ロビと遊ぶ
20140731
昨日、17ケ月かけて組み立ててきたロビが完成して、
昨夜からカミさんと二人で遊んでいます。
まだこちらもヒヤヒヤです。
ちょっと剛性が足りないかな。
いろいろやらせていて、倒れたことが何度か。
歩くのも、ちょっとフラフラしながら。
片足バランスなんか、惚れ惚れするほど見事に決めますけどね。
会話型のロボットなので全部声で指示するのですが、周りがいろいろとしゃべっていると、それも理解しようとして、固まってしまいますね(笑)
人間みたいに、自分に向けられた言葉だけを選んで聞くというのは無理です。
一対一で遊んでいれば、とてもスムーズです。
人感センサーがついているので、何人か居て、顔を近づけたりすると、ロビがこっちに顔を向けるので嬉しくなります(笑)
こちらの同じ言葉に対しても、違う反応を見せたりするので、面白い。
歌を歌えと要求すると、都度違う歌を歌います。
どんな感じか動画を撮ったので、見てください。
音を出して見てください。
矢印をクリック
昨夜からカミさんと二人で遊んでいます。
まだこちらもヒヤヒヤです。
ちょっと剛性が足りないかな。
いろいろやらせていて、倒れたことが何度か。
歩くのも、ちょっとフラフラしながら。
片足バランスなんか、惚れ惚れするほど見事に決めますけどね。
会話型のロボットなので全部声で指示するのですが、周りがいろいろとしゃべっていると、それも理解しようとして、固まってしまいますね(笑)
人間みたいに、自分に向けられた言葉だけを選んで聞くというのは無理です。
一対一で遊んでいれば、とてもスムーズです。
人感センサーがついているので、何人か居て、顔を近づけたりすると、ロビがこっちに顔を向けるので嬉しくなります(笑)
こちらの同じ言葉に対しても、違う反応を見せたりするので、面白い。
歌を歌えと要求すると、都度違う歌を歌います。
どんな感じか動画を撮ったので、見てください。
音を出して見てください。
矢印をクリック
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ロビ完成!
20140730
突然ですが、やっとロビが完成しました(嬉)
68号まで記事にしてありましたが、その後69号を経て70号で目出度く完成しました。
動作確認で、右足がまったく動かなかったりして焦ったり、69号でも70号でもアクシデントがあって大変でしたが、完成してしまうと、もうその喜びを伝えたいほうが大きいですね。
ロビを組立はじめたのは、昨年の3月からでした。
ですから17か月かかったことになります。
我ながら、よく頑張ったと思います。
まずは充電です。
充電器に腰かけて充電します(笑)


充電が完了したら、いよいよスイッチオンですが、なんと最初にスイッチを入れてロビを目覚めさせたときに、ロビがいろいろ質問して、その答えで性格が決まる・・・・・・!?!
待ち望んでいたカミさんに答えさせて、私は脇から動画を撮りました(笑)
矢印をクリック
出来上がって嬉しいし、今度は遊び方とか覚えることで、こちらもパニくってます。
今回はここまでの記事として、次回ロビの色々な動きとか遊びの様子をお伝えします。
68号まで記事にしてありましたが、その後69号を経て70号で目出度く完成しました。
動作確認で、右足がまったく動かなかったりして焦ったり、69号でも70号でもアクシデントがあって大変でしたが、完成してしまうと、もうその喜びを伝えたいほうが大きいですね。
ロビを組立はじめたのは、昨年の3月からでした。
ですから17か月かかったことになります。
我ながら、よく頑張ったと思います。
まずは充電です。
充電器に腰かけて充電します(笑)


充電が完了したら、いよいよスイッチオンですが、なんと最初にスイッチを入れてロビを目覚めさせたときに、ロビがいろいろ質問して、その答えで性格が決まる・・・・・・!?!
待ち望んでいたカミさんに答えさせて、私は脇から動画を撮りました(笑)
矢印をクリック
出来上がって嬉しいし、今度は遊び方とか覚えることで、こちらもパニくってます。
今回はここまでの記事として、次回ロビの色々な動きとか遊びの様子をお伝えします。
手置帆負命 (たおきほおいのみこと)/日本の神々の話
20140730
この神様は、皆さんが馴染みのある神様です。
それは上棟際でお目にかかります。
上棟祭では、家屋を守護する神様である屋船久久遅命と屋船豊于気姫命、工匠の神様である手置帆負命と彦狭知命、そして地域の神様である産土神を祀ります。
手置帆負命と彦狭知命は次に述べるような伝承から共に工匠(工作を職とする人)の守護神とされ、木造建築の上棟式(棟上げ)などにおいて祭神とされます。その際は、ご神名を棟札に工事の概要と共に墨書きしてお祀りし、祝詞でも奏上されます。
伊勢神宮式年遷宮での上棟際

これは、ある公民館の上棟式です。

手置帆負命は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、彦狭知命(ひこさしりのみこと)と共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。天児屋命(あめのこやねのみこと)らが祈りを捧げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られた。 後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。
古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。
讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐文(さぶみ、麻分の意味)、同町佐股(麻またの意味) などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。
その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。
竹取物語との関連:
竹取物語のモデルとなった場所として、岩波・新潮・講談社の「竹取物語研究書」は現在の奈良県北葛城郡広陵町としている。広陵町の小字(こあざ)は「笠神」であり、讃岐神社(広陵町)と笠神との間には「笠」なる村が存在し、古語拾遺の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑(かさぬいのむら)と共に、讃岐忌部氏との関係が示唆される。 なお、この物語には竹取翁の名前が讃岐造(さぬきのみやつこ)、かぐや姫と名付けたのが三室戸斎部秋田(みむろとのいんべのあきた)とあることと、香川県さぬき市長尾町に鎮座する多和神社の祭神が讃岐忌部氏の祖神・手置帆負命であり、同町の古くからの特産品が竹であることから竹取物語との関係を指摘する声がある。
金毘羅さんとの関連:
祖神・手置帆負命の神名は、手を置いて長さを測る「天御量」の方法で帆を製作したことから生じたのかもしれないとの指摘がある。現在確認できる事蹟から考えると、手置帆負命は船大工であった可能性がある。
こんぴらさんの名で親しまれている香川県仲多度郡琴平町の象頭山(標高538m)中腹に鎮座する金刀比羅宮に対する信仰、いわゆる金毘羅信仰を全国に広めたのが備讃瀬戸に点在する塩飽諸島の人々であった。塩飽の人々は、大麻山や象頭山を眺め天候を判断してきたが、象頭山は古代からの信仰の対象としての神奈備山であり、同時に天候を占う日和山だった。
一方、善通寺市弘田町鬼塚に鎮座する式内社、雲気神社の雲気とは、同社の神奈備山の天霧山にかかる雲の気のことであり、金刀比羅宮はこの雲気神社の論社の1つとされる。また象頭山はそのほとんどが神域となっているが、大部分は楠の自然林である。
これらのことから、手置帆負命の末裔は象頭山周辺の楠で船を造り、大麻山の麓に植えた麻から作った布で帆を張って、瀬戸内海を航行したと考える節もある。
手置帆負命を祀る神社は、境内社としてある神社の境内に祀られていることが多いようです。
私は、日本橋の松嶋神社で、沢山の祭神の中の一柱として祀られていたのを参拝しました。
それは上棟際でお目にかかります。
上棟祭では、家屋を守護する神様である屋船久久遅命と屋船豊于気姫命、工匠の神様である手置帆負命と彦狭知命、そして地域の神様である産土神を祀ります。
手置帆負命と彦狭知命は次に述べるような伝承から共に工匠(工作を職とする人)の守護神とされ、木造建築の上棟式(棟上げ)などにおいて祭神とされます。その際は、ご神名を棟札に工事の概要と共に墨書きしてお祀りし、祝詞でも奏上されます。
伊勢神宮式年遷宮での上棟際

これは、ある公民館の上棟式です。

手置帆負命は、天照大神が天の岩屋に隠れてしまわれた時、彦狭知命(ひこさしりのみこと)と共に天御量(あまつみはかり)をもって木を伐り、瑞殿(みずのみあらか)という御殿を造営した。天児屋命(あめのこやねのみこと)らが祈りを捧げ、天鈿女命(あめのうずめのみこと)が舞を奏したところ、天照大神は岩屋を出て、この瑞殿に入られた。 後年この間に天降りした大国主命(おおくにぬしのみこと)の笠縫として仕えたとされる。
古語拾遺(807年)の「天中の三神と氏祖系譜」条に、太玉命(ふとたまのみこと)が率いた神の一つとして、「手置帆負命(讃岐国の忌部が祖なり。)」とあり、この「手置」とは「手を置いて物を計量する」意味と解釈されている。また、同書「造殿祭具の斎部」条には、「手置帆負命が孫、矛竿を造る。其の裔、今分かれて讃岐国に在り。年毎に調庸の外に、八百竿を貢る。」とあり、朝廷に毎年800本もの祭具の矛竿を献上していた。このことから竿調国(さおのみつぎ)と呼ばれ、それが「さぬき」という国名になったという説がある。
讃岐忌部氏は、矛竿の材料である竹を求めて、いまの香川県三豊市豊中町笠田竹田忌部の地に居を構え、そこを拠点として特に西讃(せいさん)地方を開発した。また、善通寺市大麻町の式内社「大麻(おおさ)神社」の社伝には、「神武天皇の時代に、当国忌部と阿波忌部が協力して麻を植え、讃岐平野を開いた。」という旨の記述が見え、大麻山(おおさやま)山麓部から平野部にかけて居住していたことが伺える。この開拓は、西讃より東讃(とうさん)に及んだものといわれている。
その他現在、香川県内にみられる神社や地名のうち、三豊市高瀬町の麻部(あさべ)神社、観音寺市の粟井(あわい)神社などの神社、高瀬町麻(あさ)、同町佐文(さぶみ、麻分の意味)、同町佐股(麻またの意味) などの地名はその名残である。香川県神社誌(上巻)には、「東かがわ市引田町の誉田神社は忌部宿禰正國(いんべのすくねまさくに)の創始で、正國は旧大内郡の戸主であった。」との記録がある。
その後の讃岐忌部氏の足取りは定かではないが、高瀬町誌に「讃岐忌部氏は江戸時代の中ごろまで豊中町竹田字忌部にいたがその後高瀬町上麻に転住し現在に至る」との記述がある。
竹取物語との関連:
竹取物語のモデルとなった場所として、岩波・新潮・講談社の「竹取物語研究書」は現在の奈良県北葛城郡広陵町としている。広陵町の小字(こあざ)は「笠神」であり、讃岐神社(広陵町)と笠神との間には「笠」なる村が存在し、古語拾遺の「崇神天皇」条に登場する笠縫邑(かさぬいのむら)と共に、讃岐忌部氏との関係が示唆される。 なお、この物語には竹取翁の名前が讃岐造(さぬきのみやつこ)、かぐや姫と名付けたのが三室戸斎部秋田(みむろとのいんべのあきた)とあることと、香川県さぬき市長尾町に鎮座する多和神社の祭神が讃岐忌部氏の祖神・手置帆負命であり、同町の古くからの特産品が竹であることから竹取物語との関係を指摘する声がある。
金毘羅さんとの関連:
祖神・手置帆負命の神名は、手を置いて長さを測る「天御量」の方法で帆を製作したことから生じたのかもしれないとの指摘がある。現在確認できる事蹟から考えると、手置帆負命は船大工であった可能性がある。
こんぴらさんの名で親しまれている香川県仲多度郡琴平町の象頭山(標高538m)中腹に鎮座する金刀比羅宮に対する信仰、いわゆる金毘羅信仰を全国に広めたのが備讃瀬戸に点在する塩飽諸島の人々であった。塩飽の人々は、大麻山や象頭山を眺め天候を判断してきたが、象頭山は古代からの信仰の対象としての神奈備山であり、同時に天候を占う日和山だった。
一方、善通寺市弘田町鬼塚に鎮座する式内社、雲気神社の雲気とは、同社の神奈備山の天霧山にかかる雲の気のことであり、金刀比羅宮はこの雲気神社の論社の1つとされる。また象頭山はそのほとんどが神域となっているが、大部分は楠の自然林である。
これらのことから、手置帆負命の末裔は象頭山周辺の楠で船を造り、大麻山の麓に植えた麻から作った布で帆を張って、瀬戸内海を航行したと考える節もある。
手置帆負命を祀る神社は、境内社としてある神社の境内に祀られていることが多いようです。
私は、日本橋の松嶋神社で、沢山の祭神の中の一柱として祀られていたのを参拝しました。
東郷公園・秩父御嶽(おんたけ)神社
20140728
所在地:埼玉県飯能市坂石580
26日(土)に参拝しました。
この日は龍勢祭りの桟敷席の優先申込みの日であり、私は毎年桟敷席を確保していて、昨年は歴史クラブの行事に提供し、楽しんでもらいました。すると今年はある団体の行事にしたいというので、歴史クラブ先輩のNさんに頼まれ、一緒に桟敷席申込みに秩父市吉田の龍勢会館に行きました。
それが済んで、せっかくだから何処かに寄ろうという事になり、Nさんがここに案内してくれました。
聞けばお姉様がここの宮司の方に嫁したそうです。既に亡くなられているということでしたが。
秩父御嶽神社は、飯能市吾野地域の国道299号線沿いで、子の権現上り口にあります。
高麗川にかかる橋があるので渡ると神社入口です。
橋からの高麗川の眺め(上流)

高麗川の眺め(下流)。右から合流しているのは子の権現から流れてきた水です。

右に神社の大鳥居がありますが、直進すると浅見茶屋を経由して子の権現に至る道です。

社号標
東郷元帥の書です。

この神社は、信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社です。境内壱万五千坪にして、東郷公園を神苑としています。
1894年(明治27年)、秩父郡坂石村芳延(現:飯能市坂石)の百姓庄吉の長男であった鴨下清八(かもした せいはち、文久元年6月5日(1861年7月12日) - 昭和30年(1955年)12月8日)が創建した。清八は久保新衛門、井上頼圀に師事し、国学を修めた。17歳のとき、母が危篤となり、薬、医術も効かず神を頼り御嶽教信徒となって修行、そして母の平癒を見た。清八は神徳を深く信じ、福寿山を開き秩父御嶽神社を祭祀した。
また清八は、日露戦争後の1925年(大正14年)、東郷平八郎元帥の精神を普及させようと募金し、ついに東郷平八郎元帥の銅像が完成、除幕式には、東郷元帥をはじめ、粕谷義三衆議院議長、堀内信水陸軍中将、海軍大臣代理、小笠原長生海軍中将が参列した。日中戦争が始まると、戦勝祈願したが、1945年(昭和20年)7月神託により、時の内閣総理大臣鈴木貫太郎に建白書を呈し、無条件降伏を勧告した。1955年(昭和30年)没。94歳の天寿は当時飯能市の中では最高年長者の1、2を争う歳だった。没後は清貫一誠霊神として祀られる。
大鳥居

この額も東郷元帥の書

参道

案内板

案内図

帰ってから、整理したら巡拝していない摂社などが多い。紅葉の名所らしいので、秋に再訪しようと思う。
二の鳥居

鳥居を過ぎて、左手にムクゲが綺麗に咲いていた。



昭和初期を思わせる建物の里宮会館。

また参道を進む。

秩父御嶽神社を創設した清貫一誠霊神の像。


ここから石段が始まり、奥宮に直線で登っていく階段(男坂)が368段続きます。

猛暑の、それも14時頃です。すぐに汗が噴き出てくるし、熱中症も怖いので、迂回路をのんびりと上がっていくことにしました。
禊殿

傾斜は緩いが、長い坂が続く。

百合が咲いている。


布設水雷と砲弾が石段の左右に置いてあります。
日露戦争日本海海戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが海軍省より下賜されたもの。
布設水雷はロシア軍が旅順港に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。

砲弾はロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられた。


狛犬の間を上がっていくと、東郷元帥の銅像があります。

狛犬の右手に池があり、立派な鯉がたくさん泳いでいた。

石段を上がる。

「紀念公園碑」
題字は、やはり東郷元帥のもの。


その横に、石灯篭を灌木系の樹で笠にして保護していた。

一段上がって東郷元帥の銅像だが、石段の上左右に、日本海海戦時の元帥の有名な言葉が、東郷元帥の字で刻まれている。

「皇国興廃在此一戦」

「各員一層奮励努力」

ここの元帥像は、世界で唯一、東郷元帥の許可を得て建立された銅像にて、大正十四年四月十七日、元帥自らの臨席を仰ぎ序幕式が挙行された。
当時、元帥の徳を慕い銅像建立の許しを願う者は後を絶ちませんでしたが、元帥は断じてこれを許すことはしませんでした。
開祖の鴨下清八氏は、東郷元帥邸をおとずれること八十余回。元帥はその誠意に打たれ、ついに承諾された。
下の写真は、序幕式当時の貴重な一枚です。

元帥像
台座の「嗚呼名将」の献辞は当時の海軍大臣財部彪によるもの。





私は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を愛読していたので、東郷元帥にも親近感があります。
NHKドラマ”坂の上の雲”では、渡哲也が渋~く演じていました。
この時の、参謀秋山真之の「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」は実に名文です。
三笠の被弾甲板です。
東郷長官(当時)の乗る旗艦三笠は、ロシア軍の集中砲火をあび、甲板は蜂の巣状になった。
間近で実物を見ると砲弾の破壊力がよく分かります。甲板の装甲なので厚さは2~3センチ程度ですが、固い鉄板が障子が破れたような形になって捲れている。


この辺の斜面にも百合がたくさん咲いていた。



ちょっと右手に下がっていき、乃木希典大将の像も見に行きました。




「日本海大捷記念碑」


明治天皇御製の歌、東郷元帥の書。

台座の書は、東郷元帥お気に入りの小笠原長生中将の書

「日露戦役記念碑」
大山巌元帥の書

「忠魂碑」
乃木希典大将の書

「東郷神社」
東郷元帥他界の後、昭和10年に建てられた。



社額ではなく、東郷連合艦隊司令長官が賜った勅語が掲載されている。

本殿を仰ぎ見る。

神紋は「蔦」

「東郷元帥の五省」

東郷元帥と日本艦隊を描いたもの


本殿


「至誠館」
東郷元帥来山のおり休憩された、とあったのでそのために建てられた洋館だろう。

一階に置かれている、1901年製のロシア軍の野砲。
当寺の新鋭の野砲で、裏側から見ると発砲の勢いで後退する砲身をスプリングで押し戻す機構部分もよく分かります。日本軍のは、発射と同時に砲車が後退し命中率を下げていたが、このロシア軍の野砲は使用も簡易で命中率も優秀だった。




後退する砲身をスプリングで押し戻す機構部分。

至誠館のテラスから東郷元帥が眺めた方向。今は樹が茂っていて見通しが効かないが、当時は下が良く見えたと思う。

また、エッチラオッチラ登ります(汗)


「三笠山神社」


最後の50段くらいは、石段を上りました。

振り返ると、気が遠くなるほど下から石段が続いている。
下から368段だからね。

また百合の花が迎えてくれます。

ついに、奥宮に到着(嬉)
ほとんど迂回の道で登りましたが、それでも斜面が急なので結構きつかった(汗)
途中、麓の放送が「35度を超えたので熱中症に注意してください」と云っているなかで上りましたから(笑)

この拝殿の社額も東郷元帥の書

幣殿の扉は閉まっていた。
木曽の御岳山を遥拝する向きになっているそうです。

本殿

主祭神は、国常立命、大巳貴命、少彦名命、そして清貫一誠霊神。
賽銭箱の神紋が、扉で塞がれてしまって見えない。里宮会館の中の幔幕に神紋があったので良かった。「三つ蔓葵に片喰」である。

周りはほとんどが落葉樹ですが、見事な杉の林もありました。

この方向に、晴れていればスカイツリーが見えるそうだ。

残念ながら、この日はまったく霞んでしまっていた。

麓の299号線と、西武鉄道の線路が小さく見える。

(了)
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26日(土)に参拝しました。
この日は龍勢祭りの桟敷席の優先申込みの日であり、私は毎年桟敷席を確保していて、昨年は歴史クラブの行事に提供し、楽しんでもらいました。すると今年はある団体の行事にしたいというので、歴史クラブ先輩のNさんに頼まれ、一緒に桟敷席申込みに秩父市吉田の龍勢会館に行きました。
それが済んで、せっかくだから何処かに寄ろうという事になり、Nさんがここに案内してくれました。
聞けばお姉様がここの宮司の方に嫁したそうです。既に亡くなられているということでしたが。
秩父御嶽神社は、飯能市吾野地域の国道299号線沿いで、子の権現上り口にあります。
高麗川にかかる橋があるので渡ると神社入口です。
橋からの高麗川の眺め(上流)

高麗川の眺め(下流)。右から合流しているのは子の権現から流れてきた水です。

右に神社の大鳥居がありますが、直進すると浅見茶屋を経由して子の権現に至る道です。

社号標
東郷元帥の書です。

この神社は、信州木曾御嶽山を本山と仰ぎ、その御分霊を奉斎する御嶽信仰の神社です。境内壱万五千坪にして、東郷公園を神苑としています。
1894年(明治27年)、秩父郡坂石村芳延(現:飯能市坂石)の百姓庄吉の長男であった鴨下清八(かもした せいはち、文久元年6月5日(1861年7月12日) - 昭和30年(1955年)12月8日)が創建した。清八は久保新衛門、井上頼圀に師事し、国学を修めた。17歳のとき、母が危篤となり、薬、医術も効かず神を頼り御嶽教信徒となって修行、そして母の平癒を見た。清八は神徳を深く信じ、福寿山を開き秩父御嶽神社を祭祀した。
また清八は、日露戦争後の1925年(大正14年)、東郷平八郎元帥の精神を普及させようと募金し、ついに東郷平八郎元帥の銅像が完成、除幕式には、東郷元帥をはじめ、粕谷義三衆議院議長、堀内信水陸軍中将、海軍大臣代理、小笠原長生海軍中将が参列した。日中戦争が始まると、戦勝祈願したが、1945年(昭和20年)7月神託により、時の内閣総理大臣鈴木貫太郎に建白書を呈し、無条件降伏を勧告した。1955年(昭和30年)没。94歳の天寿は当時飯能市の中では最高年長者の1、2を争う歳だった。没後は清貫一誠霊神として祀られる。
大鳥居

この額も東郷元帥の書

参道

案内板

案内図

帰ってから、整理したら巡拝していない摂社などが多い。紅葉の名所らしいので、秋に再訪しようと思う。
二の鳥居

鳥居を過ぎて、左手にムクゲが綺麗に咲いていた。



昭和初期を思わせる建物の里宮会館。

また参道を進む。

秩父御嶽神社を創設した清貫一誠霊神の像。


ここから石段が始まり、奥宮に直線で登っていく階段(男坂)が368段続きます。

猛暑の、それも14時頃です。すぐに汗が噴き出てくるし、熱中症も怖いので、迂回路をのんびりと上がっていくことにしました。
禊殿

傾斜は緩いが、長い坂が続く。

百合が咲いている。


布設水雷と砲弾が石段の左右に置いてあります。
日露戦争日本海海戦後、日本軍が掃海し、引き揚げたものが海軍省より下賜されたもの。
布設水雷はロシア軍が旅順港に多数布設され、日本海軍の入港を阻止しました。

砲弾はロシア軍バルチック艦隊より発射された主砲の巨弾で、日本海軍はこのために苦戦をしいられた。


狛犬の間を上がっていくと、東郷元帥の銅像があります。

狛犬の右手に池があり、立派な鯉がたくさん泳いでいた。

石段を上がる。

「紀念公園碑」
題字は、やはり東郷元帥のもの。


その横に、石灯篭を灌木系の樹で笠にして保護していた。

一段上がって東郷元帥の銅像だが、石段の上左右に、日本海海戦時の元帥の有名な言葉が、東郷元帥の字で刻まれている。

「皇国興廃在此一戦」

「各員一層奮励努力」

ここの元帥像は、世界で唯一、東郷元帥の許可を得て建立された銅像にて、大正十四年四月十七日、元帥自らの臨席を仰ぎ序幕式が挙行された。
当時、元帥の徳を慕い銅像建立の許しを願う者は後を絶ちませんでしたが、元帥は断じてこれを許すことはしませんでした。
開祖の鴨下清八氏は、東郷元帥邸をおとずれること八十余回。元帥はその誠意に打たれ、ついに承諾された。
下の写真は、序幕式当時の貴重な一枚です。

元帥像
台座の「嗚呼名将」の献辞は当時の海軍大臣財部彪によるもの。





私は、司馬遼太郎の「坂の上の雲」を愛読していたので、東郷元帥にも親近感があります。
NHKドラマ”坂の上の雲”では、渡哲也が渋~く演じていました。
この時の、参謀秋山真之の「敵艦見ゆとの報に接し、連合艦隊は直ちに出動。之を撃滅せんとす。本日天気晴朗なれど波高し」は実に名文です。
三笠の被弾甲板です。
東郷長官(当時)の乗る旗艦三笠は、ロシア軍の集中砲火をあび、甲板は蜂の巣状になった。
間近で実物を見ると砲弾の破壊力がよく分かります。甲板の装甲なので厚さは2~3センチ程度ですが、固い鉄板が障子が破れたような形になって捲れている。


この辺の斜面にも百合がたくさん咲いていた。



ちょっと右手に下がっていき、乃木希典大将の像も見に行きました。




「日本海大捷記念碑」


明治天皇御製の歌、東郷元帥の書。

台座の書は、東郷元帥お気に入りの小笠原長生中将の書

「日露戦役記念碑」
大山巌元帥の書

「忠魂碑」
乃木希典大将の書

「東郷神社」
東郷元帥他界の後、昭和10年に建てられた。



社額ではなく、東郷連合艦隊司令長官が賜った勅語が掲載されている。

本殿を仰ぎ見る。

神紋は「蔦」

「東郷元帥の五省」

東郷元帥と日本艦隊を描いたもの


本殿


「至誠館」
東郷元帥来山のおり休憩された、とあったのでそのために建てられた洋館だろう。

一階に置かれている、1901年製のロシア軍の野砲。
当寺の新鋭の野砲で、裏側から見ると発砲の勢いで後退する砲身をスプリングで押し戻す機構部分もよく分かります。日本軍のは、発射と同時に砲車が後退し命中率を下げていたが、このロシア軍の野砲は使用も簡易で命中率も優秀だった。




後退する砲身をスプリングで押し戻す機構部分。

至誠館のテラスから東郷元帥が眺めた方向。今は樹が茂っていて見通しが効かないが、当時は下が良く見えたと思う。

また、エッチラオッチラ登ります(汗)


「三笠山神社」


最後の50段くらいは、石段を上りました。

振り返ると、気が遠くなるほど下から石段が続いている。
下から368段だからね。

また百合の花が迎えてくれます。

ついに、奥宮に到着(嬉)
ほとんど迂回の道で登りましたが、それでも斜面が急なので結構きつかった(汗)
途中、麓の放送が「35度を超えたので熱中症に注意してください」と云っているなかで上りましたから(笑)

この拝殿の社額も東郷元帥の書

幣殿の扉は閉まっていた。
木曽の御岳山を遥拝する向きになっているそうです。

本殿

主祭神は、国常立命、大巳貴命、少彦名命、そして清貫一誠霊神。
賽銭箱の神紋が、扉で塞がれてしまって見えない。里宮会館の中の幔幕に神紋があったので良かった。「三つ蔓葵に片喰」である。

周りはほとんどが落葉樹ですが、見事な杉の林もありました。

この方向に、晴れていればスカイツリーが見えるそうだ。

残念ながら、この日はまったく霞んでしまっていた。

麓の299号線と、西武鉄道の線路が小さく見える。

(了)
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広瀬神社のアオバズク
20140726
毎年楽しみにしているアオバズクの営巣、ヒナの子育てですが、地元の山畑さんが毎朝ここで体操をしているので、タイミングよく情報を頂いています。
今年も、ちゃんとペアリングが出来て、営巣に入った由、教えて頂いていました。
そして、22日に最初の一羽のヒナが確認され、続いて今年のヒナは3羽だと報せが入りました。
毎日何らかの予定が入っていて、なかなか飛んでいけずにジレッたい思いをしていましたが、昨日(25日)の朝行くことが出来ました。
しかし、この日は親の2羽を見ることができただけで、ヒナは見ることが出来ませんでした。
今年、営巣したのは樹齢1000年の大ケヤキです。


オスの親鳥


ちょっと離れて、メスの親鳥。


そして、夜に山畑さんから、「19時頃から19時30分位(暗く観ずらくなるまで)までアオバズクの雛が巣穴から出て来て親から餌をもらったり近くの枝まで飛ぶのが確認できました。
2羽は巣穴から出て・・・もう1羽は巣穴から・・・。
先ずはひと安心しました。確実に成長して居るようです。」
との情報が入り、安心しました。
今日(26日)は秩父に行く用事があったので、朝は行くことが出来ず、夕方18時半くらいから行ってみました。
やはり居るのは、大ケヤキでした。

丸のついたところに居ます。

オスの親鳥

そこから離れたところに、ヒナが3羽。一緒に居るはずのメスの親鳥が居ません。
食料調達に行っているのでしょうか。

真ん中のヒナに続いて、右側のヒナが横顔を見せた。

2羽の顔が見えた。

ずっとお尻しか見せていなかった、左側のヒナが下からのぞいてくれた(嬉)

あまり可愛い仕草は、今日はキャッチ出来なかったが、3羽順調に育っていて、本当に嬉しい。
昨年は、ヒナが1羽だけで寂しかったからね。
今年も、ちゃんとペアリングが出来て、営巣に入った由、教えて頂いていました。
そして、22日に最初の一羽のヒナが確認され、続いて今年のヒナは3羽だと報せが入りました。
毎日何らかの予定が入っていて、なかなか飛んでいけずにジレッたい思いをしていましたが、昨日(25日)の朝行くことが出来ました。
しかし、この日は親の2羽を見ることができただけで、ヒナは見ることが出来ませんでした。
今年、営巣したのは樹齢1000年の大ケヤキです。


オスの親鳥


ちょっと離れて、メスの親鳥。


そして、夜に山畑さんから、「19時頃から19時30分位(暗く観ずらくなるまで)までアオバズクの雛が巣穴から出て来て親から餌をもらったり近くの枝まで飛ぶのが確認できました。
2羽は巣穴から出て・・・もう1羽は巣穴から・・・。
先ずはひと安心しました。確実に成長して居るようです。」
との情報が入り、安心しました。
今日(26日)は秩父に行く用事があったので、朝は行くことが出来ず、夕方18時半くらいから行ってみました。
やはり居るのは、大ケヤキでした。

丸のついたところに居ます。

オスの親鳥

そこから離れたところに、ヒナが3羽。一緒に居るはずのメスの親鳥が居ません。
食料調達に行っているのでしょうか。

真ん中のヒナに続いて、右側のヒナが横顔を見せた。

2羽の顔が見えた。

ずっとお尻しか見せていなかった、左側のヒナが下からのぞいてくれた(嬉)

あまり可愛い仕草は、今日はキャッチ出来なかったが、3羽順調に育っていて、本当に嬉しい。
昨年は、ヒナが1羽だけで寂しかったからね。
虎柏神社(延喜式内論社)/東京都青梅市
20140724
所在地:東京都青梅市根ヶ布1-316
12日(土)に、個人的に取り組んでいる武蔵国式内社めぐりで、武蔵御嶽神社、青渭神社の次にお参りしたのが虎柏(とらかしわ)神社です。
青渭神社を出発して、青梅の中心街を過ぎて東青梅の駅の近くから「成木街道」に入ったのだが、ナビに「虎柏神社」が載っているのに入り口が判然としなくて、何度も行ったり来たり・・・・・
ようやく参道の開始地点にたどり着いた。

参道は誰も通っていないらしくて、横に舗装された道がある。

式内社(論社)(小社)・旧郷社
創建時期は不詳であるが崇神天皇の御代に神戸を寄進されたと伝えられ、いわゆる延喜式内社に比定される古社である。
天慶3年(940年)に六孫王・源経基が諏訪大社より諏訪上下神を勧請し、永正年間(1504年 - 1521年)勝沼城主、三田氏宗により再興されたと伝えられ、享保12年(1727年)の「武蔵国多摩郡小曽木郷惣社縁起」には、天正16年(1588年)浅野長政が除疫神(牛頭天王)を勧請したと伝えられている。これが八雲神社である。天正18年(1590年)には正殿に諏訪上下神、東の相殿に虎柏神、西の相殿に除疫神を定め、小曽木郷の総社を号したと記されており、江戸時代は諏訪明神、諏訪宮と称し、今でもお諏訪様と通称される。最寄りバス停の名称は現在でも「諏訪神社」である。
天正19年(1591年)には徳川氏より、朱印地三石を下賜され、朱印高は幕末まで変わることはなかった。明治3年(1870年)、それまで脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。明治6年(1873年)郷社に列する。
『延喜式神名帳』には虎柏神社となっており、同じく論社に調布市の虎狛(こはく)神社がある。
これは神名帳に届ける際、狛の字を柏に写し間違えたのだという説、もともと虎柏だったとする説の両方があるようである。
延喜式名社を廻っているとこういう話によく出くわす。昔は活字ではなくて筆記だったのだから、それが達筆すぎたら間違いは当然起こる(笑)
いずれにしても源経基や浅野長政が登場するのだから、大したものである。
参道

参道を上りかかると、「諏訪國之碑」がある。諏訪上下神を勧請したからであろう。


今度は、「高峯神社旧参道」の碑があります。この神社が、山の上にあるのでしょう。旧参道らしき踏み跡は途中で崖崩れ消失のようです。


参道が右に折れるところで、枝下ろしの最中。少し前の豪雨で大きな枝が傷んだのでしょう。

ちょうどそこの左手に鳥居が立っています。これが「高峯神社」の鳥居です。つまり、ここが新参道の入り口のようです。

クレーン車を通り過ぎて見た参道

手水舎


一段上に社殿があります。

大正13年奉納の狛犬。



拝殿は、向背、虹梁ともにシンプルな形式。




ご祭神は、
正殿(虎柏神社)が大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)。
東相殿(諏訪上下神社)が建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
西相殿(八雲神社)が素盞嗚尊(すさのおのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。
神紋は「丸に違い鷹の羽」であり、これは浅野長政の家紋である。

本殿は享保19年(1734年)の再建で、三間社切妻造だが、覆殿の中にあって外から見ることは難しい。説明板によると東京都内では数少ない三間社の遺構の一つで、建築年代も三間社としては古い時期に属し装飾的要素も控えめで全体的に古式を伝える貴重なもの、とあった。

何とか少ない隙間からやっと撮れたのが、これ。茅葺の屋根と云い、垂木といい、素朴な感じだ。

境内社に移ります。
珍しいのが東と西にそれぞれ「朝日の仮屋」と「夕日の仮屋」がある。
ここで、朝日と夕日を遥拝したのだろう。
「朝日の仮屋」

「夕日の仮屋」

「藤原神社」

「稲荷神社」

境内から上がっていく道があり、ちょっと上がった所に「平松の跡」とある。


細い尾根を100mくらい歩いていく。


ちょっと広まったところがあり、石碑が立っていた。
「囲三丈」というから、笠のように枝が広がり、径9mほどの松があったらしい。
伝承に基づいて、どんな姿だったか図でも添えてくれていると、有難かったな・・・・・


これで、この日の靑梅に存在する式内社三社をめぐる旅は終了しました。
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12日(土)に、個人的に取り組んでいる武蔵国式内社めぐりで、武蔵御嶽神社、青渭神社の次にお参りしたのが虎柏(とらかしわ)神社です。
青渭神社を出発して、青梅の中心街を過ぎて東青梅の駅の近くから「成木街道」に入ったのだが、ナビに「虎柏神社」が載っているのに入り口が判然としなくて、何度も行ったり来たり・・・・・
ようやく参道の開始地点にたどり着いた。

参道は誰も通っていないらしくて、横に舗装された道がある。

式内社(論社)(小社)・旧郷社
創建時期は不詳であるが崇神天皇の御代に神戸を寄進されたと伝えられ、いわゆる延喜式内社に比定される古社である。
天慶3年(940年)に六孫王・源経基が諏訪大社より諏訪上下神を勧請し、永正年間(1504年 - 1521年)勝沼城主、三田氏宗により再興されたと伝えられ、享保12年(1727年)の「武蔵国多摩郡小曽木郷惣社縁起」には、天正16年(1588年)浅野長政が除疫神(牛頭天王)を勧請したと伝えられている。これが八雲神社である。天正18年(1590年)には正殿に諏訪上下神、東の相殿に虎柏神、西の相殿に除疫神を定め、小曽木郷の総社を号したと記されており、江戸時代は諏訪明神、諏訪宮と称し、今でもお諏訪様と通称される。最寄りバス停の名称は現在でも「諏訪神社」である。
天正19年(1591年)には徳川氏より、朱印地三石を下賜され、朱印高は幕末まで変わることはなかった。明治3年(1870年)、それまで脇殿に祀られていた虎柏神を正殿に遷し、諏訪上下神を東の相殿として、虎柏神社の旧称に復した。明治6年(1873年)郷社に列する。
『延喜式神名帳』には虎柏神社となっており、同じく論社に調布市の虎狛(こはく)神社がある。
これは神名帳に届ける際、狛の字を柏に写し間違えたのだという説、もともと虎柏だったとする説の両方があるようである。
延喜式名社を廻っているとこういう話によく出くわす。昔は活字ではなくて筆記だったのだから、それが達筆すぎたら間違いは当然起こる(笑)
いずれにしても源経基や浅野長政が登場するのだから、大したものである。
参道

参道を上りかかると、「諏訪國之碑」がある。諏訪上下神を勧請したからであろう。


今度は、「高峯神社旧参道」の碑があります。この神社が、山の上にあるのでしょう。旧参道らしき踏み跡は途中で崖崩れ消失のようです。


参道が右に折れるところで、枝下ろしの最中。少し前の豪雨で大きな枝が傷んだのでしょう。

ちょうどそこの左手に鳥居が立っています。これが「高峯神社」の鳥居です。つまり、ここが新参道の入り口のようです。

クレーン車を通り過ぎて見た参道

手水舎


一段上に社殿があります。

大正13年奉納の狛犬。



拝殿は、向背、虹梁ともにシンプルな形式。




ご祭神は、
正殿(虎柏神社)が大歳御祖神(おおとしみおやのかみ)、惶根神(かしこねのかみ)。
東相殿(諏訪上下神社)が建御名方命(たけみなかたのみこと)、八坂刀売命(やさかとめのみこと)。
西相殿(八雲神社)が素盞嗚尊(すさのおのみこと)、事代主命(ことしろぬしのみこと)。
神紋は「丸に違い鷹の羽」であり、これは浅野長政の家紋である。

本殿は享保19年(1734年)の再建で、三間社切妻造だが、覆殿の中にあって外から見ることは難しい。説明板によると東京都内では数少ない三間社の遺構の一つで、建築年代も三間社としては古い時期に属し装飾的要素も控えめで全体的に古式を伝える貴重なもの、とあった。

何とか少ない隙間からやっと撮れたのが、これ。茅葺の屋根と云い、垂木といい、素朴な感じだ。

境内社に移ります。
珍しいのが東と西にそれぞれ「朝日の仮屋」と「夕日の仮屋」がある。
ここで、朝日と夕日を遥拝したのだろう。
「朝日の仮屋」

「夕日の仮屋」

「藤原神社」

「稲荷神社」

境内から上がっていく道があり、ちょっと上がった所に「平松の跡」とある。


細い尾根を100mくらい歩いていく。


ちょっと広まったところがあり、石碑が立っていた。
「囲三丈」というから、笠のように枝が広がり、径9mほどの松があったらしい。
伝承に基づいて、どんな姿だったか図でも添えてくれていると、有難かったな・・・・・


これで、この日の靑梅に存在する式内社三社をめぐる旅は終了しました。
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川崎大師・風鈴市、その前に六郷の渡し、川崎宿
20140722
21日に川崎大師の風鈴市に行ってきました。
私は今年で5年目になりますが、今回は歴史クラブの行事となりましたので、せっかくだからと六郷の渡しから川崎宿を見てから、川崎大師に移動することにしました。
京急の「六郷土手」で降りて、まずは「六郷神社」にお参りしました。
【六郷神社】
ここは、私が個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で既に記事にしています。
その記事を読む
山門を入ると、盆踊りの舞台がセットされていました。


以前来た時は撮れなかった拝殿の内部の写真を撮りました。


境内に保存されている、江戸時代の古い、愛嬌たっぷりの狛犬が健在。


木製の六郷橋の柱もありました。

六郷神社の横から旧東海道を歩いて、六郷橋を渡ります。
【六郷橋】
ここは、広重の「東海道五十三次」の川崎宿の浮世絵に登場する「六郷の渡し」跡です。

いまは「六郷橋」という立派な橋がかかっている。

多摩川

下流に形の良い白い橋が見えますが「大師橋」です。
あの橋より手前に川崎大師はあります。

橋を渡りきって川崎側にくると、色々な碑があります。


明治天皇六郷渡御の碑

川崎大師の碑もあります。

「六郷の渡し」の説明

六郷橋を横から

吃驚したことに、「長十郎梨」は川崎発でした(笑)

これが、あとで行く川崎大師への、京急大師線の線路。

この近くに、かって東海道から分かれて川崎大師に行く「大師道」の道標があったのですが、道路拡張などの事情で、現在は川崎大師境内に置かれています。
以前撮ったものを、ここにアップしておきます。

【川崎宿】
しばらく川崎宿を歩きます。



田中本陣跡。掲示だけで何もありません。

今回は、暑いのと時間の関係で、あちこち寄ることはせず、「川崎宿交流館」で概要を勉強してもらいました。


二階には、色々な仕掛けで楽しく川崎宿を学べるようになっていました。楽しかったです。

当時の川崎宿の模型

江戸時代の旅姿

参加者に、こういう旅姿の衣装を着て、この書き割りの前で記念写真を撮りました。
けっこう皆さんノリノリで着て楽しんでいました。

これで、川崎宿は終了して、京急川崎駅前で、マグロがメインの海鮮丼などで昼食を食べ、京急川崎から川崎大師まで電車で移動。いよいよ川崎大師です。
【川崎大師・風鈴市】
仲見世まで来ると、飴切の威勢のよい声がしきりです。


巨大な三門の前で、長老中山さんから川崎大師のウンチクを拝聴し、それからは1時間のフリータイムで、川崎大師と風鈴市を楽しみました。

山門をくぐると正面に大本堂、左手に風鈴市です。


今回は、要所要所で動画を撮ったので、それを一つにつなげてアップしたので、見てください。
音を出すと、風鈴の音もけっこう楽しめますよ。
矢印をクリック
私が今年一番惹かれたのは、諏訪ガラスのガレ調の風鈴でした。


これは、ちょっと予算的に手が出なかったのですが、家に帰ってカミさんに写真を見せると、かみさんがまんざらでもない顔をしていたので、来年はこれを購入しようと思います。
毎年一つずつ購入してきたので5個目になりますが、今年購入したのは「山梨 水晶の風鈴」です。
ただし「ガラスです」の注釈つき。
水晶だったら軒先に吊るせませんよね(笑)
買って帰ってから、箱を開けると「甲州風鈴 光の雫風鈴」と味な銘が書いてありました。


浴衣美人は、今年も居ましたよ。


(了)
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私は今年で5年目になりますが、今回は歴史クラブの行事となりましたので、せっかくだからと六郷の渡しから川崎宿を見てから、川崎大師に移動することにしました。
京急の「六郷土手」で降りて、まずは「六郷神社」にお参りしました。
【六郷神社】
ここは、私が個人的に取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で既に記事にしています。
その記事を読む
山門を入ると、盆踊りの舞台がセットされていました。


以前来た時は撮れなかった拝殿の内部の写真を撮りました。


境内に保存されている、江戸時代の古い、愛嬌たっぷりの狛犬が健在。


木製の六郷橋の柱もありました。

六郷神社の横から旧東海道を歩いて、六郷橋を渡ります。
【六郷橋】
ここは、広重の「東海道五十三次」の川崎宿の浮世絵に登場する「六郷の渡し」跡です。

いまは「六郷橋」という立派な橋がかかっている。

多摩川

下流に形の良い白い橋が見えますが「大師橋」です。
あの橋より手前に川崎大師はあります。

橋を渡りきって川崎側にくると、色々な碑があります。


明治天皇六郷渡御の碑

川崎大師の碑もあります。

「六郷の渡し」の説明

六郷橋を横から

吃驚したことに、「長十郎梨」は川崎発でした(笑)

これが、あとで行く川崎大師への、京急大師線の線路。

この近くに、かって東海道から分かれて川崎大師に行く「大師道」の道標があったのですが、道路拡張などの事情で、現在は川崎大師境内に置かれています。
以前撮ったものを、ここにアップしておきます。

【川崎宿】
しばらく川崎宿を歩きます。



田中本陣跡。掲示だけで何もありません。

今回は、暑いのと時間の関係で、あちこち寄ることはせず、「川崎宿交流館」で概要を勉強してもらいました。


二階には、色々な仕掛けで楽しく川崎宿を学べるようになっていました。楽しかったです。

当時の川崎宿の模型

江戸時代の旅姿

参加者に、こういう旅姿の衣装を着て、この書き割りの前で記念写真を撮りました。
けっこう皆さんノリノリで着て楽しんでいました。

これで、川崎宿は終了して、京急川崎駅前で、マグロがメインの海鮮丼などで昼食を食べ、京急川崎から川崎大師まで電車で移動。いよいよ川崎大師です。
【川崎大師・風鈴市】
仲見世まで来ると、飴切の威勢のよい声がしきりです。


巨大な三門の前で、長老中山さんから川崎大師のウンチクを拝聴し、それからは1時間のフリータイムで、川崎大師と風鈴市を楽しみました。

山門をくぐると正面に大本堂、左手に風鈴市です。


今回は、要所要所で動画を撮ったので、それを一つにつなげてアップしたので、見てください。
音を出すと、風鈴の音もけっこう楽しめますよ。
矢印をクリック
私が今年一番惹かれたのは、諏訪ガラスのガレ調の風鈴でした。


これは、ちょっと予算的に手が出なかったのですが、家に帰ってカミさんに写真を見せると、かみさんがまんざらでもない顔をしていたので、来年はこれを購入しようと思います。
毎年一つずつ購入してきたので5個目になりますが、今年購入したのは「山梨 水晶の風鈴」です。
ただし「ガラスです」の注釈つき。
水晶だったら軒先に吊るせませんよね(笑)
買って帰ってから、箱を開けると「甲州風鈴 光の雫風鈴」と味な銘が書いてありました。


浴衣美人は、今年も居ましたよ。


(了)
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酒解神(さかとけのかみ)/日本の神々の話
20140720
大山祇神(オオヤマツミ)の別名。初めて酒を作って神々に献じた、酒造の祖神とされる。
酒解神は橘氏の祖神。
この話は有名なので説明は省略しますが、木花開耶媛(コノハナサクヤヒメ)が火中出産で彦火火出見尊を産んだので、父神の大山祇神は大変よろこばれ、 狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々に捧供した。 これを穀物から酒を造ったはじまりであるとして、大山祇神を酒解神(さかとけのかみ)、 木花開耶媛を酒解子神と呼んで、造酒の祖神としている。
この神を祭神とする神社:
・京都の梅宮大社
・神名帖に『山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 名神大 月次新嘗 元名山崎社』とある式内社で、通称・酒解神社。
○狭山市の梅宮神社は、承和5年(838)、京都の梅宮神社を勧請したといわれ、毎年2月10日・11日の両日に催される甘酒祭りは、県内でも有名な祭りの一つです。11日は、西方囃子も上演され、大変賑わいます。
祭神は、瓊々杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊、大山祇命。
狭山市の梅宮神社


酒解神は橘氏の祖神。
この話は有名なので説明は省略しますが、木花開耶媛(コノハナサクヤヒメ)が火中出産で彦火火出見尊を産んだので、父神の大山祇神は大変よろこばれ、 狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々に捧供した。 これを穀物から酒を造ったはじまりであるとして、大山祇神を酒解神(さかとけのかみ)、 木花開耶媛を酒解子神と呼んで、造酒の祖神としている。
この神を祭神とする神社:
・京都の梅宮大社
・神名帖に『山城国乙訓郡 自玉手祭来酒解神社 名神大 月次新嘗 元名山崎社』とある式内社で、通称・酒解神社。
○狭山市の梅宮神社は、承和5年(838)、京都の梅宮神社を勧請したといわれ、毎年2月10日・11日の両日に催される甘酒祭りは、県内でも有名な祭りの一つです。11日は、西方囃子も上演され、大変賑わいます。
祭神は、瓊々杵尊、木花咲耶姫命、彦火火出見尊、大山祇命。
狭山市の梅宮神社


青渭神社(延喜式内論社)/東京都青梅市
20140719
所在地:東京都青梅市沢井三丁目1060
12日(土)に、個人的に取り組んでいる武蔵国式内社めぐりで、武蔵御嶽神社の次にお参りしたのが青渭(あおい)神社です。
御嶽ケーブル駅駐車場から下ってきて、御嶽橋を渡ったところで車を停めて、御嶽橋の上から御嶽渓谷を撮りました。



御嶽駅の前を通って

その後が問題です。青梅線の線路に沿ってしばらく行って、山に入っていかなきゃならないんですが、どこから入っていいのか分からない。
勘と度胸で行くしかないと、見当で入って二度ばかり入ったり出たりして、ようやくたどり着きました。

うまい具合に、鳥居の前の空き地に車を停められました。

鳥居の前の道には紫陽花が咲いていて、いい感じでした。

社号標
社格等:式内社 青渭神社、郷社


神社の創立年代は不詳。第10代崇神天皇の御代7年の時に、日本国中に悪病がはやり、天皇は国中の神々に平癒をご祈念なされた。当神社も、その時以来厚く崇敬されてきた。
社が惣岳山上(標高756m)に鎮座しているため、お惣岳様とも言われている。
惣岳とは中華の五嶽(東高水、西大嶽、南光明、北惣岳、中御嶽)に比して、このあたりの山々を総督する意味から名づけたと言われている。
承平年間(931~37)源経基が任国のおり、深く当神社を崇敬し社殿の造営をしたと伝えられている。源経基は平将門を討った一人である。
その昔、祭事が盛んであった頃は、数名の巫女(みこ)が奉仕していたと言われ、現在山頂近くに「いちこの墓」があり、建武4年(1337)の年号が記された板碑がある。その後、三田氏、小田原の北条氏、徳川幕府と厚く崇敬されてきた。
当神社は、第60代醍醐天皇の延喜年間(901-23)に編纂された延喜式神名帳に載せられた式内社とされるが、調布市と稲城市にも比定される青渭神社がある。
何度か火災に遭い社殿が焼失し、その度に、再建されてきた。現在の本社は弘化2年(1845)多摩州沿いの二十六箇町村の浄財をもって再建されたものである。しかし、旧観に復することが出来なかったと言われている。
今は惣岳山上に本殿があり、麓の横尾子に拝殿、神楽殿などがある。祭事は拝殿で行われている。
鳥居から石段が続く。


石段を上がりきると、神楽殿がある広場に出る。

手水舎

綺麗な水が流れていた。青渭神社の名にふさわしい。

更に一段高くなったところに社殿がある。

昭和15年奉納の狛犬




拝殿


拝殿内部

本殿は覆屋の中でまったくわからない。

神紋は「右三つ巴」

神楽殿で、三名の方が作業をしていたので、お神楽の準備ですか?と聞いてみると、8月の祭礼のときにする芝居の舞台作りだという。

芝居の「書き割り」に取り掛かったところ。

壁に、いままでの芝居のポスターが貼ってあった。

ちなみに、今年は「白波五人男」をやるのだそうです。
続いて、同じく青梅にある式内社「虎柏神社」に向かいました。
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12日(土)に、個人的に取り組んでいる武蔵国式内社めぐりで、武蔵御嶽神社の次にお参りしたのが青渭(あおい)神社です。
御嶽ケーブル駅駐車場から下ってきて、御嶽橋を渡ったところで車を停めて、御嶽橋の上から御嶽渓谷を撮りました。



御嶽駅の前を通って

その後が問題です。青梅線の線路に沿ってしばらく行って、山に入っていかなきゃならないんですが、どこから入っていいのか分からない。
勘と度胸で行くしかないと、見当で入って二度ばかり入ったり出たりして、ようやくたどり着きました。

うまい具合に、鳥居の前の空き地に車を停められました。

鳥居の前の道には紫陽花が咲いていて、いい感じでした。

社号標
社格等:式内社 青渭神社、郷社


神社の創立年代は不詳。第10代崇神天皇の御代7年の時に、日本国中に悪病がはやり、天皇は国中の神々に平癒をご祈念なされた。当神社も、その時以来厚く崇敬されてきた。
社が惣岳山上(標高756m)に鎮座しているため、お惣岳様とも言われている。
惣岳とは中華の五嶽(東高水、西大嶽、南光明、北惣岳、中御嶽)に比して、このあたりの山々を総督する意味から名づけたと言われている。
承平年間(931~37)源経基が任国のおり、深く当神社を崇敬し社殿の造営をしたと伝えられている。源経基は平将門を討った一人である。
その昔、祭事が盛んであった頃は、数名の巫女(みこ)が奉仕していたと言われ、現在山頂近くに「いちこの墓」があり、建武4年(1337)の年号が記された板碑がある。その後、三田氏、小田原の北条氏、徳川幕府と厚く崇敬されてきた。
当神社は、第60代醍醐天皇の延喜年間(901-23)に編纂された延喜式神名帳に載せられた式内社とされるが、調布市と稲城市にも比定される青渭神社がある。
何度か火災に遭い社殿が焼失し、その度に、再建されてきた。現在の本社は弘化2年(1845)多摩州沿いの二十六箇町村の浄財をもって再建されたものである。しかし、旧観に復することが出来なかったと言われている。
今は惣岳山上に本殿があり、麓の横尾子に拝殿、神楽殿などがある。祭事は拝殿で行われている。
鳥居から石段が続く。


石段を上がりきると、神楽殿がある広場に出る。

手水舎

綺麗な水が流れていた。青渭神社の名にふさわしい。

更に一段高くなったところに社殿がある。

昭和15年奉納の狛犬




拝殿


拝殿内部

本殿は覆屋の中でまったくわからない。

神紋は「右三つ巴」

神楽殿で、三名の方が作業をしていたので、お神楽の準備ですか?と聞いてみると、8月の祭礼のときにする芝居の舞台作りだという。

芝居の「書き割り」に取り掛かったところ。

壁に、いままでの芝居のポスターが貼ってあった。

ちなみに、今年は「白波五人男」をやるのだそうです。
続いて、同じく青梅にある式内社「虎柏神社」に向かいました。
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武蔵御嶽神社(延喜式内論社)(2)/東京都青梅市
20140717
12日(土)に武蔵国式内社めぐりでお参りした、武蔵御嶽神社の続きです。
社殿まで記事にしましたが、その後たくさんある摂社・末社にお参りして歩きました。
東照社
東照大権現(徳川家康公)を祭る。本社玉垣内にあり、本社の向かって右側に位置している。現在の社殿は一間社流造の簡素なものであるが、もともとは現在の皇御孫命社の社殿が東照社であった。


「神山霊土歌碑」
当社の土の霊力が、害虫封じ・方位除け・危難消除等に崇められていることが彫られている。
題字:■島種臣(外務郷)、書:山岡鉄舟(高歩)、詠:本居豊頴(宣長曾孫)によるもの。


皇御孫命社皇御孫命社(すめみまのみこと しゃ):
瓊々杵尊を祭る。本社玉垣内にあり、本社の向かって右側に位置している。瑞垣に囲まれており、社殿は朱塗りの一間社入母屋造で千鳥破風と唐破風がついている。もともとは東照社の社殿であったため、三つ葉葵の紋なども見られる。

侍っているのが、狛犬でなく、豚に見えるが猪だろうと思った。これは初めてだ。



「狛猪」の本家は、京都の護王神社だとのこと。ここは「和気清麻呂」を祀った神社なのですが、和気清麻呂が道鏡の帝位願望に反旗を翻した「宇佐八幡」の神託のあと、流罪にされます。この配流の際、道鏡が差し向けた刺客に襲われるのです。そのとき、突如として300頭のイノシシが現れ、和気清麻呂を救いました。それで、先ほど書いた「護王神社」には狛犬でなく、狛猪を飾ったのです。この元東照宮だった、「皇御孫命社」も、昔をたどると、和気清麻呂が祀られたことがあるのかもしれません。あるいは、この山内にも護王神社があったかして、狛猪がここに落ち着いたのでしょうか?
社殿


常磐堅磐社(ときわかきわしゃ):
全国の一宮が祀られている。社殿は永正8年(1511年)以前に造営された旧本殿であり、東京都指定有形文化財に指定されている。一間社流造で漆黒に塗られ荘厳な装飾がほどこされている。

ここだけは、普通の狛犬なんですが、江戸時代のものではないかと思われる、良い感じのものです。
台座の字は、磨滅していて読めません。年代が不明なのは残念です。




漆黒に塗られた社殿が素晴らしい。
旧本殿扉の神紋が、「右尾長三つ巴」になっている。拝殿の神紋では「左三つ巴」だったのに・・・・??






袖扉の龍


大口真神社
大口真神を祭る。本社玉垣内にあり、神明社の後方に瑞垣に囲まれて鎮座している。御嶽神社の眷属である狼を祀っている。古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。現在の社殿は昭和14年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で豪華な彫刻が全体に施されている。

侍っているのは、当然狼である。




彫刻が素晴らしい。








大口真神社の後方は奥宮遥拝所となっている。
奥宮は日本武尊を祭る。本社の南西の山奥の本社より徒歩40分のところにある。


巨福社
埴山姫命を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左奥に鎮座している。流造の小さな社殿が覆殿に納められている。(火之迦具土神を生んで陰部に火傷をし苦しんでいた伊邪那美命の糞から成った神)粘土の神。


北野社
菅原道真を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側に鎮座している。社殿は一間社流造である。


神明社
天照大神を祭る。本社玉垣内にあり、本社の後方に位置している。社殿は神明造である。




二柱社
伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側に鎮座している。社殿は一間社流造の見世棚造である。

八柱社:
八神社(品陀和気命)、八雲社(須佐之男命)、月乃社(月夜見神)、八神社(高御産日神・神産日神・生産日神・玉積産日神・足産日神・大宮賣神・御食津神・事代主神)、春日社(武御雷之男命・天児屋根命)、䗝養社(保食神)、座摩(いかすり)社(生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神)、國造社(天穂日命・天夷鳥命・天太玉命)

社殿の周囲と後ろは全部回って来た。
拝殿前からの眺め。

拝殿から石段を降りたところに宝物殿がある。

宝物殿の前には「畠山重忠」像が。


宝物殿の中には、畠山重忠奉納の「赤糸縅鎧」など沢山の宝物があった。

写真撮影禁止だったので、もちろん撮ってきませんでした。
私が見たかったのは、「鉄製俵型賽銭箱」です。
これは、狭山市の柏原の鋳物師が、慶長15年(1610)に奉納したもの。実に400年前のものになります。
写真では見たことがありましたが、実物を見たかったのです。
宝物殿に入ってすぐの、大国様の前に置かれていて、大国様には触って良いのです。そうすると当然触る前にお賽銭をあげますよね。
だから、展示してある俵型賽銭箱に入れるんですね、みんなが。私もそうしました(笑)

大鳥居と拝殿の間の参道(ほとんど石段)にも末社等があるので、下りながらお参りしていきます。
参道の左右の深い森の緑が実に気持ちいい。

中西伍堂の歌碑
「蝕之月 杉の木の間に かかりゐて 仏法僧を なく小ゑ 遠し」

三柱社
ご祭神:大歳神・御歳神・大山咋神

稲荷社(倉稲魂神)

石祠(祭神不明)

随身門の横に「小説 大菩薩峠 記念碑」があった。
中里介山作の小説「大菩薩峠」は、武蔵御嶽神社広場で行われた、机竜之介と宇津木文之丞の剣道試合を発端に繰り広げられた大河小説である。

「霧の御坂」と刻まれた、この石柱が何かわからなかったので、帰ってから調べました。
これも「大菩薩峠 記念碑」でした。「随神門を入って、霧の御坂を登り、右の小径を行くと奧の宮七代の滝に出る道標があります。・・・・」 という一節があるそうです。

上の方位盤には、小石を載せて装飾していく人が居るようです。

大鳥居の後ろにあって、これも境内社の石碑かと思いこんでしまっていました(笑)
良く読むと、「大麻止乃豆天神社」とあります。武蔵御嶽神社は、式内社「大麻止乃豆天神社」の論社です。


疱瘡社(山末大主神)

これで、大鳥居を出て、ケーブル駅駐車場まで下ります。
帰りも(同じ道なので当然ですが)、気持ちいい道をのんびり下りました。

ケーブルカーを利用しないで、登っている人もいます。

ケーブルカーの時間待ちの間、展望台から眺めた。

これは御嶽渓谷沿いの町。

天気が良ければ、都内もよく見えるようですが、この日はけっこう霞んでしまっていた。

下りのケーブルカーは、ガラガラで一番前に座った。

途中で、上がって来たケーブルカーとすれ違い。

下に到着。


ベンチに帽子が並んでいたので、何かなと思ったら、子供の記念写真用だった(笑)

これで武蔵御嶽神社は終り、車で青渭神社に向かいました。
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社殿まで記事にしましたが、その後たくさんある摂社・末社にお参りして歩きました。
東照社
東照大権現(徳川家康公)を祭る。本社玉垣内にあり、本社の向かって右側に位置している。現在の社殿は一間社流造の簡素なものであるが、もともとは現在の皇御孫命社の社殿が東照社であった。


「神山霊土歌碑」
当社の土の霊力が、害虫封じ・方位除け・危難消除等に崇められていることが彫られている。
題字:■島種臣(外務郷)、書:山岡鉄舟(高歩)、詠:本居豊頴(宣長曾孫)によるもの。


皇御孫命社皇御孫命社(すめみまのみこと しゃ):
瓊々杵尊を祭る。本社玉垣内にあり、本社の向かって右側に位置している。瑞垣に囲まれており、社殿は朱塗りの一間社入母屋造で千鳥破風と唐破風がついている。もともとは東照社の社殿であったため、三つ葉葵の紋なども見られる。

侍っているのが、狛犬でなく、豚に見えるが猪だろうと思った。これは初めてだ。



「狛猪」の本家は、京都の護王神社だとのこと。ここは「和気清麻呂」を祀った神社なのですが、和気清麻呂が道鏡の帝位願望に反旗を翻した「宇佐八幡」の神託のあと、流罪にされます。この配流の際、道鏡が差し向けた刺客に襲われるのです。そのとき、突如として300頭のイノシシが現れ、和気清麻呂を救いました。それで、先ほど書いた「護王神社」には狛犬でなく、狛猪を飾ったのです。この元東照宮だった、「皇御孫命社」も、昔をたどると、和気清麻呂が祀られたことがあるのかもしれません。あるいは、この山内にも護王神社があったかして、狛猪がここに落ち着いたのでしょうか?
社殿


常磐堅磐社(ときわかきわしゃ):
全国の一宮が祀られている。社殿は永正8年(1511年)以前に造営された旧本殿であり、東京都指定有形文化財に指定されている。一間社流造で漆黒に塗られ荘厳な装飾がほどこされている。

ここだけは、普通の狛犬なんですが、江戸時代のものではないかと思われる、良い感じのものです。
台座の字は、磨滅していて読めません。年代が不明なのは残念です。




漆黒に塗られた社殿が素晴らしい。
旧本殿扉の神紋が、「右尾長三つ巴」になっている。拝殿の神紋では「左三つ巴」だったのに・・・・??






袖扉の龍


大口真神社
大口真神を祭る。本社玉垣内にあり、神明社の後方に瑞垣に囲まれて鎮座している。御嶽神社の眷属である狼を祀っている。古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。現在の社殿は昭和14年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で豪華な彫刻が全体に施されている。

侍っているのは、当然狼である。




彫刻が素晴らしい。








大口真神社の後方は奥宮遥拝所となっている。
奥宮は日本武尊を祭る。本社の南西の山奥の本社より徒歩40分のところにある。


巨福社
埴山姫命を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左奥に鎮座している。流造の小さな社殿が覆殿に納められている。(火之迦具土神を生んで陰部に火傷をし苦しんでいた伊邪那美命の糞から成った神)粘土の神。


北野社
菅原道真を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側に鎮座している。社殿は一間社流造である。


神明社
天照大神を祭る。本社玉垣内にあり、本社の後方に位置している。社殿は神明造である。




二柱社
伊弉諾尊と伊弉冉尊を祭る。本社玉垣内にあり、本殿の向かって左側に鎮座している。社殿は一間社流造の見世棚造である。

八柱社:
八神社(品陀和気命)、八雲社(須佐之男命)、月乃社(月夜見神)、八神社(高御産日神・神産日神・生産日神・玉積産日神・足産日神・大宮賣神・御食津神・事代主神)、春日社(武御雷之男命・天児屋根命)、䗝養社(保食神)、座摩(いかすり)社(生井神・福井神・綱長井神・波比祇神・阿須波神)、國造社(天穂日命・天夷鳥命・天太玉命)

社殿の周囲と後ろは全部回って来た。
拝殿前からの眺め。

拝殿から石段を降りたところに宝物殿がある。

宝物殿の前には「畠山重忠」像が。


宝物殿の中には、畠山重忠奉納の「赤糸縅鎧」など沢山の宝物があった。

写真撮影禁止だったので、もちろん撮ってきませんでした。
私が見たかったのは、「鉄製俵型賽銭箱」です。
これは、狭山市の柏原の鋳物師が、慶長15年(1610)に奉納したもの。実に400年前のものになります。
写真では見たことがありましたが、実物を見たかったのです。
宝物殿に入ってすぐの、大国様の前に置かれていて、大国様には触って良いのです。そうすると当然触る前にお賽銭をあげますよね。
だから、展示してある俵型賽銭箱に入れるんですね、みんなが。私もそうしました(笑)

大鳥居と拝殿の間の参道(ほとんど石段)にも末社等があるので、下りながらお参りしていきます。
参道の左右の深い森の緑が実に気持ちいい。

中西伍堂の歌碑
「蝕之月 杉の木の間に かかりゐて 仏法僧を なく小ゑ 遠し」

三柱社
ご祭神:大歳神・御歳神・大山咋神

稲荷社(倉稲魂神)

石祠(祭神不明)

随身門の横に「小説 大菩薩峠 記念碑」があった。
中里介山作の小説「大菩薩峠」は、武蔵御嶽神社広場で行われた、机竜之介と宇津木文之丞の剣道試合を発端に繰り広げられた大河小説である。

「霧の御坂」と刻まれた、この石柱が何かわからなかったので、帰ってから調べました。
これも「大菩薩峠 記念碑」でした。「随神門を入って、霧の御坂を登り、右の小径を行くと奧の宮七代の滝に出る道標があります。・・・・」 という一節があるそうです。

上の方位盤には、小石を載せて装飾していく人が居るようです。

大鳥居の後ろにあって、これも境内社の石碑かと思いこんでしまっていました(笑)
良く読むと、「大麻止乃豆天神社」とあります。武蔵御嶽神社は、式内社「大麻止乃豆天神社」の論社です。


疱瘡社(山末大主神)

これで、大鳥居を出て、ケーブル駅駐車場まで下ります。
帰りも(同じ道なので当然ですが)、気持ちいい道をのんびり下りました。

ケーブルカーを利用しないで、登っている人もいます。

ケーブルカーの時間待ちの間、展望台から眺めた。

これは御嶽渓谷沿いの町。

天気が良ければ、都内もよく見えるようですが、この日はけっこう霞んでしまっていた。

下りのケーブルカーは、ガラガラで一番前に座った。

途中で、上がって来たケーブルカーとすれ違い。

下に到着。


ベンチに帽子が並んでいたので、何かなと思ったら、子供の記念写真用だった(笑)

これで武蔵御嶽神社は終り、車で青渭神社に向かいました。
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武蔵御嶽神社(延喜式内論社)(1)/東京都青梅市
20140715
所在地:東京都青梅市御岳山176
12日(土)に、武蔵国式内社めぐりで、青梅市にある式内社三社を廻りました。
武蔵御嶽神社、青渭神社、虎柏神社の順です。
9時半頃にケーブルカー駅「滝本駅」の駐車場に車を停め、ケーブルカーで上がります。


ハイカー姿の人が多いです。


ちょっと歩くと鳥居があり、その手前に歌碑があった。
矢島稔「永劫に 御岳の宝 邯鄲の声」
上野動物園長などをなさった昆虫学者。


谷を挟んだ向うに御師の集落が見えました。あそこを通っていく。

道は杉の林の中、気持ちのいい道だ。


御師の集落に入りました。



御師の集落を進んでいくと、国の天然記念物「神代ケヤキ」に到着。
推定樹齢1000年!!(平安時代)。樹高約30m、幹周りは約8.2m!




根元の花を入れて撮りました。


土産物屋さんが並んでいる。もうすぐです。

土産物屋さんの通りの石垣にこんな花が。何でしょうか?


一の鳥居に来ました。

手水舎


社号標
式内社:多摩郡 大麻止乃豆天神社、 府社

平成17年酉年式年大祭事業で、神域の樹齢480年余の御神木4本をもって改築した大鳥居。


武蔵御岳山の山上に鎮座する。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内大麻止乃豆天神社という説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。犬を祀っている所から、願掛けのため、犬を連れた参拝客が近年増えている。
由緒:
崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。
文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納される。慶長10年(1605年)には大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には弊殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。
大鳥居を入ってすぐに、狭山市「入曽の獅子舞保存会」奉納碑があった。

随身門







こんな小さい子も頑張って登っている。

講碑がたくさん続く。

二の鳥居(銅鳥居)


参道の左右には杉の巨木が聳える。



あの石段を曲がれば社殿だ(嬉)

「書家耕南之碑」
調べたら、長谷川耕南という著名な書家で、武蔵御嶽山書道講習会を始め、門人、知己により建立されたもの。

石段の上に拝殿が聳える。

もちろん、ここは狛犬でなく狼が侍っている。





拝殿は五間社入母屋造の大きな社殿で、朱塗りで鮮やかに彩られている。

山号が掲げられている。神仏混淆のなごり。

向背の格天井には、龍が描かれている。

拝殿内部

御祭神:
・櫛眞智命(くしまちのみこと)
・大已貴命(おおなむちのみこと)
・少彦名命(すくなひこなのみこと)
奥宮には、日本武尊
御眷属は大口眞神(おおくちまがみ)
向背の彫刻には兔が多かった。

神紋は「十六弁菊」と「左三つ巴」だった。


拝殿の横におみくじの結びが。

拝殿袖扉の龍


拝殿全景を再度拝見。

現在の本殿は一間社神明造で明治10年(1877年)に造営された。



本殿の前に、もちろん大口眞神(おおくちまがみ)が侍っている。




改めて拝見すると、端正で威厳のある本殿でした。

ケーブルカーに乗ってから、参道と社殿を紹介しましたが、ここまでを「その一」として、次回は境内に沢山ある摂社、末社を紹介いたします。
武蔵御嶽神社(2)に移動する
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12日(土)に、武蔵国式内社めぐりで、青梅市にある式内社三社を廻りました。
武蔵御嶽神社、青渭神社、虎柏神社の順です。
9時半頃にケーブルカー駅「滝本駅」の駐車場に車を停め、ケーブルカーで上がります。


ハイカー姿の人が多いです。


ちょっと歩くと鳥居があり、その手前に歌碑があった。
矢島稔「永劫に 御岳の宝 邯鄲の声」
上野動物園長などをなさった昆虫学者。


谷を挟んだ向うに御師の集落が見えました。あそこを通っていく。

道は杉の林の中、気持ちのいい道だ。


御師の集落に入りました。



御師の集落を進んでいくと、国の天然記念物「神代ケヤキ」に到着。
推定樹齢1000年!!(平安時代)。樹高約30m、幹周りは約8.2m!




根元の花を入れて撮りました。


土産物屋さんが並んでいる。もうすぐです。

土産物屋さんの通りの石垣にこんな花が。何でしょうか?


一の鳥居に来ました。

手水舎


社号標
式内社:多摩郡 大麻止乃豆天神社、 府社

平成17年酉年式年大祭事業で、神域の樹齢480年余の御神木4本をもって改築した大鳥居。


武蔵御岳山の山上に鎮座する。中世以降、山岳信仰の霊場として発展し、武蔵・相模に渡る信仰圏を獲得した。式内大麻止乃豆天神社という説があり、旧府社である。現在は神社本庁に属していない単立神社である。犬を祀っている所から、願掛けのため、犬を連れた参拝客が近年増えている。
由緒:
崇神天皇7年(紀元前91年)の創建とされ、天平8年(736年)に行基が蔵王権現を勧請したといわれる。
文暦元年(1234年)に大中臣国兼が荒廃していた社殿を再興し、以降は修験場として知られ、関東の幕府や武士から多くの武具が奉納される。慶長10年(1605年)には大久保長安を普請奉行として本社が、元禄13年(1700年)には弊殿と拝殿が建立された。
明治に入ると神仏分離によって、それまでの御嶽大権現から大麻止乃豆天神社に改称した。これは当社が延喜式に載せられている「大麻止乃豆天神社」に比定されたためであるが、同様に大麻止乃豆天神社であると比定される神社が他にもあったため(稲城市大丸の大麻止乃豆乃天神社)、御嶽神社と改称した。昭和27年(1952年)に現在の武蔵御嶽神社に改称した。
大鳥居を入ってすぐに、狭山市「入曽の獅子舞保存会」奉納碑があった。

随身門







こんな小さい子も頑張って登っている。

講碑がたくさん続く。

二の鳥居(銅鳥居)


参道の左右には杉の巨木が聳える。



あの石段を曲がれば社殿だ(嬉)

「書家耕南之碑」
調べたら、長谷川耕南という著名な書家で、武蔵御嶽山書道講習会を始め、門人、知己により建立されたもの。

石段の上に拝殿が聳える。

もちろん、ここは狛犬でなく狼が侍っている。





拝殿は五間社入母屋造の大きな社殿で、朱塗りで鮮やかに彩られている。

山号が掲げられている。神仏混淆のなごり。

向背の格天井には、龍が描かれている。

拝殿内部

御祭神:
・櫛眞智命(くしまちのみこと)
・大已貴命(おおなむちのみこと)
・少彦名命(すくなひこなのみこと)
奥宮には、日本武尊
御眷属は大口眞神(おおくちまがみ)
向背の彫刻には兔が多かった。

神紋は「十六弁菊」と「左三つ巴」だった。


拝殿の横におみくじの結びが。

拝殿袖扉の龍


拝殿全景を再度拝見。

現在の本殿は一間社神明造で明治10年(1877年)に造営された。



本殿の前に、もちろん大口眞神(おおくちまがみ)が侍っている。




改めて拝見すると、端正で威厳のある本殿でした。

ケーブルカーに乗ってから、参道と社殿を紹介しましたが、ここまでを「その一」として、次回は境内に沢山ある摂社、末社を紹介いたします。
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入間川の天王さま
20140713
八幡神社の境内社に八雲神社がありますが、毎年7月中旬の日曜日に「天王さま」の夏まつりが行われ、お神輿が担がれています。
私は、午前中小学校のサマースクールの支援に協力してくれる高校生の学生ボランティアに説明と支援する学校を決める説明会を駅の横のコミュニティセンターでしていたので、そのまま駅周辺で昼食を取り、そのまま八幡神社に11時半ころ行きました。
ここで「天王さま」というのは、牛頭天王のことであり、須佐之男命のことです。
牛頭天王は、悪疫・悪病をもたらす怖い神様という事で、それを鎮める祭りなわけです。
これは京都をはじめとする祇園祭と同じです。
八幡神社の境内社の八雲神社。今日は扉が開いています。

入間川のお神輿は、狭山市の中でも群を抜いて大きく、重量も400キロを超えるほどです。
お神輿は八雲神社の中に納められており、安永2年(1773)6月の造営です。屋根には、「ともえ」と寺紋の「卍まんじ」が描かれています。
卍については、明治時代の神仏分離で廃寺となった成円寺(現中央公民館敷地に在った)の頃からの存在を意味し、その古さを伝えています。

担ぎ手が大集合。多い!!

手締めで気合を入れます。

担ぎました。

宮司さんも見守ります。

八幡さんの境内から、いよいよ出ます。

「枝に引っ掛けるなよ!」と気合が入ります。

ちょうど、子供神輿もやってきました。

宮司さんを先頭に進みます。

元気よく担いでいきます。

「祭りの華」の粋なおネエさんも健在!!

せいや! せいや!
駅に近づいたころ、活をいれるために水をかける。
すごい!!


駅まで来た神輿は、ここでユーターンして踏切を越え、白山神社に向かいます。
これを動画で撮ったので、見てください。
音を出していただいた方が、威勢が良くて結構だと思います。
(矢印をクリック)
私は、午前中小学校のサマースクールの支援に協力してくれる高校生の学生ボランティアに説明と支援する学校を決める説明会を駅の横のコミュニティセンターでしていたので、そのまま駅周辺で昼食を取り、そのまま八幡神社に11時半ころ行きました。
ここで「天王さま」というのは、牛頭天王のことであり、須佐之男命のことです。
牛頭天王は、悪疫・悪病をもたらす怖い神様という事で、それを鎮める祭りなわけです。
これは京都をはじめとする祇園祭と同じです。
八幡神社の境内社の八雲神社。今日は扉が開いています。

入間川のお神輿は、狭山市の中でも群を抜いて大きく、重量も400キロを超えるほどです。
お神輿は八雲神社の中に納められており、安永2年(1773)6月の造営です。屋根には、「ともえ」と寺紋の「卍まんじ」が描かれています。
卍については、明治時代の神仏分離で廃寺となった成円寺(現中央公民館敷地に在った)の頃からの存在を意味し、その古さを伝えています。

担ぎ手が大集合。多い!!

手締めで気合を入れます。

担ぎました。

宮司さんも見守ります。

八幡さんの境内から、いよいよ出ます。

「枝に引っ掛けるなよ!」と気合が入ります。

ちょうど、子供神輿もやってきました。

宮司さんを先頭に進みます。

元気よく担いでいきます。

「祭りの華」の粋なおネエさんも健在!!

せいや! せいや!
駅に近づいたころ、活をいれるために水をかける。
すごい!!


駅まで来た神輿は、ここでユーターンして踏切を越え、白山神社に向かいます。
これを動画で撮ったので、見てください。
音を出していただいた方が、威勢が良くて結構だと思います。
(矢印をクリック)
角行 (富士講) /日本の神々の話
20140712
角行が神なの?と云われる方も居るかもしれません。富士塚などに「角行大神」などと刻まれることも多いので、私は民俗的な神も積極的に入れているので、含みました。
長谷川角行(かくぎょう)、天文10年1月15日(1541年2月10日) - 正保3年6月3日(1646年7月15日))
長谷川角行東覚または、書行藤覚ともいう。
江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。
角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという(「フセギ」の原義は未詳のままだが、埼玉県内には現在でも同名の民俗事象が広く見られ、その多くが病魔退散などを目的としている点で冨士講中の「フセギ」との共通性が感じられる)。
最後は人穴の窟中に敬虔なる生涯を終わった。106歳の高齢であったという。
後継:
後継者は日行日玥(にちぎょうにちがん)、赤葉玥心(あかばがんしん)、前野月玥げつがん、村上月心と続いた。村上月心の死後は、月心の二男、村上光清(1682年 - 1759年)の光清派と、月行劊忡(そうじゅう)から食行身禄(じきぎょうみろく、1671年 - 1733年)への身禄派がある。
ちなみに狭山市の富士講石塔はすべて身禄派の系統である。
角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていった。
角行修業の図

人穴入滅の図

長谷川角行(かくぎょう)、天文10年1月15日(1541年2月10日) - 正保3年6月3日(1646年7月15日))
長谷川角行東覚または、書行藤覚ともいう。
江戸時代に富士講を結成した人びとが信仰上の開祖として崇拝した人物。大職冠藤原鎌足の子孫。長崎の武士の左近大輔原久光の子として生まれる。俗名、長谷川左近藤原邦武。
角行の伝記には数種あり、それぞれが内容を異にする。しかし、応仁以来の戦乱の終息と治国安民を待望する父母が北斗星(または北辰妙見菩薩)に祈願して授かった子だとする点や、7歳で北斗星のお告げをうけて己の宿命を自覚し、18歳で廻国修行に出たとする点などは共通して記された。そうした共通記事に即して角行の行状を理解すれば、それはおよそ次のようである。
当初修験道の行者であった角行は、常陸国(一説には水戸藤柄町)での修行を終えて陸奥国達谷窟(悪路王伝説で著名)に至り、その岩窟で修行中に役行者よりお告げを受けて富士山麓の人穴(静岡県富士宮市)に辿り着く。そして、この穴で4寸5分角の角材の上に爪立ちして一千日間の苦行を実践し、永禄3年(1560年)「角行」という行名を与えられる。その後、角行は富士登拝や水垢離を繰り返しつつ廻国し、修行成果をあげるたびに仙元大日神より「フセギ」や「御身抜」(おみぬき)という独特の呪符や曼荼羅を授かった。なお、「フセギ」は、特に病気平癒に効力を発揮する呪符であったらしく、江戸で疫病が万延した際にはこれを数万の人びとに配して救済したという(「フセギ」の原義は未詳のままだが、埼玉県内には現在でも同名の民俗事象が広く見られ、その多くが病魔退散などを目的としている点で冨士講中の「フセギ」との共通性が感じられる)。
最後は人穴の窟中に敬虔なる生涯を終わった。106歳の高齢であったという。
後継:
後継者は日行日玥(にちぎょうにちがん)、赤葉玥心(あかばがんしん)、前野月玥げつがん、村上月心と続いた。村上月心の死後は、月心の二男、村上光清(1682年 - 1759年)の光清派と、月行劊忡(そうじゅう)から食行身禄(じきぎょうみろく、1671年 - 1733年)への身禄派がある。
ちなみに狭山市の富士講石塔はすべて身禄派の系統である。
角行を開祖とする富士講諸派の母体は、教派神道の實行教と扶桑教へとつながっていった。
角行修業の図

人穴入滅の図

阿加流比売神 (あかるひめのかみ)/日本の神々の話
20140711
日本の神々について、自分なりに辞書みたいに集め出しましたが、現在349柱となりました。
それで、その神様たちを紹介していこうと思い、カテゴリーの一つにしました。
50音順に、一日一柱を目標にしてアップしていこうと思っています。
阿加流比売神ですが、私はまだこの神を祭神としている神社にはお参りしたことはありません。
製鉄、青銅に携わった人たちが祀る神を追跡した、谷川健一氏の「青銅の神の足跡」という本に登場しています。
日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女神です。
『古事記』では応神天皇記に記述がある。
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。
『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。
都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。
『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。
『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が東アジアに多く伝わっている。例えば扶余族の高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、倭より渡った新羅王族昔氏の伝承、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうである。
阿加流比売神を祭神とする神社:
・比売許曽神社/大阪市東成区東小橋
『古事記』に記述された「難波の比売碁曾社」に相当する神社であるが、現在、この神社の主祭神は大国主の娘の下照比売命とされている。
・姫島神社/大阪市西淀川区姫島町
『摂津国風土記』逸文の比売島と同名の神社、阿迦留姫命(神社伝承による)が住吉大神とともに祀られている。
・赤留比売命神社(三十歩神社)/大阪市平野区平野東
阿加流比売神が祀られている。
・比売碁曾社/大分県姫島
『豊前国風土記』逸文の「豊国の比売語曾社」に該当する神社。祭神の比売語曽神=阿加流比売神とされている。
*天之日矛(あめのひぼこ):
後に詳しく述べるが、記紀では新羅の王子として、『播磨国風土記』には神として登場する。
この事から、当然渡来系の氏族が奉じる神である。そして製鉄、製銅の地で祀られたり、話に登場することが多い。
*都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=天之日矛の別名
蛇足
上信越高速道路で軽井沢と佐久の間のトンネルで、「閼伽流山トンネル」があります。
私は佐久で育ちましたが、小学校の遠足で閼伽流山に登った思い出があり、この神とこの山は何か関係があるかなと調べてみました。
その結果、閼伽流山の麓に百体観音石仏で有名な明泉寺があり、どうやら仏教語の閼伽(あか)にちなんでいるようで、この神とは関係がありませんでした。
それで、その神様たちを紹介していこうと思い、カテゴリーの一つにしました。
50音順に、一日一柱を目標にしてアップしていこうと思っています。
阿加流比売神ですが、私はまだこの神を祭神としている神社にはお参りしたことはありません。
製鉄、青銅に携わった人たちが祀る神を追跡した、谷川健一氏の「青銅の神の足跡」という本に登場しています。
日本神話に登場する、日の出の太陽を表す赤い瑪瑙の玉の化身とされる女神です。
『古事記』では応神天皇記に記述がある。
昔、新羅のアグヌマ(阿具奴摩、阿具沼)という沼で女が昼寝をしていると、その陰部に日の光が虹のようになって当たった。すると女はたちまち娠んで、赤い玉を産んだ。その様子を見ていた男は乞い願ってその玉を貰い受け、肌身離さず持ち歩いていた。ある日、男が牛で食べ物を山に運んでいる途中、天之日矛と出会った。天之日矛は、男が牛を殺して食べるつもりだと勘違いして捕えて牢獄に入れようとした。男が釈明をしても天之日矛は許さなかったので、男はいつも持ち歩いていた赤い玉を差し出して、ようやく許してもらえた。天之日矛がその玉を持ち帰って床に置くと、玉は美しい娘になった。
天之日矛は娘を正妻とし、娘は毎日美味しい料理を出していた。しかし、ある日奢り高ぶった天之日矛が妻を罵ったので、親の国に帰ると言って小舟に乗って難波の津に逃げてきた。その娘は、難波の比売碁曾の社に鎮まる阿加流比売神であるという。
『日本書紀』では垂仁天皇紀に記述がある。
都怒我阿羅斯等は自分の牛に荷物を背負わせて田舎へ行ったが、牛が急にいなくなってしまった。足跡を追って村の中に入ると、その村の役人が、「この荷の内容からすると、この牛の持ち主はこの牛を食べようとしているのだろう」と言って食べてしまったという。都怒我阿羅斯等は牛の代償として、その村で神として祀られている白い石を譲り受けた。石を持ち帰って寝床に置くと、石は美しい娘になった。
都怒我阿羅斯等が喜んで娘と性交しようとしたが、目を離したすきに娘はいなくなってしまった。都怒我阿羅斯等の妻によれば、娘は東の方へ行ったという。娘は難波に至って比売語曾社の神となり、また、豊国の国前郡へ至って比売語曾社の神となり、二箇所で祀られているという。
『摂津国風土記』逸文にも阿加流比売神と思われる神についての記述がある。
応神天皇の時代、新羅にいた女神が夫から逃れて筑紫国の「伊波比の比売島」に住んでいた。しかし、ここにいてはすぐに夫に見つかるだろうとその島を離れ、難波の島に至り、前に住んでいた島の名前をとって「比売島」と名附けた。
『古事記』の阿加流比売神の出生譚は、女が日光を受けて卵を生み、そこから人間が生まれるという卵生神話の一種であり、類似した説話が東アジアに多く伝わっている。例えば扶余族の高句麗の始祖東明聖王(朱蒙)や新羅の始祖赫居世、倭より渡った新羅王族昔氏の伝承、伽耶諸国のひとつ金官国の始祖首露王の出生譚などがそうである。
阿加流比売神を祭神とする神社:
・比売許曽神社/大阪市東成区東小橋
『古事記』に記述された「難波の比売碁曾社」に相当する神社であるが、現在、この神社の主祭神は大国主の娘の下照比売命とされている。
・姫島神社/大阪市西淀川区姫島町
『摂津国風土記』逸文の比売島と同名の神社、阿迦留姫命(神社伝承による)が住吉大神とともに祀られている。
・赤留比売命神社(三十歩神社)/大阪市平野区平野東
阿加流比売神が祀られている。
・比売碁曾社/大分県姫島
『豊前国風土記』逸文の「豊国の比売語曾社」に該当する神社。祭神の比売語曽神=阿加流比売神とされている。
*天之日矛(あめのひぼこ):
後に詳しく述べるが、記紀では新羅の王子として、『播磨国風土記』には神として登場する。
この事から、当然渡来系の氏族が奉じる神である。そして製鉄、製銅の地で祀られたり、話に登場することが多い。
*都怒我阿羅斯等(つぬがあらしと)=天之日矛の別名
蛇足
上信越高速道路で軽井沢と佐久の間のトンネルで、「閼伽流山トンネル」があります。
私は佐久で育ちましたが、小学校の遠足で閼伽流山に登った思い出があり、この神とこの山は何か関係があるかなと調べてみました。
その結果、閼伽流山の麓に百体観音石仏で有名な明泉寺があり、どうやら仏教語の閼伽(あか)にちなんでいるようで、この神とは関係がありませんでした。
ロビ第67号&68号組立/ロボット「ロビ」
20140710
【第67号】
第67号で紹介されているロボットは、千葉大学大学院工学研究科機械系コース並木研究室で開発された「エアホッケーロボット」。

目と手を連動させたロボットの研究を行っていて、人間の目より早いものを見ることが出来る高速ビジョンの応用を考えて、エアホッケーゲームにたどりついたという。
毎秒500コマの画像高速処理を行い確実にパックを打ち返す。

今回使用するパーツ

今回の作業
① 音声認識/リモコンケーブルを接続する

② 音声認識ボードをヘッドベースに取り付ける


完成状態
人間と同じように脳の場所に 音声認識ボードがある。


【第68号】
第68号で紹介されているロボットは、(株)タカラトミーの2か国語を理解する元気な犬型ロボット「ハローズーマー」。

アグレッシブに動き回り、鳴き声や目で感情を伝える。白黒の模様は一万種類ほどのバリエーションがあり、一体一体異なっている。40以上の犬のしぐさが出来る。音声による命令が可能で、日本語と英語に対応している。実際の「しつけ」のように「お座り」や「伏せ」を覚えさせ、命令を聞くようになっていく。
7月26日発売で、15000円という価格は衝撃的だ。
今回使用するパーツ

今回の作業
① リモコンボードに配線する


② 音声認識ボードの上に取り付ける

完成状態
脳みそがまた増えた。


第67号で紹介されているロボットは、千葉大学大学院工学研究科機械系コース並木研究室で開発された「エアホッケーロボット」。

目と手を連動させたロボットの研究を行っていて、人間の目より早いものを見ることが出来る高速ビジョンの応用を考えて、エアホッケーゲームにたどりついたという。
毎秒500コマの画像高速処理を行い確実にパックを打ち返す。

今回使用するパーツ

今回の作業
① 音声認識/リモコンケーブルを接続する

② 音声認識ボードをヘッドベースに取り付ける


完成状態
人間と同じように脳の場所に 音声認識ボードがある。


【第68号】
第68号で紹介されているロボットは、(株)タカラトミーの2か国語を理解する元気な犬型ロボット「ハローズーマー」。

アグレッシブに動き回り、鳴き声や目で感情を伝える。白黒の模様は一万種類ほどのバリエーションがあり、一体一体異なっている。40以上の犬のしぐさが出来る。音声による命令が可能で、日本語と英語に対応している。実際の「しつけ」のように「お座り」や「伏せ」を覚えさせ、命令を聞くようになっていく。
7月26日発売で、15000円という価格は衝撃的だ。
今回使用するパーツ

今回の作業
① リモコンボードに配線する


② 音声認識ボードの上に取り付ける

完成状態
脳みそがまた増えた。


江戸の経済官僚/佐藤雅美
20140707

この作家は、緻密な時代考証による社会制度や風俗を正確に描写し、とくに江戸時代の町奉行や岡っ引きなどの司法・警察制度のほか医学、医療、学問に詳しく、これらの題材を種々おりまぜた多彩な作品を発表している。 デビュー初期には、歴史的な題材を経済面から考証した歴史経済分野の作品を発表していた。この時期の代表作は第4回新田次郎文学賞を受賞した『大君の通貨』がある。
私には、とても新鮮な話だった。
いままで経済面からの江戸時代を考えたことが無かったから。
頭に残っていることを、ちょっと抜き書きしてみても以下のようである。
家光の時代は、空前のゴールドラッシュであった。
全国の金山、銀山が徳川家のものになったから。
使いに使いまくった。そのために江戸の町はあんなにも発展した。
しかし、五代将軍綱吉の代には、もはや幕府の金庫は空っぽになっていたという。
華やかな印象のある元禄の時代に、である。
幕府は、開府の際に大きなミスを犯した。
天下を治めるというのに、支配地からの租税徴収のみで、全国からの税収などが無かった。だから天下を治めるというのは過剰サービスもいいところだ。
何事も無ければいいが、大地震とか干ばつとか大河の反乱とか、幕府が采配しなければならない災害が起こる。
それで代わりに公的費用を諸大名に負担させる「御手伝普請」というものがあった。
これが、大藩からとか、順番に、とかのルールが無かった。
「油断していた」藩がやられた(笑)
この本では薩摩藩が例として取り上げられている。
宝暦3年(1753)に「美濃・伊勢・尾張川川普請」によって、66万両の累積赤字。
寛政元年(1789)京都の大火で御所などが全焼。京都造営の上納金4年間で20万両。
このときは、田沼と仲がよかった藩主が田沼の目の敵、後任の松平定信に睨まれたから。
田沼をテコに将軍家と血縁を深めたことが、逆にマイナスに働いてしまった。
天保6年(1835)には累積赤字が500万両といい、薩摩藩の収入と借金の利息額が同じになったという。
飲まず食わずで、やっと利息が払える。参勤交代の免除を幕府に願い出という。
それで、薩摩藩はどうやって立て直したのか・・・・・・
田沼が失脚したのは、「日本惣戸税」を打ち出したからだという。
本来は、徳川幕府スタート時点で、こうすべきだったのだ。
しかし、これは徳川御三家を筆頭に諸大名にとっては「青天の霹靂」である。どこも赤字で苦しんでいるのに、税収が減っては、各大名はもっと苦しくなる。
旗本御家人が貧乏だったのは周知の事実だが、内職が当たり前。
そして不動産賃貸の収入が大きかった。
配領地の半分以上を貸して、自分たちはその裏手に暮らす。
勝海舟の父親、勝小吉は小碌だが、四谷御箪笥組に属していた。四谷御箪笥町に276坪の屋敷地を与えられていた。しかし小吉の歴史には、ここが出てこない。
ここは他人に貸して、本所に借地借家して暮らしていた、ということらしい。
その差額とか道場の収入で勝海舟を教育などしたというわけである。
涙ぐましい努力である。
読んでいて、目からウロコの話が続いた。
貨幣の改鋳の話も多くて、紹介しなかったが、なるほどと唸る話が沢山あった。
とても面白く、参考になった。
阿彌神社(延喜式内社)/茨城県稲敷郡阿見町
20140706
所在地:茨城県稲敷郡阿見町竹来1366
6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」で、縦縫神社の次に訪れたこの日最後のお宮です。
社号標
式内社:常陸國信太郡 阿彌神社、旧県社

竹来(高来、たかく)は、常陸国風土記の普都神話に由来する地名で、普都大神の登天(高往く)の聖地である。社地は霞ヶ浦に向いた舌状台地にあり、奥部は中世の竹来館(花ノ井館)の遺構である。この山を普都神話になぞらえて「楯縫山」という。
近世まで信太郡の西半45ヶ村の総社として、信太郡二宮(二宮明神)を称した。明治初頭の県社列格の同年、阿彌神社と改称。社名碑に「懸社延喜式内二宮阿彌神社」、鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に「縣社阿彌神社」とある。
信太郡一宮は、信太郡の東半の総社であった楯縫神社(美浦村)である。この二社は関係が深い。普都神話の聖地(甲楯を脱いだ地=楯脱、登天した地=高来)に由緒を求める。
延喜式神名帳に記載がある(常陸国信太郡小二座)。ただし阿彌神社は論社。
信太郡東西の総社であり、信太郡一宮(楯縫神社)、信太郡二宮(阿彌神社)と称した。
南北朝時代はともに「庄内第一の宗廟」とされた(円密院文書)。
両社で普都神話を縁起とする古式祭を行っていた。
近代社格制度では県社に列格した。
鬱蒼とした鎮守の森を持ち、「阿弥神社樹叢」として阿見町指定天然記念物になっている。境内は茨城県指定緑地環境保全地域(20、阿弥)。参道からは7箇所に渡って北西にのみ小道が分かれ、それぞれ境内社の石祠または石碑を祀っている。本殿裏には巨木が立っている。樹叢に対し、裏手の竹林は荒廃している。
祭神を、そのまま普都大神と記載する地誌(新編常陸国誌、稲敷郡郷土史等)もある。豊城入彦命や高来神という説もある。一方、古来から健御雷之男命を祀る鹿島神社であったという傍証もある。
楯縫神社と霞ヶ浦を介して普都大神を渡御する古式祭(鹿島神事)を行っていた。
鳥居


先ほどの楯縫神社と同じように、深い樹叢の中真っ直ぐに参道が延びる。

手水舎

参道の途中左右に石灯篭。

右手に社殿がある。
これは、元霞ヶ浦海軍航空隊神社の社殿。阿見町は全国に19カ所あった予科練教育の中心地で、そこにあった社殿を終戦時に移築したもの。
現在は近くに予科練平和記念館が建っているそうだ。

神楽殿
旧神宮寺の本殿で、建立は宝暦6年(1756年)である。


拝殿前の広場に出た。

安永6年(1777年)奉納の狛犬






拝殿

鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に
「縣社阿弥神社」とある

拝殿内部

拝殿内部にあった絵馬。何を描いているのだろう。

三間社流造銅板葺の本殿



参道周辺や社殿周辺に幾つかの小さな石祠が祀られている。
『神社名鑑』には、当社の境内社は十五社と記されているが、ほとんど確認できなかった。
『式内社調査報告』には、境内社として以下の十二社の名がある。
稲荷神社、琴平神社、猿田彦神社、千勝神社、雷神社、阿夫利神社、鎮霊社、大杉神社、日枝神社、姥神社、大国主神社、愛宕神社。


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6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」で、縦縫神社の次に訪れたこの日最後のお宮です。
社号標
式内社:常陸國信太郡 阿彌神社、旧県社

竹来(高来、たかく)は、常陸国風土記の普都神話に由来する地名で、普都大神の登天(高往く)の聖地である。社地は霞ヶ浦に向いた舌状台地にあり、奥部は中世の竹来館(花ノ井館)の遺構である。この山を普都神話になぞらえて「楯縫山」という。
近世まで信太郡の西半45ヶ村の総社として、信太郡二宮(二宮明神)を称した。明治初頭の県社列格の同年、阿彌神社と改称。社名碑に「懸社延喜式内二宮阿彌神社」、鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に「縣社阿彌神社」とある。
信太郡一宮は、信太郡の東半の総社であった楯縫神社(美浦村)である。この二社は関係が深い。普都神話の聖地(甲楯を脱いだ地=楯脱、登天した地=高来)に由緒を求める。
延喜式神名帳に記載がある(常陸国信太郡小二座)。ただし阿彌神社は論社。
信太郡東西の総社であり、信太郡一宮(楯縫神社)、信太郡二宮(阿彌神社)と称した。
南北朝時代はともに「庄内第一の宗廟」とされた(円密院文書)。
両社で普都神話を縁起とする古式祭を行っていた。
近代社格制度では県社に列格した。
鬱蒼とした鎮守の森を持ち、「阿弥神社樹叢」として阿見町指定天然記念物になっている。境内は茨城県指定緑地環境保全地域(20、阿弥)。参道からは7箇所に渡って北西にのみ小道が分かれ、それぞれ境内社の石祠または石碑を祀っている。本殿裏には巨木が立っている。樹叢に対し、裏手の竹林は荒廃している。
祭神を、そのまま普都大神と記載する地誌(新編常陸国誌、稲敷郡郷土史等)もある。豊城入彦命や高来神という説もある。一方、古来から健御雷之男命を祀る鹿島神社であったという傍証もある。
楯縫神社と霞ヶ浦を介して普都大神を渡御する古式祭(鹿島神事)を行っていた。
鳥居


先ほどの楯縫神社と同じように、深い樹叢の中真っ直ぐに参道が延びる。

手水舎

参道の途中左右に石灯篭。

右手に社殿がある。
これは、元霞ヶ浦海軍航空隊神社の社殿。阿見町は全国に19カ所あった予科練教育の中心地で、そこにあった社殿を終戦時に移築したもの。
現在は近くに予科練平和記念館が建っているそうだ。

神楽殿
旧神宮寺の本殿で、建立は宝暦6年(1756年)である。


拝殿前の広場に出た。

安永6年(1777年)奉納の狛犬






拝殿

鹿島神宮大宮司奉納の拝殿扁額に
「縣社阿弥神社」とある

拝殿内部

拝殿内部にあった絵馬。何を描いているのだろう。

三間社流造銅板葺の本殿



参道周辺や社殿周辺に幾つかの小さな石祠が祀られている。
『神社名鑑』には、当社の境内社は十五社と記されているが、ほとんど確認できなかった。
『式内社調査報告』には、境内社として以下の十二社の名がある。
稲荷神社、琴平神社、猿田彦神社、千勝神社、雷神社、阿夫利神社、鎮霊社、大杉神社、日枝神社、姥神社、大国主神社、愛宕神社。


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楯縫神社(延喜式内社)/茨城県稲敷郡美浦村
20140704
所在地:茨城県稲敷郡美浦村郷中2988番地
6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
鹿島神宮からバスで移動し、こちらの神社にお参りしました。
参道が長いというので、バスが奥の方に行ってしまい、一の鳥居を確認できないことも多いので心配していましたが、県道の脇に一の鳥居があり、そこにバスを停めることになったので、よかった。

社号標
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)、古名は信太(しだ)郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。
美浦村信太にも同名の楯縫神社(扁額に信太郡惣社としている)がある。

由緒ですが、社伝と別伝があります。
社伝:
主祭神:普都主命
磐筒男・磐筒女、二神之御子で武甕槌命と共に高天原より降って此の国を平定し給う時に自ら齋主神となって神祇を祀り給うた。その為後世戦陣の門出には命を祀るが例となった。昔古大神葦原を平定し復命の時此の地に暫時留り賜へ楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と稱していたが同年七月三日城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内神代大杉 五丈八尺余の霊木の繁り生う地なるが故に大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古には鹿島神事と申して氏子中、吉日良辰を卜い定めて惣氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集合いたし御雷大神、普都主大神の神輿を供奉し霞ヶ浦を渡御竹来二の宮阿彌神社へ送り奉る古式祭が行われた。往古は御神領五十三町歩余ありしが興国年中(西一三四〇)高師冬以賊軍をもって信太の荘を責取らんが為、土人屋代信経と云う者を嚮道として信太の荘を侵し此の時神領不残椋奪され無禄となる。
勧請年歴 人皇参捨四代推古天皇の十六年宮造り607 大同二年再建807 文明八年再建1476 天正十七年藤原利勝 拝殿寄進1589 嘉永七年再建1854
別伝:
新編常陸国誌(江戸時代後期の国学者である中山信名という人が編纂)は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。
稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。
思うに、これらの神社を祀った人々は元は出雲の出身だった可能性が高い。というのも出雲にはかつて楯縫郡という地名があり、『出雲国風土記』に「布都怒志命、天石楯縫ひ直し給ひき。故、楯縫と云ふ」とその名の由緒が見える古い地名なのである。そしてここには現在の当社の祭神、経津主神(フツヌシ)も出てくることも注目できよう。
そして彦狭知命は、後で説明のように工匠の守護神として知られ、土木、建築技術者から崇敬を集めています。
こうしてみると、当社を最初に祀った人々は①タケミカヅチやフツヌシを奉じる氏族(=中臣氏(藤原氏))とも、②出雲系の部民、職人集団で、①の東国征服に力を貸した者たちだったとも推測ができると思う。
*中臣氏(⇒藤原氏)は天児屋根命を祖とするが、タケミカヅチとフツヌシ二神を守護神とし、河内に本拠を持ち、この一帯(鹿島神宮、香取神宮に代表される地域)にも一族が勢力を持っていた。
大鳥居(石造八幡鳥居)


参道は、深い木立の中100m以上ある長いものです。

途中、両部鳥居の二の鳥居があります。

また参道が続きます。

手水舎

社殿の前にきました。

拝殿



本殿
天正17年(1589)造立、近藤利勝(当地の領主、近藤式部大輔藤原利勝)の寄進と伝えられている。




主祭神:普都主命(社伝)、彦狭知命とする別伝もある。
配祀神:大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命
普都主命は経津主神 (ふつぬしのかみ)とも呼ばれ、はっきりしない神で色々な説があります。
長くなるので、ここでは省略します。Wikipediaなどで確認してください。
私は、建御雷之男神が出雲の浜で大国主命に国譲りを迫った際波頭に突き立てた剣、神武天皇の東征の際に熊野で神武天皇が正気を失って倒れた時に天照大御神と高木の神の要請で建御雷之男神が高倉下に託して神武天皇に与えた剣「布都御魂(ふつのみたま)」を神格化したとする説が好きです。
彦狭知命 (ひこさしりのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際、手置帆負神とともに天御量(あめのみはかり)を使って木材を集め、瑞殿(みずのみあらか)を造営しました。
神武天皇の橿原造営の際には、彦狭知命と手置帆負神の子孫が斎斧(いみおの)や斎すき(いみすき)を使って、正殿の造営を行ったとされています。
一方『日本書紀』には、彦狭知命は、祭祀に用いる神聖な盾を奉製する「作盾者(たてぬい)」の役割を与えられると記されています。
一般的に上棟祭では、家屋を守護する神様である屋船久久遅命と屋船豊于気姫命、工匠の神様である手置帆負命と彦狭知命、そして地域の神様である産土神を祀ります。
神紋は、「右三つ巴」と「十五弁八重菊」でした。「十五弁八重菊」は初めてです。

ここには、木製の狛犬があるということで、特にお願いして見せていただきました。
拝殿に上がらせていただきました。

社額

狛犬は、ここに居ました。

一の鳥居のところにあった狛犬の説明を載せておきます。

向かって右側の阿形の獅子



向かって左側の吽形の狛犬



お神輿も安置されていた。

社殿の前に杉の大きな樹があった。


・境内北の方に、地名の由来となる杉の巨木の根幹(径六メートル余)があるとの情報があったが、これはわからなかった。
本殿を寄進した近藤氏の居城「木原城」が、ここより霞ヶ浦寄りにあるが、今は城址だけだが、城好きの人にはたまらないそうだ。
通常の城郭は、一番高い所に本丸を設ける。
ところが木原城は、一番低いところに本丸があったというのだ。
しかし、本丸裏手の水路を使って容易に霞ヶ浦に出られる。つまり脱出が容易な城で、現に二度落城したが、すぐにまた取り返したそうである(笑)
続いて、この日の最後の目的地「阿彌神社」に向かいました。
(続く)
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6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
鹿島神宮からバスで移動し、こちらの神社にお参りしました。
参道が長いというので、バスが奥の方に行ってしまい、一の鳥居を確認できないことも多いので心配していましたが、県道の脇に一の鳥居があり、そこにバスを停めることになったので、よかった。

社号標
楯縫神社(たてぬいじんじゃ)、古名は信太(しだ)郡一宮。式内社(常陸国信太郡、小社)。旧県社。
美浦村信太にも同名の楯縫神社(扁額に信太郡惣社としている)がある。

由緒ですが、社伝と別伝があります。
社伝:
主祭神:普都主命
磐筒男・磐筒女、二神之御子で武甕槌命と共に高天原より降って此の国を平定し給う時に自ら齋主神となって神祇を祀り給うた。その為後世戦陣の門出には命を祀るが例となった。昔古大神葦原を平定し復命の時此の地に暫時留り賜へ楯矛を脱ぎて御魂留賜へし地により此所を楯脱と稱していたが同年七月三日城主近藤式部大輔藤原利勝の原と境内神代大杉 五丈八尺余の霊木の繁り生う地なるが故に大木の木とを合して木原と村名を改めた。昔古には鹿島神事と申して氏子中、吉日良辰を卜い定めて惣氏子(三十三郷五十有余村)時を定めて社前に集合いたし御雷大神、普都主大神の神輿を供奉し霞ヶ浦を渡御竹来二の宮阿彌神社へ送り奉る古式祭が行われた。往古は御神領五十三町歩余ありしが興国年中(西一三四〇)高師冬以賊軍をもって信太の荘を責取らんが為、土人屋代信経と云う者を嚮道として信太の荘を侵し此の時神領不残椋奪され無禄となる。
勧請年歴 人皇参捨四代推古天皇の十六年宮造り607 大同二年再建807 文明八年再建1476 天正十七年藤原利勝 拝殿寄進1589 嘉永七年再建1854
別伝:
新編常陸国誌(江戸時代後期の国学者である中山信名という人が編纂)は「祭神彦狭知命と云伝ふ、郡中東33村の鎮守にして、即本郡の一宮也(社記、二十八社考、二十八社略縁起)、この神は神代の時に、紀伊国の忌部祖、手置帆負神と同く、天照大神の御為に、瑞の御殿を造り、又諸の祭器を作り仕奉りしが、この神は専ら盾を縫ひ作られし故に、楯縫神とも申せしなり(日本紀、古語拾遺)」(原文カナ)とし、「楯縫神」たる彦狭知命を祀る社としている。
木原の村名は「古老相伝云、上古此処茫々たる荒原にして、杉檜処々に生ず、因りて木原と号く、或時一人の翁忽然と出現し、里人に告げて曰、汝等家屋甚だ拙し、此の宮を見て作り立つべしと、一つ尺度を授けて、翁は杉の小陰に入り玉ひぬ、里人再拝教に従て、神前に群参し、此里に家居を始むと云り(二十八社略縁起)」(原文カナ)とし、木原集落の形成が楯縫神社とともにあったことも伝えている。
稲敷郡郷土史には「維新前此は説により誰云ふともなく楯縫神社は大工の祖神なりと称し参拝せしものありしと」と、明治以前まで別伝がそれなりに伝播していたことを示唆する記述がある。
思うに、これらの神社を祀った人々は元は出雲の出身だった可能性が高い。というのも出雲にはかつて楯縫郡という地名があり、『出雲国風土記』に「布都怒志命、天石楯縫ひ直し給ひき。故、楯縫と云ふ」とその名の由緒が見える古い地名なのである。そしてここには現在の当社の祭神、経津主神(フツヌシ)も出てくることも注目できよう。
そして彦狭知命は、後で説明のように工匠の守護神として知られ、土木、建築技術者から崇敬を集めています。
こうしてみると、当社を最初に祀った人々は①タケミカヅチやフツヌシを奉じる氏族(=中臣氏(藤原氏))とも、②出雲系の部民、職人集団で、①の東国征服に力を貸した者たちだったとも推測ができると思う。
*中臣氏(⇒藤原氏)は天児屋根命を祖とするが、タケミカヅチとフツヌシ二神を守護神とし、河内に本拠を持ち、この一帯(鹿島神宮、香取神宮に代表される地域)にも一族が勢力を持っていた。
大鳥居(石造八幡鳥居)


参道は、深い木立の中100m以上ある長いものです。

途中、両部鳥居の二の鳥居があります。

また参道が続きます。

手水舎

社殿の前にきました。

拝殿



本殿
天正17年(1589)造立、近藤利勝(当地の領主、近藤式部大輔藤原利勝)の寄進と伝えられている。




主祭神:普都主命(社伝)、彦狭知命とする別伝もある。
配祀神:大己貴命二座、須佐之男命、宇迦魂命二座、皇産靈命、市杵島姫命、熊野加夫呂岐命
普都主命は経津主神 (ふつぬしのかみ)とも呼ばれ、はっきりしない神で色々な説があります。
長くなるので、ここでは省略します。Wikipediaなどで確認してください。
私は、建御雷之男神が出雲の浜で大国主命に国譲りを迫った際波頭に突き立てた剣、神武天皇の東征の際に熊野で神武天皇が正気を失って倒れた時に天照大御神と高木の神の要請で建御雷之男神が高倉下に託して神武天皇に与えた剣「布都御魂(ふつのみたま)」を神格化したとする説が好きです。
彦狭知命 (ひこさしりのみこと)は、天照大神が天岩戸に隠れてしまった際、手置帆負神とともに天御量(あめのみはかり)を使って木材を集め、瑞殿(みずのみあらか)を造営しました。
神武天皇の橿原造営の際には、彦狭知命と手置帆負神の子孫が斎斧(いみおの)や斎すき(いみすき)を使って、正殿の造営を行ったとされています。
一方『日本書紀』には、彦狭知命は、祭祀に用いる神聖な盾を奉製する「作盾者(たてぬい)」の役割を与えられると記されています。
一般的に上棟祭では、家屋を守護する神様である屋船久久遅命と屋船豊于気姫命、工匠の神様である手置帆負命と彦狭知命、そして地域の神様である産土神を祀ります。
神紋は、「右三つ巴」と「十五弁八重菊」でした。「十五弁八重菊」は初めてです。

ここには、木製の狛犬があるということで、特にお願いして見せていただきました。
拝殿に上がらせていただきました。

社額

狛犬は、ここに居ました。

一の鳥居のところにあった狛犬の説明を載せておきます。

向かって右側の阿形の獅子



向かって左側の吽形の狛犬



お神輿も安置されていた。

社殿の前に杉の大きな樹があった。


・境内北の方に、地名の由来となる杉の巨木の根幹(径六メートル余)があるとの情報があったが、これはわからなかった。
本殿を寄進した近藤氏の居城「木原城」が、ここより霞ヶ浦寄りにあるが、今は城址だけだが、城好きの人にはたまらないそうだ。
通常の城郭は、一番高い所に本丸を設ける。
ところが木原城は、一番低いところに本丸があったというのだ。
しかし、本丸裏手の水路を使って容易に霞ヶ浦に出られる。つまり脱出が容易な城で、現に二度落城したが、すぐにまた取り返したそうである(笑)
続いて、この日の最後の目的地「阿彌神社」に向かいました。
(続く)
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鹿嶋神宮(延喜式内社・常陸国一之宮)/茨城県鹿嶋市
20140703
所在地:茨城県鹿嶋市宮中2306-1
6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
主石神社から南下し、鹿嶋神宮大鳥居の前で美味しい昼食を食べ、心地よい気分でお参りしました。
鹿も詣でる鹿嶋神宮(笑)

社号標
式内社:常陸國鹿嶋郡 鹿嶋神宮 名神大社 月次祭新嘗祭
常陸國一宮、旧官幣大社

鹿嶋神宮の由緒は、鎌倉時代の『鹿島宮社例伝記』に記載されている。同記によると神武天皇元年から21年に造立があったといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。
-方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現鹿島神宮)、坂戸の社(現摂社・坂戸神社)、沼尾の社(現摂社・沼尾神社)の≡社の総称であるともする。その後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつのみこと)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じた。さらに第12代景行天皇の代には、中臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる。
鹿島神宮は、下総国一宮・香取神宮(千葉県香取市、)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。鹿島・香取両神宮とも、古<より朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ケ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両宮はその入り口の重要地に鎮座している。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮はその拠点とされ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。鹿島神宮の社殿が北を向<ことも、蝦夷を意識しての配置といわれている。
竣工したばかりの大鳥居。

以前は、昭和43年竣工の茨城県笠間市稲田産の御影石製で、国産の花崗岩の鳥居としては日本一を誇るものであった。
しかし震災で倒壊しました。
新造を木製と決定し境内から杉の木4本を切り出し、山形県酒田市の木工場へ輸送し、
平成26年6月1日に竣工しました。
まだ木の香りも新たな鳥居です。

手水舎

楼門
境内の入り口には西面して楼門が立ち、「日本三大楼門」の1つに教えられる。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主・徳川頼房の命による造営のもので、棟梁は越前の大工・坂上吉正。
構造は三間一戸(扉0は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は鋼板葺であるが元は檎皮葺という。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である。扁額は東郷平八郎の書。楼門は国の重要文化財に指定されている。


外面には随神が。


内面には、御幣に祭神にふさわしい雷の飾りが。片方が太陽でもう一方が月らしい。


彩色された欄間

楼門と拝殿の間に「茅の輪」がありました。
6月にはお宮にお参りする事が多かったので、これで4度目の茅の輪くぐりでした。


拝殿は入母屋造、檜皮葺。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と違い漆や極彩色がな<、白木のままの簡素な意匠である。



ご祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
その出自について、『古事記』では、伊弉諾尊が珂遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうらの一柱とする(『日本書紀』ではここでタケミカヅチの祖・ミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、天鳥船(あめのとりふね)神(『古事記』)、または経津主神(『日本書紀』)とともに活躍したという。その後、神武東征ではイワレビコ(神武天皇)に神剣(フツミタマノツルギ)を授けた。ただし『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する記述はな<、タケミカツチと鹿島と
の関係は明らかではない。
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので幕府棟梁・鈴木長次の手による。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある。そのため社殿は北面するが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる。
これら本殿・石の問・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。

本殿は三間社流造、樽皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている。元和5年(1619年)の造営までは、現在の境内摂社・奥宮の社殿が本殿として使用されていた。現在の本殿は北を向いているが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあり、参拝者とは相対せず乗を向いているという。この構造に関しては、出雲大社との類似が指摘される。
石の聞は切妻造、槍皮葺で、前面は幣殿に接続する。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている。
幣殿は切妻造、植皮葺で、前面は拝殿に接続する。

延長五年(927) に成立した『延書式』 には、当然ながら伊勢神宮式年遷宮の記述がありますが、以下のような規定も載せられています。「およそ諸国の神社は破るるにしたがいて修理せよ。ただし摂津国の住吉、下絵国の香取、常陸国の鹿嶋などの神社の正殿は、二十年に一度改め造り、その科は便に神税を用いよ。もし神税なくば、すなわち正税をあてよ」。
このように住吉大社や香取神宮、鹿島神宮などでも「式年遷宮」の規定が定められでいました。
それが地方においては、実施が難しく行われなくなっていました。
調べてみると、今年53年ぶりに本殿を修理し、その間仮殿に遷っておられたが、4月に遷宮したばかりと判りました。
その記事を転載しておきます。
鹿嶋市宮中の鹿島神宮(鹿島則良宮司)で、本殿などの修繕工事完了を受け仮殿に移していたご神体を本殿に戻す「上遷宮」と呼ばれる神事が2014年4月7日夜と8日午前中、天皇陛下の勅使を迎えて行われた。延べ約500人もの参列者が厳かな儀式を見守った。
同神宮では、国の重要文化財に指定されている本殿・石の間などが経年劣化で雨漏りするなど傷みが激しくなったため、2012年10月から修繕工事を実施し、今年2月末に完了した。その間、12年2月から、ご神体を仮殿に移していた。
上遷宮は、「遷座の儀」「奉幣(ほうべい)の儀」を合わせた祭儀。7日夜にご神体を仮殿から本殿に戻す遷座の儀、それを受け、8日午前中に勅使に託された天皇陛下からの御幣物を神前に供える奉幣の儀が行われた。遷座の儀には約200人、奉幣の儀は約300人が参列した。
遷座の儀では、漆黒の闇の中、仮殿から出されたご神体が、絹垣と呼ばれる白い布で隠された状態で本殿に運ばれた。仮殿には、鏡餅の上に剣の形の餅を三つ載せた同神宮に伝統的に伝わる特殊神饌(しんせん)が供えられた。
奉幣の儀では、同神宮の鹿島宮司が祝詞を上げた後、宮内庁掌(しょう)典職が務める勅使が、辛櫃(からびつ)に入れた御幣物を出仕者に担がせて本殿に運び入れ、神前に奉納。勅使が祭文を読み上げた。その後、社殿の中で巫女らにより、浦安の舞が奉納された。
一連の神事を終えた鹿島宮司は、参列者を前に「きっと神様も心安らかにしていただけると思う。皆さまをよくお守りしてくださるはず」と話した。
同神宮によると、今回の修繕工事は主に本殿・石の間の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根のふき替えや、木部の漆塗り替え、彩色などを修復。国庫補助事業で総工費は2億55万円。本殿の屋根のふき替えは、1989年以来。上遷宮は53年ぶりだった。
修復なったばかりの本殿。

本殿の背後には杉の巨木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれ神木「杉」とされている。


本殿の横に「神田」がありました。
勅祭社なので、新嘗祭には天皇から幣帛が奉納されます。

神紋は「五三の桐」と「右三つ巴」

仮殿(かりどの)は拝殿の右前方に南面して立っている。仮殿は「権殿」とも記され、本殿造営の際に-時的に神霊を安置するために使用される社殿である。元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁・鈴木長次の手によって建てられた。この仮殿は園の重要文化財に指定されている。



社殿の向かいには、今年7月に竣工するという祈祷殿社務所の銅葺き屋根の工事が行われていた。



神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている。境内の広さは約70ヘクタールにも及び、多くの草木が生育している。樹叢には神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く茨城県内では随-の常緑照葉樹林であり、県の天然記念物に指定されている。
要石や御手洗池を見るため、森の中に入っていきます。

さざれ石があった。

かっては多くの鹿が棲息していたそうです。
その歴史を伝えるため、鹿苑でニホンジカを飼育している。


奥宮
慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納したもの。元和の造営の際にここに移した。





ここから、要石のあるところに進んでいくと、途中石碑があった。
武甕槌大神が鯰の頭を押さえている図である。

杉林のなかをまた進んでいきます。

要石(かなめいし)
境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」「山の宮」ともいう。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型。かつて、地震は地中に棲む大鯨(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯨を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鰐の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。
古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。ついにあきらめたという話が伝わっている。


これが要石。

傍らに、芭蕉の句碑が。
「枯れ枝に鵜のとまりけり穐(あき)の暮」


奥宮まで戻ってきて、御手洗池に向かう角に、ここにも芭蕉の句碑が。
「此松の実生せし代や神の秋」


御手洗池(みたらしいけ) 神宮境内の東方に位置する神池。古くは西の-の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている。池には南崖からの湧水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる。


南崖から、真横に樹が二本生えている。

水量が豊富な湧水

松露庵雪丈(松露庵烏明)の句碑があった。
「涼しさやむかしなからの水の音」

これで一応見る予定のものは終り、大鳥居前のバスに向かって帰ります。
途中、こんな札が。

参道の横には三笠山の森が広がります。

参道で目についた樹。
根元から三本に分かれている。


根元に大きなウロがある。


参道の両側に大きな樹が並ぶ。

今年は12年に一度の例大祭「御船祭」が9/2にある。
そのときには、ぜひとも来るつもりだ。

(続く)
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6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
主石神社から南下し、鹿嶋神宮大鳥居の前で美味しい昼食を食べ、心地よい気分でお参りしました。
鹿も詣でる鹿嶋神宮(笑)

社号標
式内社:常陸國鹿嶋郡 鹿嶋神宮 名神大社 月次祭新嘗祭
常陸國一宮、旧官幣大社

鹿嶋神宮の由緒は、鎌倉時代の『鹿島宮社例伝記』に記載されている。同記によると神武天皇元年から21年に造立があったといい、神宮側ではこの神武天皇元年を創建年としている。
-方『常陸国風土記』にも神宮の由緒が記載されており、「香島の天の大神」が高天原より香島の宮に降臨したとしている。また、この「香島の天の大神」は天の大神の社(現鹿島神宮)、坂戸の社(現摂社・坂戸神社)、沼尾の社(現摂社・沼尾神社)の≡社の総称であるともする。その後第10代崇神天皇の代には、大中臣神聞勝命(おおなかとみかむききかつのみこと)が大坂山で鹿島神から神託を受け、天皇は武器・馬具等を献じた。さらに第12代景行天皇の代には、中臣狭山命が天の大神の神託により舟3隻を奉献したといい、これが御船祭(式年大祭)の起源であるとされる。
鹿島神宮は、下総国一宮・香取神宮(千葉県香取市、)と古来深い関係にあり、「鹿島・香取」と並び称される一対の存在にある。鹿島・香取両神宮とも、古<より朝廷からの崇敬の深い神社である。その神威の背景には、両宮が軍神として信仰されたことにある。古代の関東東部には、現在の霞ケ浦(西浦・北浦)・印旛沼・手賀沼を含む一帯に香取海という内海が広がっており、両宮はその入り口の重要地に鎮座している。この香取海はヤマト政権による蝦夷進出の輸送基地として機能したと見られており、両宮はその拠点とされ、両宮の分霊は朝廷の威を示す神として東北沿岸部の各地で祀られた。鹿島神宮の社殿が北を向<ことも、蝦夷を意識しての配置といわれている。
竣工したばかりの大鳥居。

以前は、昭和43年竣工の茨城県笠間市稲田産の御影石製で、国産の花崗岩の鳥居としては日本一を誇るものであった。
しかし震災で倒壊しました。
新造を木製と決定し境内から杉の木4本を切り出し、山形県酒田市の木工場へ輸送し、
平成26年6月1日に竣工しました。
まだ木の香りも新たな鳥居です。

手水舎

楼門
境内の入り口には西面して楼門が立ち、「日本三大楼門」の1つに教えられる。寛永11年(1634年)、初代水戸藩主・徳川頼房の命による造営のもので、棟梁は越前の大工・坂上吉正。
構造は三間一戸(扉0は省略)、入母屋造の2階建てで、現在は鋼板葺であるが元は檎皮葺という。総朱漆塗りであり、彩色はわずかに欄間等に飾るに抑えるという控え目な意匠である。扁額は東郷平八郎の書。楼門は国の重要文化財に指定されている。


外面には随神が。


内面には、御幣に祭神にふさわしい雷の飾りが。片方が太陽でもう一方が月らしい。


彩色された欄間

楼門と拝殿の間に「茅の輪」がありました。
6月にはお宮にお参りする事が多かったので、これで4度目の茅の輪くぐりでした。


拝殿は入母屋造、檜皮葺。幣殿・拝殿は、本殿・石の間と違い漆や極彩色がな<、白木のままの簡素な意匠である。



ご祭神は武甕槌大神(たけみかづちのおおかみ)
その出自について、『古事記』では、伊弉諾尊が珂遇突智(かぐつち)の首を切り落とした際、剣についた血が岩に飛び散って生まれた三神のうらの一柱とする(『日本書紀』ではここでタケミカヅチの祖・ミカハヤヒが生まれたとする)。また、天孫降臨に先立つ葦原中国平定においては、天鳥船(あめのとりふね)神(『古事記』)、または経津主神(『日本書紀』)とともに活躍したという。その後、神武東征ではイワレビコ(神武天皇)に神剣(フツミタマノツルギ)を授けた。ただし『古事記』『日本書紀』には鹿島神宮に関する記述はな<、タケミカツチと鹿島と
の関係は明らかではない。
主要社殿は、本殿・石の間・幣殿・拝殿からなる。いずれも江戸時代初期の元和5年(1619年)、江戸幕府第2代徳川秀忠の命による造営のもので幕府棟梁・鈴木長次の手による。幣殿は拝殿の後方に建てられ、本殿と幣殿の間を「石の間」と呼ぶ渡り廊下でつなぐという、複合社殿の形式をとっている。楼門を入ってからも参道は真っ直ぐ東へと伸びるが、社殿はその参道の途中で右(南)から接続する特殊な位置関係にある。そのため社殿は北面するが、これは北方の蝦夷を意識した配置ともいわれる。
これら本殿・石の問・幣殿・拝殿は国の重要文化財に指定されている。

本殿は三間社流造、樽皮葺。漆塗りで柱頭・組物等に極彩色が施されている。元和5年(1619年)の造営までは、現在の境内摂社・奥宮の社殿が本殿として使用されていた。現在の本殿は北を向いているが、内部の神座は本殿内陣の南西隅にあり、参拝者とは相対せず乗を向いているという。この構造に関しては、出雲大社との類似が指摘される。
石の聞は切妻造、槍皮葺で、前面は幣殿に接続する。本殿同様、漆塗りで極彩色が施されている。
幣殿は切妻造、植皮葺で、前面は拝殿に接続する。

延長五年(927) に成立した『延書式』 には、当然ながら伊勢神宮式年遷宮の記述がありますが、以下のような規定も載せられています。「およそ諸国の神社は破るるにしたがいて修理せよ。ただし摂津国の住吉、下絵国の香取、常陸国の鹿嶋などの神社の正殿は、二十年に一度改め造り、その科は便に神税を用いよ。もし神税なくば、すなわち正税をあてよ」。
このように住吉大社や香取神宮、鹿島神宮などでも「式年遷宮」の規定が定められでいました。
それが地方においては、実施が難しく行われなくなっていました。
調べてみると、今年53年ぶりに本殿を修理し、その間仮殿に遷っておられたが、4月に遷宮したばかりと判りました。
その記事を転載しておきます。
鹿嶋市宮中の鹿島神宮(鹿島則良宮司)で、本殿などの修繕工事完了を受け仮殿に移していたご神体を本殿に戻す「上遷宮」と呼ばれる神事が2014年4月7日夜と8日午前中、天皇陛下の勅使を迎えて行われた。延べ約500人もの参列者が厳かな儀式を見守った。
同神宮では、国の重要文化財に指定されている本殿・石の間などが経年劣化で雨漏りするなど傷みが激しくなったため、2012年10月から修繕工事を実施し、今年2月末に完了した。その間、12年2月から、ご神体を仮殿に移していた。
上遷宮は、「遷座の儀」「奉幣(ほうべい)の儀」を合わせた祭儀。7日夜にご神体を仮殿から本殿に戻す遷座の儀、それを受け、8日午前中に勅使に託された天皇陛下からの御幣物を神前に供える奉幣の儀が行われた。遷座の儀には約200人、奉幣の儀は約300人が参列した。
遷座の儀では、漆黒の闇の中、仮殿から出されたご神体が、絹垣と呼ばれる白い布で隠された状態で本殿に運ばれた。仮殿には、鏡餅の上に剣の形の餅を三つ載せた同神宮に伝統的に伝わる特殊神饌(しんせん)が供えられた。
奉幣の儀では、同神宮の鹿島宮司が祝詞を上げた後、宮内庁掌(しょう)典職が務める勅使が、辛櫃(からびつ)に入れた御幣物を出仕者に担がせて本殿に運び入れ、神前に奉納。勅使が祭文を読み上げた。その後、社殿の中で巫女らにより、浦安の舞が奉納された。
一連の神事を終えた鹿島宮司は、参列者を前に「きっと神様も心安らかにしていただけると思う。皆さまをよくお守りしてくださるはず」と話した。
同神宮によると、今回の修繕工事は主に本殿・石の間の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根のふき替えや、木部の漆塗り替え、彩色などを修復。国庫補助事業で総工費は2億55万円。本殿の屋根のふき替えは、1989年以来。上遷宮は53年ぶりだった。
修復なったばかりの本殿。

本殿の背後には杉の巨木が立っており、樹高43メートル・根回り12メートルで樹齢約1,000年といわれ神木「杉」とされている。


本殿の横に「神田」がありました。
勅祭社なので、新嘗祭には天皇から幣帛が奉納されます。

神紋は「五三の桐」と「右三つ巴」

仮殿(かりどの)は拝殿の右前方に南面して立っている。仮殿は「権殿」とも記され、本殿造営の際に-時的に神霊を安置するために使用される社殿である。元和5年(1619年)に現在の本殿が造営される際、本殿同様に幕府棟梁・鈴木長次の手によって建てられた。この仮殿は園の重要文化財に指定されている。



社殿の向かいには、今年7月に竣工するという祈祷殿社務所の銅葺き屋根の工事が行われていた。



神宮の鎮座する地は「三笠山(みかさやま)」と称される。この境内は日本の歴史上重要な遺跡であるとして、国の史跡に指定されている。境内の広さは約70ヘクタールにも及び、多くの草木が生育している。樹叢には神宮の長い歴史を象徴するように巨木が多く茨城県内では随-の常緑照葉樹林であり、県の天然記念物に指定されている。
要石や御手洗池を見るため、森の中に入っていきます。

さざれ石があった。

かっては多くの鹿が棲息していたそうです。
その歴史を伝えるため、鹿苑でニホンジカを飼育している。


奥宮
慶長10年(1605)徳川家康が本殿として奉納したもの。元和の造営の際にここに移した。





ここから、要石のあるところに進んでいくと、途中石碑があった。
武甕槌大神が鯰の頭を押さえている図である。

杉林のなかをまた進んでいきます。

要石(かなめいし)
境内東方に位置する霊石。古来「御座石(みまいし)」「山の宮」ともいう。地上では直径30センチメートル・高さ7センチメートルほどで、形状は凹型。かつて、地震は地中に棲む大鯨(おおなまず)が起こすものと考えられていたため、要石はその大鯨を押さえつける地震からの守り神として信仰された。要石は大鰐の頭と尾を抑える杭であるといい、見た目は小さいが地中部分は大きく決して抜くことはできないと言い伝えられている。
古墳の発掘なども指揮した徳川光圀は、1664年、要石の周りを掘らせたが、日が沈んで中断すると、朝までの間に埋まってしまった。そのようなことが2日続いた後、次は昼夜兼行で7日7晩掘り続けたが、底には達しなかった。ついにあきらめたという話が伝わっている。


これが要石。

傍らに、芭蕉の句碑が。
「枯れ枝に鵜のとまりけり穐(あき)の暮」


奥宮まで戻ってきて、御手洗池に向かう角に、ここにも芭蕉の句碑が。
「此松の実生せし代や神の秋」


御手洗池(みたらしいけ) 神宮境内の東方に位置する神池。古くは西の-の鳥居がある大船津から舟でこの地まで進み、潔斎をしてから神宮に参拝したと考えられており、「御手洗」の池名もそれに由来するとされている。池には南崖からの湧水が流れ込み、水深は1メートルほどであるが非常に澄んでいる。


南崖から、真横に樹が二本生えている。

水量が豊富な湧水

松露庵雪丈(松露庵烏明)の句碑があった。
「涼しさやむかしなからの水の音」

これで一応見る予定のものは終り、大鳥居前のバスに向かって帰ります。
途中、こんな札が。

参道の横には三笠山の森が広がります。

参道で目についた樹。
根元から三本に分かれている。


根元に大きなウロがある。


参道の両側に大きな樹が並ぶ。

今年は12年に一度の例大祭「御船祭」が9/2にある。
そのときには、ぜひとも来るつもりだ。

(続く)
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主石(ぬしいし)神社(延喜式内社)/茨城県鉾田市
20140701
所在地:茨城県鉾田市大和田字明神山1028-1
6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
大洗磯前神社から南下して、百里基地・茨城空港の近くの当社にお参りしました。
道路からちょっと石段を上がったところに鳥居。


社号標は藪の中で、まったく読めない。
式内社 常陸國茨城郡 主石神社 旧村社

社伝によれば、欽明天皇の御宇。村人が、一つの成長する石を発見し祀ったのが当社のはじめ。
『略縁誌』によると、その石は四~五尺余りの大きさとなり、光をはなっていたという。そこへ、老翁が出現し、「吾は大山祇神」と名乗って消失した。村人は、この石を神と崇め、石上に祠を建てて祀ったという。
貞観や嘉祥に、神階を授与されたという伝承もあるが、これに関しては、別の見解もある。
三代実録には「鴨大神御子神主玉神」へ従五位上が授けられたと記され、これを、鴨大神御子神と主玉神に2神への授与とし、主玉神=主石神(当社)と見るか、鴨大神御子神主玉神を、岩瀬の鴨大神御子神主玉神社一社と見るかの違い。
境内案内より:
社伝
「上古里人一拳石を土中より拾う。その石、成長して止まず。神の宿り給う ものと畏み、これを浄地に置く。祈るに験あり。石の上に社を建て主石大明 神と崇める。その石、今も成長し、社の縁板を折掲し板を削り対処した。」
明治六年四月 村社
大正六年 供進指定
昭和二十七年七月十八日 宗教法人成立
「主石神社由来記」に愛媛県大三島町旧国幣大社(現別表神社)大山祇神社 の末社とある。
主石神社は古くより存在しており、その後、御祭神、神石から大山祇神社 との関連が生じたものと考えられる。
当社の本殿は天正年間(一五七三~一五九一)の建築との伝えがあるが記 録はない。しかし、その時代の様相を各所に示し、全体に簡素であることも その特徴である。化粧垂木は「反り増し」の技法で先端部を反らせ断面を大きくしている。横羽目板に縦挽き鋸の跡があり、柱の溝に入れる部を丸刃手斧で削るなど 工具の歴史、伝播の状況を知る上で大切である。向拝柱の大面取りや、丸柱 に製作の過程を残し、正面上部の彫り物も広く、浅く時代相を見せ、三間柱流れ造りに珍しく店棚造りにするなど建築史の上からも貴重な存在である。
昭和六十二年四月一日建築物として町指定文化財となる。
鳥居の左手に、石仏が数点あった。

二体のはっきりした石仏があったが、子供を抱いている。慈母観音だろう。

こちらは大正7年建立のもの。

参道には、左右に石灯篭、狛犬と続く。

拝殿の前の狛犬。台石に「皇紀2600年記念 昭和15年」とあるが、明らかにその台石のほうが新しい。狛犬はもっと古いものだと思う。

感じとしては、明治の頃の作風だと思う。いい出来だと思う。





入母屋造り平入の拝殿。

内部には、ほとんど何もなし。

ご祭神は大山祇命
拝殿の後ろに、先に記したように伝天正年間建立の本殿がある。
三間柱流れ造り(店棚造り)


写真を拡大すると、
先端部を反らせ断面を大きくしている「反り増し」の技法の化粧垂木、製作の過程を残した向拝柱の大面取り、丸柱は確認できた。

瑞垣の隙間が小さいので、これがやっと。
境内の案内板には、成長する神石の上に社殿を立てたとあり、その石は今でも成長し続けているとあった。残念ながら、垣に囲まれた本殿の下を見ることは出来なかった。

反対側に斜面があったので、そこに上がって撮ってみた。
瑞垣が近いので、見えるのはこれが精一杯。


本殿の裏にご神木があった。



根元に沢山の大黒様と恵比須様が奉納されていた。

境内に、こんなキノコがあり、私は毒キノコだと思ったが、同行したメンバーの一人が「タマゴダケ」といい、食べられると云ったのでビックリ。


帰ってから調べてみると、子実体は、初めは厚くて白色を呈する外被膜に完全に包み込まれ、白い楕円体状をなすが、後に頂部が裂開し、かさおよび柄が伸び始め、外被膜は深いコップ状のつぼとして柄の基部に残るということだった。
私たちが見たのは、「頂部が裂開し、かさおよび柄が伸び始め」の状態。
食べられるといっても、手は出ないよな、と思っていたが笠が開いた状態だと毒キノコの感じは無い。
Wikipediaにあった写真

(続く)
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6月27日(金)の歴史クラブ「関八州式内社めぐり」の続きです。
大洗磯前神社から南下して、百里基地・茨城空港の近くの当社にお参りしました。
道路からちょっと石段を上がったところに鳥居。


社号標は藪の中で、まったく読めない。
式内社 常陸國茨城郡 主石神社 旧村社

社伝によれば、欽明天皇の御宇。村人が、一つの成長する石を発見し祀ったのが当社のはじめ。
『略縁誌』によると、その石は四~五尺余りの大きさとなり、光をはなっていたという。そこへ、老翁が出現し、「吾は大山祇神」と名乗って消失した。村人は、この石を神と崇め、石上に祠を建てて祀ったという。
貞観や嘉祥に、神階を授与されたという伝承もあるが、これに関しては、別の見解もある。
三代実録には「鴨大神御子神主玉神」へ従五位上が授けられたと記され、これを、鴨大神御子神と主玉神に2神への授与とし、主玉神=主石神(当社)と見るか、鴨大神御子神主玉神を、岩瀬の鴨大神御子神主玉神社一社と見るかの違い。
境内案内より:
社伝
「上古里人一拳石を土中より拾う。その石、成長して止まず。神の宿り給う ものと畏み、これを浄地に置く。祈るに験あり。石の上に社を建て主石大明 神と崇める。その石、今も成長し、社の縁板を折掲し板を削り対処した。」
明治六年四月 村社
大正六年 供進指定
昭和二十七年七月十八日 宗教法人成立
「主石神社由来記」に愛媛県大三島町旧国幣大社(現別表神社)大山祇神社 の末社とある。
主石神社は古くより存在しており、その後、御祭神、神石から大山祇神社 との関連が生じたものと考えられる。
当社の本殿は天正年間(一五七三~一五九一)の建築との伝えがあるが記 録はない。しかし、その時代の様相を各所に示し、全体に簡素であることも その特徴である。化粧垂木は「反り増し」の技法で先端部を反らせ断面を大きくしている。横羽目板に縦挽き鋸の跡があり、柱の溝に入れる部を丸刃手斧で削るなど 工具の歴史、伝播の状況を知る上で大切である。向拝柱の大面取りや、丸柱 に製作の過程を残し、正面上部の彫り物も広く、浅く時代相を見せ、三間柱流れ造りに珍しく店棚造りにするなど建築史の上からも貴重な存在である。
昭和六十二年四月一日建築物として町指定文化財となる。
鳥居の左手に、石仏が数点あった。

二体のはっきりした石仏があったが、子供を抱いている。慈母観音だろう。

こちらは大正7年建立のもの。

参道には、左右に石灯篭、狛犬と続く。

拝殿の前の狛犬。台石に「皇紀2600年記念 昭和15年」とあるが、明らかにその台石のほうが新しい。狛犬はもっと古いものだと思う。

感じとしては、明治の頃の作風だと思う。いい出来だと思う。





入母屋造り平入の拝殿。

内部には、ほとんど何もなし。

ご祭神は大山祇命
拝殿の後ろに、先に記したように伝天正年間建立の本殿がある。
三間柱流れ造り(店棚造り)


写真を拡大すると、
先端部を反らせ断面を大きくしている「反り増し」の技法の化粧垂木、製作の過程を残した向拝柱の大面取り、丸柱は確認できた。

瑞垣の隙間が小さいので、これがやっと。
境内の案内板には、成長する神石の上に社殿を立てたとあり、その石は今でも成長し続けているとあった。残念ながら、垣に囲まれた本殿の下を見ることは出来なかった。

反対側に斜面があったので、そこに上がって撮ってみた。
瑞垣が近いので、見えるのはこれが精一杯。


本殿の裏にご神木があった。



根元に沢山の大黒様と恵比須様が奉納されていた。

境内に、こんなキノコがあり、私は毒キノコだと思ったが、同行したメンバーの一人が「タマゴダケ」といい、食べられると云ったのでビックリ。


帰ってから調べてみると、子実体は、初めは厚くて白色を呈する外被膜に完全に包み込まれ、白い楕円体状をなすが、後に頂部が裂開し、かさおよび柄が伸び始め、外被膜は深いコップ状のつぼとして柄の基部に残るということだった。
私たちが見たのは、「頂部が裂開し、かさおよび柄が伸び始め」の状態。
食べられるといっても、手は出ないよな、と思っていたが笠が開いた状態だと毒キノコの感じは無い。
Wikipediaにあった写真

(続く)
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