香用比売神(かがよひめのかみ)/日本の神々の話
20141230
大年神の妃神で光り輝くような美しき神。
大年神は、素戔嗚神と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた神。
『古事記』にてこの神が出てくるのは、「大国主の神」の巻の第7段「大年神の神裔」です。
(読み下し文)
かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
それによれば、大年神と香用比売神が婚姻されて、大香山戸臣神と御年神の二柱の御子神をもうけられたとある。
神名の由来について、本居宣長が『古事記伝』で書いていることを紹介しましょう。『古事記伝』の素晴らしさがわかると思います。
香は加賀と讀むべし。【𦾔事紀に、賀用比賣と書るは非なり。そは若シは後に加の字を脱せるにてもあるべし。】香の字を此ノ二音の假字用ひたる例は、伊香色謎ノ命(いかがしこめのみこと)、【書紀孝元ノ巻に見ゆ。此記には伊迦賀色許賣とあり。】伊香色雄(いかがしこを)【又崇神ノ巻に見ゆ。此記には伊迦賀色許男とあり。】これらなり。【香山香坂ノ王(かぐやまかごさかのみこ)などの香ノ字も音を用ひたるにて加(か)-具(ぐ)加(か)-碁(ご)の假字とせり。】さて名ノ義は、容皃(かほ)の美麗(うるはし)きをほめて、光輝(かがや)くと云意か。萬葉六に、加我欲布珠(かがよふたま)、十一に、燈之陰爾(ともしびのかげに)蚊蛾欲布(かがよふ)虚蝉之妹蛾(うつせみのいもが)ヱ状思(まひし)面影爾所見(おもかげにみゆ)、これらかがやくを香用布(かがよふ)とよめり。
又娶(めとる)は、大年神の娶たまふなり。下なるも同じ。
『万葉集』六巻の「かがよふ珠」、同十一巻の「灯(ともしび)の陰に蚊蛾欲布虚蝉(かがよふうつせみ)の妹がえまひし面影に見ゆ」を引用して、容貌の美わしきをほめて光り輝くという意味であろうと解釈している。
つまり神名の香は輝くの意味ではないかと考えられている。
また御子神の大香山戸臣とあるのは、母神の香を受けた神名である。御年神は父神の大年神を受けての神名で、年穀を司る神である。
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大年神は、素戔嗚神と神大市比売(かむおおいちひめ・大山津見神の娘)の間に生まれた神。
『古事記』にてこの神が出てくるのは、「大国主の神」の巻の第7段「大年神の神裔」です。
(読み下し文)
かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
それによれば、大年神と香用比売神が婚姻されて、大香山戸臣神と御年神の二柱の御子神をもうけられたとある。
神名の由来について、本居宣長が『古事記伝』で書いていることを紹介しましょう。『古事記伝』の素晴らしさがわかると思います。
香は加賀と讀むべし。【𦾔事紀に、賀用比賣と書るは非なり。そは若シは後に加の字を脱せるにてもあるべし。】香の字を此ノ二音の假字用ひたる例は、伊香色謎ノ命(いかがしこめのみこと)、【書紀孝元ノ巻に見ゆ。此記には伊迦賀色許賣とあり。】伊香色雄(いかがしこを)【又崇神ノ巻に見ゆ。此記には伊迦賀色許男とあり。】これらなり。【香山香坂ノ王(かぐやまかごさかのみこ)などの香ノ字も音を用ひたるにて加(か)-具(ぐ)加(か)-碁(ご)の假字とせり。】さて名ノ義は、容皃(かほ)の美麗(うるはし)きをほめて、光輝(かがや)くと云意か。萬葉六に、加我欲布珠(かがよふたま)、十一に、燈之陰爾(ともしびのかげに)蚊蛾欲布(かがよふ)虚蝉之妹蛾(うつせみのいもが)ヱ状思(まひし)面影爾所見(おもかげにみゆ)、これらかがやくを香用布(かがよふ)とよめり。
又娶(めとる)は、大年神の娶たまふなり。下なるも同じ。
『万葉集』六巻の「かがよふ珠」、同十一巻の「灯(ともしび)の陰に蚊蛾欲布虚蝉(かがよふうつせみ)の妹がえまひし面影に見ゆ」を引用して、容貌の美わしきをほめて光り輝くという意味であろうと解釈している。
つまり神名の香は輝くの意味ではないかと考えられている。
また御子神の大香山戸臣とあるのは、母神の香を受けた神名である。御年神は父神の大年神を受けての神名で、年穀を司る神である。
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聖天院・野々宮神社など
20141229
12月17日(水)の、歴史クラブ行事で高麗神社から聖天院に向かいました。
【聖天院】
大きなお寺です。

やはり「チャンスン」が迎えています。

山門前に高浜虚子の句碑がある。
「山寺は 新義直言 ほととぎす」

山門
高欄親柱擬宝珠に天保3年(1832)の銘が刻まれていることから、この頃の建立と考えられる。

右手に風神、左手に雷神の木造像が祀られている。


「雷門」の大きな提灯が下がる。

天井に鳳凰の絵がある。

山門をくぐって右手に行くと、高麗王若光の墓があります。

高麗王廟

高麓王若光の墓。鎌倉時代の建立と伝えられる多層塔。

「ここから有料」と書かれた石段の左右には六地蔵がある。


石段の上の受付で、拝観料を払う。拝観料を取るのはこの辺では珍しい。

受付のところに提げられていた、KBSがお土産に持ってきたらしいいかにも朝鮮風のお面。

この左側のお面から、映画「ホタル」に出てきたお面を思い出した。
朝鮮出身の特攻隊員、金山少尉の形見の面である。帰ってから録画してあったのを見直したが、やはりそうだった。
本堂は、まだまだ上の方だ。

石段を上がります。

石段を上りきると仁王さんが迎えている。


本堂

真言宗智山派高麗山聖天院勝楽寺。
高麗王若光の菩提を弔うため、その侍念僧勝楽が天平勝宝3年(751)創建。高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられる。その後僧秀海が法相宗から真書宗に改めて中興、江戸時代には54ケ寺の末寺を擁し、15石の朱印状を拝領していた。
現在の本尊:不動明王




境内からの眺めは素晴らしい。

国指定重文の銅鐘があるというので、鐘楼に。

高麗王若光の像があった。高麗神社の宮司さんと風貌が似ている。
「大澤社 新井家」所蔵の「高麗若王画福図」をもとに製作された、とのことです。(村越さん情報)

鐘楼に下がっている鐘は元禄のものでした。


これの鐘銘を解読したもの(池田さん提供)
フォントが「メイリア」でないと正しく出ないので、画像にしました。

国指定重文の銅鐘(文応2年(1261)銘、物部季重作)は、本堂内左手奥にあったようです。
こちらの鐘銘(池田さん提供)

在日韓民族無縁慰霊塔

聖天院を出て、野々宮神社に至る獅子岩橋(プレートには「志ゝいわはし」)左岸辻路傍に馬頭観音三基他がありました。

三面六臂合掌立像馬頭観音
左側面「寛政十午願主新井組中 九月九日」、右側面「橋建立供養」とあります。


この「橋供養塔」ですが、この「橋」は「石橋」ではなく「木橋」です。
石橋以外の木橋や土橋供養は結構珍しいものです。
木橋や土橋の寿命はせいぜい20年程度ですから、なかなか供養の対象になりません。
この獅子岩橋が大きな木橋であったためのことだと思います。
念のため、武蔵国郡村誌および明治14年地図で確認しましたが、此辺りの新堀村、野々宮村、栗坪村の橋は全て「木橋」で「石橋」の記述や表示はありません。
川筋の地勢からして、当時では、石橋を懸けるのは無理でしょう。
(池田さん情報)
獅子岩橋から下流の眺め。
1基だけ残されている橋脚が見えます。

野々宮神社の前に、野々宮神社宮司代々の墓地に立ち寄りました。

寛政6年(1794)のお墓

【野々宮神社】

野々宮神社は、祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると大宝3年(703)社殿修築という記述があって、口碑、伝説などがら推察するとがなりの古社と考えられる。慶安2年(1649)徳川家光から賜わった社領4石5斗の安堵状なども保存されている。野々宮神社は関東地方では珍しく、狭山市に一社あるほかは近隣にはない。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に、奉献「太祓一万度」とあるところなどから、潔斎の宮・お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野の野宮の分祠と考えられる。
例大祭は、毎年十月九日で、この際奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである。(日高市掲示より)
手水舎

拝殿


通常社額であるところに、手彫りの神紋が掲げられていた。

拝殿内部

ご祭神は天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命。
掲示説明にあった絵馬

「奉献 太祓一万度」とある。

絵が素晴らしい。「天の岩戸」の場面。

境内社
「特潜神社」とある。

刀が供えられている。

帰ってから調べてみると、どうも潜特型(せんとくがた)潜水艦関係者が戦時中亡くなった仲間を弔ったお宮ではないかと思った。それ以外該当するのは無さそうなので。
これは、あくまで推定である。
伊四〇〇型潜水艦(いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。正式には伊號第四百型潜水艦(いごうだいよんひゃくがたせんすいかん)。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。
3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。
飛行機を三基搭載なんて、そんな巨大な潜水艦・・・・・のけぞってしまった。
全長が122m、全幅12mである。
第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大であり、通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であった。全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。理論的には、地球を一周半航行可能という長大な航続距離を誇り、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。
同型艦3隻が就航したが、いずれも具体的な戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在さえ知らなかった。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。
巨大なのは戦艦大和だけではなかったのである。
「山神」社

天保2年(1831年)に、江戸相撲歳寄行司兼木村庄之助正武により「土俵故実作法」にのっとって作られた奉納土俵。

力石

これで予定は全て終了し、高麗川駅に向かいます。
裏から入ったので、鳥居から抜けていきます。

鳥居のところの案内標

(了)
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【聖天院】
大きなお寺です。

やはり「チャンスン」が迎えています。

山門前に高浜虚子の句碑がある。
「山寺は 新義直言 ほととぎす」

山門
高欄親柱擬宝珠に天保3年(1832)の銘が刻まれていることから、この頃の建立と考えられる。

右手に風神、左手に雷神の木造像が祀られている。


「雷門」の大きな提灯が下がる。

天井に鳳凰の絵がある。

山門をくぐって右手に行くと、高麗王若光の墓があります。

高麗王廟

高麓王若光の墓。鎌倉時代の建立と伝えられる多層塔。

「ここから有料」と書かれた石段の左右には六地蔵がある。


石段の上の受付で、拝観料を払う。拝観料を取るのはこの辺では珍しい。

受付のところに提げられていた、KBSがお土産に持ってきたらしいいかにも朝鮮風のお面。

この左側のお面から、映画「ホタル」に出てきたお面を思い出した。
朝鮮出身の特攻隊員、金山少尉の形見の面である。帰ってから録画してあったのを見直したが、やはりそうだった。
本堂は、まだまだ上の方だ。

石段を上がります。

石段を上りきると仁王さんが迎えている。


本堂

真言宗智山派高麗山聖天院勝楽寺。
高麗王若光の菩提を弔うため、その侍念僧勝楽が天平勝宝3年(751)創建。高麗王若光の守護仏聖天像(歓喜天)を本尊としたと伝えられる。その後僧秀海が法相宗から真書宗に改めて中興、江戸時代には54ケ寺の末寺を擁し、15石の朱印状を拝領していた。
現在の本尊:不動明王




境内からの眺めは素晴らしい。

国指定重文の銅鐘があるというので、鐘楼に。

高麗王若光の像があった。高麗神社の宮司さんと風貌が似ている。
「大澤社 新井家」所蔵の「高麗若王画福図」をもとに製作された、とのことです。(村越さん情報)

鐘楼に下がっている鐘は元禄のものでした。


これの鐘銘を解読したもの(池田さん提供)
フォントが「メイリア」でないと正しく出ないので、画像にしました。

国指定重文の銅鐘(文応2年(1261)銘、物部季重作)は、本堂内左手奥にあったようです。
こちらの鐘銘(池田さん提供)

在日韓民族無縁慰霊塔

聖天院を出て、野々宮神社に至る獅子岩橋(プレートには「志ゝいわはし」)左岸辻路傍に馬頭観音三基他がありました。

三面六臂合掌立像馬頭観音
左側面「寛政十午願主新井組中 九月九日」、右側面「橋建立供養」とあります。


この「橋供養塔」ですが、この「橋」は「石橋」ではなく「木橋」です。
石橋以外の木橋や土橋供養は結構珍しいものです。
木橋や土橋の寿命はせいぜい20年程度ですから、なかなか供養の対象になりません。
この獅子岩橋が大きな木橋であったためのことだと思います。
念のため、武蔵国郡村誌および明治14年地図で確認しましたが、此辺りの新堀村、野々宮村、栗坪村の橋は全て「木橋」で「石橋」の記述や表示はありません。
川筋の地勢からして、当時では、石橋を懸けるのは無理でしょう。
(池田さん情報)
獅子岩橋から下流の眺め。
1基だけ残されている橋脚が見えます。

野々宮神社の前に、野々宮神社宮司代々の墓地に立ち寄りました。

寛政6年(1794)のお墓

【野々宮神社】

野々宮神社は、祭神に天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命を祀っている。創立年代は不詳であるが、社家の古文書によると大宝3年(703)社殿修築という記述があって、口碑、伝説などがら推察するとがなりの古社と考えられる。慶安2年(1649)徳川家光から賜わった社領4石5斗の安堵状なども保存されている。野々宮神社は関東地方では珍しく、狭山市に一社あるほかは近隣にはない。祭神や高麗川のほとりにあることや、拝殿内の絵馬に、奉献「太祓一万度」とあるところなどから、潔斎の宮・お祓いの神であり、京都嵯峨か紫野の野宮の分祠と考えられる。
例大祭は、毎年十月九日で、この際奉納される獅子舞は近隣のものに比へて勇壮で美しく、特に蛇をのむくだりは、他に例を見ないものである。(日高市掲示より)
手水舎

拝殿


通常社額であるところに、手彫りの神紋が掲げられていた。

拝殿内部

ご祭神は天照大神、瓊々杵尊、猿田彦命、倭姫命。
掲示説明にあった絵馬

「奉献 太祓一万度」とある。

絵が素晴らしい。「天の岩戸」の場面。

境内社
「特潜神社」とある。

刀が供えられている。

帰ってから調べてみると、どうも潜特型(せんとくがた)潜水艦関係者が戦時中亡くなった仲間を弔ったお宮ではないかと思った。それ以外該当するのは無さそうなので。
これは、あくまで推定である。
伊四〇〇型潜水艦(いよんひゃくがたせんすいかん)は、太平洋戦争中の大日本帝国海軍の潜水艦の艦級。正式には伊號第四百型潜水艦(いごうだいよんひゃくがたせんすいかん)。別名潜特型(せんとくがた)とも呼ばれる。
3機の特殊攻撃機『晴嵐』が搭載可能であり、潜水空母(せんすいくうぼ)とも俗称される。
飛行機を三基搭載なんて、そんな巨大な潜水艦・・・・・のけぞってしまった。
全長が122m、全幅12mである。
第二次世界大戦中に就航した潜水艦の中で最大であり、通常動力型潜水艦としては、2012年に竣工した中国海軍の032型潜水艦(水上排水量3,797t、水中排水量6,628t)に抜かれるまでは世界最大であった。全長はアメリカ海軍のガトー級を27メートル上回る。理論的には、地球を一周半航行可能という長大な航続距離を誇り、日本の内地から地球上のどこへでも任意に攻撃を行い、そのまま日本へ帰投可能であった。大柄な船体(排水量3,350tは軽巡洋艦夕張と比較してなお大きい)を持つが水中性能は良好であった。急速潜航に要する時間は1分である。
同型艦3隻が就航したが、いずれも具体的な戦果をあげる前に終戦を迎え、連合国は日本の降伏までその存在さえ知らなかった。終戦直後にアメリカ軍が接収する際、その大きさにアメリカ軍士官が驚愕したという逸話が残っている。
巨大なのは戦艦大和だけではなかったのである。
「山神」社

天保2年(1831年)に、江戸相撲歳寄行司兼木村庄之助正武により「土俵故実作法」にのっとって作られた奉納土俵。

力石

これで予定は全て終了し、高麗川駅に向かいます。
裏から入ったので、鳥居から抜けていきます。

鳥居のところの案内標

(了)
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高麗神社
20141228
12月17日(水)に、歴史クラブ行事で訪ねました。
高麗神社入り口

社号標

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
一の鳥居

扁額には「大宮大明神」とあります。
神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。

参道を、ちょうど氏子の方々が清掃をされていました。

駐車場からの参道には、将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)があります。
チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。

二の鳥居

扁額

今年6月の大祓に参拝したときの写真です。
茅が二の鳥居に設けられていました。


二の鳥居脇に「参拝諸名士芳名額」があります。
数奇な運命の「川島芳子」の名が

ここの社殿を設計した、当時の建築設計の代表者「伊東忠太」、「幸田露伴」など。

現宮司「高麗文康」さんが案内をしてくださいましたが、高麗神社は、高麗王若光の子孫が代々宮司を務め、60代目になります。

手水舎で手水の取り方まで説明してくださり、とても熱心な案内をしていただきました。

手水舎

「洗心」の額がよかった。

立派な楠です。

李王朝最後の「李王垠・方子」両殿下が昭和17年に植樹された杉の木。


「出世明神」の由来

「恩知学校跡」の説明


狛犬(2011年4月撮影)


神門


ここに掲げられている扁額には、高麗神社の高と麗のあいだに、小さく「句」の字が書かれている。
李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家「趙重応」の書である。
宮司さんの説明は「句」を入れても間違いではないが、句を小さくするのは間違いである(笑)
と仰っていた。


神門を入った左側に、いかにも朝鮮の風俗らしい千羽鶴が下がっている。

社殿


社額

主祭神は、高麗王若光・猿田彦命・武内宿禰命。
神紋は、ほぼ「鶴ノ丸」だが細部に違いがある。何と呼ぶのだろうか。

この日は、「高麗家住宅」は残念ながら工事中で見られなかった。
これは2011年4月に、脇に咲いている樹齢400年の枝垂れ桜を撮りに行った時のもの。

その記事はこちら
この枝垂れ桜と社殿前のヒガン桜が咲いている時に「さくら祭り」が開催される。
今年、そのときに「巫女舞」と「獅子舞」をやるというので見に行った。
その時、社殿前では、氏子の皆さんが終日餅つきをしていて、お餅をふるまっていた。
美味しかった。(今年4月撮影)


齋館に立つ巫女さん

神楽殿の前で、巫女舞の前に、社殿に向かって、一礼。

このときの巫女舞は動画を撮ってきたので、見てください。
その動画を見る
来年の4月には、歴史クラブの行事として「さくら祭り」での「巫女舞」と「獅子舞」を見に行くことになっています。
最後に、釈迢空(折口信夫)の歌碑を。(2011年4月撮影)



「山かげに獅子笛おこるしし笛は高麗の昔を思えとぞひびく」
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高麗神社入り口

社号標

高麗神社の主祭神は、かつて朝鮮半島北部に栄えた高句麗からの渡来人高麗王若光(こまのこきしじゃっこう・「王」は 他に「こしき」「こにしき」「こにきし」などとも読む)です。
最盛期は5世紀の「広開土王(こうかいどおう)」、「長寿王(ちょうじゅおう)」治世の100年間で、中華人民共和国吉林省集安県にある「広開土王碑」から、そのころの高句麗の強勢ぶりをうかがうことができます。
若光が渡来した年代についての社伝はありませんが『日本書紀』天智天皇称制5年(666年)10月高句麗から派遣された使節の中に「若光」の名があります。
『続日本紀』文武天皇大宝3年(703年)に「従五位下高麗若光に王の姓を賜う」と記されており、高句麗が668年に唐と新羅によって滅ぼされてしまったことを考えると、『日本書紀』にある「若光」と当社の御祭神である「高麗王若光」は同一人物と思われます。
若光は元正天皇霊亀2年(716年)武蔵国に新設された高麗郡の首長として当地に赴任してきました。当時の高麗郡は未開の原野であったといわれ、若光は、駿河(静岡)甲斐(山梨)相模(神奈川)上総・下総(千葉)常陸(茨城)下野(栃木)の各地から移り住んだ高麗人(高句麗人)1799人とともに当地の開拓に当たりました。若光が当地で没した後、高麗郡民はその徳を偲び、御霊を「高麗明神」として祀りました。これが当社創建の経緯です。
一の鳥居

扁額には「大宮大明神」とあります。
神仏習合の時代には高麗家は修験者として別当を勤めていた。また、高麗大宮大明神、大宮大明神、白髭大明神と称されていた社号は、明治以降は高麗神社と称されるようになった。

参道を、ちょうど氏子の方々が清掃をされていました。

駐車場からの参道には、将軍標(しょうぐんひょう・チャンスン)があります。
チャンスンは朝鮮半島の古い風習で、村の入り口に魔除けのために建てられました。将軍標は平成4年に大韓民国民団埼玉県地方本部によって奉納されたものです。

二の鳥居

扁額

今年6月の大祓に参拝したときの写真です。
茅が二の鳥居に設けられていました。


二の鳥居脇に「参拝諸名士芳名額」があります。
数奇な運命の「川島芳子」の名が

ここの社殿を設計した、当時の建築設計の代表者「伊東忠太」、「幸田露伴」など。

現宮司「高麗文康」さんが案内をしてくださいましたが、高麗神社は、高麗王若光の子孫が代々宮司を務め、60代目になります。

手水舎で手水の取り方まで説明してくださり、とても熱心な案内をしていただきました。

手水舎

「洗心」の額がよかった。

立派な楠です。

李王朝最後の「李王垠・方子」両殿下が昭和17年に植樹された杉の木。


「出世明神」の由来

「恩知学校跡」の説明


狛犬(2011年4月撮影)


神門


ここに掲げられている扁額には、高麗神社の高と麗のあいだに、小さく「句」の字が書かれている。
李氏朝鮮末期から大韓帝国期の政治家「趙重応」の書である。
宮司さんの説明は「句」を入れても間違いではないが、句を小さくするのは間違いである(笑)
と仰っていた。


神門を入った左側に、いかにも朝鮮の風俗らしい千羽鶴が下がっている。

社殿


社額

主祭神は、高麗王若光・猿田彦命・武内宿禰命。
神紋は、ほぼ「鶴ノ丸」だが細部に違いがある。何と呼ぶのだろうか。

この日は、「高麗家住宅」は残念ながら工事中で見られなかった。
これは2011年4月に、脇に咲いている樹齢400年の枝垂れ桜を撮りに行った時のもの。

その記事はこちら
この枝垂れ桜と社殿前のヒガン桜が咲いている時に「さくら祭り」が開催される。
今年、そのときに「巫女舞」と「獅子舞」をやるというので見に行った。
その時、社殿前では、氏子の皆さんが終日餅つきをしていて、お餅をふるまっていた。
美味しかった。(今年4月撮影)


齋館に立つ巫女さん

神楽殿の前で、巫女舞の前に、社殿に向かって、一礼。

このときの巫女舞は動画を撮ってきたので、見てください。
その動画を見る
来年の4月には、歴史クラブの行事として「さくら祭り」での「巫女舞」と「獅子舞」を見に行くことになっています。
最後に、釈迢空(折口信夫)の歌碑を。(2011年4月撮影)



「山かげに獅子笛おこるしし笛は高麗の昔を思えとぞひびく」
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高麗川駅から高麗神社
20141227
12月17日(水)に、歴史クラブ行事で訪ねました。狭山市の半分ほどを占める旧高麗郡が2016年に建郡1300年を迎えるということで、歴史クラブの中でも大きなテーマとなっています。
スタートは高麗川駅です。
駅前に、「高林謙三生誕の地」という碑がありました。
昭和56年に、埼玉県茶業組合と日高町が建てたものです。

高林謙三氏の業績は、以前拙ブログで「狭山茶の話」という記事で取り上げていますので、それを読んでください。
その記事を読む
【四本木の板石塔婆】
所在地:日高市大字原宿103
日高市指定文化財。正和3年(1314)造立、高さ266cm、幅67cmと市内最大のもの。

現地は、中央にお地蔵様、右に板石塔婆、左に出羽三山参拝記念碑があります。


○板石塔婆




帰ってから、池田さんが説明書きにあった「武藏野話」についての情報をメールしてくれました。
齋藤鶴磯著「武藏野話」の刊行は、前編が文化12年(1815)、続編は文政11年(1828)です。
地誌の先駆けとなるものですね。
面白そうなので、さっそくアマゾンで購入しました。
私が手に入れたのは、三度目の複刊(昭和44年)のものです。
ちなみに3000円で購入しましたが、池田さんに言うと「500円くらいで購入しなければ」と言われてしまった(笑)
たしかに彼に教わった古書購入サイトでは、1000円くらいで購入できる(汗)
ただ、これで古書購入に便利なサイトを教わったので、嬉しい。
その本の150頁に「高麗郡新堀村」で、載っています。
江戸時代では、青石塔婆を「青石の石碑(いしぶみ)」と言っていたことがわかります。



○中央のお地蔵様
昭和25年造立、左に「護国生魂地蔵尊」、右に「国家犠牲者為追善供養」とあります。


○出羽三山参拝記念碑
大正15年造立

【奉修薬師堂尊】
所在地:日高市新堀

右に薬師如来、左に十一面観音が鎮座。



傍らに、沢山の穴の開いた石が奉納されている。
これは、狭山市徳林寺境内地蔵堂にも同様の石が、耳が聞こえるようにとの願いで奉納されている。
おそらく、ここでも同じ願いではないかと思う。

【熊野神社】
所在地:日高市新堀387
この地を開発した紀州熊野出身の新堀家の氏神とのこと。




扁額は手書きの紙に書かれたもの。

拝殿内部
本殿は三社並んでいます。

ネットで調べると、ご祭神について書かれたものによると、
伊邪奈美命、速玉男命、事解之男命、天王様となっています。
紀州熊野出身の新堀家の氏神ということなので、熊野三山で間違いないですね。
その上で整理すると、熊野三山とは熊野本宮大社と熊野速玉大社、熊野那智大社を総称したものです。
熊野本宮大社は素戔嗚尊とされる家津美御子大神を、熊野速玉大社は伊弉諾尊とされる熊野速玉大神を、熊野那智大社は伊弉冉尊とされる熊野夫須美大神を主祭神としてお祀りしています。
よって、伊弉冉尊はそのまま。
速玉男命と事解之男命ですが、この両者はどういう関係かというと、
死んで黄泉国にいかれた伊弉冉尊を、伊弉諾命が追っていったところ、 すでに伊弉冉尊の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。
『古事記』や『日本書紀』本文では、伊弉諾命は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男(事解之男命)。
なので、この両者はペアで一つとする。
天王様は、素戔嗚尊ということになります。
境内社の稲荷神社


手書きの絵馬ですが、書かれた狐が可愛い。

高麗川のところまで来ると、牧場があっていい眺めです。
しかし良く見ると、この牧場既に廃業したみたいです。残念ですね。

【出世橋】
縁起のいい名前の橋を渡ります。



【高麗神社入り口石仏群】
高麗神社入り口の食堂の横に、4基の石造物がありました。

○馬頭観音
寛政8年(1796)造立



○供養塔
「念仏一百万遍永願二世成道」と彫ってある。

○馬頭観音
明治14年造立

いよいよ、「高麗神社」ですが、それは次回の記事とします。
続きを読む
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スタートは高麗川駅です。
駅前に、「高林謙三生誕の地」という碑がありました。
昭和56年に、埼玉県茶業組合と日高町が建てたものです。

高林謙三氏の業績は、以前拙ブログで「狭山茶の話」という記事で取り上げていますので、それを読んでください。
その記事を読む
【四本木の板石塔婆】
所在地:日高市大字原宿103
日高市指定文化財。正和3年(1314)造立、高さ266cm、幅67cmと市内最大のもの。

現地は、中央にお地蔵様、右に板石塔婆、左に出羽三山参拝記念碑があります。


○板石塔婆




帰ってから、池田さんが説明書きにあった「武藏野話」についての情報をメールしてくれました。
齋藤鶴磯著「武藏野話」の刊行は、前編が文化12年(1815)、続編は文政11年(1828)です。
地誌の先駆けとなるものですね。
面白そうなので、さっそくアマゾンで購入しました。
私が手に入れたのは、三度目の複刊(昭和44年)のものです。
ちなみに3000円で購入しましたが、池田さんに言うと「500円くらいで購入しなければ」と言われてしまった(笑)
たしかに彼に教わった古書購入サイトでは、1000円くらいで購入できる(汗)
ただ、これで古書購入に便利なサイトを教わったので、嬉しい。
その本の150頁に「高麗郡新堀村」で、載っています。
江戸時代では、青石塔婆を「青石の石碑(いしぶみ)」と言っていたことがわかります。



○中央のお地蔵様
昭和25年造立、左に「護国生魂地蔵尊」、右に「国家犠牲者為追善供養」とあります。


○出羽三山参拝記念碑
大正15年造立

【奉修薬師堂尊】
所在地:日高市新堀

右に薬師如来、左に十一面観音が鎮座。



傍らに、沢山の穴の開いた石が奉納されている。
これは、狭山市徳林寺境内地蔵堂にも同様の石が、耳が聞こえるようにとの願いで奉納されている。
おそらく、ここでも同じ願いではないかと思う。

【熊野神社】
所在地:日高市新堀387
この地を開発した紀州熊野出身の新堀家の氏神とのこと。




扁額は手書きの紙に書かれたもの。

拝殿内部
本殿は三社並んでいます。

ネットで調べると、ご祭神について書かれたものによると、
伊邪奈美命、速玉男命、事解之男命、天王様となっています。
紀州熊野出身の新堀家の氏神ということなので、熊野三山で間違いないですね。
その上で整理すると、熊野三山とは熊野本宮大社と熊野速玉大社、熊野那智大社を総称したものです。
熊野本宮大社は素戔嗚尊とされる家津美御子大神を、熊野速玉大社は伊弉諾尊とされる熊野速玉大神を、熊野那智大社は伊弉冉尊とされる熊野夫須美大神を主祭神としてお祀りしています。
よって、伊弉冉尊はそのまま。
速玉男命と事解之男命ですが、この両者はどういう関係かというと、
死んで黄泉国にいかれた伊弉冉尊を、伊弉諾命が追っていったところ、 すでに伊弉冉尊の遺体は腐ってうじがたかり、遺体の各部に八雷神が生まれていた。
『古事記』や『日本書紀』本文では、伊弉諾命は慌てて逃げ帰ったと記されているが、 一書には、穏やかに「もう縁を切りましょう」と言い、「お前には負けないつもりだ」と言って唾を吐いた。 その唾から生まれた神が速玉男命。次に掃きはらって生まれた神が泉津事解之男(事解之男命)。
なので、この両者はペアで一つとする。
天王様は、素戔嗚尊ということになります。
境内社の稲荷神社


手書きの絵馬ですが、書かれた狐が可愛い。

高麗川のところまで来ると、牧場があっていい眺めです。
しかし良く見ると、この牧場既に廃業したみたいです。残念ですね。

【出世橋】
縁起のいい名前の橋を渡ります。



【高麗神社入り口石仏群】
高麗神社入り口の食堂の横に、4基の石造物がありました。

○馬頭観音
寛政8年(1796)造立



○供養塔
「念仏一百万遍永願二世成道」と彫ってある。

○馬頭観音
明治14年造立

いよいよ、「高麗神社」ですが、それは次回の記事とします。
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飽咋之宇斯能神(あきぐいのうしのかみ) /日本の神々の話
20141226
伊邪那美命を追いかけて行った黄泉の国から帰ってきた伊邪那岐命は禊祓をします。
古事記の現代語訳:
このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。
このように、禊ぎ祓えのときに投げ捨てた冠から現れた神の名が、飽咋之宇斯能神です。
『日本の神様読み解き事典』では、「化生する冠はカガフル(被ふる)の名詞形であり、したがって飽咋之宇斯能神の神名は、冠の口が開いていることからアキグイの名があらわれたものである。アキは穢の明けと引っ掛けたものと考えられる。」としている。
他にこういう説がある。
・食糧を心配する神
・口を開けて穢れを食う神
・秋祭りの「あき」は、「飽食(あきぐい)のまつり」を省略した語といわれ、古くはアキグイノウシノカミ・ハヤアキツヒメをおまつりする、飽食の意味をもった祭りだった。つまりイネの収穫を神に存分に食していただき、同時に人間も食して満腹の喜びにひたるという収穫祭のひとつであった。
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古事記の現代語訳:
このようなわけで、伊邪那岐大神が仰せられるには、「私は、なんといやな穢らわしい、きたない国に行っていたことだろう。だから、私は身体を清める禊をしよう」と仰せられ、筑紫の日向の橘の小門の阿波岐原においでになって、禊ぎ祓えをなさった。
それで、まず投げ捨てた御杖から成った神の名は、衝立船戸神である。次に投げ捨てた御帯から成った神の名は、道之長乳齒神である。次に投げ捨てた御袋から成った神の名は、時量師神である。次に投げ捨てた御衣から成った神の名は、和豆良比能宇斯能神である。次に投げ捨てた御袴から成った神の名は、道俣神である。次に投げ捨てた御冠から成った神の名は、飽咋之宇斯能神である。次に投げ捨てた左の御手の腕輪から成った神の名は、奥疎神、次に奥津那芸佐毘古神、次に奥津甲斐弁羅神である。次に投げ捨てた右の御手の腕輪から成った神の名は、辺疎神、次に辺津那芸佐毘古神、次に辺津甲斐弁羅神である。
このように、禊ぎ祓えのときに投げ捨てた冠から現れた神の名が、飽咋之宇斯能神です。
『日本の神様読み解き事典』では、「化生する冠はカガフル(被ふる)の名詞形であり、したがって飽咋之宇斯能神の神名は、冠の口が開いていることからアキグイの名があらわれたものである。アキは穢の明けと引っ掛けたものと考えられる。」としている。
他にこういう説がある。
・食糧を心配する神
・口を開けて穢れを食う神
・秋祭りの「あき」は、「飽食(あきぐい)のまつり」を省略した語といわれ、古くはアキグイノウシノカミ・ハヤアキツヒメをおまつりする、飽食の意味をもった祭りだった。つまりイネの収穫を神に存分に食していただき、同時に人間も食して満腹の喜びにひたるという収穫祭のひとつであった。
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泉神社(天速玉姫命神社 延喜式内論社)/茨城県日立市
20141225
所在地:茨城県日立市水木町2-22-1
11月28日の「関八州式内社めぐり」で「長幡部神社」に続き、最後の参拝社です。
今回は池田さんと井上さんが撮って来てくれた写真を使用しています。
まず注意を曳いたのは、参道わきにあった明治三十九年建立の日露戦争出征軍馬記念碑です。
珍しい。

社号標

式内社 常陸國久慈郡 天速玉姫命神社、旧郷社
日立市水木町に所在し、日立地方で最も古い神社と云われている。
こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域を「泉が森」と呼び、この神社の境内一帯が茨城県指定文化財史跡になっている。
湧水の出る透き通った池(茨城百景の-つ)があることから、「泉神社」と呼ばれている。
由緒:
常陸国久慈郡の式内社天速玉姫命神社の論社。 他の論社は常陸太田市春友町の鹿島神社である。
泉神社は泉が湧いており、常陸国風土記記載の里に鎮座していることが論拠。
社伝:
人皇第10代崇神天皇の御代(宇治49年(BC49)実際は3~4世紀)の創建。 -説には、天武天皇2年(672)とする。
以下、泉神社の神社紹介ページから
『泉神社は、人皇第十代崇神天皇の御代、宇治49年(BC42)にこの地方に鎮祀されたと伝えられている。延喜式内社の由緒深い旧郷社である。
久自国造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせのすくね)の奏講により、大臣伊香色雄(いかがしこおのみこと)が勅命を受けて、久自の国に至り、天速玉姫命を祭示巳して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。
社記に「上古霊玉此地に天降り 霊水湧騰して泉をなす 号けて泉川と云ひ霊玉を以て神体とする」とある。ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。
「東夷の荒賊を平討する」最前線基地としての地域性を反映し、古くから多くの武将が祈祷に参拝している。特に、後奈良天皇の御代、享禄三年(1530)9月に書かれた棟礼には、佐竹家第16代の佐竹義篤が泉神社を崇敬し社殿を修造したと記録されている。残念なことに、享和2年(1802年)社殿が焼失し、旧記録を始め宝物などが散逸してしまった。
現在の社殿は氏子らの浄財により昭和58年(1983年)5月に再建されたものである。』
一の鳥居と参道
すごい幟の数である。しかもこの日は赤い幟だったが、ネットでいろいろな記事を見ると黄色、靑とか緑のときもあるようだ。

一の鳥居脇に「太子堂」があります。屋根にずいぶん木が生えているが大丈夫か?


境内社の三峰神社(伊弊藷神・伊井再神)

旧ご神木


桜の樹を杉の木が抱えている姿にはびっくりした。往古はどういう感じだったのだろうか。

手水舎

「泉が森」の案内、碑


「密筑(みつき)の大井」の説明

「常陸国風土記」では、「此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に淨泉(いずみ)あり。俗(くにひと)、大井と謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、おちこちの郷里(むらさと)より酒と肴をもちきて、男女会集(つど)いて、休(いこ)い遊び飲(さけの)み楽しめり」と書かれた。
密筑の里は、いまの水木の呼称で、淨泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のこと。周囲が50メートルほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出している。水温は夏冬ともに約13度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」。
泉神社は、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていた。

ものすごい量が湧き出ている。

厳島神社(市杵島比売命(弁財天))


水木ささら(茨城県指定無形民族文化財)の説明


また、3月第2土曜日と日曜日には、古くから伝わる當屋祭の行事が執り行われる。
この當屋祭には、神社がまだ無かった頃、御神体を当番制で個人の家にお祭りして無病息災を祈願したことがその始まりと言われている。社殿が造営された後も、天速玉姫命の御分霊を町内持ち回りで各自の家にお祭りし、家内安全と無病息災を祈願しつつ現在も続いている。
歌碑/新編常陸國誌より

先の碑にもはいっているが、栗田寛の歌碑

社殿地に上がる石段脇に左右に二頭ずつの狛犬が。




拝殿

拝殿向拝部

社額

神紋は「三つ葉葵」

祭神は、天速玉姫命。
清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代30年間(858~887)を扱った日本三代実録(延喜元年(901)完成)によれば、「貞観八年(866)五月二十七日庚午常陸国正六位上天之速玉神」とある。
泉神社の由緒では、霊玉の神霊であるという。
また、天速玉姫命は天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)の娘で、天太玉命(あまのふとだまのみこと)の后神、天比理刀咩命(あめのひりのめのみこと)ともいうとある。
霊玉の女神とする説のほかに、その名から速玉男命と同神とする説、
「速」も「豊」 も美称であるとして豊玉姫と同神とする説。
玉=瀧で、速い滝の神とする説などがある。
ちなみに、天比理刀咩命は安房一之宮・洲崎神社および品川神社の祭神である。
本殿

最後に脇参道に「馬力碑」というのがあった。

最初に載せたのが「出征軍馬記念碑」である。
馬で始まり、馬で終わった(笑)
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11月28日の「関八州式内社めぐり」で「長幡部神社」に続き、最後の参拝社です。
今回は池田さんと井上さんが撮って来てくれた写真を使用しています。
まず注意を曳いたのは、参道わきにあった明治三十九年建立の日露戦争出征軍馬記念碑です。
珍しい。

社号標

式内社 常陸國久慈郡 天速玉姫命神社、旧郷社
日立市水木町に所在し、日立地方で最も古い神社と云われている。
こんもりと生い茂った常緑樹に囲まれた区域を「泉が森」と呼び、この神社の境内一帯が茨城県指定文化財史跡になっている。
湧水の出る透き通った池(茨城百景の-つ)があることから、「泉神社」と呼ばれている。
由緒:
常陸国久慈郡の式内社天速玉姫命神社の論社。 他の論社は常陸太田市春友町の鹿島神社である。
泉神社は泉が湧いており、常陸国風土記記載の里に鎮座していることが論拠。
社伝:
人皇第10代崇神天皇の御代(宇治49年(BC49)実際は3~4世紀)の創建。 -説には、天武天皇2年(672)とする。
以下、泉神社の神社紹介ページから
『泉神社は、人皇第十代崇神天皇の御代、宇治49年(BC42)にこの地方に鎮祀されたと伝えられている。延喜式内社の由緒深い旧郷社である。
久自国造船瀬宿禰(くじのみやつこ ふなせのすくね)の奏講により、大臣伊香色雄(いかがしこおのみこと)が勅命を受けて、久自の国に至り、天速玉姫命を祭示巳して、久自の国の総鎮守としたことが泉神社の創立である。
社記に「上古霊玉此地に天降り 霊水湧騰して泉をなす 号けて泉川と云ひ霊玉を以て神体とする」とある。ご祭神はこの霊玉を神格化した天速玉姫命をお祀りしている。
「東夷の荒賊を平討する」最前線基地としての地域性を反映し、古くから多くの武将が祈祷に参拝している。特に、後奈良天皇の御代、享禄三年(1530)9月に書かれた棟礼には、佐竹家第16代の佐竹義篤が泉神社を崇敬し社殿を修造したと記録されている。残念なことに、享和2年(1802年)社殿が焼失し、旧記録を始め宝物などが散逸してしまった。
現在の社殿は氏子らの浄財により昭和58年(1983年)5月に再建されたものである。』
一の鳥居と参道
すごい幟の数である。しかもこの日は赤い幟だったが、ネットでいろいろな記事を見ると黄色、靑とか緑のときもあるようだ。

一の鳥居脇に「太子堂」があります。屋根にずいぶん木が生えているが大丈夫か?


境内社の三峰神社(伊弊藷神・伊井再神)

旧ご神木


桜の樹を杉の木が抱えている姿にはびっくりした。往古はどういう感じだったのだろうか。

手水舎

「泉が森」の案内、碑


「密筑(みつき)の大井」の説明

「常陸国風土記」では、「此より東北のかた二里に密筑(みつき)の里あり。村の中に淨泉(いずみ)あり。俗(くにひと)、大井と謂う。夏は冷かにして冬は温かなり。湧き流れて川となれり。夏の暑き時、おちこちの郷里(むらさと)より酒と肴をもちきて、男女会集(つど)いて、休(いこ)い遊び飲(さけの)み楽しめり」と書かれた。
密筑の里は、いまの水木の呼称で、淨泉・大井とは、神社の北側に湧出している泉のこと。周囲が50メートルほどある泉のほぼ中央部からは、今も青白い砂を吹き上げながら、絶え間なく清水が湧き出している。水温は夏冬ともに約13度で、「風土記」に記されているとおり、「夏冷冬温」。
泉神社は、古くは天速玉姫命神社、さらには泉大明神とも呼ばれていた。

ものすごい量が湧き出ている。

厳島神社(市杵島比売命(弁財天))


水木ささら(茨城県指定無形民族文化財)の説明


また、3月第2土曜日と日曜日には、古くから伝わる當屋祭の行事が執り行われる。
この當屋祭には、神社がまだ無かった頃、御神体を当番制で個人の家にお祭りして無病息災を祈願したことがその始まりと言われている。社殿が造営された後も、天速玉姫命の御分霊を町内持ち回りで各自の家にお祭りし、家内安全と無病息災を祈願しつつ現在も続いている。
歌碑/新編常陸國誌より

先の碑にもはいっているが、栗田寛の歌碑

社殿地に上がる石段脇に左右に二頭ずつの狛犬が。




拝殿

拝殿向拝部

社額

神紋は「三つ葉葵」

祭神は、天速玉姫命。
清和天皇、陽成天皇、光孝天皇の3代30年間(858~887)を扱った日本三代実録(延喜元年(901)完成)によれば、「貞観八年(866)五月二十七日庚午常陸国正六位上天之速玉神」とある。
泉神社の由緒では、霊玉の神霊であるという。
また、天速玉姫命は天棚機姫命(あめのたなばたひめのみこと)の娘で、天太玉命(あまのふとだまのみこと)の后神、天比理刀咩命(あめのひりのめのみこと)ともいうとある。
霊玉の女神とする説のほかに、その名から速玉男命と同神とする説、
「速」も「豊」 も美称であるとして豊玉姫と同神とする説。
玉=瀧で、速い滝の神とする説などがある。
ちなみに、天比理刀咩命は安房一之宮・洲崎神社および品川神社の祭神である。
本殿

最後に脇参道に「馬力碑」というのがあった。

最初に載せたのが「出征軍馬記念碑」である。
馬で始まり、馬で終わった(笑)
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長幡部(ながはたべ)神社(延喜式内社)/茨城県常陸太田市
20141224
所在地:茨城県常陸太田市幡町字明神森539番地
11月28日の「関八州式内社めぐり」で「薩都神社」に続き参拝しました。
今回も写真は池田さんが撮ってきてくれたものです。
参道入り口
ここは街道の辻になっています。

馬頭観音三基、地蔵一基がありました。

安永6年(1777)造立馬頭観音の台座が道標になっている。

「北二十八社長幡神社 東真弓山佐波波」

大正5年に馬車組合が造立した馬頭観音

しばらく民家の中の参道です。

やがて切り通しの中の参道。いいですね。

一の鳥居と社号標のところに来ましたが、社号標は倒れています。

一の鳥居の上部がありません。

近くに鳥居の上部とか社額がありました。



まだ大震災の被害が残っています。
式内社 常陸國久慈郡 長幡部神社、旧郷社
社名にある「長幡」とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。
『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す。また『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、美濃の本巣国造と同族であるという。
創建について、「常陸国風土記」によると、天照大神の孫の「珠売美万命(すめみまのみこと〉」が筑紫の日向(高天原、高千穂)に降臨した際に、衣服を織る目的で「綺日女命(かむはたひめのみこと)」が機織り機を持参して同行した。その後、「綺日女命」は日向から三野国(現:美濃市)に到った由。
そして崇神天皇の代に、その子孫にして、長峰部の遠縁にあたる「多弖命(たてのみこと)」が美濃から常陸国の久慈に遷り、機屋を建てて初めて布(長幡)を織ったと伝える。この織物はつわものの剣でも裁ち切る事が出来ないほど丈夫な織物であったという。後世になって、ここで織られた布は名声高き「結城紬」を始め、織物の原点にもなった由。それ故、機業の祖神と仰がれた。
そういう事から、祭神の子孫が遠い祖先である「綺日女命(かむはたひめのみこと)」と「多弖命(たてのみこと))」を祀ったのが「長幡部神社」となったという。
そして延書の時代に常陸国二十八社中、久慈郡七社の-つとして式内社に列せられたという。
社号の変遷:
奈良時代初期の和銅了年(了13)に編纂された「常陸国風土記」には「長幡部之社」と記されている。その後、源頼義が奥州征伐(1060)戦勝を祈願、勝利凱旋後、社地に鹿島・三島・神明・若宮の「四所明神」を勧請したという。この「四所明神」ガ盛大になって「長幡部神社」の社号を失い、その後、単に「鹿島明神」とのみ称するようになったと伝える。中世以降は「小幡足明神」、「駒形神社」と称し、延亨年間(1744-1748)に到り、古老の言により元の社号「長幡部神社」に戻ったという。
二の鳥居(両部鳥居)
注連縄が普通ですね。

手水舎

石段を上がると社殿です。

先に資料館をのぞきます。

機織り機、神輿、纏いなどが置かれている。
機織り機があるのが、このお宮らしいです。

拝殿

注連縄ですが、鳥居は普通の結びでしたが、拝殿では二本の注連縄の本を中央で合わせています。

これは前の「薩都神社」と同じ。
その前の天之志良波神社は三つの波型でした。「稲村神社」は普通の左末右本。「静神社」は細くたるませた前垂れ。
こうして振り返ってみると、この辺では注連縄のバリエーションが豊富です。
社額

本殿

本殿は神明造の屋根に銅板を葺いて、むりやり流造風にしている。


神紋は「右三つ巴」

境内社ですが、それぞれに社名札がついていて助かりました。
松尾神社

石尊神社

天満宮

阿天利神社と稲荷神社

稲荷神社

熊野神社

愛宕神社

浅間神社と羽黒神社

鷺森(さぎのもり)神社

雷(いかづち)神社

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11月28日の「関八州式内社めぐり」で「薩都神社」に続き参拝しました。
今回も写真は池田さんが撮ってきてくれたものです。
参道入り口
ここは街道の辻になっています。

馬頭観音三基、地蔵一基がありました。

安永6年(1777)造立馬頭観音の台座が道標になっている。

「北二十八社長幡神社 東真弓山佐波波」

大正5年に馬車組合が造立した馬頭観音

しばらく民家の中の参道です。

やがて切り通しの中の参道。いいですね。

一の鳥居と社号標のところに来ましたが、社号標は倒れています。

一の鳥居の上部がありません。

近くに鳥居の上部とか社額がありました。



まだ大震災の被害が残っています。
式内社 常陸國久慈郡 長幡部神社、旧郷社
社名にある「長幡」とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。
『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す。また『古事記』開化天皇段によれば、日子坐王(開化天皇第3皇子)の子・神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖とし、美濃の本巣国造と同族であるという。
創建について、「常陸国風土記」によると、天照大神の孫の「珠売美万命(すめみまのみこと〉」が筑紫の日向(高天原、高千穂)に降臨した際に、衣服を織る目的で「綺日女命(かむはたひめのみこと)」が機織り機を持参して同行した。その後、「綺日女命」は日向から三野国(現:美濃市)に到った由。
そして崇神天皇の代に、その子孫にして、長峰部の遠縁にあたる「多弖命(たてのみこと)」が美濃から常陸国の久慈に遷り、機屋を建てて初めて布(長幡)を織ったと伝える。この織物はつわものの剣でも裁ち切る事が出来ないほど丈夫な織物であったという。後世になって、ここで織られた布は名声高き「結城紬」を始め、織物の原点にもなった由。それ故、機業の祖神と仰がれた。
そういう事から、祭神の子孫が遠い祖先である「綺日女命(かむはたひめのみこと)」と「多弖命(たてのみこと))」を祀ったのが「長幡部神社」となったという。
そして延書の時代に常陸国二十八社中、久慈郡七社の-つとして式内社に列せられたという。
社号の変遷:
奈良時代初期の和銅了年(了13)に編纂された「常陸国風土記」には「長幡部之社」と記されている。その後、源頼義が奥州征伐(1060)戦勝を祈願、勝利凱旋後、社地に鹿島・三島・神明・若宮の「四所明神」を勧請したという。この「四所明神」ガ盛大になって「長幡部神社」の社号を失い、その後、単に「鹿島明神」とのみ称するようになったと伝える。中世以降は「小幡足明神」、「駒形神社」と称し、延亨年間(1744-1748)に到り、古老の言により元の社号「長幡部神社」に戻ったという。
二の鳥居(両部鳥居)
注連縄が普通ですね。

手水舎

石段を上がると社殿です。

先に資料館をのぞきます。

機織り機、神輿、纏いなどが置かれている。
機織り機があるのが、このお宮らしいです。

拝殿

注連縄ですが、鳥居は普通の結びでしたが、拝殿では二本の注連縄の本を中央で合わせています。

これは前の「薩都神社」と同じ。
その前の天之志良波神社は三つの波型でした。「稲村神社」は普通の左末右本。「静神社」は細くたるませた前垂れ。
こうして振り返ってみると、この辺では注連縄のバリエーションが豊富です。
社額

本殿

本殿は神明造の屋根に銅板を葺いて、むりやり流造風にしている。


神紋は「右三つ巴」

境内社ですが、それぞれに社名札がついていて助かりました。
松尾神社

石尊神社

天満宮

阿天利神社と稲荷神社

稲荷神社

熊野神社

愛宕神社

浅間神社と羽黒神社

鷺森(さぎのもり)神社

雷(いかづち)神社

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薩都(さと)神社(延喜式内社)/茨城県常陸太田市
20141223
所在地:茨城県常陸太田市里野宮町1052
11月28日の「関八州式内社めぐり」で「天志良波神社」、「西山の里」に続いて参拝しました。
今回も写真は池田さんが撮ってきてくれたものを使用しています。
社号標
「郷社」と共に「式内」も埋められています。
式内社 常陸國久慈郡 薩都神社、旧郷社

まず、『常陸国風土記』より
此より北に薩都の里あり。古、國栖(くず)あり。名を土雲(つちぐも)といふ。ここに、兎上命(うなかみのみこと)、兵を發して誅ひ滅しき。時に、能く殺して、「福(さち)なるかも」と言へりき。因りて佐都(さつ)と名づく。北の山に有らゆる白土は、畫に塗るべし。
東の大き山を、賀毘禮の高峯と謂ふ。即ち天つ神有す。名を立速男命と稱ふ。一名を速経和気命なり。
本、天より降りて、即ち松澤の松の樹の八俣の上に坐しき。神の祟、甚だ厳しく、人あり、向きて大小便を行る時は、災を示し、疾苦を到さしめければ、近く側に居む人、毎に甚く辛苦みて、状を具べて朝に請ひましき。
片岡の大連を遣はして、敬ひ祭らしむるに、祈みてまをししく、「今、此處に坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。理、坐すべからず。
宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」とまをしき。是に、神、祷告を聴きて、遂に賀毘禮の峯に登りましき。其の社は、石を以ちて垣と為し・・・
(以上『常陸国風土記』)
古事記では、吉野近辺の山奥の岩屋に、尾が生えている「国巣」と「土雲」が出てきます。「国巣」は朝廷に従い、「土雲」は反抗して討たれますが、両者は同族と思われます。
ここでは國栖を「従わない者」の意味に使い、族名を「土雲」としていますね。
「土雲」を土蜘蛛とも記述されますが、舞台は九州ですね。
立連日男命は、松沢(現在の瑞竜町)の松の木に降臨されたが、そのあたりは人家に近く、不浄であったため、神は村人に厳しく崇り、一方里人はその厳しい崇りを畏れ、延暦7年(788)に社を建てて祀った。
朝廷は片岡の大連を派遣し、高い山の清浄なところに移るよう奏上したところ、神はその願いをお聞き入れになり、延暦19年(800)、賀毘礼(かびれ)の峰(現在の日立市入四間町)にお移りになった。
しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝するのが困難なため、大同元年(806)に、現在の鎮座地の近くに遷座された。永正年間(1500年ごろ)以降、里川沿岸の佐都郷給33か村の総鎮守として広く信仰され、大永2年(1522)に現在地に移された。(社伝)延書式内常陸国28社の一つ、久慈都7座のうちのこの宮と称えられ、明治6年郷社に列格された。昭和27年6月14日、宗教法人設立。
立派な松があります。祭神の降臨も松の木ですからね。

神橋

参道

情報では一の鳥居は震災で倒壊し、この両部鳥居は本来二の鳥居とのこと。

境内

神楽殿
此方の神楽殿は社殿と同じ頃の造営とされています。

狛犬
嘉永6年(1853)生まれの人が、90歳記念に昭和17年に奉納したもの。



拝殿は元文二年(1737)の建築の入母屋造。

神紋は「右三つ巴」

社額

拝殿内部

幣殿

三十六歌仙、計42枚あり明治時代に氏子から奉納されたと思われる。




「これは三十六歌仙なのかな?」という声あり。
奉納者の名前だけがはっきりしているせいもある。
写真を拡大してみた。ほとんどははっきりしないが、かろうじて読み取れるものあり、やはり三十六歌仙だった。
藤原敏行

柿本人麻呂

本殿は宝永二年(1705)建築の入母屋流造。



木鼻や頭貫の彫刻が見事

祭神は立連日男命(たちはやひをのみこと)(別名速経和気命 はやふわけのみこと))
御岩山中の、<薩都神社>について、『常陸国風土記』久慈郡の条に記された「賀毘礼の高峰」(現在の御岩山)に坐す神は、立連日命(タチハヤヒノミコト)といい、雷神の性格があるとみられている。
この山の神をまつる里宮が延書式内社の「薩都神社」(常陸太田市星野宮町)である。御岩山中の<薩都神社>は山宮にあたるわけである。その関係は、春の稲作が始まるころに田の神(祖霊・雷神)として里へ降り、稲作が終わった後に山に昇るという農耕儀礼を意味する。
境内社はほとんどが、どれがどれか不明ですが、多賀神社、息栖神社、富士神社、雷神社、春日神社、鷺森神社、愛宕神社、稲荷神社、八雷神社、鹿島神社、香取神社、素鵞神社という情報です。
鹿嶋神社

香取神社

愛宕神社

稲荷神社

以下不明です。





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11月28日の「関八州式内社めぐり」で「天志良波神社」、「西山の里」に続いて参拝しました。
今回も写真は池田さんが撮ってきてくれたものを使用しています。
社号標
「郷社」と共に「式内」も埋められています。
式内社 常陸國久慈郡 薩都神社、旧郷社

まず、『常陸国風土記』より
此より北に薩都の里あり。古、國栖(くず)あり。名を土雲(つちぐも)といふ。ここに、兎上命(うなかみのみこと)、兵を發して誅ひ滅しき。時に、能く殺して、「福(さち)なるかも」と言へりき。因りて佐都(さつ)と名づく。北の山に有らゆる白土は、畫に塗るべし。
東の大き山を、賀毘禮の高峯と謂ふ。即ち天つ神有す。名を立速男命と稱ふ。一名を速経和気命なり。
本、天より降りて、即ち松澤の松の樹の八俣の上に坐しき。神の祟、甚だ厳しく、人あり、向きて大小便を行る時は、災を示し、疾苦を到さしめければ、近く側に居む人、毎に甚く辛苦みて、状を具べて朝に請ひましき。
片岡の大連を遣はして、敬ひ祭らしむるに、祈みてまをししく、「今、此處に坐せば、百姓近く家して、朝夕に穢臭はし。理、坐すべからず。
宜、避り移りて、高山の浄き境に鎮まりますべし」とまをしき。是に、神、祷告を聴きて、遂に賀毘禮の峯に登りましき。其の社は、石を以ちて垣と為し・・・
(以上『常陸国風土記』)
古事記では、吉野近辺の山奥の岩屋に、尾が生えている「国巣」と「土雲」が出てきます。「国巣」は朝廷に従い、「土雲」は反抗して討たれますが、両者は同族と思われます。
ここでは國栖を「従わない者」の意味に使い、族名を「土雲」としていますね。
「土雲」を土蜘蛛とも記述されますが、舞台は九州ですね。
立連日男命は、松沢(現在の瑞竜町)の松の木に降臨されたが、そのあたりは人家に近く、不浄であったため、神は村人に厳しく崇り、一方里人はその厳しい崇りを畏れ、延暦7年(788)に社を建てて祀った。
朝廷は片岡の大連を派遣し、高い山の清浄なところに移るよう奏上したところ、神はその願いをお聞き入れになり、延暦19年(800)、賀毘礼(かびれ)の峰(現在の日立市入四間町)にお移りになった。
しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝するのが困難なため、大同元年(806)に、現在の鎮座地の近くに遷座された。永正年間(1500年ごろ)以降、里川沿岸の佐都郷給33か村の総鎮守として広く信仰され、大永2年(1522)に現在地に移された。(社伝)延書式内常陸国28社の一つ、久慈都7座のうちのこの宮と称えられ、明治6年郷社に列格された。昭和27年6月14日、宗教法人設立。
立派な松があります。祭神の降臨も松の木ですからね。

神橋

参道

情報では一の鳥居は震災で倒壊し、この両部鳥居は本来二の鳥居とのこと。

境内

神楽殿
此方の神楽殿は社殿と同じ頃の造営とされています。

狛犬
嘉永6年(1853)生まれの人が、90歳記念に昭和17年に奉納したもの。



拝殿は元文二年(1737)の建築の入母屋造。

神紋は「右三つ巴」

社額

拝殿内部

幣殿

三十六歌仙、計42枚あり明治時代に氏子から奉納されたと思われる。




「これは三十六歌仙なのかな?」という声あり。
奉納者の名前だけがはっきりしているせいもある。
写真を拡大してみた。ほとんどははっきりしないが、かろうじて読み取れるものあり、やはり三十六歌仙だった。
藤原敏行

柿本人麻呂

本殿は宝永二年(1705)建築の入母屋流造。



木鼻や頭貫の彫刻が見事

祭神は立連日男命(たちはやひをのみこと)(別名速経和気命 はやふわけのみこと))
御岩山中の、<薩都神社>について、『常陸国風土記』久慈郡の条に記された「賀毘礼の高峰」(現在の御岩山)に坐す神は、立連日命(タチハヤヒノミコト)といい、雷神の性格があるとみられている。
この山の神をまつる里宮が延書式内社の「薩都神社」(常陸太田市星野宮町)である。御岩山中の<薩都神社>は山宮にあたるわけである。その関係は、春の稲作が始まるころに田の神(祖霊・雷神)として里へ降り、稲作が終わった後に山に昇るという農耕儀礼を意味する。
境内社はほとんどが、どれがどれか不明ですが、多賀神社、息栖神社、富士神社、雷神社、春日神社、鷺森神社、愛宕神社、稲荷神社、八雷神社、鹿島神社、香取神社、素鵞神社という情報です。
鹿嶋神社

香取神社

愛宕神社

稲荷神社

以下不明です。





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麻須羅神 (ますらがみ)/日本の神々の話
20141222
島根県松江市「佐太神社」の由緒に出てくる神。
『出雲国風土記』によれば、「むかし、神魂命(かみたまのみこと=神産巣日神:かみむすびのかみ)の御子の枳佐加比売命(きさがいひめのみこと)が佐太大神を産もうとなさったとき、弓矢がなくなった。
比売神が『今自分が産んだ御子が麻須羅神の御子ならば、なくなった弓矢よ出てこい』というと、水の間に角の弓矢が流れ出てきた。比売神は弓矢を手にとって『これはあの弓矢ではない』といっで投げ捨てられた。
すると金の弓矢が流れてきた。比売神はこれを待ち受けてお取りになり、『暗い窟だこと』といって、金の弓矢で岸壁を射通された」
(原文は「産れまさむとする時に、弓箭亡せ坐しき。爾時御狙神魂命の御子、枳佐加比売命、願ぎたまひつらく、吾が御子、麻須羅神の御子に坐さば、亡せし弓箭出で来と願ぎ坐しき。爾時角の弓箭、水の随に流れ出づ。爾時弓を取らして詔りたまひつらく、此は弓箭に非ずと詔りたまひて、擲げ廃て給ひつ。又金の弓箭流れ出で来けり。即ち待ち取らし坐して、闇鬱き窟なるかもと詔りたまひて、射通し坐しき。即ち御租枳佐加比売命の社此処に坐す」
この説話の「麻須羅神(ますらかみ)」というのは、雄々しく武勇のすぐれた武の霊力を持った神をいう。
縄文時代から弓矢は貴重なる武器であったことは疑いない。
「角(つの)の弓箭(ゆみや)」とは弓矢の矢じりに獣角を用いたもの。
「角の弓箭」は投げ廃(う)てられて、
「金(かね)の弓箭」、つまり金属(鉄等)で出来た弓矢が登場し、それが暗き洞窟をも射通す力があると讃(たた)えられている。
この時代、金属が「霊力」を持つと思われるほど貴重な宝であったことがわかる。
また、麻須羅神こそ、ほんとうの佐田大神とする説あり。
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『出雲国風土記』によれば、「むかし、神魂命(かみたまのみこと=神産巣日神:かみむすびのかみ)の御子の枳佐加比売命(きさがいひめのみこと)が佐太大神を産もうとなさったとき、弓矢がなくなった。
比売神が『今自分が産んだ御子が麻須羅神の御子ならば、なくなった弓矢よ出てこい』というと、水の間に角の弓矢が流れ出てきた。比売神は弓矢を手にとって『これはあの弓矢ではない』といっで投げ捨てられた。
すると金の弓矢が流れてきた。比売神はこれを待ち受けてお取りになり、『暗い窟だこと』といって、金の弓矢で岸壁を射通された」
(原文は「産れまさむとする時に、弓箭亡せ坐しき。爾時御狙神魂命の御子、枳佐加比売命、願ぎたまひつらく、吾が御子、麻須羅神の御子に坐さば、亡せし弓箭出で来と願ぎ坐しき。爾時角の弓箭、水の随に流れ出づ。爾時弓を取らして詔りたまひつらく、此は弓箭に非ずと詔りたまひて、擲げ廃て給ひつ。又金の弓箭流れ出で来けり。即ち待ち取らし坐して、闇鬱き窟なるかもと詔りたまひて、射通し坐しき。即ち御租枳佐加比売命の社此処に坐す」
この説話の「麻須羅神(ますらかみ)」というのは、雄々しく武勇のすぐれた武の霊力を持った神をいう。
縄文時代から弓矢は貴重なる武器であったことは疑いない。
「角(つの)の弓箭(ゆみや)」とは弓矢の矢じりに獣角を用いたもの。
「角の弓箭」は投げ廃(う)てられて、
「金(かね)の弓箭」、つまり金属(鉄等)で出来た弓矢が登場し、それが暗き洞窟をも射通す力があると讃(たた)えられている。
この時代、金属が「霊力」を持つと思われるほど貴重な宝であったことがわかる。
また、麻須羅神こそ、ほんとうの佐田大神とする説あり。
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西山の里/関八州式内社めぐり・番外
20141221
所在地:茨城県常陸太田市新宿町576
この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日の「関八州式内社めぐり」で「天志良波神社」から「薩都神社」に移動する途中、訪れました。
徳川光圀公の隠居処であった西山荘の入口にある休憩施設「董源」、西山荘と桃源を結ぶおよそ8,000平方メートルの園地、助さん住居跡、西山荘があります。
案内図

紅葉を楽しみました。





助さん旧居跡への遊歩道


【助さん旧居跡】



西山荘に向かいます。

【西山荘碑】


【朱 舜水碑】
朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。
舜水は仕官はしていなかったものの鄭親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権の魯王や、台湾に拠った鄭成功を支援し、永暦13年(1659年)7月の南京攻略戦にも参加している。
舜水は鄭成功が鎖国政策下の日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていたが、南京攻略戦の敗退後、万治2年(1659年)冬に復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命する。万治3年(1660年)には筑後柳河藩の儒者・安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていたが、寛文5年(1665年)6月には常陸水戸藩主の徳川光圀が彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年7月には江戸に移住する。
光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。


【西山山荘記碑】




西山山荘記 正二位勳二等徳川昭武篆額』
西山公山荘在常陸国久慈郡西山距太田街十余丁元禄三年公所隠棲也』公之盛徳大業行實一卷詳之詎要贊述乎明治三十三年十一月 勅使就』公墳塋贈正一位 詔曰夙慨皇道隠晦深恐武門驕盈明名分以託志於筆』削辨正邪而致意於勧懲洵是勤王倡首實爲復古指南天眷如斯公遺烈於』是乎大顯也夫身居三家之一官陞三位中納言冨貴榮華何求有不得乎而』高蹈勇退誅茅結廬寄興煙霞養素丘園西山遺事曰山荘尤極幽寂鳶尾草』生茂茅簷蔦蘿蔓紏纏柴門不設垣墻倚山爲圍通路之傍厪結竹籬耳屋高』八尺五寸弱梁長十二尺弱柱皆用圓杉竹椽板廊畿類樵夫之居庭砌一隅』飛泉迸澗潺湲洗耳前後之池種紅白蓮書牕之下栽梅桂玉蘭籬邊移垂柳』四五株近田飼雙鶴前山放一鹿而鶴鹿善馴山外邨徑兩側樹桃數百株小』川流其間柴橋架之名桃源橋公在山荘十歳觸時感物吟詠自遺常語左右』曰昔中納言藤原顯基願無罪而觀配所月我亦慕其風雅矣今距元禄三年』二百十餘年山荘猶存舊規小門老屋僻在于窮山深樹之間若無意而過之』則是山中樵家耳欽慕入門則覺僊隠龍盤之蹟表儉徳以垂訓矣公甞瘞歴』任衣冠於瑞龍山銘碑曰月雖隠瑞龍雲光暫留西山峰満山樹艸至今猶隠』約帯餘光豈可不崇敬乎遠近有志者胥謀建碑山下余恭作之記』
明治三十八年八月 珂北 野口勝一譔文并書』
協賛者の最後に「常陸山」の名があった。

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この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日の「関八州式内社めぐり」で「天志良波神社」から「薩都神社」に移動する途中、訪れました。
徳川光圀公の隠居処であった西山荘の入口にある休憩施設「董源」、西山荘と桃源を結ぶおよそ8,000平方メートルの園地、助さん住居跡、西山荘があります。
案内図

紅葉を楽しみました。





助さん旧居跡への遊歩道


【助さん旧居跡】



西山荘に向かいます。

【西山荘碑】


【朱 舜水碑】
朱 舜水(しゅ しゅんすい、万暦28年10月12日(1600年11月17日) - 天和2年4月17日(1682年5月24日))は、明の儒学者である。江戸時代初期に来日。
舜水は仕官はしていなかったものの鄭親子など明朝遺臣が華南を中心に明朝再興のため活動を開始すると運動に参加し、軍資金を得るため日本やヴェトナムへも渡り貿易などを行い、南明政権の魯王や、台湾に拠った鄭成功を支援し、永暦13年(1659年)7月の南京攻略戦にも参加している。
舜水は鄭成功が鎖国政策下の日本へ救援を求める日本請援使として派遣されていたが、南京攻略戦の敗退後、万治2年(1659年)冬に復明運動を諦めて日本の長崎へ亡命する。万治3年(1660年)には筑後柳河藩の儒者・安東省菴に援助され、流寓生活を送る。明末清初の時期には中国から日本へ多くの文人が渡来し、大名家では彼らを招聘することが行われていたが、寛文5年(1665年)6月には常陸水戸藩主の徳川光圀が彰考館員の小宅処斎を派遣して舜水を招聘し、同年7月には江戸に移住する。
光圀は舜水を敬愛し、水戸学へ思想的影響を与えたほか、光圀の就藩に際しては水戸へも赴いており、光圀の修史事業(後に『大日本史』と命名)の編纂に参加した安積澹泊や、木下道順、山鹿素行らの学者とも交友し、漢籍文化を伝える。83歳で死去。


【西山山荘記碑】




西山山荘記 正二位勳二等徳川昭武篆額』
西山公山荘在常陸国久慈郡西山距太田街十余丁元禄三年公所隠棲也』公之盛徳大業行實一卷詳之詎要贊述乎明治三十三年十一月 勅使就』公墳塋贈正一位 詔曰夙慨皇道隠晦深恐武門驕盈明名分以託志於筆』削辨正邪而致意於勧懲洵是勤王倡首實爲復古指南天眷如斯公遺烈於』是乎大顯也夫身居三家之一官陞三位中納言冨貴榮華何求有不得乎而』高蹈勇退誅茅結廬寄興煙霞養素丘園西山遺事曰山荘尤極幽寂鳶尾草』生茂茅簷蔦蘿蔓紏纏柴門不設垣墻倚山爲圍通路之傍厪結竹籬耳屋高』八尺五寸弱梁長十二尺弱柱皆用圓杉竹椽板廊畿類樵夫之居庭砌一隅』飛泉迸澗潺湲洗耳前後之池種紅白蓮書牕之下栽梅桂玉蘭籬邊移垂柳』四五株近田飼雙鶴前山放一鹿而鶴鹿善馴山外邨徑兩側樹桃數百株小』川流其間柴橋架之名桃源橋公在山荘十歳觸時感物吟詠自遺常語左右』曰昔中納言藤原顯基願無罪而觀配所月我亦慕其風雅矣今距元禄三年』二百十餘年山荘猶存舊規小門老屋僻在于窮山深樹之間若無意而過之』則是山中樵家耳欽慕入門則覺僊隠龍盤之蹟表儉徳以垂訓矣公甞瘞歴』任衣冠於瑞龍山銘碑曰月雖隠瑞龍雲光暫留西山峰満山樹艸至今猶隠』約帯餘光豈可不崇敬乎遠近有志者胥謀建碑山下余恭作之記』
明治三十八年八月 珂北 野口勝一譔文并書』
協賛者の最後に「常陸山」の名があった。

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蠅伊呂泥(はえいろね)/日本の神々の話
20141220
蠅とか泥とか入った名前で、なんじゃこれ、と思うが、有名な大物主伝説に登場する「百襲姫」の母親である。
古事記には意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめの)命の名で登場するが、「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」を生んだ、と書かれているだけである。
淡路之御井宮におられた和知都美(わちつみの)命の娘という。妹に蠅伊呂杼(はえいろと)がいる。
『日本書紀』では倭国香媛(やまとのくにかひめ)とされる人物で、またの名を絙某姉(はえいろね)とする。
七代孝霊の妃となって倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)を生んだとされる。
百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となった姫である。
これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫はこれを後悔し、腰を落とした際に箸が陰部を突いたため死んでしまい、大市に葬られた。
時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったといい、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。
この有名な「大物主伝説」は古事記でも語られているが、古事記でのヒロインは「活玉依毘売(いくたまよりびめ)であり、話も異なる。
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古事記には意富夜麻登玖邇阿礼比売(おおやまとくにあれひめの)命の名で登場するが、「夜麻登登母母曽毘売(やまととももそびめ)」を生んだ、と書かれているだけである。
淡路之御井宮におられた和知都美(わちつみの)命の娘という。妹に蠅伊呂杼(はえいろと)がいる。
『日本書紀』では倭国香媛(やまとのくにかひめ)とされる人物で、またの名を絙某姉(はえいろね)とする。
七代孝霊の妃となって倭途途日百襲媛(やまとととひももそひめ)を生んだとされる。
百襲姫は大物主神(三輪山の神、大神神社祭神)の妻となった姫である。
これによると、百襲姫は大物主神の妻となったが、大物主神は夜にしかやって来ず昼に姿は見せなかった。百襲姫が明朝に姿を見たいと願うと、翌朝大物主神は櫛笥の中に小蛇の姿で現れたが、百襲姫が驚き叫んだため大物主神は恥じて御諸山(三輪山)に登ってしまった。百襲姫はこれを後悔し、腰を落とした際に箸が陰部を突いたため死んでしまい、大市に葬られた。
時の人はこの墓を「箸墓」と呼び、昼は人が墓を作り、夜は神が作ったといい、また墓には大坂山(現・奈良県香芝市西部の丘陵)の石が築造のため運ばれたという。
この有名な「大物主伝説」は古事記でも語られているが、古事記でのヒロインは「活玉依毘売(いくたまよりびめ)であり、話も異なる。
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天志良波神社(延喜式内社)/茨城県常陸太田市
20141218
所在地:茨城県常陸太田市白羽町1670
この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日に歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で「静神社」、「稲村神社」に続いて訪れました。
入り口の表示

しばらく畑道を行くと、民家への入り口みたいになっている。宮司さんの家?

入り口

一の鳥居と社号標

社号標は、「郷社」だけでなく「延喜式内」も埋められている。
式内社 常陸國久慈郡 天之志良波神社、旧郷社

黄色い鳥居は珍しい。

天志良波(あめのしらは)神社由緒:
御祭神、天白羽命は天照大神天岩戸にかくれましゝ時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父神 天日鷲命は白和幣を作られた。弟神健葉槌命と共に麻を植え織物をされた。白羽は衣服の ことである。
一説に延暦14年坂上田村麿将軍東征の時、創建すと云ふも詳かでない。
天志良波神、又長白羽神(古語拾遺)
貞観8年5月27日正六位上天志良波神従五位下、同 16年12月29日従五位上の神階(三代実録)式内小社久慈郡七座の一、天文13年1 2月11日佐竹義篤社殿修営遷宮式あり。(棟札)元禄中水戸藩徳川光圀公の命で大聖院の社務をやめ神職の奉仕とす。享保12年9月徳川実公社殿の営修あり、神宝を献じ圭 田2石6斗3升7合を納る。天保15年斎昭の命により白羽、田渡、西宮、三才、小沢五 ヶ村の鎮守となる。
明治4年4月1日郷社に列格、同6年4月村社となる。同44年6月12日(第300 号)供進指定。昭和27年6月16日宗教法人設立。
-『平成祭データ』-
参道

まず石段があるが、その下右に「女人講」の石碑が倒れたままになっている。東日本大震災の際であろうか。

嘉永6年といえば、ペルリ来航の年である。

けっこう急な石段

石段を登ると踊り場がある。
手水舎

境内社と納札所

そこから石段を上がると拝殿。宮司さんが案内してくれた。

拝殿の中に入れていただいた。
(
神額

奉納額

奉納絵馬

これは、着ているものに菊水の模様があるので、「桜井の別れ」でしょう。

御祭神は天白羽命(天之志良波神 長白羽神)
本殿

神紋は「三つ葉葵」です。
社殿右の山腹にある三峰神社。日の出の遥拝所とのこと。


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この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日に歴史クラブの「関八州式内社めぐり」で「静神社」、「稲村神社」に続いて訪れました。
入り口の表示

しばらく畑道を行くと、民家への入り口みたいになっている。宮司さんの家?

入り口

一の鳥居と社号標

社号標は、「郷社」だけでなく「延喜式内」も埋められている。
式内社 常陸國久慈郡 天之志良波神社、旧郷社

黄色い鳥居は珍しい。

天志良波(あめのしらは)神社由緒:
御祭神、天白羽命は天照大神天岩戸にかくれましゝ時、天太玉命に属し、麻で青和幣を作り、父神 天日鷲命は白和幣を作られた。弟神健葉槌命と共に麻を植え織物をされた。白羽は衣服の ことである。
一説に延暦14年坂上田村麿将軍東征の時、創建すと云ふも詳かでない。
天志良波神、又長白羽神(古語拾遺)
貞観8年5月27日正六位上天志良波神従五位下、同 16年12月29日従五位上の神階(三代実録)式内小社久慈郡七座の一、天文13年1 2月11日佐竹義篤社殿修営遷宮式あり。(棟札)元禄中水戸藩徳川光圀公の命で大聖院の社務をやめ神職の奉仕とす。享保12年9月徳川実公社殿の営修あり、神宝を献じ圭 田2石6斗3升7合を納る。天保15年斎昭の命により白羽、田渡、西宮、三才、小沢五 ヶ村の鎮守となる。
明治4年4月1日郷社に列格、同6年4月村社となる。同44年6月12日(第300 号)供進指定。昭和27年6月16日宗教法人設立。
-『平成祭データ』-
参道

まず石段があるが、その下右に「女人講」の石碑が倒れたままになっている。東日本大震災の際であろうか。

嘉永6年といえば、ペルリ来航の年である。

けっこう急な石段

石段を登ると踊り場がある。
手水舎

境内社と納札所

そこから石段を上がると拝殿。宮司さんが案内してくれた。

拝殿の中に入れていただいた。
(

神額

奉納額

奉納絵馬

これは、着ているものに菊水の模様があるので、「桜井の別れ」でしょう。

御祭神は天白羽命(天之志良波神 長白羽神)
本殿

神紋は「三つ葉葵」です。
社殿右の山腹にある三峰神社。日の出の遥拝所とのこと。


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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧澤村・田中村・峰村(2)
20141216
12月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」の続編です。
旧澤村から歩いてきて、西武線の踏切を渡ると旧田中村に入ります。
<旧田中村>
「新編武蔵風土記稿」

ここは、右側が須釜電機(ケーブルテレビ)の三叉路です。

明治14年測量の「フランス式測量地図」で③のところ。

昭和28年の地図で「3」のところ。

現在の地図で③のところ。

ここにあった、「みちしるべ」が後述の田中共同墓地入り口にあります。
【安穏寺跡】
「新編武蔵風土記稿」

澤村に領地を賜った小笠原安勝が陣地を置いたと伝わる。
明治になり廃寺となったが、先述の昭和28年の地図には載っている。
(天岑寺入り口に八角堂が建てられ、安穏寺という名前が出ている。聞けば天岑寺住職の次男が再興したとのこと。)
旧安穏寺の北限。右側は「狭山東京線」、交差点は国道16号線。

旧安穏寺の印の塔

「清水濱臣の墓」と一緒に旧安穏寺住職の卵塔が並んでいる。

ついでに「清水濱臣の墓」を。

この道が、旧安穏寺の参道。

【田中の稲荷神社】

小笠原家の奉納と思われ、安穏寺の守護神として建立されたと推定される。
本殿:本殿の中に厨子があり稲穂をかついで手に鎌を持つ老翁の立像が神像として伝わっている。
瑞光寺の僧が奉納。
この神像を、まだ見たことがない。


本殿正面の扉は小笠原家の副紋「五七桐」。

覆殿:屋根の棟に小笠原家の家紋である三階菱紋がある。

梁上の暮股に、切り抜きで「寛延庚午」とあり、寛延3年(1750)の建立と思われる。荻野高次郎義勝の作。
田中稲荷神社の境内社:
○塩竃社
昭和13年5月21日建立。安産祈願にご利益があると伝わる。


○牛頭天王社

○富士浅間宮(石碑)
神社の裏側に小高く土盛りがしてあり、段を登ると頂上に石碑が建っている。

田中村の人たちが、天下泰平を祈って、村中の助力で富士山が見える場所に富士塚をつくり信仰し
ていたと思える。
現在もよく晴れた日には塚の前方、(市民会館の屋根ごしに)はるか遠くに霊峰富士山がよく見える。
横の道に降りて、登ってみた。

途中「小御嶽神社」の碑がある。
「小御嶽大権現 石尊 小天狗 大天狗」と彫ってある。


つづれ折れの参道を登ると、頂上に「富士浅間宮」の碑。


【田中共同墓地】
入り口に、道しるべのついた観音碑がある。
この記事の最初の三叉路に立っていた道しるべである。
左右に貞享元年甲子(1684)造立、道師瑞光寺○○と彫られている。
右側に「しんがし」、左側に「かわごへ」とある。


共同墓地入り口の広場は、昔阿弥陀堂があった場所である。

○宝篋印塔

先生役の池田さんは、歴史講座研究コースの時のテーマが市内宝篋印塔であり、ここの宝篋印塔についても詳細な説明資料が配布された。
ここでは、特徴を簡単に述べておく。
・正面を北西に向ける。 台石を含めると、四メートル近く有る狭山市域屈指の宝筐印塔である。
・江戸時代中期以降の塔に共通の、隅飾りが大きく外に開く特徴を持つ。
・江戸時代に関東で造立された宝筐印塔の全ての要素を今に保持している塔。
種子シツチリアと掲頌(基礎正面)
(
荘厳体のシツチリアは、狭山市内では柏原円光寺境内の宝筐印塔(明智ハ年1766)にも見られるが、数が少ない。
掲頌は大日経(空海が久米寺の東塔で発見し、入唐を決意させた経典と伝わる)の-部で、「自己に目覚めるということは、 あるがままの自分の心を知ることである」という意味がある。
右側面の掲頒と左側面の掲頒


右側面の掲頒は、「一切如来心秘密全身舎利葺筐印陀羅尼経」の「功徳芦の「閑地獄之門」という節に有ることが判った。
左側面の「=口道」で終わる掲頒は、廻向文と呼ばれるもので、浄土門以外の諸宗が用いるとされている。
入間川村の枝村、田中の人々が、天下泰平、日月清明、国家安穏、万民豊餃(と盛り沢山)を願い、惣村の力をかけて江戸時代後期の安永十年に造立したもの。

赤間川支流に沿って歩いていきます。

【清水下公園】
清水がわいている。


この湧水池から観音様が出て、今は瑞光寺の観音堂の観音様の胎内仏になっているそうだ。
それで、この坂を「観音坂」という。

もうちょっと赤間川の支流沿いに歩いてから、「醤油屋坂」を上がります。
途中の家に、屋根からニョキツと突き出た木が(笑)

【旧東西寺跡】
旧東西寺の跡です。

新編武蔵風土記

下図で、ギザギザがあり峰側に出っ張っている、「7」のところ。

天岑寺末
第9世衛(道)一如月(明和6年〈1769〉 寂)が宝暦年間(1751~64)に開山。
・中島家 本家と分家の争い⇒分家が開基と言われている
・住職の金隆が不身持⇒明治4年10月頃より廃寺
・天岑寺住職現瑞が天琴寺との合併願いを明治5年(1872)に出している。
入間県への願書写しが残っている。


墓地入り口

墓地に旧東西寺の住職の卵塔が並んでいる。


この墓地にあるのが「亀に乗る石碑」です。
○亀に乗る石碑

上野石碑には2300文字で、指月和尚の「行業記碑」が書かれているが、これについてはここでは説明を省略しておく。
問題は亀の姿をした台座です。


これは亀扶(きふ)といい、一般的な判断として長寿のシンボルとされる亀の甲羅に石碑を乗せることでその永続を願ったものと考えられます。
この亀のような生物は「贔屓」といいます。
贔屓(ひいき)は、中国における伝説上の生物。中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。
日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、まさにこの姿を見れば一目瞭然。「土台である贔屓を引っぱると石柱が倒れるからに他ならない。
<旧峰村>
【東峰霊園】
ここには、薬師堂と岩船地蔵堂が並んでいる。

薬師堂
もともとは、霊園の中にあった。(新しいお墓ができているところ)

岩船地蔵堂

岩船地蔵信仰は、享保4年(1719)に流行した。

各地の岩船地蔵造立のデータ。
川越市、桶川市に見られないのは、川越藩で取り締まったから。
この辺は旗本の不在領主だったから、取り締まりが無かった。

峰の愛宕神社のすぐ近くのお店。
「峰」を強調してますね(笑)

【峰の愛宕神社】




本殿

棟の部分に宝暦7年(1757)の年号が書かれている。

合祀の牛頭天王社

境内社・蚕影神社

一応、これで今回計画した史跡は全て終了。
帰り道は、先ほどの「醤油屋坂」から「旧東西寺跡」の前を通る道の延長を歩いた。
黒い屋根の家二つの間を、「醤油屋坂」からの道が来ている。
西武線に阻まれ、今はガードのあるところを迂回して、ここに来る。

行く手には、「武蔵野学院狭山の森」が道の右側にある。

道路わきに「木賊」が大量に生えていて吃驚した。

森の中に入り、気持ち良し。

「武蔵野学院自然観察園」の横を通ります。

坂を上りきって、東中の横から、ベルク駐車場に出て、解散。
お疲れ様でした。
(了)
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旧澤村から歩いてきて、西武線の踏切を渡ると旧田中村に入ります。
<旧田中村>
「新編武蔵風土記稿」

ここは、右側が須釜電機(ケーブルテレビ)の三叉路です。

明治14年測量の「フランス式測量地図」で③のところ。

昭和28年の地図で「3」のところ。

現在の地図で③のところ。

ここにあった、「みちしるべ」が後述の田中共同墓地入り口にあります。
【安穏寺跡】
「新編武蔵風土記稿」

澤村に領地を賜った小笠原安勝が陣地を置いたと伝わる。
明治になり廃寺となったが、先述の昭和28年の地図には載っている。
(天岑寺入り口に八角堂が建てられ、安穏寺という名前が出ている。聞けば天岑寺住職の次男が再興したとのこと。)
旧安穏寺の北限。右側は「狭山東京線」、交差点は国道16号線。

旧安穏寺の印の塔

「清水濱臣の墓」と一緒に旧安穏寺住職の卵塔が並んでいる。

ついでに「清水濱臣の墓」を。

この道が、旧安穏寺の参道。

【田中の稲荷神社】

小笠原家の奉納と思われ、安穏寺の守護神として建立されたと推定される。
本殿:本殿の中に厨子があり稲穂をかついで手に鎌を持つ老翁の立像が神像として伝わっている。
瑞光寺の僧が奉納。
この神像を、まだ見たことがない。


本殿正面の扉は小笠原家の副紋「五七桐」。

覆殿:屋根の棟に小笠原家の家紋である三階菱紋がある。

梁上の暮股に、切り抜きで「寛延庚午」とあり、寛延3年(1750)の建立と思われる。荻野高次郎義勝の作。
田中稲荷神社の境内社:
○塩竃社
昭和13年5月21日建立。安産祈願にご利益があると伝わる。


○牛頭天王社

○富士浅間宮(石碑)
神社の裏側に小高く土盛りがしてあり、段を登ると頂上に石碑が建っている。

田中村の人たちが、天下泰平を祈って、村中の助力で富士山が見える場所に富士塚をつくり信仰し
ていたと思える。
現在もよく晴れた日には塚の前方、(市民会館の屋根ごしに)はるか遠くに霊峰富士山がよく見える。
横の道に降りて、登ってみた。

途中「小御嶽神社」の碑がある。
「小御嶽大権現 石尊 小天狗 大天狗」と彫ってある。


つづれ折れの参道を登ると、頂上に「富士浅間宮」の碑。


【田中共同墓地】
入り口に、道しるべのついた観音碑がある。
この記事の最初の三叉路に立っていた道しるべである。
左右に貞享元年甲子(1684)造立、道師瑞光寺○○と彫られている。
右側に「しんがし」、左側に「かわごへ」とある。


共同墓地入り口の広場は、昔阿弥陀堂があった場所である。

○宝篋印塔

先生役の池田さんは、歴史講座研究コースの時のテーマが市内宝篋印塔であり、ここの宝篋印塔についても詳細な説明資料が配布された。
ここでは、特徴を簡単に述べておく。
・正面を北西に向ける。 台石を含めると、四メートル近く有る狭山市域屈指の宝筐印塔である。
・江戸時代中期以降の塔に共通の、隅飾りが大きく外に開く特徴を持つ。
・江戸時代に関東で造立された宝筐印塔の全ての要素を今に保持している塔。
種子シツチリアと掲頌(基礎正面)
(

荘厳体のシツチリアは、狭山市内では柏原円光寺境内の宝筐印塔(明智ハ年1766)にも見られるが、数が少ない。
掲頌は大日経(空海が久米寺の東塔で発見し、入唐を決意させた経典と伝わる)の-部で、「自己に目覚めるということは、 あるがままの自分の心を知ることである」という意味がある。
右側面の掲頒と左側面の掲頒


右側面の掲頒は、「一切如来心秘密全身舎利葺筐印陀羅尼経」の「功徳芦の「閑地獄之門」という節に有ることが判った。
左側面の「=口道」で終わる掲頒は、廻向文と呼ばれるもので、浄土門以外の諸宗が用いるとされている。
入間川村の枝村、田中の人々が、天下泰平、日月清明、国家安穏、万民豊餃(と盛り沢山)を願い、惣村の力をかけて江戸時代後期の安永十年に造立したもの。

赤間川支流に沿って歩いていきます。

【清水下公園】
清水がわいている。


この湧水池から観音様が出て、今は瑞光寺の観音堂の観音様の胎内仏になっているそうだ。
それで、この坂を「観音坂」という。

もうちょっと赤間川の支流沿いに歩いてから、「醤油屋坂」を上がります。
途中の家に、屋根からニョキツと突き出た木が(笑)

【旧東西寺跡】
旧東西寺の跡です。

新編武蔵風土記

下図で、ギザギザがあり峰側に出っ張っている、「7」のところ。

天岑寺末
第9世衛(道)一如月(明和6年〈1769〉 寂)が宝暦年間(1751~64)に開山。
・中島家 本家と分家の争い⇒分家が開基と言われている
・住職の金隆が不身持⇒明治4年10月頃より廃寺
・天岑寺住職現瑞が天琴寺との合併願いを明治5年(1872)に出している。
入間県への願書写しが残っている。


墓地入り口

墓地に旧東西寺の住職の卵塔が並んでいる。


この墓地にあるのが「亀に乗る石碑」です。
○亀に乗る石碑

上野石碑には2300文字で、指月和尚の「行業記碑」が書かれているが、これについてはここでは説明を省略しておく。
問題は亀の姿をした台座です。


これは亀扶(きふ)といい、一般的な判断として長寿のシンボルとされる亀の甲羅に石碑を乗せることでその永続を願ったものと考えられます。
この亀のような生物は「贔屓」といいます。
贔屓(ひいき)は、中国における伝説上の生物。中国の伝説によると、贔屓は龍が生んだ9頭の神獣・竜生九子のひとつで、その姿は亀に似ている。重きを負うことを好むといわれ、そのため古来石柱や石碑の土台の装飾に用いられることが多かった。
日本の諺「贔屓の引き倒し」とは、まさにこの姿を見れば一目瞭然。「土台である贔屓を引っぱると石柱が倒れるからに他ならない。
<旧峰村>
【東峰霊園】
ここには、薬師堂と岩船地蔵堂が並んでいる。

薬師堂
もともとは、霊園の中にあった。(新しいお墓ができているところ)

岩船地蔵堂

岩船地蔵信仰は、享保4年(1719)に流行した。

各地の岩船地蔵造立のデータ。
川越市、桶川市に見られないのは、川越藩で取り締まったから。
この辺は旗本の不在領主だったから、取り締まりが無かった。

峰の愛宕神社のすぐ近くのお店。
「峰」を強調してますね(笑)

【峰の愛宕神社】




本殿

棟の部分に宝暦7年(1757)の年号が書かれている。

合祀の牛頭天王社

境内社・蚕影神社

一応、これで今回計画した史跡は全て終了。
帰り道は、先ほどの「醤油屋坂」から「旧東西寺跡」の前を通る道の延長を歩いた。
黒い屋根の家二つの間を、「醤油屋坂」からの道が来ている。
西武線に阻まれ、今はガードのあるところを迂回して、ここに来る。

行く手には、「武蔵野学院狭山の森」が道の右側にある。

道路わきに「木賊」が大量に生えていて吃驚した。

森の中に入り、気持ち良し。

「武蔵野学院自然観察園」の横を通ります。

坂を上りきって、東中の横から、ベルク駐車場に出て、解散。
お疲れ様でした。
(了)
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中臣烏財津使主 (なかとみのいかつおみ) /日本の神々の話
20141214
滋賀県長浜市木之本町の「伊香具神社」に参拝し、祭神の伊香津臣命に着いて調べると、「近江国風土記逸文」に、「中臣烏賊津使主」とも書くとあるので、その情報を追加しておく。
伊香津臣命の記事は下記にあり。
その記事を読む
以下は、当初の記事。
この神は「日本の神様読み解き事典」に載っている神。
第十四代仲哀天皇が筑紫の橿日宮に崩じられたとき、神功皇后から、四大夫として宮中を守るよう命じられた一人。また、新羅を征伐せよとの、神功皇后への神託を神に問うため審神者(さにわ)となったという。
「続日本紀」によれば,中臣氏の祖先とされる。
また、第十九代允恭(いんぎょう)天皇の舎人で、近江国坂田より衣通姫(日本三大美人の一人)を迎えるために遣わされ、隠し持っていた糒(ほしい)で命を繋ぎながらも、七日後にようやく使命を果たしたという人物。
前半の、四大夫とか審神者という話は置いといて、後半の衣通姫についてここで取り上げておきたい。
記紀ともに衣通姫は、衣を通して美しい膚の色がすけて光りはえているところからつけた名という、なにしろ日本において文献に現れた最初の美人なのである。
日本三大美人の一人と讃えられている。
問題は同名の美人がふたり居ることになってしまっていることだ。
日本書紀においては、実の姉たる皇后と允恭(いんぎょう)天皇の寵を競っている。
古事記では允恭(いんぎょう)天皇の娘で、同母兄と禁断の恋に死すのである。
今回ここでは、主役の「中臣烏財津使主」が古事記には登場しないので、古事記のほうを簡単に先に述べて置く。
<古事記> 允恭(いんぎょう)天皇の世
子に木梨之軽王(きなしのかるのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)亦の名を衣通郎女(そとほりのいらつめ)がいた。
允恭天皇が崩御された時、木梨之軽王は皇位を継ぐことに決まっていたが、同母妹の軽大郎女(衣通郎女)と密通していたため、人心は別の皇子・穴穂王(あなほのみこ、これも同母である)に傾いたため、これと争い負けて、軽大郎女と心中してしまう。
二人の話には、恋を歌い上げる歌がちりばめられていて、とても美しい話になっている。
そのため、衣通郎女は和歌の神様とされている。
「中臣烏財津使主」が登場する日本書紀のほうを以下に載せる。
<日本書紀の巻十三> 允恭(いんぎょう)天皇の世
【書下し文】
七年冬師走壬戌朔、新室に宴す。天皇親しく琴を撫し、皇后起ちて舞ふ。舞、既に終れども礼事(ゐやのこと)申さず。当時の風俗、宴会にて舞ふ者、舞終りて則ち座の長に自ら対して曰く「娘子を奉る」と。時に天皇、皇后に謂うて曰く「何ぞ常礼を失するや」と。皇后惶れてまた起ちて舞ふ。舞竟(おは)りて言ふ「娘子奉る」と。天皇ただちに皇后に問ふて曰く「奉るところの娘子は誰ぞ、姓字を知らんと欲す」と。已むことえざると、皇后奏して言ふ「妾が妹、名は弟姫」と。弟姫、容姿絶妙にして無比、その艶色衣を徹して晃れり。ここを以て時の人、号して衣通郎姫となす。天皇の志は衣通郎姫に存するが故、強いて皇后に進めさせしむ。皇后これを知りて、たやすく礼事を言わざりき。ここに天皇歓喜して、則ち明る日、使者を遣わして弟姫を喚す。
時に弟姫、母に随って近江坂田に在り。弟姫、皇后の情を畏みて参向せず。又重ねて七たび喚す、なほ固辞して以て至らず。天皇悅ばず、また一の舍人中臣烏賦津使主(なかとみのいかつおみ)に勅して曰く「皇后進むる所の娘子、弟姬。喚(よ)べども来ず。汝自ら之に往きて、弟姫を以て召しゆきて来よ。必ず敦く賞せん」と。ここに烏賦津使主、命を承って退き、糒(ほしい)を裀(みごろ)うちに包んで坂田に到る。弟姫の庭中に伏して言ふ「天皇これを召すことを以て命ず」と。弟姫対へて曰く「豈(あに)天皇の命を懼(おそ)れざらんことあらんや。ただ皇后の志を傷むるを欲せざるのみ。妾が身を亡くせしと雖(いえど)も、参り赴かず」と。
時に烏賊津使主、対へて言ふ「臣、既に必ず召し率て来よとの、天皇の命を被る。若し将来せざれば、必ずこれを罪する、とも。故に返りて極刑を被るより、寧ろ庭に伏して死なんのみ」と。よりて庭中に伏して七日を経、飲食与ふれど食はず、密かに懐中の糒を食ふ。ここに於て弟姫、以爲(おも)へらく、妾、皇后の嫉に因て、既に天皇の命を拒む、かつ君の忠臣を亡くすは、これまた妾が罪なり。則ち烏賊津使主に従ひて来る。倭の春日に到りて、檪井(いちひゐ)の上にて食とす。弟姫、親しく酒を使主に賜ひ、その意を慰む。使主、弟姫を倭直吾子籠(やまとのあたひわごこ)の家に留め、即日京に至って天皇に復命す。天皇、大いに歓びて、烏賊津使主を美(ほ)め、敦く寵(めぐ)む。
(現代語文)
允恭天皇七年の冬十一月、天皇より新宮造成の賜宴があった。皇后である忍坂大中姫が起って舞われたが、終わってからお礼のご挨拶をなさらなかった。当時の習俗では舞い人は舞い終えてのち、宴を賜ったお礼の挨拶として「をみなごを奉ります」と申し上げることになっていたので、帝は「(挨拶を申し上げる)つねの礼を失するはなぜか?」と質された。そこで后は再度起って舞われ、終えてから「をみなごを奉ります」と奏上した。すると重ねて、「奉りますというのなら、をみなの名はなんと言うのか?」とのお訊ね。唇をかんで押し黙られた后は、再三の督促にやむをえず声を絞って、「奉るをみなは私の妹です、名は乙姫と申します」と答えられた。
この乙姫は顔かたちにからだつきなど容色きわまって世に比べるものとてなく、そのからだのあまりの麗しさは衣を透かして光り輝いて眩しいほどであったので、世の人々は衣(そ)通しの姫様と称えていたのであった。帝はその話をお聞きになって以来、この姫にご執心となられ、なんとか手に入れたいものと思われていたから、后を策略にはめてもと心はやられたのである。それを后も承知されていらっしゃったからこそ、舞われた後もお礼のご挨拶を言上されなかったのだったが…。帝は「やった!」と勇躍する思いで、翌早朝にはお召しの使いを発せられた。
このとき乙姫は母とともに近江国坂田郡にいたが、后である姉の気持ちを思って参内しなかった。帝は繰り返し使いを遣わされて七度びに及んだが、それでも姫は固辞して召しに応じない。帝は怏々として悦ばれない。身の回りに近侍する舎人の中臣烏賦津使主(なかとみのいかつおみ)を呼んで、「后から進上された乙姫というをみなご、いくら呼んでも来ない。お前が行って、乙姫を召しつれて来てくれ。褒美は重畳だぞ」と、お命じになった。烏賦津使主は承って御前を退き、干し飯を着物のみごろの中に包んで坂田に行った。乙姫の邸の庭に入って、ひたすら平伏して待つ。乙姫が訊ねると、伏したままで「おおみことによって、姫様を召されることを命ぜられました」と申し上げる。「わらわが勅命を畏まらないことがありましょうか。ただ、お后様の御心を傷つけたくはないことだけが願いなのです。わらわの身罷ろうとも、後宮に上ることはありえません」と、姫はすがるように答えた。
烏賊津使主は面をあげて姫を見つめ、「臣はすでに“必ず召し連れて来よ”の勅命を蒙っています。もしご同道いただけなければ、必ずお仕置きに遭うでありましょう。返って死を賜るよりは、いっそこの庭に伏したまま死にましょう」と申し上げたのだった。使主は庭に伏したままで七日を数えた。邸から飲食物を供与するが、いっこうに手を付けない。実は着物に隠し持った干し飯を食べていたのである。だが、乙姫の心は揺れた。わらわはお妃の嫉みを思って、すでに御召の御諚に背いている。これで帝の近臣を死なすこととなれば、また罪を重ねることとなる。それは耐え難い、と思ったのである。ついに烏賊津使主に伴われて出立した。大和の春日に行き、檪井(いちひゐ)のほとりで食事を摂った。乙姫はもう、使主に親しく酒を賜い労苦を慰謝するようになった。使主は、弟姫を倭直吾子籠(やまとのあたひわごこ)の家に留めて、そのまま朝に上って帝に首尾を報告した。天皇は大いに歓んで、烏賊津使主を嘉賞し厚遇したのだった。
和歌三神とは和歌を守護する3柱の神のことで、普通には、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂。その他、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人とするなど諸説があるそうです。
この絵は、住吉明神、柿本人麻呂、玉津島明神(衣通姫)と推察される。

錦絵 鳥文斎栄之《略三幅対 女三之宮 衣通姫 小野小町》

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伊香津臣命の記事は下記にあり。
その記事を読む
以下は、当初の記事。
この神は「日本の神様読み解き事典」に載っている神。
第十四代仲哀天皇が筑紫の橿日宮に崩じられたとき、神功皇后から、四大夫として宮中を守るよう命じられた一人。また、新羅を征伐せよとの、神功皇后への神託を神に問うため審神者(さにわ)となったという。
「続日本紀」によれば,中臣氏の祖先とされる。
また、第十九代允恭(いんぎょう)天皇の舎人で、近江国坂田より衣通姫(日本三大美人の一人)を迎えるために遣わされ、隠し持っていた糒(ほしい)で命を繋ぎながらも、七日後にようやく使命を果たしたという人物。
前半の、四大夫とか審神者という話は置いといて、後半の衣通姫についてここで取り上げておきたい。
記紀ともに衣通姫は、衣を通して美しい膚の色がすけて光りはえているところからつけた名という、なにしろ日本において文献に現れた最初の美人なのである。
日本三大美人の一人と讃えられている。
問題は同名の美人がふたり居ることになってしまっていることだ。
日本書紀においては、実の姉たる皇后と允恭(いんぎょう)天皇の寵を競っている。
古事記では允恭(いんぎょう)天皇の娘で、同母兄と禁断の恋に死すのである。
今回ここでは、主役の「中臣烏財津使主」が古事記には登場しないので、古事記のほうを簡単に先に述べて置く。
<古事記> 允恭(いんぎょう)天皇の世
子に木梨之軽王(きなしのかるのみこ)と軽大郎女(かるのおおいらつめ)亦の名を衣通郎女(そとほりのいらつめ)がいた。
允恭天皇が崩御された時、木梨之軽王は皇位を継ぐことに決まっていたが、同母妹の軽大郎女(衣通郎女)と密通していたため、人心は別の皇子・穴穂王(あなほのみこ、これも同母である)に傾いたため、これと争い負けて、軽大郎女と心中してしまう。
二人の話には、恋を歌い上げる歌がちりばめられていて、とても美しい話になっている。
そのため、衣通郎女は和歌の神様とされている。
「中臣烏財津使主」が登場する日本書紀のほうを以下に載せる。
<日本書紀の巻十三> 允恭(いんぎょう)天皇の世
【書下し文】
七年冬師走壬戌朔、新室に宴す。天皇親しく琴を撫し、皇后起ちて舞ふ。舞、既に終れども礼事(ゐやのこと)申さず。当時の風俗、宴会にて舞ふ者、舞終りて則ち座の長に自ら対して曰く「娘子を奉る」と。時に天皇、皇后に謂うて曰く「何ぞ常礼を失するや」と。皇后惶れてまた起ちて舞ふ。舞竟(おは)りて言ふ「娘子奉る」と。天皇ただちに皇后に問ふて曰く「奉るところの娘子は誰ぞ、姓字を知らんと欲す」と。已むことえざると、皇后奏して言ふ「妾が妹、名は弟姫」と。弟姫、容姿絶妙にして無比、その艶色衣を徹して晃れり。ここを以て時の人、号して衣通郎姫となす。天皇の志は衣通郎姫に存するが故、強いて皇后に進めさせしむ。皇后これを知りて、たやすく礼事を言わざりき。ここに天皇歓喜して、則ち明る日、使者を遣わして弟姫を喚す。
時に弟姫、母に随って近江坂田に在り。弟姫、皇后の情を畏みて参向せず。又重ねて七たび喚す、なほ固辞して以て至らず。天皇悅ばず、また一の舍人中臣烏賦津使主(なかとみのいかつおみ)に勅して曰く「皇后進むる所の娘子、弟姬。喚(よ)べども来ず。汝自ら之に往きて、弟姫を以て召しゆきて来よ。必ず敦く賞せん」と。ここに烏賦津使主、命を承って退き、糒(ほしい)を裀(みごろ)うちに包んで坂田に到る。弟姫の庭中に伏して言ふ「天皇これを召すことを以て命ず」と。弟姫対へて曰く「豈(あに)天皇の命を懼(おそ)れざらんことあらんや。ただ皇后の志を傷むるを欲せざるのみ。妾が身を亡くせしと雖(いえど)も、参り赴かず」と。
時に烏賊津使主、対へて言ふ「臣、既に必ず召し率て来よとの、天皇の命を被る。若し将来せざれば、必ずこれを罪する、とも。故に返りて極刑を被るより、寧ろ庭に伏して死なんのみ」と。よりて庭中に伏して七日を経、飲食与ふれど食はず、密かに懐中の糒を食ふ。ここに於て弟姫、以爲(おも)へらく、妾、皇后の嫉に因て、既に天皇の命を拒む、かつ君の忠臣を亡くすは、これまた妾が罪なり。則ち烏賊津使主に従ひて来る。倭の春日に到りて、檪井(いちひゐ)の上にて食とす。弟姫、親しく酒を使主に賜ひ、その意を慰む。使主、弟姫を倭直吾子籠(やまとのあたひわごこ)の家に留め、即日京に至って天皇に復命す。天皇、大いに歓びて、烏賊津使主を美(ほ)め、敦く寵(めぐ)む。
(現代語文)
允恭天皇七年の冬十一月、天皇より新宮造成の賜宴があった。皇后である忍坂大中姫が起って舞われたが、終わってからお礼のご挨拶をなさらなかった。当時の習俗では舞い人は舞い終えてのち、宴を賜ったお礼の挨拶として「をみなごを奉ります」と申し上げることになっていたので、帝は「(挨拶を申し上げる)つねの礼を失するはなぜか?」と質された。そこで后は再度起って舞われ、終えてから「をみなごを奉ります」と奏上した。すると重ねて、「奉りますというのなら、をみなの名はなんと言うのか?」とのお訊ね。唇をかんで押し黙られた后は、再三の督促にやむをえず声を絞って、「奉るをみなは私の妹です、名は乙姫と申します」と答えられた。
この乙姫は顔かたちにからだつきなど容色きわまって世に比べるものとてなく、そのからだのあまりの麗しさは衣を透かして光り輝いて眩しいほどであったので、世の人々は衣(そ)通しの姫様と称えていたのであった。帝はその話をお聞きになって以来、この姫にご執心となられ、なんとか手に入れたいものと思われていたから、后を策略にはめてもと心はやられたのである。それを后も承知されていらっしゃったからこそ、舞われた後もお礼のご挨拶を言上されなかったのだったが…。帝は「やった!」と勇躍する思いで、翌早朝にはお召しの使いを発せられた。
このとき乙姫は母とともに近江国坂田郡にいたが、后である姉の気持ちを思って参内しなかった。帝は繰り返し使いを遣わされて七度びに及んだが、それでも姫は固辞して召しに応じない。帝は怏々として悦ばれない。身の回りに近侍する舎人の中臣烏賦津使主(なかとみのいかつおみ)を呼んで、「后から進上された乙姫というをみなご、いくら呼んでも来ない。お前が行って、乙姫を召しつれて来てくれ。褒美は重畳だぞ」と、お命じになった。烏賦津使主は承って御前を退き、干し飯を着物のみごろの中に包んで坂田に行った。乙姫の邸の庭に入って、ひたすら平伏して待つ。乙姫が訊ねると、伏したままで「おおみことによって、姫様を召されることを命ぜられました」と申し上げる。「わらわが勅命を畏まらないことがありましょうか。ただ、お后様の御心を傷つけたくはないことだけが願いなのです。わらわの身罷ろうとも、後宮に上ることはありえません」と、姫はすがるように答えた。
烏賊津使主は面をあげて姫を見つめ、「臣はすでに“必ず召し連れて来よ”の勅命を蒙っています。もしご同道いただけなければ、必ずお仕置きに遭うでありましょう。返って死を賜るよりは、いっそこの庭に伏したまま死にましょう」と申し上げたのだった。使主は庭に伏したままで七日を数えた。邸から飲食物を供与するが、いっこうに手を付けない。実は着物に隠し持った干し飯を食べていたのである。だが、乙姫の心は揺れた。わらわはお妃の嫉みを思って、すでに御召の御諚に背いている。これで帝の近臣を死なすこととなれば、また罪を重ねることとなる。それは耐え難い、と思ったのである。ついに烏賊津使主に伴われて出立した。大和の春日に行き、檪井(いちひゐ)のほとりで食事を摂った。乙姫はもう、使主に親しく酒を賜い労苦を慰謝するようになった。使主は、弟姫を倭直吾子籠(やまとのあたひわごこ)の家に留めて、そのまま朝に上って帝に首尾を報告した。天皇は大いに歓んで、烏賊津使主を嘉賞し厚遇したのだった。
和歌三神とは和歌を守護する3柱の神のことで、普通には、住吉明神・玉津島明神・柿本人麻呂。その他、衣通姫(そとおりひめ)・柿本人麻呂・山部赤人とするなど諸説があるそうです。
この絵は、住吉明神、柿本人麻呂、玉津島明神(衣通姫)と推察される。

錦絵 鳥文斎栄之《略三幅対 女三之宮 衣通姫 小野小町》

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狭山市の新編武蔵風土記稿を訪ねる/旧澤村・田中村・峰村(1)
20141212
12月9日に実施した「新編武蔵風土記稿を訪ねる」です。
「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は佐藤さんと樋口さん。岸野さん、池田さんがサポートです。
今回のルート

それに該当する、明治14年測量の「フランス式測量地図」です。

集合場所は天岑寺山門前。

<旧澤村>
「新編武蔵風土記稿」の記述

武蔵風土記によると「徳川家康公の御討入りの時、小笠原太郎左衛門安勝は450石を賜ったが、其の内15石の地を天岑寺へ寄付。今も太郎左衛門が子孫の政次郎が当主として知行せり」と記載されている。政次郎は新編武蔵風土記が編纂された文化・文政時代に小笠原家の9代当主を務めた人物で8代当主廣保の3男。
昭和28年地図

現在の地図

【天岑寺】
「新編武蔵風土記稿」の記述


現在は三社権現と金比羅権現社に加え、澤稲荷も合祀されている。
○金比羅権現社・熊野三社大神・澤稲荷大明神


社殿

掲額には「金比羅権現」となっているが、

中は、ちゃんと三社が並んでいた。

○月待供養塔(板碑)
数回来て写真を撮っていたが、いつも暗くてよくわからなかったのだが、今回はちょうど陽が差し込んで、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩がよくわかった。


○岩船地蔵
享保17年(1732)田中村の安穏寺門前に造立されたが、昭和の中ごろ、天琴寺境内に移された。
施主は、田中村の念彿講中26人と法印俊賢。
狭山市には3基の岩船地蔵があるが、実際に船に乗った地蔵はこの地蔵尊だけである。



○鐘楼
「鐘は宝永5年の銘なり」(1708年)とあるが、太平洋戦争で供出。
銘文の記録は残っていない。
現在の梵鐘は昭和51年再鋳したもの。市内で一番大きい。
五角形をした鐘楼であり、四角形か、長方形が一般的であるなかで珍しい。


池の間第一区銘文: 絵が措かれている。

池の間第二区銘文: 招凡越聖一声々・・・・・・・・・
とわかっているが、ここでは省略。

池の間第三区銘文: 宮山前梵鐘は昭和十九年時として、余儀なく法器を武器に変えんが為・・・・
とわかっているが、ここでは省略。

池の間第四区銘文: 絵が描かれている。

【小笠原家墓地】
ここでは、まず小笠原家の祖について、少々述べておく。
狭山市の小笠原家の祖は、伴野小笠原時長からはじまる。

これを見て、私はアッと思った。
調べてみると、小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、地名に因んで伴野氏を称したことに始まり、中世、信濃国佐久一帯に勢力を張った、とある。
私は、長野県佐久市に生まれ育ち、結婚するまで「依田」という苗字だった。
依田の家系はこのようになる。

伴野小笠原時長の兄で「源為公」がいて、その子為実から「依田」を名乗る。この依田為実は、妻が源義賢の妹だった関係から、木曽義仲の蜂起を助けた人物である。
もちろん私の家はこういう家系とは月ほども離れているのだが、やはり気になる(笑)
依田と、狭山市の小笠原家は案外近かったということで、俄然関心が深まった次第である。
私にとって、小笠原といえば「小笠原長時」だった。
依田七家の総領「相木(依田)市兵衛昌朝」が武田信玄の腹心の武将だったということもあって、私は武田信玄の大ファンなのだが、小笠原総領家17代の小笠原長時は、一時信玄の強力なライバルだったのだ。
ちなみに狭山市の小笠原家も使用している家紋「三階菱」だが、この紋も調べたら大したものだ。
三階菱の紋は「王」の字に基づいている。
鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたている。
7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、しかし、はばかりのあることとして、ひそかに王の字をかたどり松笠菱の下太と称して家紋にしたと『寛政重修諸家譜』に記されている。これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。
小笠原家墓地

初代小笠原安勝の墓

小笠原安元(安勝の父)の墓

三階菱の紋もよくわからなくなっている。

こちらの灯篭の紋はよくわかる。


この時話題となったのが八代廣保の墓である。
入り口の案内にも「夫妻・妾」となっている。

たしかに左側面に「妾」の字が。

この時代は、「妾」という言葉は蔑称ではなかったのかな。
この記事をブログにアップしてから、このグループの先生役の池田さんから説明が漏れたと以下の説明がありました。
(青字の部分)
「妾」という字は、江戸期以前の訓読みは「つま」と読み、れっきとした配偶者を表す「文字」です。
当時としては、ひどい言い方ではないのです。
小笠原家が酷い仕打ちをした訳ではありません。
ご安心下さい。
「めかけ」は「めをかける(女)」で明治以降の言い方です。 勿論、一段も二段も蔑んだ意味を持つ言葉です。
言葉を示すと次の通りです。
「妻」=「妾」で「つま」といい、同格です。そうはいっても、「妾」の子は「妻」の子になります。
「妻」=「妾」、「正室」=「側室」、「正妻」=「側妻」で全て同格です。
また、以上の言葉(漢字)は江戸期以前から文書に現れています。
現在は、34基の墓石がコの字型に整然と並んでいるが、昭和40年代までは墓地の中央部に8代廣保一家の墓石6基が2列に並んでいた。

当時の写真

さて、墓地には12代廣善まであるが、その後の小笠原家はどうなったのか?
この日の説明役の佐藤さんは、その面の狭山市での第一人者ということで、色々の説明をしてくださいました。
○幕末の小笠原家と子孫
墓所に3基も墓石を建立した12代当主廣善は養子で、27年間も田中村や澤村を治めたが、幕府が崩壊し明治政府となり旗本制度は無くなった。
以降の小笠原記録が狭山には無い。国会図書館にて、廣善の義弟である銀次郎が、精鋭隊に入隊して将軍慶喜を護衛して駿府へ行ったことが判明した。
徳川幕府が崩壊したので、12代当主廣善と家族は静岡へ移ったと推測される。義弟の銀次郎への家督相続の記録がある。廣善は幕府崩壊後に静岡へ移住した。
銀次郎こと廣直は、勝海舟の命にて精鋭隊を結成した中条景昭のもとに入隊して将軍慶喜を警護して水戸から静岡へ移動した。廣善より家督を相続した廣直は明治2年7月から牧之原開拓士族として牧之原開拓に従事する。1町4反の開墾をしたが夢破れた廣直は、明治16年に開墾を辞めて巡査となり、最後は東京で没した。
14代廣俊は大正13年に没す。
15代当主となった静子は、昭和12年、結婚するために小笠原家を廃家手続きし鈴木姓となる。
小笠原家は347年の歴史を閉じた。
平成26年11月25日、静岡県島田市から連絡あり15代静子氏命日は12月7日と知り横浜市にある長男・孝氏の自宅を訪ねた。孝氏より話を聞き、平塚の晴雲寺で静子氏のお墓参りをした。
「15代小笠原静子は30年前の12月7日に死去」
○昭和三十八年(1963)、静岡県にある金谷原町役場で倉庫の整理をしていたところ、「牧之原開拓士族名簿」や「開拓絵図面」などが発見された。
牧之原に入植した当時の方々が分担した土地・宅地などを示す十六葉の地図並びに印鑑集を発見できた。
翌年の昭和三十九年に金谷郷土史研究会の方たちの努力で、二冊の本が発行された。
発見された名簿の「小笠原銀次郎」

小笠原家の墓地を後にして、下図のA点にやってきました。
ここに沢村の石仏と神社があります。


【沢村の石仏】
三叉路のところに、二体の石仏がある。
左が馬頭観音像、右が馬頭観音文字塔。

馬頭観音像 「浮彫立像 三面六臂」
寛政11年(1799)巳未年正月吉日
施主 澤村中 願主 観音経講中 横田喜平次


馬頭観世音文字塔には
(右側)天保十二年(1841)七月吉日、(左側)願主 澤村 横田浅衛門
と彫られている。
【澤村にある神社】
○八坂神社
祭神:素箋鳴尊
旧澤村の鎮守。もとは現在地より百メートルくらい東南の地にあったが明治時代に、この地へ移した。



御神体を入れてある神輿は明治ころ担いだが伝染病が流行したので、それ以来、神輿を担いでない。

○雷電神社 石嗣
以前は天琴寺の境内にあった。現在は八坂神社の境内社。
通称‥「おしやもじさま」と呼ばれ百日咳や-般の咳に効き目があったと伝わる。


正面 雷電神社
右側 発起人 澤村 横田安五郎 願主 澤村中
左側 明治十四年巳二月上院 天琴寺廿四世 現瑞代


澤村の地は、昭和時代の中ごろまで、低地の周辺は湧水による湿地帯で弛もあり、弁天池と呼ばれ弁財天も祀られていた。
昭和28年の地図には、池がある。(B点)

平成の現在、池は宅地造成のため埋められ、周辺には新築の家が次々と建っている。証拠の弁財天は埋められた池の近くに建てられた住宅の生垣の中にひっそりと置かれているそうです。
当日は見ることができなかった。
現在のB点


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「新編武蔵風土記稿」に載っている地元狭山市に関する記述を読み解き、現地を訪ねて現在の姿と比較しようという活動です。併せて、歴史講座の史跡巡りの際に訪れなかった史跡も訪ねています。
今回の説明役は佐藤さんと樋口さん。岸野さん、池田さんがサポートです。
今回のルート

それに該当する、明治14年測量の「フランス式測量地図」です。

集合場所は天岑寺山門前。

<旧澤村>
「新編武蔵風土記稿」の記述

武蔵風土記によると「徳川家康公の御討入りの時、小笠原太郎左衛門安勝は450石を賜ったが、其の内15石の地を天岑寺へ寄付。今も太郎左衛門が子孫の政次郎が当主として知行せり」と記載されている。政次郎は新編武蔵風土記が編纂された文化・文政時代に小笠原家の9代当主を務めた人物で8代当主廣保の3男。
昭和28年地図

現在の地図

【天岑寺】
「新編武蔵風土記稿」の記述


現在は三社権現と金比羅権現社に加え、澤稲荷も合祀されている。
○金比羅権現社・熊野三社大神・澤稲荷大明神


社殿

掲額には「金比羅権現」となっているが、

中は、ちゃんと三社が並んでいた。

○月待供養塔(板碑)
数回来て写真を撮っていたが、いつも暗くてよくわからなかったのだが、今回はちょうど陽が差し込んで、阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩がよくわかった。


○岩船地蔵
享保17年(1732)田中村の安穏寺門前に造立されたが、昭和の中ごろ、天琴寺境内に移された。
施主は、田中村の念彿講中26人と法印俊賢。
狭山市には3基の岩船地蔵があるが、実際に船に乗った地蔵はこの地蔵尊だけである。



○鐘楼
「鐘は宝永5年の銘なり」(1708年)とあるが、太平洋戦争で供出。
銘文の記録は残っていない。
現在の梵鐘は昭和51年再鋳したもの。市内で一番大きい。
五角形をした鐘楼であり、四角形か、長方形が一般的であるなかで珍しい。


池の間第一区銘文: 絵が措かれている。

池の間第二区銘文: 招凡越聖一声々・・・・・・・・・
とわかっているが、ここでは省略。

池の間第三区銘文: 宮山前梵鐘は昭和十九年時として、余儀なく法器を武器に変えんが為・・・・
とわかっているが、ここでは省略。

池の間第四区銘文: 絵が描かれている。

【小笠原家墓地】
ここでは、まず小笠原家の祖について、少々述べておく。
狭山市の小笠原家の祖は、伴野小笠原時長からはじまる。

これを見て、私はアッと思った。
調べてみると、小笠原長清の六男時長が佐久郡伴野荘の地頭として入り、地名に因んで伴野氏を称したことに始まり、中世、信濃国佐久一帯に勢力を張った、とある。
私は、長野県佐久市に生まれ育ち、結婚するまで「依田」という苗字だった。
依田の家系はこのようになる。

伴野小笠原時長の兄で「源為公」がいて、その子為実から「依田」を名乗る。この依田為実は、妻が源義賢の妹だった関係から、木曽義仲の蜂起を助けた人物である。
もちろん私の家はこういう家系とは月ほども離れているのだが、やはり気になる(笑)
依田と、狭山市の小笠原家は案外近かったということで、俄然関心が深まった次第である。
私にとって、小笠原といえば「小笠原長時」だった。
依田七家の総領「相木(依田)市兵衛昌朝」が武田信玄の腹心の武将だったということもあって、私は武田信玄の大ファンなのだが、小笠原総領家17代の小笠原長時は、一時信玄の強力なライバルだったのだ。
ちなみに狭山市の小笠原家も使用している家紋「三階菱」だが、この紋も調べたら大したものだ。
三階菱の紋は「王」の字に基づいている。
鎌倉時代には初代の小笠原長清が源頼朝の、2代小笠原長経が源実朝の糾法(きゅうほう)師範に命じられたている。
7代目の小笠原貞宗は南北朝時代に後醍醐天皇に仕え「弓馬の妙蘊に達し、かつ礼法を新定して、武家の定式とするなり」という御手判を賜り、このとき「弓・馬・礼」の三法をもって糾法とした。また「王」の字の紋を与えられ、しかし、はばかりのあることとして、ひそかに王の字をかたどり松笠菱の下太と称して家紋にしたと『寛政重修諸家譜』に記されている。これが現在にも伝わる三階菱の家紋である。
小笠原家墓地

初代小笠原安勝の墓

小笠原安元(安勝の父)の墓

三階菱の紋もよくわからなくなっている。

こちらの灯篭の紋はよくわかる。


この時話題となったのが八代廣保の墓である。
入り口の案内にも「夫妻・妾」となっている。

たしかに左側面に「妾」の字が。

この時代は、「妾」という言葉は蔑称ではなかったのかな。
この記事をブログにアップしてから、このグループの先生役の池田さんから説明が漏れたと以下の説明がありました。
(青字の部分)
「妾」という字は、江戸期以前の訓読みは「つま」と読み、れっきとした配偶者を表す「文字」です。
当時としては、ひどい言い方ではないのです。
小笠原家が酷い仕打ちをした訳ではありません。
ご安心下さい。
「めかけ」は「めをかける(女)」で明治以降の言い方です。 勿論、一段も二段も蔑んだ意味を持つ言葉です。
言葉を示すと次の通りです。
「妻」=「妾」で「つま」といい、同格です。そうはいっても、「妾」の子は「妻」の子になります。
「妻」=「妾」、「正室」=「側室」、「正妻」=「側妻」で全て同格です。
また、以上の言葉(漢字)は江戸期以前から文書に現れています。
現在は、34基の墓石がコの字型に整然と並んでいるが、昭和40年代までは墓地の中央部に8代廣保一家の墓石6基が2列に並んでいた。

当時の写真

さて、墓地には12代廣善まであるが、その後の小笠原家はどうなったのか?
この日の説明役の佐藤さんは、その面の狭山市での第一人者ということで、色々の説明をしてくださいました。
○幕末の小笠原家と子孫
墓所に3基も墓石を建立した12代当主廣善は養子で、27年間も田中村や澤村を治めたが、幕府が崩壊し明治政府となり旗本制度は無くなった。
以降の小笠原記録が狭山には無い。国会図書館にて、廣善の義弟である銀次郎が、精鋭隊に入隊して将軍慶喜を護衛して駿府へ行ったことが判明した。
徳川幕府が崩壊したので、12代当主廣善と家族は静岡へ移ったと推測される。義弟の銀次郎への家督相続の記録がある。廣善は幕府崩壊後に静岡へ移住した。
銀次郎こと廣直は、勝海舟の命にて精鋭隊を結成した中条景昭のもとに入隊して将軍慶喜を警護して水戸から静岡へ移動した。廣善より家督を相続した廣直は明治2年7月から牧之原開拓士族として牧之原開拓に従事する。1町4反の開墾をしたが夢破れた廣直は、明治16年に開墾を辞めて巡査となり、最後は東京で没した。
14代廣俊は大正13年に没す。
15代当主となった静子は、昭和12年、結婚するために小笠原家を廃家手続きし鈴木姓となる。
小笠原家は347年の歴史を閉じた。
平成26年11月25日、静岡県島田市から連絡あり15代静子氏命日は12月7日と知り横浜市にある長男・孝氏の自宅を訪ねた。孝氏より話を聞き、平塚の晴雲寺で静子氏のお墓参りをした。
「15代小笠原静子は30年前の12月7日に死去」
○昭和三十八年(1963)、静岡県にある金谷原町役場で倉庫の整理をしていたところ、「牧之原開拓士族名簿」や「開拓絵図面」などが発見された。
牧之原に入植した当時の方々が分担した土地・宅地などを示す十六葉の地図並びに印鑑集を発見できた。
翌年の昭和三十九年に金谷郷土史研究会の方たちの努力で、二冊の本が発行された。
発見された名簿の「小笠原銀次郎」

小笠原家の墓地を後にして、下図のA点にやってきました。
ここに沢村の石仏と神社があります。


【沢村の石仏】
三叉路のところに、二体の石仏がある。
左が馬頭観音像、右が馬頭観音文字塔。

馬頭観音像 「浮彫立像 三面六臂」
寛政11年(1799)巳未年正月吉日
施主 澤村中 願主 観音経講中 横田喜平次


馬頭観世音文字塔には
(右側)天保十二年(1841)七月吉日、(左側)願主 澤村 横田浅衛門
と彫られている。
【澤村にある神社】
○八坂神社
祭神:素箋鳴尊
旧澤村の鎮守。もとは現在地より百メートルくらい東南の地にあったが明治時代に、この地へ移した。



御神体を入れてある神輿は明治ころ担いだが伝染病が流行したので、それ以来、神輿を担いでない。

○雷電神社 石嗣
以前は天琴寺の境内にあった。現在は八坂神社の境内社。
通称‥「おしやもじさま」と呼ばれ百日咳や-般の咳に効き目があったと伝わる。


正面 雷電神社
右側 発起人 澤村 横田安五郎 願主 澤村中
左側 明治十四年巳二月上院 天琴寺廿四世 現瑞代


澤村の地は、昭和時代の中ごろまで、低地の周辺は湧水による湿地帯で弛もあり、弁天池と呼ばれ弁財天も祀られていた。
昭和28年の地図には、池がある。(B点)

平成の現在、池は宅地造成のため埋められ、周辺には新築の家が次々と建っている。証拠の弁財天は埋められた池の近くに建てられた住宅の生垣の中にひっそりと置かれているそうです。
当日は見ることができなかった。
現在のB点


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稲村神社(延喜式内論社)/常陸太田市
20141209
所在地:茨城県常陸太田市天神林町3228
この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日の関八州式内社めぐりの行事で、「静神社」に続き訪れたのが「稲村神社」です。
この記事を書いた後、幹事さんから前総代さんからいただいた資料のコピーの配布がありました。貴重な情報がありましたので、靑字で追記しておきます。(12月11日)
社号標
式内社論社で、旧社格は郷社。
旧名の「郷社」の文字は埋められています。

説明板

創建:
『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)久自国造条には、成務天皇の御世に物部直の祖である伊香色雄命の三世孫・船瀬足尼命が初代久自国造に任命されたという記載がある。社伝では、この任命の際に船瀬足尼命が大祖・饒速日命を祀ったといい、「天神」とも、また7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」とも称したという。また、日本武尊が東征の際、この地に天神七代の霊を祀ったともいう。
当地周辺は久自国造の本拠地と見られ、当社の南西にはその関係性が指摘される梵天山古墳群が残っている。古墳群の主墳・梵天山古墳は茨城県第2位の大きさを誇る前方後円墳で、船瀬足尼命の墓と伝えられている。
国史では『続日本後紀』嘉祥2年(849年)に「稲村神」が官社に預かったという記事が見え、水旱に霊験を表したと記される。その後、「稲村神」には神階が従五位上まで昇叙された。『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 稲村神社」と記載され、式内社に列している。ただし、これらの「稲村神」には他の論社もある。
『新編常陸国誌』によると、元禄4年(1691年)徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。そしてこれらを1社とするよう諭したので、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという。また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した。江戸時代には社領として6石5斗余、除地として9石9斗3升を有した。
明治に入って式内社・稲村神社に比定され、「七代天神宮」から社名を改めた。また近代社格制度では郷社に列した。
古墳時代の中期(5世紀)に東国は、物部氏を中心とする大和政権の遠征軍によって征服され、稲村神社の祭神は久慈国造に物部連の祖伊香色雄命三世の孫、船瀬足尼が任命された時、物部氏の祖先神である餞速日尊(にぎはやひのみこと)と、皇室の祖先神である国常立尊(くにのとこたちみこと)以下11神を祀っている。
これらの神は、いずれも天神なので、神社は古くから天神社と呼ばれ、物部氏族二十五部の中に狭竹物部があり、居住によって佐竹郷の起原となり、後に久慈郡佐竹郷と呼ばれる行政区域となり、天神林は天神社と共に稲木と合わせて佐竹郷稲木村となった。
平安時代になると天神社は、村の名をとって稲木神社と呼ばれたらしいが、神社名は「稲材神社」と書かれた様であり、字数が似ているので稲村神社と書かれるようになり(新編常陸国誌)、中央政府(平安朝)にも伝えられたと言われている。
「稲材いなき」は「高材比売(たかきひめ)」と同じく「材き」の用例であり、木と材の用例の違いを調べたいと思っている。
稲村神社の盛衰
天承元年(1131)、源新羅三郎義光の孫昌義が久慈郡佐竹郷稲木村(現天神林町)に土着し、観音寺(現佐竹寺)に入り2年後の長承2年(1133)、馬坂(現天神林町字間坂)に館を築き、郷名をとり佐竹氏を称し、鎌倉から八幡社を歓請すると、稲村神社の信仰は衰え、後に一族の稲木氏、天神林氏が馬坂城に入ったが、稲村神社への信仰は戻らなかった。
慶長7年(1602)、佐竹氏秋田へ移封後徳川氏の支配下となるが、天神林の鎮守は八幡宮であり、稲村神社の復活は無かった。
寛文3年(1663)、水戸藩2代藩主徳川光圀は、領内の鎮守・寺院・山伏等を調査して開基帳を作成し、寺社改革を開始し八幡潰しを断行し、天神林の鎮守八幡社は潰され、稲村神社が天神林の鎮守とされた。
元禄4年(1694)、隠居した光圀公は、七代天神(天神七塚とも言う)を稲村神社に合祀したと言う。
参道

参道入り口には市指定の大欅がある。

前総代さんが案内説明をしてくださった。
一の鳥居

参道の紅葉が素晴らしかった。


二の鳥居付近は工事中だった。
階段上に神門があります。

手水舎

神門をくぐって社殿前広場に出ると、左側にズラッと石祠が並んでいる。

拝殿前の参道

狛犬


拝殿

本殿


御祭神は饒速日尊
配祀は神世七代の神々ということで、國常立尊、國狹槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸之道尊、大苫邊尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉册尊となります。
七代天神の言われ(伝承)
12代景行天皇の皇子日本武尊は、東国の蝦夷征伐で此の地を通り掛かった時に、暗雲がたちこめ行く手の山坂に妖気が漂っていた。
その妖気を取り除き勝機を得ようと七代天神を七ヶ所の地に祀り、景行天皇40年(110)に七ヶ所の嗣に神宝を奉宣したと言う。
日本武尊は、東国鎮定の帰途近江息吹山の神を征そうとして病になり、伊勢の能褒野の地で没したと言われている。
七代天神とは・‥・‥独化神(一柱の神)三代と偶生神(夫婦二柱の神)四代を言う
独化神三代
1・一代 国常立命(くにのとこたちのみこと):天神山(天神森とも言い稲村神社が鎮座している所)
2・二代 国狭槌命(くにのさつちのみこと):馬坂城内(西城物見跡の円墳上)
3・三代 豊魁渟命(とよくむぬのみこと):小芝原(現佐竹寺後(押葉平)南側台地)
偶生神四代
4・-代 泥土煮命・沙土煮命(ういじのにみこと・すいじにのみこと):権現山(馬坂城本郭跡谷を隔てた北側‥熊野神社と相並ぶ)
5・二代 大戸道命・大苫辺命(おおとのじみこと・おおとまべのみこと):井の手浮橋山(天神林町字猪手尾根南側)
6・三代 面足命・憧根命(おもだるのみこと かしこねみこと):富士山(佐竹南台団地入口道路北側の山‥富士権現と相並ぶ)
7・四代 伊弊諾命・伊弊冊命(いざなぎみこと・いざなみみこと):厳戸山(馬坂城址西側尾根の突端部‥別名石堂山)
祭神の「饒速日尊」という神は複雑な神です。
詳しくは、別に記載している「日本の神々」で集まった話を一挙にアップするつもりですが、けっこうあります。
ここでは簡単に書いておきます。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
私が今読んでいる本によると、先に大和に居ついた種族が、吉備地方からの、そして出雲地方からの種族を受け入れて鉄などの技術を基に強力な覇権を手に入れた。
すると吉備や出雲の地方が本家面をするのが疎ましくなり、吉備系とか出雲系という事実(伝説、神話)を抹殺していってしまう。
「饒速日尊」もそういった口で、記紀を編纂した大和朝廷により抹殺された神のようである。
当初強力だった物部氏が滅亡していったこととも関連がある。
神紋は「三つ葉葵」。徳川光圀が作り上げた神社だからでしょう。
他のサイトを見ると、拝殿の棟の神紋がはっきりとしているが、今回訪ねた時にはかなり錆ていてよくわからない。
辛うじて拝殿前の水盤の紋がはっきりしていた。

神楽殿

境内社
旧鎮守の八幡社を潰された村人は、稲村神社の境内に末社として八幡社を建立し、新鎮守と同じく崇拝したという。年3回の鎮守の祭りのうち、8月の祭りとしたと言う。
(現在稲村神社拝殿の右側の大きい木材の社が八幡神社と云われている)。

「御岩神社」碑

境内社の石祠が並びます。一つひとつの社が何であるかはわかりませんが、前総代さんからの資料には内訳が載せられていました。
境内社:
八幡神社(誉田別命)、素鷲神社(素蓋鳴命)、稲荷神社(豊宇気比売命)、富士神社(木花咲耶姫命)、羽黒神社(大山砥命)、秋葉神社(火遇槌命)、大杉神社(猿田彦命)、加波山神社(伊弊諾尊、伊弊冊尊)、天満宮(菅原道真)、雷神社(別雷命)、金比羅神社(金山命)、春日神社(天児屋根命、姫大神)、鷺森神社(月読命、大巳貴命、少彦名命)、御岩神社(明治27年旧7月、天津講中)


傍に旧宮司邸の廃屋がありました。


これで、ここの参拝は終了。続いて「天志良波神社」に向かいました。
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この記事も写真は池田さん撮影です。
11月28日の関八州式内社めぐりの行事で、「静神社」に続き訪れたのが「稲村神社」です。
この記事を書いた後、幹事さんから前総代さんからいただいた資料のコピーの配布がありました。貴重な情報がありましたので、靑字で追記しておきます。(12月11日)
社号標
式内社論社で、旧社格は郷社。
旧名の「郷社」の文字は埋められています。

説明板

創建:
『国造本紀』(『先代旧事本紀』第10巻)久自国造条には、成務天皇の御世に物部直の祖である伊香色雄命の三世孫・船瀬足尼命が初代久自国造に任命されたという記載がある。社伝では、この任命の際に船瀬足尼命が大祖・饒速日命を祀ったといい、「天神」とも、また7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」とも称したという。また、日本武尊が東征の際、この地に天神七代の霊を祀ったともいう。
当地周辺は久自国造の本拠地と見られ、当社の南西にはその関係性が指摘される梵天山古墳群が残っている。古墳群の主墳・梵天山古墳は茨城県第2位の大きさを誇る前方後円墳で、船瀬足尼命の墓と伝えられている。
国史では『続日本後紀』嘉祥2年(849年)に「稲村神」が官社に預かったという記事が見え、水旱に霊験を表したと記される。その後、「稲村神」には神階が従五位上まで昇叙された。『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 稲村神社」と記載され、式内社に列している。ただし、これらの「稲村神」には他の論社もある。
『新編常陸国誌』によると、元禄4年(1691年)徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。そしてこれらを1社とするよう諭したので、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという。また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した。江戸時代には社領として6石5斗余、除地として9石9斗3升を有した。
明治に入って式内社・稲村神社に比定され、「七代天神宮」から社名を改めた。また近代社格制度では郷社に列した。
古墳時代の中期(5世紀)に東国は、物部氏を中心とする大和政権の遠征軍によって征服され、稲村神社の祭神は久慈国造に物部連の祖伊香色雄命三世の孫、船瀬足尼が任命された時、物部氏の祖先神である餞速日尊(にぎはやひのみこと)と、皇室の祖先神である国常立尊(くにのとこたちみこと)以下11神を祀っている。
これらの神は、いずれも天神なので、神社は古くから天神社と呼ばれ、物部氏族二十五部の中に狭竹物部があり、居住によって佐竹郷の起原となり、後に久慈郡佐竹郷と呼ばれる行政区域となり、天神林は天神社と共に稲木と合わせて佐竹郷稲木村となった。
平安時代になると天神社は、村の名をとって稲木神社と呼ばれたらしいが、神社名は「稲材神社」と書かれた様であり、字数が似ているので稲村神社と書かれるようになり(新編常陸国誌)、中央政府(平安朝)にも伝えられたと言われている。
「稲材いなき」は「高材比売(たかきひめ)」と同じく「材き」の用例であり、木と材の用例の違いを調べたいと思っている。
稲村神社の盛衰
天承元年(1131)、源新羅三郎義光の孫昌義が久慈郡佐竹郷稲木村(現天神林町)に土着し、観音寺(現佐竹寺)に入り2年後の長承2年(1133)、馬坂(現天神林町字間坂)に館を築き、郷名をとり佐竹氏を称し、鎌倉から八幡社を歓請すると、稲村神社の信仰は衰え、後に一族の稲木氏、天神林氏が馬坂城に入ったが、稲村神社への信仰は戻らなかった。
慶長7年(1602)、佐竹氏秋田へ移封後徳川氏の支配下となるが、天神林の鎮守は八幡宮であり、稲村神社の復活は無かった。
寛文3年(1663)、水戸藩2代藩主徳川光圀は、領内の鎮守・寺院・山伏等を調査して開基帳を作成し、寺社改革を開始し八幡潰しを断行し、天神林の鎮守八幡社は潰され、稲村神社が天神林の鎮守とされた。
元禄4年(1694)、隠居した光圀公は、七代天神(天神七塚とも言う)を稲村神社に合祀したと言う。
参道

参道入り口には市指定の大欅がある。

前総代さんが案内説明をしてくださった。
一の鳥居

参道の紅葉が素晴らしかった。


二の鳥居付近は工事中だった。
階段上に神門があります。

手水舎

神門をくぐって社殿前広場に出ると、左側にズラッと石祠が並んでいる。

拝殿前の参道

狛犬


拝殿

本殿


御祭神は饒速日尊
配祀は神世七代の神々ということで、國常立尊、國狹槌尊、豊斟渟尊、泥土煮尊、沙土煮尊、大戸之道尊、大苫邊尊、面足尊、惶根尊、伊弉諾尊、伊弉册尊となります。
七代天神の言われ(伝承)
12代景行天皇の皇子日本武尊は、東国の蝦夷征伐で此の地を通り掛かった時に、暗雲がたちこめ行く手の山坂に妖気が漂っていた。
その妖気を取り除き勝機を得ようと七代天神を七ヶ所の地に祀り、景行天皇40年(110)に七ヶ所の嗣に神宝を奉宣したと言う。
日本武尊は、東国鎮定の帰途近江息吹山の神を征そうとして病になり、伊勢の能褒野の地で没したと言われている。
七代天神とは・‥・‥独化神(一柱の神)三代と偶生神(夫婦二柱の神)四代を言う
独化神三代
1・一代 国常立命(くにのとこたちのみこと):天神山(天神森とも言い稲村神社が鎮座している所)
2・二代 国狭槌命(くにのさつちのみこと):馬坂城内(西城物見跡の円墳上)
3・三代 豊魁渟命(とよくむぬのみこと):小芝原(現佐竹寺後(押葉平)南側台地)
偶生神四代
4・-代 泥土煮命・沙土煮命(ういじのにみこと・すいじにのみこと):権現山(馬坂城本郭跡谷を隔てた北側‥熊野神社と相並ぶ)
5・二代 大戸道命・大苫辺命(おおとのじみこと・おおとまべのみこと):井の手浮橋山(天神林町字猪手尾根南側)
6・三代 面足命・憧根命(おもだるのみこと かしこねみこと):富士山(佐竹南台団地入口道路北側の山‥富士権現と相並ぶ)
7・四代 伊弊諾命・伊弊冊命(いざなぎみこと・いざなみみこと):厳戸山(馬坂城址西側尾根の突端部‥別名石堂山)
祭神の「饒速日尊」という神は複雑な神です。
詳しくは、別に記載している「日本の神々」で集まった話を一挙にアップするつもりですが、けっこうあります。
ここでは簡単に書いておきます。
『日本書紀』などの記述によれば、神武東征に先立ち、アマテラスから十種の神宝を授かり天磐船に乗って河内国(大阪府交野市)の河上の地に天降り、その後大和国(奈良県)に移ったとされている。これらは、ニニギの天孫降臨説話とは別系統の説話と考えられる。また、有力な氏族、特に祭祀を司どる物部氏の祖神とされていること、神武天皇より先に大和に鎮座していることが神話に明記されていることなど、ニギハヤヒの存在には多くの重要な問題が含まれている。大和地方に神武天皇の前に出雲系の王権が存在したことを示すとする説や、大和地方に存在した何らかの勢力と物部氏に結びつきがあったとする説などもある。
私が今読んでいる本によると、先に大和に居ついた種族が、吉備地方からの、そして出雲地方からの種族を受け入れて鉄などの技術を基に強力な覇権を手に入れた。
すると吉備や出雲の地方が本家面をするのが疎ましくなり、吉備系とか出雲系という事実(伝説、神話)を抹殺していってしまう。
「饒速日尊」もそういった口で、記紀を編纂した大和朝廷により抹殺された神のようである。
当初強力だった物部氏が滅亡していったこととも関連がある。
神紋は「三つ葉葵」。徳川光圀が作り上げた神社だからでしょう。
他のサイトを見ると、拝殿の棟の神紋がはっきりとしているが、今回訪ねた時にはかなり錆ていてよくわからない。
辛うじて拝殿前の水盤の紋がはっきりしていた。

神楽殿

境内社
旧鎮守の八幡社を潰された村人は、稲村神社の境内に末社として八幡社を建立し、新鎮守と同じく崇拝したという。年3回の鎮守の祭りのうち、8月の祭りとしたと言う。
(現在稲村神社拝殿の右側の大きい木材の社が八幡神社と云われている)。

「御岩神社」碑

境内社の石祠が並びます。一つひとつの社が何であるかはわかりませんが、前総代さんからの資料には内訳が載せられていました。
境内社:
八幡神社(誉田別命)、素鷲神社(素蓋鳴命)、稲荷神社(豊宇気比売命)、富士神社(木花咲耶姫命)、羽黒神社(大山砥命)、秋葉神社(火遇槌命)、大杉神社(猿田彦命)、加波山神社(伊弊諾尊、伊弊冊尊)、天満宮(菅原道真)、雷神社(別雷命)、金比羅神社(金山命)、春日神社(天児屋根命、姫大神)、鷺森神社(月読命、大巳貴命、少彦名命)、御岩神社(明治27年旧7月、天津講中)


傍に旧宮司邸の廃屋がありました。


これで、ここの参拝は終了。続いて「天志良波神社」に向かいました。
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高材比売(たかきひめ) /日本の神々の話
20141207
これは、「日本の神様読み解き事典」に載っていた神です。
事蹟についても、祭神として祀られてもないようで、神功皇后(息長帯比売命)の祖母神という点で載せられているのだと思います。
丹波之遠津臣の女で、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)の后。
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)を生む。
息長宿禰王は、河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、また天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡(おくりな)される。
息長宿禰王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
また、明治15年(1882年)に米原市・山津照神社境内から発見された前方後円墳(山津照神社古墳)は息長宿禰王の墓という。
息長(おきなが)というのは、「息が長い」即ち、潜水を専門とする海人の名だという説があります。
近江水系を支配した息長氏の祖は、15代応神天皇の5世孫にあたる息長真手王だといわれるが、「古事記」には、その祖父で応神天皇の孫、意富々杼王(おほほどのみこ)が、息長(滋賀県坂田郡米原町)の坂君、酒人君(さかひとのきみ・大阪市天王寺区玉造)、三国君(みくにのきみ・福井県三国町)らの祖となったと伝える。
この三国君から、26代継体天皇が出ている。
天之日矛の後裔・葛城之高額比売と結んだというところがミソではないかと思います。
新羅王子・天之日矛が神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参したと日本書紀にあるが、要はそういう神宝を作れる技術を持ち込んできたことを云っている。
その力が、もともと航海の技術を持っている息長氏一族(神功皇后、応神天皇)に加えられたとみていいでしょう。
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事蹟についても、祭神として祀られてもないようで、神功皇后(息長帯比売命)の祖母神という点で載せられているのだと思います。
丹波之遠津臣の女で、迦邇米雷王(かにめいかづちのみこ)の后。
息長宿禰王(おきながのすくねのみこ、生没年不詳)を生む。
息長宿禰王は、河俣稲依毘売との間に大多牟坂王、また天之日矛の後裔・葛城之高額比売との間に息長帯比売命(おきながたらしひめのみこと)、虚空津比売命(そらつひめのみこと)、息長日子王(おきながひこのみこ)を儲ける。息長帯比売命は後に神功皇后と諡(おくりな)される。
息長宿禰王は少毘古名命・応神天皇と並び滋賀県米原市・日撫神社に祀られている。
また、明治15年(1882年)に米原市・山津照神社境内から発見された前方後円墳(山津照神社古墳)は息長宿禰王の墓という。
息長(おきなが)というのは、「息が長い」即ち、潜水を専門とする海人の名だという説があります。
近江水系を支配した息長氏の祖は、15代応神天皇の5世孫にあたる息長真手王だといわれるが、「古事記」には、その祖父で応神天皇の孫、意富々杼王(おほほどのみこ)が、息長(滋賀県坂田郡米原町)の坂君、酒人君(さかひとのきみ・大阪市天王寺区玉造)、三国君(みくにのきみ・福井県三国町)らの祖となったと伝える。
この三国君から、26代継体天皇が出ている。
天之日矛の後裔・葛城之高額比売と結んだというところがミソではないかと思います。
新羅王子・天之日矛が神宝、羽太の玉、足高の玉、赤石、刀、矛、鏡、熊の神籬の7種を持参したと日本書紀にあるが、要はそういう神宝を作れる技術を持ち込んできたことを云っている。
その力が、もともと航海の技術を持っている息長氏一族(神功皇后、応神天皇)に加えられたとみていいでしょう。
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静神社(延喜式内社)/茨城県那珂市
20141206
所在地:茨城県那珂市静2
11月28日に関八州式内社めぐりの行事がありました。訪れたのは「静神社」、「稲村神社」、「天之志良波神社」、「薩都神社」、「長幡部神社」、「泉神社(天速玉姫命神社)」です。
私は同窓会の仕事があり参加出来ず、説明担当者の資料と、写真は池田さんが代わりに撮ってきてくれたもので記事にしています。
白い大きな一の鳥居

社号標

式内社(名神大社)、常陸国二宮で、旧社格は県社。
創建は不詳。『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せる。
前述のように当地は倭文部、すなわち文様付の布を織る技術者集団の居住地と見られ、当社はその関係社と見られている。また当社東方には5世紀を中心とした古墳群(新宿古墳群)が残っており、当社との関係性が指摘される。
由緒:
国史では『日本三代実録』仁和元年(885年)5月22日条で、従五位上の神階が叙せられたと見える。『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 静神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
また鹿島神宮(一宮)、吉田神社(三宮)とともに当社は常陸国の二宮として崇敬されたという。このように崇敬された理由として、遅くとも奈良時代から麻布の使用が庶民に広がったが、常陸国はその特産地であり当社がその生産に関与したためとする考えがある。
中世には佐竹氏が当地を領有し、佐竹貞義によって当社境内に弘願寺・西方寺・静安寺が設けられた。
江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川秀忠から神領150石が寄進された。その後は水戸徳川家の祈願所とされ、維持管理は藩費によってなされたという。寛文7年(1667年)に徳川光圀(水戸第2代)が社殿を修造し弘願寺含め3寺は廃されたが、この際銅印(重要文化財)が発見されている。これにより神仏習合から唯一宗源神道に改められた。以後も徳川氏から崇敬され、徳川綱條(水戸第3代)からは三十六歌仙が奉納され、徳川斉昭(水戸第9代)が天保12年(1841年)の火災で焼失していた社殿を再建した。なお、その火災で燃えた神木の切り株は現在も境内にある。
明治に入り、近代社格制度では県社に列した。
飛鳥時代、蘇我氏との権力抗争に敗れた物部氏の一族のある集団が、ここ常陸の国に落ち延びて来たといわれている。その集団の中に、養蚕と機織の技術と技法を持った秦(波多)氏の親族が居り、この地に養蚕と機織の技術を伝授したそうである。現在でも、織物の祖神として信仰されている。
本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められている。水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされている。
一の鳥居をくぐると広場があり、前方に参道の石段が始まる。

手水舎

大正5年造立の、「縣社」の文字が残る旧社号標があった。

立派な神橋を渡る。

白い一の鳥居とは対照的な、金属製の二の鳥居

石段を上がっていく

神門前まできました。

神門前には織物の神様らしく、「織姫」の像があります。

そして万葉歌碑がある。
万葉集 巻20-4372
防人、倭文部可良麿(しとりべのからまろ)の長歌が刻まれています。

足柄(あしがら)の み坂たまはり 顧(かへり)みず 我(あれ)は越(く)え行く 荒(あら)し男(を)も 立(た)しや憚(はばか)る 不破(ふは)の関(せき) 越(く)えて我(わ)は行く 馬(むま)の蹄(つめ) 筑紫(つくし)の崎に 留(ちまり)居て 我(あれ)は斎(いは)はむ 諸(もろもろ)は 幸(さけ)くと申す 帰り来(く)まてに
(大意) 足柄峠を越える許可を賜り、私は、振り返ることなく峠を越えていく。勇猛な男でも立ち止まって躊躇うであろう不破の関も私は越えて行く。馬の蹄を筑紫の崎にまで進めてそこで留まり、私は潔斎しよう。人々が無事でいてくれと祈るのだ。帰って来るまで。
倭文部可良麿についての確たる伝承はないようですが、彼が常陸国久慈郡(くじのこほり)の出身との説もあり、ここ静神社に歌碑があるようです。
また、歌碑の向かって左横に常陸国風土記の碑があり、「(久慈の)郡の西 □里に静織(しどり)の里がある。昔、綾(しず)を織る機(はた)の使い方を知る人がいなかった時に、この村で初めて織った。それに因んで名づけたもの」という趣旨が記されています。

狛犬(阿形)


狛犬(吽形)


神門前の右には佐竹七福神の一神、恵比寿様があります。

神門

神門の神額

神門を入ると社殿が

神門を入って右脇に三十六歌仙の写しが掲示されている。
紙本著色三十六歌仙 35枚(絵画) 江戸時代、水戸第3代藩主徳川綱條が宝永2年(1705年)に奉納したもの。天保12年(1841年)の火災で1枚は焼失。昭和37年10月24日指定[10]。


欠けてしまった一枚のところには、こんな貼り紙が。

神門には宝物長屋(絵馬堂)が比翼に配されており、奉納絵馬が展示してあります。
これは待乳山楯之亟が奉納した相撲絵馬

沢山の絵馬が奉納されている。


当社の使いは白い機織り物が長くのびる様を表した「白蛇」とされているそうで、龍蛇神の絵馬も多い。

無比流棒術の奉納額

拝殿
御祭神は建葉槌命
配祀神が手力雄命、高皇産靈命、思兼命

本殿・拝殿・楼門に代表される社殿は、天保年間(1830年-1844年)に徳川斉昭による再建である。
拝殿から幣殿

幣殿から本殿

本殿は神明造です。

神紋は「丸に桜」

境内社
桑神社、雷神社など

元御神木
天保の火災の折に枯れてしまいましたが、当時で樹齢千年という古木で、この木の周囲を千度回る慣習があり、「千度杉」と呼ばれていたそうです。



これも御神木らしい。

これは?

「倭文・・・・・・」
達筆すぎて読めません(汗)
正風とは「高崎正風」のことでしょうか?


本殿右手に末社の「手接足尾神社(てつぎあしおじんじゃ)」への参道が続きます。


「手接足尾神社」は昔から手と足腰の安全、健康の守護神としての信仰が厚く、祈願の際に「手差し」や「草履」を供えて願をかける習慣が残っているそうです。


手足に関する奉納物


手接足尾神社参道下にあった石祠

これも手接足尾神社参道下にあった石祠ですが、文政十年建立のもので、何故か逆さまになっている。
どうしてだろうか?

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11月28日に関八州式内社めぐりの行事がありました。訪れたのは「静神社」、「稲村神社」、「天之志良波神社」、「薩都神社」、「長幡部神社」、「泉神社(天速玉姫命神社)」です。
私は同窓会の仕事があり参加出来ず、説明担当者の資料と、写真は池田さんが代わりに撮ってきてくれたもので記事にしています。
白い大きな一の鳥居

社号標

式内社(名神大社)、常陸国二宮で、旧社格は県社。
創建は不詳。『新編常陸国誌』では大同元年(806年)に創建されたという社伝を載せる。
前述のように当地は倭文部、すなわち文様付の布を織る技術者集団の居住地と見られ、当社はその関係社と見られている。また当社東方には5世紀を中心とした古墳群(新宿古墳群)が残っており、当社との関係性が指摘される。
由緒:
国史では『日本三代実録』仁和元年(885年)5月22日条で、従五位上の神階が叙せられたと見える。『延喜式神名帳』には「常陸国久慈郡 静神社 名神大」と記載され、名神大社に列している。
また鹿島神宮(一宮)、吉田神社(三宮)とともに当社は常陸国の二宮として崇敬されたという。このように崇敬された理由として、遅くとも奈良時代から麻布の使用が庶民に広がったが、常陸国はその特産地であり当社がその生産に関与したためとする考えがある。
中世には佐竹氏が当地を領有し、佐竹貞義によって当社境内に弘願寺・西方寺・静安寺が設けられた。
江戸時代には、慶長7年(1602年)に徳川秀忠から神領150石が寄進された。その後は水戸徳川家の祈願所とされ、維持管理は藩費によってなされたという。寛文7年(1667年)に徳川光圀(水戸第2代)が社殿を修造し弘願寺含め3寺は廃されたが、この際銅印(重要文化財)が発見されている。これにより神仏習合から唯一宗源神道に改められた。以後も徳川氏から崇敬され、徳川綱條(水戸第3代)からは三十六歌仙が奉納され、徳川斉昭(水戸第9代)が天保12年(1841年)の火災で焼失していた社殿を再建した。なお、その火災で燃えた神木の切り株は現在も境内にある。
明治に入り、近代社格制度では県社に列した。
飛鳥時代、蘇我氏との権力抗争に敗れた物部氏の一族のある集団が、ここ常陸の国に落ち延びて来たといわれている。その集団の中に、養蚕と機織の技術と技法を持った秦(波多)氏の親族が居り、この地に養蚕と機織の技術を伝授したそうである。現在でも、織物の祖神として信仰されている。
本殿には国の重要文化財に指定されている社宝の銅印が納められている。水戸藩主徳川光圀公が社殿を修造する時に本殿脇の大きな桧の根本から『静神宮印』とほられた銅印がみつかったことを大層よろこび、黒塗りの箱に納めて社宝として神社に蔵したとされている。
一の鳥居をくぐると広場があり、前方に参道の石段が始まる。

手水舎

大正5年造立の、「縣社」の文字が残る旧社号標があった。

立派な神橋を渡る。

白い一の鳥居とは対照的な、金属製の二の鳥居

石段を上がっていく

神門前まできました。

神門前には織物の神様らしく、「織姫」の像があります。

そして万葉歌碑がある。
万葉集 巻20-4372
防人、倭文部可良麿(しとりべのからまろ)の長歌が刻まれています。

足柄(あしがら)の み坂たまはり 顧(かへり)みず 我(あれ)は越(く)え行く 荒(あら)し男(を)も 立(た)しや憚(はばか)る 不破(ふは)の関(せき) 越(く)えて我(わ)は行く 馬(むま)の蹄(つめ) 筑紫(つくし)の崎に 留(ちまり)居て 我(あれ)は斎(いは)はむ 諸(もろもろ)は 幸(さけ)くと申す 帰り来(く)まてに
(大意) 足柄峠を越える許可を賜り、私は、振り返ることなく峠を越えていく。勇猛な男でも立ち止まって躊躇うであろう不破の関も私は越えて行く。馬の蹄を筑紫の崎にまで進めてそこで留まり、私は潔斎しよう。人々が無事でいてくれと祈るのだ。帰って来るまで。
倭文部可良麿についての確たる伝承はないようですが、彼が常陸国久慈郡(くじのこほり)の出身との説もあり、ここ静神社に歌碑があるようです。
また、歌碑の向かって左横に常陸国風土記の碑があり、「(久慈の)郡の西 □里に静織(しどり)の里がある。昔、綾(しず)を織る機(はた)の使い方を知る人がいなかった時に、この村で初めて織った。それに因んで名づけたもの」という趣旨が記されています。

狛犬(阿形)


狛犬(吽形)


神門前の右には佐竹七福神の一神、恵比寿様があります。

神門

神門の神額

神門を入ると社殿が

神門を入って右脇に三十六歌仙の写しが掲示されている。
紙本著色三十六歌仙 35枚(絵画) 江戸時代、水戸第3代藩主徳川綱條が宝永2年(1705年)に奉納したもの。天保12年(1841年)の火災で1枚は焼失。昭和37年10月24日指定[10]。


欠けてしまった一枚のところには、こんな貼り紙が。

神門には宝物長屋(絵馬堂)が比翼に配されており、奉納絵馬が展示してあります。
これは待乳山楯之亟が奉納した相撲絵馬

沢山の絵馬が奉納されている。


当社の使いは白い機織り物が長くのびる様を表した「白蛇」とされているそうで、龍蛇神の絵馬も多い。

無比流棒術の奉納額

拝殿
御祭神は建葉槌命
配祀神が手力雄命、高皇産靈命、思兼命

本殿・拝殿・楼門に代表される社殿は、天保年間(1830年-1844年)に徳川斉昭による再建である。
拝殿から幣殿

幣殿から本殿

本殿は神明造です。

神紋は「丸に桜」

境内社
桑神社、雷神社など

元御神木
天保の火災の折に枯れてしまいましたが、当時で樹齢千年という古木で、この木の周囲を千度回る慣習があり、「千度杉」と呼ばれていたそうです。



これも御神木らしい。

これは?

「倭文・・・・・・」
達筆すぎて読めません(汗)
正風とは「高崎正風」のことでしょうか?


本殿右手に末社の「手接足尾神社(てつぎあしおじんじゃ)」への参道が続きます。


「手接足尾神社」は昔から手と足腰の安全、健康の守護神としての信仰が厚く、祈願の際に「手差し」や「草履」を供えて願をかける習慣が残っているそうです。


手足に関する奉納物


手接足尾神社参道下にあった石祠

これも手接足尾神社参道下にあった石祠ですが、文政十年建立のもので、何故か逆さまになっている。
どうしてだろうか?

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秩父夜祭2014
20141204
私にとっては、毎年恒例になっている秩父夜祭ですが、今年は歴史クラブの行事にしました。
希望者を募集したところ20名の参加者となり、まずは往復の特急券の入手から大変でした。1ケ月前の朝7時から発売しますが、一人で4人分しか買えないので、5人が並びました(笑)
昨年の経験から計画を立てましたが、誤算がありました。
昨年は秩父神社境内で13時から屋台芝居が行われましたが、ポスターが発行されてずっこけました。
場所が上町に変ったのは良いとして、11時からの興行になっていました。
そのため、昨年とても良いなと思った「口上」には間に合わず(泣)
それでも、本格的な上演、秩父歌舞伎正和会の秩父歌舞伎には間に合いました。
屋台は、デン!と道路に設置されていました。

何回見ても感心する豪華な屋台です。


今年の演目は「吉例曽我対面工藤館之場」

江戸時代の初春興行は曽我狂言で明けると言われ、必ず「曽我物」を上演したことから、「吉例曽我対面」ま
たは「寿曽我対面」と呼ばれています。
(あらすじ)
工藤左衛門祐経は源頼朝の家来で、富士の裾野の巻狩の総奉行を命ぜられています。その工藤の館へ朝比奈三郎も御祝いにやって来て、二人の若者を工藤に会わせます。その二人の若者は、工藤を父の仇と狙う曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟でした。
仇と言っても工藤は兄弟の親戚に当たり、工藤は大所高所から兄弟を諭します。しかし、弟の五郎は血気には
やって挑みかかります、これを柔らかに制するのが兄の十郎です。朝比奈は奴特有のモサ言葉でたしなめます。
工藤は兄弟に富士の裾野の狩り場の通行手形(切手)を渡し、無事に巻狩奉行を勤めおおせた後には、潔く討たれる心情を吐露して別れていくのでした。
この演目の前に、秩父市立花の木小学校歌舞伎クラブの芝居がありましたが、出演を終えた子供たちが上から顔をのぞかせました(笑)

開演が迫り、舞台の袖に俳優さんがスタンバイします。


上町屋台の役員さんの衣装も立派なものですね。

舞台は動画で撮ったので、ユーチューブにアップしたものを見てください。
屋台歌舞伎「吉例曽我対面工藤館之場」(前半)を見る
屋台歌舞伎「吉例曽我対面工藤館之場」(後半)を見る
屋台歌舞伎の上演が終わると、屋台巡行のため、すぐに付け舞台は取り外されます。
しばらく見ていました。



秩父神社境内に向かいますが、幾つかの屋台を見ながら行きます。
これは「本町屋台」
後幕にはダルマなどの「玩具宝船」が描かれている。


秩父神社境内にて、しばらく休憩していると、宮地屋台だけだったのが、中近笠鉾が入ってきて境内の二台が揃いました。

神楽殿では、国の重要無形民俗文化財に指定されている「神代神楽」が上演されています。
これは「大蛇退治」
大蛇がなかなかユーモラスでよかった。




いったん解散して、バラバラで夕食を食べてもらって、17:30に境内に集合。
待つことしばし、神幸祭の行列が整えられます。
離れたところにいたので、遠くから撮りました。
18:30に出発していきました。


いよいよ、屋台の巡行です。
境内では、右が「中近笠鉾」、左が「宮地屋台」がスタンバイ。

そして、いよいよ動き出します。
動画で撮るつもりでしたが、なんということでしょうか・・・・・・・・
寒さのためだと思いますが、フル充電したはずのバッテリーが不調(泣)
キレギレに撮れたものを継ぎ合せました。
少しはわかるかな。
ユーチューブにアップしたものを見てください。
屋台秩父神社出発を見る
二台の屋台が神社出ていき、当初の予定では先回りして矢尾百貨店の角あたりで巡行を待つつもりでしたが、皆さん疲れてしまったのか、満足してしまったのか、それとも早く酒が飲みたくなったのか(笑)
皆さん、駅にまっしぐら(笑)
指定券を取っておいた特急の時間まで、暖かいものを食べ、飲んでから帰途につきました。
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希望者を募集したところ20名の参加者となり、まずは往復の特急券の入手から大変でした。1ケ月前の朝7時から発売しますが、一人で4人分しか買えないので、5人が並びました(笑)
昨年の経験から計画を立てましたが、誤算がありました。
昨年は秩父神社境内で13時から屋台芝居が行われましたが、ポスターが発行されてずっこけました。
場所が上町に変ったのは良いとして、11時からの興行になっていました。
そのため、昨年とても良いなと思った「口上」には間に合わず(泣)
それでも、本格的な上演、秩父歌舞伎正和会の秩父歌舞伎には間に合いました。
屋台は、デン!と道路に設置されていました。

何回見ても感心する豪華な屋台です。


今年の演目は「吉例曽我対面工藤館之場」

江戸時代の初春興行は曽我狂言で明けると言われ、必ず「曽我物」を上演したことから、「吉例曽我対面」ま
たは「寿曽我対面」と呼ばれています。
(あらすじ)
工藤左衛門祐経は源頼朝の家来で、富士の裾野の巻狩の総奉行を命ぜられています。その工藤の館へ朝比奈三郎も御祝いにやって来て、二人の若者を工藤に会わせます。その二人の若者は、工藤を父の仇と狙う曽我十郎祐成と曽我五郎時致の兄弟でした。
仇と言っても工藤は兄弟の親戚に当たり、工藤は大所高所から兄弟を諭します。しかし、弟の五郎は血気には
やって挑みかかります、これを柔らかに制するのが兄の十郎です。朝比奈は奴特有のモサ言葉でたしなめます。
工藤は兄弟に富士の裾野の狩り場の通行手形(切手)を渡し、無事に巻狩奉行を勤めおおせた後には、潔く討たれる心情を吐露して別れていくのでした。
この演目の前に、秩父市立花の木小学校歌舞伎クラブの芝居がありましたが、出演を終えた子供たちが上から顔をのぞかせました(笑)

開演が迫り、舞台の袖に俳優さんがスタンバイします。


上町屋台の役員さんの衣装も立派なものですね。

舞台は動画で撮ったので、ユーチューブにアップしたものを見てください。
屋台歌舞伎「吉例曽我対面工藤館之場」(前半)を見る
屋台歌舞伎「吉例曽我対面工藤館之場」(後半)を見る
屋台歌舞伎の上演が終わると、屋台巡行のため、すぐに付け舞台は取り外されます。
しばらく見ていました。



秩父神社境内に向かいますが、幾つかの屋台を見ながら行きます。
これは「本町屋台」
後幕にはダルマなどの「玩具宝船」が描かれている。


秩父神社境内にて、しばらく休憩していると、宮地屋台だけだったのが、中近笠鉾が入ってきて境内の二台が揃いました。

神楽殿では、国の重要無形民俗文化財に指定されている「神代神楽」が上演されています。
これは「大蛇退治」
大蛇がなかなかユーモラスでよかった。




いったん解散して、バラバラで夕食を食べてもらって、17:30に境内に集合。
待つことしばし、神幸祭の行列が整えられます。
離れたところにいたので、遠くから撮りました。
18:30に出発していきました。


いよいよ、屋台の巡行です。
境内では、右が「中近笠鉾」、左が「宮地屋台」がスタンバイ。

そして、いよいよ動き出します。
動画で撮るつもりでしたが、なんということでしょうか・・・・・・・・
寒さのためだと思いますが、フル充電したはずのバッテリーが不調(泣)
キレギレに撮れたものを継ぎ合せました。
少しはわかるかな。
ユーチューブにアップしたものを見てください。
屋台秩父神社出発を見る
二台の屋台が神社出ていき、当初の予定では先回りして矢尾百貨店の角あたりで巡行を待つつもりでしたが、皆さん疲れてしまったのか、満足してしまったのか、それとも早く酒が飲みたくなったのか(笑)
皆さん、駅にまっしぐら(笑)
指定券を取っておいた特急の時間まで、暖かいものを食べ、飲んでから帰途につきました。
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