霊厳寺の枝垂れ桜/埼玉県日高市

20140331

所在地:埼玉県日高市新堀740
ヒガンザクラ、樹齢400年
ここも、29日に訪れたふじみ野市地蔵院の枝垂れ桜と同様、歴史クラブのFさんから教わった所です。
高麗川を挟んで、高麗神社と聖天院の対岸になります。
高麗神社と聖天院の桜については、既に記事にしていますが、霊厳寺は知りませんでした。

朝食後すぐに飛び出したので、8:30頃到着しました。
風があるせいか、ちょっと盛りが過ぎたからか、誰も居なくて思うように写真が撮れました。

霊厳寺の説明
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本堂の前に枝垂れ桜があります。
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全景
昨日の雨のため、ちょっと盛りが過ぎた感じですが、まだまだ花をたっぷりとつけている。
ちょっとピンクがかかった、いい色です。
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樹齢400年の幹は貫禄があります。
印象が違う三方向から。
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太い枝が横に伸びている。
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見上げて、花の下に入ります。
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まだまだたっぷりと咲いている。
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空が青くて、桜が映えます。
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枝垂れの風情を楽しむ。
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風がかなり吹いていて、このとおり。
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強い風で落ちた花を、拾って帰りました。
水に漬けておいたら、2時間くらいで咲いてくれました。
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櫻行脚トップページ(桜の一覧)には、下記クリック
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村檜神社(延喜式内社)/栃木県下都賀郡岩舟町

20140330

所在地:栃木県下都賀郡岩舟町小野寺2255

3月28日(金)に歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で下野国の三回目です。
最初に訪ねたのが、この村檜(むらひ)神社です。

社号標
式内社 下野國都賀郡 村檜神社 旧郷社
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創祀は孝徳天皇の御宇大化二年(六四六年)と伝えられ、熊野大神、大山咋命二柱を祀り、 佐野庄小野寺十郷(小野寺、上岡、下岡、三谷、新里、古江、下津原、駒場、鷲巣、畳岡)の総鎮守として崇敬され、 のち平城天皇の御宇大同二年(八○七年)に皆川村小野口に鎮齋せる八幡宮を当社に合祀、主祭神と仰ぐ。
 醍醐天皇の御宇延喜年間には勅命により、国内神社を調査せし時にその撰に入り、全国二八六一社の延喜式内社に列せられる。
 藤原秀郷公、唐沢山に築城の際当神社が鬼門に当ることから守護神として、厚く崇敬し、天慶二年(九三九年)平将門叛せし時、藤原秀郷公これを亡ぼし村桧神社の御神徳の賜ものであると奉幣且つ弓矢を奉納、又永代七○貫文を奉り特に尊信した。(下野国誌。)
 現在の社殿(本殿)は室町後期の建物で三間社春日造屋根は桧皮葺にして国の重要文化財の指定を受けて居り、造営に付いては小野寺領主、唐沢城主、足利義持等があたったと伝えられている。
など崇敬極めて厚く、下野国式内三之宮として今もなお崇敬せられている。

おっ、丸型ポスト!!
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(02)

社号標の後ろ、どうしてここに??
家に帰ってから村檜神社を調べていると、前の写真で右手に白い建物がありますが、「村檜会館」と云って、社務所と宮の下簡易郵便局も兼ねていることがわかりました。

バスの駐車の関係で、一の鳥居を通り越して参道の途中から歩き始めました。
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狛犬が一基だけあります。
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神橋を渡ります。
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木製の二の鳥居があります。
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参道の右側に石碑があり、この字体には弱いのだが、「奉納 敷石」ではないだろうか。
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手水舎
水はありませんでした。
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深い木立の参道を歩いてきて、石段です。石段の上に神門があります。
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石段の途中、左手に境内社がある。何も掲示は無いが資料では住吉神社らしい。
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神門の社額
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神門の片方の部屋には太鼓が置かれていた。
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境内
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社殿
拝殿は無く、本殿を囲む垣の入り口の門での参拝となります。
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御祭神は誉田別命、熊野大神、大山咋命

笑っているような、ユーモラスな狛犬。
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現在の社殿(本殿)は室町後期(天文22年=1553)建築で、県内では珍しい三間社春日造、屋根は檜皮葦。小野寺領主・唐澤城主・足利義持等がその造営にあたったと云われている。本殿の西南側の柱には、埋め込みの工法で甚五郎作と云われる「うり」が刻まれており、構造・彫刻いずれも格別で、県内では勿論他にもあまり例を見ないほどその技法ガ素晴らし<、室町時代後期の傑作として明治41年(1908)特呂u保護建造物として国の認定を受け、昭和25年(1950)に国の重要文化財に再指定された。
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三間社春日造
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甚五郎作と云われる「うり」の彫刻が見つかりません(汗)
社務所の巫女さんに尋ねると、「村檜神社略記」という冊子に載っている写真をコピーしてくれました。
それを参考に探しましたが、ついにわからず(泣)
その写真を載せておきます。
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破風の鬼瓦が変わっている。
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神紋は「右三つ巴」です。
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社殿の左手にある境内社の西宮神社。
昔は境内社11社だったが、8社を西宮神社へ合祀したとのこと。
「もう帰るよ!」の幹事の声にせかされ、横から撮ったのみでした。
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ちなみに、織姫神社は火災で、厳島神社は台風で失い、再建されていないようだ。
西宮神社へ合祀されていることを祈るのみ。

神楽殿
元旦祭と10月17日の例祭に「依田流太々神楽」が奉納される。安永2年(1了了3)に始まり現在も続<。この神楽は無言にして神楽歌など一切なく、笛・太鼓・鼓に調子を合わせて舞うのが特徴だそうです。
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ご神木
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当社には、関東一といわれた大檜があったが、大正末年に枯れてしまったそうです。当時は高さ80m、直径5m、樹齢2000年以上だった。

神門をくぐって、帰ります。
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【小野小町の墓】
入り口まで戻って来ると、横にあるお寺の表示に引っかかってしまいました。
「小野小町の寺」とあります。
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「大慈寺」といい、行基菩薩によって建立されたとありますから、相当なお寺です。
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これは、後で調べると薬師堂です。
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鐘楼
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帰ってから調べると、大きなお寺の様で、私たちは横から一部をチラ見したに過ぎません。
ライシャワー氏が慈覚大師の研究で訪れ、植えたメタセコイアもあるようです。

問題の小野小町ですが、説明がありました。
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するうち、道の方から「小野小町の墓があるよ」との声。
飛んでいくと、看板があります。
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団体行動の悲しさ、もう皆バスに乗っているようです。
遠くから、望遠で覆屋を撮ったのがせいぜいでした。
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帰ってからWikipediaで調べると、小野小町は生没年不詳となっていて、良く分かっていない人なんですね。
小野小町の墓も、北は宮城県から南は山口県まで、11のお墓の伝承がありますね。
その中に、この栃木県の小野寺も入っています。
岩舟町商工会のページに載っている写真は、まだ覆屋の無い状態のものでした。
覆屋は、ごく最近建てられたもののようです。
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(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


地蔵院の枝垂れ桜/埼玉県ふじみ野市

20140329

所在地:埼玉県ふじみ野市亀久保3丁目11−11
江戸彼岸桜、樹齢約350年。

歴史クラブで私と同様、大の桜好きのFさんに、ここを教えていただきました。
彼岸桜ということで、21日のお彼岸の日に様子を見に来て、今日再度見に行きました。
場所は、川越街道沿いで、亀久保交差点の近くです。

門前に「地蔵院」の説明があります。
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山門の向こうに桜が見えている。
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全景
見事に満開です(嬉)
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桜の説明
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樹高は低いですが、その代わり地面に触んばかりに、見事に桜が垂れています。

樹齢350年の幹は堂々たるものです。
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平成10年の樹勢回復の処置が、幹に見られます。
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樹の下に立ち、見上げます。
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樹勢回復処置の見事な効果です。とても樹齢350年とは見えない勢いです。
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まるで、桜の壁(笑)
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やさしい花です。
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枝垂れ桜の風情
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枝垂れ桜の横に桃色の花が咲いています。
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バラ目バラ科の「母桃」でした。
中国原産
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実に綺麗な花を咲かせています。
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花桃と枝垂れ桜の共演。
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(了)


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飯能市・南高麗地区ウォーク(2)

20140327

3月25日(火)に、歴史クラブの行事で歩いてきましたが、前記事の続きです。

【八坂神社】
所在地:埼玉県飯能市下直竹175
社号標
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明治5年村社に列し、同40年付近の7社を合祀して南高麗神社と改称したが、昭和28年旧社号の八坂神社に戻ったという経歴です。

鳥居
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手水舎
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灯篭、石段、狛犬と並びます。
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炎尾型の狛犬
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社殿
祭神は須佐之男命と思われる。
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境内社
4社を並べ祀っています。
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次の目的地に向かって歩いていると、民家の長屋門が古風で立派なので立ち止まって眺めました。
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驚いたことに、その長屋門には昔の駕籠が吊るしてありました。
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紅梅の梅の木の横を通ります。
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【軍茶利明王堂】

後述安楽寺の守護神である軍茶利明王堂はこの村(軍荼利村と呼んでいた)の総鎮守であった。
その昔、東遊中の行基がこの地のクスノキの下で光の中に軍茶利の形を見、その形を彫って安置したと伝えられ、鎌倉時代前期以前の製作といわれています。 その後、平将門・畠山重忠・足利尊氏などの信仰を得たという伝説を持つ立像は、高さ297センチの寄木造りで、火焔の光背を背負っているそうです。

仁王門
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山門の伝金剛力士像は一風変わったものであるが,平安時代後期の様式を伝えている。
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明王堂
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ちなみに軍荼利明王(ぐんだりみょうおう)は密教において宝生如来の教輪転身とされ、様々な障碍を除くとされ、五大明王の一尊としては南方に配される。

弁天池
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ここから坂を上っていくと安楽寺の本堂があります。
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【安楽寺】
所在地:東京都青梅市成木1-583

安楽寺(あんらくじ)は、東京都青梅市成木にある真言宗系の単立寺院。山号は成木山。院号は愛染院。本尊は愛染明王・不動明王・軍荼利明王。成木の軍荼利様として親しまれている。
この寺の創建年代等については不詳であり、創建については行基によるとも足利尊氏によるとも伝えられるが、安楽寺はもともとは軍荼利明王を祀る堂の別当寺として建てられたものと見られる。天正年間(1573年~1592年)に中興され、江戸時代には江戸幕府から朱印状が与えられた。

寺に近づくと、見事な枝垂れ桜のあることがわかります。
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長屋門
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寺に入る前に、門前に見事な枝垂れ梅があることに気が付いて、そちらに飛んでいきました。
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実に見事な咲きっぷりです。
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寺に戻ります。
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表門
嘉永3年(1850)建立。江戸時代末期の様式をよく反映している。
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長屋門から入ります。
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長屋門わきの枝垂れ桜の咲いている時に、ぜひ来たいものだ。
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ここで、境内をお借りして持参の弁当で昼食、休憩となりました。
しばらくのんびりしてから、境内を拝観しました。

非常に横幅のある大きな本堂は、元禄六年(1693年)に建立されたもので、都内に現存する書院風本堂のなかでは最も古いもの。
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本堂内部
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本堂正面のガラス戸に、長屋門の藁屋根が映って、良い絵になっていた。
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大きな宝篋印塔が建っていた。
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壁面に、様々な印を結んだ仏が描かれている。全部で14の絵があったが、その一部を紹介。
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お堂の中に石仏が二体。
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鐘楼堂
天保15年(1844)建立。
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山門脇にある杉は幹周り6.2m,樹高約40mの巨木で,成木安楽寺のヤドリスギとよばれており,都の天然記念物に指定されている。
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安楽寺から降りてきて、「安楽寺」と刻まれた自然石のところから、安楽寺を眺めます。
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次の目的地に歩いていきますが、天気が良すぎて暑い!!
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この辺りは成木(なりき)地区と呼ばれており、かつては良質の石灰(いしばい)を産出することで知られていました。成木の石灰は壁塗り材料として江戸時代にはたいへん重宝がられ、江戸城、大阪城、名古屋城や日光東照宮の壁にも用いられました。成木から江戸へ、この石灰を運ぶために開かれた「成木街道」が、実は現在の「青梅街道」の前身なのだそうです。

【金蓮寺】
所在地:埼玉県飯能市下畑389番地1号
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『新編武蔵風土記稿』高麗郡巻3には次のようにある。
時宗当麻派本山・無量光寺の末。本尊は恵心の作。他阿真教が開山で、開基の宮倉三郎兵衛は文保元年(1317年)に亡くなっている。この人物は里正(名主)和助の祖であると。
宮倉家はこの地の地侍で、清戸三番衆の内。彼らは三田氏の旧臣で後北条氏に従った人々である。寺の西側一帯が館跡と考えられている。今も小字を宮倉と言い、その末裔が檀家である。

境内に応永7年(1400年)の見事な六字名号の板碑がある。
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墓域にあった、仏様。
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【畑不動尊】
所在地:埼玉県飯能市下畑363
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昭和初期に開山された真言宗のお寺。開祖の盛乗が当地に不動明王を安置したのが始まり。

皆でお堂の中をのぞき込んだり、ウロウロしていたら、お寺の方が飛んできて、お堂を開けて見せてくださいました。とてもありがたかったです。感謝、感謝です。

本堂
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本尊
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導心観音堂
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本尊の聖観音
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ここからしばらく歩いて、汗を拭き拭きたどり着いたのが「岩井堂観音」です。

【岩井堂観音】
所在地:埼玉県飯能市大字岩渕

継體天皇の時代一人の旅の高僧が竜間ヶ沢にて修行の後、この地に尊像を安置したと、時がたち安閑天皇の時代にこの地に大暴風があり百雷もろとも、お堂が尊像と共に崩れ、成木川の濁流に呑み込まれ行方知らずとなる。
その後百年推古天皇の三十六年、隅田川にて三人の漁師の網に金色さん然と輝く尊像がかかる。
これまさしく在りし日の岩井堂観音なり。

昭和四十年お堂の改築を聞いた浅草寺管長清水谷大僧正は末寺善竜院の尊像を代わりに安置し、その奇縁をあらたにした。

入り口
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道路から下っていきます。
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岩壁の下に成木川が流れ、ここに深い淵があることから岩渕の字名が起こったという。
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岩壁の横、狭い道をちょっと行き。
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ちょっと崖を上ります。
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観音堂
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中は、格子戸があって、本尊はわかりません。
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横に小さなお堂があり、中に二体の石仏。
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堂の上は岩山となっています。上ります。
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先ほどの道に出ます。入り口の鳥居。
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ここから岩井堂の近くにある歓喜寺に向かいます。
しかし、飯能に行くバスが2時間に一本くらいしか無く、これに乗るのに残り10分くらいしかありません。
門からのぞく程度となりました。

【歓喜寺】所在地:埼玉県飯能市大字岩渕658
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昭和8年浅草寺から贈られた観音様を寺内で管理しているが公開はされてないそうです。
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樹齢530年の榧(かや)
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(了)


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飯能市・南高麗地区ウォーク(1)

20140326

昨日の3月25日(火)に、歴史クラブの行事で歩いてきました。
「南高麗地区」は名栗川の支流の成木川とその支流直竹川に沿った地域です。
上流の「上直竹下分」から下流の岩淵まで、流れに沿って山間の風景を楽しみながら、史跡を見ていきます。

飯能駅前、8:35発の「間野黒指」行きのバスに乗り、30分ほどで「下間野」に着きました。
ここから飯能に向かって下っていくことになります。

【石灰焼き場跡】
所在地:埼玉県飯能市大字上直竹下分、間野地内

上直竹下分は山あいの静かな集落です。
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道から外れ石灰焼き場跡に入っていきます。
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金網に囲まれていて、中には入れません。金網の外からの観察でした。
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説明板
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この山の中で焼かれた石灰が、江戸時代はるばる運ばれて江戸城の修復にあてられたのは、飯能から水運で江戸まで木材が運ばれていたからでもあったのでしょう。

この部分が後期の竪窯ですね。
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次の目的に向かいます。
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【観音寺】
所在地:埼玉県飯能市上直竹下分219

観音寺が見えました。
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入り口
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入り口のところに地蔵堂があります。
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堂々とした地蔵菩薩(嘉永3(1850))。
夜泣き失せもの祈願のご利益があるといいます。
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梅の木や桜の木に囲まれている。
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無住のお寺です。
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本尊がみえるかなと、覗き込みますが、本尊の手前のガラス戸に私たちの姿が映っているだけ(笑)
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六地蔵菩薩(享保4(1719))
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中央は、阿弥陀如来とおもわれる。
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六地蔵のうちで、一番きれいなお地蔵様
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六地蔵菩薩の前に、「八王子遺臣 師岡新右衛門 三百五十年記祭」と刻まれた碑があった。
先ほどの「石灰焼き場」に従事したのが八王子家臣、師岡・木崎の二氏とありましたが、その後裔の方なのでしょうか。
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お寺の前の梅畑が綺麗に咲いていた。
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次の目的に向かい歩いていくと、綺麗な枝垂れ梅が。
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【富士浅間神社】
所在地:埼玉県飯能市大字上直竹下分字滝ノ入300番地

社号標
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創建年月日不明だが、寛正4年(1463年)奉納の鰐口が存在し、それ以前の創建と推測される。

鳥居
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境内図
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この神社の裏山(境内地、飯能市上直竹下分301番地)にあるタブの木は、樹高約20m、目通り5.5m、根回り7m、枝張り東西約27m、南北25m、樹齢推定700年の巨樹で「滝ノ入 タブの木」として県指定天然記念物になっている。
ネットで調べたら、実に見ごたえのある立派な樹だ。
今回は見られなかったが、後日見たいものだ

大銀杏
残念なことに、途中から上が失われている。
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手水舎
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牙が鋭い狛犬
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社殿
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社殿内部
祭神:木花之佐久夜毘売
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額殿
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奉納額
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富士浅間神社「芙蓉の滝」
名水「芙蓉の滝」とのことで、昔は豪快な滝だったようですが、現在は水の量は減少している。上流部にある東京電力新飯能変電所建設の影響らしい。
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滝の脇に、倶利伽羅不動。
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「おしゃもじ様」
ここのも、たぶんそうだと思いますが、全国的にあるようで、子供が百日咳や風邪にかかると、ここへおまいりをして、帰りにおしゃもじを一本お借りします。そして咳がとまり、百日咳や風邪が治ると、お礼に赤飯を炊いてお供えし、お借りしたおしゃもじに、さらに新しいのを一本加えてお返しをするのだそうです。
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夫婦神社
陰陽石を祀っている。
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次に向かって歩いていると、道の分岐点の所に時計台が立っていました。
「御大典記念」とあります。
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【長光寺】
所在地:埼玉県飯能市下直竹1056

惣門
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惣門は現在しようされていなくて、脇を通るようになっています。
裏を見た時、紋が「丸に十字?」。なんだろうと思いました。
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惣門から三門まで、かなり距離があります。
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三門はかなり大きい。
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中雀門
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中雀門を入って左にお堂があり、その中に安置されている仏様が変わっていた。
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仙人らしき二人が蓮の花を支えて、その上に千手観音が載っている。
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本堂
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貞治5年(1366年)に通海という僧によって開創されたという。また中興開山である格翁方逸は弘治2年(1556年)に示寂している。
開基は岡部小右衛門忠正で、小瀬戸に住んでいたという。

長光寺の本堂は、桁行(けたゆき)11間、梁間(はりま)7間半、萱葺寄棟(かやぶきよせむね)の大建築で、内部は土間、広縁をとり、八室からなる平面構成で、二本の円柱を内陣に用いるほかは、すべて各柱とし、柱筋もよく通り乱れがない。土間には床下に長い階が残っている。
本堂は江戸時代初期の建物で、現存する曹洞宗の本堂としては、最も古い時期に属するものである。

梅の古木の下に、面白い石仏があった。
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開山堂
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立派な宝篋印塔が並んでいる。
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お寺の奥さんらしき人が犬を連れて出て来ました。
紋のことを訪ねると、「丸にハネ十字」で岡部氏の紋だそうです。
そして、その紋のいわれも話してくださいました。

開基の岡部小右衛門忠正の先祖に、中世武蔵武士の中でも名高い岡部忠澄(おかべ ただずみ)が居ます。
平家物語における、平忠度を討ち取ったエピソードで有名です。
保元の乱、平治の乱では源義朝の家人として、熊谷直実、斎藤実盛、猪俣範綱とともに従軍して活躍した。源義朝の死後は故郷の岡部に戻っていたが、治承4年(1180年)に義朝の遺児・源頼朝が挙兵すると、それに従うこととなった。木曾義仲追討戦の後、源義経の指揮下に入り、寿永3年(1184年)の一ノ谷の戦いでは平忠度と組み討ち、討たれそうになるも郎党が助太刀して忠度の右腕を斬りおとしたことで形成が逆転、観念した忠度は念仏を唱え、忠澄に斬られた。その後、忠澄は箙に結び付けられた文から自分が斬った男が忠度であることを悟り、惜しい人物を斬ってしまったと悔やんだという。

平忠度は薩摩守でした。
そして「薩摩」の紋は「丸に十字」。その首をはねたので、岡部の家紋を「丸にはね十字」にしたというのだ。

感心して聞いていた我々が「歴史クラブ」だと知ると、「中も見ていってください」と案内してくださいました。

まずは「雲版」です。
「雲版」とは、合図のために打ち鳴らされるもので、おもに禅宗用寺院で使われてます。長光寺の雲版には1313年060422-4(正和2年)の銘があり、現存する中世の雲版の中では、全国で3番目に古いものだそうです。国指定重要文化財です。
本物の雲版は、大変貴重な文化財なので、現在は埼玉県立博物館に寄託されていますが、レプリカがありました。
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ご本尊
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「東照神君 御条目」の板書
貞治5年(1366)に創建されたと伝えられているこの寺は、江戸幕府から寺領15石のご朱印状を受領した伝統があります。
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控えの間の板絵
泊まった絵師が描いていったものだそうです。
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立派な本堂内部
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昔は修行僧が沢山居たそうで、夫々の役目を書いた板
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「白大衆生死事大」を刻んだ綺麗な木版(もっぱん)が下がっていました。
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禅寺の鳴らし物の一つである木版(もっぱん)に書かれる言葉です。

白大衆    大衆(だいしゅ)にもうす
生死事大   生死(しょうじ)は事大なり
無常迅速   無常は迅速なり
各宜醒覚   おのおの宜しく醒覚すべし
慎勿放逸   慎んで放逸なることなかれ

意訳すれば次のような解釈です。
修行僧に申し上げる。
生死は仏教徒にとって一大事である。
時は無常に過ぎ去っていくから、
各人ともこのことに目覚め、
勝手気ままに時をむなしく過ごしてはならない。

この言葉が書かれた木版の音によって、雲水(修行僧)たちは洗面や就寝の時間を知ります。そこには、木版の音を聞くたびに、自らを戒めるというねらいがあります。


気さくに中を案内してくださった、お寺の奥様にはとても感謝しました。
おかげで、沢山の貴重なものを拝見させていただきました。


(続く)


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カガミガイ(鏡貝)

20140323

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科 目 :まるすだれがい科
収拾者 :祖父
採取場所:石川県高松
採取日 :1935年8月

別名:モチガイ、モンジュガイ
類円形で扁平。成貝は最大で殻長10cmほど。白色~灰白色で斑紋はないが、殻頂付近がうっすらと淡黄色や淡紅色を帯びることもある。

日本(北海道南西部~九州)、朝鮮半島、中国大陸沿岸に分布する。
海の潮間帯下部から水深60m付近までの細砂底に埋生し、水中の懸濁物を濾過食する。

砂浜や干潟などにも生息する普通種で、潮干狩りの際にも獲れることがあるが、食味がよくないためあまり人気のない貝である。一般にアサリより深い場所におり、成長したものでは殻長9cm以上になるが、普通は5-6cm前後のものが多い。殻の形が丸型で平べったく鏡に似ていることが和名の由来である。殻の成長線は輪状で明瞭だが、他の彫刻はない。

貝殻は丈夫で第四紀の貝化石として出土することも多い。また、縄文時代の貝塚から、本種の殻の端を研いで刃物として使った舌状貝器が発見されることがある。
ネットで調べた際も、化石の記事が目につきました。

側面
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殻頂からS字に成長するのが特徴。
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主歯はシンプル
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カガミガイ(鏡貝)の名前の由来は昔の鏡がこの貝のように丸い形をしていた事からつけられたと考えられています。
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日本の神様300柱越え

20140322

自分で収集している日本の神様が今日306柱となり、300の大台を越えました。
一昨年、市の歴史講座研究コースのテーマを決める際に、その年が古事記編纂1300年の年であったので、「古事記と市内神社祭神」をテーマとしました。
市内の神社ほぼ全てを廻り、その祭神が古事記でどのように書かれているかをまとめました。
それを機に自分なりの「神様の事典」を作り始めました。参拝したり、本で出合ったりして自分が触れた神様です。

古事記については、きちんと整理できているのは「葦原中國平定」までなので、まだまだ古事記からも新しい神様は拾えると思っています。

自分が参拝した神様では、最近では鎌倉の浄智寺の境内のヤグラに「宇賀神」が祀られていて、今までも知識としては知っていましたが、目出度く私の辞典入りとなりました。
それをまとめている時に気が付いたのが、弁才天です。
井の頭弁財天にも行っていたし、七福神めぐりで、日本橋水天宮、深川の冬木弁天堂、目黒の蟠龍寺でお参りしているのに、辞典に入れてありませんでした(汗)
こんな、とぼけた事もしていて(笑)、のんびりやっているのですが、集まるものですね。

いま読み進んでいる民俗学者谷川健一氏の「青銅の神の足跡」からもずいぶんと面白い神様が得られている最中です。
製銅、製鉄にかかわる神として「金山彦命」「金山比賣命」は知っていましたが、「天日槍(あめのひぼこ)」、「天目一箇神(あめのまひとつかみ)」、「阿加流比売神(あかるひめのかみ)」、「阿遅鉏高日子根神(あじすきたかひこねのかみ)」などが得られ、特に鉄は武器にしても農耕具にしても有力なものなので、信仰の対象として納得できるものですね。

神社の祭神では、やはり多いのは大国主命です。
私が参拝した神社では
【大国主命】を祭神としている神社
狭山市・子(ね)ノ神社、日本橋・松嶋神社、日本橋・寶田恵比寿神社、伊勢崎市・大国神社
【大巳貴命】 (オオナムチノミコト)を祭神としている神社
神田明神、赤城神社、所沢山口・中氷川神社、日光二荒山神社、高瀬神社(富山、県)、真岡市・大前神社、大宮・氷川神社、大宮・中山神社、気多大社(石川県)、那須・温泉神社、騎西・玉敷神社、久喜・鷲宮神社、所沢三ヶ島・中氷川神社、毛呂山出雲祝神社、磐井神社
【八千矛神】を祭神としている神社
坂戸・國渭地祇神社、所沢北野天神内國渭地祇神社

お稲荷さんも多いです。
私が参拝した神社では
【宇迦之御魂神】(うかのみたまのかみ)を祭神としている神社
田中の稲荷神社、羽黒神社、松森稲荷神社、隅田・三囲神社、龍體稲荷神社、日本橋・小網神社、        日本橋・茶ノ木神社、日本橋・末廣神社、日本橋・笠間稲荷神社、岩村田・鼻顔稲荷神社、王子・装束稲荷、笠間稲荷神社
【宇賀之売命】 (ウガノメノミコト)を祭神としている神社
品川神社
【保食神】(うけもちのかみ)を祭神としている神社
広瀬神社境内社・稲荷神社、王子稲荷

神社巡拝としても、まだまだ道半ばにも到達せずという感じなので、これからも楽しく神様を追求していきたいと思っています。


ロビ第48号&49号組立/ロボット「ロビ」

20140321

【第48号】
第48号で紹介されているのは、二頭身の白いボディにフルカラーに光る大きな目の「ラピロ」。
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機楽化(株)など4社の中小企業が企画・デザインした組立キットのロボットで、頭部に別売の小型PCを入れれば、インターネットを利用したりカメラ撮影、音声認識、しゃべるようになる。
クラウドファンディングという手法でプロジェクトを推進。1000円ならステッカー、3万8000円なら組立キット、15万円なら組立済のラピロとなっている。
ラピロの3Dデータを公開しているので、3Dプリンターで誰でも作成できる。アレンジすることも出来る。
ユーザーがプログラムが書けるなら、大きく楽しみが広がる。


今回配布されたパーツは「分電盤」と「ヒップカバー」で、作業は無し。
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今まで組み立てた各関節サーボモーターの回転とID番号の一覧。
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【第49号】
第49号で紹介されているのは、(株)ココロの恐竜ロボット「ヴェロキラプトル」。
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博物館やイベントなどで、等身大の動く恐竜が展示されているが、(株)ココロはそうした恐竜ロボットの製作を得意としている。
動きの機構を組み込んだ、骨組みとなる金属製フレームに、恐竜の形に削り出したウレタンブロックを被せる。その上にシリコンを塗って皮膚を作り出す。
動きは、圧縮空気を使ったアクチュエーターを、プログラムして行う。
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今回配布されたパーツは「マイコンボード」で、作業は無し。
ロビちゃんの頭脳である。
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鎌倉五山を訪ねる(2)

20140320

18日(火)に行った歴史クラブの行事、前記事の続きです。
昼食後、再び徒歩で鎌倉五山第一位の建長寺に行きました。

【建長寺】
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建長寺は鎌倉幕府5代執権北条時頼によって創建された禅宗寺院で、建長5年(1253年)に落慶供養が営まれている。開山(初代住職)は宋からの渡来僧・蘭渓道隆(大覚禅師)であった。当時の日本は、承久の乱(1221年)を経て北条氏の権力基盤が安定し、京都の中央政府の支配力は相対的に弱まり、鎌倉が事実上、日本の首府となっていた時代であった。北条時頼は熱心な仏教信者であり禅宗に深く帰依していた。

建長寺が所在する山ノ内は、幕府のある鎌倉の中心部からは山一つ隔てた所に位置し、鎌倉の北の出入口の護りに当たる要衝の地であって、北条氏の本拠地でもあった。建長寺の境内が広がる谷(鎌倉では「やつ」と読む)は、元は「地獄ヶ谷」と呼ばれる処刑場で、地蔵菩薩を本尊とする伽羅陀山心平寺という寺が建っていた。建長寺の本尊が禅宗寺院の本尊として一般的な釈迦如来ではなく地蔵菩薩であるのは、こうした因縁によるものである。また、心平寺の旧本尊と伝える地蔵菩薩像は今も建長寺に伝来している。

「総門」
天明3年(1783年)の建立。1943年に京都の般舟三昧院(はんじゅざんまいいん)から移築されたものである。
総門に掲げられた「巨福山」の額は建長寺10世住持で書の名手である渡来僧・一山一寧の筆と伝える。「巨」字の第3画目の下に、余分な「点」が書き加えられているが、この点があることによって字に安定感が出ているとされる。
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総門をくぐると、目の前に巨大な三門がそびえている。
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「三門(山門)」
安永4年(1775年)の建立で、2005年に重要文化財に指定されている。

銅板葺きの二重門(2階建て)で、関東大震災で倒壊し、再建される。初層には仁王像などを置かず、門扉も壁もない吹き放しとしている。上層には宝冠釈迦如来像や銅造の五百羅漢像などを安置する(上層は非公開)。
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三門に置かれている「賓頭廬尊者 びんずるそんじゃ」
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「仏殿」
重要文化財。 寄棟造で単層裳階が付く。
芝(東京都港区)の増上寺にあった、徳川秀忠夫人崇源院の霊屋(たまや)を建て替えに際し、譲渡されたもので、正保4年(1647年)に建長寺に移築されている。
もともと霊廟建築として造られたものであるので、屋根や天井などの形式が一般的な禅宗の仏殿とは異なっている。
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堂内には本尊の地蔵菩薩坐像(室町時代の作、像高2.4メートル)、もとこの地にあった心平寺の旧本尊地蔵菩薩坐像、千体地蔵菩薩立像、千手観音坐像、伽藍神像などを安置する。
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法堂内部には千手観音坐像を安置しています。また2005年愛知万博に陳列されたラホール中央博物館所蔵の釈迦苦行像のレプリカが万博終了後パキスタンより寄贈され安置されている。
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この辺から、思いもよらず雨が降り出しました(泣)

「唐門」
重要文化財で方丈入口の門。仏殿と同じく、芝の徳川秀忠夫人崇源院霊屋から移築したもの。関東大震災以来の大修理が2011年5月に終了し、移築当時の姿が再現された。
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「方丈」
「竜王殿」とも称する。総門と同じく、京都の般舟三昧院から移築したもの。
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庭園
WIKIPEDIAでは「夢窓疎石の作といわれる。」とありましたが、寺の説明板には「開山蘭渓道隆(大覚禅師)の作庭」となっていました。
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いきなりの雨で、傘はバスの中(泣)
それでも仏殿と法堂の写真を撮りたいと、雨の中に飛び出しました。
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国宝「梵鐘」
北条時頼の発願により、「開山蘭渓道隆(大覚禅師)の銘文、関東鋳物師の筆頭物部重光によって、建長7年(1255)に鋳造された。重さ2.7トン。
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予定では、ここから第三位の「寿福寺」に歩いていくことにしていましたが、雨が強くなる一方。
もともと寿福寺は境内を公開していないこともあり、今日は断念することにして、何処かでスタンバイしていたバスに連絡し、迎えに来てもらいました。
それで第五位の浄妙寺に向かいました。

【浄妙寺】
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山号は稲荷山(とうかさん)。詳名は稲荷山浄妙広利禅寺という。本尊は釈迦如来。開基(創立者)は足利義兼、開山(初代住持)は退耕行勇。鎌倉五山の第五位。鎌倉三十三観音第9番。

鎌倉五山の第五位の寺院として、かつては広大な寺地を有し、23箇院の塔頭を有していた。現在でも付近一帯の地名を「浄明寺」といい(地名は「妙」の代わりに「明」字を用いる)、住宅団地名にも使用されるなど、その名残を残している。寺には婦人病に霊験のある神とされる淡島明神立像を安置することから、婦人病の祈願所とされている。

山号標
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署名刻の下に花押? かたつむり?
かたつむりとしたら洒落ている(笑)
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山門をくぐると参道がまっすぐ伸びている。
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本堂(方丈)
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足利尊氏の父、貞氏の墓所
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「宝篋印塔」
足利貞氏の墓と伝える明徳三年(1392年)銘の宝篋印塔。基台の銘文により、罪障消滅・後生善根を願う逆修塔とされる。
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「源将祖先裔廟」と刻まれた石碑
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沢山の石塔が周りにある。
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本堂の左に、庭が良い建物がありました。
帰ってから調べると「喜泉庵」と云うらしい。
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気が付くと、中で何か撮影をしています。
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なんと、テレビ番組「美の壺」の撮影でした。
放映日を教わりましたので、どういう事だったのか、放送が楽しみです。

本堂の前が良い感じでした。
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花塚
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山茱萸(さんしゅゆ)が咲いていました。
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梅も花は少ないが、良い花でした。
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境内から小さい道を隔てて、「本寂堂」という掲示があったので、行ってみました。
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荒れた感じで、小さい祠と石碑などがありました。
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祠は扉が開いていて、中は空っぽ。
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帰ってから調べると、かって浄妙寺には、足利義兼が発願し、北条政子が造らせたという荒神像、不動像を安置する本寂堂があったといいます。現在伝えられている「木造三宝荒神像」は室町時代のもので、開山堂に安置されている、とのことでした。
三宝荒神は、三面六臂で仏・法・僧の三宝を守る神(浄妙寺鎮護の神)です。
開山堂に安置されている三宝荒神像は、このようなものです。(非公開になっています)
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本寂堂跡にあった、享保15年(1730)建立の「念仏講中碑」
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宝暦6年(1756)の石碑
「具一力功徳慈眼視衆生  福寿海無量是故應頑豊」と刻まれています。
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(了)


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鎌倉五山を訪ねる(1)

20140319

18日(火)に歴史クラブの行事で行きました。参加者25名のバス旅行です。

大船のほうから入っていき、最初に位置するのが鎌倉五山二位の円覚寺です。
バスを降りて、JR横須賀線の線路を越えていきます。
ここも円覚寺の寺域ですが、軍港横須賀に通じる線路を軍部が強引に通してしまったとか。
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【円覚寺】
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鎌倉幕府8代執権北条時宗は弘安元年(1278年)から文永の役の戦没者の菩提を弔うためと、己の精神的支柱となった禅道を広めたいと願い円覚寺創建を始めた。弘安5年に落慶したがその間、文永の役に続いて弘安の役も起き、弘安の役での戦没者の慰霊も円覚寺の役目となった。当時鎌倉にいた中国出身の高僧蘭渓道隆(建長寺初代住職)は弘安元年7月に没してしまったため、時宗は代わりとなる高僧を捜していた。そして弘安2年(1279年)に来日した中国僧・無学祖元(仏光国師)を開山に招いた。鎌倉にはすでに時宗の父・北条時頼が創建した建長寺が存在していたが、官寺的性格の強い同寺に対し、円覚寺は北条氏の私寺という性格がより強かったと言われる。また、中国に帰国しようとしていた無学祖元を引き止めようとしたという事情もあった。

山号の「瑞鹿山」は、円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事によるものとされ(『元亨釈書』等による)、今も境内にはその鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」がある。また寺号の「円覚」は、時宗と蘭渓道隆とが寺を建てる場所を探している際、現在の円覚寺がある場所に至り地面を掘った所、地中から石櫃(いしびつ)に入った円覚経という経典が発掘されたことによるというが(『本朝高僧伝』等による)、これは建長寺開山と因縁つけようとした意図のある伝説であると円覚寺はみている。

「総門」
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山号額
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拝観出入り口のとこに花が飾られている。
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巨大な「山門」
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お寺に鳥居??
弁天堂に上がる石段は143段あります。
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国宝の「洪鐘」(おおがね)
正安3年(1301)の刻銘があります。
作ったのは九代執権北条貞時、鋳物師は物部国光。
鋳造を頼まれた物部国光は、大きな鐘のため二度の失敗を繰り返すが、北条貞時が七日七夜江ノ島弁財天に参籠したため、その加護によって三回目の鋳造で成功したのだという。
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「洪鐘弁天堂」
北条貞時は、洪鐘鋳造の成功に感謝して弁天堂を建立した。
弁天堂には、江ノ島にあった弁財天が円覚寺の鎮守として祀られている。この弁財天は弘法大師の作ともいわれ、江ノ島の弁財天とは夫婦弁天と呼ばれている。
61年ごとに行われる「洪鐘祭」で、夫婦弁財天が出会うこととなっている。
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弁天堂横の見晴らしからは、眼下に東慶寺などが眺められる。
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紅白梅越しに「仏殿」
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仏殿内部
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天井には前田靑頓の「白龍図」
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本尊の「宝冠釋迦如来坐像」
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「妙香池」
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「虎頭岩」
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「国宝舎利殿」
門前に「佛牙舎利塔」という石柱が立っています。
説明を読むと、お釈迦様の歯牙をお祀りしていました。
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門から先は入れません。参道が真っ直ぐ伸びています。
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円覚寺開堂の儀式の際、白鹿の群れが現われ、説法を聴聞したという故事があり、その鹿の群れが飛び出してきた穴と称する「白鹿洞」。
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「黄梅院」
時宗公夫人覚山尼が時宗公の菩提のため建立した華厳塔の地に、足利氏が夢想国師の塔所として建立。
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黄梅院の境内に「ミツマタ」が咲いていました。
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梅越しの「開基廟」
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「開基廟」
北条時宗公をお祀りしています。
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托鉢から帰ってきたのでしょうか。雲水の行列に出会いました。
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円覚寺の次に、鎌倉五山第4位の浄智寺にお参りしました。

【浄智寺】
鎌倉幕府第5代執権・北条時頼の3男である北条宗政の菩提を弔うために、弘安6年(1283年)に創建された。開基は宗政の子・北条師時としたが、当時の師時は8歳であり、実際には宗政の妻と兄・北条時宗による創建である。開山は日本人僧の南州宏海が招かれるが、宏海は尊敬する宋出身の高僧兀庵普寧と導師の大休正念を開山にして自身は準開山になる。なお兀庵普寧は文永2年(1265年)に中国に帰国し、浄智寺開山の7年前に没している。

その後、高峰顕日や夢窓疎石らの名僧が住持し、最盛期には七堂伽藍を備え、塔頭も11寺院に達した。元亨3年(1323年)の北条貞時13年忌には浄智寺からの参加僧衆は224人に達したと記録にあり、当時浄智寺の総人員は僧侶以外も加えると500人ほどに及んだとみられる。発掘調査では谷戸のずっと奧、天柱峠のすぐ下あたりまで人の手の加わった跡があり、おそらくは現在の円覚寺の規模に近いものがあったと思われる。

鎌倉幕府滅亡後も寺勢は衰えず、延文元年(1356年)には火災で創建時の伽藍を失うが、室町時代にもまだかなり大きな寺で、上杉禅秀の乱のあとの応永24年(1417年)に足利持氏が鎌倉に戻ったとき、まず浄智寺に入り2か月以上滞在した。また持氏の子・永寿王(後の足利成氏)が宝徳元年(1449年)に鎌倉に入ったときも浄智寺に滞在したなども寺の規模の大きさを示している。

しかし、15世紀半ばころから都市鎌倉そのものの衰亡と足並みをそろえて徐々に荒廃し、なお江戸時代末まで塔頭8院を維持したが、大正12年(1923年)の関東大震災でその大部分が倒壊し、今日の伽藍は概ね昭和になってから復興された。

まず石橋がある。
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石橋の向こうに、鎌倉十井のひとつ「甘露の井」の表示はあったが、落とし口が二か所あり、いずれも水は出ていなかった。

三門
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さらに石段を上がります。
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二階に鐘のある「楼門」
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上層の軒にかかっている扁額の書体から、ひょっとして石川丈山?
帰ってから調べたら、やはりそうでした。 「山居幽勝」
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楼門から枝垂れ梅が見えたので、飛んでいきました。
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「曇華殿(仏殿)」
本尊は阿弥陀如来・釈迦如来・弥勒如来の三世仏で、それぞれ過去・現在・未来を象徴する。
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「コウヤマキ」、鎌倉一の巨木。
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根元に子持ち観音が
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藁ぶきの庫裡がいい感じです。
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こちらの「ミツマタ」はボンボン咲きです。
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奥の谷戸のほうに行くと、まず「横井戸」がありました。
真っ暗で、途中フラッシュで撮って出てきてしまった。
奥まで行けていません(苦笑)
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鎌倉の典型的な「やぐら」
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洞窟の一つに、珍しい「宇賀神」を祀ってあった。
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これは竹林とマッチングして、いい感じです。
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トンネルを抜けると・・・・・・
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雪国ならぬ・・・・・・
鎌倉江ノ島七福神の一である布袋の石像をまつる洞窟でした。
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「梅花樹下」と書いた額の門から出て、拝観終了。
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そこから少し歩いて、「鎌倉五山」というケンチン汁のお店に行き昼食です。
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ケンチン汁セットとケンチン蕎麦で、はち切れる程満腹(嬉)


(続く)


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仁叟寺・吉井町郷土資料館・伊勢塚古墳

20140317

前記事のように、14日(金)に歴史クラブ行事で群馬県高崎市にある「上野三碑」などを訪ね、昼食の後向かったのが、仁叟寺です。

【仁叟寺】
群馬県高崎市吉井町神保1295

惣門
寛文3年(1663)建立であり、江戸期の武家門の面影を留める。
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宝暦11年(1761)建立の、威風堂々とした山門。
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本堂
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本堂で、本尊にお参りした後、住職さんから説明を受けました。
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 名称は天祐山公田院仁叟寺(じんそうじ)といい宗派は曹洞宗、大本山は永平寺・総持寺である。
 室町時代、足利義満将軍の応永元年(1394)から正長元年(1428)にかけて吉井町奥平公田に奥平城主奥平貞訓公により創建された。
 その後、子孫の貞能公が寺領を寄進した大永2年(1522)に現在の高崎市吉井町神保に寺を移して本堂を再建し開基となり、渋川市中郷讐林寺四世の高僧、直翁裔正禅師を初代住職に話して開山されたのが現在の寺のはじめである。
 開山以来約五百年間戦乱の世にも厳然として格式を保ち続け天正18年(1謝)臭平信昌夫人亀姫(徳川家康長女)より寺領を寄進され、さらに長根城主小幡公・宮崎城主奥平公・吉井城主菅沼公・地頭長谷川公同じく溝口公などの深い帰依と手厚い保護を受け、特に慶安2年(1糾9)篭川三代将軍家光公より寺領及び御朱印二十五石を改めて賜った。

ここで、奥平氏について再考してみた。(住職さんの話した内容ではありません)
徳川家康の本を読んでも、武田信玄の本を読んでも、その岐路に位置するのが奥平氏の帰趨でありました。
先祖は赤松則景の末流とされ、上野国甘楽郡奥平郷を領して奥平を名乗る。別の説によれば、武蔵七党児玉党の後裔氏行が則景の養子になったとも伝えられる。
貞俊のとき、三河国作手に移り、その後、三河に勢力を伸ばしてきた今川氏に従属した。
貞勝のとき徳川家康の祖父松平清康が東三河に進出、貞勝は清康従った。松平清康死後、三河は今川氏の領国となり、再び今川氏に属するが、今川義元の戦死後、今川氏から離れて徳川家康に属した。その後、武田信玄の侵攻に会い、他の東三河の国衆とともに武田氏に服属。
天正元年、信玄が死去すると、武田勝頼から離反し、徳川家康に帰順する。家康は亀姫を信昌と婚姻させ、本領など安堵することを約束した。その後、奥平氏が武田氏から離反したことで、武田勝頼は激怒、長篠の戦いが起こり長篠城を死守する。長篠の戦いの功績で織田信長から諱の一字を与えられ、更に徳川家康から本領および遠江国榛原郡を与えられる。
小牧・長久手の戦い後、豊臣秀吉の推挙で美作守、従五位下に叙された。
徳川家康の関東入封後、上野国甘楽郡小幡を与えられ三万石の地を領した。関ヶ原の合戦後、美濃国加納城で十万石、子孫は封を重ねて豊前国中津城十万石を領した。
また、亀姫については「宇都宮釣り天井事件」を密告した黒幕との話もあります。

この地から三河国に落ちていったが、その後歴史の節目の場面で活躍し大成したのですから、歴史とは不思議なものですね。

本堂内に勝海舟の書「清浄地」がありました。
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境内には、所狭しと色々なものが建てられていた。
文殊堂
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十三重石宝塔
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境内に三大銘木がある。
樹齢500年の「榧(かや)」
落雷により樹勢が衰え、平成元年に樹木医により回復手術を施され、回復してきた。
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樹齢100年の「五輪桜」
コヒガンザクラで、地中から幹が五本伸びている。
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樹齢350年の「モクノキ」
椋の木
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墓地の墓にお参り
当寺開基の奥平城主奥平貞訓公
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地頭・溝口豊前守勝信公
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地頭・長谷川淡路守
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家のような墓が多い。珍しい。
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窓が色々なデザインになっている。
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鬼瓦であろうか、屋根の入り妻のところに顔のような彫刻がある。
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【吉井郷土資料館】
群馬県高崎市吉井町285
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資料館に入るとすぐに、「馬庭念流関係資料」がある。
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馬庭念流は、剣術を中心に長刀術(薙刀術)、槍術も伝える古武道の流派。
樋口定次が、上州多胡郡馬庭村(現、群馬県高崎市吉井町馬庭)において道場を開き、樋口家が馬庭村で伝承し続けたため、馬庭念流とよばれる。
相手を倒す事よりも自分を守る事に重点を置いた守り主体の流派であるとされる。庶民の護身術として、上州を中心に関東各地で広範囲に受け入れられ続けたため、廃れずに今日まで続いている。

寛永御前試合出場者
馬庭念流の樋口十朗兵衛のほか、初鹿野傳右エ門、関口弥太郎、大久保彦左衛門、荒木又右エ門などの名前がある。
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免許状
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吉井町のかっての名産品「火打金」と、吉井火打金職人の代表といえる中野屋孫三郎についての展示があります。
吉井の火打金は江戸時代、刀鍛冶が火打金を伝えたとされ、その高い技術から江戸で大評判となりました。
中山道の脇往還、姫街道を利用する旅人、商人、善光寺詣りなどの人々が、吉井宿で火打金を買い求め道中土産としたそうです。特に中野屋一族の製品は火花がよく出ると人気が高く、中野屋ブランド、吉井の火打金は全国に流通したそうです。

出土した平安時代の火打金
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色々な火打金が展示されている。
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中野屋の大暖簾
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火打金やキセルなどの販売店
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錦絵
激しい雷雨がやってきて、雨戸を閉め、急いで火打金で灯火をつけている。
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錦絵
芸者が出かける際に、厄除けの切り火をしてもらっている。
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錦絵
海に出かけた夫に、妻が安全の祈りをこめて切り火をしている。
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この辺の出土品で、目についたもの。
金銅装単鳳環頭太刀
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金環・勾玉
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玉類
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二階に会った、昭和初期のお雛様が、現在とは顔が違っていてよかった。
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甲冑が三領展示されていた。
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【伊勢塚古墳】
群馬県藤岡市上落合318
本墳は当所、円墳と考えられていたが、昭和六二年度の範囲確認調査により直径二七・二㍍、高さ六㍍の二段に築かれら不正八角形墳と考えられる。内部構造は羨道、玄室からなる両袖型横穴式石室で、大きさは八・九㍍である。
伊勢塚古墳の特徴は、模様積石室と呼ばれる石室にあります。この石室は胴張形の平面形で、所々にやや大型の自然石を配しその周辺に細長い結晶片石を差し込んで飛白模様にしている点に特徴があります。
 こうした模様積の石室を持つ古墳は、藤岡市域から埼玉県児玉郡周辺に見られます。これらの古墳の築造は、6世紀後半に出現し、7世紀代まで継続して造られています。その中でも伊勢塚古墳の石室は特に秀でているそうです。
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石室は開放されている。
その上に、梅の木が幹を曲げて、守っているかのようだ。
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中に入っていきます。
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石室内部
大ぶりの石だけでなく、細かい石で壁面が出来ているのには驚いた。
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説明板にあった写真。奥から入り口を眺めたところ。
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石室入り口を覆う梅が、ちょうど咲いていた。
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墳丘には、ケヤキがすっくと立っている。
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ケヤキの間から、山茶花の赤い花が見える。
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(了)


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上野三碑などを訪ねる

20140315

昨日、14日(金)に歴史クラブ行事で、群馬県高崎市にある「上野三碑」などを訪ねました。
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「上野三碑」は、古代石碑のなかで、古いほうから2位、4位、8位に位置し、この三つが古代の「多胡郡」に集中しています。
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7:30にバスで出発し、上信越道藤岡インターで降り、最初の目的地「山上(やまのうえ)碑」「山上古墳」に到着。

【山上碑】 【山上古墳】
所在地:高崎市山名町字山神谷2104

入り口に万葉集歌碑がありました。
万葉集 4-3402 手島右卿
「吾が恋はまさかも悲し草枕 多胡の入野のおくも悲しも」
私の恋しく思う心は現在も悲しいしずっとさきも胸のつまる思いです。
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長い石段を上がっていきます。
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まず山上古墳。
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この古墳は、飛鳥時代に作られ、山上碑にある黒売刀自の父の墓として造られ、後に黒売刀自を追葬したものとみられる。
江戸時代、明和六年(1769)には石窟に馬頭観音が置かれ、多胡郡、緑野郡、北甘楽郡の三郡坂東の札所四番に選ばれたといいます。
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古墳の横のお堂のなかに「山上碑」があります。
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正面
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側面
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背面
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碑文
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読み方、現代語訳
(高崎市教育委員会パンフレット)
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山上碑は、完存するものに限れば日本最古の石碑として知られ、古代最大の内乱「壬申の乱」を征して即位した天武天皇の時代に造立されました。
 碑文は、佐野三家(さののみやけ)を管理した豪族の子女である黒売(くろめ)と、その子である長利(ちょうり)の系譜を述べたもので、隣接した山上古墳に埋葬されたとみられる黒売の追善供養碑の性格をあわせ持っています。
 三家(=屯倉)は、六世紀から七世紀前半にかけて各地の軍事・経済的要地に置かれたヤマト政権の直轄地のことで、佐野三家は高崎市南部の烏川両岸(現在の佐野・山名地区一帯)にまたがって設置されていたと推定されます。
 佐野三家は、現地豪族と中央から派遣された技術者によって経営されたとみられ、碑文では豪族の健守(たけもり)が屯倉管理者の始祖に位置づけられています。
 ところで碑文の「孫」は子孫に、「児」は子の意に解されます(義江明子説)。健守の子孫の黒売が、赤城山南麓の豪族とみられる新川臣(現桐生市西部の新川か)の子孫大児臣(おおごのおみ 現前填市東部の大胡か)と結婚して長利が生まれたのであり、長利は碑文の起草時の自分の立場(放光寺の僧)を明記しています。
 彼が勤めた放光寺は、「放光寺」の文字を刻んだ瓦が出土した前橋市総社町の山王廃寺だと推定されます。山王廃寺はこの頃、東国で最古・最大級の寺院だったことが発掘調査によって判明しています。当時、仏教は新たに伝わった先進の思想体系だったため、東国有数の名刹の僧であった長利は、相当な知識者だったはずです。その彼が名族の血を引く母と自己を顕彰し、母を追善するため、碑文を刻ませたのでしょう。
 山上碑の形状は、朝鮮半島の新羅の石碑に類似しており、碑の造立に際しては当地の新羅系渡来人が深く関わったと推定されます。
 渡来人の知識層-主として新羅系の人々-が参画し、当時の日本の中でも高い文化度を誇っていたと考えられます。
(高崎市教育委員会パンフレット)

古墳の前にも万葉集歌碑がある。
万葉集 14-3402 大沢雅休
「碓氷の山を越ゆる日は 夫(せ)なのが袖もさやに振らしつ」
袖もはっきり見える程、ひどく振って峠を越えていった人、防人に旅立ったあのかたの最後のお姿だった。
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観音堂だったころの石仏でしょうか。
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したに下ります。
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入り口から30mくらいのところに、「来迎阿弥陀画像板碑」がありました。
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説明
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小さい丸窓が開けてあるので、覗きましたが、板碑が近すぎて部分的にしか見えません。
それでも阿弥陀如来のお顔はわかりました。
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山上碑から「金井沢碑」はバスならすぐ近くです。

【金井沢碑】
所在地:高崎市山名町金井沢2334

入り口
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入り口の横に、やはり万葉集歌碑が。
万葉巻 1-38 昭和午新秋雅休
「八隅ししわご大君かむながら 神さびせすと芳野川たきつ河内に 高殿を高知りまして登りたち 国見をすればたたなはる青垣山 山神之奉る御調と春べは花かざし 持ち秋立てば黄葉(もみじ)かざせり ゆきそふ川の神も 大御食に仕へ奉ると 上つ瀬に鵜川を立ちて下つ 瀬に小網さし渡す山川も 依りてつかふる神の御代かも」
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笹竹の間の小道を行きます。
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碑を納めた建物があります。
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正面
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側面
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背面
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碑文
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読み方、現代語訳
(高崎市教育委員会パンフレット)
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 金井沢碑は、奈良時代山側期の神亀三(726)年に、三家(みやけ)氏を名乗る氏族が、同族とともに仏教の教えで結びつき、祖先の供養、一族繁栄を祈るために造立した石碑です。
 三家氏は、山上碑に記された「佐野三家(屯倉)」を経営した豪族の末裔とみられます。碑文の冒頭に「上野国群馬郡下賛郷高田里(こうずけのくにくるまのこおりしもさぬごうたかだのさと」と刻まれていることから、その居宅は現在の高崎市南部、烏川東岸の佐野(賛)地区に存在したようです。
 しかし、本碑や山上碑は、その対岸にあたる烏川西岸(山名地区)に所在するため、佐野三家の領域および三家氏の勢力圏は、広く烏川両岸に及んでいたと考えられます。
 碑文には、続けて九口(人)の人名が刻み込まれています。彼らの関係はこれまで様々に解釈されてきましたが、近年では、願主で男性の三家子口(□は欠字)およびその妻1子1孫からなる六人の直系血族(うち女性四人)グループと、同族三人からなる既存の信仰グループが結びつき、この碑を造立したとする勝浦令子氏の説が支持されています。
 また碑文からは、大宝律令(701年)以後に定まった行政制度(国郡郷里制)の施行が確認できるほか、郡郷名を好字で二字に改訂することを命じた和銅六年(七一三年)の政令の実施も確かめられます。これに伴って、従前の「車」の表記は「群馬」(読みはそのまま「くるま」)の二字に変更され、今日の県名のルーツとなっています。
 なお、本碑の「群馬」の文字(碑では「羣馬」)は、在地において最古の「群馬」の用例となります。
 このように本碑は、古代東国の家族関係・氏族関係、仏教の普及と有力な仏教教団の成長、地方行政制度の実態などを知るうえできわめて重要な史料です。同時に山上碑・金井沢碑を相次いで残した佐野三家関係氏族の文化度の高さをよく示しています。
(高崎市教育委員会パンフレット)

建物の周りは竹藪でした。
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次いで、多胡碑のある「多胡碑記念館」に行きました。

【多胡碑記念館】
所在地:高崎市吉井町池1085

立派な建物です。
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最初に学芸員の方から説明を受けました。
多胡碑のレプリカの前での説明。
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多胡碑(レプリカ)
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読み方、現代語訳
(高崎市教育委員会パンフレット)
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 多胡碑は、中央政府からの命令で、上野国の片岡郡・緑野郡・甘良郡の三郡内から三百戸を割き、新たに多胡郡を建てたことを記念した建郡碑です。読み(東野治之氏の説)のように、建郡に際して「羊」という人物を郡司に起用したと解するのが主流ですが、「羊」を方位や別な字の略字とみなす学説もあります。
 碑文は、朝廷の左中弁正五位下の位にある多治比真人から上野国にあてて発行された和銅四(711)年三月九日宣旨の公文書を略記したとみられ、末尾には太政官の穂積親王、左大臣の石上尊(和銅四年当時は石上麻呂)、右大臣の藤原尊(同じく藤原不比等)など、政府高官の名を挙げて建郡を正統化していると考えられます。
 日本の正史である『続日本紀』和銅四年三月辛亥(六日)の条には「上野国甘良郡の織裳・韓級・矢田・大家、緑野郡の武美、片岡郡の山等の六郷を割いて、別に多胡郡を置く」とあって、多胡碑の記述と合致します。当時の規定では一郷は五〇戸からなるため、多胡郡の六郷の戸数と碑文の「三百戸」も一致しています。
 多胡郡の範囲は、現在の高崎市吉井地区から山名町一帯とみられますが、そこはかつて緑野屯倉や佐野屯倉など、ヤマト政権の直轄地が設定されていた領域と重なります。このため、かねてより中央との関わりが深い経済上の要地であったと考えられ、奈良・平安時代には、上野国有数の一大手工業地帯(窯業・布生産)に成長しています。このため、建郡にあたっては、その経済力に期待する中央の強い意思が働いたと推定されます。当時、朝廷は東北地方の蝦夷計略を進めており、その財源にあてられた可能性も考えられます。
 なお、多胡碑は地元では羊太夫伝説に彩られ、「ひつじさま」としても崇敬されています。また、中世・近世の文人・学者・書家の研究対象として長い研究の歴史を有しています。なかでも、江戸時代中頃には、朝鮮通信使を通じて中国にまでその書風が知られ、近代日本の書家にも大きな影響を与えました。
(高崎市教育委員会パンフレット)

記念館の壁に貼られた、各説の紹介。
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古代の碑のレプリカが集められていました。
一番左が、最古とみられる(大化2年以降)石碑「宇治橋断碑」
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多賀城碑
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古代から有数の布生産地帯であったことを示す、古代の紡錘車。
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文字を記した紡錘車
祭祀や信仰に用いられた。
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「泰山金剛経」(レプリカ)
中国山東省泰山の石畳に金剛経が刻まれたもの。
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「広開土王碑」
(石灰拓本)
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記念館の窓から、浅間山が見えた。ズームしてます。
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記念館から外に出て、実物を見に行きます。
収蔵しているお堂。
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正面
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側面
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背面
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庭には歌碑も三つありました。

「万代もいかでつきせじ名にしおう ほまれぞのこる多胡の碑(いしぶみ)」
藤原寛一」
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多胡碑をよめる
「玉かしは書残したるかみつけに うづもれぬ名ぞいまもかがやく」
陸奥出羽桉察使 前中納言有長
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「深草のうちに埋もれし石文の 世にめづらるる時は来にけり」
楫取素彦
吉田松陰の義弟で多胡碑の保管管理に力を尽くした県令。
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「羊さまの榎」
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幹が大きく曲がり、朽ちた腹を見せているが、頑張っている。
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こちらはケヤキ。洞が出来、太い幹は枯れたが、枝が残り頑張っている。
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こちらにも頑張っている樹があった。
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記念館の前に二つの古墳がある。
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「片山1号古墳」
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「南高原1号古墳」
円墳で、周囲に堀を巡らせ、墳丘表面には石を葺いていた。
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石室入り口
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石室内部
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これで、多胡碑記念館の見学を終え、牛伏ドリームセンターにて昼食後、午後の見学です。


(続く)


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御田八幡神社(延喜式内論社)/港区三田

20140313

住所:東京都港区三田3丁目7−16

3月9日(日)に、前記事のように磐井神社のあと、御田神社にお参りしました。
古絵図「芝三田二本榎高輪辺絵図」(文久元年改正版)によれば、直ぐ正面に東海道が走り、その向こうは江戸湾の海浜が開け、海側斜面に位置しているので、さぞかし風光明媚であったと考えられる。
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田町から、第一京浜に出て歩いていきます。
第一京浜(旧東海道)に入り口があります。太陽の位置の関係で、田町駅方向で撮りました。
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社号標
式内社 武蔵國荏原郡 薭田神社 旧郷社
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歴史:
和銅2年(709年)8月、東国鎮護の神として牟佐志国牧岡の地に祀られたのに始まる。寛弘7年(1011年)、武蔵国御田郷久保三田に遷座し、嵯峨源氏渡辺一党の氏神として尊崇された。延喜式神名帳には「武蔵国荏原郡 稗田神社(ひえだじんじゃ)」として記載されている。ただし、「延喜式内稗田神社」は、大田区蒲田の稗田神社・東六郷の六郷神社なども論社となっている。
徳川家康の江戸城入城の際に奇瑞があったことから、現在地である荏原郡上高輪村海岸を開拓して社殿を造営し、寛文2年(1662年)8月に遷座が行われた。しかし、寛文8年2月の大火により社殿は全焼、仮殿が伊皿子坂薬師寺に置かれた。寛文12年8月に社殿が再建され再度遷座された。
慶応元年(1865年)に神祇官により延喜式記載の「稗田神社」に改称、明治5年(1874年)に「三田八幡神社」に改称し、郷社に列した。明治30年(1897年)に「御田八幡神社」に復した。昭和20年の東京大空襲で寛文12年造営の社殿が焼失し、戦後の昭和29年に復興された。

石造八幡型鳥居
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鳥居から少し進むと、石段ですが、男坂と女坂が並んで設けてあります。
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石段の上がり口に狛犬が、鉄柵に守られています。
子犬に乳をあげている。
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こちらは子犬を押えている(笑)
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手水舎
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境内
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拝殿前にも狛犬が居ます。年号がわかりませんが、尾の形などからかなり古いものだと思います。
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拝殿
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祭神は、誉田別尊命(応神天皇)を主祭神とし、天児屋根命、武内宿禰命を配祀とする。

本殿
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神紋は「右三つ巴」
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明治42年奉納の鉄製天水桶
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文政10年(1827)奉納の、石盤のようなお百度石。こんな大きなお百度石を初めて見ました。
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神楽殿
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境内社で二棟を連結したような、朱の美しい社殿の五光稲荷神社と御嶽神社。
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御嶽神社(大己貴命/おおなむちのみこと)
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五光稲荷神社(宇迦御魂命/うかのみたまのみこと)
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本殿の横には、多くの狛狐を持つ石祠(稲荷社)があました。
鳥居の扁額はかろうじて「伏見稲荷大明神」とあった。
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絵馬は、八幡全景と馬の二種ありますね。
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神社境内を左奥へ抜けると、亀塚公園へ上る階段の途中に出る。全部で136段もあり、都心の階段では最も段数が多く、高低差も大きいそうです。

階段の途中に出ると、下からの階段がある。
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出たところの踊り場に梅が一本。
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写真を撮っていると、自転車を持ったお母さんが子供と上がっていきました。上の公園で遊ぶんですね。お母さんは強い!
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もう一度折り返して上がります。
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長い階段を上りきると亀塚公園である。園内の亀塚の名称の由来は複数伝えられています。
・円墳状の盛り土が存在することによるもの。但し、昭和46年に実施した港区教育委員会と慶應義塾大学文学部との合同調査では副葬品も含めて何も見つかっておらず、古墳であったとは判断できない。
・竹芝伝説の竹柴の衛士の宅地にあった酒壷の下に住んだ霊亀を土地の人が神にまつったものであるとされるもの。

亀塚
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亀塚の頂上
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「亀塚霊神祠跡」と刻まれた石碑
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亀山碑
江戸時代、この地を屋敷地としていた沼田城主土岐頼煕が亀塚の由来を記したもの。
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公園に、「付近沿革案内」という掲示板があり、西側の道路が古奥州街道にあたり、この地は、平安時代に著された「更級日記」に紹介された竹芝皇女の物語の遺跡といわれ、亀塚の伝説が残されていると書かれていた。
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古奥州街道にあたる道路。右側の塀の中が亀塚公園。
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その道から下りていく道で「幽霊坂」というのがあった。
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道標の説明では、坂の両側に寺院が並び、ものさびしい坂であるためこの名がついたらしい。
(最初の古絵図参照)
有礼坂の説もある。
幽霊坂は、東京に七か所あるそうです。

亀塚の辺からは、昔は海が綺麗に見えたのでしょうが、今はこのとおり。高いビルに阻まれています。
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また公園から、長い階段を降ります。
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階段の左右の草地には、気の早い花が咲いてるのがありました(笑)
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田町から歩いてきて、御田八幡に着く直前、気になるものがあったので帰りに寄りました。
三田ツインビルという高い建物の横にありました。
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長い石段の上に、何かあります。
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行って見ると、「都旧跡 元和キリシタン遺跡」でした。
三代将軍家光が、元和9年江戸でキリシタンを処刑しました。神父など50名。処刑は東海道の入り口にあたる丘が選ばれた。
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これで、武蔵国荏原郡の二坐、現在は式内社、式内論社合わせて6社ありますが、全社お参りしました。


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


磐井神社(延喜式内社)/大田区大森

20140311

住所:東京都大田区大森北2-20-8

3月9日(日)に、武蔵国荏原郡・二坐、現在は式内論社合わせて6社のうち、残り二社「磐井神社」と「御田八幡」にお参りしました。
磐井神社は京浜急行の大森海岸駅から第一京浜沿いに5分くらいのところにあります。
神社の前に到着すると、旧東海道(第一京浜)傍に「磐井の井」があります。東海道を行く旅人の喉を潤した井です。昔は境内にあったが、国道拡張に伴い境内が削られ歩道に存在するようになった。
「荏原風土記」では「伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる」という霊水と記されています。
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旧東海道(第一京浜)大森海岸駅方面
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社号標
式内社 武蔵國荏原郡 磐井神社 旧郷社
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磐井神社入り口
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鳥居のところに、神社由緒の石碑があります。
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磐井神社略記
当社は、人皇三十一代敏達天皇の二年八月始めて経営あり、神座の正面にいますは、応神天皇、左は大己貴命・仲哀天皇、右は神功皇后姫大神なり、社の側に【磐井】あり、伝え云ふ土人祈願の時此水を飲むに、祈る所正しきものは、自ら清冷にして、邪なるものは忽ち変じて塩味となる、斯る霊水なるをもつて、近国の病有る者之を服するに其效を得ること著し故に土俗之を称して薬水と曰ふ、磐井神社の名も全く此井有るが為なり。
其後五十六代清和天皇の貞観元年に、六十余州に於て総社八幡宮を選び定めさせ給ひし時、武州においては当社を以つて総社に定め給ひ、宮社に列せし由三代実録に載す、萬葉集に、アライガ崎笠島と詠めるは、此社の所在の地を指すなり、御神宝に、【鈴石】有り、此石は、神功皇后三韓御征伐の際、長門国に宿り給ひし時、豊浦の海にて得玉ひしものにて、御船中の玉座近く置かせられ、夷狭御征伐神国豊栄の基を開き玉ふ、又御凱旋の日は御産屋に置かせられ、御産平安皇子御降誕御在位繁昌の神徳を以て、此石を如意の宝珠と御称美あらせられしと云ふ、其後聖武天皇の御宇、磯川朝臣年足、宇佐宮に奉幣の時、神告に因り此霊石を授けらる、年足の嫡孫中納言豊人卿、当国に守りたし時、神勅に因り当社に奉納せりと云ふ此石打てば、サウサウとして鈴音あり、是れ其名有る所以なり、而して往時此神社の所在地一帯を鈴ヶ森と号せしも、亦た此鈴石あるを以て也。
当社鎮座の初め延暦の頃より永正年中に至る迄六百八十年間は、神威赫然として宮中繁栄たりしも、永正年中兵火に罹り本社末社共に皆鳥有に帰す。其後再営の功成つて復た昔日の如く建立せしも、天文年中重ねて火災に罹り鎮座の縁起其外の書簿悉く焼失し、是より再修ならず、神威日に衰へ、四基の鳥居は海中に倒朽し、宮地は潮波に損缺して漸く社のみわずかに残る、其後寛文年中、神主藤原善光・別当密厳院釈栄等悲歎に余り、社を再興す、天正十八年徳川家康関東下向の節当社に立寄られ参拝あり、其後元禄二巳年三代将軍家光参詣の砌、寺社奉行本田紀伊守を以て向後当社を祈願所に申付ける。
享保十巳年八代将軍吉宗、伊奈半左衛門をして本社拝殿末社共建立せしめられたり、近くは明治元年十月十二日、明治天皇御東行御通輦の際、神祇官権判事平田延太郎延胤をして、当社へ御代参せしめられ、奉弊料金千匹御奉納ありたり。(荏原風土記稿磐井神社由来)

手水舎
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参道両側に石灯篭、狛犬が並びます。
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明治四十〇年の石灯篭
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明治14年の炎尾型狛犬。
阿吽両方とも三頭の子犬を連れているのが珍しい。
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拝殿
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御祭神は、正面に應神天皇、左に大己貴命、仲哀天皇、右に神功皇后、姫大神。

拝殿扁額には「武蔵国八幡總社 磐井神社」とあります。
社伝によると、貞観元年(859)、宇佐より山城国石清水へ八幡大神が勧請された時、六十州ごとの総社八幡宮を定め、当社が武蔵国八幡総社と定められたという。
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社宝の「鈴石(すずいし)」と「烏石(からすいし)」。いずれも非公開。
大田区の文化財ページから。
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鈴石は神功皇后が長門の国の浦の浜でこの石を発見し、紆余曲折を経てこの社に納められたものだといわれ、大田区の文化財に指定されている。転がすと鈴の音がするというので江戸初期の頃に有名になり、鈴が森の地名はこの名に因んだものだと伝えられる。
烏石は、山の形をした自然石の上部に、墨で書いたような烏の形をした模様があるところからこの名が付けられた。もとは鷹石と呼ばれて麻布にあったが、松下烏石という人が移した。

神紋は「右三つ巴」
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拝殿前左右にある鉄製、昭和3年の天水桶。
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社殿は権現造り。
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本殿
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神楽殿
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社殿向かって右側に江戸文人石碑群があります。
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烏石の寄進の由来を記した烏石碑。元文六年(1741)
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竹岡先生書学碑。寛政八年(1796)
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㣭(=退)筆塚。天明六年(1786)
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狸筆塚。文化六年(1809)
狸が彫ってある。神社でもなぜ狸なのか不明だそうだが、筆に狸の毛が使われたことに因んだものかもしれない。
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筆塚二つは、文人たちが使用済みの筆を埋めた供養塚(何れも大田区の文化財)。

その前に置かれていて気になったのが、狛犬のような、そうでないような古い石像。
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境内社の「海豊稲荷神社」
名の通り、この地域の海が非常に豊かだったことが想像できます。
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笠島弁天社は、江戸時代には笠島神社と呼ばれていたようで、当時の祭神は、豊宇賀姫、猿田彦、菊理姫、天満宮、淡島、鹿島。池の中にあるため、弁財天となったのだろうか。
万葉集の「草陰の荒藺の崎の笠島を見つつか君が山路越ゆらむ」という歌が、この笠島弁天社のことだそうです。
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向背に牙をむき出して、けっこう荒々しい獣の彫刻がある。
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境内には大きな木が沢山ある。
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ご神木の大銀杏。
樹齢300年以上の木が二本あり、ともに焼け焦げている部分があるが、これは昭和二十年(1945)の戦災で焼けたもの。
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ここは、文字通りの「絵馬」
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本殿のすぐ後ろを、ひっきりなしに京浜急行の電車が通ります。
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まぼろしの邪馬台国

20140309

少し前だが、この映画が放送された。
いま私は、以前録画したDVDの画質が大画面テレビには耐えられないものは、こういう機会に再度録画してブルーレイに焼いている。
この映画もそうした。
この映画は、歴史好きな私にはとてもうらやましい映画だ。
二人三脚で支えてくれるのが吉永小百合だから、なおさらである(笑)

ストーリー:
邪馬台国があった場所を生涯探し続けた宮崎康平と、盲目の彼を支え続けた妻・和子の物語。

NHK福岡放送局のラジオ番組「九州の歴史」でMCを務めるフリーのラジオ声優(現代で言うパーソナリティー)・和子は、島原鉄道(島鉄)社長かつ郷土史家である全盲の奇人・宮崎康平を番組に迎える。彼は情熱と頑なさと包容力を併せ持つ人物であり、一声で惚れた康平は帰り際に島原へ来るよう勧める。
康平に対して怪訝な印象を持ったが番組の打ち切りで時間の空いた和子は、島鉄本社を訪ねる。そこで彼女が見たものは、傲慢なワンマン社長でありながら情の篤い康平の姿だった。康平は賃金の安さに不満をもつ社員のために観光バス事業を始め、和子をバスガイドの教師(講師)に任命すると言いだすが、和子の宿泊先として送り込んだ旅館で附けを溜め込んでいる事を知り、康平は金に対して非常に無頓着であることを知る。
観光バスは軌道に乗ったように見えたが、のちの集中豪雨で鉄道が土砂災害に遭う。線路沿いを歩いていた康平はふとしたことから縄文土器に命を救われ、「邪馬台国は九州にある」と仮説を立てることになる。しかし放漫経営が祟り康平は島鉄社長罷免の憂き目に遭い、和子は福岡に帰ろうとするが、康平からプロポーズを受け引き留まる。人となりに惹かれた和子は事実婚となり、魏志倭人伝を和子の読み聞かせにより読み解くなど邪馬台国の位置を研究することに情熱を燃やすことになる。家計が逼迫するものの、康平の助言で島原鉄道から有明銀行に転職した矢沢の計らいで頭取から当座の生活費の支援を受け、九州中を行脚する旅に出る。
1967年(昭和42年)に「まぼろしの邪馬台国」のブームが巻き起こる。康平は社業に復帰しバナナ園を開設させ、誠からは実妻の朋子の署名捺印入りの離婚届を受け取り、事実婚であった和子と正式に婚姻する。そして「まぼろしの邪馬台国」の内容に満足しなかった康平は新たな探訪を初める。1973年(昭和48年)、康平は「邪馬台国が埋もれている場所」を探し当て、そこに卑弥呼と邪馬台国が存在したと回想し、その場で倒れ、生涯を終える。

キャスト
宮崎和子・卑弥呼:吉永小百合
宮崎康平:竹中直人

私は、まだ「邪馬台国」については腰を据えて調べたことが無いので、畿内説と九州説があることくらいしか、頭には無い。

宮崎康平氏については、盲目でありながら、人を見る目の確かさとか、好きなことに対する徹底的な執念については、すごいと思い、私のような平凡な人間にはうらやましくてたまらない。
盲目の宮崎康平氏を支えたのは妻の和子さんである。九州全域から朝鮮半島にまでいたる調査に同行し、本人の目となり手となり支え続けた。無論本は口述筆記である。古代史のロマンを絡めながら、二人三脚で歩いた二人の人生は夫婦愛そのもの。

映画での妻の和子さんは、我々が思っている「吉永小百合その人」である。
献身ぶりも、品の良さも、明るさも、我々が吉永小百合に期待する、そのままの姿だった(笑)

会社から追い出され、二人の子供を抱えて途方に暮れる宮崎康平と和子が駅のホームで出合い、立ち尽くす二人。そこにSLがホームに入ってくる。
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二人で歩む決心をし、海辺を歩く4人。
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「魏志倭人伝」を読み、テープレコーダーに録音する。
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和子は康平のために、九州の立体地図を作り上げる。
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二人の史跡を訪ねる旅が始まる。
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ついに二人は「邪馬台国」のあった場所を探し当てる。
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宮崎康平の著書が「第一回吉川文学賞」に選ばれる。
二人三脚での労作として、妻和子との連名での受賞である。
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ネットがつながらない?!

20140308

今朝、いつものようにPCを立ち上げたら、インターネットがつながらない。
このトラブルは、いままでは「システムの復元」で対処していた。
何かの拍子にエラー、あるいはウィルスの悪戯で、設定がおかしくなる事があるからだ。

ところが、今回は駄目(泣)
そうなると、ウィルスソフトは、ネットにつながらないので更新が出来ないから「PCが危険な状態」だと騒ぎまくるし・・・・・・・・・・うるさい(怒)
こっちも困ってるのに、イライラさせるな(怒)
ネットにつながらないから、何度もプロバイダー接続のIDやパスワードを打ち込めとPCは要求してくるし(泣)

PCのアンテナマークがつながってないよ、と警告してるので、PCではなしと・・・・・

無線LANと光回線のモデムをチェックする。
無線LANのモデムの「お知らせ」ランプが点滅しているから、これより前みたいだな。

焦りまくっている私に、遊びに来ていた娘が「LANケーブル、新しいのに替えてみたら」と。

藁にもすがりたい私は、近くのヤマダデンキまで車を飛ばして買に行った。
LANケーブル交換したけど・・・・・・変わらん(泣)

万事窮すと、NTTの故障サービスに電話した。
出た女性が「プロバイダーは、どこをお使いですか?」と。
プロバイダー名を言うと、「只今、そこのユーザーさんから問い合わせが殺到してます。サーバーがダウンしているみたいです」・・・・・・・ガックシ(泣)

じゃあ、待ってみます、と電話を切って、待った。

16:30頃、何事も無かったかのように・・・・・・繋がりました(嬉)

ホッとするやら、頭にくるやら。
LANケーブル代損した(泣)
確認の順番間違えたのが、痛かったですね(笑)



万年筆洗浄

20140306

使用しているパーカーの万年筆のインクの出が悪くなった。
パーカーの万年筆は、誤飲事故防止のためキャップに穴が設けてある。
私の持っているのは天冠部である。
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インクが乾きやすいのかなと思っていたが、買ったのが12月で、
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1362.html

ほぼ毎日使っているせいもあり、そんなでもなかった。
インナーキャップが中にあって、そんなに大きな穴にはなっていないらしい。
3ケ月に一度くらいなら、負担にはならない。

この万年筆は、カートリッジ、コンバーター両用タイプ。
コンバーターでインクを吸い上げて使うか、カートリッジで使うか。
私は、通常カートリッジで使っている。

買った時に説明を受けていたので、そのコンバーターを着けてお湯を吸い上げ、吐き出して洗浄する。

コンバーターを着けたところ。
右側のグリップを回すと、吸い上げたり、押し出したりする。
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それで洗ってから、乾かして、カートリッジを着けて書いてみたら、良好、良好(嬉)


東京都民俗芸能大会

20140305

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3月2日(日)、表題の催しが池袋の東京芸術劇場であり、歴史クラブの仲間と観ました。
プログラムの中で、【川野の車人形/川野車人形保存会/奥多摩町】が、この間の雪害のため出場できなかったのが残念でした。

出演順に紹介します。

【江戸太神楽/丸一仙翁/文京区】
「丸一」は江戸時代から続く太神楽を代表する屋号の一つで、熱田派に属します。熱田派の太神楽は、寛文4年(1664年)に熱田神宮の許可を得て江戸へ赴き、悪霊退散を祈願し大小の屋敷を廻り、寛文9年(1669年)には江戸城で将軍家の上覧に供し、山王権現、神田明神の天下祭では先払いの役を務め、三代将軍家光のお墨付きで苗字・帯刀を許されるに至り、徳川家の御用神楽となって江戸に本拠を移しました。八代将軍吉宗の時代になり、将軍の命を受けて神楽を一般庶民にも供する機会が生まれ、江戸民衆の趣向に合わせて「獅子舞」はよりユーモラスなものとなり、また「曲芸・茶番」等が大衆化して「江戸太神楽(代神楽)」の名でいまに継承されています。

〇獅子舞
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〇曲芸
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【武蔵御嶽神社太々神楽/武蔵御嶽神社太々神楽/青梅市】
御嶽神社の太々神楽は、素面の神楽と面神楽に大別され、寛延2年(1誕9年)に神吉田流の儀式を舞にした素面神楽が、安永年間(1780年頃)に江戸眞先稲荷より神話を題材とした面神楽が伝えられました。以来、社家32戸の神職の世襲によって二百数十年にわたり継承されています。
 素面神楽は12座からなっていたとされますが、現在は奉幣(ほうへい)、剪(きり)、大散供(だいさご)の3座を残すのみで、面神楽は13座が受け継がれています。

○素面神楽
「奉幣」
素面神楽に分類されますが、現在は翁の面を付けて舞い、舞台の中央と四方に幣を捧げる神楽で、能の三番叟のように最初に必ず演じて舞台を祓い清めます。
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「剪(きり)」
神が宿る神聖な太刀を持って勇壮に舞う舞です。
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○面神楽
「天孫降臨」
記紀神話のおなじみの物語で、神楽ではまず猿田彦神が登場し、次に天穂日命(あめのほびのみこと)が現れますが驚いて戻り、次に天鈿女命(あめのうずめのみこと)が遣わされた後、瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)が登場します。そして、猿田彦神と天鈿女命が祝いの鈴舞を演じます。
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【箱根ヶ崎獅子舞/箱根ヶ崎獅子舞保存会/瑞穂町】
 箱根ヶ崎の獅子舞は、五穀豊穣と家内安全、雨乞いを祈願し、鎮守
の狭山神社の祭礼などで奉納されてきました。由来はつまびらかではありませんが、江戸初期に始まったものとされ、安政4年(1857年)には獅子頭を再建したとの記録が残っています。明治26年の山田範録(半六)の「再生記」によれば、江戸時代には盛んでしたが、元治元年(1864年)、幕末の世情騒然たる時期に一時中止となり、明治の半ばにその再興について有志にはかり復活。明治26年10月、鎮守の臨時祭礼を執行し獅子舞を奉納しました。昭和44年、箱根ヶ崎の古老より獅子舞の保存と継承について強い要望が出され、当時の狭山神社総代らが町民各層に呼びかけて後援会を組織し、保存会が結成されて現在に至っています。昭和47年には瑞穂町の無形民俗文化財に指定されました。

「棒づかい」
曽我兄弟の仇討の物語をもとにしたもので、「十郎と工藤の場」「五郎と朝比奈の場」からなり、二人が一組となって向かい合い、自分の身分を歌舞伎調の台詞で述べて、長刀と槍、太刀とくさり鎌による立ち合いを演じま
す。
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「獅子舞」
雄獅子の太郎と次郎、雌獅子の花子の獅子三頭に蝿追(はいおい)が加わり、笛の音と唄にあわせて舞います。獅子舞は、道行笛の後、四隅に竹を立て注連縄を張った角陣(庭)の中で演じられ、「入りは笛-くるい笛一廻れや車唄一歌がかり唄一女獅子隠れ唄一岩くだき唄一女獅子がかり唄一松山の唄-旭がくれる唄一道行にかえる」の順で進行します。
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【羽田囃子/羽田囃子保存会/大田区】
 羽田囃子は、江戸湊の漁師町としてひらかれた羽田地域の鎮守である穴守稲荷神社、羽田神社、六郷神社の祭礼で演じられてきたもので、その起源については、江戸期慶長年間や明治元年等の諸説がありますが、記された文献も現存せず定かではありません。戦前までは祭囃子は盛んで、穴守、鈴木新田、大東、仲東、上東、下仲、稲荷前、横町、前河原、西町、中村、上田などの各集落に笛や太鼓の名人たちが出てその技を競いあったと言われますが、戦後は演奏者の数が減少し、伝続を途絶えてはならないとの地域の人々の想いから、昭和26年4月に保存会を結成。現在は羽田囃子保存会として祭囃子を継承しています。
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【三宅島の獅子舞/伊ケ谷郷土芸能保存会/三宅村】
 歌と踊りの宝庫~伊豆諸島のなかでも、三宅島は民俗性豊かな祭事芸能が数多く継承されています。島内の数多くの芸能は、二年に一度、8月4日から9日に行われる富賀神社夏大祭で披露されます。この大祭では、豊年万作を願い、神輿が島内5地区(阿古、伊ケ谷、伊豆、神着、坪田)をそれぞれの集落にある御旅所に1泊ずつしながら時計回りに巡行しますが、伊ケ谷では獅子舞が神輿の先導役となって練り歩きます。
 伊ヶ谷の獅子舞は、古くから2月の初午に家内安全を祈願し、集落の家々を廻り演じられてきました。もともとは江戸時代に流人により始められたと言われ、江戸期には流刑の地であった三宅島は、多くの流刑者とともに本土の習俗や文化がもたらされました。明治になって、獅子舞は流人のはじめた事という理由で中止となりましたが、その年に伊ケ谷地区のおよそ半数の家々が焼失するという大火事が発生しました。
 村人たちは獅子舞の中止が大火事の原因であると悔い、再び獅子舞を復活させ、以来、火伏せの獅子としていまに継承されています。
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最後に客席を廻って、頭を噛んであげるという大サービスでした。
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鎌倉街道「小手指道」など(2)

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2月28日(金)に歴史クラブ行事で歩いた前記事の続きです。
藤森稲荷神社からちょっと歩くと全徳寺です。

【全徳寺】
所沢市北野南2丁目13−5

石標と山門
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曹洞宗の寺。山号を梅林山といい、寺伝によれば、永禄年間(1560頃)に、開山の顧山明鑑和尚が、地区内にあった無住の数寺を統合したものと言われている。ちなみに、顧山明鑑和尚は、永禄11年1月6日遷化と石碑にある。

参道には数本のロウバイが植えられており、甘い香りが漂っています。
観光協会の花の名所作りの一環として植樹したことから、ロウバイの寺として有名となった。
ロウバイは「蝋梅」と書くことから、梅の一品種であると思われ易いが、梅はバラ科サクラ属であるのに対し、ロウバイはロウバイ科ロウバイ属の落葉低木なのだ。花弁がロウの様なイメージだから付けられた名前だそうです。
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山門は切妻造りの一間一戸四脚門で、正面に唐破風を付したしっかりとした立派な門。山号の梅林山と書かれた扁額が掛かり、両脇の透かし彫りが美しい。
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山門をくぐると、白梅・紅梅が左右にあります。
白梅は、傷んだところを大分切り詰めたようで、痛々しいですがしっかりと花を咲かせていました。
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歴史クラブの先輩の方から、元気なころの写真をいただきました。
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花は大分開いています。
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紅梅は、ほんのちょっぴりほころびているだけでした。
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13代住職の雲溪は墨梅画の作者として名をはせたそうです。

本堂には、本尊釈迦如来と脇侍の文殊・普賢菩薩の三尊仏が安置されています。
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観音堂には、普悲観世音菩薩が安置されています。新しく造像した大きな尊像が安置されていて、本体は本堂内に安置されているそうです。
武蔵野33観音第12番札所。
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普悲観音は、別名を普照観音(ふしょうかんのん)とも言い、大自在天身をあらわす観音さまで、大千世界で衆生を済度するのだそうです。
岩座の上に立ち、両手を袖の中に人れて法衣に隠す姿をしています。全身を衣で被った白衣観音の姿で表され、平等普遍の慈悲を強調した姿とされている。
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恵比須、大国さんと布袋の碑
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境内に秋葉権現もあります。
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福寿草が咲いていました。
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【北野天神】
ここは、武蔵国式内社めぐりで既に記事にしていますので、こちらを参照してください。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1366.html

境内は参道の森の木が高いために日陰が多く、雪がかなり残っていました。
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今回は、梅が咲いてるのではと楽しみに来ました。
拝殿前の梅。期待していたのですが、まだあまり咲いていませんでした。
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前田利家が植えたという「大納言梅」は、二つ三つ咲いていたのみで、まだまだでした。
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【小手指原古戦場】
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この一帯では、たびたび合戦が繰り広げられました。中でも新田義貞による鎌倉攻めの戦いは、印象的であったことを地名や伝承地などからうかがうことができます。
上野国(現在の群馬県)を本拠とする新田義貞は、鎌倉幕府を倒すため兵を挙げ、元弘3年(1333)5月8日に新田荘を出ます。初め150騎ほどであった一行は、兵を進めるに連れて沿道の武士が加勢し、数を増やしていきました。鎌倉を発った幕府軍との合戦の火蓋は、5月11日に小手指ヶ原で切って落されます。戦いは一進一退を繰り広げる激戦となりましたが、幕府軍は徐々に新田軍の進軍を許すところとなり5月22日に陥落、鎌倉幕府は滅びました。

【白旗塚】
新田義貞がここに陣を張り、源氏の白旗を立てたと伝わる。
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前方後円墳型の塚で、塚の頂上には白旗塚碑や石祠の浅間神社があります。小手指原には白旗塚以外にも数個の塚が以前にはあったそうですが現在はこの塚しか見あたりません。
白旗塚は古代の古墳であると考えられていますが、又このような小山の塚は富士山に似ていることから富士信仰の対象として頂上に浅間神社が設けられることが多いようです。一説には江戸時代に冨士講の人達が人工的に作り上げた丘であるともいわれているそうです。
この塚の真相は謎に包まれたままのようです

登り口には比較的新しい古戦場碑が建っています。そこには以下のように刻まれています。
古武将の御魂祭れりこの塚を
護り通せと先祖より受
此の塚を壊せし者は忽ちに
霊魔を受けて死するやもあり
武蔵野の小手指ヶ原古戦場
月の光は変らざりけ里
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この塚も、一時大分荒れ果てたが、郷土の貴重な史跡を守ろうと、地元の有志、近くの北野中学校生徒述べ350名が、5年の歳月をかけ、バケツで土を運んで盛り、植栽して整備したと、碑文にありました。
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頂上には、「白幡塚」の碑と浅間神社の石碑がある。
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【所沢埋蔵文化財センター】
所沢市内の各遺跡から発掘されたものを展示しています。
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入館者のカウンターを「ドングリ」でやっていました。面白い。
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縄文土器などの展示も豊富でした。
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私は、黒曜石と云うと長野県和田峠しか頭になかったのですが、驚いたことに男鹿半島とか、果ては神津島から来ているんですね。これには驚きました。
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泥メンコという玩具があったことを初めて知りました。
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江戸時代、所沢にはこんなにも古道があったのです。驚きました。
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国指定天然記念物・国内希少野生植物種の「ミヤコタナゴ」を飼育していました。
繁殖する習性が、二枚貝の体内に産卵するとは、驚きました。
所沢市では、水槽の中にミヤコタナゴと二枚貝を入れ、自然繁殖を試みていましたが、二枚貝が水槽内では長く生きられず、うまくいかないため、現在人工増殖によって種の保存を図っているそうです。
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【誓詞橋】
誓詞橋(せいしがはし)は新田義貞が所属した軍兵に討幕の誓詞をとって忠誠を誓わせた所と伝えられています。
国道463号線沿いにあります。
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誓詞橋の石碑
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「百番供養塔」が横にあります。
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よく注意して見ないと橋を見落としてしまいそうな小さな橋です。
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欄干は馬に跨って進軍する兵の装飾になっていました。
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(了)


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鎌倉街道「小手指道」など(1)

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2月28日(金)に歴史クラブ行事で歩きました。
西武球場前から歩き始めて、清照寺、天満天神社、藤森稲荷神社、全徳寺、北野天神社、小手指ヶ原古戦場、所沢市埋蔵文化センター、誓詞橋まででした。
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このルートで、鎌倉街道「小手指道」沿いに該当するのは、北野天神社から誓詞橋までです。
テレビ埼玉編「鎌倉街道夢紀行」より
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北野天神社から山口中氷川神社、山口城址の辺に鎌倉街道は向かうのですが、ここは以前訪ねています。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1218.html
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1219.html

今回は、山口地区からもっと狭山湖寄りの史跡を訪ねながら北野天神に出るルートを行きました。

歩き出してしばらく行くと、狭山湖の堰堤のところに出ます。
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【清照寺】
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まだ日陰には雪が残っていました。
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本堂
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無縁墓
昭和4年、山口貯水池建設のため、用地内の北峰墓地の各家の墓を当寺の墓地に移したが、工事が始まると墓地跡地から多数の遺骨が出てきたのを葬ったものという。
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清照寺入り口前の石仏群
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宝暦14年(1764)建立の「庚申塔(?)」
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「不食念仏供養塔」
金剛界大日如来の刻像で、銘文は「不食念佛供養 延宝五丁己天十一月吉日」とある。不食とは毎月特定の不食日を決め、食を断って念仏を唱えることで、関西地方でも盛んに行われたようです。
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天保10年(1839)建立の「光明真言百五十万遍供養塔」
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光明真言の24文字の梵字は、円形に刻まれて真下から時計回りに読みます。
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昨年、狭山市のガイドの会に所属する私は、光明真言供養塔について説明したことがあります。
日本語にすると、下記のようになります。
帰命 不空 光明遍照 大印相 摩尼宝珠 蓮華 焔光 転 大誓願
意訳は:
帰命・効験空しからざる遍照の大印、すなわち、大日如来の大光明の印よ、宝珠と蓮華と光明の大徳を有する智能、をして菩提心に転化せしめよ。


【天満天神社】
清照寺から山道になり、歩いていくと皆立ち止まって見てしまう、良い感じのお宮さんがありました。
今日の予定には入っていませんでしたが、寄ることになりました。
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社号標
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一の鳥居
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石段を上りきると、狛犬と二の鳥居。
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拝殿
祭神は、菅原道真公
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向背の龍の彫刻は高さもあり、玉を掴む足などといい、立派なものでした。
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海老虹梁はシンプル。
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お参りしてから、裏に向かうと覆い屋の中に流れ造りの本殿が鎮座していました。
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隣に八坂神社
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狛犬が、ちょっと牙が怖いが、古風な感じで良かった。
台座には、元は天満天神社拝殿前に置かれていたとあります。
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その隣に「火消し稲荷神社」
謂われは、狭山湖築造でこの地に移転したが、不心得者の放火で一部を焼失した。分解したところ不思議なことに御神体のところで延焼を免れて火が止まっていた。以降火消し稲荷と称することにしたとありました。
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境内に紅梅が一本咲いていた。
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この辺は「緑のトラスト保全地」です。
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とても気持ちのいい山道。
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【藤森稲荷神社】
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「藤森稲荷」の名だが、ここには樹齢百数十年の藤の老木があり、境内いっぱいに張り巡らせた藤棚に咲き乱れる藤は見事なものらしい。
藤があるから、「藤森稲荷」なのだと納得する面もある。

しかし「藤森稲荷」は、伏見稲荷の古い呼称でもある。
 「伏見稲荷大社」という社名が正式に用いられたのは昭和21年。意外にも極めて新しいのだ。江戸時代、伏見稲荷は、色々な名称で呼ばれたらしいが、その中で「藤森稲荷」は、少なくとも江戸時代には、伏見稲荷の名称として、関東を中心に広く用いられたそうである。

「藤森稲荷」の名が先で、そのため藤が植えられたのかもしれない。

参道の両側に巨樹が二本。切り詰められて痛々しいがそれでも頑張っている。
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社殿
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中には、小さな社が置かれていた。
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樹齢百数十年の藤
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(続く)


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上野寛永寺・徳川霊廟特別拝観

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歴史クラブで親しくしていただいている方から、表題の件で、行きたいのだが5人以上の団体でないと申し込めないので参加者を集めて欲しい、との依頼があり、メールリストを使って募集したら14名集まり、2月26日拝観となりました。
前記事のように、午前中亀戸天神で梅を見てから上野に移動しました。当初は鶯谷駅から行く予定だったのですが、時間に余裕があったので上野駅で降り、上野の山を散策しながら移動し、早目に会場の根本中堂に着き、境内を見て回りました。
この「根本中堂」は初めてでした。
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根本中堂は、以前は国立博物館の前の大通りの噴水の場所にあったそうです。
皇子を山主に迎え、日光輪王寺、比叡山の山主も兼ねたため、寛永寺の権威はすごくて、比叡山の根本中堂に肩を並べる立派なものだったらしい。
しかし、幕末維新彰義隊の戦いの後、警護する官軍の兵士が「こんなものがあるから俺たちは寝ずの番をしなければならないのだ」と火をつけて燃やしてしまったという。
これは当の兵士の書いたものが残っていて確かなことらしい。

で、今の建物は川越の喜多院からは運ばれたものだと説明を受けてビックリしました。

名僧・了翁禅師の塔碑・坐像
霊薬「錦袋円」の処方を夢に見て、不忍池付近の薬屋にて販売、その利益で難民救済、寛永寺に勧学寮(図書館)の設置などを行った。
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尾形乾山墓碑、乾山深省蹟
乾山没後いつしか墓の在処も忘れ去られてしまい、酒井抱一の手によって探し当てられ、顕影碑である「乾山深省蹟」も建てられた。
ここにあるのは、有志によって復元建立されたもの。
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虫塚
伊勢長島藩主「増山雪斎」が写生図譜「虫豸帖(ちゅうちじょう)」の作画に使った虫類の霊をなぐさめるために建てたもの。
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彰義隊戦争の戦火を逸れたものも幾つか残っています。
「瑠璃殿」の勅額(東山大皇御宸筆)
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左右の大水盤2基
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四代将軍家綱公御霊廟の梵鐘
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左右二基の銅灯篭も立派なものでした。
笠蕨手に龍、火袋に天女、中台に龍、基礎格狭間に獅子。
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鬼瓦
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撮っていたら飛行機が(笑)
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時間になり、根本中堂の中に入り、まずはお坊さんの寛永寺についての説明を聴き、本尊に般若心経でお参りしました。
お坊さんの説明は、ちと長かったけれどとても分かりやすくて為になりました。

根本中堂須弥壇には、本尊の薬師如来三尊を中心に、四天王、十二神将が並び、壮観でした。
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根本中堂裏手にある「慶喜公謹慎の間」も拝観しました。
上方から江戸に戻った慶喜は、一か月の間幕閣の議論を聴取したあと、一意謹慎を決意し寛永寺に入る。江戸の行く末を見届けたいと思い、江戸城の無血開城の日までここに留まり、この日早暁水戸に向かわれた。
外観。渡り廊下の右手の平屋。
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いよいよ徳川霊廟です。
4代家綱公の墓所もありますが、こちらは今回は見られませんでした。
配置図
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徳川綱吉霊廟勅額門
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霊廟は、やはり広くて、アプローチが長くて、立派なものでした。

五代綱吉公宝塔と八代吉宗公宝塔
幕府の財政がまだ潤沢だった綱吉の時代とそろそろひっ迫してきた吉宗の時代とで、やはり宝塔の出来が違っている。
吉宗の霊廟が綱吉の隣にあるのは、紀州徳川家で幼年の時代四男だった吉宗は、綱吉が紀州家を訪れた際お目見えから外されていた。綱吉が「まだ子供が居たのでは」と云い出し、吉宗もお目見えが叶い褒美も頂戴した。
その時の恩を吉宗は忘れず、自分の墓は綱吉公の傍にと遺言したそうである。
寛永寺パンフレットから
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天璋院篤姫墓所
大河ドラマの影響で、私もこの人のファンです。
家定公の隣にありますが、実はこれはそれまでのルールからしたらあり得ない事だそうです。
将軍の正室といえども、墓は谷中か伝通院などに設けられた。
慶喜が去ってしまった徳川宗家を守るため6歳の十六代家達公の養育に余生を捧げ、徳川家のために生涯を捧げた篤姫に対し、家達、勝海舟などの計らいで、既に明治になっていたこともあり、ここに眠れることになったそうです。
勅額門前説明板の写真
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十代嫡子家基公墓所
案内のお坊さんは、ここは素通りしましたが、私は遠くから手を合わせました。
ここにお参りできたのが、私にとっては一番嬉しかった。
このブログでもずっと記事にしている、佐伯泰英の『居眠り磐音 江戸双紙』がありますが、主人公の磐音は将軍家の陰の警護役「佐々木道場」の養子となり、家基の指南役も務めます。嫡子家基は聡明でそれまでの側近政治を改め自ら政治の改革に意欲を燃やします。
それに対し田沼意次は、家基の代になったら田沼家の権勢が終りを告げると危惧し、家基を暗殺してしまいます。
佐々木道場は取り潰され、養父夫妻は自害、田沼の刺客から逃れるため磐音はおこんと共に江戸から逃避行の旅に出ます。

拝観が終り、鶯谷駅に向かうときに霊廟をかこむ石垣が良く見えました。
この石垣は、江戸時代に無かったもので、板塀に囲まれ警護の侍が居ました。維新となり、そういう訳にはいかなくなったので、荒らされるのを防ぐため勝海舟が築いたものだそうです。
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プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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