高龗神 (たかおかみのかみ)/日本の神々の話

20140830

記紀神話で、神産みにおいて伊邪那岐神が迦具土神を斬り殺した際に生まれた神ですが、記紀において神の名に違いがあります。

『古事記』では、伊邪那岐神が火の神迦具土神の首を斬られたおりに、 その剣の柄に集まった血が、手の指の股から洩れ出てできた二神の御名を闇淤加美神(くらおかみのかみ)と闇御津羽神(くらみつはのかみ)としている。
『日本書紀』の一書には、剣の柄頭からしたたる血から、暗龗(くらおかみ)、闇山祇(くらやまつみ)、闇罔象(くらみつは)が生まれたとある。
また『日本書紀』の一書には、斬られた軻遇突智が三つに分かれ、雷神、大山祇神と共に高龗神(たかおかみのかみ)が生まれたとあります。

高は闇(くら、谷のこと)に対して山峰を指し、古来から闇淤加美神とともに雨を司る神として信仰されている。
闇(くら)は谷あいの意味。淤加美神は、古来より雨を司る龍神。
高・闇の神として対の信仰があるが、高・闇の両神は同神であるという説もある。

そして『古事記』においては、淤加美神の娘に日河比売(ひかはひめ)がおり、スサノオの孫の布波能母遅久奴須奴神(ふはのもぢくぬすぬのかみ)と日河比売との間に深淵之水夜礼花神(ふかふちのみづやれはなのかみ)が生まれ、この神の孫が大国主神であるとしています。

これらの神を祭神として雨乞いに信仰されたのは、奈良時代から信仰されている吉野山中の丹生川上神社であり、平安遷都後は丹生川上神社に加えて京都の貴船神社です。
いずれも雨乞いの神社として信仰されましたが、祈雨の場合は黒馬、止雨の場合は赤か白の馬を奉納しました。
それが生き馬の代わりに馬形の板となり、現在の絵馬になっています。

丹生川上神社は、延喜式でも明神大社として記載されており、神階も従二位、二十二社にも入って崇敬されていました。
しかし戦国時代以降衰微してしまい、明治初期には所在が分からなくなっていました。
そして現在、研究再見の経過から、丹生川上神社上社、丹生川上神社下社、丹生川上神社(中社)の三社となっています。

○丹生川上神社上社ホームページの説明
御祭神は、高龗大神(たかおかみのおおかみ)
相殿神として大山祇神(おおやまつみのかみ)、大雷神(おおいかづちのかみ)。

高龗大神は龍神にて水・雨を掌られる大神様です。生きとし生けるものは、すべて水無くしては生命を保持することはできません。
そして、「農」を以て国の基礎としてきた我が国においては、雨を降らせ、また止めるなど、雨を掌られるこの大神様に対する人々の尊崇の念は極めて篤く、古来より今日に至るまで変わることなく続いています。
この大神は、神代において伊弉諾尊(いざなぎのみこと)が火の神かぐつち神を斬り給うた時に生(あ)れませる神様です。
「高龗大神」は山の峰の龍神、下社に祀る「闇龗神」は谷底に棲まれる龍神のことです。

○そして、丹生川上神社(中社)では、
本殿には罔象女神(みつはのめのかみ)、相殿に伊邪奈岐命・伊邪奈美命をお祀りしています。

◎私がお参りしたのは、品川の荏原神社です。
荏原神社の説明では、
元明天皇の御代、和銅2年(709年)9月9日に、奈良の元官幣大社・丹生川上神社より高龗神(龍神)を勧請し、長元2年(1029年)9月16日に神明宮、宝治元年(1247年)6月19日に京都八坂神社より牛頭天王を勧請し、古より品川の龍神さまとして、源氏、徳川、上杉等、多くの武家の信仰を受けて現在に至っています。
となっています。

品川の荏原神社にお参りした時に吃驚したのは、拝殿の庇の上左右から龍の頭が覗いています。こんなのは初めて見ました。おそらく、ここでしか見られないのでは。
これが龍神でしょうね。
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マダム・サチ

20140828

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系 統: HT ハイブリッドティ
作出年: 1984年  
作出国: フランス
作出者: Meilland メイアン社
花 色: 白色
花 型: 半剣弁高芯咲き
花 径: 大輪
香 り: 微香
開花性: 四季咲き

名前の由来は、鈴木善幸元首相夫人の名前がつけられているそうです。

咲き始めは芯にグリーンがかかり、すっきりとした、優美なイメージがあります。
徐々にグリーは薄れ、純白となる。
香りはほのかですが、香りのよさも相まって、人気のある白薔薇です。


2012年5月24日 狭山市智光山公園ばら園にて


酒解子神(さかとけこのかみ)/日本の神々の話

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酒解神の御子神で木花咲耶媛命のこと

木花開耶媛(コノハナサクヤヒメ)が火中出産で彦火火出見尊を産んだので、父神の大山祇神は大変よろこばれ、 狭名田の茂穂で天甜酒(あめのたむざけ)を造り、天地の神々に捧供した。 これを穀物から酒を造ったはじまりであるとして、大山祇神を酒解神(さかとけのかみ)、 木花開耶媛を酒解子神と呼んで、造酒の祖神としている。

京都の梅宮大社では、祭神を酒解神、酒解子神としています。

○狭山市の梅宮神社は、承和5年(838)、京都の梅宮神社を勧請したといわれ、毎年2月10日・11日の両日に催される甘酒祭りは、県内でも有名な祭りの一つです。11日は、西方囃子も上演され、大変賑わいます。
祭神は、判りやすくするためでしよう、大山祇命、木花咲耶姫命、瓊々杵尊、彦火火出見尊としています。

堂本印象が描いた、木花咲耶媛の絵は切手にもなりました。
昭和4年、二曲一双、絹本着色。
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「平将門と東国武士団」/動乱の東国史

20140826

いままで、断片的に中世の歴史を学んできたが、やはりこの辺で東国に関する中世全体の歴史をおさらいしようと、本を探して全7巻からなる「動乱の東国史」を読み進めることにした。
その第一巻がこの本である。

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目次:
将門と東国-プロローグ
Ⅰ 坂東の歴史風景-古代から中世へ
  1 坂東の風景
  2 交通と自然環境
  3 将門以前
  コラム 御食都国=安房国の神々
Ⅱ 平将門の乱
1 『将門記』と緒戦-鬼怒川=香取内海地域での戦い
2 平氏一族の内紛-将門と良兼
3 調停者将門による坂東支配
コラム 子飼の渡と堀越の渡-毛野川と子飼川
コラム 『将門記』の兵と中世武士-武士とは何か
Ⅲ 新皇将門の敗北
1 新皇将門の国家構想-内海の都と坂東国家
2 東西の兵乱のなかで
3 藤原秀郷と将門の敗北
4 『将門記』の語り
コラム 将門伝説の関連史跡-石井営所の周辺
Ⅳ 勝者たちの歴史-将門以後
1 秀郷流藤原氏の東国蟠踞
2 貞盛流平氏の活動
3 清和源氏と良文流平氏
4 良文流平氏と平忠常の乱
 コラム 三浦氏一族の本拠地-衣笠城
Ⅴ 奥羽の地域社会と前九年・後三年合戦
  1 奥羽の地域社会
  2 前九年・後三年の合戦
  3 清原氏の援軍と東国武士
  4 延久の蝦夷合戦から後三年の合戦へ
  コラム 蝦夷の衣服-狭布の細布胸合わじ
  コラム 中世都市平泉と中尊寺
  コラム 多気宗基の経筒-茨城県土浦市東城寺の経塚
Ⅵ 東国武士団と保元・平治の乱
  1 荘園公領制の成立
  2 荘園・公領をめぐる相克
  3 源義朝と東国武士の抗争
  4 保元・平治の乱と東国武士
  コラム 御厨の風景-『彦火々出見尊絵巻』の一場面から
  コラム 女堀の開削-秀郷流藤原氏の上野・下野への族生
日本列島のなかの東国社会-エピローグ

この目次で、どの範囲の歴史を取り上げているかは分かっていただけたと思うので、初歩的で恥ずかしいのだが、認識を新たにしたこと、整理がついたことを数点挙げておきます。

将門については、吉川英治の本で読んで将門のイメージは残っている。
今回は、常陸、下総が主な舞台ということもあって、あまり気が入らなかったので、将門については省略する。

将門の乱が起こった平安時代中期の、坂東八ケ国と周辺の国の国府の位置。そして主な川の位置。
香取の内海の広大さ、利根川(古利根川)が入間川と合流して東京湾に注いでいる。
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平安時代の主要道路
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平将門追討に功のあった「藤原秀郷(田原藤太)」からの系図。
それぞれの名家が生まれていることがわかる。
歌で名高い西行(佐藤義清)が、藤原秀郷からの嫡流であることに吃驚した。
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源経基は当時武蔵介であり、武蔵権守興世王と共に武蔵武芝と足立郡内の不動倉の稲穀をめぐって争い、将門が調停に乗り出すが調停は失敗、源経基は都に逃げ帰って、将門が謀反と訴えた程度の人物である。
しかし、この源経基が清和源氏の祖なのである。
この系統を見ると、頼朝、義仲に繋がっていく源氏の頭領たる流れ、足利、新田、佐竹、武田に流れていく、中世武者の本流の流れだ。
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源頼朝と木曽義仲の覇権争いの前段階として、二人の父親義朝と義賢との嫡流争いがあった。
義賢が討たれた「大蔵館」というのは、私の住んでいるところからわりと近いところにある。
なので、義朝と義賢について整理出来たのが、私には大きい。
これを少し転載しておこう。

源為義は摂関家に接近し、摂関家の権威と家産機構に依拠しっつ武士団編成を発展させていった。そうしたなかで、摂関家の氏長者藤原頼長と為義の次男義賢との著名な男色関係もあった。
これに対して、政治的な立場を異にしたのが長男義朝である。義朝の母は白河院の近親藤原忠清の娘であったが、父為義が仕える氏長者頼長の父忠実は白河院に関白を解任され蟄居に追い込まれた経緯があり、実権を取り戻した忠実が、白河院近臣の外孫にあたる義朝を忌避した可能性が高いとされている。
そのため義朝は廃嫡されて、永治元年(1141)までには坂東に下向し、相模国の三浦氏に迎えられ、源頼義以来の相伝の「鎌倉楯(館)」に入ったものと推定される。永治元年には、三浦義明の娘との間に長男義平が生まれている。前にふれた下総国相馬御厨や相模国大庭御厨への介入は、その後のことであり、三浦氏を外祖父とする義平が坂東南部の基盤を継承したのであった。ちなみに坂東で、義朝を迎え入れた上総氏(義朝は「上総御曹司」と呼ばれた)、最初に女婿とした三浦氏、次男朝長の母を出した波多野氏は、坂東の摂関家領の荘官でもあった。上総氏は上総国菅生荘(木更津市)、三浦氏は相模国三崎荘(三崎市)、波多野氏は相模国波多野荘(秦野市付近)の在地領主であった。廃嫡された義朝の坂東下向は、摂関家による荘園再編と関係していたとも考えられる。そうだとすると、義朝の坂東での活動は父為義による坂東経営の枠内にあったことになる。父為義と長男義朝の確執は、河内源氏の一族内の問題にすぎなかったのではなかろうか。
【大蔵合戦】
 その後、義朝は都の武者としての道をえらび、一度京都に帰ったのであるが、まもなく下野守に補任される。それに対抗するように、上野国に下向したのが弟義賢であった。廃嫡された義朝にかわって嫡男となった義賢であったが、保延六年(1140)、京都での殺人事件の共犯者として東宮帯刀先生(たてわきせんじょう)の地位を失ってしまう。藤原頼長との男色関係のみでは河内源氏の嫡男はつとまらず、義賢もまた廃嫡されて坂東に下ったのである。
 その後、坂東では、義朝の子義平が外戚三浦氏を背景に南部で勢力を拡大すると、西北部では上野国に下った義賢が利根川を越えて武蔵国へと勢力を伸ばそうとしていた。また、義朝は保元元年(1156)には、日光二荒山神社造営の功によって下野守を重任し、藤姓足利氏を支配下におくとともに上野国の新田義重との同盟関係を強化して、義重の娘を義平の妻とした。こうしたなかで、武蔵国西北部の秩父周辺は義朝=義平の勢力と義賢の勢力とがせめぎ合う場所となりつつあった。
この頃、秩父平氏(平忠常の兄弟将恒系)は武蔵国最大の武士団を形成しており、当主の秩父重隆は武蔵国の                       
留守所総検校職という国衡在庁の役職にあり、利根川を挟んで藤姓足利氏や新田氏と対峠していた。また、秩父氏一族内では、武蔵国留守所総検校職をめぐって、当主重隆と甥の畠山重能が対立しており、畠山重能は源義平を頼んでいたのである。
 義朝=義平の勢力に包囲された状況の秩父重隆は、当然、源義賢と結ぶことになった。義賢は垂隆の娘を妻として「養君」となり、入間川上流の武蔵国比企郡の大蔵館に入って、上野と武蔵の武士団を糾合しようとした。大蔵館は上野国と武蔵国を結ぶ武蔵道の脇道(のちの鎌倉街道)と入間川水系の都幾川が交差する水陸交通の要衝に位置していた。

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そこに拠点を構えた義賢=垂隆勢力に対して、弱冠15歳の義平が率いる軍勢が、突如襲いかかったのは久寿二年(1155)八月十六日のことであった。義賢と重隆はともに討たれ、武名をあげた義平は「鎌倉悪源太」と呼ばれることになる。この大蔵合戦によって、秩父氏の家督権は畠山重能が掌握し、坂東において義朝=義平に対
抗する勢力はほぼ一掃された形であった。
 ちなみに、大蔵合戦で敗れた義賢の二歳の次男駒王丸は、畠山重能らの計らいで信濃国の木曾に逃れ、のちに木曾義仲となる。また、畠山重能と三浦義明の娘(あるいは孫娘)の間に生まれる子が畠山重忠である。


大変面白く読み進めることができた。
これで全体像がはっきりして、何かあるときには特定の武将についても調べることができる。
良い本だと思った。


(了)


高円寺阿波おどり2014

20140824

今年も23日(土)と24日(日)に開催されました。
第58回で、昭和32年(1957)から開催されているといいますから、すごいですね。
今回知ったのですが、高円寺の氏神様氷川神社の例大祭に奉納する踊りとして始まったのだそうです。
だから、昼間は神輿が出たり、例大祭が行われているんですね。
氷川神社の境内には末社の「気象神社」があり、日本唯一ということで有名です。
来年は例大祭も見ようと思いました。

私は今年で三回目になりますが、昨夜23日に行ってきました。
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現地に着いたのが16:10頃。まずパンフレットを入手して、狭山市から参加の「むさし葵連」が、八つある演舞場のどこからスタートするのか調べます。
それで一昨年は中央演舞場で、昨年はパル演舞場で観ました。
ところが、今年は「むさし葵連」は24日に出場となっていました。残念。
それで、今年は今まで見てない「桃園演舞場」で見ることにして、陣取りました。
毎年、通路の最前列を確保して、立ち見です。
踊りのほうは、動画で撮影して、写真は踊り手などを主に撮りました。

まずは踊りが始まる前の表情。
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【頑張ってる子供】
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少女も、大人に負けじと頑張ってます。
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【女踊り】
華麗です。
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【男踊り】
でもカメラは女性の男踊りに向いてしまってましたね。反省。
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【お囃子】
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杉並第八小学校の皆さんも参加した「高円寺阿波おどり もっとよくなれプロジェクト」
毎年大量のゴミが残っていることに心を痛めて、PRポスターの作成、ゴミの持ち帰りの呼びかけ、演舞場でのゴミの回収を行っているそうです。
連に混じって、このように観客席のゴミを回収していました。
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撮影は、一時間半撮り続けて、暗くなったので終了しました。
参加する連が百もあるので、次から次とやってくるので楽しいです。
本場徳島からも7つの煉瓦参加していて、そのうちの一つを動画で撮ることが出来ました。

動画は、二つに分けてアップしてあります。

《その一》
撮影した連は、天翔連、徳島から参加の天水連、びっくり連です。
下記をクリック
動画(その一)を見る



《その二》
撮影した連は、花菱連、舞蝶連、江戸っ子連です。
下記をクリック
動画(その二)を見る



(了)


広瀬の火まつり

20140822

埼玉県狭山市内の水富地区にある上広瀬浅間神社では、毎年8月21日に「広瀬浅間神社の火祭り」が行われます。
私は、今回初めてなので時間的な情報もネットで調べても分からなかったので、とりあえず16時頃に現地に行って見ました。
広瀬浅間神社(富士塚)
鳥居の向こうが富士塚です。
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上がっていくと、二合目にある養蚕神社前に小さいほうの護摩木が、
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五合目の庚申堂奥の広場に大きいほうの護摩木が準備されていた。
この二つの護摩木とも桑の木で作られています。
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富士講「丸ろ講」の方が二人居られたので、少し立ち話をして、今日のプログラムも教えてもらいました。
18:30から神事ということで、まだまだ時間がたっぷりあるので、コンビニのカフェで軽い夕食を食べて時間をつぶしました。
それでも気が急いているので17:30くらいに浅間神社に戻り、あたりをブラブラしながら開始を待ちました。

頂上には、富士山形をしたろうそく立てに火が灯りました。燭台の上のほうが富士山型なのわかりますか。見事ですね。
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富士講の会員を中心とした火祭り保存会の人たちもスタンバイしています。
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また下に行って見ると、屋台もずいぶんと繁盛していました。
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18時から、お囃子の音が聞こえてきたので、行って見ると「広瀬囃子」が始まっていました。
動画を撮ります。
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その頃になると、地域の人たちのお参りが多くなってきました。
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富士講「丸ろ講」の紋です。
赤い丸に「ろ」の字で、「緋ろ背」となります。洒落ていますよね。
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頂上で神事が始まりました。
火祭り保存会の人たちが祝詞を唱えます。
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「広瀬浅間神社の火祭り」は、養蚕の豊作、安産、鎮火の三つを祈願して行われてきたと言われます。そのため、参拝者は、安産にご利益のあるという富士塚の頂上に据え置かれたローソク立てのローソクの燈し掛を貰って帰ったり、火難除けになるという護摩木の燃えたあとの残った炭を貰って帰ったりします。その他にも「広瀬浅間神社の火祭り」には、地元の広瀬囃子保存会による広瀬囃子が奉納されたり、水富地区の女性たちによる民謡踊りが行われたりします。夏の夜の風物詩として、今でも、火祭りには大勢の老若男女が訪れます。

いよいよ、養蚕神社の小さな護摩木に火が点けられました。
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しばらく、ここで動画を撮影して、下に下りて、広瀬囃子を聴きながら小休止。
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20時に大きい護摩木に点火なので、上に上ります。
頂上に参詣する人が長い行列で並んでいます。
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いよいよ、大きい方の護摩木に火がつけられます。
仲川市長が点火しました。
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護摩木の周囲に注連縄が張られています。
昔は、この注連縄に各家から持ち寄った富士山(浅間神社)の掛軸を掛け、護摩木の炎にかざしたそうです。
火にかざす掛軸は注連縄に隙間のないほど集められたようです。
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大きな護摩木が燃え盛る様は壮観です。
しばらく動画を撮影しました。
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大きな護摩木が半分ほど燃えた時点で、失礼しました。
下りていくと、小さいほうの護摩木が燃え尽きて、一面の燠になっていました。
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塚の南側を流れる堀(水路)に沿って、色鮮やかなぼんぼりが回っていました。
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それから、この辺は「水富地区」と呼ばれるように水が豊富なところですが、特に鯉がたくさん泳いでいる「根堀」の辺で光のイベントをしているというので、行って見ました。
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今回は、撮った動画に写真も組み合わせて、ダイジェスト版「広瀬の火まつり」を作成しました。
BGMが、広瀬囃子のときは良いのですが、麓で民謡踊りをしていてその音楽が大音量で流れていたので、「お焚き上げ」の映像とそぐわない面もありますが、それはそれで楽しいかとも(笑)

下記をクリック
動画を見る



(了)


軻遇突智(かぐつち)神/日本の神々の話

20140820

記紀神話における火の神。
『古事記』では、火之夜藝速男神(ひのやぎはやをのかみ)・火之炫毘古神(ひのかがびこのかみ)・火之迦具土神(ひのかぐつちのかみ;加具土命)と表記される。
『日本書紀』では、軻遇突智(かぐつち)、火産霊(ほむすび)と表記される。

『古事記』-「二神の神生み」の段
 (現代語訳)
-前略-
 次に生んだ神の名は、鳥之石楠船神で、またの名は天鳥船という。次に大宜都比賣神を生んだ。次に火之夜藝速男神を生んだ。またの名は火之炫比古神といい、またの名は火之迦具土神という。この子を生んだために、伊邪那美命は、陰部が焼けて病の床に臥された。そのときの嘔吐から成った神の名は、金山比古神と金山比賣神である。
 次に糞から成った神の名は、波邇夜須比古神と波邇夜須比売神である。次に尿から成った神の名は、彌都波能賣神と和久産巣日神である。この和久産巣日神の子は、豊宇氣比賣神という。そして伊邪那美神は、火の神を生んだのが原因で、ついにお亡くなりになった。

『古事記』-「火神迦具土神」の段
 (現代語訳)
 そこで、伊邪那岐命が仰せられるには、「いとしい私の妻を、ただ一人の子に代えようとは思いもよらなかった」と言って、女神の枕もとに這い臥し、足もとに這い臥して泣き悲しんだとき、その御涙から成り出でた神は、香具山のふもとの丘の上、木の下におられる、名は泣沢女神という神である。そしてお亡くなりになった伊邪那美神は、出雲国と伯耆国との境にある比婆の山に葬り申しあげた。
そこで伊邪那岐命は、腰に佩いておられた十拳剣を抜いて、その子迦具土神の頸を斬られた。するとその御剣の先についた血が、神聖な岩の群れに飛び散って、成り出でた神は石拆野神と根拆野神、次に石筒之男神である。三神 次に御剣の本についた血も、神聖な岩の群れに飛び散って、成り出でた神の名は甕速日神、次に樋速日神、次に建御雷之男神で、この神のまたの名は、建布都神といい、豐布都神ともいう。三神 次に御剣の柄にたまった血が、指の聞から漏れ流れて、成り出でた神の名は、闇淤加美神と闇御津羽神である。
  以上の石拆野神から闇御津羽神まで合わせて八神は、御剣によって成り出でた神である。
 また殺された迦具土神の頭に成り出でた神の名は、正鹿山津見神で、次に胸に成り出でた神の名は、淤縢山津見神、次に腹に成り出でた神の名は、奥山津見神、次に陰部に成り出でた神の名は、闇山津見神である。次に左の手に成り出でた神の名は、志藝山津見神、次に右の手に成り出でた神の名は、羽山津見神、次に左の足に成り出でた神の名は、原山津見神、次に右の足に成り出でた神の名は、戸山津見神である。正鹿山津見神から戸山津見神まで、合わせて八神。 そして伊邪那岐命がお斬りになった太刀の名は、天之尾羽張といい、またの名を伊都之尾羽張という。 


軻遇突智神は、火の神、鍛冶の神として信仰されており、
秋葉山本宮秋葉神社(静岡県浜松市)を始めとする全国の秋葉神社、愛宕神社、野々宮神社(京都市右京区、東京都港区、大阪府堺市ほか全国)などで祀られている。
また、771年(宝亀2年)に創祀されたとされる火男火売神社(大分県別府市)は別府温泉の源である鶴見岳の2つの山頂を火之加具土命、火焼速女命の男女二柱の神として祀り、温泉を恵む神としても信仰されている。

「秋葉原」
江戸にも防火の神様を呼ぼう、ということになり、防火で有名な秋葉神社の「火之迦具土大神」を勧請してもらい、江戸に秋葉神社を立てた。それが地名ともなったのが、現在の電気街「秋葉原」です。

世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成遺産である、日本最古の神社ともいわれる花の窟(はなのいわや)神社は「御縄掛け神事」で有名ですが、そのお宮のご神体が「伊弉冊尊(イザナミノミコト)」と「軻遇突智尊(カグツチノミコト)」です。
(写真はいずれも花の窟神社HPから)
「御縄掛け神事」
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ご神体「伊弉冊尊(イザナミノミコト)」
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ご神体「軻遇突智尊(カグツチノミコト)」
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狭山市では、中新田の愛宕神社(軻遇突智命)と峰の愛宕神社(火産霊神)に祀られています。


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阿豆佐味(あずさみ)天神社(延喜式内社)/東京都西多摩郡瑞穂町

20140819

所在地:東京都西多摩郡瑞穂町殿ヶ谷1008

14日に回った「武蔵国式内社めぐり」の三社目です。あきるの市阿伎留神社、八王子市北野の天満宮と廻り、最後に向かったのがこのお宮です。
16号を走って、途中お蕎麦屋を見つけて昼食。横田基地を過ぎてから青梅街道を右折。青梅街道沿いだと分かっていましたが、「阿豆佐味天神社入口」という交差点を見つけてホッとしました。

青梅街道入り口にある文久3年(1863年)の社号標。
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その反対側に「内務省下賜 保存資金参百円 明治十九年」という碑が。
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参道
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道路と交差して、新たな社号標と鳥居の入り口がある。
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社伝によれば、寛平4年(892年)桓武平氏の祖・高望王が創建したという。
村山郷の総鎮守で、武蔵七党の一、村山党(高望王の子孫で秩父平氏の流れを汲む)の氏神として崇敬を受けた。阿豆佐味という社名については、梓弓によるという説、楸(きささげ、古名あずさ)によるという説、湧水(阿豆=甘い、佐=味の接頭語、味=水で、甘い水の意)によるという説など諸説ある。
天正12年(1584年)、慶長3年(1598年)の修復を経て、享保年間(1716年-1736年)村山土佐守により社殿の修復が行われ、その後も後北条氏が社領15貫文、徳川幕府が朱印地12石を寄進するなど、歴代領主から厚く遇されている。明治6年(1873年)郷社に列格した。因みに殿ヶ谷の地名は、村山党の居館があったことに由来するという。



鳥居をくぐってすぐの石灯篭。
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竿の部分四面にそれぞれ、「鎮守社」、「愛宕山」、「秋葉山」、「榛名山」と刻まれていた。
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また参道が続く。
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社殿に上がる石段の前左右に大きな石灯篭が。昭和55年に奉納されたもの。
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石段を上がる。
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明治38年建立の狛犬
右の阿形の狛犬の尻尾の毛を子犬が咥えている。細かい細工だ。
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左の吽形の狛犬。かなり顔が平たいのが御愛嬌。
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手水舎が参道左右に一つずつある。これはどういう意味か?
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拝殿
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向拝破風の彫刻は鳳凰
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向拝
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向拝彫刻の龍
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扉が閉まらなくなっているらしい。
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主祭神は少彦名命、素戔嗚命、大己貴命。
私、勘違いしていましたが、「天神社」というのは菅原道真公を祀っているのだと思っていましたがそうとは限らないのですね。
ここの祭神が違ったので、調べたら祭神が菅原道真公でない天神社がけっこうありました。

向拝の柱に、お百度参りの算木が。
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本殿は流造。
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神紋は拝殿に「十五弁菊」、本殿に「右三つ巴」
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神楽殿
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社殿の右に建つ境内社は神明社。
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社殿の右横のご神木の根元に境内社。どういうお宮かは不明。
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社殿の左に、二つの境内社がある。
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八幡社、熊野社、雷神社が、ひとつの祠に祀られている。
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さらに左に正一位稲荷神社。
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あと、境内社としては奥宮、厳島社、須賀神社、甲子社があることは分かっているが、事前の調べでは社殿の裏山の奥深くに鎮座しているとのことだった。
調べた地図では、裏山の右端と左端にそれぞれ一つずつ須賀神社がある。
そのうち、左側のはわりと近そうなので、そちらにお参りしておこうと向かった。
山の上がり口がこんな道で、不安になったが進んだ。
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道らしくなった。
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しばらく登っていくと鳥居が見えてホッとした。
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鳥居の横に「須賀神社」とあったので安心した。
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長い石段を上がると境内。
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社殿
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「須賀神社」というのは、出雲の須佐之男命の新居跡とされるお宮です。
須佐之男命が八岐大蛇を退治して櫛名田比売と結婚します。
古事記の記述では、「さてこうして速須佐之男命は、新居の宮を造るべき土地を出雲国にお捜しになった。そして須賀の地においでになって、「私はここに来て、気分がすがすがしい」と仰せられて、そこに新居の宮を造ってお住みになった。それでその地を今でも須賀と呼んでいる。この大神が初めて須賀の宮をお造りになったとき、その地から盛んに雲が立ちのぽったので、御歌をお詠みになった。」
その御歌は、「八雲立つ 出雲八重垣 妻ごみに 八重垣作る その八重垣を」であり、わが国で初めて詠われた歌です。

中が覗けるようになっていた。
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この日に、あきるの市の阿伎留神社、八王子市北野の天満宮、そして瑞穂町の阿豆佐味天神社と回って、これで終了です。


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薊瓊入媛命 (あざみにいりひめのみこと)/日本の神々の話

20140818

記・紀にみえる第11代垂仁(すいにん)天皇の妃。
垂仁天皇の皇后狭穂(さほ)姫が兄狭穂彦の謀反(むほん)に連座して自殺する前に、後宮にいれることを進言した丹波道主命(たにわのみちぬしのみこと)の5人の娘のひとり。

丹波道主命の5人の娘とは、第一が日葉酢媛、次に渟葉田瓊入媛、次に眞研野媛、次に薊瓊入媛、次に竹野媛である。
そして、日葉酢媛命を立てて皇后とし、また渟葉田瓊入媛、眞研野媛、薊瓊入媛を妃とした。唯、竹野媛は容姿が醜かったので本土に帰された。還されることを恥じて葛野の地に到着した時に輿より自ら堕ちて亡くなられた。その地を堕国と言う。今、乙訓と言うのは是が訛ったものである。皇后は五十瓊敷入彦命を生んだ。次に大足彦尊、次に大中姫命、次に倭姫命、次に稚城瓊入彦命を生んだ。
大足彦尊が第12代景行天王となる。

薊瓊入媛の生んだ「五十日足彦命(いかたらしひこのみこと)は、垂仁天皇の皇子として越国(現在の北陸地方)の開発に尽力した。

ここまで読んで、薊瓊入媛は神様なのか? という疑問をお持ちの方も居るでしょう。
群馬県伊勢崎市の「大國神社(式内社)」のご祭神が大國主命なのですが、配祀されているのが「日葉酢媛命 、渟葉田瓊入媛命、眞砥野媛命、薊瓊入媛命、竹野媛命 」の五人の媛でした。
それで、私も神様として挙げることにしました。

伊勢崎市・大國神社については、歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で訪れています。
下記クリックしてとんだページの二社目の記事
その記事を読む



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天満社(延喜式内論社)/東京都八王子市

20140817

所在地:東京都八王子市北野町550番1号

14日に回った「武蔵国式内社めぐり」の二社目です。阿伎留神社から向かったのは八王子市北野の天満宮。京王線北野駅の近くだというので、ナビに「北野駅」を入力してその案内で向かいました。近くまで行くと森があったのですぐに分かりました。

入り口のところに、高さ70センチほどの小さな社号標があった。
村社
当社を延喜式内社の大麻止乃豆乃天神社の論社とする説があり、「式内社調査報告」には当社に断定するのは難しいとの記載がされているそうであるが、候補の一つとしてお参りした。
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創建は不明、横山党の一族が京都北野天満宮を勧請したとされている。
1591年(天正19年)〜1860年(万延元年)5石の社領を拝領する。
江戸時代将軍に武運長久の祈願札を毎年献上していた。
1600年代ご神木であるケヤキが植えられる。
1664年(寛文4年)社殿を再建する。
1880年(明治13年)唐破風向拝の社殿を再建する。
1963年(昭和38年)北野駅周辺の区画整理により由井第一小学校内にあった北野石器時代住居跡(市指定文化財)が移設される。
1976年(昭和51年)菅公1075年忌事業により社殿を銅板葺きに改修する。

鳥居は両部鳥居。
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境内は、周りを大きな樹に囲まれた気持ちのいい空間。
正面に社殿。その横に末社の鹽竈神社が並ぶ。
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手水舎
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「菅公千年祭」の碑が立つ。
菅原道真の千年忌は明治35(1902)年にあたります。
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拝殿
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向拝唐破風
唐破風の懸魚は鯉でした。
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向拝の彫刻は梅と龍
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木鼻は唐獅子
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拝殿の社額には「天神宮」と書かれていました。
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拝殿内部
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もちろん、ご祭神は菅原道真公。

神紋は「梅鉢」でした。北野天満宮の神紋は「星梅鉢」なので、ちょっと残念。
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拝殿の後ろに本殿がありますが、覆殿の中です。
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拝殿から本殿に渡る橋が、優美なカーブで良いですね。
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本殿
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木鼻の彫刻、獅子と貘が素晴らしいですね。
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本殿背面に非常に大きな絵馬が立て掛けられているのに気が付きました。残念ながら劣化が激しく画は残っていませんでした。
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神楽殿
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末社の鹽竈神社。
安産の神として信仰されているそうです。
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向拝彫刻は、分り難くかったがどうも唐獅子の親子です。
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木鼻は龍
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正面に掲げられた絵馬。獅子舞を描いている。
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拝殿内部
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祭神は武甕槌命(たけみかづちのみこと)、塩土老翁(しおつちのおじ)、経津主神(ふつぬしのかみ)。

拝殿内にあった絵馬は、安産願いでしょう。
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天満宮社殿横に池があり、その近くに末社があるが何れも内訳は不明。
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ご神木
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境内周りには巨木が多い。
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境内には石器時代の住居の遺蹟があり、八王子市の文化財にも指定されている。
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(八王子天満社了)


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禍津日神(まがつひのかみ)/日本の神々の話

20140816

神というのは、畢竟人間が名前をつけたものですから、人間に悪人と善人が居るように、一個の人間の中にも悪しき心と善き心があるように、神様にも悪しき神様が居るのです(笑)

禍(マガ)は災厄、ツは「の」、ヒは神霊の意味であるので、マガツヒは災厄の神という意味になる。

神産みで、黄泉から帰ったイザナギが禊を行って黄泉の穢れを祓ったときに生まれた神で、『古事記』では八十禍津日神(やそまがつひのかみ)と大禍津日神(おほまがつひのかみ)の二神、『日本書紀』第五段第六の一書では八十枉津日神(やそまがつひのかみ)と枉津日神(まがつひのかみ)としている。これらの神は黄泉の穢れから生まれた神で、災厄を司る神とされている。
記紀神話では、禍津日神が生まれた後、その禍を直すために直毘神(なおびのかみ)二柱と伊豆能売が生まれている。
なお、『日本書紀』同段第十の一書ではイザナギが大綾津日神を吹き出したとしている。これが穢れから生まれたとの記述はないが、大綾は大禍と同じ意味であり、大禍津日神と同一神格と考えられている。

後に、この神を祀ることで災厄から逃れられると考えられるようになり、厄除けの守護神として信仰されるようになった。この場合、直毘神が一緒に祀られていることが多い。

本居宣長は、禍津日神を祓戸神の一柱である瀬織津比売神と同神としている。

本居宣長は、禍津日神を悪神だと考えた。宣長によると禍津日神は人生における不合理さをもたらす原因だという。この世の中において、人の禍福は必ずしも合理的に人々にもたらされず、誠実に生きている人間が必ずしも幸福を享受し得ないのは、禍津日神の仕業だとした。「禍津日神の御心のあらびはしも、せむすべなく、いとも悲しきわざにぞありける」(『直毘霊』)と述べている。

一方、平田篤胤は禍津日神を善神だとした。篤胤によると、禍津日神は須佐之男命の荒魂であるという。全ての人間は、その心に禍津日神の分霊と直毘神(篤胤は天照大神の和魂としている)の分霊を授かっているのだという。人間が悪やケガレに直面したとき、それらに対して怒り、憎しみ、荒々しく反応するのは、自らの心の中に禍津日神の分霊の働きによるものだとした。つまり、悪を悪だと判断する人の心の働きを司る神だというのである。またその怒りは直毘神の分霊の働きにより、やがて鎮められるとした。

私は、秩父神社境内社にてお参りしました。


阿伎留神社(延喜式内社)/東京都あきる野市

20140815

所在地:東京都あきる野市五日市1081

昨日14日に、個人で取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」で、あきる野市五日市の「阿伎留神社」、八王子市北野の「天満社」、瑞穂町の「阿豆佐味天神社」を廻ってきました。

家を9時に車で出て、圏央道に乗るときに八王子JCから25Km渋滞と出ていたので、あきるのICでなく日の出ICで降りることにした。やはり正解で日の出IC直前からノロノロが始まっていた。
場所はJR五日市駅の近くで、順調に到着。

お宮さんに入る前、すぐ傍が崖みたいだったので、見に行くと眼下に秋川が見渡せた。
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社号標
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由緒
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この中に出てくる、「日本三代実録」とは、平安時代に編纂された歴史書。六国史の第六にあたり、清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代である天安2年(858年)8月から仁和3年(887年)8月までの30年間を扱う。延喜元年(901年)に成立。編者は藤原時平、菅原道真、大蔵善行、三統理平。

社名は「阿伎留」・「阿伎瑠」・「秋留」「畔切」とも書かれたが、いずれも「あきる」と読んだ。「あきる」は「畔切」を意味し、当地が開拓され始めた頃に祭られた神社ではないかとも考えられている。また現在の宮司家は創立以来70余代目とされ、初代神主の土師連男塩が氏神を祭ったのに始まるとも考えられている。

大鳥居
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鳥居をくぐると、正面に神楽殿が見え、手水舎の先を右に折れると社殿。
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手水舎
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きれいな水が満ちていました。
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右に折れると、一段高くなって社殿があります。
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石段の手前に、文化財の説明がありました。
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大正3年建立の狛犬
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拝殿
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向背破風が二重。この場合下を唐破風にして柔らかい感じにすることが多いが、ここではあえて直線を重ねて厳格さを出している。
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向拝部は、彫刻などの装飾がなく厳粛な感じとしている。
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社額
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拝殿内部
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拝殿内の社額
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鏡の近くに「四神旗」が飾られていた。よく説明に出てくるのだが、あまり目にしたことが無いので、遠めだが見ることが出来て、嬉しかった。
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祭神は、大物主神 (おおものぬしのかみ)、味耜高彦根神 (あじすきたかひこねのかみ)、建夷鳥神 (たけひなとりのかみ)、天児屋根命 (あめのこやねのみこと)
『新編武蔵風土記稿』では味耜高彦根神のみを挙げているそうで、味耜高彦根神が元来の祭神とされる。

神紋は「丸に三つ柏」
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本殿
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後ろから
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神輿殿
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面白い彫刻がある。
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カーテンが閉じられていて、その隙間から神輿を覗き込んでいたら、「開けてあげましょうか」とお宮の人が声をかけてくださった。

沢山の神輿が並んだ様は壮観だった。
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中央に、ひときわ目立つ二つの神輿があり、これは天保年中(1823)に製作された二代目。重さ400Kg。
特徴は、全国的にも珍しい胴が六角形になっていること。
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正面と横を見てもらえば、六角形がわかると思う。
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上の鳳凰が稲穂を咥えている。
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こちらは、三代目の神輿。重さ600Kg。
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神楽殿
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境内の摂末社にお参りします。

社殿の右側に「占方神社」
どういうお宮で祭神についても、よくわからない。
このお宮に「神伝鹿卜秘事記」という鹿卜に関して最も古い資料が伝わっている(後述)ことから考えると、天照大御神が天石屋戸にお隠れになったときに、天安河の河原にて鹿の骨を灼いて占った、天兒屋命と布刀玉命ではないかと考える。
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社殿の左側に「祓戸大神を祀った神社」
祓戸(祓所、祓殿)とは祓を行う場所のことで、そこに祀られる神という意味である。
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「日枝神社・松尾神社」と表示された末社。
資料では、6社合祭(日枝神社・伊多弓神社・松尾神社・平野神社・庭津日神社・国造社)となっている。
このうち伊多弓神社は『日本三代実録』にも載る古社である。
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近くに説明のない祠がたくさんあったが、これが合祀された元の祠ではないか。
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御神木の夫婦杉
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根元に祠がある。
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「倭建命神社・菅原神社」と表示された末社。
消されているのは占方神社で、これは新しく祀られていた(先述)。
資料では4社合祭(倭建命神社・菅原神社・小川神社・占方神社)とあった。
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近くに、やはり表示のない祠がある。
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「大鳥神社」
資料では3社合祭(大鳥神社・若電神社・熊野神社)とある。
このうち若電神社は『日本三代実録』にも載る古社である。
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扉前の左右に置かれていた人形が、ぱっと見てサンタクロースに見えた。
そんなバカな(笑) と良く見たら御幣を持った猿が赤いチャンチャンコを着ている。
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「白光稲荷神社」
資料では、4社合祭(稲荷神社・松原稲荷神社・白光稲荷神社・福穂稲荷神社)
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社殿の前に祠が、計五つ。
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社殿の左奥に井戸の跡があった。
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帰ってから調べると「まいまいず井戸」の跡であることがわかった。
「まいまいず」とはカタツムリのことで、このあたりでは垂直に井戸を掘る技法が確立されていなかった中世の頃には、渦を巻くように地中を掘り進めて水を得ていたそうです。
まいまいず井戸としては、羽村市にある井戸が有名なようです。
狭山市の「七曲りの井」、「堀兼の井」のように「ほりかねの井」でした。

ただし、阿伎留神社のはその名残は残っていませんね。

最後に、阿伎留神社について調べていると「神伝鹿卜秘事記」という鹿卜に関して最も古い資料が伝わっていることがわかった。また、阿伎留神社の境外末社の琴平社には神代文字で書かれた和歌の版木が伝わっていることも。
どんなものかは「阿伎留神社 神伝鹿卜秘事記」で検索してみてください。

(阿伎留神社了)


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波邇夜須比古神・波邇夜須毘売神 (はにやすひこのかみ・はにやすひめのかみ)/日本の神々の話

20140813

埴安彦神と埴安姫神の総称が埴安神。あるいは、埴安神を男女神に分けて埴安彦神と埴安姫神と呼ぶ。
別名:
埴安姫神:はにやすひめのかみ
埴山媛/埴山姫:はにやまひめ
埴安彦神:はにやすひこのかみ

田畠の土の神であり、陶磁器の祖神。
「ハニ」(埴)とは粘土のことであり、「ハニヤス」は土をねって柔かくすることの意とされる。
土のエネルギーを司る埴安神は、陶器の神であるとともに田畑の土壌に宿って穀物の豊作をもたらす神でもある。

『古事記』では、伊邪那美神が火の迦具土神を生み、陰所を焼いて苦しみ給うたおりに屎(糞)をしたが、その屎から化生した神が、 波邇夜須毘古神・波邇夜須毘売神の男女の二神。
『日本書紀』には、伊邪那美尊が死のうとするとき、埴山媛(土神)と罔象女の二神を生み、 この二神の間に生れた稚産霊神の、頭上に蚕と桑、臍の中に五穀が生じたとある。

地鎮祭で、土の神として他の神とともに祀られることがある。

私は、武蔵御嶽神社境内「巨福社」の祭神、「埴山姫命」にお参りしました。

私は、農家の生まれなので、高校までは色々な農作業を手伝った。その農作業も土をこねることが多かった。
種をまいた作物はもちろんだが、雑草など実に色々なものが土から生まれてきた。
子供の頃は、それを何とも思わなかったが、この年になってみると、農業というのは実に素晴らしい職業だと思ったりもする。
農作業に飽きると、土と水で色々なものを作って遊んでいたのも楽しい思い出だ。

写真は、さきたま古墳群にある、埴輪を造る体験が出来る「はにわの館」の前に並べられていた作品。
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スーパームーン

20140812

昨夜、TV番組「ニュースステーション」の終りに、今夜は「スーパームーン」ですよ、と云って月を見せてくれた。
へーえ、と思って二階のテラスから空を見たら雲に隠れていたが、11時半くらいに雲が切れて顔を見せてくれた。
たしかに肉眼でみたら、ビックリするほど大きくて、輝きがすごかった。
久しぶりに月をしばらく眺めていました。
夏のこと故、クレーターが明瞭に写るという訳にはいかなかったが、写真も撮りました。
肉眼でこんなに大きく見えるはずがありません(笑)
ズームしてますから。
撮影時:23時41分36秒
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「スーパームーン」とは、月が地球に最も近づいたときに、満月もしくは新月の形になった月の姿、またはその現象を云うのだが、今回は楕円(だえん)軌道を周回する月が、地球に最も近いところに来た時刻と、ぴったり満月になる瞬間に1時間の差もなかったため、米航空宇宙局(NASA)は「エクストラ・スーパームーンだ」としている。
このタイミングというのは、8月11日午前3時9分だったそうです。
それより一晩遅かったわけですが、十分に楽しめました。


2012年10月ですが、月の満ち欠けを一ケ月間追いかけたことがあります。
夜中の2時とか3時とかに起きだして撮りました(笑)

その記事を読む


今思うと、よくぞこんなアホなことを、とも思いますが(笑)
懐かしいですね。


鷗外の坂/森まゆみ

20140811

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私がこの本を購入したのは、著者の森まゆみさんの講演会で彼女の語るのを聴いたからだ。
市制施行60周年記念事業と市民大学発足記念の講演会である。
私はその市民大学の前身「シニア・コミュニティ・カレッジ」の歴史講座によって歴史の面白さにはまり込んだのだ。
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森まゆみさんはとても気さくなオバサンの感じで、講演も聴いていて楽しく、この人の書いたものを読みたくなった。
その講演会で、こんなことをおっしゃっていた。
「結婚して子供が出来て、今は公園デビューという言葉があるが、私も子供を公園で遊ばせているうち数人のママ友達が出来た。この公園だけじゃつまらないからと、あちこちにその友達と歩き回るようになった。坂が多くて名前が面白くて、その由来を知りたいと思っても、当時は銀座とか新宿などはガイド本があったが、千駄木のあたりなんて、何も資料が無かった」
それで彼女が始めたのが地域雑誌「谷中・根津・千駄木」である。
いま誰でも使っている「谷根千」の創始者みたいなものだ。
気さくなオバサンと言ったが、早稲田の政経学部、東大の新聞研究所終了という方である。ただものではないのだ(笑)
始めたら、土地のおばあちゃんとかを訪ねて話を聞くのが楽しくて仕方なかったらしい。

この本では、鷗外の家族や友人をまず描き、その描写の中に鴎外その人を反射させていく。森鷗外という「文豪」を、やたら神格化したり美化したりせず、ていねいに輪郭を描出していく。
そこには鷗外が生きた時代の、現代の私が驚くようなしきたりとか考えが出てきて吃驚もする。
文庫本で433ページという大部である。
鷗外の本だけでなく、妹の喜美子、弟の篤次郎、潤三郎が書いたものも動員して、鷗外の生活を描き出す。谷根千の範囲にとどまらず、一家が東京での生活を始めた向島などにも足を運び、書かれたことから場所を推定して、現在その辺に住んでいる人に話を聞く。
そうすることで、明治初期の当時の暮らしぶりと、その場所の当時の姿。それと共にその場所の現在の姿と住んでいる人の姿がわかり、二重の楽しみを味あわせてくれる。

例えば、当時森林太郎のような高位の官僚の結婚には勅裁すなわち天皇の許可が必要だった。なんて書いてあり吃驚する。鷗外はそんなに偉かったのかということと、民間人でも高位となると「勅裁」かあ、と昔の階級制に対して。

この本のプロローグ森鴎外の小説「青年」に、森林太郎立案の「東京方眼図」が出てくる。
いま私たちが何気なく使っている、地図に入っている縦線と横線で知りたい対象の位置を知る方法、これを日本に最初に紹介して、東京の地図を作ってみせたのが森林太郎である。
私も以前これを知って、「これも森鷗外の所産か」と驚いたものだ。
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著者は、鷗外の小説「青年」と「東京方眼図」の両方を突き合わせながら、今の根津や千駄木を歩いて見せる。
これに私はぐんぐんと曳きこまれてしまった。

そして、この本を読んでいると、歴史クラブの行事で訪ねたところが出てきて、とても楽しい。
その中から、少し紹介しておく。

「鷗外」というペンネームのもとになった「鷗の渡し」は、歴史クラブの行事「隅田川端ウォーク」で訪れている。

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歴史クラブで「谷根千散歩」を企画し、私は幹事をやってコースを決めて下見もした。
鷗外記念館も立ち寄った。
その記事はこちら


その時に立ち寄った場所に、「夏目漱石旧居跡」がある。この場所で漱石は「我が輩は猫である」、「坊ちゃん」などを書いた。
今は、プレートだけで当時をしのばせるものは無いが。
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この本を読んで吃驚したのは、その家が建てられて最初に入ったのが森林太郎、最初の妻、弟二人の4人であった。
この場所は太田道灌の子孫の太田子爵の土地だったのを、ある人が買って家を建てた。息子の医者開業を見越して建てたらしい。しかしその息子は別の場所で開業したので貸すことにした。森林太郎が借りたのは、その息子が鷗外の弟篤次郎と同じ医学部に居た縁ではないかと森まゆみさんは推理している。
森林太郎が出たあと、数人(森まゆみさんはこれらの人も丁寧に調べ上げている)を経て、夏目漱石が住んだ。
その家の間取りは、漱石の「我が輩は猫である」で明らかだが、鷗外の弟潤三郎が「母が夏目氏の書いたものを読んで、間取りは同じだと語っていた」と書いているということを森まゆみさんはこの本で紹介している。

鷗外は61歳で亡くなって向島の弘福寺に葬られる。しかし翌年に関東大震災が起こり、本所、向島あたりは一面の焼け野原になる。そして弘福寺は再建されたが縮小されたため、「ご遺族は郊外の同じ宗派の寺に移されたのでしょう」というお寺の言葉でこの本は終わっている。
私は、歴史クラブの「三鷹周辺の寺社を歩く」で、現在の森林太郎の墓に詣でている。

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しかもそこの斜め向かいには、太宰治の墓があった。森鷗外を尊敬していた太宰治の希望だそうです。
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この本で、今まで訪れた所でも、またたくさんの新しい事実を知った。
だから再訪したいところばかり、ずいぶんと出来た。


(了)


中津島姫命(なかつしまひめのみこと)/日本の神々の話

20140809

宗像三女神の次女、市杵島姫命の別名。

以下、市寸島比売命(いちきしまひめのみこと)の説明です。
別名:
狭依毘売命:さよりびめのみこと
瀛津嶋姫命:おきつしまひめのみこと
市杵島姫命:いちきしまひめのみこと
市岐嶋毘賣命:いちきしまひめのみこと
中津島姫命:なかつしまひめのみこと

筑前地方の海人豪族である宗像氏(胸形)らが奉齋する航海の守護神、宗像三女神の一柱。
全国に祀られている厳島神社、宗像神社、松尾神社の祭神。海の神であるため神社境内の池の中に祀られることが多い。

須佐之男神が天照大御神に会うため高天原に登ると国土・山河が揺れ動いたとされ、 泣げば青山は枯山と化し、海河をことごとく泣き乾したという巨人的な性格をもっている。
この時、須佐之男命は他意の無い事を示すため自分の持つ十握剣と 天照大御神の飾りの勾玉(八坂瓊五百津御統珠)を交換し、 誓約によって、須佐之男神は三女(宗像三女神:多紀理毘売命、狭依毘売命、田寸津比売命)を、 天照大御神は五男(天之忍穂耳命、天之菩卑能命、天津日子根命、活津日子根命、熊野久須毘命、『日本書紀』の一書では熯速日神を加えた六柱)を生んだ。

また、天照大神が国つくりの前に、宗像三女神に「宗像地方から朝鮮半島や支那大陸へつながる海の道に降って、歴代の天皇をお助けすると共に歴代の天皇から篤いお祭りを受けられよ」と示した。このことから、三女神は現在のそれぞれの地に降臨し、祀されるようになった。
降臨の地は、福岡県の宗像地方東端の鞍手郡鞍手町の六ヶ岳という山である。
総称して宗像三社と呼んでいるが、
沖ノ島の沖津宮 – 長女の多紀理毘売命(たきりびめ) 別名 奥津島比売命(おきつしまひめ)
大島の中津宮 – 次女の市寸島比売命(いちきしまひめ) 別名 狭依毘売(さよりびめ)
田島の辺津宮(へつみや) -三女の多岐都比売命(たぎつひめ)

宗像三女神を祭神とする全国の神社は、海の神・航海の神として信仰されていて、宗像大社のほか各地の宗像神社・厳島神社・八王子社・天真名井社で祀られている。
私は、玉敷神社境内の厳島神社でお参りした。

宗像三女神のうち、市杵島姫神を主祭神とする神社は、大島の中津宮のほか、全国の市杵島神社がある。
市寸島比売命は、神霊を斎き祀る島の神。別名の狭依毘売命は神霊の依りつく姫。
私は、王子稲荷境内の市杵島神社でお参りしました。

市杵島姫神は別名中津島姫命とされ、大山咋神と供に京都の松尾大社、全国の松尾神社で祀られている。
私は、川越氷川神社境内の松尾神社でお参りした。

市杵島姫神は弁才天と同一視(本地垂迹)されることも多く、古くから弁才天を祀っていた神社では明治以降、市杵島姫神や宗像三女神を祀っている神社も多い。
長崎県弁財天宮、鎌倉銭洗弁財天宇賀福神社、奈良県天河大弁財天社などがある。

京都松尾大社には、大山咋神、中津島姫命、男神の三神像があります。
そのうちの「中津島姫命」
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兼六園

20140808

2日から帰省し、3日の夜は金沢香林坊にある東急ホテルに泊まりました。
いつもここに泊まります。地の利が良いのが気に入っています。
4日は、チェックアウトを11:30に予定し、ゆっくりと朝食をとった後兼六園の写真を撮りに出かけました。
金沢を訪ねた人は、たいてい最初に兼六園に向かうでしょう。私もそうだったので、最近はもう足は向かわなくなっていました。
気が付いたら、デジカメ初期の写真が少しあるだけで、ちゃんとした兼六園の写真が無い(汗)
それで今回撮っておこうというわけです(笑)

ホテルの前が香林坊の交差点。そこの大和デパートの前にあるのがこれ。金沢市街の模型です。
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広坂通りを、旧県庁側を歩いていきます。最初にあるのが旧制四高の建物。
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ここの学生だった井上靖の「流星」の一節の碑がある。
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旧制四高の学生像と寮歌の碑
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続いて、旧県庁の建物と、前庭の立派なシイノキ。現在「しいのき迎賓館」になっている。
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その横は広い芝生になっていて、金沢城の石垣がきれいに見える。
「堂形前」の碑が立っている。
堂形とは、加賀藩初期京都の三十三間堂の「通し矢」を模した練習場のことを、そう呼んだ。
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広坂交差点のところから、真弓坂を上がって兼六園に入ります。
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「瓢池」
このあたりが、兼六園発祥の地である。
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ここの「翠(みどり)滝」は、安永三年に作られた。
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「夕顔亭」
安永三年に建てられた大名茶室。袖壁に夕顔の透かし彫りがある。
藩政時代は「滝見の御亭(たきみのおちん)」と呼ばれた。
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「竹根石手水鉢」
竹の化石のように見えるのでこの名があるが、椰子類の茎と根の化石で、学術上極めて珍しいそうです。
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「伯牙断琴の手水鉢」
表面に中国の事の名手「伯牙」が友人の死を悲しんで琴の弦を断ったという故事が浮き彫りにされている、との説明があった。
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水の音が気持ちいい小川の横を上がっていく。
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緑が深く、苔も生えていてきもちのいい空間。
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「噴水」
霞ヶ池を水源としており、その落差で3.5mの高さに吹き上がっている。
日本最古の噴水。
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霞ヶ池から流れてくるせせらぎ。
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松の林の下で、真夏でも苔があざやかにしている。
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霞ヶ池に出ると、ご存知「琴柱灯篭」。
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その近くの「眺望台からの日本海方面の眺め。
緑の地平線は、内灘砂丘のアカシアの林です。
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「唐崎の松」
13代藩主前田斉泰が琵琶湖の松の名所唐崎から種子を取り寄せ育てた。
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反対側から
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「雁行橋」
十一枚の赤戸室石で雁が列をなして飛んでいる姿に作ってある。
一枚一枚が亀の甲の形をしているので別名「亀甲橋」ともいう。
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「七福神山」
文政5年(1822)に建てられた竹沢御殿から眺めた築山。
左から恵比須、大黒天、寿老人、福禄寿、布袋、毘沙門天、弁才天に見立てて配してある。
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手前の橋の一枚岩もすごい。
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「地蔵堂」
文政7年(1824)、12代藩主前田斉広が隠居所「竹沢御殿」で没したときの枕石のあとにこの堂が建てられた。
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中のお地蔵様二体。戸の格子窓に近すぎて部分しか撮れませんでした。
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「兼六園熊谷桜」
兼六園菊桜と斜めに向かい合っている。共に学名の桜で、菊桜はものすごく有名だが、こちらもなかなかのものです。
山桜の園芸品種で、開花は4月中旬頃。ソメイヨシノなどよりも1週間ほど遅い。中輪一重で、紅鮮やかな緋桜。満開時には枝を取り巻いて牡丹の形のように咲くところから、牡丹桜の異名がある。水戸藩から贈られたと伝わり、樹齢300年といわれている。
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千歳橋の上から熊谷桜を撮ったが、その反対側はこのようになっています。
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「日本武尊の像」
明治10年(1877)の西南の役で戦死した郷土出身の招聘を祀った記念碑。
銅像の身長5.5mです。
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いくら午前中とはいえ、暑さがやはりすごくて、ここで茶店に逃げ込みました。
氷水ののぼりがあったので、思わず(笑)
フワフワの氷で美味しかった。
進化してますね。

道に倒れそうな松。頑張っています(笑)
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しばらく「霞ケ池」のまわりを歩きました。

「蓬莱島」
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「内橋亭」
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内橋亭と蓬莱島
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「栄螺山」
霞ケ池を掘り広げたときの土で盛り上げたもの。登り路が螺旋に作ってあるのでこの名がつけられた。
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山頂に近づくと石垣が組んである。
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山頂付近からの霞ケ池。
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山頂には、からかさ型の「避雨亭」があるが、立ち入り禁止となっていた。
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山頂の広いところには三重塔がある。
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大きな常夜燈があった。
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「時雨亭」
延宝4年(1676)、5代藩主前田綱紀が、兼六園の前身「蓮池庭」の作庭に取り掛かった。その際の忠臣的建物が「蓮池御亭」であった。藩政後期には「時雨亭」と呼ばれていた。
明治のはじめに取り壊されるまでは「噴水」の前にあった。
平成12年に、今の場所に再現されたもの。
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現在は、お抹茶などの茶店になっているようで、時間がもう無かったので中には入らなかった。
ちょっと後ろに回って、池の蓮の写真を撮った。
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これで、今回の兼六園めぐりは終了。
ホテルに帰って、ちょっと休んでから予定どおり11:30にチェックアウト。
タクシーで金沢駅に出て、土産物など買い物を楽しんで、コーヒーを飲んで、
13:15の特急「はくたか」に乗り込み、越後湯沢で新幹線に乗り換え、大宮に着いたのが16:54でした。
これが、来年開通の北陸新幹線だと、2時間しかかからないといいますから、近くなりますね。


「お気に入りの場所」に飛ぶ



白山本宮・加賀一之宮 白山比咩神社

20140805

所在地: 石川県白山市三宮町ニ105-1

2日に帰省し、3日のお昼まで福光、高岡でお墓参りと用事をこなした後、車を飛ばして今回楽しみにしていた加賀一之宮にお参りしました。

ナビ頼りに行ったので、着いてから人に聞いてわかったのは、レンタカーを停めた駐車場は北参道入り口前のところでした。

北参道入り口の鳥居。
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鳥居をくぐろうとして気が付いたのは小さなお宮があり「觸穢の所」とある。
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説明を読むと、神域に入る際の丁寧なお祓いである。最近特にお葬式とかの穢れは無かったが、経験だと思い、これをして入った。
お宮の中に、大麻(おおぬさ)と塩と祓詞(はらえことば)を書いた紙があり、説明に従ってお祓いをした。
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鳥居の横に社号標。
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式内社 加賀國石川郡 白山比咩(しらやまひめ)神社 加賀國一宮 旧國幣中社。
全国約三千社にのぼる白山神社の総本宮である。
創建は崇神天皇の時代とされる。元来は現在の古宮公園の場所に鎮座していた。
養老2年(718年)、越前の修験僧・泰澄大師によって白山の主峰・御前峰に奥宮が創建され、白山妙理大権現が奉祀された。
平安時代中期(9世紀頃)になると、自然崇拝の山から修験者の山岳修行や、神仏習合思潮に彩られた修験の霊場へと変質を遂げるようになった。白山には加賀・越前・美濃3国それぞれから山頂に至る登山道(禅定道)が開かれ、それぞれの道筋に宗教施設(社堂)が次第に調えられていった。
文献史料上での確実な初出は、仁寿3年(853年)10月に従三位に加叙せられたという記事である[1]。ただし、承和7年(840年)に成立したと思われる[2]『延喜式神名帳』では、加賀国石川郡10座中の筆頭に載せられている。
平安時代末期(11世紀末)、加賀国禅定道筋の白山系社堂(白山加賀馬場)の中心的存在であった当社は加賀国一宮とされ、一国の神社を代表とする立場から勧農を目的とした国衙祭祀を担った。
久安3年(1147年)4月には、越前禅定道筋の社堂(白山越前馬場)の中心である平泉寺が延暦寺末寺化の動きを示すと、当社も同月に延暦寺山門別院となり、比叡山の地主神・日吉七社にならい、本宮・金剱宮・三宮・岩本宮・中宮・佐羅宮・別宮という白山七社を形成した。加賀馬場において、白山本宮長吏は白山七社惣長吏を兼帯し、他の6社の長吏と馬場全体を統括した。惣長吏は僧名に「澄」の通字を用いて真弟(実子)相続の結縁的な世襲制であった。
白山本宮(白山比咩神社の当時の呼び名)は、平安時代中期から鎌倉時代を経て、室町時代前期に至る約500年間栄えた。室町時代中期以降は、白山本宮が鎮座する味智郷(みちごう)でも富樫氏など武士の勢力が強くなり、白山七社の結び付きが弱まった。白山本宮は洪水や火災に度々遭って再建を重ね、文明12年(1480年)の大火で全ての社寺が焼失し末社である三宮の鎮座地(現社地)に遷座した。
これに先立つ文明3年、本願寺8世蓮如上人は、吉崎に道場を開いて北陸に浄土真宗を広めた。弥陀の本願を信じあの世の往生を願えという教えは、白山信仰に取って代わっていった。武士・農民からなる門徒集団は、長享2年(1488年)加賀の守護富樫政親を金沢の高尾城に攻め滅ぼした。以後織田信長配下の武将柴田勝家が金沢御坊を攻め落とすまでのおよそ100年間、加賀は「百姓のもちたる国」といわれ、中心が金沢へ移った。こうした一向一揆による加賀国支配によって白山の世俗的権力は衰微し、社頭も荒廃した。
白山本宮の社頭は、近世加賀藩主前田家の保護を得て復興された。しかし、白山嶺上の管理を巡っては、江戸時代において越前馬場の平泉寺、美濃馬場の白山本地中宮長滝寺(現 長滝白山神社)との論争が起きた。
明治の神仏分離により、寺号を廃して『延喜式神名帳』に記載された社名である「白山比咩神社」に改称した。それまで、加賀・越前・美濃の馬場のそれぞれが白山信仰の中心地となっており、勧請元ということでは、美濃が最も多く加賀は2番目であった。しかし、3社のうちで『延喜式神名帳』に記載されているのは加賀の当社のみであるということから、当社が全国の白山神社の総本社とされ、越前・美濃はその下に位置する地方の白山神社のうちの一つということにされた。越前・美濃の白山神社より勧請を受けた他の白山神社も、加賀の白山比咩神社の分霊社というように由諸を書き換えた。戦後は、越前平泉寺・美濃長滝の両白山神社もそれぞれ「白山神社の総本社」を名乗っている。

狛犬
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手水舎
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この手水舎には「白山の霊水」がきているが、それを利用して手水舎の周りに、真夏らしい「観水(見て涼み、感じて涼む)」の仕掛けが色々と置かれていて楽しかった。
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手水舎の横に芭蕉の句碑があった。これも楽しみにしていた一つ。
「風かをる越の白嶺を國の華」
奥の細道の途次、白山の姿を讃えて詠んだもの。
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このままいくと神門です。
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ですが、一の鳥居から表参道を歩きたいので、そちらに移動しました。

一の鳥居の社号標。東郷元帥の書です。
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横の灯篭も良い感じです。
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一の鳥居
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一の鳥居は、昭和11年(1936年)の造営。古くはこのお宮には鳥居がなく、「白山七不思議」の1つとも言われていたそうです。

神橋の手前で右に折れる。
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神橋の下のせせらぎも気持ちがいい。
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神橋を渡ってすぐ、「白山路桜花」の石碑がある。
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実に気持ちのいい参道が長く続きます。
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獅子吼高原からの谷水を手取川にそそいでいる琵琶滝。
北参道から入り表参道にまわったので、そこそこ歩いてきたので、清冽な流れが気持ち良かった。
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気持ちいい参道がまだまだ続きます。
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同根の三本杉
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ご神木の「老スギ」
境内でもっとも大きな神代杉で、太さは目通り5m余りあり、樹齢は千年を越えると推定されています。
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手水舎
豪壮な石組みの中から龍がニュウッと。
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二の鳥居
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年号不明ですが実にいい感じの狛犬。耳が厚く目も口も笑っているようです。吽には大きな角があります。
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ここから石段をちょっと上がると三の鳥居。
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三の鳥居をくぐると、ご神木の「大ケヤキ」
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神門右側に祀られる境内社:荒御前神社にお参り。
ご祭神は、荒御前大神・高日大神・日吉大神・五味島大神。
荒御前大神は、『日本書記』の中に、神功皇后(じんぐうこうごう)が朝鮮半島に出兵した際、守護した神として登場します。その他の神様で日吉大神は分かりますが、高日大神と五味島大神については分かりません。
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社前に、水で模様が描かれていた。打ち出の小鎚とウサギに見えた。
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落ち着いた造りの神門と回廊。
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神門に神馬がいました。
白山に初めて登拜したのは泰澄ですが、ある日泰澄は目の前に現れた白馬に乗った貴女(白山比咩大神)に「白山に来たれ」と告げられたといいます。
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社殿前
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昭和24年建立の狛犬
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外拝殿
大正9年建立の切妻造、銅板葺き。
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社額
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拝殿内部
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雅楽の太鼓があります。
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ご祭神は白山比咩大神(しらやまひめのおおかみ)=菊理媛尊(くくりひめのみこと)、伊弉諾尊(いざなぎのみこと)、伊弉冉尊(いざなみのみこと)の三柱。

菊理媛神は日本書紀の一書にわずかに登場する神です。古事記には登場しません。
イザナギ神とイザナミ神が黄泉平坂で言い争っている時に、黄泉守道者と一緒に表れ、菊理媛神の一言で、イザナギ神は口論を終え穢れを祓うため現世に戻る。
【原文】
 及其与妹相闘於泉平坂也、伊奘諾尊曰、始為族悲、及思哀者、是吾之怯矣。 時泉守道者白云、有言矣。曰、吾与汝已生国矣。奈何更求生乎。吾則当留此国、不可共去。 是時、菊理媛神亦有白事。伊奘諾尊聞而善之。乃散去矣。
【解釈文】
 その妻(=伊弉冉尊)と泉平坂(よもつひらさか)で相争うとき、伊奘諾尊が言われるのに、「私が始め悲しみ慕ったのは、私が弱かったからだ」と。
 このとき泉守道者(よもつちもりびと)が申し上げていうのに、「伊弉冉尊からのお言葉があります。『私はあなたと、すでに国を生みました。なぜにこの上、生むことを求めるのでしょうか。私はこの国に留まりますので、ご一緒には還れません』とおっしゃっております」と。 このとき菊理媛神が、申し上げられることがあった。伊奘諾尊はこれをお聞きになり、ほめられた。そして、その場を去られた。
神産みで伊弉冉尊(いざなみ)に逢いに黄泉を訪問した伊奘諾尊(いざなぎ)は、伊弉冉尊の変わり果てた姿を見て逃げ出した。しかし泉津平坂(黄泉比良坂)で追いつかれ、そこで伊弉冉尊と口論になる。そこに泉守道者が現れ、伊弉冉尊の言葉を取継いで「一緒に帰ることはできない」と言い、菊理媛神が何かを言うと、伊奘諾尊はそれを褒め、帰って行った、とある。菊理媛神が何を言ったかは書かれておらず、また、出自なども書かれていない。

この説話から、菊理媛神は伊奘諾尊と伊弉冉尊を仲直りさせたとして、縁結びの神とされている。また、死者(伊弉冉尊)と生者(伊奘諾尊)の間を取り持ったことからシャーマン(巫女)の女神ではないかとも言われている。ケガレを払う神格ともされる。
神名の「ククリ」は「括り」の意で、伊奘諾尊と伊弉冉尊の仲を取り持ったことからの神名と考えられる。他に、糸を紡ぐ(括る)ことに関係があるとする説、「潜り」の意で水神であるとする説、「聞き入れる」が転じたものとする説などがある


神紋:
正式な名称は「三子持亀甲瓜花(みつこもちきっこううりのはな)」。六角の亀甲の形を七五三に配した三つ子持ち、すなわち三条の構えをめぐらし、その中に瓜の花を描いたものです。
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幣拝殿すらも、全景は見えず辛うじて屋根だけ。
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本殿は大規模な三間社流造で、正面に庇の間と向拝を付ける。明和5年から7年(1768年-1770年)にかけて造替されたもので、加賀藩10代藩主前田重教(まえだしげみち)の寄進。
まったく本殿に近づくことが出来なかったので、白山比咩神社ガイド本より転載。
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ついでに、白山山頂にある奥宮の写真も転載。
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ご神木「三本杉」
昭和58年5月、昭和天皇が境内の杉の種を手播きされ、その苗木を植樹したもの。
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ちょうど巫女さんが通りかかりました。
巫女さんの衣装はどこの神社でもほぼ同じですが、後ろ髪を束ねた水引は神社によって異なるので、ここに注目しています。
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境内白山奥宮遥拝所
大汝峰・御前峰・別山の「白山三山」を模した岩が祀られています。
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禊社・禊場
白山の伏流水を利用して、信者の方も禊をしています。
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禊場の上の禊社
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住吉社
禊場の横に鎮座している。
祭神は、住吉三神(底筒男尊、中筒男尊、表筒男尊)で、伊弉諾尊が禊をしたときに生まれた神。
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また社殿前に戻ってきました。
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最後に北参道入り口のところにある宝物殿に入りました。
ここには楽しみにしていた木造狛犬が待っています。
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まずは、白山比咩大神の神像。
青木哥彦画
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重要文化財「木造獅子狛犬」
平安時代
像高: 獅子 86.0センチ、狛犬 85.9センチ
もと本殿外陣に安置されていた大型の獅子狛犬一対像である。阿形の獅子、吽形の狛犬とともに桧の前後縦三材に後肢に横一材を引き寄せる構造で、漆塗彩色仕上げとしている。神社の守護獣としての獅子狛犬像は、平安時代以来数多く造立されたが、軒下とはいえ社殿の階上椽におかれる中型以上の平安期に遡る古例は極めて少ない。滋賀・御上神社、京都・藤森神社に伝存する狛犬はその稀有の遺例として重要文化財に指定されているが、その他では広島・厳島神社に伝わる一回り小さい二対が知られるに過ぎない。本一対像はこれらに比べて一段と大型のものであるが、前肢を揃えほぼ正面向に前傾する姿、後方へと軽快に流れるたてがみ、穏やかな筋骨の表現など極めてよく似ており相近いころの造像であることを思わせる。現状、像表面の彩色は全て剥落し、漆下地をあらわしているが、材の朽損等少なく、獅子の耳、狛犬の頭頂の一角を失い、狛犬の尾を補作するほか、保存状態の良いことも賞され、異例の稀な平安期獅子狛犬の優れた大作である。
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重要文化財「木造狛犬」
鎌倉時代
阿形 像高 98.0センチ 、吽形 像高 97.0センチ
檜材、一木造で、総体に黒漆を塗り、唇に朱、歯牙に金泥を施す。頭部を大きく彫り出し、肉付きのあるたくましい胸を強く張る。その上体を支えるように太い前肢を立ててふんばり、後肢は曲げて腰をおとして坐る狛犬である。鬣は、阿形像を巻毛、吽形像を流し毛の様式で表わす。背をおこした反りの強い背筋の線や、力強く堂々とした体躯など、鎌倉時代の特色を十分に示し、巨匠運慶の作かとも言われ、全国的にも秀作の一つに数えられるものである。
白山本宮の後身である白山比咩神社の拝殿に安置され、社伝では、藤原秀衡の寄進の伝承がある。
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木造狛犬は、社殿内に置かれるので、小さいものという固定観念があったが、その前に立って大きいのに驚愕した。そしてその迫力には圧倒されました。
平安時代の「獅子狛犬」は、碓氷神社の石造狛犬と並び、私がいままで会ってきた狛犬のなかで最古のものです。これに会うのを楽しみに白山比咩神社に来たので、本当に満足しました。

これで、越中国一之宮、能登国一之宮、加賀国一之宮と、前田藩百二十万石を構成する国の一之宮全てにお参りを果たすことが出来ました。
夏に帰省した際にしかできなかったので、三年がかりとなりましたが、我ながらよくやったと褒めてやりたい気分です(笑)

この日は、午前中に思いがけない人とバッタリ会って話に興じたので、こちらに来る時間が遅れ、レンタカーを返す時間も決めてあったので、午後は白山比咩神社だけとなった。
帰りの高速のPA「徳光」で海を眺めただけ。
この日は空が曇っていたので暗い海であった。
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帰省

20140801

明日2日から4日まで、富山の実家に帰省します。

それで、その間ブログはお休みということで。

なにか土産話が作れればいいな、と思っています。



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四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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