ロビ第52号&53号組立/ロボット「ロビ」

20140429

【第52号】

第52号で紹介されているロボットは、(株)ココロの「アクトロイド-DER2」
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恐竜ロボットとか、博物館などに歴史上の人物を再現したロボットを納入していた。
若い女性のロボットをチャレンジして、最初に発表したのが2003年の国際ロボット展。2005年の愛知万博では4体のロボットを製作。
動作は圧縮空気でシリンダーなどで実現。
現在、受付ロボットをレンタルしている。

デモンストレーションなどの動きは、3分ほどの動きを作るのに2~3週間かかるという。
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下の写真のように、指を曲げることもできる。表情も豊か。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① 両脚をヒップカバーに取り付ける
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② 腰フレームにサーボケーブルを通す
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③ 腰フレームに充電ジャックケーブルを通す
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④ 腰フレームを取り付ける
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⑤ 右脚のケーブルにテープを貼る
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⑥ 下腹カバーを取り付ける
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完成品
下半身が出来上がった。
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【第53号】

第53号で紹介されているのは、「ガンプラ」を開発生産する「バンダイホビーセンター」です。
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人気アニメ「機動戦士ガンダム」シリーズに登場するメカニックをプラモデルにした「ガンプラ」はこれまでに4億個以上を販売しているとのこと。
私は若い頃、飛行機のプラモデルはずいぶんと作った。
それ以外には、ほとんど手を出さなかったが、ガンダムは形に惹かれて、今でも数えてみたら6体持っている。

ガンダムシリーズは、二次元のアニメから三次元の製品を創りだす。
また飛行機や車とは違い「関節が動く」ことが求められるところに難しさがある。
だから、設計は本当に大変だと思う。

プラモの成形品と完成品
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① ヘッドスタンドからマフラーを取り外す
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② ヘッドスタンドを組み立て直す
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③ マフラーにネックフレームを取り付ける
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④ ネックフレームにワッシャーを取り付ける
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⑤ サーポケーブルに保護シールを貼る


完成品
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飯能から仏子~寺社と板碑を訪ねて~(2)

20140428

25日(金)に歴史クラブの行事で歩いた、前回記事の続きです。

【岩沢白鬚白山神社】
所在地:埼玉県飯能市大字岩沢字宮の西533

お宮さんの前に西武池袋線の踏切がある。
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社号標 村社 白鬚白山神社(しらひげはくさんじんじゃ)
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社号標は「白鬚(しらひげ)」となっていて、境内由緒書には「白髭(しらが)」となっている。

霊亀2年(716年)の創建と伝えられる。明治5年(1872年)に村社に列格し、明治11年(1878年)に近隣の6社を合祀した。

鳥居
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手水舎
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他には見当たらず、ここにだけ神紋があり「十七弁八重菊」
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拝殿前の、大正9年建立の流れ尾型狛犬。
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拝殿
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主祭神は、白髪武広国押稚日本根子天皇(しらかのたけひろくにおしわかやまとねこのすめらみこと)、白山菊理媛命、韓姫命(清寧天皇の母)

白鬚神社と白山神社が一緒になっている珍しい神社である。

『新編武蔵風土記稿』では「白髭白山唐土明神合社」として紹介されている。唐土明神と唱えているのはやはり渡来系の神であることを意識しているからだ。(白髭となっていることに注意)
当社は口碑によると、霊亀二年(七一六)に創立されたという。
霊亀二年といえば、駿河関東七国から高句麗人1799人を武蔵国に移した。この時高麗王若光が郡の長官に任命された。高麗王若光を祭神として高麗神社がある。若光は晩年白鬚を垂れ、白鬚様と親しみ尊敬されていたので、高麗神社は別名「白鬚明神」ともいわれた。
狭山市にも高麗神社系統の「白鬚神社」が多い。ただし祭神は猿田彦である。
古墳時代の遺跡が入間川を下った隣の入間市野田、笹井、広瀬、柏原などには比較的多く存在することも併せて考えて、入間川沿いの白鬚神社つながりで、同じ系統の人々と考える見方もあり、かもしれない。

白山神社の祭神は菊理姫であるが、「ククリヒメ」をコクリヒメに転じ、高句麗=白頭山=白山との関係性を指摘する説もある。

両社ともに高麗郡=渡来人と何らかの関わりがあった神社である可能性は高い。

問題は、主祭神の白髪武広国押稚日本根子天皇である。
元亀・天正年間(1570~1593)に描かれたという古地図には「白髪社」と記されているそうなので、『延喜式』神名帳の「白髪神社」に付会して清寧天皇及び韓姫を祭神として定めた、ということが背景としてあったのかもしれない。
*『延喜式』神名帳の「白髪神社」は熊谷市妻沼にあり、祭神は白髪武広国押稚日本根子天皇。

だから、社号標と境内由緒書が統一されていないのは、「白鬚」と「白髪」両説が存在するのだろう。

拝殿内部
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拝殿の後ろに幣殿と覆殿の中に本殿となっている。本殿はまったく見ることが出来ない。
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本殿は石積みの上に鎮座している。覆殿の周りにグルッと絵馬が掛けられている。
本殿のすぐそばに掛けたほうが、神様に近くて願いがかないそうだ(笑)
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境内社
大日霎貴神(おおひるめむちのかみ)・大山祇神・倉稲魂神・天満天神・大国魂神・比売神を祀る。
大日霎貴神(おおひるめむちのかみ)は、天照大御神の別名。
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ご神木は枯れて、大きな根元が残っている。
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境内の隅に「加能里遺跡」の表示がある。
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その傍らには、旧六道交差点にあった石仏、「庚申塔」と「読誦塔」が安置されていた。
同行していたIさんは、ずっと古道を追いかけているのだが、昨年この石仏を捜したがわからなかった、と感慨深げだった。

「庚申塔」
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「読誦塔」
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元加治の駅前を経由して、円照寺に。ここから入間市になります。
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【円照寺】
所在地:埼玉県入間市野田158  

山門
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当山は平安の初期宗祖弘法大師龍燈桜の奇瑞を感じ霊泉を加持して堂宇を創立したと云う。
鎌倉の初期宣化天皇の遠孫加治太郎実家が当地に住し、弟左衛門尉家季が元久2年6月23日二保川の戦いで畠山重忠と戦い野田与一経久と共に討死した。その子の加治豊後守家茂が父家季の菩提の為、円照上人を開山として開基したのが始まりである。
康元元年(1256)になって高野山より丹党の氏神である丹生明神、また厳島より弁財天を勧請して丹党一族の鎮守として改めて尊永上人を中興開山に加治家を大檀越とした元弘3年(1333)5月22日鎌倉幕府はその幕を閉じ、同時に守護加治左右門入道家貞もこれに殉じて絶えたが、その一族は新田氏とともに南朝に味方して武名を揚げ元亀ー天正(1570-1592)の頃、加治左馬助にいたるまでの加治家菩提寺として大いに栄えたが、その後はやや衰退した。

境内に入ると、大きな池がある。
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弁天堂
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真ん中の道をいくと本堂。
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この円照寺には国指定重要文化財の鎌倉幕府滅亡に関係した板碑がある。
高さ137センチメートル、幅38センチメートル、厚さ約5センチメートルで、胎臓界大日如来(アークン)の種子が蓮花座に乗り、脇侍にウーンとキリークが刻まれています。注目すべきこととして偈に執権北条時宗が南宋より迎えた名僧の無学祖元の臨剣頌という七言絶句が刻まれています。
残念ながら、実物は収蔵庫の中にあり、拝見は出来ませんでした。
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今年の2月2日(日)に埼玉県立嵐山史跡の博物館主催のシンポジウム「東国武士の精神世界」を聴講しましたが、そのときに詳しく説明をしてもらっています。
その記事には、下記をクリック。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1396.html

それを読んでもらうとして、ここでは板碑に書かれていることを説明した図版のみ載せておきます。
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驚いたことに、今年谷中で初めて見た鬱金桜(うこんざくら)が、ここにもありました。
もう咲き終りの時期で、ほとんど桃色に変わっていたが、所々薄黄緑の花が残っていた。
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まだ薄黄緑の花が残っているところ。
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【上橋と大ケヤキ】
入間市の景観50選の一つ。
全長80.34メートルの上橋は、欄干の形や高さに工夫を凝らし、周囲の景色に溶け込むようにしたほか、中央に見晴らし台が設置されています。
また、市の木に制定されているケヤキ。ここは市内のケヤキの中でも、象徴的な光景のひとつです。
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橋の上から流れを眺めていると、大きなサギが居た。
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【建長の板碑】
所在地:埼玉県入間市仏子239南 仏子共同墓地
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初期大型板碑の典型で、市内では高正寺の板碑に次いで古いもので、鎌倉時代の建長5年(1253)の銘があり、県内でも50番以内に入る古いものである。 
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頂部山形は尖り、下に二段の切込。身部の輪郭はない。
主尊の阿弥陀種子は、素朴さを帯びており、
阿弥陀如来の種子「キリーク」が縦40センチメートルもあり、脇侍の種子「サ」・「サク」に比べ、極めて大きく薬研彫されている。
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【高正寺】
所在地:埼玉県入間市仏子1511

今から約800年ほど昔鎌倉時代の初期、この地の豪族金子余市近範公によって開創された古刹である。
近範公は当時この加治丘陵で製鉄業を営む(今でもこの丘陵からは良質の砂鉄が出る)豪族で、その戒名を高正寺殿関叟常鉄大居士と称し、諏訪神を守護神としていたところから、当時は現在諏訪山萬齢院高正寺と称する。本堂には近範公の持念秘仏、虚空蔵菩薩を安置し、御前立聖観世音菩薩が札所霊場本尊である。
当山の聖観音像は、左の御手に蓮華蕾ではなく、開花した蓮華を持しておられる飛鳥形式の御影である。
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中央の石段の上には、立派な鐘楼門がある。
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本堂
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大型板碑5基がある。
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左から2番目は、建長2年(1250)庚成7月29日と刻まれる(紀年銘が残っているものとしては市内最古)。
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左から4番目は、市内最大:高さ2.05m。紀年銘の部分が欠損しているため年代が分からなかったが、山口県萩市の金子氏ゆかりの家から紀年銘が書かれた当時の資料が見つかり、市内最古(寛元4年[1246])と判明した。
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この「山口県萩市の金子氏ゆかりの家」だが、調べていると下記のような金子氏の流転がわかったので、ちょっと長いが掲載しておく。
金子氏の本領であった旧入間郡仏子村の高正寺に所蔵されている「金子家系譜」にみえる家長・正助父子が、家長・充忠父子と同一人物と考えられる。同家譜によれば、家長は北条氏康に、正助は天文十四年より氏康・氏政に属したとある。
 天文十四年九月、上杉憲政・同朝定は氏康の部将北条綱成が守る武蔵国河越城を攻め、翌年、朝定は討死し上杉方は大敗した。家長父子にあてたさきの氏康判物は、この合戦ではじめ上杉方に属していた家長らを誘い、本領の安堵と新恩の地を与えることを約束したものであった。
 その後、金子十兵衛は北条氏照の下野進出に従った。この十兵衛は正助の子家定と考えられる。北条氏照は下野国小山・榎本両城と下総国関宿・栗橋・水海の諸城を支配したが、その小山城の番衆に金子左京亮がおり、左京亮は氏照から久下郷代官を命じられ、栗橋城の普請役を課せられている。
 天正十八年、豊臣秀吉による小田原征伐で、武蔵国内の後北条氏支城は前田利家・上杉景勝の軍勢に攻撃された。上杉勢が武蔵松山城を攻めたとき、城主上田朝直は小田原本城に詰めていたため、金子紀伊守家基は難波田・若林の諸氏と留守居を勤めていたが、かれらは上杉方に降り、その先兵となって八王子城を攻めた。  家譜によれば、家定の弟正義は、北条氏政・氏直に仕え、天正十八年直江兼続の手に属して討死したとある。兼続は上杉景勝の重臣であるから、八王子城攻めに上杉方に属して討死したものであろう。一方、金子三郎右衛門は八王子城内金子丸を守って討死している。
 高正寺所蔵家譜によれば、正助の子家定は天正十五年(1587)に死去し、家督を継いだ政熙は、北条氏滅亡ののち上杉景勝に属し、慶長五年(1600)の徳川家康による会津出兵によって、景勝の領地が削減されたとき浪人の身となった。その後、京都守護代板倉勝重に仕え、その子政景は板倉家の老臣として重用されたとある。のち政景はある事情から自害し、長門藩主毛利秀就の家臣宍戸元真の女であった政景の妻は、子就親を連れて実家の宍戸家にもどった。そして、就親は外祖父の主家毛利氏に仕えたのである。
 戦国時代の末まで武蔵国にあった金子氏文書が、西国の萩藩士の家に伝来したのは、政景の妻子が実家である宍戸家に帰ったときに持参したからであった。


鐘楼門の前には石の16羅漢像が並んでいた。
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その表情が豊かなので、全部写真を撮ってきた。
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本堂の左側、少し高い所に建つアイボリー色の六角堂は、招福殿と名付けられた大黒天を祀るお堂である。
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更に上の方に五重塔があるというので、上がっていった。

途中のお堂、掲額の字が達筆すぎて、浅学の私には読めない(汗)
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ここからの眺めは良かった。
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更に上の方に五重塔が見えた。
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やっと、たどり着きました。
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傍らに、お地蔵さんと並んで、金子余市近範公によって開創された寺であることを説明する碑があった。
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そのちょっと上に、奥多摩新四国八十八霊場第69番本尊を祀ってある。
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傍に、稚児ユリが咲いていた。そこはまったくの日陰なためだろうか、同行した詳しい人が「それにしても小さい」と云っていた。
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これにて、全コース終了。近くの仏子駅から帰途につきました。


(了)



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飯能から仏子~寺社と板碑を訪ねて~(1)

20140426

昨日、25日(金)に歴史クラブの行事で歩きました。
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【大光寺】
所在地:埼玉県飯能市大字川寺48甲
真言宗智山派の寺院、山号は能満山。

入り口
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普通、「不許葷酒入山門」とか謳っているのを、「制葷酒」と三文字としているのがいい。
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入ってすぐに虚空蔵尊堂などが並んでいるが、道を挟んでいる本堂のほうに行く。
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境内
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姿の美しい本堂
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虚空蔵尊堂に戻る。
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ここに伝わる双盤念仏
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私は、このお堂の壁に装飾されている干支の彫刻に着目。全部撮ってきました。
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正面中央が「子」です。
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文化4年(1807)の宝篋印塔
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【願成寺】
所在地:埼玉県飯能市大字川寺688−1
真言宗智山派
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本堂と宝篋印塔
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ここでは、大型板碑群が有名なので、墓地にあるのを見に行く。
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後列五基の内、三基が南北朝時代、二基が鎌倉時代中期の造立。
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荘厳体阿弥陀種子板碑は、後列の左から二番目。
身部は輪郭線を巻き、三弁宝珠の下、荘厳体で阿弥陀の種子を蓮華座上に薬研彫し、下に観無量寿経の偈と紀年銘を刻む。
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すぐ傍から、急激な崖となっており、下に成木川が流れ、山藤が咲いていた。
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【加治橋から阿岩橋】
次の図面を参考にして、歩きました。
2004年に入間川4市1村によって合同企画展「入間川再発見!」が実施されました。そのときに発行された案内「入間川散策ガイド」のコースの一つ「入間川中流の橋と堰をめぐる」の加治橋から阿岩橋に関する部分の抜粋です。
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その中で、寛政3年(1791)の「御普請場絵図」というのが、これ。
現在の橋が書き込みされたもの。
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加治橋
昭和3年(1928)に架設、昭和36年(1961)に大雨のため崩壊、昭和39年(1964)平成13年(2001)に架け替えられた。架設当初の親柱が保存されている。
川寺の渡し跡:落合、川寺、笠縫の3字共有で明治20年(1887)に渡船営業を開始した。大正元年(1912)に橋が架けられ、通行料を徴収していたが、加治橋開通で廃止された。
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上流で成木川が合流している。
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架設当初の親柱が保存されている。
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今の加治橋
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桜並木が見事
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御普請場の石が残っている。
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野草も沢山咲いていた。
二輪草
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金瘡小草(きらんそう)、別名をジゴクノカマノフタというが、これは薬草として使われ、「病気を治して地獄の釜にふたをする」ということからである。
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土手の上に気持ちのいい道が続く。
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花みずきが満開だ。
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「真善美の小道」と名付けて整備されていた。
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JR八高線鉄橋にきた。
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地元では「阿須の鉄橋」と呼ばれるが、正式には「入間川橋梁」という。昭和6年(1931)に完成した鉄橋で、延長257.4m、水面からの高さは15mある。
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すぐ傍の四阿で、持参のお弁当で昼食。

八高線は本数が少ないので、なかなか電車が来ない。食べている最中にやって来たので、飛び出して撮った。
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昼食休憩後、ちょっと歩いて阿岩橋を渡ります。
以前は阿岩の渡しと呼ばれる渡船場があったが、明治45年(1912)に簡単な板橋が架けられ、通行料を徴収していた。その後、昭和36年(1961)に架け替えられた。更に平成24年(2012)に架けられたばかり。

右側の橋が、昭和36年に架けられ、つい最近まで使用されていた橋。
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橋のたもとに、大山街道と阿岩の渡しの説明がある。
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その傍にあった馬頭観音
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【見光寺】
所在地:埼玉県飯能市岩沢1092
曹洞宗
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14世紀後半と推定される宝篋印塔
隅飾突起が直立していて、江戸時代より前の特徴となっている。
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四面に刻まれた金剛界四仏の種子が、このように判り難くなっているが、この後の明王寺のものと同じなので、それを参照ください。
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【明王寺】
所在地:埼玉県飯能市岩沢999
真言宗智山派
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本堂内部
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本尊の不動明王
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元文3年(1738)の宝篋印塔
隅飾突起が逆ハ字形に広がっているのが、江戸期の特徴です。
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四面の種子

東は、阿閦あしゅく如来(ウーン)
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南は、宝生如来(タラーク)
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西は、阿弥陀如来(キリーク)
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そして北は、上空成就如来(アク)
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(続く)


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ロビ第50号&51号組立/ロボット「ロビ」

20140424

私は、2001年に「くも膜下出血」という大変な病気を経験しました。
非常に幸運なことに、後遺症もなくピンピンしていますが、その後定期的に頭の検査をしています。
昨日、5年ぶりにMRIの検査を受けました。
15分ほど横になっていただけで、自分の頭の中の血管が立体的に細かく見えるんですから、不思議なものです。PCでそれを見ながら先生に説明を受けました。
他の場所に、脳動脈瘤が出来ていたら嫌だな、と思っていましたが、まったくそういうものは見当たらず、「キレイなものです、まったく心配はありませんよ」と先生に云ってもらい、とても嬉しかった。
その気分の良いところで、滞っていたロビの組立の大作業をやってのけました(笑)

【第50号】

第50号で紹介されているロボットは、東京電設サービス7(株)の「調音波厚さ測定ロボット」。
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水力発電用の水を流すための鉄管の厚さを診断する。山の中の不便な場所にあり、巨大な管のため測定するには、従来は足場を組まないとできなかった。
鉄管にくっつくための車輪は永久磁石で作られていて、さかさまの状態で張り付いて走行する事が可能。その場で旋回も出来る。有線による電源供給とコントロールである。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① マイコンボードプレートにマイコンボードを取り付ける
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② 充電ジャックケーブルをヒップカバーに取り付ける
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③ 分電盤に保護シールを貼る
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④ 分電盤にケーブルを接続する
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⑤ 充電する
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⑥ ケーブルを取り外す
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完成状態
両腕と両脚の動作テストの準備が整った。
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【第51号】

この号では、ロボットの紹介は無し。
とても大変な作業の号となりました。

今回の作業

《腕と脚の動作テスト》

今回使用するパーツ
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① MicroSDカードをマイコンボードにセットする
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② 左脚の動作テストをする
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③ 右脚の動作テストをする

左脚と同様

④ 左腕の動作テストをする
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⑤ 右腕の動作テストをする
左腕と同様

◎結果は、両腕は動いたが、両脚とも動かない部分があり。

トラブルシューティングとして、この部分が動かない場合は、こうするというマニュアルがあったが、その不具合の見極めに自信が無かったので、全部分解して、再度組立直した。
左右それぞれ3時間ほど費やした。


《腕と胸のパーツ交換》
これは、以前から情報があったのだが、変色・色移りするパーツがあることが分かったので、改良したパーツを提供してきたので、交換した。
皮肉なことに、動作が良好だった両腕である。

変色したパーツ
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交換用パーツ

ボディと指先の白いパーツに変色が目だったので、結局全部分解せねばならなかった。
サーボモーターを除く全パーツを送ってきたので、全て新しいパーツを使用して組み立てた。
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再び、動作確認をしたが、動作に問題なし。
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夫々の腕に、3時間ずつかかった。

日程的にはずいぶん遅れた。
それは、内容を考えて、半日余裕がある日でないと取り組めなかったからだ。
最近、色々なイベントが多くて、なかなかそういう日が無かった。

しかし、今日全て終わらせることが出来た。

完成品
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結局、両腕、両脚を全部分解して、再び組み立てたわけだが、
完成して終わりでなく、ロビと遊ぶようになると、様々なトラブルが発生して、修理しなくてはいけないことだろう。
そのための、予行練習と思えばいい。





赤坂氷川神社/東京十社

20140422

所在地:港区赤坂六丁目10番12号

4月15日に鬱金桜(うこんざくら)の写真を谷中で撮ったあと、東京十社のうちで未だ参拝してなかったこのお宮さんに参拝しました。
ここには地下鉄の三つの駅からほぼ同程度の時間で行けますが、「六本木一丁目」駅から行きました。
というのは、赤坂氷川神社のある場所には、元禄の頃、備後国三次藩浅野家の屋敷がありました。浅野内匠頭の正室瑤泉院の実家で、赤穂事件の後、実家に戻っていました。
そして大石内蔵助が討ち入り前に瑤泉院を訪ねた時の話が「雪の南部坂」として有名な訳です。

南部坂を通って赤坂氷川神社に行くには、「六本木一丁目」駅からというわけです。

南部坂です。
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雪の夜の帰り道、大石内蔵助が見た景色はいかがだったでしょうか?
昼間の景色です。高層ビルが覆いかぶさって来るかのよう。
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境内図
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南東の入口と北東の入り口があるので、とりあえず両方の入り口から入ります。

南東の入口の社号標
旧府社
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天暦5年(951年)、蓮林僧正が霊夢を見て、古呂故ヶ岡と呼ばれる場所(現在の赤坂四丁目一ツ木台地)に奉斎したと伝えられる。
氷川神社の本社は埼玉県の大宮に鎮座する旧官幣大社・武蔵国一ノ宮の氷川神社です。
出雲の氏族であった武蔵氏が武蔵国造(くにのみやつこ)となって移住した時期、氷川の信仰が広く祀られたといわれています。「氷川」の名は、出雲の簸川(ひかわ・現在の斐伊川)の名に因むものといわれ、農業用水として大きな恩恵を受ける一方、水害にも悩まされた荒川を簸川に見立て、畏敬の念をもって信仰していたと考えられます。

享保15年(1730年)、江戸幕府第8代将軍徳川吉宗の命により、現在地に遷された。現在の社殿はこの時に造営されたもので、東京都の有形文化財に指定されている。麻布氷川神社、渋谷氷川神社、簸川神社などとともに江戸七氷川に数えられ、その筆頭とされる。
明治元年(1868年)、准勅祭社に列する。

鳥居の前にりっぱな灯篭
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南東入口の鳥居
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参道は楼門まで真っ直ぐ。
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途中で、北東入り口からの参道と交差しているので、北東入り口から入り直します。

北東入り口の社号標はよく見えない。
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参道
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参道の途中に桜の古木がある。
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それが大変なことに!
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桜の古木が倒れ掛かって狛犬が支えている!
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他にも支え木をしているので、狛犬には力はかかっていないようですが(笑)

こちらは平然としている。
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北東入り口の一の鳥居
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参道右側に、四合稲荷と西行稲荷があるが、後ほど参拝として進みます。
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石段前の狛犬
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石段を上がる。
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石段上の獅子山
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灯篭があって二の鳥居
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鳥居をくぐって進むと、南東からの参道と交差します。
南東からの参道から楼門を眺める。
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交差点すぐの狛犬
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楼門前の鳥居
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手水舎
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楼門
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楼門に続く瑞垣にあたる塀は重厚な築地塀。
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窓のデザインが面白い。
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楼門の内外に置かれた灯篭は、享保九年(1724)に奉納したもの。氷川神社が徳川吉宗により現在の地に遷座したのは同十五年であり、それ以前は「古呂故が岡」(現在の赤坂四丁目一辺り)にあった。この燈籠はその時代のもの。
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そして、楼門前の狛犬。境内に数多くある中でいちばん古いのがこれ。延宝3(1675)年の建立。
都内で2番目に古いといわれている狛犬
1600年代の「はじめタイプ」ですと、腹の下をくり抜いていない稚拙なものが多いんですが、これはしっかりくり抜いています。また、紐状の尾のデザイン、巻き毛のキュートさなども見逃せません。
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楼門をくぐります。
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拝殿
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祭神は、素盞嗚尊、奇稲田姫命、大己貴命

拝殿内部
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神紋は「右三つ巴」
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この社殿は、本殿・幣殿・拝殿の三つの建物が一体となった、いわゆる権現造りの形式です。
江戸時代の第八代将軍である徳川吉宗によって享保一五年(一七三〇)に建てられました。吉宗は「享保の改革」と呼ばれる倹約政策をとったことで有名で、社殿にも当時の質実簡素な気風を見ることが出来ます。通常は将軍の寄進するような社寺であれば、軒下の組物を何重にも重ねたり、彫刻や彩色などで飾り立てたりするのですが、この社殿の組物は簡素で、彫刻も目立ちません。しかしただ質素なだけではなく、大きな雲形組物や吹寄せ垂木など軽快な意匠を取り入れる工夫も見られます。また全体は朱塗漆としながら、部分的に黒漆塗や黒色金具を用いることで引き締まった印象となっています。
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社殿の手前左手に「額堂」がある。
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月岡芳年筆『ま組』火消し絵馬(港区指定文化財)
『ま』組は赤坂・六本木界隈を受け持つ町火消しで、この絵馬には火事場に向う気負い立つ火消したちの姿がいきいきと描かれ、明治12年に当神社に奉納されました。その時代の火消しの様子を知るものとしても貴重で、平成5年に文化財の指定を受けている。
筆者の月岡芳年(1839〜92)は、江戸末期から明治初期に活躍した代表的な浮世絵師で、12歳で歌川国芳(1797〜1861)の門人となり美人画のほか歴史画や物語画を描き、浮世絵界に新風を吹き込みました。代表作に「月百姿」シリーズなどがあります。
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「『ま組』火消し絵馬」とともに額堂内に掲げられた6点の絵馬。江戸時代末期から明治初期にかけての著名な画家・河鍋暁斎や月岡芳年・柴田是真の描いた絵馬が含まれている。芳年の絵馬は、氷川神社祭礼に際し町内を巡った山車のひとつである「猩々(しょうじょう)」の山車の高欄と人形が描かれており、山車の復原にも貴重な資料となったそうだ。
開いている小さな窓から、斜めの方向でしか撮れないので(汗)
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重厚な築地塀の瑞垣を出て、境内社を巡ります。
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四合稲荷神社
下記四社を明治三十一年、遷座合祀し、赤坂在住の勝海舟翁により「四合(しあわせ)稲荷」と名付けられる。
1.古呂故稲荷(赤坂一ツ木二番地、古呂故天神社境内に鎮座)
2.地頭稲荷(氷川神社遷座以前より拠の地に鎮座)
3.本氷川稲荷(本氷川神社隣接、別当盛徳寺の地内に鎮座)
4.玉川稲荷(赤坂門外の御城端、源弁慶橋のあたりに鎮座)
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狛狐に、面白い文句が書かれた灯ろうが(笑)
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社殿
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神紋は「抱き稲」
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太鼓の皮に神紋が。
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西行稲荷
一瞬、歌人西行かと思ったが、違っていた(笑)
享保の時代、田町5丁目(現在の赤坂3丁目付近)に西行五兵衛というものがおり、榎坂を通行中に狐の形をした三寸程の稲荷のご神体らしい像を拾い、勧請したため「西行稲荷」となった。
町の発展に伴い、大正10年氷川神社境内に遷宮し、別名「火伏の稲荷」ともいわれ、火災除の御利益があるといわれている。
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狐穴か?
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社殿
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本殿に向かって左側にも、稲荷が二社ある。

山口稲荷神社
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社殿の前に、古風な狛犬。
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社殿
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向背に狐の彫刻など、凝っている。
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桶新稲荷神社
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南東の入口から続く参道の左手には、九神社がある。
以下の9つの神社が合祀された境内社だ。
金刀比羅社・諏訪社・厳島社・春日社・天祖社・八幡社・鹿嶋社・秋葉社・塞神社。
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九神社の横に、史蹟の案内板が立っている。
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当社は浅野内匠頭の正室瑤泉院の幽居していた、備後国三次藩浅野家の屋敷址とのこと。
それで、「雪の南部坂」のドラマがあったわけです。
三次藩は、浅野長治 → 浅野長照 → 浅野長澄→ 浅野長経 → 浅野長寔と5代続きましたが、4代長経、5代長寔と2代続いて子供がなくて三次藩は断絶した。
そして、屋敷も収公されていて、その後8代将軍吉宗の時に、この用地を氷川神社とした。

東京都港区指定文化財の「氷川神社のイチョウ」
樹齢400年
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包丁塚
当神社氏子区域の料亭や料理屋が、使い終えた包丁に感謝の念を込め、供養する塚とのこと。
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(了)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html





谷中村跡/栃木県下都賀郡

20140420

前記事のように、歴史クラブでの行事「関八州式内社めぐり」の下野国三回目を3月28日(金)に行いました。
予定の神社全てが終り帰途についた時、幹事の方の提案で、ここに寄りました。

足尾鉱毒事件や、その悲劇を天皇直訴事件まで起こし対策に奔走した、偉人田中正造についてはある程度知っていました。

足尾鉱毒事件を第一の悲劇とするならば、時の行政から抹殺された谷中村は第二の悲劇と言えます。

谷中村悲劇については、Wikipediaの「谷中村」を読んでください。
下記クリック
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B0%B7%E4%B8%AD%E6%9D%91

現在の渡良瀬貯水池(谷中湖)
ハート形なのが、逆に悲しいですね。
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「現在地」とある場所にバスを停めて、まずは左に行き、湖岸に行ってみました。
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湖岸はよく整備されています。
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水際まで行ってみました。
そこから左を眺め、
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右を眺め。
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溜め池なので、やはり水はそんなにキレイじゃなかった。

いよいよ、駐車場の横まで戻って、谷中村跡のほうに入っていきました。
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「谷中村遺跡を守る会」の説明板は、まだ読めますがちょっと傷んできてました。
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谷中村役場跡の入り口には四阿が建っていました。
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木標からの眺め
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ケヤキがスックと立っている。
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こういう澱みには、今でも鉱毒があるのだろうか。
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大野豊蔵屋敷跡というところには、石祠があった。
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この地形は何の跡なんだろう。
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時間になって、バスに戻った。最後から二人目だった(笑)

そこから帰りながら、こういう悲劇から得られた、政治のありかたについての教訓を私たちは大事にしていかないといけないと思った。
そのために私たちは歴史を学ぶ。





大前神社(延喜式内社)/栃木県栃木市

20140419

所在地:栃木県栃木市藤岡町大前字磯城宮383

3月28日(金)に行われた歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」の続編です。
下野国の三回目となりますが、村檜神社、大神神社、安房神社、胸形神社と回って、最後に訪れたのが当社でした。

社号標
式内社 下野國都賀郡 大前神社 旧郷社
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由緒:
当神社は創立時代は未詳であるが人 皇六十代醍醐天皇勅撰を蒙り延喜五年八月 式内社に列せられ延喜式内の稱号をたまわり下野国十一座の一社として神名帳に登載 されている。
社伝によれば天慶二年(九九三)平将門の乱の際、村中ことごとく兵火に焼かれ当社も焼失 したが間もなく再建された。
而し室町時代再度の火災により社運が衰い祭祀を廃する事数百年であったと言ふ。
天正十九年(一五九一)徳川家康入府の際再建され、元和八年(一六二二)当地が古河領とな り領主永井直勝は社地五反歩田四反七畝を 寄進し永井氏佐倉に移封された後も武の神として近郷近在より崇敬されたといふ。
明治三年栃木県管轄となり近郷の総鎮守と されて明治五年十一月郷社に列格した。
現在の鎮座地は明治十二年四月移転されたもので旧社地跡は北方約四百m離れた台地であった旧社地跡の記念碑も土地改良によって北方約百mの畑地に移されている。
下野国誌によれば「オオサキ」と稱しているが、当社近郷では「オオマエ」とよんでいる。
尚当社境内と近隣に九世紀と考えられる「タタラ」跡が三基確認され鎔工傍らに住みたる多くの鎍もみられ字天国府字国造字城坊 などの地名もあり古代よりの社歴を物語る。
-境内案内より-

入り口
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二の鳥居
調べたら、一の鳥居はちょっと離れた藤岡第一中学校の北、スーパーとりいやの隣に建っているようです。
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天保4年(1833)建立の、愛嬌のある狛犬が迎えてくれます。
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手水舎
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三の鳥居
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社額の書は二荒山神社宮司のものでした。
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三の鳥居前の、昭和63年建立の狛犬。
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拝殿
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拝殿前の、ダイナミックな表情の狛犬。昭和3年(1928)の建立。
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拝殿向背
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社額
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御祭神は、主祭神が於褒婀娜武知命(おおあなむちのみこと)=大己貴命。
配神が神日本磐余彦=神武天皇、と彦火々出見命=(山幸彦であり)神武天皇の祖父。
祭神が豊城命(豊城入彦命=崇神天皇の皇子)とする説があります。

奉納絵馬
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神紋は「右三つ巴」と「十六菊」
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拝殿後方に、一段高く盛り土され、本殿があるが、覆殿の中でわからない。
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本殿前にも狛犬が居ます。
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神楽殿
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末社の十一基の石祠が並んでいるが、いずれも社名が記されておらず、何神社なのかは不明。
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富士塚があったらしいが、確認しなかった。
不覚(泣)

この歴史クラブでの「関八州式内社めぐり」では、各社ごとに担当者から調査の報告がありますが、地名の「磯城宮」について説明がありました。
境内由緒書によると「大前神社はその先磯城宮と号す」とある。
・「磯城宮」は古事記・日本書紀によると「第10代崇神天皇(在位BC97~BC30)・第11代垂仁天皇(在位BC29年~70年」の宮居である。
・三輪山の麓にある志貴御縣坐(しきのみあかたにます)神社は崇神天皇の皇居(磯城瑞籬宮(しきみずがきのみや))跡と言われ「磯城宮」があった。                   (川端 明)
・第10代崇神天皇の第1皇子「豊城入彦命(とよきいりびこのみこと)、豊城命、豊木入日子命」は後継者を決める夢判断で「御諸山(みもろやま:三輪山)に登り、東に向かって鉾や刀を振り回す夢を見た」と答えた。その後、豊城命は東国の治定にあたったとされている。
記紀によれば上毛野君や下毛野君(上野国・下野国の国王)の始祖でもある。
・「大前神社」の周辺には「境宮」「鷺宮」「北宮」「宇佐宮」有名な「宇都宮」があり、関東の磯城宮があったのではないか?⇒それが地名として残っている?

で、問題は稲荷山古墳出土の金錯銘鉄剣です。
金錯銘鉄剣の、「今獲加多支鹵大王寺在斯鬼宮時吾左治天下」にある「斯鬼宮」はここではないかという説があります。

さきたま史跡の博物館の資料では、ワカタケル大王は雄略天皇か欽明天皇とする説がある、として大和政権の王としているわけですが、一方で関東の大王だろうとする説もあります。
豊城入彦命の系統の可能性もありますね。


これで、下野国は終了となり、次回からは常陸国だそうです。


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胸形神社(延喜式内社)/栃木県小山市

20140418

3月28日(金)に行われた歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」の続編です。
他のイベントなどの記事で中断していました。
下野国の三回目となりますが、村檜神社、大神神社、安房神社の次に訪れました。

社号標
式内社 下野國寒川郡 胸形神社 旧郷社
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この神社については、資料が乏しいのですが、下野新聞社発行の「とちぎの神社と祭り」という本に載っている中から抜粋しておきます。

 胸形神社は豊かな穀倉地帯を流れる巴波川畔に、古木が茂る神域に鎮座している社で、十代崇神天皇の御代、勅命により九州の牟奈加多から祭神を招幣し、文徳天皇の御代には胸形官宜があったと言われている。
御祭神は宗像の三柱の女神で「田心姫神」 「市杵島姫神」 「瑞津姫神」 である。
当社は平安時代の延書式神名帳に登載された下野十二社の一つで、航海交通の守護と漁撈豊穣の神として崇拝されていた。
明治五年、寒川郡三十八力村の総社として郷社に列せられ、明治十四年に社殿を改造し、明治四十五年に神饌幣帛共進社に指定された。大正十二年火災で社殿を焼失したが、大正十四年に再建された。
巴波川の度重なる氾濫によって社殿が壊れ、古文書も四散した。社殿はせばめられて往昔の観は現存しないが、昭和十六年の大洪水の時に、身をもって人畜を守った御神徳顕彰碑が、時の総理、近衛文麿公の親筆で建てられており、樹齢三百年以上の榎とともに往時を物語っている。

ということで入り口の大榎が、当社を訪れた記事で取り上げられていて、当社の象徴みたいになっていて、私も楽しみにしていたのだが・・・・・・・・
名にということか、枯れてしまっている(泣)
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先述の、「とちぎの神社と祭り」に載っていた写真を転載しておきます。
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願わくば、早く二代目を植えて、新たなご神木にしてもらいたいものだ。

鳥居から拝殿まで参道が直線に延びている。
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手水舎
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狛犬が二組並んでいた。
手前が新しいもの。
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古いほう(大正7年建立)
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目が4つあるみたいだ(笑)
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拝殿
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拝殿内部
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御祭神は宗像三女神(田心姫命、、市杵島命、多岐津比売命)

拝殿内部にかかっている社額。左のは宗像大社宮司の書によるもの。
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本殿は覆屋の中で、まったく見えなかった。
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神紋は、「右三つ巴」と「梶」でした。
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境内に万葉歌碑があった。
万葉集巻二十 寒川郡上丁川上臣老
「旅行きに行くと知らずて母父に 言申さずて今ぞ悔しけ」
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当社の祭りで「花桶かつぎ」の記事が、先述の、「とちぎの神社と祭り」に載っていて、私は見てないのですが紹介しておきます。

「花桶かつぎ」 は明治時代に胸形神社に合祀された寒川の元々の氏神である寒川天満宮の祭りで、一月二十四日、二十五日の二日間行われていたが、現在は一月二十五日に近い土曜日に行われている。
この祭りは、七五三のお祝いをする七歳の女児が美しく着飾り、五色の紙の造花で飾られた若水を入れる花桶を担い、神輿の先導者として供奉し、神に奉仕するというものである。
昔から七歳前は神の子と言われるが、天神様の神輿渡御の先導に選ばれるのは、七歳が神の子から人の子へ移行する節目の年だからである。この時お囃子にのって若衆の歌う木遣り節に似た古風な歌は、一種独特のもので土の香り高いものがあり、これらの歌やお磯子に送られ、練り歩く様は実に美しい。
村人は神輿の巡行中にお嘲子の山車に付けられた花や稚児の担ぐ花柄から花を奪い合う。この花を家の門口に飾ると疫病退散、五穀豊穣、養蚕の豊かな収穫ができるという言い伝えがあるからである。
この日供奉した稚児の家では、人寄せをして子供の成長を祝う。この祭りは天神信仰の一つと思われるが、農耕行事と子供の成長を祝う行事が重なりあった他に類を見ない珍しい祭りである。
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上野総社神社/前橋市元総社町

20140416

所在地:群馬県前橋市元総社町1-31-45

4月11日(金)に歴史クラブ行事で訪ねたうちの、上野国分寺跡からここを訪ねて、その後徳蔵寺を訪ねて終りでした。

社号標
上野國総社 旧県社
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当社は、人皇第十代崇神天皇の四十八年三月、皇子豊城入彦命が、東国平定のために上野国にお下りになられたとき、神代の時代に国土の平定に貢献された経津主命の御武勇を敬慕され、軍神として奉祀し、武運の長久を祈られ、また、親神である磐筒男命・磐筒女命を合祀されたのに、創ったと傅えられている。その後、人皇第二十七代安閑天皇の元年三月十五日、上毛野君小熊王は、御社殿を改築し、蒼海明神と称え、郷人の崇敬が篤かったと傅えられている。
人皇第四十五代聖武天皇の天平九年四月、国分寺建立の詔が出され、また、大化改新によって律令政治が行なわれ、国司が任命され、政庁としての国府がおかれたが、歴代の国司は当社を特に崇敬された。
国司は上野国内の神社に弊帛を捧げ、親しく巡拝されていたが、上野十四郡に鎮座する五百四十九社を勧請合祀し、当社を参拝することにより、上野国内各社を参拝したこととして、巡拝奉弊の労を省いた。
このため、社号を総社明神と称えるようになった。
このとき、国司より献納された「護国霊験総社明神」の額があり、勅額ともいわれている。
永禄九年十月、北条・武田両軍の戦禍により、社殿を始め攝社・末社・宝物等悉く灰燼に帰したが、辛うじて神明帳及び御神鏡は難を免れた。
その数年後、元亀年間(四百十五年前)に、西北一キロの宮之辺から現在地に再建された。
また、拝殿は氏子であった関谷出雲正平貞許、その子関谷出雲丞平貞義父子により、十数年の歳月をかけ、天保三年九月(百五十一年前)に造られたもので、旧拝殿はお籠屋として神楽殿の南側に現存している。
慶安二年八月二十四日、徳川三代将軍家光より、朱印地二十六石を寄進され、爾来歴代将軍もこれを踏襲された。
明治六年に県社に列し、更に二大区及び四大区の郷社を兼ね、六十九町村の総鎮守であった。

一の鳥居
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境内には欅の大木が多い。
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二の鳥居
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二の鳥居前の狛犬
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手水舎
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拝殿前の狛犬
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拝殿
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主祭神は磐筒男命、磐筒女命、経津主命、宇迦御魂命、須佐之男命。
配祀が上野國内五四九社の神

ご神体は上野国神名帳

向拝蟇股の彫刻に、龍の下に天の岩戸神話がある。
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社額
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正面の彫刻に波の彫刻が多い。
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拝殿側面にも波の彫刻が多い。
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海老虹梁の龍の彫刻がすごい。
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拝殿扉の「獅子の子落とし」の彫刻
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上は獅子だが、下は干支が四つ。
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干支を全部集めたかったが、扉が畳まれているのと、時間に迫られて果たせず。残念。

神門は「右三つ巴」
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本殿の様式は三間社流造で華麗な装飾。
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本殿階段の左右には「矢大臣」、「左大臣」の随身が。
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本殿側面の絵
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本殿背面の装飾
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本殿脇扉の背面彫刻、「因幡の白兎」。
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これはよく判らないが、「少名毘古那神」か「火遠理命」かな。
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立派な神楽殿。太々神楽が盛んらしい。
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何の倉かわからないが、校倉作り。
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御魂社
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御魂社の鳥居の横の椿がすごかった。こんな椿は初めて見た。
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ご神木の大ケヤキ
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本殿の裏側、西側鳥居横には境内社が沢山並んでいるが、説明が無いためどういう神なのかわからない。
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蠶影大神
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道祖神碑がたくさんあった。
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ケヤキの古木で根上りのものすごいのがあった。
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絵馬は、どこでも可愛くなってますね。
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(了)


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鬱金桜/谷中

20140415

所在地:台東区谷中霊園日暮里駅近く
この鬱金桜(うこんざくら)を知ったのは、4月2日に歴史クラブ行事として「谷根千散歩」を6月に催行するので、その下見に来たときでした。
日暮里から天王寺の横を通って谷中の桜並木にそれはありました。

4月2日に来た時の桜並木は満開でした。
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今日、15日はこんなふうに、すっかり葉桜になっています。
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これが鬱金桜。広角で無理やり全部を入れたのでこんな写真ですが、もっと高さは高いです。
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説明
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この説明に出てくる、二代目広重の「江戸名所図会 天王寺」
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鬱金桜の素晴らしさを堪能してください。
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これで満足して次の目的に移動するため、日暮里駅に向かう途中、天王寺にも寄りました。
というのは、このようにきれいな花が道に張り出して咲いていたからです。
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天王寺
所在地:東京都台東区谷中7-14-8
日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山した。1641年(寛永18年)徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。
開創時から日蓮宗であり早くから不受不施派に属していた。不受不施派は江戸幕府により弾圧を受けた。日蓮宗15世・日遼の時、1698年(元禄11年)強制的に改宗となり、日蓮宗14世・日饒、日蓮宗15世・日遼が共に八丈島に遠島となる。廃寺になるのを惜しんだ輪王寺宮公弁法親王が寺の存続を望み、慶運大僧正を天台宗1世として迎え、毘沙門天像を本尊とした。慶運大僧正は、後に善光寺を中興する。当寺の改宗をもって、祖師像は瑞輪寺に引取られていった。

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門から入ると広々とした庭があります。

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庫裡だと思うが、藤の鉢を置いてあった。
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そして、驚いたことに大仏を発見。

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谷根千の下見に来た時、大仏の情報は掴んであったが、その資料の寺の名前が違っていて、その寺を発見できなかった。
この大仏さんが、道沿いの花を介して私を誘ってくれたのか・・・・・・。
感謝、感謝。

元禄三年(1690)に建立されたものだ。


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問題の花は、古木の向こうで咲いている。

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きれいな桃色だ。
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花桃と思っていたのだが、自信が無くなった。何だろう。
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そして、古木である。またまた問題だ。
こんな実がぶら下がっている。
花梨だろうか、柘榴だろうか。

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すごい幹である。

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総社神明宮・蛇穴山古墳・山王廃寺・上野国分寺跡・徳蔵寺/群馬県前橋市総社町

20140413

4月11日(金)に歴史クラブ行事で訪ねたうちの後半です。
宝塔山古墳から、昼食を食べるお店に歩いて移動。
その途中、芭蕉の句碑がありました。
かって前橋市総社町光巌寺境内の古墳上に建っていたが、いまは総社資料館の庭の外れに置かれ、ちょうど私たちが歩いた道沿いにあった。
「けふはかり人もとしよれ初しぐれ」
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昼食のあと、総社神明宮からスタートです。
総社神明宮の前の道沿いに「総社町道路元標」があった。
これは大正9年(1920)の道路法改定により、各市町村に設けられたもの。
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【総社神明宮】
所在地:前橋市総社町総社1236
慶長9年(1604)総社領主秋元長朝公が築城と城下町を整備。大手門の西のこの地に伊勢神宮を勧請した。祭神は天照大神、別名大日孁貴命・豊宇気毘売神の二柱である。その後天明8年(1788)、外宮御師三日市大夫次郎の家人的場氏により伊勢の遙拝殿を移築、寛政3年(1791)内宮の遙拝殿を造営した。遙拝殿は12本の丸柱の門構えの特殊な構造で、伊勢殿の額が掲げてある。公民館前に名主三雲源右衛門長郷の記した伊勢殿移築の碑がある。大神宮は総社町の総鎮守で10月9日に祭礼が行われる。
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遙拝殿
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伊勢殿移築の碑
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拝殿
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屋根が重厚な瓦葺きだ。
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本殿は土蔵の中に納められており、まったくわからない。
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正徳3年(1713)建立の石仏。両手に剣と鉾を持っているのが珍しい。何だろう?
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【蛇穴山(じゃけつざん)古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町
形状:方墳
規模:一辺39m、高さ5m
築造年代:7世紀末から8世紀初頭

墳丘は2段築成で幅12メートルの周堀を巡らせている。埴輪は確認されていない。
主体部は両袖型横穴式石室で、玄室長3メートル、幅2.6メートル、高さ1.8メートルである。羨道部は無い。

推定復原図
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東から
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南から
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石室入り口の石の構成は見事。
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正面の壁に漆喰の跡と、文字が書かれているのがわかる。後述の碑文参照。
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石室は天井、奥壁、左右壁ともに、見事に加工した各一枚の巨岩で構成している。縁はL字形に切り込んで組み合わせているそうだ。
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祭壇みたいな石が置かれているが、この上に石棺が安置されていたのかもしれない。
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この碑に書かれている文によると、古墳奥壁に書かれている碑文により、かっては古墳周囲の水濠を弁天池と見立て、弁天様が昭和初期まであったという。
そして、環濠の一部に小学校のプールが設けられるにあたり、古事に因み江の島弁才天を勧請し、「蛇穴山弁才天」を鎮座したとある。
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蛇穴山弁才天の石碑
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古墳上部
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北から
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ここからバスで移動し、山王廃寺に行きました。

【山王廃寺】
所在地:前橋市総社町総社2408
山王廃寺は飛鳥時代(白鳳時代)の寺の跡で、今はもう寺は途絶えてしまっている。その五重塔の礎石が日枝神社神社の境内にあることから、神社の守護神「山王権現」の名前を取って山王廃寺と呼ばれている。寺の本当の名前が「山王寺」だったわけではない。
「放光寺」「方光」などと記された瓦が出土しており、山上碑の碑文にみえる「放光寺」がこの寺であると考えられている。

1.発掘調査により、回廊の中に西に金堂、東に塔が並ぶ伽藍配置であることが判明しました。
2.塔の心柱の根元を飾る根巻石(ねまきいし)は、国指定重要文化財です。石製鴟尾(せきせいしび)は、 旧「重要美術品等ノ保存ニ関スル法律」による国認定重要美術品です。
3.緑色の釉薬(うわぐすり)がかけられた水差及び碗・皿のほか、菩薩や天部の塑像(そぞう:木の芯に粘土を重ねて成形した像)の破片が多数発見されています(内容・質ともに法隆寺の五重塔の初層に飾られている塑像群に匹敵するとも言われています)。
4.周辺は、7世紀代に築かれた3基の大型方墳を伴う総社古墳群が至近地にあり、7世紀代に上毛野地域の中心地として成長した地域です。8世紀には国府が置かれ、上野国分寺・上野国分尼寺が建立されるなど、律令体制下における政治・社会・文化の中心地域となったと考えられています。
5.山王廃寺は、総社古墳群を築いた上毛野を代表する豪族が建立した寺院と推定されています。

推定復原図
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掲示されていた説明
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現在日枝神社となっている。
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「五重塔の心礎」を保護する六角堂
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心礎。仏舎利を納める穴もある。
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石製鴟尾と塔心柱根巻石が並んで置かれている。
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国認定重要美術品 「石製鴟尾」
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国指定重要文化財 「上野国山王廃寺塔心柱根巻石」 
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社殿の横にも、礎石だったらしいものがある。
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日枝神社社殿
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中には、本殿がビニールで覆われて祀られていた。
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社殿の周りには、たくさんの石像があった。

三猿なので、庚申塔と思うが、実に面白いものだ。
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庚申塔。基壇のトリが良い。
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不動明王。「女人講」とある。
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台座に「中村講」とある富士講碑
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淡嶌大明神
淡島神のことですね。
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正面に像が彫ってあるが、何の神か不明。波の上に乗っているので市杵嶋姫命か?
右には「秋葉大権現」、背面には「馬頭尊」、左に「北辰霊尊」と其々文字で神が彫られている。
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それからちょっとバスで移動して、国分寺跡に。

【上野国分寺跡】
所在地:群馬県前橋市元総社町小見
奈良時代の天平13年(741年)、聖武天皇は国ごとに僧寺と尼寺を造ることを命じた。これが国分寺で、後に僧寺が「国分寺」と言われるようになった。
当時の群馬県は上野国と呼ばれており、その国分寺は今の高崎市と前橋市の境近くに建てられた。

当時、災害や政治の乱れに苦しんだ聖武天皇は、仏教の力でこれを治めようと、国ごとに国分寺を造らせるとともに都には東大寺を建立した。

寺域は東西220m、南北235mに及びます。
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入って行って、目につくのは版築で復元された築垣。
創建当時の工法と同じく、棒でつき固めた土を積み上げる版築で造ってある。東日本では初の本格的な復元だそうです。
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復元された塔の基壇
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復元された金堂基壇
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ガイダンス施設の上野国分寺館
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復原模型
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七重塔の復原模型
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出土品
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奈良三彩も出ている。
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瓦に色々な文字が書かれている。
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それからまた、ちょっとバスで移動、総社神社に移動。
総社神社は、別記事で載せるとして、その隣の徳蔵寺にも寄ったので、それをここで載せておきます。

【徳蔵寺】
所在地:前橋市元総社町元総社2379

徳蔵寺は神仏習合時、上野国総社神社の別当寺だった。

参道にあった淡嶋様。
淡嶋神は女神で、夫人の下の病に霊験があるといわれ、安産祈願や縁結びの神として祀られる場合も多い。
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参道わきにズラッと石仏が並んでいる。
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小さな石仏を集めた小屋もあった。
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石仏の十王尊像があった。
狭山市には、「紙本地蔵十王図」というのがあって、奪衣婆、修羅を加えて13幅としていますが、これは10体で基本形ですね。十王の中では閻魔(大)王が有名。
十王とは地獄において亡者の審判を行う10尊のことで、没後の初七日、二七日、三七日、四七日、五七日、六七日、 七七日(四十九日)及び百か日、一周忌、三回忌には、順次十王の裁きを受けることになるという信仰からきています。
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本堂
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伝教大師像
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輪廻塔
三界、六道の世界から救いを求めて車輪を回すもので、車輪が失われている。
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次回は、上野総社神社を載せます。


(続く)


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二子山古墳・愛宕山古墳・光厳寺・宝塔山古墳/群馬県前橋市総社町

20140412

4月11日(金)に歴史クラブ行事で訪ねたうちの前半です。
朝7時に狭山市を貸し切りバスで出て、愛宕山古墳の手前でバスを降りて、歩いていくと「天狗岩用水」にかかる「あきもと橋」を渡ります。

【天狗岩用水】
江戸時代、総社藩藩主秋元公の善政の賜物です。光厳寺にてその説明をします。
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これは愛宕山古墳から光厳寺に移動するときに撮った天狗岩用水と「あきもと橋」。
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【二子山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町植野
形状:前方後円墳
築造年代:6世紀末

私たちは、後円部のところから入った。
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桜の樹がたくさん植わっている。
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上は、ほぼ平らに繋がっている。くびれがあります。
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前方部頂上に、正三位刑部富小路貞直公の筆になる崇神天皇の第一皇子『豊城入彦命』と書かれた碑が立っている。
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ここは、豊城入彦命の墓といわれ、明治三年までは、陵墓参考地として墓丁が置かれていたという。
なお、西大室町にある大室公園の前二子古墳【群馬県前橋市】が、豊城入彦命の墓だという説もあるそうだ。

前方部上がり口に、木標と推定復原図があった。
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全長89.8メートル、後円部径44.2メートル、前方部幅60メートル
前方部と後円部にそれぞれ両袖型横穴式石室をもつ。ともに江戸時代に開口された。
両者の構造からまず前方部の石室が6世紀末に造られ、後円部の石室がそれに続くとみられる。

古墳の麓を歩いて石室に向かう。
途中、道祖神があった。
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前方部石室。
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開口部から撮った内部の写真。
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ネットで調べた感じでは、下部分は埋もれているようだ。
前方部の石室は全長8.76メートル、玄室長4.27メートル、玄室幅2.22メートル。河原石の乱積で構築されている。頭椎大刀、勾玉、金耳環、六鈴釧、脚付長頸坩などが出土したと伝えられ、その一部は東京国立博物館に収蔵されている。

前方部の斜面が、何と云う花かわからないが咲き誇っていて綺麗だった。
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後円部の石室は、石室の天井石が崩落して閉鎖されている。
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上からのぞいたが、草が茂っていて石組みがちょっと見える程度だった。
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後円部の石室は全長9.4メートル、玄室長6.88メートル、玄室幅3.4メートル。榛名山二ツ岳の角閃石安山岩を使用して構築されている。副葬品は伝わっていない。

見事な桜の古木があった。
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この古墳は、すぐそばに住宅群が迫っている。
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【愛宕山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町
形状:方墳
規模:一辺55m、高さ8m
築造年代:7世紀前半

二子山古墳から歩いてくると、まず北側から見るが、墳丘はほとんど笹薮と雑木林に埋もれている。
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南側から、一般の方の墓の間を上がっていく。
総社古墳群の他の3古墳と同様に国の史跡指定されてしかるべき古墳であるが、それが受けられず、整備もされないままなのは、この墓の家の方が遠方で連絡がつかないためらしい。
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入り口は非常に狭い。
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ある程度入って、入り口を眺めたところ。
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主体部は自然石の巨石を積み上げた両袖型横穴式石室で、玄室長7メートル、幅3メートル、高さ2.8メートルと県内でも有数の規模を誇る。

玄室奥よりには石室主軸線と直交して、凝灰岩製の刳抜式家形石棺が安置されている。石棺の寸法は、蓋を含め高さ1.5メートル、長辺2.2メートル、短辺1.2メートルである。県内で家形石棺を使用しているのは当古墳と宝塔山古墳の2例だけで、共に総社古墳群内にある。
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被葬者は、豊城入彦命の子である八綱田王の墓であるという説がある。
蓋石の下に開いてる穴は盗掘の跡らしい。
穴からカメラを入れて撮影。きっちりとした合わせ目となっている。
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穴から出てくると、古墳の麓の辺で参加者がタンポポ論議をしていた。
これは、立派な「ニホンタンポポ」だそうだ。
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ニホンタンポポとセイヨウタンポポの見分け方のひとつとして、花(頭花)の下にある総苞片の形と大きさの違いに注目する方法があり、頭花の下の総苞片が反り返っていなければニホンタンポポ、反り返っていればセイヨウタンポポだそうです。

ということで、これはニホンタンポポですね。
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【紅葉山と御霊神社】
ここは予定外ですが、通りかかって寄りました。
小古墳で、楓の木が茂っていたので紅葉山と云うそうです。昔は上に日枝神社の祠があったが、現在は戦争で亡くなった方の神社となっている。
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英霊のお宮らしく、神紋が桜になっている。
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傍らに、大山巌元帥書の碑があった。
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境内の桜の並木の樹の一つの根から咲きかかっていた。
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花が終りで残念でした。
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【光厳寺】
光厳寺の創建は慶長6年(1601)、総社藩初代藩主となった秋元長朝(上杉、北条、徳川と主君を変え、関ヶ原の戦いで東軍に組し上杉景勝降伏に尽力し総社領1万石が安堵された。)が徳蔵寺の亮應を招いて開山したのが始まりとされます。寺名は秋元の性と長朝の江月院、母親の光厳院より秋元山江月院光厳寺と名付けられ、秋元家歴代の菩提寺となりました。秋元氏は、寛永10年(1633)に甲州へ移封となりましたが光厳寺はこの地に留まり歴代秋元家の菩提を弔っています。その後は幕府に庇護され、寛永3年(1626)に2代将軍秀忠より寺領30石が安堵され、さらに慶安2年(1649)には3代将軍家光より16石が加増され合計46石の朱印地を賜りこの地域の天台宗の修業寺として寺運が隆盛します。

楼門(文化年間)
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立派な塀が続き、長屋門(天明5年)がある。
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本堂と庫裡
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楼門の内側
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門扉の窓
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秋元長朝の御廟所(文化9年)
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細部の装飾が見事だった。
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秋元氏の位牌が安置されており、「八方睨みの龍」の天井画が描かれている。この絵は二代藩主秋元奏朝が造営奉行を務めた日光東照宮の「鳴龍」の原版といわれている。
残念ながら、当日は見学できなかった。

力田遺愛碑。
慶長9年に完成した天狗岩用水によって恩恵を受けた農民が用水路を開発した秋元氏を讃え制作した碑。
封建社会で農民が領主を讃えた碑は全国的にも珍しい。
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「今も秋元候が愛される5つの理由」と書いたビラが手に入りました。
① 関ヶ原での功績
会津の上杉景勝を説得し、その出陣を抑えることにより、無益な戦を止めさせた。
② 天狗岩用水の造営
領民に対し3年間の年貢を免除し、水利の乏しかった総社領内に他領から用水を引き、領民の生活を牟豊かにした。
③ 越訴に対する尽力
秋元氏の後、総社領を治めた安藤出雲守の暴政に対する総社領民の直訴に対して、その訴えを認める裁定を引き出した。
④ 遠方からの義援米
天明3年の浅間山の大噴火により甚大な被害を受けた総社領民に対し、遠く山形から義援米を送った。
⑤ 造営奉行
2代泰朝は日光東照宮の造営奉行に、4代喬知は江戸城三の丸造営総奉行、元禄大地震復興総奉行に任命されている。

碑に「百姓等 建」とある。
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東覚寺層塔
この塔は総社町高井の東覚寺跡にあったものと伝えられていて、室町時代の特徴を良く表している。
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薬師堂・元三大師堂
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鐘楼(明和9年)
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薬医門
江戸時代初期に城門として建立されたものを移築したと推定されている。
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唯一の装飾が、板蟇股にある四つの紋。
五三の桐
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剣片喰
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立ち沢潟
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三つ巴(流水巴)
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【宝塔山古墳】
所在地:群馬県前橋市総社町
形状:方墳
規模:一辺約50m、高さ12m
築造年代:7世紀末

群馬県下最大の方墳である。現在の地形で見ると、墳丘南側には幅24メートルの一段低い畑地面があり、周堀の痕跡とみられる。これを含めるとその墓域は一辺100メートルの規模となる。埴輪は確認されていない。

光厳寺の長屋門のところから眺めると、ピラミッドのようにも見える。
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上り口
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推定復原図を見ると、やはりピラミッドである。
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上に上ると、秋元氏歴代の墓所がある。
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きれいに掃除されていて、各墓にはプレートが建っていて誰の墓か明確になっている。素晴らしかった。

4代秋元喬知の墓
この人は、川越藩主として、私たちにもなじみの方です。
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甲斐谷村藩主、武蔵川越藩主。老中を元禄12年(1699年)から宝永4年(1707年)まで務めた。川越藩秋元家初代。実父の戸田忠昌、実弟の戸田忠真共に老中を務めた。
5代将軍徳川綱吉、6代将軍家宣の2代にわたって仕えた。土木行政に手腕を発揮し、江戸城三の丸建設や護国寺、寛永寺中堂、厳有院仏殿などの造営奉行、元禄大地震の復興総奉行を担当した。また好学の名君であり、将軍綱吉に進講することもあった。
綱吉亡き後に将軍になった家宣の側近新井白石・間部詮房の正徳の治を支持した数少ない閣老であり、老中退任後も白石・詮房派として閣内に隠然たる影響力を残した。
川越藩主としては殖産政策で知られる。

ちょっと下に下りると、石室があります。
上の林が、いままで居た秋元氏歴代の墓所。
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主体部は旧地表面より3メートル上の基壇上に造られた。切石切り組積みの両袖型横穴式石室で、羨道部・前室・玄室に分かれた複室構造になっている。全長12.04メートル。石室壁面には漆喰塗布の痕跡がある。玄室中央に石室長軸線に直交して、脚部に格狭間を配した家形石棺が安置されている。出土遺物は伝わっていない。

羨道部
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前室
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石材加工技術の精巧さには驚きました。
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玄室の中に安置されている家形石棺の脚部は格狭間という切り込みがあり、仏教文化の影響を示しています。
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窓から石棺内部を撮った。
石は誰かが置いたものだろう。
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入り口の前に、加工された大きな石があるが、これで入り口を塞いでいたのか?
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(続く)


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ポンポネッラ

20140410

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系統  CL クライミングローズ
作出  2005年 ドイツ W. Kordes & Sons
花色  濃桃色
花形  カップ
花径  小中輪
芳香  微香    
開花  四季咲き

花形は丸弁抱咲きで大変可愛らしく、ノスタルジックな雰囲気のバラ。
わずかですが、リンゴのようなさわやかな香りがします。

アンティーク調の華やかな雰囲気を持っていていいですね。


2013年5月22日 谷津バラ園にて


江戸東京たてもの園/東京都小金井市

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4月3日(木)に歴史クラブ行事で行きました。
主な目的は、小金井公園での花見でしたが、あいにくの雨の中となりました。

説明をボランティアガイドの方が、熱心に二時間も案内してくれましたので、とても分かりやすくて感謝、感謝でした。
その中から主なもの、気に入ったものを紹介します。

【前川国男邸】
昭和17年(1942) 品川区上大崎。
日本の近代建築に貢献した前川国男の自邸。戦時体制下、建築資材の入手が困難な時代に建てられた。建坪などにも統制があった。
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全面ガラスとか、ロフトとか、戦前とは思えない。
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当時は先進的だったろうキッチン。
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【常盤台写真場】
昭和12年(1937) 板橋区常盤台
照明設備が発達していない当時、安定した光を得るため、二階北側に大きな窓を設けた。
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【三井八郎右衛門邸】
昭和27年(1952)、客間・食堂は1897年京都に建てられたものを移築。 港区西麻布三丁目。
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玄関の透かし
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客間の欄間は、桂離宮と同じ意匠。
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二階天井のシャンデリア
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仏間の天井には龍が。
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板戸、襖には絵が。
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瀟洒な和室
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庭の入り口には石のアーチが。
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枝垂れ桜越しに
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【デ・ラランデ邸】
明治43年(1910) 新宿区信濃町。
元は平屋建ての洋館だっが、ドイツ人建築家ゲオルグ・デ・グランデにより3回建てに大増築された。
何回か所有者が変わったが、昭和31年から三島海雲氏が住んでいた。
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これはビックリしたが、後から付け足したものに違いない。
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【八王子千人同心組頭の家】
江戸時代後期 八王子市追分町。
八王子千人同心は、江戸時代八王子に配備された、元武田家の家臣団。
日光日の番御用で、八王子地日光を結ぶ「日光脇街道」が狭山市を通っているので、関心大でした。
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【綱島家(農家)】
江戸時代中期 世田谷区岡本三丁目。
広間型の間取りを持つ茅葺の民家。
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いろりを焚いていました。
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【旧自証院霊屋】
慶安5年(1652) 新宿区市ヶ谷。
尾張藩主徳川光友の正室千代姫がその母お振りの方(家光の側室)を供養するため建立した霊屋。
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魔除けだろうが、何だろう?
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【高橋是清邸】
明治35年(1902) 港区赤坂七丁目。
総栂普請。二階が書斎と寝室で、2.26事件の現場。
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桟の太い格子が目立つ。
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ここが二階の、2.26事件で暗殺された場所。
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廊下の窓の意匠が素晴らしい。
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宮崎駿が参考にした。
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【皇居正門石橋飾電燈】
明治20年代 千代田区千代田。
石橋の欄干両側にある男柱石に計6基設置されていたものの一つ。
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【看板建築】
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上村邸
昭和2年(1927) 中央区新富二丁目。
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花市生花店
昭和2年(1927) 神田淡路町
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武居三省堂(文具店)
昭和2年(1927) 神田須田町一丁目
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【子宝湯】
昭和4年(1929) 足立区千住元町。
豪華過ぎる銭湯。東京の銭湯のトップでしょう。
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左が男湯の、右が女湯のペンキ絵。おそろしく天井が高い。
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男湯
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男なら誰でも座ることを夢見た番台(笑)
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【天明家(農家)】
江戸時代後期 大田区鵜の木一丁目。
名主役を務めた旧家。
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千鳥破風が美しい。
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今回の企画は、実はお花見がメインだったのですが、生憎の雨(泣)
お花見のお弁当を各自用意してきたのですが、雨の中二時間歩き回った後なので、まずは公園内の売店に飛び込みました。
参加20名だったので、貸し切り状態です(笑)
暖かいうどんや蕎麦で、ようやく一息つけました。

園内の桜は、今や盛りと咲き誇っていました。
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ちょっと歩きながら桜見物をして、帰途に。
出口の手前に菜の花も咲き誇っておりました。
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高麗神社巫女舞

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今日、高麗神社で巫女舞が行われると知って、行ってきました。
「さくら祭り」に伴い、奉納されるということでした。

高麗神社の桜と、高麗神社の由緒などについては、既に記事にしてあるので、下記をクリックしてご覧ください。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-646.html

社殿前の樹齢300年のヒガン桜が満開です。
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いい色のツツジも咲いていました。
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境内では、氏子の方々が餅つきをして、参詣者に振舞っていました。
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時間になると、巫女さんが斎館から姿を現しました。
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神楽殿の前に進んで一礼。
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舞台に上がります。
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舞は動画で撮影しましたが、ここでは写真で紹介。

最初は、扇を持って舞います。
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続いて、鈴に持ち替えて、舞います。
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扇に持ち替えて、拝礼して終了。
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退場したあとに、鈴が残っていたので、撮りました。
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巫女さんたちが戻ってきて、鈴も下げました。
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巫女さんの「絵元結」については、神社によって違いがありますね。
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安房神社(延喜式内社)/栃木県小山市

20140405

所在地:栃木県小山市粟宮16

色々な行事とか用事のため記事のアップが遅れて申し訳ないですが、
3月28日(金)の歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で下野国の三回目、村檜神社、大神神社の次に訪れました。

バスの駐車の関係で、ここも一の鳥居はパスしています。
この参道のずっと先に一の鳥居があります。
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木製白木の二の鳥居(両部鳥居)
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式内社:下野國寒川郡 阿房神社で旧郷社です。
延喜式では「阿房神社」とあるが、現在は安房神社。

-由緒-
 当社は、創建は不詳であるが、伝承によると今から約2000年前の崇神天皇の御代に創建されたと言い伝えられています。
安房神社は延喜式内社として県内において古社です、西暦905~927年に醐醍天皇の命により選定された延喜式の中の神名帳に記載されており、昔は国司が祭礼にお供えものをして参拝したと伝えられています。
下野國の南の守り神であったとも伝えられ、また旧間々田、大谷、小山一帯の総氏神と称えられ崇敬をされたとも言い伝えられています。
安房とは安全な土地と言えます、この地域は幸いに災害の少ない土地で、作物等も毎年平均的に収穫されていたように考えられます。特に粟の産地であったようです。最近まで粟は主食でした。
従って安全の神、豊作の神、それに建築の神、方位災難除けの神として長く信仰されています。
それに願掛けの神社としても崇敬されています。

-願掛けの神社と言われる由-
天慶2年、藤原秀郷公が平将門との戦に勝つ為祈願をし、みごとに戦勝したことにより、お礼に種々の寄進をし感謝し、その後永世主護神とし、秀郷公の子孫である小山公も代々崇敬したことによる。

神橋があります。
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神橋を渡ると、右手に池に囲まれた水神社がある。
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手水舎
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大きな龍頭の注ぎ口
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階段上に三の鳥居
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三の鳥居をくぐると正面に拝殿。
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拝殿前に、二組の狛犬があります。

まず昭和12年奉納の炎尾型のもの
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続いて文政11年(1828)奉納の立て尾型のもの
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尾が結んだようになっている。
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拝殿、幣殿、本殿と並びます。
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拝殿
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「安房神社」と「粟神社」の社額があります。
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御祭神は、天太玉命(あめのふとだまのみこと)、莬道稚郎子命(うじのわきいらっこのみこと)。

莬道稚郎子命は、応神天皇と宮主宅媛との間に生まれた皇子で、仁徳天皇の異母兄にあたる。仁徳天皇と皇位を譲り合い、思い悩んだあげく決着を期すべく、自ら死を選んだ。

天太玉命は、忌部氏の祖。
天孫降臨のとき、瓊瓊杵尊に随伴した五柱の神の一柱である。
ここで注目しなければならないことは、これら五部神は、天照大神が天の岩戸に隠れたとき、天照大御神のお出ましを祈念して祭りを行った神々である、という点である。すなわち、祭祀における職掌のちがいはあるものの、本来、五部神の間には上下関係はなく、高天原以来の宮中祭祀は中臣・忌部・猿女氏が対等に奉仕してきた。
しかし、天児屋命の子孫の中臣氏が、大中臣氏としてマツリ(祭祀)を、藤原氏としてマツリゴト(政治)を掌中におさめるようになると、誇り高き忌部氏としては大きな差をつけられてしまった。
さらに固有の職掌にも就けない事態が増加した。平安時代前期には、名を「斎部」とあらためた。
斎部広成は「古事記」や「日本書紀」が中臣(藤原)氏に有利に編纂されていることへの憤懣の書として、大同二年(807)の「古語拾遺」を著した。しかしその後も状況は変わらず、中臣氏のみが栄えることとなった。

忌部氏の分布
本拠地;大和国高市郡金橋村忌部(現橿原市忌部町)  天太玉命神社(延書式内社)
各地に 出雲忌部、紀伊忌部、阿波忌部、讃岐忌部と分布している
天太玉命の孫・天富命は肥沃な土地を求めて天日鷲命の子孫らを率いて四国へ向かい棲みつき、穀(かじ)・麻の種を構えて木綿・麻布を織った。阿波国の忌部の祖となる。
阿波忌部の一部はさらに肥沃な土地を求めて、黒潮の流れに乗って北上し、房総半島へ上陸し、その周辺を安房郡と名付けた。その記念碑ともいうべき存在が千葉県館山市大神宮に鎮座する旧官幣大社「安房神社」、すなわち 延書式神名帳「安房国安房郡鎮座」の「安房坐神社」である。
阿波忌部が安房忌部となりさらに北上し、下総国結城郡の西側の下野国寒川郡まで到達していたのである。すなわち、阿波忌部は麻・穀を植える技術を持って、下野国まで到達していた。

神紋は「右二つ巴」
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これは小山氏の紋章だそうだ。
周囲の神社の神紋も、この紋が多いらしい。
現に、当社の前に訪れた大神神社も、この門だった。

境内の説明板にあった、小山政長が「粟宮に対する諸公事を免除する」という折紙。
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二代目古河公方足利政氏が粟宮神主に祈祷に対し賞すると書いた書状。
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拝殿向背破風の彫刻。日輪と、これは牡丹であろうか。
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向拝蟇股の童子の彫刻
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向背柱の獏と牡丹
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本殿は覆い屋に保護されている。
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覆い屋の板の隙間が粗いので、写真は撮りやすかった。

本段の前の狛犬がとても良い感じだった。
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各部の彫刻が素晴らしい。

本殿正面
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右側面の彫刻
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背面の彫刻
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左側面の彫刻
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境内社
左から、三峰神社、同じく三峰神社、こぶとり神社、山神社、道祖神社、船太郎神社、粟作翁神社
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合祀神社
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立派な神楽殿
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境内説明板にあった太々神楽の様子。
太々神楽の一つで伊勢誉田流を名乗り、幣舞に始まり山神の舞で終る12座から成り立っているそうです。
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境内説明板にあったアワガラ神輿の写真
屋根にアワガラを差し込み、四方の鳥居や高欄などに毎年新しいミズヒキを結び加えて独特の装飾を施した神輿を氏子地域に巡行する行事。
安房神社の祭神である天太玉命(あめのふとだまのみこと)を祖神とする一族が、粟を携えて全国にその勢力を拡大していったことを表わしたものと考えられています。
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(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


川越女子高の建物

20140404

今日の朝日新聞埼玉欄に、川越女子高の建物が川越市の文化財に指定されたとの記事があった。
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これを読んで嬉しくなった。
というのは、私は2011年2月22日に拝観しています。
テニスを通じて知り合った友人が建築業で、その組合が主催した「川越建築ウォッチング」に私も参加させてもらったのです。
その記事は下記をクリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-601.html


新聞の記事によると、明治期の現役校舎は埼玉県ではここだけ。全国的にも珍しいという。
私のブログにも書いたが、現役というだけでなく、清潔でピカビカな状態でつかわれているのに驚いた。
真っ白な校舎も、「シミ一つなく・・・」と建物の形容には変かもしれないが、美しかった。
相当、学校も生徒も大事に使用しているのが窺われた。
きっと、これからもずっと生き残っていくと思います。

とても印象に残っている建物です。


大神神社(延喜式内論社)/栃木県栃木市

20140401

所在地:栃木県栃木市惣社町477

3月28日(金)に歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で下野国の三回目となりますが、この日、村檜神社の次に訪れました。

駐車場の関係で、参道の途中からとなります。
一の鳥居の方向を見ると、遙かかなたなので、あきらめました。
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参道には朱塗りの灯篭が並びます。
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社殿が見えるところまで来ました。
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手水舎
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きれいな水が出ています。
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銅製の二の鳥居
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大神神社(おおみわじんじゃ)は、式内社(小)論社、下野国総社。旧社格は県社。
古くは「下野惣社大明神」「惣社六所大明神」「八島大明神」などの別称があった。

社伝では、崇神天皇の時代に豊城入彦命(崇神天皇皇子)が東国平定の折に戦勝と人心平安を祈願し、当時から広く名を知られた室の八嶋(むろのやしま、室の八島とも記す)に、崇神天皇が都とした大和国磯城瑞籬宮(現在の奈良県桜井市金屋)に座した大三輪大神(大神神社)を勧請したのが創建とされている。
平安時代中期の『延喜式神名帳』には「下野国都賀郡 大神社」の記載があるが、当社をそれにあてる説がありその論社とされている。
また、古代の国司は各国内の全ての神社を一宮から順に巡拝していたが、これを効率化するため、各国の国府近くに国内の神を合祀した総社を設け、まとめて祭祀を行うようになった。当社はそのうちの下野国の総社にあたるとされる。当社の南方約2.8kmの地には下野国庁跡も発掘されている。
平将門の乱により被害を受けたが、藤原秀郷らの寄進により再建され、室町時代まで社殿は広く立派であったと伝える。しかし戦国時代に、皆川広照の残兵が当社に篭り、北条氏直の軍勢が火を放ったために焼失し、荒廃した。その後、徳川家光による社領30石と松の苗1万本の寄進などにより、1682年(天和2年)に現在の形へと復興したという。
しかしながら、実際には明治時代より以前の史料で当社を明確に「大神(おおみわ)」または「大三輪」と呼んだものは発見されていない。「実際のところは、都から遣わされた国司が大和国の大神神社(大三輪神社)を別の場所で祀っていて、これが下野惣社大明神に合祀され同化した」といった説もあるなど、その歴史は必ずしも詳らかとは言い難い。
明治維新後、明治6年に近代社格制度において郷社に列し、明治40年に神饌幣帛料共進神社に指定、明治44年に県社に昇格した。1924年(大正13年)に社殿の大改修、1993年(平成5年)に室の八嶋の大改修などが行われて現在に至っている。

二の鳥居をくぐると、右手にお宮があり、行って見ると神宮て相殿神を祀っていました。
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祀られているご祭神
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流れ造りの立派な社殿です。
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正一位の額もあります。
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参道を進みます。
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炎尾型の狛犬
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拝殿
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主祭神は倭大物主櫛𤭖玉命 (やまとおおものぬしくしみかたまのみこと)と称し、大物主命を指します。

社額
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「正一位惣社大明神」の額もあります。
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拝殿内部
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神紋は「右二つ巴」で珍しい。
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拝殿、幣殿、本殿と並びます。
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流れ造りの本殿
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破風のところに気になる彫刻がありました。残念ながら本殿には近寄れないようになっていた。
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神楽殿
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いよいよ「室の八嶋」ですが、入り口の前には松尾芭蕉の句碑があります。
「いと遊に結びつきたるけふりかな」
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当地を訪れたとされる松尾芭蕉と曾良は『奥の細道』に、室の八嶋の由緒などを曾良の言として記しているが、俳句は載せていない。しかし、後年曾良が著した『俳諧書留」に、芭蕉の句として「いと遊に結びつきたるけふりかな」が記されています。
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室の八嶋(むろのやしま)は、古来の和歌などに歌枕として見られる地名。当社境内の池中の島をその跡と伝える(ただし後世の付会とする説もある)。奈良時代の昔から、歌枕として都にまでその名を知られ、『万葉集』や『古今和歌集』をはじめとする多くの和歌集などに登場する。

現在見られる「室の八嶋」は、杉木立の中の掘割に、小さな祠を戴く8つの小島がある、およそ800坪ほどの庭園状の場所であり、水煙や湧き水などは観られない。

入り口
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「室の八嶋」
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8つの小島には、各名神が祀られている。
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途中に神橋がある。
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水はきれいで、鯉が泳いでいる。
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一方の入り口に在った句碑
「能面の 憂ひは 稲の匂ひかな」 糸原月穂
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境内には、まだ境内社がありました。
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ご神木の夫婦杉
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こういう碑もありました。
「道鏡を守る会」があるということは、下野の地に貢献したのでしょう。
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悪名が高い道鏡ですが、孝謙天皇にしても自分の思惑からとはいえ、重祚できるほどの人物だったわけで、道鏡は大人物だったのは間違いないと思います。
孝謙天皇に寵愛されたことから、平安時代以降の学者によって天皇と姦通していたとする説や巨根説などが唱えられ、『日本霊異記』や『古事談』など、説話集の材料にされることも多い。しかしこの説は信頼の置ける一次史料で確認することはできないようです。
一方で、こうした説が流布された背景には、称徳天皇の崩御をもって天武天皇系の皇統が断絶して天智天皇系の皇統が復活したことから、天智天皇系の皇位継承を正当化するために天皇と道鏡を不当に貶めるためという指摘があります。


地元の方と思われますが、熱心な方から詳しい歴史の話をコメントしていただきました。
そちらも併せて、参考に願います。(2014.4.29)



(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html


カウント 333333

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アクセスカウントが33万に乗ってから、実は3並びのカウントを自分で踏みたいなと思っていました。
そしたら、さっき入った時に見事自分で踏んでいるではないですか(笑)

それまでも色々なブログを楽しんでいましたが、
このブログにしたのは、2008年の9月からです。
そんなに沢山の人にみてもらえるようなブログでないので、それだけにこのアクセス数は単純に嬉しいです。

それで、こんな記事を書きました。

これからも、のんびりと自己流のブログを楽しんでいきたいと思っています。

よろしくお願いします。


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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