泣沢女神 (なきさわめのかみ)/日本の神々の話

20150226

『古事記』では泣沢女神、『日本書紀』では啼沢女命と表記され、哭沢女命とも書かれる。
伊邪那美神の死後、伊邪那岐神のみより生まれた神々の一柱。
最愛の妻・伊邪那美神に死別された伊邪那岐神は、その遺体の御枕辺にはらばい、御足方にはらばい、泣かれた。そのとき、涙から生まれたのがこの神である。神名は、さめざめと泣く神という意味である。

『古事記』の記述(読みくだし文):
火之迦具土神を生んで伊邪那美神は亡くなってしまい、それに続く記述である。

「かれここに、伊邪那岐命詔りたまはく、「愛しき我が汝妹の命を、子の一つ木に易(か)へむと謂(おも)へや」とのりたまひて、すなはち御枕方に匍匐(はらば)ひ、御足方に匍匐ひて哭きし時に、御涙に成りし神は、香山(かぐやま)の畝尾の木の本に坐す、名は泣沢女神。かれ、その神避りましし伊邪那美神は、出雲国と伯伎国との堺の比婆の山に葬りまつりき。(以下省略)」

香(具)山の畝尾の木の下に坐す神としている。畝はうねうねしているところ、尾は鳥獣の尾のように山が裾を長く引いている所をさし、畝尾は山の裾のことをいう。ゆえに、香具山(大和三山の一つ)の麓にある畝尾ということになる。
『延書式』神名帳にも、畝尾都多本(うねびつたもと)神社(通称「哭沢神社」)があり、啼沢女命が祀られている。

また『万葉集』巻二(国歌大観番号二〇二)の、「哭沢の杜に三輪すえ祈れども我が王は高日知らしぬ」(柿本人麻呂の作とも作者不詳ともいう)の歌は名高い。

 この神名から考えると、大昔は泣女が葬式に加わったものと思われる。雇い泣きの風習は朝鮮・中国のものが有名であるが、日本にも離島や海辺の村に泣女の伝承地があり、石川・福井県地方の泣女は謝礼の米の量により一升泣き・三升泣きなどの名称を残しているので、泣き方にも区別のあったことがわかる。肉親の葬式に泣くのは人情であるが、以上のような泣女の付随する葬式は、儀礼の一つと考えてよかろう。
(日本の神様読み解き事典)


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深川「芭蕉記念館-武家の文人展」など

20150225

今月2月7日(土)に、深川の芭蕉記念館で「武家の文人展」を開催していて、興味を覚えたので行ってきました。
ちなみに、この展示会は12月18日から4月19日まで開催しています。

地下鉄「森下」駅から歩いていきました。

途中ぶらぶらと歩いていると、八名川小の裏に「新大橋」のプレートが展示されていました。
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芭蕉記念館
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「武家の文人」展のポスター
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展示会は、有名な武家の歌や俳句の色紙、短冊を展示してありました。当然撮影禁止であり、残念なことに図録は用意されてなく、目録のみでした。
なので、主な人の名前とどんなものが展示されていたかを載せておきます。

常設の芭蕉と蕉門のものは省略しておきます。

○(伝)豊臣秀頼筆「桜ちる」歌色紙・『拾遺集』『和漢朗詠集』などに見られる紀貫之の和歌
「桜ちるこのした風はさむからでそらにしられぬ雪ぞふりける」

○真田菊貫筆「立帰」句短冊《信濃松代藩主》
  餞別  「立帰旅出身軽き袷かな 白日奄」

○松平定信筆和歌画賛三幅対 【画‥鶴沢探索】 (個人蔵)
                         法眼探索筆同一
代々の人のながめ捨てし秋の月おもへばさびしゆく末のそら 楽翁
おしてるやほり江の水にすむ鳥のなには都のあとぞのこれる 楽翁
あかねさすもみぢの山の朝日影くもらぬ御代の春やみすらむ 楽翁
わかのうらに年のみふりて及びなき雲井をみつゝたつそなくなる 楽翁
                        法眼探索筆国
ふりはれし雪の朝けはのどかにて春日おほゆる空のいろ哉 楽翁
春もいまなか空にちるしら雪をはらへば袖に残る梅が~ 楽翁
                        法眼探索筆囲
○蠣崎波響 芭蕉と二哲画賛《松前藩主松前資広の五男》【賛‥岩間乙二】
  越の国にありしとき翁の忌日に逢ふて
    旅のあはれ手向せうものばせを仏 松窓乙二

○佐久間象山「斯花有性気」漢詩画賛《信濃松代藩士》【画‥綿貫碧涛】
   並石諌花痩臨風細葉長 碧涛釣史 印
     斯花有性気愧与凡葩
     群未成君子佩幽谷守
     奇芬   象山 印印

○渡辺華山 許六肖像《三河田原藩士、画家・蘭学者》
  風俗文選自伝云、撰者許六者江州亀城之士也。名百仲。字羽官森川氏。号五老井・菊阿仏。一見蕉翁得正風体。実輿李由友善云々。為人英悟能書工画、努通六伎。許六之号所解起也。文章之精確、筆舌濯落、蕉門無其比。所著書数十篇、実為此道之模範。 活斎道人
  許六像真蹟                (許六像)
   今日きりの春の行衛やほかけ船 五老井 許六

○武田耕雲斎筆「君をおもふ」歌短冊《幕末尊壊派の水戸藩士、天狗党首領》
  君をおもふ上矢のかぶら一筋は鉄もなに石も岩ほも 如雲書

○高橋泥舟筆「杖よりも」 句短冊《幕臣、槍術家》
  杖よりもこ~ろのいそぐ梅見かな 泥舟撰

○勝海舟筆「すみだ川」 歌短冊《幕臣》
  すみだ川ながれにうつる桜花香ふ間もなくはや散初めぬ 安芳


展示を見終わって、撮りたいものがあるので「清澄庭園」に向かいました。
途中、芭蕉翁の像を小名木川越しに撮ろうと思い立ち、隅田川テラスに降りました。
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小名木川越しの芭蕉像
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新大橋
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清州橋
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萬年橋
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そして、清澄庭園の入り口近くにある「臨川寺」を訪ねた。
臨川寺初代の仏頂禅師は寛永一九年(1642)、常陸国鹿島郡白鳥村字札(現在の茨城県鹿島郡大洋村札)に生まれた。仏頂禅師は鹿島根本寺の冷山和尚に出家、延宝二年(1674)、根本寺二一世に就任。当時、根本寺の寺領一〇〇石のうち五〇石を鹿島神宮が取り上げてしまったため、禅師は鹿島神宮宮司を相手取り寺領返還を寺社奉行に訴え、そのときの江戸の住まいが臨川庵になる。この事件は天和二年(1682)禅師四一歳のときに根本寺の勝訴で解決、寺領が返還され、禅師は寺を頑極和尚に譲り、江戸の庵を寺院とするために幕府に願い出て、正徳三年(1713)に臨済宗妙心寺派瑞甕山臨川寺と許可され、その二年後、正徳五年に生涯を閉じた。亡くなられた地は、仏頂禅師が親交厚かった徹通和尚が四五世であった霊巌寺の山庵であった。

また、延宝二年に禅師は深川に居を構え、延宝八年(1680)に芭蕉と出会い、「師弟以上の関係に発展」し、芭蕉が桃青と名乗ったのは、禅師によるものだという(「臨川寺と芭蕉翁」)。
貞享四年(1687)に成立したとされる芭蕉の紀行文「鹿島詣」に、曽良と宗波を伴い、芭蕉庵から鹿島根本寺までの行程が記され、仏頂和尚の歌一首 「おりおりにかはらぬ空の月かげも ちぢのながめは雲のまにまに」と芭蕉らの句一三句が記されている。

臨川寺の境内に「玄武仏」碑が残され、「御府内寺社備考」によれば、玄武坊とは江戸の医師で美濃派の俳人神谷玄武坊であり、玄武坊は京都双林寺に各務支考により建てられた墨直の墨跡を写して臨川寺に建て、墨直会を催したという。

「御府内寺社備考」の臨川寺境内図には玄武碑以外に、碑(現芭蕉由緒の碑)、芭蕉碑(現墨直しの碑)、梅花仏 (各務支考)の碑がある。玄武碑以外は戦災のために破損し、昭和三七年に再建されたものである。なお、開基芭蕉木像は関東大震災で焼失し、昭和六三年に復元されている(「寺社めぐり21」)。(江東区の民俗深川編より)

臨川寺
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各碑がかたまって置かれていた。
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芭蕉由緒の碑
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玄武仏碑
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墨直しの碑
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梅花仏碑
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碑の間には、立派な杉苔が生えていた。
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それから、正月に歴史クラブの企画で「深川七福神」を歩いたときに「村田春海の墓」という表示を見つけたのだが、団体で歩いていたので、その墓に寄れなかった。
そこで、村田春海の墓に寄った。
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村田 春海(むらた はるみ)は、江戸時代中期から後期にかけての国学者・歌人。本姓は平氏。通称は平四郎。字は士観(さちまろ)。号は織錦斎(にしごりのや)・琴後翁(ことじりのおきな)。賀茂真淵門下で県居学派(県門)四天王のひとり。

江戸の干鰯問屋に生れ、幕府連歌師の坂昌周の養子となった。のち本家の干鰯問屋を相続したが、その生活は豪奢なもので十八大通の一人にも挙げられた。その結果、家産を傾け隠居後は風雅をともにした。漢籍を服部白賁(はっとりはくひ)に、国典を賀茂真淵に学び、国学者で歌人の加藤千蔭(橘千蔭)とともに江戸派歌人の双璧をなし、陸奥国白河藩主で幕府老中も勤めた松平定信の寵愛を受けた。春海は、特に仮名遣いに造詣が深く、『新撰字鏡』を発見・紹介している。また、若い頃は漢学をもっぱら学んだこともあり儒教を排せず、漢詩をよく作ったことも知られている。門下に清水浜臣・小山田与清などがいる。仙台藩江戸詰の藩医工藤球卿(平助)とも親交があり、その娘只野真葛の文才を評価している。
著書には歌文集『琴後集、漢詩集『錦織詩草』などがある。

狭山市文化財に「清水濱臣の墓」があるが、村田春海は清水濱臣の師である。

村田家の墓地
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村田春海の墓
「平春海」となっている。
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村田家の墓の向かいに、立派な宝篋印塔型の墓があった。
年号は元和9年と判るが、誰のかはわからない。
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するうち、立てかけてある卒塔婆に「柳屋業祖○○ 394回忌」とあった。
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家に帰ってから、もしやと思い「ポマードの柳屋」のサイトを見ると、元和元年(1615)に創業とある。
たぶん、この墓の主が「ポマードの柳屋」の創業者だと思う。

これで、この日に寄りたいところは全て終了。
大通りに出る小道に紅梅が綺麗に咲いていた。
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(了)


高瀬大神(たかせおおかみ)/日本の神々の話

20150222

この神名は、大正9年に埼玉県神職會編纂の「諸社祭神御事歴」に載っている。
「高瀬大神とは、延喜式の神名帖に越中國砺波郡高瀬神社と載せたる、高瀬社にいはひ祭れる大神にして、この社は高瀬大明神とも稱して、當國の一宮して遠近の崇敬浅からざりし社なりとす。祭神につきては、諸説ありて明らかならざるも、恐らくは大己貴系の神をまつれるならむ」とある。

現在の高瀬神社のホームページを見ると、主祭神は大国主命(大己貴命)、配祀神として天活玉命と五十猛命となっている。
これは、後世に祀られた神であって、当初は「高瀬の地」にまします「高瀬大神」ではなかったかと思う。

秩父神社境内に「天神地祇社」というのがあり、そこに全国の一之宮の祭神を祀ってあるが、それには「高瀬大神」となっている。
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五十猛命が祀られているのは高瀬の大神が高麗から渡来してきたからとの説がある。
確かに富山には高麗社、高来社があってやはり祭神は五十猛命である。
速須佐之男命が追放された後、その御子五十猛神を伴って新羅に渡り、 曾戸茂梨に居られたが、この地に住むことを嫌い、 埴土の舟に乗って、出雲国簸の川上にある鳥上の峯に到り、八俣大蛇を斬って神剣を得た。

五十猛神は新羅に渡る時、多くの樹木の種を持って降られたが、それを韓国に植えず、 すべて我が国土に植えたので大八洲はどこも青々と繁茂した山々をみることができたといわれ、木の神、有功之神とも呼ばれている。

能登町に伊夜比神社「大屋津媛命(五十猛神の妹神)」が鎮座している。異国からの渡来者はまず半島の小島に拠点を設け、それから列島内部に入ってきたはずであり、対馬-筑紫、壱岐-出雲のような関係が能登ー砺波にもあったのではないか、と推測される。

高瀬神社は、私の郷里の家から車で15分ほどのところにあり、娘二人のお宮参りとかで我が家では産土神の存在となっています。
現在住んでいる埼玉の家の神棚にも、天照大御神、その地の産土神「白髭大明神」に続き、我が家の崇敬神として「高瀬大神」のお札を祀っています。

高瀬神社については記事にしています。

その記事を読む



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屋形船で隅田川を楽しむ

20150221

19日(木)に歴史クラブの行事で楽しんできました。
新木場まで電車に行き、そこに屋形船の業者が送迎バスで迎えに来てくれました。

着いてから乗船までちょっと時間があったので橋の上から係留されている屋形船を眺めました。
向うから二番目に繋がれているのが、私たちが乗った屋形船です。
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屋形船(やかたぶね)とは、和船の一種で、主に船上で宴会や食事をして楽しむ、屋根と座敷が備えられた船のこと。楼船(ろうせん)ともいう。
平安時代からその原形はあり、貴族の遊びなどに使用されていた。河川整備が進んだ江戸時代に栄え、大名や豪商などに花見や月見、花火などの遊びに愛用された。特に隅田川の屋形船は金銀漆の装飾で飾り豪華であった。延宝年間(1680年頃)までが全盛期で、天和2年(1682年)の大船建造の禁により衰退し始めたという。
明治維新の後も引き続き親しまれたが、第二次世界大戦での敗戦後に「文化の移り変わり」「河川の劣化」(水質汚濁)などで勢いを失っていった。
昭和時代末期のバブル景気や水質の改善や、河川での観光などに屋形船を利用するなど、見直されつつある。
(Wikipediaから)

今回私たちは、ここから隅田川に出て、「さくら橋」の手前まで上がっていき、引き返してくるコースです。
この図は、別の業者のサイトからいただいた図ですが、右の方から「中央大橋」の上に出て、上にさかのぼっていくわけです。
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乗り込みます。
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私たちは24名、それに大学生のグループ10名くらいと乗り合わせて、和気あいあいと楽しみました。

辰巳国際水泳場の横を通ります。
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水路の脇に、高層マンションがにょきにょき建っている。
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東京海洋大学の「明治丸」の横を通る。
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「中央大橋」かっこいいですね。
ここから隅田川です。
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船内は、「もんじゃ焼き」を楽しんでいます。

もんじゃ焼きの起源は、安土桃山時代に千利休が作らせていた「麩の焼き」であるといわれている。その後、麩の焼きを起源として江戸末期から明治にかけ、味噌の代わりに餡を巻いて作る「助惣焼」が生まれる。この食べ物は東京・大阪で大流行し、明治時代には「もんじゃ焼き」「どんどん焼き」が生まれた。1819年刊の『北斎漫画』に、「文字焼き屋」の挿絵があり、この時代既に江戸にもんじゃ焼きに類するものがあったことが分かっている。焼くときにタネで文字を書いて遊んだことから「文字焼き」と呼ばれ、「もんじ焼き」これが「もんじゃ焼き」となったとの説と、豪商の子息で大酒飲みの「門次郎」と呼ばれる男に由来する説とがある。東京都台東区浅草近辺が発祥地とされる事が多いようである。過去に盛んであった隅田川の物流、近代開通した地域の大動脈である東武伊勢崎線、旧奥州街道である国道4号などの集積地であるこの付近を基点に、関東の他の地域に伝播したと言われている(異説もあり。群馬のもんじゃ焼き参照。)。後に、このもんじゃが変化して「お好み焼き」「どんどん焼き」が出来上がった。
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だいぶ上がってきて、小名木川にかかる「萬年橋」です。
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その横の「芭蕉像」
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隅田川テラスには、色々な浮世絵などの壁画があって楽しませてくれます。
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スカイツリーが見えるところまで上がってきた。
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スカイツリーと東武のロマンスカー。
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スカイツリー、屋形船、乗っている屋形船のちょうちん。
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「さくら橋」の手前まで上がってきました。
台東区と墨田区の姉妹提携事業として1980年に創架が始まり、1985年に完成した隅田川唯一の歩行者専用橋で、両岸の隅田公園を結ぶ園路の役割を持つ。形状は平面のX字形の特異な形をしている。
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2012年4月24日に、やはり歴史クラブの行事で「隅田川ウォーク」をしたときに撮った写真です。
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ここから下りはじめたので、窓際に陣取って、通過する橋を全部撮りました。

「言問橋」
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国道6号・東京都道319号環状三号線(言問通り)を通す。西岸は台東区花川戸二丁目と浅草七丁目を分かち、東岸は墨田区向島一丁目と二丁目を分かつ。もともと「竹屋の渡し」という渡船場があった場所である。
関東大震災の震災復興事業として計画された橋。両国橋や大阪の天満橋と並んで三大ゲルバー橋と呼ばれた長大な橋である。川端康成は小説『浅草紅団』(先進社、1930年)[1]の中で、その直線的で力強いデザインを曲線的で優美な清洲橋と対比させ、「ゆるやかな弧線に膨らんでいるが、隅田川の新しい六大橋のうちで、清洲橋が曲線の美しさとすれば、言問橋は直線の美しさなのだ。清洲は女だ、言問は男だ。」と記している。

ちなみに、「言問」という名称は在原業平の詠んだ、
「名にし負はばいざこと問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
という歌に因むが、実際にこの業平の故事があったとされている場所は現在の白鬚橋付近にあった「橋場の渡し」でのことであり、言問橋近辺には地名としては存在していたわけではないため、多くの説がある。
有力な説としては、1871年(明治4年)の創業でこの地に現在もある言問団子の主人が団子を売り出すにあたって、隅田川にちなむ在原業平をもちだして「言問団子」と名づけ、人気の店となったことからこの近辺が俗に「言問ケ岡」と呼ばれるようになり、それにあわせて業平を祀ったことに由来するというものがある。

次いで、東武の線路橋を通り過ぎるときに、面白い写真を撮りましたよ(嬉)

「東武の線路橋」
アサヒビールのビルの鏡面ガラスに色々なものが写る。
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東武のロマンスカー
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源森川水門
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こんどはアサヒビールビルの鏡面ガラスにスカイツリーが写る。
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スカイツリーとアサヒビールビル
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屋形船もやってきた(笑)
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ここで江戸時代のスカイツリーを載せておこう。

広重「両国回向院元柳橋」
富士山と三角形の関係を考察しています。
これに現在のスカイツリーを描きこんだ風呂敷がお土産として好評のようです。
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歌川国芳の「東都三ツ股の図」。
天保2(1831)年ごろの作とされ、隅田川にシジミ取りの舟が浮かび、手前には舟底をいぶす2人の職人が描かれている。絵の左奥は対岸の江戸・深川辺りで、他の建物を圧するような細長い構造物が二つ見える。左側の低い方は当時存在した火の見櫓(やぐら)とされ、その右の巨大な組み立て式の塔は実在しなかったという。これをスカイツリーの予言だ、とよく取り上げられます。
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「吾妻橋」
東京都道463号上野月島線吾妻橋支線(雷門通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および花川戸一丁目を分かち、東岸は墨田区吾妻橋一丁目。橋東岸の墨田区の町名でもあり、一丁目から三丁目まで存在する。
東武伊勢崎線・東京メトロ銀座線・都営地下鉄浅草線の浅草駅はこの橋の西岸にあり、東岸約500メートル先にこの橋の名を冠した本所吾妻橋駅(都営浅草線)がある。

また、東京都観光汽船の桟橋である浅草ステーションが橋の西詰に設けられている。ここから浜離宮を経由して東京港日の出桟橋まで運航されている隅田川ラインと称する航路が出発している。この為、隅田川下りの拠点の一つとしても著名な地点でもある。

創架は1774年(安永3年)10月17日のことで、それまでは「竹町の渡し」と呼ばれた渡し舟があった場所であった。江戸時代に隅田川に架橋された5つの橋のうち最後の橋であり、1769年(明和6年)4月に浅草花川戸の町人伊右衛門と下谷竜泉寺の源八の嘆願が幕府によって許可され、着工後5年で完成したものである。
長さ八十四間(約150m)、幅三間半(約6.5m)の橋で、武士以外の全ての通行者から2文ずつ通行料を取ったと記録に残る。1786年(天明6年)7月18日の洪水の際に永代橋、新大橋がことごとく流され、両国橋も大きな被害を受ける中で無傷で残り、架橋した大工や奉行らが褒章を賜ったという。その後幾度かの架け替えが行われたようである。

広重「吾妻橋金龍山遠望」
左手に吾妻橋と富士 右手に浅草寺が描かれているので、現在のさくら橋あたりから描かれた構図だとわかる。
手前には 船が大きく描かれているが、幕末ともなると このような船遊びが庶民の間で流行したとある。
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現在の「「吾妻橋」
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「駒形橋」
1927年(昭和2年)に竣工。
東京都道463号上野月島線(浅草通り)を通す。西岸は台東区雷門二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区東駒形一丁目と吾妻橋一丁目を分かつ。橋名は橋の西詰にある「駒形堂」に因む。

関東大震災後の復興計画により現在の橋がはじめて架橋された。それまでは「駒形の渡し」があった場所である。
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屋形船、超近代的な観光船にマクられる(笑)
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「厩橋」
東京都道453号本郷亀戸線(春日通り)を通す。西岸は台東区蔵前二丁目、および駒形二丁目を分かち、東岸は墨田区本所一丁目。
橋全体に馬を連想させるレリーフなどが施されている。橋名は西岸にあった「御厩河岸(蔵前の米蔵の荷駄馬用の厩)」にちなむ。
もともと元禄年間ごろから続いていた「御厩の渡し」のあった場所である。
1872年(明治5年)に花見客の人出でこの渡し舟が転覆する事故があった。以前から転覆事故が多く「三途の渡し」と揶揄されていたこともあり、民間の手により架橋されることとなる。 1874年(明治7年)10月6日完成。長さ511尺(約150m)、幅20尺(約6m)の木橋が架けられたと伝えられる。現在よりも約100mほど下流の位置にあった。
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「蔵前橋」
東京都道315号御徒町小岩線(蔵前橋通り)を通す。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。橋名は「蔵前通り」にちなみ、また橋全体が稲の籾殻を連想させる黄色に塗装されている。1954年(昭和29年)9月~1984年(昭和59年)12月まで東詰に蔵前国技館があり、高欄には力士などのレリーフが施されている。

関東大震災の復興計画により現在の橋が架橋された。それ以前は「富士見の渡し」と呼ばれていた渡船場があった場所である。
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「蔵前専用橋」
NTT東日本蔵前通信ビルと対岸を結ぶ。西岸は台東区蔵前一丁目、東岸は墨田区横網一丁目。名称は「NTT蔵前専用橋」とも。当初は旧電電公社時代に作られたこともあり、「電電蔵前専用橋」とも呼ばれた。

日本で初めての洞道(通信線トンネル)専用橋で、水道橋も兼ねる。特徴として洞道内部の夏期の高温時対策のために換気用の窓が設置されている。橋上には立ち入りすることはできない。
蔵前橋の南側に近接しており、白い箱形の躯体で、橋からの景観を損ねるという意見も見られる。
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壁画でいいのがあった。
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国技館
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「JR総武線の線路橋」
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「両国橋」
両国橋の創架年は2説あり、1659年(万治2年)と1661年(寛文元年)である、千住大橋に続いて隅田川に2番目に架橋された橋。長さ94間(約200m)、幅4間(8m)。名称は当初「大橋」と名付けられていた。しかしながら西側が武蔵国、東側が下総国と2つの国にまたがっていたことから俗に両国橋と呼ばれ、1693年(元禄6年)に新大橋が架橋されると正式名称となった。位置は現在よりも下流側であったらしい。

江戸幕府は防備の面から隅田川への架橋は千住大橋以外認めてこなかった。しかし1657年(明暦3年)の明暦の大火の際に、橋が無く逃げ場を失った多くの江戸市民が火勢にのまれ、10万人に及んだと伝えられるほどの死傷者を出してしまう。事態を重く見た老中酒井忠勝らの提言により、防火・防災目的のために架橋を決断することになる。架橋後は市街地が拡大された本所・深川方面の発展に幹線道路として大きく寄与すると共に、火除地としての役割も担った。両国広小路の項も参照のこと。

広重「両国橋大川ばた」
隅田川は場所によって名をかえ、浅草川とか今戸川とか呼ばれることもあったが、両国橋より下流は大川と呼ばれた。
そのなかで 大川端とは両国橋下流の右岸、つまり日本橋側のことをいった。絵の中で橋はゆるい弧を描き、手前に両国広小路の賑わいが描かれている。
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現在の橋は、国道14号(靖国通り・京葉道路)を通す。
西岸の東京都中央区東日本橋二丁目と東岸の墨田区両国一丁目を結ぶ。橋のすぐ近くには神田川と隅田川の合流点がある。
現在は武蔵国内にあるが、1686年(貞享3年)に国境が変更されるまでは下総国との国境にあったことから、両国橋と呼ばれる。
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そして、「首都高速6号向島線」の橋が、川の上で分岐しているので見事なカーブの橋があるのだが、これを撮った写真が見事にピンボケ。
残念。
このころから、カメラのピンボケがひどくなった。


「新大橋」
東京都道・千葉県道50号東京市川線(新大橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋浜町2・3丁目、東岸は江東区新大橋1丁目。付近地下に都営地下鉄新宿線が通る。

最初に新大橋が架橋されたのは、元禄6年12月7日(1694年1月4日)である、隅田川3番目の橋で、「大橋」とよばれた両国橋に続く橋として「新大橋」と名づけられた。江戸幕府5代将軍・徳川綱吉の生母・桂昌院が、橋が少なく不便を強いられていた江戸市民のために、架橋を将軍に勧めたと伝えられている。当時の橋は現在の位置よりもやや下流側であり、西岸の水戸藩御用邸の敷地と、東岸の幕府御用船の係留地をそれぞれ埋め立てて橋詰とした。
橋が完成していく様子を、当時東岸の深川に芭蕉庵を構えていた松尾芭蕉が句に詠んでいる。
「初雪やかけかかりたる橋の上」
「ありがたやいただいて踏むはしの霜」
新大橋は非常に何度も破損、流出、焼落が多く、その回数は20回を超えた。幕府財政が窮地に立った享保年間に幕府は橋の維持管理をあきらめ、廃橋を決めるが、町民衆の嘆願により、橋梁維持に伴う諸経費を町方が全て負担することを条件に延享元年(1744年)には存続を許された。

広重の「大橋安宅の夕立」
歌川広重がその最晩年に描いた名所江戸百景の中に、新大橋は「大はしあたけの夕立」として登場する。ゴッホが特に影響を受けたとされるこの絵は、日本橋側から対岸を望んだ構図である。「あたけ」というのはこの新大橋の河岸にあった幕府の御用船係留場にその巨体ゆえに係留されたままになっていた史上最大の安宅船でもある御座船安宅丸(あたけまる)にちなんで、新大橋付近が俗にそう呼ばれていたからである。
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現在の新大橋
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「清洲橋」
東京都道474号浜町北砂町線(清洲橋通り)を通す。西岸は中央区日本橋中洲、東岸は江東区清澄一丁目。「清洲」という名称は公募により、建設当時の両岸である深川区清住町と日本橋区中洲町から採られた。

関東大震災の震災復興事業として、永代橋と共に計画された橋。「帝都東京の門」と呼称された永代橋と対になるような設計で、「震災復興の華」とも呼ばれた優美なデザインである。当時世界最美の橋と呼ばれたドイツのケルン市にあったヒンデンブルグ橋(英語版、ドイツ語版)の大吊り橋をモデルにしている(その橋は第二次世界大戦で破壊された後、別の橋が再建された為、現在は吊り橋ではない)。海軍で研究中であった低マンガン鋼を使用して、鋼材の断面を小さくする努力がなされた。
もともと「中州の渡し」という渡船場があった場所でもある。
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「隅田川大橋」
隅田川大橋(すみだがわおおはし)は、隅田川にかかる橋で、東京都道475号永代葛西橋線(葛西橋通り/水天宮通り)を通す。西岸は中央区日本橋箱崎町、東岸は江東区佐賀1丁目。首都高速9号深川線の高架橋と一体化されて建設されており、中央区側で同高速箱崎ジャンクションを、江東区側で福住出入口をそれぞれ構造体に含む。また、地下には東京メトロ半蔵門線が通っている。

隅田川唯一の二層式のこの橋は、首都高速9号深川線建設にあわせて架橋されたもので、先に下段の隅田川大橋が、完成の翌年に上段の高速道路高架橋部分が開通した。建設当時の風潮によるものか、機能性重視の設計デザインになっていることもあり、景観的に好ましくないとしての声も少なくない。
当橋は二層式のため、本来対に設計された永代橋・清洲橋を仕切るかのように、双方から見通せなくなっている。
隅田川にかかる橋梁のなかでも比較的新規に建設されたため高架部も高めに設計されており、そこからの眺めがよいものとなっている。

撮った写真が見事にピンボケでした。たぶんマニュアルフォーカスのボタンを押してしまったのでしょう。
最近眼が疲れ易いので、自分の眼のほうがおかしくなったのかな、なんて考えていました(笑)
この写真は、Wikipediaに載っていた写真です。
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「永代橋」
東京都道・千葉県道10号東京浦安線(永代通り)を通す。西岸は中央区新川一丁目、東岸は江東区佐賀一丁目及び同区永代一丁目。地下に東京メトロ東西線が通る。夕刻から22時まで青白くライトアップされる。

永代橋が架橋されたのは、元禄11年(1698年)8月であり、江戸幕府5代将軍徳川綱吉の50歳を祝したもので、現在の位置よりも100m程上流、(西岸中央区日本橋箱崎町、東岸江東区佐賀一丁目付近)当時大渡し(深川の渡し)のあった場所である。隅田川で四番目に作られた橋。

「永代橋」という名称は当時佐賀町付近が「永代島」と呼ばれていたからという説と、徳川幕府が末永く代々続くようにという慶賀名という説(「永代島」は「永代橋」から採られたとする)がある。

第5代将軍・徳川綱吉の50歳の誕生日を記念して架橋を行ったのは関東郡代の伊奈忠順。上野寛永寺根本中堂造営の際の余材を使ったとされる。長さ110間(約200m)、幅3間余(約6m)、また隅田川で最も下流で、江戸湊の外港に近く船手番所が近くにあり、多数の廻船が通過するために橋脚は満潮時でも3m以上あり、当時としては最大規模の大橋であった。橋上からは「西に富士、北に筑波、南に箱根、東に安房上総」と称されるほど見晴らしの良い場所であったと記録(『武江図説』)に残る。

元禄15年(1702年)12月の赤穂浪士の吉良上野介屋敷(所在地は現墨田区両国)への討ち入りでは、討ち入り後に上野介の首を掲げて永代橋を渡り、泉岳寺へ向ったという。

広重「永代橋佃島」
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現在の永代橋
ここもピンボケの写真だったので、Wikipediaに載っていた写真を載せておきます。
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一度、隅田川にかかる橋を全部撮りたいと思っていたので、満足した気持ちで下船。
残りの橋は、追々追加していきます。
お疲れ様でした。
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酒折宮翁(さかおりのみやのおきな)/日本の神々の話

20150218

 倭建命の東征のおりに登場する神々の一柱。
倭建命が足柄峠の頂上で、弟橋比売を思い起こし、「吾妻はや」と長歎息したという話の前後のことである。
 命は足柄山の坂本というところに到着した。ここは東海道の古道で、のちにいう足柄道の宿場であり、現在は神奈川県南足柄市関本にあたる。一行がここで食事をしていると、一匹の白鹿が寄ってきた。命はそばにまつわる白鹿を、食べかけていた山蒜の片端で打ちつけた。これが白鹿の目にあたり、その場で死んだが、実はこの白鹿は足柄山の神(坂の神と『古事記』には善かれている)の化身であった……と『古事記』も『日本書紀』も書いている。
足柄山の神とは、おそらくこの地方の酋長のことであろう。
 命は、この地を発って甲斐国に向かった。そして酒折宮で泊まったときのことである。
 命はいささかの疲れと寂莫を感じつつ、
「新治筑波を過ぎて 幾夜か寝つる」
と詠われた。そのとき、篝火を焚いて夜警に任じていた一人の翁が、
「かがなべて 夜には九夜 日には十日を」
と即座に次いだ。
*これが連歌の起源であるといわれている。

命はこの美事な対応をことのほか歓び、翁を東国造にした、と『古事記』にある。
『日本書紀』では「厚く賞し給ひ」という表現をしている。
この翁を酒折宮翁という。
 酒折宮は倭建命の蝦夷東征のときの行宮で、その遺址は山梨県東山梨郡里垣村大字酒折にあり、現在、日本武尊を奉祀する酒折神社の所在地である。ただし、現社地はのちに移したもので、もとは山の中段にあり、古天神と称する場所が宮址であるという。
(日本の神様読み解き事典から)

なお、酒折宮HPを見ると、
“日本武尊が酒折宮を発つときに「吾行末ここに御霊を留め鎮まり坐すべし」と言われ、自身の身を救った「火打嚢(ひうちぶくろ)」を塩海足尼(しおのみのすくね)に授けました。 日本武尊の御命を奉戴した塩海足尼がこの「火打嚢」を御神体として御鎮祭したと伝えられています。
* ここにいう「火打嚢」は、日本武尊が東夷征伐に向かわれる前に参った伊勢神宮で叔母の倭姫命より「草薙剣(くさなぎのつるぎ)」とともに授けられたものです。駿河の国で国造に欺かれて野火攻めに遭ったとき、これを用いて難を免れたといいます。(古事記による)“
とあった。

そして調べているうちに、「酒折宮」境内に本居宣長の「酒折宮寿詞(ほぎごと)碑」があることがわかった。
これは、近いうちに訪ねなければならない。


小堀鞆音画「酒折宮連歌図」
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文京シビック・こんにゃくえんま

20150217

15日(日)に牛天神に梅を見に行く前に、後楽園駅を出て最初に向かったのは「文京シビック」でした。
お目当ては、25階の展望フロアです。無料です(嬉)
天気が良かったので、富士山を期待したのですが、見えませんでした。
筑波山も見えなかったので、全体に霞がかかっていたのでしょう。

スカイツリー
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足元に後楽園遊園地のジェットコースター。
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新宿の高層ビル群
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足元の小石川後楽園
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このフロアにあった椿山荘のレストランのメニューが美味しそうだったので、牛天神に参拝した後また戻ったのですが、待ち記入リストを見たらかなり待つみたいなので泣く泣くあきらめ、近くで適当にランチしました。

そのあと、「こんにゃくえんま」に行くことにして、行く途中からの「文京シビック」
展望台のせり出しがすごい。
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源覚寺(こんにゃくえんま)の入り口から、正面に閻魔堂が見える。
本堂は、その後ろ。
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このお寺は、寛永元年(1624年) に定誉随波上人(後に増上寺第18世)によって創建された。本尊は阿弥陀三尊(阿弥陀如来、勢至菩薩、観音菩薩)。特に徳川秀忠、徳川家光から信仰を得ていた。江戸時代には四度ほど大火に見舞われ、特に天保15年(1848年)の大火では本堂などがほとんど焼失したといわれている。しかし、こんにゃくえんま像や本尊は難を逃れた。再建は明治時代になったが、その後は、関東大震災や第二次世界大戦からの災害からも免れられた。しかし老朽化が進み現在の本堂は1979年に再建されたものである。また当寺院は小石川七福神のひとつで毘沙門天も祀っている。また例年7月にはほおずき市が開かれ多くのものが訪れる。(近隣の伝通院の朝顔市とともに知られる)

入り口に貼ってあった。
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嘉永5年(1852)造立のお百度石
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閻魔堂
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当寺院の別称にもなっている『こんにゃくえんま像』は、鎌倉時代の作といわれ、像内から寛文12年(1672年)に修復された記録が発見されている100.4センチの木造の閻魔大王の坐像である。運慶派の仏師が造立した仏像として文京区指定有形文化財にもなっており、文京区内にある仏像でも古いものに属する。閻魔像の右側の眼が黄色く濁っているのが特徴。(本田不二雄『東京近郊仏像めぐり』学研、2009) 右側の目が濁っている原因として、伝説が伝わっている。それによると、宝暦年間(1751年-1764年)に一人の老婆が眼病を患いこの閻魔大王像に日々祈願していたところ、老婆の夢の中に閻魔大王が現れ、「満願成就の暁には私の片方の眼をあなたにあげて、治してあげよう」と告げたという。その後、老婆の眼はたちまちに治り、以来この老婆は感謝のしるしとして自身の好物である「こんにゃく」を断って、ずっと閻魔大王に供え続けたといわれている言い伝えによるものである。以来この閻魔大王像は「こんにゃくえんま」「身代わり閻魔」の名で人々から信仰を集めている。現在でも眼病治癒などのご利益を求め、閻魔像にこんにゃくを供える人が多い。また毎年1月と7月には閻魔例大祭が行われる。

左右に侍る獅子
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えんま様
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右目が濁っていますね。
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夏目漱石の「こころ」に、「こんにゃく閻魔」は登場します。
【「十一月の寒い雨の降る日の事でした。私は外套を濡らして例の通り蒟蒻閻魔を抜けて細い坂道を上って宅へ帰りました。〜】
                      <夏目漱石「こころ」より>

塩地蔵尊
2体で1組のお地蔵さまです。お地蔵さまの体に塩をつけてお祈りすると、体の同じ部分の病気が治るといわれています。「塩」ということで、お相撲さんもお参りに来るそうです。
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源覚寺の毘沙門天
「小石川七福神」のひとつで、参道正面の閻魔堂の右側奥のあるお堂の中に祀られています。
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汎太平洋の鐘
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この鐘は元禄3年1690年に完成し、元々当寺院所有のものであったが、昭和12年(1937年)に当時日本領だったサイパンの南洋寺に搬出され、サイパンの人々に時を告げる鐘として使われていた。しかし、第二次世界大戦が勃発し、サイパンは戦禍に飲み込まれ、この鐘も行方不明になっていた。しかし戦後の1965年に米国・テキサス州にてこの鐘が発見される。その後、1974年になって当寺院に返還された。その返還の模様はマスコミにも取り上げられ話題となった。現在では除夜の鐘として大晦日に突かれている。

南洋群島物故者慰霊像
第二次世界大戦でサイパンなど南洋群島で犠牲になった人たちを追悼する菩薩像。
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南方艦隊の写真
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南洋の貝やサンゴが供えられている。
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サイパンの歌碑
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近くにあった、住職の歌碑
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社務所の前にあった古瓦と水仙。
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牛天神(北野神社)の梅

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鎮座地:東京都文京区春日1-5-2

昨日の15日(日)、何処かに梅見に行こうと思い、まだ参拝したことが無かったこのお宮にお参りしました。
地下鉄後楽園駅から歩いて7,8分で入り口に。

社号標と変わった鳥居
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縁起によると、源頼朝が1184年東征の際にここの入り江の松に船をつなぎ波風が静まるのを待つ間、夢に菅原道真神が牛に乗って現れ二つの吉事があると告げた。武運満足の後は社を営むべしとあり、夢から覚めると牛の形をした石があった。
その後、頼家が生まれ、平氏を西に追うことができ、ここに社殿を造営した。
寄って創建は元暦元年となります。

ちょうど「紅梅まつり」です。
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急な石段を上がります。
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石段を上がりきると鳥居がある。
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境内に入ると、野点がふるまわれていました。
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その外、甘酒のサービスと、梅酒が配られていました。
梅酒はささやかな量ですが、梅の実が丸々一個入っていて、夕食のときにいただいたらとても美味しかった。
ネットで調べたら、1日限定100個で、梅の実と、お酒をかわいい容器に入れた「北野の福紅梅」の梅酒(神社の梅の実を5年から10年ねかせたもの)でした。
とても、ラッキーでした(嬉)

手水舎
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梅の花びらのデザインで、いい手水鉢でした。
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瑞垣の入り口に、文化6年(1809)造立の狛犬があります。
阿形の方は、乳房に吸い付いている、吽形の方は背中にしがみついている子犬がいいですね。
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拝殿の左右には、撫で牛が。
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これが創建にかかわる「牛岩」です。
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拝殿
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社額
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拝殿内部
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拝殿と本殿
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本殿
この辺の梅は、まだまだです。
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拝殿の前には、左右に紅白の梅が咲いています。
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おみくじの結びも牛の形でした。
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その上にも、白梅が咲いています。
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境内社の太田神社・高木神社の入り口のところに、立派な道祖神の碑があります。
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太田神社・高木神社
芸能の神・天鈿女命(あめのうずめのみこと)と道の神・猿田彦命(さるたひこのみこと)の御夫婦と宇迦御魂命(うかのみたまのみこと)をお祀りしています。
芸能上達、開運招福のご利益があるとされている。
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もとは、貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)をお祀りしていましたが、江戸時代にあったとされる出来事から、人についている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れることができると庶民の信仰を集めるようになったそうです。
北野神社のホームページでは、≪昔々、小石川の三百坂の処に住んでいた清貧旗本の夢枕に一人の老婆が立ち、「わしはこの家に住みついている貧乏神じゃが、居心地が良く長い間世話になっておる。そこで、お礼をしたいのでわしの言うことを忘れずに行うのじゃ…」と告げた。正直者の旗本はそのお告げを忘れず、実行した。すると、たちまち運が向き、清貧旗本はお金持ちになる。そのお告げとは・・・≫≪もとは、貧乏神と言われた黒闇天女(くろやみてんにょ)(弁財天の姉)をお祀りしていましたが、江戸時代にあったとされる出来事から、人についている貧乏神を追い払い、福の神を招き入れることができると庶民の信仰を集めるようになったそうです。≫と書かれています。 

ご神木の保護に並べている瓦の線が綺麗だった。
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そこ、かしこにも梅が咲いています。
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中島歌子の歌碑
 「雪 中 竹  ゆきのうちに根ざしかためて若竹の生ひ出むとしの光をぞ 思ふ」
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中島歌子の歌碑は中島歌子が亡くなって6年後の1909年(明治42年)に門下生によって建てられたものという。
中島歌子は1844年(弘化元年)、現在の埼玉県坂戸市に生まれ、幼い頃に江戸に出た。水戸天狗党の林忠左衛門と結婚して水戸に住むが、やがて夫は戦死、その後、江戸に戻った歌子は小石川安藤坂に歌塾「萩の舎」を開く。上流階級の子女に歌の指導を行い、全盛期には門下生が1000人を超えたそうだ。その中には若き日の樋口一葉もいたといいます。

また急な石段を降りて帰りますが、途中に名残を惜しむ紅梅が。
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迦具夜比売命(かぐやひめのみこと)/日本の神々の話

20150213

『古事記』にみえる垂仁(すいにん)天皇の妃。
大筒木垂根(おおつつきたりねの)王の娘で,垂仁天皇の寵愛(ちょうあい)をうけて袁邪弁(おざべの)王を生む。

カグヤヒメと言えば『竹取物語』ですが、そのかぐや姫のモデルとして有力です。

・父の名「大筒木垂根王」において、「筒木」は筒状の木と解すれば竹、また「星」の古語「つづ」との関わりもある。
・同音の「綴喜つづき」には月読命を祀る樺井月神社と月読神社を祀る式内社が鎮座する。
・大筒木垂根王の弟に「讃岐垂根王」(さぬきたりねのみこ)がおり、竹取の翁の名「讃岐造」(さぬきのみやつこ)を連想させる。
・『古事記』によるとこの兄弟は開化天皇が丹波の大県主・由碁理(ゆごり)の娘「竹野比売」(たかのひめ)を召して生まれた比古由牟須美王(ひこゆむすみのみこ)を父としており、「竹」との関連が深い。
・『日本書紀』では開化天皇妃の「丹波竹野媛」の他、垂仁天皇の後宮に入るべく丹波から召し出された5人の姫のうち「竹野媛」だけが国に帰されたという記述がある。

曾祖母の名を竹野比売、その父の名を大筒木垂根王といい、したがってカグヤヒメは「竹から生まれたかぐや姫」のモデルになってもおかしくはない人物ですね。

その系譜を調べると、第9代・開化天皇が丹波の大県主ユゴリの娘タケノヒメを娶って生まれた皇子がヒコユムスビ王、そのヒコユムスビ王の子・オオツツキタリネ王の娘がカグヤヒメというわけです。
この系譜の人名でユゴリとは融けた金属が鋳型の中で固まること、ヒコユムスビは融けた金属から金属製品を作る男の意味として解釈できます。
畑井弘氏は、オオツツキタリネ王は古代丹波を治めた鍛冶王であり、カグヤヒメはその王に奉祭された金属の精霊であるとみなしました。その祭祀を物語化した『竹取物語』の中で、かぐや姫が光り輝いていたとされたのももっともだというわけです(畑井弘著『天皇と鍛冶王の伝承』/現代思潮社より)。



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梅宮神社・甘酒祭り

20150212

所在地:埼玉県狭山市上奥富508

2月11日(水)に狭山市内の梅宮神社で行われる「甘酒祭り」に歴史クラブ行事として参加しました。
この神社の甘酒祭りは、毎年厳冬の2月10日・11日の2日間にわたり執り行われます。「頭屋制」という関東地方では他に見られない珍しい運営形態で1200年前の平安の昔よりそのまま継承して挙行されているところから、平成4年(1992)3月11日に埼玉県指定文化財・無形民俗文化財に指定されました。

新狭山駅に集合し、参加者17名で徒歩梅宮神社に向かいました。
梅宮神社鳥居には大きな幟が立っています。
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鳥居からの参道には屋台が並んで、賑やかな人出です。
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祭神は、瓊瓊杵尊、彦火々出見尊、大山祇神、木花咲耶姫命

普段は森閑としている境内が、今日は賑やか。
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まずは、クラブの長老から薀蓄を説明してもらいました。
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○甘酒祭りの起源
 起源は古事記・日本書紀によれば、瓊々杵尊が木花咲耶姫命と婚姻、一夜にして身ごもったのを疑われた木花咲耶姫命が疑いを晴らすため、自身産屋に入って「神の御子ならたとえ火の中でも無事に生まれるでありましょう」といって燃えさかる炎の中で彦火々出見尊他を出産したといわれ、喜んだ木花咲耶姫命の父である大山祇神が、清浄な田で採れた米から白酒を造り天地神に供えたのが、「甘酒祭り」の始まり。
また夜を徹して火を頭屋と子供たちによって、朝まで焚き続ける祭りを「奥富おごり」と呼んでいます。

○頭屋制
頭屋制とは氏子を数組の頭屋に分け、そのうちの1組が甘酒祭りばかりでなくその年の祭礼すべてを執り行うことをいいます。梅宮神社では、かっては10組でしたが、現在は上奥富の氏子を9組に分けて頭屋を組んでおり、1頭屋は約10軒で組織されています。

○白酒の製造
大祭に用いる白酒の製造は明治30年(1897)に祭典自家用として、税務署より許可を受けて今にいたっています。現在は酒蔵で仕込むので温度管理が大変楽になりました。それ以前は1月初旬より頭屋の中の杜氏(とじ)宅で仕込みを始め、2月2日よりの「謡(うたい)」の練習が始まるまでに作り上げるため温度管理が難しく、以前は格式と財力がないと勤まらなかったといわれていました。

どぶろく、甘酒を準備している。
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どぶろく、甘酒をいただこうと、長い行列ができていた。
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右手にどぶろく、左手に甘酒(笑)
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社殿前に、仕込みの酒樽も置かれていた。
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境内ではだるま市、植木市も開かれていた。
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境内にある酒の神様、松尾神社。
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松尾神社の説明
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その横にある富士塚
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この富士塚に参加者17名全員が勢ぞろいして記念写真(笑)

するうち、「西方囃子」が始まりました。
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西方囃子は平成15年(2003)11月4日に狭山市指定文化財・無形民俗文化財として指定されました。
 江戸神田囃子の流れを汲む神田徳丸の流儀を持ち、江戸時代に北入曽村の入曽囃子から伝えられましたが、昭和26年(1951)に後継者が絶えて一時中断していました。しかし昭和51年(1976)に復活し、奉納嚇子として元旦、2月に梅宮神社の甘酒祭り、4月に奥富神社、7月に八雲神社、8月に浅間神社と薬師堂に奉納されます。
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西方囃子に合わせて、獅子が頭を噛んでくれます。
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ひょっとこが「おひねり」を配ります。
おひねりの中身は5円玉。ご縁がありますように、とのことですね。
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天気が良くて、のんびりと祭りを楽しみ、お昼になったので近くのレストランに歩いていき、昼食を食べながら懇談して、お開きとなりました。

祭りとしての見どころは、宵宮と当日の饗宴型の神事があります。
○宵宮祭
 宵宮祭は2月10日の夜に行われる祭事で「座揃式」ともいい、社務所にて行います。式は平安の流れを受け継いで執り行われます。近世では慶安4年(1651)に川越藩主松平信綱の参拝以後、代参主賓となり、今では神社総代が務めています。村の組織や機能までが判然と分かるかのように村の人々が両側に居並び、頭屋の中の相伴(しょうばん)頭によって進行されます。式半ばに杜氏を呼び出し、今年の酒の出来栄えなど褒めて、一献一献勧めては謡あげ、盃を重ねる珍しい饗宴形態の酒盛祭りで、20~30人によって執り行われています。

○大 祭
大祭は2月11日に行われ、第一神事および第二神事に分かれています。第一神事は白酒の澄ん
だ酒と赤飯、山海の珍味を供えて午後1時より社殿にて行います。第二神事は午後4時より開始
し、領主、神官、役人を正座とする古い饗宴の形態で、一献毎に優雅な謡の「松の曲」より始まり、「千秋楽の曲」を奏でて本頭屋と来年の頭屋との「頭屋渡し」の式で終了します。式後は総立ちとなって神官、領主、総代、本頭屋の順に胴上げして一同社殿を下ります。

○頭送 り
最後の頭送りの儀式は、本頭屋と受け頭屋に担がれた樽神輿が本頭屋の杜氏宅を出発して神社
でひと練りしたあと、受け頭屋の杜氏宅に納めて2日間の甘酒祭りが目出度く終了します。

第二神事が16時からということで、出直すつもりだったのですが、家に帰って休憩していて寝てしまい、撮れませんでした(汗)

こういう謡のようです。
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秋毘売神(あきびめのかみ)/日本の神々の話

20150206

この神の名が記されているのは、『古事記』の「大国主神」の巻で「大年神の神裔」の段です。
(読み下し文)
「 かれ、その大年神、神活須毘神之女、伊怒比賣を娶して生みし子は、大國御魂神、次に韓神、次に曾富理神、次に白日神、次に聖神。五神 また香用比売を娶して生みし子は、大香山戸臣神、次に御年神。二神 また天知迦流美豆比賣を娶して生みし子は、奥津日子神、奥津比売命、亦の名は大戸比売神。こは諸人のもち拝く竈の神なり。次に大山咋神、亦の名は山未之大主神。この神は、近つ淡海国の日枝山に坐し、また葛野の松尾に坐して、鳴鏑を用つ神なり。次に庭津日神、次に阿須波神、次に彼此岐神、次に香山戸臣神、次に羽山戸神、次に庭高津日神、次に大土神、亦の名は土之御祖神。九神。
 上の件の大年神の子、大国御魂神より以下、大土神以前、併せて十六神。
 羽山戸神、大気都比売神を娶して生みし子は、若山咋神、次に若年神、次に妹若沙那売神、次に弥豆麻岐神、次に夏高津日神、亦の名は夏之売神、次に秋毘売神、次に久々年神、次に久久紀若室葛根神。
 上の件の羽山の子以下、若室葛根以前、併せて八神
。」

すなわち、大年神の子で山裾の肥沃な土地の神である羽山戸神と穀物神である大気都比売神が婚姻して以下の八人の御子神が生まれた。
若山咋神、若年神、若沙那売神、弥豆麻岐神、夏高津日神(夏之売神)、秋毘売神、久久年神、久久紀若室葛根神。
これらの神々は植物(特に稲)の成育を示すと思われる。
秋の稲作の神。あるいは稲の取り入れを行う女性の神格化であろう。

母の大気都比売神は、食物起源神話のヒロイン。
この母親の大気都比売神は、須佐之男命に、殺されてしまいます。
『古事記』(読み下し文)
「 また食物を大気都比売神に乞ひき。ここに大気都比売、鼻・口また尻より種々(くさぐさ)の味物(ためつもの)を取り出して、種々作り具へてた進(たてまつ)る時、速須佐之男命その態(わざ)を立ち伺ひて、穢汚(けが)して奉進るとおもひて、すなはちその大宜津比賣神を殺しき。かれ、殺さえし神の身に生りし物は、頭に蚕生り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰に麦生り、尻に大豆生りき。かれ、ここに神産巣日の御祖命、これを取らしめて種ど成したまひき。」

しかし、殺された母神の体から、いろいろな穀物が生えてきました。
その大気都比売神が夏高津日神と秋毘売神の女神を生んで農事に最も大切な季節の夏と秋を守護する力を与えたわけですね。


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蜩ノ記

20150205

この映画を見たのは、昨年10月の15日です。
かなり日が経ってしまっているので、ちょっと気が引けますが、すごく良い映画だったので記事にしておきます。

本を読んでいて、映画が出来たと聞いてそれを観るのを楽しみにしていました。

その本の感想記事を読む


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スタッフ
監督:小泉堯史 、原作:葉室麟 、脚本:小泉堯史、古田求 、製作:市川南

キャスト
戸田秋谷:役所広司
檀野庄三郎:岡田准一
薫:堀北真希
織江:原田美枝子
水上信吾:青木崇高

郡奉行だった戸田秋谷(役所広司)は藩主の側室との不義密通および小姓を斬り捨てたことにより10年後の切腹とそれまでの間に藩の歴史である藩主・三浦家の家譜を編さんし完成させるよう命じられる。
それから7年後、刃傷沙汰を起こしてしまったものの家老・中根兵右衛門の温情により切腹を免れた檀野庄三郎(岡田准一)は、幽閉中の秋谷の監視役を命じられる。
監視の内容は、藩の秘め事を知る秋谷が7年前の事件を家譜にどう書くか報告し、秋谷が逃亡のそぶりを見せた場合には妻子ともども始末するというものだった。
はじめは秋谷のことを懐疑的に思う庄三郎だったが、編さん途中の三浦家譜と『蜩ノ記』と名づけられた秋谷の日記には、前藩主の言葉を守り事実のまま書き留め、切腹が迫りつつも編さんに誠実に向き合い一日一日を大切に生きる彼の姿があり、感銘を受ける。
そして7年前に一体何が起きたのか、事の真相を追ううちに、彼の人間性に魅せられていく。
秋谷に深い愛情と信頼を寄せる妻・織江(原田美枝子)や心の清らかな娘・薫(堀北真希)らとともに暮らす中で、いつしか庄三郎と薫との間に恋が芽生えていた。
やがて庄三郎は不義密通事件の真相に辿り着き、事件の謎を解く文書を入手するが、そこには藩を揺るがすようなことが記されていた……。


「晴耕雨読」という言葉がありますが、この映画にはうらやましいばかりの、それがありました。
「雨あがる」「阿弥陀堂だより」などで定評のある小泉監督の描く日本の自然と四季の美しさ、そして、人間のやさしさを詩的に描かれていました。
2時間ちょっとという映画ならではの時間制約があるので、本に描かれているような農民の階層的悲劇。
その農民に寄り添い助けようとした、郡奉行時代の戸田秋谷。
そして登場人物の心の機微はなかなか出しにくいのですが、本を読んでいたので、只ただ映像の美しさを楽しんでいました。

現代の世知辛い世の中からみると、うらやましいばかりの、頑固で一徹な人物ばかりです。
その心根の美しさを代弁するように、自然の映像美があります。

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道しるべ、道饗祭のお札など

20150204

今日のウォーキングは、狭山市と川越市の境に沿って歩いてみた。
家を出て、1Kmにも達しないところで面白いものを発見した。
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「道饗祭(みちあえのまつり)」のお札だ。
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竹に挟まれてよく字が読めないので、竹を広げてなんとか読んだ。
「道饗祭祝調御璽」と書いてあった。
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はて、ここに立ってるのは、どこのお宮の道饗祭なのだろう?

その脇に小さな「馬頭観音」の石碑があった。
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左側面には「是より左 的場道」とあって、「これより左に行けば的場ですよ」と道しるべである。
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右側面は、奥には安政3年(1856)とあり造立年はわかる。手前にも何か彫ってあったらしいがよくわからない。
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誰か土地の人が居ないかなと思い探したら、近くの家の庭で作業していた35才くらいの若い男性が居た。
聞いてみたら、この人が色々と教えてくれた(嬉)

道饗祭のお札は、安比奈新田(川越市)の八幡さまの祭りのものだった。
近くに県道が通っているので、「この道しるべはあっちから移されたものですか?」と聞いた。
そういう例に頻繁に出くわしているので。
答えは「いや、昔からここですよ」と。
「昔の道は、あっちからこう来て、あっちに行っていましたから」と。

地図を引っ張り出して説明すると、こういうことです。
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柏原(狭山市)と安比奈新田(川越市)の境界は茶色の一点鎖線。
黄色の道路が、今の県道。
それに対し昔(江戸時代、明治の頃)の、柏原から的場⇒川越に行く道はピンクの道だということが分かりました。
分岐点で、真っ直ぐ行くとたぶん当時も入間川の河原に降りてしまう。
左折していくと的場に行ける。
というわけです。

そして、安比奈新田の地区から見たら、道しるべの所は、外(柏原)から入ってくる道。
なので、道饗祭の際にここにお札を立てて結界し、外から悪いものが入ってこないようにする地点だったわけです。

下の写真で、カメラは柏原側にあり、分岐点を左に曲がれば的場道なのです。
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左折して進むと、突き当たりで県道と交差するところに用水が流れています。
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小さい橋です。
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説明してくれた方が、こういうことも教えてくれました。
「あの橋をこの辺の人は『瞽女橋』と呼んでいます。昔、あの橋のところで瞽女さんが行き倒れになったそうです。」
この辺にも瞽女さんが来ていたんですね。

あとで、その橋の表示をみると、そこの地名から「上宿橋」とありました。


追記:
この記事をアップした翌日、メールにて、ある方から情報を頂きました。
旧家と古老の話によると、
・馬頭観音前からの左の道は安比奈新田の八幡様(地図の八坂神社)へ行く。右の道は安比奈の下をとおり的場上に出る元々の道で、昔からの墓地と江戸時代前期の石佛(確かにあります)がある。左の道は新しく、右の道は古い。
・この辺り(安比奈公民館がある県道260号線北側)の人たちは元禄以前、もっと下に住んでいた。洪水があり、残った人はこっちに移った。
・八幡様も洪水前は下にあった。県道の下にあるこんもりした林あたりが元の場所だ。
・馬頭観音左右の道を明治地図で見ると、八幡様に行く左の道に橋が無く、右の道に橋の印が有る。これが本来の「ごぜ橋」と思われる(但し、どの資料を見ても現在の橋を言っている)。

以上のような情報でした。
道というのは、時代によって変化するので難しいですね。
特に入間川沿いというのは、柏原もそうですが、洪水で住む場所を変えています。それで道も変わる。
今は、江戸時代の柏原について調べている最中なので、それが落ち着いたら、せっかくだからこの件について整理してみたいと思っています。


摩多羅神(またらじん)/日本の神々の話

20150203

あるいは摩怛利神:またりしん)ともいうが、天台宗、特に玄旨帰命壇における本尊で、阿弥陀経および念仏の守護神ともされる。
常行三昧堂(常行堂)の「後戸の神」として知られる。
『渓嵐拾葉集』第39「常行堂摩多羅神の事」では、天台宗の円仁が中国(唐)で五台山の引声念仏を相伝し、帰国する際に船中で虚空から摩多羅神の声が聞こえて感得、比叡山に常行堂を建立して勧請し、常行三昧を始修して阿弥陀信仰を始めたと記されている。
しかし摩多羅神の祭祀は、平安時代末から鎌倉時代における天台の恵檀二流によるもので、特に檀那流の玄旨帰命壇の成立時と同時期と考えられる。
この神は、丁禮多(ていれいた)・爾子多(にした)のニ童子と共に三尊からなり、これは貪・瞋・癡の三毒煩悩の象徴とされ、衆生の煩悩身がそのまま本覚・法身の妙体であることを示しているという。
江戸時代までは、天台宗における灌頂の際に祀られていた。
民間信仰においては、大黒天(マハーカーラ)などと習合し、福徳神とされることもある。更に荼枳尼天を制御するものとして病気治療・延命の祈祷としての「能延六月法」に関連付けられることもあった。また一説には、広隆寺の牛祭の祭神は、源信僧都が念仏の守護神としてこの神を勧請して祀ったとされ、東寺の夜叉神もこの摩多羅神であるともいわれる。

一般的にこの神の形象は、主神は頭に唐制の頭巾を被り、服は和風の狩衣姿、左手に鼓、右手でこれを打つ姿として描かれる。また左右の丁禮多・爾子多のニ童子は、頭に風折烏帽子、右手に笹、左手に茗荷を持って舞う姿をしている。また中尊の両脇にも竹と茗荷があり、頂上には雲があり、その中に北斗七星が描かれる。これを摩多羅神の曼陀羅という。
なお、大黒天と習合し大黒天を本尊とすることもある。

この神の祭礼としては、京都太秦広隆寺の牛祭が知られる。
京都右京区太秦(うずまさ)蜂岡町にある大酒神社(おおさけ)の牛祭は京都三奇祭の一つ。かつては神社祭であったが、現在は、広隆寺が行っている。そのため、広隆寺の「牛祭」と広く言われるようになってきている。十月十日(夜8:00頃)に奇妙なお面をつけて牛に乗った摩多羅神がお出ましになる。赤鬼、青鬼、二人づつ先導にして、広隆寺西門から出て行列をする。やがて、山門の前を通り、東門より境内に戻る。薬師堂の前の祭壇を牛に乗ったまま三周したあと、祭壇に登り、赤鬼・青鬼とともに祭文を読みはじめる。独特の節回しで長々と厄災退散を祈願する。その間も、祭の世話役や見物人などから、やじが飛ぶ。最後に、祭壇から薬師堂の中に駆け込んで終わりとなる。摩多羅神の祭りは、かつて「おどるもあり。はねるもあり。ひとえに百鬼夜行(ひゃっきやぎょう)に異ならず。(太秦広隆寺祭文)」と言われ、昔は、かなり乱痴気な祭と言われているが、今は整然とした儀式である。摩多羅神のいでたちは白衣装束に紙をたらした冠をかぶり、その頭巾には北斗七星を載いている。この奇相でおかしな摩多羅神、サンスクリットないし、インドの俗語であるといわれるも、その語彙は特定できない。また、仏教の守護神とされているが教典にも定かではな い。どちらかといえば道教神のようだ。
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梅原猛氏は次のように述べている。
私は摩多羅神にディオニソスの神の面影を見る。ディオニソスの特徴は性的放縦であり、その祭に人々は酒に酔って性器をかたどった張りぼてをもって、しきりに猥褻(ワイセツ)なことを言って町を練り歩く。私はこの広隆寺の牛祭にディオニソスの神の祭を見る思いであった。摩多羅神は、はるばると日本にやって来たディオニソスではないだろうか。(梅原猛著『京都発見二路地遊行』より)

摩多羅神坐像/島根県・清水寺
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四千万歩の男(一)/井上ひさし

20150201

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会社勤めを辞めて、第二の人生として歴史三昧の日々を過ごしているが、歴史には地図が欠かせない。
そうなると嫌でも伊能忠敬という存在に突き当たる。
彼も50才で隠居してから、それまで己に封印していた学問の道を第二の人生として追求した。
ところがその業績たるや、とても第二の人生となぞ呼べないような度外れた超弩級の成果なのである。
佐原の「伊能忠敬記念館」で、彼が作成した「伊能大図」の前に立つと、呆然としてしまう。
50才からの余生で、どうしてこんなものが作れたのか。
それまであったものを更に詳しくしました、そんなレベルではないのだ。
それまであった「赤水図」をみればわかるが、本当に「無」の状態のところに、あのような地図を出現させたのだ。

俄然、伊能忠敬のことを知りたくなり、まずは入門編の一冊を読んで、こんどは何を?
と探していたら、この本に出くわした。
いま第一巻を読み終わったところだが、すこぶる面白い。
作者がまえがきで云っているように、視点は常に忠敬の右肩にある。
そして忠敬の日常生活を出来るだけ掬い取ろうと、密着細密描写を心掛けた。

忠敬は実直な男で、きちんと日誌をつけている。
その日誌は、読むとおもしろくもなんともない、天候と各地間の距離、観測の事実だけを述べたものである。
それに井上ひさしが「付け足し」をしている。
これがめっぽう面白い。
そして、この作者はしつこい(笑)

第一巻が663ページである。
これが5巻あるという。
こういうふうに長いと、私も嬉しくなってしまうのである(笑)

第一巻の目次
お読みいただく前に/井上ひさし
○星学者たち
○佐原行
○海路と陸路
○乾の風
○最初の一歩
○白河まで
○お捨
○奥州仙台札の辻
○三河の低馬
○盛岡八景
○帆待十日

第一巻では、少年の頃の記憶を随所にちりばめながら、深川黒江町(現江東区門前仲町)で若い内妻のお栄とともに江戸で隠居生活が始まったところから書き出されている。
隠居生活の目的はもちろん星学で、幕府天文方の高橋至時(たかはし・よしとき、1764-1804)に師事し、一から始めた忠敬はついに寛政十二年(1800)、第一回の測量の旅に出発する。
江戸から奥羽街道を北上し、津軽・三厩から蝦夷に渡り、東蝦夷を測量する旅である。さまざまな観測機器を使ったが、なにしろ少人数(出発時には忠敬を含めて6人)であり、大きな観測機器は持っていけない。
結局いちばん頼りになるのは忠敬自身の2歩で1間という歩測である。

江戸を離れると蝦夷地に到着する前から忠敬一行はさまざまな陰謀に巻き込まれるのである。
結果として伊能忠敬は弱者を救い、権力の横暴や陰謀を挫折させるのである。
測量といいながら、幕府のスパイなのでは?という地方の人の憶測が彼を強い人間にしてしまう。
そういうところは水戸黄門的である。

なにしろ、あきれるほど同時代の文化人や政治家たちがする。
星学者仲間を除いても、松平定信、山東京伝、時計職人大野弥五郎・弥三郎親子、少年時代の鷹見泉石、三河低馬、木喰などが、この巻で助け助けられ、時には敵対したりもする人たちである。ほとんどが作者の創作であると思うが、これらの人たちがいきいきと描かれているのも作者ならではである。

第一巻では、津軽半島の北端の三厩(みんまや)に着いて、そこで「帆待ち」をしているあいだにまた一事件があってようやく船出するところで終わる。
だけどこの調子で、日本列島全部書けるのかなと思って調べてみたら、井上ひさしは当初伊能忠敬のすべての旅を書こうという構想を持っていたらしいのだが、蝦夷篇で三巻、(四)(五)で伊豆篇だけで終わっている。
実に残念だ。
今頃になって、井上ひさし氏が亡くなられたのを極めて残念に思う。

私にとって、すごく参考になったのはこの巻の最後、三厩で座頭たちがうたう奥浄瑠璃に謳いこまれた全国の神仏習合時代の神仏である。
まず伊勢は神明天照皇大神宮、外宮四十末社、内宮八十末社、両官合わせて百二十末社の御神に、若殿のご快復、祈願あそばしある。
ついで、伊賀の国の一宮大明神、熊野に三つのお山、新宮は薬師、本官は阿弥陀、那智は飛滝の大権現、神の倉の竜蔵権現、湯の峰の虚空蔵さま、天の川の弁才天、大峰の八大金剛、高野山の弘法大師、吉野の蔵王権現、多武の峰の大織冠、初瀬の十一面観音、三輪の明神、布留の六社の牛頭天王、奈良は七堂の大伽藍、春日は四社の大明神、木津の天神、宇治の神明、藤の森の牛頭天王、八幡は正八幡大菩薩、梅の官、松の尾の大明神、北野の天神、鞍馬の大悲多聞天、祇園は三社の牛頭天王、比叡のお山の伝教大師、根本中堂の薬師如来、麓の坂本山王二十一社、打下しの自髭大明神、琵琶湖の竹生島弁才天、近江国にはやらせたもうお多賀の明神、美濃国の長屋の天王、尾張国の津島の祇園、熱田の大明神、三河国の矢作の天王、遠江の牛頭天王、駿河国の富士権現、信濃国の諏訪明神、戸隠の大明神、甲斐国の一宮大明神、伊豆国の三島権現、相模国の箱根権現、関東の鹿島、香取、浮洲の大明神、出羽国の羽黒権現、奥州は塩竃六社の大明神、越後国の蔵王権現、越中立山大権現、能登は伊須流岐大明神、加賀に白山権現、越前は御霊の宮、若狭小浜の八幡宮、丹後は切戸の文殊さま、但馬の一の宮の大明神、丹波に大原の八王子、摂津に降り神の天神さま、西宮の若夷、河内は恩地の大明神、和泉堺の三村の大明神、紀伊の淡島権現さま。
四国に入りて、阿波に剣ケ峰の大明神、土佐に石船の大明神、伊予に榊の森の大明神、讃岐は志度の大道場……


プロフィール

四季歩

Author:四季歩
とにかく歴史好きです。そして旅も好き。
写真が趣味なので、いきおい記事は写真が中心になります。

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