂神:国土の神霊の意。
○韓神 朝鮮系の渡来氏族の信仰した神であろう。
○曾富理神:ソホリは新羅の王都を意味する語であろうという。これも朝鮮系の神であろう。
○白日神:名義未詳。
○聖神:大阪府泉北郡の聖神社の祭神で、百済系の渡来人の信仰した神であろう。
○香用比売:名義未詳。
○大香山戸臣神:名義未詳。
○御年神:大年神と同様に年穀を掌る神。
○天知迦流美豆比賣:名義未詳。
○奥津日子神・奥津比売命:名義未詳。
○大戸比売神(おほへひめのかみ):「へ」は竈のこと。竈の女神。
○大山咋神:「くひ」は神霊の依り代としての杭の意であろう。日吉神社の祭神で比叡山の山の神。
○山末之大主神:「山未」は山の頂。
○近つ淡海国:遠つ淡海国(遠江国)に対して、近江国(滋賀県)をいう。
○日枝山:比叡山。大津市の日吉神社に祭られている。
○葛野の松尾:山城国葛野郡(京都市右京区)の松尾神社。
○鳴鏑:鏑矢のこと。松尾神社の祭神は、鳴鏑を御神体とする雷神であった。
○庭津日神:下の「庭高津日神」と同様に、屋敷を照らす日の神であろう。
○阿須波神・波比岐神:名義未詳であるが、屋敷の神であろう。この二神の名は、祈年祭の祝詞にも見えている。
○香山戸臣神:名義未詳。
○羽山戸神:山のふもとをつかさどる神の意であろう。
○庭高津日神:この神の名は、践祚大嘗祭に際して、斎郡の斎院に祭る八神として、阿須波神・彼此伎神とともにあげられている。
○大土神・土之御祖神:大地の母神の意。
〇九神:実際は十神である。
○大気都比売神:食物をつかさどる女神。
○若山咋神:大山咋神と同様、山をつかさどる神の意。
○若年神:大年神と同様、年穀をつかさどる神。
○若沙那売神:サナメは「稲の女」の意で、田植えをする早乙女の意であろうという。(倉野憲司博士説)
○弥豆麻岐神:濯概をつかさどる神。
○夏高津日神:空高く照る夏の日の神。
○久々年神:稲の茎が成長して実ることを表わす。
○久々紀若室葛根神:材木で新室を建て葛で結い固める意で、新嘗祭を行なうための屋舎を造営することであろう。

(解説)
 大年神の神裔を述べたこの伝承は、前の須佐之男命の神裔の系譜を承けて記されている。
大年神の神喬に現われる神々の中で注目されるのは、日吉神社の祭神(大山咋神)と松尾神社の祭神(火雷神)とである。松尾神社は大宝元年に、秦忌寸都理によって創祀せられたと伝えられている。渡来氏族である秦氏は、かねて氏神として信奉していた比叡山の大山咋神を、秦氏の本拠の地である葛野の松尾神社に遷し祀ったのであろう、といわれている。このほか、韓神・曾富理神・聖神なども、秦氏または朝鮮系渡来人の信仰した神であろう。
 松尾神社の鳴鏑を依り代とする神は、下賀茂神社の祭神と同様雷神で、雷神は農耕に関係の深い水神として信仰された。
大年神の神裔に、農耕や穀物、竈などに関する神々が現われている。
羽山戸神から若室葛根神までの系譜は、早乙女が田植えをし、水を注ぎ、真夏の日が照りつけ、秋には稲が成長して実り、収穫祭としての新嘗祭を行なうための屋舎を新築するまでを語った、系図型の神話となっている。


赤坂山王日枝神社の写真を載せておきます。

日枝神社の特徴である、山王鳥居。
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赤坂山王日枝神社
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ロビ第38号&39号組立/ロボット「ロビ」

20131225

【第38号】

第38号で紹介されているロボットは、回診支援ロボット「テラピオ」。
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テラピオは、福島県立医科大学鈴木眞一教授が発案、福島県立医科大学医療工学講座と豊橋技術科学大学の「回診支援ロボット開発チーム」でシーズをまとめ、豊橋技術科学大学で設計と試作を行った。

医局やナースステーションから病室に向かうときは「追従自動制御モード」で医師や看護婦の後を附いていく。病室内には患者、見舞客、椅子やベッドがあるため、「パワーアシスト制御モード」で80Kgあるテラピオを楽々と押して移動させる。患者のベッドサイドで「回診モード」にして、タッチパネルディスプレーに患者の情報を表示する。
必要があれば収納スペースから医療用具を取り出す。カメラで撮影したり、録音することも可能。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボをテストする
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② IDを書き込み、確認する
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③ サーボに足首テープを貼る
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完成状態
左足首の二つの関節の中心となる部分が組み込まれた。
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【第39号】

第39号で紹介されているロボットは、愛知工業大学工学部機械学科内田敬久研究室で開発が進められている、モジュールロボット「MMS」。
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ヘビ型にするのが一般的。先頭のパーツがカメラのモジュール、一番後ろに通信のモジュール。縦の方向にうねって進むか、横方向に転がっていくかが出来る。
段差や障害物が多くて、ヘビ型では難しいところでは、多足型に出来る。
現場で状況に応じて、組み合わせて使用する。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① 横回転サーボを取り付ける。
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② 縦回転サーボを取り付ける。
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③ 左足カバーを取り付ける。
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完成状態
左足がほぼ出来上がった。
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芳純

20131223

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系 統: HT ハイブリッドティ
作出年: 1981年  
作出国:  日本
作出者:  鈴木省三 氏
花 色:  桃色
花 径: 大輪
香 り:  強香
開花性:  四季咲き

私は、最相葉月さんの「青いバラ」という本を読んで、薔薇の深遠な世界を知り、薔薇の写真を集めるきっかけとなりました。
その本の中で最相葉月さんが師事(?)していたのが、世界から唯一日本人で「ミスター・ローズ」と呼ばれた、故鈴木省三さんでした。
それで「鈴木省三作出」の薔薇も追い求めてもいます。

その中で、一番好きなのがこれかもしれません。


化粧品メーカー資生堂が「現代バラの香りを香水で再現したい」と考え、当時京成バラ園芸の研究所長であった鈴木省三氏が一緒に5年間にわたり研究を行い、結果鈴木省三氏は約1000種類の中から“芳純”と言うバラを誕生させました。また、資生堂からは同名の香水が作られました。
「芳純」が作られて、26年たった今でも、香りのバラの代名詞としてバラの世界に君臨しています。

とても好きな薔薇なんですが、いまだ納得できる写真が撮れていません。
不思議なものですね。


2006年6月 神代植物園にて





「菅谷館跡周辺を歩く」&「観音霊場と武士」/嵐山史跡の博物館

20131221

昨日、20日(金)に、歴史クラブの先輩に誘われ参加しました。
嵐山の史跡の博物館の企画です。
天気予報は、朝は弱雨だが9時から晴れという予報だったのですが、かえって雨が強くなってしまい、雨の中を3時間半歩き回りました。

コースは、史跡の博物館を出発、班渓寺、鎌形八幡、大蔵館跡、源義賢墓、史跡の博物館に帰着。
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今回訪れた場所は、全て「鎌倉街道散歩」で行ったことがある場所でした。
その記事は下をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/ranzan.html

それでも、新たな発見もありました。

班渓寺
ここは、木曽義仲の妻で、清水義高の母である「山吹姫」が二人の菩提を弔うために草庵を結び、寺になりました。
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雨の中、一列になって鎌形八幡に向かいます。
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鎌形八幡
前回来た時には無かった、木曽義仲の幟がたくさん立てられていました。
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今回配布された資料には、「新編武蔵風土記稿」の文章が添えられていて、これが有難かった。
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参道とTの字になっている道は、かって流鏑馬が行われた馬場だったそうです。
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大蔵館跡
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「新編武蔵風土記稿」の記事
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発掘で明らかになった地図
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傘をさして説明を聞く参加者
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前回来た時気が付かなかった「空堀」
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源義賢墓
前回、一人で来た時は場所がわからず、グルグル廻ったりしましたが、今は畑の中の入り口に大きな碑が立っています。
「帯刀先生」というのは、皇太子の護衛官(776年設置)の指揮官です。
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「新編武蔵風土記稿」の記事
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個人の人の畑の中にあり、好意で道を設けてくださっています。
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その道の脇に、高さ40cmほどの小さな板碑がひっそりとありました。
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公道を挟んだ反対側にこんな碑が。
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「馬場文治郎義綱」とは誰だろうと読んでみたらビックリ!!
木曽義仲の遺児が生き残っていたんですね。
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私の旧姓は「依田」です。
木曽義仲が旗あげをして、信州に入り頼ったのが依田七党の頭領、依田六郎為実です。依田六郎為実の妻が源義賢の妹だったからです。
それで、木曽義仲の軍勢は大きくふくれあがり、京にのぼることができました。

また、清水義高が鎌倉に居た時の、お付きの者は海野幸氏と望月重隆です。
海野も望月も依田七党の一族です。
ちなみに「海野幸隆」が真田に移住してから「真田幸隆」と名字を変え、その子が真田正幸と幸村です。

これで雨中の史跡巡りは終り、史跡の博物館に戻り、持参の弁当で昼食。
やっと人心地が戻りました(笑)

昼食休憩後、いま博物館で行っている企画展「観音霊場と武士」を学芸員の方が案内・説明をしてくれました。
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その中から、幾つか紹介をしておきます。

「観音霊験記」という錦絵がすごかった。
江戸時代末期出回ったもので、西国札所と秩父札所については全て現存しているが、坂東札所は15枚しか存在しないようです。

「坂東札所第二番海雲山岩殿寺」
石橋山の合戦に敗れた源頼朝が船で房州に逃れたとき、観音が船頭になったと描かれています。
船の中で平伏しているのが頼朝。
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「秩父札所第三十一番鷲窟山観音院」
畠山重忠の忠臣本多次郎親常の話が描かれている。
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「観音霊験記」の錦絵が本になったのが無いかなと思い、アマゾンで検索すると、やはりあったようだが「現在取り扱っていません」となっている。出品者が居ないようだ。
これは、そのうち手に入れたいなと思っている。

比企郡ときがわ町の「慈光寺」は頼朝が深く信仰していたそうで、ここにある「法華経一品経」は、厳島の平家納経、静岡県鉄舟寺の久能寺経とともに「日本三大装飾経」の一つだそうです。
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さいたま市岩槻区にある慈恩寺にある、徳川家康寄進状。
「大納言源朝臣」とあり、印文は「恕家康」
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秩父札所案内絵図
江戸時代のもので、現在とまったく同じ。
江戸時代に、江戸からやって来た人が効率よく回れるように、それ以前と番付が変わり、しかも34番と一つ増え、西国、坂東と合わせてちょうど百番となるようになった。
増えたのが、第二番真福寺。
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そのあと、希望者には菅谷館を案内することになっていましたが、私たちは既に何度も来ているので、これで終了としました。



北野天神内(延喜式内社物部天神社・延喜式内論社国渭地祇神社)/埼玉県所沢市

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住所:埼玉県所沢市小手指元町3-28-29

12月12日(日)、坂戸の國渭地祇神社から当社に向かいました。
鶴ヶ島から入間まで圏央道を使い時間を稼ぎ、入間・所沢線を走って現地に到着。例によって近くの学校をナビに入力したので、スムーズに行くことができました。

駐車場のある、西側の参道もなかなか奥が深く格調の高い神社を思わせました。
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境内に入ると、メインの参道があることがわかったので、そちらに回りました。
社号標
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「物部天神社・国渭地祇神社・天満天神社」の総称として「北野天神社」と呼称されます。
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この社は社伝によりますと景行天皇の御代に日本武尊が東征の折りこの地にニギハヤヒ・ヤチホコの二神を祀り、物部天神・国渭地祇神として尊称したと伝え、古来武藏国の延喜式内社入間郡五座の一つに数えられていました。その後、長徳元年(995)に菅原道真五世の孫修成が武藏守となって武藏国に下向し、この地に京都の北野天満宮を祀ったので以後北野天神と称せられるようになったそうです。
その後、源頼義、義家、奥州追討の宿願によって、総社を建立し、更に建久6年9月に源頼朝が正八幡宮を勧請して、総て九社を修造し、同時に一宇を建立し延喜式内の諸神を祀り諸神堂と称し、この時の大宮司は上毛野元重、社領は二百貫文増加され二千二百貫文になりました。
その後、建武・延元の戦乱に兵火に罹り、延文元年足利尊氏が諸社を建立しましたが、再び罹災し、後に加賀守大納言利家公が社殿を再興し、菅公御自筆の法華経、宗近の太刀、黄金二百枚を献納し、武運長久を祈り、境内に梅一本を献栽したので、今も大納言の梅として保存されています。
徳川幕府になって、家康は、宮司栗原右衛門太郎を召出し、伊勢守(社寺を管理する神官)に任じ、繁栄したと記されています。
境内は、現在よりはるかに広く、多くの末社諸神堂があり、天保年間の天神社絵図によりますと、東西及び北側に二十五社描かれております。

道路より上に上がると、一の鳥居です。
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「北野宮」の社額
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それから少し進むと二の鳥居
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参道の両側には、奉納金の石碑が並びます。
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庭に出ました。
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手水舎
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彩色された彫刻が綺麗です。
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手水鉢には、すっぽりと金網がかぶせてある。鳥の害でもあるのだろうか。
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拝殿に進みます。
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寛政3年(1791)の立尾型の狛犬、貌がいいですね。
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ご祭神は櫛玉饒速日命(くしたまにぎはやひのみこと、物部天神社)、八千矛神(やちほこのみこと、国渭地祇神社)、菅原道真公(すがわらのみちざね、天満天神社)です。
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物部天神社というのは、私は初めてです。古代日本有数の氏族で、邪馬台国を主宰したともされる、物部氏ゆかりの神社ですね。

拝殿でお参り。
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神紋は「加賀梅鉢」ですね。京都の北野天満宮は「星梅鉢」なので異なります。前田利家が再建したからでしょうか。
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拝殿の後ろに本殿があります。
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本殿は安永年間(1770年代)の建築で、拝殿・幣殿は平成6年の建物。
本殿のほうが古いのですが、立派です。
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松の飾りのついた綺麗な懸魚です。
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波の装飾が見事ですね。
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格式を感じさせる造作です。
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神楽殿
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境内社に移ります。
「諸神宮」
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説明を読んでのけぞりました。延喜式内社3132坐総社を勧請するなんて(汗)
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「文子天神社(はた神様)」
摂社の文子天神社は多治比文子を祀る。養蚕糸繰機裁縫の神として崇敬されている。
多治比文子について調べてみました。
生年: 生没年不詳、道真の乳母という説、巫女という説があります。
奇子,綾子,あや子とも書く。北野天満宮の創祀者。
天慶5(942)年に天神(菅原道真の神号)は文子に都の辺の右近馬場のある北野に社殿を構えて祭祀すべきと託宣した。しかし身分の低かった文子にはこれは容易ではなく,とりあえず自分の邸内に仮の叢祠を作り祭祀した。5年後の天暦1(947)年にようやく北野に移建した。同9年には近江(滋賀県)比良の神官良種の7歳の子にも託宣があったのを契機に,朝日寺の僧最珍(鎮)らと共に力を併せて霊祠を造営した。
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「八雲社」
祭神は建須佐乃男命。
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「稲荷社」
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「石宮神社・水天宮」
石宮神社というのは、出雲などで巨石をご神体としている。うかつなことに周囲をよく見なかったのだが、大きな石は無かったのでは?
水天宮も合祀されているが、これも祭神は色々ある。もうちょっとよく調べればよかった。
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「小手指神社」
日清日露の戦役からの戦死された方をお祀りしています。
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そして、その前に「航空神社跡」という標識があります。
境内の反対側にも「建空神社」という石柱があり、社殿が見当たらなかったので宮司さんにお伺いしたところ、説明してくださいました。
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昭和13年6月以来、現狭山市の入間基地の場所には、空軍士官学校がありました。そこに空の守り神として「航空神社」と「建空神社」があったわけです。終戦で米軍が進駐してくるので、当時宮司を務めておられた栗原亮介氏は、ここ北野天神の宮司も務めていたので、戦没者4950柱と共にここに遷宮したのだそうです。
その後、昭和40年諸般の事情により、航空自衛隊奈良基地幹部候補生学校教育参考館に4900余柱の名簿と同霊名碑は奉安されたのだそうです。

次いで、石碑に移ります。
「北野地名由来の碑」
先に説明のように、菅原道真五世の孫修成が武藏守となって武藏国に下向し、この地に京都の北野天満宮を祀った経緯と、そのためこの地が「北野」と呼ばれるようになったことを説明しています。
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「宗良親王遺跡」
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境内にある説明板には、「小手指ヶ原合戦」とありますが、通常これは新田義貞と鎌倉幕府との戦いを云い、宗良親王がからむのは「武蔵野合戦」だと私は教わっています。
当時、ここが宗良親王の御陣所だったそうです。
鎌倉幕府滅亡後の正平七年(1352)に南朝側の義貞子息義興と義宗・脇屋義助の子息義治らが北朝足利尊氏の軍勢と「武蔵野合戦」を行いました。
武蔵野合戦とは、尊氏派と直義(尊氏実弟)に分裂した北朝の混乱を狙った新田・脇屋軍は鎌倉陥落後に潜伏していた北條高行(高時の弟)と共に上野国で挙兵して鎌倉に進軍。後醍醐の皇子・宗良親王も信濃で挙兵したため尊氏は鎌倉を出て迎撃し、小手指~狭山一帯で戦った。敗れた新田勢は迂回して鎌倉を占領するが奪還され越後に逃亡、北條時行は龍ノ口で斬られた。以後の南朝側が勢力を回復する事はなかった。

ここで詠んだ宗良親王の歌
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実は、富山県の「井口城址」にも宗良親王の歌碑があります。それでちょっと宗良親王には思い入れがあります。

背景の紅葉が綺麗だったので、それに合わせると碑は黒くつぶれてしまいますが、載せておきます。
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左木全の「芸道碑」がありました。
この辺で生まれ、育てられたようです。以前、三ヶ島の中氷川神社の記事で、歌人の三ヶ島葭子(みかじまよしこ)の歌碑を紹介しましたが、碑の裏の説明によると、三ヶ島葭子は左木全の異母姉だそうです。
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境内に日本武尊御東征の折のお手植、「尊桜(みことざくら)」。4度目の蘖生(ひこばえ)といいます。
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前田利家献栽、「大納言梅」
天正18年、菅原道真の子孫だと云う前田利家は小田原攻めの折当社に立寄ったが当社は幾度かの戦乱兵火により灰燼と化していたので社殿を再興、1本の梅を此処に献栽して武運長久を祈願した」とあります。
前田利家の先祖が菅原道真という話は初めて聞きましたね(笑)
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これで「武蔵国入間郡」の延喜式内社5坐に比定されている、式内社・式内論社9社を全て廻りました。


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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國渭地祇神社(くにいちぎ・延喜式内論社)/埼玉県坂戸市

20131218

12月12日(日)、毛呂山町の「出雲伊波比神社」から向かったのが、当社です。
ここは、「鎌倉街道散歩」のときに一度訪ねています。

旧鎌倉街道側に、木製の社号標が立っています。
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創建は明らかではありません。「新編武蔵風土記稿」の森戸村の項には「熊野社 當村の鎮守なり、慶安二年社領十石の御朱印を賜へり、鎮守府将軍 秀衡の勧請なりと伝へるのみにして、證すべき記録もなければ信ずるに足らず」と記述されています。
が、古社であることは間違いなく、もとは国で一番のやしろという意味で「国一熊野大権現」と称していた。創立には越生の本山派修験山本坊と結びついていた別当三宮山大徳院が関係していたものとされている。
延暦年間には坂上田村麻呂が社殿を再営し、のちに奥州藤原秀衡が再建したと伝わっているそうです。

木製の神明鳥居。
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当社は両側を道路に挟まれていて、もう片方の道路にも鳥居が設けられています。
昭和47年建立の石造神明鳥居。
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鳥居の横に昭和13年奉納の灯篭がありますが、そこに「三つ葉葵」の紋があります。社殿には、一切神紋が見当たらないので、これかもしれません。
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境内
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手水舎
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社殿は、拝殿の後ろに覆い屋があり、本殿を囲んでいます。
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拝殿
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拝殿の中に、「延喜式内・国渭地祇神社」と書かれた社号額がありました。
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ご祭神は「八千矛(やちほこ)神」です。
大国主命の別名で、武神としての性格面を表わします。
《古事記》では、高志(こし)(越)国の沼河比売(ぬなかわひめ)に求婚する、4首からなる物語的問答歌(〈神語(かむがたり)〉という)の主人公として登場しますね。

本殿は、階段はありますが、脇障子、欄干などがなく、簡素な板葺の「見世棚造り」から「流造り」に発展していく過波期のもので、古いものですね。
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ご神木の「椎木」
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境内社の「秋葉神社」
覆い屋
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本殿は「流造り」
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同じく境内社の「八幡神社」
覆い屋
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本殿は立派な「流造り」
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扉の脇に龍の彫刻
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境内に、こんな石碑がありました。「北辰」というのは北斗七星のことです。
仏教だと「妙見菩薩」の妙見が北斗七星を表します。
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「武山君碑」という碑がありました。
明治35年に建てられたもので、碑文を拾い読みすると、明治維新期に教育に功績があった旧会津藩士「南摩 綱紀」を門人が偲んで建てた頌徳碑でした。
Wikiで調べてみたら、「八重の桜」の山本覚馬みたいな人でした。
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南摩 綱紀(なんま つなのり)
旧会津藩士、教育者。
南摩家は元下野国南摩城主であった。
会津藩においては家禄300石の上級藩士であったが、綱紀は次男で当主ではない。藩校日新館に学び、秋月悌次郎とともに秀才として知られた。昌平坂学問所に留学し、その後洋学も修めている。
幕末には京に設けられた会津藩洋学校の校長として藩士の教育にあたっていたが、鳥羽・伏見の戦いの敗戦により京都守護職を務めた会津藩は江戸に帰還。南摩は藩士数人と大坂に留まり、情報収集にあたっている。会津に帰還後奥羽越列藩同盟の結成に尽力。同盟各藩との連絡、調整に努めていたが敗戦を迎えた。
越後高田藩で謹慎し赦免後は淀藩に招かれ藩学の責任者となった。次いで京都中学に勤務。漢学者として名声があった南摩は明治政府に招聘され、太政官に出仕し次いで東京大学教授、東京高等師範学校教授などを歴任した。宮中講書始において2度進講を行っている。


さて、鎌倉街道は国渭地祇神社前を進むと、西大家駅横の踏切を渡りますが、その先の街道の遺構が小川になっています!
こんな例は他には無いようで、珍しいとのことです。

踏切(電車が通過中)
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踏切を渡ると、舗装された広い道は右手にカーブしていくのですが、それは鎌倉街道ではなく、鎌倉街道の遺構に、川が流れてしまっているとのことです。
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その先はどうなっているか気になって辿ってみると、100mほど小川だけだったのが、小川の横に道ができました。一応この道が鎌倉街道ということになるのかな。
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出雲伊波比神社(延喜式内論社)/埼玉県入間郡毛呂山町

20131216

12月15日(日)に、武蔵国式内社めぐりをしてきました。まず向かったのが毛呂山です。隣の小学校をナビに入力したのでスムーズに現地に到着しました。

社号標
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当社に伝わる「臥龍山宮伝記」によると、景行天皇の53年に日本武尊(ヤマトタケルノミコト)が東征を成し遂げ、がい旋した際、この地に立ち寄り、天皇から賜ったヒイラギの鉾をおさめ神宝とし、出雲の大己貴命(オオナムチノミコト)をまつったとされ、また、成務天皇の御代に武蔵国造兄多毛比命(エタモヒノミコト)が、出雲の天穂日命(アメノホヒノミコト)をまつり、大己貴命とともに出雲伊波比神としたとされています。
奈良時代の宝亀3年(772)の大政官符によると天平勝宝7年(755)に朝廷から幣帛(ヘイハク・神前に供えるもの)を受けたという記載があり、出雲伊波比神社が官弊社であったことが明らかにされました。
平安時代には、醍醐天皇の勅命で編さんされた延喜式神明帳のなかで武蔵国入間郡五座の筆頭にあげられており、古来より格式の高い神社であったことが解ります。鎌倉時代以降、武士の信仰も集め、源頼朝が畠山重忠に造営を命じ、また、大永7年(1527)の焼失後、翌亨祿元年(1528)には、毛呂顕繁が再建しました。

場所は、町の中にある山、臥龍山(がりゅうざん)の上にあります。
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長い参道が続きます。
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一の鳥居の前に、大正7年建立の流れ尾型狛犬があります。
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どういうわけか、猫が沢山いて、この通り(笑)
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一の鳥居は、享和三年(1803)建立の石造八幡型。
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二の鳥居に並んで手水舎があります。
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とてもきれいな水で気持ちよかった。
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二の鳥居は、大正11年建立の石造八幡型。
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境内は広々と清潔な空間となっていました。
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拝殿の様式は、唐破風&千鳥破風付きの入母屋造
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社額
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ご祭神は、大名牟遅神(おおなむちのかみ)、天穂日命(あめのほひのみこと)、品陀和気命(ほんだわけのみこと・応神天皇)、息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと・神功皇后)他16柱です。

拝殿の彫刻が立派です。
拝懸魚の鳳凰
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向拝蟇股の龍
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木鼻の獅子
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虹梁には鯉の彫刻が施されています。
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一般的に、神社の形式では権現造りなど新しい様式ほど拝殿と本殿が幣殿を通じて繋がっているものが多い。が、この社は古い様式で拝殿と本殿には距離がある。
右が拝殿の裏
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拝殿と本殿の間には神門があり、瑞垣で囲われています。
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ベストショットを求めて、右側に回りました。
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本殿の様式は、一間社流造。この本殿は、焼失した本殿のあと、大永八年=享禄元年(1528)に、当地を治めていた武士:毛呂顕繁(もろあきしげ)により再建されたもの。
埼玉県内最古の本殿だそうで、国指定重要文化財になっている。
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神紋は「五七桐」で決まりと思ったのですが、拝殿と本殿の屋根に「三つ葉葵」もありました。
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境内社の八幡宮。品陀和気命が祀られています。
瑞垣内にはないが、形式上本殿と並列配置となっている。
この八幡宮は、康平6年(1063)源義家が奥州を平定し凱旋の際冑のいただきに鎮め奉った八幡大神の魂を大名牟遅神の御相殿に遷し奉られ、後に別宮を建てて八幡宮と称えられてきたが、現在は本社に合祀されている。
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神楽殿
流鏑馬神事の日には、神楽も奉納されるそうで、来年のたのしみとなりました。
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絵馬も流鏑馬ですね。
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社殿の横に、長い流鏑馬の馬場があります。
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康平六年(1063)に源頼義(みなもとのよりよし)・源義家(みなもとのよしいえ)父子は、奥州反乱=前九年の役(ぜんくねんのえき)を平定し、その凱旋の際にこの神社で、「流鏑馬騎射」を奉納した。これが流鏑馬の始まりとか。
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馬場の写真を撮っていたら、産子の代表ではないかと思われる方に声をかけられ、お話を伺いました。
そのお話と、帰ってから調べたことをここに書いておきます。
例祭(11月3日)には、町内の家の長男(小・中学生)が乗り子を務める流鏑馬神事があり、一の馬・二の馬・三の馬に別れ、白(源氏)・紫(藤原氏)・赤(平氏)に色分けし奉納される。因にこの流鏑馬が埼玉で見られるのは当社だけとなっている。
ちなみに子供は三年間乗るそうで、一回だけではないので安心しました。
神事までは10月上旬から準備され、当日は午前0時のもちつきから始まり、朝的(あさまとう)、野陣、夕的(ゆうまとう)と続く。夕的の神事では願的、矢的、扇子、のろし、みかん、鞭などがあり、これは戦国時代の武士の鍛錬・出陣から凱旋までを表現しているといわれ、乗り子は町内の家の長男(小・中学生)が務めている。乗り子の服装は陣笠、陣羽織、袴で騎射の際に烏帽子をかぶり、そして花笠に馬印や母衣を背負い、帯刀した正装は夕的の出陣の時に見ることが出来る。
馬は、日高とか近くの牧場の馬を借りるそうで、乗り手の子供は牧場に通って練習する。

長い馬場を歩いてみました。突き当たりを曲がると山道になり、参道にもなっているようです。
本殿の裏手のあたり。
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反対側にも、杉の林が続いています。
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街からの道路に降りました。
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馬場に引っ返してくると、社殿に並んで巨樹が生えています。
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馬場の端から、拝殿、神門、本殿の並びに一礼をして、駐車場に戻りました
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九九の聞き取り

20131214

今日は、担当している小学校から依頼された「九九の聞き取り」を支援してきました。
対象は2年生。
3クラスあるので、1時限目から3時限目まで、1クラスずつ実施しました。

ボランティア7人が、それぞれの机で待っていると、生徒がやってきて暗誦します。

「0の段」から「9の段」まで。
「のぼり」、「くだり」、「ばらばら」がある。

「のぼり」は、「3×1は」、「3×2は」、「3×3は」・・・・・・・と云っていく。
「くだり」は、「5×9は」、「5×8は」、「5×7は」・・・・・と云っていきます。
「ばらばら」は、ボランティアが「7の段のばらばら」なら「7×1は?」、「7×9は?」、「7×3は?」のように聞いて、生徒が答えます。

生徒が一覧表の紙を持っているので、出来たところにシールを貼ってあげます。

生徒が行列を作っているので、「3の段」の「のぼり」とか一つを終わったら、交代。どんどん交代していきます。

「のぼり」だけ「0の段」、「1の段」、「2の段」・・・・・と攻める子、各段の「のぼり」、「くだり」、「「ばらばら」を順につぶしていく子、それぞれです。
気分で、あっちこっちとつぶしていく子も(笑)

元気よく大きな声で言ってくれる子もいるが、ちっちゃい声で言う子も居る。
途中でつかえてしまった子には、ちょっと助けを出してあげる。
一時限ちゅうずっと聞いているので、けっこう疲れます。
だけど、言い終わってホッとして、「よくできたね」と褒めてあげると、とても嬉しそうな顔をするので、その笑顔がかわいいのなんの。

全部終わってしまった子が、1クラスに2、3人くらい。
ゆっくりな子は三分の一くらい終了。

続きは、1月にあるので、そのときには全員が終わればいいなと思っている。

算数は、九九から落ちこぼれが始まると思う。
先生一人では全部の生徒の暗誦を聞いてあげるのはとうてい無理だと思うので、ボランティアがこういうふうに助けてあげるのは、いいことだと思う。
こういうボランティアで、一人でも二人でも、落ちこぼれる子が少なくなれば嬉しい。


万年筆とノートを買いました

20131213

私のブログと相互リンクを貼らさせていただいている「電網郊外散歩道」というブログがありますが、そこの記事でちょくちょく万年筆の記事があり、私も欲しくなって、ついに買いました。

昨日、午前中に母親をデイサービスにお願いしてから、カミさん(大蔵大臣)とデパートに買い物に行き、そこに入っている「丸善」のショップで購入しました。

予算として、2万円まででお薦めを聞いたら、パーカーとセーラーの万年筆を勧められました。
試し書きして気に入ったのがパーカーだったので、そちらを購入しました。
手に取って書いてみて、適度に重たかったこと、径がこちらのほうが細身で持ちやすかった点が決めてでした。

購入したのは「PARKER ソネット オリジナル ラックブラックGT 万年筆XF」
ソネットシリーズの極細万年筆です。
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今まで7、8年ずっと愛用していた極細字ボールペン「ユニ・シグノ 極細0.38」の黒と靑を並べてみました。
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ノートも、アピカ(株)の「紳士なノート」B5版を購入しました。
現在、ある資格を受験するため、毎日1時間勉強していますが、「書いて覚える」方法でやっています。
いままでA4のレポート用紙に、ユニ・シグノボールペンで書いていましたが、これから万年筆とこのノートでいこうと思っています。

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書いて比較してみました。汚文字は勘弁のほどを(笑)
上が、今までのユニ・シグノボールペンの靑で書いたもの。
下が、新しい万年筆で書いたもの。
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持ち歩いているメモ帳にも書いてみました。
新宿の「銀座イトーヤ」で買った、マルマンから出している「万年筆に最適の紙で作りました」という、A6のノートです。
ボールペンや鉛筆でも極めて良好とあったので買ったものです。
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上が、今までのユニ・シグノボールペンの黒で書いたもの。
下が、新しい万年筆で書いたもの。
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比べてみて、あまり変わらないので、まだボールペンの書き方で書いているのでは、と(笑)

それから、帰ってきてからアマゾンで調べてみると、アマゾンのほうが6000円ほど安い値がついていてショックでした。
まあ「丸善」ですからね(失笑)

初めての物だと、手に握ってみて、書いてみないとわからないし。
修理も必要になるだろうし。
最初は、仕方ないですよね。


ベートーヴェン/ピアノ協奏曲 第1番ハ長調 作品15

20131212

この曲は、実は作曲者2番目のピアノ協奏曲。第2番の協奏曲が先に作曲されたため、作曲技術としては前作よりも自身の個性を打ち出したものとなっている。

この曲を作曲した時期は、ベートーベンがウィーンに出てきて間もない頃です。当時のベートーベンはピアニストとして活動していたので、自らの演奏会のために書いたわけです。

第1楽章
モーツァルトの影響が強いものの、中間部で遠隔調の変ホ長調を採用する点にロマン的な萌芽が認められる。
カデンツァは作者のものが3曲残されています。
演奏降嫁満点なので、よく聴く旋律が多いです。

第2楽章
三部形式。落ち着いた緩徐楽章。随所にピアノの華麗な音階進行を取り入れて、ベートーベンを特徴づける詩的な美しさをもっています。

第3楽章
ロンド形式。楽しげなロンド。独奏と管弦楽との掛け合いがにぎやかな演出をしている。最後のベートーヴェン特有のティンパニの連打は史上最初の打楽器ソロの難解なパッセージだそうです。

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ピアノ:マルタ・アルゲリッチ
指揮:ジュゼッペ・シノーポリ
管弦楽:フィルハーモニア管絃楽団
1985年5月録音(ロンドン)

アルゲリッチとシノーポリの演奏は、思い切りの良い表情を持ったものおじしないベートーベンだといわれている。
アルゲリッチは速い部分の滑らかさ、美しさが最高。やはり調子に乗ったときのテンポの速い音楽での流麗な響きはほかには求め得ない快さがある。
また遅い部分のしっとりとした繊細さが、アルゲリッチの特徴。


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ピアノ:小菅 優
指揮:ワシーリ・ペトレンコ
管弦楽:NHK交響楽団
2011年1月8日 NHKホール

小菅 優の演奏はすごく迫力があって、すごい。
小澤征爾さんからの信望が厚いとのことですが、本当に素晴しいピアニストだと思います。
ダイナミックあふれる演奏から出てくる音に、「重さ」が十分に感じられて、とてもいい。
そして、N響も、その熱気にこたえています。


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ピアノ:ジャン・フレデリック・ヌーブルジェ
指揮:準・メルクル
管弦楽:NHK交響楽団
2009年6月12日 NHKホール

この若いピアニストは近来屈指の注目株だそうです。ベートーヴェンの若い作品における叙情的な側面を、彼の解釈で演奏しています。
結構気に入っています。
準・メルクルの歯切れのいい指揮で、N響も乗っています。演奏機会も多い曲なので、音にもよどみが無くて、聴いていて楽しい音になっています。


ロビ第36号&37号組立/ロボット「ロビ」

20131211

【第36号】

第36号で紹介されているロボットは、Hondaのコンパクトなパーソナル・モビリティー「UNI-CUB」。
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Hondaがアシモなどで培ってきたバランス制御技術と全方位駆動車輪機構で実現している。
身体を傾けて体重移動するだけで、速度や方向の調節ができる。
現在は実用化に向けた開発段階で、日本科学未来館で共同実証実験が行われている。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボモーターの裏ぶたを外す
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② 右足首カバーに取り付ける
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完成状態
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【第37号】

第37号で紹介されているロボットは、愛知工業大学の学生たちが現実のものとしようと開発している「AIT鉄人9号」。
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鉄人プロジェクトは、愛知工業大学工学部電気学科電子情報工学専攻 古橋研究室で、2003年からスタートしている。
最初の「AIT鉄人1号」は、身長35cmだったという。

右側が2号(34cm)、左側が3号(64cm)
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9号は身長150cmとなった。
外装パーツは、3Dプリンターで自作しているそうだ。複雑な形状でも薄く製作されているという。
二足走行はもちろん、ボールを蹴ったり、20cmの段差を登ることもできる。
5本指を備え、ボールや棒状のものを掴んだり、じゃんけんをする。
音声認識機能により、歩いたり、パンチを繰り出し、手を握ったり、あいさつしたり。

大学で、これだけのロボット製作を経験しているのだから、世の中のロボットが急速に進化するわけだ。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① 左足首フレームにサーボのシャフトを差し込む
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② サーボケーブルに保護シールを貼る
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完成状態
左足首の二つの関節の中心となる部分が組み込まれた。
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福祉体験授業支援

20131209

他の小学校担当コーディネーターから、支援予定者が風邪でダウンしたので、ピンチヒッターを、との要請があり、今日午前中「福祉体験授業」のサポートをしてきました。

対象は5年生で、福祉体験の内容は下記の三つでした。
① 車いす体験
② 高齢者疑似体験
③ アイマスク体験

過去の福祉体験(車いす体験)の写真
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社会福祉協議会の職員が説明指導して、私たちボランティアは見守りです。
私は、アイマスク体験のグループに入りました。
4クラスあるので、一時限で一クラスということで、4時限連続の長丁場となりました。

生徒が二人一組になり、片方がアイマスクをつけて、目が見えない状態で行動する体験を。
もう片方が目の不自由な人をガイドする役目の体験です。
全部済んだら、役目を交代して、両方の体験をします。

教室に設けた狭い通路を歩いて、廊下に出て、階段を一階分降ります、そのまま真っ直ぐ歩いて、ユーターン。
階段を上がって、教室に戻り、最後に椅子に座ります。

私がサポートした場所は階段の下。
生徒が怪我などしないように見守りです。

だいたいは、慎重におっかなびっくり。
中には乱暴な子も。
ふざけてしまう子も。

だから行進がぐちゃぐちゃになりますが、まだまだ小学生は素直です。
ちょっと直してあげると、きちんとやります。

生徒たちが行う前に、模範演技をしてみせるのですが、私も一度アイマスクをして歩きました。
階段は、さすがに怖かった。

終ってからの生徒の感想は、「怖かった」、「あんなに大変だとは思わなかった」、「上手に連れていこうとしても、うまくいかなかった。ガイドは練習しないといけないと思った」
など生徒が真剣に取り組んでくれたのが見えて、嬉しかったですね。


ヘルムート・コール・ローズ

20131207

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系統: HT ハイブリッドティー
作出: 1996年 ドイツ Mathias Tantau, jr
花期: 四季咲き
花形: クォーターロゼット咲き
花色: 赤
花径: 大輪

イメージとしては、華やか、大人、ゴージャス、強い、でしょうか。
深紅で、ピロードがかっていて、いかにも薔薇らしい薔薇です。
残念なことに香りは少ない。

名前の由来は、ドイツの元首相に捧げられました。
戦後最長記録の16年にわたって連邦首相を務めた(在任1982年 - 1998年)。
冷戦終結の波に乗り、1990年に東西に分裂していたドイツの再統一を成し遂げ、時の人となりました。

2011年5月 生田緑地ばら苑にて


古事記を知る(23)

20131206

4-6 少名毘古那神と御諸山の神
故大國主神坐出雲之御大之御前時。自波穂。乗天之羅摩船而。内剥鵝皮剥爲衣服。有歸來神。爾雖問其名不答。且雖問所従之諸神。皆白不知。爾多邇且久白言。
自多下四字以音此者久延毘古必知之。即召久延毘古問時。答白此者神産巣日神之御子少名毘古那神。自毘下三字以音故爾白上於神産巣日御祖命者。答告此者實我子也。於子之中。自我手俣久岐斯子也。自久下三字以音故興汝葦原色許男命爲兄弟而。作堅其國。故自爾。大穴牟遅興少名毘古那二柱神相並。作堅此國。然後者。其少名毘古那神者。度于常世國也。故顕白其少名毘古那神。所謂久延毘古者。於今者山田之曾富騰者也。此神者。足雖不行。盡知天下之事神也。
於是大國主神愁而。告吾獨何能得作此國。孰神興吾能相作此國耶。是時有光海依來之神。其神言。能治我前者。吾能共興相作成。若不然者國難成。爾大國主神曰。然者治奉之状奈何。答言吾者。伊都岐奉于倭之青垣東山上。此者坐御諸山上神也。


(読み)
 カレオホクニヌシノカミイヅモノミホノミサキニマストキニ ナミノホヨリ アメノカガミノフネニノリテ ヒムシノカハヲウツハギニハギテキモノニシテ ヨリクルカミアリ カレソノナヲトハスレドモコタヘズ マタミトモノカミタチニトハスレドモ ミナシラヌトマヲシキ ココニタニグクマヲサク コハクエビコゾカナラズシリタラムトマヲセバ スナハチクエビコヲメシテトハストキニ コハカミムスビノカミノミコスクナビコナノカミナリトマヲシキ カレココニカミムスビミオヤノミコトニマヲシアゲシカバ コハマコトニアガミコナリ ミコノナカニ アガタナマタヨリクキシミコナリ カレミマシアシハラシコヲノミコトトアニオトトナリテ ソノクニツクリカタメヨトノリタマヒキ カレソレヨリ オホナムヂトスクナビコナトフタバシラノカミアヒナラバシテ コノクニツクリカタメタマヒキ サテノチニハ ソノスクナビコナノカミハ トコヨノクニニワタリマシキ カレソノスクナビコナノカミヲアラハシマホセリシ イハユルクエビコハ イマニヤマダノソホドトイフモノナリ コノカミハ アシハアルカネドモ アメノシタノコトヲコトゴトニシレルカミニナモアリケル
 ココニオホクニヌシノカミウレヒマシテ ワレヒトリシテイカデカモコノクニヲエツクラム イヅレノカミトトモニアハコノクニヲアヒツクラマシトノリタマヒキ コノトキニウナハラヲテラシテヨリクルカミアリ ソノカミノノリタマハク アガミマエヲヨクヲサメテバ アレトモドモニアヒツクリナシテム モシシカアラズハクニナリカテマシトノリタマヒキ カレオホクニヌシノカミマヲシタマハク シカラバヲサメマツラムサマハイカニゾトマヲシタマヘバ アレヲバモ ヤマトノアヲカキヒムカシノヤマノヘニイツキマツレトノリタマヒキ コハミモロノヤマノヘニマスカミナリ

(現代語訳)
 さて大国主神が出雲の美保の岬におられる時、波頭の上から蘿藦(ががいも)の実の船に乗って、蛾の皮を丸剥ぎに剥いで衣服に着て、近づいて来る神があった。そこでその名をお尋ねになったけれども、答えなかった。またお供に従っている神々にお尋ねになったけれども、みな「知りません」と申した。そのとき蝦蟇が申すには、「これはクエピコがきっと知っているでしょう」と申したので、すぐさまクエピコを呼んでお尋ねになると、「この神は神産巣日神の御子の少名毘古那神ですよ」とお答え申しあげた。
そこで大国主神が、神産巣日の御祖神にこのことを申し上げなさったところ、答えて仰せられるには、「これは本当に私の子です。子どもの中で、私の手の指の聞から漏れこぼれた子です。そしておまえは、葦原色許男命と兄弟となって、その国を作り固めなさい」と仰せられた。こうしてそれから、大穴牟遅と少名毘古那の二柱の神が共々に協力して、この国を作り固められた。そして後には、その少名毘古那神は、海原のかなたの常世国にお渡りになった。さてその少名毘古那神であることを顕わし申しあげたいわゆるクエピコは、今では山田のソホドという案山子である。この神は足は歩けないけれども、ことごとく天下のことを知っている神である。
そこで大国主神が心配して仰せられるには、「わたしは一人で、どうしてこの国を作り固めることができようか。どの神がわたしと協力して、この国を共に作るのだろうか」と仰せられた。このとき、海上を照らして近寄って来る神があった。その神が仰せられるには、「丁重にわたしの御魂を祭ったならば、わたしはあなたに協力して、共に国作りを完成させよう。もしそうしなかったら、国作りはできないであろう」と仰せられた。そこで大国主神が、「それでは御魂をお祭り申しあげるには、どのように致したらよいのですか」と申されると、「わたしの御魂を、大和の青々ととり囲んでいる山々の、その東の山の上に斎み清めて祭りなさい」と答えて仰せられた。これが御諸山の上に鎮座しておられる神である。

(注)
○御大の御前 島根半島の東端の美保関町の岬。
○天の羅摩船 「羅摩(かがみ)」は多年生蔓草の蘿藦(ががいも)の古名。長さ10センチほどの楕円形の実を割ると舟の形になる。
○鵝の皮 原文の「鵝」は「蛾」の誤りであろうとし、ヒムシと読んだ宣長の説に従っておく。
○たにぐく 「谷蟆(たにぐく)」はヒキガエルの古名。
○くえびこ 「崩え彦」の意で、案山子に与えた神名。
○少名毘古那神 小人の神で、常世国から訪れる農耕神。オホナムヂノ神に協力する神として説話に現われる。
○葦原色許男命 大国主神の亦の名。
○常世国 海のかなたにあると考えられた永遠の世界で、豊饅をもたらす神も、常世固から訪れると考えられた。○そほど 案山子の古名。
○我が前を治めば 私の御魂を祭ったならば。
○倭の青垣の東の山上 大和の青垣山の東の山の点の意で、桜井市の三輪山の上をいう。
○御諸山 「みもろ」は神霊のこもる神座をいう。「御諸山」は神体山のことで、ここは三輪山をさす。

(解説)
『伯耆風土記』や書紀には、スクナビコナノ神が粟を蒔き、粟が実ったとき粟茎にはじかれて常世国に渡った、という説話を伝えています。
海のかなたから寄り来たり、海のかなたの常世国に去る神であることは、海彼の異郷ニライカナイから豊穣をもたらすとされる、沖縄の穀霊信仰と相通じるものがあります。この神の正体を明らかにしたのが、蝦蟇や案山子であったというのも、スクナビコナノ神が、生産や農耕に関係の深い神であることを示唆しています。
案山子も、古くは田の神の依り代として立てられたもので、田の守り神でした。
オホナムヂ・スクナビコナ二神の農耕生活に関する興味深い説話は、「播磨風土記』にも記されている。
スクナビコナノ神が去って後、大国主神に祭りを要求したという三諸山の神の物語は、三輪山を御神体とする大神神社の鎮座縁起です。三輪の神もまた、農耕に関係の深い水を支配する神として、古くから大和で信仰された神である。
『日本書紀』では、三輪山の神はオホナムヂノ神の幸魂・奇魂であると伝え、オホナムヂノ神と同神化されているが、本来は別神でした。
なお三輪山の神に関する著名な三輪山説話は、崇神天皇の段に記されています。


神田明神にある、大国主神と少名毘古那神の像を載せておきます。

大国主神
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少名毘古那神
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秩父屋台芝居/秩父夜祭

20131204

昨日、12月3日(火)は秩父夜祭でした。
もちろん11月3日に所沢・西武秩父間特急の指定を購入してありました。
今年の目標にしたのは、「屋台芝居」です。
そのため、所沢発10:52に乗り、12時少し前に秩父に到着。秩父神社に急ぎました。
参道は人の波です。
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秩父神社にも人が押し寄せています。
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境内に行ったら、屋台芝居の舞台は出来ていましたが、その前に神楽殿で神楽をやっていたので、少し見ました。ここの神楽は国の重要文化財になっているので、こちらも気になっていました。
「天の岩戸」をやっていましたが、なんと16段もの長いもので、この時に第7段をやっていました。
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これを見ることを来年は目標にしようと思っています。

屋台芝居の最前列に陣取りましたが、なかなか始まりません。
どうも、今しがた境内に入って来た屋台の奉納が終わったらやるようです。
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その屋台が、秩父神社中門の前で「屋台曳き踊り」の奉納を始めました。
「三番叟」をやっていました。
それを望遠で撮りました。
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この「屋台曳き踊り」も撮りたい対象です。
来年は、神楽の合間にチャンスがあれば撮り、メインは再来年かと(笑)
秩父夜祭は、本当に見るものが多いです。

その屋台が出ていったので、いよいよ「屋台芝居」の始まりです。
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舞台は張り出し屋台という、日本でもここだけという優れものです。曳きまわしをする屋台の両袖に張り出しを付け加えて舞台にするわけです。
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屋台の部分
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両袖に付け足す部分も、豪華な造りです。
右側には、浄瑠璃演者が入ります。
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左側には、囃子方が入ります。
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さて、いよいよ開幕です。
今年境内での屋台芝居を担当するのは「本町屋台」でした。
口上を務めたのは、小学校5年生の女の子。これがどうして、どうして。素晴らしい口上でした。幼いころから保存会で練習していたそうで、しっかりした口上で、末は名優と思わせるものでしたね。
「隅からすみまで、ズイ、ズイッ・・・・とぅ」という見得も見事に決めて、やんやの喝采でした。
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【白波五人男】

本町の有志により演じられます。
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これはもう、学芸会みたいなものでしたが、それにしても長いセリフ、見得を切るなど、かなり練習しないととうてい務まらないことは、見ていてわかります。
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決めどころでは、紙テープ、やんやのかけ声、雨のように降り注ぐおひねり・・・・・
とても楽しい雰囲気ですね。
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幕が降りると、観衆に呼び出されて、ピースやら、花束やら。
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【一谷嫩軍記(いちのたにふたばぐんき)・熊谷陣屋の段】

演じたのは、秩父歌舞伎正和会で、プロかと思われる見事なものでした。

あらすじ:
やがて日も暮れようとするころ、熊谷が戻ってきた。景高のことを聞いた熊谷は、軍次に景高の相手をさせることにし、一方妻の相模には、女の身で戦場に来るとは何事だと叱る。だが熊谷の背後からいきなり斬りつけようとする者があらわれ、熊谷は思わずそれをねじ伏せた。
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が、それが藤の方(敦盛の母)だと聞いてびっくりし、手を離して相模ともども平伏する。藤の方と相模は敦盛をなぜ討ったと熊谷に質すが、熊谷は戦場でのことは致し方ないことであると言い、そのかわりにと敦盛を討った様子を、相模と藤の方の前で物語る。
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そして相模に、藤の方を連れ直ぐにここを立ち退けといって奥へと入った。
相模は藤の方が持っている敦盛の形見の笛を目にし、それを吹いたら経文代わりのよい供養になろうと、笛を吹くのを勧める。藤の方はその勧めに従い、笛を吹いた。ところがそのとき一間の障子に人影が映る。もしや敦盛の幽霊かと藤の方は急ぎ障子を開け放すと、そこには死ぬ直前まで敦盛が着ていた鎧兜が、鎧櫃の上に置かれるばかりである。藤の方と相模は、あまりの切なさに涙した。
再び奥から、敦盛の首が入った首桶を持って熊谷が現れる。それを見た相模はどうかひと目その首を藤の方にと夫を引き止め、藤の方も熊谷にすがりつき嘆くが、あるじ義経に見せるまでは誰にも見せられぬと熊谷は二人を突き放し、義経のもとへと行こうとする。
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そのとき奥より、熊谷待てと声を掛けてあらわれたのは、ほかならぬ御大将義経公。義経は、熊谷が敦盛を討ったにもかかわらず、すぐさま自分のところにその首を届けに来ないのを不審に思い、自ら出向いてきたのだという。熊谷は義経の前に首桶と義経より託された制札を置き、制札の文言に添って首を討ったと述べた。そして、首桶を開けた。
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だが、その首の顔を、ちらりと見た相模は、ヤアその首はと仰天して首に駆け寄ろうとした。熊谷は寄ろうとするのを引寄せて物も言わせず、さらに藤の方もわが子の顔見たさに駆け寄ろうとするがこれも熊谷はお騒ぎあるなと寄せ付けない。
義経は首を検分し、よくぞ討った…縁者にその首を見せて名残を惜しませよという。熊谷は相模に、藤の方に敦盛卿の首を見せるようにと首を渡した。相模は嘆き悲しみながら藤の方に見せる。藤の方は首を見て驚く。それは敦盛ではなかったからである。
義経は敦盛が後白河院の落胤であることを知り、なんとかその命を助けたいと考えていた。そこで小次郎をその身代りに立てろとの意を込めた「此花江南の所無也」云々の制札を熊谷に手渡し、熊谷はその義経の意向に従った。すなわち一谷の平家の陣所で手傷を負ったと称して連れ去ったのは敦盛であり、須磨の浦で熊谷と戦って首を討たれたのはじつは小次郎だったのである。弥陀六に石塔を誂えさせた若衆というのも、また藤の方が笛を吹いたときに障子にあらわれた人影も、じつは幽霊ではない敦盛本人であった。だが相模は、夫の熊谷から何も聞かされてはいなかった。


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とても素晴らしかったです。
見惚れていました。
これは、機会があれば何度でも見たいと思いました。

芝居の上演が終ると、夜の曳きまわしのために、さっそく舞台が分解されます。
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その後、一緒に行った仲間と揃って秩父神社にお参りしました。
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今年採れたお米と繭が奉納されていました。
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秩父神社社殿の彫刻を見て回りました。代表的なものを載せておきます。

左甚五郎の「つなきの龍」
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「北辰の梟」
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「お元気三猿」
よく見、よく聞いて、よく話そう。
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「瓢箪から駒」
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絵馬も、彫刻に倣って豊富で見事です。
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秩父を舞台にしたアニメ「あの日見た花の名前をまだ知らない」の影響で、絵馬に自分でイラストを描いたものがたくさんありました。
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夜祭も、もちろん楽しみました。
しかし、衝撃なことに、御神幸行列を撮りはじめたとたん、無情の「電池切れ」です(泣)
昼間動画を撮り過ぎたためです。
メモリーは、前日買い足したのですが、電池も買い足せば良かった・・・・ガックリ。

これは、行列先頭の「猿田彦」
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写真は撮れませんでしたが、路上で御神幸行列を全部見たし、交差点での20Tもある屋台のギリ回しを至近距離で見ました。
花火も、大スターマインの、これでもかと打ち上げるのを、わりと良い位置でずいぶんと見ました。
二年目で、だいぶ見るコツがわかってきました。

12時から夜の9時半までの長丁場でしたが、本当に秩父夜祭を堪能しました。
まだまだ、見たいものが沢山残っているので、当分毎年通うことになりそうですね(笑)



火の鳥・太陽編/手塚治虫

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少し前のことだが、壬申の乱を特集していたテレビ番組で、この本を紹介していた。
私は「火の鳥」はほとんど読んでいなかったので、アマゾンで探した。
ほんとにアマゾンは便利だと思う。
もう絶版になっている古い本も買えてしまうのだから。

これは、手塚治虫のライフワーク『火の鳥』の第12部で、実質的な最終話となった作品です。

ストーリー:
西暦663年、白村江(はくすきのえ、現・韓国中世部の川=錦江のこと)の戦いで唐・新羅連合軍に惨敗した倭・百済軍は敗走を重ねていた。百済王一族の兵士・ハリマは、唐軍に捕らえられ、生きながらに顔の皮をはがれ、狼の皮を被せられてしまいます。
狼の顔を持ったハリマは、不思議な老婆に助けられ、老婆の予言を信じて倭国へと渡る。人間・犬上として。
その倭国で犬上は、"狗族"という先住者たちと出会います。
狗族は、かつては人間から産土神として崇められていましたが、仏教の台頭によって魔物とされ、人里を追われて山奥にひっそりと暮らしていたのです。
その狗族の族長ルベツの信頼を得た犬上は、一族のために力を貸すことを誓いました。
その犬上は、狼の皮を被せられて以来、悪夢に悩まされていました。
そして次第に、自分以外のもうひとりの自分の存在を確信していきます。犬上の精神は、21世紀に生きる"シャドー"のエージェント・板東スグルの精神でもあったのです。
21世紀の日本では、火の鳥を神と崇拝する宗教団体"光"が地上を支配し、地上から追われた"シャドー"たちとの抗争がつづいていました。そしてそれは、まるで仏教と産土神たちとの争いのようでもあったのです。

犬上は仏教を強要する中大兄皇子(天智天皇)に抗するために、信仰の自由を認めるという大海人皇子(後の天武天皇)に加勢して戦います。ところが、大海人皇子は政権をとった途端に、”日輪信仰”を人々に強要する宣言を発するようになってしまいます。

一方、現代の物語は2000年ころです。火の鳥を崇める宗教組織”光”が権力を得て、それに抵抗する者はすべて地下都市へ強制的に追いやられます。地下都市では”シャドー”組織が、地下都市を解放するために光宗教組織を攻撃します。ついにはシャドー組織が勝利をおさめますが、権力を手中にした途端、シャドー組織の首領は新しい宗教組織”不滅教”をつくって、人々を従わせようとします。

国家神道の始まりともいえる大海人皇子(天武天皇)による”皇祖神信仰”も描かれています。
この時の大海人皇子の宣言は下のように描かれています。
「帝王というものは、実に不信感と欲求不満をおこさせるものだ…この不信感は日毎に倍になっていく…なき兄君の気持もわかる。側近の誰も信じられなくなるからな。仏教はほどほどにおさえたし、一応、ほかの信仰もみとめてやったのだが、もし、狂信的な連中が、なにかの宗教をタテに、おれにそむいたら?」
「わが国は日の本の国、大日本帝国である! そして私は天の神の子、天子なのだ! この国の神は日輪<にちりん>、すなわち、天を照らす大神<おおかみ>である。すべての国民は、この神を信じ、尊ばぬばならぬ!! 私に背くことは、天に背くことだっ。ここに厳命するっ。私の神をあがめぬものは、反逆者とみなし断罪するぞ!」


手塚治虫が ”宗教” について言いたかったことは、物語の中で、火の鳥が犬上の心に語りかける場面があります。これが手塚治虫の宗教観でしょう。
「あなたによいものを見せましょう。ここは、あなたの生きている世界から千年あまりも、あとの世界です。この世界にも、光族と影(シャドー)という、二つの信仰のはげしいたたかいがありましたわ。でも私は、人間たちが、しぜんに解決するのを、じっと見ていただけ。そう、むごたらし戦いでした。宗教戦争はいつも、むごいのです。」「そう、人間というのは何百年、何千年たっても、どこかで、いつも、宗教のむごいあらそいをおこすんです。きりがないのです。とめようがありません。それはねえ、宗教とか、人の信仰って、みんな人間がつくったもの。そして、どれも正しいの。ですから、正しいものどうしのあらそいは、とめようがないでしょ。」
「わるいのは、宗教が権力とむすばれた時だけです。権力に使われた宗教は、残忍なものですわ。人間の権力は…人間自身の手でなくすもの…だから、私は見ているだけ」


この本では、仏教が侵略者であり、悪者のように描かれている。
もし大海人皇子(天武天皇)が政権を握らないで、天智天皇から大友皇子に政権が引き継がれ、仏教国家が推進されていったら?
天武天皇が推進した、日本書紀と古事記の編纂が無かったら?
同じく天武天皇が制定した伊勢神宮の式年遷宮が無かったら?

私が追い求めている、八百万の神々はどうなっていただろうか・・・・・・・



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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