歴史クラブ/さやま市民大学学園祭に出展

20141129

28日(金)から30日(日)の期間開催される「さやま市民大学学園祭」の、同窓会ブースに出展
しました。
割り当てられたスペースは、横180Cm×縦120Cmのパネル一枚です。
各グループから活動実績の写真などを集めて、主としてスタッフで作成展示しました。

会場の、さやま市民大学が入っている「元気プラザ」
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同窓会の展示場所は、いろいろなイベントが行われるエントランスホールです。

エントランスホール
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同窓会が確保したスペースはパネル4枚。
そのうち一枚が歴史クラブに割り当てられた。
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歴史クラブ展示パネル
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歴史クラブ全体の取り組み
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現在活動しているグループ。
Aから順に立ち上げて、完了して解散したグループがあります。
どこに参加するかは自由。
賛同者をつのりグループを立ち上げることもできます。
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【Fグループ】
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【Hクループ】
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【Lグループ】
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【Nグループ】
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【Oグループ】
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【Pグループ】
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昨日、今日と現場にいましたが、けっこう関心ありげに熱心に見手くださる方が多くて嬉しく思いました。
また歴史を楽しむ仲間が増えるといいですね。


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槁根津彦(さおねつひこ)・椎根津彦(しいねつひこ)/日本の神々の話

20141127

『古事記』では槁根津彦(さおねつひこ)、『日本書紀』では椎根津彦(しいねつひこ)、または珍彦(うずひこ)で登場する国つ神。神武東征において登場する。倭国造(倭直部)の祖。

『古事記』 「神武天皇-東遷の段」
(読み下し文)
神倭伊波礼毘古命(神武天皇)、そのいろ兄五瀬命と二柱、高千穂宮に坐して議りて云りたまはく、「何れの地に坐さば、平らけく天の下の政を聞しめさむ。なほ東に行かむと思ふ」とのりたまひて、即ち日向より発ちて筑紫に幸行でましき。かれ、豊国の宇沙(うさ)に到りましし時、その土人、名は字沙都比古・字沙都比売の二人、足一騰宮を作りて大御饗献りき。其地より遷移りまして、筑紫の岡田宮に一年坐しき。またその国より上がり幸でまして、阿岐国の多祁理宮に七年坐しき。またその国より遷り上り幸でまして、吉備の高島宮に八年坐しき。
 かれ、その国より上り幸でましし時、亀の甲に乗りて釣りしつつ打ち羽ふり来る人、速吸門に遇ひき。ここに喚びよせて、「汝は誰ぞ」と問ひたまへば、「僕は国つ神なり」と答へ曰しき。また「汝は海つ道を知れりや」と問ひたまへば、「よく知れり」と答へ曰しき。また「従ひて仕へ奉らむや」と間ひたまへば、「仕へ奉らむ」と答へ曰しき。かれここに、槁機(さを)をさし渡し、その御船に引き入れて、即ち名を賜ひて槁根津日子と号(なず)けたまひき。こは倭国造等の祖なり。
(以下略すが、この直後那賀須泥毘古(長脛彦)との闘いに苦戦し、兄の五瀬命が亡くなり、熊野に転進する。)

神武天皇が東征において速吸門で出会った国つ神で、船路の先導者となる。このとき、『書記』では天皇が勅で椎の棹を授けて、名を珍彦(うづひこ)から椎根津彦に改めさせたとあり、『古事記』では亀の甲羅の上に乗っていたのを、棹をさし渡し御船に引き入れて槁根津彦の名を賜ったという。

速吸門については諸説ある。『日本書紀』では豊予海峡を指すと考えられており、大分県大分市佐賀関には、椎根津彦を祀る椎根津彦神社がある。『古事記』では吉備国の児島湾口を指すと考えられる。岡山県岡山市東区水門町には、珍彦(宇豆毘古命、うづひこのみこと)の乗った大亀の化身とされる亀岩を祀る亀石神社(かめいわじんじゃ)がある。
また、椎根津彦命を祭神とする神社には、兵庫県神戸市東灘区本山町の保久良神社がある。保久良神社由緒書によると「社名の起因も、椎根津彦命の子孫たる倉人水守等が祖先を祭祀し奉る、三韓役の戦利武器を収蔵するより」とあり、神武東征時速吸之門(明石海峡)に現れて軍勢を先導したとある。

椎根津彦命は保久良神社の南に位置する神戸市東灘区の青木(おうぎ)の浜に青亀(おうぎ)の背にのってこの浜に漂着したという伝承があり、それが青木(おうぎ)の地名の由来となった。

吉井良隆は保久良神社について「椎根津彦命は大阪湾北側を支配する海部の首長であったとされ、西宮夷(兵庫県西宮市西宮神社)の奥夷社の元宮」と推測している。

『先代旧事本紀』には、天津日高日子穂穂手見命の孫とある。 同じく『先代旧事本紀』に、彦火火出見損尊の御子で、鵜葺草葺不合命の次の武位起命が、大和国造の祖とあるが、 武位起命の御子だろうか。

私事だが、私のカミさんの母親の家は神戸市東灘区の青木にあったので、その地が話に出てきてビックリした。第二次大戦で焼け出されカミさんの母親が嫁いだ富山県の家にカミさんの祖母が移ってきてそのまま。
私は結婚してから、一度連れていってもらったことがある。


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宗像大社国宝展/出光美術館

20141126

この展示会には、実は10月7日に行った。
ところが、めちゃくちゃ忙しくなり、歴史クラブの記事をアップするのが精いっぱいで今まで置いておいた。
宗像大社にはとても関心があり、いずれ行こうと思っているお宮だ。
その前に、展示会が今回開かれたのはとても嬉しかった。

会場の出光美術館は、帝国劇場と同じ建物に入っている。
ただし、入り口はちゃんと専用の入り口だ。
地下鉄で行ったので、案内に従って進んでいくと帝劇の地下レストラン、ショップのところに入った。
ところがそこからエレベーターで上がればいいと思ったら、一旦外に出て、専用入り口から入るのだった(笑)
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宗像大社のご神体「沖ノ島」は玄界灘に浮かぶ絶海の孤島。
古代祭祀の遺跡から出土した八万点が全て国宝になっている。
海の正倉院と言われる由縁である。
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今回どうしてもこの展示会に行きたいと思ったのは、事前に入った情報で、鎌倉時代初期の制作年代も明らかになっている狛犬が出展されていることがあった。
だから入場して、すぐにそこに飛んで行った。

【石造狛犬 一対】
中国・南宋時代 建仁元年(1201)奉納
宗像大社

奉納されてからずっと室内に置かれていたものとみえ、ピカピカ、ツルツルで、すこぶる綺麗な狛犬だった。
それぞれ一塊の石灰岩から台座ごと掘り出されている。

阿形
子獅子を抱く
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吽形
玉を持ち、玉についたリボンを口に咥えているデザインが秀逸。
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背中に「奉施入宗像宮第三御前宝前、建仁元年 藤原支房」と銘が彫りこまれている。
宗像大社に奉納するため、南宋に作らせたことがはっきりしている。
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福岡県宗像市に所在する宗像大社は、沖ノ島に鎮座する沖津宮、宗像市の離島大島に鎮座する中津宮、本土の宗像市田島に鎮座する辺津宮からなり、神津宮に田心姫神、中津宮に瑞津姫神、辺津宮に市杵島姫神をお祀りしている。
 この三柱の神、宗像三女神の誕生については『古事記』『日本書紀』に五つの所伝がある。伝承の仔細は各所伝で異なるが、いずれも天照大神に対して素箋鳴尊が邪心の無いことを誓う「誓約」により誕生したことを伝えている。誕生の場面に続いて、『日本書紀』神代巻第一の一書には、天照大神が宗像三女神に対して「海北道中」(九州北部から朝鮮半島へ至る玄界灘)に降臨して、歴代の天皇を守護し歴代の天皇から崇敬をうけるようにと
の神勅を下したこと、書紀の本文には、三女神が宗像地域(福岡県宗像市、福津市一帯)を本拠とした在地首長「胸肩君」から奉斎される神であることを伝えている。ここから、大和朝廷が、記紀編纂の以前から、朝鮮半島や中国大陸へと導く玄界灘を要地としでとらえ、その海を渡る航海技術を有す宗像一族や宗像三女神への信仰を重視していたことがうかがえる。

宗像大社に掲げられている神勅額
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【宗像三女神画賛】
仙厓 江戸時代
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沖ノ島の祭祀跡は、時代とともに変化している。
1) 岩上祭祀(4世紀後半から5世紀)
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2) 岩陰祭祀(5世紀後半から7世紀)
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3) 半岩陰・半露天祭祀
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4) 露天祭祀(8世紀から9世紀)
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【三角縁四神文帯二神二獣鏡】
銅鏡がたくさん出展されていたが、その中から一番気に入った一つを。
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【金製指輪】
朝鮮・新羅時代(三国時代)
七号遺跡出土
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古墳時代の飾り馬具は、さきたま古墳群から出土したものを見ているが、こんなに完全できれいなものは、なかなか無い。

【金銅製杏葉付辻金具、金銅製辻金具、金銅製鉸具付杏葉】
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【金銅製歩揺付雲珠】
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どんなところに使われているのかの説明は、これを見てもらえばわかる。

伊勢神宮遷宮の都度製作される「鶴斑毛御彫馬」
月読宮御料
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【三十六歌仙図扁額】
奉納:福岡藩第三代藩主黒田光之
絵:狩野安信
36面全部が並べられているのは壮観でした。
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観終わって、ロビーで休憩。
皇居が見渡せる、絶好のポジションですね。
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桜田門
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手前に大楠公銅像、奥にちょっと二重橋が。
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(了)


柿本人麻呂 (かきのもと の ひとまろ)/日本の神々の話

20141124

大正元年に発行された「埼玉縣下 諸社祭神御事厯」という本に載っていて、柿本人麻呂は神なの? 
と思ったが、川越氷川神社掲内にわりと大きな柿本人麻呂神社があることを思いだした。
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直系の子孫である、綾部家が戦国時代に川越に移住してきたことから祀られるようになったようです。
学問・歌道の神様だけでなく、安産・火防の神様としても古くから信仰を集めているそうです。

以下はWikpediaによります。
斉明天皇6年(660年)頃 - 養老4年(720年)頃)、飛鳥時代の歌人。名は「人麿」とも表記される。後世、山部赤人とともに歌聖と呼ばれ、称えられている。また三十六歌仙の一人で、平安時代からは「人丸」と表記されることが多い。
柿本氏は、孝昭天皇後裔を称する春日氏の庶流に当たる。人麻呂の出自については、父を柿本大庭、兄を柿本猨(佐留)とする後世の文献がある。また、同文献では人麻呂の子に柿本蓑麿(母は依羅衣屋娘子)を挙げており、人麻呂以降子孫は石見国美乃郡司として土着、鎌倉時代以降益田氏を称して石見国人となったとされる。いずれにしても、同時代史料には拠るべきものがなく、確実なことは不明とみるほかない。
経歴:
彼の経歴は『続日本紀』等の史書にも書かれていないことから定かではなく、『万葉集』の詠歌とそれに附随する題詞・左注などが唯一の資料である。一般には天武天皇9年(680年)には出仕していたとみられ、天武朝から歌人としての活動をはじめ、持統朝に花開いたとみられることが多い。ただし、近江朝に仕えた宮女の死を悼む挽歌を詠んでいることから、近江朝にも出仕していたとする見解もある。
賀茂真淵によって草壁皇子に舎人として仕えたとされ、この見解は支持されることも多いが、決定的な根拠があるわけではない。複数の皇子・皇女(弓削皇子・舎人親王・新田部親王など)に歌を奉っているので、特定の皇子に仕えていたのではないだろうとも思われる。近時は宮廷歌人であったと目されることが多いが、宮廷歌人という職掌が持統朝にあったわけではなく、結局は不明というほかない。ただし、確実に年代の判明している人麻呂の歌は持統天皇の即位からその崩御にほぼ重なっており、この女帝の存在が人麻呂の活動の原動力であったとみるのは不当ではないと思われる。後世の俗書では、持統天皇の愛人であったとみるような曲解も現れてくるが、これはもとより創作の世界の話である。
『万葉集』巻2に讃岐で死人を嘆く歌が残り、また石見国は鴨山での辞世歌と、彼の死を哀悼する挽歌が残されているため、官人となって各地を転々とし最後に石見国で亡くなったとみられることも多いが、この辞世歌については、人麻呂が自身の死を演じた歌謡劇であるとの理解や、後人の仮託であるとの見解も有力である。また、文武天皇4年(700年)に薨去した明日香皇女への挽歌が残されていることからみて、草壁皇子の薨去後も都にとどまっていたことは間違いない。藤原京時代の後半や、平城京遷都後の確実な作品が残らないことから、平城京遷都前には死去したものと思われる。
歌風:
彼は『万葉集』第一の歌人といわれ、長歌19首・短歌75首が掲載されている。その歌風は枕詞、序詞、押韻などを駆使して格調高い歌風である。
また、「敷島の 大和の国は 言霊の 助くる国ぞ まさきくありこそ」という言霊信仰に関する歌も詠んでいる。長歌では複雑で多様な対句を用い、長歌の完成者とまで呼ばれるほどであった。また短歌では140種あまりの枕詞を使ったが、そのうち半数は人麻呂以前には見られないものである点が彼の独創性を表している。
人麻呂の歌は、讃歌と挽歌、そして恋歌に特徴がある。賛歌・挽歌については、「大君は 神にしませば」「神ながら 神さびせすと」「高照らす 日の皇子」のような天皇即神の表現などをもって高らかに賛美、事績を表現する。この天皇即神の表現については、『記紀』の歌謡などにもわずかながら例がないわけではないが、人麻呂の作に圧倒的に多く、この歌人こそが第一人者である。また人麻呂以降には急速に衰えていく表現で、天武朝から持統朝という律令国家制定期におけるエネルギーの生み出した、時代に規制される表現であるといえる。
恋歌に関しては、複数の女性への長歌を残しており、かつては多くの妻妾を抱えていたものと思われていたが(たとえば斎藤茂吉)、近時は恋物語を詠んだもので、人麻呂の実体験を歌にしたものではないとの理解が大勢である。ただし、人麻呂の恋歌的表現は共寝をはじめ非常に性的な表現が少なくなく、窪田空穂が人麻呂は夫婦生活というものを重視した人であるとの旨を述べている(『万葉集評釈』)のは、歌の内容が事実・虚構であることの有無を別にして、人麻呂の表現のありかたをとらえたものである。

柿本人麻呂像
宗像大社辺津宮内陣「三十六歌仙図扁額」のうちから。
奉納:福岡藩第三代藩主黒田光之
絵:狩野安信
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ウォーキング

20141124

忙しくて中断していた、毎日一時間ウォーキングを昨日から再開しました。
昨日は入間川べりを歩いた。
この辺は、大きく蛇行して、勝手に幾筋かの流れになっているので、歩いて向う岸まで渡れそうだ。
こんど試してみよう。
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両岸はすっかり草もみじ。
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天気が良くて、ちょっと風があったので、風紋がきれいだった。
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今日は、歩きながら「秋の色」を撮りました。

見事な赤
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家の近くの広場の、紅葉と黄葉。
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明治神宮&新宿・江戸六地蔵など(2)

20141122

17日(月)に歴史クラブ行事で明治神宮の参拝の次に向かったのは「太宗寺」です。
足の弱い方も参加しておられるので、「神宮前」から「新宿三丁目」まで地下鉄で移動しました。

【太宗寺】
浄土宗・太宗寺は1596年頃(慶長年間)甲州街道の道筋に「太宗」と称する僧の庵として造られた、「太宗庵」を始まりとします。時の領主の徳川家重臣・内藤正勝公(内藤家5代)の厚い信望を得るようになりました。
寛永6年、正勝公の逝去の際、葬儀万端を取り仕切った太宗庵主は以降、内藤家との仏縁を一層深めることとなり、寛文8年、内藤家8代・重頼公より寺領として、7396坪の寄進を受け、さらに庵の規模を拡大して寺門に変え、寺号には庵主の名を冠して「太宗寺」とするに至りました。
また当時、大木戸一帯の地が、霞ヶ関と称されていたので「霞関山」を山号にし、尊信者・正勝公の法名「本覚院」を院号に拝受し、「霞関山・本覚院・太宗寺」として誕生しました。
太宗寺の前の道は鎌倉街道中道でした。甲州道中道と鎌倉街道が交差するこの一帯を内藤清成が陣を敷き、天正18年(1590)の徳川家康の入府を安全なものとしました。この功によって内藤家は広大な領地を拝領したのです。
 しかし、昭和20年5月25日の空襲で火災に見舞われ、大きな被害を受けてしまいます。現在は、本堂・不動堂・閻魔堂・墓地などのみが残るだけです。

境内図
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○江戸六地蔵(甲州街道)
境内の入り口に、大きなお地蔵様が鎮座しています。これは、街道沿いに置かれた江戸六地蔵と呼ばれるお地蔵様の一つです。このお地蔵様に旅の安全を願って、旅人は江戸を出発したと伝えられています。
品のある美しい顔立ちの仏様に悪戯っ子の夏目漱石は幼少のころ、よくよじ登って遊んでいました。

漱石は明治4年(1871)、4歳のころ、この付近の妓楼(ぎろう)「伊豆橋」に住んでいました。
   ― 道 草 ― 夏目漱石
「健三は時々薄暗い土間へ下りて、そこからすぐ向こう側の石段を下りるために馬の通る往来を横切った。彼はこうして仏様へよじ上った。着物の襞へ足を掛けたり、錫杖の柄へ捉まったりして、後から肩に手が届くか、又は笠に自分の頭が触れると、其先はもうどうする事も出来ずにまた下りて来た。」
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太宗寺の本堂は、ずいぶんとモダンな建物になっていました。
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○閻魔堂
江戸六地蔵の左手に朱の柱の閻魔堂があります。扁額「閻王殿」は第12代将軍徳川家慶の嘉永3年(1850),清国の官使「秋氏」が寄進したものです。
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都内最大5m50cmの閻魔像「内藤新宿の閻魔さま」は、杉並区松ノ木にある華徳院、豊島区西巣鴨の善養院と並んで「江戸三大閻魔」の一つとして信仰されています。江戸庶民の信仰を集め「薮入り」には縁日が出て大いに賑わったといいます。毎年7月15日、16日のお盆には閻魔堂が開扉され、曼荼羅、十王図、涅槃図の公開が行われています。怖い奪衣婆(だつえば)像も横にあります。
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○不動堂
不動堂には江戸時代の作とされる三日月不動明王が安置されています。縁起によると「弦月の遍く照らし、大空をかける飛禽の類に至るまで遍く済度せん」と尊像の頂に三日月を載せています。不動明王は武州高尾山に安置するために甲州街道を運搬されて、太宗寺で休憩をとったところ、不動明王が重くなり盤石のごとく微動だにしなくなりました。運搬を任された者は以前に霊夢を観たこともあって、このことから太宗寺こそ鎮座すべき有縁の地であるとして、御堂を建立したと伝えています。
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三日月不動明王
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三日月不動明王の前に、新宿山之手七福神の布袋尊が安置されています。
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○塩かけ地蔵
イボ取りの願かけをしたら、お地蔵さんを被っている塩をいただいて帰り、患部によく塗りこみます。イボが取れたら、塩を倍返しにしてお礼参りをするのです。
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お地蔵さんのお顔もよくわからない。
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○切支舟灯籠 
昭和27年(1952)に内藤家墓所から出土した織部型灯籠の竿部分(脚部)で、現在は上部の 笠・火袋部分も復元し補われています。石質は白みがげ石で、江戸時代中期の製作と推定されてい ます。切支丹灯籠は江戸時代、幕府のキリスト教弾圧策に対して、隠れキリシタンがひそかに礼拝 したとされ、織部型灯籠(安土桃山~江戸初期の大名・茶人古田織部が好んだ灯籠)の全体の形状 は十字架を、竿部の彫刻はマリア像を象徴し、マリア観音とも呼ばれます。
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○内藤家の墓
墓地の一番奥にあります。
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説明を読んで、唖然としました。
東京都の区画整理事業で、300坪あった、内藤家の57基あったものが、わずか3基にまとめられ、本当に小さな墓地になってしまっていました。
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内藤正勝の墓
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太宗寺を出て、靖国通り沿いにある「正受院」に向かいました。

【正受院】
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○奪衣婆(だつえば)像
奪衣婆とは、三途の川のほとりで、死者の衣類をはぎ取る老婆のことです。江戸市民には子供の虫封じやせき止めに霊験があるとして、高い評判を得ていた像です。
正受院の奪衣婆像は、咳止めや子どもの虫封じに霊験ありとされ、お礼参りには綿を奉納する習慣があった。幕末には、奪衣婆像に関して「正受院に押し入った泥棒を霊力で捕らえた」「綿に燃え移った火を自ら消し止めた」といった噂が広まり、嘉永元年(1848年)の年末から翌年にかけては参詣客が正受院へ押し寄せる騒ぎとなった。歌川国芳などにより、綿をかぶった姿の奪衣婆を描いた錦絵が多数発行され、現存している。あまりに盛況であったため、寺社奉行により制限を受け、正月と7月16日以外の参詣が禁じられた。
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「子育て老婆尊」と書いてありましたね。

○平和の鐘
正受院の梵鐘は、昭和17年(1942年)に太平洋戦争による金属供出のため失われたはずであった。しかし、戦後になってアメリカ合衆国のアイオワ州立大学内海軍特別訓練隊が所有していることが判明。昭和37年(1962年)には正受院へ返還された。このため、正受院の梵鐘は「平和の鐘」と呼ばれており、現在でも大晦日には除夜の鐘を響かせている。
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○針塚
横には小見外次郎さん(和裁で唯一の人間国宝になった人だそうです)の胸像。
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【成覺寺】
以下の説明は、下見に行った際にお寺の方から詳細な説明文書をいただき、それに基づき書いています。

成覺寺は、新宿で働いていた遊女の投げ込み寺です。
この宿場町の繁栄の陰にいわゆる飯盛旅龍と呼ばれた遊女屋があり、そこで飯盛女として働かされていた女の人々(宿場女郎)が薄幸のうちに若い命を散らしたあと、投げ込むように葬られた寺が俗に云う投げ込み寺で、宿場町にはどこにもそういう寺がありました。
葬られた遊女の大半を十六歳から二十三歳がしめているといいますから、哀れですね。
ちなみに、吉原には浄閑寺・西方寺、品川は海蔵寺、千住は金蔵寺、板橋は文殊院が挙げられます。
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みな江戸時代の年号が刻まれている。
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○子供合理碑
投げ込み寺のシンボルと云うべきものに子供合理碑があります。子供とは遊女のことをさし、万延元年(1860)地元の旅籠屋仲間が協力し造ったもので、多くの遊女を葬った共葬地(共同墓地)に建てられたいわば遊女たちをまつる供養碑です。
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○旭地蔵について
寛政十二年(1800)造立。
地蔵の下の円柱の台石に男女の戒名十九霊が刻まれてています。建立者は台座左側面の記載から地元の旅龍屋茶屋の有志が建立したことがわかる。この地蔵尊はもと新宿追分の南、玉川上水べりの北岸にあったが明治十二年七月成覚寺に移されてきたもの。
台石に彫られた十九人の戒名を寺の過去帳に照合すると一人戒名を除く七組の人々はすべて心中者だそうです。
旭という名称は暗黒の地獄を旭のごとき慈悲の光で救い取ろうとする祈願が込められていると察せられます。            
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○恋川春町の墓
恋川春町は江戸文学史上有名な金々先生栄花夢(きんきんせんせいえいがのゆめ)に始まる黄表紙を最初に書いた戯作者として最もよく知られた人物で、その多芸多能な側面は画家として浮世絵風の筆致をもって、専ら挿絵画家として多くの黄表紙に作品をのこし、さらに狂歌では酒上不時(さけのうえの ふらち) の号で名を馳せ、亀長の名で俳語を楽しむなどが伝えられ、極めて傑出した文人の一人として語られています。
恋川春町は本名を倉橋寿平といい、駿河小島藩1万石の家臣で百二十石取り、重要な藩政に責任を持つなど立派に活躍しました。
春町は当時の戯作者がそうであったように、普段日常はきちんとした正業(侍)を持ちながら余戯を楽しむところがあり、学問の素養を生かし、それまでの子供相手の異本・青本といった絵本の型に趣向を違え、世の事象を皮肉ったり風刺したり、当世風の酒落や滑稽を主に責任のない遊びの小説をつくつたもので、これが黄表紙として流行をきわめたものであります。

春町の死については寛政元年(1789)一月に著した「鶉鵡返文武二道」 (おうむがえしぶんぶふたみち)が幕府老中松平定信の政治を風刺したとされ出頭を命じられたが病気を理由に応じず、四月に御役御免を願い出て許され、七月に四十六才で没す、と滝沢馬琴の著作に記されています。このことで自殺のうわさもありました。
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春町の辞世 (墓石の左側面)    「生涯苦楽四十六年 則含脱却浩然帰天
   我も万た身はなきものとおもひしが 今はのきははさ此しかり鳧(かも)」
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○白糸塚
白糸塚は江戸から明治大正昭和と芝居や八木節で有名な鈴木主水・白糸ゆかりの供養碑です。
「武江年表」の嘉永五年(1852)に次の通り記されております。
「猿若町市村羽左三門が芝居にて享和の頃青山辺なる鈴木主水という武士、内藤新宿の賎妓白糸と共に情死せしこと俗謡に残りしを狂言にしくみ興行しけるが、殊の外繁昌しければ俳優二代目坂東秀佳内藤新宿北裏通り成覚寺へ白糸の墳墓を営みたり」。
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碑の表面には右に白糸塚、その左に小さく「すえの世も結ぶえにしや糸柳」と自作の句を供え、嘉永子のとし二代目志うかと彫ってあります。
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これが史実であるか多くの方が調査しましたがはっきりせず、伝説と言うことになっております。しかし武士と遊女の心中という稀有が大衆の耳目を引いたからこそ俗謡に仕立てられており、これと似かよった事件を素材としたと考えられます。成覚寺の過去帳からただ一件、文化十年(1813)十月二日大黒屋での心中があり、戒名から武士と庶民であり、添え書きから二十五騎(町名)の吉田を名乗る与力衆の身内であったと思われます。

鈴木主水口説(くど)き):
花のお江戸の そのかたわらに 世にも珍し 心中話
ところ四ツ谷の 新宿町に 紺ののれんに 桔梗の紋は
音に聞こえし 橋本屋として あまた女郎衆の 白糸こそは
年は十九で 当世が育ち 愛嬌よければ 皆人さまが
我も我もと 名指して上がる わけてお客は どなたと聞けば
春は花咲く 青山辺の 鈴木主水と 言う侍は
女房持ちにて 二人の子供 五つ三つの いたずら盛り
二人子供の あるその中に 今日も明日もと 女郎買いばかり
見るに見かねて 女房のお安 ある日我夫 主水に向かい
私ゃ女房で 妬くのじゃないが 二人の子供は 伊達には持たぬ
十九二十才の 身じゃあるまいに 人に意見を する年頃で
やめておくれよ 女郎買いばかり 金のなる木は 持ちなさるまい
どうせ切れるの 六段目には 連れて逃げるか 心中するか
二つ一つの 思案と見える しかし二人の 子供が不憫
二人子供と わたしの身をば 末はどうする 主水様よ
言えば主水は 腹立ち顔で 何とこしゃくな 女房の意見
己が心で 止まないものを 女房ぐらいの 意見じゃ止まぬ
(以下、延々と続きます)

○塚本明毅の墓碑
明治初期「日本地誌提要」をまとめ、また太陽暦への改暦を建白した人。
篆額は榎本武揚
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これで、今日の予定が全て終了。そのまま靖国通りを歩いていき、西武新宿駅から帰途につきました。

(了)


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明治神宮&新宿・江戸六地蔵など(1)

20141120

17日(月)に歴史クラブ行事で行きました。
行ったのは明治神宮、太宗寺(江戸六地蔵など)、正受院(奪衣婆)、成覚寺(新宿遊女投げ込み寺)です。

JR山手線原宿駅を降りると、神宮橋(跨線橋)。
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渡ると一の鳥居が。
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所在地:東京都渋谷区代々木神園町1番1号

明治神宮は、明治天皇と昭憲皇太后を御祭神とする神宮である。
面積約70万平方メートルの境内はそのほとんどが全国青年団の勤労奉仕により造苑整備されたもので、現在の深い杜の木々は全国よりの献木が植樹された。また、本殿を中心に厄除・七五三などを祈願を行う神楽殿、「明治時代の宮廷文化を偲ぶ御祭神ゆかりの御物を陳列する」宝物殿、「御祭神の大御心を通じて健全なる日本精神を育成する」武道場至誠館などがある。
明治天皇は崩御後、京都の伏見桃山陵に葬られたが、東京に神宮を建設したいとの運動が天皇を崇敬する東京市民(当時)から起こり、1914年(大正3年)になると天皇に縁の深かったこの地への神宮建設が決定した。造営は翌1915年(大正4年)から開始され、全国から13,000人もの国民が労力奉仕に自発的に参加した。鎮座祭は、1920年(大正9年)11月1日に行われた。
22万坪(約73ヘクタールに及ぶ広大な神域は、江戸時代初めには肥後藩藩主・加藤家の別邸であり、寛永17年(1640年)より彦根藩藩主・井伊家の下屋敷となっていたもので、この土地が1874年(明治7年)、買い上げられて南豊島御料地となっていた。
明治神宮は2010年(平成22年)現在、初詣では大晦日から正月三が日の間で300万人前後にものぼる日本一の参拝者を集めることでも知られる。

明治神宮は広い。
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深い森の中、広い砂利の参道が続きます。
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神橋
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清正の井から湧き出した水が、神宮御苑を潤して流れてきている。
いまは渇水期か、ほとんど水が無い。
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「代々木の」の地名の由来となった樅の木。
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日本酒の奉献も桁外れの量です。
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反対側には葡萄酒樽の奉献も。
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日本最大の木造大鳥居
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ものすごく長い箒で清掃していた。
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菊花展
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参道が直角に曲がっているところに、明治天皇と昭憲皇太后の御製の歌が掲示してあった。
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曲がると、三の鳥居が見える。
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手水舎の向かいには舞台らしきものがある。
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手水舎
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神門
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神門の内側には、笠間稲荷神社からの奉献菊花が。
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神門から外拝殿の間には広々とした広場が。
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外拝殿
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内拝殿
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明治天皇と昭憲皇太后を祭神としています。

外拝殿右手前の楠の周りには、たくさんの絵馬が提げられている。
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外拝殿の左手前にある2本のご神木「夫婦楠」(めおとくす)は、縁結び、夫婦円満、家内安全の象徴となっている。
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授与所の上には大きな破魔矢が。
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神楽殿
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神楽殿で、祈願、結婚式が行われているので、新郎新婦の姿が。
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これは下見の時に撮った写真。
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七五三の親子もたくさん居ました。
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神宮御苑に入りました(有料500円)。

隔雲亭
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御釣台から南池を。
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菖蒲田は、その季節には綺麗なことでしょう。
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四阿
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いよいよ清正井にやってきました。
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帰りはつつじ山を通りましたが、なんとツツジが咲いていました。
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これで、明治神宮の参拝は終り、文化館のところにあるレストランで、昼食・休憩。
それから次の目的地である、甲州街道の江戸六地蔵がある「大宗寺」に向かいました。


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河越流鏑馬

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11月16日(土)に国指定史跡河越館跡において、流鏑馬が行われました。
今年は歴史クラフの行事として、希望者と一緒に観にいきました。
場所は、東武東上線「霞が関」駅から徒歩15分ほど。

河越館について簡単に説明しますと、河越太郎重頼は1180年源頼朝に臣従し、鎌倉幕府創立に大きく貢献しました。1184年、重頼の娘京姫は頼朝の仲人で源義経に嫁ぎますが、奥州で頼朝の命により義経が討たれたとき、義経の縁者との理由により謀殺されました。
河越一族については、所領は安堵され重頼の子重時、重員は鎌倉幕府の御家人として鎌倉北条氏に仕えたということです。

昨年よりも人出が多く、私たちが会場に着いたときには、もう既に馬場には沢山の人が場所取りをしていました。
私たちも、思い思いの場所で場所とり。
私はなんとか最前列を確保しました。

的が3ケ所ありますが、私の陣取った位置は、一の的と二の的の間で、二の的に近いところでした。

行列がやってきて、民俗芸能「鯨井の万作」が披露されます。
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「天地人三才の儀」
天に向かって矢を射り、お祓いをします。
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いよいよ流鏑馬の開始です。
使用する馬は全て日本古来の「和駒」です。
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プログラムは次のようになっている。
・扇舞の儀
・騎馬術演武
・流鏑馬

カメラの動画機能を用いて動画を撮りました。
そのなかから、見どころを「天地人三才の儀」から並べて、ダイジェストにまとめ、
ユーチューブにアップしました。

ユーチューブを見る


的に当たると、「カンッ」と気持ちのいい音がして、真っ二つに的が割れます。
これが見ていてたまりませんね。

この動画で、二番目に映っている射手はなんと中学生の女子。三つの的すべてに的中という素晴らしい成績でした。
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流鏑馬が全て終わって、満足した気持ちで見ていると、的を運んでいるのが目に留まりました。
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そして、一緒に行った仲間が「当たった的を配っているよ」と教えてくれたので、
さっそく縁起物として、いただいてきました。
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流鏑馬は、見ていてとても興奮するものですね。
動画は、アッという間に駆け抜けていくので、撮るのは大変でしたが、二度目ということで昨年よりはよく撮れたと思います。
一緒に行った皆さんも、満足してくれたみたいなので、案内して良かった。

(了)


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旭町・峰・田中地区史跡めぐりウォーキング/地域連携活動・旭町自治会

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これは、旭町自治会が企画し、歴史クラブが支援して行いました。
歴史クラブから4名がガイドとして参加し、私も2ケ所をガイドしました。

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実施したのは、11月9日(日)でしたが天気予報が思わしくなく、やきもきしましたが天気にめっぽう強い方のご託宣で実施することになり、結果多少パラパラッと一度降っただけで、逆に歩きやすい天気でした。

コースです。
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参加者が54名とたくさんだったため、2つのグループに分け、最初の「市場の荒神さま」まで全員で行き、そこから分かれて、一方は逆回りのコースとなりました。

Aグループ(順コース)
① 市場の荒神さま (三柱神社)
② 天岑寺
③ 小笠原家墓所
④ 清水濱臣の墓
⑤ 田中稲荷神社
⑥ 亀にのる石碑
⑦ 岩船地蔵
⑧ 峰愛宕神社

企画担当が池田さんなので、やはり登場しました(笑)
明治14年の陸軍測量地図。通称「フランス式地図」です。
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集合場所の自治会館で準備体操をした後で歩き出しました。
やはり54名というのは壮観でした。
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【市場の荒神さま (三柱神社)】
伝承では加藤清正の末裔加藤太郎左衛門が三宝荒神を祀ったとされている。
江戸時代に養蚕農家から蚕の守り神として信仰された。例大祭には養蚕に必要な諸道具の市が立った。
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【天岑寺】
戦国時代の文禄3年(1594)に天海盛呑によって開山、開基は徳川家旗本の小笠原安勝。曹洞宗。

惣門
火災から逸がれ、唯一創建当時の建物。
沖縄風の洋式が漂う総ケヤキ造りの四脚門。天に通じる門という意味の「通霄関(つうしょうかん)」の扁額がかけられている。
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月待供養塔
「月待」とは十三夜・十五夜・二十三夜など特定の夜に村人が集まり、月の出を待ってこれを拝む行事。
この供養碑は、武蔵型板碑で阿弥陀三尊来迎図が刻まれている。
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【小笠原家墓所】
小笠原家は、徳川家康の関東入国に伴い、三河国からやってきた戦国武将小笠原安勝が初代。安勝の父安元の法名「天岑紹恩」から「天岑寺」の寺号となっている。以降12代にわたる家族の石塔43基が安置されている。
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【清水濱臣の墓】
江戸時代に江戸で生まれた国学者。松平定信の命により徳川家斉に御前講義を行うなど高名で、著書も130冊にのぼる。狭山市に墓があるのは、彼の父親が江戸に出る前当地で医者をしていたから。
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【田中稲荷神社】
小笠原家の奉納。本殿の厨子の中の神像は稲を担いで鎌を持った老翁の姿をしている。
その横の墓地には「カンカン地蔵」がある。
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【亀にのる石碑】
この亀のような姿をしているのは中国の伝説上の生き物「贔屓」で、龍の子供「龍生九子」の一つで重きものを担うのを好むといわれている。この石碑を負った姿から「贔屓の引き倒し」という日本の諺が生まれた。
石碑には2300余りの文字で「指月和尚」が11歳で仏門に入ってからの業績や人生訓が刻まれている。
所沢で寺子屋をやっていた沢田泉山という人が江戸時代に解読したといわれているが、読みだけが伝わっている。
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【岩船地蔵堂】
岩船地蔵とは栃木県岩舟にある高勝寺の地蔵菩薩で、岩船地蔵信仰が18世紀に急速に関東一帯に広まった。高勝寺の地蔵堂宮殿建設のための熱心な布教活動と各地の念仏信仰が結びついたもの。
左側には薬師堂があり薬師如来が祀られている。
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【峰の愛宕神社】
向かって右の拝殿が愛宕神社で、小笠原安勝が勧請したもの。本殿は拝殿の中にあり「杮(こけら)葺き」。各所に小笠原家の紋「三階菱」がある。
左側の拝殿は蚕影神社であり、蚕の守り神として信仰された。
境内には「疱瘡神」と「水天宮」の石祠もあり。
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これで、無事に終了し、スタート位置の自治会館で参加者の皆さんと一緒にお弁当を食べて解散となりました。
皆さんが書いてくれたアンケートを見せていただいたが、皆さん「楽しかった」、「分かり易かった」と書いてくれていたので嬉しかった。
次に希望する場所についても、ほとんどの方が2ケ所以上マークしてくれていたので、また参加してくれるのは確実だと思った。

今回好評だったので、旭町自治会では年に三回この催しを実施していくことになりました。
私ももちろん大賛成で、これからも参加させていただきたいと思っています。


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧入間川村(2)

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歴史クラブPグループのテーマ「新編武蔵風土記稿を訪ねる」で、10月28日に「旧入間川村」を舞台に、比較現地調査を行った続きの記事です。

参考にした「新編武蔵風土記稿」と明治14年測量の「フランス式測量地図」については、前記事を参照してください。

【菅原橋】
イオン駐車場奥、国道16号線脇の水神碑から、「菅原橋」にやってきました。
真っ直ぐ行けば駅の方に、右に行けば八幡神社方面の県道に、左に行けば市民会館です。
当時は、後述のとおり、幅9尺だった。
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「フランス式測量地図」で「C点」です。
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菅原橋は入間川村の石橋として郡村誌に記載があります。
「所澤道に属し村の北方赤間川の上流に架す。長三間幅九尺石造」

入間川村の石橋は調査結果によると、6箇所に有った。
石橋の規模など:江戸時代の武蔵国(内、埼玉県)の石橋は、全て桁橋である。
西国、特に九州によくある石造りのアーチ橋は皆無である。
強度と重量の関係で我々が思うよりずっと小さく、平均が長さ9尺、幅が6尺である。
桁石の最大長は約9尺:石材の強度と加工の限界からか、これを超える長さのものは、資料や現物からも見当たらなかった。
最長の石橋:橋脚となる石柱を真ん中に置いた三間のものが最長であった。但し、郡村誌には、長十間幅一丈の石橋が二つほど記載されている。
菅原橋の規模:入間川村の中心部の柏原街道に懸かる重要な橋であるため、石橋としては長三間と最大の部類に入る。

案内役の池田さんから、埼玉県内に現存する石橋の写真を見せていただいた。
何でも知っている池田さんには、実に敬服の至りです。

横からの菅原橋。
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橋上から赤間川を。
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赤間川:江戸時代の赤間川は菅原橋の下で分水石により内堀(現在の流れ)と外堀(左に分流)に分岐している。
外堀:明治14年地図では外堀の流れのみが認められる。分水石から、大きく東北に湾曲し旧堤防に沿って初めは堤外(入間川寄り)に流れ、市民会館北約50mで堤内に変わり、暫く堤防右に沿った後に田圃内を湾流し現在の流れになる。

「新編武蔵風土記稿」の記述
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【石橋供養塔】 菅原橋、赤間川
石橋供養塔:高さ87cm、幅36cm、台座高さ34cm、幅71cm
菅一自治会間前にあり、正面上部に浮彫馬頭観音坐像を刻む。右側面に「小沢忠右衛門」や「講中」などの文字を刻む。
安永10年(1781)3月に造立された。
かってはここから百mほど西南の赤間川にかかる菅原橋の直ぐ下流左岸袂(柏原街道右側)にあった。東北に面して立っていたが、橋の拡幅工事により現在地に移転した。
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赤間川に沿ってちょっと歩いて「D点」に。
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明治14年地図では大きく東北に湾曲していますが、下の写真のとおり現在はそのまま直進しています。(右端に見えているのが、今の赤間川)
直進している道は市民会館に出ます。
左に入っていく道が、旧堤防でエグサステニスコート前を通る道。
その道の左側の側溝が、明治14年地図での赤間川の名残です。
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明治14年地図での赤間川の名残
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【霞野坂】
現在の赤間川に沿って「E点」まで来ました。
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Eの字の場所が、現在市民会館がある場所です。
ここから、Tの字に町の方に上がっていく点線の細い道がありますが、現在の「霞野坂」です。
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現在、国道16号線から入って市民会館の前を通り、駅西口に通じる重要な道は、明治中期までは踏跡程度でした。

【滝祇園】
「霞野坂」の上り口の左側、現在の市民会館南東のハケ(低地)一帯が「滝祇園」という地名でした。
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「新編武蔵風土記稿」に「滝祇園」が載っています。
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ここで、牛頭天王社牛頭天王があったところを瀧祇園と云ったことがわかります。
その後に成圓寺境内に遷座。
明治14年地図で、成圓寺のあった場所に「鳥居:牛頭天王」がある。
下図で「F点」の上に鳥居がある。
郡村誌に:「平社 社地東西五十間 南北十九間 面積九百七十四坪 七合村の中央に有り…‥」
成圓寺を合わせたものか判らぬが、徳林寺や慈眼寺と粗同じ面積である。

そして、明治初めに成圓寺が廃寺となり八幡社境内に遷座した。
下図で、最初「E点」の南東にあったものが、「F点」の鳥居の場所に移り、更に「G点」の八幡神社境内に移り、現在は「八坂神社」となっている。
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【天満天神社】
一番街にある、「天満天神社」が「新編武蔵風土記稿」に載る天神社である。
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境内の由緒書きにも、その説明がある。
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「天満天神社」にきちんと参拝したのは初めてだった。
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【徳林寺】
山門の前あたりが、「新編武蔵風土記稿」に載る小名「根曲輪」という地名だった。
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「新編武蔵風土記稿」に載る「徳林寺」
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徳林寺の写真は省略するが、「新編武蔵風土記稿」で開基とされる「小沢主税」のお墓が徳林寺墓地の一番高みにある小沢家墓地にあるのを今回知った。
真ん中が「小沢主税」のお墓碑
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【綿貫家墓所】
綿貫家は江戸時代栄えた豪商で、「西の鴻池・東の綿貫」と言われたほど。しかし、幕府の要人などに巨額の貸し付けをしていたため、徳川幕府の崩壊と運命を共にし没落した。
狭山市駅西口開発の為、駅前から当不動尊に移転されたそうで、案内役の池田さんから過去の墓地の姿を写真などで説明を受けた。

現在の墓所
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最も古い墓標
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【福徳院不動堂】
当不動尊は綿貫家代々の守本尊とされており、二代目孫兵衛は篤く信仰し成田山に多額の寄進を行うほどで、成田山新勝寺は彼の篤信に感銘を受け不動明王の尊像を造り開眼のうえ綿貫家に授与したと伝えられている。
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たまたま、何かの工事をしていて中を見ることが出来、初めて本尊を拝観した。
新しい本尊と、その前に小ぶりの不動明王が安置されている。
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成田不動尊の大護摩法要の浄灰で作られたという最初の本尊は、本堂の真上の天井裏に安置されているとのことなので、手前の小ぶりな像はその模像であろうか。

【成圓寺跡地と祇園坂】
「新編武蔵風土記稿」記述
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明治14年地図では、「F点」にあった。
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消え去った理由:
比較的大きな寺であるが、修験でありかつ修験は檀家を持っていなかったこと、大旦那である綿貫家が没落したこと、が主な理由と考えられる。

中央図書館の建物の横から見える高台の上が成圓寺の跡地。下の道が以前は「祇園坂」だったが、現在は西口開発で変わってしまった。
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高台の上が成圓寺の跡地で、下はもと「祇園坂」、今は西口市民広場。
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「新編武蔵風土記稿」に見る「祇園坂」の記述。
牛頭天王の社の流転については、先述のとおり。
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【旧成圓寺歴代住職墓所】
所在地は入間川2の6の22付近。「入間川東小」近くにある第2甲田ビル西隣の墓地最奥にある。
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この場所は、旧成圓寺最後の住職で八幡神社の宮司になった青田義寛家の墓所(現八幡神社宮司家)である。

高さ2メートル弱の宝篋印塔様墓石二基が並立している。
向かって右が延宝5年(1677)造立で、向かって左が天正9年(1581)造立である。
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ここでは、向かって左の墓石を紹介しておきます。
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概 要
・高2メートル強の宝篋印塔 向石塔と並立、南を向く。
・上から順に、宝珠・上請花・五輪・中請花・伏鉢・下請花・露盤・笠石・斗形・塔身・返花坐・基礎・台坐
・正面に金剛界五仏の種子を刻む。 但し、下請花に有ったであろう種子「ウン」は剥落により失われている。
 「宝篋印塔様墓石」の範疇に入る形をしているが、この種子の存在で宝篋印塔と判った。
 外見が宝篋印塔様墓石の「宝篋印塔」は、狭山市域では此の塔が唯一のものである。
・狭山市域最古の宝篋印塔である。
・剥落、破損が塔身下部と基礎上部にある。 「塔身」、「基礎」と「台坐」の摩耗が激しい。

由来など
・此の塔も向右塔同様、詳細不明であるが、塔身の銘文と墓誌、八幡神社縁起などから次の事柄が確認できる。
成園寺再興開基と請われる俊圓が、陵夷を補修し、成圓寺再興を果たした天正五年春から「数えで」五年目に当る天正九年春二月に、俊圓が亡くなった。
そして、その(去)春二月の後にこの宝篋印塔(墓?供養塔?) を造立した。

上から
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西武線の踏切を渡って、最後の目的地に行きます。
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【綿貫家東西碑】
この碑は、当初山下稲荷(謙受堂裏)にあり、その後市場の某氏宅、それから某氏関係施設。
現在は東口再開発真っ只中の工事事務所前に置かれている。
風聞では、中央図書館敷地内に置かれる予定とか。
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資料では下図のように彫られているそうで、現在は「東」の面のみ見ることができた。
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これで、今回の予定を全て終了し解散となりました。

今回は、案内役の池田さんが手持ちの貴重な資料を惜しげもなく提供してくださった。
本当に貴重なもので、浅学の私などは、ただただ驚愕するばかりでした。
いつもの事なのだが、いくら感謝してもし足りない気持ちでいっぱいです。


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧入間川村(1)

20141107

歴史クラブで、7月8日からスタートしたPグループのテーマは、「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」は、江戸時代に昌平坂学問所地理局による事業(林述斎・間宮士信ら)で文化・文政期(1804年から1829年、化政文化の時期)に編まれた武蔵国の地誌ですが、これに載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。

月一回の例会で、「新編武蔵風土記稿」を読み進んできましたが、今回初めて、10月28日に「旧入間川村」を舞台に、比較現地調査を行いました。
参考にしたのは、「新編武蔵風土記稿」と明治14年測量の「フランス式測量地図」です。

明治10年の西南戦争で戦闘用の地図に不足し、地図の必要性を痛感した参謀局は、明治13年に第一軍管区地方(関東地方)でフランスの地図図式に基づく2万分1迅速測図の測量事業を開始し、明治15年にその事業を終了しました。しかしながら、その後、地図作成を含む軍制全般がドイツ方式に移行されたため、「第一軍管区地方2万分1迅速測図原図」もドイツ方式の一色刷に書き直されました。その後の日本の地図は、ドイツ方式に拠っています。
「フランス式測量地図」は、倉庫で長い眠りについていた、この『第一軍管区地方2万分1迅速測図原図』を平成3年3月に復刻したものです。

江戸時代の地理を知ろうとするとき、江戸(東京)では絵図が作成され残されていますが、埼玉県となると使用に耐えうる絵図があまり無く、明治初期に作成された「フランス式測量地図」で、江戸末期の地理は解かるということで、大変ありがたいものです。

私たちが読んでいる「新編武蔵風土記稿」は、雄山閣版で、次のようなものです。
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二つ目の左下に、今回の最初の訪問地「石無坂」の記述があります。

「フランス式測量地図」はこのようなもの。
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当日、駅前からバスで少し乗って「住宅前」で降り、石無坂の途中にある庚申塔からスタートしました。
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【庚申塔と石無坂(いしなさか、いしんざか)】
お堂に入っているのが、六臂の青面金剛立像:寛政元年(1789)入間川村、願主惣村中、同行者是休です。
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文字塔の庚申塔::安政二年(1855)入間川村、願主が石田庄吉と原田幸吉。
文字塔左側面に「塔の向を直し其の後火災の 難なく奇異の旲験人の 伝虞なり」と彫られている。
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それから石無坂を下り、途中入間川富士浅間神社に寄ったが、説明の都合で後に回し、石無坂の起点まで下った。

石無坂:上諏訪から稲荷山にかかる坂で、扇町屋に至る八王子道の一つである。
この坂の左側の山林中に加治廣忠(武蔵七党の丹党の一族)の墓があったと伝わる。
語源:石の坂 → 石無坂
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真っ直ぐ行くと石心会病院、左が石無坂で稲荷山公園経由で入間市に向かいます。
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交差点に立つ坂標
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交差点に、風情ある古い商家の建物あり。
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【入間川富士浅間神社】
石無坂を戻っていくと、左手にあります。
資料では「三面六臂馬頭観音立像:寛政五年(1793)」があるようだが、写真は撮っていない。

富士塚は廃され、寄せ集めて祀ってあります。
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堂宇には、祭神の木花咲耶姫丸彫立像が祀られている。
台座に「日立講」の講紋があり。
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「大祖参神霊」碑
扶桑教の主斎神 「大祖参神おおみおやのかみ(天之御中主大神、高皇産霊大神、神皇産大神)」である。
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「小御嶽神社」碑
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いろいろな石碑が集められている。
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大山講碑と思われる「山神大山祇尊」碑もある。
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それから慈眼寺に向かいました。
その道筋で、現在と違っているところがあります。
明治14年測量の「フランス式測量地図」で、「A」の靑文字のところが八幡神社です。
あの急な石段が書かれていて、上下に鳥居が書かれています(下は赤く鳥居が書かれている)。
その横の道が、上の「B」の文字の下で枝分かれしています。「B」の文字のところが慈眼寺です。
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細いほうが中の坂で、江戸に通じる細道です。
太いほうが、「藤沢道」で慈眼寺の墓域を通っていきます。

現在の道
左が、かっての「中の坂」の細道ですが、現在は市役所前に通じる広い道。
右が、かっての藤沢道。
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【慈眼寺の墓地】
慈眼寺については、参加者の皆わかっているので、これまで見てなかった墓地の中にある石仏を教えてもらいました。

宝永7年(1710)建立の六地蔵
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墓地にころがっていた板碑
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【八幡神社】
先ほど、明治14年測量の「フランス式測量地図」で、八幡神社の急な石段の話をしましたが、現在のこの石段は享保12年(1727)に作られたものです。
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八幡神社については皆知っているので、境内社のなかで、流転の果てにここ八幡神社に落ち着いたお宮を説明しておく。

「琴平神宮」 
祭神:崇神天皇、由緒:鎮座は約三百年前で、成圓寺境内天王山にあった。
東小学校南高台が天王山とも云い、傍に旧成圓寺住職墓地があることから、成園寺は牛頭天王社(八雲神社)とこの琴平社を含めた、広大な敷地を持っていたと思われる。
成圓寺については、後述します。
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「八雲神社」
祭神:素戔嗚尊、由緒:旧地は瀧祇園で天王様として村の鎮守と伝わる。いつの頃からか成園寺に遷座し、その後、昭和になって八幡神社境内に遷座した。社殿は文政7年(1824)5月の建立である。
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皆一生懸命覗き込んでいたが、暗くて見えなかったと思う。
「入間川の天王様」のときに開いていて、撮ってあるので公開しよう。
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牛頭天王のお姿
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「大鷺神社」
祭神:保食(うけもち)命、明治四年市場が出来た。この市の守護神として、明治5年(1872)に建立された。最初は大通り、大正の終わり頃に入間川3丁目に移され、その後に八幡神社裏の旧鎌倉道といわれた道の土手上に祀られ、今は八幡神社境内に遷座。
「高良神社」
祭神:武内宿爾、由緒:寛政四年建立、各地の八幡社の境内に祀られる。医療、甲冑製作等を指導したと伝わる。
「甚兵衛大権現」
祭神:不明、由緒:滝祇園の中島氏の畑にあった。安政2年12月18日奉斎し、昭和33年8月遷座
「痘(もがさ)神社」
祭神:和津良比之宇斯命、由緒:天保年間に流行った天然痘に罷った母子が全快を祈って寄進したもの
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八幡神社を出て子ノ神社に向かいます。
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入間川村を通る3本の旧鎌倉道枝道の-つに入ります。
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【子ノ神社】
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祭神:大國主命、由緒:明治32年3月社殿再建寄付者芳名帳によれば、現在地に元亀3年(1572)の建立…・其後應永11年(1404)理由が判らないが旧慈眼寺境内に遷座とある。 

社殿
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失われた御神体の懸佛に刻まれた銘文を元亀と読み違えたか、時代の前後を間違えたか應永の100年ほど前の14世紀初め頃には、元□が付く年号がいくつか存在する。
旧慈眼寺境内にあった頃、應永23年(1416)銘鰐口があると、風土記稿が伝える。その後、寺火災の際に盗難にあって今は無い。
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この神社の遷座:言い伝えを含め、次の通り
現子ノ神辺り → 鷹永11年 旧慈眼寺 → 慶應元年(1865)旧慈眼寺火災 
→ 明治元年(1867)焼失 諏訪神社境内 → 社殿改築時に某氏持去 → 某氏悪疫に罷り 奥冨某家 
→ 奥富某家悪疫に罷り 諏訪神社仮宮 → 明治14年現在地に社殿再建、32年再々建

境内社:出雲神社(石嗣)
鰐口などこの神社の歴史を刻んである。
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【水神】
祭神:水神
柏原街道の現イオンの堤防脇(旧久星酒造裏)で国道16号線沿いにあり。
由緒:明治43年8月の関東大水害の際に入間川のこの辺りも破壊の危機に瀕したが、堤防近くの久星酒造が大量の米俵(お米が詰まったまま)を提供、これを堤防に積み、幸運にも被害を免れた。
水神に祈願して水害をなくすため、翌明治44年6月にこの水神碑を建立した。

*明治43年8月の関東大水害:利根川水系や入間川が属す荒川水系流域に多大な被害を及ぼした。各地に破堤修復碑、九頭龍大神、水神、切れ沼などがある。
また、大規模な河道の付替、横堤の建設や背割埴による合流点延伸などを行っている。

いつも買い物に来るイオン裏の駐車場の奥、16号線沿いである。
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旧堤防、現在は国道16号線
市民会館入り口の交差点からやってきて、
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坂を上りきれば、左折してイオンの前。
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水神碑
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青沼馬沼押比売神 ( あおぬまぬおしひめのかみ ). /日本の神々の話

20141105

青沼馬野押比売命ともいう。青沼馬野は地名で、押比売は大姫という意味があるという。
『古事記』に登場するのは、「4-5 大国主神の神裔」の段である。
(現代語訳)
 さてこの大国主神が、宗像の沖つ宮に鎮まる神の、多紀理比賣命を妻として生んだ子は、阿遅鉏高日子根(アヂスキタカヒコネノ)神、次に妹の高比賣命で、またの名を下光比賣(シタテルヒメノ)命という。この阿遅鉏高日子根命は、賀茂の大御神といっている。
 大国主神が、また神屋楯比賣(カムヤタテヒメノ)命を妻として生んだ子は、事代主神神である。
(中略)
この神が、葦那陀迦(アシナダカノ)神、またの名は八河江比賣を妻として生んだ子は、速甕之多気佐波夜遅奴美(ハヤミカノタケサハヤヂヌミノ)神である。この神が、天之甕主(アメノミカヌシノ)神の女の前玉比賣(サキタマヒメ)を妻として生んだ子は、甕主日子神である。この神が、淤加美神の女の比那良志比賣(ヒナラシビメ)を妻として生んだ子は、多比理岐志麻流美(タヒリキシマルミノ)神である。この神が、比比羅木之其花麻豆美(ヒヒラギノソノハナマヅミノ)神の女の活玉前玉比賣(イクタマサキタマヒメノ)神を妻として生んだ子は、美呂浪神である。この神が、敷山主神の女の青沼馬沼押比売(アヲヌウマヌオシヒメ)を妻として生んだ子は、布忍富鳥鳴海(ヌノオシトミトリナルミノ)神である。
(以下略)

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これらの家系三神の神名の由来は、よくわかっていないが、山⇒沼⇒海とあるところから、自然における上から下への流れを描いていることはわかります。

余談ですが、美呂浪神の三代前の神の后が前玉比賣である。この神は「さきたま古墳群」の中にある「前玉神社(延喜式内社)」の祭神である。
そして「前玉」から「埼玉」と字が変化して「埼玉県」となっているわけです。
この神裔からわかることは、「さきたま古墳群」を作り上げた豪族は「出雲族系」ということになります
100m前後の大型前方後円墳は、畿内でも大和地方を除くとそう多くなく、山陰、北陸、四国、東海地域ではほとんど築かれず、千葉・埼玉・群馬の関東地方に多いことがわかりました。
つまり古墳時代には、大和地方と関東地方が突出していたようです。

この神を祭神としている神社ですが、
本居宣長の『古事記伝』に、「武蔵国多摩郡の青渭神社に祀られている。」とあります。
その論社は三社あり、参拝して調べてみると、現在は以下のような祭神となっている。
青渭神社(東京都調布市深大寺元町5丁目17−10)は青沼馬沼押比売神を祭神としています。
青渭神社(東京都稲城市東長沼1054)は「青渭神」を祭神としています。
青渭神社(青梅市沢井3-639)は大国主命を祭神としているが、これは明治になってからこの祭神にしたのでは、と思われます。

また「青沼馬野」について本居宣長は、「甲斐国巨摩郡青沼と信濃国佐久郡青沼あり。」としているので、この二つの地域から出た姫の可能性があります。
この地域でも祀られている可能性があります。



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霞川の史跡を歩く(2)

20141104

10月24日(金)の続きです。
「龍円寺」から「根岸子育て地蔵尊」に向かいます。

途中道沿いにあった石仏
お地蔵様
お顔が実にかわいい。
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宝暦12年(1752)建立の庚申塔
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日本一の道標
この道標は、さきほど参詣した龍円寺に建つ北狭山茶場碑を教える道しるべです。
高さ5.2m、重さは20tもあります。
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【根岸子育地蔵】
小谷田の根岸にある根岸子育地蔵尊です。
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どんなお地蔵さんか調べましたが、数体あるがほとんどかたちが崩れてしまっている、という記事がみつかっただけでした。造立年号も不明。

地蔵堂
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境内にあった宝暦4年(1744)の宝篋印塔
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【豊泉寺(ふせんじ)】
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開基は小田原北条氏の家臣豊泉左近将監と伝えられる。
本堂の裏側に造られた禅宗式庭園で明治年間に地元根岸の庭師水村藤四郎(みずむらとうしろう)によって造られた。入間市を代表する本格的な禅宗式庭園。
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鐘楼
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これは狛犬でなく、獅子ですね。
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本堂
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本堂の前には龍の石像が。
平成に入って、この寺号の龍に因んで、拝殿前に一対の龍像が置かれたという。
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ちょっと変わったかたちの庚申塔
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武家屋敷を彷彿させる門もありましたが、これは江戸期以降の建築でしょうか。
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この門内に有名な庭園があります。
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なにかのお堂の前に、実に面白い編成の観音像(?)あり。平成4年作。
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狭山茶場碑
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【醤油屋の池】
滝沢家の二代目対馬が、天昇3年(1575)に谷戸の水田に水を引くためにこの溜池を築造したと伝えられる。滝沢家は戦国時代末期に下谷ケ貫(しもやがぬき)に住まいを定めた在地土豪と伝えられる。

一帯は「下谷ケ貫農村センター」となっている。
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醤油屋の池跡といった感じ。
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【下谷ケ貫桜山展望台】
ふれあいさんぽ(茶ん歩)道のルートにある。
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展望台
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展望台の上から駿河台大学、天覧山、関八州見晴台の方面。
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狭山丘陵
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【光円寺】
単立の寺、子ども広場となっている。
単立とは、何らかの宗派に属さないということで、珍しいと思います。調べたら入間市には単立のお寺が三つあるんですね。
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広場に、安永4年(1775)の六地蔵宝筐印塔があります。
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【西三ツ木公会堂(西三ツ木観音寺跡)】
小堂と、観音寺跡・百万遍念仏供養数珠《市文化財》などの説明板がある。
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【西三ツ木の高札場《市文化財≫】
江戸時代に名主をつとめた三木氏の庭前に旧街道へ面して立てられている。
高札が2枚残っている。
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【金子神社】
主祭神:素箋鳴尊(すさのおのみこと)
元は、天王社と称され、牛頭天王を祀っていたとされる。明治の神仏分離令によって、祭神を素箋鳴尊に改め、現社名へ改称された。
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【山の神鎮座跡】
参道の中腹辺りに昭和40年代まで「山の神」と呼ばれた祠があった。鎮座跡は現在も地元住民に「山の神」と呼ばれ、その場所には御神木と旧社殿の土台が残る。
文化9年(1812)建立の大日如来碑があり。
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【寺竹白髭神社】
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社号標
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説明板
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ご神木
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手水舎
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社額
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本殿覆屋
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「懸仏」《市文化財≫保存状態がよく、元亀3年(1572)銘を持つ。
『金子越中守家定』と銘に刻まれるが、金子十郎家忠ゆかりの者と考えられている。
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狛犬
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摂社「金刀比羅神社」
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摂社「権現神社」
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これで、全て終了。西三ツ木のバス停からバスで入間市駅に出て、帰途につきました。


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霞川の史跡を歩く(1)

20141103

10月24日(金)に行われた歴史クラブの行事です。
私は所用のため参加出来ず、配布された資料と、池田さんが撮ってきてくれた写真を基に記事にしました。

加治丘陵南側の裾を流れる霞川に沿って、入間市内の寺社を訪ねました。霞川流域には、旧石器時代から縄文時代の多くの遺跡があります。しかし、弥生時代から古墳時代の遺跡は、霞川流域だけでなく、入間市内からも発見されていません。
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当日は、入間市駅南口バス乗り場に集合。入間市駅8:38発河辺駅北口行西武バスに乗車、小谷田(こやた)バス停にて降り立ちました。
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霞川に沿って、歩き出します。
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【納経帳付き巡礼供養塔《市文化財≫】
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供養塔
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【明王寺】

門前にお地蔵様
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威徳山、天台宗本山派に属する修験道の寺、金子十郎家忠の守護仏といわれる不動明王(秘仏)を本尊とする。
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修験道は神仏共存なので、狛犬も居ることになる。
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【鰐口】《市文化財≫
元和4年(1618)銘、市内では蓮花院の鰐口についで古いもの。銘文には『施主五味金拾郎政垂敬白』とあり、五味氏は江戸時代初期の小谷田村の領主で、金拾郎政垂は領主五味氏の一族と考えられる。(入間市サイトから)
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不動堂にかかっている鰐口は天保4年(1833)のもの。
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不動堂内部
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不動明王は秘仏なので見られないが、貼ってあるお札の像は本尊のお姿を現しているのだろうか。
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新旧の龍の彫刻
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鐘楼
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境内のお地蔵さまと石仏
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お茶畑の中を東光寺に向かいます。

【東光寺】
真言宗豊山派
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門前に、享保4年(1719)建立の念仏供養お地蔵様
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本堂の前に梵鐘が置かれている。
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【梵鐘】《市文化財≫
延宝2年(1674)小谷田村の領主であった旗本五味豊旨(とようじ)の家臣43名が前主君備前守豊直(とよなお)の遺徳をしのんで東光寺に奉納した。
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【多羅葉】《市文化財》根回り3m、高さ12m、樹齢約300年、市内最古のタラヨウ(入間市サイトから)
薬師堂の横に立つ。
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薬師堂
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見ごたえのある彫刻の額が飾られている。
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境内の供養碑、石仏
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入間台遺跡公園に向かって歩いていると、三面六臂の馬頭観音碑があった。
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入間台遺跡公園
【新久(あらく)窯跡】《市文化財≫
東金子窯跡群の一つ。9世紀中頃武蔵国分寺の七重塔再建の瓦を焼いた。半地下式無階無段登窯(2基)が昭和38・44年の2回、発掘調査された。遺跡は公園となっている。
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窯があった位置に枠が立てられている。
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【龍円寺】
真言宗智山派、本尊:虚空蔵菩薩、武蔵三十三観音霊場第20番
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本堂
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鐘楼
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観音堂
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狛犬
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北狭山茶場の碑
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何の樹だろう、けっこう迫力ある。
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弘法大師奥多摩新四国霊場第41番
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墓地の地蔵堂
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真ん中の新しいお地蔵様よりも左右の古いお地蔵さまが気になる。
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八木謙斎翁墓碑
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境内の石仏群
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光明真言供養塔
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次回は、根岸子育て地蔵尊から

続きの「霞川の史跡を歩く(2)」を読む


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ジャーニー・ボーイ/高橋克彦

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今年の夏に北陸に帰省したときに、新幹線の中に置いてある「トランヴェール」という小冊子で特集していたのが「イザベラ・バード」という英国人女性で、「日本奥地紀行」という本を出している。
明治11年、開国後間もない日本を訪れ、4カ月をかけて横浜から北海道まで旅した女性である。
その小冊子で紹介されていたこの本を、読もうと思ってメモしておいた。
作者が、テレビで時々目にした盛岡市在住の直木賞作家だというのも読む気になった。
それを、やっと読めた。

イザベラ・バードと通訳者伊藤鶴吉の道中を描いた長編小説だが、この二人は実在の人物である。
主人公の伊藤をバードの護衛役に仕立て、伊藤とその仲間がバードの命を狙う敵を倒しながら進むというストーリーになっている。

 横浜で働きながら外国人から英語を学んだ伊藤は、若くて小柄ながら腕が立ち、「ピストル・ボーイ」の異名を持つ。明治政府の関係者から秘密裏に、英国の賓客であるバードの通訳兼護衛役を命じられ、バードに事情を隠したまま旅に同行する。
国内は、明治維新のわずか10年後。国を二分する戦いの余韻が残り、直前に大久保利通の暗殺事件もあった。著者は当時の国内情勢を、旅の舞台裏として表現した。
東京を起点とする旅は、街道沿いの日光までは順調だった。日光から北は、バードが「真の日本の姿が見たい」と言い出したため険しい山道を行くことになり、バードを狙う敵が次々現れる。
明治政府に不満を持つ人間は、それこそ五万といる。バードに死傷を負わせれば、明治政府のメンツは丸つぶれである。英国の貴婦人バードは未開の東北では目立って狙い易いことこの上なし。
狙わない方がおかしい、という状況だ。
 同じ護衛役である仲間と出会った伊藤は、力を合わせバードに気付かれないよう、敵を退ける。会津で敵の正体が見え始め、目的地の新潟を前に、手ごわい相手との最後の暗闘が待っていた。
 バードは、文明開化が進む東京や横浜と対照的な貧しい地方の暮らしを伝えようとするが、伊藤は、それが国の恥になると反発する。2人のやりとりを通じ、現代にもつながる国づくりの在り方を問い掛ける。
ほぼ全裸で日常を送るなど、まだ文明の行き届いていない地方の村民の生活やその対策が不十分な日本政府に対して批判するバードと、日本人の立場から当時の日本の状況を説く鶴吉の会話から、明治初期における日本(特に地方の村落)の現状が浮かび上がってくるので、歴史学的な読み応えもありますね。

 私もすっかり東京近郊に住んで都会生活になじんでしまったが、時代が異なるので程度の違いは大いにあるとはいえ、この本に出てくる地方の人の素朴さ、珍しいものに対する丸出しの好奇心など、読んでいて田舎特有の空気がとても懐かしかった。
バードが書いた文章を、日光のところで紹介してあるが、その描写は日光東照宮について書かれたもので、私がいままで読んだものをはるかに凌駕して素晴らしいものだ。

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小石をきれいに敷きつめた中庭は、真っ赤な木の塀に囲われているが、そのまわりに三つの豪華な建物がある。そこには寺の宝物が入っている。それから豪奢な厩があり、神の使用のために三頭の神聖な白馬が飼われている。神聖な水を入れる堂々たる花崗岩の水槽(御手水舎)は素麺滝から水を引いている。非常に装飾を施した建物は、仏教聖典の全集を所蔵している。ここから石段を上ると、もっと小さな中庭に出る。そこにはすばらしい細工と装飾の鐘楼がある。それに劣らず美しい太鼓の楼があり、社、枝付き燭台、鐘、すでに述べた灯籠のはかに非常に大きな青銅の灯寵がある。
 この庭から別の階段を上ると陽明門に出る。毎日そのすばらしさを考えるたびに驚きが増してくる。それを支える白い円柱には、架空の動物麟鱗の大きな赤い喉をもつ頭からできている柱頭がある。台輸の上の方に張り出した露台があり、門のまわりをめぐり、その手摺は竜の頭が背負っている。中央には二匹の白竜が永久に戦っている。下方には子どもたちが遊んでいる高い浮き彫りがあり、次にはなやかな色彩の横木の網細工があり、中国の七賢人がいる。高い屋根は、真紅の喉をもつ金色の竜頭に支えられている。門の内部には、白く塗られた側壁高があって牡丹の上に上品な唐草模様で縁どられている。回廊が左右に走っている。その外壁は二十一の仕切りがあり、鳥、花、木のすばらしい彫刻で飾られている。
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今度はいよいよ、イザベラ・バードが書いた「日本奥地紀行」を読まねばなるまい・・・・・・



プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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