柴又周辺散策(2)

20141031

20日に行った歴史クラフ行事、柴又周辺散策の続きです。

帝釈堂内殿の彫刻を堪能した後、庭園を鑑賞しました。
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○下山仏
境内に戻って、真っ先に飛んで行ったのが、「下山仏」。
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かって富士山山頂にあった大日寺に祀られていたが、明治の廃仏毀釈で廃され山頂から下ろされた仏像が柴又帝釈天にあることを、芸術新潮の「富士山その絵画と信仰」という特集記事で知っていたので、いずれ帝釈天に行ったときには、と楽しみにしていた。

それは、何の説明もなく釈迦堂の横に安置されていた。

右が江戸初期の作「大日如来像」、左が明応2年(1493)作「観音菩薩像」
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背中には、無数の擦り傷が。山頂から引き摺り下ろされるときについた傷である。
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こちらが本堂。
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○釈迦堂
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【矢切の渡し】
帝釈天を後にして、矢切の渡しに向かいます。

寅さんが、のんびりと座っていた土手。
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河原に降りて、矢切の渡しに。
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渡し船が対岸に向かっているところでした。
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舟が戻ってきて、いよいよ乗り込みます。
この日は22名の参加だったので、一度で乗れるか心配したら、全部乗れちゃいましたね。
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船頭さんは、最初は手漕ぎ、そのうちエンジンで勢いよく走らせました。
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千葉県側の渡しにつきました。
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この辺の特産のネギ畑が広がっています。
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土手下に、ズラッと短冊みたいなものが並んでいたので、見に行った。
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平成18年から、「矢切の里文学祭」が開かれ短歌の入選作が掲示されていました。
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時間の関係で、野菊の墓などにも寄らず、柴又に引き返します。
こんどは船頭の愛犬も一緒に乗り込みました(笑)
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船頭さんのサービスで、金町浄水場の取り入れ口近くまで、遡ってくれました。
金町浄水場の取り水塔と、橋は水戸街道。
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取り水塔が面白い形をしている。
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楽しかった渡し舟を下船。
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土手の上から、矢切の渡しを振り返る。
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【寅さん記念館】
2012年12月にリニューアルオープンしました。
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寅さんシリーズでおなじみのシーン。
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タコ社長の「朝日印刷所」を再現したセットは、2012年のリニューアルオープンで登場。
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名シーンの写真を寅さんが見入っている。
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ミニチュアセット
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これには驚きました。「帝釈人車鉄道」のミニチュア。
明治32年12月から大正2年8月まで、金町~柴又間約1.5Kmを、帝釈天への参詣客を運んでいたそうです。
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「寅さん埴輪」
柴又八幡の古墳から出土。
まあ、似ていなくもないが、出土した日が渥美清さんの命日だったことが大きい。
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懐かしいシーンと、名セリフの再現。
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あのトランクの中に、こんなに一杯入っていたんですね(笑)
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懐かしいマドンナがたくさん。
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【山田洋二ミュージアム】
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「東京物語」は、心底好きな映画です。
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新旧を並べて。
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「幸福の黄色いハンカチ」
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「学校」も良かった。
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寅さんになる前の出演作品もたくさんありますね。
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私の好きな時代劇のベスト5に入る「隠し剣鬼の爪」。
松たか子さんがいいですね。
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これが「鷹の爪」です。
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「たそがれ清兵衛」
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舞台となった母屋のミニチュア
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山田洋二監督が新人時代に使用したビューファインダー
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寅さん記念館の広場に集合し、帰途につきました。
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(了)


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柴又周辺散策(1)

20141029

10月20日(月)に歴史クラブの企画で行きました。
訪ねたのは、柴又八幡神社、柴又帝釈天、矢切の渡し、寅さん記念館、山田洋二ミュージアムです。
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柴又駅を降りると、「フーテンの寅」像がお出迎え。
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何かのモニュメントのところで、今日の見どころ、薀蓄の説明を長老のNさんから受ける。
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踏切を渡って柴又八幡に向かいます。
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【柴又八幡神社】
所在地:東京都葛飾区柴又三丁目30-24 

由緒:
旧柴又村の鎮守。
柴又は正倉院文書の「養老五年下総国葛飾郡大嶋郷戸籍」にある「島俣里」に比定される古い土地であり、創建年代は不詳だが、古い時代にさかのぼることは間違いないだろうという。現在の社殿は昭和43年(1968)の建造。
当社の社殿は6世紀後半のものとみられる古墳の上に建っている。このことは、社殿背後に古墳の石組みらしきものが露呈していたことから指摘されていたが、昭和40年(1965)からの調査で直径20~30mの円墳であることがわかった。社殿背後の石組みは遺体を安置する石室であり、周囲からは円筒埴輪や人物や馬などの埴輪、直刀、馬具、須恵器などが見つかった。この時見つかった遺骨や遺品は社殿背後に築かれた島俣塚に納められている。
柴又といえば「男はつらいよ」シリーズの舞台として知られるが、平成13年(2001)、渥美清さんの命日である8月4日にこの古墳から寅さんそっくりの埴輪が出土し、ニュースになった。
10月の例大祭に奉納される神獅子舞は疫病除けの信仰で知られ、葛飾区の無形民俗文化財に指定されている。

鳥居
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古墳石室の説明
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手水舎
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参道
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神楽殿
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拝殿
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本殿
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祭神は誉田別尊〔ほんだわけのみこと〕、建御名方尊〔たけみなかたのみこと〕

島俣塚
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境内社
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境内社の狛犬が文化5年(1808)と古いものだった。
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境内石祠
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帝釈天の参道に戻りました。
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ご存知、寅さんの草だんご屋です。
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木彫り屋さんの看板が良かった。
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【柴又帝釈天】
所在地:東京都葛飾区柴又7-10-3

柴又帝釈天(しばまたたいしやくてん)は、東京都葛飾区柴又ある日蓮宗の寺院の通称である。正式名称は経柴山題経寺(きょうえいざんだいきょうじ)である。旧本山は大本山中山法華経寺。親師法縁。
概要:
江戸時代初期の寛永6年(1629年)に、禅那院日忠および題経院日栄という2名の僧によって開創された日蓮宗寺院である。18世紀末、9世住職の日敬(にっきょう)の頃から当寺の帝釈天が信仰を集めるようになり、「柴又帝釈天」として知られるようになった。帝釈天の縁日は庚申の日とされ、庚申信仰とも関連して多くの参詣人を集めるようになった。
近代以降も夏目漱石の『彼岸過迄』を始め、多くの文芸作品に登場し、東京近郊(当時は東京ではなかった)の名所として扱われた。20世紀後半以降は、人気映画シリーズ『男はつらいよ』の渥美清演じる主人公・車寅次郎(寅さん)ゆかりの寺として知られるようになる。年始や庚申の日(縁日)は非常に賑わい、映画『男はつらいよ』シリーズ制作中は、観光バスの団体客が大勢訪れたこともあるが、同シリーズの終了に伴い、参拝客、観光客が年々減少している。
「柴又帝釈天」の通称で専ら呼ばれるところから、帝釈天が当寺の本尊と思われがちだが、日蓮宗寺院としての本尊は、帝釈堂の隣の祖師堂に安置する「曼荼羅」(中央に「南無妙法蓮華経」の題目を大書し、その周囲に諸々の仏、菩薩、天、神などの名を書したもの)である。また、当寺が柴又七福神のうちの昆沙門天にあたることから、「帝釈天=昆沙門天」と解説する資料が散見されるが、帝釈天と昆沙門天はその起源を全く異にする別々の尊格であり、柴又七福神の昆沙門天は、帝釈天の脇に安置される多聞天(別名毘沙門天)を指すと解される。
歴史:
縁起によれば、題経寺の創建は江戸時代初期の寛永6年(1629年)で、開山は中山法華経寺(千葉県市川市)19世の禅那院日忠とされている。なお、寺の祝明によれば、実際に寺を開いたのは日忠の弟子にあたる題経院日栄であるとされる。本堂右手にある釈迦堂(開山堂)に日栄の木像が安置されていることからも、この日栄という僧が実質的な開山であると思われる。
題経寺の中興の祖とされているのが9世住職の亨貞院日敬(こうていいんにっきょう)という僧であり、彼は一時行方不明になっていた「帝釈天の板本尊」を再発見した人物であるとされている。日敬白ら記した縁起によれば、この寺には宗祖日蓮が自ら刻んだという伝承のある帝釈天の板本尊があったが、長年所在不明になっていた。それが、日敬の時代に、本堂の修理を行ったところ、棟木の上から発見されたという。この板本尊は片面に「南無妙法蓮華経」の題目と法華経薬王品の要文、片面には右手に剣を持った帝釈天像を表したもので、これが発見されたのが安永8年(1779年)の庚申の日であったことから、60日に一度の庚申の日が縁日となった。それから4年ほど経った天明3年(1783年)、日敬は自ら板本尊を背負って江戸の町を歩き、天明の大飢饉に苦しむ人々に拝ませたところ、不思誰な効験があったため、柴又帝釈天への信仰が広まっていったという。柴又帝釈天が著名になり、門前町が形成されるのもこの時代からと思われる。近隣に数軒ある川魚料理の老舗もおおむねこの頃(18世紀末)の創業を伝えている。

○ニ天門
明治2今年(1約6年)の建立。入母屋造瓦葺の楼門(2階建て門)で、屋根には唐破風と千鳥破風を付す。桂上の貫などには浮き彫りの装飾彫刻を施す。初層左右には四天王のうちの増長天および広目天の二天を安置し、門の名はこれに由来する。ニ天像は平安時代の作とされ、門の建立時に同じ日蓮宗の妙国寺(大阪府堺市)から寄贈されたものである。
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扉には、龍虎の彫刻が。
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通路正面の彫刻
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内側
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各所に見事な彫刻が。
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○大鐘楼堂
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寺男の源ちゃん(佐藤我次郎さん)が鐘をついていた場所ですね。
昭和30年に完成した全てケヤキで造られております。
鐘楼堂建築としては、関東では比べるものが無いほどの造り。 音響は雅楽黄鐘調と言われ、梵鐘研究の権威である青木理学博士から「昭和の銘鐘」と太鼓判を押されたほどのものです。
寅さんの映画でも必ずこの大鐘楼の効果音が挿入されています。

ちょうど12時に鐘をついているのに出くわしました。実にラッキー(嬉)
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この鐘楼の彫刻も、見ごたえがありました。
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帝釈天でしょうか。
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日蓮の法難が彫られています。
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庚申の日に縁があるということで、猿の彫刻も多い。
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境内に戻ります。
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○水かけ観音
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○帝釈堂
手前の拝殿と奥の内殿から成り、ともに入母屋造瓦葺で、拝殿屋根には唐破風と大ぶりの千鳥破風を付す。内殿は大正4年(1915年)、拝殿は昭和4年(1929年)の完成。内殿には帝釈天の板本尊を安置し、左右に四天王のうちの持国天と多聞天(昆沙門天)を安置する(四天王の残り2体は二天門に安置)。内殿外側には全面に浮き彫りの装飾彫刻が施されている。
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拝殿千鳥破風懸魚には鶴に乗った仙人(?)
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唐破風懸魚には迦陵頻伽が。
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向拝欄間には龍の彫刻。
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拝殿入り口
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左右の扉
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拝殿と内殿の間から庭園に通じる渡り廊下。
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内殿は、彫刻を保護するため建物ごとガラスの壁で覆われています。
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○彫刻ギャラリー
帝釈堂内殿の外部は東・北・西の全面が装飾彫刻で覆われており、中でも胴羽目板の法華経説話の浮き彫り10面が著名である。これは法華経に説かれる代表的な説話10話を選び視覚化したもので、大正11年(1922年)から昭和9年(1934年)にかけて、加藤寅之助ら10人の彫刻師が1面ずつ分担制作した。この羽目板の上方には十二支と天人、下方には千羽鶴が表され、高欄(縁)より下の部分には花鳥および亀を浮き彫りで表す。これらの彫刻を保護するため、内殿は建物ごとガラスの壁で覆われ、見学者用の通路を設け、「彫刻ギャラリー」と称して一般公開している(「彫刻ギャラリー」と大客殿、庭園の見学は有料)。

素晴らしい彫刻で、圧倒され、魅力に惹きこまれました。
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縁の下の龍の彫刻も迫力がありました。
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残念なのは、胴羽目板の法華経説話の浮き彫りに圧倒され、羽目板の上方の十二支と天人等ををちゃんと撮らなかったこと。
再訪を期します。

次回は、帝釈天境内からとします。


続き、柴又周辺散策(2)を読む


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宮内庁雅楽演奏会

20141026

25日(土)に皇居にある宮内庁楽部で行われた、雅楽演奏会に行ってきました。
毎年行われていますが、ハガキによる抽選で、私は2011年に行ったものの、一昨年、昨年は落選でした。今年は忙しさにうっかりしていたら、同じ歴史クラブのYさんが応募したよと云ってきたので、私も同じ日時に応募しました。
そしたらYさんの強運に私もあずかったか、二人とも当選でした(嬉)
Yさんは一昨年、昨年は落選で、今年初めてです。

楽部の手前で、当選ハガキの本人確認、手荷物の確認がしっかりとされます。
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隣の「桃華楽堂」が見える。あの中に入りたいですね。
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楽部
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内部を二階から撮ったもの。二階から見たいのですが、二階は椅子が少なくて、今年はちょっと二階の席を確保するのには遅かった。
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今回は、横に席を取りました。三人立っているところから右に寄った位置。
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前回は正面に座ったのですが、後ろの方がまったく見えなくて、全体の様子がわからなかった反省から、今回の位置取りとなりました。

きれいな天井です。
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左右に置かれた、大太鼓(だだいこ)が迫力あります。
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今年のプログラム
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【管 絃】
参考に、パンフレットの写真を載せます。
編成は、これと同じでした。
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○盤渉調音取(ばんしきちょうのねとり)
 盤渉調は,唐楽六調子の一つで、洋楽のH音に相当する音を基音とした律旋の調子です。
 音取は、演奏に先立って奏する短い曲で、音律を整えその調子の雰囲気を作ります。笙・篳篥・笛の音頭と掲鼓そして主琵琶・主箏が奏します。

○千秋楽(せんしゅうらく)
「教訓抄」によると後三條天皇(在位1068年~1072年)の大嘗会に王監物頼吉が作曲したものと伝えられています。芝居や相撲の興行で最終日を千秋楽と称しますが,この曲が法会などの行事の最後に演奏された事によるものといわれています。

○越殿楽残楽三返(えてんらく のこりがくさんべん)
 もとは平調(ひょうじょう)の曲で,簡潔かつ優雅な旋律と端正な形式で知られており,漢の文帝(在位前180年~前157年)が作ったといわれていますが,一説には日本で作られた曲であるともいわれています。
 原曲は平調ですが,渡物(移調された曲)として黄鐘調及び盤渉調があります。
今回は盤渉調で演奏します。
 残楽三返とは,初めに全員で演奏し,二返目からは三管(笙・篳篥・笛),琵琶の音頭(主奏者)と箏全員で演奏し,曲が進むにつれて笙、そして笛の音頭と演奏を止めていき,三返目は篳篥の音頭が演奏と休止を繰り返して箏を縫うように奏した後、琵琶、箏で終わる特殊な演奏法です。

○劒氣褌脱(けんきこだつ)
 相撲(すまい)の節の猿楽にこれを用いると伝えられています。「楽家録」によると,旧記には鞨鼓は用いないと記されていますが,現在は通常の楽曲と同様の演奏形態です。
 この曲は,宮音(基音)で終わっていないので,終結の旋律を奏して終わります。

【舞 楽】
 大陸系の「舞楽」は,左方の舞(中国系)と右方の舞(朝鮮系)に大別されます。
 今回,左方は「還城楽」,右方は「蘇志摩利」を演奏します。

○左方 「還城楽」
 唐の玄宗(712~756)が国内の乱を平定し、夜半に帰城したとき、「夜半楽」とこの「還城楽」が作られたと云われている。
 またの名を「見蛇楽」、「還京楽」といい、蛇を好んで食べる西国の人が、これを見つけ捕らえて喜ぶ姿を舞にしたものといわれている。
この舞には、左方と右方の舞振りと楽曲の奏法がありますが、今回は左方の舞を演奏します。伴奏は、太食調(洋楽のE音に相当する音を基音とする調子)の曲です。
舞は一人舞で、舞人は裲襠(りょうとう)装束(袍の上に裲襠(うちかけ)をつける装束)を着て面をつけ、右手に桴を持って舞います。
まず笛と打楽器により乱序(4拍の拍節を奏する打物により舞うもの)があり、次に早只八拍子(2拍と4拍の混合拍子)により当曲の舞(この曲の主題となっている曲の舞)、最後に再び乱序を舞います。
なお、初めの乱序の舞の途中で、蛇持が舞台に登り中央に蛇を置きます。

宮内庁雅楽の「還城楽」衣装は、ネットで探したら見つかりました。
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ユーチューブにアップされている「還城楽」を探したらあったので、参考に。
宮内庁の演奏ではないので、衣装と面は異なります。

「還城楽」を見る



○「蘇志摩利」
 別名を曾尸茂利、長久楽ともいいます。教訓抄に、「旱魃のときに、雨乞いのためにこれを舞うと雨が降る」と伝えられ、一説には、素戔嗚尊が高天原を追われ、青草で蓑笠を作り、新羅の国の曾尸茂利に至ったのがこの曲の由来と伝えられている。
 高麗双調の曲で右方の四人舞です。舞人は、襲装束に蓑を着けて唐冠に牟子を被り、腰に笠を提げます。曲の半ばで腰に提げた笠を被ります。
 この曲は、明治選定譜には載せられておらず、近年になって再興されました。


参考にと、ユーチューブで探した「蘇志摩利」です。
これも宮内庁の演奏ではないので、衣装は異なります。

「蘇志摩利」を見る



演奏が終わって外に出ると、近くに「十月桜」が咲いていました。
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やはり皇居ですね、気持ちのいい空間が広がっている。
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なんとい名前かわかりません。
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秋の空ですね。
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十月桜とススキ
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(了)


正鹿山津見神 (まさかやまつみのかみ) /日本の神々の話

20141025

伊弉冉尊は火之迦具土神ほのかぐづちのかみを生んだ際に、陰部ほとを焼かれ死んでしまった。夫の伊弉諾尊は怒り、火之迦具土神を斬り殺してしまった。するとその火の神の死体から八柱の山の神々が生まれた。
頭から生まれた神がこの神である。

ここで古事記の原文を引っ張り出すが、書くのが大変なので、下記の部分だけ。

所殺迦具土神之於頭所成神名。正鹿山津見神。次於胸所成神名淤縢山津見神。淤縢二字以音

原文で「山津見」と「上」の声注がある。これは「正鹿山」とは読まずに、「山津見」と読むことを指示したもの。「正鹿」は「正所・まさか」の義で、「まさにある」すなわち「正真正銘の」の意となる。
「山津見」の、「ツ」は「の」、「ミ」は神霊の意。
よって、名義は「正真正銘の、山の神霊」となる。
「屍体化成説話」の類であるが、古代人の山焼きの経験から、山の位置や姿態に基づく命名で、火山による命名ではないと 考えられている。


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北口本宮冨士浅間神社(2)

20141024

北口本宮冨士浅間神社の続きです。

「富士夫婦桧」の方から拝殿を見ます。
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拝殿
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千鳥破風には神紋「八重桜」
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唐破風の上に鬼瓦、懸魚に孔雀の彫刻は珍しい。
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向拝の彫刻は見事な竜虎です。
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向拝
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拝殿内部には、夥しい奉納されたものが。
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社額には「北口本宮」と。
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天狗の面
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奉納額がすごい。
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拝殿内部を右から
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本殿の扉
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拝殿内部左側
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主祭神は、木花開耶姫命、彦火瓊瓊杵命、大山祇神

向拝にある神紋は「八重菊に八重桜」
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向背柱の左右に絵馬が掛けられている。
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本殿
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本殿の真っ赤な鬼瓦
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華麗な桃山造りなのだが、ガラスにさえぎられて良く見えない。残念。
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本殿真後ろに富士に向かって「富士えびす」がある。
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左甚五郎作と伝わる「富士えびす」
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旧本殿に向かうときにあった「七色もみじ」
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社殿の左奥には「東宮本殿(国指定重文)」が祀られている。
御祭神:彦火火出見命。
永禄4年(1561)武田信玄の造立。(旧浅間神社本殿)
構造や彫刻などに室町時代の手法をとどめている。
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向拝蟇股の彫刻は素晴らしいと評判のもの。
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装飾が素晴らしい。
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卍は村上光清の講紋、藤は村上家の紋というから、この綺麗な装飾は村上光清の大修理のときのものである。
これは西宮も同じ。
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西宮本殿(国指定重文)
御祭神:天照大神・豊受大神・琴平大神
文禄3年(1594)に浅間神社本殿として造営。元和元年(1615)の浅間神社本殿再建のさい移築し西宮となった。
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これから諏訪神社に向かいます。

紙垂で囲まれた「高天原」がある。
鎮火祭のとき、神輿が「 高天原たかまのはら」を回り、熱気の渦となって、祭の最高潮を迎えます。この時、「すすきの玉串」を持って安産・子授や無病息災を祈願する風習があり、勇壮な場面でありながら、女性や子供、年配の方などの参加も多く見られます。“昔は高天原に「すすきの仮宮」が建てられた”という伝承もあり、近年、27日のみを指して「すすき祭」とする別称もあります。
高天原を5回または7回まわって、神輿は一旦高天原へ収められ「高天原祭」が行われます。そしてようやく諏訪神社へ神輿が収められると、勢子は役目を終えて帰途につき、境内に静寂が訪れます
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諏訪神社
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拝殿入り口に富士山神輿
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鎮火祭(吉田の火まつり)の絵
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もともと諏訪神社の祭りと云われ、諏訪の祭神を地元住民が手に松明を持って出迎えた故事に基づくとされている。

拝殿欄間に龍の彫刻
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本殿
主祭神:建御名方神・八坂刀賣神。
当地の産土神であり、浅間神社勧請前から諏訪森に鎮座していた。
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諏訪神社前には、下諏訪社(左)と子安社(右
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諏訪神社前左右に巨大な杉が。
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根元に風神社
祭神:級長津彦命、級長津姫命
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「神変大菩薩」碑
神変大菩薩とは「役小角」のことだが、この地で修業したと伝わる。
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社殿向かって右手に並ぶ多数の境内社
左より、倭四柱社、日枝社、日隆社、愛宕社、天津神社、国津神社、天満社、日之御子社(左)と池鯉鮒社(右)
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境内右奥(西宮右手)には富士登山道吉田口がある。
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石段下の左手に「小御嶽神社遥拝祠」があった。
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ここの鳥居の掲額も「冨士山」となっていた。
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祖霊社
祭神:藤原角行霊神、村上光清霊神、伊藤身禄霊神
富士講の開祖と中興の祖を祀っている。
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富士登山道吉田口を少し歩いてみました。
本当は、日本武尊が遥拝した場所「大塚遥拝所」に行きたかったのであるが、団体行動の悲しさ、ちょっと歩いて引き返しました。
次回には、必ず!

この日「世界遺産 富士山文化」を訪ねて各所を廻りましたが、これで終了です。
あとは個人的に、25ある構成資産の残りを廻ろうと思います。


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羽黒神・羽黒権現(はぐろごんげん)  /日本の神々の話

20141023

出羽国羽黒山の山岳信仰と修験道が融合した神仏習合の神であり、観音菩薩を本地仏とする。出羽三所大権現の一つである。 羽黒大権現とも羽黒山大権現とも呼ばれた。神仏分離・廃仏毀釈が行われる以前は、羽黒山寂光寺から勧請された全国の羽黒権現社で祀られた。

由来は、崇峻天皇の皇子である蜂子皇子が三本足の霊烏に導かれ、羽黒山で観音菩薩の垂迹神である羽黒権現の神験に遭ったのが開山の由来と伝承される。

中世においては羽黒修験道が盛んになった。
東叡山寛永寺直末となり、江戸幕府の庇護の下で、西の熊野十二所権現に対する東国三十三ヶ国総鎮守の三所権現(羽黒山大権現・月山大権現・湯殿山大権現)として、宗教的にも経済的にも隆盛を極めた。
羽黒修験道は廃仏毀釈等による壊滅は免れ、現在も神道とは別に羽黒山に峰入りをして存続している。なかでも、宗教法人羽黒山修験本宗の本山の羽黒山荒沢寺での秋の峰入り(峰中行)で実施される柴燈護摩や南蛮燻しは秘行として知られる。

明治維新の神仏分離・廃仏毀釈によって、修験道の神である羽黒権現は廃された。羽黒山寂光寺は廃寺に追い込まれ、出羽神社(いではじんじゃ)に強制的に改組された。
全国の羽黒権現社の多くは神道の羽黒神社あるいは出羽神社となっている。

大正元年発行の「諸社祭神御事厯/埼玉県神職會」によれば、
出羽(いでは)神社は、延喜式神名帖では出羽國田川郡伊氐波(いではの)神社と見えたる。中古以来は羽黒権現と称して専ら修験者の尊崇するところとなり。(途中略)
本社の祭神につきては伊氐波神にておはす。されど、その祭神につきては諸説あることにて、或は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)なりともいい、或は玉依姫命なりともいえり。

狭山市加佐志の羽黒神社は、応永年間(1394~1427)羽黒山の麓に暮らしていた伴蔵人一俊が、夢枕に立った羽黒権現の導きで当地に移住し開拓した。現在奥富と名乗る家である。そしてこの村の産土神として羽黒権現を祀ったとされている。
現在の祭神は倉稲魂神(うかのみたまのかみ)である。


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北口本宮冨士浅間神社(1)

20141022

所在地:山梨県富士吉田市上吉田5558

8日(水)に参加した歴史クラブの定例見学会「世界遺産 富士山文化を訪ねる」で、御室浅間神社、小室浅間神社、世界遺産展示室、御師・旧外川家住宅の後に向かったのがここで、最後の訪問地となります。

社号標
旧県社、別表神社
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当社は世界文化遺産「富士山」の構成資産「富士山域Jを構成する要素です。富士登山道「北口(吉田口)」の「本(もと)」のお宮さんという意味で、「北口登山道の起点」であること、古代から継承されてきた「麓(=本)で祭祀を行う場所」であることを表しています。(神社サイトから)

【由緒】
景行天皇40年(110)日本武尊が東征の折、箱根足柄から甲斐国酒折宮に向かう途次、当地の大塚丘に立って、富士山の神霊を造拝し、祠を建てて祀ったのがこの神社の始まりとされています。その後、延麿7年(788)に甲斐固守・甲斐守紀豊庭(きのとよひろ)が現在の地に社殿を建て浅間の大神を奉った、武田信玄が富士権現を造営し、これが現在の富士浅間神社の元となった、などの説があります。
実際はわかりませんが、現存する社殿の造営の歴史をたどると:
【戦国期~江戸時代前期】
・永禄4年(1561):武田信玄が富士権現(現東宮本殿)を造営。
・文禄3年(1594):浅野氏重が西宮本殿を造営。浅野氏重は広島藩主(1619~)浅野家の家老。浅野家は1593~1600年、甲斐国を領していた。
・元和元年(1615):谷村薄主鳥居成次が現在の本殿を造営。
【江戸時代中期】
享保18年~延事2年(1733~1745)に富士講「村上講」の祖、村上光漕が境内社殿の大造営を行いました。
現存する社殿と境内構成のほとんどはこの時のもので、明治初期の神仏分離令により、仁王門、鐘楼、絵馬殿、五重塔が廃されましたが、現在もなお当時の荘厳な趣を伝えています。
境内にある諏訪神社は、富士浅間神社ができる前から鎮座していたとも言われ、地主神と伝えられています。
拝殿後方の鳥居が「吉田口登山道」の起点となっています。「吉田口登山道」も構成資産「富士山域」の構成要素です。

一の鳥居
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掲額が「冨士山」となっている。「冨」を使っているのはここだけのようであるが、意味はわからない。
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いつもコメントを下さるmatsumoさんが教えてくれたのですが、
北口本宮富士浅間神社のホームページのFAQに書いてありました。
http://sengenjinja.jp/faq/index.html


真っ直ぐの、杉の巨木と、江戸時代からの風格ある灯篭に囲まれた、厳かな参道が長く続きます。
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途中に「各行の立行石」がある。
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仁王門礎石
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巨大な大鳥居が迎えます。
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まず神橋があります。
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昭和9年建立の狛犬
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日本で最大の木造鳥居。両部鳥居の形式です。
巨大すぎて圧倒されます。
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掲額には「三国第一山」とある。
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福地八幡社(祭神:誉田別尊)
神社パンフレットでは八幡社とのみ記されています。福地とは徐福あるいは彼の子孫が居住する地を意味しているそうです。
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向背蟇股の彫刻は「霊亀」でした。
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随神門の手前には、明和5年(1768)建立の大きな灯篭がある。
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随神門
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掲額には「富士嶽」とある。
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ここの装飾に「七福神」の彫刻があったので、全部撮ってきました。
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随神
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随神門をくぐると、目の前に神楽殿がある。
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その前に、左手に手水舎があるのでそちらから。これも巨大です。
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霊水を導いています。
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神楽殿
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ここで行われる太々神楽をぜひ観たいものだ。
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神楽殿では、4面に十二支の彫刻があったので、全部撮りました。

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本殿の左に樹齢1000年の「富士太郎杉」
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本殿の右に「富士夫婦桧」
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今回はここまでとし、次回いよいよ社殿からの記事となります。


北口本宮冨士浅間神社(2)に続く


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中津綿津見神 (なかつわたつみのかみ)/日本の神々の話

20141021

 海神の三神の一柱。黄泉国から帰った伊邪那岐神が禊祓をしたおりに化生した神々の一柱である。
ちょっと長いが、古事記の読み下し文で紹介する。
*****
 ここを以ちて伊邪那岐大神詔りたまはく、「吾はいなしこめしこめき穢き国に到りてありけり。かれ、吾は御身の禊せむ」とのりたまひて、竺紫の日向の橘の小門の阿波岐原に到りまして、禊ぎ祓へたまひき。
かれ、投げ棄つる御杖に成りし神の名は、衝立船戸神。次に投げ棄つる卸帯に成りし神の名は、道之長乳齒神。次に投げ棄つる御嚢に成りし神の名は、時量師神。次に投げ棄つる御衣に成りし神の名は、和豆良比能宇斯能神。次に投げ棄つる御褌に成りし神の名は、道俣神。次に投げ棄つる御冠に成りし神の名は、飽咋之宇斯能神。次に投げ棄つる左の御手の手纏に成りし神の名は、奥疎神。次に奥津那芸佐毘古神。次に奥津甲斐弁羅神。次に投げ棄つる右の御手の手纏に成りし神の名は、辺疎神。次に辺津那芸佐毘古神。次に辺津甲斐弁羅神。
右の件の船戸神より以下、辺津甲斐弁羅神より以前の十二神は、身に著けたる物を脱ぐによりて生りし神なり。
ここに詔りたまはく、「上つ瀬は瀬速し。下つ瀬は瀬弱し」とのりたまひて、初めて中つ瀬に墜ちかづきて滌きたまふ時、成りし神の名は、八十禍津日神、次に大禍津日神。この二柱は、その穢らはしき国に到りし時、汗垢によりて成りし神なり。次にその禍を直さむとして成りし神の名は、神直毘神、次に大直毘神、次に伊豆能売、併せて三神なり。次に水底に滌きたまふ時時成りし神の名は、底津綿津見神、次に底筒之男命。中に滌きたまふ時成りし神の名は、中津綿津見神、次に中筒之男命。水の上に滌きたまふ時成りし神の名は、上津綿津見神、次に上筒之男命。
 この三柱の綿津見神は、阿曇連等が祖神ともちいつく神なり。かれ、阿曇連等は、その綿津見神の子、宇都志日金拆命の子孫なり。
その底筒之男命・中筒之男命・上筒之男命の三柱の神は、墨江の三前の大神なり。
 ここに左の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、天照大御神。次に右の御目を洗ひたまふ時成りし神の名は、月読命。次に御鼻を洗ひたまふ時成りし神の名は、建速須佐之男命。
*****

綿津見の津見は「住む」と同じ意味で、すなわち綿津見神とは海神のことである。
『古事記』では、この三神の化生を述べたあと、「此の三柱の綿津見神は阿曇連等が祖神と以ち伊都久神なり。故阿鼻連等は、その綿津見の神の子、宇都志日金析命の子孫なり」とある。阿曇連の阿曇は氏の名で、連は姓の一つである。また阿曇は、アマツミで、アマは海人である。ツミは綿津見のツミと同じであり、宇津志日金析命は名義はわからないが、『姓氏録』によると、「安(阿)曇連宇津斯奈貴命之後也」とある。以上から考えると、筑紫地方で、航海や漁業に従事した海人の部族を率いる豪族であったといえるだろう。
上記の綿津見神三神は、旧官幣小社志賀海神社の祭神であるため、志賀神とも呼ばれる。
綿津見神三神を祀る主な神社は下記。
・神戸市の「海神社」
・福岡市の「志賀海神社」

注)大綿津見神とは異なる。
日本神話で最初に登場するワタツミの神は、オオワタツミ(大綿津見神・大海神)である。神産みの段で伊弉諾尊 (伊邪那岐命・いざなぎ)・伊弉冉尊 (伊邪那美命・いざなみ)二神の間に生まれた。神名から海の主宰神と考えられている。『記紀』においてはイザナギは素戔嗚尊(須佐之男命・すさのを)に海を治めるよう命じている。



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御師 旧外川家住宅

20141019

所在地:山梨県富士吉田市上吉田3-14-8

8日(水)に参加した歴史クラブの定例見学会「世界遺産 富士山文化を訪ねる」で、御室浅間神社、小室浅間神社、世界遺産展示室の後に向かったのがここです。

世界文化遺産「富士山」の構成資産で、重要文化財です。
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「御師」について説明しておきます。
古来、富士山は火を司る神霊の宿る山として崇められてきた「遥拝ようはい)の山」でしたが、鎌倉時代には、山岳修験者や庶民の富士信仰が結びついて、入山(登山)修行を行う「登拝の山」へと性格を変化させています。やがて室町時代に入ると、富士信仰はさらに盛んになり、江戸時代になると人々は「富士講」を結成し組織的に富士山参詣を行うようになりました。
狭山市では、「水富丸ろ講」が今でも存在しています。
富士講の開祖といわれる長谷川角行は富士で千日間立ち行の末に悟りを開いたといわれ、さらに数々の難行苦行を行い、庶民の信仰を一身に集めました。そして書土山登山百数十回、断食300日などの苦行を成し遂げ、106歳のとき入寂したと伝えられています。
その後江戸中期になると、開祖角行から数えて六代目の食行身禄らが登場し、富士講はいよいよ活性化しました。身禄の説<ところは、財産や富貴は仮のもので、永遠ではないという思想に貫かれ、その教えは厳しい修行によってのみ体得できるとしました。この鼻禄の生き方と思想はしだいに庶民の共感を得、信者を増やしていきました。
そして身禄は、享保18年(1733)、富士山7合目の鳥格子岩で断食入定、即身仏となって自己の信仰を貫きました。以来富士講の信者は大いに増え、江戸末期には「江戸八百八講」といわれるほどの講集団の盛況を見ました。
夏の開山期になると富士請の信者(道書)たちは、富士登山のために河口や吉田へやってきます。この信者たちの世話や指導をしたのが「御師」と呼ばれる人たちです。御師は富士山及び角行の説<信仰の指導者であり、又宿泊所の提供者であり、富士講を広める普及者としての性格を持っていました。
彼らの生活は、経営する宿坊での信者から宿泊料や山役銭(通行料)、おはらい料、お礼、お布施などの収入によって維持されていました。御師と信者は師弟関係にあり、一度縁を結ぶと、信者は他の御師の盾坊に泊まることはありません。御師にとっては、いかに大勢の信者を自分の勢力下にt<かが大切で、シーズンオフになると江戸を中心に「講社まわり」に精を出したということです。
 隆盛を見た富士講とそれにかかわる御師は、文明開化以後の新しい社会の風潮に乗り遅れ、徐々に衰退の一途をたどりました。かつての御師の家は、今は民宿などに生まれ変わり、その家のたたずまいや富士講の歴史を物語る資料や調度品などが、往時の面影を見せています。

中門から入ります。
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中門を入ってすぐ右手に、富士山の溶岩と間の川がある。
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間の川に小さな滝が作られ、宿泊する富士講が到着や出発の際に水垢離を行う禊場となっていた。
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入り口
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間取り
非常に細長い短冊形の敷地が御師住宅の特徴です。
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玄関
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家名額
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明和5年(1768)に建てられた主屋は、残る御師住宅のなかでも古い建物で貴重です。
棟札の写真が置いてありました。
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「火地炉の間」に当時の什器が並べられていた。
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富士山形の茶碗
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同行する強力が担いで行ったお弁当。
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こういうものも、持って行った。
「銅壺どうこ」
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居間の神棚
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横に鳥居と三猿
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飾ってあった手ぬぐいと絵馬
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屋根裏に、強力や奉公人が寝泊まりした。
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檀家(富士講)の分布図
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各所に、この家と師弟関係にあった富士講の印が各所に飾られている。
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「講社まわり」に用いたカバン。お札を詰めていった。
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お札と版木
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強力が担いで行ったドテラ。富士講の人は白装束で登り、上は寒いので寝るときなどにこれを使用した。
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御神前の間
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身禄の像
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「食行身禄の御影」の版木
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上段の間
講の先達が居住する間、一段高くなっている。
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床の間に「お身抜き」と「身禄坐像」が。

身禄の「お身抜き」
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「身禄坐像」
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御師の装束
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富士講の白装束
亡くなった時一緒に焼かれるので、残っているのは貴重だそうです。
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裏庭の風景
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これで、ここは完了。
続いて、北口本宮富士浅間神社に向かいました。


続く、北口本宮富士浅間神社を読む


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世界遺産展示室

20141017

8日(水)に参加した歴史クラブの定例見学会「世界遺産 富士山文化を訪ねる」で、御室浅間神社、小室浅間神社に続いて訪れました。

富士吉田市歴史民俗博物館の展示ですが、現在改装工事で休館中のため、隣接する旧郡内地域産業振興センター内に「世界遺産展示室」を開設し、富士山世界遺産の構成資産や富士山と信仰の関わりなどを紹介しています。
国道138号沿いで、道の駅の斜め向かいに位置します。
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入ってすぐ、ロビー上の掲示
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展示室入り口横には、雄大な「富士吉田市周辺鳥瞰図」が。
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ロビーに北口本宮浅間神社の神輿と火祭りのタイマツのミニチュア。
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富士山神輿
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作業室に大きな火祭りのタイマツが置かれていた。
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展示室
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展示内容は素晴らしかった。
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下見の時と合せて、貴重な本をここで三冊購入した。

【おめでたいカタチ 富士の意匠】/富士吉田市歴史民俗博物館
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これを見ることができると喜んだのだが、実物は展示されていなかった。
木花開耶姫命像 江戸時代 富士吉田市歴史民俗博物館蔵
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木花開耶姫命/葛飾北斎
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こういうシリーズがあるのを知らなかった。手に入れなければ。
東海道五十三対/歌川広重
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【富士の女神のヒミツ】/富士吉田市歴史民俗博物館
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明治以降の木花開耶姫命像
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木花開耶姫命像 江戸時代 御室浅間神社で祀られている
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富士山胎内巡之図 北口本宮浅間神社所蔵
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【富士吉田の文化財 富士講】/富士吉田市教育委員会
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角行東覚の「御身抜き」の一例
富士講の根本教典である。
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角行東覚は信仰世界を表わすため造字も行った。
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角行と徳川家康の面白い話が載っていた。
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食行身禄の「御身抜き」
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読むことが出来れば、前掲の角行東覚「御身抜き」から理解は出来る。
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以上、ちょっと紹介しましたが、やはりこういう所でないと入手出来ない貴重な本を手に入って嬉しかった。


この後、道の駅で昼食後、「御師 外川家住宅」に向かいました。


次の「御師 外川家住宅」を読む


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観月雅楽の会/大宮氷川神社

20141015

今夜は、歴史クラブOグループで、本来6日に演じられるはずだったのに台風18号の来襲で延期された「観月雅楽の会」が大宮氷川神社で行われるのを見に行くはずだった。
ところが台風19号の置き土産の前線により、雨。
神社では、よっぽどの雨でないかぎりやります、と電話で問い合わせたときには云っていたが、夜で寒いし、その上雨では、と催行は中止した。

残念なので、昨年観に行ったのを思い出していた。

昨年の記事を読む


そして、昨年はせっかく動画を撮ってきたのに、ユーチューブにもアップしていないのに気付いた。
それで今夜行けなかったメンバーの皆さんに観てもらおうとアップした。
昨年演じられたのは、御神楽2曲、舞楽2曲だが、そのうち2曲である。

御神楽「豊栄舞」を観る


舞楽「胡蝶」
長いので二回に分けてアップしてあります。

前半を観る


後半を観る



来年こそは、皆さんと一緒に観たいですね。


(了)


龍勢祭り&椋神社奉納神楽「岩戸開き」

20141014

これで4年連続、龍勢祭りを楽しみました。
毎年桟敷席を確保して、その都度色々な仲間と一緒に楽しんでいます。
昨年は歴史クラブLグループの行事として催行しました。
今年は「さやま市民大学同窓会」の役員の方から依頼があり、私も現在役員を引き受けているので同窓会での催行としました。
40名分の桟敷席を用意したのですが、同窓会は約700名の会員数なので、全員に呼び掛けることはキャパからいって不可能で、中心となったのは同窓会スタッフ、吹矢クラブ、いきがい学科卒の方がメインでした。
私も歴史クラブに呼び掛けようとしたら、既に40名に達したと連絡があり断念しました。

翌日台風が来襲予定でしたが、なんとか一日雨とならずに済んで、しかも昨年はピーカンで皆暑くて困ったのに、今年は曇り空で暑くならずに良かった。

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今年のプログラムです。
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現在の私は、心身ともに休止モードで、龍勢の写真は撮りませんでした。
龍勢がどんなものかは、一昨年の記事でご覧下さい。

その記事を読む


今年見ていて感じたのは、成功が多くて失敗が少なくて、良かった。
見ていてのんびりと見ていられました。
大落下傘あり、大唐傘とか、たくさんの飛行船とか、背負い物の工夫も色々とあって楽しかった。
「初孫記念に奉納」というのもありましたが、この時は威勢よく発火してもなかなか飛び立たなくて、飛んだときはホッとしました。初孫は「難産」だったのでしょうか(笑)
有名なアニメの「あの花」イベントも今年も盛況でした。
今年口上を述べた声優さんは、かなりの絶叫タイプでしたね。
大落下傘に、キラキラ光る照明が最後まで点いていたのは、今年初めてですね。二つの龍勢で見られました。
綺麗でしたね。


私は歴史クラブで「伝統民俗芸能探訪」のグループを立ち上げているくらいなので、お神楽の方は動画で撮りました。
演目は「岩戸開き」です。
登場するのは、天宇受売命(あめのうずめのみこと)、天児屋命(あめのこやねのみこと)、布刀玉命(ふとたまのみこと)、天手力男神(あめのたぢからおのかみ)、天照大御神(あまてらすおおみかみ)。
天宇受売命が舞い、天児屋命は祝詞を奏上し、布刀玉命が御幣を奉仕し、天手力男神が岩戸を開きます。

全部で約34分と長いので、三回に分けてYoutubeにアップしました。
龍勢打ち上げの口上のアナウンスが耳触りですが、ご愛嬌ということで。
下記クリックすると、見ることが出来ます。

その一を見る


その二を見る


その三を見る



(了)

富士山下宮 小室(おむろ)浅間神社

20141013

所在地:山梨県富士吉田市下吉田5221

8日(水)に参加した歴史クラブの定例見学会「世界遺産 富士山文化を訪ねる」で、御室浅間神社に続いて訪れたのが当社です。

ちょっと手前でバスを停めて歩きます。
道の入り口の鳥居
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70mほど歩くと、大鳥居があります。
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旧社格は郷社で、現在は神社本庁の別表神社。
ここが不思議なことに、文化遺産「富士山」の構成資産には入っていないのです。
しかし、とても見どころのあるお宮なので、私のほうから提案してコースに入れてもらいました。

社伝によれば、延暦12年(793年)、征夷大将軍坂上田村麻呂が東征の際、現鎮座地より富士山を遙拝して戦勝を祈願し、戦勝後の大同2年(807年)、神恩に感謝して社殿を造営したのに始まるという。
上吉田・下吉田・松山の三郷の総鎮守とされ、中世には武田家が祈願所として崇敬した。 明治に入り氏子地域であった上吉田を北口本宮冨士浅間神社に割譲し、それまでの「下宮浅間神社」から現在の「小室浅間神社」に改称した。元々「小室浅間神社」とは、富士山二合目にある山宮の名称であった。
富士吉田地域に於いて、北口本宮冨士浅間神社が富士講御師に依る対外的な信仰を集め、下吉田の小室浅間神社は農耕信仰を中心として地元民の生活に根差した文化があった。

手水舎
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このお宮には桂の樹が多い。
これは「愛染桂」と名付けられている。
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ちなみに長野の実家に桂の木があり、葉がハート形で可愛いのを私の娘が喜んだので、私の父が枝を挿し木して苗をくれ、いま住んでいる家の庭にも桂の木があります。

拝殿、その奥に本殿の覆い屋。
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狛犬
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拝殿
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真ん中の鈴がとても良い音がする。
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向拝の扁額は、巨木が偲ばせる杉板で「天社國鎮」とある。
そして「此木當社地神代之老杉也恭造扁額以為紀念牟」
「歳次庚子仲秋吉辰」と記してある。
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向拝の彫刻
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白馬の絵馬
木花咲耶姫命の乗り物は白馬だそうだ。
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拝殿内部
右の随身、鏡の付いた神旗。
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中央本殿の扉の前に置かれた、神の依り代の鏡。受け台がなんとも美しい富士山である。
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左の随身、剣の付いた神旗。
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御祭神は木花咲耶姫命。

神紋は八重桜であり、神社のサイトでは「大和桜」と紹介されている。
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本殿はすっぽりと覆屋の中で、まったく見えない。
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神馬舎
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扉を開けて神馬を見せてくださった。
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流鏑馬のために神馬が飼われている。
これは7月18日に下見に行ったときの写真で、白と茶の二頭が居た。
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この時、白馬はかなりの高齢だと伺ったが、この日10月8日には白馬の姿が見えず、聞いたら7月末に亡くなったということだった。合掌。

ここの流鏑馬は、単なる流鏑馬でなく、【流鏑馬神事】である。
例祭は9月19日に行われ、流鏑馬神事が有名である。地元では「うまっとばかし」(馬をとばす(甲州弁))と呼ばれる。境内では流鏑馬に使う神馬が飼育されている。この馬は日本中央競馬会から奉納されたものである。
かっては、富士山二合目鎮座の冨士御室浅間神社の近くにあった騮ヶ馬場(りゅうがばば)で行われ、勝山(富士河口湖町)地区と共に奉納されていた。しかし、村間の争いが激しくなっていったため、享禄3年(1530年)に武田氏の家臣である板垣信賢の達により、各々の村で奉納されるようになった。現在の馬場は明治からと伝えられている。
この例祭は一般的に知られる流鏑馬と異なり、農耕信仰及び土地の人々に密接した変わった流鏑馬神事で、富士吉田市無形民俗文化財に指定されている。「切火」と呼ばれる一週間に渡る潔斎と世襲の「占人」が馬の足跡によって吉凶を占う「馬蹄占」が特徴的である。流鏑馬祭りが終わると、各町内に神職を招き「馬蹄占」の結果をもとに「お日待ち・秋葉講」と呼ばれる祭事を行う。各家庭では、その後に神職から紙垂を1枚戴き、火事や争い事がなく無事に過ごせるよう祈願する。

驚いたことに、記念にと流鏑馬のときに馬にあてるムチのレプリカを参加者49名全員が頂いた。
レプリカといっても、半端なものじゃありません、太さ4.5cmもある藤ツル(富士山の麓の森から切り出してきたもの)の先端を叩いて解して色を塗ってあります。
ありがとうございました。
玄関に置いてくださいということで、置いてあります。
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それから神事としては、【御更衣祭】と【筒粥祭】があります。
【御更衣祭】
60年に一度の例祭では、祭神(木花咲耶姫命)の神体の着衣を替える「御更衣祭」が行われる。20世紀には昭和25年(1950年)、平成22年(2010年)9月19日深夜2時に実施され、次回は2070年である。「御更衣祭」の時以外に神体を目にすると、必ず良くないことが起きると伝えられている。

【筒粥祭】
筒粥祭は、1月14日の夜から翌朝にかけて行われる祭。これにより年間の五穀豊穣・天候・養蚕・富士山登拝者数を占う。この祭事にも世襲の「占人」一族があり、神社の主な祭儀が占い神事で、それぞれに世襲の一族が代々奉仕していることが大変珍しい。

続いて境内社です。

稲荷社・山王社・大神社・山神社・天神社
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日枝社(大山咋命)
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室宮恵比寿神社
神社の説明によると、
ある日、篤信人の霊夢に富士山北口の下官産土神社恵比寿大黒像が現れ、「吾は隆昌の運を支えるのばり恵比寿なるぞ。富士に向かって祀れ。吾前に額き縁の霊カを背負い、富士に向かう者の運を開く時は瞳目に値するぞ」とお告げ在りし故、摂津國西宮より勧請し、社宝尾形光琳色彩の恵比寿大黒像を室宮恵比寿と称え申し上げ御奉斎してある。毎年十一月十九・二十日に宵宮、例大祭を斎行し、御縁銭を授与している。
この御縁銭は「財宝は限りなく湧き出て、開運は泉の如くに尽きる事なし」と、恵比寿神との関わり、縁を語る印とされる。
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嘉永元年奉納「猿田彦大神の石碑」
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そして特筆すべき古蹟が残されている。
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【大塔宮桂之古蹟】
本殿右側に聳える御神木「桂」 の老樹は富士吉田市指定天然記念物である。
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南北朝時代鎌倉で討たれた大塔宮護良親王の首級を雛鶴姫が持って落ち延び、この樹の根本に葬ったと伝えられる。
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雛鶴姫の伝説:
護良親王は建武中興の直後、足利直義(ただよし)に捕らえられ、建武2年(1335)鎌倉の牢で首をはねられた。
首をはねられた時の親王は、あまりの無念さから、刺客となった渕部義博(伊賀守)を睨みつけたまま死んでいったため、義博はその恐ろしい親王の首級を、足利直義の前へ差し出すことができず、牢獄の近くの竹薮に捨てて逃げ去ったといわれる。たまたまこれを知った親王の寵姫(南の方)の雛鶴姫(北畠親房の娘)が、数人の従者とともにその首級を探し出して鎌倉を逃れます。雛鶴姫は、すでに親王の御子を宿していてしかも臨月の身重であった。野宿中産気づいてしまったので、従者たちは近くの木の枝や葉を集めて産所をつくり、その中で王子を分娩した。その王子の名は綴連(つづれ)の王子といった。雛鶴姫と王子はしばらくして亡くなりますが、逃亡経路、従者が葬った場所については各地に伝説が残っています。
小室浅間神社もその一つです。

真ん中の手前が雛鶴姫、向う側が護良親王を祀った祠。
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そしてまた、【富士溶岩流の原形】がすぐ近くにあります。
「溶岩流が大塔宮のご神徳により、桂の木の手前で止まっている。」とれっきとした本に書かれています。
偶然にしても面白い話だと最初思ったのですが、富士山の歴史を調べると、富士吉田の辺に溶岩流が流れた最後の噴火は937年なので、ちょっと話しに無理があります。神社の説明にもそうは書かれていません。

ただ溶岩流の塊は、富士吉田の各所にあったが、ほとんどは撤去されてしまいました。たぶん各所の富士塚に置かれたのでしょう。
大規模なものがそのまま残されているのは珍しい。
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次は「世界遺産展示室」に向かいました。


次の「世界遺産展示室」を読む


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大黒天 (だいこくてん)/日本の神々の話

20141011

 稲荷信仰と同様に、豊作を司る神としての田の神信仰がある。この田の神に置き替えて信仰されるものに、恵比寿神と大黒天がある。主として、恵比寿神は東日本、大黒天は西南日本に多い。特に九州や四国では、田の水口などに田の神として祀った大黒天の小さな石像を見かける。

 大黒天は七福神の一つで、福徳や財宝を与える神として、広く信仰されてきた。
 その像の多くは、狩衣のような腹を着て、円形の低いくくり頭巾をかぶり、左肩には大きな袋を背負い、右手に打出の小槌を持ち、米俵二俵の上に立つものである。大黒天は日本に入って、大国主命を本地とする説が行われ、甲子の日をその祭日とする甲子祭りが行われ、この日には、炒豆や二股大根を供える習慣があった。

 そもそも大黒天は、梵語の摩珂迦羅(まはあかあら)の訳で、大黒天神という仏神である。大日経疏」第十、茶吉尼(だきに)の真言によれば、仏陀が茶吉尼を除こうと大黒天をつくり、その調伏を命じた。大黒天は茶吉尼天を呼んで叱り、「お前は人を食う。だから自分もお前を食ってやる」と言い、茶吉尼天を呑み込んでしまった。茶吉尼は恐れ入って、すぐさま降伏した。以来、茶吉尼天は人はもちろんのこと、一切の肉をロにしなくなったという。
 このように、大黒天は仏陀の化身であると考えられてきた。そして、茶吉尼天を降伏させるほどの力を持つ憤怒神でもあったのである。『大孔雀明王経』のなかに、「大黒天神は戦闘の神」と説かれている。
 さらに大黒天は「灰を以て身に塗り、境野の中に在って茶吉尼を待つ」と『大日経疏』にあることや、「諸の鬼神無量の眷属とともに常に夜間に於て林中に遊行す……」と『大孔雀明王経』に説かれているのを見ると、暗夜神すなわち黒闇天と同じであるとする説もある。

 大黒天の解釈・信仰の広がりにもう一つの流れがある。それは中国南方の諸寺の厨に、食厨の神として祀られている大黒天である。この大黒天を、遣唐留学僧だった最澄(後に伝教大師と呼ばれる)が持ち帰り、比叡山延暦寺に祀った。これが、天台宗系の諸寺院に広まり、庫裏に神王の形で袋を持つ像を安置する風が生じた。
 このように、種々の流れと性格を持つ大黒天であるために、その像容もさまざまである。座像で剣を持つもの、金嚢を肩にした立像、金嚢を左手に持つ半跳の像などがある。

 このほかに、三面大黒天像というのもある。これは正面は大黒(烏帽子形)左右は毘沙門・弁天(ともに宝冠形)を一体の像にまとめ、左前手に宝珠、右前手に剣、左第二手に鑰(やく、笛)、右第二手に棒、左第三手に鎌、右第三手に三叉戟を持ち、俵二俵の上に立つものである。これを略して、初めに記したように、顔だけ大黒・毘沙門・弁天の三神を刻み、打出の小槌を持つ二手だけの像が一般に普及した像である。「鋸屑譚」に、「日蓮上人三面大黒天の讃文云、甲子の日毎に生黒豆粒をもって祭るべし、是秘中の秘」とあり、甲子の日を大黒天の祭日として炒豆や二股大根を上げたり、茶飯を炊いて供える風もある。これは、日蓮宗系の加持祈祷師や陰陽師が関与して広まったものであろう。

 そのほかに、大黒天の信仰を民間に流布した人々をあげなければならない。陰陽師の流れをくみ、大黒舞い(恵比寿神を奉ずる恵比寿舞いもあった)を行いながら全国各地を歩いた出雲大社の下級神人と称した者たちや、京都悲田院の四ケ寺に所属する垣戸(かいと、下級神人)が、大黒天の姿を模して面を被り、頭巾をつけて、正月に門口を訪れ、祝詞を述べ、米や銭を乞い、お札を配って全国各地を巡っていた。

 大黒と大国の字音が同一であることから、出雲神話の大国主命と習合されて、民間信仰としての基盤ができあがり、インドや南中国の諸寺院で祀っていた大黒天とはすっかり違った、日本的な大黒天が創り上げられていった。
 大黒天はよく「恵比寿・大黒」と並称され、七福神(この二神のほかに、毘沙門・弁天・福禄寿・寿老人・布袋和尚がある)として、また農耕神として広く民間に信仰されてきた。また江戸浅草の歳の市には、恵比寿・大黒の像を売る店が多く出て、この店の大黒天の像を盗むと翌年の運が開けるという俗信もあり、「大黒は盗んで罰にならぬもの」という古川柳さえあるくらいである。

私は七福神めぐりをしているので、大黒天の写真は溜まっている。
深川七福神/円珠院には二体の大黒天がある。
木造大黒天
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破顔大黒天(石造)
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山手七福神/大円寺の大黒天
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日本橋七福神/松嶋神社(大鳥神社)の大黒天
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川越七福神/喜多院の大黒天
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狭山市の広福寺には、珍しい「三面大黒天椅像」というのがある。基本的には文中にあった三面(大黒・毘沙門・弁天)六臂であり、椅子に腰かけた像。
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富士御室浅間神社

20141010

所在地(里宮):山梨県南都留郡富士河口湖町勝山3951番

8日(水)に、歴史クラブの定例見学会「世界遺産 富士山文化を訪ねる」に参加しました。
参加者が49名と、多い人数での催行です。

7:30に出発して、圏央道、中央高速を順調にいき、河口湖インターで降りて、河口湖畔の当社にまずお参り。
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旧社格は県社で、現在は神社本庁の別表神社。旧称小室浅間明神。
「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の一部として世界文化遺産に登録されている。
境内は本宮と里宮からなる。本宮である山宮は富士山吉田口登山道の二合目に鎮座する。富士山山中に最初に勧請された神社とされている。里宮は河口湖畔の勝山に鎮座する。

歴史としては、文武天皇3年(699年)に藤原義忠によって創建されたと伝えられる。社名の「御室」は、かつて祭祀を石柱をめぐらせた中で執り行っていたことによるものである。

まず、本宮にお参り。
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本宮の前には、色々な奉納物がある。
台座に「神威八紘漲」と書かれた神馬像。
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撫牛
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「北口二合目富士御室大権現大神」碑
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「富士御室浅間神社大前稜威恩赦日供拜」碑
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狛犬
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遥拝門
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大きな天狗の面がかかっている。修験道の痕跡。
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現在の本殿は、慶長17年(1612年)に徳川家の家臣の鳥居成次によって建てられたものである。その後4回の大改修を経て、昭和48年(1973年)に富士山二合目から里宮に移築された。構造は、一間社入母屋造り、向拝唐破風造りで、屋根は檜皮葺形銅板葺きであり、桃山時代の特徴をもっている。国の重要文化財に指定されている。
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「北口御室本宮 浅間大神」の扁額がかかっている。
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華麗な彫刻で飾られている。
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左脇扉
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右脇扉は剥落が激しい。
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神紋は「亀甲に六つ唐花」
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続いて里宮に移ります。
表参道
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表参道の終りの地点にこんなものが立っていた。てっぺんの扇に矢がささっている。
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てっきり、この表参道が馬場となり流鏑馬をここでやるのだろうと思ったが、帰ってから調べてみると、流鏑馬は
湖畔のシッコゴ公園という所で行われるそうで、文字通り的外れであった(笑)

里宮の神門の前にあった「百福の龍宝珠」
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神門
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ここの彫刻もなかなかのものだった。
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獏の牙がすごい。
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随神は可愛らしい。
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天徳2年(958年)に、村上天皇により、氏子の祭祀の利便のため河口湖の南岸に里宮が創建された。中世には修験道、近世には富士講と結びついて発展した。戦国時代には甲斐武田氏の崇敬を受けた。現在の社殿は、明治22年に再建されたものである。

神門をくぐると、拝殿が見える。
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手水舎
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拝殿の屋根についた千木が印象的。.
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向背の注連縄が古風。
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向背柱の彫刻も立派。
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扁額
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拝殿内部
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本殿扉前の鏡が大きい。
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神紋は「亀甲に六つ唐花」
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本殿
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庇の反りがすごい。
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本殿背面
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「武田信玄公御祈願所」の碑
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境内社です。

石割社(天手力男命)
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本殿の直後にある。
別天津神社(天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神、可美葦牙彦男神、天之常立神、伊邪那岐神、伊邪那美神)
国津神社(天照大御神)
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片山社(素戔嗚尊)
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天神社(菅原道真)
雷神社
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稲荷社
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せっかくだから、ちょっと河口湖をのぞいてみました。
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河口湖側の鳥居
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河口湖
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これで、ここの参拝はこれまでにして、続いて小室浅間神社に向かいました。


次の小室浅間神社を読む


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皆既月食

20141008

「スーパームーン」のときにも画像を紹介しましたが、今度は「皆既月食」です。

今日は、歴史クラブの行事で富士吉田に「世界遺産 富士山文化を訪ねる」ということでバス旅行に行ってきました。
18時ころ家に帰りついた時に、そうだ今夜は皆既月食だと、思い出しました。
さっそくネットで月食の時間を調べてみると、皆既月食になるのは、19時24分とあります。
あわてて、「今でしょ!」とつぶやきながら(笑)
ベランダにカメラをセットしました。
富士吉田では、雲が多くてついに富士山は一日中顔を出してくれなかったのに、
こちらは雲がほとんど無くて月が良く見えていました。
まだ満月です。
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すぐに左下から欠けはじめました。
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それからは10分くらい毎に撮っていきました。
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そして、ついに皆既月食となりました。
赤い月です。
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帰って来たばかりで、空きっ腹で慌ただしかったですが、短時間でこんなショーが楽しめました。
楽しかった。


坂上田村麻呂 (さかのうえのたむらまろ)/日本の神々の話

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平安時代の武官。名は田村麿とも書く。正三位、大納言兼右近衛大将兵部卿。勲二等。死後従二位を贈られた。
人物
中央で近衛府の武官として立ち、793年に陸奥国の蝦夷に対する戦争で大伴弟麻呂を補佐する副将軍の一人として功績を上げた。弟麻呂の後任として征夷大将軍になって総指揮をとり、801年に敵対する蝦夷を降した。802年に胆沢城、803年に志波城を築いた。810年の薬子の変では平城上皇の脱出を阻止する働きをした。平安時代を通じて優れた武人として尊崇され、後代に様々な伝説を生み、文の菅原道真と、武の坂上田村麻呂は、文武のシンボル的存在とされた。
坂上氏は渡来人である阿知使主の子孫であり、田村麻呂の祖父の犬養、父苅田麻呂ともに武をもって知られた。
子に大野、広野、浄野、正野、滋野、継野、継雄、広雄、高雄、高岡、高道、春子がいた。春子は桓武天皇の妃で葛井親王を産んだ。滋野、継野、継雄、高雄、高岡は「坂上氏系図」にのみ見え、地方に住んで後世の武士のような字(滋野の「安達五郎」など)を名乗ったことになっており、後世付け加えられた可能性がある。子孫は京都にあって明法博士や検非違使大尉に任命された。

征夷大将軍として蝦夷との闘いで有名なのは、確保した地域に胆沢城を築くために陸奥国に戻り、そこでアテルイ(阿弖利為、阿弖流為)とモレ(盤具公母礼)ら五百余人の降伏を容れたこと。
しかし田村麻呂は彼らの助命を嘆願したが、京の貴族は反対し、二人を処刑したのである。

田村麻呂は京都の清水寺を創建したと伝えられる。史実と考えられているが、詳しい事情は様々な伝説があって定かでない。他には806年(大同元年)に平城天皇の命により富士山本宮浅間大社を創建している。

弘仁2年(811年)5月23日に54歳で病死した。嵯峨天皇は哀んで一日政務をとらず、田村麻呂をたたえる漢詩を作った。死後従二位を贈られた。墓所は京都市山科区の西野山古墓と推定される、また山科区勧修小学校の北側に「坂上田村麻呂の墓」との石碑があり周辺は公園として整備されている。そのほか東山ドライブウェイの展望台側に青蓮院将軍塚大日堂が有る。

後世、田村麻呂にまつわる伝説が各地に作られ様々な物語を生んだ。伝説中では、田村丸など様々に異なる名をとることがある。平安時代の別の高名な将軍藤原利仁の伝説と融合し、両者を同一人と混同したり、父子関係においたりすることもある。伝説中の田村麻呂は蝦夷と戦う武人とは限らず、各地で様々な鬼や盗賊を退治する。鎌倉時代には重要な活躍として鈴鹿山の鬼を退治するものが加わった。複雑化した話では、田村麻呂は伊勢の鈴鹿山にいた妖術を使う鬼の美女である悪玉(あくたま、説によるが鈴鹿御前)と結婚し、その助けを得て悪路王(あくろおう)や大嶽王(おおたけおう)のような鬼の頭目を陸奥の辺りまで追って討つ(人名と展開は様々である)。諸々の説話を集成・再構成したものとして、『田村草紙』などの物語、能『田村』、謡曲『田村』、奥浄瑠璃『田村三代記』が作られた。また、江戸時代の『前々太平記』にも収録される。

田村麻呂の創建と伝えられる寺社は、岩手県と宮城県を中心に東北地方に多数分布する。大方は、田村麻呂が観音など特定の神仏の加護で蝦夷征討や鬼退治を果たし、感謝してその寺社を建立したというものである。伝承は田村麻呂が行ったと思われない地にも分布する。京都市の清水寺を除いてほとんどすべてが後世の付託と考えられる。その他、田村麻呂が見つけた温泉、田村麻呂が休んだ石など様々に付会した物や地が多い。長野県長野市若穂地区の清水寺(せいすいじ)には、田村麻呂が奉納したと伝えられる鍬形(重要文化財)がある。

この辺の田村麻呂伝説としては、嵐山の「縁切り橋」がある。
大蔵館跡、源義賢の墓の辺から鎌倉街道を笛吹峠に向かうと、将軍沢という地名があるが、そこにかかっている小さな橋である。
征夷大将軍の坂上田村麻呂が、軍勢を引きいて、ここ嵐山町に滞在、岩殿の悪龍退治の準備に忙殺されていた。そこへ、将軍の奥方が京都から心配のあまり訪ねてきた。しかし、坂上田村麻呂は「上の命令で、征夷大将軍として派遣されている私に、妻が尋ねるとは何ごとだ。逢わぬぞ」と大声で怒鳴った。いくら家来がとりなしても許さなかった。
 翌朝、奥方は京へ帰る出発のためこの地へ来た。将軍はこの坂下まで来て、「大命を受けて出陣しているのに追って来るとは何ごとだ。今より縁を切る。早々に立ち去れ。」と宣言した。

田村麻呂を祀る神社は、各地の田村神社、筑紫神社(福岡県筑紫野市)、松尾神社 (宝塚市)創建当初は坂上田村麻呂であった。

画像
坂上田村麻呂(菊池容斎『前賢故実』より)
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清水寺縁起
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吉田神社(延喜式内社)/茨城県水戸市

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所在地:茨城県水戸市宮内町3193-2

9月26日の「関八州式内社めぐり」で、佐波波地祇神社、五浦六角堂、酒列磯前神社の次にここにお参りしました。

社号標
式内社(名神大社)、常陸国三宮で、旧社格は県社。
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水戸市南部の通称「朝日山」と呼ばれる小高い丘の上に鎮座する。『延書式』神明帳の都賀群七座中、洒列磯前神社とともに明神大社に列せられている。

創建不詳。
『常陽式内鎮座本紀』(寛政9年-1797)、『常陸二十八社考』(寛政11年-1799)によると、第12代景行天皇40年に日本武尊が征夷大将軍となり、東征の際にこの地(朝日山/三角山)で兵を休ませ、これにちなんで社殿が造営されたのが創建であるといわれる。また『常陸国風土記』には日本武尊の那賀群での説話は見当たらず、この伝説上の英雄が吉田神社の祭神とされるようになったのは、平安時代初期頃に官社に列せられてからのことと推測される。
概史
『続日本紀』(六国史の-つ。『日本書紀』に続く第2番目の勅撰正史)は、8世紀以降の東征のもようを以下のように伝えている。
・神亀元年(724)4月‥・海道の紫夷を征するため坂東9国の軍士3万人に騎射を習わせ、絁(あしぎぬ)、綿、布などを陸奥鎮所に運ぼせる。
・神亀2年(725)3月‥・常陸国の百姓、俘賊に焼かれ財物を現した者、9分以上には復3年、4分には2年、2分には1年を給す。
・宝亀7年(776)7月・・・安房、上総、下給、常陸の4国に船50隻を送らせ、陸奥国に置き、不慮に備える。
・延暦7年(788)3月‥・東海、東山、坂東諸国の歩騎5万2800人、来年3月を限り、多賀城に参集させ、常陸国の神財も動員される。
 延長5年(927)成立の『延書式』神明帳に、常陸国都賀郡に「吉田神社 明神大」と記載、常陸国において鹿島神宮(-宮)、静神社(二宮)に次ぎ三宮に位置づけられ、鹿島神宮に次いで式年造営も行われたという。
 中世には、神郡として都賀郡から「吉田郡」が分立したが、吉田社の社嶺は158町で郡の半分に及んだ。この社領は以後荘園としての性格を強め、「吉田庄」とも称された。また、薬王院を神宮寺とし、神階も正一位に達したと伝える。その後は薬王院が天台宗の中心地として隆盛するとともに論争が増え、神威は衰退した。
 江戸時代には水戸藩から篤い崇敬を受け、徳川光圀は寛文6年(1666)に本殿・拝殿ほか多くの社殿を修造し、徳川斉昭は水戸藩総鎮守として天保15年(1844)に『大日本史』と社地として100石を寄進した。
 昭和20年(1945)には、空襲で社殿のすべてが焼失した。昭和23年(1948)に社殿が再建され。その後の改築・修理を経て現在に至る。

一の鳥居
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一の鳥居の前に木柵に囲まれた石造物があり、一応写真を撮ってきて調べてみたら、文化十三年(1816)に奉納された大灯籠です。残念ながら東日本大震災により火袋から上は失われています。
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神橋
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石段が続きます。
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石段上部にある大欅。推定樹齢が三百年。
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また石段を上がる。
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石段の上に二の鳥居
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三の鳥居の前に、左に三角山がある。
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日本武尊御遺跡が「朝日三角山遺跡」として、祭神の日本武尊が休んだという場所が聖別されている。最長の一辺がほぼ30メートルの直角三角形をなし、その鋭角の先端は本殿を指している。かって本殿がこの場所にあったともいわれ、祭祀跡であると思われるが、そこに-歩入ったら出られないという迷信がごく最近まであった。

その左に「朝日三角山由緒の碑」が立っている。
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遺跡
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三の鳥居
随身門まで、かなりの距離があります。
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随身門前の石造灯篭の台が六角形になっている。
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手水舎
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随身門前の、昭和2年建造の狛犬。
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狛犬も震災の被害を受けたようで、写真ではわかりませんが「吽」の狛犬は後ろが欠けていました。欠けている部分を写すのは忍びなかった。
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随身
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内側には、それぞれ御幣が置かれていた。
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拝殿
右側には神楽殿が接続されている。
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鈴緒
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扁額は「常陸 第三宮」と。
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内部
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中の扁額も「第三宮」と。
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祭神は日本武尊(やまとたけるのみこと『紀』)(倭建命『記』)。第12代景行天皇皇子、子は第14代仲哀天皇。武神、軍神、国土神(農業神)。日本神話の中で武力に優れた英雄の一人。東奔西走し、大和朝廷統一に貢献。最後は能原野(のぼの)で病に倒れ白鳥となった悲劇の英雄。

神紋は「右三つ巴」
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神職・・・『吉田神社事蹟考』は初期の社務を司った氏族を吉美侯(きみこ)氏とし、日本武尊の従兄弟だとしている。吉美侯は公子、君子などと表記され諸説あるが、奈良時代初期頃に帰属した蝦夷であるともいわれ(『類衆国史』)、蝦夷との関係が指摘される。その後吉美侯氏は、長承年間(1132-35年)に中央公家の小槻氏に社務職(領家職)を寄進した。このことは、在庁宮人の介入や土豪から社領を守るためであったとされる。そして、この
小槻氏のもとで、大祝大舎人氏が実権を握っていきます。


拝殿、幣殿、本殿と続きます。
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幣殿から本殿の門にかかる橋
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本殿
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本殿背面
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神楽殿前の枝垂桜が目を引きます。咲いた時の景色は見事でしょう。
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神馬舎
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境内社です。まだ在ったかも知れませんが、確認できたもののみ載せておきます。

随身門の手前右に天満宮を祀ってあります。
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右が国見神社(祭神:彦国見加岐建與束命(ひこくにみがきたけよつかのみこと)、左が早歳神社(祭神:両道入姫命(ふたじのいりびめのみこと)。
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右から松尾神社、多賀神社、住吉神社、八幡宮、大国主事代主神社、疱瘡守護神社
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最後に、大洗磯前神社を通る冬至日の出遥拝線上に吉田神社と朝房山(哺時臥くれふし山)があり、さらにそのほぼ延長線上に八瓶山がある。この山は城里町七会(旧・西茨城都七会村)に所在して、345メートルの小山ながら美しい円錐型をなし、さまざまな伝説を秘めている。『聚成笠間誌』によれば、全体は八つの蓮華状の峰からなり、空海が各峰に瓶を置き八大竜王を勧請、雲を呼び雨を降らせ、その様(さま)はさながら布を引いたようだったので、引布山と称されるようになったという。

これで、この日の予定神社を全て廻ることが出来、帰途につきました。


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酒列磯前(さかつらいそさき)神社(延喜式内社)/茨城県ひたちなか市

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所在地:茨城県ひたちなか市磯崎町4607-2

9月26日の「関八州式内社めぐり」で、佐波波地祇神社、五浦六角堂のあとに、ここにお参りしました。

社号標
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式内社(名神大社)。旧社格は国幣中社で、現在は神社本庁の別表神社。
『延喜式神名帳』には「常陸国那賀郡 酒烈礒前薬師菩薩神社」と記載されている。

茨城県の東部、太平洋に面した岬の丘上に鎮座する。那珂川対岸の大洗町にある大洗磯前神社と深い関係にあると言われ、2社で1つの信仰を形成している。

『日本文徳天皇実録』によると、斉衡3年(856年)に常陸国鹿島郡の大洗磯前に神が現れたとされる。
常陸国上言。鹿嶋郡大洗磯前有神新降。初郡民有煮海為塩者。夜半望海。光耀属天。明日有両怪石。見在水次。高各尺許。体於神造。非人間石。塩翁私異之去。後一日。亦有廿餘小石。在向石左右。似若侍坐。彩色非常。或形像沙門。唯無耳目。時神憑人云。我是大奈母知少比古奈命也。昔造此国訖。去徃東海。今為済民。更亦来帰。
ある夜、製塩業の者が海に光るものを見た。次の日、海辺に二つの奇妙な石があった。両方とも一尺ほどだった。さらに次の日には20あまりの小石が怪石の周りに侍坐するように出現した。怪石は彩色が派手で、僧侶の姿をしていた。神霊は人に依って「われは大奈母知(おおなもち)・少比古奈命(すくなひこなのみこと)である。昔、この国を造り終えて、東の海に去ったが、今人々を救うために再び帰ってきた」と託宣した。
『日本文徳天皇実録』斉衡3年12月戊戌条

そして、大己貴命(大奈母知)が大洗に、少彦名命(少比古奈命)が酒列に祀られ、両社の創建となったと伝えられている。

当社周辺海岸の岩石群は南に約45度に傾斜して並んでいるが、その内の一部の北に傾いた部分、すなわち「逆列(さかつら)」の地名が社名の由来とされる。のちに酒の神様を祀るところから「酒列」となったとされる[1]。

一の鳥居
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参道は見事な樹叢のトンネルになっている。
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二の鳥居のちょっと手前に、脇からの参道があり、そちらを覗いてみたら海がきれいだった。
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手水舎
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二の鳥居
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二の鳥居まえにある狛犬が、沖縄のシーサーを思わせる南国的な造りですが、昭和の名工・飯塚兵吉の作だそうです。
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境内は広々としている。
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拝殿
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向背は千鳥破風と唐破風の二重の作り。
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向拝懸魚のリスとブドウの彫刻は、左甚五郎の作とされる。
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向拝上部の彫刻は、波と龍
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拝殿扁額は彰仁親王書、桂太郎書。
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拝殿内部は、ほとんどわからなかった。
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主祭神は少彦名命(すくなひこなのみこと) 。大名持命とともに国造りを行ったとされる。
配祀神が大名持命 (おおなもちのみこと)。 大国主命(大己貴命)の別名。大洗磯前神社祭神で、その分霊。少彦名命の力を借りて国造りを行ったとされる。

国造りにおいて『古事記』・『日本書紀』・『風土記』などの神話では大名持命と少彦名命の2神が併せて登場することから、当社に限らずこの2神の組み合わせで祀る神社は多い。また、当社では少彦名命を七福神のえびす、大名持命を大黒天とも見なしている。

入母屋造りの拝殿、幣殿、流れ造りの本殿と続く。
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拝殿の横に、綺麗な書体で書かれた社名の丸い板が掛けられていた。
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本殿は、高い板塀に囲まれていて、ほとんど見えない。
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本殿の前に陶製の狛犬が置かれている。
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本殿背面
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本殿を横から
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神紋は「十六弁菊」
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酒列鎮霊社
日露戦争より第二次世界大戦までの戦没者506柱を祀っている。
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二の鳥居をはいったところに境内社が並ぶ。
稲荷神社 -祭神:倉稲魂命
天満宮 - 祭神:菅原道真公
事比羅神社 - 祭神:大物主命
冨士神社 - 祭神:木花咲耶媛命。子安神として信仰されている。
水神社 - 祭神:罔象女命
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齋館
旧社務所で、昭和初期の建物。
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神輿、随身、酒樽が並べられている。
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神馬舎
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水戸斉昭公腰かけの石
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幸運の亀
宝くじ高額当選者の奉納
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奉納された大きな錨
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社務所横の見事な槇
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五浦(いずら)六角堂

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所在地:茨城県北茨城市大津町五浦727-2

26日の「関八州式内社めぐり」で、佐波波地祇神社のあとに、幹事さんの計らいでここに立ち寄りました。
岡倉天心の愛した景勝地です。明治36年人里離れた五浦を訪れた天心は、太平洋を望む大小の入江からなる風光明楯で変化に富む景観に魅了され、早速広大な土地と家屋を購入し別荘としました。それから2年後の同38年本格的に母屋を新築し、住居の東側の崖の上に朱塗りの六角堂(観潮亭)を建てるなど住まいを拡張するとともに、以後この五浦を本拠地と定めました。
以後、天心はアメリカのボストンと田本の五浦を往復する生活を送ります。
この時、天心に従い家族ともども五浦に移り住んだのが横山大観、下村観山、菱田春草、木村武山でした。

登録有形文化財の「長屋門」から入ります。
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中に入ると松の林と海に目を奪われる。
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天心記念館
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中には、6月の「谷根千散歩」で谷中を歩いた時に「岡倉天心記念公園」で見た天心の像、同じものがあった。
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釣りを楽しむ天心の像
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ウォーナー像
天心の教えを受けた美術史家ラングドン・ウォーナーは、第二次大戦中、爆撃対象から奈良、京都などの都市を外す文化財リストをアメリカ政府に提出した。
その功績を讃えようと、各方面からの寄付によって建てられた。
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六角堂のある岬に出た。
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 太平洋に臨む岸壁の上に立つ、天心遺跡のシンボルです。
建築には三つの意図が込められているといわれています。まず、杜甫の草堂である六角亭子の構造。つぎに、朱塗りの外壁と屋根の上の如意宝珠は仏堂の装い。そして内部に床の間と炉を備えた茶室としての役割。つまり六角堂には、中国、インド、日本といったアジアの伝統思想が、ひとつの建物全体で表現されているのです。東月本大震災の津波により流失、国の復旧予算に加え、多くの方々の寄付金によって、一年後の平成二十四年に創建当初の姿で再建されました。

六角堂の内部
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六角堂からの景観は、実に素晴らしかった。
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天心邸の前には、東月本大震災の津波による被害の様子がパネルで説明されていました。
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天心邸
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内部
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縁側に、2013年11月に公開された映画「天心」に出演したキャストのサインが大木の断面にしてあった。
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岡倉天心については、経歴は省略しますが、私は歴史ファンで美術が好きな人間なので、天心の功績には深い感謝の念があります。

古美術の保存、保護に尽力した天心:
文明開化と言う時代風潮の中、明治初めの新政府の神仏分離令によって、廃仏棄釈が盛んになり、仏像等の美術品が破壊され、また海外に流失していきました。近畿地方の古社寺を訪れ調査をする中で、古美術に対する造詣を深めていった天心は、そうした日本美術の行く末を憂い古美術の保護に強い関心を持つようになっていきます。
特に、明治17年(1884年)法隆寺夢殿を寺僧の反対を押し切って開扉し、秘仏であった、救世観音像をアーネスト・フェノロサと共に拝した時の驚きと感動を「-生の最快事なりと言うべし」と熱く語っています。明治19年(1886)天心が文部省の命により、奈良地方の古社寺調査をまとめた報告書「美術保存二付意見」は、文化保存について最も早く適切な提案をしたものとして今でも高く評価されています。明治22年(1889)、天心は帝国博物館理事及び美術部長に就任し、全国的な文化財調査、保護活動を本格的に推し進めました。帝国博物館の行った彫刻、古画の模写、模造事業をその後東京美術学校が担当し、それに大観ら生徒達が参加しています。更に天心は日本美術院でも、奈良を本拠地とした国宝修理部門を設け、新納忠之助(にいろ・ちゅうのすけ)らを彫刻の修理や復元事業に当たらせました。天心の発案した「現状維持修理」は、今日の古美術保存の最も適切な修理法として採用されています。
亡くなる直前まで、病気を押して古社寺保存会に出席し、法隆寺壁画保存の建議書を文部省に提出するなど、晩年まで天心の文化財保護に関する情熱は変わりませんでした。このような天心の文化財保護に関する綿密な調査活動と優れた見識は、明治30年(1897)公布された「古社寺保存法」に反映されています。天心の古美術保存の精神は、昭和4年(1929)の「国宝保存法」、さらに昭和25年(1960)の「文化財保護法」制定へと受け継がれ、今日の文化財保護の礎になっています。

石碑「亜細亜ハ一な里(アジアはひとつなり)
 「ASiA is one」天心がインドで書いた『東洋の理想』冒頭の一文です。インド、中国、日本など、それぞれ異なる個性を持つ国々が、目に見えない「アジア」というひとつの概念を支えていることを示したものです。西洋文化に対抗しうる東洋文化への思いが込められています。石碑は昭和十七年、細川家当主・細川護立、横山大観、資生堂社長・福原信三ら天心偉績顕彰会のメンバーにょって建立されました。太平洋戦争時に海外侵略を正当化するフレーズとして捉えられたことは残念な誤解といえます。
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天心邸の前の芝生と松。
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坂を上がって、見下ろす。
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北茨城市指定文化財「岡倉天心墓地」
大正2年9月2日、天心は新潟県妙高村赤倉温泉の山荘で50歳の生涯を閉じます。遺骨は、東京染井墓地に納められました。その後、遺言に従い分骨され、遺族の手で五浦旧邸の-角に土を盛って造られたお墓に埋葬されました。
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「黄門の井戸」
岡倉天心墓地の近くにありました。
元禄年間、徳川光圀公が領内巡視でこの地を訪れた際、のどの渇きを覚え、井戸は無いかと供の者が探し回り、古井戸を発見した。ただし水は底深く飲むことが出来ず、光圀公が井戸を覗き見たときに杖が井戸の淵にあたり、水がコンコンと湧き出した、と書いてあった。
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その近くの、小道の入り口に珍しいものを見つけた。
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「六道能化」と書いたものは、長野県の私の両親の墓の入り口に立ててあるのをよく目にするが、それと一緒に立っているものが珍しかった。
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「六道能化(ろくどう‐のうげ)」は仏語で、六道の巷(ちまた)に現れて、衆生を教化し救う地蔵菩薩のこと。
扇のように綴られた札は、調べてみたら「普賢菩薩・文殊菩薩・薬師菩薩・弥勒菩薩・大日如来菩薩・・・・」と菩薩や観音さまの名が書いてあるものでした。
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Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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