佐波波地祇神社(延喜式内論社)/茨城県北茨城市大津町
20140930
所在地:茨城県北茨城市大津町(字宮平)1532番地
歴史クラブの行事「関八州式内社めぐり」で常陸國の二回目を26日(金)に行ってきました。その最初が当社です。
社号標
式内社 常陸國多珂郡 佐波波地祇(神)社、旧郷社

実際は、ここから境内までかなりの石段があるということで、全員バスで境内横の駐車場まで上がり、参拝が済んだ後、足の達者な者だけで時間をもらって、駆け足ぎみにここまで下ってきました。
社号標のところにあった、素鶩神社。
これは須賀神社(すがじんじゃ)のことで、「牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。」とあります。


少し上がると一之鳥居があります。


一之鳥居から見下ろした大津港。

そこから少し歩いて、いよいよ神社のある唐帰山(からかいざん=海抜55m)を登ります。


石段の途中に「伍社稲荷」があります。


石段の途中の二之鳥居

文化14年(1817)の二十三夜塔。

石段の天辺から見下ろす。

海がきれいに見えます。

石段の最上部から参道に三組の狛犬がびっしり、という感じで並んでいます。
最初の組。


二組目



三組目


手水舎

三之鳥居

境内は、ほどほどの広さ。

権現造りの拝殿

由 緒:
創立の起源は古<、延書式神名帳に常陸国延書式内社二十八社の一社と記載されている事、又、「日本三代実録」に、「清和天皇貞観元年(859)4月26日従五位下を授けられた佐波波神云々」とあり、少な<とも1200年前には創立されたと伝えられる。
又、社伝によれば、日本武尊が武将を率いて乗征した際、この沖で逆浪に漂うこと数日、一夜、神人が霊雲に乗りて夢枕に立ち、「吾ハ佐波波神也、今皇子ノ船ヲ守護センガタメ釆レリ、直チニ順風卜為サン」とのお言葉があり、夢から醒めると、果たしてその通りになった。そこで、弊を奉り、佐波波の山を敬ったという。その後、沖を通る船を守護し、逆風に会い異国に漂っても、大神の助けがあって帰ってきた例があったため、唐帰(からかい)の宮と称した。社頭には松の巨木が多数あり、宮の松・唐葺(からかい)の松といわれ、船の往来の目印となつていた。
古<は六所明神と尊称されていたが、元禄年間(1688-1696)に西山公(せいざんこう=徳川光國)が神徳を祈願して神鏡一面を奉納し、大宮大明神の尊称を奉った。以来、水戸藩の厚い崇敬を受けた。江戸時代の大津は水戸藩随-の漁港であった。明治2年に郷社、-時村社とされたが明治13年に郷社に復帰した。
拝殿の前の唐金造灯篭。大津機関士組合奉納とある。

鉄の天水桶。大津港船主一同奉納とある。

拝殿の破風は二重で、向拝は唐破風となっている。

向拝の彫刻では波の彫刻が目立つ。

社額は「佐波波地祇神社」で、横に「大宮大明神」の古い額が並ぶ。

拝殿内部

主祭神は天日方奇日方命(あめひかた<しひかたのみこと)で、大己貴命の孫の事代主命の第3皇子で神武天皇に仕え、東夷征伐に功を挙げた神様。
配神として、大己貴命、事代主命、大物主命、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)の5神となっています。
ここは、当初六所明神と云われ、大宮大明神と称された。
6つのお宮がここにあって、徳川光國が大宮大明神としたときに合祀したのか。
たぶん明治になって、今の社名にし、祭神を天日方奇日方命としたのでしょう。
享保12年(1727)造営の本殿の千木が平削ぎとなっていて、これは女神の場合にこうするので、今の祭神とは合っていません。
どうも「佐波波神」というのがはっきりしない。
日本武尊と佐波波神の話が、弟橘比売命の話と似ているのが気になるのですが。
神紋は「右三つ巴」

拝殿に「御船祭」の絵馬がかかっていました。
国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財の「常陸大津の御船祭」(ひたちおおつのおふねまつり)です。
この祭、いつ頃始まったかは不明ですが、漁師町ならではの勇壮で華やかな祭りで、5年毎に春の大祭時に行われる。5月2日の宵祭りでは、夜間暗闇の中で佐波波地祇神社の本殿より神輿に「御分霊写しの儀」が行われる。3日の本祭りでは、諏訪神社(境内社)下で神輿は飾り立てられた神船に移される。神輿を乗せた10トン程の神船には囃子方も乗り、この船を200人を超える若衆が掛け声とともに、船を揺らしながら5時間程かけて陸路、浜辺近<の津之神社(境外社)迄曳いて行<。船の移動方法は、船底には山車のような車輪は無<、ソロバンと呼ばれる木枠を道に敷いてその上を船を滑らすように人力で曳いてい<。津之神社下で下された神輿は水中に入れられ、潮垢離(しおごり)の神事を行った後、神社に帰還する。かって神船は海上を通っていたが、その後海上部分が陸地となった為、現在のような陸上で船を引っ張る形式になったとの事。尚、今年この祭が行われた事から、次回実施は5年後の平成31年5月となります。

社 殿:
本殿:流造り正面軒唐破風嗣葺き=享保12年(1727)造営、平成8年(1996)修復。
弊殿・拝殿:権現造り。明治11年造営、嗣葺き=昭和8年(1933)修復。

拝殿横に、御船祭のミニチュアと思われる船が飾ってあった。

本殿





拝殿前、右に唐帰の井戸がある。三百年間水が絶えずに湧き出ているそうです

社殿の右手に「かね牛」。


ここから境内社です。祭神のわからない沢山の石祠がありました。ここでは分かっている社のみ掲載します。
八坂神社

淡島神社

伏見、三社、穴守稲荷大明神

右から二番目の大国天のみわかる。

丸徳稲荷神社

大黒様

浜諏訪神社

武田姫稲荷


武田とくれば、私には簡単に見過ごせません。
ネットで調べてみましたが、この稲荷に関する記述でその謂れに触れたものはありませんでした。
武田の姫といえば、武田信玄の娘「松姫」と「菊姫」、武田勝頼の娘「貞姫」、仁科盛信の娘「督姫」、小山田信繁の娘「香具姫」あたりが浮かんでくるが、この地にはまったく縁が無さそうです。
稲荷の規模から云っても、そんな有名な姫でもないようです。
武田が滅びた後で、この地に移って来た武田ゆかりの女性が居たのでしょう。
最後に本殿横手に、ずらっと奉納された錨を紹介しておきます。


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歴史クラブの行事「関八州式内社めぐり」で常陸國の二回目を26日(金)に行ってきました。その最初が当社です。
社号標
式内社 常陸國多珂郡 佐波波地祇(神)社、旧郷社

実際は、ここから境内までかなりの石段があるということで、全員バスで境内横の駐車場まで上がり、参拝が済んだ後、足の達者な者だけで時間をもらって、駆け足ぎみにここまで下ってきました。
社号標のところにあった、素鶩神社。
これは須賀神社(すがじんじゃ)のことで、「牛頭天王・須佐之男命(すさのおのみこと)を祭神とする祇園信仰の神社。日本全国に存在する。「すが」は「須我」「清」「酒賀」「素鵞」などとも表記される。」とあります。


少し上がると一之鳥居があります。


一之鳥居から見下ろした大津港。

そこから少し歩いて、いよいよ神社のある唐帰山(からかいざん=海抜55m)を登ります。


石段の途中に「伍社稲荷」があります。


石段の途中の二之鳥居

文化14年(1817)の二十三夜塔。

石段の天辺から見下ろす。

海がきれいに見えます。

石段の最上部から参道に三組の狛犬がびっしり、という感じで並んでいます。
最初の組。


二組目



三組目


手水舎

三之鳥居

境内は、ほどほどの広さ。

権現造りの拝殿

由 緒:
創立の起源は古<、延書式神名帳に常陸国延書式内社二十八社の一社と記載されている事、又、「日本三代実録」に、「清和天皇貞観元年(859)4月26日従五位下を授けられた佐波波神云々」とあり、少な<とも1200年前には創立されたと伝えられる。
又、社伝によれば、日本武尊が武将を率いて乗征した際、この沖で逆浪に漂うこと数日、一夜、神人が霊雲に乗りて夢枕に立ち、「吾ハ佐波波神也、今皇子ノ船ヲ守護センガタメ釆レリ、直チニ順風卜為サン」とのお言葉があり、夢から醒めると、果たしてその通りになった。そこで、弊を奉り、佐波波の山を敬ったという。その後、沖を通る船を守護し、逆風に会い異国に漂っても、大神の助けがあって帰ってきた例があったため、唐帰(からかい)の宮と称した。社頭には松の巨木が多数あり、宮の松・唐葺(からかい)の松といわれ、船の往来の目印となつていた。
古<は六所明神と尊称されていたが、元禄年間(1688-1696)に西山公(せいざんこう=徳川光國)が神徳を祈願して神鏡一面を奉納し、大宮大明神の尊称を奉った。以来、水戸藩の厚い崇敬を受けた。江戸時代の大津は水戸藩随-の漁港であった。明治2年に郷社、-時村社とされたが明治13年に郷社に復帰した。
拝殿の前の唐金造灯篭。大津機関士組合奉納とある。

鉄の天水桶。大津港船主一同奉納とある。

拝殿の破風は二重で、向拝は唐破風となっている。

向拝の彫刻では波の彫刻が目立つ。

社額は「佐波波地祇神社」で、横に「大宮大明神」の古い額が並ぶ。

拝殿内部

主祭神は天日方奇日方命(あめひかた<しひかたのみこと)で、大己貴命の孫の事代主命の第3皇子で神武天皇に仕え、東夷征伐に功を挙げた神様。
配神として、大己貴命、事代主命、大物主命、媛蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)、五十鈴依姫命(いすずよりひめのみこと)の5神となっています。
ここは、当初六所明神と云われ、大宮大明神と称された。
6つのお宮がここにあって、徳川光國が大宮大明神としたときに合祀したのか。
たぶん明治になって、今の社名にし、祭神を天日方奇日方命としたのでしょう。
享保12年(1727)造営の本殿の千木が平削ぎとなっていて、これは女神の場合にこうするので、今の祭神とは合っていません。
どうも「佐波波神」というのがはっきりしない。
日本武尊と佐波波神の話が、弟橘比売命の話と似ているのが気になるのですが。
神紋は「右三つ巴」

拝殿に「御船祭」の絵馬がかかっていました。
国選択無形民俗文化財、県指定無形民俗文化財の「常陸大津の御船祭」(ひたちおおつのおふねまつり)です。
この祭、いつ頃始まったかは不明ですが、漁師町ならではの勇壮で華やかな祭りで、5年毎に春の大祭時に行われる。5月2日の宵祭りでは、夜間暗闇の中で佐波波地祇神社の本殿より神輿に「御分霊写しの儀」が行われる。3日の本祭りでは、諏訪神社(境内社)下で神輿は飾り立てられた神船に移される。神輿を乗せた10トン程の神船には囃子方も乗り、この船を200人を超える若衆が掛け声とともに、船を揺らしながら5時間程かけて陸路、浜辺近<の津之神社(境外社)迄曳いて行<。船の移動方法は、船底には山車のような車輪は無<、ソロバンと呼ばれる木枠を道に敷いてその上を船を滑らすように人力で曳いてい<。津之神社下で下された神輿は水中に入れられ、潮垢離(しおごり)の神事を行った後、神社に帰還する。かって神船は海上を通っていたが、その後海上部分が陸地となった為、現在のような陸上で船を引っ張る形式になったとの事。尚、今年この祭が行われた事から、次回実施は5年後の平成31年5月となります。

社 殿:
本殿:流造り正面軒唐破風嗣葺き=享保12年(1727)造営、平成8年(1996)修復。
弊殿・拝殿:権現造り。明治11年造営、嗣葺き=昭和8年(1933)修復。

拝殿横に、御船祭のミニチュアと思われる船が飾ってあった。

本殿





拝殿前、右に唐帰の井戸がある。三百年間水が絶えずに湧き出ているそうです

社殿の右手に「かね牛」。


ここから境内社です。祭神のわからない沢山の石祠がありました。ここでは分かっている社のみ掲載します。
八坂神社

淡島神社

伏見、三社、穴守稲荷大明神

右から二番目の大国天のみわかる。

丸徳稲荷神社

大黒様

浜諏訪神社

武田姫稲荷


武田とくれば、私には簡単に見過ごせません。
ネットで調べてみましたが、この稲荷に関する記述でその謂れに触れたものはありませんでした。
武田の姫といえば、武田信玄の娘「松姫」と「菊姫」、武田勝頼の娘「貞姫」、仁科盛信の娘「督姫」、小山田信繁の娘「香具姫」あたりが浮かんでくるが、この地にはまったく縁が無さそうです。
稲荷の規模から云っても、そんな有名な姫でもないようです。
武田が滅びた後で、この地に移って来た武田ゆかりの女性が居たのでしょう。
最後に本殿横手に、ずらっと奉納された錨を紹介しておきます。


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芭蕉ゆかりの深川(2)
20140927
23日(火)に、歴史クラブの行事で表題のテーマで歩いた続きです。
下の「本所深川絵図」で「久世大和守」とあるのが、今の清澄庭園です。
その東側に霊巌寺があり、その北にある小名木川沿いに西に行くと萬年橋。それを渡って左上の辺に芭蕉庵跡の芭蕉稲荷、芭蕉記念館などがあり、この時代の新大橋はこの位置ですが、現在の新大橋はもっと北、北六軒堀町の上の道をずっと西に延長したところに今は新大橋が掛かっています。

【清澄庭園】
さて、清澄庭園に入り皆を最初に案内したのが、この句の前です。

大きな句碑です。

この前で皆で記念写真を撮り、それから自由行動。
池の周りをたどっていくと石仏群があります。






池の中の小島にサギが佇んでいる。

白と赤の曼珠沙華

ここの池の周りにはたくさんの飛び石があり、楽しい。

無造作に置かれた大きな一枚岩。

水に面白く浸食された岩が集められている。

子供も楽しそうに遊んでいる。


【江戸六地蔵・霊厳寺】
寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。
明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番(水戸街道)が安置されている。幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた。

この日はお彼岸のため、境内に家族連れが多かった。

江戸六地蔵


これで、歴史クラブLグループの企画で、品川を歩いた時に東海道の「品川寺・六地蔵」、都電荒川線を巡って歩いた時に、「中山道の真性寺・六地蔵」に参っているので、今日永代寺に続きここ霊厳寺に参ったので、これで4つクリアとなりました。
松平定信の墓地は広くて立派でした。



その近くには、徳川譜代の重臣の墓が並んでいた。

これは本多家の墓

霊厳寺から出る時に呑龍上人の碑に気付いた。
子育て呑竜の異名で有名で、川越の蓮馨寺に呑龍堂があり、なじみの名だ。

昼食をこの近くの店で、深川めしを食べてもらった。
この日の参加者は32名だったので、ちょっとギュウギュウ詰めで気の毒だったが、深川めしには喜んでもらえた。
それから小名木川沿いに西に歩いていき萬年橋に出た。
【萬年橋】


萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8年(1680年)の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載がある。江戸時代初期、この橋のすぐ北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていたものの、この番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、寛文元年(1661年)に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来する。慶賀名と考えられる「萬年橋」という呼称となった時期などは不明である。
小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿を愛された。葛飾北斎は富嶽三十六景の中で「深川萬年橋下」として、歌川広重は名所江戸百景の中で「深川萬年橋」として取り上げた。
橋からの小名木川、大川の眺め。

「富嶽三十六景 深川万年橋下」葛飾北斎

川船番所跡の説明

【芭蕉稲荷】
大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、「芭蕉庵」跡と分かり、地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府が旧跡に指定した。



「芭蕉庵跡」の碑

古い木の株に句が。
「さまざまの ことおもいだす 桜かな」

【芭蕉庵史跡展望庭園】
隅田川と小名木川に隣接し、四季折々の水辺の風景が楽しめます。庭内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフを配し、往時を偲ぶことができます。
どこに芭蕉が居る?

芭蕉翁像


洒落た浮世絵のレリーフ。

芭蕉庵のレリーフ



この日は祝日なので隅田川の遊覧船が多かった。

【芭蕉記念館】
小さいが庭園があり、 芭蕉の俳句にちなんだ花や草木、池、滝が施され、芭蕉が詠んだであろう自然を感じることができる。当時の芭蕉庵を模した茅葺き屋根のほこらや芭蕉の句碑がある。また、館内には展示室、図書室がある。

入って、芭蕉についてのビデオを皆で見ました。
二階の展示室に、「石の蛙」は展示されていました。
もちろん撮影禁止なので、購入した絵葉書で。

庭園内には句碑が三つありました。
まず「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」

このように、樹に沢山の句が吊られていた。

築山を上がっていくと、芭蕉庵を模したほこらがありました。

その中に、芭蕉翁の像が。

そのかたわらに「川上とこの川下や月の友」(逆光がひどくて、よく撮れなかった)

【隅田川テラス】
そこから外に出ると、奥の細道を表現した銅のレリーフが並んでいました。

隅田川テラスに出ました。
新大橋までの間にこのような句碑が8つ立っています。

だいぶ新大橋が近くなってきました。

新大橋です。

初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりも下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。
橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
最後に、地下鉄「森下」駅近くの長慶寺に向かいます。
地下鉄「森下」駅入り口を通り過ぎます。

【芭蕉時雨塚】
松尾芭蕉は元禄7年(1694)10月12日、大阪で亡くなりましたが、遺言により、大津の義仲寺に葬られました。
江戸蕉門の杉風、其角、嵐雪、史邦達は、亡師を偲び、芭蕉の落歯と芭蕉自筆の「世にぶるもさらに宗舐のやどり哉」の短冊を長慶寺(寛永7年創立)境内に埋め、塚を築きました。この塚が芭蕉時雨塚です。
しかし大正12年の関東大震災後、滅失し、現在のものは、当時のものではありません。
長慶寺

真ん中が現在の時雨塚碑。右側の碑は「其角墓」とあります。

これで、本日の芭蕉ゆかりの深川散策は終了。
さきほどの地下鉄「森下」駅から帰途につきました。
(了)
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下の「本所深川絵図」で「久世大和守」とあるのが、今の清澄庭園です。
その東側に霊巌寺があり、その北にある小名木川沿いに西に行くと萬年橋。それを渡って左上の辺に芭蕉庵跡の芭蕉稲荷、芭蕉記念館などがあり、この時代の新大橋はこの位置ですが、現在の新大橋はもっと北、北六軒堀町の上の道をずっと西に延長したところに今は新大橋が掛かっています。

【清澄庭園】
さて、清澄庭園に入り皆を最初に案内したのが、この句の前です。

大きな句碑です。

この前で皆で記念写真を撮り、それから自由行動。
池の周りをたどっていくと石仏群があります。






池の中の小島にサギが佇んでいる。

白と赤の曼珠沙華

ここの池の周りにはたくさんの飛び石があり、楽しい。

無造作に置かれた大きな一枚岩。

水に面白く浸食された岩が集められている。

子供も楽しそうに遊んでいる。


【江戸六地蔵・霊厳寺】
寛永元年(1624年)、雄誉霊巌上人の開山により、日本橋付近の芦原を埋め立てた霊巌島(現在の東京都中央区新川)に創建された。数年後に檀林が設置され、関東十八檀林の一つとなった。
明暦3年(1657年)、江戸の大半を焼失した明暦の大火により霊巌寺も延焼。境内や周辺で1万人近くの避難民が犠牲になったという。万治元年(1658年)に徳川幕府の防火対策を重視した都市改造計画の一環として、現在地に移転した。
霊巌寺には、11代将軍徳川家斉のもとで老中首座として寛政の改革を行った松平定信の墓をはじめ、今治藩主松平家や膳所藩主本多家など大名の墓が多く存在する。また、境内には江戸六地蔵の第五番(水戸街道)が安置されている。幕末江戸の7大火葬場(荼毘所)のひとつ、境内除地に火屋があり火葬執行の責任者が置かれていた。

この日はお彼岸のため、境内に家族連れが多かった。

江戸六地蔵


これで、歴史クラブLグループの企画で、品川を歩いた時に東海道の「品川寺・六地蔵」、都電荒川線を巡って歩いた時に、「中山道の真性寺・六地蔵」に参っているので、今日永代寺に続きここ霊厳寺に参ったので、これで4つクリアとなりました。
松平定信の墓地は広くて立派でした。



その近くには、徳川譜代の重臣の墓が並んでいた。

これは本多家の墓

霊厳寺から出る時に呑龍上人の碑に気付いた。
子育て呑竜の異名で有名で、川越の蓮馨寺に呑龍堂があり、なじみの名だ。

昼食をこの近くの店で、深川めしを食べてもらった。
この日の参加者は32名だったので、ちょっとギュウギュウ詰めで気の毒だったが、深川めしには喜んでもらえた。
それから小名木川沿いに西に歩いていき萬年橋に出た。
【萬年橋】


萬年橋が架橋された年代は定かではないが延宝8年(1680年)の江戸地図には「元番所のはし」として当所に橋の記載がある。江戸時代初期、この橋のすぐ北側に小名木川を航行する船荷を取り締まるために「川船番所」が置かれていたものの、この番所は明暦の大火後の江戸市街地の整備拡大に伴い、寛文元年(1661年)に中川口へと移されたため、付近が「元番所」と呼ばれていたことに由来する。慶賀名と考えられる「萬年橋」という呼称となった時期などは不明である。
小名木川は江戸市内へ行徳の塩や、近郊農村で採れた野菜、米などを船で運び込むための運河であり、架けられた橋はいずれも船の航行を妨げないように橋脚を高くしていたが、萬年橋は中でも特に大きく高く虹型に架けられていたことから、その優美な姿を愛された。葛飾北斎は富嶽三十六景の中で「深川萬年橋下」として、歌川広重は名所江戸百景の中で「深川萬年橋」として取り上げた。
橋からの小名木川、大川の眺め。

「富嶽三十六景 深川万年橋下」葛飾北斎

川船番所跡の説明

【芭蕉稲荷】
大正六年津波来襲のあと芭蕉が愛好したといわれる石造の蛙が発見され、「芭蕉庵」跡と分かり、地元の人々の尽力によりここに芭蕉稲荷を祀り、同十年東京府が旧跡に指定した。



「芭蕉庵跡」の碑

古い木の株に句が。
「さまざまの ことおもいだす 桜かな」

【芭蕉庵史跡展望庭園】
隅田川と小名木川に隣接し、四季折々の水辺の風景が楽しめます。庭内には芭蕉翁像や芭蕉庵のレリーフを配し、往時を偲ぶことができます。
どこに芭蕉が居る?

芭蕉翁像


洒落た浮世絵のレリーフ。

芭蕉庵のレリーフ



この日は祝日なので隅田川の遊覧船が多かった。

【芭蕉記念館】
小さいが庭園があり、 芭蕉の俳句にちなんだ花や草木、池、滝が施され、芭蕉が詠んだであろう自然を感じることができる。当時の芭蕉庵を模した茅葺き屋根のほこらや芭蕉の句碑がある。また、館内には展示室、図書室がある。

入って、芭蕉についてのビデオを皆で見ました。
二階の展示室に、「石の蛙」は展示されていました。
もちろん撮影禁止なので、購入した絵葉書で。

庭園内には句碑が三つありました。
まず「草の戸も住み替わる代ぞひなの家」

このように、樹に沢山の句が吊られていた。

築山を上がっていくと、芭蕉庵を模したほこらがありました。

その中に、芭蕉翁の像が。

そのかたわらに「川上とこの川下や月の友」(逆光がひどくて、よく撮れなかった)

【隅田川テラス】
そこから外に出ると、奥の細道を表現した銅のレリーフが並んでいました。

隅田川テラスに出ました。
新大橋までの間にこのような句碑が8つ立っています。

だいぶ新大橋が近くなってきました。

新大橋です。

初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりも下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。
橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいます。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
最後に、地下鉄「森下」駅近くの長慶寺に向かいます。
地下鉄「森下」駅入り口を通り過ぎます。

【芭蕉時雨塚】
松尾芭蕉は元禄7年(1694)10月12日、大阪で亡くなりましたが、遺言により、大津の義仲寺に葬られました。
江戸蕉門の杉風、其角、嵐雪、史邦達は、亡師を偲び、芭蕉の落歯と芭蕉自筆の「世にぶるもさらに宗舐のやどり哉」の短冊を長慶寺(寛永7年創立)境内に埋め、塚を築きました。この塚が芭蕉時雨塚です。
しかし大正12年の関東大震災後、滅失し、現在のものは、当時のものではありません。
長慶寺

真ん中が現在の時雨塚碑。右側の碑は「其角墓」とあります。

これで、本日の芭蕉ゆかりの深川散策は終了。
さきほどの地下鉄「森下」駅から帰途につきました。
(了)
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芭蕉ゆかりの深川(1)
20140925
23日(火)に、歴史クラブの行事で表題のテーマで歩きました。
門前仲町から森下駅までのコースです。
門前仲町駅から歩き出したのが10:00くらいでした。
【永代寺】
ここは、「江戸六地蔵」がらみで寄りました。
旧永代寺は、現在の深川不動尊を含む深川公園一帯の敷地を持った広大なお寺でした。深川公園は、安藤広重(ひろしげ)の『名所江戸百景』にも取材された旧永代寺の庭園を公園にしたもので、上野恩賜(おんし)公園などと同じ1873(明治 6)太政官布告により開園された東京5公園の一つ。
「本所深川絵図」の一部を南北に倒して置いたのが下図。真ん中の下に永代寺。永代寺の文字は逆さまになっています。境内の右端に富岡八幡宮が書き込まれている。

旧永代寺は、江戸六地蔵の第6番(千葉街道)でしたがそれは失われてありません。現在の永代寺(旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興)もお地蔵様が多く、地蔵堂もあります。このお堂には子育地蔵尊・取持地蔵尊など六体のお地蔵様が安置されています。その他、「戦死戦没者/戦災被没者供養塔」、水子地蔵などのお地蔵様もある。


象が二頭の香炉


地蔵堂


水子地蔵

戦死戦没者/戦災被没者供養塔

【深川不動堂】
千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院。古くより「深川のお不動様」と親しまれてきた。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことに始まる。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した御分身。成田山の不動信仰は江戸庶民の人気に支えられ、元禄16年(1703)に第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われた。
明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座された。


旧本堂

こちらには、「おねがい不動尊」がある。


本堂は、梵字で囲まれているユニークな建物。

不動明王の真言です。


手水舎

手水舎の奥に「深川竜神」があります。



吒枳尼天を祀った出世稲荷


愛宕権現の本地仏とされる勝軍地蔵


石不動


石造灯明台



隣接する深川公園に、「永代時跡」の石碑が立っている。

深川公園を突っ切って清澄通りに出て、北上していくと、仙台堀川にかかる「海辺橋」があります。

【採茶庵(さいとあん)」跡】
松尾芭蕉の弟子杉山杉風の庵室です。
杉風は、幕府御用商人の魚屋で、裕福だったので、芭蕉のパトロンでもありました。「芭蕉庵」(現芭蕉稲荷)は、杉風が、芭蕉に贈ったものです。そして、「奥の細道」の旅に出るため、芭蕉は「芭蕉庵」を引きはらい、この「採茶庵」に逗留し、ここから、旅に出ます。
ここから舟に乗り、大川を北上して千住で陸に上がり歩き出します。


仙台堀川沿いの小道が「芭蕉の小道」と名付けられ、芭蕉の句が並びます。清澄橋まで並んでいるを全部撮りました。



















清澄橋

仙台堀川

清澄橋を渡ると清澄公園です。

【清澄庭園】
元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となる。
最初に載せた「本所深川絵図」に「久世大和守」と書かれた広大な敷地がそうです。
明治となり荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園として造成した。
洋風庭園と和風庭園がセットになっていて、洋風庭園にコンドルが設計した洋館が建っていました。

関東大震災では、たくさんの人がこの庭園のおかげで命を救われたそうです。
三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園しました。
1973年(昭和48年)に東京都は残る西半分の敷地を購入。翌年から整備を開始し、1977年(昭和52年)に開放公園(清澄公園)として追加開園しました。
西半分の清澄公園には、既にコンドルが設計した洋館もなく、なんとなく和風の公園となっています。
中村学園の空中通路をバックに。

次回続きは、庭園の東半分の「清澄庭園(有料)」から載せます。
(続く)
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門前仲町から森下駅までのコースです。
門前仲町駅から歩き出したのが10:00くらいでした。
【永代寺】
ここは、「江戸六地蔵」がらみで寄りました。
旧永代寺は、現在の深川不動尊を含む深川公園一帯の敷地を持った広大なお寺でした。深川公園は、安藤広重(ひろしげ)の『名所江戸百景』にも取材された旧永代寺の庭園を公園にしたもので、上野恩賜(おんし)公園などと同じ1873(明治 6)太政官布告により開園された東京5公園の一つ。
「本所深川絵図」の一部を南北に倒して置いたのが下図。真ん中の下に永代寺。永代寺の文字は逆さまになっています。境内の右端に富岡八幡宮が書き込まれている。

旧永代寺は、江戸六地蔵の第6番(千葉街道)でしたがそれは失われてありません。現在の永代寺(旧永代寺の塔頭の吉祥院が名称を引き継ぎ、再興)もお地蔵様が多く、地蔵堂もあります。このお堂には子育地蔵尊・取持地蔵尊など六体のお地蔵様が安置されています。その他、「戦死戦没者/戦災被没者供養塔」、水子地蔵などのお地蔵様もある。


象が二頭の香炉


地蔵堂


水子地蔵

戦死戦没者/戦災被没者供養塔

【深川不動堂】
千葉県成田市にある大本山成田山新勝寺の東京別院。古くより「深川のお不動様」と親しまれてきた。その開創は元禄16年と伝わり、成田山の御本尊を江戸に奉持し特別拝観したことに始まる。この御尊像は、弘法大師自らが敬刻開眼されたと言われており、現在深川不動堂で奉祀する御本尊はその御分霊を勧請した御分身。成田山の不動信仰は江戸庶民の人気に支えられ、元禄16年(1703)に第一回目の出開帳が富岡八幡宮の別当寺である永代寺で行われた。
明治元年(1868)に神仏分離令とそれにもとづく廃仏運動のなかで、信徒講社は永続的な御旅所確立のために深川移転説を主張し、成田山当局にも熱心に働きかけました。その結果、旧来しばしば出開帳を行った特縁の地である現在地に、不動明王御分霊が正式に遷座された。


旧本堂

こちらには、「おねがい不動尊」がある。


本堂は、梵字で囲まれているユニークな建物。

不動明王の真言です。


手水舎

手水舎の奥に「深川竜神」があります。



吒枳尼天を祀った出世稲荷


愛宕権現の本地仏とされる勝軍地蔵


石不動


石造灯明台



隣接する深川公園に、「永代時跡」の石碑が立っている。

深川公園を突っ切って清澄通りに出て、北上していくと、仙台堀川にかかる「海辺橋」があります。

【採茶庵(さいとあん)」跡】
松尾芭蕉の弟子杉山杉風の庵室です。
杉風は、幕府御用商人の魚屋で、裕福だったので、芭蕉のパトロンでもありました。「芭蕉庵」(現芭蕉稲荷)は、杉風が、芭蕉に贈ったものです。そして、「奥の細道」の旅に出るため、芭蕉は「芭蕉庵」を引きはらい、この「採茶庵」に逗留し、ここから、旅に出ます。
ここから舟に乗り、大川を北上して千住で陸に上がり歩き出します。


仙台堀川沿いの小道が「芭蕉の小道」と名付けられ、芭蕉の句が並びます。清澄橋まで並んでいるを全部撮りました。



















清澄橋

仙台堀川

清澄橋を渡ると清澄公園です。

【清澄庭園】
元禄期の豪商・紀伊國屋文左衛門の屋敷があったと伝えられる。享保年間には下総関宿藩主・久世氏の下屋敷となる。
最初に載せた「本所深川絵図」に「久世大和守」と書かれた広大な敷地がそうです。
明治となり荒廃していた邸地を三菱財閥創業者の岩崎弥太郎が買い取り、三菱社員の慰安と賓客接待を目的とした庭園として造成した。
洋風庭園と和風庭園がセットになっていて、洋風庭園にコンドルが設計した洋館が建っていました。

関東大震災では、たくさんの人がこの庭園のおかげで命を救われたそうです。
三菱3代目社長の岩崎久弥は当時の東京市に庭園の東半分を公園用地として寄贈。市は大正記念館の移築(1929年5月竣工)や深川図書館の新館舎建設(同年6月竣工)など整備を進め、1932年(昭和7年)7月24日に清澄庭園として開園しました。
1973年(昭和48年)に東京都は残る西半分の敷地を購入。翌年から整備を開始し、1977年(昭和52年)に開放公園(清澄公園)として追加開園しました。
西半分の清澄公園には、既にコンドルが設計した洋館もなく、なんとなく和風の公園となっています。
中村学園の空中通路をバックに。

次回続きは、庭園の東半分の「清澄庭園(有料)」から載せます。
(続く)
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香山戸命(かがやまとのみこと)/日本の神々の話
20140921
この神も、大正元年発行の「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」により追加します。
「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」の文章で、十分読み取れると思うので、そのまま掲載します。
香山戸神は、大年神の御子にして、古事記に香山戸臣神と見えたる神、即ちこれなり、大年神の香用比賣を娶りて生み給へる御子大香山戸臣神(舊事本紀に大香山戸神と記せり)あり、また天知迦流美豆比賣を娶りて生み給へる御子香山戸臣神(舊事本紀に香山戸神と記せり)および羽山戸神おはしき、さて本居宣長翁の説に、山戸は山なる民の居所(すみか)にて、いはゆる山里なり、戸は借字にて處の意なり、されば、この神は、山里を開きて、民の居(すむ)べき處を成し給へる功徳(いさをし)ありけるにやあらむ、香の意は、未だ思ひ得ず、もしくは稱名(たたへな)にて、これも光輝(かがや)く意か、と見えたり、此の説に従ふべきなり[古事記、舊事本紀、古事記傳]
臣がついたりつかなかったりしているが、「臣」は敬称で偉大なという意味。
各地の日吉神社のなかで、大山咋神、羽山戸命と共に祭神としているお宮がある。
例えば東京都昭島市拝島町の日吉神社。
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「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」の文章で、十分読み取れると思うので、そのまま掲載します。
香山戸神は、大年神の御子にして、古事記に香山戸臣神と見えたる神、即ちこれなり、大年神の香用比賣を娶りて生み給へる御子大香山戸臣神(舊事本紀に大香山戸神と記せり)あり、また天知迦流美豆比賣を娶りて生み給へる御子香山戸臣神(舊事本紀に香山戸神と記せり)および羽山戸神おはしき、さて本居宣長翁の説に、山戸は山なる民の居所(すみか)にて、いはゆる山里なり、戸は借字にて處の意なり、されば、この神は、山里を開きて、民の居(すむ)べき處を成し給へる功徳(いさをし)ありけるにやあらむ、香の意は、未だ思ひ得ず、もしくは稱名(たたへな)にて、これも光輝(かがや)く意か、と見えたり、此の説に従ふべきなり[古事記、舊事本紀、古事記傳]
臣がついたりつかなかったりしているが、「臣」は敬称で偉大なという意味。
各地の日吉神社のなかで、大山咋神、羽山戸命と共に祭神としているお宮がある。
例えば東京都昭島市拝島町の日吉神社。
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鎌倉御霊神社・面掛行列
20140919
昨日18日(木)、歴史クラブの行事で表題の祭礼に行ってきました。
狭山市駅を9時ちょっと前に出て、湘南新宿ラインを利用して鎌倉に着いたのが11:10。江ノ電で由比が浜に移動。ここにあるホテルで以前何度かテニスをしたことがあり、ここのレストランでしらす丼を皆に食べてもらおう、という訳です。
予約した時間より早く着いたので、ちょっと海辺で遊びました。



シラス丼で満足した後は、そこから歩いて長谷寺入り口経由で御霊神社に向かいました。
横の小路から入っていきました。


境内に入ってから、大鳥居から入り直します。
すぐ前を江ノ電が走っています。

御霊(ごりょう)神社、または鎌倉権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。
鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。
境内に入ると、参詣者でごった返していました。

おおきなタブの木がありました。
かながわの名木百選「坂ノ下の御霊神社のタブノキ」、樹齢350年。


「嘉永の御霊神社大鳥居」
嘉永三年建立。関東大震災で二本の石柱にヒビが入るも倒壊を免れ、160余年の間御霊神社のシンボルだった。平成23年、安全を鑑み新しい鳥居に建て替えられたもの。

大正2年奉納の狛犬


拝殿


本殿

神紋は「並び矢」です。

ここの神楽も楽しみにしていました。
すごい人垣で近寄れません。

ウロウロしているうち、なんとか見える場所を見つけました。
二人ほど抜けて行ったのが幸いしました。
それでも頭上に腕を伸ばしての撮影です。

湯立神楽(市無形文化財)と云って、800年前、京都の石清水八幡から鎌倉の鶴岡八幡へ伝わったといわれます。
神楽座の脇の大釜でお湯を沸かしています。このお湯でお祓いと吉凶を占います。
大釜に水を満たして火を焚き、熱湯をたぎらせ湯立の結晶(湯花)を受けることで災を除き、福を招きます。
湯立神楽は、12座(演目)からなるそうです。
前述のようになんとか場所を確保して、第7座から第9座を動画で撮ることが出来ました。
第7座:掻湯(かきゆ)です。湯立神楽のクライマックス。
神招きの祈念をこめた御幣を持って、煮え立っているお湯を掻き、釜底から立ち上がる「湯の泡」の様子で今年の吉凶を占います。
(下記クリックして動画を見てください)
動画を見る
第8座:大散供(だいさんく)です。中入れ後の二座目の神楽で祓い清めの神楽です。
白扇の上に神饌の白米を乗せ、舞いながら四方に白米散供をする神楽。
私の頭の上にも飛んできました。ありがたかった。
(下記クリックして動画を見てください)
動画を見る
第9座:笹舞(ささまい)です。
湯たぶさを執って四方に舞い、今年の豊作と豊漁、氏子・参列者の無事息災を祈念する舞で、湯座(ゆぐら)とも言う。大釜で湯につけた笹を振り回します。湯たぶさから発する「しぶき」は、この神楽の場に来臨された神々の息吹となって、この場に集う人々をはじめ、あたりに立っている樹木にも、草にも、小石にも振り注がれます。
この湯を浴びると無病息災の御利益があるそうです。
(下記クリックして動画を見てください)
動画を見る
とても良い神楽(神事)でした。
調べたら12座もあるそうで、そして場所取りが大釜と反対側だったので、神事の様子はほとんど分かりませんでした。
来年は、この「湯立神楽」に絞って、良い場所取りをして撮影しようと思いました。
12座の概略だけ、ここに載せておきます。
最初の座:打ち囃子(うちはやし)。
第2座:初能(はのう)
神楽の聖域をととのえつくるため、白扇の上に神饌の白米を乗せ、これを四方に散供して、神楽の場に侵入しようとする邪霊や邪気を遠ざけ、聖域に神霊の降臨を仰ぎ、神楽の滞りない進行を祈念するお清めの舞。
第3座:御祓(おはらい)
神楽の座及び神々の降臨を仰ぐ「ひもろぎ」となる山、お湯、釜をはじめ参列者も合わせて、ひろく「聖域」をお清めし、神々の降臨を仰ぐためのお祓い。
第4座:御幣招き(ごへいまねき)
邪霊や邪気を遠ざけ清め祓いも終えて、斎庭・聖域の正面に設けられた山(やま)、ひもろぎに神々の来臨を仰ぎ祈る神招きの舞です。
第5座:湯上げ
山に来臨された神々を拝する最初の所作。邪霊を退け邪気を鎮め清められて、生れ出た尊い「お湯」を、まず最初に神々に献ずるものです。
第6座:中入れ
第7座:掻湯(かきゆ)
第8座:大散供(だいさんく)
第9座:笹舞(ささまい)
第10座:射祓(いはらい)
邪気を射祓い、邪悪を射据えて、招福除災を祈念し天の下、平らけく氏子安らけくあるべきを祈念する、静かな中にも力強い舞です。放たれた矢は、開運の御神矢として、競って取り合います。
第11座:剣舞(けんまい)・第12座:毛止幾(もどき)
赤面の神(天狗)は鉾を執って進み出て九字を切り、五風十雨、雨風時に順ひ、豊年万作・大漁満足・天下泰平を祈念して気息を整え、醜(邪悪)を踏み鎮め、天地運行の乱れを正し、邪霊を鎮めて散供します。
途中より黒面の神(山ノ神)が現れ、赤面の神(天狗)の所作を真似たり、おどけたりして笑いを招きつつ座の雰囲気を和めながら散供します。
そろそろ面掛行列に向けて準備が始まります。
私たちが到着したときから、境内には神輿が安置されていました。

獅子面が二基

境内は、更に混んできました。

こういう洒落たハッピを来た人も

放送があって、「境内ではロクに見れません、参道の突き当たりの大通りで良く見ることができます」とのこと。
そちらに移動します。

お囃子台では若い人たちがお囃子を演奏している。


参道がすごい人出になり、携帯で連絡し合って、バラバラになっていた一行がなんとか一緒になり場所取り。

陣取ったのは、極楽寺坂の虚空蔵菩薩前の「星の井」のところ。
ここで行列がユーターンするそうだ。

星の井



鎌倉権五郎景政の命日にあたる9月18日の御霊神社例大祭では、神奈川県の無形民俗文化財に指定されている面掛行列が行われる。鶴岡八幡宮の面掛行列(舞楽面の行列)に倣って、江戸時代から行われるようになったといわれ、200年以上の歴史があります。
現在では、御霊神社のみで行われています。
行列は、金棒をついた陣笠姿の露はらい、注連榊、天狗面、太刀持ち、弓矢などに続いて、一番面の爺(じい)から面の順に従って面掛十人衆が練り歩きます。
面掛十人衆:爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹男(ひょっとこ)、福禄寿、阿亀、女
面掛行列の中心人物は、妊婦姿で特別に着飾った九番目の阿亀(おかめ)。後ろは、阿亀に付き従う女(とりあげ)。行列の中心である「阿亀」の大きなお腹は、豊年・豊漁の祈願を子を産む形に象徴させたものということです。福禄寿は鎌倉江ノ島七福神の一つ。
いよいよ行列がやってきました。

金棒と陣笠姿の露はらい


囃子台



注連榊を小さい子たちが引いています。


御神旗

よく天狗と書かれていますが、鉾を持って神輿を先導しているから「猿田彦」ですね。

薙刀

弓矢

幟と槍

獅子頭

いよいよ面掛十人衆がやってきました。
爺、鬼

異形、鼻長

烏天狗、翁

火吹男(ひょっとこ)

福禄寿

阿亀

女(とりあげ)

幟と槍

刀と碁盤

太鼓台

雅楽と神官

神輿

最後尾が謡い手

すぐに折り返した行列が、またやって来た。

囃子台は、妹分たちの囃子になっていた。

猿田彦、薙刀と続く。


今度は、面掛十人衆の顔をしっかり撮ります。
爺

鬼

異形

鼻長

烏天狗

翁

火吹男(ひょっとこ)

福禄寿

阿亀と女(とりあげ)

元気づけにアメをもらってます(笑)

小さい子が一生懸命曳いています。

神輿の後ろの謡い手が最後尾


面掛十人衆と神輿を除けば、ほとんどが子供が務めていました。
とてもいい行列だった。
満足して鎌倉に戻り、フリータイム一時間で小町通りなどで買い物を楽しんでもらってから帰途につきました。
(了)
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狭山市駅を9時ちょっと前に出て、湘南新宿ラインを利用して鎌倉に着いたのが11:10。江ノ電で由比が浜に移動。ここにあるホテルで以前何度かテニスをしたことがあり、ここのレストランでしらす丼を皆に食べてもらおう、という訳です。
予約した時間より早く着いたので、ちょっと海辺で遊びました。



シラス丼で満足した後は、そこから歩いて長谷寺入り口経由で御霊神社に向かいました。
横の小路から入っていきました。


境内に入ってから、大鳥居から入り直します。
すぐ前を江ノ電が走っています。

御霊(ごりょう)神社、または鎌倉権五郎神社の創建年代は詳らかではないが、御霊信仰思想の広がりと鎌倉氏による地方開発の展開を考慮すると、平安時代後期であると推定することができる。もとは関東平氏五家の始祖、すなわち鎌倉氏・梶原氏・村岡氏・長尾氏・大庭氏の5氏の霊を祀った神社であったとされ、五霊から転じて御霊神社と通称されるようになった。後に、鎌倉権五郎景政の一柱のみに祭神は集約され、祭神の名から権五郎神社と呼ばれた。
鎌倉景政は、平安時代後期の関東平氏の一族であり、鎌倉・梶原・村岡・長尾・大庭の5氏とともに鎌倉武士団を率い、現在の湘南地方一帯の地方開発に従事した。景政はまた、その武勇をもって知られ、16歳の時、源義家の陣営に連なって後三年の役(1083年-1087年)に従軍して活躍した際のエピソードがよく知られている。『奥州後三年記』の伝えるところによれば、景政は左目を敵に射られながらも屈することなく、射手を倒し帰還した。左目に突き刺さった矢を抜こうと、一人の武士が景政の顔に足をかけたところ、景政はその非礼を叱責したと言う。かかる伝承から、志の成就(学業成就、必勝招来)の神徳があるとされる。また、林羅山の考定によれば眼病平癒にも効験があるとされる(『本朝神社考』)。
境内に入ると、参詣者でごった返していました。

おおきなタブの木がありました。
かながわの名木百選「坂ノ下の御霊神社のタブノキ」、樹齢350年。


「嘉永の御霊神社大鳥居」
嘉永三年建立。関東大震災で二本の石柱にヒビが入るも倒壊を免れ、160余年の間御霊神社のシンボルだった。平成23年、安全を鑑み新しい鳥居に建て替えられたもの。

大正2年奉納の狛犬


拝殿


本殿

神紋は「並び矢」です。

ここの神楽も楽しみにしていました。
すごい人垣で近寄れません。

ウロウロしているうち、なんとか見える場所を見つけました。
二人ほど抜けて行ったのが幸いしました。
それでも頭上に腕を伸ばしての撮影です。

湯立神楽(市無形文化財)と云って、800年前、京都の石清水八幡から鎌倉の鶴岡八幡へ伝わったといわれます。
神楽座の脇の大釜でお湯を沸かしています。このお湯でお祓いと吉凶を占います。
大釜に水を満たして火を焚き、熱湯をたぎらせ湯立の結晶(湯花)を受けることで災を除き、福を招きます。
湯立神楽は、12座(演目)からなるそうです。
前述のようになんとか場所を確保して、第7座から第9座を動画で撮ることが出来ました。
第7座:掻湯(かきゆ)です。湯立神楽のクライマックス。
神招きの祈念をこめた御幣を持って、煮え立っているお湯を掻き、釜底から立ち上がる「湯の泡」の様子で今年の吉凶を占います。
(下記クリックして動画を見てください)
動画を見る
第8座:大散供(だいさんく)です。中入れ後の二座目の神楽で祓い清めの神楽です。
白扇の上に神饌の白米を乗せ、舞いながら四方に白米散供をする神楽。
私の頭の上にも飛んできました。ありがたかった。
(下記クリックして動画を見てください)
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第9座:笹舞(ささまい)です。
湯たぶさを執って四方に舞い、今年の豊作と豊漁、氏子・参列者の無事息災を祈念する舞で、湯座(ゆぐら)とも言う。大釜で湯につけた笹を振り回します。湯たぶさから発する「しぶき」は、この神楽の場に来臨された神々の息吹となって、この場に集う人々をはじめ、あたりに立っている樹木にも、草にも、小石にも振り注がれます。
この湯を浴びると無病息災の御利益があるそうです。
(下記クリックして動画を見てください)
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とても良い神楽(神事)でした。
調べたら12座もあるそうで、そして場所取りが大釜と反対側だったので、神事の様子はほとんど分かりませんでした。
来年は、この「湯立神楽」に絞って、良い場所取りをして撮影しようと思いました。
12座の概略だけ、ここに載せておきます。
最初の座:打ち囃子(うちはやし)。
第2座:初能(はのう)
神楽の聖域をととのえつくるため、白扇の上に神饌の白米を乗せ、これを四方に散供して、神楽の場に侵入しようとする邪霊や邪気を遠ざけ、聖域に神霊の降臨を仰ぎ、神楽の滞りない進行を祈念するお清めの舞。
第3座:御祓(おはらい)
神楽の座及び神々の降臨を仰ぐ「ひもろぎ」となる山、お湯、釜をはじめ参列者も合わせて、ひろく「聖域」をお清めし、神々の降臨を仰ぐためのお祓い。
第4座:御幣招き(ごへいまねき)
邪霊や邪気を遠ざけ清め祓いも終えて、斎庭・聖域の正面に設けられた山(やま)、ひもろぎに神々の来臨を仰ぎ祈る神招きの舞です。
第5座:湯上げ
山に来臨された神々を拝する最初の所作。邪霊を退け邪気を鎮め清められて、生れ出た尊い「お湯」を、まず最初に神々に献ずるものです。
第6座:中入れ
第7座:掻湯(かきゆ)
第8座:大散供(だいさんく)
第9座:笹舞(ささまい)
第10座:射祓(いはらい)
邪気を射祓い、邪悪を射据えて、招福除災を祈念し天の下、平らけく氏子安らけくあるべきを祈念する、静かな中にも力強い舞です。放たれた矢は、開運の御神矢として、競って取り合います。
第11座:剣舞(けんまい)・第12座:毛止幾(もどき)
赤面の神(天狗)は鉾を執って進み出て九字を切り、五風十雨、雨風時に順ひ、豊年万作・大漁満足・天下泰平を祈念して気息を整え、醜(邪悪)を踏み鎮め、天地運行の乱れを正し、邪霊を鎮めて散供します。
途中より黒面の神(山ノ神)が現れ、赤面の神(天狗)の所作を真似たり、おどけたりして笑いを招きつつ座の雰囲気を和めながら散供します。
そろそろ面掛行列に向けて準備が始まります。
私たちが到着したときから、境内には神輿が安置されていました。

獅子面が二基

境内は、更に混んできました。

こういう洒落たハッピを来た人も

放送があって、「境内ではロクに見れません、参道の突き当たりの大通りで良く見ることができます」とのこと。
そちらに移動します。

お囃子台では若い人たちがお囃子を演奏している。


参道がすごい人出になり、携帯で連絡し合って、バラバラになっていた一行がなんとか一緒になり場所取り。

陣取ったのは、極楽寺坂の虚空蔵菩薩前の「星の井」のところ。
ここで行列がユーターンするそうだ。

星の井



鎌倉権五郎景政の命日にあたる9月18日の御霊神社例大祭では、神奈川県の無形民俗文化財に指定されている面掛行列が行われる。鶴岡八幡宮の面掛行列(舞楽面の行列)に倣って、江戸時代から行われるようになったといわれ、200年以上の歴史があります。
現在では、御霊神社のみで行われています。
行列は、金棒をついた陣笠姿の露はらい、注連榊、天狗面、太刀持ち、弓矢などに続いて、一番面の爺(じい)から面の順に従って面掛十人衆が練り歩きます。
面掛十人衆:爺、鬼、異形、鼻長、烏天狗、翁、火吹男(ひょっとこ)、福禄寿、阿亀、女
面掛行列の中心人物は、妊婦姿で特別に着飾った九番目の阿亀(おかめ)。後ろは、阿亀に付き従う女(とりあげ)。行列の中心である「阿亀」の大きなお腹は、豊年・豊漁の祈願を子を産む形に象徴させたものということです。福禄寿は鎌倉江ノ島七福神の一つ。
いよいよ行列がやってきました。

金棒と陣笠姿の露はらい


囃子台



注連榊を小さい子たちが引いています。


御神旗

よく天狗と書かれていますが、鉾を持って神輿を先導しているから「猿田彦」ですね。

薙刀

弓矢

幟と槍

獅子頭

いよいよ面掛十人衆がやってきました。
爺、鬼

異形、鼻長

烏天狗、翁

火吹男(ひょっとこ)

福禄寿

阿亀

女(とりあげ)

幟と槍

刀と碁盤

太鼓台

雅楽と神官

神輿

最後尾が謡い手

すぐに折り返した行列が、またやって来た。

囃子台は、妹分たちの囃子になっていた。

猿田彦、薙刀と続く。


今度は、面掛十人衆の顔をしっかり撮ります。
爺

鬼

異形

鼻長

烏天狗

翁

火吹男(ひょっとこ)

福禄寿

阿亀と女(とりあげ)

元気づけにアメをもらってます(笑)

小さい子が一生懸命曳いています。

神輿の後ろの謡い手が最後尾


面掛十人衆と神輿を除けば、ほとんどが子供が務めていました。
とてもいい行列だった。
満足して鎌倉に戻り、フリータイム一時間で小町通りなどで買い物を楽しんでもらってから帰途につきました。
(了)
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吾我津比賣命(あがつひめのみこと)/日本の神々の話
20140917
「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」では、こう書かれている。
吾我津比賣命は、猿田彦神の御女なり、総國風土記に載せたる伊賀國風土記に、次の如き記事見えたり、いはく『猿田彦神始此之國爲伊勢加佐波夜之國時猿田彦神女吾蛾津媛命天照大御神自天上投降給之金鈴知之守給其知守給之御斎處謂加志之和都賀野今時云手柏野者此其言謬也又此神之依知守國謂吾蛾之郡其後清見原天皇御宇以吾蛾郡分爲國之名後改伊賀吾蛾之音轉也』と見えたり、この神の御事蹟、古史に多く傳へざるを以て、委しきことを知る能はず、[古風土記逸文、日本書紀傳]
これによると伊賀國風土記では「猿田彦神の娘の吾蛾津媛命が、天照大御神が天上から投降した金鈴を知り守っていた」、「吾蛾が転じて伊賀という国名となった」。
注)「が」が「我」だったり「蛾」だったりしているが、これは原文そのままである。
いままで猿田彦神の系図で知っていたのは、「猿女君」と「太田命」であるが、前の話と結びつくのは「太田命」である。
倭姫命が天照大御神の奉斎地を求めて巡っているとき、五十鈴川の後江で、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。
それで、倭姫命はこの地に天照大御神を祀ることにして伊勢神宮となったのである。
「吾我津比賣命」を祀っている神社を知りたくて、ネットで検索かけてみたがまったく引っかかってこなかった。
ここからは、猿田彦神についてちょっと書いておく。
私が一番最初に関心を持ったのがこの神である。
というのは私が今住んでいるところに越してきて産土神社を調べたら白髭神社であり、毎年初詣などをしている。そこの祭神が猿田彦である。
それで調べてみると、とても面白い神なので、歴史講座研究コースのときに文化祭ではこの神について発表した。
なにより人目に触れる神でもある。いろいろな神社の神幸祭などの行列では先導役として鉾を持って姿を現す。
そしていま、2016年が高麗郡建郡1300年にあたるので、色々な企画がある。
白髭神社があるのが高麗郡に限られるということに注目している。
もともと白髭神社は高麗神社とのつながりが強いと云われているが、それならどうして祭神が高麗神社と同じ「白髭明神」ではないのか。
猿田彦神の性格を考えるとうなずける面もある。
「天孫降臨」を「征服」と、あるいは「侵入」と、あるいは「転進」と、あるいは「移住」と捉えるのかは立場によって違うだろう。
猿田彦は国津神であって、天孫降臨してくるのを待っていて道案内した神である。
高麗郡建郡も各所に散らばっていた高麗人を集めて作った。
密度は低かっただろうが、先住民が居たはずである。
その中で、積極的に渡来人と関わって、その技術とか文化を取り入れた人たちが居ただろう。
その人たちが崇める神としては、猿田彦神はうってつけの神様であるなあ、と思っている。
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吾我津比賣命は、猿田彦神の御女なり、総國風土記に載せたる伊賀國風土記に、次の如き記事見えたり、いはく『猿田彦神始此之國爲伊勢加佐波夜之國時猿田彦神女吾蛾津媛命天照大御神自天上投降給之金鈴知之守給其知守給之御斎處謂加志之和都賀野今時云手柏野者此其言謬也又此神之依知守國謂吾蛾之郡其後清見原天皇御宇以吾蛾郡分爲國之名後改伊賀吾蛾之音轉也』と見えたり、この神の御事蹟、古史に多く傳へざるを以て、委しきことを知る能はず、[古風土記逸文、日本書紀傳]
これによると伊賀國風土記では「猿田彦神の娘の吾蛾津媛命が、天照大御神が天上から投降した金鈴を知り守っていた」、「吾蛾が転じて伊賀という国名となった」。
注)「が」が「我」だったり「蛾」だったりしているが、これは原文そのままである。
いままで猿田彦神の系図で知っていたのは、「猿女君」と「太田命」であるが、前の話と結びつくのは「太田命」である。
倭姫命が天照大御神の奉斎地を求めて巡っているとき、五十鈴川の後江で、猿田彦神の裔、宇治土公の祖の大田命が現はれ参上したので、「汝が国の名は何そ」と問ふと、「さこくしろ宇遅の国」と申し上げ、御止代の神田を進った。倭姫命が「吉き宮処あるや」と問ふと、「さこくしろ宇遅の五十鈴の河上は、大日本の国の中にも殊勝なる霊地あるなり。その中に、翁三十八万歳の間にも未だ視知らざる霊物あり。照耀くこと日月の如くなり。惟ふに、小縁の物に在らじ。定めて主の出現御坐さむとする時に、『献るべし』と思ひてここに敬ひ祭り申す。」
これにより彼の処に往き到って、御覧じれば、昔、大神が誓願されて、豊葦原瑞穂国の内の伊勢のかさはや(風早)の国に美し宮処ありと見定められ、天上から投げ降ろされた天の逆太刀・逆桙・金鈴等が、そこにあったので、甚く懐に喜ばれて、言上げされた。
それで、倭姫命はこの地に天照大御神を祀ることにして伊勢神宮となったのである。
「吾我津比賣命」を祀っている神社を知りたくて、ネットで検索かけてみたがまったく引っかかってこなかった。
ここからは、猿田彦神についてちょっと書いておく。
私が一番最初に関心を持ったのがこの神である。
というのは私が今住んでいるところに越してきて産土神社を調べたら白髭神社であり、毎年初詣などをしている。そこの祭神が猿田彦である。
それで調べてみると、とても面白い神なので、歴史講座研究コースのときに文化祭ではこの神について発表した。
なにより人目に触れる神でもある。いろいろな神社の神幸祭などの行列では先導役として鉾を持って姿を現す。
そしていま、2016年が高麗郡建郡1300年にあたるので、色々な企画がある。
白髭神社があるのが高麗郡に限られるということに注目している。
もともと白髭神社は高麗神社とのつながりが強いと云われているが、それならどうして祭神が高麗神社と同じ「白髭明神」ではないのか。
猿田彦神の性格を考えるとうなずける面もある。
「天孫降臨」を「征服」と、あるいは「侵入」と、あるいは「転進」と、あるいは「移住」と捉えるのかは立場によって違うだろう。
猿田彦は国津神であって、天孫降臨してくるのを待っていて道案内した神である。
高麗郡建郡も各所に散らばっていた高麗人を集めて作った。
密度は低かっただろうが、先住民が居たはずである。
その中で、積極的に渡来人と関わって、その技術とか文化を取り入れた人たちが居ただろう。
その人たちが崇める神としては、猿田彦神はうってつけの神様であるなあ、と思っている。
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八幡神社鹿子舞2014
20140915
この八幡神社は鎌倉街道沿いにあり、新田義貞が鎌倉に攻め上がるとき、この神社に参拝し、「新田義貞駒つなぎの松」が残っています。
この鹿子舞は、埼玉県内全域で行われている一人立ち獅子舞のひとつであり、太鼓を叩きながら三人一組になって踊る三匹獅子舞のかたちをとっています。
土日の両日にわたり、鹿子舞の一行が地区内にある神社・寺院をまわって、舞いを奉納しながらねり歩きます。
土曜日は、12時に八幡神社を出発、「天満天神社」、「水神社」、「子の神社」、「清水八幡」、「諏訪神社」、「長栄寺」と廻り、17時ころ終了。

日曜は、12時に八幡神社を出発、「旭愛宕社」、「峰愛宕社」、「白山神社」、「八幡神社」の順です。

八幡神社で舞うのは日曜だけなので、この日に行くとして、順路図のように峰愛宕社は遠く離れているので、峰愛宕社から白山神社はタクシーで移動です。
なので置いてけぼりを食うので(笑)
白山神社で待ち構えて、白山神社と八幡神社で舞を見ることにしました。
「鹿子舞」は、昔は「獅子舞」と書かれておりましたが、明治時代の初め、同社の別当寺(神仏分離以前に神社に設けられた寺院)であった成円寺を獅子舞の一行が出発したところ、維新政府の神仏分離政策により獅子は仏教に属すものとしてとがめを受けました。このとき土地の機転者が、「私のところは獅子でなく鹿子である。鹿は神の使いである」といって禁を免れたというもので、それ以来、鹿子舞と書くようになったとのことです。
白山神社では境内が狭いため、お囃子と獅子舞の人たち、関係者しか入れず、見物人は道路からの見物となります。


舞が終わって小休止。
「お父さん、お獅子さわらせて~~」

白山神社から八幡神社に向かう行列。
金棒を先頭に、神官、氏子役員、山伏、花笠、歌役、笛役、天狗、世話人、そして3頭の鹿子と続きます。





私は、近道をして行列が到着するのを待ちます。
今日は市民大学の歴史講座の「石仏コース」人たちが見学に来ていて、顔なじみの方がたくさん居た。
行列が八幡神社に到着。
石段上の鳥居のところでほら貝が吹かれ、行列は急な石段を上がります。



鹿子は、石段の途中で、草鞋を履き替え、服装を整え、「砂糖水」を飲んで、お浄めをして鹿子舞に備えます。

境内の奉納場では、ささら役の花笠の少女がスタンバイ。

舞うのは3匹の獅子と天狗。
獅子は、女獅子(金の獅子)をめぐって 若い獅子(赤い獅子)と年上獅子(黒い獅子)が争う、というのがメインのストーリー。
それに天狗がちょっかいを出します。

お囃子の笛。あと唄と、ささら、鹿子の太鼓でいよいよ鹿子舞のはじまり。

鹿子の袴はかまを見るとヘビの鱗うろこ模様が染め抜かれていますが、これは雨乞あまごいや五穀豊饒を祈願したためと考えられています。
今回は動画を撮ったのでそれを見てください。
長いので、前半と後半の二つに分けてアップしました。
動画(前半)を見る
動画(後半)を見る
いま、どういう舞をしているかをマイクで解説をしてくれたので、判りやすくて良かったですね。
満足しました。
今年は、竿を使用しての「竿がかり」が舞われませんでした。
一昨年、写真ですが記事があります。
その記事を読む
この鹿子舞の特徴は、「各盞(かくさん)の儀」と呼ばれる儀式が伝承されているところにあります。これは奉納舞をはじめる前と終わりに行うもので、「来年の同月同日の何時まで」と次回の儀式が必ず行われるように約束することをいいます。
(了)
この鹿子舞は、埼玉県内全域で行われている一人立ち獅子舞のひとつであり、太鼓を叩きながら三人一組になって踊る三匹獅子舞のかたちをとっています。
土日の両日にわたり、鹿子舞の一行が地区内にある神社・寺院をまわって、舞いを奉納しながらねり歩きます。
土曜日は、12時に八幡神社を出発、「天満天神社」、「水神社」、「子の神社」、「清水八幡」、「諏訪神社」、「長栄寺」と廻り、17時ころ終了。

日曜は、12時に八幡神社を出発、「旭愛宕社」、「峰愛宕社」、「白山神社」、「八幡神社」の順です。

八幡神社で舞うのは日曜だけなので、この日に行くとして、順路図のように峰愛宕社は遠く離れているので、峰愛宕社から白山神社はタクシーで移動です。
なので置いてけぼりを食うので(笑)
白山神社で待ち構えて、白山神社と八幡神社で舞を見ることにしました。
「鹿子舞」は、昔は「獅子舞」と書かれておりましたが、明治時代の初め、同社の別当寺(神仏分離以前に神社に設けられた寺院)であった成円寺を獅子舞の一行が出発したところ、維新政府の神仏分離政策により獅子は仏教に属すものとしてとがめを受けました。このとき土地の機転者が、「私のところは獅子でなく鹿子である。鹿は神の使いである」といって禁を免れたというもので、それ以来、鹿子舞と書くようになったとのことです。
白山神社では境内が狭いため、お囃子と獅子舞の人たち、関係者しか入れず、見物人は道路からの見物となります。


舞が終わって小休止。
「お父さん、お獅子さわらせて~~」

白山神社から八幡神社に向かう行列。
金棒を先頭に、神官、氏子役員、山伏、花笠、歌役、笛役、天狗、世話人、そして3頭の鹿子と続きます。





私は、近道をして行列が到着するのを待ちます。
今日は市民大学の歴史講座の「石仏コース」人たちが見学に来ていて、顔なじみの方がたくさん居た。
行列が八幡神社に到着。
石段上の鳥居のところでほら貝が吹かれ、行列は急な石段を上がります。



鹿子は、石段の途中で、草鞋を履き替え、服装を整え、「砂糖水」を飲んで、お浄めをして鹿子舞に備えます。

境内の奉納場では、ささら役の花笠の少女がスタンバイ。

舞うのは3匹の獅子と天狗。
獅子は、女獅子(金の獅子)をめぐって 若い獅子(赤い獅子)と年上獅子(黒い獅子)が争う、というのがメインのストーリー。
それに天狗がちょっかいを出します。

お囃子の笛。あと唄と、ささら、鹿子の太鼓でいよいよ鹿子舞のはじまり。

鹿子の袴はかまを見るとヘビの鱗うろこ模様が染め抜かれていますが、これは雨乞あまごいや五穀豊饒を祈願したためと考えられています。
今回は動画を撮ったのでそれを見てください。
長いので、前半と後半の二つに分けてアップしました。
動画(前半)を見る
動画(後半)を見る
いま、どういう舞をしているかをマイクで解説をしてくれたので、判りやすくて良かったですね。
満足しました。
今年は、竿を使用しての「竿がかり」が舞われませんでした。
一昨年、写真ですが記事があります。
その記事を読む
この鹿子舞の特徴は、「各盞(かくさん)の儀」と呼ばれる儀式が伝承されているところにあります。これは奉納舞をはじめる前と終わりに行うもので、「来年の同月同日の何時まで」と次回の儀式が必ず行われるように約束することをいいます。
(了)
ウォーキング
20140914
私は秋も花粉症に苦しむので、今つらいです。
しかし血圧対策で、そんなことでめげていられないので歩いています。
今日は入間川沿いに安比奈親水公園の辺を歩きました。


ドッグランがあります。

見ていたら、人懐こいのが寄って来た。

グランドに出ました。
左のほうは、サッカーグランド、野球場が広がっています。

小川がある。

目的地まで着いて、小休止して戻りかけたら、投網を繕っている人が居た。



ちょっと話しかけたら、気安くお話することが出来ました。
もうちょっとしたら「落ちアユ」の季節だそうです。
川越市も狭山市も「ヤナ」の設置を認めていないので、投網でけっこう取れるとのこと。
一投で20匹くらい取れることもあるらしい。
25センチくらいの大型も。
「いいですねえ」と羨ましがったら、「網がすぐ破れるから、網の費用も馬鹿にならない」と云っていましたが、まんざらでもない顔でしたね(笑)
空に、いい雲が浮かんでいました。
左が頭だとすると、獅子かワンちゃんか。
右が頭だとすると牛でしょうか。

しかし血圧対策で、そんなことでめげていられないので歩いています。
今日は入間川沿いに安比奈親水公園の辺を歩きました。


ドッグランがあります。

見ていたら、人懐こいのが寄って来た。

グランドに出ました。
左のほうは、サッカーグランド、野球場が広がっています。

小川がある。

目的地まで着いて、小休止して戻りかけたら、投網を繕っている人が居た。



ちょっと話しかけたら、気安くお話することが出来ました。
もうちょっとしたら「落ちアユ」の季節だそうです。
川越市も狭山市も「ヤナ」の設置を認めていないので、投網でけっこう取れるとのこと。
一投で20匹くらい取れることもあるらしい。
25センチくらいの大型も。
「いいですねえ」と羨ましがったら、「網がすぐ破れるから、網の費用も馬鹿にならない」と云っていましたが、まんざらでもない顔でしたね(笑)
空に、いい雲が浮かんでいました。
左が頭だとすると、獅子かワンちゃんか。
右が頭だとすると牛でしょうか。

真神 (まかみ)/日本の神々の話
20140912
現在は絶滅してしまった日本狼が神格化したもの。 大口真神(おおぐちまがみ)とも呼ばれる。
真神は古来より聖獣として崇拝された。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
しかし時代が流れ、人間が山地まで生活圏を広げると、狼は人と家畜を襲うものだという認識が広まった。そして狼の数が減っていくにしたがって、真神の神聖さは地に落ちていったという。
私は三峰神社と武蔵御嶽神社で「大口真神」にお参りした。
三峯神社
「お仮屋」で祭神として「眷属の大口真神(お使い神、お犬さま)」を祀っている。
以下、三峯神社HPでの説明:
三峯神社の御眷属、大口真神(お使い神、お犬さま)のお宮です。
御眷属は深い山中に身をひそめられている為にここを仮のお宮としてお祭りを行うので「お仮屋」と呼んでいます。
今から1900年ほど昔、第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東夷御平定の帰り道に山梨県から奥秩父の山々を越えて当山に登り、初めて三峯神社を祀られた時、道案内をつとめたのが山犬でその忠実さと勇猛さによって三峯神社の御眷属に定められたと伝えています。
お犬さまはその霊力で三峯信仰の中心となり、山畑を荒らす害獣熊・猪・兎等を追い払い、家々を守護しては火防・盗賊除・諸難除の神と崇められています。
「お仮屋」





武蔵御嶽神社
大口真神社(おおくちまがみ しゃ)で大口真神を祀る。
本社玉垣内にあり、神明社の後方に瑞垣に囲まれて鎮座している。御嶽神社の眷属である狼を祀っている。古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。現在の社殿は昭和14年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で豪華な彫刻が全体に施されている。社殿後方は奥宮遥拝所となっている。
武蔵御嶽神社HPでの説明:
「おいぬ様」のみたけ山
盗難除け・魔除けの神「大口真神」は江戸の昔から「おいぬ様」として親しまれ、広く信仰されてきました。現在も変わらず厚い信仰をいただいております。
近頃では、おいぬ様にちなんで、ワンちゃん達の来山が非常に増えてきています。お山が賑わうことは大変有難いことです。
この「おいぬ様」は、実は《犬》ではなく、《日本狼》です。今は絶滅したと言われていますが、御岳山にも一昔前までは、狼たちと共存して生活していました。狼は怖い存在で有りながら、畑を荒らす害獣を食べてくれる有難い存在でもあったのです。
「おいぬ様」=日本狼ですが、狼が守り神となった由来が日本書紀に現れますが、御岳山では次のように伝えられています。
『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜(やまびる=野蒜)で大鹿を退治したが、そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。
そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いた。尊は白狼に、大口真神としてこの御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられた。』
「大口真神社」




私がリュックに入れて持ち歩いている厄除けのお守りは、武蔵御嶽神社でいただいた「大口真神」です。



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真神は古来より聖獣として崇拝された。
大和国(現在の奈良県)にある飛鳥の真神原の老狼は、大勢の人間を食べてきたため、その獰猛さから神格化され、猪や鹿から作物を守護するものとされた。人語を理解し、人間の性質を見分ける力を有し、善人を守護し、悪人を罰するものと信仰された。また、厄除け、特に火難や盗難から守る力が強いとされ、絵馬などにも描かれてきた。
しかし時代が流れ、人間が山地まで生活圏を広げると、狼は人と家畜を襲うものだという認識が広まった。そして狼の数が減っていくにしたがって、真神の神聖さは地に落ちていったという。
私は三峰神社と武蔵御嶽神社で「大口真神」にお参りした。
三峯神社
「お仮屋」で祭神として「眷属の大口真神(お使い神、お犬さま)」を祀っている。
以下、三峯神社HPでの説明:
三峯神社の御眷属、大口真神(お使い神、お犬さま)のお宮です。
御眷属は深い山中に身をひそめられている為にここを仮のお宮としてお祭りを行うので「お仮屋」と呼んでいます。
今から1900年ほど昔、第十二代景行天皇の皇子日本武尊が東夷御平定の帰り道に山梨県から奥秩父の山々を越えて当山に登り、初めて三峯神社を祀られた時、道案内をつとめたのが山犬でその忠実さと勇猛さによって三峯神社の御眷属に定められたと伝えています。
お犬さまはその霊力で三峯信仰の中心となり、山畑を荒らす害獣熊・猪・兎等を追い払い、家々を守護しては火防・盗賊除・諸難除の神と崇められています。
「お仮屋」





武蔵御嶽神社
大口真神社(おおくちまがみ しゃ)で大口真神を祀る。
本社玉垣内にあり、神明社の後方に瑞垣に囲まれて鎮座している。御嶽神社の眷属である狼を祀っている。古くは神饌を供える台のみであったが、江戸時代末期に社殿が建てられた。現在の社殿は昭和14年(1939年)に建てられた一間社流造の社殿で豪華な彫刻が全体に施されている。社殿後方は奥宮遥拝所となっている。
武蔵御嶽神社HPでの説明:
「おいぬ様」のみたけ山
盗難除け・魔除けの神「大口真神」は江戸の昔から「おいぬ様」として親しまれ、広く信仰されてきました。現在も変わらず厚い信仰をいただいております。
近頃では、おいぬ様にちなんで、ワンちゃん達の来山が非常に増えてきています。お山が賑わうことは大変有難いことです。
この「おいぬ様」は、実は《犬》ではなく、《日本狼》です。今は絶滅したと言われていますが、御岳山にも一昔前までは、狼たちと共存して生活していました。狼は怖い存在で有りながら、畑を荒らす害獣を食べてくれる有難い存在でもあったのです。
「おいぬ様」=日本狼ですが、狼が守り神となった由来が日本書紀に現れますが、御岳山では次のように伝えられています。
『日本武尊が東征の際、この御岳山から西北に進もうとされたとき、深山の邪神が大きな白鹿と化して道を塞いだ。尊は山蒜(やまびる=野蒜)で大鹿を退治したが、そのとき山谷鳴動して雲霧が発生し、道に迷われてしまう。
そこへ、忽然と白狼が現れ、西北へ尊の軍を導いた。尊は白狼に、大口真神としてこの御岳山に留まり、すべての魔物を退治せよと仰せられた。』
「大口真神社」




私がリュックに入れて持ち歩いている厄除けのお守りは、武蔵御嶽神社でいただいた「大口真神」です。



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高麗郡建郡1300年
20140911
昨日10日(水)に、さやま市民大学同窓会 歴史クラブ主催で「高麗郡建郡1300年の意義」というタイトルで公開講座を開きました。
講師は高麗郡建郡1300年記念事業委員会会長の大野松茂氏にお願いしました。
大野松茂氏は、衆議院議員(4期)、埼玉県議会議員(2期)、狭山市長(3代)を歴任。狭山市名誉市民。現在は武蔵野学院大学の客員教授であります。
講演の内容は素晴らしいもので、とても感銘をうけました。
ただし、昨日の今日ということで、この記事では2016年が「高麗郡建郡1300年」にあたることの概略的な説明にとどめ、大野松茂氏がお話されたことは録音してあるので、整理したうえで記事にしたいと思います。
公開講座の様子

大野松茂講師

聴講者には、「早わかり 高麗郡入門」という小冊子が配られ、それをベースにお話をされたので、とても分かりやすくて理解ができました。

「高麗郡建郡1300年」ということで、様々な取り組み、企画のパンフレットもいただいたので、これからこのテーマでの催しに参加する機会が増えると思う。
10月4日に巾着田で催される「にじのパレード」が楽しそうだ。高句麗衣装や古代衣装でのパレードらしい。
続日本紀によると、霊亀2年(716)に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させて高麗郡を建郡したとあります。

どの辺が高麗郡かというと、下図で入間川の北にあたります。
従って狭山市では入間川の北がかっての高麗郡、入間川の南がかっての入間郡ということになります。

この頃朝鮮半島では、激動の時代で百済、新羅、高句麗の三国が互いに争っていたのですが、唐と手を組んだ新羅に、百済、高句麗は滅ぼされてしまいます。
当然日本にも援助の依頼ががあり、天智2年には百済を助けるため出兵しますが白村江の戦いで大敗し、百済は滅びます。
そのため、この時期にはたくさんの渡来人が日本に渡ってきました。
一面では、渡来人がもたらして文化・技術により日本は発展しました。
高句麗に関しては、私は韓流時代ドラマが好きで、よく見ているので高句麗の始祖「朱蒙」とか「広開土王」は知っています。
そして高麗郡を考える時に、浮かび上がってくる人物として、「高麗王若光」があります。
天智5年(666)10月に高句麗の使者として日本に来ました。当然この時期ですから日本からの援助を要請するのが主たる目的だったでしょう。
しかし2年後に高句麗は滅びてしまいます。
若光は帰る国が無くなってしまった訳です。
続日本紀大宝3年(703)4月に、従五位下高麗若光に王姓を賜り「高麗王(こまこしき)若光」とするという記事があります。
これは若光という人物が優秀だったのはもちろんですが、それだけではなくそれ以前の渡来人たちが文化や技術をもたらしていたからだと思われます。
そして、高麗郡の建郡にあたっては、指導的な役割を果たし、その貢献が極めて大きかったので、亡くなると高麗神社の祭神として祀られました。
ちょっとポイントがずれますが、私は「桜行脚」というのをやっていて、高麗神社と高麗王若光の墓がある聖天院の両方とも見事な桜があるので、記事にしています。
高麗神社の記事に飛ぶ
高麗王若光の墓がある聖天院の記事に飛ぶ
高麗郡の役所(郡家)がどこにあったかは、確かな発掘はまだされていませんが、有力な候補地としては武蔵高萩駅の北側に存在する「拾石遺跡」と「堀ノ内遺跡」があるそうです。
高麗郡の遺跡のなかで、「女影廃寺」、「高岡廃寺」、「大寺廃寺」の三つがありますが、一つの郡で三つも寺院が建立された例は武蔵国では他に無いそうで、誇るべきことのようです。
女影廃寺出土の軒丸瓦、軒平瓦。

私は狭山市に移ってきて30年になりますが、その地の産土神社が白髭神社ということで、初詣その他で白髭神社に、よくお参りしている。
白髭神社の祭神は猿田彦命だが、高麗王若光が「白髭明神」とも呼ばれ祀られたこと、白髭神社のほぼ全てが高麗郡内にあることから、神社研究がメインとなっている私には、この辺の関係がとても面白いテーマになりそうである。
そして、ちょうど歴史クラブのなかで7月から「新編武蔵風土記稿」の勉強会が始まりました。
入間郡、高麗郡の順で進めていく予定なので、いずれ高麗郡の姿がいろいろと具体的に捉えられると、今から楽しみにしています。

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(了)
講師は高麗郡建郡1300年記念事業委員会会長の大野松茂氏にお願いしました。
大野松茂氏は、衆議院議員(4期)、埼玉県議会議員(2期)、狭山市長(3代)を歴任。狭山市名誉市民。現在は武蔵野学院大学の客員教授であります。
講演の内容は素晴らしいもので、とても感銘をうけました。
ただし、昨日の今日ということで、この記事では2016年が「高麗郡建郡1300年」にあたることの概略的な説明にとどめ、大野松茂氏がお話されたことは録音してあるので、整理したうえで記事にしたいと思います。
公開講座の様子

大野松茂講師

聴講者には、「早わかり 高麗郡入門」という小冊子が配られ、それをベースにお話をされたので、とても分かりやすくて理解ができました。

「高麗郡建郡1300年」ということで、様々な取り組み、企画のパンフレットもいただいたので、これからこのテーマでの催しに参加する機会が増えると思う。
10月4日に巾着田で催される「にじのパレード」が楽しそうだ。高句麗衣装や古代衣装でのパレードらしい。
続日本紀によると、霊亀2年(716)に駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野の七国に住む高麗人1799人を武蔵国に移住させて高麗郡を建郡したとあります。

どの辺が高麗郡かというと、下図で入間川の北にあたります。
従って狭山市では入間川の北がかっての高麗郡、入間川の南がかっての入間郡ということになります。

この頃朝鮮半島では、激動の時代で百済、新羅、高句麗の三国が互いに争っていたのですが、唐と手を組んだ新羅に、百済、高句麗は滅ぼされてしまいます。
当然日本にも援助の依頼ががあり、天智2年には百済を助けるため出兵しますが白村江の戦いで大敗し、百済は滅びます。
そのため、この時期にはたくさんの渡来人が日本に渡ってきました。
一面では、渡来人がもたらして文化・技術により日本は発展しました。
高句麗に関しては、私は韓流時代ドラマが好きで、よく見ているので高句麗の始祖「朱蒙」とか「広開土王」は知っています。
そして高麗郡を考える時に、浮かび上がってくる人物として、「高麗王若光」があります。
天智5年(666)10月に高句麗の使者として日本に来ました。当然この時期ですから日本からの援助を要請するのが主たる目的だったでしょう。
しかし2年後に高句麗は滅びてしまいます。
若光は帰る国が無くなってしまった訳です。
続日本紀大宝3年(703)4月に、従五位下高麗若光に王姓を賜り「高麗王(こまこしき)若光」とするという記事があります。
これは若光という人物が優秀だったのはもちろんですが、それだけではなくそれ以前の渡来人たちが文化や技術をもたらしていたからだと思われます。
そして、高麗郡の建郡にあたっては、指導的な役割を果たし、その貢献が極めて大きかったので、亡くなると高麗神社の祭神として祀られました。
ちょっとポイントがずれますが、私は「桜行脚」というのをやっていて、高麗神社と高麗王若光の墓がある聖天院の両方とも見事な桜があるので、記事にしています。
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高麗王若光の墓がある聖天院の記事に飛ぶ
高麗郡の役所(郡家)がどこにあったかは、確かな発掘はまだされていませんが、有力な候補地としては武蔵高萩駅の北側に存在する「拾石遺跡」と「堀ノ内遺跡」があるそうです。
高麗郡の遺跡のなかで、「女影廃寺」、「高岡廃寺」、「大寺廃寺」の三つがありますが、一つの郡で三つも寺院が建立された例は武蔵国では他に無いそうで、誇るべきことのようです。
女影廃寺出土の軒丸瓦、軒平瓦。

私は狭山市に移ってきて30年になりますが、その地の産土神社が白髭神社ということで、初詣その他で白髭神社に、よくお参りしている。
白髭神社の祭神は猿田彦命だが、高麗王若光が「白髭明神」とも呼ばれ祀られたこと、白髭神社のほぼ全てが高麗郡内にあることから、神社研究がメインとなっている私には、この辺の関係がとても面白いテーマになりそうである。
そして、ちょうど歴史クラブのなかで7月から「新編武蔵風土記稿」の勉強会が始まりました。
入間郡、高麗郡の順で進めていく予定なので、いずれ高麗郡の姿がいろいろと具体的に捉えられると、今から楽しみにしています。

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(了)
マリア・カラス
20140909

系 統: HT ハイブリッドティ
作出年: 1965年
作出国: フランス
作出者: M.LMeilland メイアン
花 色: 濃桃色
花 径: 大輪
香 り: 良香
開花性: 四季咲き
花色は蛍光がかったローズピンク色。
半剣弁高芯咲き、大輪で花弁数が多くふっくらとした花形が特徴的です。
香りも強く、とても存在感のあるバラです。
この名前の由来は、ソプラノ歌手マリア・カラス(MariaCallas 1923年12月2日~1977年9月16日)から命名された。
ニューヨークで生まれパリで没し、20世紀最高のソプラノ歌手とまで言われた。特にルチア(ランメルモールのルチア)、ノルマ、ヴィオレッタ(椿姫)、トスカなどの歌唱は、技術もさることながら役の内面に深く踏み込んだ表現で際立っており、多くの聴衆を魅了すると共にその後の歌手にも強い影響を及ぼした。
1973年と1974年に来日。1974年にはジュゼッペ・ディ・ステファノ(テノール)と国内4ヶ所でピアノ伴奏によるリサイタルを行った。この1974年の日本公演は前年から始まっていたワールドツアーの最後を飾るものであり、福岡、大阪、東京と続き、札幌の北海道厚生年金会館で締めくくられた。これが彼女の生涯における最後の公式な舞台となっています(東京公演の模様はNHKによってTV収録されている)。
カラスの最初の夫は30歳年上のイタリアの実業家ジョバンニ・バティスタ・メネギーニであったが、後にカラスがギリシャの大富豪で海運王と呼ばれたオナシスのもとに出奔し離婚。オナシスとの愛人関係はケネディ大統領未亡人ジャッキーとオナシスの結婚後も続いた。その後ディ・ステファノと恋愛関係に入る。しかしステファノとの関係も1976年12月末に終わった。
1977年9月16日、ひっそりと暮らしていたパリの自宅にて53歳の若さで短い生涯を閉じています。
2013年5月22日 谷津バラ園にて
速秋津日子神(はやあきづひこのかみ)/日本の神々の話
20140907
伊邪那岐、伊邪那美が国生みの後、生んだ35柱の神の一つ。
『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命が家に関連する神々を生んだのち、 海神・大綿津見神、水戸神・速秋津日子神、速秋津日売神を生んだとある。
『日本書紀』一書には「水門神等を速秋津日命と号す」。川と海の接する河口部の神。
『古事記』-「二神の神生み」の段
(現代語訳)
伊邪那岐・伊邪那美神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、大事忍男神、次に石土毘古神を生み、次に石巣比賣神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神の、名は大綿津見神を生み、次に水戸の神の、名は速秋津日子神、次に女神の速秋津比賣神を生んだ。 大事忍男神より秋津比売神まで合わせて十神。
この速秋津日子・速秋津比売の二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、沫那藝神と沫那美神、次に頰那藝神と頰那美神、次に天之水分神と国之水分神、次に天之久比奢母智神と国之久比奢母智神である。 沫那藝神より国之久比奢母智神まで、合わせて八神。(以下省略)
神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。
『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神である。
沫那藝神(あはなぎのかみ)・沫那美神(あはなみのかみ)
頬那藝神(つらなぎのかみ)・頬那美神(つらなみのかみ)
天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)
天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)
また、葦原中国平定の段で国譲りを承諾した大国主のために造営された宮殿(出雲大社)で、膳夫(かしわで)となった櫛八玉神(くしやたまのかみ)は、水戸神二神の孫と記されている。
「水戸神」とはすなわち港の神の意味である。古代の港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもある。
また川に穢を流す意味から、祓除の神ともされる。神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから出た神名とみられている。また、「アキツ」は「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈もある。
私は、三峰神社境内社の「祓戸神社」でお参りしました。
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『古事記』では、伊邪那岐命・伊邪那美命が家に関連する神々を生んだのち、 海神・大綿津見神、水戸神・速秋津日子神、速秋津日売神を生んだとある。
『日本書紀』一書には「水門神等を速秋津日命と号す」。川と海の接する河口部の神。
『古事記』-「二神の神生み」の段
(現代語訳)
伊邪那岐・伊邪那美神は、国を生み終えて、さらに神を生み出した。そして生んだ神の名は、大事忍男神、次に石土毘古神を生み、次に石巣比賣神を生み、次に大戸日別神を生み、次に天之吹男神を生み、次に大屋毘古神を生み、次に風木津別之忍男神を生み、次に海の神の、名は大綿津見神を生み、次に水戸の神の、名は速秋津日子神、次に女神の速秋津比賣神を生んだ。 大事忍男神より秋津比売神まで合わせて十神。
この速秋津日子・速秋津比売の二神が、河と海を分担して生んだ神の名は、沫那藝神と沫那美神、次に頰那藝神と頰那美神、次に天之水分神と国之水分神、次に天之久比奢母智神と国之久比奢母智神である。 沫那藝神より国之久比奢母智神まで、合わせて八神。(以下省略)
神産みの段でイザナギ・イザナミ二神の間に産まれた男女一対の神で、水戸神はその総称である。『日本書紀』の一書第六では「水門の神達を速秋津日命という」としている。
『古事記』では、二神の間には以下の四対八柱の神が産まれたと記している。いずれも水に関係のある神である。
沫那藝神(あはなぎのかみ)・沫那美神(あはなみのかみ)
頬那藝神(つらなぎのかみ)・頬那美神(つらなみのかみ)
天之水分神(あめのみくまりのかみ)・国之水分神(くにのみくまりのかみ)
天之久比奢母智神(あめのくひざもちのかみ)・国之久比奢母智神(くにのくひざもちのかみ)
また、葦原中国平定の段で国譲りを承諾した大国主のために造営された宮殿(出雲大社)で、膳夫(かしわで)となった櫛八玉神(くしやたまのかみ)は、水戸神二神の孫と記されている。
「水戸神」とはすなわち港の神の意味である。古代の港は河口に作られるものであったので、水戸神は河口の神でもある。
また川に穢を流す意味から、祓除の神ともされる。神名の「ハヤ」は川や潮の流れの速さを示し、かつ、河口の利用は潮の流れの速さに左右されることから出た神名とみられている。また、「アキツ」は「明津」で、禊によって速やかに明く清まるの意とする解釈もある。
私は、三峰神社境内社の「祓戸神社」でお参りしました。
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智光山公園植物園の花
20140906
少し前から、気温が低くなってきたら血圧が高めになって来たので、ウォーキングを再開した。
以前医者に血圧の薬を出されそうになって、もうちょっと努力してみるからと血圧手帳をつけて食事とかウォーキングとか色々と努力している。
昨日まで入間川沿いに色々なところを歩いて、今日は智光山公園のなかを歩いた。
そのときに、緑化植物園に寄って、花を撮って来た。
この季節なので、あまり咲いていなかったが、少し咲いていた。
【エビスグサ】
種子が薬になって、薬効は「便秘、二日酔い、高血圧」とのこと。
名前の由来は、枝が弓形に下がっていて、全体的に恵比須さんの感じだからだろうか。


【テッセン】
きんぽうげ科、やはり根に薬効があって、「鎮痛」だとか。




【不明】
近くにあった名札で「オイランソウ」と思ってしまい、その名前でアップしましたが、ご指摘により調べたら見事に違っていました。翌日再訪しましたが、名札が無くてわかりません(泣)



これは「クサキリ」だろうか「マツムシ」だろうか。
「オンブバッタ」でした。

【カクトラノオ】
角虎尾。名前の由来は茎が四角だから。



以前医者に血圧の薬を出されそうになって、もうちょっと努力してみるからと血圧手帳をつけて食事とかウォーキングとか色々と努力している。
昨日まで入間川沿いに色々なところを歩いて、今日は智光山公園のなかを歩いた。
そのときに、緑化植物園に寄って、花を撮って来た。
この季節なので、あまり咲いていなかったが、少し咲いていた。
【エビスグサ】
種子が薬になって、薬効は「便秘、二日酔い、高血圧」とのこと。
名前の由来は、枝が弓形に下がっていて、全体的に恵比須さんの感じだからだろうか。


【テッセン】
きんぽうげ科、やはり根に薬効があって、「鎮痛」だとか。




【不明】
近くにあった名札で「オイランソウ」と思ってしまい、その名前でアップしましたが、ご指摘により調べたら見事に違っていました。翌日再訪しましたが、名札が無くてわかりません(泣)



これは「クサキリ」だろうか「マツムシ」だろうか。
「オンブバッタ」でした。

【カクトラノオ】
角虎尾。名前の由来は茎が四角だから。



第41巻「散華ノ刻」

この巻では、春風が江戸に桜の季節を告げる頃、坂崎家では豊後関前から父正睦、母照埜を小梅村に迎えて親子三代、賑やかな日々を送っていた。関前藩の物産事業に絡む内紛の始末がつかぬまま、富士見坂の江戸藩邸を訪れた磐音は、藩主福坂実高の正室お代の方の変わり果てた姿を目の当たりにして・・・
磐音は紀州徳川家藩主の計らいで、紀州徳川家剣術指南役となった。そして尾張徳川家の藩士数名も弟子入りしている。
磐音たちが立ち上げ、関前藩の財政改善のもとになった物産事業を専横し、アヘンでボロ儲けを企む江戸家老鑓兼参衛門。この者は藩主福坂実高の正室お代の方に気に入られて出世したのだが、実は田沼意知が送り込んできた人物であった。
遂に磐音の父、国家老である坂崎正睦は藩主の名代として、磐音を伴い江戸屋敷に乗り込み、鑓兼参衛門と対決する。
縫箔職人のもとに奉公していたおそめは、親方の計らいで京都西陣の縫箔屋に修行に出してもらえることになった。
坂崎正睦と磐音親子が江戸藩邸でお代の方に目通りした後、中居半蔵の部屋でくつろいでいると、磐音の代わりに養子に入った遼次郎が茶を入れて運んできた。聞けば男でも茶の入れ方くらい覚えておくようにと、おこんが教えてくれたそうだ。
この巻では、こういうおこんの気配りがなんとも心にしみた。
第42巻「木槿ノ賦」

天明三年盛夏、隅田川左岸の小梅村で穏やかな暮らしを送る坂崎磐音は、参勤上番で江戸に出府する関前藩士一向を出迎えるため、父正睦とともに六郷土手でその到着を待っていた。旧主福坂実高との再会を果たした磐音だったが、随行してきた一人の若武者から思わぬ申し出を受ける。
その若武者とは、実高の養子となった俊次であった。
父正睦、母照埜は、江戸での内紛が片付き、藩主が江戸に出てきたので関前に帰ることになる。
それでおこんの母親の墓がある、小名木川の南側にある霊巌寺に、照埜、おこん、磐音の娘睦月で墓参りに行く。
関前に帰る途中、正睦、照埜夫婦は鎌倉の東慶寺に立ち寄る。ここにお代の方が身を寄せていた。藩主実高は死を命じたが、正睦のとりなしでお代の方は関前藩を出たのである。
磐音は吉原会所の四郎兵衛に呼び出され、行ってみると昔の許嫁奈緒、吉原では白鶴太夫の消息であった。山形の紅花問屋の前田屋に嫁いで幸せに暮らしていたが、夫の前田内蔵助が馬に頭を蹴られて大怪我をしたということだった。
磐音の行くところ風雲が起きる、例のごとしで女郎の足抜け騒ぎが起こる。片方は浪人者であった。
磐音の道場に通う、福坂俊次の船を不逞な集団が襲う。神保小路の元佐々木道場を取り上げた田沼一派により後釜に居座っている道場の意を受けた浪人者たちだが、死角からの矢を受けた霧子が倒れる。矢に毒が塗ってあったためだ。
利次郎が介抱し、磐音と懇意の蘭方医中川淳庵のもとに運び込む。手当は御殿医桂川甫周と二人で行われた。
田沼派の意をくむ、江戸起倒流道場に磐音が乗りこんで、関前藩跡目の福坂俊次を襲った非を責めた。
その場には稽古着の松平定信の姿もあった。
道場主鈴木清兵衛は真剣で木刀の磐音に立ち向かう。虚空に体が飛んで悶絶したのは、もちろん鈴木清兵衛であった。

この巻では、春風が江戸に桜の季節を告げる頃、坂崎家では豊後関前から父正睦、母照埜を小梅村に迎えて親子三代、賑やかな日々を送っていた。関前藩の物産事業に絡む内紛の始末がつかぬまま、富士見坂の江戸藩邸を訪れた磐音は、藩主福坂実高の正室お代の方の変わり果てた姿を目の当たりにして・・・
磐音は紀州徳川家藩主の計らいで、紀州徳川家剣術指南役となった。そして尾張徳川家の藩士数名も弟子入りしている。
磐音たちが立ち上げ、関前藩の財政改善のもとになった物産事業を専横し、アヘンでボロ儲けを企む江戸家老鑓兼参衛門。この者は藩主福坂実高の正室お代の方に気に入られて出世したのだが、実は田沼意知が送り込んできた人物であった。
遂に磐音の父、国家老である坂崎正睦は藩主の名代として、磐音を伴い江戸屋敷に乗り込み、鑓兼参衛門と対決する。
縫箔職人のもとに奉公していたおそめは、親方の計らいで京都西陣の縫箔屋に修行に出してもらえることになった。
坂崎正睦と磐音親子が江戸藩邸でお代の方に目通りした後、中居半蔵の部屋でくつろいでいると、磐音の代わりに養子に入った遼次郎が茶を入れて運んできた。聞けば男でも茶の入れ方くらい覚えておくようにと、おこんが教えてくれたそうだ。
この巻では、こういうおこんの気配りがなんとも心にしみた。
第42巻「木槿ノ賦」

天明三年盛夏、隅田川左岸の小梅村で穏やかな暮らしを送る坂崎磐音は、参勤上番で江戸に出府する関前藩士一向を出迎えるため、父正睦とともに六郷土手でその到着を待っていた。旧主福坂実高との再会を果たした磐音だったが、随行してきた一人の若武者から思わぬ申し出を受ける。
その若武者とは、実高の養子となった俊次であった。
父正睦、母照埜は、江戸での内紛が片付き、藩主が江戸に出てきたので関前に帰ることになる。
それでおこんの母親の墓がある、小名木川の南側にある霊巌寺に、照埜、おこん、磐音の娘睦月で墓参りに行く。
関前に帰る途中、正睦、照埜夫婦は鎌倉の東慶寺に立ち寄る。ここにお代の方が身を寄せていた。藩主実高は死を命じたが、正睦のとりなしでお代の方は関前藩を出たのである。
磐音は吉原会所の四郎兵衛に呼び出され、行ってみると昔の許嫁奈緒、吉原では白鶴太夫の消息であった。山形の紅花問屋の前田屋に嫁いで幸せに暮らしていたが、夫の前田内蔵助が馬に頭を蹴られて大怪我をしたということだった。
磐音の行くところ風雲が起きる、例のごとしで女郎の足抜け騒ぎが起こる。片方は浪人者であった。
磐音の道場に通う、福坂俊次の船を不逞な集団が襲う。神保小路の元佐々木道場を取り上げた田沼一派により後釜に居座っている道場の意を受けた浪人者たちだが、死角からの矢を受けた霧子が倒れる。矢に毒が塗ってあったためだ。
利次郎が介抱し、磐音と懇意の蘭方医中川淳庵のもとに運び込む。手当は御殿医桂川甫周と二人で行われた。
田沼派の意をくむ、江戸起倒流道場に磐音が乗りこんで、関前藩跡目の福坂俊次を襲った非を責めた。
その場には稽古着の松平定信の姿もあった。
道場主鈴木清兵衛は真剣で木刀の磐音に立ち向かう。虚空に体が飛んで悶絶したのは、もちろん鈴木清兵衛であった。
中筒男命 (なかつつのおのみこと)/日本の神々の話
20140902
住吉三神の一つ。
住吉三神 (すみよしさんじん)は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。
住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社に共に祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。
海の神、航海の神、また和歌の神とされる。
住吉(すみよし)は、元は「すみのえ」と読んだ。住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書いた。
伊邪那岐尊と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で表筒男命が、それぞれ生まれ出たとされる。
【古事記】の記述:
(現代語訳)
このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。
以上の船戸神から、辺津甲斐弁羅神までの十二神は、身につけていた物を脱ぎ捨てることによって、成り出でた神である。
そこで伊邪那岐命が仰せられるには、「上の瀬は流れが遠い。下の瀬は流れがおそい」と仰せられ、初めて中流の瀬に沈みもぐつて、身の穢れを洗い清められたときに成った神の名は、八十禍津日神、次いで大禍津日神である。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき、触れた穢れによって成り出でた神である。次にその禍を直そうとして成り出でた神の名は、神直毘神、次いで大直毘神、次いで伊豆能売である。次に水の底にもぐって、身を洗い清められる時に成った神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命である。次に水の中程で洗い清められる時に成った神の名は、中津綿津見神、次いで中筒之男命である。水の表面で洗い清められる時に成った神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命である。
この三柱の綿津見神は、阿曇連らの祖先神としてあがめ祭っている神である。そして阿曇連らは、その綿津見神の子の、宇都志日金拆命の子孫である。また底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、住吉神社に祭られている三座の大神である。 さてそこで左の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は、天照大御神である。次に右の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は月読命である。次に御鼻をお洗いになる時、成り出でた神の名は、建速須佐之男命である。
住吉三神と神功皇后
日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た[1]。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍をおおいに苦しめたとされている。
皇后は三韓を平定し凱旋の折、住吉大神の神託を得て、大神の荒魂を穴門(山口県)に奉斎し、また、和魂を大津の渟中名倉の長峡に鎮めて祀り、本霊である住吉三神をして摂津の国大阪の地に住吉大社の総本社を総本社を創建して祀った。
その後、住吉大社には神功皇后も祀られるようになり、住吉大神と神功皇后とで、「住吉坐神社四座」と呼ぶようになった。
私は、府中にある大國魂神社境内の住吉神社にてお参りしました。
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住吉三神 (すみよしさんじん)は、底筒男命(そこつつのおのみこと)、中筒男命(なかつつのおのみこと)、表筒男命(うわつつのおのみこと)の総称である。
住吉大神ともいうが、この場合は住吉大社に共に祀られている息長帯姫命(神功皇后)を含めることがある。
海の神、航海の神、また和歌の神とされる。
住吉(すみよし)は、元は「すみのえ」と読んだ。住吉の「吉」は古来では「エ」と読み、「住」(スミ)と「吉」(エ)の間に助詞の「ノ」を入れて、「住吉」は「スミノエ」と読んだが、平安時代の頃から「スミヨシ」と読むようになった。スミノエとは「澄んだ入り江」のことであり、澄江、清江とも書いた。
伊邪那岐尊と伊邪那美命は国生みの神として大八島を生み、またさまざまな神を生んだが、伊邪那美命が火之迦具土神を生んだときに大火傷を負い、黄泉国(死の世界)に旅立った。その後、伊邪那岐尊は、黄泉国から伊邪那美命を引き戻そうとするが果たせず、「筑紫の日向の橘の小戸の阿波岐原」で、黄泉国の汚穢を洗い清める禊を行った。このとき、瀬の深いところで底筒男命が、瀬の流れの中間で中筒男命が、水表で表筒男命が、それぞれ生まれ出たとされる。
【古事記】の記述:
(現代語訳)
このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。
以上の船戸神から、辺津甲斐弁羅神までの十二神は、身につけていた物を脱ぎ捨てることによって、成り出でた神である。
そこで伊邪那岐命が仰せられるには、「上の瀬は流れが遠い。下の瀬は流れがおそい」と仰せられ、初めて中流の瀬に沈みもぐつて、身の穢れを洗い清められたときに成った神の名は、八十禍津日神、次いで大禍津日神である。この二神は、あの穢らわしい黄泉国に行ったとき、触れた穢れによって成り出でた神である。次にその禍を直そうとして成り出でた神の名は、神直毘神、次いで大直毘神、次いで伊豆能売である。次に水の底にもぐって、身を洗い清められる時に成った神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命である。次に水の中程で洗い清められる時に成った神の名は、中津綿津見神、次いで中筒之男命である。水の表面で洗い清められる時に成った神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命である。
この三柱の綿津見神は、阿曇連らの祖先神としてあがめ祭っている神である。そして阿曇連らは、その綿津見神の子の、宇都志日金拆命の子孫である。また底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、住吉神社に祭られている三座の大神である。 さてそこで左の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は、天照大御神である。次に右の御目をお洗いになる時、成り出でた神の名は月読命である。次に御鼻をお洗いになる時、成り出でた神の名は、建速須佐之男命である。
住吉三神と神功皇后
日本書紀によれば、仲哀天皇の御代、熊襲、隼人など大和朝廷に反抗する部族が蜂起したとき、神功皇后が神がかりし、「反乱軍の背後には三韓の勢力がある。まず三韓を征討せよ」との神託を得た[1]。しかし天皇はこの神託に従わず、翌年崩御した。その翌月、再び同様の神託を得た神功皇后は、自ら兵を率いて三韓へ出航した。このとき、住吉大神の和魂が神功皇后の身辺を守り、荒魂は突風となり、神功皇后の船団を後押しするとともに、三韓の軍をおおいに苦しめたとされている。
皇后は三韓を平定し凱旋の折、住吉大神の神託を得て、大神の荒魂を穴門(山口県)に奉斎し、また、和魂を大津の渟中名倉の長峡に鎮めて祀り、本霊である住吉三神をして摂津の国大阪の地に住吉大社の総本社を総本社を創建して祀った。
その後、住吉大社には神功皇后も祀られるようになり、住吉大神と神功皇后とで、「住吉坐神社四座」と呼ぶようになった。
私は、府中にある大國魂神社境内の住吉神社にてお参りしました。
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流鏑馬の魅力
20140901
今年、歴史クラブの行事に流鏑馬見学を予定しているので、そろそろ用意をしようと思い、1月にBSジャパンで放送された、小笠原流の伝統を描いた番組を録画しておいたので再見した。

ちょっと長くなるが、「小笠原流弓馬術礼法」について、WIKIPEDIAの記事で確認しておこう。
寛政重修諸家譜等に見える家伝によれば、小笠原氏は遠祖の貞純親王以来の「糾法」(きゅうほう、弓馬術礼法)を代々伝え、鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたとする。7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。 なおこの時期に、貞宗と一族の小笠原(赤沢)常興は『修身論』及び『体用論』をまとめ、今日の小笠原流の基礎を築いたとされる。
小笠原家は代々、総領家(本家)が糾法および小笠原流礼法全般をとりしきっていたが、総領家17代の小笠原長時とその子貞慶期には戦国大名として、信濃侵攻を行った甲斐の武田信玄と戦いを繰り広げる中、弓馬礼法の伝統を絶やさないため、永禄5年(1562年)、一族筋にあたる赤沢経直に糾法的伝と系図、記録を携え、弓馬術礼法の宗家の道統を託した。道統とは小笠原の弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味する。つまりこのとき、総領家と弓馬礼法の家が分離した。
この後、赤沢経直は徳川家康に仕えて小笠原姓に復した。弓馬礼法宗家筋となったこの家系(平兵衛家)は歴代将軍に仕え、将軍家子女の婚礼や元服の儀式に与るとともに、8代将軍徳川吉宗の命により復興された流鏑馬(騎射挟物)が第20代小笠原常春に預けられ、以後代々騎射師範として門弟を指揮し、高田馬場等で行うなどしている。
明治以降も継承され現在、小笠原清忠が弓馬術礼法教場31世宗家。弓馬術礼法の継承者として、大的式・百々手式・草鹿等の歩射、流鏑馬・笠懸などの騎射の各種の式を明治神宮や熱田神宮、伊勢神宮、靖国神社、鶴岡八幡宮など各地で行っている。 なお清忠の嫡男小笠原清基は特定非営利活動法人 小笠原流・小笠原教場の理事長を務めている。小笠原流礼法は登録商標(商標登録番号 第3076080号)となっていて小笠原教場以外が、「小笠原流礼法」の名称を使用して教えることは禁じられている。
なお、弓術流派としての小笠原流は、室町時代後期に戦陣の歩射を起源として興った日置流の斜面打起しに対し、騎射由来である正面打起しを行う点に特色がある。体配(行射の作法)も日置流とは異なり、今日的な用語で礼射系と分類される。射法に関しては日置流の影響を受けている。
狭山市に領地を持ち、天岑寺に大きな墓所のある小笠原家も、家紋が三階菱である。もしやと思い調べてみたら、やはり小笠原長清を祖とする、とあるのでやはり同じ一族であった。
それで、俄然「小笠原流流鏑馬」について関心が深まった。
また、三階菱の紋が「王」の字に基づいていることもわかった。
そして、もう一つ。
私は長野県佐久で「依田」という名字の家に生まれました。戦国時代依田家でもっとも活躍した武将としては、武田信玄の腹心「相木市兵衛依田昌朝」が居ます。
だから私は武田信玄が大好きなのですが、武田信玄の初期の対抗相手が小笠原長時でした。
だから小笠原長時にもなじみがあります。
番組は、宗家嫡男小笠原清基(34歳)の「平成の世に武士として生きる」日常を追うものでした。
驚いたのは家訓です。
「家業を生業とせず」ということで、小笠原流弓馬術礼法を人に教えることで収入を得てはいけない。
そうすることで、「世にへつらわない」、「時流に流されない」厳密に変わることのない流派を守れる。
それで清基さんは、製薬会社の研究員をしている。

医者を志したが、それでは時間に制約が生じて小笠原流弓馬術宗家の仕事が果たせないのであきらめたようです。
二時間の番組では、小笠原流弓馬術礼法宗家としての厳しい鍛錬の様子が色々と紹介されたが、小笠原流流鏑馬がどれだけ重きをなすものか、輝いている場面を紹介する。
1月の明治神宮大的式(非公開)
かっては江戸城吹上庭園での年始の儀式だった。


姫路城流鏑馬
ここでは、円形の馬場に的を設けている。


下鴨神社流鏑馬
有名な行事「葵祭」に先立つ神事。


歩射神事「屋越の蟇目」
楼門の屋根越しに矢を放つ。天皇の勅使が通る楼門を祓い清める神事。

出雲大社 平成の大遷宮奉納流鏑馬





番組のなかで印象的だったのは、鶴岡八幡宮の「放生会流鏑馬」だった。
台風が直撃して、開催が危ぶまれる中、人に見せる催しではなく神に捧げる神事なのだからと、前日から強風雨のなか、馬場を整備し、馬と馴染むために練習している姿だった。幔幕が飛ばないように大勢の門人が幔幕を押さえたり、ずぶぬれになりながら馬場を整備する門人たち。
たしかに、昔武士たちは天候を選んで戦いをしていたわけではないが(笑)
全然揺るぎのない心で作業に奉仕している姿を見ていると、ホッとする気持ちがある。
番組の中で「流鏑馬は五穀豊穣と無病息災を願う神事」なのだと説明していたが、そのことを実感した。





番組の最後に、小笠原清基さんに「武士(もののふ)とは」と質問したら、「当たり前のことを当たり前に常にすること」ではないかと答えていた。
素晴らしい言葉だった。
(了)

ちょっと長くなるが、「小笠原流弓馬術礼法」について、WIKIPEDIAの記事で確認しておこう。
寛政重修諸家譜等に見える家伝によれば、小笠原氏は遠祖の貞純親王以来の「糾法」(きゅうほう、弓馬術礼法)を代々伝え、鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたとする。7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。 なおこの時期に、貞宗と一族の小笠原(赤沢)常興は『修身論』及び『体用論』をまとめ、今日の小笠原流の基礎を築いたとされる。
小笠原家は代々、総領家(本家)が糾法および小笠原流礼法全般をとりしきっていたが、総領家17代の小笠原長時とその子貞慶期には戦国大名として、信濃侵攻を行った甲斐の武田信玄と戦いを繰り広げる中、弓馬礼法の伝統を絶やさないため、永禄5年(1562年)、一族筋にあたる赤沢経直に糾法的伝と系図、記録を携え、弓馬術礼法の宗家の道統を託した。道統とは小笠原の弓・馬・礼の三法の総取り仕切り役の正統継承を意味する。つまりこのとき、総領家と弓馬礼法の家が分離した。
この後、赤沢経直は徳川家康に仕えて小笠原姓に復した。弓馬礼法宗家筋となったこの家系(平兵衛家)は歴代将軍に仕え、将軍家子女の婚礼や元服の儀式に与るとともに、8代将軍徳川吉宗の命により復興された流鏑馬(騎射挟物)が第20代小笠原常春に預けられ、以後代々騎射師範として門弟を指揮し、高田馬場等で行うなどしている。
明治以降も継承され現在、小笠原清忠が弓馬術礼法教場31世宗家。弓馬術礼法の継承者として、大的式・百々手式・草鹿等の歩射、流鏑馬・笠懸などの騎射の各種の式を明治神宮や熱田神宮、伊勢神宮、靖国神社、鶴岡八幡宮など各地で行っている。 なお清忠の嫡男小笠原清基は特定非営利活動法人 小笠原流・小笠原教場の理事長を務めている。小笠原流礼法は登録商標(商標登録番号 第3076080号)となっていて小笠原教場以外が、「小笠原流礼法」の名称を使用して教えることは禁じられている。
なお、弓術流派としての小笠原流は、室町時代後期に戦陣の歩射を起源として興った日置流の斜面打起しに対し、騎射由来である正面打起しを行う点に特色がある。体配(行射の作法)も日置流とは異なり、今日的な用語で礼射系と分類される。射法に関しては日置流の影響を受けている。
狭山市に領地を持ち、天岑寺に大きな墓所のある小笠原家も、家紋が三階菱である。もしやと思い調べてみたら、やはり小笠原長清を祖とする、とあるのでやはり同じ一族であった。
それで、俄然「小笠原流流鏑馬」について関心が深まった。
また、三階菱の紋が「王」の字に基づいていることもわかった。
そして、もう一つ。
私は長野県佐久で「依田」という名字の家に生まれました。戦国時代依田家でもっとも活躍した武将としては、武田信玄の腹心「相木市兵衛依田昌朝」が居ます。
だから私は武田信玄が大好きなのですが、武田信玄の初期の対抗相手が小笠原長時でした。
だから小笠原長時にもなじみがあります。
番組は、宗家嫡男小笠原清基(34歳)の「平成の世に武士として生きる」日常を追うものでした。
驚いたのは家訓です。
「家業を生業とせず」ということで、小笠原流弓馬術礼法を人に教えることで収入を得てはいけない。
そうすることで、「世にへつらわない」、「時流に流されない」厳密に変わることのない流派を守れる。
それで清基さんは、製薬会社の研究員をしている。

医者を志したが、それでは時間に制約が生じて小笠原流弓馬術宗家の仕事が果たせないのであきらめたようです。
二時間の番組では、小笠原流弓馬術礼法宗家としての厳しい鍛錬の様子が色々と紹介されたが、小笠原流流鏑馬がどれだけ重きをなすものか、輝いている場面を紹介する。
1月の明治神宮大的式(非公開)
かっては江戸城吹上庭園での年始の儀式だった。


姫路城流鏑馬
ここでは、円形の馬場に的を設けている。


下鴨神社流鏑馬
有名な行事「葵祭」に先立つ神事。


歩射神事「屋越の蟇目」
楼門の屋根越しに矢を放つ。天皇の勅使が通る楼門を祓い清める神事。

出雲大社 平成の大遷宮奉納流鏑馬





番組のなかで印象的だったのは、鶴岡八幡宮の「放生会流鏑馬」だった。
台風が直撃して、開催が危ぶまれる中、人に見せる催しではなく神に捧げる神事なのだからと、前日から強風雨のなか、馬場を整備し、馬と馴染むために練習している姿だった。幔幕が飛ばないように大勢の門人が幔幕を押さえたり、ずぶぬれになりながら馬場を整備する門人たち。
たしかに、昔武士たちは天候を選んで戦いをしていたわけではないが(笑)
全然揺るぎのない心で作業に奉仕している姿を見ていると、ホッとする気持ちがある。
番組の中で「流鏑馬は五穀豊穣と無病息災を願う神事」なのだと説明していたが、そのことを実感した。





番組の最後に、小笠原清基さんに「武士(もののふ)とは」と質問したら、「当たり前のことを当たり前に常にすること」ではないかと答えていた。
素晴らしい言葉だった。
(了)