むかし遊び

20140131

今日は小学校の「むかし遊び」の企画を支援してきました。
生活科の授業として、地域の人から昔からの遊びを教わったり一緒に遊ぶことで、昔からの遊びの良さや楽しさを知り、また地域の人との交流も図るというものです。
対象は小学校1年生。
3クラスあるので、100名あまりの子供たちとなります。
遊びは、けん玉、こま、竹馬、竹とんぼ、お手玉、あやとり、おりがみ、羽根つきの8つです。

一つの遊びに、ボランティアの方3人確保したいと思い、支援を募りましたが、寒い冬のこと故なかなか集まらず、歴史講座で知り合った友人、他学区のコーディネーターたちにお願いしたりして、なんとか20名確保しました。

全部、体育館の中でやることにして、遊びの場所を決めておいて、そこでボランティアは待っています。
子供たちは好きな遊びのところに行って遊びます。
140131asobi01.jpg


子供たちは、とても楽しそうに遊んでいました。
それにも増して、楽しそうなのが大人たちでしたね。

けん玉
140131asobi02.jpg


お手玉
140131asobi03.jpg


折り紙
140131asobi04.jpg


竹馬
140131asobi05.jpg


竹とんぼ
140131asobi06.jpg


こま
140131asobi07.jpg


140131asobi08.jpg


あやとり
140131asobi09.jpg


私も、楽しみました。なによりも子供たちの笑顔が嬉しいです。
時間が1時限ということで、45分間だったので、子供達も、大人たちも、「えっ、もう終わり?」と不満そうでした。

それから、この小学校では支援するイベントが今年度は今日が最後という事で、子供たちから感謝のペンダントを一人当たり4、5枚くらい首にかけてもらいました。
140131asobi10.jpg


ボランティアの皆さんが、とても笑顔で楽しそうな気分で帰られたので、私もとても嬉しかったですね。



スポンサーサイト

シンポジウム「埼玉古墳群の謎~東国を治めた古代豪族~」

20140130

1月25日(土)に大宮ソニックシティで行われた表題のシンポジウムを聞いてきました。
140130kodai01.jpg


非常に中身が濃い講演が続いたので、初心者の私としては出てくる話に圧倒されました。
その中から、埼玉古墳群の全体像について、謎も含めて大雑把には整理できたかなと思いました。
その点を抜粋して掲載します。

[基調講演]
「埼玉古墳群の謎 一稲荷山から将軍山へ-」
講師:大塚 初重氏(明治大学名誉教授)

この日、以下で報告される各研究の全体像の話でした。
「埼玉」の説明から入りました。
万葉集には「佐吉多方(さきたま)」あるいは「前玉(さきたま)」とありますから、「さきたま」と呼ばれていたことがわかります。また平安時代の『倭名類衆抄』には「佐以多万(さいたま)」とありますから、古代から両方の読み方があったこともわかります。

埼玉古墳群
140130kodai02.jpg


私にとっては、これだけの規模の古墳が、わずか150年の間に築造されたのが驚きです。

以下研究報告が続きました。

「埼玉古墳群とは?」
講師:高橋一夫氏(埼玉考古学会会長)

武蔵国造の乱:『日本書紀』安閑天皇元年(534年)、笠原直使主と笠原直小杵は武蔵国造造の地位をめぐり争っていました。安閑天皇元年、小杵は上毛野君小熊の力を借りて、使主を殺害しようとしましたが、これに対して使主は大和王権に助けを求め、大和王権から武蔵蔵国造であることを認められ、小杵を誅しました。
武蔵国造の乱の後、①横渟(よこぬの)屯倉(比企郡吉見町に比定)、②橘花(たちばな)屯倉(川崎市・横浜市東北部に比定)、③多氷(おおひ)屯倉(多氷を多木の誤記として多摩地域に比定)、④蒼樔(くらすぼ)屯倉(倉樔を倉樹の誤記として県横浜市南部に比定)の4屯倉を朝廷に献上。
ア、 武蔵国造の乱の広域説:横停屯倉の以外は南武蔵の領域であるので、武蔵国造職を争ったのは南武蔵(胸刺)と北武蔵(元邪志)の勢力で、南武蔵の勢力が敗れたと考えることもできます。
 ⇒ 「武蔵」に統一。
イ、武蔵国造の乱の狭域説:埼玉古墳群を造営した一族の争い。方位A・C系列と方位B系列。
140130kodai03.jpg


140130kodai04.jpg


大和王権との関係:
造出のある前方後円墳:全国で124基。
300m以上4基、200m以上18基、100m以上50基、80m以上18基、50m未満10基。
最大:大阪・大仙古墳(伝仁徳陵古墳)486m、
細小:茨城・宮中野97号墳32m
関東の造出のある前方後円墳:埼玉6基(埼玉古墳群のみ)茨城4基、群馬3基、千葉1基、
全国造出数ランク:大阪31基、奈良17基、宮崎8基、岡山8基、三重8基、
埼玉は6基で全国第6位
⇒埼玉古墳群は大和王権と密接な関係にあった。
140130kodai05.jpg


稲荷山古墳から出土した金錯銘鉄剣の乎獲居(ヲワケ)は畿内豪族かさきたまの豪族か
(1)稲荷山古墳の被葬者に関する見解
第1説:乎獲居は、大王が天下を治めるのを補佐した畿内豪族であったが、東国に派遣され稲荷山古墳に葬られた。
第2説:乎獲居は畿内豪族で、杖刀人として上番した北武蔵の豪族の子弟が杖刀人である乎獲居に仕え、乎獲居から鉄剣を与えられた。
第3説:乎獲居はさきたまの豪族で、被葬者も同一人物。
(2)考古学的には
 ア、獲居が東国に派遣された人物なら第1被葬者であってしかるべき。また、周辺の遺跡の状況から、稲荷山古墳の被葬者は広大な沖積地の開発に成功した在地豪族と考えられます。
 イ、辛亥銘鉄剣の所有者は最初に葬られた人物ではないことから、初葬者の子弟と考えるのが妥当です。
 ウ、地方豪族が大王を補佐する杖刀人首となる可能性は少ない。


「王の象徴 一装飾大刀-」
講師:瀧瀬芳之氏(公益財団法人埼玉県埋蔵文化財調査事業団副部長)

 稲荷山古墳から発見された金錯名鉄剣の銘文の内容から、稲荷山古墳の礫榔の被葬者が、時の畿内政権と主従関係を結んでいた人物、少なくともその親族である可能性は高いと考えられます。そしてこの畿内政権との太いパイプは、稲荷山古墳の被葬者の子孫(あるいはその後継者)にも受け継がれ、維持されていたことは想像に難くありません。そうでなければ、この地に武蔵国最大の前方後円墳(二子山古墳)を含む大規模古墳群が形成されることはなかったでしょう。将軍山古墳に複数の装飾大刀が副葬された理由もそこにあると考えられます。伝統的な倭風大刀である楔形柄頭大刀は、畿内政権との同盟や、畿内政権への服属を誓ったあかしとして佩用を許されたのではないでしょうか。
 三葉環頭大刀をはじめとして、将軍山古墳には、馬胃や蛇行状鉄器など朝鮮半島製の副葬品が含まれています。こうした文物は、朝鮮半島の諸政治勢力から贈与・賜与されたもので、畿内政権と地方有力首長で構成される「倭政権」が、朝鮮半島との諸勢力と交渉する場面において、対外的な身分標識の役割を担っていたと考えられています(内山2013)。この仮説が成り立つならば、将軍山古墳の最初の被葬者は、倭政権の一員として対外交渉に関わる要職についており、三葉環頭大刀はその身分を表す重要なアイテムだった可能性があります。
140130kodai06.jpg



「騎馬の風習と馬具」
講師:宮代栄一氏(朝日新聞社編集委員)

宮代氏のこの内容の講演については、「さきたま講座」でより詳しく聞いています。
当ブログで2013年11月5日の記事にしています。
下記クリックでその記事に移行します。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1334.html

特に馬胃については、日本国内での発見例は和歌山市大谷古墳と埼玉県将軍山古墳の2例のみだったのですが、2013年(平成25)に福岡県古賀市船原3号墳から馬胃が発見されたので、計3例になりました、と説明がありました。
貴重なものです。


「古墳と須恵器」
講師:酒井清治氏(駒澤大学教授)

型式の分かる須恵器から推定した古墳群の変遷は、稲荷山一埼玉2(梅塚)一二子山・瓦塚→奥の山一将軍山一鉄砲山→中の山古墳と考えられます。

須恵器は朝鮮半島から伝わったため、最初は西日本で作られており、大阪府堺市陶邑窯跡群や名古屋市東山窯跡群が知られています。埼玉県では6世紀前半の桜山窯跡が最初に操業されます。
埼玉古墳群の須恵器の産地は、陶邑窯を中心とした畿内と、東山窯の東海西部、静岡と三河の一部を含む東海東部、群馬を中心とした北関東、埼玉県内の地域が推定されます。
埼玉古墳群の須恵器は畿内・東海の製品から、北関東の製品に変化していくようです。その変化は6世紀中頃にあるようで、須恵器から見るならば群馬との関わりがより濃くなっていくようです。
140130kodai07.jpg



「鉄剣銘文と豪族」
講師:塚田良道氏(大正大学教授)

古代系図と稲荷山鉄剣
埼玉稲荷山古墳の礫榔出土の鉄剣銘文にも、上祖オホヒコから鉄剣を製作したヲワケまで八代の人名が記されていますが、そこにもオホヒコを除く七つの人名の頭に「其児」という表記がついています。そして、ヲワケまで「世々杖刀人」の首であり、雄略天皇と考えられるワカタケル大王の朝廷が大和のシキにあったとき、練りに練った鉄剣を作り自らの「奉事」の根源を記した、と代々の職掌を明記しています。このように「児」でつなぐ人名表記、さらに杖刀人としての「奉事」を示す銘文の書き方は、縦線こそないものの、『海部氏系図』ときわめてよく似ています。古代の系図を研究した溝口睦子さんは、古代の氏族系図(あるいは文章による系譜)に共通する特徴が、一つには血統の表明であり、もう一つには職掌、すなわち大王への奉仕の表明であると指摘しており(図2)、そのような観点から見れば、鉄剣銘文はまさに古代の系図としての内容をそなえています。
140130kodai08.jpg


140130kodai09.jpg


古墳と系譜意識
埼玉古墳群の前方後円墳の形も検討してみると、稲荷山古墳(長さ120m)の形は大阪府堺市の大仙古墳(仁徳陵古墳・486m)の四分の一サイズであり、近畿地方の巨大古墳の相似墳の可能性があります(図7)。ただし稲荷山古墳の場合、墳丘を囲む堀が二重の方形のため、大仙古墳の盾形二重周濠とは異なり、そっくりそのまま踏襲したわけではないようです。この稲荷山古墳の形は、続いて築造された二子山古墳(138m)、そしてその後に築造された鉄砲山古墳(109m)にも受け継がれており、二子山古墳は稲荷山を一と八分の一倍、鉄砲山古墳は二子山を五分の四に縮小した大きさにあたります。つまり埼玉古墳群の全長百m級の大形前方後円墳は、そのいずれもが稲荷山古墳の形を基本にして、それを拡大、縮小して順次築造されていったと考えられ、おそらく歴代の首長の象徴としてこの形が踏襲されていったのではないかと思われます。
140130kodai10.jpg



現在私の中では、古代特に古墳時代がマイブームとなっています。
このシンポジウムのタイトルのように、謎が多いのがまた面白く、魅力となっています。
去年から、埼玉古墳群のある「さきたま史跡の博物館」で開催される「さきたま講座」に通っていますが、これからも古代の魅力を追いかけていくつもりです。





旧鎌倉街道上つ道「東村山駅から航空公園駅まで」(その三)

20140128

1月24日(金)に歴史クラブの行事で、歩いた続きです。
実蔵院の横の旧鎌倉街道を歩いていくと、新光寺の前に来ます。

新光寺
住所:埼玉県所沢市宮本町1丁目7−3

新光寺は遊石山観音院と号し、本尊の聖観世音菩薩は、行基菩薩の作と伝えられています。建久4年(1193)に源頼朝が那須野へ鷹狩りに行く途中にここで昼食をとった折り、その時仮小屋の地を寺に寄進したといわれています。その後この辺りは戦場となり荒れ果て頼朝寄進の土地もかすめ取られてしまいましたが、新田義貞が鎌倉攻めに向かう途中にこの寺で戦勝祈願をし北条氏を討ち帰途再度立ち寄り黒塗りの乗鞍を奉納し、かすめ取られた土地を寄進したと伝えられています。

文明十八年(1486)聖護院門跡の道興准后(どうこうじゅんこう)が東国にある輩下の寺を見廻って歩いた時の紀行文「回国雑記」に河原宿(宮本町)に立ち寄ったことが書いてあります。
それには野老澤(ところざわ)という所に行った時に、観音院に福泉という山伏がいて、竹筒(ささえ・酒を入れる道具)を取り出したところ酒の肴に薯蕷(ところ)という物を出したので・・・・
「野遊のさかなに山のいもそえて ほりもとめたる野老澤かな」
と歌を読んだ。という意味のことが記されています。
この事にちなんで、所沢の市章の中央には「ところ」の葉三枚が、組み合わされています。

山門は洒落た感じの竜宮門です。
140128kama01.jpg


140128kama02.jpg


140128kama03.jpg


つい覗いてみたくなる(笑)
140128kama04.jpg


境内
140128kama05.jpg


八角円堂
140128kama06.jpg


宝形造の木造観音堂
140128kama07.jpg


龍の下に彫ってある植物の葉が気になる。
松の葉のようなものの中央には、所沢の市章のような三枚の葉が見える。「ところ」か?
140128kama08.jpg


所沢の市章
140128kama08a.jpg


向背柱の木鼻は普通獅子とか獏なのだが、このように牡丹だろうか繊細な彫刻は珍しい。
140128kama09.jpg


堂内
140128kama10.jpg


福寿稲荷社
140128kama11.jpg


境内の中央には「慈眼観音」と「平和の鐘?」がある。
140128kama12.jpg


お地蔵さまの曼荼羅
140128kama13.jpg


石仏が集められている。
140128kama14.jpg


その中に「馬頭観音」だろうか。
140128kama15.jpg


毎年春に行われる「観音まつり」は馬が唯一交通機関であった頃の馬に対する慰労と交通安全を祈願するお祭りだそうです。

小ぶりながら、良かった。
140128kama16.jpg


「航空殉難英霊供養塔」
140128kama17.jpg


下にある趣意書きによると、昭和2年7月28日午前11時サルムソン機に搭乗した畑正志大尉、伊藤武夫中尉は飛行練習中に気流の関係か発動機の故障か、飛行場を目前にしながら新光寺境内に墜落、死亡した。その後航空事故で亡くなられた方も併せて、昭和16年に建立されたものです。


旧街道は、左から来てこのお寺の前で消えています。
140128kama18.jpg


お寺の前を東に少し行くと県道所沢狭山線でここを北に向かう坂を「峰の坂」といい、坂の途中で県道の東側に見える森に神明社があります。

所沢神明社
住所:埼玉県所沢市宮本町1丁目2−4

ケヤキの大木の間の石段を登ると、正面に素晴らしく横長の神明造拝殿がある。
140128kama19.jpg


140128kama20.jpg


140128kama21.jpg


手水舎
140128kama22.jpg


炎尾型の狛犬
140128kama23.jpg


140128kama24.jpg


拝殿
140128kama25.jpg


日本武尊が東夷征伐にあたり、当神社の付近である小手指原にさしかかり、ここで休憩したと伝えられます。所澤神明社は、そのおり、日本武尊が天照大御神に祈られたことに因んで、土地の民が天照大御神を祀ったものといわれます。
当神社は、文政九年(1826) に、火災に遭い社殿および別当寺であった真言宗花向院が焼失しました。それ以前の二度の火災とも併せて、このとき古記録と宝器のほとんどが失われたために、正確な創立年は不詳。
文政の火災で総鎮守である神明社を失ったあと、当時の名工、中手妙王太郎の後見のもとに、社殿が造営されたと伝えられている。
明治二年に寺社を分離して花向院は廃寺、神明社が独立し、明治三十五年には現在の社殿が建立された。また、昭和九年に、県下随一の大きさを誇る総檜づくりの雄大な拝殿が完成。また末社も相殿として新築し、昭和九年に竣工したもの。
「関東のお伊勢さま」と呼ばれる
祭神は天照大御神、倉稲魂之命、大物主之命。

拝殿内部
140128kama26.jpg


神紋は「右三つ巴」
140128kama27.jpg


拝殿の後ろに幣殿、本殿が其々独立して建てられています。

幣殿
140128kama28.jpg


本殿
140128kama29.jpg


140128kama30.jpg


境内社は、すごく多い。

藏殿(ぞうどの)神社
ご祭神:崇神天皇(すじんてんのう)
140128kama31.jpg


二つの社殿にまとめられて並んでいます。
手前の社殿には
140128kama32.jpg


並んでいるのは
戸隠神社:手力男神
疱瘡神社:天女姫(清盛の娘)
瘡守稲荷社:倉稲魂命
稲荷社:宇迦之御魂神
大雲神社:祭神不明
大國主神社:大國主神
天神社:菅原道真

もう一つは
140128kama33.jpg


並んでいるのは
水天宮:天御中主大神、安徳天皇、高倉平中宮(建礼門院)、二位の尼(平時子)
雷電社:火雷大神、大雷大神、別雷大神
琴平神社:大物主命
五龍社:龍神

所沢招魂社
140128kama34.jpg


鳥船神社(別称:所澤航空神社)
御祭神は鳥之石楠船神(天鳥船神)。
航空発祥百年を記念して、平成23年に創建されたそうです。
140128kama35.jpg


願いを込めた紙飛行機や折鶴を奉納ください、と説明板にあり、石の折鶴が置かれている。
140128kama36.jpg


神楽殿
140128kama37.jpg


脇の入り口に、社号標と鳥居がありました。
140128kama38.jpg



薬王寺
住所:埼玉県所沢市有楽町8−18

曹洞宗の寺。
新田義宗(義貞の子)は足利尊氏と戦って敗れ、ここで再起を図ったが果たせずこの地で亡くなったといわれている。
『太平記』には新田義宗が正平7年(1352)に兄義興と共に武蔵野合戦にて足利尊氏と戦って敗れ越後に退いたと記されています。寺の縁起によれば義宗は戦いに敗れた後に再起の時を計って密かに武蔵のこの地に入り隠れ住んだといいます。ところがその後足利氏の勢は強くなり、遂に南北朝も統一されていったのでした。
そこで新田義宗は髪を落とし衣を着て、今まで隠れ住んでいた家をお堂に改めました。そして一体の薬師如来像を刻み、その腹の中に守本尊を納め、戦死した一族や家臣の菩提を弔いながら余生を送り、応永20年(1413)にこの地で亡くなったといいます。

山門
140128kama39.jpg


大銀杏
140128kama40.jpg


鐘楼
140128kama41.jpg


本堂
140128kama42.jpg


薬王寺の歴代住職墓地の応永20年(1413)の塔は、銘文に「同年・3月1日逝卒 自性院殿義慧源宗大居士」とあり、新田義宗の墓と伝えられている。

歴代住職墓地
140128kama43.jpg


新田義宗の墓
140128kama44.jpg


140128kama45.jpg


境内に江戸後期の女流俳人「野遊亭里恵女」の句碑があります。
里恵女は宝暦3年(1753年)中藤村(武蔵村山市)の波多野家に生まれました。また、里恵女の出生地は所沢という説もあります。 里恵女が嫁いだ三上家は「角三上」と呼ばれる所沢草分けの一家で、酒造、米穀商を営む名家でした。
「野遊亭」は道興准后(ドウコウジュンコウ)が所沢を訪れた際、「野遊びのさかなにやまのいもそえて ほりもとめたる野老沢かな」と詠んだことにちなんでいます。

「むさしのに らちなく老いし 柳かな」
140128kama46.jpg


これで、この日の予定は全て踏破し、すぐ近くの「航空公園駅」にて、解散しました。
15.700歩あまりでした。

(了)


「歴史クラブ行事記事一覧」に飛ぶ

旧鎌倉街道上つ道「東村山駅から航空公園駅まで」(その二)

20140127

1月24日(金)に歴史クラブの行事で、歩いた続きです。
梅岩寺から歩き出して間もなく、現役の丸ポストを発見しました。すごい!
140127kama01.jpg


西武線のガートをくぐります。
140127kama02.jpg


ちょっと先から細い道に入ります。
庚申塔がありました。
文政元年(1818)に建てられたもので、「武州入間郡久米邑」の掘り込みがあります。
140127kama03.jpg


勢揃橋
住所:埼玉県所沢市久米
勢揃橋は新田義貞が鎌倉攻めの時に義貞の軍をここで勢揃いさせたと伝えられる橋で、柳瀬川(旧久米川)に架かっています。
現在の橋はあまり大きくはありませんし、付近は写真のとおり住宅でいっぱいです。
今や、勢揃いさせたことを偲ばせる空き地などはまったく見当たりません。ただこの道が旧鎌倉街道であることは確かです。
140127kama04.jpg


140127kama05.jpg


橋からの下流の眺め。
140127kama06.jpg


橋からの上流の眺め。
140127kama07.jpg


勢揃橋から南下をすると、新田軍と鎌倉軍がこの辺りで激しい戦闘を繰り広げた古戦場跡になりますが、そこの西手前に八国山と言われる山があり、将軍塚があります。八国山の言われは、そこに登ると関東八国が一望できることから付けられた名前だそうですが、徒歩10分もせずに登れます。昔は高い建物が全くなく、空気も澄んでいたことから可能だったのでしょう。将軍塚は新田義貞公が鎌倉攻めのときに、ここに陣を置いたところと伝えられています。又ここに塚を築いて白旗を立てたところともいわれています。
将軍塚のある場所は、国の重要文化財である元弘青石塔婆がかってあった場所でもあります。

この日は八国山には寄らず、北上します。
バス停の表示どおり、後ろ(南下)が将軍塚です。
140127kama08.jpg


長久寺
住所:埼玉県所沢市久米411 

勢揃橋から歩いてすぐに到着しました。
140127kama09.jpg


長久寺前の鎌倉街道標示。
140127kama10.jpg


長久寺は藤沢の遊行寺を総本山とする時宗のお寺です。時宗は鎌倉時代に一遍上人が開いた念仏の宗派です。長久寺の開山は玖阿上人といい、現在東村山の徳蔵寺にある「元弘の板碑」を建てた人といわれています。寺の本尊は善光寺式の阿弥陀三尊です。 長久寺と同じ時宗のお寺は鎌倉街道上道沿いには数多くあり、街道を通じて広まっていったことがうかがえます。嵐山町大蔵の向徳寺も同じ時宗で善光寺式の阿弥陀三尊があります。

本尊が善光寺式の阿弥陀三尊であることを示す石碑。
140127kama11.jpg


堂々とした山門の前に仁王さんが頑張っています。
前にも見たなと考えたら、やはり所沢の山口城の城主山口氏の菩提寺で曹洞宗の瑞岩寺が、こんな感じでしたね。
140127kama12.jpg


山門を入ると、境内が広がり本堂が。
140127kama13.jpg


140127kama14.jpg


一遍上人の像
140127kama15.jpg


所沢市指定の文化財「廻国供養塔」
140127kama16.jpg


140127kama17.jpg


1774年建立で、総高160センチメートルあり、平塚宗順夫妻の和歌などが刻まれた塔身の上に、連台にのった薬師如来坐像が置かれています。
建立者の平塚宗順は、江戸時代中頃に久米村(現在の所沢市久米)に生まれ、後に江戸へ出て小児婦人科医師を開業します。後年、日本廻国行者となって、国中の神社仏閣を参詣し、その記念として、安永3年(1774)この供養塔を建立しました。
薬師如来坐像
140127kama18.jpg


塔身には、平塚宗順夫妻の和歌などが四方に刻まれているとのことですが、字がかすかに見えるだけで、よくわかりません。
140127kama19.jpg


立派な宝篋印塔が本堂の前にありました。
140127kama20.jpg


基部の四方に絵が刻まれているが、よくわからない。
140127kama21.jpg


140127kama22.jpg


140127kama23.jpg


140127kama24.jpg


寿和婦貴(咳)尊(すわぶきそん) のお堂
140127kama25.jpg


中を覗くと、首の無い石仏が並んでいたんですよね。
心無いいたずらで首を落とされたのかと思いながら、それでも写真は撮ってきました。
帰ってから調べると、こういう訳でした。以下お寺の説明です。
すわぶき(咳)からきている名で、親しみをこめて「おしゃびき様」とも呼ばれている六体の首なし地蔵です。
どうにも咳が止まらず首が落ちそうに痛かった人が、その咳を止める為六体の首なし地蔵を祀って祈願し、治った、という言い伝えがあります。
昔は子供の咳が止まらない時、地蔵様のたすきを戴いて子供の身に着け祈願し、治ると新しいたすきを足してお礼に来ていました。

お地蔵様の内訳を説明している図
140127kama26.jpg


首なしのお地蔵様
140127kama27.jpg


「寿和婦貴尊」と書いてある。
140127kama28.jpg


本堂前に立派な葵の紋が入った石灯篭が左右に二基ありました。
140127kama29.jpg


140127kama30.jpg


そういえば山門前にもあったな、と思い見に行くとやはり二基ありました。
140127kama31.jpg


そして、傍にこんな碑が。
140127kama32.jpg


裏の説明:
今から二百六十余年前正徳年間に、江戸の芝増上寺徳川家霊廟に当時の諸大名が献灯したもの。
その後、世代の変化により西武鉄道が保管するところとなり、昭和51年5月に西武園に保管中の四基を寄進した。
そういえば、狭山不動尊に行ったときに、ものすごい数の灯篭を見ました。あの一部ということですね。

鐘楼
前の躑躅と背後の銀杏とで、季節には良い眺めとなるのが偲ばれる。
140127kama33.jpg


横に豊川稲荷がありました。
140127kama34.jpg


鎌倉街道は長久寺の山門前から北に曲がりお寺の墓地の西側の坂を上って行きます。切り通し状に登っていく道は如何にも鎌倉街道らしい雰囲気が感じられる道です。
140127kama35.jpg


西武線の踏切を渡り
140127kama36.jpg


道沿いのフクロウとゴリラの置物に心を休め
140127kama37.jpg


ものすごく大きく実った「??」に感心し
140127kama38.jpg


「旧鎌倉街道」の標識沿いに歩いていきます。
140127kama39.jpg


140127kama40.jpg


旧鎌倉街道の説明板
140127kama41.jpg


旧鎌倉街道を進んでいくと、実蔵院が見えてきました。

野老山・実蔵院ところさん じつぞういん)
住所:埼玉県所沢市元町20-15

脇の入り口があります。
140127kama43.jpg


脇の入り口から振り返った旧鎌倉街道。見事に直線です。
140127kama44.jpg


山門前の銀杏
140127kama45.jpg


山門には「ところざわ:野老澤」の地名を表す「野老山」の山号が掛けられています。
この野老とは、現在の所沢の古い名称。
140127kama46.jpg


140127kama47.jpg


寺歴については、宝暦3年と文政7年の2度の大火で、古文書、縁起類、一切烏有に帰して詳らかでないが、戦前供出した古半鐘には、正平7年新田義興によって開基されたとの銘があった。現在の本堂は、嘉永3年に再建され、本尊は大日如来、同本尊の脇侍として、聖観世音菩薩が安置されている。
なお昭和29年本堂の修繕及び庫裡の改築が行われた際、貞治4年(1365)8月8日武蔵野三十三観音霊場第9番実蔵院建立の弥陀一尊種子板碑、應永11年(1424)2月2日建立の弥陀一尊種子板碑、並びに享徳3年(1454)9月30日の金箔押 弥陀三尊種子板碑が発見され、保存されている。

境内
140127kama48.jpg


本堂
140127kama49.jpg


梵字で経文を彫りこんだ「百万遍供養塔」
140127kama50.jpg


参道の右側に「毘沙門天」がありました。
140127kama51.jpg


140127kama52.jpg


三ヶ島葭子氏の墓がこの寺にあり、彼女が嫁いだ倉片家の墓に眠っていることが、事前に調べてわかっていました。
詣でたく思っていましたが時間が無く、後日に回しました。
三ヶ島中氷川神社の宮司の家に生まれたそうで、三ヶ島中氷川神社の境内に歌碑があり、そこで知ってから北野天神などで碑に出会ったので、関心を持ちました。
与謝野晶子の門下となり、上京後、「アララギ」「日光」「青鞜」などにも作品を発表。島木赤彦の門下となり、今井邦子や原阿佐緒とともにアララギ女流の新鋭と期待されていましたが、40歳にて死去しています。
生涯で6000首以上の短歌を残したといいます。
名優「左卜全」の異母姉でもあります。


(続く)


「続き」に飛ぶ


「歴史クラブ行事記事一覧」に飛ぶ



旧鎌倉街道上つ道「東村山駅から航空公園駅まで」(その一)

20140126

1月24日(金)に歴史クラブの行事で、歩きました。
歩いたコース
140126kama00.jpg


西武新宿線東村山駅を9時に出発。
少し歩くと、「久米川少年野球場」のフェンスに「鎌倉古街道」の掲示がありました。
140126kama01.jpg


ここに書かれていたのは、文永八年(1271)の日蓮上人佐渡流刑の際に立ち寄った「久米川宿」、元弘三年(1333)の新田義貞鎌倉討幕の「久米川古戦場」が沿道にあった。

これが鎌倉古街道
140126kama02.jpg


白山神社
住所:東京都東村山市久米川町4-41-2
140126kama03.jpg


狛犬
顔が判別できないほど溶けてしまっています、かろうじて流れ尾型とわかる。
140126kama04.jpg


140126kama05.jpg


鳥居
140126kama06.jpg


鳥居をくぐると炎尾型の新しい狛犬が鎮座。
140126kama07.jpg


140126kama08.jpg


社殿の中には、古い本殿が安置されていました。
140126kama09.jpg


祭神は、白山比咩神(しらやまひめのかみ)、別名菊理媛神 (くくりひめのかみ)。
何も説明が無いので、推定。

境内に牛頭天王のお堂があります。
140126kama10.jpg


牛頭天皇の像
140126kama11.jpg


足元に、誰かが制作した像が。
140126kama12.jpg


牛頭天王は頭に牛頭をいただいた像で、通称は「天王さま」として知られ、日本の神仏習合における神で、素盞鳴尊を同体とされています。疫病除けの神として知られていますが、家内繁栄や招福の神としても信仰されました。有名な京都の「祇園祭」も「天王さま」の祭りです。
この白山神社の牛頭天王像は高さ67cm程ですが、石造丸彫座像としては極めて珍しく、武蔵野地域には類をみない優れた忿怒相の石仏です。
胸には「信心者 当病除」と造立者の願いが彫られ、また台石には「村内安全」の文字とともに文政2年(1819)に北久保忠蔵が願主となって造立したことが刻まれています。 地域の言い伝えによると、この像はもともと白山神社にあったものではなく、明治の初め頃に井戸の中から発見されたそうですが、願主の北久保忠蔵の名は近くの「普門品供養塔」にもみえており、当時のこの地域の有力者であったようです。(東村山市教育委員会掲示より)

ここから旧鎌倉街道は、西武線と並行しています。
140126kama13.jpg


熊野神社
住所:東京都東村山市久米川町5-13-1

社号標
140126kama14.jpg


熊野神社の創建年代は不詳。旧鎌倉街道の役道に鎮座し元弘年間久米川の合戦の時新田義貞後詰を置いた所。明治4年村社に列せられた。
境内から応永三十二年(1425)銘の青銅製鰐口と水鳥形香炉が発見されていることから鎌倉・室町時代から社殿が存在していたと考えられる。
明治14年本殿落成の折有栖川熾仁親王の直蹟二軸を賜り毎年祭例にこれを掲げている。(境内掲示より)

鳥居の前に、川は流れていませんがわざわざ「神橋」を置いていますね。
140126kama15.jpg


参道
140126kama16.jpg


左右に年代が古いと思われる石灯篭。
140126kama17.jpg


中台四方の波の彫刻がいい。
140126kama18.jpg


基礎に狛犬の彫刻があるが、右側のはもはや判然とせず。
140126kama19.jpg


左側のが、やっと判る感じ。
140126kama20.jpg


明治14年奉納の、渦巻き尾型の狛犬。
140126kama21.jpg


140126kama22.jpg


手水舎
140126kama23.jpg


拝殿
140126kama24.jpg


140126kama25.jpg


祭神は伊邪那岐神、伊邪那美神、天照大神。

神紋は「右三つ巴」
140126kama26.jpg


拝殿の後ろに、離れて流れ造りの本殿があります。
140126kama27.jpg


140126kama28.jpg


境内社は、まず稲荷神社。
140126kama29.jpg


神名宮
ご祭神は天照大御神。
140126kama30.jpg


御嶽神社
ご祭神は大己貴命、少彦名命」、国常立尊。
140126kama31.jpg


伊勢神宮
ご祭神は天照大御神。
140126kama32.jpg


境内に久米川の冨士塚があります。
140126kama33.jpg


140126kama34.jpg


140126kama35.jpg


山頂に富士浅間社の石祠があると、麓の市教育委員会の掲示には書かれているが、山頂に上がってみると無残にもその断片が散らばっている。
140126kama36.jpg


山頂から境内を見下ろす。
140126kama37.jpg


周りの景色
140126kama38.jpg


旧鎌倉街道から梅岩寺の入り口。
140126kama39.jpg


ここに「梅岩寺の庚申塔」と「馬頭観音の石碑」があります。
左側が延宝五年(1677)の庚申塔。
140126kama40.jpg


梅岩寺には欅の大木が林立している。
140126kama41.jpg


梅岩寺
住所:東京都東村山市久米川町5丁目24−6

山門
140126kama42.jpg


140126kama43.jpg


1651年(慶安4)阿山呑碩和尚に中興開山されたといいます。

ケヤキ(都天然記念物)、カヤ(市天然記念物)が山門の左右にあり、それぞれの樹齢が約700年、600年といわれています。

ケヤキ
140126kama44.jpg


140126kama45.jpg


カヤ
140126kama46.jpg


140126kama47.jpg


140126kama48.jpg


参道の左右に、四国霊場巡りと同じ功徳が得られるという新四国石仏が並んでいます。
140126kama49.jpg


本堂に向かって左側山門側から、四国霊場一番寺から順に並んでいます。
140126kama50.jpg


右側本堂側から順に並び、八十八番寺まで。
140126kama51.jpg


最初弘法大師の像があり、それから一番から並んでいる。
140126kama52.jpg


途中15番から18番
140126kama53.jpg


途中82番から84番
140126kama54.jpg


86番から88番で結願です。
140126kama55.jpg


本堂
140126kama56.jpg


本堂向背正面に「波に菟」の彫刻がある。珍しい。
140126kama57.jpg


境内に、不動明王と二童子像がありました。
140126kama58.jpg


140126kama59.jpg


(続く)


「続き」に飛ぶ


「歴史クラブ行事記事一覧」に飛ぶ


止め天神(北野神社)/大田区六郷

20140123

住所:東京都大田区仲六郷4-29

1月17日、「武蔵国式内社」めぐりで蒲田の薭田神社にお参りした後、京急蒲田駅より京急で「六郷土手」に来ました。目指すは「六郷神社」です。
その前に、せっかくだから多摩川でも眺めようと、土手に向かったときに、このお宮さんに出会いました。

鳥居の横に、「六郷の渡し跡」の案内板も立っています。
140123tome01.jpg


旧東海道の江戸と川崎の間の渡しですから、有名です。

歌川広重の「東海道五拾三次」から
保永堂版「川崎 六郷渡舟」
140123tome02.jpg


隷書版「川崎」
140123tome03.jpg


二代歌川広重も 「川崎(六郷渡し)」で六郷渡しから川崎宿に渡る大名行列を描いています。
140123tome04.jpg


私にとっては、「居眠り磐音江戸双紙 38巻」での舞台ですね。
佐々木道場の養子となった磐音は将軍家治の世子家基の指南役も務めたが、田沼意次は英邁な家基が次期将軍となると、自分の支配は終わると考え、家基を暗殺。将軍家の陰の警護役佐々木道場は潰され、養父母佐々木玲圓とおえいは自害。磐音とおこんは江戸を逃れる。各地で田沼意次の刺客と死闘を重ねたが、その旅で尾張徳川家の重臣と藩主、紀州徳川家重臣と藩主とも知り合い、御三家藩主の後ろ盾を得た磐音が、捲土重来いよいよ江戸に戻ってくる。
鉄砲隊まで用意して、六郷の渡しで待ち構える田沼意次配下の前に現れたのは、弥助と霧子に守られた磐音夫妻と子供・・・・・。
と思いきや、それは品川柳次郎と夫婦であった(笑)

今は、旧東海道にあたる第一京浜が渡る「六郷橋」となっています。
140123tome05.jpg


橋のすぐ上流側はゴルフの練習場。
140123tome06.jpg


下流側は野球のグランド。
140123tome07.jpg


遠くにかすかに見えているので、望遠で見ると産業道路にかかる美しい「大師橋」が見えます。
140123tome08.jpg


六郷橋のたもとには、沢山の鳩が日向ぼっこしてました(笑)
140123tome09.jpg


さて、止め天神に戻ります。
この前を通りかかって、「止め天神」とあるので、何だろうと思って寄りました。
140123tome10.jpg


ちょっと入ったところに、由緒を書いた石碑があり、読んで驚きましたね。
小っちゃなお宮なのに、大したものです。
140123tome11.jpg


140123tome12.jpg


江戸幕府第 8 代将軍徳川吉宗の乗馬が暴走した際に落馬を止めたことから、東海道を往来する武士から「落馬止め天神」と称されるに至り、この加護にあやかり将軍指南役の柳生家留守居役が近くに屋敷を構えた。農民や町民は「止め天神」とのみ呼んだという。天満宮本来の学問のみならず、災いや痛みを止め、「落ちない」ことを祈願する者の参拝を受ける。毎月 25 日を縁日とし、この日には、木馬にまたがり祈願する江戸時代から伝わる神事が執り行われている。
本殿、神楽殿各一棟。1945年4月15日の空襲により社殿が焼失し、1684年(貞享元年)の寄進による手水石が往時を伝える。1983年(昭和58年)再興。

鳥居
140123tome13.jpg


手水舎
前に横たえてあるのが、多摩川の六郷の渡しへ導く河原橋の踏み石。
140123tome14.jpg


昭和9年奉納の、炎尾型狛犬。
140123tome19.jpg


140123tome20.jpg


社殿
140123tome21.jpg


140123tome22.jpg


140123tome23.jpg


140123tome24.jpg


祭神は菅原道真公

帰ってから調べると、小さなお宮さんだというのに立派なサイトが出来ていました。
http://www.rokugo.or.jp/tome/

名にし負う「六郷の渡し」ですからね。熱心な郷土史家など色々な方が見守っているのでしょう。

「鶴さん」、「亀さん」と名付けられた力石。
140123tome25.jpg


参道左手には、平癒塚・止め塚・學成就塚をめぐる「天神様の細道」があります。
140123tome26.jpg


140123tome27.jpg


140123tome28.jpg



いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


薭田神社(延喜式内論社)/大田区蒲田

20140122

住所:東京都大田区蒲田3-2-10

久が原駅から蒲田駅に戻り、駅前で昼食にラーメンを食べ、そこから歩いて10分ほどで当社に着きました。

社号標
「ひえだ神社」の『ひえ』は『薭』が正式漢字です。
式内社、武蔵国荏原薭田神社、郷社
140122hieda01.jpg


薭田神社の社伝によると、709年(和銅2年)に僧行基が天照、八幡、春日の三神を造り神殿に安置したのが創期と伝わっています。
斎場としての歴史はさらにさかのぼり、第11代垂仁天皇の御宇神地神戸をお定めになって天神地祇を崇敬し給いし霊地とも伝えられ、この地に集落ができるとともに成立した蒲田創草の古社であります。
武蔵国荏原郡の郷名には蒲田郷の地名が平安時代以前からあり、延喜式神名帳の以前に編纂された歴史書「三代実録」に、「貞観6年8月14日戌辰に詔して武蔵国従五位下蒲田神を以って官社に列す」とある様に、当初の社名は「蒲田神社」でありました。「蒲田神社」が延喜式神名帳に「薭田神社」と記載されたのは、「新編武蔵風土記稿」によると、幕末の国学者栗田寛は「蒲」という漢字の古体字を、「薭」と誤写しそのまま後世に伝えられ、神社に地名を使用しているとは思わずに別当の栄林寺の僧が、神祇管領の吉田家に神社名を「薭田神社」と申請して許可を得たためこの社号が成立したと云われています。

参道入口の石鳥居(大田区指定文化財)は、寛政十二年(1800)に北蒲田村の氏子により寄進されたものである。
140122hieda02.jpg


140122hieda03.jpg


神社境内参道の左側には、由緒が記された大きな石標が1956年に建立されています。
140122hieda04.jpg


140122hieda05.jpg


ちょっと進むと右手に大きな梅の木があり、「鹿児島紅」と銘札が下がっていました。
140122hieda06.jpg


丸いつぼみが膨らみかけ、一つ、二つ咲いているのもありました。
140122hieda07.jpg


140122hieda08.jpg


参道の様子
140122hieda09.jpg


手水舎
140122hieda10.jpg


大きな自然石の手水鉢
140122hieda11.jpg


狛犬は渦状「前髪」で尻尾も渦を巻いて左右に流れています。
年号が「鎮座千二百五十年」とあります。西暦だと1250年は、鎌倉時代・建長2年にあたります。
あるいは、由緒にある鎮座709年から、1250年記念の意味かもしれません。
それだと1959年となります。
140122hieda12.jpg


140122hieda13.jpg


拝殿
平成十二年に新築された社殿(鉄筋コンクリート造)
御祭神は誉田別命、天照大神、武内宿称命、荒木田襲津彦命、春日大神。
140122hieda14.jpg


140122hieda15.jpg


140122hieda16.jpg


神紋は「右三つ巴」
140122hieda17.jpg


拝殿、幣殿、本殿となっています。
140122hieda18.jpg


社殿の左に、手前から「白加賀」、「しだれ桜」、「紅梅」が並んでいます。
140122hieda19.jpg


本殿
140122hieda20.jpg


ここでも紅梅が少しほころんでいます。
140122hieda21.jpg


140122hieda22.jpg


社殿の右に境内に合祠されている三社が並んでいます。
140122hieda23.jpg


三十番神社というのは、私は初めてでした。
ここには、法華三十番神が祀られています。
140122hieda24.jpg


140122hieda25.jpg


140122hieda26.jpg


三十番神とは、日本全国の神が、一ヶ月三十日間交代で仏教守護をおこなうという思想による三十柱の善神。
神仏習合時代の名残りですね。
三十番神には以下の十種類があるという。
一 天地擁護の三十番神
二 内侍所の三十番神
三 王城守護の三十番神
四 吾が国守護の三十番神
五 禁闕(宮廷)守護の三十番神、真言系の両部神道本迹神道家の所伝
六 法華守護の三十番神、天台宗伝教大師が祭祀
七 如法守護の三十番神、慈覚大師入唐後に勧請
八 法華経守護の三十番神、日蓮が伝教大師・慈覚大師の配神を誤りとして選定
九 仁王経守護の三十番神、南楽坊良正が勧請
十 妙法経守護の三十番神、慈覚大師入唐以前に勧請
ここで、30の神を挙げたら長くなるので、ここでは省略します。

稲荷神社
140122hieda27.jpg


140122hieda28.jpg


薬祖神社(やくそじんじゃ)も、私は初めてです。
140122hieda29.jpg


薬祖神社は、堺市堺区にある菅原神社の摂社であり、そこから勧請されたものか。
通称「神農さん」(しんのうさん)。
祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと)、神農大神(しんのうのおおかみ)を祀る。
また、神農大神は、湯島聖堂の神農廟でも祀られています。こちらからかも知れない。

狛犬
140122hieda30.jpg


140122hieda31.jpg


狛犬の台座に「扶翼」と「皇運」とあり、珍しかったので帰ってから調べてみました。
すると、明治天皇の教育勅語に、「皇運(こううん)ヲ扶翼(ふよく)スベシ」とあることがわかりました。

社殿
140122hieda32.jpg


「天祖神社」碑
祭神は天照大御神となります。
140122hieda33.jpg


「山野神社合祀」碑
祭神は大山祇命(おおやまつみのみこと)となります。
140122hieda34.jpg


鳥居からちょっと入ったところの木が気になっていたので、また見に行きました。
根がすごい。
140122hieda35.jpg


140122hieda36.jpg


すると、根元にこういう石標が立っています。
140122hieda37.jpg


木を十本献納された方ですが、「匿名崇敬婦人」となっています。
「ふうーーん」と思いながら境内を歩いていると、今度は百日紅のところに、絵も入った木の札が立っています。
やはり「匿名」となっている。
140122hieda38.jpg


140122hieda39.jpg


たぶん、どちらの方も献木だけでなく、色々な活動で熱心に奉仕されているのでしょう。
それで石標とか木札の話になったときに、「名前を出すのは・・・・・」としり込みされて、こういう風になったのかな、なんて思いながら、気持ちいい気分で、このお宮さんを後にしました。


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html




久が原西部八幡神社(延喜式内論社)/大田区久が原

20140121

住所:東京都大田区久が原4-2-7  

久が原東部八幡神社から、北西300mのところにある西の八幡さまに向かいました。
道から石段で上がります。
140121kuga01.jpg


社号標
式内論社、武蔵國荏原郡・稗田神社
140121kuga02.jpg


由緒:
神護元年九月(七六五年)豊前の国 宇佐八幡宮の御分霊を勧請。 武蔵の南端久が原台地(弥 生時代の集落地)の住民の鎮守として、尊崇せられ、徳川入国以来 久我原は二分され、当 社は六郷領鎮守となり 明治六年(一八七三)村社に指定された。旧社殿(銅萱葺権現造)五二、 八九平方米は、文化七年七月約百七十年(一八一〇)前の御造営にして、長年月を経しにより 、諸所に朽損の箇所多く 今度氏子の奉賛により 新しく社殿が御造営され 且つ篤志 家の奉納により 手水舎をはじめ境内工作物 殿内調度備品等一切が完備した。 
-境内由緒石碑-

階段を登ると鳥居がある。昭和54年建立と新しい。
140121kuga03.jpg


140121kuga04.jpg


鳥居から見下ろすと、ずっと下りが続いている。この辺の最高地点。
140121kuga05.jpg


鳥居からの参道正面に美しい朱塗りの社殿がある。
140121kuga06.jpg


右手に手水舎。
140121kuga07.jpg


昭和五十四年建立と、新しい炎尾型狛犬。
140121kuga08.jpg


140121kuga09.jpg


拝殿は入母屋造銅板葺き。本殿共に昭和五十四年に造営されたコンクリート造。
140121kuga10.jpg


御祭神は譽田別之大神

各所、現代的なデザインです。
140121kuga11.jpg


140121kuga12.jpg


140121kuga13.jpg


こちらの神紋も同じく「右三つ巴」だが、かなり流水系ですね。
140121kuga14.jpg


拝殿の後ろに流れ造りの本殿。
140121kuga15.jpg


140121kuga16.jpg


140121kuga17.jpg


本殿の右手に境内社の稲荷神社(宇迦之魂大神)があるが、社殿が昔の本殿だとのことです。
140121kuga18.jpg


まずは新しい狛狐
140121kuga19.jpg


140121kuga20.jpg


落ち着いた感じの昔の狛狐
140121kuga21.jpg


140121kuga22.jpg


社殿
140121kuga23.jpg


140121kuga24.jpg


向拝正面蟇股(かえるまた)の龍
140121kuga25.jpg


向背柱の獅子
140121kuga26.jpg


社殿左右の小脇板。下部は波が、上部は雲が見え、登り竜と降り竜が社殿を護っています。
140121kuga27.jpg


140121kuga28.jpg


金網の隙間から覗き込むと、初期の流れ造り。
140121kuga29.jpg


階段の上の柱と、回廊四方の擬宝珠柱の天辺に、なにかがいます。
140121kuga30.jpg


140121kuga31.jpg


わりとマトモなのを発見。獅子ですね。他は風化してしまっていたんですね。
140121kuga32.jpg


稲荷社の前に、脇の入り口があります。
140121kuga33.jpg


そこの門柱の上に、昔は本殿の前にあったであろう、流れ尾型狛犬が鎮座していました。
台座が無いため、年代はわかりませんが、明治あたりではないかと。
140121kuga34.jpg


140121kuga35.jpg


神楽殿
140121kuga36.jpg


拝殿の左手にあった力石(歓喜石)。
140121kuga37.jpg


その横には「三角点」
三等三角点「久我原」は明治35年(1902)に、境内で現在地より21m東北に設置された。
140121kuga38.jpg


最後に、高台の境内からまわりを眺めて、当社を後にしました。
140121kuga39.jpg



いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


久が原東部八幡神社(延喜式内論社)/大田区久が原

20140120

住所:東京都大田区久が原2-18-4  

「武蔵国式内社めぐり」は、前回までで「入間郡」の延喜式内社5坐に比定されている、式内社・式内論社9社を全て廻りました。
それで今回から、私が持っている「武蔵国式内社リスト」の最初からしばらく廻ろうと思いました。
17日(金)に、「荏原郡・二座」のうち「稗田神社」に比定されている式内論社5社のうち4社を廻りました。

まず最初に行ったのは、私の持っているリストでは「久が原八幡神社」ですが、調べてみると現在東部と西部の二つの神社に分かれていました。両方にお参りします。

蒲田で、池上線に乗換え久が原で降ります。
歩いて10分ほどで到着。
宮坂と呼ばれる坂道を上がります。
140120kugahara01.jpg


坂を上がりきると、境内があります。
「鎮守さま」という感じですね。
140120kugahara02.jpg


坂の途中に石段と鳥居があるので、ちょっと戻ってそこから入ります。
社号標
式内論社、武蔵國荏原郡・薭田神社比定、旧村社
140120kugahara03.jpg


久が原には二つの八幡神社があり、当社は東の八幡さま。正式名はともに「八幡神社」で鳥居の扁額にも「八幡神社」とあるが、区別のため、東にある当社は久が原東部八幡神社と呼ぶ。

社伝によると、天平神護元年九月(765)、豊前国宇佐八幡宮の分霊を勧請し、武蔵の南端久が原台地の住民の鎮守として祀られたという。
その後、徳川氏が入国に際して、久が原は東側の馬込領と西側の六郷領に二分されてしまい、当地の八幡神社も、馬込領鎮守の八幡神社(当社)と、六郷領鎮守の八幡神社(久が原4丁目鎮座)に別れてしまい、祭祀も別々の氏子によって行われているようです。

石段の上に鳥居がある。平成16年建立と新しい。
140120kugahara04.jpg


140120kugahara05.jpg


鳥居をくぐると、左手に手水舎
140120kugahara06.jpg


水が綺麗でした。きちんと管理がされているのが嬉しい。
140120kugahara07.jpg


炎尾の狛犬。年号が明治の下がはがれてしまっていてわかりません。
140120kugahara08.jpg


140120kugahara09.jpg


拝殿前の左右に銅製の天水桶。
140120kugahara10.jpg


拝殿前に大きな木がある。
140120kugahara11.jpg


140120kugahara12.jpg


拝殿
140120kugahara13.jpg


向背の龍の彫刻
140120kugahara14.jpg


向背柱には、獏、獅子、霊亀のそろい踏み。
140120kugahara15.jpg



御祭神は誉田別命。
神紋は「右三つ巴」
140120kugahara16.jpg


拝殿の後方には本殿がある。
140120kugahara17.jpg


本殿は、新しく覆い屋の感じです。
140120kugahara18.jpg


140120kugahara19.jpg


神楽殿
140120kugahara20.jpg


拝殿の傍らに、扁額、瓦、灯篭などが集められていた。
灯篭の年号が文化九年(1869)となっているので、本殿、拝殿の改修工事前のものだろう。
140120kugahara21.jpg


ちなみに由緒書きでは、本殿は切妻造、千木、鰹魚木付、銅板葺、弘化元年(一八四四)再建、拝殿は入母屋造、銅板葺、唐破風向拝付、文久二年(一八六二)竣功となっている。

末社の稲荷神社
140120kugahara22.jpg


境内に明治天皇の御製歌碑があった。
「千早ふる神のひらきし道をまた ひらくは人のちからなりけり」
140120kugahara23.jpg


140120kugahara24.jpg



いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


歴博フォーラム「初春の馬」

20140119

昨日、毎年新橋のヤクルト・ホールで行われる、国立歴史民俗博物館の干支にちなむフォーラムに行ってきました。
140119rekihaku01.jpg


【開会の挨拶】
国立歴史民俗博物館長の平川南氏から、あいさつもそこそこに「馬の戸籍」についての報告がありました。

人の戸籍に関しては、最古のもので『日本書紀』での540年(欽明元年)八月の条「秦人(はたひと)・漢人(あやひと)等、諸蕃(しょばん)より投化せる者を招集して、国群に安置し、戸籍に編貫す。秦人の戸数七千五十三戸、大蔵掾(おおくらのじょう)を以て、秦伴造(はたのとものみやつこ)となす」
全国的では、『日本書紀』に670年(天智9)二月条に「戸籍を造り、盗賊と浮浪とを断ず」とみえる。これが日本で最初の全国的な戸籍で「庚午年籍」とされる。

馬も人と同様に重要視されていて、発見された最古の戸籍は大宰府の国分松本遺跡で発見されたもの。
使用されている地名から、701年よりも前であることが確か、7世紀の終り頃という。
その他4例と一緒に説明された。
140119rekihaku02.jpg


140119rekihaku03.jpg


ここからの報告は、豊富な図像で説明がありました。帰ってから記憶を頼りにネットで探して手に入ったもので記事としています。なので、私がここで掲載している図像は報告されたものと違う場合があります。

【報告1.古代東アジアの馬】
国立歴史民俗博物館研究部考古研究系・准教授 上野祥史氏

日本に馬が入って来たのは古墳時代であり、さきたま古墳などの馬具の発掘調査研究を「さきたま講座」で受けました。
その記事は下記をクリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1334.html

この報告では、古代東アジア世界における馬の姿、日本列島に渡来する前後の様子を説明するものでした。
馬の利用は馬車とともに殷代に突如として始まる。
「干戈を交える」の戈は、戦車戦に使用した長柄の武器。
中国の王や貴族の墓には、馬と馬車を殉葬させた「車馬坑」が発掘されている。

約3000年前の、西周車馬坑遺跡の車馬坑。
発掘された車馬や装飾品を見ると、三千年前の金属工、木工、皮革などの手工業技術が十分に発達していたことがわかる。
140119rekihaku04.jpg


始皇帝陵に葬られた兵馬俑のうち、車馬、あるいは戦車を引く馬と御者など
140119rekihaku05.jpg


戦国時代・秦国の最古の騎兵俑
秦の都・咸陽東北郊の下級武士のものと思われる墓から出土。この頃は足をかける鐙はまだなく、裸馬や鞍を置いた馬に足をぶらさげてまたがる乗馬が行われていた。
140119rekihaku06.jpg


当初は、胡服を着て馬に乗り弓を射るのは、夷狄の習俗であった。こそれが戦国時代と時代が下がり、ただの騎馬ではなく、騎兵として遊牧民の新しい兵法が採用された。
140119rekihaku07.jpg


戦車ではなく、上層階級の乗り物としての馬車。
140119rekihaku08.jpg


三国志の時代である三世紀末ころに権力の象徴として「飾り馬」文化が起こり、それが朝鮮半島を経由して、馬の渡来と一緒に「飾り馬」文化が日本列島に入ってきて、現在各地の古墳から装飾的馬具が発掘されている。


【報告2.馬の造形】
国立歴史民俗博物館研究部情報資料研究系・教授 日高薫氏

最古の騎馬の造形「騎馬埴輪」
太田市高林西原古墳出土の埴輪
140119rekihaku09.jpg


法隆寺献納宝物で、「銅製竜頭水瓶」に有翼馬(ペガサス)を描いたものが説明されて、面白かったが図像はネットで探したが手に入らず。

「伴大納言絵巻」 平安時代
これは上巻の冒頭、詞書も無く、いきなり馬で駆ける検非違使(けびいし・現在の検察・警察官)や、それらの下部が走る姿が描かれている。
140119rekihaku10.jpg


「随身庭騎絵巻」 鎌倉時代
平安末期および鎌倉中期の随身の騎馬または徒歩の姿を描いたもの。「はね馬:後ろ足で立ち上がる馬」や「よせ馬:前脚二本でつんのめる馬」など。
140119rekihaku11.jpg


賀茂別雷神社(上賀茂神社)の神事である競馬会神事を描いた一双屏風。江戸時代
140119rekihaku12.jpg


久隅守景作、「賀茂競馬・宇治茶摘図」(重文)の部分
140119rekihaku13.jpg


前九年合戦絵詞
140119rekihaku14.jpg


絵馬では、「北野天神絵馬」が説明された。
曳馬図絵馬(部分) 曽我直庵 筆、絹本著色装 豊臣秀頼公奉納 桃山時代。
画家は桃山時代の有力な画家で、記録によると豊臣秀頼が武運長久を祈願して奉納したもの。
140119rekihaku15.jpg


印籠
有名な「宇治川の先陣争い」を描いたもの。
140119rekihaku16.jpg


馬をデザインした刀の鍔
140119rekihaku17.jpg


140119rekihaku18.jpg


140119rekihaku19.jpg



【報告3.錦絵に見る幕末・明治の馬の興行】
国立歴史民俗博物館研究部情報資料研究系・教授 大久保純一氏

維新以前、開港地横浜での居留外国人の曲馬を描いたもの。
140119rekihaku20.jpg


開化絵で良く取り上げられたのが、不忍池の周りをコースとして行った競馬を描いたもの。
いまの不忍池の形は、この競馬のために整備された形がそのまま残っているそうだ。
140119rekihaku21.jpg


140119rekihaku22.jpg


140119rekihaku23.jpg


怪力で知られた近江のお兼を描いたもの。
140119rekihaku24.jpg


140119rekihaku25.jpg



【報告4.馬の民俗-節供の馬を中心として】
国立歴史民俗博物館研究部民俗研究系・准教授 山田慎也氏

正月7日の「白馬節会」
宮廷の行事だが、現在賀茂別雷神社、鹿島神宮、住吉大社などで行われている。
鹿島大社の「白馬祭」。「鹿島立ち」で有名。
140119rekihaku26.jpg


団子馬
香川県西部の民俗。
男の子が生まれると、初めて迎える八朔の日に子供の母親の実家などから贈られる。
大形になると、米粉を15キロくらい使って作る。
140119rekihaku27.jpg



【報告5.ウマの伝承】
国立歴史民俗博物館研究部民俗研究系・教授 小池淳一氏

初午
稲荷神社の祭祀として、初午の縁日。

端午の節句
端午は本来月の初めの午の日だったが、いつの頃からか5月5日になってしまった。

山の神
東北地方の民俗信仰で、「遠野物語拾遺」では、出産に際して山の神がやってこないとこどもが生まれない、というので馬の背に荷鞍を置いて、迎えにいく。
淡島神社には、お産の時に来てもらうようにふだんから女性が木馬を奉納している。

馬頭観音
もともとの仏教上の位置づけとは別に、馬が生活の上で貴重で大切にされたので、馬の安全を祈り、供養で建てられたものがほとんど。

オシラサマ
馬と娘の婚姻悲話である。
東北地方には、おしら様の成立にまつわる悲恋譚が伝わっている。それによれば昔、ある農家に娘がおり、家の飼い馬と仲が良く、ついには夫婦になってしまった。娘の父親は怒り、馬を殺して木に吊り下げた。娘は馬の死を知り、すがりついて泣いた。すると父はさらに怒り、馬の首をはねた。すかさず娘が馬の首に飛び乗ると、そのまま空へ昇り、おしら様となったのだという[2][6]。『聴耳草紙』にはこの後日譚があり、天に飛んだ娘は両親の夢枕に立ち、臼の中の蚕虫を桑の葉で飼うことを教え、絹糸を産ませ、それが養蚕の由来になったとある。以上の説話から、馬と娘は馬頭・姫頭2体の養蚕の神となったとも考えられている。



アカニシ(赤螺)

20140116

科 目 :あっきがい科(2)
収拾者 :父
採取場所:不明
採取日 :不明

140116akanishi01.jpg


140116akanishi02.jpg


Wikiからをメインに説明:
アカニシ Rapana venosa (Valenciennes, 1846) は、内湾を中心に比較的浅い海に生息する中型の巻貝。北海道南部から、台湾、中国にかけて生息する。
アクキガイ科に属し、ホネガイなどと同じ仲間。最大で15cmを超える物もあり、殻口が赤く染まる事で赤螺(あかにし)の名前がある。漁師などは略して「にし」と呼ぶ。柳川市など有明海では「けっぷ」、「こーげ」、「まるげ」などと呼ぶ。

肉はサザエに近い味で、サザエよりも美味しいらしく、居酒屋などではサザエの殻の中に、アカニシの肉を入れてサザエの刺し身として売っていたりすることもあるらしい。

肉食性で養殖のアサリやカキを食い荒らす貝として関係者を悩ませることもしばしばある。

140116akanishi03.jpg


140116akanishi04.jpg


140116akanishi05.jpg


140116akanishi06.jpg


140116akanishi07.jpg


140116akanishi08.jpg


志賀直哉は貝が好きだったらしくて、貝の名前を主人公にして小説『赤西蠣太(あかにしかきた)』を書いています。
1918年(大正6年)9月に『新小説』に発表。伊達騒動を下敷きにしている。1936年、片岡千恵蔵プロダクションにより同名で映画化された。テレビドラマ化は1961年、1968年、1999年の3度行われている。特に1999年のドラマは、映画版の脚本を用いて市川崑が監督をつとめた。
あらすじ:
白石城主・片倉景長から伊達兵部・原田甲斐らの悪事を探るため派遣された間者・赤西蠣太は醜い顔立ちの上胃弱、しかし大変お人よしである。おおよその事を調べ終えた彼は国許へ戻ろうとするが、正式に暇をもらおうとして故障を言われると困るので、夜逃げを企てる。ただ夜逃げするのにそれなりの理由がないと怪しまれてしまうため、美人と評判の腰元・小江(さざえ)に恋文を送る。こっぴどくふられるはずだったが、なんと小江は求愛を受け入れてしまう。蠣太は小江の清い心を傷つけたことをいたずらにつかおうとしたことを後悔する。さらに人目に触れるようにと廊下に置いていた手紙は老女・蝦夷菊に拾われて、彼の手元に返される。仕方なく、老女に置手紙を残して脱走する。






ロビ第40号&41号組立/ロボット「ロビ」

20140115

【第40号】

第40号で紹介されているロボットは、名古屋工業大学梅崎研究室が愛知万博のために開発した、鬼ごっこロボット「アスカ」
140105robi01.jpg


当初は美術館や博物館での監視や警備のためのロボットとして開発された。しかし2005年の愛知万博に出展するために、より身近な存在としてアピールするため「鬼ごっこロボット」にした。
日進月歩のロボットの世界で、今なお8年もの長きにわたって活躍しているロボットは珍しい。


今回使用するパーツ
140105robi02.jpg


今回の作業
① すねのパーツを取り付ける
140105robi03.jpg


140105robi04.jpg


② サーボケーブルに保護シールを貼る


完成状態
140105robi05.jpg



【第41号】

第41号で紹介されているロボットは、(株)小川優機製作所が開発した、壁面走行作業ロボット「吸盤戦士のぼる君Ⅱ」。
140115robi01.jpg


タイルが張られた平らではない壁面を登り降りすることができる。
本体を持ち上げるのは建物の上に設置したウインチ。壁面に吸い付く力は大型吸盤が受け持つ。2個一組でベルトのように巻かれている合計28個の吸盤があり、壁に吸着しているのは常時4組(8個)。
ウインチの動きと吸盤の動きの連動は、機械的な「からくり」によっている。このほうがトラブルが少ないという。

2008年に建築基準法が改正され、タイルなど落下によって歩行者に危害を与えるおそれのある場所については、全面打診調査が必要になった。
これに応えるのが「ゆうこさん」だ。
140115robi02.jpg


今回使用するパーツ
140115robi03.jpg


今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
140115robi04.jpg


② サーボをテストし、IDを書き込む
140115robi05.jpg


140115robi06.jpg


③ IDの書き込みを確認する
140115robi07.jpg


完成状態(左ひざ用サーボモーター)
140115robi08.jpg



縄文後晩期~ムラとまつり(祀り)の景色~

20140114

140113jomon01.jpg


昨日、13日に浦和の埼玉会館で行われた表題の発表・講演を聞いてきました。
これは東京・神奈川・埼玉三都県の埋蔵文化財関係団体が合同で行う公開セミナーで、今回は埼玉県埋蔵文化財調査事業団が主催しています。

【報告1.石を使ったムラの景観】
かながわ考古学財団・小川岳人氏報告
3500~4500年前、縄文時代中期末~後期に竪穴住居の床に石を敷いた住居が造られた。
神奈川県伊勢原市 子易・大坪遺跡
140113jomon02.jpg


140113jomon03.jpg


平面形状から「柄鏡住居」とも呼ばれる。
特別なイエではなく、一般的な住居だった。

これだけの石を集める、しかも石の配置には色とかデザイン的に考えられていたらしく、運ぶのは家族だけでは駄目で、大勢の人を集めて、遠くから良い石を運ぶという、「マツリ」であったらしい。
良い石は30Kmくらい遠方から運ばれている。
・真鶴半島で採れる「根府川石」が伊勢原市や厚木周辺で
・長瀞など荒川上流部の「結晶片岩、緑泥片岩、紅簾片岩」がさいたま市大木戸遺跡、川越市牛原遺跡などで
140113jomon04.jpg


県埋蔵文化財調査事業団が、川越市下広谷で発掘した縄文後期(約4000年前)の牛原遺跡から、床面にカラフルな石材を敷き詰めた住居跡が見つかった。最大の石は約100キロもあるが、周辺で採取したものではなく、長瀞町や小川町に産する、結晶片岩の中でも珍しい「紅簾片岩(こうれんへんがん)」が好んで使われている。
140113jomon05.jpg


説明の中でも言及されていましたが、昨年の伊勢遷宮において、神領民が奉仕する「御白石持行事」は記憶に新しい。
140113jomon06.jpg


140113jomon07.jpg


【報告2.環状盛土が現れるまで】
埼玉県埋蔵文化財調査事業団・渡辺清志氏報告
後晩期的な集落景観の成り立ちとその意味するところを説明されました。
年代順に、下記の特徴ら説明があった。
・大規模環状集落の解体と小規模拡散
・柄鏡形(敷石)住居跡
・屋外配石
・掘立柱建物跡
・袋状土壙
・水場遺構
・環状盛り土出現

縄文時代中期、後期、晩期においての「生業」、「集落景観」、「建築物」、「特殊施設」の分布が図で示されて、わかりやすくて、ありがたかった。
140113jomon08.jpg


【報告3.さいたま市氷川神社遺跡の調査結果】
さいたま市遺跡調査会・柳田博之氏報告
私は、昨年8月に全国一之宮めぐりの一環で、また10月に観月雅楽の会で、大宮氷川神社を訪れていたが、その時本殿に向かって右側に工事の大きな囲いがあって、何の工事だろうと思っていたが、これがこの発掘調査の場所だったとわかり、驚いた。
昨年8月に撮った写真。赤の矢印の場所。
140113jomon09.jpg


これは社殿建設事業に伴うもので、調査期間は平成24年4月9日から11月6日とのことなので、私が訪ねた頃は既に発掘調査は終了し、あるいは基礎工事とか社殿の建設にかかっていたのかもしれない。

この場所は、塚状盛り上がりになっていて、同じ場所に三層にわたって住居跡が発掘された。

縄文時代晩期中葉の住居跡群
140113jomon10.jpg


その下の縄文時代後期後葉の住居跡
140113jomon11.jpg


その下の縄文時代後期中葉の住居跡
140113jomon12.jpg


この塚状盛り上がりは、途切れながら馬蹄状に神社本殿を取り囲むかたちで、社叢内に存在しているそうです。

【報告4.ムラと貝塚とまつり(祀り)】
東京都スポーツ文化事業団東京都埋蔵文化財センター・西澤明氏報告
明治時代から知られている著名な貝塚「西ヶ原貝塚」での発表でした。
下記二点が報告のテーマでした。
・再葬行為を伴う葬送儀礼
・動物骨の出土状況からの儀礼的行為の想定

土坑の貝層
140113jomon13.jpg


その下から出土したイノシシの下顎骨
140113jomon14.jpg


貝層直下から出土した鹿骨で男性器を模したもの。
140113jomon15.jpg



【記念講演.縄文後晩期の時代像と地域社会】
明治大学文学部教授・阿部芳郎氏講演

いままで全縄文時代を通じて最も遺跡数が少ないことから、「生産力の限界によって発展性を失い、停滞的な社会を営んでいた」とか「生活の行きづまりを物語る」と評価されてきた。
140113jomon16.jpg


それに対して、今回の報告など最近の調査結果からわかってきたこと。
・盛り土中に住居跡がある
・住居は壁柱穴構造
・同じ場所に反復して建てる

・環状盛り土遺構の集落は1400年ほど継続した期間存在する。これは日本列島人類史上最長の期間である。
・遠隔地資源の流通があった
・祭祀が複雑化している

・人口支持力の維持機能は活性化している

栃木県寺野東遺跡の環状盛土遺構
140113jomon17a.jpg



今回の発表・講演を聞いて、この時代の全体像が整理されて、非常に有意義でした。



ポールゼンス ベター

20140112

140112porlzen01.jpg


140112porlzen02.jpg

作出:1948年、デンマーク、ポールゼン

この薔薇については、あまりデータが集まっていません。

ポールゼン作出の薔薇は初めてだと思います。
調べてみたら、白い薔薇の「エーデルワイス」とか、やはり赤い薔薇で「イングリットバーグマン」を作出しているようで、写真を見るととても良い薔薇みたいです。
私はまだこの二つの薔薇に出会ってないので、これから何処で出合うのか、楽しみですね。


2013年5月22日 谷津バラ園にて





芭蕉稲荷神社

20140110

4日に「深川七福神めぐり」をしましたが、その時に芭蕉稲荷にも寄りました。
というのが、2012年10月に「芭蕉」をキーワードの一つにして「深川散歩」をしたのですが、その時に寄らなかったからです。
深川散歩の記事(1)
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1047.html

深川参歩の記事(2)
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1048.html

芭蕉ファンにとっては聖地なのですが、ほんとに小っちゃいお稲荷さんです。
140110bashou01.jpg


140110bashou02.jpg


正面の鳥居の社額に「芭蕉庵史跡 芭蕉稲荷神社」とあります。
140110bashou03.jpg


140110bashou04.jpg


鳥居をくぐると狛狐がお出迎え。
140110bashou05.jpg


140110bashou06.jpg


社殿
140110bashou07.jpg


下がっている鈴が可愛いので、思わずニッコリ(笑)
140110bashou08.jpg


神紋は「包み抱き稲」ですね。
140110bashou09.jpg


向背柱のたもとに蛙の置物が。
もちろん、ここから発見されて芭蕉庵跡だという決め手になった蛙の置物の本物は芭蕉記念館に置かれています。
140110bashou10.jpg


社殿の横に芭蕉庵跡の碑があります。
140110bashou11.jpg


俳聖芭蕉は、杉山杉風に草庵の提供を受け、深川芭蕉庵と称して延宝八年から元禄七年大阪で病没するまでここを本拠とし「古池や蛙飛び込む水の音」などの名吟の数々を残し、またここより全国の旅にて「奥の細道」などを残しました。
ところが芭蕉没後、ここは武家屋敷となり幕末、明治にかけて滅失してしまいました。
たまたま大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府は旧跡に指定しました。

発見された石造の蛙(在芭蕉記念館、芭蕉記念館のハガキから)
140110bashou12.jpg


句碑「古池や蛙飛び込む水の音」
140110bashou13.jpg


けっこう大きな木の切り株に「さまざまなことおもいだす桜かな」
140110bashou14.jpg


近くの、芭蕉記念館の飛び地である「史跡展望庭園」に行って芭蕉翁の像に会いました。
140110bashou15.jpg


140110bashou16.jpg



像の近くに、草庵のレリーフがありました。
140110bashou17.jpg


140110bashou18.jpg


像の前から清州橋方向を眺める。
140110bashou19.jpg


隅田川の新大橋方向
140110bashou20.jpg


これで、深川での芭蕉ゆかりの地については、完結でしょうか。



いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html




山手七福神めぐり

20140109

7日に歴史クラブの行事として、回ってきました。
私も企画に参加し、12月に下見を行い、この日も案内役でした。

なんでも、白金高輪から目黒に向って巡拝すると御利益は「無病息災・長寿祈願」、その逆コースは「商売繁盛祈願」だそうです。
で、私たちは白金高輪からスタートすることにし、都営三田線の白金高輪駅下車で、歩き出したのは11時ころでした。
140109yamate00.jpg


【覚林寺/毘沙門天】
日蓮宗寺院の覚林寺は、最正山と号します。覚林寺は、小湊誕生寺十八世可観院日延が開山となり寛永8年(1631)に創建したといいます。可観院日延は、朝鮮の王族出身ですが、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際に加藤清正に捕えられ、後小湊誕生寺十八世となり、当地に隠居、当寺を創建したといいます。当寺では加藤清正を祀った清正公堂が著名で、毎年五月四日五日の両日に行われる清正公大祭には人生の苦悩に打ち勝つお守りとして「しょうぶ入り御勝守」が授与されるという他、軍神の毘沙門天を祀っており、山手七福神の一つとなっています。
140109yamate01.jpg


清正公堂
140109yamate02.jpg


龍の彫刻がすごかった。
140109yamate03.jpg


「破魔軍」の扁額の周りにも龍の彫刻があります。
140109yamate04.jpg


毘沙門天は「毘沙門天堂」に祀られていましたが、横に飾られている御幣が黒いのが変わっていた。
140109yamate05.jpg


【瑞聖寺(ずいしょうじ)/布袋尊】
宗派は黄檗宗系の単立。山号は紫雲山。本尊は釈迦如来。開山は木庵性瑫、開基は青木重兼である。
瑞聖寺は寛文10年(1670年)に創建された。開山(初代住持)は日本黄檗宗2代の木庵性瑫である。木庵は日本黄檗主の祖・隠元隆琦の招きで明暦元年(1655年)に中国・明から来日し、寛文5年(1665年)に江戸入りした。開基(寺院創設の経済的基盤を提供した人物)は摂津麻田藩(大阪府豊中市)の2代藩主・青木重兼である。重兼は黄檗宗に深く帰依し、晩年には家督を譲って出家している。江戸時代には江戸の黄檗宗の中心寺院として「一山之役寺」と呼ばれていた。
大雄宝殿および通用門1棟は昭和59年(1984年)東京都指定有形文化財に指定され、平成4年(1992年)に国の重要文化財に指定された。

大雄宝殿
140109yamate06.jpg


本尊の木造釈迦如来と阿難・迦葉像
140109yamate07.jpg


布袋尊は本堂向かって右端の堂内に安置。
140109yamate08.jpg


このお寺は、ご朱印料は全て日本赤十字社に寄贈されることになっていた。
素晴らしい。
140109yamate09.jpg


【妙円寺/福禄寿&寿老人】
妙圓(円)寺は、妙見大菩薩を奉じる日蓮宗の寺院で、誠滝山と号します。江戸時代初期 、元和年間(1615~1624)に瀧本院日忍(俗称瀧本采女、元和6年 1620年 寂)が開山となり開創されたといわれています。瀧本采女が室町幕府に仕えていた時に足利義輝より拝領したという妙見大菩薩の他、山手七福神の寿老人尊・福禄寿尊が祀られて います。
妙見大菩薩は北辰妙見大菩薩とも呼ばれ、北極星・北斗七星を神格化したものとされ、日 蓮上人は「我は北辰菩薩、名付けて妙見と言う。今諸々の国土を擁護せんとす」と残され 、国土を守り災厄を除き福寿を増す菩薩とされています。
妙円寺の妙見大菩薩は霊験あらたかで、「開運妙見」または「白金の妙見さま」として親 しまれ、信仰されています。
右手のお堂に福禄寿と寿老人を安置する。
140109yamate10.jpg


妙見大菩薩と、寿老人尊・福禄寿尊
140109yamate11.jpg


庭に梅がほころびていました。
今年初めての梅です。
140109yamate12.jpg


【大円寺/大黒天】 
天台宗の寺院。山号は松林山。本尊は木造清涼寺式釈迦如来立像(国重文)。
この寺は、寛永年間(1624年 - 1644年)湯殿山修験道の行者大海が創建したのに始まると伝えられる。1772年(明和9年)2月に発生した大火(明和の大火・行人坂火事)の火元となった寺であることから、江戸幕府から再建の許可が得られなかった。江戸時代後期の1848年(嘉永元年)になって薩摩藩主島津斉興の帰依を得て、その菩提寺としてようやく再建された。明治に入り隣接した明王院がこの寺に統合されている。
境内にある五百羅漢石像はその時の死者の供養のため置かれたという。
140109yamate13.jpg


大国天
140109yamate14.jpg


五百羅漢石像
140109yamate15.jpg


八百屋お七が恋い焦がれた相手の吉三は、お七の処刑後僧となり名を西運と改め諸国を行脚後、大円寺の下の明王院(現雅叙園)に入り、お七の菩提を弔うため往復10里の道のりを浅草観音まで夜から明け方にかけて隔夜日参り一万日の行を27年と5ケ月かけて成し遂げ、お七が夢枕に立って成仏したことを告げられた。
西運は多くの江戸市民から浄財の寄進を受け、行人坂に敷石の道を造り、目黒川に石の太鼓橋を架けたという。
140109yamate16.jpg


いずれも江戸時代の庚申塔だが、三猿などの彫刻が見事だった。
140109yamate17.jpg


【蟠龍寺/弁財天】 
目黒行人坂付近にあった称明院〔慶安元年(1648)開創〕を、増上寺の 霊雲上人が浄土宗の戒律を復興するため現在地に移し、宝永6年(1709 )「霊雲山称名院蟠龍寺」と改名再建されました。
次いで、寛致6年(1794)律院となりましたが、「不許辛肉酒入山門」 の結界石がその名残りを今にとどめています。
本堂には本尊として「木造阿弥陀如来像」(都指定文化財)があり、天明 年間(1781~1788)に東都三番札所となり善光寺式阿弥陀三尊像も祀られています。
「江戸名所図会」にのった境内は、当時の風趣が偲ばれ、元禄11年(1 698)建立の地蔵尊があります。また、山手七福神の一つであり、江戸裏鬼門の鎮守として岩窟内に石像弁財天、弁天堂内に木造弁財天(八臂( はっぴ)の天女像)が安置されています。
140109yamate18.jpg


本堂前の万両を使った花活けが立派だった。
140109yamate19.jpg


岩屋弁財天
140109yamate20.jpg


140109yamate21.jpg


弁天堂の弁財天
140109yamate22.jpg


140109yamate23.jpg


【滝泉寺(目黒不動)/恵比寿神】 
天台宗の寺院。山号は泰叡山(たいえいざん)。不動明王を本尊とし、一般には目黒不動(目黒不動尊)の通称で呼ばれる。江戸五色不動の一つ。江戸三十三箇所第33番札所。関東三十六不動第18番。「目黒」の地名はこの目黒不動に由来する、とする説もある。青木昆陽の墓があることでも知られる。
寺伝では、808年(大同3年)円仁が下野国から比叡山に赴く途中に不動明王を安置して創建したという。東国には円仁開基の伝承をもつ寺院が多く、本寺の草創縁起もどこまで史実を伝えるものか不明である。860年(貞観2年)清和天皇より「泰叡」の勅額を下賜され、山号を泰叡山とした。1615年(元和1年)本堂が火災で焼失した。1630年(寛永7年)寛永寺の子院・護国院の末寺となり、天海大僧正の弟子・生順大僧正が兼務するようになった時、徳川家光の庇護を受けて、1634年(寛永11年)50棟余におよぶ伽藍が復興し、「目黒御殿」と称されるほど華麗を極めた。1812年(文化9年)「江戸の三富」と呼ばれた「富くじ」が行われた(他は湯島天満宮、谷中感応寺)。富くじ興行は1842年(天保13年)天保の改革により中止となった。寺名の由来となった、境内の独鈷の滝(とっこのたき)を浴びると病気が治癒するとの信仰があった。江戸時代には一般庶民の行楽地として親しまれ、江戸名所図会にも描かれている。また、落語の目黒のさんまは、この近辺にあった参詣者の休息のための茶屋(爺が茶屋)が舞台だとされる。
恵比寿神は仁王門手前左の池の奥にあります。   
140109yamate24.jpg


外に出てきてくれている恵比須さん。
140109yamate25.jpg


そのあと、45分ほど時間を取って、目黒不動にお参りしてもらいました。
140109yamate26.jpg


当寺については、以前お参りした記事があります。
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/megurofudou.html

今回、正面の鬼瓦のすごいことに気が付きました。
140109yamate27.jpg


これで、今回の行事としては解散しました。疲れている人はここからバスで五反田などに出られるので。
希望者には、参道の途中にある蛸薬師に案内しました。

【蛸薬師成就院(番外)】
天台宗の宗祖、比叡山開山伝教大師最澄の高弟、慈覚大師円仁は栃木県壬生町生まれ、幼くして伝教大師をしたって比叡山に登り、学問修行に励まれました。
承和5年(832)唐に渡り、同14年帰国されるまでいろいろと苦学して、唐各地をまわり、たくさんの仏法を伝えて帰国されました(この時の旅行記が有名な「入唐求法巡礼行記」です。この本は先年、米国の元駐日大使ライシャワー氏が研究し、英訳出版されました。)大師は若いときから眼病を患い、40歳のとき、自ら薬師さまの小像を刻み、御入唐の時もこれを肌身につけて行かれましたが、お帰りの海路、波風が荒れましたので、その御持仏を海神に献じて、危急をのがれ、無事に筑紫の港に帰り着かれました。その後大師、諸国巡化のみぎり、肥前の松浦に行かれますと海上に光明を放ち、さきに海神にささげられたお薬師さまのお像が、蛸にのって浮かんでおられました。大師は随喜の涙にむせび給い、その後東国をめぐり天安2年(858)目黒の地に来られました時、諸病平癒のためとて、さきに松浦にて拝み奉った尊容をそのままに模して、一刀三礼、霊木にきざみ、護持の小像をその胎内に秘仏として納め、蛸薬師如来とたたえまつられました。かくして本尊の殊勝の12大願による福徳威力、信心の人は、心願ことごとく成就し、除災長寿の利益あまねく千年のいまに至るまで、広く信仰されてきました。
140109yamate28.jpg


蛸薬師
140109yamate29.jpg


140109yamate30.jpg


お静地蔵
この石仏像は、徳川二代将軍秀忠公の側室、お静の方の発願で奉納されたものです。お静は江戸城大奥にあがり将軍の寵愛を受け「お腹さま」となることを願い、三体の観音像を納め奉り、その素願かない慶長16年(1611)に男子「幸松麿」が授かります。その後、秀忠公正室、浅井崇源院(お江与)の威勢をを畏れながらもその恙ないご成育を祈り3体の地蔵を刻み納められます。そして再び願いが叶い、また江戸城に居た見性院殿(武田信玄公の娘)の庇護もあり、保科正光公の養子となり、元服後、保科正之公となります。
元和年間、三代将軍家光公は、目黒で鷹狩のみちすがら、当山に参拝され、瞬興和尚(中興第15世)とのご法談の折、正之公との浅からぬ縁を知り、それにより寛永8年、正之公は信州高遠城主となります。お静は、大願成就の御礼として、阿弥陀如来像を納め奉りました。
正之公は後に山形城主、さらに正保元年会津藩二十三万石の城主となり、会津松平家の祖となります。また家光公の命により四代将軍家綱公の後見人として、幕政に力を注ぎ、善政を施されました。
140109yamate31.jpg


名君、保科正之公についての本を読むと、必ず目黒のお静地蔵が登場するので、ここはぜひお参りしたかった。

准胝観音
140109yamate32.jpg


聖観音
140109yamate33.jpg


十一面観音
140109yamate34.jpg


金剛願地蔵
140109yamate35.jpg


金剛幡地蔵
140109yamate36.jpg


金剛宝地蔵
140109yamate37.jpg


阿弥陀如来
140109yamate38.jpg



これで、完結です。
140109yamate39.jpg



「歴史クラブ行事記事一覧」に飛ぶ

深川七福神めぐり

20140105

4日、高島屋で木遣と梯子乗りを楽しんだ後、門前仲町に電車で移動し、富岡八幡宮から「深川七福神めぐり」をしました。
下図の右側から左に向かっていくルートです。
140105nana01.jpg


【富岡八幡宮/恵比須】
富岡八幡宮は、初詣客で大変な混雑でした。
140105nana02.jpg


140105nana03.jpg


当社については、既に詳しく記事を書いています。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1137.html

恵比須神は、富岡八幡宮境内の西側にある恵比須宮に奉祀されていますが、幸いこちらはさほど混雑していませんでした。
140105nana04.jpg


恵比須さん
140105nana05.jpg


【冬木弁天堂/弁財天】
140105nana06.jpg


冬木弁天堂は、木場の材木豪商、冬木弥平次が宝永二年(1705年)、茅場町(中央区)から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置しました。そのためいまでもこの町を冬木町といいます。この弁財天は、等身大の裸形弁天にして、毎年一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災に焼失しました。冬木弁天は、明治三年から一般に参詣を開放しました。現在の弁天堂は、昭和二十八年に再建されました。尾形光琳が、冬木家に寄寓中、冬木家の妻のために書いた秋草の小袖が、上野国立博物館に保存されています。冬木弁天堂は、古義真言宗に属しています。

弁天さま
140105nana07.jpg


【心行寺/福禄寿】
140105nana08.jpg


福禄寿の安置してある心行寺は、元和二年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立された浄土宗の寺で開山は観智国師の高弟である屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室、養源院殿であり、寛永十年(1633年)現在地深川寺町に移った由緒ある名刹である。関東大震災と昭和二十年の戦災により二度も焼失したが、現在の本堂は昭和四十二年に再建された。

昭和五十年に福禄寿が安置されている六角堂が完成した。
140105nana09.jpg


ところが、非常に目の細かい金網が張られていて、ほとんど像がわかりません。
140105nana10.jpg


その横に石造の福禄寿が置かれていますが、六角堂内の福禄寿とは杖を持っている手が違うなど、異なりますね。
140105nana11.jpg


「影窓院地蔵」
当寺に在った塔頭の影窓院にあったお地蔵さまで、縁結び、願い事成就のお地蔵さまとして、江戸時代から信仰されているという。
140105nana12.jpg


「江東区最古の五重石塔」
元享4年(1324)の銘があり、江東区最古のものだという。
140105nana13.jpg


清澄通りを行き、「海辺橋」で仙台堀川を渡ります。
140105nana14.jpg


渡ってすぐ、「滝沢馬琴誕生の地」があります。
140105nana15.jpg


140105nana16.jpg


【円珠院/大黒天】
140105nana17.jpg


円珠院は、享保のころ旗本永見甲斐守の娘、お寄の方が起立しのち、円珠院殿妙献日寄大姉の法名で、享保十五年末(1730年)に此の寺に葬られました。
享保五年(1720年)十一月十三日画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されています。江戸時代から、深川の大黒天として有名でした。

木造の大黒天
140105nana18.jpg


石造の破顔大黒天
140105nana19.jpg


【龍光院/毘沙門天】
140105nana20.jpg


龍光院は、浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長十六年(1611年)馬喰町(中央区)に創立、明暦三年(1657年)の大火に焼失し、岩井町(千代田区)に移転、天和二年(1682年)の大火に焼失し、同年深川の地に移転しました。
龍光院が現在地に移ったとき、鬼門除けとして境内東北角に、三尺ほどの石造の毘沙門天が安置され、昭和十一年には境内の東南角に一間半四面の毘沙門堂が建立されました。昭和二十年、戦災のため、堂宇は焼失しましたが、復興し、昭和五十年、木彫の立派な毘沙門天が安置されました。
140105nana21.jpg


石造五輪塔
総高349cmという、区内有数の大きさ。貞享3年(1686)の銘あり、由緒不明。関東大震災後いまの場所に移築されたと伝えられる。
140105nana22.jpg


次に移動する途中、素敵なトイレを発見。
140105nana23.jpg


全国グッドトイレ10選に入選している。
140105nana24.jpg


中には、こんな情報が掲示されていました。
140105nana25.jpg


清澄庭園入り口を過ぎてすぐ、「ビリケンさん」を発見。
140105nana26.jpg


大阪串かつのお店でした。
140105nana27.jpg


【深川稲荷神社/布袋尊】
140105nana28.jpg


140105nana29.jpg


深川稲荷神社は、寛永七年(1630年)の創立、深川地区では、創立の古い神社です。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいいます。この付近の旧町名は、深川西大工町でしたが、昭和七年八月一日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていましたので、この町名が生まれたといわれています。この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されています。

布袋さん
140105nana30.jpg


「萬年橋」を渡ります。
140105nana31.jpg


橋から、小名木川と隅田川を。
140105nana32.jpg


橋を渡ったところに「川船番所跡」の説明が。
140105nana33.jpg


寄り道をして「芭蕉稲荷」にお参りしました。
ここは、以前「深川参歩」と称して芭蕉がらみの地を歩いたときに、こともあろうに寄らなかったところです。
詳細は別途記事にします。
140105nana34.jpg


ついでに隅田川のテラスに出て、芭蕉翁の碑にも挨拶しました。
140105nana35.jpg


そこからの隅田川の眺め。
140105nana36.jpg


【深川神明宮/寿老人】
140105nana37.jpg


深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社であります。大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元年(一五九六年)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。
徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたがないので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになりました。

鳥居をくぐると、両側に神輿庫が並んでいます。
140105nana38.jpg


注連縄をくぐると、社殿が。
140105nana39.jpg


寿老人のお宮
140105nana40.jpg


ピントが合っていません(汗)
140105nana41.jpg


これで、めでたく完結となりました。
140105nana42.jpg



江戸火消し木遣・梯子乗り

20140104

正月4日の恒例の行事です。
去年、高島屋で見たので、今年は三越の見事な像のあるホールでと思ったのですが、こちらは11時20分くらいとなります。この後深川七福神を歩く予定にしていて、カミさんの都合で早目に帰らなきゃならないという事で、去年と同じく10時からの日本橋高島屋で見ました。
但し、今年は動画で撮影しました。
15分前くらいに到着。
140104hikeshi01.jpg


ショーウィンドウの正月飾りが綺麗です。
140104hikeshi02.jpg


私の好きな下田義寛の屏風仕立ての絵が飾ってありました。
ガラスに車とかが写りこんでしまっていますが(汗)
140104hikeshi03.jpg


いよいよ10時になると、信号の向こうでスタンバイしていた火消しの皆さんが木遣を唄いながらやってきました。
140104hikeshi04.jpg


しんがりに纏いも威勢よく続いてきます。
140104hikeshi05.jpg


一階のホールで、まずは纏いの披露。
140104hikeshi06.jpg


それから、朗々と木遣が響き渡ります。
140104hikeshi07.jpg


140104hikeshi08.jpg


木遣が終わると、外に繰り出し、梯子乗りの披露です。
次々と技が披露されました。
140104hikeshi09.jpg


140104hikeshi10.jpg


140104hikeshi11.jpg


140104hikeshi12.jpg


140104hikeshi13.jpg


140104hikeshi14.jpg


140104hikeshi15.jpg


梯子乗りの披露が終わると、あいさつ、手締めがあって、火消しの皆さんは木遣を唄いながら、次の会場に移動していきました。

動画を撮ったので見てください。

「木遣り・まとい振り」を見る

「はしご乗り」を見る


そのあと、ホールに飾られているものを見ました。
140104hikeshi16.jpg


吉祥来福の願いをこめたという「宝船来福」の振袖。
140104hikeshi17.jpg


ホールに下がっているタペストリーの説明を見たらビックリしてしまいました。
私の富山県の郷里のすぐ近くの「城端」の名前があるではないですか。
富山県南砺市城端の松井機業製作の「城端絓絹(しけきぬ)」を使用しているとのこと。
続いて説明があり、蚕が繭をつくるとき、稀に二頭の蚕が一つの繭を共同で作ることがあるそうです。それを「玉繭」という。「玉繭」から紡いだ糸を「玉糸」と呼びます。玉繭は二頭の蚕が吐き出す糸が複雑に絡み合っているので、その玉糸で織った「城端絓絹(しけきぬ)」は人工では創ることの出来ない、世界にまたとない表情が出るのだそうです。
こういうところで、日本は世界と勝負していかないといけないですよね。
140104hikeshi18.jpg



とても、いい気分で次の目的、「深川七福神」に向かいました。
その記事は明日か明後日に載せます。


ホワイト・マスターピース

20140103

系 統: HT ハイブリッドティ
作出年: 1969年  
作出国: アメリカ
作出者: E S Boerner
花 色: 白色
花 径: 巨大輪
香 り: 微香
開花性: 四季咲き

新年を飾る第一弾の薔薇は、好きな純白の薔薇にしました。

どうでしょう!
この純白な海は、ほれぼれしちゃいますね。
140103white01.jpg


清楚で高級感を持つ大きな花です。
純白の花は、とても美しくて、ため息が出ますね。
140103white02.jpg


微香ですが、ティー系の香りが強く入った ハイブリッドティー系の香りはとてもいいです。

2011年5月 生田緑地ばら苑にて




富士の図

20140102

お正月なので、めでたい富士の図でもアップしようと思ったときに、このあいだテレビの富士山特集の番組で、一番古い富士山の絵図として紹介されていたのが「聖徳太子絵伝」であることを思いだした。
そういえば私も持っているのではないかと引っ張り出して確認したら、ありましたね(嬉)
平成14年3月に名古屋市博物館で開催されていた「聖徳太子展」の図録に載っておりました。

大阪・四天王寺「聖徳太子絵伝 遠江法橋筆」 鎌倉時代元享3年(1323)
その第三幅
140102fuji01.jpg


その一部「二十七歳、甲斐の国より黒駒を献ずる。」
140102fuji02.jpg


同じくその一部「二十七歳、黒駒に乗り富士山に登る。」
この富士が、一番古い図らしいですね。
140102fuji03.jpg



図録にはもう一つ、富士山が出てくる絵伝がありましたので、こちらも載せておきます。
奈良・橘寺「聖徳太子絵伝」 室町時代十六世紀
その第六幅
140102fuji04.jpg


「二十七歳、甲斐の国より黒駒を献ずる。」の部分
140102fuji05.jpg


「二十七歳、黒駒に乗り富士山に登る。」の部分
140102fuji06.jpg


その番組では、横山大観の描いた富士山も取り上げていて、私も大観の絵は大好きなので、紹介しておきます。

「霊峰飛鶴」 1953年
140102fuji07.jpg


「或る日の太平洋」 1952年
140102fuji08.jpg


この絵にも、私の好きな大観描く龍がいる。
140102fuji09.jpg


最後に私の写真ですが、最近良いのが撮れていないので、以前アップしたことのある写真を再び(汗)
2011年4月に山中湖で撮った富士。
140102fuji10.jpg




明けましておめでとうございます

20140101

昨年度は、皆様にとてもお世話になりまして、ありがとうございました。
今年もよろしくお願い申し上げます。

私の、今年の年賀状です。
毎年桜の写真を使用しています。桜の時期に私が追いかけるのは、樹齢何百年という「一本桜」です。
そのなかから、気に入ったものを翌年の年賀状に使用しています。
140101nenga.jpg


去年一年間は、歴史クラブ、歴史ガイドの会、学校支援ボランティア、三つの団体の一員として、色々な活動に参加してきました。
その活動を通して、私の思いが深まったのは、「私には歴史がいちばん」だなということでした。

その中でも現在は「神社巡拝」にかなり軸足が乗っております。
一昨年の歴史講座研究コースで取り組んだ「狭山市の神社祭神と古事記」は、「古事記」編纂1300年の節目の年であったこともあり、取り組みましたが、ここからスタートした「日本の神様の辞典」作りは、私が神社巡拝で出合った神様と、本を読んで出会った神様とを自分なりの辞典に追加していこうというものです。
現在248柱の神様が集まりました。

「神社巡拝」のほうは、歴史クラブの一つのグループで「関八州式内社めぐり」を行っており、現在は下野国を廻っています。「武蔵国」については、過去に先輩の方々が既に回ったということで、いつ巡ってくるのか見えない状態なので、個人的に回り始めました。「武蔵国」は神明帖に載っているのは44坐なのですが、論社・比定社含め現在は89社になるようです。現在18社まで回りました。これに拍車をかけていきたいと思っています。
それと並行して回ろうと思っているのは、「東京十社」、「日本五大稲荷」、「勅祭社」、「全国一之宮」です。
こちらのほうは、無理せず機会があったときに訪れるつもりでいます。

それから里神楽など、伝統芸能、伝統武術などにも大変関心があります。
今年も機会をとらえて記録に残していきたいと思っています。

現在、所属している「歴史クラブ」の会員は七十余名居ます。ここで沢山の先輩、友達と知り合えました。立派な先輩が多くて、ものすごく刺激を受けています。その方たちと一緒に色々なイベントに参加して楽しんでいこうと思っています。

いろいろと書いてしまいましたが、楽しいことが一番なので、のんびりとやっていくつもりです。


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
FC2カウンター
メールフォーム

名前:
メール:
件名:
本文:

検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QRコード

Pagetop