大室古墳群・小布施町(北斎館・小布施堂・岩松院・浄光寺)

20140530

歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行の初日5月27日の続きです。山本勘助の墓から向かったのは大室古墳群です。

【大室古墳群】
所在地:長野県長野市松代町大室
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この古墳の見学は、この旅行を企画した和光さんが松代のことを調べていて知り、とても珍しい古墳だからぜひ寄りたいと、組み込んで下さった。私も、さきたま古墳に年に数度通っていて古墳には関心が高いほうなので、とても楽しみにしていた。
この古墳は5世紀前半から8世紀に築かれたと見られ、積石塚古墳が約500基も点在している。積石塚古墳は高句麗にみられる墓制であり、また 積石塚古墳の中に点在する合掌形石室は百済の墓制であるところから、この地には早くから渡来人が住んで居たと考えられます。日本列島ではこの型の石室が5世紀半ばに突然出現する。
後の時代に、馬の飼育の勅使牧が大童古墳群周辺に設けられた(大室の牧)ことと考えあわせれば、     「馬の飼育と言う技術を持って移り住んだ朝鮮半島系の渡来人の墓」とみなされてきた。
出土遺物には、土師器、須恵器、珠文鏡、馬具、馬骨、鉄鍬、刀子、玉類等馬具が多いのもこの古墳の特徴。

何故、5世紀もの昔、都から遠いこの地に渡来人が多数住んで居たのか。
日本における渡来人の渡来時期を大きく4つに区分すると。
1)弥生時代(BC2~AD3)には 日本には南から西から北から渡来人が来ていた。この頃は海洋技術の発達と共に、海を越えての交流が盛んに行われていたと考えられる。
2)5世紀前後 倭の五王が治めていた時代で、朝鮮半島からの渡来人が多い。
3)5世紀後半~6世紀には最新技術を持った人が何百人、何千人という規模の集団で渡来して来て、大和朝廷 建国の基礎を支えた。
集団名としては秦氏、東漠氏、文氏、今来漢人等、技術的には農業、土木、製鉄、鋳造、建築、養蚕、機織、金工、土器、馬の飼育技術、漢字、管理など、これらの技術を以て大和朝廷に食い込んでいった。
4)7世紀 百済 高句麗の滅亡により、王族や官僚が亡命してきた。

この古墳に入っていく道が狭くて、バスの運転手がどんどん入っていくのでハラハラしましたが、幹事さんは歩きを覚悟していたようで、運転手さんに感謝していました。

古墳館に到着。
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入り口にあった、大室谷支群の立体模型。
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古墳は、このように5つの場所に分かれて存在します。
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古墳館でスライドによって、学習した後、古墳館の周りの「エントランスゾーン」だけ見学して回りました。
そこだけでも沢山の古墳がありましたが、そのうちの幾つかを紹介。

ポツリポツリと古墳が点在しています。
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235号墳
墳丘は失われているが、石積み技術の確かさで横穴式石室は残存している。
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横に回って驚きました。
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林の中にも点在している。
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238号墳。土石混合墳。
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240号墳
巨石を使った墳丘の土留め石列。
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241号墳
合掌型石室発見。石に隠れているが、天辺だけ見える。
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エントランスゾーンでは見られなかったが、こういうものです。
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日本全国で約40例しかない、合掌形石室が25例も確認されているそうです。

243号墳
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横穴があるぞ!
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横に回ると穴がある。
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2つの方向から入り口があるなんて、珍しい。
と思っていたら、帰って資料を見たら、盗掘の穴だった(笑)

244号墳
古墳群で最大の古墳。
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中は立っていられるようだ。
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広い石室だった。
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246号墳
整備際に築造途中を示す状態を再現した。
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満足して、ここに別れを告げました。
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追記:
しかし、先ごろ行われた大室241号墳の調査で、円筒埴輪や人物埴輪が見つかったことから、複雑な検討が始まっているそうです。埴輪は3世紀に日本列島で生まれ、数百年にわたって用いられた日本列島の古墳特有の副葬品だ。朝鮮半島南部でも一部出土した例があるが、それは日本列島から移り住んだ人々が造ったと言われている。
考古学では、墓制にかかわる要素に、その集団特有の系譜が現れると考えるのが一般的だ。「埴輪から見る限り、合掌形石室の被葬者イコール渡来系と言う単純な議論はもう通用しないのではないか。241号を発掘した  長野市教育委員会の風間主査はそう指摘する。実際241号墳からは、飾り馬具や特殊な矢じりなどが出土したが、これらは日本列島の他の古墳でも見られるもの。大室古墳群全体を眺めても、朝鮮半島系と確実に言える遺物は殆ど出土していない。一方、「渡来系の墓」説を完全に否定してしまうことにはためらいもある。「否定する見方もありだと思うが、その場合、合掌形石室が列島内に突然出現した理由をどう説明するのか、独自に生まれたとは考えにくい」(明大・佐々木教授)

私たちは、バスで次の目的地「小布施」に向かいました。

【小布施町】

着いて、「竹風堂」で昼食。もちろん栗おこわなどのランチで美味しかった!!

それから「北斎館」に向かいます。
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通りにこんな和紙のお店が。
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「北斎館」

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北斎と小布施については、有名なので説明は不要と思います。

中に入ると、2代の屋台が。
東町祭屋台には、龍と鳳凰の天井画。
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上町祭屋台には水滸伝の皇孫勝と龍の木彫りと男波と女波の天井画。

皇孫勝
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羽を広げて飛ぶ龍
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男波
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女波
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肉筆画では気に入ったものを。

富士越しの龍
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水滸伝の「花和尚」
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ほとときす聞く美人読書
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「品川御殿山花見」
私は、以前歴史クラブで「旧東海道品川宿のいまむかし」という研究発表をしたが、その時にこの絵は知らなかった。
それで、これが入っている図録を探したら、3000円の厚いのにしか入っていなかったので仕方なくそれを買った(汗)
実物は151センチの長いものなので、図録に収容されているのも長い。
部分的に、二つ載せるが、半分くらいです(汗)
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満足して外に出て、しばらく周辺を散策しました。

北斎館の向かいには、桜井甘精堂が。
小布施で一番最初に栗のお菓子、銘菓「栗落雁」を始めたお店です。
ここの「栗落雁」は毎年親戚から頂いていました。美味しいです。
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この辺は綺麗に整備されています。
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蔵元「市村酒造場」
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小布施堂

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栗菓子の歴史は文化5年(1808)、現在の3大栗菓子屋のひとつ、桜井甘精堂の初代桜井幾右衛門によって、「栗落雁」が作られたことに始まる。その後、竹風堂が明治26年(1893)、小布施堂が明治33年(1900)に創業し、明治30年代には栗羊羹の缶詰が通年商品として開発され、高級菓子として全国有名デパートに並ぶ。

長野市松代町の山寺常山や佐久間象山とともに、「信州三山」と称せられた知識人、高井鴻山(宝暦5年(1755)創業の桝一市村酒造場12代目・市村三九郎)がいた。京都や江戸に16年間遊学し、31歳で小布施村に戻った彼の元には、久坂玄瑞、葛飾北斎などの文人墨客が訪れ、一流の文化サロンが田舎町に存在した。鴻山は、葛飾北斎を招くためにアトリエ「碧い(へきい)軒(けん)」を建て、北斎は、83歳(天保13年1842)から90歳で亡くなるまでに、小布施村に再三来村し、3年半滞在、岩松院本堂の天井画の大鳳凰図をはじめ、多数の肉筆画、祭り屋台2台に天井絵の傑作を残した。

小布施堂の中に入れるみたいなので、入っていった。

正門
これは、豪商ながら近在各藩より家老待遇を受けた市村作左衛門(高井鴻山の祖父)が、その格式によって建てたもの。
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昔の工場らしい風景が広がります。
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醤油の甕がたくさん積んであった。
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荷車だ!
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とても感じのいい建物が続く。
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ここは、配送場らしい。
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集合時間に集まり、続いて岩松院に向かいました。

【岩松院】
所在地:長野県上高井郡小布施町615
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曹洞宗の寺院。山号は梅洞山。本尊は釈迦如来。葛飾北斎の八方睨み鳳凰図があり、小林一茶ゆかりの寺でもある。

山門
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仁王さまは、なんだかユーモラス(笑)
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山門の内側に置かれているのは、観音様と三面の大黒様だった。
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本堂
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本堂の天井にある、1848年北斎晩年の最大の作品、葛飾北斎八方睨み鳳凰図を拝観したわけですが、撮影禁止なので、帰ってからネットで手に入れたものです。
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近年、これを描いたという時期に北斎が江戸に居たことを裏付ける資料が発見され、論争になっているそうです。

私は吃驚しましたが、福島正則の霊廟が小布施にあるんですね。
福島正則は広島城無断改築を理由に、安芸・備後50万石を没収、信濃国川中島四郡中の高井郡と越後国魚沼郡の4万5,000石(高井野藩)に減封・転封され、この地で亡くなっています。

霊廟
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小林一茶の句碑があります。
1816年一茶が訪れ「やせ蛙 まけるな一茶 これにあり」と詠んだ。
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この池で、アズマヒキガエルのオスがメスを奪い合うのを詠んだみたいです。
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ここから、この日最後の目的地、浄光寺に向かいました。

【浄光寺】
所在地:長野県上高井郡小布施町雁田676

縁起によれば薬師堂に祀られている雁田薬師は、天平2年(730)に僧玄明の草創で、大同4年(809)施主の坂上田村麻呂将軍及び僧の悦道による建立であるという伝承があります。現今の御堂は応永年間に近郷の城主である山門某により再建されたものになります。本尊薬師如来の胎内には「応永16年7月吉日云々」の銘があり、昭和の大修理に当り建物解体に際して(ときょう)組物巻斗上端に「応永15年2月薬師堂作」の墨書が数個発見されて、本尊及び御堂の建立年次が明らかとなりました。

山門
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仁王さんが、作者が違い、しかも紅白の像です。
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薬師堂へ登る参道の石段は自然石で一見雑然としていますが、下の方から体を低くして見上げると、石段の鼻先が一直線に揃っていて、とても不思議な石段です。
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エッチラオッチラ、なんとか上がりました(汗)
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途中、小林一茶の句碑があった。
「大栗は 猿の薬禮と見へにけり」
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上がり切りました(嬉)
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国宝の薬師堂
何ともいえない、屋根のカーブです。
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建物の建設 :応永15年(1408年)
建物の構造 :桁行3間、梁間4間、木造1階
屋根の構造 :入母屋造、茅葺で軒が深い構造

本尊の薬師如来は非公開ということで、見れません。

この石段では、降りるのにも気を使います。
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駐車場に戻るときに、菖蒲がたくさん咲いていた。
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これで、今日の予定は終了。
渋温泉に向かいました。
風呂と宴会が待っています(嬉)


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典厩寺・川中島古戦場・山本勘助の墓

20140529

5月27日・28日に歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行に参加しました。
朝7:00に狭山市をバスで出発して、上信越高速道の長野インターを降り、最初に訪れたのが「典厩寺」です。

【典厩寺】
所在地:長野県長野市篠ノ井杵淵1000

寺名の由来は、永禄4年(1561)の川中島の戦いで、武田信玄の弟・武田信繋が当地八幡原で討死したことに因み、合戦から60年後、松代藩初代藩主真田信之が信繁の官職「左馬頭(さまのかみ)」の唐名「典厩」から寺号を典厩寺と改めて菩提を弔った。
その後歴代藩主から手厚い保護をうけています。

山門
松代藩三代藩主真田幸道の霊屋の門を移したものと伝えられている。
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山門を入ってすぐ左に閻魔堂があります。
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八代藩主幸貫は、万延元年(1860)川中島合戦300年を記念して閻魔堂を建立し、甲越戦没者の菩提を弔った。

閻魔堂の屋根には、甲斐武田家の紋所「武田菱(割菱)」と信繋に許された「花菱(唐花菱)」の紋が並んでいる。
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閥魔大王像
川中島合戦後300年を記念して造られた閥魔大王像は、日本一大きいとされる。約6mもある。
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後壁に四天王が描かれ、
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天井には三十三身の観音菩薩が描かれている。
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閻魔堂横の首清めの井戸
討死した信繁の首を敵から奪い返し、井戸で丁寧に清めた後葬ったといいます。
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庭に歩き出すと、眼前に大きな枝垂れ桜があった。これは来年の桜詣での一つとなりました。
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根元に、初代住職使用の座禅石がある。
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武田信繋の墓
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信繁隊は千曲川畔まで進退すること三度、味方は次々と討死してい<。朝霧の晴れゆ<かなた、八幡原を見れば兄信玄の旗本隊も越軍に押され苦戦の表中。甲斐源氏武田の棟梁、兄信玄のことが我が身よりも案じられ、日頃、他の兄弟よりも自分に目をかけ、可愛がって<れた兄への慕情が激しい戦いの中にも頭をかすめる。弟の身を案じて兄にもしものことがあったら、それこそ武田の家運も尽きるものと信繁は信玄のもとへ急使を走らせ、「私を助けよと思い召さるな。私が敵を防いでいる間に勝利の戦術を」と伝えさせ、そして家来の春日源之丞を馬前に呼び寄せ、紺地に信玄直筆の法華経陀羅尼品の経文を金粉で書いた母衣(鎧の背につけて飾りとし、時には流れ矢を防いだ具)と乱れ髪の一握りを切って渡し、「われ討死の後は、わが子信豊に与えよ」と遺言し、群がる越軍の中に駆け入って、さんざんに斬りま<ったが、多勢に無勢力尽きて、越後の猛将宇佐美駿河守の繰り出す槍に脇腹を突かれ討死した。時に信繁37歳であった。
信繁の死骸は千曲川こ転げ落ち、浮き沈みして流れていくのを「よき御大将の御菖を」と、宇佐美の家臣梅津宗三が川に飛び込んで死骸を抱え首を取ろうとした。そうはさせじと、これまた信繁の家来らが千曲川に飛び込んで相戦い、とうとう梅津を討ち取り、死骸を川辺に引き上げ、討死した場所で信繁の死骸を荼毘に付し、手厚<葬った。そこが信繁の墳墓のある場所という。
(激闘! 川中島合戦をたどる 岡澤由往著より)

懐古の碑
伊藤祐亨元帥揮毫による碑
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右に謙信の力試しの石
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左に信玄の愛石
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本堂
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本堂入り口の両脇には両軍の旗があった。

上杉軍の旗「び・りゅう」
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武田軍の旗「風林火山」
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屋根の鬼瓦と軒先瓦
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武田上杉両雄合戦の碑
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境内にあった「川中島合戦記念館」には色々な資料が展示されていたが、ここでは肖像画を紹介しておきます。
上杉謙信
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武田信玄(自画賛)
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信玄公陣中のお守り「武田不動尊」
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武田信繁
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山本勘助
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武田家使用の火縄銃。重さ16キロ、長さ175センチ。
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庭に縁起物の大灯篭があった。
十二支とカエルを触って、若がえる、旅かえる、宝かえる、だそうです。
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中に灯ではなく、観音像が。
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十二支
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カエル
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気が付くと、閻魔堂のそばに木賊がたくさん生えていた。
これは刀を磨くのに使用するので、武家の家には必ず植えてあったといいます。
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次いで、バスで川中島古戦場(八幡原史跡公園)に移動します。

【川中島古戦場(八幡原史跡公園)】
所在地:長野県長野市小島田町

バスから降りると、名物の案内オバちゃん(売店のひと)につかまりました(笑)
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ハッピの背中には、誇らしげに二代目と。
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神橋
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鳥居
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手水舎
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川中島合戦の図
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川中島合戦については有名すぎる話なので、ここでは省略します。

両将一騎打ちの銅像
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八幡社
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鞘堂(旧社殿)
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三太刀七太刀の碑
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執念の石
上杉軍は車懸かりの戦法をとり、武田軍本陣の信玄めがけ上杉謙信が切り込んできた。謙信の鋭い太刀に、信玄は手にした軍配団扇で受け止めたが、腕に傷を負った。
急を見て信玄のもとに駆けつけた家臣の原大隅守虎胤(はらおおすみのかみとらたね)は傍らにあった信玄の槍で馬上の謙信を突いた。しかし、槍先ははずれ、拍子で驚いた馬が立ち上がり、一目散に走り去った。主君の危急を救いながらも、謙信を取り逃がした原大隅が、その無念さから傍らの石を槍で突き通したと伝えられるのが、この執念の石である。
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槍が貫いた穴
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首塚
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逆さ槐(えんじゅ)
山本勘助等の進言による「キツツキ戦法」の採用を決定した武田信玄は、永禄4年9月9日夜、ここ八幡原に上杉軍狭撃の陣地を構えた際、この場所に土塁を積みかさね、矢来を組み、盾をはりめぐらして本陣をおいた。
このとき土塁の土どめに自生の槐の杭を根を上にして打ち込んだのが芽を出し、その後約400年を経てこの巨木に成長したものと伝えられる。
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芭蕉句碑
「十六夜も まだ更科の 郡かな」
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田中月亀父子の歌碑
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そこから、ハズで山本勘助の墓の近くまで移動しました。

【山本勘助の墓】

千曲川の更埴橋のたもとでバスを降ります。
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土手をしばらく歩いて、土手下に下るとありました。
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左に行くと、広瀬の渡しです。
武田信玄が甲斐より海津城に入る時、海津城を出て八幡原に陣を構える際に渡った。
江戸時代には、全国から参詣に来た人々が信州柴阿弥陀堂を経て善光寺に至る時渡った。
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勘助の墓
川中島の激戦で討死した山本勘助の墓は当初、東寺尾高畑地区にありました。
千曲川の流れで墓が荒廃したため、元文四年 (1739)松代藩家老鎌原重栄らが、柴の阿弥陀堂境内に墓地を造り、古骨と鎧通しの短刀を壷に入れて移しました。文化六年(1809)重栄の孫重賢が柴阿弥陀堂の束側に土盛をし、石の土台を築き現在地に墓を移した。
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この墓の台石に彫られた、山本勘助とこの墓の来歴を記した書の説明が、囲みに貼ってありました。
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ここから、私たちは「大室古墳群」に向かいました。
次回の記事で。

(続く)

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坂戸から川島町を歩く(2)

20140526

23日(金)に、歴史クラブの企画で、表題のテーマで歩いた続きです。
白山神社の次は、成就院です。

【成就院】
所在地: 埼玉県坂戸市赤尾1769
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入ってすぐ左手に、石仏群がある。
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この中には種子も摩耗してわからなくなった大きな板碑がありますが、何もわからないので掲載は省略。
正徳4年(1714)建立の庚申塔を紹介しておきます。
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本堂の方に進むと、大きな石仏の山があります。
その中の和田家板碑供養宝塔というところに、小型の板碑や板碑片が多数あります。その中で注目されるのが「南無阿弥陀仏」と刻まれた六字名号板碑です。坂戸市勝呂地区にはこの種の板碑が多くみられます。
和田家というのは、住職さんのお話ではこの辺の大きな豪農だそうです。
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また石仏群の中に、お腹の膨れた石仏があり、気になりました。
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本堂
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このお寺は釈迦如来を本尊としています。
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本堂の前の水盤には、蓮が咲いていた。
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またこの寺の境内に「三芳野天神社」がある。
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再び、越辺川の堤防の上を歩いていくと、堤防のすぐ下に金山彦神社があります。

【金山彦神社】
所在地:埼玉県坂戸市赤尾1867

金山彦命を祭ります。カナヤマサマと呼ばれています。金山彦命は鍛冶、鋳鉄、金属技工の神です。神社の南西300mにバス停「赤尾金山」があります。「坂戸風土記15号」添付の地図に、鍛治屋敷、カネ山、カネイ塚の地名がある。赤尾金山の南1kmの地名「別所」で金くそが出た。
白山神社境内にあった「一目連神社」のところでも述べましたが、この辺は砂鉄を利用した製鉄、鍛冶が盛んだったようです。

鳥居は両部鳥居
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社殿は、傷んでいて、シートをホッチキスでビッシリと留めてあり、中はまったくうかがう事が出来ません。
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そして、この記事を書くために調べていたら、ネットの記事では、下のような写真が載っていて、鳥居が確かに同じなので、同じお宮だと思いますが、社殿がまったく現在の姿と異なります。
社殿が、何かの原因で倒壊してしまったのでしょうか。
(以下二つの写真は、ネットからの借り物です)
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境内に御嶽神社が祀られていた。
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このあと、越辺川沿いで日陰の場所を選んで、持参の弁当で昼食、休憩。
その後、天神橋を渡って川島町に入りました。

天神橋を渡るとき、水道橋を挟んで上流に越辺川にかかる冠水橋の赤尾落合橋が見えた。
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【八幡神社】
所在地:埼玉県比企郡川島町大字吹塚830 

鳥居と社号標
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鳥居前に、珍しい道祖神と庚申塔が覆い屋の中に安置されています。
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宝暦3年(1753年)の庚申塔
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道祖神(町指定文化財)
男女二人が手をとりあって立っていますが、これは簡略化されているが「祝言型」だ。祝言型というのは、宮廷風の衣服をまとった男女が酒を酌み交わしているもの。
おぼろげながら衣服は宮廷風に見える。女性が徳利を持ち、男性が皿を持っている。
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拝殿
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拝殿内部。奥に本殿が見える。
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本殿の覆い屋は隙間なく、覗き見ることが出来ない。
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境内に、武蔵御嶽神社の大口真神(お犬様、狼)が祀られていた。
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次の目的地に向かっている時、道の分岐点に庚申塔があった。
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【正福寺】
所在地:埼玉県比企郡川島町南園部310
真言宗智山派
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大型五輪塔2基は、説明板によると、中山五郎為垂(秩父平氏の一族、中山の開発領主、比企能員の婿、建仁3年:1203に比企氏と共に滅亡)の供養塔です。
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石材は天神山凝灰岩で、群馬県(みどり市笠懸町の天神山)で産出したものです。天神山は桐生市の西7kmにある標高174mの独立蜂です。天神山凝灰岩は白色、きめ細かい質の良い石材で古墳時代から利用されてきました。埼玉県内でもあちこちで利用されています。
近くの石材を利用した方が、輸送が楽なはずですが、かなり離れた天神山の石材が利用されています。
古利根川を下り、元荒川を遡って運ばれてきた。
下図8番が、この寺の五輪塔。
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境内に、稲荷社と天神社が同じ建物の中に並んで祀られていた。
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山門脇に、板碑群があった。
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【正泉寺】
所在地:埼玉県比企郡川島町中山1209
天台宗。
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観音堂
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木造聖観音坐像(町指定文化財、南北朝期、像高48.5cm、法衣垂下像)があります。
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本堂
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墓地には、明治期と新しいながら、良い板碑がありました。
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【金剛寺】
埼玉県比企郡川島町中山1198
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大日堂
比企一族の位牌堂。比企能員は、娘若狭局を二代将軍頼家に嫁がせ、その子一幡が生まれてから、北条時政・政子と対立して権勢を誇った。北条の陰謀と云われる「比企能員の変(比企の乱)」が起こり、比企一族は滅亡した。能員らの墓は鎌倉にあるが、その後数代を経て天正の頃より当寺一帯を館とした。
説明板には、この大日堂の天井の龍にまつわる伝説むがあると記されているが、どんな伝説かは不明。
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比企氏の墓地の入り口
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比企氏の墓地
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比企則員の墓
家康と同じ年に亡くなっている。
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けっこう立派な墓が並んでいる。
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その片隅に、現在の比企家の墓が。
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参道の途中に、こんなかわいらしい供養碑があった。
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住職さんのお誘いで、本堂にて本尊にお参りしました。
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これで今日の予定は全て終了。中山バス停から川越駅までバスで戻りました。
バスの中では爆睡(笑)

(了)


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坂戸から川島町を歩く(1)

20140524

昨日、23日(金)に、歴史クラブの企画で、表題のテーマで歩きました。
現在の坂戸市赤尾、島田、上吉田は中世初期には小代郷であったとされています。承元4年(1210)に書かれた『小代行平譲状』に小代氏の所領の範囲が記載されていて坂戸市の古道を研究する資料になっています。
この辺を越辺川に沿って歩き、天神橋から川島町に入ります。
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【島田橋】
所在地:埼玉県坂戸市島田 - 東松山市宮鼻間越辺川

東武東上線「北坂戸」駅から、「さかっちワゴン」というミニバスで「島田」バス停まで行きました。
この辺は交通の便から云うと大変な所ですね。
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近くに、道路に半分埋もれた、明和8年(1771)の道祖神文字碑があります。
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この辺には、まだこういう風習が守られています。田んぼに立てられたお札。
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真っ直ぐ越辺川に向かい、突き当たったところの土手下に、石仏群が。
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この中から古いほうから二つ挙げておきます。

天和三年(1683)のお地蔵様
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享保三年(1718)の庚申塔
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土手の上に出ると、「島田橋」が眼下に見えます。
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越辺川にかかる木製(ただし、桁は鋼材とのこと)の冠水橋。時代劇のロケに使用されます。島田には、川越・島田間を往復したテト馬車の停車場がありました。明治40年頃開通し、大正時代まで存続していたそうです。
この橋がある所は江戸時代当時は、川越・児玉往還と千人同心街道が合流、分岐する所にあった。川越・児玉往還では石井宿(現・坂戸市)と高坂宿(現・東松山市)、千人同心街道では坂戸宿と高坂宿の間にあたる所である。しかし明治時代初期頃まではこの場所に橋は架けられず、島田の渡しといわれた渡し船による連絡であった。
明治初期頃に木製の橋が架けられ[1]、越辺川両岸間の連絡が容易になったが、1920年にここより約600m上流に行った所に高坂橋(現在の国道407号の橋)が架かると、両岸間連絡の主流は高坂橋に取って代わった。この位置関係によって当橋は鋼製やコンクリート製に架け替える許可が下りずに木製のままとなっている。

橋の脇には、使用した映画やTVドラマの名が。
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この中で、すぐに頭に浮かんだのが「陽炎の辻2」です。
私の大好きな「居眠り磐音 江戸双紙」で、坂崎磐音の許嫁だった奈緒が、家の苦衷を救うため身売りし、吉原の白鶴太夫となり、そんな奈緒を陰から守っていた磐音。その白鶴太夫が山形の紅花問屋に身請けされ、二人で江戸を立つ。
早朝の千住大橋。
二人を待ち受けていた悪党一味が最後の襲撃をかける。それを磐音が倒してのけ、二人を見送る。
その舞台の橋が、実にここだったとは・・・・・・
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上を歩くと、とても気持ちがいい。
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冠水橋の所以の、流木などから橋を守る構造。
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越辺川
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次の目的地に出発。
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道路わきは、ちょうど田植えの真っ最中。
苗床
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田んぼに置かれた苗。
この固まりを、田植え機にセットします。
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【天神社、東蔵寺】
所在地:埼玉県坂戸市島田
臨済宗、建長寺派。かつては天神坊・天神別当と称しました。島田に天神社があった。永禄年間に京都北野天満宮から分祀され、鎮守として尊崇された。東蔵寺は天神社の別当寺。
左が天神社、右が東蔵寺。
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天神社の入り口には、木製の両部鳥居と石製の神明鳥居が接して立っている。
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社殿
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中に「天満宮」の社額が。
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神紋は「梅鉢」
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奥の本殿が、覆い屋の隙間からチラと見えるですが、よくわからず、正面から色々な方向からズームを効かせて、やっと撮りました。
本殿正面
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本殿前左右に随身が侍っていました。
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境内に富士塚らしきものあり。
埼玉県に577あると云われるうち、「坂戸市の浅間塚」がこれではないかと思われます。
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「富士山浅間大神」碑
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碑の周囲に、わずかながら溶岩がある。
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「小御嶽磐長姫大神」碑。磐長姫が刻まれているのが珍しい。
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食行身禄入定の烏帽子岩
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東蔵寺
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次の目的地に向かって歩いていくと、立派な火の見櫓が。
鐘は、ノスタルジーで残してあるのかな。
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これはキーウイではないかと思います。
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田んぼ道をのんびりと。
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ジャガイモの花が咲いていた。
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次の目的地の冠水橋が見えました。
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【赤尾落合橋・長楽落合橋】

これは、越辺川と都幾川合流点の直前のため、越辺川に赤尾落合橋、都幾川に長楽落合橋(ながらくおちあいばし)の冠水橋がかかっているとのことでした。
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ところが「通行止」になっています。
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とにかく橋のところまで行ってみました。
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越辺川にかかる橋はありましたが、老朽化しています。
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これは、帰ってきてから調べていて手に入れた写真です。中州から先の都幾川には橋は既にありません。
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【白山神社】
所在地:埼玉県坂戸市赤尾1668

朱塗りの両部鳥居
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拝殿
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社額はなんとか読める。
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本殿は覆い屋の中でまったく見えない。
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拝殿内部。本殿は下部が少し見えるだけ。
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祭神は菊理媛神。

神紋は、「右三つ巴」だが、通常の三つ巴と、流水三つ巴の両者が掲げられていた。
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もう一つ鳥居が立っていて、境内社の八坂神社がある。
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その右に愛宕神社もあった。
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八坂神社に板碑が立てかけられていた。
安永五年(1776)一月建立の石橋供養塔。正面中央に梵字を配した特異な板碑です。武州入間郡赤尾村中 願主 秀道とある。
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白山神社と八坂神社の間に、九頭竜大権現と一目連神社の碑がある。

嘉永6年(1853)建立の一目連(いちもくれん)神社。
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一目連は片目の龍。三重県桑名市の多度大社に別宮:一目連神社がある。祭神は天津彦根命の子神、天目一箇命(あめのまひとつのみこと)。この神は非常時に神が神意を発する際、龍に姿を変え、天高く駆け上がる、と説明がある。

私が読み進んでいる、谷川健一氏の「青銅の神の足跡」では天目一箇命は、製鉄・青銅に従事している人が信仰する神だと説明されている。
製鉄では、溶かした鉄の温度を、湯の色で判断するが、昔はそれを肉眼でやっていたために、目をやられて片目になる人が多かった。
そこから、この神が生まれたのではないかと。
近くには、金山彦神社があり、金山彦命は鍛冶、鋳鉄、金属技工の神です。近くにバス停「赤尾金山」があります。「坂戸風土記15号」添付の地図に、鍛治屋敷、カネ山、カネイ塚の地名がある。赤尾金山の南1kmの地名「別所」で金くそが出たとも。

狭山市の柏原が入間川から良質の砂鉄が採れたため、刀鍛冶・槍鍛冶で栄えたように、越辺川、都幾川から砂鉄が採れたと思われる。

嘉永6年(1853)建立の九頭龍大権現。
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そして更に、もう一つの九頭龍大権現が愛宕神社の右にありました。
水害が多発した土地柄なのか、二つもありましたね。
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(続く)

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エゾタマキガイ [蝦夷玉置(環)貝]

20140522

科 目 :たまきがい科
収拾者 :父
採取場所:石川県富来
採取日 :不明(1936年以前)
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殻は厚く丈夫。殻形はほぼ円形。殻頂の前後縁は殻頂の両側で直線的で、多数の放射肋と成長線が特徴的です。放射肋が多数あるが、弱い。
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内面の殻頂の下に∧型
の刻みがあり,その下から両側に多数の歯が 並ぶ。内側の縁はペン先状に刻まれる。
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ネットで調べていると、非常に化石の記事が多い。殻が厚く丈夫なせいだろう。


宝登山神社/秩父三社を巡る

20140520

所在地:埼玉県秩父郡長瀞町長瀞1828

5月14日(水)の、歴史クラブの定例見学会「秩父三社めぐり」で、秩父神社に続いて三社目の当社にお参りしました。

長瀞駅からの道と国道が交差するところに立っている巨大な一の鳥居は、バスで素通りし、参道の始まりにある社号標も素通りして、駐車場に。
バスから降りると、「相生の松」です。
これは昭和天皇のご成婚記念に植えられた、黒松・赤松。
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大灯篭、二の鳥居と続きます。
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大きな絵馬があった。
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二の鳥居
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宝登山には三つの伝説がある。
一つは日本武尊によるもの。
社伝によれば、景行天皇41年(111年)、天皇の皇子・日本武尊による東征の際、尊が遥拝しようと山頂に向っていると巨犬が出てきて道案内をした。その途中、東北方より猛火の燃えて来るのに遭い、尊の進むことも退くこともできない状態になってしまった。すると巨犬が猛然と火中に跳入り火を消し止め、尊は無事頂上へ登り遥拝することができた。尊は巨犬に大いに感謝したところ、忽然と姿を消した。このことから「火止山」の名が起き、のちに「宝登山」となったという。また巨犬は大山祇神の神犬であった事を知り、防火守護のため火産霊神を拝し、その後山麓に社殿を建て三神を鎮祭した。これが当社の起源であるとされる。

二つ目は、社殿のところで説明に出てくる「榮乗」が寶登山大権現の社殿再建のため全国を勧請に回った際の「勧化帳」に表されます。
寶登山大権現は神日本磐余彦尊にして 往古弘仁年中弘法大師旅行の砌 山頭金色に輝き麓より瑠璃泉湧出し 就中金胎両部の質備りしものと感詠あり 然る処不思議哉池中より宝珠光を放て嶺上に翻る。是摩尼玉なり 寔に神変の御告神祇勧請なすべき霊場なりとて 則開基あって宝の山に登るの名あり(以下略)
つまり「宝登山」の名になったのは、弘法大師の奇跡の伝説によるものでしょう。

三つめはダイダラボッチの伝説です。
昔ダイダラボッチという大男が、宝登山と箕山を天秤棒とモッコでかついできてこの地に据えたという言い伝えがあります。全国に多いダイダラボッチ伝説のあるところは産鉄伝承があるところと一致します。ご存知のように秩父は古代和銅が採れたことで有名です。
箕山(現在は美の山)の麓に「和同開珎」の記念碑あり。宝登山にも銅の採掘跡があります。
ダイダラボッチはタタラから来ていると云われ、ホドは火炉(=ホド=女陰)でタタラ炉や精錬炉を現していると言われます。

鳥居をくぐると、渋沢栄一の書で「宝登山は千古の霊場」の碑がある。
「長瀞は天下の勝地・宝登山は千古の霊場」と謳われている。
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手水舎手前の石垣がよかった。
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手水舎
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「洗心」の書がいい。
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手水鉢は、川口の鋳物だ。
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社殿まで石段を上がる。
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石他薦の上の左右には狛犬。
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神犬の狼は、奥宮にいます。

拝殿
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この社殿は、弘化4年(1847)に工事開始、明治7年(1874)に完成した権現造りです。別当寺・玉泉寺の46世住職榮乗が、武田軍によって焼かれ、そのまま廃れていた社殿を再興しようと全国を勧請して実現した。
まさに当時明治政府の神仏分離令に直面するが、全国に多く見られる別当寺の廃止という策をとらず、榮乗が宝登山神社の初代神主となり、全国的に珍しい神社が管理する寺として玉泉寺を残し、共存共栄の道を取った。

向背破風下の彫刻は二の白鷺と龍。
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向背には、なんと5頭もの龍が居ます。
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正面
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社額
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拝殿内部
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ご祭神は、神日本磐余彦尊(かんやまといわれひこのみこと=神武天皇)、大山祇神、火産霊神。

神紋は、珍しい「十弁の菊」と「五三の桐」。
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拝殿正面の彫刻が素晴らしい。
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拝殿向かって左側には、二十四孝のうち四話と趙雲子龍の彫刻がある。
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拝殿向かって右側には、関羽雲長と二十四孝のうち四話の彫刻がある。
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本殿
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本殿妻の懸魚には雲形の鰭が従い、花弁を思わせる意匠の六葉・樽の口から構成される。
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棟木と虹梁をつなぐ太瓶束が見られ、束を挟んで右に逆巻く水瀬を泳ぐ鯉の姿を、左には龍へと姿を変えて激流を泳ぐ「登龍」の様があらわされている。
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日本武尊がみそぎをしたという泉。
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境内社をお参りします。

大国天
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藤谷淵神社
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日本武尊社
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このお宮には第12代景行天皇の皇子の日本武尊がお祀りされています。 東国平定の折、この山の神秘な雰囲気と美しい姿に心ひかれた尊は、艱難辛苦の末山頂に立たれ、この地を神を祀るに相応しいところとされ、寶登山神社の礎とされました。 尊の恩徳を偲ぶ人々は、尊が登山の際、身をお浄めになった泉近くに、このお宮を奉斎しました。 日本武尊社のお祭りは八十八夜(5月2日)に行われ、尊の登頂の故事に倣い、神輿に奉遷された御神霊は奥宮に赴き祭典が斎行され、神楽が奉奏されます。 この祭りは別名「つつじ祭り」と呼ばれ、秩父地方の農耕始めの目安となっているほか、宝登山の山開きとなる当日の山頂は参拝者やハイカーで大いに賑わいます。
(案内板より)

天満天神社
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宝玉稲荷神社
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神楽殿
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今回は、一の鳥居、社号標は未確認、そして何といっても奥宮にはお参りしませんでした。
また玉泉寺にも、見どころが多いようなので、再来を期したい。

奥宮には、2017年2月28日に蝋梅と梅を観に行き、奥宮にも参拝しました。

その記事を見る


(了)


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マウント・シャスタ

20140519

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系統:HT ハイブリッドティ
作出者:Swim & Weeks
作出年度:1963
作出国:アメリカ
花 色: 白色
花 径: 大輪
香 り: 微香
開花性: 四季咲き

大輪の白色のバラで、花弁の質がとても良く、優雅な雰囲気。
半剣弁高芯咲き。四季咲き性。樹形は直立性。香りは微香性です。

花は思いのほかソフトでスウィートです。
ほのかに緑をおびた白で、大きな花びらの先にはわずかにフリルが入ります。
花びらが肉厚ですべすべしてるので、ついさわってみたくて手を伸ばして触ったのを覚えています。さわり心地は良かった。

「マウント・シャスタ」の命名の由来を知りたくて、「マウント・シャスタ」で検索してみたら、アメリカのカリフォルニア州に位置する山が浮かんできました。
WIKIによると、
古来よりこの地方に住むアメリカ先住民の聖なる山とされ、現在の山の名前はその部族のひとつシャスタ族に由来する。山頂は氷河と万年雪を戴き、その雪解け水はサクラメント川の源となり約500km南流してサンフランシスコ湾に注ぐ。ナチュラルミネラルウォーターのクリスタルガイザーの源泉としても知られる。

恐らく、この薔薇の純白なイメージが、雄々しくそびえる山の氷河と万年雪のイメージと重なったのでしょうか。


2013年5月22日 谷津バラ園にて


所沢混声合唱団定期演奏会

20140518

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今日、18日(日)所沢ミューズのアークホールで開かれた演奏会を聴いてきました。
いつも歴史クラブで一緒の小田さんが出演していて、招かれたので。
彼女とは歴史講座で一緒になり、同じ富山県の人間ということで親しくさせてもらってます。
今日聴いて吃驚しました。
プロも交えての本格的な演奏会で素晴らしかったです。
あの大ホールがほぼ満席なのを見ても、定評ある演奏会だとわかります。
彼女は真ん中で堂々と唄っていました。これからは、彼女の影は踏めませんね。
前を歩こう(笑)

開演前の会場。
早目に入ったので、まだ席は埋まっていませんが。
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プログラムもとても良かったです。

l.混声合唱のためのカンタータ『土の歌』【2009年改訂版】/大木惇夫作詩/佐藤眞作曲
詩は広島出身の詩人、大木淳夫が書いたもので、土の恵みへの感謝、大地や山河の尊さ、その土に死の灰を降らせる人間の愚かさ、天災の怖ろしさ、大地や反戦への祈りが歌われています。
そして最終楽章ではそれらすべてを乗り越え、人間の善意を信じ、豊かに感謝の気持ちを込めて、人の喜びと平和で静かな恩寵豊かな大地への讃歌を高らかに歌い上げています。
聴いていて東日本大震災のことを思い浮かべます。
原発の事故で、いまも苦しんでいる人が多い東北へのエールに聞えました。
とても力強い歌声で良かった。

ll.G.F.ヘンデル(1685-1759)『ハープ協奏曲変ロ長調』(作品4-6)
音楽史上初の、ハープを独奏楽器として書かれた協奏曲として名高い作品。
冒頭のメロディーが、とても耳馴染みのよいもので、聴いていてとても心地よかった。

」.マスネ 歌劇『タイス』より瞑想曲
ハープの演奏家のCDで、よく聞く曲です。 冒頭の美しいメロディがとてもいいです。
今日は、オリジナルのオーケストラ版に近い、弦楽合奏とハープによる版で演奏だったので、とても聴きごたえのある出来だったと思います。

lll.G.∪.フォーレ 『レクイエム』(作品48)
レクイ工ムといえばモーツアルトのレクイエムが一番に挙げられますが、私の好みから云えば、このフォーレによるもののほうが好きです。
穏やかな美しさがいいですね。
その中にも、大胆な転調で一瞬天から光が差し込んでくるようなところがあって、感動を誘いました。

参加したプロの方
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ソプラノの三塚さんが良かったです。
声に華があって、声量もたっぷりとあり、聴かせてくれましたね。

合唱団もプロに位負けせずに、堂々とした声量ではつらつと歌っていました。
今回初めて聴きましたが、これから毎回楽しみに来ようと思いました。

演奏中は、もちろん写真を撮れませんでした。
帰ってから、所沢混声合唱団のことをネットで調べたのですが、その時に所沢混声合唱団のHPにあった写真。
以前の演奏会の写真ですが、今日もこのくらいの規模でした。
前の楽団の楽器編成はもちろん今日と違います。
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ロビ第56号&57号組立/ロボット「ロビ」

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【第56号】

第56号で紹介されているロボットは、コミック「よつばと!」に登場するダンボールで出来た「ロボダンボー」。
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開発・販売はヴィストン(株)で、いままでロボカップで活躍した「ヴィジオン」、テレビCMに登場した「ヴィストン・ティクノ」、鉄人28号、各社のイメージ・ロボットを手掛けている。
組立式ロボットで、全身で11個のサーボモーターを内蔵して、ゆっくりなら歩くことも出来る。
スピーカーを内蔵、最初入っているのは効果音だが、音声ファイル、付属ソフトを使えばしゃべらせることも可能。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボケーブルに保護シールを貼る
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② サーボケーブルを接続する
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③ サーボを取り付ける
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完成品
首を動かす一つ目のサーボを取り付けた。
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【第57号】

第57号で紹介されているロボットは、VECTOR(ベクトル)(株)の案内ロボット「コンシェルジュ」。
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ボディはアクリルカバーの下の紙のデザインで好きなキャラクターにすることが出来る。
紙に印刷するか、手書きするかなので、ボディは安価にできるし、親しみがあるかもしれない。
顔の画面はタブレット端末なので、タッチパネルで色々な案内が出来る。声の応答もみちろん出来る。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① マフラーにスイッチを取り付ける
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② マフラーを左ボディに固定する
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③ 右ボディを組み合わせる
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④ サーボホーンを取り付ける
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⑤ サーボケーブルに保護シールを貼る

完成状態
マフラーと左右のボディが合体。
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秩父神社/秩父三社を巡る

20140516

5月14日(水)の歴史クラブ定例見学会での秩父三社巡り、三峰神社に続いて当社にお参りしました。

境内入口に鳥居が立ち、「國幣小社 秩父神社」の社号標が立っています。
今回は、うっかりして社号標を入れないで、こんな写真でした。
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それで、昨年秩父夜祭に行った際の写真を載せておきます。
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秩父神社のご創建は、平安初期の典籍『先代旧事紀-国造本紀-』によれば、第十代崇神天皇の御代に知知夫国の初代国造に任命された八意思兼命の十世の子孫である知知夫彦命が、祖神をお祀りしたことに始まるとされており、武蔵国成立以前より栄えた知知夫国の総鎮守として現在に至っています。
元慶2年(878年)には神階正四位下に進み、延長5年(927年)に編算された『延喜式』にも掲載されるなど、関東でも屈指の古社のひとつに数えられています。また、中世以降は関東武士団の源流、平良文を祖とする秩父平氏が奉じる妙見信仰と習合し、長く秩父妙見宮として隆盛を極めましたが、明治の神仏判然令により秩父神社の旧社名に復しました。
現存するご社殿は、天正20年(1592年)に徳川家康公が寄進されたもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めていることなどから、埼玉県の有形文化財に指定されています。また、毎年12月3日に行われる例祭は、「秩父夜祭」として国の重要無形民俗文化財に指定され、京都の祇園祭、飛騨高山祭と共に日本三大曳山祭のひとつに数えられています。
武州六大明神に四宮として数えられ、武蔵総社六所宮の大國魂神社(東京都府中市)にも祀られている。大國魂神社の例大祭(くらやみ祭)では、当社の神輿も巡行される。中世には妙見信仰と習合し、その後「秩父大宮妙見宮」として栄えた。江戸時代に徳川家康の命により現在の社殿が建てられ、社殿には左甚五郎作と伝えられる「子宝・子育ての虎」や「つなぎの龍」など、さまざまな彫刻が施された。
明治の神仏分離により、妙見菩薩と習合していた天之御中主神に祭神を改め、社名も本来の「秩父神社」に戻した。扁額では「知知夫神社」と表記されている。頒布されている護符などに現在も妙見信仰が遺されている。
1884年(明治17年)の秩父事件では、困民党軍が境内に集結した。
全国の一宮やそれに準ずる神社の祭神を祀る天神地祇社が摂末社にある関係で、全国の一宮が加盟する「全国一の宮会」から、2006年に「知知夫国新一の宮」に認定された。
式内社としては、「秩父郡・二座」のうちの一つ「秩父神社」となります。

狛犬
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手水舎
向うに神楽殿が見えます。
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彫刻が随所にしてあります。流水と亀が多い。
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手水鉢
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それで、真っ直ぐ進むと神門ですが、神門前の広場が秩父夜祭の際には色々な催しがされる会場となります。

これは、一台の屋台が屋台歌舞伎の舞台として置かれ、他の屋台が神門の前で屋台曳き踊りを奉納しているところ。
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神楽殿では国指定文化財である神楽が奉納されています。
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詳しくは、昨年の記事を参照してください。
その記事を読む


夜になると、境内に2台の屋台が置かれ、華やかになります。
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神楽殿の横を通って、巡行に出発する屋台。
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夜祭については下記の記事を参照ください。
その記事を読む


神門
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左右の透垣
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社殿
権現造りで、現在の社殿は天正20年(1592)徳川家康が寄進したもので、江戸時代初期の建築様式をよく留めている。
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向背蟇股及び目貫の彫刻。大黒様と恵比須様が居ます。
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向背正面
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「知知夫神社」と書かれた社額
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拝殿内部
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中央に鏡と御幣。
向かって右に玉と鏡をつけた真榊、左には剣をつけた真榊。また鉾と旗もあります。
当社では随身も侍っていますね。
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祭神は
八意思兼命 (やごころおもいかねのみこと)で、政治、学問、工業、開運の祖神。
知知夫彦命 (ちちぶひこのみこと) は八意思兼命の十世孫で、初代知知夫国造。
天之御中主神 (あめのみなかぬしのかみ)は鎌倉時代に合祀
秩父宮雍仁親王 は 昭和天皇の弟。昭和28年に合祀

神紋ですが、『官國幣社 例祭之由来と神紋』には、正紋が「葵」、更紋が「銀杏」と書かれているそうです。

賽銭箱と屋根に「十六菊」があるので、これも神紋。
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「葵」の紋は、探したら向背破風下にありました。
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「「銀杏」は、銅製の天水桶に見つかっただけでした。
「丸に抱き銀杏」ですね。
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向背柱の麒麟は、蹄といい牙といい、かなり獰猛な感じです。
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正面の彫刻では、有名な左甚五郎作「子宝 子育ての虎」があります。
未だ群雄割拠の戦国時代、当社は甲斐の武 田信玄公の手により、永禄十二年(一五六九 年)に焼失の後、徳川家康公のお力により現 在のご社殿が再建されました。
家康公は、寅の年 寅の日 寅の刻生まれ ということで、虎にまつわる物語が少なくありません。それにちなんでか、当社の拝殿前 は四面にわたってすべて虎の彫り物が施されています。
特に拝殿正面左より二つめの、子虎とたわむれる親虎の彫刻は、名工左甚五郎が家康公の威厳とご祭神を守護する神使として彫刻したものと伝えられています。当時の狩野派では、虎の群れの中に必ず一匹の豹を描くこと が定法とされていたことから、母虎があえて豹として描かれているのが特徴的です。
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社殿の周りの彫刻を左回りに見ていきます。
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拝殿横の装飾
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これらも、伝説の島<蓬莱山>にちなむ彫刻でしょう。
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本殿のここにあるのが、左甚五郎作と云われる彫刻「つなぎの龍」。
しばしば抜け出して暴れるため、鎖で固定されており、『つなぎの龍』と呼ばれている。
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本殿の背面には、彫刻「北辰の梟」。
ご本殿北側中央に彫刻された梟は、「北辰の梟」といって、菱川師宣描く有名な浮世絵の「見返り美人」よろしく、体は正面のご本殿に向き、頭は正反対の真北を向いて昼夜を問わずご祭神をお守りしています。
当社のご祭神である妙見様は、北極星を中心とした北辰北斗の星の信仰で、この梟の見ている方角に妙見様が出現することからも、ご祭神を特に縁りの深い瑞鳥であると言えるでしょう。
洋の東西を問わず、梟は智恵のシンボルと考えられており、当社のご祭神八意思兼命が智恵の神として崇敬の篤いことと重ねて、思慮深い神使として社殿北面に施されたものと思われます。
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本殿のこちら側には彫刻「お元気三猿」。
三猿といえば日光東照宮が有名ですが、同じ徳川家縁りの御社であるにも拘わらず、当社の三猿は日光とまったく違った表情をしています。
日光が古来の庚申信仰にちなんで「見ざる ・言わざる・聞かざる」なのに対し。当社の三猿は「よく見・よく聞いて・よく話そう」 ということで、現代の情報化社会にふさわしく俗に”お元気三猿”として皆様に親しまれ ています。
当社のご祭神である妙見様は、神仏の中心にあって、人間の元気な命を司る神様として永く信仰されてきたことから、特に不老長寿のご利益があると言われています。
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「瓢箪から駒」の彫刻
秩父夜祭の神様は、お神輿ばかりか御神馬に乗ってもお旅所にお渡りになることから、毎年十二月三日には本物の馬二頭が奉納され御神幸にお供をしています。それにちなんで、当社では「妙見御神 馬守り(勝守り)」を授与しています。
よく知られている馬に関する諺に、「瓢箪から駒が出る」というのがありますが、意外なところから意外な発見や出会いがあるかもしれないということで、まさに開運招福を意味するところです。
当社の例大祭である秩父夜祭では、「ホーリャイ ホーリャイ」 と囃して屋台を動かしますが、こ れはそもそも当社を仙人が住むという伝説の島<蓬莱山>に準えての呼び方なのです。
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他にも、楽しい蓬莱山にちなむ彫刻がある。
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秩父神社で授与している「鎮宅霊符神(妙見様の別名)」の護符の説明が貼ってあった。
護符の絵
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横に貼ってあった説明も写真に撮ってきて、帰ってから読むと、効験の話が書いてあり、妙見様の神使は鹿であり、ご本殿両側の脇障子にも秋の雄鹿・雌鹿が彫られている、とあった。
撮れたか、撮れなかったかわからないが、残念。
今年の秩父夜祭の際の宿題です。

額殿
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「妙見宮」の時代の社額。
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弓矢が飾られた、彫刻も立派な額。
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天狗の奉納額
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左右の龍が立派な額
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天神地祇社
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 平安時代から中世にかけて、朝廷の「 二十二社」奉幣制度と共に、全国の各国毎に「一ノ宮」「総社」の運営、祭祀の尊重が図られるようになりました。かつて秩父地方は、知知夫国として独立した存在でありましたが、その当時には既に武蔵国に属しており、現在の東京都府中市に鎮座致します大国魂神社(別称六所宮)が武蔵国の総社とされ、その第四ノ宮に当社のご祭神が奉祀されました。
 古くから当神社の境内社の一つとされて参りましたこの天神地祇社は、全国の一ノ宮(計七十五座)をお祀りしています。これほど多くの一ノ宮の神々を、境内社としてお祀りしている事例は全国的にも珍しいものと思います。
 何故、このような形でお祀りされたのかは定かではありませんが、一説によると当社のご祭神である八意思兼命が多くの神々の意見を纏められ、折々のご聖断を下される神様として古典神話の中で活躍されていることから、たくさんの一ノ宮の神様がお祀りされたとも云われています。ともあれ、これも秩父の歴史風土に深く根差した独自の信仰の表れであると云えるかもしれません。
 この天神地祇社それぞれのご神前にお参りすることによって、合せて全国の一ノ宮を遥拝することになりますので、ご案内申上げます。
-境内案内板-

左から、
埴山大神・ 田村大神・ 石上大神・ 軻遇突智大神、若狭比古大神・ 大物忌大神・ 罔象女大神・ 句津馳大神、津島大神・ 真墨田大神・ 金山大神・ 木船大神、天手長大神・ 和多津美大神・ 杵築大神・ 枚聞大神・ 丹生大神、南方大神・ 安房大神・ 中山大神・ 安任大神・ 箱崎八幡大神、砥鹿大神・ 都々古和気大神・ 白山比咩大神・ 籠大神・ 西寒多大神、伊射波大神・ 寒川大神・ 香取大神・ 倭文大神・ 鹿児島大神、松尾大神・ 都佐大神・ 春日大神・ 粟鹿大神・ 伊和大神、 中央に天神地祇社、さらに左に、加茂大神・ 大鳥大神・ 鹿嶋大神・ 出雲大神・ 吉備津大神、三輪大神・ 都波岐大神・ 二荒大神・ 玉前大神・ 渡津大神、宇佐八幡大神・ 都濃大神・ 玉祖大神・ 水無大神・ 宇倍大神、高良大神・ 高瀬大神・ 住吉大神・ 建部大神・ 由良姫大神、浅間大神・ 大麻比古大神・ 枚岡大神・ 貫前大神・ 龍田大神、氣多大神・ 熊野大神・ 敢国大神・ 氷川大神、弥彦大神・ 厳島大神・ 阿蘇大神・ 氣比大神、廣瀬大神・ 三島大神・ 物部大神・ 事麻智大神。

中央の「天神地祇社」があり、その左右に一之宮が祀られている。
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氷川大神、気多大神(能登一之宮の祭神)など
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三輪大神(大神神社祭神)があり
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春日大神、松尾大神がある。
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境内社も多くあります。神門からぐるっと左廻りで。
東照宮(徳川家康公)
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天満天神社(菅原道真公)
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禍津日社(禍津日神)
神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている。これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている。
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皇大神宮(天照大御神)
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豊受大神宮(豊受大御神)
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ここで、秩父宮勢津子妃の歌碑がありました。
「神かきも 新たになりて みゆかりの 秩父の里は いよゝ栄えむ」
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ここで、「○○さん、もう行くよ・・・・・・!!」との非情な声が(泣)

以下はあわてて、まとめて遠くから撮ったものです。

日御碕宮 
ご祭神は須佐之男神。「川瀬祭り」というのがあり、やはり悪疫退散の天王さまの祭りです。
左側に「乳銀杏」が見える。
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柞稲荷神社(左側)と諏訪神社(右側)。
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柞稲荷神社の御祭神は倉稲魂命。
境内は柞乃杜と呼ばれる鎮守の森となっている。
諏訪神社の御祭神は建御名方神と八坂刀賣神。

柞稲荷神社の前に、赤みがかった巨石がゴロンと転がっている。
特に注連縄が施されているわけでもなく、案内板も無かったが、これは「生き石」とも呼ばれている「御神降石」。
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これで、秩父神社ご参拝は終り、次の宝登山神社に向かいました。

(続く)

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三峰神社/秩父三社を巡る

20140515

所在地:埼玉県秩父市三峰298-1

5月14日(水)は、歴史クラブの定例見学会で秩父三社めぐりでした。
参加人数45名ということで、当然大型バスなのですが、豪雪の影響で道が崩れ、三峰神社に向かう道路事情が悪くて大型バスは無理ということになり、小型バス2台に分乗しての催行となりました。

駐車場からちょっと上がった所からの展望。
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まず、三ツ鳥居があります。
三ツ鳥居は、明神型鳥居を三つ組み合わせた鳥居で、鳥居の解説には必ず大神神社のものとして載っています。(ただし大神神社では直接見る事ができないそうです)。
ここでは、この世に最初に現れた三柱(さんはしら)の神様(造化三神)を表している。
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お守りしているのは山犬(狼)、日本武尊を道案内したお使いの神様で、大口真神(おおくちのまかみ)と呼ばれます。
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鳥居横にあるご由緒の看板の上には、こんなおちゃめな山犬が顔をのぞかせていました(笑)
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当社の由緒は古く、景行天皇が、国を平和になさろうと、皇子日本武尊を東国に遣わされた折、尊は甲斐国(山梨)から上野国(群馬)を経て、碓氷峠に向われる途中当山に登られました。
尊は当地の山川が清く美しい様子をご覧になり、その昔伊弉諾尊(いざなぎのみこと)・伊弉册尊(いざなみのみこと)が我が国をお生みになられたことをおしのびになって、当山にお宮を造営し二神をお祀りになり、この国が永遠に平和であることを祈られました。これが当社の創まりであります。
その後、天皇は日本武尊が巡ぐられた東国を巡幸された時、上総国(千葉)で、当山が三山高く美しく連らなることをお聴き遊ばされて「三峯山」と名付けられ、お社には「三峯宮」の称号をたまわりました。
降って聖武天皇の時、国中に悪病が流行しました。天皇は諸国の神社に病気の平癒を祈られ、三峯宮には勅使として葛城連好久公が遺わされ「大明神」の神号を奉られました。
又、文武天皇の時、修験の祖役の小角(おづぬ)が伊豆から三峯山に往来して修行したと伝えられています。この頃から当山に修験道が始まったものと思われます。
天平17年(745)には、国司の奏上により月桂僧都が山主に任じらました。更に淳和天皇の時には、勅命により弘法大師が十一面観音の像を刻み、三峯宮の脇に本堂を建て、天下泰平・国家安穏を祈ってお宮の本地堂としました。
こうして徐々に佛教色を増し、神佛習合のお社となり、神前奉仕も僧侶によることが明治維新まで続きました。
三峯山の信仰が広まった鎌倉期には、畠山重忠・新田義興等が、又、徳川期には将軍家・紀州家の崇敬もあり、殊に紀州家の献上品は今も社宝となっています。又、新田開発にカを尽した関東郡代伊奈家の信仰は篤く、家臣の奉納した銅板絵馬は逸品といわれています。
東国武士を中心に篤い信仰をうけて隆盛を極めた当山も、後村上天皇の正平7年(1352)新田義興・義宗等が、足利氏を討つ兵を挙げ、戦い敗れて当山に身を潜めたことから、足利氏の怒りにふれて、社領を奪われ、山主も絶えて、衰えた時代が140年も続きました。
後柏原天皇の文亀二年(1503)にいたり、修験者月観道満は当山の荒廃を嘆き、実に27年という長い年月をかけて全国を行脚し、復興資金を募り社殿・堂宇の再建を果たしました。
後、天文2年(1533)山主は京に上り聖護院の宮に伺候し、当山の様子を奏上のところ、宮家より後奈良天皇に上奏され「大権現」の称号をたまわって、坊門第一の霊山となりました。以来、天台修験の関東総本山となり観音院高雲寺と称しました。
更に、観音院第七世の山主が京都花山院宮家の養子となり、以後当山の山主は、十万石の格式をもって遇れました。
現在、社紋として用いている「菖蒲菱(あやめびし)」は花山院宮家の紋であります。
やがて、享保5年(1720)日光法印という僧によって、今日の繁栄の基礎が出来ました。「お犬様」と呼ばれる御眷属(ごけんぞく)信仰が遠い地方まで広まったのもこの時代であります。
以来隆盛を極め信者も全国に広まり、三峯講を組織し三峯山の名は全国に知られました。その後明治の神佛分離により寺院を廃して、三峯神社と号し現在に至っています。
(三峰神社HPより)

参道に、全国にできた講社や氏子の石碑が立ち並ぶ様は壮観です。
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まだ桜が咲いていました。
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随身門
元禄4年(1691))建立。現在のものは寛政4年(1792)再建、昭和40年に改修したものです。

ところが、この写真より手前にロープで通行禁止となっていて、近づけません(泣)
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幸いズームが効くので、遠くから撮影します。

金文字の社号標
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やはり山犬が控えています。
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朱塗りの立派な随身門です。
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中央の額は、畳一畳分もの大きさ。扁額は増山雪齋の筆跡。
唐破風の上の瓦が落ちそうになって、ロープで辛うじて縛ってあります。これが通行止めの原因でしょう。
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随身が控えています。
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仁王像が居たのですが、明治初年鴻巣の勝願寺に移された。

つくづく立派だな、と思いながら横を通ります。
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社殿の前まで上がってきました。
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石段の途中に「お犬さま」がいます。
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石段を上りきると、拝殿の前にある青銅鳥居には「天下泰平」、「国家安穏」の文字が。
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鳥居をくぐると、右にものすごいものがあります。
吃驚するほど背の高い、安政四年(西暦1857年)に造られた八棟燈籠です。
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最初見た時は、ずいぶんと前衛的な現代のものと思いました。
それが江戸時代のものだったので、驚きました。
各部の装飾がすごい。
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反対側には、あまりに豪華絢爛な手水舎。
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極彩色の精緻な彫刻で目が回ります。
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手水鉢は落ち着いたものでした。
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ここで、拝殿から神楽の音色が聴こえてきたので、もしやと思い飛んでいくと、団体の参拝客の間から巫女舞が見えました。
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正面から、参拝客の隙間から撮っていると、一緒に参加していたヨシノさんが、脇からよく見えるよ、と呼びに来てくれました。
感謝しながら飛んでいくと、ほんとに良く見えました。ほんとに有難かったです。感謝、感謝。
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拝殿
寛政12年(1800)に建立。昭和37年に改修、平成16年に塗り替えられました。
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主祭神は伊弉諾尊、伊弉册尊。
配祀神は造化三神(天之御中主神、高御産巣日神、神産巣日神)、天照大神。

向背下の彫刻も色鮮やかです。
唐破風の軒先は木部がむき出しになっていますが、もしかしたら豪雪でやられて修理中ではないかな、と思います。
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向背目貫の彫刻は、中国風ですね。
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正面
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いずこの壁面も極彩色の彫刻で覆われている。
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実は、遠い所から撮ろうと、先にお仮屋まで足を伸ばし、三峰モミを探すのに時間を取られ、また社殿に戻って来て撮る際には、事前にバスの中で受けた説明が頭から抜け落ちてしまって、帰ってきてから「拝殿内部の格天井に描かれた奥秩父の花木」、左右脇障子に「竹林七賢人の透かし彫」がまったく撮れていません(泣)
また訪れねば・・・・・・

本殿
寛文元年(1661)、中興第六代龍誉法印が願主となって造営した一間社春日造り。
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ここには、上品な威厳のある「お犬さま」が。
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社紋は三つありました。
花山院宮家の紋である「菖蒲菱(あやめびし)」。
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拝殿正面扉に「割り菊に桐」
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拝殿、本殿共に屋根には「十六菊」
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まずは遠いところからと、お仮屋に向かいます。
途中の山道には石楠花が沢山咲いていました。
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まず、御神木「縁結びの木」があります。
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2本の木が根元で融合した杉の木です。
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お仮屋
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獅子岩ならぬ、「お犬さま岩」が左右に。
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社殿内部
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来た時は、斜めから上がっていったので、正面から降ります。
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途中の鳥居の額には「近宮」とありました。

帰りも石楠花に慰められました。
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そして、次に鐘楼と三峰モミを捜しますが、なかなかたどり着けませんでした。
神社パンフレットの境内図と実際が違っていて、境内図の道が無くなっていて、現在の道は建物の下を通るトンネルをくぐらないと行けない。方向を頼りに遮二無二進んで、ようやくたどり着きました(嬉)

神仏混淆時代を語る鐘楼。
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天然記念物の「三峰モミ」
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神楽殿
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拝殿の前の樹齢700年と伝えられる重忠杉。
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続いて摂社、末社、境内社です。
祖霊社
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國常立神社
祭神:国土形成の神である国常立尊
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日本武神社
祭神:日本武尊
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伊勢神宮
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建ち並ぶ末社。
左より、月読神社、猿田彦神社、塞神社、鎮火神社、厳島神社、杵築神社、琴平神社、屋船神社、稲荷神社、浅間神社、菅原神社、諏訪神社、金鑚神社、安房神社、御井神社、祓戸神社。
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東照宮
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大山祗神社
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ここには、実にやさしい「お犬さま」が居た。
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あと、春日神社、八幡宮、秩父神社は写真を省略。

この石段の上が「奥宮の遥拝所」です。
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石段の上には、銅製の両部鳥居。
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遥拝所
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遠くに見える妙法ケ岳山上には奥宮があります。
そこまで行くには一時間半くらいの本格的な登山をしなければなりません。
遥拝所では、奥宮まで行けない人たちが遥か前方の妙法ケ岳参上の奥宮に向ってお参りすることができるというわけです。
お参りしながら、今度はきちんと奥宮にお参りしたいと思った。
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もう時間がありません。
日本武尊銅像は次回とします。
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駐車場まで戻ってきて、雲取山を眺めた。
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次は秩父神社に向かいます。

(続く)

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寄居・北条祭り

20140513

5月11日(日)に開催されました。私は今年で三回目の訪問となりますが、今年は歴史クラブの行事としました。
9時50分に寄居駅に到着し、駅前で祭りのチラシを入手して、行動スケジュールを決めました。
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今年から、このような各会場毎のタイムスケジュール表が配布されたので、とても分かりやすくなった。
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まずは京亭に立ち寄りました。
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「京亭」という料理旅館が解放されているのですが、浅草オペラの創始者であり、「君恋し」「祇園小唄」「唐人お吉の唄」などの作曲家「佐々紅華」がここを永住の地と定めて、自ら図を引いて建てたそうです。
それが、その後一時は某宮家の邸宅となったりしましたが、現在は「鮎の宿 京亭」となっています。
建物も庭も素晴らしいです。

今回、初めて二階に上がってみました。
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至るところに白の太いラインが目立つ、素晴らしい意匠の室内でした。
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合戦の舞台となる玉淀河原がよく見えます。
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京亭では「君恋し音楽会」を終日やっています。
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二階から下を見ると、この時は「みんなで歌おう君恋し」をやっていました。
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30分ここで時間を過ごし、玉淀河原に行きました。
参加者全員で記念写真を撮ったりしているうち、河原に特設された会場で琵琶の演奏がありました。
今年は昨年までの奏者と違って、櫻井亜木子氏です。
ここでは前段の「北条氏邦」について語りました。
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河原の各所に、武者行列のため、武者などが集まってきています。
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頃合いを見て、北条華舞台で行われる、女性邦楽ユニット「花くれない」の演奏を聴きにいきました。
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このユニットは、普段は別々に活動している演奏者がこの日のためにユニットを形成して演奏してくれるというもので、演目は「寄居小唄」、「祇園小唄」などで、とても良かった。

唄・三味線:杵屋巳織さん
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三味線:杵屋五章さん
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鼓:藤舎朱音さん
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笛:藤舎理生さん。
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続いて、楽しみにしていた琵琶の演奏です。
櫻井亜木子氏の演奏で、前段は先ほど河原で聴いた「「北条氏邦」、後段が「大福(おふく)御前」。

「大福(おふく)御前」は、一昨年ここで初演されたものです。
大福(おふく)御前というのは、北条氏邦の奥方。
鉢形城を攻撃した豊臣方の藤田信吉(上杉景勝勢の先鋒)は弟であった。講和で北条氏邦は切腹。大福御前は寄せ手の弟を介して城兵の安全を図った。このため多くの城兵の命が助けられたといわれる。彼女は城兵の後途を処置した後、北条氏邦を追って自刃する。

演奏のかたわら、櫻井さんが琵琶の構造、演奏方法などを説明してくれた。
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演奏は、琵琶が大好きな私にとって、すこぶる満足のいくものでした。
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残念なのは、炎天下で撮影を続けていたため、「電池が高温」のメッセージが出て動画の撮影が後段を出来なかったこと(泣)
ほんとに、この日は炎天下で暑かった。

いよいよ、玉淀河原での合戦の再現です。

ここには、荒川の流れを見下ろす形で「鉢形城」があったのですが、ちょっと説明しておきます。
鉢形城の歴史:
鉢形城は、蛇行する荒川の流れに削られ、切り立った岸壁の上に築かれた多くの郭を持つ城郭です。
いつ築かれたかは明らかではありません。鉢形に陣をはった平将門を追って源経基が鉢形城に入ったという記録や畠山重忠が居城したという伝説がありますが、文明8年(1476年)に長尾景春が主家の山内上杉顕定に叛いて、鉢形城に拠点を構えたのが資料として明らかな最初の出来事・長尾景春の乱です。
この乱を鎮めたのは、扇谷上杉家の家宰を務めていた太田道灌でした。荒川の上流から兵を乗せた筏を流し、岸壁の下に着いた兵士が岩の壁をよじ登り城兵を慌てさせたといいます。
長尾景春の乱が治まった後は山内上杉氏の勢力下に入りました。
しかし、天文15年(1546年)にあったとされる河越夜戦で上杉方が北条氏康に敗れると、山内上杉氏の家臣で鉢形城の城主であった藤田重利は氏康の三男氏邦を娘の大福の婿に迎え、北条氏の体制に組み込まれる事になりました。氏邦は当初長瀞町の天神山城に入りましたが、永禄3年(1560年)には鉢形城を改修し居城としました。

北條まつりについて:
鉢形城は、戦国時代、豊臣秀吉の全国制覇に最後まで抗した小田原の北条氏の配下にあり、北条早雲から三代目の氏康の三男氏邦が守っていました。守兵は3500名。
この城を攻めた豊臣秀吉軍は、前田利家・上杉景勝・島田利正、徳川家康麾下の浅野長吉、本多忠勝、鳥居元忠 らの連合軍、実に5万の兵でした。
北条方は、それに良く耐え、1ケ月の攻防戦を繰り広げたといわれます。
「北条まつり」は、これを再現しようという祭りです。

続々と部隊が入場してきて、合戦の開始を待ちます。
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まずは弓によって「清めの儀式」です。
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砲撃戦から始まりました。
火薬を、入れ子にセットして砲口から入れて火縄に火をつけるとズドン!! です。
大砲は丸太に穴を開けたものですが、けっこう派手な音と煙で迫力がありましたね。一門で30発くらいは撃ったのではないでしょうか。
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そして、槍隊による白兵戦の開始です。けっこう迫力あるものでした。
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そこ、ここで武者の斬りあいが始まります。
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当然河に落ちる熱戦も出てきます。
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いよいよ大将戦ということで、今年は初めて馬に乗って登場です。
騎馬戦を見せようということだったらしい。
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ところが馬が言う事を聞きません。そりゃそうですよね。大砲の音で正気は失っているし、合戦の訓練なんてされていませんからね(笑)
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かなり長時間の合戦となりました。この日はものすごく暑い日になったのですが、合戦に参加された方は大変ですよね。
中だるみも見られます(笑)
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合戦の最中に記念写真とか(笑)
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この暑いのに、よくぞ頑張って迫力ものの戦いを見せてくれると、感心ばかりなので、こういうのも腹なんて立ちません。なごみますね。

熱戦はなおも続き・・・・・
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見ているこちらも、疲れる程の長時間の炎天下での熱戦の頑張りはすごいものでした。
ほんとに脱帽ものでした。

最後は、講和の使者が出てきて、めでたく熱戦の終了、和睦式です。
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合戦に参加された方、ほんとにお疲れ様でした。


(了)


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都電荒川線沿線を探る(3)

20140512

5月8日の歴史クラブ行事「都電荒川線沿線を探る」の鬼子母神堂の続きです。

【鬼子母神⇒大塚】

鬼子母神前駅に戻り、都電を待ちます。
反対側に8800系黄色の電車が来ました。
8800系は、「荒川線の未来を開く、先進性と快適性」をコンセプトに、丸みのあるスタイルで優しさと親しみやすさをイメージしたデザインとしています。また、従来の車両の約2割の省エネを実現するなど、環境に配慮した仕様となっています。
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こちらに来たのは7000系の電車です。
昭和30年に製造した旧7000形の台車や主要機器を再利用し、車体を新製した車両です。
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一番前に立ちました(笑)
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すれ違うのは7022型車両です。
平成17年に、昭和50年代のカラーリング(黄色地に青帯)を復活させた車両です。
一台しか走っていないので、出会ってラッキー!!
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駅の横の通りなので、当たり前かもしれないが、すぐ前を横切っていくのが新鮮だ。
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大塚駅の手前ではずいぶんと急なS字カーブで楽しませてくれました。
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駅の直前ですれ違ったのが、7000系電車。
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大塚で降りたのは、昼食のためです。
大人数なので、食事をする店を探すのが大変なんですよね(笑)

【大塚⇒庚申塚】

大塚駅に戻って、電車を待ちます。

反対方向に出て行った、8800系のピンク。
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やって来たのが8500系のトラ柄(笑)
都電として28年ぶりとなる新造車で、スマートな外観と快適な乗り心地を実現した車両です。VVVFインバータ制御方式を採用しています。
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庚申塚駅で降りました。これで今回の都電荒川線の旅は終りです。
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今回の都電の旅で、乗ったか見たかしたのが7000形、7022型、8500系、8800系でした。
乗れなかったのが、7500系と9000系でした。
今度は、この二つを狙って乗りたいですね。
(どうやって、狙えばいいんだ・・・・・・・・??)


【巣鴨庚申塚】

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巣鴨庚申塚は江戸時代中山道の立場として栄え、旅人の休憩所として簡単な茶店もあり、人足や馬の世話もしていました。江戸名所図会ではそれらの様子がにぎやかに描かれています。
一番右端の、屋根の葦簀(よしず)の上に見えているのが庚申塚です。
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ここは中山道板橋の宿場にも近く、右に向かえば花の名所「飛鳥山」、紅葉の王子にでる王子道の道しるべを兼ねた庚申塔が建っていました。庚申塚は広重の浮世絵にも描かれています。
現在は庚申堂に猿田彦大神を合祀しています。猿田彦大神とは日本神話に登場する神様です。天孫降臨の際に道案内をしたということから、道の神、旅人の神とされるようになり道祖神と同一視されました。

狛犬でなく、狛猿が左右に居ます。庚申塔みたいに三猿があります。
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手水舎
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社殿
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火消し・鳶職の奉納額
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【巣鴨地蔵通り】

庚申塚のところから、始まっています。
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「若がえる」、あやかりたいものです(笑)
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色々美味しそうなお店が並んでいましたが、若いお嬢さんの笑顔に誘われ、フラフラと「日本一のアンパン」を購入。
とても美味しかった。
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【高岩寺・とげぬき地蔵尊】

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行列が出来ています。
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並んでいる間、こんなものを読んでいた。少しは守らねば(笑)
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「洗い観音」
巣鴨とげ抜き地蔵尊といえば、この観音様をタオルでこする光景が必ず放映されます。なんと、とげぬき地蔵は非公開で、これは「洗い観音」だと初めて知りました(笑)
御本尊のとげ抜き地蔵尊や、とげ抜き地蔵尊にまつわるお話しよりも、こちらの観音様のほうが有名みたいです。 

檀家の屋根屋喜平次が明暦の大火 ( 1657年 ) で亡くなった妻の供養のために寄進した聖観世音菩薩像は、永年に渡って使われたタワシで顔が磨り減ってしまい、平成四年に二代目の観音様に替わりました。

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洗い観音のお隣に小僧稲荷があります。気になって、お参りしまました。
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神紋は「檜扇」です。
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帰ってから調べました。
東京の下谷にあった高厳寺という寺では、タヌキが三つ目小僧に化けて現れたという。このタヌキは本来は百年以上前の修行熱心な和尚が境内に住まわせて寵愛していたために寺に住みついたものだが、それ以来、寺を汚したり荒らしたりする者に対しては妖怪となって現れるようになり、体の大きさを変えたり提灯を明滅させて人を脅したり、人を溝に放り込んだりしたので、人はこれを高厳寺小僧と呼んで恐れたという。困った寺は、このタヌキを小僧稲荷として境内に祀った。この寺は現存せず、小僧稲荷は巣鴨町に移転しました。
天保年間に 「 稲荷百番付 」 という江戸のお稲荷さんの番付があり、東西それぞれに第一段から第四段までグループ分けされていて、烏森稲荷が東の関脇、築地波除稲荷が東の前頭第三段、於岩稲荷が西の前頭第四段など、そうそうたるお稲荷さんが並んでいる中で、この小僧稲荷は東前頭第一段にランク付けされているそうです。

どのくらいあるか、数える気にもならない江戸のお稲荷さんの中で東前頭のトップグループに入っているのですから、たいへんな御利益があり、多くの参拝客で賑わったことでしょう。
それが今は・・・・・・・
横の「洗い観音」は、押すな押すなの行列なのに、ほとんどの人は素通りしてましたね。
ちょっと可哀想になりました。

ちょっと疲れて一休み。
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ちょっと買い物タイムとなりました。
塩大福が大変な人気でしたね。
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「スガモン」というゆるキャラが居るらしくて、「おしり」だけ置いてありました(笑)
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【眞性寺・六地蔵】
所在地:東京都豊島区巣鴨3-21-21
山号:医王山
宗派:真言宗豊山派
本尊:薬師如来(秘仏)

この寺の創建年代等については不詳であるが、聖武天皇の勅願により行基菩薩が開いたことが伝えられている。江戸時代に入り元和年間(1615年~1624年)に中興されている。江戸時代には江戸六地蔵の第四番が安置され、また江戸幕府8代将軍徳川吉宗もたびたびこの寺に立ち寄ったとされる。

入り口
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江戸六地蔵の説明が大きくされていました。
六地蔵の内訳
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古絵図での眞性寺(赤丸のところ)
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六地蔵
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傍らには「子育て地蔵尊」もあった。
宝永三年(1705)に現在の豊島区大塚三丁目に建立されたが、戦災で被害を受け、復元再建されたが、区画整理によって、現在地に移されたもの。
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(了)


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都電荒川線沿線を探る(2)

20140510

5月8日の歴史クラブ行事「都電荒川線沿線を探る」ですが、穴八幡宮にお参りした後、その別当寺だった放生寺に移動しました。

【放生寺】
名称:威盛院 光松山 放生寺
宗派:高野山真言宗
寺格:準別格本山
創建:寛永十八年(1641年)
放生寺は寛永十八年、威盛院権大僧都良昌上人が高田八幡(穴八幡)の造営に尽力し、その別当寺として開創されたお寺。

寺号標
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入り口
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本堂
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放生寺のご本尊は古くより融通虫封じ観世音として称され親しまれているが秘仏。
穴八幡宮と同じく、冬至より授与している「一陽来福」も「ゆうずうさん」と呼ばれ親しまれている。
虫封じは起源は定かではないが江戸時代より夜泣きや疳の虫の祈祷霊験あらたかな寺として多数の老若男女の参詣があり今日にいたっている。

創建当時は穴八幡の境内に放生池があったが、明治期の神仏分離により池は放生寺の管轄となり、その後1920年代に埋め立てられてしまった。現在は本堂脇の池が放生会に使われる。
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池の奥には馬頭観音が安置されている。
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水蓮が咲いていた。
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神変堂に神変大菩薩として役行者が祀られていた。
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舒明六年(634年)奈良県葛上郡茅原村(現在の御所市茅原)の高賀茂家に生まれ、幼少の頃より博学であり仏教特に密教を信仰した。大和の葛城山を中心に吉野の金峰山、富士山等合わせて九十余峰を開いて神仏調和に基づいた修行をし、法力霊験摩訶不思議なこと古今を絶すると称され修験道の開祖として仰がれている。
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地蔵菩薩
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弘法大師像の足元に、四国八十八ケ所聖地が設けられていた。
熱心な会員は、全部踏んで廻っていました。
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そこからちょっと歩いて、いよいよ都電荒川線です。

【早稲田⇒学習院下】

始発駅の「早稲田」
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まずはオレンジの車両。
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途中、信号停止。向かいからは緑の車両がやってきて、やはり停止。
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目白不動にお参りするため、「学習院下」で下車。
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【目白不動】

ここは、以前「関東三十六不動」をしたときにお参りしていて、既に記事を書いています。
その記事を読む


それで、今回は少し写真を撮るのをのんびりしました(笑)
それでも、ちょっと追加の写真を載せておきます。

本堂前で説明を聞く参加者
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今回はツツジが綺麗に咲いていた。
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境内に庚申塔が多いが、前回きちんと撮らなかったので、そこは今回撮りました。

寛文6年(1666)の倶利伽羅不動庚申塔
特に三猿の顔などがはっきり残っている見事なもの。かなり硬い石を使用しているのだろう。
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左が元禄5年(1692)、右が延宝5年(1677)年の庚申塔。
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寛文8年(1668)の庚申塔。
横に酉が刻まれている。
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これは三面に一猿ずつ刻まれている、延宝4年(1676)の庚申塔。
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万治2年(1659)の庚申塔。
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【学習院下⇒鬼子母神前】

再び「学習院下」の駅に戻ってきました。
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反対方向にピンクの電車が行きます。
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我々が乗るのは靑と黄色の電車
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「鬼子母神前」で降ります。
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【雑司が谷鬼子母神】

駅前から参道のケヤキ並木です。
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このケヤキ並木は都指定天然記念物。
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とても気持ちのいい通りです。
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巨木は4本だけになったそうですが、まだまだ頑張っています。
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鬼子母神堂の入口
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この写真は、今回でなくて以前訪れた時の写真。前に撮っているからと手を抜いた感じでしたが、結局視点が違ってきたので、以前のは数枚しか使ってません。

入口の仁王像。この二像は丈と幅が同寸で、珍しいらしい。もと、盛南山という寺の観音堂にあったものが寄進されたそうです。
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参道は真っ直ぐ。
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名物が「すすきで作ったミミズク」とかで、境内にミミズクが多い。
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鬼子母神堂
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当山におまつりする鬼子母神(きしもじん)のご尊像は室町時代の永禄4年(西暦1561年)1月16日、雑司の役にあった柳下若挟守の家臣、山村丹右衛門が清土(文京区目白台)の地の辺りより掘りだし、星の井(清土鬼子母神〈別称、お穴鬼子母神〉境内にある三角井戸)あたりでお像を清め、東陽坊(後、大行院と改称、その後法明寺に合併)という寺に納めたもの。
東陽坊の一僧侶が、その霊験顕著なことを知って、ひそかにご尊像を自身の故郷に持ち帰ったところ、意に反してたちまち病気になったので、その地の人々が大いに畏れ、再び東陽坊に戻したとされています。
その後、信仰はますます盛んとなり、安土桃山時代の天正6年(1578年)『稲荷の森』と呼ばれていた当地に、村の人々が堂宇を建て今日に至っています。
現在のお堂は、本殿が寛文4年(1664年)徳川4代将軍家綱の代に加賀藩主前田利常公の息女で、安芸藩主浅野家に嫁した自昌院殿英心日妙大姉の寄進により建立され、その後現在の規模に拡張されています。
昭和35年に東京都有形文化財の指定を受け、昭和51年から54年にかけ、江戸時代の姿に復する解体復元の大修理が行われました。
鬼子母神は安産・子育(こやす)の神様として広く信仰の対象となっていますが、もともとの来歴には深いいわれがあります。
当山の鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い 「雑司ケ谷鬼子母神」と尊称しております。
日蓮聖人は御書のなかで「十羅刹女と申すは10人の大鬼神女、四天下の一切の鬼神の母なり。また十羅刹女の母なり、鬼子母神これなり」と述べられ鬼子母神を重視されています。
もともと鬼子母神信仰は平安朝の昔から一般的な信仰としてありましたが、法華信仰に生きる者、日蓮宗に属する者にとって、鬼子母神はただ単に子供を守る神であるばかりでなく、信者・宗徒の外護神として崇められています。

江戸時代の神仏習合の名残か、お堂の前に狛犬が。
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向背下の牡丹の彫刻
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向背蟇股には花の彫刻、目貫に龍。
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木鼻の獏と獅子
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海老虹梁とその上の彫刻
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扁額
角の無い「鬼子母神」
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内陣
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正面破風下に、天邪鬼が梁を支えている彫刻があり、面白い。
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側面の破風下にも居た。
向かって左側。
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向かって右側。
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建物が、神社のように、後ろに本殿みたいな作りになっている。
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そこの彫刻も美しい。
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真後ろに「妙見堂」がある。「北辰妙見大菩薩」となっている。
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しかし鳥居があります。
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流れ造りの社殿です。神社ですね。
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正面
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神紋は「丸に星梅鉢」
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境内の鬼子母神像
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金剛不動尊を安置した法不動(のりふどう)堂
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大銀杏は、別名 「子授け銀杏」とも呼ばれているそうです。樹齢が約700年、東京都の指定天然記念物にもなっている。
幹のまわりは8メートルもあり、樹高は30メートルを超えています。
(写真は2011年6月15日のもの)
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境内にある創業1781年の駄菓子屋さん。
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(続く)


「都電荒川線沿線を探る(3)に飛ぶ


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穴八幡宮/都電荒川線沿線を探る(1)

20140509

所在地: 東京都新宿区西早稲田2-1-11

昨日、5月8日に歴史クラブ行事「都電荒川線沿線を探る」に参加しました。高田馬場から早稲田まで一駅東西線で移動、都電に乗る前に、穴八幡宮にお参りしました。

一の鳥居は朱塗りの明神型台輪鳥居。
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鳥居のすぐ後に流鏑馬像があります。
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穴八幡宮は、八幡太郎義家が前九年後三年の役で活躍、凱旋の帰途にあった康平年間創建したと伝えられる。寛永13年に持弓頭松平五新左衛門直次の同心が的場を造営した際、傍にあった松に鳩が三羽づつ宿ったことから瑞祥の兆しだとして、寛永18年に石清水八幡宮を勧請、神社を造営しようと山麓を穿ったところ洞穴を発見、銅製の阿弥陀仏があったことから本地佛として祀ったといいます。同年徳川家光が生誕、德川秀忠が当社を訪れて以降崇敬篤く、3代将軍徳川家光は、この話を聞いて穴八幡宮を幕府の祈願所・城北の総鎮護とした。
歴代将軍がたびたび参拝し、8代将軍徳川吉宗は、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した。流鏑馬はその後も世嗣誕生の際や厄除け祈願として奉納され、穴八幡宮に伝わる「流鏑馬絵巻」には1738年(元文3年)に奉納された竹千代(後の10代将軍徳川家治)誕生祝の流鏑馬が描かれている。
江戸の庶民からも信仰を集め、特に蟲封じの祈祷は有名だった。1879年(明治12年)には皇太子(後の大正天皇)の御蟲封祈祷も行っている。

そこから進むと、石の神明型二の鳥居
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その先の石段を上がると隨神門です。
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1998年(平成10年)に室町時代の様式で再建したそうです。
建築したのは、清水建設ですが、以前の随神門は、清水建設の前身である清水組の創業者、清水喜助が嘉永元年(1848)に穴八幡神社から依頼され建築したそうで、その出来栄えが江戸中の評判になったという話があるそうです。

扁額には光寮門と書かれている。
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矢大神
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左大神
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木鼻と間の獅子の彫刻が美しい。
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内側には、馬が。
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手水舎
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布袋像の水鉢
新宿区指定有形文化財(工芸品)。1649年(慶安2年)造立、区内最古の水鉢。江戸城吹上御苑に置かれていたが、徳川家光により奉納されたという。
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拝殿前の、平成4年建立の狛犬。
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拝殿
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向背下の彫刻が、神紋の菊と唐草模様、懸魚と優美だ。
神紋は「十六弁八重菊」と「右三つ巴」ですね。
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向背上部蟇股の鳩の彫刻
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向背下部蟇股の龍の彫刻
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社額
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拝殿内部
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御祭神は、応神天皇・仲哀天皇・神功皇后

拝殿の左右に建物が密接している。
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そのため、本殿はその隙間から鰹木が一本確認できるだけ(泣)
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境内に神武天皇遙拝所がある。
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神武天皇陵は奈良県の橿原神宮の北側にあります。その方向でしょう。

その前にあった、狛犬と獅子。何と宝暦5年(1755)建立のものです。今まで私が集めた中で4番目の古さ。
そして、神社検定テキストなどで説明されている基本形のものです。
神前から見て左に、阿形の獅子。丁寧に宝珠を載せています。(最近は玉を持っていることが多い。)
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神前から見て右に、吽形の角の生えた狛犬。
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神輿藏が並びます。
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境内の石垣がすごかった。江戸城から持ってきたのでは? という声も聞かれた。
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その後、穴八幡の別当寺だった「放生寺」に行きましたが、その後穴八幡の別の入り口の前を通った時に、掲示されたものに、参考になるものが多かった。
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穴八幡宮境内図
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八代将軍徳川吉宗が、1728年(享保13年)に世嗣の疱瘡平癒祈願のため流鏑馬を奉納した時の絵巻。
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現在は、毎年体育の日に都立戸山公園を会場として行われている。
小笠原流の本格的な流鏑馬である。
今年は、毛呂山の流鏑馬をクラブ・Oグループの行事としたので、ぜひ来年の行事にしたい。
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(続く)

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ロビ第54号&55号組立/ロボット「ロビ」

20140509

【第54号】

第54号で紹介されているのは、前号に引き続き「ガンプラ」を開発生産する「バンダイホビーセンター」です。
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ここで生産されて出荷される量はものすごい数であることは容易に想像できる。
17台の多色成形機を備えた工場で生産されているのは、複数の色や複数の材料を使ったランナー。
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整形されたランナーはコンテナに集められ、自動搬送機で立体自動倉庫に収納される。そして自動搬送機が取り出して出荷される。

プラモデルの楽しさは組立だが、私が若い頃夢中になってい頃は接着剤で組み立てて、自分で塗装するものだった。
ガンプラは、接着剤不要、同じランナー内でも4色までなら多色成形できるので、パーツの駒かな色分けが可能で、塗装不要を実現している。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
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② サーボをテストし、IDを書き込む
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③ IDの書き込みを確認する
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完成品
首の旋回サーボ
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【第55号】

第55号で紹介されているロボットは、早稲田大学情報理工学科小林哲則研究室の会話ロボット「シェーマ」。
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話しかけられたことに返事をする、インターネットから得られた情報ほ教えてくれるロボットは今までもいる。
「シェーマ」は、質問や命令に応えるだけでなく、相手の話に合わせて会話を続けることができる。
楽しく会話をするためには、内容だけでなく表情や話し方なども重要になる。
「シェーマ」は表情を作る機能、話している人を見る機能がある。
自分の感情を相手に伝え、相手の気分を予想することもできる。
「シェーマ」を含めて三人居る場合、シェーマともう一人だけで会話しているとき、もう一人が会話に加わらない場合は、二人の会話の主導権を握り、会話に加わっていない一人に話を振って会話に誘い込むことが出来るという。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① スピーカーを組み合わせる
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② スピーカーを固定する
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完成品
胸にスピーカーが取り付けられた。
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新吉田・杉山神社(延喜式内論社)/神奈川県横浜市港北区

20140507

所在地:神奈川県横浜市港北区新吉田町4509

5月1日、式内論社の杉山神社4社を廻りましたが、中川杉山神社にお参りした後、市営地下鉄グリーンラインを「センター北」駅から「東山田」駅まで乗り、そこから歩いて10分くらいの丘の頂点にあります。

鬱蒼とした森の入り口。
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社号標
式内社 武藏國都筑郡 杉山神社  旧郷社
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由緒:
武蔵式社記に、「都筑郡吉田と云うに杉山という小地名ありて其の処に座す社実蹟なり」 とあり、新編武蔵風土記稿には、「除地二段五畝、村の北方にあり、石階数級を登りて社前に鳥居を立つ、本社二間に二間半、拝殿三間に二間、南向、神体不動、村内正福寺の持」と記している。明治六年に郷社に列格、同四十一年十一月、村内の無格社三社を合祀した。

鳥居
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長い石段を上がります。途中息つきの場所でホッと。
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上がりきると広場が広がっている。
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手水舎
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明治10年奉納の鉢には水が無いが、鉢の足元に四つの天邪鬼か力士かわからない像があり、うつむき加減に鉢を担いでいる。
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境内は鬱蒼とした森に囲まれている。
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昭和59年奉納の狛犬は、ずいぶんと獰猛である。
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子犬まで、かなり獰猛だ。
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拝殿
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内部
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本殿は覆屋の中でわからない。
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御祭神は五十猛命。
配祀が権五郎景政 比野聖廟、素盞嗚命。

『明治神社志料』には祭神は五十猛命だけだそうなので、明治41年に合祀したという三社の祭神だろう。
権五郎景政は、鎌倉景政の事で、横浜市内の御霊神社は概ね景政を祀っているとのこと。
16歳の頃、後三年の役(1083年 - 1087年)に従軍した景政が、右目を射られながらも奮闘した逸話が有名。
比野聖廟というのが、調べてみたがわからない。

神紋であるが、拝殿のは「右三つ巴」
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しかし手水鉢のが「左三つ巴」である。これはどうして??
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境内社
天満社
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稲荷社
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横浜市の名木古木指定の「カヤ」
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社殿の横から裏手にも参道があったので、そちらから帰った。
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こちらの鳥居
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道からの入り口には、神橋がある。
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これで、武藏國都筑郡の一座杉山神社の論社である、横浜市内4社を全て廻りました。


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html






中川・杉山神社(延喜式内論社)/神奈川県横浜市都筑区

20140506

所在地:神奈川県横浜市都筑区中川町6-1-1

5月1日、式内論社の杉山神社4社を廻りましたが、茅ヶ崎杉山神社から、グリーンラインに並行して走る大きな道路を10分ほど歩いて、三番目の杉山神社である当社に着きました。

前方右手には観覧車が見えます。この巨大ニュータウン開発には東急だけでなく阪急もからんでいるんですね。ピンクの建物に「HankYU」のロゴが大きくあります。
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道から急な石段と鳥居があります。
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ここから入りましたが、正門があるはずだと探して、そちらから入ります。
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社号標には「式内本宮 杉山神社 武蔵国四十四座之内都築郡一座」とあります。
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大正15年建立の狛犬。
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手水舎
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参道は鍵の手に曲がっている。
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拝殿
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本殿
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祭神は五十猛命と日本武尊。

神紋は「右三つ巴」
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境内には、二つの当社の由緒を記した碑がありました。
一つは嘉永五年のもの。
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武蔵国都筑郡大棚郷杉山祠祭日本部尊延喜式所謂四十四座之一而是為杉山明神本祠蓋大棚之為郷和名称載都筑七郷内綴喜店屋郷後為大店又称大棚郷実為式兵部省所謂武蔵国四駅之一郷中有古道蹠今尚寂然可尋有地称宿根入者武蔵演路以為駅址又荒原往往出有文古瓦郷人以為古駅之徴続日本後記曰承和三年二月授武蔵国無位杉山名神従五位下蓋謂此祠也又聞昔者祠在後山一旦罹災因従之於山下天正十九年所製□籍載祭田四□五拾六歩至文禄三年為 官所収遂□祭田而方今因循伝訛以郷為村祠亦殆廃天保五年別当龍福寺住僧長伝深慨其祠之衰替之□其所伝之神璽以請白川神祇官総司乃賜以杉山神社四字題額実係神祇伯雅寿王所書掲之於祠前焉間者村民恵吉□相謀将立碑書其顛末以伝無窮而請文於余乃記其所説又係以銘曰白鳥之神英武之質西伐東討偉功無匹杉山古祠久就埋没貞□載文神威斯述
嘉永五年歳次壬子嘉平月 林司成家塾都講河田興撰并書

祭神が日本武尊、延喜式所の四十四座の一つだと主張していることがわかります。

もう一つは平成7年のもの。
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横浜市は昭和40年2月、六大事業の一つとして「横浜国際港都建設事業・横浜北部新都市土地区画整理事業」を発表、同49年建設大臣の事業認可。横浜市高速3号線の免許取得、着工に至る。
杉山神社は中川町1084番地から同町757番の元吾妻社の跡地へ58年11月30日仮社殿を設けここに遷座し、元旦祭・大祭は此処で執行された。換地も間近く建設委員会の結成に着手、資金計画に入る。
(途中省略)
御霊璽については杉山神社と最も由緒深いとされている和歌山県の伊太邪曽神社へ赴き親しく御分霊を受け五十猛命の霊璽を拝受し御主神日本武尊と並び崇め祭る。

ここでは、開発に伴い社地を移転したことと、和歌山県の伊太邪曽神社から五十猛命の霊璽を勧請したとある。

ここで、今回廻った杉山神社4社のうち3社の祭神である五十猛神(イソタケル)について考える。

Wikipediaによれば、
『日本書紀』『先代旧事本紀』に登場するが、『古事記』に登場する大屋毘古神(オホヤビコ)と同一神とされる。射楯神(いたてのかみ)とも呼ばれる。素戔嗚尊(スサノオ)の子で、オオヤツヒメ・ツマツヒメは妹。
『日本書紀』、『先代旧事本紀』の記述から、五十猛神は林業の神として信仰されている。紀伊は古来より林業の盛んな地であったので、それらの人々が信仰していた神と考えられる。また、土の船を作り海を渡ったことから、造船、航海安全、大漁の神として信仰され、商売繁盛、開運招福、悪疫退散、厄除け等の神徳もある。紀伊国(かつては「木の国」と言った)に祀られているとの記述と『先代旧事本紀』分注に「亦云 大屋彦神」とあることから、『古事記』で大穴牟遅神(オオナムジ、後の大国主)がその元に逃げ込んだ木国の大屋毘古神と同一神とされる。イザナギ・イザナミの子である大屋毘古神(禍津日神と同一神とされる)とは別神であるが、同一神とされることもある。

そこから推測されるのは、
「五十猛命」を信奉する部族が紀州熊野から太平洋海岸沿いに東上して、まず伊豆半島や三浦半島に辿り付いた。
三浦半島には、「杉山大神神社」が祀られている。
伊豆半島にも「五十猛命」を祀る「来宮神社(=木の宮・紀の宮?)」が多い。
三浦半島を経由して鶴見川流域に住み着いた林業を営む一族が「杉山神社」を祀ったものと考えられる。

境内社の第六天神社(だいろくてんじんしゃ)
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私は「第六天」というのは仏教の天なので、これには違和感があったが、帰って調べてみると「第六天神社」が存在することが分かった。
元々は神仏習合の時代に第六天魔王(他化自在天)を祀る神社として創建されたものであるが、明治の神仏分離の際、多くの第六天神社がその社名から神世七代の第6代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)に祭神を変更した。また、現在では社名自体が変更されている神社も多数存在する。

社殿の前に、大きな樹があったのだが、問題はその根元に咲いている花である。
星のように咲いていて、吃驚した。
何という名の花だろう。
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観覧車が一緒に写るお宮さんも珍しい(笑)
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すぐ傍の地下鉄「センター北」駅に行き、次の目的地に向かう。
この辺では地上高架線である。
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いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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中山道追分宿周辺

20140505

昨日、5月4日にカミさんと出かけ、私の両親の墓参りをした後、今回は追分宿周辺を探索しました。
私の両親の墓は、上信越高速道の佐久インターを降りて、7,8分ほどの所にあります。

インターを降りてから、高速に並行する道からの浅間山。まだ雪が残っている。
小、中学校に通う道が、朝は道の正面に浅間山が見える方向だったので毎朝眺めた山です。
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浅間はまだ雪が少し残っていた。
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お墓参りを済ませた後、追分に向かいますが、途中「御代田の一里塚」に寄りました。
前日下調べをしていたら、今まで知らなかったのですが、中山道の一里塚の上に見事な枝垂れ桜があることが分かったので。

【御代田一里塚】
私がネットで下調べの時に混同したのは、「御代田の一里塚」と「馬瀬口の一里塚」が登場したのだが、馬瀬口も御代田町の中なので、同じものを違う呼び方をしているのだと思ってしまい、馬瀬口の一里塚の地図を用意した。しかしたどり着いたら桜が無い!!
近くの家で聞いてみたら、桜の話をしたら教えてくれたが、かなり遠い場所を教わった。対の一里塚にしては遠すぎると狐につままれたような心地で向かった。
しかし、あった(嬉)
傍に立っていた説明を読んで納得。
中山道にあるのが「御代田の一里塚」、北国街道にあるのが「馬瀬口の一里塚」であった(笑)
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軽井沢銀座にある「神宮寺の枝垂れ桜」がちょうど今ごろなので、期待していたのだが、標高が低いせいか、ちょうど終わったところだった(泣)
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浅間が見える方向から。
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上のほうに少し花が残っていた。
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【追分の分け去れ】
今の国道18号線の、北国街道と中山道の分岐点にあるのが「追分の分去れ」です。江戸から来た場合、右は北国街道の更科や越後方面、左は中山道の京都、吉野など関西へむかう分岐点。その昔長旅の途中で親しくなった旅人同士が、別の行く先を前に別れを惜しみともに袂を分けて旅を続けたといわれるのがその名の由来です。

江戸方向から
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延宝七年(1679)の道しるべ
分去れの三角地の頂点に小さな道祖神。その奥にあります。
中山道、北国街道を指し示し、まだ初期に使われた海道の文字が刻まれています。正面には「東 二世安楽 追分町」、右側面は「従是北国海道」左側面は「従是中仙道」、そして裏面には「西于時延宝七己未年(1679)三月○日」と彫られ、ここにある石塔などでは最古のものと思われます。
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森羅亭万象の歌碑
「世の中は ありのままにぞ霰(あられ)ふるかしましとだに 心とめぬれば」
森羅亭万象は、江戸時代中期の博物学者・戯作者で有名な平賀源内の門人で狂歌師・桂木甫燦のことといわれています。
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常夜灯
中山道の常夜灯の中でも屈指のもので、寛政元年(1789)春に建立され、台石には「町内安全」「是より左伊勢」などと大きく彫られています。
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石地蔵坐像
マリア地蔵とも呼ばれる。
台石には、「さらしなは右 みよしのは左にて 月と花とを 追分の宿」
と刻まれている。 更科は月の名所、吉野は桜の名所。
台石には更に西面に妙義、江戸、日光など関東への道のり、南面には伊勢、京都その先に金毘羅への道程150里半が刻まれている。北面は善光寺、戸隠山、高田と北国街道沿いの土地、その先の金沢へと里程が記されている。
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勢至観音菩薩
北国街道に面してぽつんと立つ観音像は、郷土史家によると鳥羽天皇の天永年間(1110~12)に彫像された勢至観音菩薩で、これが確かなら追分の分去れの石仏中、最も古い時代のものとなります。
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馬頭観音立像
分去れの一番奥には、優美な姿でたつ観音立像があります。正面に「牛馬千匹飼」とあるように馬頭観音像で安永三年(1774)11月、役馬持連中が建立したものといわれています。背丈が高く、頭部顔面あたりが異国風です。
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【シャーロックホームズ野外彫刻/庚申塚公園】
分け去れの北国街道ちょっと奥に、シャーロックホームズの彫刻があるというので、行ってみました。

林の中に、それはありました。
傍の説明を読むと、ホームズ物語全60作品を翻訳家延原謙が、ここ追分で訳したのにちなみ建てられたということでした。
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傍に枝垂れ桜と辛夷が一緒に咲いていた。
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シャーロックホームズの彫刻がある庚申塚公園には、沢山の庚申塔などの石碑があった。
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詳しくの説明は、先が長いので省略。
ただ、一つ一つ見ていたときに、「二十三夜待ち講」碑の台石の穴から松が生えているのに気が付いた。
育ってくれれば嬉しい。
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【堀辰雄が愛した石仏/泉洞寺】
旧道沿いに泉洞寺があり、その裏手境内にある。

泉洞寺
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この石仏は堀辰雄の数多くの名作のひとつ「樹下」(「大和路・信濃路」)の文中にあって、素朴な姿に心を惹かれて、朝夕ここを散歩し、親しんだと言われており、いまでも村人に歯痛の神様として信仰されている。
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旧道に戻ります。
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【一茶の句碑/諏訪神社】
入り口
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境内
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小林一茶の句碑
「有明や 浅間の霧が 膳をはふ」
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【高札場】

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宿場町らしい雰囲気の建物
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【脇本陣・油屋旅館】
江戸時代、追分の宿(しゅく)は大名旅行の道筋として、最も繁栄をきわめた。本陣が一軒、脇本陣に油屋と甲州屋とがあり、その本陣や油屋の建坪は、二百三十九坪もあったという。旅籠(はたご)の数が七十一軒、茶屋が十八軒と伝えられている。

現在の「油屋」旅館は、火事で焼失した旧建物とは街道を挟んで向かい側に新たに建てられたもの。
旧建物の火事は、1937年(昭和12年)11月19日。
このとき立原道造が投宿していた。二階にいた立原は逃げ遅れ、間一髪からがらに脱出できたようです。
堀辰雄もこのとき油屋に滞在していたが、たまたま外出していて無事だった。しかし、宿に置いてあった「かげろふの日記」続篇を書くための資料やノートは全て焼失したそうです。
堀辰雄の小説には、油屋の女性をモデルにしているし、「菜穂子」に登場する青年、都筑明には立原道造のイメージが重なっている。

現在の「油屋」
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現在、中にはたくさんのShopが入っている。
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【本陣裏門】
現在、堀辰雄文学記念館の前に移設されている。

本陣の間取り図
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本陣裏門
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【堀辰雄文学記念館】
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明治37年東京に生まれ、昭和初期に活躍した作家 堀 辰雄は、大正12年19歳の時に軽井沢を訪れて以来、毎年のようにこの地を訪れるようになり、軽井沢を舞台とした数々の作品を残しました。昭和19年からは追分に定住し、この地に建てた家で昭和28年に49歳で亡くなりました。
この記念館は、軽井沢をこよなく愛した作家、堀 辰雄に関する資料を展示・保管する文学館です。

受付と閲覧室がある管理棟。
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閲覧室では、「風立ちぬ」の初版本や、作品に登場する「節子」のモデルとなった堀の婚約者・矢野綾子が描いた油絵など関連資料約60点を展示。
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堀辰雄は婚約者矢野綾子に付き添って富士見高原療養所へ向かいます。婚約後一年で矢野綾子は亡くなりますが、このときの体験を昇華させ、作品化しました。この企画展では、堀辰雄の代表作の一つ、「風立ちぬ」の世界を紹介しています。
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矢野綾子の写真
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矢野綾子の描いた油絵
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堀辰雄の原稿
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辰雄が晩年を過ごした住居
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手前の籐椅子は高峰三枝子さんから堀に贈られたものだそうです。
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ちょっと離れた所に立つと、浅間山が見えた。こんなにきれいに見える場所は意外と少ない。
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堀辰雄が亡くなってから多恵夫人の建てた家の展示室があり、堀辰雄の生涯と文学の背景を知ることができる。
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書庫
この完成を堀辰雄は楽しみにしていたのですが、それを見ることなく五十年に満たない生涯を終えてしまいました。
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庭にある文学碑
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春の大和に往って
馬酔木の花ざかり
を見ようとして途中
木曽路をまはって来
たら思いがけず雪が
ふってゐた
昭和十八年四月十三日
堀 辰雄

夫妻が大和路を旅する途中、木曽福島の「つたや旅館」に宿泊した際に宿の主人に請われて書いた、数少ない毛筆による文で、多恵夫人が選んだもの。

後ろの馬酔木がちょうど満開でした。
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【芭蕉句碑/浅間(あさま)神社】
普通、浅間神社と書くと「せんげんじんじゃ」ですが、これは富士山つながりとなります。
ここは「あさま神社」です(笑)
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「せんげん神社」の祭神は木花咲耶姫ですが、「あさま神社」の祭神は磐長姫です。浅間山が暴れては困るので磐のようにドッシリとしていて下さいというわけです。

入り口の神橋
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境内
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社殿
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内部
神紋は「立ち梶の葉」ですね。
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芭蕉句碑
「吹き飛ばす 石も浅間の 野分哉」
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追分節発祥地碑
「碓氷峠の権現様は わしが為には守り神 浅間山さんなぜ焼けしやんす 裾に三宿持ちながら」
碓氷峠の馬子唄であるが、説明を読むと諸国の追分節(越後三下り、本荘追分、江差三下りなど)の源泉だそうである。
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これで、追分の散歩は終り、スーパー「つるや軽井沢店」で買い物。
私は、ここで「イナゴの佃煮」とヨーグルトを買うのが楽しみ。ここのヨーグルトは本当においしい。
カミさんは、スパークリングワインをりんご(シードル)と葡萄(ナイヤガラ)一本ずつ買った。チーズ4種類、パンに塗って食べる「白ゴマバター」と「れもんバター」。桃のジュースと花梨のジャム。
ここでの買い物は、私でも楽しい(笑)

最後に、子供が小さい頃良く寄った、長倉のカフェレストラン「ラ・ヴィーン」に寄ってみた。
もう10年以上来てなかったと思うが、お店のご夫婦は覚えていてくれた(嬉)
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アーモンド・ラテ(左)があったので、それとレアチーズ(右)を頼んだ。
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今でも、窓の外に小鳥の餌台があって、小鳥が来ていた。
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ここに小鳥などの版画の絵葉書が置いてあって、子供たちは喜んでいた。
見ていたら、フクロウの小さな置物で気に入ったのがあったので、買ってきた。
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(了)


茅ヶ崎・杉山神社(延喜式内論社)/神奈川県横浜市都筑区

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所在地:神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎町2094

5月1日、西八朔杉山神社にお参りして、中山駅前で昼食を食べた後、市営地下鉄グリーンラインで「センター南」駅まで移動しました。当社の最寄駅です。
今回の杉山神社4社巡りは、一昔前は交通の便が悪く大変だったようです。しかし今は「港北ニュータウン」の巨大開発が進んだおかげで、市営地下鉄も中山駅まで延びて、今回廻る杉山神社4社共にグリーンラインの駅からさほど遠くないという、ラッキーな状況になっていました。
茅ヶ崎・杉山神社と次に行く中川杉山神社はニュータウンの南と北に位置しています。

「センター南」駅を出ると、いかにも巨大ニュータウンらしい景観が待っていました。
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そこから5分くらい歩くと、都築中央公園の手前に当社がありました。
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社号標
村社・式内論社
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まず神橋があります。
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綺麗なせせらぎが流れている。
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一の鳥居
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鳥居の前には、こんな碑が。
「良き道辿れば 良き里あり 港北ニュータウン発祥の地」
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「神社合祀記念碑」
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その裏に由緒が書かれている。
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勅願所式内武蔵國都筑郡之一座當國三ノ宮枌山神社祭神由布津命 傅記云由布津命ハ天日鷲命之孫也 天武天皇白鳳三年九月堅田主命二十代ノ孫忌部勝麻呂依御霊而奏天朝武蔵國枌山乃國ニ立神籬右大神ヲ奉リ枌山社ト號シ奉ル 勝麻呂ノ弟義麻呂祭主トシテ奉仕 麻ノ貢ヲ奉リキ仁明天皇承和五年預宮幣ニ嘉祥九年五月授従五位下封田ヲ寄玉フ 遥後元暦二年正月廿一日依御願而従鎌倉殿御奉幣有之タリ鎮座記元一千二百十余年也
合資由来 明治四十三年十月八日 神奈川縣指令之第二九三四號ヲ以テ御認可 神奈川縣都筑郡中川村茅ケ崎字境田二〇九八番地村社枌山神社祭神五十猛命 被合併神社同東前八〇八番地無格社神明社祭神天照皇大命 同字八二五番地天王社祭神素盞鳴命 同字六二七番地稲荷社祭神稲倉魂命 右三社ハ村社枌山神社に合祀 空社地立木ハ村社基本財産ニ編入本社ノ経営成 大正九年十月指定村社ニ昇格 同年十月十三日中川村長供進使トシテ奉告祭ノ式ヲ挙ゲタリ碑ヲ建テ以後世ニ傅フ
大正九年十月十三日 氏子中  二子石工小俣刻

「天武天皇白鳳3年に安房神社神主の忌部勝麿呂が御神託によって、武蔵国の杉山の岡に高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命・天日鷲命の孫・忌部氏の祖)の三柱を祀った「杉山神社」とした」のが由来である。

武蔵風土記にはこの社を式内社としていて、これによると「忌部勝麻呂が天武天皇御宇の白鳳三年秋九月、神託によりて武蔵国杉山の地に太祖高御産巣日大神、天火和志命、由布津主命三柱の神を祀り杉山神社と號す・・」とあるそうである。

今回廻る杉山神社4社のうち、他の三社は祭神が「五十猛命」に対して、当社の祭神は異なります。
「五十猛命」については、次の中川杉山神社のところで説明しようと思いますが、紀州熊野から移って来た氏族が奉じる神です。
それに対して、当社は安房忌部氏が当地に移って来て奉じているわけで、同じ杉山神社と云っても、二つの氏族の系統があるということになります。

阿波忌部氏が房総に移ってきて安房忌部氏となり、そこから関東各所に進出する訳ですが、「忌部氏、阿波忌部氏⇒安房忌部氏」については栃木県の「安房神社」を訪ねた時の記事に書いてあるので、それを参照してください。
下記クリック
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1436.html

朝廷で忌部氏が司った神事の場での祭具の木綿(ユウ)というのがあります。これは布の幣(ぬさ)を指しますが、原料に麻も使われております。また神官が着る衣にも麻が使われるなど、麻布は祭事に欠かせないものでした。
それを作るのは、専ら忌部氏でした。かれらは麻作りのプロ集団であったわけです。
当時の鶴見川流域は、「麻作り」に適していたのではないか。谷本川支流には「麻生川」があって、「上麻生」「下麻生」という地名もあります。

長い石段の途中に二の鳥居がある。
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二の鳥居は、朱塗りの両部鳥居です。
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ようよう石段を上がると、左手に手水舎。
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境内
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拝殿
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社額
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祭神は、高御座巣日太命(高御産日命)・天日和志命(天日鷲命)・由布津主命(阿八別彦命)

天日鷲命は、天照大神が天岩戸に入られたとき、岩戸の前で神々の踊りが始まり、この神(天日鷲神)が弦楽器を奏でると、弦の先に鷲が止まった。多くの神々が、これは世の中を明るくする吉祥を表す鳥といって喜ばれ、この神の名として鷲の字を加えて、天日鷲命とされた、という神話となっています。
阿波国を開拓し、穀麻を植えて紡績の業を創始した阿波(あわ)の忌部氏(いんべし)の祖神です。

天太玉命の後裔である天富命が、天日鷲命の孫・由布津主命を率いて、阿波から当地(安房)開拓のため上陸したという。天富命に從って安房へ赴いた忌部を代表するものが由布津主(ユフツヌシ)命である。

神紋は「右三つ巴」
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社殿の左に、色々なものが集められている。
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「御神木舊地」とあり、枯れた根元が残っている。
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歌碑があり、浅学で読みきれないが、「安房の忌部」を詠み込んでいることはわかる。
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お稲荷さんの鳥居が、敷地のせいで斜めに立っているのが気の毒。
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参拝を終えて、引き揚げようとすると、石段が急なこと。手すりが無かったら降りられない。
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(続く)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
http://www.lares.dti.ne.jp/~taka-ino/jinjyajyunpai.html






西八朔・杉山神社 (延喜式内論社、総社六ノ宮)/神奈川県横浜市緑区

20140502

所在地:神奈川県横浜市緑区西八朔町字宮前208

昨日5月1日、個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」として「武蔵国都筑郡・杉山神社」にお参りした。
『続日本後紀』に「枌山神社」(すぎやまじんじゃ)とあり、延喜式神名帳には「武蔵国都筑郡唯一の官社」として杉山神社の記述がある。

しかし杉山神社は本源の所在不明。現在、横浜市内に「杉山神社」と称する神社は41社あるそうです。
そして関係者の努力で、現在の最有力候補として以下の4社があるということなので、この全てを一日で廻ることにしました。
杉山神社・神奈川県横浜市緑区西八朔町(旧郷社)
杉山神社・神奈川県横浜市都筑区中川町(旧郷社)
杉山神社・神奈川県横浜市港北区新吉田町(旧郷社)
杉山神社・神奈川県横浜市都筑区茅ヶ崎町(旧村社)

家を7時に出て、高田馬場、渋谷、菊名と乗り継いで、JR横浜線中山駅に降りたのが10時。
そこから歩いて、「杉山神社」に到着。お参りを始めましたが、どうもおかしい。
事前に調べた資料と境内社が違っている(汗)
慌てて、付近の住宅街の住所表示を確認すると、「西八朔町」ではない!
前夜グーグルで地図を印刷する前に、早トチリで違う場所の杉山神社を出してしまったらしい(泣)
で、本来の西八朔・杉山神社の地図が無いので、途方に暮れたが、こうなりゃ住所は分かっているので人に聞きつつたどり着くしかないと、覚悟しました(笑)
最初の人を捕まえて聞いたが、まったく要領を得ず。
そしたらクロネコヤマトの車が停まっていて、運転手の方がちょうど戻って来たのが目に入った。
飛んで行って訪ねると、「遠いですよ・・・・・・」としばし考え込んだ。
ここから中山駅に戻って、「十日市場」駅から歩くのが本当だが、歩く距離はあまり変わらず、時間はかえって余分にかかる、と説明してくれて、こういう風に歩いて行って八朔に入ったら、また人に聞いてください、と教えてくれた。
暑い中、せっせと歩いて、途中で二人の方に聞いて30分で、ようやく本来の当社にたどり着きました(嬉)
本当にスムーズに着いて良かった。クロネコヤマトさんに大感謝です。

社号標
社格等:式内小社、郷社
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参道を少し進むと、道が交差していて、そこから丘に登る石段があります。
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途中に、手水舎。
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自然石の綺麗な手水鉢です。
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木製の両部鳥居。
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鳥居をくぐると、当社の由来を書いた碑があります。
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西八朔杉山神社が続日本後紀のそれであると説いた、幕末に大國魂神社の宮司であった猿渡盛章氏の文章でした。
ここで、杉山神社は武蔵国の総社大國魂神社の六ノ宮であることが説明されていました。
六所宮武蔵国の総社、大國魂神社の成立は、人皇十二代景行天皇四十一年。
一の宮小野大神、二の宮小河大神、三の宮氷川大神、四の宮秩父大神、五の宮金佐奈大神、六の宮杉山大神となっている。
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参道の反対側には「力石」
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また石段を上がります。
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上がると境内が広がっている。
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昭和16年建立の狛犬
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社殿は一段高い所に鎮座。
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入母屋造の拝殿
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普通、龍などの彫刻がある向背蟇股の彫刻が、神紋の「菊」
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社額には「延喜式内社 武蔵総社六之宮」と。
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向背柱の獅子の彫刻がいい。
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流造の本殿
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主祭神は五十猛命。
配祀は大日霊貴命(=天照大御神)、素戔嗚命、太田命
太田命は猿田彦大神の御裔で、垂仁天皇の御代に皇女倭姫命が神宮鎮祭の地を求めて諸国を巡歴された時に、太田命がお迎えして、猿田彦大神以来守護して来た五十鈴の川上の霊域を献上して、伊勢の神宮を創建申し上げた神。

神紋は「十六菊」
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資料では「社殿の左に、流造の小祠が萱葺きの変わった覆屋に納められている」とあったが、中が空の小さい建物があったのみだった。
工事中と思われる。
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右には、ちょっと上がったところに稲荷がある。
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社殿前の踏み石を押しのけてタケノコが。すごい。
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社殿の中に、本殿が。
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中に置かれているのが女神だったので、「荼枳尼天」かと最初思った。
豊川稲荷の本尊が荼枳尼天だからである。
しかし、良く見ると、荼枳尼天は狐の上に乗っているのだが、この像は蓮の上に乗っている。
ということは観音様!??
わかりません・・・・・・・
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お参りが終わって石段を下りてくると、一番下の脇に大きな樹があり、その根元に石碑があった。
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一つは、寛文4年(1664)の庚申塔。
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もう一つは、天保10年(1839)の「地神塔」。堅牢地神(けんろうじしん)を祀ったものですね。
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そして近くにこんなものがありました。
「古式消防ポンプ展示場」とあります。
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こんな説明が貼ってありました。
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置かれてあるポンプ車
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ポンプ車の装飾がすごい。「西八朔 郷社杉山神社」とあります。
このお宮が、地元で大切にされていることがわかります。
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幸いなことに、参道入り口にバス停があり、中山駅行きのバスが日中でも一時間に三本か四本あったので、それで中山駅に戻り、駅前でラーメンを食べ、昼食です。

(続き)


いままでの神社巡拝リストは下記をクリック
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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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