土師真中知命(はじのまつちのみこと)/日本の神々の話

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浅草の浅草寺を知らない人は居ない。
浅草寺の本堂の右に並んで鎮座しているのが浅草神社(三社さま)です。
有名な「三社まつり」は浅草神社の祭礼なわけですね。

浅草神社の祭神(三社さま)は、桧前(ひのくま)浜成命・桧前竹成命・土師真中知命です。
三社さまの話が、そのまま浅草寺の観音様の話となります。

漁師の桧前(ひのくま)浜成・竹成兄弟が隅田川で漁労に精を出していましたが、その日に限り一匹の漁もなく網にかかるのはただ人型の像だけでした。幾たびか像を水中に投げ捨て、何度場所を変えて網を打ってもかかるのは不思議と人型の像だけなので、最後には兄弟も不思議に思い、その尊像を捧持して今の駒形から上陸し、槐(えんじゅ)の切り株に安置しました。そして、当時、郷土の文化人であった土師真中知にこの日の出来事を語り、一見を請うたところ、土師氏は、これぞ聖観世音菩薩の尊像にして自らも帰依の念心仏体であることを兄弟に告げ、諄々と功徳、おはたらきにつき説明しました。
 兄弟は初めて聞く観音の現世利益仏であることを知り、何となく信心をもよおされた二人は、深く観音を念じ名号を唱え、「我らは漁師なれば、漁労なくしてはその日の生活にも困る者ゆえ、明日はよろしく大漁を得させしめ給え」と厚く祈念しました。
  翌十九日に再び網を浦々に打てば、願いのごとく大漁を得ることができました。
  土師真中知は間もなく剃髪して僧となり、自宅を改めて寺となし、さきの観音像を奉安して供養護持のかたわら郷民の教化に生涯を捧げたという。いわゆるこれが浅草寺の起源です。

 土師真中知の没した後、間もなくその嫡子が観世音の夢告を受け、三社権現と称し上記三人を神として祀ったのが三社権現社(浅草神社)の始まりであるとされています。

ついでに、浅草観音が隅田川で発見されたわけですが、どこからきたかというと、飯能市大字岩渕にある「岩井堂観音」から流されたものなのですね。
2014年3月25日に、「飯能市・南高麗地区ウォーク」という歴史クラブFグループ行事で、岩井堂観音を訪ねました。
そのときの記事はこちらです。

その記事を読む


岩井堂観音に飾られていた絵
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調べてみると、この絵は観音堂を管理している岩淵・観喜寺に納められている、山田辰吉氏寄贈の絵のコピーのようです。


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毛呂氏ゆかりの史跡を訪ねる

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これは、歴史クラブの行事で1月23日(金)に催行されました。私は参加できなかったので写真は例によって池田さんが撮ってきたものです。
コースは、東毛呂駅⇒出雲伊波比神社⇒長栄寺(毛呂氏館跡)⇒榎堂⇒妙玄寺⇒山根城跡⇒斉藤氏館跡⇒東毛呂駅でした。
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【出雲伊波比神社】
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町岩井西5丁目17-1

入っていくと猫と狛犬がお出迎え。
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ここから先は、私が以前「武蔵国式内社めぐり」で行った際の記事でどうぞ。

その記事を読む


1月23日訪問時は、橘が実っていました。日本最北限の橘です。
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毛呂山聖霊教会の前を通りました。
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エリザベト・アプタン女史によって創立された本教会は、1934年その伝道の歴史をスタートさせた。毛呂駅からほど近くも緑が深く残る景観は、落着いた木造の礼拝堂とよく調和している。教会と敷地続きにある毛呂山愛仕幼稚園は、アプタン女史の愛仕精神を反映した保育を行っており、地域に根差した幼児教育の一環を担っている。

【長栄寺(毛呂氏館跡)】
入り口
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例によって「不許葷酒入山門」の碑があるが、酒の字が面白い。
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右側面に慶長とあるが、そんなに古くないと左側面を見ると文化二年とあり。
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参道途中左手に滝と不動明王、二童子。
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山門
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長栄寺は、曹洞宗、大永5年(1525)に毛呂顕繁によって開かれた。
毛呂氏の墓、供養塔がある。
寺の裏に、毛呂氏館跡(曲輪・土塁・空堀)がある。
〈県選定重要遺跡〉

山門を入ると、毛呂氏館跡の表示が。
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毛呂氏の歴史で最初に登場するのが、毛呂季光だが源頼朝の傍に常に控えた、どちかという文系の武将。
頼朝亡きあと、北条氏が権力を確立する過程で、梶原氏、畠山氏、比企氏、河越氏などことごとく滅んでいったが、毛呂氏はしぶとく生き延び、戦国時代も生き延び、徳川幕府にも仕えたという、稀有稀な存在である。
また、毛呂山町教育委員会発行の「源頼朝重臣 毛呂季光」という資料に系図が載っているが、「天御中主神」から書き出され藤原鎌足、藤原不比等、を経由している系図で、こんな系図は初めて見た。

本堂
昭和46年焼失、同49年再建。
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鐘楼
本堂と同時に消失。鐘は平成のもの。
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寺の下にある溜め池。
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毛呂氏一族の墓の一つ。
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左-慧倫禅門、中央-一田幻世、右-以三妙玄夫妻
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14~15世紀の典型的な関東型宝篋印塔だが、種子が金剛界胎蔵界の何れでもなし。
應永二年建立。同年阿弥陀一尊板碑が館跡から出土している。
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裏山の毛呂氏館跡に向かいます。
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虎口
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本廓跡
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【不動堂】
長栄寺参道からの不動堂。
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鰐口が不釣り合いに大きい。
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慶應三年のもの
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本尊は絵姿であった。本堂消失の為か。
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堂脇の木製宝剣
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脇に稲荷社がある。
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県道30号線、毛呂本郷に明和7年造立のお地蔵様が。
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【権田直助生地】
毛呂本郷の米屋さんの前に、生地の記念碑が建てられている。生家はこの米屋さんの奥にあったとのこと。
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【毛呂山流鏑馬・的宿(本陣)】
所在地:毛呂本郷
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【榎堂】
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町毛呂本郷上宿
毛呂氏当初の屋敷跡(最初に居を構えたところとも)。
甲子大黒天のお堂と榎がある。
流鏑馬の祭馬は、この榎をまわってから、神社へ向かう。
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甲子大黒天のお堂
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榎は二代目
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【妙玄寺】
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町毛呂本郷244
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曹洞宗
毛呂顕繁夫人(法名:以三妙玄大姉)が天文2年(1533)に開いた。
毛呂堀の内(館)のすぐ北西側に位置し、毛呂氏一族の供養塔が多数建てられていることから、古くから毛呂氏の墓所であったと想定される。
毛呂氏供養塔、俳人・川村硫布(1750-1843)の墓・句碑、国学者・権田直助の墓がある。

本堂
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中を覗くと、本尊は聖観音ということだが、これは違いますね。聖観音は秘仏なのかな。
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毛呂氏供養塔
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應永21年造立の本空禅尼の供養塔
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権田直助の墓
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【山根城跡】
所在地:埼玉県入間郡毛呂山町毛呂本郷244
毛呂氏館(毛呂堀の内)跡、現在は石碑のみあり。
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堀の内から出雲伊波比神社を望む。
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【斉藤氏館跡】
現在は斎藤家の屋敷になっている。一重の堀と土塁を巡らした方形館。東西130m、南北80m。堀と土塁が残る。
斎藤家については、斉藤美濃守冨長がこの地、平山に来住し、毛呂氏女鶴を妻とし、永禄元年(1558)に没したと伝わる。
東隣に村田和泉守館跡があり、一重の堀と土塁が方形に残る。村田氏については、「御討入の後、上野国より来住」と伝わる。

斎藤家向かって左正面土塁
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斎藤家向かって左側面土塁
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斎藤家向かって左後方土塁
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斎藤家正面
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これで、今回の予定を全て廻り、東毛呂駅から帰途につきました。

(了)


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白山神社/東京十社

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所在地:文京区白山5-31-26

東京十社の一つ、文京区の白山神社には昨年の10月7日に参拝したのですが、当時他に色々とアップしなければいけない記事があり、延び々となってしまっていた。
今ごろになって申し訳ないと思うが、記事にします。

地下鉄三田線白山駅から歩いてすぐ、社号標と鳥居があります。
鳥居は明治22年の石造明神鳥居。
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鳥居をくぐると、石柱に蔓草のアーチの上に「三つ巴」紋が乗った、面白い門がある。
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白山神社の創建年代は不詳ですが、天暦年間(947-57)に現本郷一丁目附近に創建されたと伝えられています。元和2年(1616)二代将軍秀忠の命により現在の小石川植物園の地へ遷座、慶安4年(1651)白山御殿造立に伴い、明暦元年(1655)当地に遷座したといいます。五代将軍家綱の生母桂昌院の崇敬篤く、元禄3年(1690)正月29日社領30石の御朱印状を拝領していました。地名白山は当社の在るところから、また小石川は、白山神社本社のある加賀国石川郡(石川県)より名づけられているといいます。

境内掲示による白山神社の由緒
当社人皇六十二代村上天皇天暦2年(948)9月加賀一宮白山神社を武蔵国豊島郡元国木と号して今の本郷元町に奉勧請す。
建武4年(1338)足利尊氏により国家平安御祈願所に命ぜられ永百貫文之御判物を賜る。元和2年(1616)徳川秀忠公の命に依り小石川白山御殿(巣鴨原)へ遷座、慶安4年(1651)徳川家綱公の用地と相成り、明暦元年(1655)現在地に移奉す。同年社頭其外造立に相成り、後に五代将軍家綱公之生母桂昌院の信仰を受けらる。元禄年中までは本社摂社寄附神楽宝庫は勿論神官宅まで、旧幕府より修繕を加えられる。寛文6年(1677)9月29日祭礼賑々しく執行いたすべき旨申し渡され、御開帳並びに祭具等寄附あり。
元禄3年(1690)正月29日旧幕府より社領30石寄附之あり。右朱印元禄6年(1693)9月29日戸田能登守相渡さる。元禄16年(1703)11月29日小石川辺より出火、本社摂社末社宝庫並びに祭具のこらず社中惣門まで悉く類焼し、宝永元年(1704)6月14日加藤越中守掛にて仮殿手当として金500両桧5000挺寄附あり。再建せられたるも享保3年(1719)3月回禄の時再び火災にあい宝物什器祭具等悉く焼失す。後数十年間本殿のみ建立しありしに明治32年拝殿建設、昭和8年改修し同9年9月18日盛大に正遷座大祭施行す。
なお白山御殿の地名は元白山社地なるが故であり、小石川の地名は始め加賀国石川郡より奉勧請当社鎮座の旧地に倣へるが故なり。
当社は明治元年勅祭神社に準じられ(準勅祭神社)、東京十社の一つである。(境内掲示より)


境内は、わりと広いが駐車場にかなりの部分が占められている感じ。
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手水舎
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安永9年(1780)建立の狛犬
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文政9年(1826)奉納の、鉄製天水桶。
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拝殿
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向拝の獅子が牡丹の枝を咥えているのは、良い彫刻です。
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向拝蟇股の人物の彫刻も面白く、斗組の下面を全て白く塗ってあるのも趣がある。
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拝殿入り口の袖扉の彫刻も良い。
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祭神:菊理姫命、伊弉姫命、伊弉册命
相殿:大国主命・菅原道真公

神紋は、加賀の白山比咩神社と同じ「三子持亀甲瓜花」紋。
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拝殿左右の袖扉の彫刻も面白い。
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拝殿から本段までの距離が長い。
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本殿背面
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これより境内社です。

福受稲荷神社
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関東松尾神社
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合祀社(富士浅間社・稲荷社・三峯社・玉津島社・天満天神社・山王社・住吉社)
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八幡神社には、有名なご神木「白旗桜」があります。
この桜は「旗桜」と言い、八幡太郎義家御旗を立給いて祈願せられた時の桜木にて、(古木は社務所に)若木を育てたものであり、花の真に旗の形なる花弁ある名花です。
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「旗桜記」碑
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八幡神社
由緒:
当社は人皇七十代後冷泉帝永承六年(一〇五一年)四月奥州安部の一統王威を掠む、是に拠て征伐勅宣を蒙り伊豫守源頼義、御嫡男八幡太郎義家両大将軍は官軍を率て発向したもう、当所は其の時の奥州街道なり。然るに敵将此の辺に兵を伏駒を込数千の薪を集め焼亡さんと計るとき、両大将当社前の桜木に御旗を立て岩清水八幡宮を奉勧請御祈誓ありて後、一戦に敵を討捕し討伐後ここに感謝の意をもって八幡神社を創建せらる。
白山神社の境内の地主神に在りて御神徳顕著にして崇敬者多し。昭和五十年老朽化せし社殿改修し同年十二月十日遷座祭施行す(なお白山神社氏子中の協賛による)

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「白旗桜」は手水舎の後ろにもあります。
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神輿藏がずらっと並んでいた。
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「孫文の腰かけ石」碑
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説明を読むと、中国の政治家孫文が、この近くに奇遇しており、この神社境内の石に腰かけて、知人と中国の将来について熱く語っていたとのことでした。



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見事な連凧

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今日からウォーキングを再開しました。

安比奈親水公園まで入間川沿いに歩いた。
安比奈親水公園に着くと、凧が上がっているので、ああそうか月曜だから凧愛好会の活動日なんだと思い当たった。

見事な連凧が上がっていました。
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凧の数を数えたら、95までは確認できた。おそらく100は超えているだろう。
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自転車の人も立ち止まって、見とれている(笑)
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当然、人が集まってきます。
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それにしても、見事な連凧です。
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長白羽神 (ながしらはのかみ)/日本の神々の話

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この神は、私は都合が悪くて行けませんでしたが、歴史クラブ行事「関八州式内社めぐり」で2014年11月28日に参拝した天志良波神社の祭神です。

その記事を読む


Wikipediaでは、下記のようになっています。
『古語拾遺』の天岩戸に登場する神。思兼神に命じられ、麻を育て青和幣(あおにぎて)を織ったという。神麻続機殿神社で伊勢神宮に奉納する荒妙(あらたえ)を織った神麻続部(かんおみべ、神麻績部とも)の祖神とされ、白い衣類を白羽と呼んだのは長白羽神に由来するとされる。
天太玉命の同族神であるという。別名を天白羽神(あめのしらはのかみ)といい、天白信仰を長白羽神由来とする説がある。常陸国久慈郡(現茨城県常陸太田市)の式内社・天之志良波神社の祭神として祀られている。

『古事記』では、この天岩戸の部分の記述は、
「このような状態となったので、ありとあらゆる神々が、天の安河の河原に会合して、高御産日神の子の思金神に、善後策を考えさせた。そしてまず常世国の長鳴き鳥を集めて鳴かせ、次に天の安河の川上の堅い岩を取り、天の金山の鉄を採って、鍛冶師の天津痲羅を捜して、伊斯許理度売命に命じて鏡を作らせ、玉祖命に命じて、たくさんの勾玉を貫き通した長い玉の緒を作らせた。次に天兒屋命と布刀玉命を呼んで、天の香具山の雄鹿の肩骨を抜き取り、天の香具山の朱桜を取り、鹿の骨を灼いて占い、神意を待ち伺わせた。そして天の香具山の枝葉の繁った賢木を、根ごと掘り起こして釆て、上の枝に勾玉を通した長い玉の緒を懸け、中の枝に八咫の鏡を懸け、下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を垂れかけて、これらの種々の品は、布刀玉命が神聖な幣として捧げ持ち、天兒屋命が祝詞を唱えて祝福し、天手力男神が石戸の側に隠れて立ち、天宇受売命が、天の香具山の日陰蔓を襷にかけ、眞拆鬘を髪に擬い、天の香具山の笹の葉を束ねて手に持ち、天の石屋戸の前に桶を伏せてこれを踏み鳴らし、神がかりして、胸乳をかき出だし裳の紐を陰部までおし下げた。すると、高天原が鳴りとどろくばかりに、八百万の神々がどっといっせいに笑った。」
となっている。

『古語拾遺』では、「下の枝に楮の白い布帛と麻の青い布帛を垂れかけて」の部分をどの神が作ったのか書いている。
「太玉神に諸々の部神(トモノカミ)を率いて和幣(ニギテ)を作らせ、 石凝姥神(イシコリドメノカミ)に天香山(アメノカグヤマ)の銅を取り日像(ヒカタ)の鏡を鋳造させ、 長白羽神(ナガシロハノカミ)に麻で青和幣(アオニギテ)を作らせ、 天日鷲神に津咋見神(ツクイミノカミ)を使わせて穀木を植ささせて白和幣(シロニギテ)を作らせ、 天羽槌雄神(アメノハツチヲノカミ)に文布を織らせ、天棚機姫神(アメノタナバタヒメノカミ)に神衣を織らせる。 所謂、和衣(ニギタエ)である。」

○石凝姥神:天糠戸命(アメノヌカドノミコト)の子で鏡作の遠祖である。
○長白羽神:伊勢の国の麻績(オミ)の先祖で、今の世で衣服の事を白羽と言うのは この事が始まりである。
○白和幣:是は木綿である。神の作物は一夜で茂る。
○天羽槌雄神:倭文の遠祖である。

これを見る限り、麻績氏という麻を織る氏族が居たようで、忌部広成の時代においては、麻績氏の拠点が伊勢国にあったようです。


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古代史謎解き紀行「Ⅱ神々の故郷出雲編」/関祐二

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はじめに
第一章 出雲神話という迷路
第二章 出雲の謎を旅する
第三章 出雲の考古学に迷い込む
第四章 出雲と「境界」の謎
第五章 アメノヒボコと出雲の謎


この本の「はじめに」のところで著者は以下のようなことから書き出している。
「2004年の7月に都内で行われた、山陰地方の古代史に関する、とあるシンポジウムの席上で、進行役の高名な考古学者が、「もうこれ以上、山陰地方から新たな発見が出てきてもらっては困る」 と発言し、自ら失笑していた。 もちろん、冗談めかして語っていたのだが、半分は本音だろう。いや、心の底から、「もう、いい加減にしてくれ」と叫んでいるのかもしれなかった。というのも、ここ30年の山陰地方の発掘調査によって、かっての史学界の常識は、根底から覆されそうな勢いだからだ。これまでの研究努力が、水泡に帰す恐怖を今、史学看たちは味わっているのであり、生涯をかけて導き出した推論が、目の前で瓦解してしまう可能性が出てきてしまったわけである。 かって史学者たちは、「神々の国出雲などどこにもなかった」と高をくくっていたものだ。『古事記』神話の三分の一を出雲が占めていたとしても、だからといって、現実に出雲に神話に見合うだけの勢力が存在したのかといえば、答えは「否」であり、神話の出雲は八世紀の朝廷がでっち上げた「絵空事」にすぎなかったと考えられていたわけである。 だから、「出雲は実在した」などと不用意な発言をしようものなら、それこそ「非科学的」のレッテルを貼られかねなかった。それにしても、なぜ史学界は、これまで出雲を無視してきたのだろう。
 ひとつの理由に、戦前の「神話は史実」といういわゆる「皇国史観」に対する反発から、「神話などまともに歴史として取り扱うことはできない」という発想となって、天皇家のための神話の「引き立て役」としての出雲も、「創作」というレッテルを貼られることになつたわけである。神話の中で大きな顔をしていたからこそ、「事実ではない」と、決めつけられてしまったのだ。
(以下省略)」

これで著者の立ち位置は、だいたいはっきりしている。
私には学会のことなど、どうでもいいが、戦前の「皇国史観」に対する反発からか、どこのお宮に参っても寂れてしまっているところが多く、残念な気持ちをいつも味わっているので、これは何とかして欲しいといつも思っている。

それと、古代というと私にとって身近なのは「さきたま古墳群」だが、そこにある「前玉神社」の祭神が出雲系であることから「さきたま古墳群」に眠っている被葬者たちは出雲民族系だと推定される。
それから私は長野県の佐久市で生まれ育ったが、小、中学校の帰りにいつも遊び場所だったお宮が「柴宮神社」というが調べてみたら諏訪神社の末社であり、当然信州の佐久だから諏訪神社系が多いのだが、これも出雲系の神である。

ということで、とてもこの本は面白かった。
最初から最後まで、全部の話が面白かったので、その中から抽出して紹介するのに、どこをと悩んだ(笑)

つい最近出雲国造家のプリンスと、皇族のお嬢さんが結婚して話題となったが、誰もが知ってるように出雲大社の宮司が出雲国造家である。その出雲国造家の本貫の地は出雲の東方「意宇」であり、その氏神は意宇にある熊野大社である。有名な行事だが、毎年新嘗祭のときに出雲国造家はその熊野大社から「燧臼と燧杵」を借りてきて火を起こし、それで神饌を調理する。根源が熊野大社であることは、これでみてもわかる。
その出雲国造家が意宇から杵築に移り出雲大社の宮司となった。
そしてその頃に「出雲國風土記」も編纂された。そして他の風土記よりも「出雲國風土記」の編纂は大幅に遅れた。これは記述の「すり合わせ作業」が大変だったからではないかと想定したほうがいいと著者はいう。
記紀神話と「出雲國風土記」の相違点がいくつもあって、通説は「風土記」は純粋にその土地の伝承だけを集めたから、となっているが、それは注意したほうが良さそうだ。

ヤマト(伊勢)と出雲の戦いは、明治維新の際にも激烈だった。
明治8年、明治政府は「神道事務局」を開設したが、そこにタカミムスビ、アマテラスといった皇室ゆかりの神と、さらに「八百万の神」としようとした。
それに危機感を抱いた出雲大社宮司の千家尊福が「待った!」をかけ、「大国主命」を合祀することを主張し、伊勢、出雲両者の争いは「事務局の瓦解」を思わせるほどで、やがて出雲派の主張が優勢となったところで、危機感を抱いた伊勢派が天皇の裁断に委ねる、という手に出た。
結局、伊勢派と出雲派の神が「天神地祇」とひとくくりにされたのである。

私は、新羅から渡来したという「天日矛あめのひぼこ」とかその神裔「天目一個神」などに、製鉄・青銅関係者の神として注目しているのだが、それが多く見られるのが吉備地方。ここにも出雲と匹敵する強大な勢力があったはずだが、記紀神話にはほとんどこの地方の神は登場しない。抹殺されているのである。
この辺の話も、実に面白かった。

この本は「紀行シリーズ」と銘打っているだけに、入門編として位置づけられると思うが、読んでいてとてもヒントになる話が山盛りにあって、とても面白かった。


高倉下命(たかくらじのみこと)/日本の神々の話

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神武天皇の東征の折に出会った神々の一柱。
邇藝速日命(にぎはやひのみこと)の御子神。
尾張連らの祖。

どういう神か、『古事記』によってみましょう。
東征に出発して、難波にて那賀須泥毘古(ながすねびこ)との闘いで、兄神の五瀬命(いつせのみこと)が亡くなり、「日の神の御子なのに、日に向かいて戦ったのがよくない」として転進し、熊野に上陸してからの話である。

 (現代語訳〉
 さて、神倭伊波礼毘古命(カムヤマトイワレビコノミコト 神武天皇)は、そこから南に回って行かれ、熊野村に到着されたとき、大きな熊がちらりと見え隠れして、やがて姿を消した。すると神倭伊波礼毘古命は、にわかに正気を失われ、また兵士たちもみな気を失って倒れた。このとき、熊野の高倉下(タカクラジ)という者が、一ふりの大刀を持って、天つ神の御子(神武天皇)の臥しておられる所にやって釆て、その大刀を献ると、天つ神の御子は、即座に正気をとりもどして起き上がり、「長い間寝ていたなあ」と仰せになった。そしてその大刀をお受け取りなさると同時に、その熊野の山の荒ぶる神は、自然にみな切り倒されてしまった。そしてその気を失って倒れていた兵士たちも、みな正気をとりもどして起き上がった。
 そこで天つ神の御子が、その大刀を手に入れたわけをお尋ねになると、高倉下が答えて申すには、「私が夢に見ましたことは、天照大御神と高木神の二柱の神の御命令で、建御雷神(タケミカヅチノカミ)を呼び寄せて仰せられるには、葦原中国はひどく騒然としているようだ。わが御子たちは病み悩んでいるらしい。その葦原中国は、もっぱらあなたが服従させた国である。だから、そなた建御雷神が降って行きなさい』と仰せになりました。これに答えて建御雷神が申すには、『私が降らなくても、もっぱらその国を平定した大刀がありますから、この大刀を降しましょう』 と申しあげました。この大刀の名は佐士布都神(サジフツノカミ)といい、またの名は甕布都神(ミカフツノカミ)といい、またの名は布都御魂(フツノミタマ)という。この大刀は石上神宮に鎮座しておられる。そして建御雷神は、この大刀を降す方法は、高倉下の倉の棟を穿って、その穴から落し入れることにしよう。だから、おまえは朝目覚めて、縁起のよい大刀を見つけて、それを天つ神の御子(神武天皇) に献上しなさい』 と仰せになりました。そこで夢のお告げのとおりに、翌朝私の倉の中を見ると、はたして大刀がありました。それでこの大刀を献上するしだいです」と申しあげた。
(以下略)

高倉下とは神を祀る高い庫(ほくら)(秀倉(ほくら)、「ほ」は火や穂のごとく、秀でて貴いという意)の主という意であろう。
『旧事本紀』によると、高倉下は物部氏の祖神・邇藝速日命の子となっている。また鎮魂歌に石上の布都の太刀を歌っているのをみると、宮廷の鎮魂祭儀に物部氏が参与していたと推察される。
この神話は石上神社の神剣をもって神武天皇の御魂鎮(みたましずめ)を図ったものと思われるし、鎮魂儀礼を表現したものであるといえよう。
(日本の神様読み解き事典より)


石上神宮で、伝承通り境内の禁足地から剣が発掘されました(2点)。
鉄剣(布都御魂剣? 重文)
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七支刀(国宝)
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虎の門金刀比羅宮の神楽&七福神行列

20150111

昨日、10日(土)が「初こんぴら」ということで神楽と七福神行列がありました。

虎の門金刀比羅宮については、別に記事にしています。

その記事を読む


私は10:30からの神楽を見ました。
演目は「三番叟」でした。
演ずるのは、里神楽相模流萩原正義社中です。

一般的に言われる「三番叟」は以下のような説明をされています。
「三番叟」は式六番で三番目に舞われる演目です。黒い面をつけて舞う、スピード感あふれる「三番叟」。
蛭子命ヒルコノミコトの舞、あるいは、地象の舞であるとも云われています。
翁舞の次に演じられる三番叟は、翁と蛭子命ヒルコノミコトを比べ、“背も低く、色も黒く”とその特徴を語ります。
身体を大きく反らせたり、片足で飛び跳ねながら袖を振り回したりと、その舞は躍動感にあふれ、また、道化師のように滑稽な動作が、他の舞いには無い独特の魅力を放ちます。

*神楽は、とても分類が難しくて、神社ごとに違うと思った方がいいのですが、式舞(山伏神楽)と呼ばれるものは、「鳥舞」、「翁舞」、「三番叟」、「八幡舞」、「山の神舞」、「岩戸開舞」の順に演じられ、これらを式六番とも云います。

虎の門金刀比羅宮での「三番叟」は、黒い面でなく白い面でした。

カメラの動画機能で撮ってきたものをユーチューブにアップしました。

その動画を見る。


神楽が終わって、しばらくすると11:00から七福神行列が始まりました。
正面鳥居から境内に入ってきて、沢山の参詣者の間を縫いながら、参詣者に福を分けながらの行進です。
先頭は「お獅子」が露払い、七福神の後からはひょっとことおかめの集団が続きます。
私も、最初動画を撮ったあと、二回ほど行列の横に行って、お獅子に頭を噛んでもらったり、大国さんの小槌で叩いてもらったり、恵比須さんに頭をなでてもらったりと、福を分けてもらいました(笑)

動画を見る



(了)


虎の門金刀比羅宮

20150111

所在地:東京都港区虎ノ門1丁目2番7号

昨日、10日(土)に「初こんぴら」ということで、神楽と七福神行列があるということで、参詣しました。
地下鉄虎の門駅からすぐのところにありました。

敷地内には、金刀比羅宮との複合施設として高層オフィスビルの虎ノ門琴平タワーがあり、社務所や神楽殿といった施設と一体化している。
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社号標
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当宮は万治三年(1660年)に讃岐国丸亀藩主であった京極高和が、その藩領内である象頭山に鎮座する、金刀比羅宮(本宮)の御分霊を当時藩邸があった芝・三田の地に勧請し、延宝七年(1679年)、京極高豊の代に現在の虎ノ門(江戸城の裏鬼門にあたる)に遷座致しました。爾来江戸市民の熱烈なる要請に応え、毎月十日に限り邸内を開き、参拝を許可しました。
当時は“金毘羅大権現”と称されていましたが、明治二年(1869年)、神仏分離の神祇官の沙汰により事比羅神社に、明治二十二年(1889年)には金刀比羅宮に社号を改称し現在に至ります。
ご神徳は海上守護、大漁満足は勿論のこと、五穀豊穣・殖産興業・招福除災の神として広く庶民に尊信され、東国名社の一つとして知られています。
(神社サイトから)

正面鳥居
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正面鳥居側の手水舎
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中に入っていくと、正面鳥居に相対してもう一つの鳥居があったので、そちらからも入ります。
裏鳥居
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両方の鳥居から入ってきて、社殿に折れるところにも手水舎があります。
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10:30から神楽ということですが、10時ちょっと前に着きました。
ちょうど境内には江戸火消しの皆さんで埋め尽くされていました。
「江戸消防記念会正式参拝」だそうです。
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いつ見てもにんまりしてしまうのは、この草履ですね(笑)
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銅鳥居
文政四年(1821年)に奉納された明神型鳥居。
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扁額「金刀比羅大神」
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左右の柱上部には四神の彫刻が施されており大変珍しい。四神とは四方の守護神であり、東は青龍、西は白虎、南は朱雀、北は玄武が守る霊鳥霊獣。
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拝殿
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境内の写真を少し撮っていると、神楽の時間が近づいたので、神楽を動画で撮り、引き続き七福神行列も動画で撮りました。
神楽は「三番叟」でした。
この二つは別途記事にします。

その記事を読む


拝殿前に勢揃いした七福神。
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七福神に続く行列で、とても盛り上げていたひょっとことおかめの皆さん。
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社殿は、先の戦災により焼失してしまいましたが、昭和二十六年(1951年)に拝殿と幣殿が再建されました。
ともに総尾州檜造り、銅板葺きの権現造り。日本最初の建築史家、伊東忠太氏の設計校閲による建物で、我が国古来の建築技法が随所に用いられています。平成十三年(2001年)に東京都選定歴史的建造物に指定されました。
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拝殿の横から、幣殿、本殿を見に行きます。
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幣殿
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本殿
本殿は昭和五十八年(1983年)に再建されました。
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祭神は大物主神と崇徳天皇です。

神紋は「丸に金」
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蔭紋に葉団扇紋を用いる。これは江戸時代、庶民の間で「虎ノ門の金比羅様には天狗まします」と言われたためだという。
祭神の崇徳天皇は、『保元物語』によると、讃岐に流されたとき仏教に深く傾倒して極楽往生を願い、五部大乗経(法華経・華厳経・涅槃経・大集経・大品般若経)の写本作りに専念して(血で書いたか墨で書いたかは諸本で違いがある)、戦死者の供養と反省の証にと、完成した五つの写本を京の寺に収めてほしいと朝廷に差し出したところ、後白河院は「呪詛が込められているのではないか」と疑ってこれを拒否し、写本を送り返してきた。これに激しく怒った崇徳院は、舌を噛み切って写本に「日本国の大魔縁となり、皇を取って民とし民を皇となさん」「この経を魔道に回向(えこう)す」と血で書き込み、爪や髪を伸ばし続け夜叉のような姿になり、後に生きながら天狗になったとされている。
このことではないか。
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神楽が行われた神楽殿
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本殿向って右側に二つの小さなお社があります。
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喜代佳稲荷神社
こちらの神社の由縁がよくわからないが、金運の神様とされている。
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結神社(むすびじんじゃ)
その縁起は定かではありませんが、江戸時代、良縁を求める多くの女性により厚い信仰を集めていました。『新撰東京名所図会』にも当時の華々しい一面が記されております。
その頃、良縁祈願に訪れた女性たちは、この結神社の前で自らの黒髪を一部切り取り、或いは折り紙を持参し、社殿の格子や周りの木々にそれらを結わい付け良縁を願い、成就させました。単にお参りするに留まらず、体の一部や心を込めた品物を神様に奉納する事で、その真心を形に表したのです。同時に「縁を結ぶ」と「物を結ぶ」を掛けたのかもしれません。
それから三五〇年余り、今の世にこの伝統的祈願を故実に則り再興致します。
(神社サイトから)
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十三輪塔
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37万5千アクセス

20150109

さきほど気が付いたのですが、375000アクセスを越えていました。

30万台の四分の三を通過したことになります。

普段はあまり意識していませんが、それでもコメントの少ない中で、
アクセス数が励みになることがあります。

これだけの数の人が読んでくだったということは、とても嬉しいです。

ありがとうございました。

いままで通り、のんびりと自分が関心のあることを、こつこつと綴っていくつもりでいます。

これからも、可愛がってくださいますようお願いします。


塞の神(さいのかみ)/日本の神々の話

20150109

塞の神のサイは、幸・妻・障・斎・歳・性などいろいろな字が当てられている。村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神である。また、性病・出産・良縁・妊娠などを祈る神でもある。また日本古来からある原始神の一つでもあり、防障神・生産神でもあったし、子安神でもあるという複雑な信仰を持っている。

「日本の神様読み解き事典」の著者川口謙二氏によれば、塞の神と「道祖神」は分けて考えた方が良い、としているので、道祖神については別途述べることにします。

村境に祀られ、悪疫悪神の侵入を防ぐ神ということで、「塞の神信仰」ということで最初に挙げたいのは狭山市の式内社廣瀬神社の「道饗祭(みちあえのまつり)」です。
私がこの神事について知ったのは、SSCC歴史講座の研究コース在籍のとき一緒だった、高橋義憲さんが卒業論文「神事と社殿の装飾」で廣瀬神社の神事として紹介していたからです。
道饗祭は地域に禍をなす、魑魅や妖物と食を饗して、しばらくの間、静かにして頂くもので、八衢比古命・八衢比売命・久那斗命の三神に祭りをお願いする神事です。外部からの悪疫や妖物の侵入阻止・退散が目的です。
廣瀬神社秋季例大祭は初日が三神による道饗祭で、二日目は主祭神である「若宇迦能売命」の「神輿渡御」が行われる。
道饗祭の際に「延喜式内廣瀬神社 道饗祭」のお札を細竹の上部を裂きはさみ、これを地上1.5メートル程の高さに立て、外部からの魑魅や妖物や悪疫の侵入を塞ぐ。お札の場所は八ケ所で、広瀬に入ってくる道の境に立てられる。
現在は新しい道が出来て、もっと道は増えています。このお札が立てられる道が古くからの道と云うこともできます。

塞の神が日本の文献に出てくる一番古いものは、『古事記』上巻の、伊弊再尊が火の神を産み、死んで黄泉の国へ逝かれたのを、夫の伊弊諾尊が会いたさに後を追い、死体に驚き逃げ帰るという黄泉比良坂の条である。このなかに、「道返之大神(ちがへしのおおかみ)」とあるが、これは塞の神信仰であり、大石をもって象徴されている。

 寛政七年(一七九五)刊の『東遊記』(積商裕著)巻三に、次のような記述がある。
「出羽国渥美の駅のあたり、街道の両方に、岩の誓えたる所には、幾所ともなく必ず岩より岩にしめ縄を張り、其のしめ縄のもとに木にて細工、よく陰茎の形を作り、道の方へ向けて出しあり、其の陰茎甚だ大にして、長さ七八尺ばかり、ふとさ三四尺周りも有るべし。あまりけしからぬもの故、所の人に尋ぬれば、是は往古より至し来れる事にて、さいの神と名付けて、毎年正月十五日に新しく作り改むることなり。所の神の事なれば、中々粗略にはせず、たとひ御巡見使又は御目附等の通行の節も此のままにて、若きものの戯れなどにあらずと云ふ。また其のしめ縄に紙を結びて多く付けたり。是はいかなる故と問へば、これは此のあたりの女、よき男を祈りてひそかに紙を結ぶ事なりと云ふ。誠に辺国古風の事なり。京都の今出川の上にある所の幸の神といふは、いかなる神にてましますにや。すべて田舎には色々の名は替りあれども、陰茎の形の石、陰門の形の石を神体として、所の氏神杯にいはひ祭りて、たふとびかしづく所多し。日本の古風にや、神代の巻にもいふ所、或は鶉鶴の古事杯ふるくいひ伝ふる事多ければ、神道の秘事にはかかる事有るべしとぞおもふ」とある。

私は長野県で生まれ育ったので、賽ノ神としての道祖神に子供の時から慣れ親しんできた。その道祖神が群馬県でも当たり前のように必ず村の外れあたりに見受けられるが、埼玉県ではガクンと少なくなる。そして狭山市にはまったく見られない。
では、賽ノ神として村の外れには何を祀ったのだろうか。庚申塔、馬頭観音、月待供養塔・・・・
地方によっては、道祖神と一緒に必ず庚申塔や月待供養塔があるところがあるそうなので。
それともそういう信仰が無かったのか。
これについては、関心を持って見ているが、私はまだきちんと研究が出来ていない。



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武蔵野七福神

20150108

7日(水)に廻ってきました。
武蔵野七福神は、埼玉県で最も古い七福神札所です。昭和6年の発足、13年よりお参りが始まりました。
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飯能市、入間市、所沢市にまたがり、広い範囲です。
車で廻ることにして、朝9時に家を出て、最後の山口観音が済んだのが15時ちょっと前でした。

円泉寺⇒飯能恵比寿神社⇒観音寺⇒浄心寺⇒円照寺⇒長泉寺⇒山口観音の順で廻りました。

【円泉寺/福禄寿】
所在地:埼玉県飯能市平松367
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真言宗智山派に属し、総本山は京都市東山七条の智積院です。
当寺は弘法大師が巡錫のおり開いたと縁起にありますが、江戸末期の火災のためか詳細は不明です。かろうじて読める江戸初期の住職の石塔がありますが、それ以前は残念ながら摩耗して読めません。

門を入って山門の前に、宝暦6年(1756)建立の「陀羅尼塔」がある。
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○本堂
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本堂の中に「福禄寿」は安置されていました。

☆福禄寿
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言い伝えによれば、天明(1781~ 1787)年間飢饉の際に、川越城主大和守の御用度係が五穀豊穣を祈念して福禄寿(ふくろくじゅ)様を勧請し、住職が引退後に入る寺、福泉寺に祀りました。後に円泉寺に合祀したと伝えられています。

本尊の不動明王はご住職の意向で撮れませんでしたが、他の仏像については色々と親切に説明してくださりました。
「弁財天十五童子」
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別々に集められた七福神
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「七福神図」
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○阿弥陀堂
「阿弥陀如来」
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ここに置かれている阿弥陀様の光背には、和鏡(頭部の丸い部分)が使用されおり、裏の文様の中に「日本一」の文字があります。
日本一の文字は、織田信長が経済振興のため、優れた製品に許可しました。後に勝手に使われるようになり、江戸初期には禁止されるようになりました。
おそらくこの御尊像はその当時に造られたと思われますが、光背だけ修復のため作り替えられたとすれば、もっと古い可能性もあるようです。室町時代ではと言う人もいます。

「不動明王像」
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不動明王像は、かつて山形県・出羽三山の月山別当・日月寺(現・岩根沢三山神社)門前の宿坊・少貳坊に祀られていました。少貳坊は戦前まであったそうです。

「八臂弁天像」
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通常は怖いお顔の像が多いが、これは柔和なお顔をされているのが良いとのご住職さんの説明でした。

○妙見堂
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当所・綿貫家の伝承では、平将門公(延喜3年・903年?~天慶三年・940年)が在京中、妙見菩薩に危難を救われ、御尊像を奉受 し、守り本尊として持ち帰ったと伝えられています。天慶の乱で敗れた将門公配下の武将・綿貫豊八は隠れ住み、この御尊像を密かに祀り守護してきました。
弘化五年(1847・永元年)平松出身の分限者・綿貫伊助の尽力により、実家の妙見菩薩像を京都神祇官統領伯王殿公文所より円泉寺境内にお祀りすることが 許可され、(実際には、その十年前に円泉寺に祀られるようになっていた)現在のように土を村民総出で高く盛り上げて、お堂を建立し祀りました。
現在の本尊様は二代目です。妙見菩薩は北極星、北斗七星の神格化された姿であり、その信仰は奈良・平安時代かなり盛んになったようです。

「妙見菩薩像」
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「馬頭観音」
妙見堂の麓に、宝暦5年(1755)造立の場堂観音があった。風化が少なく綺麗な像だ。
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「山守大神」社
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「天神社」と「八坂神社」
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【飯能恵比寿神社/恵比寿】
所在地:埼玉県飯能市飯能263

諏訪八幡神社の境内社です。

○諏訪八幡神社
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創祀は永正13年(1516年)初春11日。加治菊房丸(中山氏)、平重清(畠山氏)などが建御名方命(諏訪神)を勧請して「諏訪神社」と号し、後に信州から八幡神(誉田別命)を勧請して「諏訪八幡神社」となった。その後天正12年(1584年)に加治勘解由左衛門吉範、智観寺住僧法印慶賢が再建した。

石段を上がって境内に入ると、まず境内社の丹生(たんしょう)神社があります。
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丹生神社は、正一位丹生大明神とも称され、享保雛を神体に埴山姫命、罔象女命を祀る。神社の境内には、この神社の名から丹生樹がある。
武蔵七党丹党は、古くは水銀、銅、砂金、産鉄・製鉄など金属資源に深くかかわりのある集団でした。

手水舎
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狛犬
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拝殿
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本殿
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本殿の彫刻が立派
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祭神は、武御名方命、誉田別命、豊受姫命、奥津姫命、奥津彦命、火産霊命、大山咋命、白山姫命、木花姫咲耶姫命、保食命、猿田彦命、天宇受売姫命、埴安姫命、崇徳天皇、武内宿禰、大日孁貴命、菅原道真、大己貴命、少彦名命、天児屋根命。
多いですね、

神紋は、諏訪神社ならではの「立ち梶の葉」。加治氏が信仰したのも、この梶繋がりか。
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☆恵比寿神社
七福神の恵比寿さまです。
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ここの神紋が「亀甲角に右三つ巴」
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社殿後ろに境内社が並びます。
愛宕神社、山祇神社、荒神神社、御嶽神社、琴平神社、加納神社、白山神社、稲荷神社、がありました。
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神楽殿
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丹生樹
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吉良蘇月の句碑。
「稲架とれて野に幻想の獅子の笛」
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【観音寺/寿老人】所在地:埼玉県飯能市山手町5番地17号
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般若山 長寿院 観音寺は埼玉県飯能市の真言宗智山派の寺院である。
1867年(慶応4年)の飯能戦争で、智観寺・心応寺などともに、幕府軍(振武軍)が立てこもった寺の1つである。
本尊は如意輪観世音菩薩・不動明王ほか。

不動堂
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☆寿老人
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向拝に未の切り絵が貼られていた。
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本堂の前の紅梅がほころびていた。
今年の「初梅」でした。
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本堂内
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天井に、左右一対の白馬が飾られていた。珍しい。
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鐘撞き堂には、戦争中、鐘が供出され鐘がないが、張り子の白象像がおかれている。
公式サイトでは、檀家の提供によるとされ、白象にまつわるいくつかの仏教説話が紹介されているものの、具体的ないわれは説かれていない。
白象はお釈迦さまの生母、マーヤ夫人の夢に現れてお釈迦さまの誕生を予言したといわれています。
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○鬼子母神堂
鬼子母神像は、鬼形ではなく、羽衣・櫻洛をつけ、吉祥果を持ち幼児を抱いた菩薩形の美しいお姿をしているので、とくに角(つの)のつかない鬼の字を用い尊称しているそうです。
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松尾芭蕉の句碑
「枯れ枝に鴉のとまりけり秋の暮 はせを」
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水原秋櫻子の句碑
「むさしのの空真靑なる落ち葉かな」
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【浄心寺/毘沙門天】
所在地:埼玉県飯能市矢颪222

この日、縁日だったので沢山の屋台が出て、大変混雑していました。
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○本堂
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当山は明応~文亀年間(1500頃)の草創といわれ、本尊に阿弥陀三尊を安置している。当初は瑞林院と号したともいわれる。開山の聚栄常福和尚は永正8年(1511)に示寂。武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺のち慶長12年(1607)市内飯能の本寺能仁寺5世吉州伊豚和尚を中興開山として再興され、現住まで17世に至る。開基は当地の土豪岩沢氏、瑞林院殿月叟浄心居士(没年不詳)で現寺号はこれによっている。現在も檀中に子孫が続いている。

○毘沙門天堂
六世梁観禅棟和尚は若年江戸駒込吉祥寺に遊学し、学業成就を寺中の毘沙門天に祈願、見事首席となった。帰郷後報恩の為に附近の堤家より伝来の毘沙門天像を譲り受け安置した。以来学業成就、商売繁昌の信仰が高まり明治初年より1月7日の大祭は信徒数万人が群集し、だるま市が開かれるようになった。

参拝者の行列がすごい。
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☆毘沙門天
お堂の奥に安置されていて、見えない。賽銭箱の奥に写真が掲示してあったので、それを撮ってきました。
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○観音堂
霊場本尊の十一面観世音は附近の本明院の本尊であったが廃寺となった為当山へ武蔵野三十三観音霊場第23番浄心寺移されたもの。身代わり観音といわれ災難除けの信仰がある。
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参拝を終えて帰ろうとしたら、勤行を終えたお坊さんたちの列の後ろになった。
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そしたら途中で「散華」をして、幸運にも一枚を拾う事ができた。今年は良い年になりそうだ(嬉)
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【円照寺/弁財天】
所在地:埼玉県入間市野田158  
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ここには以前歴史クラブの行事で訪れています。

その記事を読む


池の中にある「弁天堂」の扉が開いています。
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喜んで飛んで行くと、なんと!
弁天さまが入っている厨子は開かれていません。
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ご朱印をもらいながら尋ねると、12年に一度巳年でないとご開帳はないとのことでした。
なので、弁財天のご尊像のお札をいただいてきました。

☆弁財天のご尊像
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円照寺には国指定重要文化財の板碑がありますが、通常公開されていません。
それが1/20~1/26の期間公開されるので、このときにまた訪れる予定です。


【長泉寺/大黒天】
所在地:埼玉県入間市豊岡2丁目2−8
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山門に繭玉が飾られていたむ。
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長泉寺は今から約四百年前の、永禄年間(1558-1570)開基鉢形城主の三上山城守に よって建立された古刹です。
約二百年前の明和4年(1767年)に類焼にあい、諸堂伽藍が全焼したが、 明和6年に再建された。また、江戸時代末期から寺子屋として子供たちの教育に当たり、 明治初期にはしばらく小学校の仮校舎となりました。
現在の堂宇は昭和40年代のものです。 当寺は、武蔵野七福神神の一つ「大黒様(大黒天)」が祀られており、 明治35年に上野寛永寺より勧請されたもで、 開運をもたらす「豊岡のキノエネ(甲子)様」として親しまれています。
年 6 回の甲子の日には、 甲子大黒天祭が行われ、特に1年の最初の甲子の日と、 納めの甲子の日には露店が並び多くに人でにぎわいます。

曹洞宗なので、道元禅師の像があった。
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手水舎には蓮の花が水が出ている。
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本堂
本尊は釈迦三尊佛
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☆大黒天
本堂外陣に、“触り大黒”の像が新たに設置されてありました。本尊“甲子大黒”の祀られる本堂内陣には入れないので、その代わりなのでしょう。

「触り大黒」
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大国さんと恵比寿さんのセットの木像も、
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「甲子大黒」の尊像図があったので、いただいてきました。
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【山口観音/布袋尊】
所在地:埼玉県所沢市上山口2203

金乗院(こんじょういん)といいます。真言宗豊山派に属し、山号は吾庵山、寺号は放光寺。本尊は千手観音で山口観音とも称される。
この寺は、古くから観音信仰の霊場として知られ、観音像や観音堂は寺伝によれば奈良時代の僧行基によって弘仁年間(810年~824年)に開かれたと伝えられ、この寺はその別当寺であった。鎌倉時代末期新田義貞が鎌倉を攻めた際には、この寺に祈願したといいます。

ここにも、以前歴史クラブ行事でお参りしています。

その記事を読む


広い軽打のこと故、布袋尊が祀られているところに直行しました。
右が七福神「布袋堂」の建物、左が「ぽっくりさん」の建物。
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☆布袋堂
極彩色の賑やかな建物です。
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布袋像が窮屈そうに納まっているので、全身は見ることができません。
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そして、更に周りに七福神像が並びます。

寿老人と弁財天
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毘沙門天、布袋尊と福禄寿
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大黒天と恵比寿
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「ぽっくりさん」
高野山の「引導地蔵」を招来したもの。弘法大師が入定したとき、振り返って見送られた姿をしている。
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本堂に、享和年間に鶴寿が描いた七福神の絵馬が掛かっていました。
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最後に寄ったのが「六時の鐘」
朝夕6時に自動的に撞いているが、喜捨すれば自由に撞けるとあり、天井の絵が狭山市在住の水村昭二画伯による、とあったので拝見し、鐘を撞きました。
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すぐ近くに、山口靑邨の句碑があった。
「鵜は翔てり月の面にとどかざる」
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ご朱印が揃いました。
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これで、武蔵野七福神詣では完了しました。
朝9時に家を出て、車はスムーズに移動できましたが、完了したのが15時ちょっと前でした。
かなり沢山の収穫があったので、充実した気持ちで帰途につきました。


(了)


「東国武士団と鎌倉幕府」/動乱の東国史

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東国に関する中世全体の歴史をおさらいしようと、全7巻からなる「動乱の東国史」を読み進めることにして、その第二巻である。

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目次:
変わる東国武士像-プロローグ
Ⅰ 治承の挙兵
1 中世東国へのまなざし
2 東西交通の展開
3 三つの挙兵
コラム 頼朝の伝説と史跡
Ⅱ 天下三分の克服
1 ひろがる戦火
2 反乱軍の拡張
3 東山道をめぐる対決
4 京都での抗争
コラム 斎藤実盛の子孫たち
Ⅲ 東国の軍事制圧
   1 南関東から北陸へ
   2 源平合戦
   3 奥州への道
   4 奥羽合戦
   コラム 板額御前の半生
Ⅳ 東国のかたち
1 鎌倉からのびる道
2 北条氏の成長
3 承久の乱
4 執権政治
コラム 東国に残る運慶作のブランド仏
都市鎌倉と東国-エピローグ

鎌倉幕府が樹立される少し前の源平の戦いから、頼朝直系の三代が滅びて北条の執権政治までの期間だから、いわゆる東国の武士団が確立する話なので、極めて濃密な話が続く。

ここでは、断片的に私が関心が高かった部分だけ載せておきます。

源義賢が大蔵館で源義平に討たれたのは、東山道と東海道の抗争の結果だと説明されて納得した。
東山道をめぐり有力武士団のせめぎあう状況を反映するなか、源為義は西上野の多胡郡を所領とした。西上野には国府があり東信濃と接続する枢要の地である。次子の義賢は、秩父平氏の秩父重隆や武蔵七党の児玉覚と提携して多胡郡に入り(川合康氏による)、さらに古代東山道の一部をなす武蔵路(上野~武蔵問)に沿うように、十二世紀半ばまでには北武蔵へ進出していく。
父為義の意向で少年期に上総国で養育されて「上総御曹司」と呼ばれ、おもに東海道諸国に足跡を色濃く残す義朝。いっぽう、為義を嗣いで東山道の西上野から南下をはじめた義賢。この二人の勢力が、東山道と東海道の関東平野における触媒ともいうべき武蔵国で、ついに接触したのである。そこに秩父平氏ら在地武士団の競合が絡み合うことで、在京する父義朝にかわって鎌倉に陣取る源義平の軍事行動を誘発してしまった。
 摂関家に従う義賢と院権力の武力たる義朝という政治的立ち位置の違いもさることながら、東国世界における二人の利害は平衡から対立に大きく傾いていた。
義賢の館となった大蔵館(現在の埼玉県嵐山町)を久寿二年(一一五五)に源義朝の長男義平が鎌倉から急襲して、義賢を殺害してしまう。


源氏が平家を滅ぼす過程の大きな流れが、この本で明確にわかった。
治承四年の以仁王・源頼政挙兵の際に諸国の源氏に挙兵を命じるために以仁王が発した「以仁王の令旨」に反応して実際に軍事行動を起こした集団については、私は信濃の木曽(源)義仲と伊豆の源頼朝しか知らなかったが、実際はもう二つあり、四つの集団が挙兵している。
三つめは甲斐源氏で、源義光の庶流が甲斐に定着したもので、武田信義が大将となっている。
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源平の最初の大きな合戦は「富士川の戦い」だが、この時頼朝軍は手前の黄瀬川に退陣して動かず、平家方は富士川を東に進んだ際に、富士川沿いに南下してきた甲斐源氏に背後を襲われて惨敗する。
その後の頼朝の動きが何とも政治的なものだ。
富士川で平家方が敗れると、頼朝は西に向かうのでなく東に戻るのである。まだ常陸の佐竹氏が動向を明らかにしていないため、東国を完全に手中に納めたいとの意向からだ。
相模で、頼朝は大々的に恩賞沙汰を行い、源氏の総領だとアピールする。

甲斐源氏は駿河、遠江を占拠していたが、頼朝方が義仲を撃ったあと、清水義高に加担した勢力を掃討するとの名目で甲斐から信濃方面に出兵。甲斐源氏は武田信義が病死することで従来の勢力は衰退、頼朝に通じていた石和信光と加々美遠光の系列となり、石和信光が武田を、加々美遠光が小笠原を称するようになった。

四つ目は、近江源氏で柏木義兼と山本義経の兄弟である。
近江源氏は近江一国を占領したが、都に近いのが災いして早々に平氏に鎮圧されてしまう。

新田とか足利の名前も既に出てくるし、東国の武士団の去就の話も実に面白い。

頼朝の乳母比企尼の婚姻ネットワークもすごいものだ。
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河越重頼、伊東佑清、佐久の平賀、島津の名も見える。
源範頼、にも。河越は娘を義経に嫁がせたため没落の運命に。

鎌倉街道上道(かみつみち)だが、これは頼朝が鎌倉に幕府を建ててから、最初の大きなイベント「信濃三原野の巻狩り」を実行する際に確立された。
このときに「入間川宿」は設置された。

私が住んでいる辺は、比企氏の残像がいたるところに残っているところだが、「比企氏の乱」と呼ばれる、二代目頼家の後継者争いの推移、比企能員と北条政子の争いの話はとても面白かった。
比企氏の遺産は、上野、信濃、越後、越中の守護というから、今更ながら比企氏というのはすごかった。

したたかに生き残っていた畠山重忠もついに北条氏によって滅ぼされる。

この本の中で、当初は活躍した河越氏、比企氏、畠山氏が滅ぼされていくのが悲しかった。

(了)


日本橋木遣・はしご乗り&深川七福神

20150105

毎年正月4日は、日本橋で江戸火消しの木遣り・はしご乗りを楽しんでから、どこかの七福神めぐりをするというのが私の恒例になっていますが、今年は歴史クラブの行事となりました。

10時前に高島屋の前に行き、スタンバイ。
高島屋のウインドウの正月飾り、今年も立派なものです。
今年は川瀬巴水の作品ですね。
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10時に高島屋が開店し、ほどなく江戸火消しの皆さんが木遣を唄いながら乗り込んできました。
ホールで「纏い振り」、木遣りを披露して、玄関前ではしご乗りを披露しました。

それをカメラの動画機能で撮影しようとしましたが、バッテリーのトラブル(汗)
このあいだの秩父夜祭のときにも動画を撮ろうとしたら、同様にバッテリートラブル。そのときは夜で戸外だったので低温によるトラブルかと思ったのですが、今回また起こったのでどうやらバッテリーが劣化していて、写真を撮ってるぶんにはまあまあ対応出来てるが、動画のように連続しての消化には耐えられないのかな、と判断しました。
新しいバッテリーを購入することにしました。

それで、ここでは昨年の正月に撮影した動画を見ていただきます。
玄関にやってくる方向とか、ホールの飾りなど異なりますが、楽しんでください。

江戸火消し「木遣り」を楽しむ


江戸火消し「はしご乗り」を楽しむ



そのあと、15分ほど時間をとって、ホールに展示してあるものを見たり、トイレ休憩です。
私は毎年ここで干支の置物を購入しているので、今年も未の置物を購入。

ホールのメインの飾りは、山本太郎作「紅白梅清涼飲料紋図」
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それから、重さ20Kgの「K24 特大慶長大判」。なんと価格が2億150万円!
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深川七福神めぐりのため、門前仲町に移動します。

【恵比須神/富岡八幡宮】
1624年(寛永4年)、長盛法師が神託により砂州であった当地を干拓し、永代島に八幡宮を建立したことが創建とされるが、横浜市の富岡八幡宮の八幡宮明細帳(1893年(明治26年))では、江戸時代初期に行なわれた深川の干拓が難航したため、波除八幡の異名をもつ富岡八幡宮を分霊したとの記録が残る。創建当時は「永代八幡」と呼ばれ、砂州の埋め立てにより60,508坪の社有地があった。
八幡大神を尊崇した徳川将軍家の保護を受け、庶民にも「深川の八幡様」として親しまれた。広く美麗な庭園は人気の名所であったという。なお、長盛法師は同じ地に別当寺院として永代寺も建立している。
当社の周囲には門前町(現在の門前仲町)が形成され、干拓地が沖合いに延びるにつれ商業地としても重要視された。

屋台が並び、大変な混雑です。
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恵比須さんの前に最初に行ったのが、境内にある「花本社」(松尾芭蕉が祭神)です。
 昨年の9月に「芭蕉ゆかりの深川」を催行しましたが、その際案内できなかったので、この機会に立ち寄りました。
寛政年間(1789~1800年)、当時の俳人有志により建立されました。「花本」は、西行の「願はくは花の下にて春死なんそのきさらぎの望月のころ」の歌にちなんだものといわれています。
天保14年(1843年)、芭蕉百五十回忌に田川鳳郎が二条家に請願し、芭蕉に「花本大明神」の号が贈られました。

場所は永昌五社稲荷の横です。
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ここに「聖徳太子社」、「野見宿祢社」などわりと珍しい境内社が並んでいます。
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そこの一番左の「祖霊社」に合祀されています。
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前に来た時は、この立札の奥にはお宮が無くて、おかしいなあと思って帰ったこともありました(笑)
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皆さんが「花本社」にお参りしている間に永昌五社稲荷の水盤の写真を撮りました。
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「水盤 久住仕入網中奉納」
現状は破損、剥離が激しく、刻銘も読みづらい。
 正面には「奉納 久住網仕入網」と大きくあり、「上総国澤倉浦」「上総国川津浦」の地名と14名の人名があり、右側面は「上総国勝浦」「房州白子浦」の地名と7名の人名、左側面は「上総国部原浦」「同国新宮」の地名と8名の人名、背面は「文政七年九月」の年代と、「上総国小浜浦」「同国岩和田浦」「同国御宿浦」の地名と13名の人名が刻まれている。また、人名の上には、商標と思われるマークが刻まれている。この水盤は、干鰯問屋である久住屋に仕入れている上総・安房(千葉県)の網元が奉納したものであろう。

商標と思われるマークが、「江東区の文化財」という本に載っているのを見て、面白いと思ったから、今回写真を撮るのを楽しみにしていた。
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剥離が激しいが、たしかにあった。
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さて、恵比須さんです。
八幡宮の横手の境内に色々なお宮さんが祀られていますが、そこへの玉垣「深川濱」と昔富岡八幡宮の前が浜で船着き場だったのを偲ばせます。
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恵比須さん
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【弁財天/冬木弁天堂】
冬木弁天堂は、木場の材木豪商、冬木弥平次が宝永二年(1705年)、茅場町(中央区)から、深川に屋敷を移転した際、邸内の大きな池のほとりに、竹生島から移した弁財天を安置しました。そのためいまでもこの町を冬木町といいます。この弁財天は、等身大の裸形弁天にして、毎年一回衣装の着替行事をおこなってきましたが、大正十二年の関東大震災に焼失しました。冬木弁天は、明治三年から一般に参詣を開放しました。現在の弁天堂は、昭和二十八年に再建されました。尾形光琳が、冬木家に寄寓中、冬木家の妻のために書いた秋草の小袖が、上野国立博物館に保存されています。冬木弁天堂は、古義真言宗に属しています。
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本堂横に岡野知十の句碑がある。
「名月や銭かね言はぬ世は恋し」
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冬木弁天堂にお参りしたあと、近くの「すしざんまい」で昼食。
たまたま今朝(1/5)のテレビで、大間のまぐろ漁師の奮闘から、初せりまでを流していて、例によってすしざんまいの名物社長が重さ180Kgのまぐろを451万円で競り落としていた。
全店で提供すると云っていたので、私の食べたまぐろももしや?(笑)
とても美味しかったです。

【福禄寿/心行寺】
双修山養源院と号し、元和2年(1616年)京橋八丁堀寺町に創立。開山は観智国師の高弟、光蓮社団誉一路屋道上人、開基は岩国城主吉川監物の室養源院殿である。寛永10年(1633年)現在地深川寺町に移転した。「御朱印地・拝領地寺社帳」によれば、当時は間口四十二間、奥行四十二間、千七百六拾四坪の境内地で現在もほぼ当時の面影をとどめている。往時は影窓院・正寿院の2つの末寺があったが、その後合併された。旧本堂庫裡は大正12年9月関東大震災により焼失、その後昭和7年に再建された本堂庫裡も昭和20年3月戦災のため再度烏有に皈した。現本堂は浅香富三氏設計により奈良平安朝様式に現代風を加味して昭和42年完成したものである。
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六角堂に、非常に目の細かい金網が張られていて、ほとんど像がわかりません。
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その横に石造の福禄寿が置かれていますが、六角堂内の福禄寿とは杖を持っている手が違うなど、異なりますね。
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○影窓院地蔵
当寺に在った塔頭の影窓院にあったお地蔵さまで、縁結び、願い事成就のお地蔵さまとして、江戸時代から信仰されているという。
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○江東区最古の五重石塔
元享4年(1324)の銘があり、江東区最古のものだという。
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境内で、元小結波の花がちゃんこ鍋を提供していました。
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清澄通りを行き、「海辺橋」で仙台堀川を渡ります。
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渡ってすぐ、「滝沢馬琴誕生の地」があります。
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めくれそうな感じの「里見八犬伝」の草紙の碑が秀逸です。
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【大黒天/円珠院】
円珠院は享保年間に創建された。開基は円珠院殿妙献日寄大姉であり、円珠院は永見重直の娘で、のちの旗本永井讃岐守直允の後室である。生年は不明であるが、享保一五年 (1730)に没している。夫の永井直允は功運寺(元は三田・現在は中野区に移転)に葬られた。円珠院は浄心寺の塔中で、関東大震災までは浄心寺の裏手にあったが、震災後の区画整理で現在地に移ったという(「寺社めぐり39」)。
享保五年(1720年)十一月十三日画かれた大黒天の掛軸があり、木造の大黒天が安置、境内に石造の破顔大黒天が安置されています。

木造の大黒天
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石造の破顔大黒天
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大黒天の掛軸
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【毘沙門天/龍光院】
龍光院は、浄土宗雲光院の塔頭寺院で、慶長十六年(1611年)馬喰町(中央区)に創立、明暦三年(1657年)の大火に焼失し、岩井町(千代田区)に移転、天和二年(1682年)の大火に焼失し、同年深川の地に移転しました。
龍光院が現在地に移ったとき、鬼門除けとして境内東北角に、三尺ほどの石造の毘沙門天が安置され、昭和十一年には境内の東南角に一間半四面の毘沙門堂が建立されました。昭和二十年、戦災のため、堂宇は焼失しましたが、復興し、昭和五十年、木彫の立派な毘沙門天が安置されました。
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本堂前に大きな石造五輪塔があります。
高さ3.5mという大きなもので、地輪に貞享3年(1686)と刻まれている。関東大震災後に現在地に移築されたと伝えられ、建立の由緒は不明。
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【深川江戸資料館】
ここは、江戸時代末の深川の町並みを原寸大で再現しています。
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正月の飾りを集めてみました。
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江戸独楽
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次の深川稲荷に移動している途中、清澄庭園の横で、村田春海墓の碑がありました。
狭山市指定文化財で「清水濱臣墓」がありますが、その清水濱臣の先生にして高名な国学者・歌人です。
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【布袋尊/深川稲荷】
寛永七年(1630年)の創立、深川地区では、創立の古い神社です。祭神は、宇賀魂命、西大稲荷ともいいます。この付近の旧町名は、深川西大工町でしたが、昭和七年八月一日深川清澄町と改称し、その旧名から西大稲荷と称しました。この神社の裏の小名木川は、江戸時代初期から、船の往来がはげしく、この付近一帯に船大工が住み、船の修繕、造船をしていましたので、この町名が生まれたといわれています。この神社は、無住社にして、町会によって管理運営されています。
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【寿老神/深川神明宮】
深川神明宮は、深川において創立の最も古い神社。大阪摂津の深川八郎右衛門が、この付近に、深川村を開拓し、その鎮守の宮として、慶長元年(一五九六年)伊勢皇大神宮の御分霊をまつって創建しました。
徳川家康が、この村に来て、村名を尋ねたが無いので、深川八郎右衛門の姓をとって、深川村と命名せよといわれた由。以来深川村が発展し、深川地区の各町に冠せられたりし、深川の地名のもとになりました。
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これで七福神は完了!
森下駅から帰途についたのですが、この辺に来た時にたいてい寄る、元祖カレーパンのお店「カトレア」が、残念ながら4日までお休み。
カレーパンを買うのを楽しみにしていましたが、残念!

(了)


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狛犬ベスト(古いものから)

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お正月なので、なにかおめでたいお宝を披露しようと思い、何がいいかなと考えて、撮りためた狛犬の写真を古いものからベストテン・・・・と思ったのですが、キリが悪いので12位まで載せることにしました。

1) 白山比咩神社・木造狛犬(平安時代末)
所在地: 石川県白山市三宮町ニ105-1
2014年8月3日に白山比咩神社に参詣。宝物館で見ました。
写真撮影は禁止なので、パンフレットから転載。
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2)宗像大社・狛犬(中国・南宋時代 建仁元年(1201)奉納)
所在地:福岡県宗像市田島2331 宗像大社辺津宮
2014年10月7日に出光美術館で開催されていた「宗像大社国宝展」で見ました。
写真撮影は禁止なので、図録から転載。
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背中に「奉施入宗像宮第三御前宝前、建仁元年 藤原支房」と銘が彫りこまれている。
宗像大社に奉納するため、南宋に作らせたことがはっきりしている。
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3) 白山比咩神社・木造狛犬(鎌倉時代)
所在地: 石川県白山市三宮町ニ105-1
1)と同様
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4)碓氷神社狛犬(室町時代中期)
所在地:長野県北佐久郡軽井沢町峠町9番地
2012年10月14日に参拝。
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5)楯縫神社・木造狛犬(室町時代後期)
所在地:茨城県稲敷郡美浦村郷中2988番地
2014年7月4日に歴史クラブ「関八州式内社めぐり」で参拝した際、宮司さんにお願いして、幣殿に置かれているのを見せていただきました。
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6)赤坂氷川神社神門前狛犬(延宝3(1675)年造立) 都内で2番目に古いといわれている狛犬。
所在地:港区赤坂六丁目10番12号
2014年4月15日参拝。
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7)六郷神社狛犬(貞享二年(1685)造立)
所在地:東京都大田区東六郷3-10-18
2014年1月17日参拝。
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8)富岡八幡宮狛犬(享保12年(1727)造立) 境内石段両脇
所在地:東京都江東区富岡1−20−3
2013年2月7日参拝。
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9)大國魂神社境内東照宮前狛犬(寛保2年(1742)造立)
所在地:東京都府中市宮町3-1
2014年6月18日参拝。
この大國魂神社には、鎌倉時代初期造立の伝運慶作とされる「木製狛犬」があるのですが、当日宝物館が開いていなくてまだ見てません。また天保10年(1839)造立の狛犬が二組、本殿前には金色と銀色の狛犬があるなど、狛犬の宝庫です。
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10)富岡八幡宮境内永昌五社稲荷前狛犬(宝暦2年(1752)造立)
所在地:東京都江東区富岡1−20−3
2013年2月7日参拝。
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11)穴八幡・神武天皇遙拝所前狛犬(宝暦5年(1755)造立)
所在地: 東京都新宿区西早稲田2-1-11
2014年5月8日参拝。
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12)富岡八幡宮境内永昌五社稲荷前狛犬(宝暦13年(1763)造立)
所在地:東京都江東区富岡1−20−3
2013年2月7日参拝。
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明けましておめでとうございます

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今年もまた、歴史ざんまいの年となるのは間違いありません。
所属する歴史クラブの行事には、全部参加したいとの思いで頑張りたいと思っています。

個人的に軸足を置いている「神社巡拝」は、歴史クラブの行事「関八州式内社めぐり」、個人で取り組んでいる「武蔵国式内社めぐり」と「一之宮神社めぐり」を中心に進めていきます。

昨年から取り組み始めている「新編武蔵風土記を訪ねる」では、住んでいる狭山市をとても新鮮に見直すことが出来、楽しい取り組みとなっています。
私が済んでいる地域「柏原」を2月に座学で説明、4月に現地を案内の予定となっているので、いま大変忙しく準備をしているところです。

12月から、ひょんなことで「古文書勉強会」に加わらせていただくことになりました。
毎年きちんと解読した成果を本にして、既に31集を発行している会です。
こちらは、まったくの初心者なので現在大慌てで勉強に取り組んでいます(笑)

ということで、今年も大変忙しく毎日を過ごすことになりそうですが、そうしていたらボケるのが少しは遅れるのではないかと・・・・・・・・
(笑)

今年もよろしくお願いします。


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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