大洗磯前神社(延喜式内社)/茨城県東茨城郡大洗町

20140630

所在地:茨城県東茨城郡大洗町磯浜町

6月27日(金)に歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で、今回から常陸国ということで、このお宮さんにお参りしました。
駐車場でバスを降りて、上に歩いていきます。一の鳥居と社号標のところはバスで通過してしまいました。
浜から上がってくる石段の上の鳥居(三の鳥居?)のところに来ました。
鳥居の向こうに太平洋が見えます。
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式内社:常陸國鹿嶋郡 大洗礒前薬師菩薩(明)神社 名神大社
旧國幣中社
由緒:
当社の創立は「文徳実録」に、斉衡3年(856)12月29日と記されており、創立年代の明確な数少ない神社である。そして翌天安元年(857)8月には官社に列せられ、更に10月には、「大洗磯前薬師菩薩明神」の神号を賜った。そして延喜の制では、式内社(明神大社)に、また明治に入ると国幣中社に列せられるという由緒ある神社である。 現在は神社本庁の別表神社である。
但し、社殿は永禄年間(1558~1570)の兵乱で悉く焼失、その後水戸藩2代光圀公が元禄3年(1690)に造営開始、3代綱篠公の享保15年(1730)再興された。爾来、歴代水戸藩主の厚い崇敬を受けた。

鳥居の次に、左右に石灯篭があります。
先の震災で傷みましたが、不思議なことに一番上の宝珠だけは何ともなかったと、案内の神職さんが話していた。
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「君が代は千代に八千代にさざれ石の巌と成りて苔のむすまで」古今和歌集巻七
を刻んだ石。
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手水舎
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随神門前の狛犬。笠間焼でしょうか。
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随神門
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随神門の前に来た時に、拝殿よりちょっと離れた手前にずっと立っている女性が居た。
祝詞でもあげているのかな、と思った。
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入母屋造の拝殿。
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向拝は千鳥破風、唐破風付
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扁額は「二品親王熾仁書」と記されている。有栖川宮熾仁親王である。
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拝殿前面の彫刻
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拝殿の御幣
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祭神:
・大己貴命:大国主命 (「文徳実録」では大奈母知命)、国土を開発、殖産振興の神。
・少彦名命:(「文徳実録」では少比古奈命)医薬の祖神。万民の病を救う神。
 ※「文徳実録」によると斉衡3年(856)に両神が大洗の里に出現、「東国の人々 の難儀を救うため、この地に帰還した」と記されるが、当時の記録によると度々地震が発生、人心が動揺し国内が乱れており二神はこうした混乱を鎮め、人々を救うために降臨されたと云う意と解される。

神紋は「右三つ巴」と「菊」
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拝殿の後ろに、流れ造、茅葺の本殿。
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社殿の左右に、三つずつの末社が祀られている。
境内右手、本殿そばから、
大神宮(天照皇大神)、静神社(建葉槌命、手力雄命、高皇産霊尊、思兼神)、水天宮(天御中主神、安徳天皇、建礼門院二位尼)。
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そこからの本殿の屋根。
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境内左手、本殿そばから、
八幡宮(玉依比賣命、大帯姫命 応神天皇)、水神社(罔象女命)、大杉神社(大物主命)。
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祭神二柱が降臨したという「神磯」を見に行きます。
二の鳥居からの石段から。眼下に二の鳥居と、その向こうに大洗海岸が見える。
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石段を下に降ります。
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石段下の左右に、文化14年(1817)奉納の狛犬があります。震災の影響か、ずいぶんと傷んでいる。
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二の鳥居の真下から、下って来た石段を見る。
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高さ約13m、幅10mの二の鳥居
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二之鳥居から、車道の向かいの小道を海側へ入ると、大洗海岸に出て、海岸の磯の小島に神磯鳥居が立っている。
この小島は、当社祭神の降臨した磐座で、当社のシンボル。
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神社のパンフレットに載っていた写真が、日の出と波をいっぱいに受けている、とても良い写真だったので、転載しておきます。
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二の鳥に戻り、そこからバスに乗り次のお宮さんに向かいましたが、一の鳥居の下をくぐった時の写真。
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一の鳥居は、以前は木造の神明鳥居であったが、昭和36年鉄筋コンクリート製の明神鳥居となる。設計には「通天閣、東京タワー」の設計者である内藤多仲氏が関わる。高さ約16m、幅13m。扁額は3坪の大きさであり、じっくりと見られなかったのが残念でした。


(続く)


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マスケラード

20140628

昨日、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で常陸国ということで、鹿島神宮などを巡拝してきました。今日はその記事をアップしたいところですが、日曜日に大事な用事があり、今日もその準備に追われているので、下記の記事をアップしておきます。
「関八州式内社めぐり」の記事は月曜からということで。



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系統:HT ハイブリッドティ
作出: 1949年 アメリカ  バーナー 
花形: 剣弁盃状咲き
花色: 赤, 黄, 複色
花径: 中輪
香 り: 微香
開花性: 四季咲き

フロリバンダ系の変化花(開花時は黄色、開くにつれて燈桃色、開ききる頃には緋紅色に変化する)の歴史的な第一号です。

花名のマスケラード(意味:仮面舞踏会)はぴったりですね。

名前の由来 一般名詞 : 「仮面舞踏会」という意味です。
イメージ 華やか; 明るい


2001年5月06日 向丘遊園にて


オオシマヤタテ(大縞矢立)

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科 目 :ふでがい科
収拾者 :父
採取場所:不明(沖縄と推察)
採取日 :不明(1936年以前)

分布:本州中部以南、インド・太平洋域
生息場所:潮間帯の岩礁や珊瑚礁の上

生貝は、深緑の色合いだそうです。

殻は螺塔低小で体層は大きく、表面は殆ど平滑で体層底部に僅かの螺脈を見る。黒地に白色の細縦線を縞状に並べる。殻口は狭まらず軸唇上に4個のヒダがある。外唇内縁に小歯を刻む。外唇内側の突起は無い。

縦線の間隔は個体によってさまざまだが、他のヤタテとの判別のポイントとなる横線が一本だけ入る。
軸唇上に4個のヒダがある。
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外唇内縁に小歯を刻む。外唇内側の突起は無い。
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一夢庵風流記/隆慶一郎

20140623

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以前、「花の慶次」という漫画を拾い読みしたときに、前田慶次郎という前田利家の甥が居ることを知った。
それ以降、なかなかの風流人とも、なかなかの「いくさ人」だとも断片的に知ったことがある。
それで、この本を読んで見た。
私は、隆慶一郎という作家の本は初めてだった。
読んで見たら「伝奇ロマン」ものだった。
こういう本は嫌いではない。好きな方だ。

ただ、動機が前田慶次郎を知りたいと思い読んだので、事実のほうもきちんと把握しておきたいと思って、この本を読んでから、Wikipediaに載っていることと比較してみた。
だから内容の紹介と一緒に、事実的なものも述べておく。

舞台は戦国時代末期。織田信長に仕え「槍の又左」と呼ばれた前田利家には兄利久がいた。その兄の養子が本作の主人公前田慶次郎(前田利益)である。愛馬・松風との出会い、親友・直江兼続との出会い、朝鮮斥候の任務などを中心に、天下御免の傾奇者として知られた前田慶次郎の活躍を描く。

前田慶次郎利益(利太とも書く)は滝川左近将監一益の従兄弟(甥ともいう)滝川儀太夫益氏の子である。尾張荒子城主・前田利久の養子になり、当然その跡目を継ぐはずだったが、織田信長の命により荒子城の主は前田利家に譲られることになった。
慶次郎は人生の出発点でけつまずいたことになる。これが彼を「無念の人」とし、後の傾奇者としての人格形成に大きな影響を及ぼしたであろうことは、想像に難くない。
これは、織田信長が旧守勢力林佐渡守の勢力を削ごうとして、子飼いの利家を無理押ししたせいだ。
信長の行政手腕の一コマである。

前田慶次郎の名前は複雑である。複雑な人生を送ったことを物語っている。
Wikipediaによれば、通称は宗兵衛、慶次郎、慶二郎、啓次郎、慶次など。諱は利益の他、利太(としたか)あるいは利大(としひろ、としおき)、利貞(としさだ)、利卓(としたか)など複数伝わっている。現在の歴史本などでは利益、又は利太と表記する事が多いが、本人自筆のものでは啓二郎(前田慶次道中日記)、慶次(倉賀野綱秀宛書状)、利貞(亀岡文殊奉納詩歌、本人旧蔵とされる徳利)のみ。本人自筆の物以外での当時の史料として伝わっているものは、慶二(前田利家からの書状)、利卓(野崎知通の遺書)。利益、利太、利大の表記に関しては二次史料以降のものに記述が見られる。また浪人時代は「穀蔵院飄戸斎(こくぞういん・ひょっとさい)」「龍砕軒不便斎(りゅうさいけん・ふべんさい)」と名乗った。『鷹筑波』『源氏竟宴之記』によると「似生」と号し、多くの連歌会に参加した。

天正9年(1581年)頃、信長の元で累進し能登国一国を領する大名となった利家を頼り仕える事になる。利家から利久・利益親子には7千石が与えられた(その内利久2千石、利益5千石)。

四年後、養父の利久が死に、慶次郎と前田家のつながりがほとんど切れた。
慶次郎は秀吉の九州遠征に参加を許されなかった。慶次郎のあまりの剽悍ぶりが前田家中で評判が悪かった。馬小屋では甲高いいななきの声が起きた。慶次郎が伴侶のように愛している松風という悍馬の声である。
家老の奥村助右衛門が慶次郎を訪ねてきた。慶次郎は金沢を離れるつもりになっていた。それを察した奥村は利家と別れの茶会を持てという。
そこで起こるのが「水風呂事件」
Wikiの逸話集から。
慶次郎(利益)は利家に「これまでは心配かけてしまい申し訳ありませんでした、これからは心を入れ替え真面目に生きるつもりでございます、茶を一服もてなしたいので自宅に来て頂きたいと思います。」と申し入れた。利家は慶次郎が改心したと喜び、慶次郎の家を訪ねると利益は「今日は寒かったので、茶の前にお風呂はどうでしょうか?」と利家に勧めた。利家は「それは何よりのご馳走だ」と承諾し慶次郎と風呂場へ向かった。利家が衣を脱いでいると、先に慶次郎が「丁度良い湯加減です」と言いその場を去った。利家がそれを聞き湯船に入ると氷のような冷水であった。これには温厚な利家も怒り「馬鹿者に欺かれたわ、引き連れて来い」と供侍へ怒鳴ったが、慶次郎は愛馬松風(利家の愛馬「谷風」ともいう)へ乗って無事に国を去った。利益の逸話の類で最も有名なのが、この水風呂の逸話であるが、初出は江戸時代後期の随筆集「翁草」であり信憑性は低い。また翁草では「利家が浴室にむかうと」との記述であったが、後年「常山紀談」などで「湯船に入ると」に脚色されている。

金沢を出奔した慶次郎は京都で浪人生活を送る。
天正十六年、慶次郎は遊び暮らしたようだ。慶次郎の遊びは風雅の道である。記録によると、一条関白兼冬、西園寺右大臣公朝の屋敷に出入りし、三条大納言公光について、源氏物語と伊勢物語の講釈を聞き、その伝授を受けたといわれる。茶を千宗易に学び、和歌・連歌、乱舞・猿楽、笛・太鼓まで一流の腕だったと「上杉将士書上」にある。

傾奇者の間で有名になってしまった慶次郎。決闘を挑む輩が後を絶たない。こうした中での事件がきっかけで、慶次郎は直江兼続と知り合うことになる。そして、慶次郎はすっかり直江兼続に惚れ込んでしまった。三日とあけずに訪問するようになった。

上杉が佐渡を討伐する軍を動かすと聞いて、慶次郎は越後まで押しかけた。押しかけの助っ人である。
この佐渡の合戦から一年経って、慶次郎は京に戻っていた。そして、秀吉による北条攻めが始まろうとしていた。
北条をたいらげ、天下は秀吉のものになった。
太平の世になるはずだったが、秀吉は明征服を標榜し始める。そのため、朝鮮との交渉が始まった。そして、その朝鮮の実情を知るために慶次郎が送り込まれることになった。
慶次郎は自分を狙う刺客・金悟洞を捨丸の時同様に手なずけ、神谷宗湛がつけてくれた案内人弥助とともに朝鮮を見て回った。

そこで、この小説の白眉、朝鮮の美姫と知り合う。
滅びてしまった伽耶の姫であり、伽耶琴の名手であり、すこぶる美人である。
相愛の仲となり日本に連れ帰る。

WIKIに載っているが、関ヶ原の戦いの翌年、慶長六年(1601年)に京都の伏見から米沢へ下向した時の事跡を自ら日記に記している(前田慶次道中日記)が、和歌や漢詩、伝説に対する個人的な見解がちりばめられるなど、高い教養をうかがわせる。道中日記の記述から、少なくとも三人の朝鮮人を召使いとして従えていたことが分かる。その親が病にかかってしまったため、菩提山城の城主(竹中重門か)に書状を送って預け、子二人と旅を続けた。この時利益は「今日まではおなじ岐路を駒に敷き立ち別れけるぞ名残惜しかる」と詠み、別れを悲しんだ。なお、父親が預けられたとされる菩提山城(垂井町)にほど近い養老町には利益に関する伝説が残り、「前田の碑」が建っている。

実際、前田慶次郎が朝鮮に行ったときに現地の人と深い交流があって、事情があり日本に連れ帰った事があったのだ。

ただ、前田利家と「まつ」をもうちょっときちんとした人間に書いて欲しかった。前田慶次郎が「割りを食った」原因の人であるから、この本でこんなふうに書くのも仕方ないかもしれないが・・・・・・・
百二十万石を勝ち得て守った二人なのだから。


小野神社(延喜式内論社)/東京都多摩市

20140621

所在地:東京都多摩市一ノ宮1-18-8

17日(火)に府中の小野神社参拝の後、中河原駅から聖蹟桜ヶ丘駅まで移動し、多摩の小野神社に向かいました。

京王線聖蹟桜ヶ丘駅から歩いていくと、大きな木が二本ありその下に何か碑があるので、見に行きました。
「一ノ宮渡し」とあります。
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現在はけっこう多摩川から離れた場所ですが、昔はこの辺を多摩川が流れていたのでしょうか。
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小野神社には、歩いて6、7分でした。
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社号標
式内社 武蔵國多磨郡 小野神社、武蔵國一宮、旧郷社
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当社は安寧天皇一八年二月初末の日御鎮座と伝えられ武蔵国開拓の祖神である天下春命(あめのしたはるのみこと)を主神として御奉祀申し上げて居る由緒ある神社である。御社名は上代此地の呼び名であった小野の郷に由来するものであるが其の霊験の灼かなる神社としてやがて朝廷の上聞にも達せられ数々の奉幣にも預かり元慶八年七月には正五位上の神階を授けられた。又、廷喜式が撰せられた折には武蔵国八座の一社として登載された。且つ国府の近在なることに由いて国司や住民の崇敬も殊の他篤く総社六所宮創建の砌には東殿第一次の席を与えられて一之宮と称された。然して当社の社伝には永承六年源頼義陸奥守に任せられて下向の途次其子義家と共に参籠され太刀一振りと詠歌一首奉納の事績が繙かれ吾妻鏡にも養和元年四月一宮は吉富井蓮光寺と併記され更に建久四年八月の刻印ある経筒の銘に一宮別当松連寺が記録されている。稍時代も下り安居院の神道集並に深大寺の僧長弁の私案抄を尋ねると当社は中世以来文珠菩薩を本地となした信仰も行われていた。斯くなる所此の近在は鎌倉末より戦国時代にかけて度々の戦乱や多摩川の氾濫があり当社にも多大の被災が及び衰微したが徳川二代将軍により造営再興された。
其の棟札に曰く
一宮正一位小野神社造営再興
慶長十四年十二月廿六日
当将軍源朝臣秀忠公
神主 新 田 大 炊 介 守 忠
太田太郎左衛門久忠
以下慶安元年御朱印壱拾五石を給わる。文政となり新四国八十八ヶ所の四十八番札所となり巡拝者も多く有りて維新に至る。明治元年神仏分離令により文珠菩薩を眞明寺に御移する。同六年十二月郷社に列せられ同二十一年内務省より古社保存として一金百円也下附さる。同四十三年旧一之宮村有地弐拾町七反余当社資金に充つる為奉納さる。大正一五年三月三十日近隣の失火により御神体及び一部の神宝と鳥居を除き神殿等悉く類焼す。昭和二年御本殿、拝殿の再建成り社務所を附す。同三五年大国魂神社五月五日の大祭に就き当社神輿の渡御は古式の変更また道路事情等にて而今中止となる。同三九年旧氏子により社務所を新築奉納され随身像御修復の計画に始まって随身門の再建成り且つ御本殿、拝殿を後方期の風致林に御遷座して境内を拡大。同四九年春末社の再建成り更に秋の例大祭を期して随身を同門内に御安置申し上げ依って記念の大祭を執行。茲に是を記念して此の碑文を誌す。
昭和四九年九月吉日
(小野神社HPより)

鳥居
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随神門前の狛犬
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随神門
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彫刻がすごい。
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随神
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門の通路の左右の上には、風神雷神が。
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妻側の彫刻
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木鼻の彫刻は、魚を波で包んだ、凝ったもの。
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近くに、もう一つの門があったので、そちらに回った。
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こちらにも社号標がある。
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「南門」とある。
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随身かと思って覗いたら、大きな狛犬があったので、吃驚した。
格子から、ほとんどが無いので、写真はうまく撮れない。
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置いてあった札には、こう書かれていたので、中国の狛犬である。
狛壱對中国之産
旧在日本軍旅営
従郷民將蘇息矣
祝国交献小野社
昭和五拾四年巳未正月

手水舎
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参道は真っ直ぐ
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拝殿前の狛犬
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流れ造りの拝殿
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ご祭神は、天下春命、瀬織津比咩命、伊弉諾尊、素盞嗚尊、大己貴大神、瓊々杵尊、彦火火出見尊、倉稲魂命
となっているが、伊弉諾尊以下の神様は、何かの理由があって追加されたものの、
中心は、天下春命、瀬織津比咩命と思われる。
この二神については、府中小野神社のところで詳細に述べたので省略します。

拝殿の写真を撮りはじめた時に、参拝に来た女性が朗々と祝詞をあげて参拝していた。思わず聞き惚れた。
どこかのお宮の神職の方なのだろうか。
刺激を受けて、帰ってからネットで祝詞を収集してみた。

拝殿から距離をおいて三間社流れ造りの本殿がある。
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神紋は「十六菊」
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武蔵国一之宮は氷川神社だと思っていたが、式内社めぐりを始めて小野神社も武蔵国一之宮と知った。
氷川神社自体も「武蔵一宮 氷川神社」の社標を掲げている。
調べてみると、
氷川神社を一宮とする史料 『大日本国一宮記』(室町時代)
氷川神社を三宮とする史料(この場合、一宮は小野神社に比定される) 『神道集』(南北朝時代)
上記を基に、室町時代以降に氷川神社が小野神社に替わって一宮の地位を確立したようである。
『延喜式神名帳』には「氷川神社:名神大社、小野神社:小社」と記され、平安中期にはすでに社格の逆転があったと考えられる。
しかし現在のところ、中世まで氷川神社を一宮とする資料は見つかっていないそうだ。
武蔵国総社の大國魂神社(六所宮)では国内の一宮から六宮までを「武州六大明神」として祀っているが、ここでは「一宮:小野神社、三宮:氷川神社」を公式としている。

とまれ、現在氷川神社は勅祭社であり、小野神社は神職も常在しない状況となっている。

境内に収蔵庫があり、「木造随身倚像」が収蔵してある。
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都内では、室町時代以前の随身像は数少なく、また武蔵一宮小野神社の歴史を伝える数少ない資料のひとつとして貴重な文化財である。(東京都教育委員会)
とのことなので、ネットで写真を探してみた。
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境内社に移ります。
随神門の横にあった、「稲荷大神宮」と社額がかかったお稲荷さん。
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北側に境内社がまとめて祀られている。
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伊勢神宮内宮(天照皇大神)、伊勢神宮外宮(豊受大神)、三嶋神宮(事代主命)、八坂神社(須佐之男命)、愛宕神社(軻遇突智命)、安津神社(日本足彦國押人命)、日代神社(大足彦忍代別命)、鹿島神社(武甕槌命)、子安神社(木花開耶姫命)、厳島神社(市杵嶋姫命)、方便神社(鹽土老翁命)、堰宮神社(水分神)である。

その横に、秋葉大権現は単独に祀られている。
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そして、絵馬掛け所の横にあったのが、この石。
「牛」? 「ひよこ」?
それとも窪みがハートだから?
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小野神社(延喜式内論社)/東京都府中市

20140620

所在地:東京都府中市住吉町3-19-3  

17日(火)に大國魂神社のあと、京王線で中河原駅に移動し、小野神社(府中)に向かいました。
中河原駅を降りて陸橋を渡りますが、その上からの眺め。
旧鎌倉街道にあたる国道18号線が、分倍河原からやってきて右から合流します。
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旧鎌倉街道はこの辺から真っ直ぐ聖蹟桜ヶ丘駅の方向に進んで多摩川を渡ったみたいです。
陸橋から降りてちょっと歩くと合流点。ここから進んでいくと新田義貞軍と鎌倉幕府勢が激戦を繰り返した分倍河原古戦場があります。
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中河原駅から歩いて6.7分で小野神社に到着。
手前が公園で、奥が小野神社。
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社号標
式内論社 武蔵國多磨郡 小野神社、旧郷社
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創祀年代は不詳。式内社・小野神社の論社の一つ。
多摩川をはさんだ多摩市に、同じく小野神社があり、そちらは、武蔵国一宮。同じく式内社・小野神社の論社だ。現在は多摩市の方が有力で、境内も広く社殿も立派だが、確たる証拠があるわけではないようだ。
多摩川の氾濫により社地が移動し、遷座を繰り返した結果、二社になったとする説があり、また、府中市は元社で、多摩市に遷座した跡とする説もある。
多摩市の小野神社が武蔵国一宮として江戸幕府の保護を受けたのに対し、当社は近くの武蔵国総社・六所宮(大國魂神社)への崇敬が高まるにつれて衰微した。
1873年(明治6年)郷社に列格した。大正15年火災で炎上し、現在の社殿はその後再建されたものである。

三代実録の光孝天皇元慶八年(八八四)七月十 五日癸酉の條に、「授二武蔵國……従五位上小野神正五位 上一。」とあるが、この小野神が、どこの小野神をさすかは 明白となっていない。式内社の小野神社には二社の論社が ある。すなはち、多摩川の中流をはさんで左岸と右岸にそれぞれ小野神社が鎮座しており、互いに、式内社を主張している。その一社は一ノ宮の小野神社、で、今一社は住吉町の小野神社(小野宮)である。両社とも創祀を安寧天皇 十八年二月と伝えている。たとえば、正和二年(一三一三) 秋七月、神主澤井佐衛門助藤原直久の誌した、『式内社小 野神社由緒』によると、次のようにある。
人皇三代、安寧天皇ノ御代、御鎮座、祭ル所天下春命大神也、此御神ハ、神代ニ有テ、天孫饒速日命、始テ 河内國土哮ケ峰ニ降臨ノ時、天上ヨリ供奉随身シ玉フ 三十二神ノ中、一神ニマシマシ、出雲臣祖、二井諸忍野神狭命ノ十世兄武日命、始テ此懸ノ國造ト成玉フ 時、御祖神タル故、此地ニ勧請鎮守トナシ給フ、

境内に建っている「小野宮廟碑」(寛政七年〈一七九五〉九月、鳩谷孔平信敏撰、)や 『武蔵國総社六所宮縁起並社傅』(寛永元年〈一六二四〉 五月、猿渡盛道編)なども、上記と大同小異の内容で当社の創祀について述べている。

鳥居
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手水舎
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狛犬
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拝殿
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社額
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拝殿の後ろに、門を介して本殿がある。
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本殿
傷んだところを、新しい木で修理してある。
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御祭神:天下春(あめのしたばる)命 、瀬織津比賣(せおりつひめ)命
ただし、『江戸名所図会』に「瀬織津比咩 一座」とあり、本来の祭神だと思われる。

天下春命は、八意思兼神の御子神で、饒速日命が天磐船に乗って天降った時、護衛として随従した32柱の神の1柱。
知々夫国造(ちちぶのくにのみやつこ)の先祖とされる。また大伴部氏の祖ともいわれる。

瀬織津姫(せおりつひめ)は、大祓詞に登場する神である。瀬織津媛・瀬織津比売とも記載される。古事記 日本書紀には記されない神名である。
祓戸四神の一柱で災厄抜除の女神である。神名の名義は川の早瀬の穢れを清めるとある。祓神や水神として知られるが、瀧の神・河の神でもある。その証拠に瀬織津姫を祭る神社は川や滝の近くにあることが多い。
これは、治水神としての特性で、日本神話や外来神に登場する多くの水神の特徴にも一致する。日本神話では龗神や闇罔象神等(他にも廣瀬大社の若宇加能売命)が、外来神では吉祥天・辯才天がこの特徴を持ち合わせている。
瀬織津姫の名は記紀には記されていないが、『ホツマツタエ』では日本書紀神功皇后の段に登場する撞賢木厳之御魂天疎向津媛命と同名の向津姫を瀬織津姫と同一神とし、天照大神の皇后として、ある時は天照大神の名代として活躍されたことが詳しく記される。
瀬織津姫は天照大神と浅からぬ関係がある。天照大神の荒御魂(撞榊厳魂天疎向津姫命(つきさかきいつみたまあまさかるむかつひめ))とされることもある。兵庫県西宮市、西宮の地名由来の大社である廣田神社は天照大神荒御魂を主祭神としているが、戦前の由緒書きには、瀬織津姫を主祭神とすることが明確に記されていた。廣田神社はかつて六甲山全山を領地としていたが、六甲山は元は向津(むかつ)峰と呼ばれ、それが武庫(むこ)となり、江戸時代ごろより六甲(むこ)と表記され、明治以降「ろっこう」と音読みされるようになった。『元亨釈書』には空海とともに神呪寺を創建した淳和天皇妃、如意尼=真名井御前の眼前、六甲山・甲山に廣田神社祭神が出現されたことが記されている。[1]吉田東伍も『大日本地名辞書』広田神社の項(p594)に、祭神名への考察として「向津は武庫津というに同じ」と指摘していることもあり、祭神向津姫の名前が六甲山の山名由来とも考えられる。その裏付けともいえるのが、山頂付近に鎮座し、山名の変遷と共に祭神名を変更してきたと思われる六甲比命神社(ろっこうひめじんじゃ)の壮大な磐座である。
 そして、祓神としての関連で『中臣祓訓解』『倭姫命世記』『天照坐伊勢二所皇太神宮御鎮座次第記』『伊勢二所皇太神宮御鎮座伝記』は伊勢神宮内宮の別宮の荒祭宮祭神の別名を瀬織津姫、八十禍津日神と記し、平田篤胤は八十禍津日神を大禍津日神・大屋毘古神とも同神としている。伊雑宮御師である西岡家に伝わる文書において、祭神「玉柱屋姫命」は「玉柱屋姫神天照大神分身在郷」と書かれ、同じ箇所に「瀬織津姫神天照大神分身在河」とある。両神はつまるところ同じ神であると記されている。
その他では宇治の橋姫神社では橋姫と習合(同一視)されている。祇園祭鈴鹿山の御神体は鈴鹿権現として、能面をつけ、金の烏帽子をかぶり長刀と中啓を持つ瀬織津姫を祀る。伊勢の鈴鹿山で人々を苦しめる悪鬼を退治した鈴鹿権現の説話に基づく。  

神紋は「右三つ巴」
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「小野宮廟碑」(寛政7年)
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倉庫に神輿と大太鼓がある。
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本殿の裏に、境内社の稲荷神社がある。
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これで、府中の小野神社参拝を終え、中河原駅に戻り聖蹟桜ヶ丘駅まで移動し、多摩の小野神社に向かいました。


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ロビ第62号&63号組立/ロボット「ロビ」

20140620

【第62号】
第62号で紹介されているロボットは、東京農工大学水内研究室で開発された2体のロボット「buEnwa(ブエンワ)」と「鳥脚(とりあし)」。
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いずれも人間や鳥の筋骨格を参考にしたもので、空気圧で駆動する人工筋肉で動く。
空気圧で動かす場合コンプレッサーが必要で、従来は本体とは別にコンプレッサーを設置していた。
この二体の場合は、コンプレッサーの機能も本体に搭載している。
ブエンワ(左側)は、バック転をすることを最終目標として開発を続けている。ジャンプはかなり出来るようになっている。
一本足の「鳥脚」は、自立は出来ないが、より高圧でより効率的に空気圧を運用することが出来るようになった。ジャンプは素晴らしいものがある。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① 頭部を分解する
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② 目の内側にシルバーシールを貼る
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③ 人感センサーにセンサーホルダーを取り付ける
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④ 人感センサーを目に取り付ける
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⑤ ヘッドフレームを取り付ける
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完成状態
一つの人感センサーと、ヘッドフレームが取り付けられた。
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【第63号】
第63号で紹介されているロボットは、日産自動車が開発した「エポロ」。
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もちろん自動走行を見据えて、システムを開発するツールである。
群走行できるロボットであり、参考にしているのが「魚の群れ」。近くに居る時はぶつからないように進む方向を変えて衝突を回避し、少し離れている時は仲間と一定の距離を保ちながら速度を合わせて走行し、離れすぎた時は仲間に接近しようとする。
作り上げたエポロを一列に並べて走行させたところ、きっちり並ぶことが無く、ゆるい群れのようになったという。
これは、各種センサーなどが、許容される誤差の範囲内だがばらついているためだという。
円形のコースを廻っている5体のエポロ。或る程度ばらけている。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① 目の内側にシルバーシールを貼る
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② 人感センサーにセンサーホルダーを取り付ける
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③ 人感センサーを目に取り付ける
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完成状態
これで両方の目に人感センサーが取り付けられた。
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大國魂神社(延喜式内論社)/東京都府中市

20140618

所在地:東京都府中市宮町3-1

個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、今回から「多摩郡八座」を開始しますが、17日(火)に大國魂(おおくにたま)神社、小野神社(府中)、小野神社(多摩)を巡拝しました。
京王線府中駅で降り、6、7分歩くと、大國魂神社の入り口に来ました。鳥居の前に大きな欅が聳え、ここまで欅並木が延びていました。私は違う道を来たので、帰りに欅並木を通ることにした。
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大きな社号標と鳥居があります。
式内論社「武蔵國多磨郡・大麻止乃豆乃天神社(おおまとのつのてんじんしゃ)」、旧官幣小社、武蔵國総社
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創祀年代は、人皇第12代景行天皇41年(111)年5月5日。大神の託宣によって創立。
出雲臣天穂日命の後裔が武蔵国造に任ぜられて以後、代々の国造が奉仕し祭務を司ったといわれている。
その後、孝徳天皇の御代に至り、大化の改新(645)の時、当地に武蔵国府が置かれ、当社を国衙の斎場とし、
国内の諸神を配祀して武蔵総社と呼ばれた神社。
中殿に、大國魂大神・御霊大神・国内諸神を祀り、東殿に、小野大神・小河大神・氷川大神、西殿に、秩父大神・金佐奈大神・杉山大神と、武蔵の一宮から六宮までの六社を東西に祀っており、六所宮・六社神社とも呼ばれている。
明治に制定された准勅祭社の一社。また、式内・大麻止乃豆乃天神社として、式内論社となっている。

狛犬
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鳥居をくぐると、右手に稲荷神社。
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広い参道が延びて、気持ちがいい。
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右手に「武蔵国府跡」という碑があった。
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中央から国司が任地に到着して最初にやることは、その土地の人々が信奉する神社に参拝することである。
その順番を決めねばならないから、一之宮、二之宮、三之宮と決まっていた。
武蔵の国は大変だ。小野神社(一宮)は近くて良いとして、二宮神社(小河神社)はあきるの市、氷川神社(三宮)は大宮、秩父神社(四宮)、金鑚神社(五宮)は埼玉県児玉郡神川町、杉山神社(六宮)は横浜である。

何処の国でもそうだが、やがて国府の近くに「総社神社」を設けて、参拝を楽にしたのだ。

「ふるさと府中歴史館」があったが、入らなかった。再訪すべし。
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「武蔵国府跡」の碑の奥に、「府中小唄」の碑が。
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この唄に詠み込まれている所だけでも、再訪したいと思った。

参道の左手にあったのが、「宮乃咩神社」
大國魂神社と同じく、第12代景行天皇の時代から祀られているという摂社です。
ご祭神は天鈿女命。安産の御神徳で有名。
宮乃咩神社例祭で「青袖・杉舞祭」があり、この祭は源頼朝が文治2年に武蔵国中の神職に命令して、天下泰平の祈願を行うべき旨の指示があり、国中の神職が毎年参会して、12日の夜より13日の朝まで終夜舞楽を奏した。
先ず宮乃咩神社に於いて、舞人が青袖の舞衣を着用して神楽舞を舞い、その後御拝殿にて笛太鼓に合わせて舞うので青袖祭と言い、13日の朝に至り、拝殿に於いて杉の小枝を手草として舞うので杉舞祭という。
しかし現在は祭典及び神前舞のみで、国中の神職は参加しない。
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ものすごく立派なので驚きました。手水舎。
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彫刻がすごい。龍が6頭、麒麟、獏、獅子、霊亀・・・・・
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吐出口も龍が二頭。
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随身門の手前左右に、寛政7年(1795)の常夜燈がある。
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中台の龍の彫刻が気に入りました。
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随神門
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随神門前の狛犬が天保10年(1839)奉納で、味があります。
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向かって右手は、府中番場宿の箱屋の奉納。
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左手は、府中新宿の東屋の奉納。
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随神の「豊磐間戸命」
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随神の「櫛磐間戸命」
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随神門をくぐります。
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内側には、大国さんと恵比須さんが。
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入ってすぐ参道の左に「鶴石」
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右に「亀石」
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この「鶴石」、「亀石」については、神社のパンフレットの境内図にも、ポチッと丸は書かれているが、その丸の説明は無い。現場にも説明は無い。
調べていると、下記サイトに興味深い記述がありました。
郷土の歴史を考える


鳥居の前身と云われる鶴石、亀石とあり、出雲大社も背後を鶴山・八雲山・亀山に囲まれているとある。
この神社の主祭神が、出雲大社と同じなので納得。
それと、後で述べるが、祭神と「千木の削ぎと鰹木の数」が合わない問題にも色々と考察されていて、貴重なヒントをいただいた。

右手に宝物殿。
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閉まっています(泣)
見ると、土曜・日曜・祝日に開館と。
これにはショックでした。見たいものがあったのです。
それは、国指定重要文化財、鎌倉時代初期造立の伝運慶作とされる「木製狛犬」です。
私が見た中で、一番古いのは碓氷神社にある平安時代作といわれる石造狛犬で、それに次ぐ古さとなります。
再訪を期し、ここではパンフレットの写真を転載しておきます。
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宝物殿の隣に神楽殿。
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参道の反対側には、鼓楼。
慶長年間に、三重塔と相対して建てられたといいますから、神仏分離の後、こちらだけ残ったということですね。
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中雀門の手前に茅の輪が設けられていました。
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私も、8の字に三回くぐって、無事をお祈りしました。
私がやっていたら、お婆さんがやってきて、どっちからするんだっけ?と聞いてきました。左足から左廻り、右足から右回り・・・・」と云ったがマゴマゴしていた。そしたらその後から若い女性がやってきて、教えながら一緒に回り始めたので、私は助かった(笑)

中雀門の前の獅子山は、天保10年(1839)奉納のもの。
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中雀門
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中雀門を入ると立派な社殿が。
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拝殿は、切妻造、千鳥破風。
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社額は「総社大神宮」とある。
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御祭神は、
中殿に、大國魂大神、 配祀として御靈大神と国内諸神
東殿に、小野大神(一宮)、小河大神(二宮)、氷川大神(三宮)
西殿に、秩父大神(四宮)、金佐奈大神(五宮)、杉山大神(六宮)

「大國魂大神」は大国主命の別名である。
WIKIでは「大國魂大神(おほくにたま)・顕国玉神・宇都志国玉神(うつしくにたま)- 根国から帰ってからの名。国の魂」となっている。

御靈大神は、よくわからないらしい。
まずは御霊信仰によるものと、考えられる。無念を抱いて死んだ人が怨霊となるのを慰めて防ぐというもの。
また御旅所において御霊宮に備える神饌が八つであることから、素戔嗚尊だとも言われるそうだ。 というのは素戔嗚尊には八人の王子が居たからだそうで、東京の八王子の名の由来もここから来ているという。
八王子権現=牛頭天王(ごずてんのう)で、この牛頭天王は素戔嗚尊と同一とされることから、上記のような解釈はうなずける。
江戸名所図会等の資料によると、六所宮には大己貴命の父祖の神として素戔嗚尊を合わせ祀るという記述が有るそうだ。
それから代々大国魂神社の宮司家を務める猿渡氏が大正時代に書いた「武蔵国府名蹟誌」に、「古老の伝説に下女郎ともいいて、本宮大國魂大神の妃神なる由伝ふれど、今確証なければ、之を詳にすること能ず。」 と、書いてあるそうで、それによれば、御靈大神は大国主命の后神ということになる。

この大國魂神社の主祭神は、いずれにしても大國魂大神(大国主の命)だととれるのだが、腑に落ちないことがある。
それは本殿の千木が内削ぎ(平削ぎ)で、鰹木の数が偶数なのだ。
これは女性の神を祀っている場合なのである。
どうしてなのだろうか?

神紋は「十六八重菊」です。
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拝殿の横から本殿に向かいます。
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本殿は、一棟三殿の造りです。
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千木と鰹木(本殿の後ろから撮ったもの)
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ここには、金と銀の狛犬が侍っている。
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続いて境内社にお参り。
水神社
大国魂神社の井戸で、ここの御神水は地下約120メートルから汲み上げられている。
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松尾社
祭神は大山咋神。
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巽神社
祭神は市杵嶋姫命
元は市川にあった「市神社」。その社を大國魂神社の本殿から辰巳(南東)の方向に遷座し「巽神社」と改称した。
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ここの狛犬が、なんともキュート(笑)
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本殿の後ろを通って反対側の角にご神木の大銀杏が。
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小さな建物を除いてビックリ(笑)
神馬舎でした。
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東照宮
祭神はもちろん、徳川家康公。
徳川秀忠による造営。家康の死後、駿河国久能山により下野国二荒山に祀り直された時に、武蔵野国府の斎場で一夜を明かした遺跡を後生に伝える為に造営された。
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ここの狛犬は、寛保2年(1742)奉納の、かなり特異なものです。
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住吉神社と大鷲神社が一棟二殿で祀られていた。
住吉神社:本社は大阪市の住吉大社。
祭神は、表筒男命、中筒男命、底筒男命
大鷲神社 (おおとりじんじゃ) :本社は堺市の大鳥大社。
祭神は大鷲大神。
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ここの狛犬は、不思議なことに両方ともに吽形である。
これは角があるから狛犬だが、本来なら神前から見て右に置かれるところ、左に置かれている。
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こちらは、獅子で、本来は阿形なのだが。
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合祀される際に、夫々の片方が置かれたものか?

一巡して、拝殿の前に戻ると、巫女さんがあちらに歩いていった。
後ろ髪の水引が美しかったので、撮りました。
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参拝を終わって、大鳥居まで戻ってきました。
欅の巨木が左右にあります。
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参道には欅(ケヤキ)が植えられていますが、これは、源頼義公・義家公親子が「前九年の役」戦勝お礼に欅の苗千本を寄進し、徳川家康がまた捕植したことによる。 東京都立農業高等学校手前のけやき並木北交叉点まで伸びる「ケヤキ並木」は、正式には「馬場大門のケヤキ並木」といい、大正13年に日本で2番目の天然記念物として指定されており、ケヤキ並木としては日本で唯一の天然記念物である。
「馬場大門」の名は、徳川家康が馬場を神社に寄付したことからきている。
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府中市の文化財というのは、この碑のことであって、ケヤキ並木は国の天然記念物です。

参道の反対側には、万葉歌碑がある。
「武蔵野の 草は諸向(もろむ)き かもかくも 君がまにまに 吾(あ)は寄りにしを」
(作者) 不詳。
(訳文) 武蔵野の草があちこちに靡きます。とにかくも、私は貴方のお気に召すようにひたすら心を寄せていたのに。
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ちょっと通り過ぎてから、銅像に気付き戻った。
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源義家の銅像
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高浜虚子の句碑
「秋風や欅のかげに五六人/虚子」
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京王線「府中駅」まできました。ここにも「天然記念物 欅並木」の碑が。
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まだまだケヤキ並木は続いていますが、私はここで電車に乗り「中川原」まで行って、次の参拝地「小野神社(府中)」に向かいました。


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ロビ第60号&61号組立/ロボット「ロビ」

20140617

【第60号】

第60号で紹介されているロボットは、国内外のロボカップで活躍した「ダイゴロウ」。
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ロボカップはサッカー競技が有名だが、「ダイゴロウ」は日常生活での作業を競う「@ホームリーグ」で、活躍するロボット。
電気通信大学大学院情報理工学研究科知能機械工学専攻知能システム研究室の「ダイゴロウ」である。
たとえば、家の中で「お父さんからはお茶、お母さんからはオレンジジュース、お兄さんからはスポーツドリンクをもって来て」と頼まれた。というお使いのようなものが競技に含まれる。
人の顔を覚え、その人が何を言ったかを認識し、次にジュースのある場所に行き、必要なものを正しく選んで運ぶ。頼んだ人が最初と同じ位置に居るとは限らないので、探さなければならない。
ダイゴロウは、世界大会でも2010年に優勝、2012年に準優勝している。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
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② サーボをテストし、IDを書き込む
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③ IDの書き込みを確認する
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④ 首:横回転のサーボを取り付ける
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⑤ ヘッドスタンドからサーボを取り外す
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⑥ 首:縦回転のサーボを取り付ける
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完成状態
首のサーボがすべて取り付けられた。
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【第61号】

第61号で紹介されているロボットは、前号で紹介した「ダイゴロウ」の妹機「リプロ」。
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ロボカップの「@ホームリーグ」への参加を選定に開発されたため、音声・画像認識、測域センサーを使った自律移動、腕を使った作業などに加え、身長を変更できる。
頭部にWEBカメラを搭載し、操縦者はその映像を装着したヘッドマウントディスプレイで見ながら操縦する。
子供と遊んだりして研究を進めている。

今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボホーンを取り付ける
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② ヘッドベースを取り付ける
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③ 腰と首の動作テストをする
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完成状態
ヘッドベースが取り付けられ、首を動かす機構ができあがった。
動作確認を行い、「オッケー」というロビの声も聞いた。
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靖国神社

20140616

所在地:東京都千代田区九段北3丁目1番1号

13日に、山王まつりということで赤坂日枝神社に参拝し、その後近くということもありお参りしました。
地下鉄で「九段下」まで移動し、そこから九段坂を上がります。

途中、道脇に北斎の「くだんざか・うしがふち」の絵のレリーフが飾られていた。
西洋画の技法を取り入れた風景画の一つ。右側の黄土色の急な坂が九段坂で、かってはゆるやかな九段の段がついていたという。
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大鳥居が見えました。
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社号標
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社格等:旧別格官幣社・勅祭社
元来は東京招魂社(とうきょうしょうこんしゃ)という名称であったが、後に現社名靖国神社に改称された。創建当初は軍務官(直後に兵部省に改組)が、後に内務省が人事を所管し、大日本帝国陸軍(陸軍省)と同海軍(海軍省)が祭事を統括した。1946年(昭和21年)に国の管理を離れて東京都知事の認証により単立宗教法人となった。単立宗教法人(単立神社)であるために神社本庁との包括関係には属していない。

大鳥居の前に、場所はちょっと離れているが二組の狛犬がある。
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大鳥居
境内入り口を標示する第一鳥居は1921年(大正10年)に「日本一の大鳥居」として建てられ、石松秋二作詞の「九段の母」(1939年(昭和14年))に「空をつくよな大鳥居」と歌われもしたが、風雨による損傷の為に1943年(昭和18年)に撤去され、その後、1974年(昭和49年)に鋼管製で再建された。柱の高さが約25メートル、笠木(上の横木)の長さは約34メートルあり、重量は100トン。
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大鳥居から参道が真っ直ぐ伸びている。
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右手に「慰霊の泉」がある。
戦場で水がなくて苦しんだ御霊に対し、水を捧げるために作られた記念碑。東京キワニスクラブが、1967年(昭和42年)に奉納した。
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大村益次郎像
東京招魂社の建立に奔走し場所決定後、暗殺された大村益次郎の銅像。1893年(明治26年)に造られた日本初の西洋式銅像。戊辰戦争の際、司令官として彰義隊が立て籠る上野寛永寺を見つめていた姿を模したもの。
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下にある説明レリーフにあった、明治29年の「靖国神社図」
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大村益次郎像がある位置に、脇からの入り口があり、そこにも鳥居があります。
この石鳥居は1933年(昭和8年)に奉納されたもので、石製鳥居としては京都の八坂神社のものと並び最大級とされる。
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石鳥居の前の狛犬
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ちょうど下校時とみえ、参道が近くの学校の生徒であふれていた。
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大燈籠
日本一の大きさの燈籠。1935年(昭和10年)に富國徴兵保険(現富国生命)が奉納した。九段下駅側から右側の燈籠には日清戦争から満州事変までの旧海軍の戦闘場面が描かれ、左側の燈籠には同じく日清戦争から満洲事変までの旧陸軍の戦闘場面が描かれている。終戦後、GHQによって撤去させられそうになったが免れた。
これは右側のもの。
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第二鳥居
1887年(明治20年)の建立で、大阪砲兵工廠で鋳造された青銅製。現存の靖国神社の全4基の鳥居の内では最も古いものであり、また青銅製の鳥居としては日本一の規模[要出典]である。
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大手水舎
1940年(昭和15年)、アメリカで暮らしていた日本人が奉納したもの。
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神門
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神門を入ったところで、巫女さんとすれ違った。
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三の鳥居と拝殿
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主祭神は、護国の英霊 246万6千余柱です。
幕末から明治維新にかけて功のあった志士に始まり1853年(嘉永6年)のペリー来航(所謂「黒船来航」)以降の日本の国内外の事変・戦争等、国事に殉じた軍人、軍属等の戦没者を「英霊」と称して祀り、その柱数(柱(はしら)は神を数える単位)は2004年(平成16年)10月17日現在で計246万6532柱にも及ぶ(詳細は「祭神の内訳」を参照)。当初は祭神は「忠霊」・「忠魂」と称されていたが、1904年(明治37年)から翌年にかけての日露戦争を機に新たに「英霊」と称されるようになった。この語は直接的には幕末の藤田東湖の漢詩「文天祥の正気の歌に和す」の「英霊いまだかつて泯(ほろ)びず、とこしえに天地の間にあり」の句が志士に愛唱されていたことに由来する。
(Wikipediaから)

神紋は「菊に桜」でした。
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拝殿、本殿と並びます。
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能楽堂
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桜の標本木
気象庁は境内にある3本のソメイヨシノを、東京都での桜の開花日を決定する標準木として指定している。そのため東京都の「桜の開花宣言」はこの標準木が咲いた時に行われている。
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境内で、花菖蒲が展示されていた。
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「いずれがあやめ、かきつばた」という言葉がありますが、その違いがわかりますか?
私は、この間テレビで説明してくれたので、やっと知ったばかりです(笑)
○花菖蒲は花の種類は多く紫系統の他に黄色や白、絞り等、多彩であるがどれも「花弁の根元のところに黄色い目の形の模様」がある。
○杜若はあまり種類は多くないが、「花弁の弁の元に白い目型の模様」があるのが特徴。
○あやめも花の種類は多くないが「花弁の元のところに網目状の模様」がある。

きれいな花が並んでいました。
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惜しい!! カウント

20140615

今日は、朝に地域の「クリーン大作戦」に参加して汗を流し、
サッカーを応援して、悔し涙を流し。

昼食後、ちょっとウトウトして、それからPCを立ち上げた。
そういえば、そろそろではなかったか?

と思って、拙ブログを除いたら・・・・・・・・・

「うわあっ !!」
のけぞりました。
思いっきり惜しいナンバーだった(泣)

密かに狙っていたんです
「345678」を。

そしたら

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一番過ぎていました(笑)

それでも、いままで34万5千ものアクセス、ありがとうございます。
感謝、感謝ですね。

普段は、あまり意識はしていないんです。
のんびりやっているので(笑)
でも、こういう数字の時は、ちょっと意識しますね。

今度は350000ですかね。



赤坂日枝神社・山王祭神幸祭

20140614

昨日、13日に掲題の行事を今年は歴史クラブの行事として参加しました。私が一昨年経験しているので企画は私が立てました。
神幸祭順路は次のようなものですが、私たちが見学したのは「元山王(国立劇場前庭)」での神事と行列の休憩。ここから行列に従って、和田倉門噴水公園横までです。
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心配していた天気も、今朝はカラッと晴れて驚きました。逆に暑さを心配するほどでした。

地下鉄「半蔵門」から歩いてすぐの国立劇場前庭に着いたのが10:15くらいで、行列を待ちました。
待つことしばし、続々と行列が入ってきます。
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役員がかぶっている笠には藤の花が。
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ご鳳輦2基と宮神輿が置かれ、
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しばらくして神事が行われました。
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その後、待ちに待っていた巫女舞「剣の舞」です。一昨年は行われる場所がわからず、飛んでいったときには人垣の後ろで、ほとんど見えませんでした。
なので、今年は良い位置を確保して待ち、動画で撮りました。
これが拙ブログでの初動画アップです(笑)

矢印)をクリックしてください。





それから休憩の様子を少し撮りました。
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ご神馬も美味しそうに笹を食べています。
いいのかな(笑)
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行列が並んで出発するようです。
「諌鼓鳥」
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一昨年に行列のほとんどを撮ってあるので、今年はあまり撮っていません。
行列の全体は、一昨年の記事を見てください。
その記事を読む


「東郷元帥山車」が今年はありませんでした。

私の最初の撮影ポイントは国会議事堂前。

鼻高面(猿田彦)
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獅子頭
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御弓、御胡簫、御鉾、御楯、御太刀
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今年の干支の山車
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続いて、皇居外苑の長い直線道路で撮影。

舞姫
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御鳳輦
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宮神輿
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巫女
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花山車
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美少年山車
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御幣を担ぐ猿山車
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このあいだ、桂宮様が亡くなられたので、皇居での神事は行われないので、行列は坂下門に入ることなく、右折して東京駅の方に向かいました。
一昨年も、5日前に皇族の方が亡くなり、皇居での神事はありませんでした。
再来年に期待しましょう。

これで、今年の神幸祭見学は終了。皇居傍の日陰で持参の弁当で昼食を取りました。
それまで暑かったので、とても風が気持ち良かった。

午後は、日枝神社に参拝ということで、「二重橋門前」から「国会議事堂前」まで地下鉄で移動しました。
天気が急変し、「二重橋門前」駅に入る直前雨が降り出しました。

日枝神社に到着しましたが、ものすごい人出と雨のため、とりうえず宝物館に入り、宝物を見ました。
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「太田道灌像」
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昔の山王祭礼図
ずいぶんと今の山車と違う。この中で今でもあるのは「御幣をかついだ猿」くらい。
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天保13年の「山王御祭礼附祭番付」
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山車人形「土佐坊」
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山車人形「神功皇后」
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山車人形「武内宿祢」
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神宮撤下御神宝
伊勢神宮から式年遷宮で不要になった調度品をゆかりの神社などに贈られたもの。
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伊勢神宮の式年遷宮を描いた絵馬
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稲荷神像(昭和20年作)
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宝物館内を見終わった頃に、雨が上がったので、他の参加者を見どころを案内しました。
私は、東京十社めぐりということで、以前にお参りしているので。
その記事を読む


この日は、山王祭りということですごい人でした。
参拝する人の列、拝殿の前左右に神猿が居ますがそれにお参りする列、すごかったです。

また拝殿前に茅の輪が用意されていました。
これは、今月末の大祓の際にくぐるものですが、既にこの日もくぐる人が居て、八の字に三回廻るので、拝殿に参拝するひとが並んでいるところで茅の輪くぐりをするので、大変そうでした。
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これで、山王祭神幸祭と日枝神社の参拝は終り、近くなのでと靖国神社参拝の提案もあったので、地下鉄を利用して靖国神社に向かいました。
靖国神社については、別記事とします。

(了)


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ロビ第58号&59号組立/ロボット「ロビ」

20140612

【第58号】
第58号で紹介されているロボットは、「ROBO-ONE Light」に出場したロボット。
「ROBO-ONE 」は二足走行ロボットによる格闘技大会であり、10年以上の歴史を誇る。
その中で、「ROBO-ONE Light」は、市販のロボットでも参加できる初心者向けの大会。
重量は1Kgまで、委員会が公認した市販ロボット(20体以上)も認められている。
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上位を占めたのは、改造・自作ロボットで、軽くても素早く移動でき、リーチの長い攻撃ができるロボットが強かった。
優勝したのは神戸市立科学技術高校の、下からすくい上げるようなアームによる攻撃が得意な「零」。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① サーボにサーボケーブルを接続する
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② サーボをテストし、IDを書き込む
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③ IDの書き込みを確認する
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④ 腰のサーボを取り付ける
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完成状態
首とボディが出来上がった
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【第59号】
第59号で紹介されているロボットは、「ROBO-ONE 」に出場したロボット。
二足走行ロボットによる格闘技大会であり、10年以上の歴史を誇る。
参加者が多く、予選を勝ち抜いたロボットによる決勝トーナメントが実施される。
今年2月に開催された第24回にエントリーしたのは96体。
初日の予選は、4.5m走。直線コースを1分以内に走り抜ける。ただし、3ケ所に厚さ2mm以下のゴム製シートが貼られている。

予選を突破した48体のロボット。
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決勝は格闘技。
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今回使用するパーツ
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今回の作業
① ネックサーボホルダーを取り付ける
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② ネッククランプアームを取り付ける
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③ マフラーリンク金具を留める
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④ ヘッドスタンドのサーボにIDを書き込む
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⑤ IDの書き込みを確認する
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⑥ 足裏にフェルトソールを貼る
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⑦ サーボケーブルに保護シールを貼る


完成状態
首に二つのサーボ取り付ける準備が整い、⑥ 足裏にフェルトソールが貼られた。
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島田橋流される

20140611

昨日は、一日バタバタしていて記事に出来なかったが、昨日の朝日新聞朝刊の埼玉版に掲題の記事がわりと大きく載っていた。
「島田橋」と云っても、わからない人が居るでしょうが、「冠水橋」です。
ここには、歴史クラブの行事で、5月23日に「坂戸から川島町を歩く」の際に立ち寄りました。
その記事を読む


昨日の記事で、「やっぱりなあ・・・・・」と今回の豪雨の激しさに納得し、「冠水橋」たる由縁にも納得しました。

載っていた写真を見ると、橋脚だけが残っていて、少し下流の岸辺(右のちょっと上の場所)に橋の上部が引っかかっている。
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記事から抜粋すると、
今回流されたのは、1994年に老朽化のため架け替えられたもので、2010年にはNHK大河ドラマ「龍馬伝」の撮影が行われた。昨年10月の台風27号で橋を支える柱が損傷し、車の通行を禁じ、歩行者だけが渡れる状況だったという。

ここで驚いたのは、かっては車も通っていたということである。
まったく欄干が無いので、この橋を車で渡のには、けっこう勇気が要ったのではないかと思われる(笑)


管理者の坂戸市は、今回も橋を修復する方針だそうです。


エゾボラモドキ(蝦夷法螺擬)

20140608

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科 目 :えぞばい科
収拾者 :父
採取場所:能登半島
採取日 :不明(1936年以前)

エゾボラモドキは水深200メートルよりも深い海に棲み、殻高15センチにも達する大型の巻貝です。冬季に底曳網による漁で、ズワイガニやカレイなどと一緒に獲られています。また、6~8月の夏季には、水深230メートル辺りで行われるバイ籠漁でも水揚げされます。

白バイは無毒ですが、本種を含む赤バイは唾液腺にテトラミンという毒を含み、食べるとめまいなどの中毒症状を起こします。唾液腺を取り除けば、他の部分は無毒なので、食べられます。その刺身は甘くて美味なようです。

エゾボラモドキの特徴は螺肋(巻き貝の周りを回っているひも状の隆起)が顕著でたくさんあること。

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谷根千散歩

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6月4日(水)に、歴史クラブの企画で谷根千を散歩しました。幹事ということで、4/2に下見も行っています。当日案内もしていて、写真を撮れない状況もあったので、この記事には4/2の下見の際の写真も使用しています。

コースは、下記の靑線で、日暮里駅からスタートして、日暮里駅に戻るルートを設定しました。
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まずは、駅から坂を上がって、天王寺です。ここには大仏があります。

【天王寺】
日蓮が鎌倉と安房を往復する際に関小次郎長耀の屋敷に宿泊した事に由来する。関小次郎長耀が日蓮に帰依して草庵を結んだ。日蓮の弟子・日源が法華曼荼羅を勧請して開山した。1641年(寛永18年)徳川家光・英勝院・春日局の外護を受け、29690坪の土地を拝領し、将軍家の祈祷所となる。1648年(慶安1年)日蓮宗9世・日長による『長耀山感応寺尊重院縁起』が唯一の資料である。法華寺から転住した日耀が中興するまでの歴史は不明である。
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「丈六仏」と呼ばれるそうですが、これはお釈迦様の身長が1丈6尺(およそ4メートル85センチ)であることから、その高さに作った仏像を言います。本来、坐像であれば8尺になりますが、この大仏は1丈6尺サイズそのままなのです。
今から300年以上前の江戸時代、元禄3年(1690)生まれ。天王寺の前身、感応寺の住職・日遼が鋳造したものです。
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泰山木(タイサンボク)越しに。
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大きな花が咲いていてびっくりしました。モクレンなどと同じ、属名で「マグノリア」と呼ばれるそうです。
香りも良いので,ゲランや,クロエの香水にも使用されているものがあるようです。
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桜並木通りは、とても気持ちのいい通り。
下見の時は満開でした。
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下見に来て、鬱金桜(うこんざくら)の事を知り、また訪れたときに天王寺のことも記事にしています。下記クリックして読んでください。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1442.html

【谷中墓地】
まず、天王寺五重塔跡
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1957年(昭和32年)谷中五重塔放火心中事件により、五重塔を焼失する。
2度焼け落ちた五重塔です。
最初に五重塔が完成したのは、正保元年(1644)。しかし当時の江戸のまちのほとんどを焼き尽くした、明和9年(1771)の目黒行人坂の火事で焼失してしまいました。しかし、やはり人々にとって、大事なものだったので、寛政3年(1791)には再建されています。総ケヤキ造りで高さ34.18メートル。これが、露伴の小説のモデルにもなった、関東でも一番の高さを誇った五重塔です。
この東京一とも言われた五重塔は、関東大震災も、第二次大戦もくぐり抜けましたが、昭和32年7月9日、心中の末の放火により、またもや火に包まれてしまいました。そしてそれ以来、再建されていません。

当時の写真が貼ってありました。燃えている最中の写真もあり、吃驚した。
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珍しい、墓地の中にある、民家のような交番。
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高橋お伝の墓
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左が横山大観の墓、右が鳩山一郎の墓。
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横山大観の墓
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徳川慶喜の墓
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左が慶喜、右が夫人の墓。
慶喜は華族の最高位である「公爵」を与えてくれた明治天皇に感謝の意を表すため自分の葬儀を仏式でなく神式で行うよう遺言を残したため、慶喜の墓は徳川家菩提寺である増上寺でも寛永寺でもなく、谷中霊園に皇族のそれと同じような円墳が建てられた。京都で歴代天皇陵が質素であることを見て感動したためである」
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渋沢栄一の墓を探して、迷ってしまいました。そのはずです、工事中でした。
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こんな巨大な樹を、場所をずらすためにこんな工事をしていた。弱らなければ良いのだが。
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【下町風俗資料館】
江戸時代から谷中6丁目で酒屋を営んでいた「吉田屋」の建物を移築し台東区が管理する資料館。明治に建てられた建物は江戸中期から明治時代の商家建築の特徴を残す貴重なもの。
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屋内には酒屋時代の内装や看板灯も展示。
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かまぼこ板絵が展示されていた。すばらしい。
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【大雄寺】
勝海舟、山岡鉄舟と共に幕末の三舟と謳われた高橋泥舟の墓があります。
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【谷中のヒマラヤ杉】
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みかどパン店前のヒマラヤ杉はここ一帯のランドマークにもなる巨木。同店初代店主が戦前から鉢植えで育てたのが、こんなに大きくなった根性のヒマラヤ杉。

みかどパン店も健在
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【大名時計博物館】
「大名時計」は美術工芸品として作られた日本独特の時計。陶芸家の故上口愚朗が生涯にわたり収集した江戸時代の貴重な文化遺産を長く保存するために昭和26年勝山藩の下屋敷跡に設立した。
時間の関係で、中に入ってみませんでした。
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根津神社の前で一旦解散し、事前に調査しておいた「グルメマップ」で好きな店で食べてもらい、集合時間までに根津神社も見てもらいました。
私は、先輩と釜めしを食べました。
五目釜めしを食べ終わってから、「鮎の釜めし」のビラが貼ってあるのに気が付いた(泣)

【根津神社(根津権現)】
ここについては、既に記事にしているので、そちらを参照してください。
http://tamtom.blog44.fc2.com/blog-entry-1198.html


集合時間に全員集まったところで、記念写真を撮り、乙女稲荷の鳥居をくぐって進みました。
乙女稲荷神社(根津神社内)
御祭神は倉稲魂命。社殿両側には奉納された鳥居が立ち並び壮観です。
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境内から「根津裏門坂」に出る直前、庚申塔を六つも集めてあった。
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庚申塔と云えば、普通下部には三猿だが、これは珍しい。
旗のようなものを持った猿と酉である。
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【夏目漱石旧居跡】
英国から帰り、ここに居を構えた。ここで書いた「我が輩は猫である」、「倫敦塔」などを発表してたちまち人気作家となった。家は現在明治村にある。
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我が輩は猫である。
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【森鴎外記念館(観潮楼跡)】

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【指人形笑吉】
よみせ通りよりちょっと入ったところにあります。ショウウインドウには沢山の指人形がある。オーダーで似顔絵の笑吉人形を造ってくれる。
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一人500円で、笑吉人形劇場を楽しみました。トータル30分の中にたくさんのショートコントストーリーで色々な人形が出てきて笑わせてくれました。
人形も、ストーリーも、動きも絶品でした。

【谷中小前の時計】
さんさき坂にある谷中小学校前には、ちょっとレトロな時計塔があります。
下見の時の写真です。
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【全生庵】
全生庵は山岡鉄舟居士が徳川幕末・明治維新の際、国事に殉じた人々の菩提を弔うために明治十六年に建立した。尚、居士との因縁で落語家の初代三遊亭円朝の墓所があり円朝遣愛の幽霊画五十幅 明治大正名筆の観音画百幅が所蔵されている。
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墓地に入っていくと、すごい観音様に出くわした。
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山岡鉄舟の墓
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初代三遊亭円朝の墓
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【岡倉天心記念公園】
近代日本美術の先覚者・岡倉天心が暮らした場所を記念公園にしたもの。
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園内の六角堂には平櫛田中作の天心坐像が安置されています。
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【谷中ぎんざ商店街】
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台東区の西北端に位置し、台東区谷中3丁目と荒川区西日暮里3丁目にまたがる商店街は下町の台所の役目もする。

この日はほどほどの混み具合いでした。
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洒落たお店を探してみた。
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猫が色々なところに出没
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「猫のしっぽ」というドーナツ屋さん。
面白いと思い、買って帰ったらカミさんにもウケましたね(笑)
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【夕やけだんだん】
日暮里駅方面から谷中銀座に下る坂で。高低差は4メートル、段数は36段。階段上から谷中銀座を見下ろす風景は夕焼けの絶景スポットにもなっている。
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【朝倉彫塑館】
彫塑家朝倉文夫(1883~1964) が住居兼アトリエとして自ら設計・監督をし8回におよぶ増改築の後、昭和3年から7年の歳月をかけて現在の形となる。
娘さんの舞台美術家朝倉摂も有名ですね。
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屋根上から青年が見下ろしていた(笑)
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【幸田露伴旧居跡】
ここから日々五重塔を眺め、名作「五重塔」を発表した。
この珊瑚樹は、露伴が済んでいたときからあった。
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ちょうど花が咲いていて、樹の名前に納得した。
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これで、予定コースは終了。
日暮里駅に向かって歩いていると、こんな掲示がありました。
空襲の最中、100人がバケツリレーで谷中の緑を守った。すごいですね。
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個人宅の玄関のすぐ横なんですが、手押しポンプを、ちゃんと保存してくださってます。
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(了)


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祝(ほうり)神社(延喜式内社)/長野県長野市松代

20140603

所在地:長野県長野市松代町松代566

歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行の二日目、松代の町の散策で、真田家歴代の霊屋がある長国寺に続き、当社に参拝しました。

鳥居の前の神橋
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鳥居
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由緒書き
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式内社です。
信濃國埴科郡 祝神社 旧郷社

祝神社の読みに関しては、『平成祭データ』には「ほおり」とあるが、『明治神社志料』には「はふり」とあり、『神社覈録』には「波布利と訓べし」とあるそうだ。
現在は、境内の由緒書きにあるように「ほうり」となっているらしい。

創祀年代は不詳。
口碑に、上古英多真人の祖が、英多郷開拓の時に勧請したという。
往古は、本宮が東2Kmほどの東条山(奇妙山か?)山上にあり当社は里宮であったが、後に合祀されたという。
山上の旧跡は「祝畑」といい、天明八年には太刀や土器が出土したらしい。
配祀の諏訪二神は、海津城二の丸の付近にあったが天文二十二年、武田氏が松代城を築造した時にそのまま城内の鎮守として祀ったもの。
江戸時代になって、慶長十三年、当社に合祀された。
その後、諏訪大明神と称されていたが、宝暦元年(1751)に祝神社と改称した。
式内社・祝神社に比定される古社だが、『埴科郡志』によれば、屋代の須々岐水神社が本来の式内社・祝神社であったようだが、中世には国照神社と称し、また、日吉神を合祀したため、「山王さん」とも呼ばれるようになり、祝神社の名を、松代の諏訪神社(当社)に許可したとある。
明治六年村社に列し、明治十五年郷社に昇格した。

手水舎
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狛犬
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入母屋造瓦葺の拝殿
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他に紋が見当たらないので、「六連銭」が神紋だろう。
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昼寝しているような龍(笑)
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社額
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入り口の由緒書きでは、御祭神は生魂命。配祀が健御名方富命と八坂斗賣命、ということだったが・・・・・・
拝殿の前の札には、生魂命の名が無い??
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生魂命とは、天活玉命 (あめのいくたまのみこと)のことですが、邇芸速日命(にぎはやひのみこと)に従って天降った三十二人の防衛の一人です。
高天原の神・天照大神は「豊葦原瑞穂国は自分の子・天忍穂耳尊が支配すべき国である」と考え、我が子天忍穂耳尊を地上世界に送り込もうとしていました。その準備をすすめる間に、天忍穂耳尊とその妃・豊秋津師姫栲幡干々姫命には子が誕生しました。「天照国照彦天火明櫛玉饒速日尊」です。
天忍穂耳尊の意見により饒速日尊は父に代わり、天降ることになりました。弟・瓊々杵の天孫降臨に先駆けてのことです。
新田部直等の祖としか記述が無く、古事記などには他の場所でまったく登場しないので、どういう神かは不明。
たまたま、富山県での私の家の近くにあるのが、越中国一之宮の高瀬神社で、その祭神です。
高瀬神社の説明では、無病息災の神であるとなっておりました。

拝殿は、ずいぶん奥行きが有って、そこからちょっと離れて流れ造りの本殿があります。
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これから境内社。

猿田彦社
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手前の左右に石の祠が二つあり、中央奥に石碑があります。
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石碑には、何か刻んであるが、拡大しても何か判然としない。
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社殿の右手の池にある「宗方社」
祭神は宗方三女神。
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西宮神社、恵比寿社
祭神は、事代主命、大国主命
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社殿の中では「えびす神、だいこく神」と書かれている。
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八幡社、天神社
祭神は応神天皇、神功皇后、菅原道真
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(了)


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松代町散策(山寺常山邸・恵明寺・大本営地下壕(象山地下壕)・旧松代藩鐘楼・長国寺・旧横田家住宅・旧樋口家住宅・真田邸・真田宝物館)・清水寺・真田信重霊屋

20140603

歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行の二日目、松代の町の散策で象山記念館の後、訪ねたのは山寺常山邸です。

【山寺常山邸】
山寺常山は儒者・鎌原桐山、維新の先覚者・佐久間象山とともに“松代三山”と呼ばれ、寺社奉行、郡奉行を務めました。

長屋門形式の表門は間口約22メートルで、松代城下に残る門のなかでは最大。
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象山を借景とした庭園には神田川の水を引き入れた池(泉水)があります。
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驚いたことに「コウホネ」が咲いていました。
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渡り廊下でつながる書院には、「萬竹庵」の扁額が残り、その意匠性の高さから近代和風建築の秀作と評されています。紙で作った手作り甲冑が飾られていた。
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山寺常山の碑
常山は若かりし頃、江戸に出て儒学者佐藤一斎や中村敬宇らと親交を深めた。8代藩主真田幸貫の信望も厚く、藩政にも尽力し、寺社奉行、郡奉行を務めたほか、藩士に兵学を教授し、また藩主の側にあってその政務を補佐していた。
明治になってからは中央政府の招きを固辞し、藩に留まり、晩年は長野に塾を開いて門人の教育につとめた。
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土蔵を改造して、「唱歌・童謡歌詞展」をしていた。
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しかし、この松の傾きは・・・・・・・・(笑)
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【恵明寺】
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恵明寺(えみょうじ)は旧松代藩・真田家ゆかりの寺です。三代真田幸道により開基。
開祖木庵禅師が中国で最後に住持をしていた寺が泉州の象山慧明寺でした。これにちなんで象山恵明禅寺と称しました。
佐久間象山の号は本寺に因んだとされる。

入ってすぐに杏の古木があった。
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恵明寺の本堂は長野県の登録有形文化財に指定されています。天保4年(1833)に建てられた建物で、木造平屋建、桁行5間梁間6間、入母屋造り、桟瓦葺で、一重裳階付仏殿風の外観となっています。建築面積は119平方mです。地方における黄檗宗仏殿の遺構です。
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中に入ると、身舎の柱が下から一本で上に伸びている。普通向背に見られる木鼻の彫刻が建物の中に設けられている。
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中央蟇股の彫刻が「茄子」なのが面白い。
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須弥壇
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「豊姫」の霊屋の前に枝垂れ桜が覆いかぶさっている。桜の時期は見事だろう。
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「豊姫」の霊屋
豊姫は伊達政宗の孫になります。伊予宇和島藩主・伊達宗利の娘で延宝元年(1673)に15才で嫁いできました。その際「鉢植の杏」を取り寄せました。この杏が松代藩の殖産興業となった。
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中を除くと、御位牌の前に沢山の人形が供えられていた。
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【大本営地下壕(象山地下壕)】
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太平洋戦争末期、日本(当時の大日本帝国)の国家中枢機能移転のために長野県埴科郡松代町(現在の長野市松代地区)などの山中(象山、舞鶴山、皆神山の3箇所)に掘られた地下坑道跡である。
太平洋戦争以前より、海岸から近く広い関東平野の端にある東京は、陸軍により防衛機能が弱いと考えられていた。そのため本土決戦を想定し海岸から離れた場所への中枢機能移転計画を進めていた。太平洋戦争で1944年7月にサイパン陥落後、本土爆撃と本土決戦が現実の問題になった。同年同月、東條内閣最後の閣議で、かねてから調査されていた長野松代への皇居、大本営、その他重要政府機関の移転のための施設工事が了承された。
初期の計画では、象山地下壕に、政府機関、日本放送協会、中央電話局の施設を建設。皆神山地下壕に皇居、大本営の施設が予定されていた。しかし、皆神山の地盤が脆く、舞鶴山地下壕に皇居、大本営を移転する計画に変更される。舞鶴山にはコンクリート製の庁舎が外に造られた。また皆神山地下壕は備蓄庫とされた。3つの地下壕の長さは10kmにも及ぶ。
そのうち中心となる地下坑道は松代町の象山、舞鶴山、皆神山の3箇所が掘削された。象山地下壕には政府、日本放送協会、中央電話局、舞鶴山地下壕付近の地上部には、天皇御座所、皇后御座所、宮内省(現在の宮内庁)として予定されていた建物が造られ現在も残っている。また皆神山地下壕には備蓄庫が予定された。
関連施設は善光寺平一帯に造られたため「一大遷都」計画であった。上高井郡須坂町(須坂市)鎌田山には送信施設、埴科郡清野村(現在の長野市)妻女山に受信施設、上水内郡茂菅村(現在の長野市)の善光寺温泉及び善白鉄道トンネルに皇族住居などが計画された。また長野市松岡にあった長野飛行場が陸軍により拡張工事が行われている。

下図の青い部分が、見学できるのだが、残念なことに6月は補修工事のため入れなかった。
又の機会である。
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入り口
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覗き込むと、中に重機が入って、けっこう大変な工事となっているようだ。
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傍らに、「朝鮮人犠牲者追悼平和祈念塔」があった。
約9ケ月の突貫工事に一万人が当たり、うち7000人が朝鮮人労働者であった。人海戦術の工事であり、当時の事情を考えると、過酷であったのは間違いない。
近くには慰安婦所もあったそうだ。
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そこから、また歩いていると、民家で茅葺の屋根がまだあった。
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【旧松代藩鐘楼】
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この鐘楼は初代藩主・真田信之が1622(元和8)年に松代城主となって間もない1624(寛永元)年に火の見櫓とともに設置されました。城下町の人々に時を告げるべく、1刻(2時間)に1回鳴らした。また出火の際も鐘を鳴らして非常を知らせた。

なお鐘は太平洋戦争で供出したため、現在の鐘は1991(平成3)年に設置された4代目となるそうです。
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「日本電信発祥之地」の碑
1849(嘉永2)年に、佐久間象山が日本で初めて電信機を作って、伊勢町御使者にある居館から、ここまで電線を架けて通信することに成功しています。
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そこから、ちょっと暑いなかを歩いて、この日の昼食。「食いしん坊 かじや」です。
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とにかくふわふわのとろろ汁にビックリしました。ダシも絶品でした。
出てきたもので覚えているものをあげてみましょう。
長芋のポタージュ、むかご、長芋の湯葉、長芋の田楽、信州サーモンの刺身、おひつに入った白飯の上に、まぐろの刺身が乗って出てきました。「とろろ汁」がついてきました。デザートは長芋のお汁粉(小さい餅入り)。

ここのとろろ、絶品でした。こんなとろろがあれば何杯でもご飯が食べられます。家でもこんなとろろが食べたい!!
カミさんを連れてきて、この味で・・・・・、としないとわからないだろうなあ・・・・・・

【長国寺】
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山号は真田山。本尊は阿弥陀如来。松代藩真田家の菩提寺。
この寺は、天文16年(1547年)真田幸隆が開基となり伝為晃運を開山として信濃国小県郡真田(現在の長野県上田市真田町)に建立した長谷寺に始まる。江戸時代に入り真田信之が元和8年(1622年)信濃国埴科郡松代に移されると、当時の長谷寺の住職を開山として松代に建立されたのがこの寺である。真田家からは黒印地として200石が与えられていた。
当初は七道伽藍が立ち並んでいたが、享保2年(1717年)の大火で全焼。寛保2年(1742年)の大洪水(戌の満水)で本堂が大破するなどしたが、文化7年(1810年)復元された。しかし、明治5年(1872年)本堂から出火し、寺宝・経巻・文書などほとんどを焼いてしまった。現在の本堂は明治19年(1886年)に再建された。

霊屋は離れた場所にあったため、江戸時代に建てられた5棟の霊屋全部が幕末まで残り、うち真田信之(松代藩初代藩主)、真田幸道(3代藩主)、真田信弘(4代藩主)の霊屋3棟は長国寺に現存する。真田信之霊屋は万治3年(1660年)の建立とされ、入母屋造で正面に千鳥破風と軒唐破風付きの向拝を設けている。建物内外を極彩色と装飾彫刻で飾っており、表門とともに国の重要文化財に指定されている。真田信弘霊屋は元文元年(1736年)の建立とされ、方三間、宝形造、向拝付の簡素な建築で、表門とともに長野県宝に指定されている。

本堂
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屋根のシャチホコがすごいもんです。
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山号が「真田山」
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真田家の紋の一つ「結び雁金」がこのようにして。
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本堂裏にある開山堂。
もとは真田幸道霊屋として建てられたが、明治19年(1886年)の本堂再建の際に移築された。方三間、宝形造で、回縁と前面の向拝は撤去されている。表門は西寺尾典厩寺に移された。
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松代藩の家臣などの墓のうち、「恩田木工(もく)民親の墓」
恩田木工民親は、六代真田幸弘に登用され、藩の財政再建に取り組んだ。前藩主のときの財政再建が失敗し百姓一揆に発展してしまい、藩の存亡危機につながったこともあり、恩田木工の改革は百姓に対しても改革の必要を諄々と説き、他藩のような商業的な改革ではなく、領民の人心を得ることで解決する改革であった。
これは財政改革に当たらないとする見解もあるが、松代藩は木工の政策により財政を多少持ち直し、また当時の封建社会において百姓領民から直接話を聞くという率直な態度をとった木工の改革は、後世からは高く評価されている。
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ところが長国寺の裏手の、歴代の藩主の霊屋や墓、供養塔を見たかったのだが、入れない(泣)
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遠くから、望遠で誰かの霊屋を撮ったのみ。
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塀の周りをウロついていたら、「真田家之墓」という一角があった。
三基の墓碑や五輪の塔があったが、天保11年、寛文7年、昭和38年であった。
おそらく真田家の血筋の家だと思われる。
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長国寺の次には「祝神社」にお参りしたのですが、ここは式内社でもあり、別途記事にします。

【旧横田家住宅】
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1800年代前半から中頃にかけて建築されたとみられる中級武士の武家屋敷です。
松代の中級武家住宅の典型的な間取り、構成を残しており、1986(昭和61)年に国の重要文化財に指定されました。長野市が保存・修景工事を行い、1992(平成4)年から一般公開されています。
長屋門・一部2階建ての主屋・隠居屋・土蔵、遠山を借景とする庭園・菜園、庭に流れる泉水などを見ることができ、江戸時代の中級武士の暮らしが身近に感じられます。
横田家は、「富岡日記」で知られる和田英をはじめ、幕末から明治・大正・昭和にかけ、最高裁判所長官、鉄道大臣など多くの人材を輩出しました。
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主屋の部屋
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勝手
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土間から入ったところに腰かけて、茶など飲んで休憩できる造りになってました。
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土蔵が二つ。
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左が主屋、右が隠居所。
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隠居所とは、渡り廊下などで繋がっていない。
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【旧樋口家住宅】
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松代城のすぐ東南に位置し、城の正面口にあたる大御門(大手門)や新御殿(真田邸)に近いこの界隈は、上級武士が多く住む武家屋敷町でした。樋口家はその中でも中心的な位置にあり、藩の目付役なども務めた家柄です。
主屋、土蔵、長屋、屋敷神の祠、表門、土塀、板塀が修景・復元されています。主屋、土蔵、長屋の3棟が長野市の文化財(建造物)に指定されています。
敷地のほぼ中央に泉水路が東西に流れ、池の南側に広がる雑木林と竹林、庭園は、江戸時代、畑として使用されていました。建造物、庭、泉水路などを含め、松代藩の上級武士の屋敷の姿をよく伝えています。

主屋
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屋敷神が祀られている。
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茅葺の屋根が美しい。
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レキジョでしょうか・・・・・・
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【真田邸】
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九代藩主・幸教が、義母・貞松院(幸良の夫人)の住まいとして1864(元治元)年に建築した松代城の城外御殿で、当時は「新御殿」と呼ばれていました。
江戸時代、大名の妻子は生涯江戸住まいを義務づけられていましたが、1862(文久2)年、十四代将軍・徳川家茂の時代に行われた文久の改革による参勤交代制度の緩和にともない、妻子の帰国が許可されたことから、松代にも屋敷が必要になりました。のちに、隠居後の幸教もここを住まいとし、明治以降は伯爵となった真田氏の私宅となりました。1966(昭和41)年、十二代当主・幸治氏により代々の家宝とともに当時の松代町に譲渡されました。

長い廊下をズンズン奥まで入っていく。
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一番奥にあったのは、殿さまの雪隠(笑)
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居間は、くだけた色どりがありますね。
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表座敷になると、襖の絵も上品です。
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縁側に座って眺める庭だそうです。
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亀のような岩
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植え込みも亀にしつらえてあった(笑)
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真田邸から真田宝物館に移動するときに通った公園に、先ほど紹介した「恩田木工民親」の銅像がありました。
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【真田宝物館】
ここには、真田家歴代の宝物が展示されていて、駆け足で見たのですが、もう一度ゆっくりと拝見したいと思った。

真田家の家紋
よく「六文銭」と呼んでいますが、正しくは「むつれんせん」でした。
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「ルーフル」
戦での指揮具。大隊に指示を出すときに使われたと考えられる。
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「十二支砲隊支隊旗」
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九代藩主真田幸教夫人の甲冑
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真田昌幸の甲冑「昇梯子の具足」
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六連銭の旗印
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NHKテレビ人形劇「真田十勇士」での、辻村ジュサブロー作「真田信之」
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伝 真田幸村所有の刀
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真田信之画像
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小松姫画像
小松姫は、私の好きな女性なので、ちょっと長いが紹介しておきます。
上田合戦における真田の軍略に惚れ、また恐れた忠勝が真田家を取り込むため、家康に自らの娘を嫁がせることを提案。家康もまた、上田合戦後に面会した信之の器量に感じ入っており、自陣営の武将として取り込んでおきたいという思いがあったことから快諾。小松姫を自らの養子として、真田家へ嫁がせることとした。なお、小松姫と信之の孫にあたる松代藩3代藩主・真田幸道が幕府に提出した書状には「台徳院(秀忠)」の養女と記されている。
父・忠勝に似たのか、勇ましいエピソードが伝わっています。
慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いの際、徳川方に味方することを決めた信之と袂を分かった舅の昌幸が居城である上田城に向かう途中、小松姫が留守を守る沼田城に立ち寄り「孫の顔が見たい」と所望した。これに対し小松姫は戦装束で舅の前に現れて「敵味方となった以上、義父といえども城に入れるわけにはいかない」と申し出を断った。程なく昌幸が近隣の正覚寺で休息を取っているところへ小松姫は子供を連れて現れ、昌幸の願いをかなえた。これにはさすがの昌幸、信繁(幸村)父子も感心しきりであったという。また、関ヶ原の合戦で西軍が敗れ、昌幸、信繁父子が九度山に追放になった後も、食料や日用品を送るなどの配慮を怠らなかったという。
晩年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、武蔵鴻巣で亡くなり、夫・信之は「我が家から光が消えた」と大いに落胆したという。戒名は大蓮院殿英誉皓月大禅定尼。墓は鴻巣市勝願寺、沼田市正覚寺、上田市芳泉寺に分骨されている。また、長野県長野市松代町松代の大英寺に霊廟がある。
小松殿が亡くなった2年後、信之は上田から松代へ移封になります。小松殿が生きている間は将軍・秀忠も真田家には手を出せなかったのかもしれません。
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「唐冠形(とうかんなり)兜」
真田家の重臣・矢澤頼幸が豊臣秀吉から拝領した。
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これで、松代の町の徒歩での散策は終了。
真田宝物館の駐車場で待っていたバスに乗り込みました。

【清水寺】
所在地:長野市松代町西条147
開山は今から1200年ほど前、延暦22年(803年)、寛空上人が開山したと云われており、坂上田村麻呂が東北に遠征に向かった際に、戦勝祈願が為に建立されました。
火難により一時衰亡に瀕したものを川中島決戦の折、武田信玄公より供料を給わり伽藍を再建いたしました。依って武田家が中興開墓となっております。
その後、江戸時代正徳年間(十八世紀初)の火難により善美壮麗を尽くした堂塔伽藍は悉く焼亡し、享保年間(十八世紀初)、十二原から少し山を下った現在地に仮堂を建立し移転いたしました。

仮堂
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国宝が三体あります。
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『千手観音』
頭部から足先までを堅い桂材の一木から彫成した、所謂一木造の典型的な像で正面の遥か彼方を直視するかにみえる姿は、他の菩薩像の動的な表現に比べていかにも静寂で、しかも典雅であり、衣紋の彫り口も他の像に比べると穏やかに品よくまとまっていいます。
製作は九世紀の頃で、信州における現存最古の木造であり、一木造りの仏像では東日本で最も古いほとけさまです。中尊の静けさと、両側の菩薩像の動態とが対比されて、この堂内に平安時代も早い頃の信州の造像活動の粋が示されています。
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『聖観音』
腰下の裳の衣文は、大きなヒダの間に小さいながら鋭い小波を配した、いわゆる翻波式といわれる衣文の刀法を示しています。これは平安初期の造像の一つの特色でもありす。
動きの激しい像容と、この鋭く深い衣紋の意匠とが巧みに一致して、いかにも平安初期の、強く動きの激しい様式的な特色を示しています。
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『地蔵菩薩』
一木造りの本像も、他の清水寺所蔵の古像と共に信州における最古の木彫像です。
いかにも堂々たる量感、動きのある像容、そして彫りの強い衣紋の特色が見受けられます。これらの特色は聖観音像の特色と共通するもので、やはり九世紀〜十世紀初頭の典型を示しています。
清水寺の地蔵菩薩は、錫杖を右手に握るお姿をしています。この姿は、十三世紀(鎌倉時代)からみられる特色であり、十三世紀以前は右手をそっと垂らしているお姿でした。造像当時からこのお姿であれば、錫杖を持ったお姿の地蔵菩薩として、日本最古の像と云われています。
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【真田信重霊屋】
所在地:長野県長野市松代町西条
重要文化財
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真田信重は松代真田家の初代信之の第三子である。この霊屋は慶安元年(一六四八)に信重が死去し、間もなく建立された。三間四方の小堂ながら建立年代が明らかで、内部の装飾などに当時の手法がみられ、地方藩主の霊屋として貴重である。屋内の前机および釣灯籠も慶安の銘があり附指定になった。
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各部の意匠は、堂々として、美しい。
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ここから更に「明徳寺」に行った。
武田の智将といわれた海津城主・高坂弾正忠の墓があり、映画『硫黄島からの手紙』で注目された栗林忠道中将(長野市松代町出身)の墓碑も建立されている。

だが、無情の電池切れである。
電池は、最近動画をよく撮るので、常にスペアを2つ携行している。日帰りであれば余裕シャクシャクであった。
今回は、帰ってから確認したら、ここまで944枚を撮っていた。
分かっていれば、画質をちょっと落としていれば最後まで撮れたと思うのだが(泣)
常に最高画質で撮っているので・・・・・

スマンです。


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渋温泉・松代城址・松代の町散策(文武学校・旧白井家表門・象山神社・象山記念館)

20140601

歴史クラブの企画で「信州の古代・戦国・江戸・明治・戦後を歩く」という、一泊二日の旅行の初日を終え、渋温泉で宿泊。風呂で疲れをいやし、宴会で騒いで、ぐっすり寝ました。
二日目は、朝早くから目が覚めたので、渋温泉の中を散策しました。

【渋温泉】
ご存知、千と千尋の神隠しのモデルとなった旅館「金具屋」です。
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その近くに、こんなものがあったので、少しは訪ねようとしました。
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高薬師に上がる、急な石段。
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ちょうどツツジが綺麗でした。
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高薬師
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傍に句碑が。
「飛とつ脱ぎて 背(そびら)におひぬ 小路毛更(ころもがえ)」/翁
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「お湯かけ 和合道祖神」
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和合橋から横湯川
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近くに湯の噴出が
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良い感じの路地です。
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「大獅子」
昔この地方に、コロリという病気が大流行したとき、村の長老たちが大獅子の神に祈ったら、たちまち病は治まったそうです。
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温泉寺
渋温泉は、戦国時代には数多く存在する武田信玄の隠し湯のひとつであった。武田信玄の寄進によって温泉寺が開かれ、川中島の戦いの折には傷ついた兵士を療養させた場所でもある。
江戸期には真田家の庇護を受け隆盛した。

山門
表に二頭、裏に一頭の龍が。
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境内は広い。
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武田信玄の安堵状の碑
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やはり武田菱だ。
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見ざる・言わざる・聞かざるの三猿
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よく見て・よく喋り・よく聞こうのお元気三猿
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渋温泉を元気に出発して、松代に入りました。松代城址の前でバスを降りて、これから15時くらいまでは歩いて松代の町を散策です。

【松代城址】
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元々は海津城(かいづじょう)と呼ばれていた。川中島の戦いの頃は、武田方の上杉氏への最前線に位置した。
1622年(元和8年) 真田信之が入城。以後、松代藩の藩庁として明治維新まで真田氏の居城となった。
明治になり、藩士に分け与えられていた土地を真田幸正が買い取り、本丸跡地を遊園地として解放。
現代は、
1951年(昭和26年) 真田幸治により本丸が寄付され、公用地となる。
1964年(昭和39年) 本丸を中心とした城址の一部が県の史跡に指定された。
1981年(昭和56年) 本丸を中心とした城址の一部と新御殿が国の史跡に指定された。
2004年(平成16年) 太鼓門、堀、石垣、土塁などが復元された。

二の丸南門
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太鼓門前橋を渡ると、太鼓門のうち橋詰門が。
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橋詰門を入ると枡形となっていて、内側の門、太鼓門(櫓門)がある。

外側
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内側
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東不明門前橋
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東不明門前橋からの濠の眺め。
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北不明門(外側から)
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その外の塀には、弓狭間や鉄砲狭間が。
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弓狭間
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本丸の角に高いところがあるぞ。
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また北不明門から本丸に入ると、「海津城址」の碑があった。
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やはり高い所はいい(笑)
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そこにあった、「江戸時代末期の眺め」
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現在の眺め。千曲川も全然見えない。
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反対側には、これから行く方向に象山が見える。
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城らしい写真を撮ってまわりました。
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城を後にして、城下町を散策します。
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【文武学校】
八代藩主真田幸貫は、佐久間象山らの意見を受けて、蘭学・西洋砲術などを積極的に取り入れた、藩校としての文武学校を建設した。
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かなり大がかりな改装工事が進行中だった。
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弓術所
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柔術所
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東序
序というのは校舎のことで、ここでは軍学を教えた。
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腰かけ建物(供待ち)
藩主や家老の供人たちが休息しながら主人の帰りを待った所。
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入り口のところに、こんな貼り紙が。
まだまだ、伝統は健在のようです。
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出たところに、近くの小学校の生徒のためだろう。こんなものが。
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【旧白井家表門】
中級武士で、各種奉行などをした家。
門の背面に三つの部屋があり、白井家の陪臣武士が居住した。
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居室
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台所の部屋が休憩所になっていて、ボランティアの方がお茶を出してくれた。
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県民の歌「信濃の国」が掲示してあった。
私も信州で生まれ育ったが、今では二番までがやっと(汗)
(右から8行で二番まで、6番まであり)
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藁馬があった。
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また歩き出したが、川の水が綺麗だ。
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庭にものすごい沢山の花が(驚)
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【象山神社】

佐久間象山と社号標。
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鳥居
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参道
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手水舎
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狛犬
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拝殿
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本殿
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高義亭
松代藩家老望月家の下屋敷にあった建物。吉田松陰の密航事件に連座し、国元蟄居を命ぜられ、下屋敷に住んでいたが、来客があるとしばしばこの建物で国家の時勢を論じたという。
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望岳賦
象山が31才の時の作。富士山の気高く優美な姿を称えて、自分の理想と抱負をこれに寄せた、名作。
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象山誕生地の碑
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煙雨亭
象山が京都に住んだときに、居宅にあった茶室。
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【象山記念館】
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自作のカメラと、それで撮った写真。
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電気治療器
これを作って、夫人の治療に使用したとあったが、詳細はわからない。
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電信機
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ペリーがやってきて、幕府はあわてて江戸の防衛のためお台場を築いた。
佐久間象山が幕府の老中となった真田幸貫の海防顧問となると、海外事情の研究を始め、海防政策として、江戸湾に台場(現在の東京都お台場)を築いた。
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象山が暗殺された元治元年に京都で出版された「大成京細見絵図」。
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9代藩主真田幸教が、象山暗殺を惜しんで作った和歌。
「佐久間氏に 吉野なる山辺に咲ける桜花 
  送るとて 散らすは人の如何にて芽へき 」
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これで象山記念館を出ましたが、まだまだ松代の町の散策は続きます。


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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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